水のない水槽の中に、脱け殻が残っていた。
今日も不完全な朝を控えて、私は眠り続けて
いる。ゆらゆら、と描く曲線に、わたしのく
びすじにそっと触れる羽根と七つ足の感触に。
ざわめいているのはいつも水面の下での出来
事。
点滅する電灯の度に、隣室で誰かが悲鳴を
あげている、バスルームからは色のついた水
が溢れ、わたしはまだ窓辺に鳥が訪れる日を
信じている。潮を上げる海がわかる、酷い匂
いのする油の浮いた海の上を、下弦の軌跡で
鳥が過ぎる。
羽根の痛む背中で、分厚いコートを着た人
達が熱帯夜を憎んでいるのがわかる、車のエ
ンジン音が過ぎるたびに。わたしは冷蔵庫の
中で囁く子ども達を、一人ひとり窓辺に干し
てやろうと思うのに、足先が鼻梁を横切って
いく。
今は、熱帯夜に疲れた人達が円卓を囲んで
トランジスタラジオを直している時間。少し
ずつチューンされていく、後頭部に抱きつく
七つ足の感触に、節くれた腹が粘つく皮膚を
撫ぜていき、まだ回線は繋がらないまま、鼻
のカテーテルだけを刺しなおす。
音を探す、海が満ちる前に。水槽の中から
ひかりも待たずに飛び立った七つ足。水面下
のざわめきは、いよいよ大きくなる、わたし
は耳を塞いで流れ続ける、海鳥の群れが同じ
軌跡を描きながら、ただ螺旋を捧げている。
定められた音律を適切に守りながら、非常
階段を昇っていく群れが見える。白み始めた
月が、海鳥の群れを鮮やかに映して、潮を上
げるたましいのために、全ての蛍光灯の紐を
引きちぎって回る彼らは、わたしの上を七つ
足は歩き回る。
青白く光る月に、わたしたちはただはにか
んだまま、蘇る強い痛みを待ち続け、防波堤
を滑らかな波がそっと越えていく、グラスに
注がれた水銀の中で、七つ足は沐浴を始める
わたしの肋骨がさかさにねじれるたびに、サ
ーモスタッドの温度はいつも低すぎる。
水面を切り裂いてゆけ、伸ばした指先から。
わたしの鼻梁を発射台に高らく、格子窓を貫
いて、わたしの肉を腐らせた優しさで、朝を
完全にさせる軌跡を描いて。屋上に辿りつく
人々を、囁くように導きながら。
選出作品
作品 - 20060706_080_1388p
- [佳] 水槽 - ケムリ (2006-07)
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水槽
ケムリ