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竜野息吹

選出作品 (投稿日時順 / 全2作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


小さな春のタチェット

  竜野息吹

気まぐれの嵐は
ときおり吹き荒れて
数え切れないほど
散り始める
桜の花びらが
舞い落ちて
ゆったりと流れる
どこかの運河の水面を
一斉に薄紅色に
染めるように
この春は過ぎ去ろう
としていて

ちょうど晴れわたった空ひとつ
いつかの住み慣れた部屋には
褐色の厚紙でできた搭がそびえたつ
引越しのダンボールの
荷造りは少しずつだけれど
たくさんの楽譜や
手作りのピエロの人形や
使い古されたフライパンやらも
少し残された
春の匂いにくるまれて
箱詰めにされている

ペールグリーンの
明るい色彩の扉の向こうへと
数多くの荷物が
いつのまにか
運ばれていく
広くなる住まいの
一部屋に
恋人の弾く
グランドピアノが
トラックに装着された
クレーンで搬入されている

散り逝く桜の花びらが
舞うように
今夜は春の終わりが
幻となっては
鍵盤から
澄んだ透き通る風の音が
紡がれている
明日は新緑に萌える
初夏の前奏曲を聴けるだろうか

そう郵便局への転居届けは
近所のポストへと
確かに投函されたはずで
旧住所宛ての
電気料金の明細書が
隣町のこの住まいへと届く

まるで
見知らぬ場所に
伴侶と旅立つ前夜の
穏やかな祈りみたいに
とても忙しい春の夜空には
いくつもの灯りが
静かに移ろいながら
点っている
先日までの家路が
記されていたはずの地図には
小さな春への遠い追憶が
そっと閉じ込められている


群青色の乙女

  竜野息吹

深い霧のように
飛沫をあげる
たくさんの雨粒は
花柄の傘が雨をはじく
音が聴こえるあいだに
仕事帰り乙女の
世界を群青色に
静かに揺らぎながら

遅めの夕食を終えて
紺碧の空がうつる
海色に染める
とても大きなひと粒の
涙をシーツにこぼす
哀しいだけの青はどこまでも深く
夜に群青色をした惑星では
乙女は人魚へと
衣装を着替え始める
金曜日の雨の夜は
ゆらゆらと深く永い

真珠の首輪をつけた
妖精のように
横たわる人魚は
冷えた六月の雨に
屋根がぬれて
部屋の空気も
ひんやりとしているので
貝のように
毛布にくるまっていて

きっと
夢の中では
すべてが海水で
もはや
満たされていて

海中で紫陽花の咲く
遠い珊瑚礁の
昨日には海岸線だった
浜辺で
孤独な熱帯魚と
一緒にたわむれながら
泳いでいる
だろうし
喫水線をこえて
教会のある
丘だった場所に
ぽつんと
打ち上げられそうな
まだ幼いクジラを見つけて
海に戻そうと
必死になっている
のかもしれない
もしくは
すでに水没した
メガロポリスで
恋心を探す
旅の支度をする最中
だったとしても
不思議ではない

文学極道

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