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片山純一

選出作品 (投稿日時順 / 全2作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


胡椒と魔法と化学

  片山純一

 バスの停車釦の光るのが外から見えるということ。
 多分、位相だとか、そもそものところから違うのだろう。つ、と右にそれる脇道の先を眺めたわたしの目には、大きな車の走り去る残影がくっきりと刻まれた。星々の燐光を一瞬だけ覆い隠す街灯の下、わたしは薄められた夜を歩く。客が乗っているかどうかもわからなかったあのバスの、車内は、別の世界だった。

 上っていかない煙が煙草にはある。
 苦い、辛い、そして仄かな痛み。白い煙は正午に人目につくのを嫌う。雨が降っていれば細かく分かれて雨粒の影に隠れるし、晴れていたら昼日中の大きな陽の手に庇護して貰おうとする。気になって、逃げていく煙の後れ毛を摘んでみたことがあったが、そんな時決まってわたしの首がひどく痛む。後ろの首筋のもう少し上、わかりやすく言えば小脳のある高さが。日中はそんな風にしていると、非常な速度で、足早にわたしとすれ違う。三時間前に吸った煙草の、塵芥よりもさらに小さい粒子が、上着に付着していたとしても。

 「明るい」と「暗い」とが交錯する印象。
 急に、津波を押しとどめる術がないのと同じ具合で、抗いようもなく曇り空が見たくなる。今しがた、着地音を途切れさせないように神経質に降り注ぐ雨粒と、それを作り出す溶け始めの雨雲を見上げているが、わたしはこれを別物だと思った。別物。偽物。不要な物。わたしは、わたしの中の不要な物を削ぎ落とすために始終、幼子のような煙を吐く。

 別の世界だと感じたあのバスの車内は、二度と現れない。
夜は突然生まれる。車通りの少ない閑静な道路の真ん中を歩いていると、いきなり青い闇が向こうからやってくるのを見たことがある。
 短くなった煙草を落っことす。気付いていながら、踏み躙りもしない。
あと何回雨模様の天気の下を過ごすことが出来るのか、わたしの好きなぼんやりとした曇り空は何度見られるのか、少し冷たい直射日光が裏返るのはいつなのか。
 午前二時を回る。わたしは家族を起こさないように、アンプラグでギターを引っ掻く。
永遠に鳴り響くAm、毒でしかない煙が沁みる、さっき頭髪に絡まった水滴が、ゆっくりと吸収されていった。


巫女の山で戯言をのたまう。

  片山純一

 死骸が転がっている。汗ばんだ身体が重い。膝の伸縮が固い。夜を眠らずに過ごすと、暑くてかなわない。どうして今朝は曇っているのだろう。ぼんやりとし始めた視界に色を入れるため、キャスター付きの椅子から立ち上がって、開いていた窓から身を乗り出してみると、光源の在り処のわからない明るみが眩しい。目に沁みて、痛くて開けていられない、そう思って細められた両の目は、それでもちゃんと閉じられることなく、眩しさに軋みながら、ただ拡がっているだけの画をこっちへ通した。画の片隅には死骸が転がっている。
 見開かれた両の目には、期待が満ち満ちているね。どこから生まれて、これからどのように生き、どこで死んでいくのかもわからない女の子が、たった今のぼくの世界そのものだ。そのことが少し恥ずかしい。論理的ではないし、そもそもぼくにだって意味不明だ。ただ、この娘に怒鳴りつけられれば、世界はこんなにも厳しいものだったろうか、とぼくは呻き、喜びに微笑んでくれれば、世界が潤い輝き出すのが、ぼくにだけ見える。こんな通り一遍の感傷をこそ馬鹿にしていたぼくは、恥ずかしくて、女の子を直視できない。直視できない女の子のために、ぼくはアルバイトを始めた。
 オジン連中がよくする、独り善がりの説教を、ぼくら若者は憎んでいる。でもぼくに関して言えば、そういうのは嫌いじゃない。オジサンたちは挙ってぼくを小馬鹿にするし、見下すけれども、そんなの、誰も気にしちゃいないと知っているから。結局、ぼくら若年層は繊細に周囲を気にしている間、若者でしかないんだろうと思う。ねえ、オッサンよお、アンタ、死ぬの怖くないの? マジで。口にすればオジサンたちは、ぼくの友人たちは、家族は、何とも言えない気まずさや、負い目みたいなものを覚えるだろう。だからぼくは口にしてきたことなんかないし、若者でしかない。
 死骸は、猫だ。猫だった、猫でしかなかったものだ。ずっと目をそらせずにいた、数分間、ぼくはその猫がどうして死んだのかを探ろうとしている。潰れて破けた腹から内臓が飛び出していれば、轢かれたんだな、とわかるのに、そんな具合で。そろそろ彼女がうちに来る。通り道にある死骸は確実に、ぼくの家に来る途中の彼女に見つかるだろう。そして多分、うちに着くなり綺麗でぱっちりと大きな両の目を少し歪めて、道端に転がっている猫の死骸について言及するだろう。もしそうなったら、ぼくは今度こそ世界にではなく、君に対して感情を震わせるかもしれない。誰かからの受け売りの説教を垂れながら、ぼくは女の子を初めて直視する。その時こそ、ぼくは本当にぼく自身でありたい。夜明けを随分回ったけれど静かな、痛いほど眩しい朝。恐らく彼女のものだろう、踵の少し高いブーツの固い足音が近付くにつれて、その路傍の死骸が、透き通るように見えなくなっていくのを、ぼくは不思議に思わないまま。

文学極道

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