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李 明子 - 2016年分

選出作品 (投稿日時順 / 全4作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


望郷

  李 明子

「純粋って 残酷よね」
甲高い声が窓ガラスにぶつかって

午後の陽がコーヒーカップを照らしていた
細めた眼は懐かしい鋭角

私は窓辺の永遠に油断していた

純粋の何について彼は語っていたのだろうか
そこにあったのはどんな時間だったのだろう

ガラス戸に跳ね返った私の声が届いたとき
かなしみが不意の怒りに

私は驚きを反抗に変え
不器用な怒りを見つめた
この上ない平静さで


あのころ私は
手折った夏草をぶんぶん振り回しながら
ひるまずに突き進んでいった丘の道

尖った葉はきらきらと光の乱反射

不意に幾度もあなたに斬りつけた

愚かな者が勝利する若さの恥ずかしさよ

それさえ
小さい生き物のように手の中に匿おうとして



海いくつ隔てて
やさしさばかり打ち寄せてくる


揺れるじかん

  李 明子


このせかいの
初めから生きたひとはいない
このせかいの
終わりまで生きるひとはいない

とちゅうから とちゅうまで
だれも みんな


   ゆめからゆめまでを
   いっしょに渡ったね
   不思議だけを追って

   窓のそとがどこかを知らず
   沈む舟にのった
   だれってきかずに 呼びかわした
   見知らぬ岸辺に打ち上げられるまで


       とちゅうからとちゅうまでの
       すぎゆくいのち
       きえゆく叫び


おとぎばなし

  李 明子



ビルの街を歩いていると海のにおいがする 帰らない人を夜の防波堤に探しにいったことがある
探しにいったわたしを探しに来て 並んで腰かけけんかのつづきをした 向こう岸に花火をする親
子がいて ああ 花火をもってくればよかった あなたが言ったいつか

  (安寿と厨子王の二槽の小舟みたい
   互いの目のなかに
   まだ姿が見えているのに
   小さい隙間を波が広げる)

  (かぐや姫のふすまのようさ
   どんなに心を砕いても
   時が満ちれば一斉に開かれていく
   月に呼ばれるものを止めることはできない)


うつくしい比喩は失った代償か もう争わないふたりは おとぎばなしの主人公にだってなれる そこ
でなら長らえる命がある 若かったわたしは決めていた 映画のなかの恋人たちのように もし戦争が
あなたを連れていくなら どんなことをしてもついていく ひらひらのスカートはいて

いま わたしたちの小さな空に戦争はなく だれから命令されたわけでもないのに 離ればなれに暮ら
す さびしさにたやすくうち倒される女が ひとりの時間に慣れていく 嵐の夜 ガラス窓がカタカタ鳴
り止まなくて 小さくたたんだ新聞紙を 家中のすきまに挟んでいった そうして嵐の内側で わたし
たちはいつもより深い眠りにおちた

こころのなかを風が吹いて窓が鳴り止まない日 電話する わたしの隙間にさし挟まれていく小さく折
りたたんだ何か あなたがそこに生きているということ いつか来るだろうか まだ一度も経験しない嵐
をひとり迎え もう電話することもできない夜が ふたり共に暮らしたという不思議なおとぎばなしが
そこから始まる


   (沖へ出て
    あなたの腕が
    崩れかけた防波堤のようだったと
    気付いた)


プラットホーム

  李 明子

記憶を失った詩人が
昔書いた詩を朗読してもらった時だけ
声を上げて泣いた

いつかプラットホームで
往年とかわらない端正な横顔
「君、もう僕は詩が書けないんだよ」
「君、もう僕はどっちの方角に帰ればいいかわからないんだよ」
それが
どんなに悲しい告白であったか
「君、詩を書くんだよ、」
と くり返し言った
もう どっちの方角に帰ればいいかわからない
冬のプラットホームで


   *


いつかわたしが
自分の詩を読んでもらって
声を上げて泣く
沢山の詩を書いたが
一つとして満足の行くものはなかったと
それなのに
今は書けないと言うことがどうしてこれほど
悲しいのかと
わたしが詩を書いたことなど
クヌギ林を風が通り抜けたくらいのこと
それなのに
詩を書けなくなった自分を
まるで何かに詫びるようにーー

文学極道

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