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本田憲嵩 - 2018年分

選出作品 (投稿日時順 / 全9作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


ダフネー2

  本田憲嵩

つやのある蟻のような円らな瞳で、住みついている栗鼠のようにや
さしく微笑みかける。いま柔らかな月光によって冷ややかにコーテ
ィングされながら、か細く流れる川の音のようにやさしくせせらぐ。
日々の生活の滲みが暗い銀としてこびり付いている、その痩せ細っ
た肢体、黒髪の枝葉を腰の辺りまで繁らせて、しっとりと夜の川の
ように。あるいはさらさらと星くずの散りばめられた煌めく夜空そ
のもののように。穏やかな北風はいま、その見事な臀部を、よりい
っそう冷ややかな球根形に仕上げるため、澄んだ水面にやさしく唇
を濡らしてから、もう一度その臀部につるりと接吻してゆく。幾重
にも幾重にも。その肢体は逆さまになった樹木の蜃気楼として澄ん
だ水面にくっきりと映り込んでいる。妖しく揺らぐ銀色の月。やが
てその汗腺からうっすらと吹き上げる塩からい蒸気が股間の苔むし
た浅瀬の霧と交じり合って、よりいっそう深い緑の芳香を漂わせて
ゆくだろう。そのぼくらの秘密の周囲を取りまくように銀色に輝く
無数の川魚たちが勢いよく飛び跳ねまわることだろう。君という樹
木の体幹。川を下るように君という樹木を下ってゆく――


天気予報・初夏、二編

  本田憲嵩


   天気予報

まだ晴れている朝
片方の前髪だけ趣向を変えて
より露わになった左半分の肌色が
まるで新調の石鹸かなにかのように光っている
かつては他人の雨傘をほんの少しの間だけ
秘密の甘い果実として共有し合った事もあった
今は其々が其々の雨傘を所有し
玄関隅の円い傘立てだけが
朝の短いキスと同じくらいの空白で
二人の唯一の結節点である
その一瞬の深い夢から目醒める


   初夏

新しい季節は
昼の休憩時間に不意に訪れる
事務机(デスク)に寝そべりながら
その頭髪は午後の陽光にほんのりと茶色に透けている
まだ汚れも老いも知らない
化粧された瑞々しい肌と あどけなさの残る飴色い視線
抗いつつも
まだ着慣れないスーツのように馴染まない
胸の太陽の羽ばたき
そこには初夏のような熱い幸福と
光合成をする新緑のような活力が確かにある
(新しい季節が訪れる
開け放たれた窓から
そう予感する
空の、青い海に入道雲はひろがってゆく


ルナーボール

  本田憲嵩

二人だけの休日という貴重な一房の葡萄の果実を、ビリヤードの
褐色矮星として分かち合う。果実は混沌と混乱の銀河を巡って軌
道の覚束ない彗星となり、沈黙の時間を巡って遂には規則正しい
乱軌道の惑星となり、終いには枠外という宇宙の最果てを跳び超
えてしまった。

『ルナーボール』
というタイトルのゲームのことがなぜか思い出される。まだコン
ピューターの技術が今ほどに進歩していなかった頃に開発された
憂鬱なゲームソフトのことだ。どこか茫洋とした、シュールで索
漠とした雰囲気と近未来的な音楽とが印象的な、僅か8ビット程
の家庭用ゲーム機ソフトのことがなぜか思い出される。

戸外へ出ればいつの間にか葬送のようなどことなくしめやかな夜、
満月は夜空にぽっかりと浮かんでいる。冷ややかな月光にコーテ
ィングされて何も語らない彼女の後ろ姿の、それはそれは豊かに
波うつ黒髪はなんだかとても艶やかで、それはそれは美しかった。
窪んだ土の中に溜まった泥水には果実がゆらゆらと魂かなにかの
ように映りこんで。


潤い

  本田憲嵩

メーターが振り切れそうになる
一秒当たりの時間の価値だけが赤く高騰してゆく
それはたとえ休日とて例外ではない

はずなのに
具体的に何をしてよいのかさっぱり分からない
いつもの休日

夕方に近い
昼下がりになって
ようやくウォーキングがてら徒歩で外出する
歩道沿いの
石垣のある民家の庭から
撒かれるホースの水

それが服に少しかかる
花と樹木のためにも
さして気にしないようにして
乾いた歩道を再び歩きだす

(生活には潤いが必要
(でなければ心が乾いて枯れてしまう
(そして、栄養も

別の民家の庭では
家族が賑やかにバーベキューをしている
その赤い肉の焼けてゆく匂い

すき屋に行った
牛丼屋で頼んだのは茶色い肉類ではなく
赤いマグロのユッケ丼
独特の甘じょっぱいタレが効いていて
とても美味しい
そこへさらに醤油をかける
とても濃くて美味しい

