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ヒダリテ - 2006年分

選出作品 (投稿日時順 / 全5作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


冬の夜、僕は悲しくて

  ロン毛パーマ

冬の夜、僕は悲しくて、
ひとり、港の桟橋で、
黒く、ゆらゆら揺れている海と、
そこに写った月の姿を眺めていた。

海上を漂い流れている
つるんとした
大きな物体が、あった。

月明かりに照らされた
その物体は、
仰向けに漂う全裸の中年男性、
僕の高校時代の恩師。
十年ぶりの
再会だった。

海上を漂う一糸纏わぬ五十男は、
見下ろす僕の、顔を見つめて、こう言った。
「勉強は、しよるのか?」
僕は何も言わなかった。

僕が泣いていることに気付いた先生は、
静かに僕にこう言った。
「園芸部に入らんか?」
僕は涙を拭いた。

少し波が強くなって、
先生は何度も桟橋の岸に体を強く打ち付けて、
その度に、上を向いたり、下を向いたりした。
上を向いたり、下を向いたりしながら、
てらてらと濡れ、輝く、その顔は、
笑っているのか、泣いているのか、
僕には分からなかった。
僕はタバコに火をつけた。
足下で先生が、
「こら、お前、タバコ!」
と言った。

僕は夜空を見上げて、
思いっきりタバコの煙を吸い込んだ。
そして、
それぞれの事情を想った。

「ごめんね」と言って、
電車の中に消えた彼女の事情、
その時僕らの横を通りすぎて行った
汚い身なりのおじさんの事情、
あの時、あの場所にいた何百人もの人間
それぞれの事情、
そして、
僕の足下をゆらゆら漂っている、
つるんとした大きな物体、
その、事情。

夜明けまで、そこにいても良かった。
けれどそうはしなかった。
一応、まだ僕にも、やるべきことが残されている。
そう思う事にした。少なくとも
部屋に溜まったゴミを出さなきゃならない。

僕は再び海を見た。
先生は少し沖の方に流されていた。
たくさんの小さな魚たちが、
先生の体毛をついばんでいた。
黒く光る海を漂いながら先生は
なにか鼻歌を唄っていた。
どこかで聞き覚えのある歌だった。

僕は家に帰り、
散らかったゴミをまとめて玄関に置いた。
明日の朝九時までに出さなきゃならない。

明け方、僕はベッドに入った。
ほんの数回、このベッドで彼女と
体を暖めあったこと、思い出していた。
そして、眠った。
眠る直前、先生の歌っていた鼻歌が
母校の校歌だったことを思い出して、
少し、むかついた。


こらこら、行くな

  ヒダリテ

 夏の夜も白々と明け始めた午前四時半、遅々として進まぬ書き仕事に嫌気がさした私は、何か楽しげな事はないかと、半ばやけになりつつ、ぐるぐるとさまざまな思考を巡らしていたところ、ふと、
「お、妻と、遊ぼう。」
 と思い至ったのである。
 そして、いまだ眠る妻のいる寝室のドアを勢いよく開けると、ベッドの上ですやすやと眠る妻に向かって比較的大声で、こう言ってやったのである。
「遊ぼう!」

 ぐるりと腰にヒモを結びつけた妻と、そのヒモの先を握る私とで、リビングの床に黙って、ただ座る。
「何ですの、これ?」
 と妻は言う。
「こらこら行くな遊びだ。」
 と私は答える。
「……行くな遊び? ……なんですの、それ?」
 と言いながら、腰を上げ、キッチンの方へ妻は向かおうとする。スルスルとヒモが伸びていき、私の手の中から逃れようとする。すかさず私はその先をしっかりと握り、少しこちらへ引き戻しながら、言う。
「こらこら、行くな。」

 う、と、小さくうなって妻は再び私の傍らへ引き戻され、座り込む。ぺたり。
 困った、みたいな顔をして私の顔を見る妻は無言で、しかし、確かに何かを言おうとしてためらっているらしいのが分かる。
「どうだい?」
 と言う私に、妻は何も言わない。
「こらこら行くな遊びだよ。妻。」
 と私はもう一度言ってきかせる。
「眠いのよ、あたし。」
 妻はそう言って立ち上がり寝室のドアノブに手をかける。すかさず、私はヒモを引っ張り、もう一度、言う。
「こらこら、行くな。」

 う、と、また小さくうなって、引き戻され、力なく、ぺたり、と、私の傍らに座り込んだ妻は、ひとつ大きなため息をつくと、無言で私の目を見つめる。
「どうだい?」
 と、また私は言う。……妻の、目。
 数秒間の沈黙のあと、妻は、小さな声、しかしきっぱりとした口調で、言う。
「おもしろくないわ。」
 そのまま妻は私が買ってきてしまったちいちゃな靴を見つめている。
 ちいちゃな靴。妻は言った。
「子供、……欲しかったの?」

