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天才詩人 - 2016年分

選出作品 (投稿日時順 / 全4作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


旅と日常の日めくり

  天才詩人




PUPUNTA AKO SA MAYNILA

マニラのダウンタウンにある安宿に投宿していた。毎日違う日本人の女の子 と食事に出かけ、いつもいいムードに持ち込んだが、月曜日になるとみんな出て行ってしまい、宿は空っぽになった。朝、日がだいぶ昇ったころ、シーツにくる まって目を覚ますと未来のタバコの箱のような、四角く透明な青色の虫が床を這っている。女の子の連絡先をひとりも聞き出せなかったことを悔やんでいると、 声のでかい20代後半のお兄ちゃんが、荷造りをしながら、フェイスブック教えて。と話しかけてきた。彼はマニラにしばらくアパートを借りて住むので、連絡 してくれとのこと。今日は特に予定もないので、パソコンを持ってリサール公園近くのショッピングモールに行ってメールを書いたりリサーチして一日過ごそうか。マイルドセブンの箱から一本抜きとり、火を点ける。日がさしているフローリングの床に煙草の燃えかすがひらひらと落ちていくのをぼんやり見る。

THANON CHIRA JUNCTION

ピマーイ。乾燥した稲作北限地方の田畑を長距離鉄道の線路がトラバースしながら、遠くに見える連山の方角へ消える。展望台で、ペットボトルのジュースを飲 み、赤や黄色のリュックサックを背負った年配の日本人観光客の団体が遺跡の石段を、一歩一歩のぼっていくのを俯瞰する、僕は、昼食の脂肪分やニコチンが下腹部で熱をもつのを感じながら、1月の、あの一級河川からほど近い住宅地で、びん詰の医薬品や包帯類が、それらリュックサックに詰め込まれるのを 見つめていた。免税品店で買った、マイルドセブンの青灰色のストライプが入った箱を、手のひらにとり、透明なセロファンを剥がす。鉄道線路のむこうには、砂利のプラットフォームの停留場が開発未定地のただ中にあり、そこから見える、屋上にアドバルーンがゆれる病院には、読むことの出来ない異国の文字が、急患搬入口のスロープに点滅する赤いランプのまわりを這い回る。セブンイレブンで買ったボトル入りのジュースを飲み、踏切をわたったところの、未舗装の車止めがある雑貨店でベージュ色のパッケージのイギリス煙草を、チョコレート菓子と一緒に購入して、面談室へと足を進めた。対応する医師は非の打ち所のない完璧な日本語で僕の話を聞いたあと、病室や診療室のあいだを、よどみない足どりで行き来する。採血を担当する白髪混じりの看護婦の白い帽子には、あのアドバルーンにあるのと同じロゴが刺繍してある。

ピマーイ。遺跡を出て、王宮を擁する古都の市街へむかう、フロントガラスに仏陀の後光をかたどった模様が入った小型バスに乗り、、商業エリアの後背地にある人気のない鉄道駅で降り、がらんどうの待合室を出て、王宮の参道を、いろいろ見物しながら歩き、そのつきあたりの、U字状の、近年の経済発展を具現するランプウェイの真下にある、安飯屋と安宿に、投宿した。バスルームには小さなガラスの 天窓がある。ベッドに寝そべり、夜になる。マイルドセブンのストライプの入った箱から一本抜きとり、点火する。蚊の飛び回る、ベージュの壁を見つめる。午 前3時、デンマークのロックバンドが奏でる甘いバラードが、ウォークマンのイヤホンからこぼれ出る。古い木造の部屋の、磨耗したフロアの継ぎ目に目を凝らしながら、僕はボール紙の表紙の、調査用のノートを開いた。どんなに気を紛らわしても、僕の思考はやはり、冬の日に、あの年配の観光客が背負ったリュック サックと、その中に詰められたタオルケットやその他の物品の出自へと、目を凝らしていく。(バスを降ろされたジャンクションの駅は、通るのは貨物列車ばかりで、旅客はひたすら呆然と待たされた)(仕方なく歩き始めた王宮への参道の道端で、炭火で串刺しの鶏を焼いてきた若い母親が、笑顔をこちらに向けなが ら、親切に道案内を申し出た) それら、一日の終わりまでに見聞きした事柄にに対する自分の所見をひととおりリストアップした後、ノートに書き込んだが、僕がどの目的地に向かって旅をしているのかはわからないままだった。

