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みつとみ (光冨郁也) - 2005年分

選出作品 (投稿日時順 / 全16作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ミニ扇風機

  光冨郁也

 女の声が頭の中に響く。澄んだ高い声。日に日に声は大きくなるような気がする。声を聞く以外、わたしには何もできない。偏頭痛がしそうで頭を振る。空き地に捨てられた車がある。栞を座席の上で見つけ、車の中に入り込んだ。誰が落としたのか。栞を拾う。青いインクのイラスト、髪の長い女がぶれてプリントされている。いつも携えている本に栞を挟む。女の声が消えていた。女の声が届かない場所を見つけた。車から出ると、また女の声がする。
 休日の昼下がり、曇った眼鏡をシャツで拭く。手の届かない空の下、車に向かう。白のセダン、前輪のタイヤが外されている。コンビニで買ってきた袋を持って、ドアを開ける。埃っぽいシートに座る。ジーパンの後ろポケットの文庫本を出し、助手席に放る。ページが宙でめくれる。神話のエコーのページが開きかかる。青いイラストの栞が外れ、本は閉じた。すれた表紙がたわむ。本を手に取り、栞をはさむ。助手席に本を置き直す。ダッシュボードを探る。車のキーはない。ドアを閉め切る。暑い。曇ったフロントガラスから空梅雨の空を眺める。サイドの窓を開ける。空は青かった。シートを少し倒す。コンビニの袋を開ける。カレーパンとチョコレートパン、それからパックのコーヒー牛乳。
 食事を終えると、暑いので外に出る。女の声が流れ込んでくる。近くのデパートに向かう。デパートで涼みたかった。途中、コンビニの前でゴミ箱に袋を捨てる。空を眺めながら歩く。

 女の声が響くデパート。CDやDVDの売り場でタイトルを見る。邦画のキレイなパッケージのものがあれば手に取り、裏返し、また元に戻す。その繰り返し。そのあと、パソコンの売り場を眺めながら通り過ぎ、玩具売り場にたどり着く。フィギュアやプラモデル。モデルガン。女の形をしたフィギュアに触れた。しばらく見つめる。風が来た。近くにプロペラが回る、ミニ扇風機のオモチャがあった。手に持つ。風を受ける。青いスケルトンのボディ。透けたボディから乾電池が見える。女の声がいっとき止んだような気がした。ミニ扇風機の箱と、レジのそばの棚から乾電池を一緒に手に取り、買った。女の声が続く。空き地に戻る。車の中に入る。女の声は止む。フロントガラスから青い空、蒼い海を見渡す。

 箱から取り出し、ミニ扇風機に乾電池を入れ、電源を押す。風が来た。車の中で、フロントに扇風機を置き、文庫本に手を伸ばすと、本がこちら側に押し出される。強い風でもないのに。手に取り読む。エコーやナルシスの話を繰り返し読む。目が疲れると、シートをさらに倒し、眼鏡を外し、うたた寝をする。扇風機の遅く低い音がうなっている。

 まだミニ扇風機の電池は切れていないが、回転が弱くなっている。眼鏡をかけ、電源を止める。車から出て、自分のアパートに向かう。女の声が追いかけてくる。部屋に入る。ここでも女の声。乾電池を何本か持っていく。また空き地の車へと戻る。声の止んだ車の中で、扇風機の電池を入れ替え、電源を入れる。ミニ扇風機のプロペラが回る。青い栞が本から外れ舞う。

 フロントガラスを隔てて水平線を見渡す。西日が差し込む。まぶしい。助手席にひとの気配がある。上半身の輪郭が透けて見えた。横顔の表情はよく見えない。扇風機の風に、長い髪がそよぎ、光っている。女か。そばにいたから声がしなかったのか。車の中で、声はせずに扇風機の音がよりそっている。

* 投稿時の名前は「みつとみ」


バード

  光冨郁也

 一人でいることに、何年も飽きなかった。シートの、海に伝わる神話を読みながら、永く暇をつぶしていた。精霊の女、の横顔の表紙。空腹の中、海に向かう道、カセットで、オペラを聴きながら、わたしは車を走らせた。食事をとる場所を探す。風が、目に当たる。細める/道の脇/女の顔が転がる。ブレーキを踏む/ハンドルを横に切る。
 女の顔は白い。軋むかのような声で、鳴いている。翼を抱えて、鳥の体の女はわたしの目を見て、鳴く。光る目が、心に残る。ドアを開け/風が流れ込み/鳴く。それに近寄る。歯が白いが、鋭く、わたしのほうに転がる。わたしは屈み、抱きかかえる。
 シートで、女の顔を押さえる。鳥の体は羽毛が柔らかい。片方の翼を痛め曲げている。
「ハーピーか」と、わたしの声に女は鳴く。
 それは、ひとの食事を邪魔するだけの存在だが、わたしは後ろのシートから、乾いたパンを出し、カップの牛乳に浸し、与える。女は笑うような目で、わたしを見上げる。わたしの股の上で、喉を動かす。次第に、激しく、水分をふくんだパンを、くらう。髪は赤茶で、ウェーブがかかる、その線にわたしは触れる。女の体は重い。

