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まーろっく - 2006年分

選出作品 (投稿日時順 / 全11作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


パン屋昇天

  まーろっく

 評判のいいパン屋だったがその男はある朝、日めくりの白
い裏側に消えていたのだった。からっぽの調理服が仕事場に
立っているのを女房は見た。机のうえでまっ黒いパン生地が
イースト菌で膨らんでいた。
 そのパン生地こそ彼だった。三十年。パンに彼が練りこん
でいた密かな憎悪がとうとう消尽したのである。小心な男ら
しいやりかただった、じつに、母を父に殺された男らしいや
りかただ。
 きまじめに狂っていったので、女房にも町の住人にも気づ
かれはしなかった。赤い月が消え残っている朝だけひび割れ
た心から熱い笑いを吹き上げていたが、都会の朝焼けの音に
かき消されてしまいその声を聞いた者はいない。
 町は、三十年かけて人も建物も黒ずんでいったがあまりに
もわずかずつだったので自然に汚れたように見えた。ある日、
母親のまぶたの裏がまっ黒なのを見て幼児が怯えたが、その
幼児の舌もまた黒ずみはじめていたのである。
 女房は亭主の体温と同じ高さで発酵したパン生地をオーブ
ンに入れた。そうしてできた黒パンを早朝の白い光があふれ
ている店の棚に並べ終えた時、町の住人たちに撲殺されたの
である。買い物かごのかわりに棍棒を手にした人たちによっ
て。
 飛び散ったショーウインドウのかけらには、消えた男の朝
が美しく結晶していた。まぶしいほどの忘却のなかで起きた、
それが惨劇のすべてだった。


バイクのある情景

  まーろっく

 夜勤あけの若者がいて、溶接の閃光とプレス機の打音
の果てに漂着した土曜日の午後遅く目覚める。そこにあ
る彼のからだがもはや半獣神になっていたとしても、コ
ップに溢れ出た液晶に映りこんだ幻だと言えるだろうか?
 なお正確に言うなら彼の下半身は獣ではなくV型4気筒
1200CCのバイクであり、それは馬という馬の腹を裂
き終わった時代のごくあたりまえな神像であるかもしれ
ない。
 彼は驚愕と共に未知の言語を口走るが、それは例えば前
世紀にたっぷり血を吸った雲が聞き耳をたてるような類の
言葉だった。たとえ見開かれたまなざしの下にある彼の
暗黒の口腔からカムやクランクの回転音だけがしていたと
しても。
 彼は傾きかけた太陽を追って走らなければならない。都
市の1万の窓をよぎる影として。地図の盲点を貫通する一
個の弾片として。危うい軌道を描いて墜落する太陽がゆら
ぎ、彼の上半身は外野手のように背走する。 あらゆる秒
針をくぐりぬける彼の後ろで、外壁をはぎとられた欲望は
赤茶けた印画紙に崩れ落ちる。ハイウエイは蛇のみごなし
のうちに緩やかに倒壊する。
 かつて友人を埋葬した丘陵の頂上で、彼は未知の海を目
にするだろう。その時、人間の歴史のうえではじめて発せ
られたある問いを叫喚しつつ、彼は太陽を飲み込んで沸騰
する海へと駆け下る。
 せりあがる水平線の一端に、火傷と切り傷の夥しい痕が
ついた、そこだけが人間として残された手のひらをかけるた
めに。