 私は思う。生まれるはずだった命に、名付けられるはずだった名前がある、と。
 デパートの子供服売り場で、ちいちゃな、ちいちゃな靴を手に取りながら私は、「大人が殺さなきゃならないほどに、子供が溢れてるってわけでもないだろうに……」と、思った。
 市民プールから帰る子供たちがたくさん乗ったバスの車内で、思いがけず涙していた私を、ひとりの少年がじっと見つめていた。私は、ただただ聞いていた。きゃらきゃらと甲高く響く笑い声。その、にぎやかな車内、そこにも、たくさんの名前は行き交っていた。
 まさお、ゆき、とおる、かおる、ひでき、あいこ、めぐみ、さとし……。
 私は思う。たくさんの生まれるはずだった命に、たくさんの名付けられるはずだった名前がある、と。そのことを忘れちゃいけない。たくさん、たくさんの名付けられなかった名前が、あるのだ、と。

 私と妻は、リビングの冷たい床の上、そのままじっと何も言わず、いつまでも、ちいちゃな靴を眺めていた。
 すっかり朝陽も昇り、人々の朝がゆっくりと回転しはじめた。
「子供、欲しかったの?」
 と、また妻は言った。
 う、と、私は思わず、涙しそうになったが、それを堪え、
「しょうがないさ。誰のせいでもないのだし。」
 と、少し大げさに明るく振る舞ってみせると、妻はちょっと笑った。
「ちょっと早いけど、朝ご飯にしましょうか。」
 そう言いながら、キッチンへ向かおうとする妻の腰から伸びたヒモを、もう一度だけ、ぐっと引き寄せながら、私は言う。
「こらこら、行くな。」

 そして。
 う、と、妻はまた、ちょっとよろけて、ぺたり、と、今度は私の膝の上。妻の首、妻の肩、じっくりと、今、妻の体温。
 もう少し、このままが良い。


ボーマン嚢 経由 ランゲルハンス島 行き

  ヒダリテ


ここにいる人はみんな変です壁に貼り付けた遺体のようです壁に貼り付け損なった異体のようです犬を怖がる人に悪い人はいませんが、あなたはバカだから、そうやっていつも肘から折れ曲がっているのですね。なるほど、バカだから、そうやっていつもあなたは首からぶら下がっているのですね首からぶら下がった下の部分のことはお構いなしですか。けれどそんなに肘から折れ曲がっていては不便でしょう。いつからそんな風に折れ曲がってしまったのですか。さかりのついた犬のことをママと呼んでしまったからですか、かたことかたことと、老婆が押す車に轢かれてしまったからですか。火星の牛のことを考えてしまったからですか? 教えてください、今、地球には何本の毛が生えていますか?

はい。ありませんから僕は、決して犯罪者では。ありませんから犯罪者では。どうかここから逃がしてください服を着たくはありませんから、これ以上あんな服は着ていたくはありませんから、ここは暗くて狭くて、鉄筋コンクリートの床から壁からにじみ出たあとで染み渡る骨の痛みに立体的な亀がいつも僕を空中で貼り付ける縄ばしごを僕に下さい、そして三つ編みの少女の髪を掴んで、僕は、逃げるのですが、逃げるのは苦手ですが、逃げなくては逃げられませんから、逃げるのですが、逃げるより前に逃げ出すことはできませんから、逃げるのですが、けれど逃げる前より前に逃げ出すことはできるかもしれませんから、僕は逃げる前より前に逃げ出しますから、あなたは、逃げる前より前の、そのあとに逃げるのです。だからあなたはカバを背負ってください。僕が目玉をくりぬきますから。そしたら僕が空気を入れて目玉を膨らませますから、その間にあなたは、壁に掛かった半ズボンに目配せしてください。それが合図ですから。今はたっぷりとヨーグルトの詰まったあの看守のでっぷりとしたシカバネを叩くための長い棒があなたには必要ですがラの音で叩くと三点というルールにしてください。なぜならドレミのラはラッパのラであることより先に、ドレミのラであったはずなのにいつもラッパのラであることを強要され続けて少し悲しいからです。その黒い鞄には僕の糞がたっぷり詰まっていますので大切にしてください。最後、僕の糞の合図によって大統領の部屋の赤いランプがぽっと灯りましたら、すべての戦争が終わりますから大切にしてください。もちろん現存する一部のアメリカ大統領は僕の奥歯の間に挟んでありますので、安心してください。僕はもうじき増えます。増えたらちょっと面倒ですから、増える前にやるべき事をやるのです。

まあ、一体どうしたというのですか、またあなたはあのピンクのラクダを失望させる気ですか。分からないのですか、世界が壊れて、世界中至る所で、ヘルメットが不足しているのですよ! 地球上あらゆるところで、ヘルメットが、ヘルメットが不足しているって言うのに、なのに、なぜあなたは、そうやってあごの下からひっくり返って、肘や膝から折れ曲がりながら、首からぶら下がっているのですか、ヘルメットが、ヘルメットが、不足しているというのに!