 わたしは、女と車を走らせる。風が、女を喜ばせる。笑い声がする。ただ走っているだけなのに、うれしいらしい。海が眼下に広がる。崖/ブレーキ踏む。ハンドルを静かに回す。鍵のアクセサリーの翼を、女は唇でつつく。わたしを見ては、何か言いたげに、ねえねえ、と目で話す。
 どうすれば、この時間を延ばせるか、わたしは、女の頬に指をあて、撫で続ける。
 雨でも降るのか、窓からの風は湿り、辺りは薄暗い。無言の時間が過ぎる。サーチライトをつける。舗装された道が続く。何年かぶりに女と話したくなる、が言葉はない。車内の沈黙に、ラジオをつける。
 DJの声はなく、歌声がある。
 ラジオに、女は聴き入る。女の横顔は、本の表紙の精霊に似ている。首を伸ばし、翼を拡げる。目が青く、海を思わせる。その深み、に触れたくなる。
 女は歌う。白い喉が震えている。その声は、わたしを眠りに誘う。ひとに死をもたらす、セイレーン、であるかもしれない。
 向こうから、ひとをおそう、女の仲間が来る、前に、わたしは、ラジオのボリュームを上げる。アクセルを踏む。女を窓から放り捨てるべきか迷う。片手で女の口をふさぐ。女が指にかみつく前に、わたしの体は眠りに傾く。

(死ぬな、これは)
 ハンドルを切り損ね/道の脇/落下する。

 女はそこにいた。シートに、挟まれ身動きできない、わたしの胸の上でうずくまり、頭をこすりつける。頬と頬がすれあう。女は鳴いた。わたしは夜の曇った空に、女の仲間が来ていないことを知り、はぐれた者同士、そのままの姿勢で、朝まで眠ることにした。携帯電話、を持たないわたしは、誰にも連絡をとれない。遠く、で波の音だけがする。キーを回す、がエンジンは動かない。キーの、折れ曲がった銀の翼が揺れる。本を台にして、コップに水を注ぐ、暗がりの中で。二人だけの沈黙に、女はむせぶ。

 女の目は濡れている。その縁を指で、たどり、こもるような声をかける。寒い暗がりの中で、わたしと女は互いの体温だけを頼る。片方の翼を、わたしは撫で続ける。
 女は笑うように、目をつむる。


空き地

  光冨郁也

 わたしには女の声が聞こえる。誰にも似ていない声。でもひとには話さない。話す相手もいない。流木の散らばる砂浜。わたしはひとりで波間を眺める。ジーパンの後ろポケットに突っ込んだ神話の文庫本。もう何度も読んだ。あの日、海で溺れかけてから何年も経った。わたしはバイト先を転々としながら、生活を続けている。流木は裂けて白くなっている。砂浜にはひとはいない。あっただろうだれかの足跡は波で消えている。みんなどこかへ行ってしまった。わたしだけがここにいる。

 風が強い。波が荒れている。今日も流木が一本流れ着いた。砂浜に打ちよせられる。ひとの腕くらいの大きさ。わたしは近より、手をつかむように引き上げる。女の腕くらいの重さだ。シューズの中に海水が流れ込む。乾いた砂浜まで持っていく。気に入ったので空き地までその流木を運ぶ。抱えて坂道を上る。ときどき思うことがある。バイトの倉庫の作業中、頬杖をつく送迎バスの中、文庫本を開いて電車待ちをしているホーム、眠れないアパートの部屋の中。思うことがある。思ってみても仕方ない。

 そして空き地。丘の上、海を見下ろせる場所。少し離れたところに森があり、その入り口近くの崖に、昔の防空壕がある。この空き地にはひとがいた形跡がある。中身の入ったコンビニの袋が捨てられている。わたしは新しい流木を置いた。まだ黒く濡れている。以前あったスクールバスのカフェはなくなった。失われた黄色い車体。すみに別の白の乗用車が乗り捨てられている。タイヤが外されている。前より空き地のスペースが広くなり、その分、わたしの流木が増えた。空白を埋める腕に囲まれる。いくら集めても何にもならない。そんなことはわかっている。でもわたしは集める。流木の林。

 天気雨。風が強い。わたしは空き地の中心にタイヤを置いて座る。チューニングをするように、指で宙を探る。しばらくすると、女の声が聞こえてくる。女は意味のとれないことをしゃべりつづける。わたしは黙って聴いている。わたしが話しかけても、木霊のように同じ言葉しか返さないから。女は笑う。雨が降り注ぐ。シャツが濡れる。ポケットの文庫本は大丈夫だろうか。空は青い。わたしも笑う。女の声を聴きながらもひとりでいるのが、楽しいから。


