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コントラ - 2006年分

選出作品 (投稿日時順 / 全12作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


泉川 1986年

  コントラ


露がついた二重の窓は
水のなかの液晶画面のように
白樺の林を映す
午前7時、灰色の空
国鉄式ディーゼル列車の客室内は
暖かくて、かすかに軽油の匂いがする
靴からはたいた雪が
木の床に滲んでゆく

トーストが焼ける匂いを憶えている
僕が住んでいる工場町の
小さな家のテーブル
六畳の暗がりは遠く
祖父が遺したニス塗りの木箱
三菱鉛筆の工場や
焼け野原だったころのこの街に
続いている

その日もヘリコプターの音
が聞こえていた
校庭の隅の百葉箱には
遠い日付の日誌が入っている
砂利の上に足を伸ばすと
空はひろくて午後の路地は
静まり返っている
開基70周年
プレハブの校舎
鉄製の階段を降りてゆくと
雨のしずくが音をたてる
土曜日の正午
イギリス帰りのあの子は
赤と白の傘をさして
通学路をたどる

泉川、1986年
ガラス戸からは3月の淡い光
がこぼれている
待合室の円筒ストーブ
午前の列車が出てゆくと
駅員たちは切符売り場のカーテンを
おろして姿を消した

厚い氷のプラットホームを
踏みしめ
まっさらな雪の上に
足跡をしるしてゆく
つららの降りた0番ホーム
改札口のガラス戸は
一日三度だけ開かれる
朝8時、午後4時
そして、まだ陽は落ちない
最終の6時

オルゴールが短く鳴ると
列車は雪原のなかに
停車する
粉雪が降り続いている
小さな板張りのホーム
と看板だけの乗降場
はなれた集落では
黒い家々が点のように滲み
防風林が吹雪にかすんでいる


Negara Katulistiwa  熱帯アジアの十字路にて

  コントラ

ベンクーレンのドミトリー、灰色の絨毯に夕方の日が差しこんで、ベランダに出ると、青く透きとおる北東の空に雲がちぎれている。埃を吸い込んだベッドの端には、誰かが忘れた国際フェリーの半券が落ちている。いましがた半裸で眠りつづけていたイギリス人は、少しまえに荷物をまとめて出ていった。誰もいない、翳ってゆく部屋。明け方、国境の水道を渡る列車のなかで出会った女の子は、別れ際に小さな紙片を僕に手渡した。煙草に火を点けて、いまその紙片を読んでいる。クレテック煙草の甘い煙はパチパチはじけながら、僕が数ヶ月前に引きはらった、寒い盆地のはずれにある下宿にまで記憶を参照していった。

椰子の木が植えられた空港からこの界隈まで、瀟洒な二階建てバスが結んでいる。街の通りのあちこちは工事中で、闇のなかベンガルの男たちがかざすオレンジ色のランプで、渋滞する車の列が誘導されてゆく。朝、目がさめると、5階の窓は開け放たれている。じわじわと湿度をあげる空気をつたって、建築資材がぶつかりあう音がビル街に響いている。ヤンゴン、クアラルンプール、スラバヤ。台北、コロンボ、シンガポール。安宿のベッドとシーリング・ファンが回る天井。小さな吹き抜けの空間で撹拌され気化してゆく意識。真昼には路線バスを十字路ごとに乗り換えて、近代的なショッピング・コンプレックスのエスカレーターを昇ってゆく。屋上のテーブルから街を見晴らすと、三角州の上にはうっすらと排気ガスの層がかぶさっている。1日3回以上冷たいシャワーを浴びて、そのたびにパウダーを全身に塗りたくった。ひんやりした熱帯夜の手のひらで、セブンイレブンで買ったシャーベットを飲み干すと、僕は屋台で遅い食事をとっている、スカーフを巻いた女たちのおしゃべりを聞いていた。