『アメリカ西海岸』

『地球の歩き方』―アメリカ西海岸のガイドブックは情報量が多すぎて、バックパックに入らなかった。空港から、西部劇のセットみたいなダウンタウンのメインストリートに着くまで一時間半かかった。バスを降りると、ま だ午後3時なのに、店はほとんどシャッターを閉め、黒人や褐色の肌のホームレスが路上のゴミ箱から使えそうなものを取り出している。リトルトーキョーの倉 庫街の、饐えた匂いのする路地の奥にある、階段に赤とベージュのカバーがかかったホテルの汚れたガラス戸を押して中に入る。乾いた西岸海洋性気候の太陽は、古びたビルの 表面にあたる西日を、かさかさに干からびさせた。築60年の古い白いペンキで塗られた内装のホテルは、トイレは共同だったが部屋には洗面台があり、その壊れた蛇口からは微かな水流が、白い陶器の表面を薄茶色に 染めながらこぼれつづけていた。そのホテルで僕は30代後半の旅行者と知り合い、メキシコのことをあれこれ聞いた。空はいつも晴れていたが、8月だというのに風が冷たく、バス停は遠く、この街を離れるのは至難の業に見えた。対人恐怖の暗い影を引きずっていた22歳の僕は、それでも意を決して近くのメキシコ人経営の旅行代理店の扉を押して入り、メキシコシティまでの片道切符を買った。フライトは深夜だった。鬱々とした気持ちが晴れないまま夜7時、荷物をまとめて来たのと同じ番号の市バスで空港へ向かった。重たい、『地球の歩き方』 アメリカ西海岸編は、ベッドのシーツの上に置いたままにした。

LA SIERRA

緑の山塊の隘路をたどる蟻のような人影が、日なたを這いずる血のにじんだ腕の記憶をしまっている。西日に照らされたた褐色レンガのビル群が、コーヒー栽培の富で潤った転売人や、配達夫を、坂を登ることの比類のなさをいだき、息を切らしてバラックへと歩く母親や子供たちを見おろす。足あとや息づかいの形跡にも、声をあげることは許されず、天空を えぐる天狗の頭にも似た岩に、睨みをきかされながら、眼下には、輸送機関の軌道がはしり、カーヴした縁石にそって、ゆるやかに起伏する街角に、角砂糖大の 家々が、とりとめもなく明滅し、しがみつく、丘。雨が降ったあとの三々五々の人影が、濡れそぼった地形図の上、雑貨店や工場のトラックが、うす暗い後背地 の山なみをのぼる。