ブルースカイ

  光冨郁也

 冬になり、女の顔をしたバードは飛び去った。わたしは、あの時の車をスクラップにして、海の見渡せる丘に部屋を借りた。情報誌でバイト先を見つけた。倉庫の仕事に就く。朝七時半、精神安定剤を飲んでから、家を出る。伝票に従い、棚にパソコンの部品を入庫する。夜八時半、家に帰り着く。休みの日は浜辺に出て、流木を拾う。

 わたしは日曜日、干してある緑の作業着をよけて、ベランダから海を眺めていた。
(今日も流木を拾いに行こう)
 わたしは部屋の鍵を閉める。洗いざらしのスニーカーをはいて、外に出る。今日は、空が低い。乾いた舗装道路を渡り、砂地の枯れ草の上を歩く。休みの日は午前十一時から外に出る。西日になる前に、部屋に戻る。それまでに流木を拾って、昼食をとる。

 遠く水平線に白い波が光っている。潮の香りがする。吹く風に、紺のダウンジャケット、ジッパーを胸元まで上げる。波打ち際を歩く。白い枯れ木を一つ見つけて、拾う。枝に小さな海草がついている。枯れ木を持って、また歩く。スニーカーの中に砂が入る。丘の上、スクールバスを改造したカフェに向かう。タイヤを車止めで固定した、黄色い車体。銀のプレートの看板。
 バス裏手の空き地、枯れ木の枝を置く。空白を埋めるため、わたしが置いた流木がいくつか傾いている。
 バスの階段を上がり、中に入る。腕時計を見ると、十二時半。カフェで、サンドイッチとホットコーヒーを注文する。わたしは本棚から、読む雑誌を探す。手に取り読む。活字に疲れると、窓の向こう、バードが飛んでいた空を見る。青い空に、翼が羽ばたく姿を思い出す。集めた枯れ木や流木に、風が砂を吹きつける。
(空の青さを取り戻すために)
 砂に生える枯れ木。その上に広がっている、窓越しの遥かな空。風が吹く。わたしが枝に付けた、バードの羽根が揺らめいている。その女の顔を思い出す。

 わたしは振り返る。ドアのガラスに、切り取られた冬の、薄い空の形。


  光冨郁也

 冬はまだ続いている。海からの光で、部屋は青に包まれている。神話の本を繰り返し読んだ。岬には女の顔をした鳥、ハーピーがいるという。元は風の精ともいわれている。そのハーピーが舞う岬から、水平線の彼方を見てみたい。

 朝、薬を飲んでから、部屋を出る。鍵を閉めた。
 ヘルメットをかぶる。コート姿で、リュックを背負い、アクセルを吹かす。スクーターを走らせる。風が眼鏡にあたる。薄い雲が空にのびている。舗装道路。エンジンの音が続く。
 左手には海岸線がある。白いガードレール。右手の雑木林、時折、建物が見える。岬までの、距離を示した標識を過ぎると、地図で確認した峠がある。乗り越えれば、岬に立てる。坂道に、アクセルを吹かす。
 危ないので、バスに道をゆずり、4WDに追い抜かれ、岬の近くに着いた。雑木林の脇にスクーターを置く。鍵を抜き去り、ヘルメットを置いて、岬に向かって歩く。空に揺らめく影。
(あれは何の鳥だろう)
 茶色の翼の鳥が小さな群れを作っている。展望台と店がある。
 階段を上がり、店員にポップコーンを注文する。品をもらい、展望台の階をもうひとつ上がる。
 ふいに羽ばたく音がある。茶色い翼の、鳥が目の前に飛び込んでくる。
(ハーピーだ)
 わたしは身をすくめる。手にしたわたしのポップコーンをハーピーがさらう。反射的に、手を隠す。ハーピーが群れをなして上から横から、茶色の翼を羽ばたかせている。

 もう少しで、岬に立てる。
(この先に何があるのか)
 浜辺を歩いた。風が吹く。わたしの背後から、ハーピーたちが群がり追い越していく。羽ばたく音を聞きながら、わたしはいつまでも曇った空を見上げている。女の顔が浮かぶ。
 岬に立った。その水平線の彼方は、微かでわたしにはまだよく見えない。わたしは片手を上げて、雲を消し去る風の精を呼ぶ。来てくれるのか、青の中に戻されるのか、わたしにはわからないけれど。


  光冨郁也

 春も夏も秋も、わたしにとっては短かった。あれから一年が過ぎ、長い冬がまたやって来た。失業し、仕事を探している。
(しばらくは会社に行かなくてすむ)
 わたしの元へは戻ってこなかったものもあった。

