選出作品

作品 - 20080123_842_2568p

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「 ふかづめ。 」

  PULL.




一。


 キイチのつめは、はやく伸びる。あたしが知っているおとこの中でいちばんはやく、伸びる。いくらふかく切っても、ものの一週間もすれば、しろくてほそいあの指先に、つんっ。と伸びて出る。
 だからあたしはキイチの、つめを切る。
 つめを切られるとき、キイチは、かたくなる。
「こわいの。」
 とあたしが聞くと、
「ちょっとね。」
 とキイチは答える。
「おとこなんだからこわがらないでよ。」
 とあたしが言うと、
「おとこだってこわいものはこわいんだよ。」
 とキイチは言い返す。
 キイチはあたしの前だと、弱虫で、少し頼りない、おとこになる。そんなおとこは、キイチが、はじめてだった。
 
 つめは、ひと指ずつ、切ってゆく。
 指はつめたく、こわがっている。
 ととのった甘皮のあたりが、紫色に、こわがっている。
 左の親指、次に人差し指。と順に切ってゆく。
 つめはやわらかい。つめ切りの先で挟むと、するりと落ちる。
「切れたよ。」
 とあたし。
「うん。」
 とキイチ。 
 指が、ふるえている。
「また切るよ。」
「うん。」
「もっと切るよ。」
「うん。」
「こわくいないでしょ。」
「ううん。」
 つめは次々と、するりと落ちた。

 中指は、最後に切る。
 どうして中指を残しておくのかと、キイチに聞かれたことがある。
 あたしは答えた。
「好きな、指だから。」
 キイチは真っ赤な顔をして、黙ってしまった。
 あたしの手の中のつめたい指は、やがてあたたかく、ゆるやかに、なった。




二。


 キイチのことを話すと、シタ子はいつも、嫌な顔をする。
 おんながおとこのつめを切っている。その図式が、シタ子は気に入らない。ダンソンジョヒだと、ジョセイベッシだと、シタ子は言う。いつも言う。
 だからあたし、首を、横に振る。
 あたしシタ子に首を振って、
「ちがうの。」
 と言う。
「そんなんじゃないの。」
 と言う。
 だけどシタ子、わからない。
 シタ子、溜息をつく。首を、横に振る。おおきく振る。
「わからない。そんなこと、あたしには…わからない。」
 わからない。シタ子、わからない。あたしに指を差し出すとき、キイチがどんなにかたくなるのか。わからない。だからあたしの手の中の、キイチの指がどんなにつめたくて繊細なのか。わからない。そうしていると、あたしの胸がどれだけ高鳴るのか。わからない。やわらかい。シタ子よりもやわらかい、キイチのつめが、どんなふうに切れて、落ちてゆくのかも、わからない。だからあたしが、いつもふかづめにすることも、すごくふかづめにすることも、わからない。痛がるキイチを見て、あたしがよろんでいることも、わからない。だからシタ子、わからない。シタ子は、わからない。シタ子には、わからない。わからない。わから、ない。
 
 シタ子は、キイチのことを話すと、嫌な顔をする。
 だからあたし、いつもキイチことを話して、聞かせる。




三。


「やすり。」
 と言うキイチの声は、ざらざらしている。どこが、とは言えないけれど、いつもとちがう。ざらざらしてる。
「もう一度言って。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
 キイチはあたしに言われれば、何でもする。何度でもする。だからすぐに覚える。うまくなる。
 なのに何度言ってもキイチの「やすり。」は、ざらざらしている。
 なめらかに、ならない。

「やすり。」
 またキイチが言う。
「やすり。」
 もう一度言う。
「やすり。」
 いつもとちがう。
「やすり。」
 ざらざらしてる。
「やすり。」
 なめらかにならない。
「やすり。」
 キイチの、
「やすり。」




四。


 なめらかにする。
 切ったままのつめは、ちくちくしている。つめ用のやすりを使って、なめらかにする。
 やすりで撫でると、キイチはびくんっと、からだをふるわせる。
 キイチが、かたくなる。
 つめに、やすりを当てる。かるく挽くと、削れたつめが、はらはらと、落ちる。また挽くと、またはらはらと、落ちる。挽くごとに、つめは、さらにふかづめになってゆく。やがて指先からちりと、血が、にじみ出す。キイチはかたい。あたしはきつく、やすりを当てる。キイチのつめと、指を削る。なめらかにする。なめらかに、する。
 
 なめらかになる頃、キイチの指は血塗れで、あたしの手は、血で、汚れている。
 あたしは舐める。
 ぺろぺろと舐める。きれいになるまで舐める。血は、つめたくてかわいている。きれいになると、キイチの指の血を、舐める。指の血は新鮮で、あたたかい。舌先を、つめと肉の間に、捻り込ませる。びくんっ。からだをふるわせ、キイチが呻く。
「痛いの。」 
 あたしは聞く。
「うん。」
 キイチは頷く。
 たまらなくなる。
 指に、歯を立てる。
「痛いでしょ。」
「うん。」 
 血が、なめらかに、あふれ出す。




五。


 聞いて、みたことがある。

「ほかのひとにはどんなことをされていたの。」
「ちがうこと。」
「どんなふうにちがうこと。」
「もっとちがうこと。」
「もっとちがうって、こんなこと。」
「ちがう。」
「じゃあどんなこと。」
「ちがうこと。」
「ちがうことをしたひとは、何人いたの。」
「しらない。」
「どうしてしらないの。」
「わからない。」
「これはしってる。」
「しってる。」
「そのひとはこんなことした。」
「しない。」
「そのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「そのほかのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「じゃああたしはどうしてするの。」
「わからない。」
「もっとされたいの。」
「わからない。」
「どうしてわからないの。」
「わからない。」
「なんにもわからないの。」
「ちがう。」
「じゃあなにがわかるの。」
「ちがうこと。」
「ちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「もっとちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「どうしてこんなことされたいの。」
「わからない。」
「あたしはどうしてこんなことをしているの。」
「わからない。」

 わから、ない。




六。


 知っている。
 キイチの指は、あたしを知っている。あたしの指よりも、知っている。指は、なめらかに入ってくる。キイチは少し、痛そうな顔をする。あたしの中は酸性で、ふかづめの指を、溶かす。溶けてゆく。痛そうなキイチ。溶けた指は、さっきよりもなめらかに、ふかく、入ってくる。キイチは、指は、あたしの知らないあたしを掻き回し、入って、くる。
 じくじくする。
 あたしの中がじくじくと、する。






           了。