身体と心が欲しているのか
「生きている」、
という確かな証を

生卵を土星のようにのせてから
ぐちゃぐちゃにかき混ぜる
そこへさらにもう一度醤油をかける

コップの水をがぶがぶと飲み干した
その間
時間にしてわずか十五分足らず
店を後にする

爛れるような夕焼け
のどが渇く


終末

  本田憲嵩

     ※

死の匂う、音を聞く。だいぶ疲れているのだろうか。考える人のようにソファーに座
り込んで、夕方に近い、昼下がりのつよい陽射しに少しうつむく。それは沈んでる、
僕の罪悪そのもの。不意に、朽ちた老木が倒れ込む寸前のような、あるいはそれは、
一家の没落への道に吹き付ける、ひとひらの風として、そのまま直結しているかのよ
うな、父の深いため息。

     ※

(この古ぼけた駅はまるでオレそのものだ。かつてこの市(まち)の炭鉱から採れた
石炭は、もはやとっくの昔に時代遅れのものとなり、それさえも底を尽きてしまっ
た。目の前にひろがる北の大通りの店さきどもは、生ぐさい潮風で錆びついたシャッ
ターを常に降ろしてしまっている。オレは半ばゴーストタウンとなった市(まち)の
駅そのものだ。視えもしないものを描きたがった結果がついにこれなのだ。オレはか
つての昭和の栄光をとどめたまま朽ちて風化した残骸だ。そしてもはやそれ以下の存
在だ。なぜならば本当はそんな栄光すらも何ひとつとして有りなどはしないのだか
ら。ただただ日に日に老いて朽ち果ててゆくばかり。あの幣舞の橋から見える、あか
い夕映えは世界でも三番目ぐらいの美しさだ。オレはもはや――)。

     ※

この夕暮れ時に、ひとときの、安堵とさびしさ、とのあいだで、時のながれを 遡
る、瞳の中を 泳ぐ、俎板のうえ かなしい、小魚たち、台所に立つ 萎んだ、母の
背中、そのように、拙く、頼りない 水道水は、かぼそく、揺らめいて、ガスコンロ
の火、さえも、寂しげに、揺らめいて。 小さな、四角い、窓からは、まだ、葉をつけ
ていない、冬の裸の老木、木は、たとえ倒れても、春 に、なれば、また、葉を、茂
らせることが、できるのだと、また 生きてゆくことが、できる のだと。あるい
は、西の窓 から滲む、紅のまぶしさと、温かさ、そのように、包みこむ ことが、
もしも もしも、できる のなら、
このような、やさしい、夕暮れ 時に、
もしも できる、のなら、

     ※

週末、太陽とともに、最後の炎を夕空に燃やしている、夕刻を告げる、モノラルのス
ピーカーの懐かしいフレーズ、祇園精舎の鐘の音のような近所のお寺の鐘の音、そし
て電線に集結しているカラスたちの焔のようにけたたましく赤い鳴き声、それらの音
が一斉にあべこべに混ざり合う。不協和音で構成されたきわめて短いひとつの曲を奏
でる。西窓から射し込んでくる赤い光に照らされている、子供のように老いた母、老
木のように老いた父、そして老いの戸口に立たされた僕、三人で丸いちゃぶ台で食卓
を囲む。「いただきます」まるで世界の終末の最後の光景、そのもののように。(西
窓から外界は、落ちてきた太陽によって、真っ赤に燃えている、燃えている、)。


あなたのせいという、陽だまり 二編

  本田憲嵩


   あなたのせいという

あなたのせいという
急速な風に吹かれて
青葉がつぎつぎと落ちるように
暦が落ちてゆきました

あなたのせいという
見えない伝書鳩が
ひと息いれる暇もなく
夏の星座の下を行き交いました

あなたのせいという
メロンクリームソーダ
あなたのせいという
金色の夕映えの中でたしかにつないだ手と手

そして あなたのせいとはいえない
このうすら寒い部屋の窓枠には
季節はずれの風鈴が
まだぶら下がったままで


   陽だまり

静止したレースのカーテンが夕陽をたたえて、切りとられた金色に
染まっているこの寂しさは、切りそろえられて強調されたおかっぱ
のうなじ、森の小径で縫うようにうつろう黄色いニ匹の蝶々、また
そのような視線、そそがれる陽だまりのなか、たしかにつないだ手
と手。きみの知りえない夕映えのわたしの色を帯びて、高い窓から
見おろすミニチュアのまち、観覧車の速度でおだやかな時間がなが
れてゆく、こびとになった恋人たちのはいりこむ、ちいさな街路の
迷路の世界、そして、レコードを回して此処に居てほしかった、や
わらかなみどり色のソファー。