 情報誌を買いに朝、家を出る。砂浜とは反対の方へ歩いていく。アスファルトが靴を通して固い。目の前を走り去る車。セーターの上のダウンジャケット、ポケットに乾いた手を入れ、曇った空を見上げる。無風の朝。風の音もしない風景。バードのいない空。
 ポケットから手探りで、硬貨を取り出し数える。商店街へ向かう。コンビニまでしばらく歩く。赤い郵便ポストの角を曲がり、コンビニに着く。棚の前に立ち、アルバイト情報誌を手にし、それからほかの雑誌の表紙を眺める。手の甲であくびを隠す。ずれた眼鏡のフレームを上げる。情報誌の発売日を確かめる。情報誌とホットコーヒーを買った。外に出て、来た道を戻る。
 砂浜近く、道の脇、コンクリートの上に腰を下ろす。コーヒーの缶が熱い。缶を開ける。誰もいない部屋にはすぐには戻りたくはなかった。ひと気のない砂浜。
 コーヒーを飲む。缶を置き、情報誌をめくる。明日からフォークリフトの講習に行く。荷を上げ運ぶリフト。そのフォークリフトの仕事を参考のために探す。この近くにあるタバコの配送会社の倉庫。時給千円。フォークリフトとしては割がよくない。
 飲み干して空になった缶をコンビニの袋に入れ、情報誌を片手に、砂浜を歩く。打ち上げられた流木をつま先で軽くける。流木の上に立つ。腕を開いて重心を取る。飛ぶ形。風が吹くのを待つ。曇り空を見上げる。女のバードが飛んでいた姿を思い返す。
 砂浜に腰を下ろす。くすんだ海の上、曇った空は、冬の色。波があふれてくる。遠くで風の音がし始めたが、ここには吹いてこない。
(女の顔をしたバードは幻、もういない)


マーメイド海岸

  光冨郁也

 冬は好きではない。失業してから外出が減った。TVを見るか寝ているかだけで、二ヶ月が過ぎた。TVでマーメイド海岸のCMを何度も見る。海面から顔を出し泳ぐマーメイドの姿。面接や職安にも出かけるが、就職先はなかった。フォークリフトの免許は取ったが、作業が不得手で資格を使う気になれなかった。わたしにできることは何もない気がした。

 朝、またTVのCMを見た。海岸からTVカメラに映ったマーメイドの笑顔。信じられなかった。昼近く、部屋を抜け出し、バスに乗る。乗客は少ない。買ったばかりのジャケットを着て、北の海岸線に向かう。他に着ていく機会がなかった。伝説によれば、そこにマーメイドがいる。観光地になっている。寝すぎて頭にかすみがかかったよう。窓に頭を預け、外を眺めていた。空は曇っている。軽い偏頭痛がする。口の中が渇く。
 一時間近くバスに乗っていた。マーメイド海岸のバス停で降りる。冬の平日なので、ひとがまばらだった。白っぽい道を歩く。掲示板から観光案内のパンフレットを手に取り、海岸に向かう。カラー刷りのパンフレットの薄い紙。

<マーメイド(女)は人魚の一種で、海に生息しています。髪は長く金色で、瞳は緑色です。伝説では海難事故を起こすと恐れられていました。マーマン(男)と一緒に現れることもあります>

 マーマンも髪が長いのだろうか。マーメイドがいるわけがない。いくつかの閉ざされた売店。
 オフシーズンの海岸を歩く。黒っぽい岩をつかむ。白い波が岩に打ち付けられる。わたしはバランスをとりながら、海岸でマーメイドを探す。あたりには誰もいない。波しぶきが上がった。顔にかかる。手でぬぐう。ジーパンが波で濡れてしまった。冷たい潮風に凍える。息がわずかに白い。いるわけがない、そう思いながら海を見た。

 突然、遠く波間で、何かが耀いた。
(あれは何だろう)
 よく見ると、波に金色の髪が見える。やがて光は消え、海面に尾ひれが上がる。紺色の海がうねる。マーメイドは本当にいるのかも知れない。波が押し寄せる。海岸を歩いた。濡れたジーパンをひきずり、少しでも近づこうとする。
 波打つ海に、また金色の髪が見え隠れする。海から風が吹き付ける。遠く稲光がして、雷が鳴った。

 わたしは立ちつくしていた。しばらくして、風がやんだ。波の音も消えるころ、金色の髪に雪が降り始める。


海の上のベッド

  光冨郁也

 点滴を打たれながら、病室の窓から海を眺めていた。看護師が言うには、わたしは雪の降り積もる中、マーメイド海岸でひとり倒れていたらしい。音もなく波が白くよせている。意識が戻って二日たった。熱が下がらない。
(わたしはどうしてここにいるのだろう)
頭が痛い。片手をつかい、ティッシュで鼻をかむ。丸めたティッシュをゴミ箱に捨てたら、外れた。視線を落とすと、床が水で濡れていた。二人部屋の隣のベッドは空いている。その隣のベッドの下まで水がきている。どうして。点滴は半分になっている。そばの台の、TVの横に装置がついていて、カードを差し込むようになっている。残り時間の少ないカード。することがなく、TVをつける。イヤホンをつける。
 ワイドショーのニュースが放送されている。ずっと眺める。評論家が何かコメントしている途中でCMにはいった。

