妻が出産に備え里帰りした
いつもは少し窮屈な我が家だが
妻の不在が幾分の余裕を与えている
居間に面した小ぶりの庭に咲く、種類のわからない花たちが
花弁を寂しげにぼくに向けている
そんな何気ない場景に心がうごくのは
ここに生まれた新しい空白のせいかもしれない
朝、目覚めるとぼくの妻は隣にない
仕事からの帰途、
同じ外観の家が密集する住宅地に、一軒灯りの点らないぼくの家がある
ぼくの家から灯りが消失することで
ぼくは自身の消失に頓着せずにいられるのかもしれない
(いや、それは正しくない
ぼくは妻の不在に関係なく、いつも消失していたのだ!)
電話越しの妻の声は
実家で暮らす安堵感に出産間近の興奮が混ざりこみ
いつもとはどこか調子が異なっていた
「ちゃんとごはんは食べているの」
「庭の花に忘れず水をあげてね」
ぼくたちには、いくつか事前の決め事を確認するだけの少ない時間しかなく
出産の日が近くなるにつれて
妻との関係は、ますます希薄になっていくような気がした
妻のない休日、庭先に置いた木製の古い座椅子にぼんやりと腰掛けていると
一匹の猫が迷い込んできた
首輪も見当たらず
どこかで飼われている猫ではないようだが
親しげにぼくになついてきた
あいにく与える餌を持っていなかったので
何度もやさしく撫でてやったのだが
やがて気が付くと
彼女の姿はどこにもなく
どうやらぼくはまたここに
ひとり取り残されてしまったようだ
ある日の深夜、妻が無事出産したとの連絡が妻の母からあった
「みんなで待っているから早く見に来て頂戴ね」
たったひとつの小さな生命の誕生が
これまでの家族のうねりを倍加させ
ぼくを飲み込もうとする
ぼくはたまらず電話を切って
とにかく眠ろうとした
だけども
明日の朝早く(みんなで)
電車に乗って(待っているから)
どこへ行けばいいのだろう(早く見に来て頂戴ね)
頭の中におぼろに浮かぶ二つの地点がどんなに苦心してもつながらない
ぼくは
今、どこにいるのだろう
(その時、猫の鳴き声がひとつ、ニャンと
外から聞こえてきた)
選出作品
作品 - 20050315_789_126p
- [優] 出産 - 一条 (2005-03)
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出産
一条