カン・チャン・リルダの夜

  まーろっく

 路線図に無い鉄道を跨線橋で渡り、誰かの暗い夢に通じてい
る湿った複雑な路地を抜けると、そこがカン・チャン・リルダ
だ。胡弓弾きの女の歌や奇術師が吹き上げる炎に泡立っては消
えてゆく町さ。
 羊皮紙とともに朽ち果てた国や、逃げ水のなかで燃え尽きた
村から、何かが欠けちまった人間が廃れた街道づたいにここへ
やってくる。歪んだベッドに横たわる青い目の、褐色の肌をし
た女の寝息のなかにだけある町さ。
 首都のターミナルの、F番ホームから列車に乗せられて、カン
・チャン・リルダの駅でお前さんたちは吐き出される。みな一
様に妻と三人の子供を持ち、みな一様に痩せた性器をぶらさげ
て。流浪者や女衒や乞食の数千の手がお前さんたちを触る。老
いることができないここの住人たちがお前さんたちの頭髪に混
じりはじめた白髪を欲しがって。
 カン・チャン・リルダだ。忘れるな。標識につかまって立っ
ている片足の少年がいたら、傷口を触ってほどこしをするなら
わしだ。もしその子が立ったまま死んでいたら、ほおずき色の
かざぐるまを買って、供えてやることだ。影だけが残っていた
ら、コートをかけてやることだ。
 見事なキャタピラの跡がついている影を飾った未亡人の店で
飲んだあと、お前さんたちは夜の底にいくつも開いている娼窟
へ降りていく。そこにはどんなかたちの夜もあるが、みな等し
くどこか欠けている。腕や大腿や乳房や、あるいは顎と唇を欠
いた女を抱きながら、癒えた傷の、飴のように艶やかな断面に
やつれ果てた自分の顔を映すのだ。
 お前さんたちの肩に、いまや川原の石のように積み重なった
生活の記憶をもしその断面に取り落としてしまったとしても、
憂うことではないかもしれない。夜もすがら影を失ってカン・
チャン・リルダをさまよい歩く男たちの恍惚の表情を見るがい
い。
 何もかも見失って誰かの夢に迷い込みたくなったら、首都の
ターミナルのF番ホームをたずね歩いてみるといい。
 カン・チャン・リルダだ。忘れるな。俺が影を失くしてから
十年が経つ。


めざめ

  まーろっく

母猫はやせて、乳を与え続けるのだ
暗がりで大事に抱いた三匹の仔猫に
なかば閉じた目はもうなにも見ていない
死んでいるのといっしょなのに
それでも乳を与え続けるのだ

そうして今日、仔猫の目が開いた
米粒より小さな目が
深いブルーの宝石を沈めていた
それはわたしたちの世界に新しく開いた
六つの、小さな穴なのだ

外では桜がすっかり花を落として
舗道で雨に濡れている
四月の明るい雨雲の下で
若葉が声もたてず萌え出ている

そうして今日、世界は小さな六つの穴に
わずかずつ滴り落ちはじめる
母猫はやせて、それでも乳を与えるのだ
六つの穴の中にある暖かい暗黒を
やさしく前肢で抱いて


新芝川の散歩者

  まーろっく

新芝川は表情もなく澱んでいるばかりだ
かつて川口にコークスや鋳砂を運んだ
船のにぎわいをわたしは知らない
それでも住んで7年にはなるのだった
さえない小店主であるよりも
この土手の散歩者であることはよいことだ

わたしは煤けた灰色の作業衣を着て
昼休みには滴り落ちる汗をぬぐいながら
川の上空を見上げていた若い男であったことはない
今わたしが耳にするのはAMラジオの赤茶けた音声
錆びたトタン囲いの町工場に残っている
遠ざかりゆく20世紀の騒音

菜の花がまじる土手の斜面の草いきれ
わずかばかりの川原には葦が枯れたままだ
水門がある上青木で川筋は北に大きく向きを変える
川の西の地域には木造モルタルの古い住宅が密集し
その先の空間を褐色の外壁が断ち切っている
真新しい古代の建築としてそれは現れる

三つの銀のドームを持つ、それはしかしモスクではない
天文台とNHKアーカイブの複合施設なのだ
科学による占星術と映像の図書館
それを所有する王の横顔をわたしは知らない
そこでわたしたちの運命が予測され
そこでわたしたちの生死がつぶさに記録されるとしても

新芝川は古い一本のフィルムとなって流れはじめる
キューポラが吹き上げた赤い火の粉は咲くだろう
見知らぬ記憶に住む工員と家族はまだこちらを見つめている
旋盤は回転し金属の糸を永久につむぎ続けている
古い工場主の夜空には少年時代に見たB29が美しく燃えている
モノクロームの川面にはやがてわたしの影も映るだろう

高層ビルとセキュリティマンションが屹立する地平を
流れと澱みの速度で離れてゆくことは心地よいことだ
川口のうららかな春の午前は忘却ののどかさだ
古い一本のフィルムとなったわたしは問うだろう
流れ着く海はあるか?