 紺色の海。空は曇っている。ひとりの青年が海岸を歩いている。マーメイドが姿を現わす。〈マーメイド海岸〉の文字と音声。

 TVのカードの残り時間が切れた。電源の切れた暗い画面に、自分と背後の窓が映る。たわむ色のない世界。物音しない病室。点滴はもう液がなくなりかけている。そろそろ看護師が来るころだろう。二の腕にさしている点滴のチューブを見つめる。透明な液がわたしに流れている。
 何かの気配があったような気がした。イヤホンを外す。TVとは反対の窓のほうを見る。
 女がベッドのわきにいた。動きがとれない。女は長い爪でシーツをつかんでいる。女は手をのばし、わたしの自由のほうの二の腕をなでる。女の手は濡れて冷たい。女は顔を近づける。緑色の瞳がわたしをとらえる。しばらく見つめ合った。キレイだ。海の底、深く透明な色をしている。女は、

 ノックとともにドアが開く。看護師が点滴を片づけに来た。熱をはかるよう体温計をわたされた。体温計を受け取り、脇にはさむ。時間に追われる看護師が退室する。白衣の後ろ姿、閉まるドア。TVの暗い画面に映る、わたしと女。女のほうに首を曲げる。女の肩口から、大きな尾びれがゆっくりと上がる。床に海水が満ちてきて、波打っている。ベッドの周りは海だ。紺色の海。電子体温計が鳴る。空気が冷えてくる。室内に小雪が降り始めた。寒い。女は、体温を求めるように、指をからめてきた。女の髪がわたしの頬にかかる。緑色の瞳。被さる女。唇がふさがれる。震える。静かに、電子体温計が海に落ちた。

 海の上のベッド。もうすぐわたしは、女に海の底へとひきずりこまれる。海の中は思ったよりあたたかい。


霧(ミスト)

  光冨郁也

 女はわたしといっしょに海の中に入りたいと言った。女には尾びれがあり、わたしには足があった。わたしたちはあのとき、海に入っていった。女が先に進み、わたしは後ろからついていく。波が胸元まで来たところで、手を握りあい、先に進んだ。波は繰り返しやってくる。小雪はやみ、霧に変わった。
 気づけば、わたしはまた病院のベッドの上にいた。
「−−さん、あなたは漂流していたのよ」
 看護師はそう言って笑う。

 診察室で医師と向かいあう椅子から、外を眺めていた。わたしは島の近くを漂流していたらしい。その話を医師から聞いた。マーメイド海岸から船で一時間ほどの距離。歩いては渡れない。
 看護師は、体温計を持ってくる。薬がなくなったので置いていく。わたしはコップの水を飲む。パジャマに水がこぼれる。薬を口に含み、また水を飲む。
 看護師は、点滴を打ちにくる。わたしはいつもトイレが近くなる。点滴スタンドを動かしながら、部屋を出る。廊下を歩く。前にも歩いていたような気もする。誰もいない廊下は、長く感じる。
 点滴のチューブを血が逆流している。透明な液に血がまじる。霧のよう。わたしは用を足し、ゆっくりと部屋に戻る。
 窓からは海は見えなかった。
 けだるい。テーブルの上の薬袋。ここの病室にはTVがない。個室のベッドでCDをヘッドホンで聴いていた。誰かの忘れ物を借りた。その音楽を聴いていると、体が揺らぐ。波間にいるよう。

 目が覚める。トイレに立つ。汗をかいている。誰もいない暗い廊下を歩く。用を足し、水を流す。蛇口をひねり、水を出し、手を洗う。鏡で自分の顔を見て、部屋に戻る。眠る。目が覚めそうになる。わたしは何かを考えている。何かを話している。でもそれが何なのか、わからない、つかみきれない。そのまま、何かが流れていってしまう。
 波にもまれる。何かが消えていきそうになるが、今度は忘れない。女の手がわたしをつかむ。海の中、わたしは、握り返す。波がわたしを押し返す。手が離れてしまう。漂う。わたしは仰向けになる。空を見上げながら、流される。どの位たったのだろうか、頭と背に砂地の感触。わたしは再び、霧に包まれた。

(わたしは漂着したのだろうか、それともまだ漂流しているのだろうか)


バラ線

  光冨郁也

銀色の刺に、凍える、空気は、
青い空の下で、
白い、息をつき、声がもれる、
頬の骨に、拳が石のようにあたる。

わたしは、
バラ線を後ろに、殴られる。
放り出された、ランドセルの黒い光。
ふった手の指を、銀の刺で切る。
数人の笑い声を後に、
片方、靴のぬげた足を、見ながら、
膝を曲げて、土の上で丸くなる。
鼻をすすりながら、体をゆすっていた。
後ろに首を曲げる、
バラ線が、銀色に光る。

学生鞄を投げつけられる、体育館。
ブレザーをひっぱり、
何度も、級友たちが、
わたしに群がり、床に倒そうとする。
遊び半分のしつこい、数人相手に、
わたしは、声をあげて、つかみ、
(本気で)蹴りをいれ、腕をあげる。
見上げる高い天井が、回転し、
目に見えるものが、入り乱れ、
ネクタイが舞う。