最終日、彼女はいくら待っても現れなかった。「検事」通りの出口の、30度を超える日なたで、通りの反対側、ナシゴレンを炒める屋台から甘い煙が流れている。Jam Karet. 歯の欠けたガム売りの男が話しかけてくる(この土地では時間はガムのように伸び縮みするものなのだ、と)。国際フェリーに乗って海峡を渡るとき、船尾に集まる潮の渦を眺めながら、僕は「旅」について、冷たい「構造」を発見するのかもしれない。国際ターミナルの免税品店を漂うコロンの匂いのなかで、あるいは、空港に向かう二階建てバスの窓から、高木樹が植えられた分離帯を眺めながら。バスがランプウェイを降りてゆくと、滑走路にはもう飛行機が到着していて、その光景を、フェンスの向こうの荒れ地から、僕はただ見まもっていた。


・追記
書いているときはほとんど視界になかった自分の脳天気さに絶望するのですが、この作品を構成している、実在する地域の一部(特にスマトラ島とスリランカ)は2004年暮れの大津波の被災地域です。書いてしまってから手遅れなのですが自戒のために。


白い象

  コントラ

僕はそのとき、半島を南に向かう急行列車のデッキにつかまって眺
めていた、養殖場の白い灯りを思い出していた。12両編成の客車は
大きな砂袋を担いだ男たちで混み合っていた。開け放たれた窓、暮
れてゆくモンスーンの稲田が果てるあたりには、送電線が走る低い
山の影が国境へ連なっている。列車が州都の駅の低いプラットホー
ムに着くと、餅米や、葉でくるんだ焼きバナナの入った籠を頭に載
せた女たちが、列車の窓の真下に集まりはじめる。

川向こうの病院から橋をわたると、黒く濁った運河と、白く干上が
った路地が幾本も交わる界隈の奥に、ドーム屋根のターミナルがあ
る。その駅からは、一日5、6本の普通列車が空っぽの客車を何両
も連ね、音もなく発車していった。日なたでは片足を負傷した兵士
が、生々しい傷口を太陽にさらしている。薬はどこの店にも売って
いなかった。テワナ風のブラウスを着た彼女は午前中ずっと、酷暑
の街を歩いていた。無音の路地から路地へ、そして僕を見つけると、
遠くから名を呼んだ。[・・・・・]

スタンドの柱にもたれて女たちが踊る歓楽街で、暗褐色のビール瓶
の内側に炎がゆれ動くのを見た。一本杉の丘から、牛車がぬかるみ
の道を進んでいき、小さな点になり、やがて見えなくなる。政府の
緑化政策は農薬の使用量を増大させ、低い山並みのあいだには真新
しい高速道路の高架が見えるけれど、この村へ通じる出口は無い。
バナナ会社は、栽培地を鉄柵で囲い、立入禁止の白いプレートを等
間隔で貼りつけていった。蒸し暑い雨期の午後、筵を敷いた床で横
になったまま痩せてゆく、都会帰りの娘の顔を、親戚たちは黙って
見おろしていた。

21号運河の駅を出ると、列車はスピードを落とす。線路のまわりに
空き缶を拾いにくる子供たちが、機関車の巨体の隅で背をかがめて
やり過ごしているためだ。線路際の青空市にならぶ鍋や薬缶が、真
昼の日を受けてきらきら輝いている。運河の水の底ではいつも、現
金支払機が札束を数える音や、レストランでフォークやグラスがぶ
つかり合う音が聞こえているのかもしれない。列車は分岐器を渡り
ながら、ターミナルのドームの影に吸い込まれてゆく。林立する信
号機の腕木はすべて、空を指している。


エミリアーノ・サパタ

  コントラ

カフェのガラスの向こうでは
カーニバルの飾りつけがはじまろうとしている
彼女は前の日に時計が止まった話をしながら
手首を裏返してみせる

教会前で待ち合わせたのは12時
正午の太陽は僕らの頭上から
街を炭酸水の無色透明に還元する

大通りでは
クリスタルというラベルが貼ってある
炭酸水の群がトラックの荷台で
街の北から南へはこばれてゆく

カルラ、あなたは白く乾いた路地が
交わる88番通りの角の雑貨屋で昼間
うず高く積まれたカートンのむこうから
眠たそうな目だけをのぞかせて
往来を眺めている

バスが地面を揺らせながら
狭い通りを通過する
フロントガラスに白いペンキで書かれた
行き先は「エミリアーノ・サパタ」
それはメキシコ革命の英雄の名では
あるけれど