Tensai Shijin 8900#

  天才詩人

Ciudad Universitaria -大学都市-

暗い夏の夜に、一両編成の電車が通る桜並木を、駐車場をはさんで眺める。赤いじゅうたんの廊下に赤や緑、白、ベージュ。いろんな色のドアが口を開けている、人が出払った木造のアパートの、つきあたりの部屋で、コンピューターの画面を操作している。音を立てない。誰とも話さない。扇風機だけが静かな風を送り、蛍光灯の光がすべる畳の上で、海のむこうからとどく手紙を受けとる両手をじっと見つめる。キーボードを叩き続け、画面には一覧や画像が表示され、その優先順位を次々に入れ替えながら、僕は顔をしかめ、伸びをし、天井を見上げ、再び窓の外を見る。遠くで踏切りの音が鳴り、やがて藪の裏手にある無人の駅を出発した電車が、モーター音をたてて川沿いに並ぶ家々を横切った。『文・学・極・道』。僕は真っ黒な画面に見入る「藝術としての詩を発表する場、文学極道です」「クソ垂れ流しのポエムは、厳しい罵倒を受けることとなります」「気張ってご参加ください」。僕はなおもキーボードを叩き続け、ロサンゼルスや、ミネアポリス、アルバーカーキーなど全米各地の都市の情報や研究施設に関する、開きっぱなしのページを、保存して閉じる。別のタブには、まだ『文学極道』という詩を投稿するサイトの、黒い闇を模したトップページが開いており、僕は一息つくと「詩投稿掲示板」のリンクをクリックした。「ポートランドでドラムを叩き」「梵語研究者」「なぜポートランドなんでしょうか」「一条さん、ありがとう」。タオルと着替えのTシャツ、紙にくるんだ石鹸をスーパーの袋につめ、時計を見て電車の時間を確かめると、自転車でゆるい坂道を、三条の方角へくだる。闇のなかにぽつんとある自動販売機の前で自転車をとめ、ピーチサイダーを買い、プルタブを開ける。細い路地に白い光をぽつぽつと投げる街灯に目をこらしながら、ほんの数年前この町で出会い、下宿や四条の飲み屋で毎週のように集まり、旅の話−話題はバンコクの安宿や、インドからパキスタンへの国境を越えるバスとかだった−をした友人のことを考える。留年した大学をたったひとりで卒業した春。人口が150万ほどあるはずのこの街には、僕が電話をかけて他愛のない話をしたり、誘いあって晩御飯を食べに行く相手は、どこにもいない。鉄道線路、用水路をオーバークロスする高架、路面電車、閉店した大型スーパー。よどみなく整地されたアスファルトをコマ送りするように、自転車をすべらせる。ラーメン屋の広告塔がある交差店で信号機が赤になる。このラーメン屋にはヤダぽんとよく来た。大抵は夜中の3時を回った頃、強い酒を飲み、ふらふらになったあとだった。大学の授業にはほとんど出席しなかった。だが友人の輪が自分の大学から、他の大学へ、そしてOLやサラリーマンらのあいだにとめどなく広がっていく。その感覚は休みごとにバイト代をはたいて格安の航空券で『オリエント』へと旅立つのと同じように僕をわくわくさせた。そのころ僕は、大学に入るいぜんの、孤独だった過去の自分に三行半をつきつけた。大学に入学した4月以降、過去の自分は近く鉄道駅の駅前でいつも僕を待っていたが、僕は決して声をかけなかった。過去の自分は、悲しそうな顔をして駅前や周辺の食堂をひとりでうろつき、ずっとこちらを見ていたが、数ヶ月すると姿が見えなくなった。その同じ駅前を、アマチュアバンドに興じる若者や、高架下の飲み屋から吐き出される男女を横目に、僕はただ一人、三条の銭湯へゆるい坂道を下る。