/殴られ/
目を・見開き/
わたしの/腕の・白い包帯/
教師の・叱責する声/
校舎の・裏で/蹴られる/
わたしの・手の・ひらに/鉛筆が・ささる/
教室の・床に/点々・と・落ちる/
血が・黒い/
(みんな・敵・だった)//
床に・頭を・うちつける/
ジャムだらけの机の中。

わたしは片膝を落とし、
こらえ、姿勢を立て直す。
囲む影に、声が共鳴する。
彼らの一人に、ターゲットをしぼり、
腹に拳をいれ、
かがんだ背に肘を落とす。
動きのとれにくい中に、
繰り返す蹴り、床をはう彼の、
「なんで・俺ばかり・狙うんだ//」
悲鳴に近い、ふてくされた声。
頭を抱え、うずくまる彼は、
蒼白の、わたしの姿だった。
わたしは、
わたしに、
蹴りをいれつづける、
足がしびれる。
顔をしかめ、目を見開き、
喉をつまらせながら、
わたしは、
わたしの背に、痛みを与えつづける。
沈んでいく、体が重い。

小さい手で、
花のない刺に、自分の指をからめる。
残りの靴をひきずり、ランドセルを拾い上げ、
だれもいない道を、歩きだしながら、
わたしは下唇をかみ、
空をあおぎ、肩をゆすり、
声をふるわせ笑う、空気がゆれる。
わたしの握り締めた、
声のだせない、バラ線。
その向こうには、
雑草にゆれる空き地に、
石の上に、放られた靴のかたわれ。


淡水魚

  光冨郁也

七月の雨、
アルバイトの休日、
自らの髪をかきあげる。
爪から指の間に、流れる。
部屋には、青い光の点滅がある。
わずかに開けた窓からは、水の音がする。
身体を曲げて、寝返りをうつ。
手を伸ばし、コロンのビンをとる。
なめらかなビンの感触。
指をからめる薄い幅の形。
青いコロンを、
胸にかけ、手を床に落とす。
微かに霧が、空中をただよう。
白いカーテンから、もれるのは、ぼやけた光。

テーブルの上の、水槽に、
一匹だけの、ベタが、
長いひれを、ひらめかせて、青い。
水草の気泡がゆれる。
ガラスのケースに、水滴がついている。

外は雨音。うたたねを繰り返す。
自分の肌に頬をつけ、
寝返りをうつ。風がある。

ベタが水面から空気をとるため、
顔をだす。
ゆっくりと、息をして、
水槽の底に沈む。
ほかのベタと一緒だと、
一匹になるまで争う、
闘魚。

水草に隠れて、
泡だけがこぼれるように、
水面に向かい、小さく壊れていく。

目を開けると、外は夜の激しい雨。
わたしは、自分の肩を抱いている。
先日の、入庫のアルバイトで、
知らずに痛めた肩が、はれている。
フロアで、
わたしと視線を合わせる女が、ちらつく。
(何でわたしを見る)
喉が渇くので、
氷水をつくりに部屋をでようと、
ベッドから起き上がる。
そのまま、腰かけ、
息を吐く。
指先で筋肉のほてりを押さえる。
肩からしびれる指先までの、
輪郭が、青い光の点滅で浮き上がる。
拳を握る。
窓から雨が降り注ぎ、床にはう。
わたしの夜の、静かな、沈黙。

足元が濡れている。
女の形の水草が、頭を上げる。
足首をつかむのは、
あふれてくる、水草の手。
腰に、水草の脚があたる。
わたしの肩に、水草の腕がまわる。
わたしの首に、顔をうずめる。
唇の形を確かめたく、
わたしは、水草のあごに指をかける。

紅に塗られた輪郭に、爪がすべる。
水草の目を見つめる。
水草の透明な瞳を通して、
夜の風だけが、覗ける。

ひんやりとしたコロンの、
ビンの中に、
わたしはやがて、閉じ込められる。
指をからめられ、
水草と結ばれるように、
長いひれをなびかせて、
水面から顔をだし、
わたしは、息をするために、歯を見せる。


  光冨郁也

祖父のあとをついていく。

海を見渡す墓地で、親せきたちが鎌で草を刈る。わたしも草を刈る。

母が野の百合を、見つけ出した墓に供えた。

波は白い。


点のカイト

  光冨郁也

江ノ島の砂浜で、
少年だったわたしは、
父とカイトを、飛ばした。
父の、大きな背の、
後ろで空を見上げる。
埋まる足元と、手につく砂。
潮風に乗って、
黒い三角形のカイトは、
糸をはりつめて、遠く浮かぶ、
追いつくことのできない、
二人で見続ける、
空の点。