街の南の、環状道路の交差点をこえて
刑務所の長い塀をすぎてゆくと
木立と鳥の鳴き声に混じって
セメント造りの低い家が点々とする
コロニア

あそこは以前、べつの村だったんだ
マルコスは言っていた
街の南の、それでも少しは街の中心に近い、
ハンモックが揺れる
タイル張りの床の台所で

夜が更けて
テーブルに肘をつく僕らの横を
何台ものフォルクスワーゲンが
通り過ぎていった

午前0時
僕らは
売春婦が客待ちする黒く汚れた
塀の角から
エミリアーノ・サパタヘくだるバスに乗る
薄明かりの電球に照らされ
電灯の減ってゆく家並みを網膜のモザイクに
焼きつけながら


パトリシア先生

  コントラ



パトリシア先生は今日も
ハンドバッグを持って学校にやってきた
Buenos Dias (おはようございます)と
三度復唱させると
生徒たちにノートを開かせて
ひとつひとつ中をのぞいてまわる

石畳とペンキで塗られた家並みのむこうに
なだらかな火山が煙をあげている
金網で仕切られた屋上の教室では
遠くでバスの車掌が連呼するリズムが
風をかすかに震わせている

欧米人が歩く街に散りばめられた
鮮やかなテキスタイルの色が
今日も民芸品屋の店先を飾る
青い空の盆地にすっぽりとはめこまれた
この街に内戦時代の痕跡はない

万国旗がならぶオープンエアのカフェテラスでは
旅人たちが濃厚なコーヒーの匂いに酔いしれる
軽やかなサルサは、それぞれの瞳に映りこむ
ユートピアの表象と溶け合い気化してゆく

デコボコの道の先に見える火山が
今日はすこしゆがんで見える
褐色の農民たちはいつも道の片隅を歩いている
彼らはほとんど足音をたてず、示し合わせたように
一列になって通り過ぎる

2トントラックがヘアピンカーブ
を曲がりきれずにブレーキを踏む
その狭い路肩でじっと身を寄せながら
彼らは街の外のコロニアに帰る
そこではきっと降りやまない雨が今日も
とうもろこしの芯や
ちいさなマリアやイサベルのおもちゃを
グレーの濁流に飲み込んでいる

パトリシア先生は「インディオ」の話になると
いつも困った顔をする
彼らは森の木立の奥深くにいて
教会に行くことを知らない
それだけだ

そしていつものように話を変えると
「安楽死」は正しいと思うか、と
黒板に書いた

昼休みになると
パトリシア先生はバッグから携帯電話を取り出して耳に当てる
相手は年下の恋人で
来年の春には結婚する予定だ

そのあと、このにぎやかだけれど実入りの少ない
外国人にスペイン語を教える仕事を
続けるのかどうかは
まだわからない


ロシータ

  コントラ



ローサは表通りのブライダル用品店で
働きはじめて2年になる
頭上にそびえるオフィスビルの
硬質ガラスに跳ねかえる
朝日を見ながら、店の前の道路に水を撒いている

青ざめた空気の向こうに地下鉄
のランプが点灯している
オフィス街の谷間に残された
インナーシティには古びた
がらっぽのビルがいくつも
ならんでいる

そんなビルのうちの一つの
細長い壁面には
巨大なマラソンランナーがゴール
のテープを破っている
オリンピックの年に
つくられた壁画だ

最近、ハリウッドにある
夜間学校に通い始めた
そこは1学期3ドルという無料同然の
金額で、来たばかりの移民たちに
英語を教えている
木の床にならべられたイスに座り
夜の9時まで先生の課すテーマ
について英語で書く

朝、店の前を掃除しながら
ローサは「書く」ことに
ついて考ることがある

バスに乗って街のなかを
移動してゆくとき
目のなかのモザイクを
流れてゆく交通信号やテールランプの帯
あるいは
船底のようなスーパーのキャッシャーで
メキシコ人のパートタイマーたちが
ドル札をさばいてゆく指先

蛍光灯の下で削るようにペンを
走らせてゆくと
ありふれた風景の断片も
離れた土地に移り住んだ人々の生の表出を
いくつものレイヤーに
刻み込んでいることに気づくのだ