水精とは

  本田憲嵩

生活には潤いが必要だったことについて
少しばかり語りたい
たとえば
星星や月に照らされて浅い川面に映える
逆さまになった細ながい樹木のような体幹も
おだやかな夜風に棚引くその黒々とした頭髪の枝葉も
すべては
昇る太陽と共に起床し 沈みゆく太陽と共に家路を目指す
規則正しい時計の針のような生活の中 寝台という名の透明な水の層に揺蕩って
性的な夢の波間からふいに漏れ出した 他愛もない
夢精のような謔言に過ぎなかったのさ
或いはそれはほとんど無限に近い精液の海から精製された
もう一人のボクでありながら
決してボクじゃないボク/もしかするともう一人のワタシ?
そうしていつも夜になると
ボクじゃないもう一人のワタシが居る?
しかし これさえもさして変わり映えしない単調な日常の牢獄から
振り子の原理さながらに
ぼく自身が編み出した
潤いという 膨らみに膨らんだゼリー質の半透明な夢の重し
生活の乾いた岩石と常に釣り合いを取るための 夢と現実の両天秤

水精とは
すなわち女性の瞳の水面(みなも)のように青く澄んだ僕のなかの潤いの結晶体
つまるところぼく自身がその水精だった
という訳なのさ


星星

  本田憲嵩

(記憶の夜空に浮かぶ
(過去の星星は
(幾億光年という長い歳月を経た
(客観性の強い光を帯びて――

つい先日 北海道全域が地震と停電に襲われた
ぼくの住むこの赤い夕陽の市(まち)でさえ
家屋こそ倒壊はしなかったものの
その夜は
夜よりも さら暗い
夜に世界は包まれ
そのひとときだけ観測できる
貴重な鉱物である星星を
首が痛くなるまで
いつまでも
採取して

そう 何度でも 何度でも

たとえいつもは視えないものだったとして
失うことでしか確認できないことをいつも繰り返して
いったいなにを得てゆくだろう

(客観性の強い光を徐々に帯びながら――


月精(あるいは湿原精)

  本田憲嵩

――逆さまに曝された流線型の細ながい肢体。澄んだ水面の白い後ろ影は揺れる。世
界でも有数の赤い夕陽は沈んだ。そののちに訪れる、この心地よい夜の冷ややかさ。
その臀部の心地よいなめらかさ。そよぐ枝葉のように質感のある濡れた黒髪にも、水
の星星は灯る。君という樹木の体幹。透明な空気はその間げきを穏やかに穏やかに吹
き抜けてゆく。
ただの一度としてついぞ開かれることのなかったとされている、その旧い水門、その
錆びた重い鉄扉がついに開くとき、うっとりと揺蕩うように誘いながら、蛇のように
くねりながら、蛇行する水の断面もまた、その月影宿した、球根型の見事な臀部に、
どこまでもどこまでも纏わりついてゆく。たびたびに飛び跳ねる水銀色の魚たち。躍
動する生命たちの煌き。あるいは月の欠片のような迸り。しだいに間断なく跳ねまわ
ってゆく――


そうして辿りつく。魚たちのオルガズムはついに頂点に達する。


その両生類のように暗く湿った彼女の狭い股間。黒い陰毛の換わりには粘性の暗い苔
がびっしりと其処に繁茂していて、むしろ彼女の夜の奥の奥、彼女の毛深い陰部その
ものであるものは、まさに此処、この黒い湿原そのものである。
不意に鈍行列車の汽笛が夜空たかく鳴りひびく。レールを滑ってゆく車輪の音と葉の
ざわめきが静かな伴奏のようにながくながく響きわたる。それを合図として、湿原の
咽せ返るような芳香は濃い霧と結晶して、銀に輝く月はその織りなされた神秘のヴェ
ールを棚引かせてゆく。

文学極道

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