ブエナビスタ

廃線になった国鉄ターミナルの隣にある図書館で時間をつぶしていると、Nから電話がかかってきた。「今週末誕生日だったよね。どっかご飯でも食べに行こうよ」。30分後に待ち合わせをする約束をして、果物ジュースを売る屋台やショッピングモールが入り組む再開発中の路地を歩いて、地下鉄駅前の彼女のアパートの前まで来るとインターホンを押した。下水管の匂いがする、しみのついたコンクリートの壁の前に立ち、空を見上げる。晴れていて、雲ひとつない。デニムのスカートに白いブラウスで出てきたNは、いま着替えるから部屋で待ってて、と僕に言い、暗い階段を、再びのぼりはじめる。日本語学科のNとは気が合った。数ヶ月前にこの国に来てから、一緒にご飯を食べにいったり、首都圏のグリーンベルトにある、小さなカフェやレストランが密集する路地を目的もなく歩いたりした。だが、いろんな事情から、それ以上の関係に持ちこむのには二の足を踏んだ。古い金魚の水槽。玄関のドアに積み上げられた靴の入った紙箱。木製の本棚には日本語や語学関連の書籍があふれており、わずかばかりのスペイン語の本を圧倒している。日本語や文化に興味を持つ人たちはこの国の人口の数パーセントを占めるが、僕とはウマが合わない。なんというか、双方向性の片思いなのだ「高度にオートメーション化された社会で人々は部屋にひきこもり、『動物』的な欲望を満たすことに専念する、21世紀中盤には、世界はそんな日本みたいな国ばかりになるだろう」気鋭の若い批評家が書いているが、僕には、その数十年も前になされた、社会主義リアリズムの画家の、「日本人は悲観的な運命論者だ。社会を変える道をあらかじめ放棄しているから、藝術も、教育も、現実逃避の道具 に成りさがっている」という発言のほうがリアリティがあった。Nとアパートを出て、新交通システムのプラットホームのガラスのドアをくぐり、首都圏を貫く渋滞で名高い幹線道路を南に向かう。Nは、いま申請している日本政府の奨学金が通りそうだと嬉しそうに話す。この奨学金を得れば、北関東にある国立大学の大学院に入学することになるが、助成の規約により、数年間は日本を出ることができない。浜通りの原発事故の直後だった。プルトニウムやストロンチウムを含んだプルームが北関東一帯に降り注ぎ、放射線、疫学、火山学の専門家やアクティビストたちがそれぞれ全く違う意見を展開し名指しで糾弾しあい、東京在住の外国人たちが大挙して国外避難している真っ最中だった。電車が急ブレーキをかけて停止して、Nと僕はあわてて手すりにつかまる。Nがメガネの奥の目を細めながら笑って僕を見る。ちかごろ、メガネをかけているとどんな外国人もアジア人に見える瞬間がある。僕は、大通りのほうを指さし、この界隈のちょうど裏手の、セブンイレブンの横に、黒い鉄のドアに大きな日の丸の国旗がペイントされた家があることをNに話す。「大使館じゃないの」とNは冗談めかして言う。「強制収容所じゃないかな」と僕が答える。「北朝鮮じゃないんだから」Nはあどけなく笑う。Nのことが好きだ。信号が青になり、電車が動きはじめる。 ざらついた灰色の専用軌道が、南の郊外のはずれにある、砂漠化した岩盤のふもとまで一直線に続いている。視界が途切れる限界点にはファミリーレストランや量販店の広告塔が回転しているのが見える。

環状道路10号

アカプルコから戻った午後遅く、近所の量販店で白いウィルソンのパーカーを買った。地下鉄駅の乗り合いバスやタクシーのヘッドライトが、磨耗した幹線道路のレーンを蛍光灯のチューブのように発光させる。秋だな。と思った。秋は新しい世界が開ける季節だ。そんなことを帰りの乗り合いバスの硬い座席にうずくまりながら、ずっと考えていた。Aとは首都圏の南にあるバスターミナルで、ちょうど別れたあとだった。ずいぶん長い間女を抱いていなかった。相当の、長い長い時間だ。海岸沿いの、屋台骨のように張り出した木組みのテラスで、ビールの栓をはずした。藍色のワンピースから出る白い二の腕をつねると、Aは笑って僕の肩に手をまわし、キスをする真似をする。真っ黒な海を見ながら、相手を好きになること、とりあえず誰かといっしょにいること、性欲を満たすことのあいだに引かれた白い破線の上を、行ったり来たりしていた。アカプルコは聖週間の休日を楽しむ家族連れや若者でにぎわっていた。バーの入口に置かれた演台に立つ女の子が少しづつ服を脱いで、最後は水着になるというショーをやっている。他愛のない見せ物だが、観客の喝采だけは余念がない。先生が「おはよう」と挨拶すれば、みんな大きな声で「おはよう」と挨拶を返す。そんな小学生の真っ直ぐさを、この国の大人たちは失っていない。僕は、Aをモーテルに連れ込んでベッドに押し倒そうという性急な考えをいったん保留にして、バーの外に出る。水族館みたいな飾りつけの90年代風のディスコテカで、サルサを踊ったあと、真っ暗な、観光地の喧騒が遠くに聞こえる黒い砂の浜辺に寝転がり、白い二の腕をつねったりキスをする真似をされたりして過ごす。起き上がり、砂を払うと、夜明けだった。Aと手をつないで、鳥がさえずる椰子の木々の植え込みがある海岸通りを歩き、投宿している安ホテルに戻った。バスルームの洗面台は昨日から水の出が悪く、白い陶器の表面にはうっすらと砂がくっついていた。いま、そのアカプルコの砂がざらつくのを背中に感じながら、首都圏の、スモッグで空が曇る、幹線道路の歩道橋を、量販店に向かって歩いている。頭上にライトアップされたオレンジのロゴが見え、そのむこうには外国人がたくさん住む高級住宅地の灯が明滅する。ウィルソンのパーカーが入った紙袋の感触を手のひら確かめながら、エアコンの効いている店のゲートをくぐる。