仕事を終えてバスを待つ時刻
日はかたむき、クレーンが吊りさがった空は
ファーストフードの広告塔や
ラジカセを持って歩く黒人たちを
鍋底のような闇夜のコントラストに
徐々に落とし込んでゆく

追伸

夜間学校で出会う日本人や韓国人は
感じのよい人たちで
ときどきスペイン語で話しかけてくれる

この国に来る前は
(アジア人といえば)
アルトゥーロの雑貨屋の
暗い棚の奥に座っている
無愛想な中国人しか知らなかったけれど


シルビア

  コントラ



シルビアは恋人の兄のマルコスに「デブだ」とからかわれても、なにも
言い返さなかった。雨上がりの日曜日。リビングには湿った風が吹いて
いて、テーブルの上では処方薬の袋がかすかに音をたてている。門の前
に車がとまり、礼服を着たシルビアの家族が午前のミサから帰ってくる。
彼らは部屋に入って着替えを済ませると、すぐにまた車に乗ってでかけ
てゆく。シルビアの家族は、小さな弟たちもふくめ、みんな太っている。
国境を越えて輸送される赤や黄色の炭酸水は、この国の神話のプログラ
ムを見えないところで書き換えている。

パウンドケーキのような熱帯林の中央基線が交わるあたりには、巨大な
ショッピングコンプレックスが午後の陽を浴びて白く光っている。シル
ビアによれば、ここのフードコートで売られているピザやフライドチキ
ンは、母がつくったものとは違う味がする。しゅわしゅわと口のなかで
溶け、まるで宇宙食を食べているような感じなのだ。シャーベットのよ
うな冷気が充填されたフロアを出ると、シルビアの家族は地平線が見え
るハイウェイに車を入れる。後部座席では、シルビアが物憂げな表情で
窓ガラスに額をあてている。いつからか、彼女の視界には光る綿のよう
なものがちらつくようになった。

ドラム缶で燃える丸焼きのチキンが黒い煙を空にたなびかせている、環
状道路の交差点。信号待ちで車が止まると、安物のキャップをかぶった
物売りたちが寄ってきて、小さな押し花やボトル詰めの炭酸水を売り歩
く。汗ばむ褐色の腕に握られた炭酸水がきらきらと熱を放射するのを見
まもるシルビア。排気ガスで黒く汚れた壁と、炎天下に立ちつくす売り
子たちの姿が無声映画のカットのように映り、アクセルを踏み込むと視
界から消える。ドライバーの目線をはばむ鋼鉄の防音壁の外に広がる原
生林のむこうには、板きれやダンボールで風をしのぐバラックの群がゆ
るやかな丘の中腹まで続いている。

あれは小さなころ、縫いぐるみを抱いて祖母の家に遊びにいったときの
ことだ。眠たい目をこすりながら飛行機がこの街に着陸してゆくとき、
砂粒のような電灯の群がこの丘のうえまで這い上がっているのを見て、
シルビアはベッドカバーに落ちた宝石のように、それらを手にとること
ができるような気がしていた。いま、そこから数百メートルも離れてい
ない、なめらかに舗装されたハイウェイを、日本製のセダンは滑ってゆ
く。道が緩やかにカーブしていくと、フライドチキンの広告塔が回転し
ているのが視界の隅にはいり、そのむこうには広く青ざめた空が緑の地
平線をすりきりの地点で飲みこんでいる。


Last Modified 2005/06/06


1982

  コントラ

冬の日の夕方、街外れにある高架鉄道の駅の暗く湿ったエントランス
を、僕は母に手を引かれて降りていった。東京オリンピックの年に開
通した半地下のプラットホームは、長いトンネルにはさまれていて、
新造電車の灯火が闇の奥に点ると発車案内のランプが赤く点滅した。
微風のなかに、僕は飛沫をふくんだコンクリートの匂いをかいだ。耳
の底で轟音がふくらんで、トンネルから顔を出したオレンジの車両と
窓ガラスの光の列が僕の視界をフラッシュしていった。