ぼ、ぼ、くあ、あ、あた、たた、あ、たしの。あたしの彼はあの人たちのボーマン嚢を経由してランゲルハンス島へ行ってしまいましたのであたしはいつも、あたし自身を隠し損なうキッチンのフライパンの下で、彼を待っていました。
彼に会ったら。
あたしが彼の内臓を引きずり出しますので、あたしが彼の内臓を引きずり出すスピードで、あなたは壊れていいです。彼らはエスカルゴを殻ごと平らげますが、とてもいい人たちです。どちらかというとナイスですから。ナイスですから。ナイスナイスナイスな人たちですから。
それでは取りかかりましょうか。


たんのう

  ヒダリテ


少なくとも
胆嚢は
愛ではないと思う

真剣な顔の彼が
突然、自分のおなかに
手を突っ込んで
どす黒く血に濡れた
胆嚢を取り出す

汗びっしょり
息を切らしながら
胆嚢を
あたしの顔の前
差し出しながら
「これが僕の愛だ」
なんて事を言う

「いいえ、これは胆嚢よ」
と、あたしが言うと
「そうか」
と、彼はちょっと
残念そうな顔をした後
「間違えた」
なんて言って笑う

「胆嚢は、いらないか?」
と、言う彼に
「間に合ってるわ」
と、あたしが言うと
「じゃ、冷やしといて」
と、彼はあたしに
それを手渡す

「確かこの辺に、あったはずだが」

そう言いながら
彼はまた
おなかの中に
手を突っ込む

あたしは彼の胆嚢を
ラップに包んで
冷蔵庫に入れる

「胆嚢なくて平気?」
と、あたしが言うと
「死ぬかな?」
なんて言って彼は笑う

「君は愛がなくても平気なの?」
と、彼が訊くので
「愛なんて、どうでも良いのよ」
と、あたしが言うと

彼は
ぽっくり
死んでいる

冷蔵庫には
彼の胆嚢
部屋には、あたしと
彼の死体
少しだけ開けた窓
ひらひらと
カーテンが揺れている

「愛を、探しに行ってくる」

彼の声が聞こえた気がした


ちきゅうのふもとで、犬と暮らす

  ヒダリテ

君の柔らかな陰毛の生える
丘のふもとに
小さな家を建てて
大きな犬と暮らしたい

そして毎日、朝から晩まで
絵を描いて暮らしたい

君のなだらかな肌の起伏は
いつも僕の霊感を刺激して
つきる事のない創作意欲に
駆り立てられた僕は
飽きることなくキャンバスに
絵筆を走らせるだろう

朝には朝の君がいて
夜には夜の君がいて
君のちきゅうを中心とする世界は
1秒も止まることなく変化を続け
いつも、いつでも
黄金に輝く君の肌に、僕は
黄色い絵の具をたくさん使うだろう

ヴァン・ゴッホと名付けた僕の犬は
君の柔らかな肌の上を
ぽんぽんと跳ねながら
てんとう虫なんかを追いかけ回すだろう

そして時には気晴らしに
あの遠くに見える二つの山に登って
その頂上から湧き出るミルクを汲みに行こう
おへそと呼ばれる
小さな凹みに降りていくのも良い
そこでお弁当を広げて、陽が沈むまで
鱒釣りなんかをしても良い

リチャード・ブローティガンと名付けた僕の犬は
その時の僕の最高の
サンドイッチとなるだろう

そうだ、君の左の鎖骨のあたりに
ちょっぴり栄えた街があるから
ウィスキー片手にのんびりと
ヒッチハイクでもしながら街まで行って
さびれた酒場で
一日を台無しにしてみるのも良いかもしれない

ジャック・ケルアックと名付けた僕の犬は
僕のくだらない冗談にも
快活に応えてくれるだろう

君のおっぱいの山の谷間に
夕陽が沈み
部屋の中いっぱいに広がる
オレンジ色の夕陽の中で
ロッキンチェアーに揺られながら
僕はお気に入りの詩集を読もう
そして簡単な夕食のあとは
気の向くままにギターを弾こう
歌を歌おう

その時の犬の名前は
ボブ・ディランにしようか
ミック・ジャガーでもいいな

君の柔らかな陰毛の生える丘に
柔らかな風が吹き
そうやって何年も、何十年も
過ぎたあと

君のその素晴らしいちきゅうの上に
僕と犬とで、寝っ転がって
黄金の午後の陽を浴びながら
子供の頃、母親が指に刺さったとげを
すっと引き抜いてくれたように
死神が
僕の魂をそっと引き抜いて……

そんな風に僕の命が終わればいい

君のその永遠のちきゅうの上
寝っ転がった僕と犬は
永遠の日なたぼっこで
僕も犬も気がつかないうちに
そうやって、静かに
僕の命が終わればいい

文学極道

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