ヘッドホンで、
CDを聴く夜。
不安をやわらげるため、
処方された漢方薬、
薄い茶色の、舌にはりつく、
顆粒を、
ウーロン茶で、二回にわけて、飲む。
オウム貝の、ライトの明かりだけで、
眠くなるまで、
ベッドの中から、
床のすみに放られた、
アルバムを手にする。
オレンジに照らすページを開くと、
正月に、江ノ島で遊ぶ写真があった。
腰を曲げ、
黒いカイトの糸をほどく、父と、
紙袋を後ろ手にしている、わたし。
それぞれ、帽子をかぶり、
色黒の父と、
色白のわたしが、
カメラのレンズの側の、
母に向かって、笑っている。

半身を起こし、
わたしの横顔を、
ストロボより激しい、
カミナリの光が照らす。
腕を伸ばし、窓を開け、
二十年は会っていない、
亡き父はどこかと、空をあおぐ。

いま、
黒い点が拡がり、
巨大なカイトで覆われた、
夜の空から、雨が降り注ぐ。
カイトのビニールにあたる音。
わたしは、枕元のライトで、
一眼レフの脇の、
紺の帽子を探し、かぶり、
湿った風の匂いに、
こぼれた薬が、
胸もとに散らばり、
さわってみると、砂の感触がある。


漂着

  光冨郁也

    


 揺れている。揺れている船の上、喉が渇くので、ペットボトルの口を開ける。ミネラルウォーターを飲む。
(ひたすら漂いたい気分だ)
 わたしは退院後、船で島に向かっていた。誰もいないところに行ってみたかった。風が吹いている。甲板の椅子にすわり、海を眺める。曇った空に波立つ海。わたしは立ち、手すりに近づき、そこから薬を海に捨てた。錠剤の入った銀や金のパッケージが風にあおられ、光っては波間に消えていった。

 その日の午後に港に着き、民宿に泊まった。簡素な料理を出してもらった。赤い刺身に、白いご飯。
 見たこともないバラエティ番組、地元のローカルTVを見ながら食事をとった。霧の日に無人島が現れ、そこでマーメイドが出没するという。タレントの驚いた顔。フロに入ると、窓から海が見える。波の音を聞く。
 天井を眺めていた夜、薬を飲まなくても、いつしか眠っていた。

 朝、霧の中、ペットボトルを持って、島のまわりを歩き回った。さまよって、海岸を歩く。ぼんやりと岩の上で海を眺めた。
 わたしは服を着たまま、ひとりで海に入っていく。漂いたかった。手を拡げ、しばらく浮かんでいたが、潮に流される。ペットボトルもどこかへいってしまった。もう必要ない。水を吸い、ジーパンが重い。体も冷えてきて、自由がきかない。わたしはじきに沈んでいってしまう。

 海の底では時間が滞っているのだろう。沈んでいってしまう。それでもいい。海水を飲む。ふいにだれかが、わたしを抱きかかえた。大きな尾びれが、わたしの体を海面へと引き上げた。わたしは水で咳き込む。
 女だった。女の緑色の目が、わたしに泳ぐよう、うながしている。女はわたしに手を回して、島とは反対の方向の沖へと向かった。彼方に別の、小さな島の影が見えた。例の無人島かもしれない。女の手を握り、わたしも力なく、泳ぐ。海水が目にしみる。

 どのくらいか進んだのだろうか。霧に島の影が消えている。空がやけに低い。雨が降りそうだ。振り返ってみたが何も見えない。方向を見失ったらしい。次第にかったるくなる。漂いたかった。
 わたしは握っていた女の手を離した。女は振り返ってわたしの顔を見ていたが、しばらくして無言で潜っていってしまう。愛想をつかれたのか、それとも島を探しに行ったのか。波が来るたびに、浮かんだり沈んだりを繰り返す。まばらな雨粒が顔に当たる。仰向けになり、ぼんやりと雨空を眺める。冷たい風が吹く。弧を描く水平線に囲まれている。わたしはひとりだ。さびしいが、それもいい。

 霧が晴れたころ、海面に尾びれが上がる。回転し、再び顔を出した女が、現れた島を指さす。女はわたしに、もう片方の手を伸ばした。それもいい。
 わたしは女の元へと漂着する。


スカイライン

  光冨郁也

手で、ずれた眼鏡をあげる、八月の、水をふくむ、曇り空。閉鎖された父の勤務先、N社の自動車工場の脇を通り、母の自動車で、霊園に向かう。いままで納めることのできなかった、父の灰が、眠っている。わたしは、新しい眼鏡をかけて、暑い日の、風が、短く切った髪に、距離を教えてくれる。昔、山口から離れて、転々とし、三人ではじめて来た、神奈川の小さな町、住宅地に変わった、かつての田舎道を走る。

走る。風が、熱い。買ったばかりの半ズボンに、袖なしのシャツが、風にはためく。地平の彼方には、見えないものがある。耳に風が音をたてる。母は目の前の車が遅いと、ハンドルを握りながら、怒っている。わたしは黙って、頬を支える手の脇から、外の流れる市街を見る。