冬枯れの武蔵野から、競馬場のある駅で電車を乗りかえて、母は工場
町にある祖母の家に僕を連れて行った。電車はジャンパーを着た男や
厚化粧の女たちで混んでいた。銀色の手すりをにぎっていた、汗ばむ
手のひらに残る苦い鉄の匂い。くぐもったガラス窓に映る田畑や農家
は、私鉄のデパートやマンションに変わり、路地やフェンスや煤けた
鉄工場の塀がつづく。母は私鉄線の乗りかえ駅にある洋菓子屋でシュ
ークリームを3つ買った。白い紙で組んだ箱。夕方の人のまばらな商
店街には丸い蛍光灯が数珠のように点っていて、買い物を乗せた自転
車の細いシルエットが角を曲がって消えてゆく。タバコの自販機が白
い光を地面に投げる、潮が引いた浜辺のように静かな道で、母の背中
は通りの奥に小さくなっていた。

祖母の家は郵便ポストの角を曲がった公園の奥の、松の木が生えてい
る小さな水槽のなかにあった。石油ストーブの上では餅がふくらんで
いて、僕は竜宮城のような水の泡がはじけてゆく水面に耳を澄ませた。
母が話す声も、祖母が応じる声も僕にはよく聞きとれない。母がいつ
もと違う表情で僕に笑い、引き戸の奥に姿を隠した。車庫のトタン屋
根の上には鈍色の空が斜めに見える。となりの民家では嫁に行かない
三姉妹が買い物かごをさげて空へ泳いでゆく。庭の植木鉢も地中に棲
むクモも、水のなかで息をしている。

丸テーブルの蜜柑がサッシから差す日を浴びている/ 午後の、静まりか
えった二階家/ 機械油の匂いが染みた路地や電線がはしる町/ 祖母は奥
の衣装ダンスのなかで眠りつづけている/ 引出しには工場に勤めていた
ころの帳簿が入っていて、そこにはボールペンの文字で日付が書きこ
んである

学習机の世界地図にはうっすらと埃が積もっている。春のよく晴れた
日に、ミツバチが飛ぶ公園で2人の子供がブランコを漕いでいた。 赤
レンガの渡り廊下には青空がこぼれ、靴音が深くこだました。校庭で
子供たちは凧のように空へ泳いでゆく。祖母の衣装ダンスは僕の部屋
になり、僕はこの街で小学校の一年生になった。


AYAKO

  コントラ


アヤコの手を握って歩いていた。路面電車の駅からつづく暗い道で、7月。祭りのあとの、風のない夜。客のない喫茶店の室内灯と、黒い電線がはしる空。単線の踏切を渡ると原っぱのなかにタバコの自販機がぽつんと光を放っている。僕らは小さな橋をわたり、行き止まりの道にあるアパートにつく。戸口には古い蛍光灯が消えかけていて、錆びた自転車が置いたままになっている。窓から川が見える2階の、6畳の部屋。薄闇のなか、僕らは水槽の魚のように折り重なって眠る。窓の外で原付自転車が橋をわたり、ゆるい坂を登ってゆく。マンホールの蓋がくぼむ音。闇に伸びてゆくテールランプの帯。

オレンジ色のランプが入口にかかっている。半地下にあるアフリカ料理屋のテーブルで僕はアヤコと向きあっていた。派手な髪飾りに気づくと、いつも東南アジア系に間違われるから、と言いながらはにかんで笑う。薄暗い店内にいる僕らの肌には赤や黄色のセロファンが投影されている。それは立体壁画のモザイクのように過去や現在を透かして見せる。バクラランからコタキナバルへ、シンガポールからアロースターへ。アヤコは涼しげな顔で僕の話を聞いている。ときどき、「それはどうして?」と言って僕の目をみる。グラスの氷がぶつかり合う音。ドアのガラスのむこうではセミが鳴いている。

アヤコを見送る。私鉄線の駅前。小豆色の6両編成が小さな光源になって森の裏側へ隠れる。風のない夜。深夜の丸太町を4速で走った。90ccの消えいりそうなエンジン音が、穏やかな海のように凪いでいる。シャッターを下ろしたディスカウントストアの交差点を入ると街路樹が闇を包みこみ、灯りの消えたアパートや家並みがつづく。何年か前に、赤道近くの白く乾いた街で同じようにホンダを走らせたことがあった。くねくねした支道をどこまでも入ってゆくと、道は未舗装になり、電気もまだ来ない海岸の村にたどり着く。サロンをまいた老人は、高床の家の筵に僕を座らせて、酸っぱく味つけた焼魚を振舞ってくれた。