機関車

  まーろっく

白い喘ぎ声は夕立のように降ってきた
公園の木立は身じろぎしてざわめき
回転をやめた遊具は聞き耳をたてる

母の横顔からあらわれる機関車
黒煙と蒸気のなかを進む黒い質量
線路の盛り土の上 貨車を牽いて

わたしの手はとうに風を孕んで
振られていた 母の背中で
汽笛を鳴らしてくれた 青い服の機関手

貨車の幾頭もの牛の目玉に
幾人もの母とわたしがいて
どこまでも赤い夕焼けを進んでいった

わたしが生まれた古びた二階家も
まちの菓子屋のガラス鉢も
水晶玉のなかで転がっていた

言葉はまだ見あたらず
にぎやかな音だけが耳にあふれていた
夜はまだどこにも訪れていなかった


五月 突風

  まーろっく

五月

わたしのなかを突風が吹き
新しい枝を揺らし
葉はいっせいに翻る

いく筋もの空行が草を分けて進み
口唇のかたちのみが記述を続ける

わたしは書きかけた一通の弔文を
部屋のテーブルに残してきた
開け放った窓のように
青い切手には雲が飛んでいた

南へ!
白い上着に風を孕み
目には光の痛みを突き刺す
それが5月の旅の始まりだ

街の角ごとに渦を巻く
人々の夥しい会話から
聞こえてくる夏の遠雷

きのう、安アパートの大家が死んだ
遠ざかりゆくすべての白い背中に向けて
棺の蓋は音高く槌打てよ!
       (父ちゃん七十三だったわ
         (お風呂で死んだのよ
             (ギュッとなって 
                 (ギュッと 

南へ!
葬列とともに心は北へ去れ
われさきに駆けてゆくわたしたちが
投げ捨てた重い鞄のように何も語るな!

五月
翻る数千の上着に
投げ込まれる夏の広告

五月
張り裂けた鯉のぼりが
数兆の精子を放つ夕焼け

華麗な客船のように五月は難破する

おお 叫喚のあとの全き沈黙
わたしたちの背を押し
この季節から誰もいなくなるまで
吹き荒れよ 突風!


  まーろっく


 刑務所の高いコンクリート塀に沿った道は、わたしの古びた
夢にまだ続いている。全てが鉛色だった。梅雨空も、長い塀も、
砂利道も。わたしは憂鬱な学生鞄をさげ永久にその道を歩き続
けているのかもしれない。
 道の片側は畑で、所外作業の模範囚たちがやはり鉛色の囚人
服を着て働いている。畑の中には養豚舎があり、荷台に柵をし
たトラックが豚を運び出すために時折り横付けされていた。そ
して、今しも一頭の豚が荷台に引きずりあげられようとしてい
るのだった。
 豚だって死ぬことは分かっているんだ。とわたしは思う。豚
は動物でさえない。より多くの肉を得るためだけにある家畜だ。
豚の精神など許しがたい。しかしどんなに人間が愚鈍さのなか
に豚を落とし込んでも暗愚な脳に光が射す時がある。
 豚は力いっぱい抗う。肢を踏ん張り、荷台に載せられまいと
して。腹には引き縄が巻かれ、四つの肢は男らにとりつかれて
いる。豚はなかば横倒しになり、身をよじっては荷台のあおり
板にからだを打ちつける。
 300キロ近くもありそうな大きな白い豚の肌は紅潮してい
る。あからさまに血の色を放ち、鉛色の空と、塀と、砂利道と、
おなじく鉛色の囚人とわたしを罵り叫ぶ。豚の甲高い鳴き声だ
けが刑務所の塀に響き、豚の波打つ腹の上だけに陽が落ちてい
る。そうして豚は運命の台に載る。
 一仕事終えた囚人のひとりがわたしに白い歯を見せて笑った。
やあ、こいつもこの世の見納めってやつさ。 労働の充足感と
家畜への嗜虐が彼を少し陽気にさせていた。
 豚はまだいくぶん興奮していたが、四つの肢を板張りの荷台
に落ち着けると精神は肉のなかで眠り込むようだった。豚の目
はうつろに鉛色の空をうつしていた。だらしなく涎が垂れてい
た。
 不意に刑務所の塀のなかから、駆け足の掛け声がたちのぼっ
た。大勢の男たちの声は広がることもなく、垂直に空にのぼっ
ていった。重い足取りで、それでも一日が回転しはじめた。
 