 団地の狭い部屋、
 母は、わたしに声をあげ続けていた。
 その夜、母は、
 トイレで、
 嗚咽しはじめる。
 動けないわたしの、
 手の汗で、布団が濡れる。
 わたしは、近所にあずけられた。

 翌朝、父がわたしを迎えにくる。
 はれた目をこすり、
 わたしは、強く、父の手を握る。

(お母さんは帰ってこなかったお父さんも会社からまだ帰らないぼくしかいない部屋ぼくはひとりで窓の外の明かりかわいたおにぎりをかじるひとつだけもつあとは鏡台の裏に隠す味がないだれもいないだれもなにも言わないぼくだけ鍵が落ちるぼくは息をひそめる雨の音がしはじめる外の明かりでぼくはコップの中の水を飲む)

 母が退院して、
 引越をした。
 日がさしこむ、床。
 三人の、青空に、
 部屋は、広く、明るくなる。
  
 父と並んで、
 グローブと、ボールをもって、
 キャッチボールをしに行く、
 たてに長い公園。
 一球だけ、父を驚かせた、
 速球の、重い音の響きに、
 わたしはグローブを、
 胸にあてて、笑う。
 ボールを投げ返す、父の手。

 一年後の、折れた春。
 わたしは、ふすまの陰から、書斎を覗く。
 原稿用紙に、
 向かう父は、
 机に万年筆を叩きつけ壊した。
 病室に移る前の、
 部屋とともに残る、背中。
 髪をかきむしる、手。

クーラーもろくに効かない、車の中、わたしは、母と違う方向を見ながら、朝そった無精ひげの、残りを手でさすっている。丘をのぼる、地平線の先、その光景を、わたしは見たくなり、身を起こす。

二十二年目の遅い夏に、セミが鳴く。せっかちに先に歩く母と、後ろからつく施主のわたしは、父の、墓に、名前を認める。母は石を見て、繰り返し聞く言葉を、独り言のようにつぶやく。
「いままでお墓を建てる力がなかったのよ」
母の手の傍らで、線香の煙がそよぐ。
わたしは、眼鏡をシャツでふいて、胸にあてる。
水の底にいるように、自分の息づかいだけが聞こえる。指先の汗が、レンズを濡らす。湿った風が、緑を、光る波に変える。

(お父さんと本立てをつくる「いいできだろう」とお父さんは言う右と左の形が違うぼくは首をかしげるお父さんは「いやならいい」本立てを、手にとり壊す
/ぼくは)

わたしは、ひっそりと、三人だけの、青い空を呼びよせる。

(父さん、手は、痛くはないですか)


夏風邪

  光冨郁也

 わたしは失業し、夏を迎えた。記録的な真夏日が続いている。ここしばらく風邪をひいていた。咳が出る。寒気がする。頭の中に響く女の声は聞こえなくなっていた。冷蔵庫が空になったので、久しぶりにアパートから外へ出た。いつも通う空き地の車は知らないうちに撤去されていた。薬を飲むが、いつまでも治らない。午前中はベッドで過ごし、昼空腹になると外出した。浜辺を歩いていたら、どこかで神話の本をなくしたことに気づいた。あの本には思い入れがあったのに。図書館、マンガ喫茶、アパートの道のり、いつもの浜辺をさまよった。読むべき本を探すが、わたしのために書かれた本はどこにもなかった。買ってみたけれど、携帯電話には、迷惑メールばかりが百通以上届いている。
 風邪をひく前は三度、倒れた。内科医に相談すると、神経のせいではないか、と言う。まわりに光の筋がいくつも見えはじめる。その光に囲まれ、わたしは倒れる。わたしはいっとき空白になる。精神科医は首をかしげる。
 空き地の車がなくなり、本をなくし、わたしに話しかけるものはなくなった。わたしは誰にも相手にされなくなり、抗不安剤が一種類増えた。言葉を忘れてしまいそう。生活のため毎日、少しずつ預金を切り崩して、そのうち何もなくなるのだろう。わたしは携帯電話の受信メールをすべて削除した。

 マンガ喫茶の帰り、薬局で風邪薬をまた買って、空き地によった。空き地、真ん中にタイヤだけがある。いつものようにタイヤの上に座る。もう女の声はしない。波の音も風の音もしない。自分の呼吸の音さえ聞こえない。日が照りつけているのに、わたしは寒い。捨てられた車の中で見た、女の姿を思い出す。思い出すが、どうにもならない。

 わたしが運んだ流木の林がある。はじめ引き上げたときは黒く濡れていたのに、みな白く乾いている。林の向こうには鈍い色の海があり、その上には空白がある。手を伸ばせば空白に届くかもしれない。そう思っていたときもある。咳をしながら、浜辺まで歩いていった。女の声を思い出す。言葉にならない声。閉じた空間に、風が響いているような声。本はあるだろうか、どこへ行けば見つかるだろうか。空き地、道路、砂浜、波、水平線。空の空白と海の深さが混じり合うところ。わたしの胸の空白からも、とぎれとぎれの咳が出る。

文学極道

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