水をふくんだ空気。窓からみえるラグーンの向こうには緑に覆われた島が横たわっている。老人は言った。あの島は数年前に白人の大富豪に買い取られて、高級ホテルと自然保護区が整備されて立ち入り禁止になった。だから私たちはここから島を眺めるだけなのだ、と。硬質プラスティックに映るタバコの自販機の灯りを視界の隅にとらえる。橋をわたり右にターンしてアパートの前にバイクを止める。フルフェイスを脱ぐと、星々がきれいに見えた。鍵を抜いてポケットに入れ、アパートの階段を上る。

夢をみた。たちのぼる陽炎のむこうには緑の島がにじんでいて、僕は油の浮いた海を、岸を目指して泳いでいる。苦しくて息がきれる。老人は後ろから僕の肩をつかんで引きとめる。そのうちさざなみの合間にはいくつもの褐色の腕が浮かび上がる。港では短針が振り切れた白い時計塔の下で女たちが膝をついている。午後の太陽は島の中央基線の上に14時間以上もとどまりつづけていて、浜辺にはいくつもの干上がった魚が打ち上げられていた。

アヤコと向き合って路面電車に揺られていた。肩からブラジャーのストラップがのぞいているのをぼんやり見ていた。電車の広告が江ノ島の写真を載せている。「江ノ島って熱帯みたいな感覚がある」と僕はアヤコに話す。窓に指をあてながら「それはどうして?」と彼女が答える。祭りのあとの人いきれを載せた電車。乗客の背丈のうえで扇風機が風を送る。窓の外で飽和してゆく、水をふくんだ盆地の夏。古い家屋の軒先に風鈴が揺れている、僕らが歩いている道の、マンホールの底のように暗い夏。いつか深夜便のせまい窓から見た赤道直下の島々のように、そこには風がなくて、ただ白く光るタバコの自販機だけがかすかな音をたてていた。


  コントラ


ずっと考えていた。森のなかの涼しい空気が充填されている砂地で、地表に消失した分岐点の意味や、アンビエント音楽のリズムのなかに浮かぶオレンジ色の矢印と、それによって暗示されるもの。あるいは、緑の地平線に埋められた歴史の余剰と、褐色の土地を踏み分け播種して来た、やわらかな足音で歩く人々のこと。僕は、新幹線のガードが横切る高いフェンスに囲まれたグラウンドで、鉛色の空をずっと見上げていた。風景はどこか陰影がなくて、ビニールプリントのようなつややかな光沢を帯びていた。冬の日の夕暮れ、電灯がとぎれた商店街の暗い路地で、白くフラッシュする自動車のヘッドライトに、僕はいつも手をかざしていた。

考えていたのは、社会主義時代の崩れたビル街を見下ろす海岸通りで、乗合バスを待つあの娘のことというよりは、あのとき、灰色の、暗くしずんだトタン屋根の家屋がつづく商店街を歩いていた僕の、目のなかに映っていたもの。あるいは、砂地の円環に記された矢印が指さす、風が吹いてくる先にあるイメージ。たとえば、遠い初夏の午後、散水車が通った道の、濡れたコンクリートに、道路標識の菱形や楕円がにじんでいた風景。長いあいだ、その湾曲するフォルムが何を意味するのか、僕はわからなかった。僕の手の中に残る、いくつもの思い出せないもの。

そういえば僕は黒い山影の記号がいつも眼前にせまる郊外の片隅で、白いペンキで塗られたアパートに住んでいたことがあった。そのころ、いくつもの小さな紙焼きのカラー写真が、僕の部屋に郵送され、フロアに散らばっていた。でもそれらのイメージが語るものについて、僕は何一つ思い当たらなかった。思い出せなかったもの。たとえば、ゆるやかな海流にいだかれた小さな島のサトウキビ畑の、きれいに区画されたパターン。あるいは、首都の海岸通りで、僕の手をギュッと握った、あの娘のひんやりとした肌のこと。すべては砂地に投影された円環のなかで、神話的な象徴形式に書きかえられていた。