黒猫

  まーろっく

黒い仔猫には少年がとじこめられている
ぺちゃんこの鼻や、くりくりとした群青の瞳が
「おっちゃん、あのな…」と話しかけてくるのだ
だからぼくは怪しいおっちゃんになって
おまえの手を引いて歩く
甘いお菓子や風船でなだめながら

路面電車の停留所でおまえはかあさんを探す
それはぼくの女房だったかもしれない
けれどいつまでたっても電車は
おまえのかあさんを運んでこない
時折パンタグラフに雨雲をひっかけてくる電車を
おまえはうっすらと涙をためて見るだろう

真っ赤な影を引きずって歩くぼくは
どうせ白い目で見られているのに決まっている
ふるさとの人々に忘れられた人間はそんなもんだ
しかしなんという懐かしい街角だろう
虫かごや風鈴も雑貨屋の軒先にまだ揺れている

ぼくは街を歩きながら何度も確かめる
黒い柔毛が密生したおまえの小さな手が
柔らかい子供の手になりかわっていないかと
だがおまえはやはりしっぽを振りたてて
ちょこちょことぼくについて歩く

ぼくらはゆるい上り坂の頂上に向かって歩くのだ
ぼくが歩いてきたすべての路地を見せるために
そこでぼくはおまえに話すつもりだ
ひとりきりだが歩くだけはずいぶん歩いたと

太陽はもう輪郭さえなくなっている
箱庭のような田舎町には灯がともり始めている
けれどぼくはなぜかあきらめきれなくて
真っ赤な羊水を浴びた少年を
おまえの黒い毛皮から引きずり出そうとする
ぼくの子供がこのまま猫になってしまうのが
ただ恐ろしくて


寂しき者の歌

  まーろっく


夜の底を川が流れておりました
桜の古木は咲いて
花を散らしておりました

寂しき者がふたりして
抱き合い眠っておりました
指をからめておりました

いや、眠っていると見えたのは
もうなきがらでありました
肌に触れる花びらもくすぐったくはなく

いや、ふたりと見えていたのは
やはりひとりでありました
誰もいない夜をもう悲しみようもなく

寂しき者のなきがらは
ほとんど桜に埋もれて
あたりは静かでありました

それでも花は降り積もり
清い砂礫を川が運び
花が埋めて砂が積もり
やがて寂しき者の丘ができ

寂しき者の丘にマンションが建ち
マンション建ってともし灯ついて
丘いちめんにともし灯ついて

星空に舞い去っていくのでした


灯台

  まーろっく

若くして死んだ男のことを
思い出す ただそれだけのために
過ぎた歳月のぶんだけ遠く
いつか旅してみたい

それもどこか南の灯台で
あの遠い日を悔いていたい
世界の誰からも見つからぬように
抱えた膝に顔を埋めていたい

厚いコンクリートの塔の内側で
叫びだしたい思いにさいなまれていたい
吹きすさぶ風と立ち騒ぐ波の音に
ただ聞き入っていたい

紅い椿は千切れ飛んでしまえ
海鳥の翼も折れてしまえばいい
わたしの灯台は冷たい光を放ち
おまえの知らない秋をまねくのだ

若くして死んだ男のことを
思い出す ただそれだけのために
白髪のようなススキの穂に
いつか覆われてみたい

おまえが死んだ北の岬は冷たすぎるから
せめてどこか南の灯台で

文学極道

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