何年か過ぎたあと、円環はアンビエント音楽のCDジャケットの上で、静かな光を放ち、僕は深夜のガード下を歩きながら、ヘッドフォンを耳にあてていた。僕の存在を肯定するすべての神話論理が、どのように日々に「無題」を記しつづけ、それらはいつ地表に書きこまれるのか。白黒とカラーの紙焼き写真がいま、僕の手のなかにある。ひとつは、つややかに光る学校の廊下で、小さな男の子がカメラのフラッシュにおびえて手をかざしているイメージ。もうひとつは、早朝の海岸通りで、満員の乗合バスの手すりにつかまるあの娘が、生暖かい風に白いシャツをはためかせながら、目線の先にブラウズする青い海。

オレンジ色の矢印は、光ることをやめない。いくつもの枝分かれする消失した河川のルートが、褐色の大地に書きこまれている、そのことの意味が明らかになるまで。僕はすべての大量輸送システムから切り離さた森のなかで、涼しい空気が充填された木々のあいだで、褐色の土壌に含まれた水分に、深く浸透していたい。この土地に初めてやってきた人々の足音を聞くまで、僕は。砂地に記された矢印の上にたつ。


住宅計画

  コントラ

[この街をいだく海流の下では、いくつもの金属片が、かさなりあって音をたてていた。その音は谷間を貫く巨大な高架の防音壁にあたり、また海に帰ってゆく。夕方、銀色に光る通勤電車が長いトンネルを抜けてこの街に着き、無人のプラットホームに停車する。白くかわいた新造住宅街の部屋の奥で、街の住人はもう何年も眠りつづけている]

男はもう10年も、午後の日がさす部屋で暮らしていた。夕方4時になると、団地のスクールバスの音で目を覚ます。ベッドから起き上がると彼はコンピュータの電源を入れる。ファンの音がやみ、黒いスクリーンに文字が入力されるのを見つめる。遠くの部屋でなにかが壁にあたる。コップの水面が少し揺れる。インターネット掲示板にはたくさんの書きこみがあった。男は頬をゆるめたり顔をしかめたりしながらキーボードを叩いている。紙パックのコーヒーを飲み終え、握りつぶすと午後5時だった。キーをポケットにいれ、階段をくだる。原付自転車が団地の平坦な区画を出て坂道をのぼってゆく。男はフルフェイスに風を受けながら、口のなかが乾いているのを感じていた。

街の南にある埠頭は風が強かった。フルフェイスを脱ぎ、岸壁の上に置いた。コンクリートの灰色が街と海のあいだに真っ直ぐな線をひいている。遠くで作業服の男たちがいくつものパーセルをコンテナに積みかえている。長方形のものから小さな円筒形まで、荷物にはたくさんの種類があった。水平線の、貨物船が停まっているあたりから、金属のぶつかり合う音が断続的に聞こえている。海の底では金属片が重なりあって音をたてているのだ、とむかし図書館で借りた本で読んだことがある。キーをまわして原付自転車を発進させる。カーブした坂の下の、薄く靄がかかったあたりに、新造団地の群が見えている。灰色がかったスクリーンのなかで、A号棟の丸い非常灯が赤い焦点をにじませている。

[街の南にある埠頭では、作業服の男たちがいくつものパーセルをコンテナに積みかえていった。ラベルは擦り切れていて読めなかったが、荷物の中身にはたくさんの種類があった。たとえば、両親の帰らない部屋で泣いている女の子の手に抱かれた人形。壊滅した首都の市場で水たまりに落ちたサンダルや、遠い砂漠の採油場で、鉄製の梯子を動いてゆく蟻のような人影。岸壁では金属片のかさなる音が潮をふくんだ空気をふるわせている]

男の家族がこの街に引っ越したとき、彼は幼稚園に入る年だった。白くまっさらな部屋にいくつものダンボールが運び込まれ、父は日なたのベランダでタバコを吸っている。窓の下には小さな時計塔がたっていて、そのむこうには同じ形の建物が海のようにどこまでもつづいていた。ある秋の夕方、母は不機嫌で、幼稚園のスクールバスを降りたあと、団地の部屋につくまで一言も口をきこうとしなかった。重いスチールの扉を閉めると、母は、粘りつくような視線で彼を見た。次の瞬間、買ったばかりの立体模型がキッチンテーブルの上からすべり落ち、灰色のビルディングや、ガソリンスタンドの看板がフローリングの床に飛び散っていた。彼の網膜にはいくつものカレイドスコープが増殖し、そのひとつひとつには綿密な住宅計画のパターンが転写されていた。

[団地の窓から見える時計塔が午後4時を指すと、スクールバスが到着して園児たちが母親と手をつなぎ、家に帰ってゆく。そのなかに30年前の男の姿があった。黄色い帽子をかぶり、母親の手をにぎりながらA号棟の暗いエントランスに吸いこまれてゆく。窓に灯が点ると、空が暗くなりはじめる。新造住宅地の日々は、油膜のはったアルミホイルやレンジでミルクが温まる匂いが、薄闇で目をとじる人々の呼吸を明け方までつつみこんでいる]

男はキーボードを叩いていた。掲示板を開いてメッセージが入力されるのを見つめる。口の渇きはとまらない。コップの水を口にふくむ。青い光を発するブラウン管。画面のあちこちに表示された住宅計画。メカニカルに増えてゆくフロアプランを遠くまで歩いた。A号棟からB号棟へ。同じ形の建物がつづく。男は街を見下ろす坂の上にいた。踏切、信号機、ガソリンスタンド。港湾、貨物船、コンテナ倉庫。街の上空には薄い雲がかぶさっている。その雲のしたでは、いくつもの透きとおった人影が蒸留されているのが見える。次の瞬間、男は午後の日が射す部屋にいた。右手に感触があり、見ると原付自転車の鍵をにぎっていた。顔をあげると、テーブルの上には旧式のデジタル時計がのっていて、時刻は午後4時を過ぎていた。

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パス:bungaku

『住宅計画』 2006/8


n.d.

  コントラ


クリーム色の廊下を歩いていた。クレンザーの匂いがする、つややかにひかるエナメルの、窓のしたに黒い制服が集まる、午後。溝の底を金属でさらう。飛行船が音も無く飛んでいる、空。2年生の色は黄緑で、目の細い彼は机を蹴飛ばし、小さなネジが幾つも飛び散った。ロッカーの鉄板はゆがんでいて、マーカーで印をつける。細い目。いくつもの細い目が僕を見ていた。教壇にはチョークの粉が飛び散っている。紅潮した頬。林檎のよう。窓ガラスがピリピリしている。忘れ物をした。空っぽの弁当箱。

ブレザーをこすった。肩に手を置く。髪の毛を引っ張る。廊下に集まる。ゴム製の靴底。ニスに濡れた黒い廊下、の奥に見える非常ベル。白い扉。角を曲がると、ポケットに手を突っ込んで、にやりと笑う。僕の前に立つ、意味は、なんなのだろう。ぼんやりと校庭を見ていた。マンガ雑誌の付録の、中学生の作文。水道がもれている。雑巾を絞る。踊り場の天井。斜めの校庭が見える。すれ違う。廊下が、すべる。クレンザーの匂い。教室の扉は開いていて、誰かがもたれている。笑い声。落ち着かない視線。

階段を上がると、壁際に立っている。女の子たち、が笑う、ガラスが揺れている、ドアは、真鍮のノブ、少し開いている、目の細い彼が近づき、長い足で僕を蹴った、とき、僕は、昨晩のおかずのことを考えていた。テーブルに並んだ、目玉焼きと、温野菜と、台所の向こうで仕度をする母と。かみ殺していた。すべて。子供部屋で、僕は、何も考えることができなかった。ただ、どうにか、そのお椀にもられた味噌汁を、こぼさないように。そう、母さんはいつも僕にそう言っていたっけ。手をはたいて、立ち上がる。目を合わせない。誰とも、目を合わさないで、僕は、生きていくんだ。きっと何年たっても、大人になっても。

だから僕は、船に乗るのか、乗らないのか、いつもすぐに考えなくちゃならなかった。荷物をまとめて、出発するのか、どうか、ということ。

文学極道

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