メキシコ

  天才詩人


涙がこぼれた。午前7時まえだった。レフォルマ通りを過ぎたところにある、緑の木々に囲まれた小さな公園を出て、教会前の、溝に空のペットボトルや食べ物のかすが投棄された下水管の匂いのする路地を、歩いていた。前方にはガラス張りの高層ビル群が林立するのが見え、老婆やOLが眩しそうにかわいた朝日を浴びながら、地下鉄のエントランスへ早足で向かっている、そんな風景のなかだった。俺は美術館のアシスタントとしてこの国に来て、自分の収入に不相応な、ブティックホテルに泊まっていた。毎日市内の各所にある美術家のスタジオを訪問し、朝から晩まで、スペイン語のできないアメリカ人の上司の通訳をした。ほとんど休む間もない時間が続くなか、ある朝、ホテルを抜け出した。涙がこぼれたのは、そんな朝だった。この国にはじめて来たのは、15年ほど前、22歳のときだった。ロスアンゼルスからの深夜便で、早朝の空港に降り立ち、英語がまったく通じないことに困惑し、仕方がなく、うろ覚えのスペイン語の数字を使って、タクシーの運転手と値段交渉をした。曇り空にすっぽりおおわれた、首都圏の高層ビル群を遠くにのぞむ広いハイウェイを飛ばして、歴史中心地区にある、安宿に向かう。古い診療所を改装した、冷たいコンクリートの廊下に、高い天井の部屋がならぶ宿。部屋まで案内してくれた 褐色の肌の少女は、スペイン語のわからない俺に、朝食があることを伝えようと思ったのか、俺の目を見て一言、”pan?”と言った。俺は、そのpan = パン(西語)という、少女が発した言葉の、鮮明な響きを、いまでも忘れることができない。ロスアンゼルスでは、通りを行く人々の話す言葉がほとんどわからなかった。(そもそもリトルトーキョーのさびれた倉庫街では、道を歩いているのは、打ち捨てられたスーパーのカートに家財道具を積んだ、ホームレスくらいのものだった。)スペイン語は日本語と同じく母音が五つしかない言葉で、発音がよく似ていることくらいの知識はあった。だが、初めての国で右も左もわからない状態でいたとき、その少女の発した「パン」という単語があまりにストレートに自分の耳に届いたことに、驚いた。そうだ、「パン」が食べたい、いや、食べることができるのだ。暗く長い廊下の、突きあたりの開け放たれた窓から、くもり空の日がこぼれるのが見える。この国では、もう何年ものあいだ、小さな家屋で扉に板を打ちつけてきた俺の身体は、やっと人々や町の動きと相似形をなし、手に触れることのできる「かたち」を持つだろう。そのことを直感したのは、この日の朝の、少女とのたった一言のやりとりを通してだった。たぶん人は、このような体験を「原点」と呼ぶのだと思う。それから15年目の、はじめてこの町に着いた日と同じ時刻、かわいた高地のスモッグにおおわれた首都中心部の歩道を、俺は、鬱々とした20代の青年だった過去の自分に「パン」を食べるかどうかを聞いてくれた、あの少女と似た容姿の人々にかこまれて歩いていた。そのなかの誰を知っているわけではなく、言葉を交わすこともない。たが、俺はそのとき、 自分の「原点」のすぐ間近におり、それまで決して出ることができなかった小さな家屋と、それを囲む電熱線の走る高い壁が、誰もいない午前の湿ったコンクリートのように、静けさにつつまれるのを感じていた。そして、その家屋の向こうには、このさき、テーブルをはさんで対面し、一緒に「パン」を食べるであろうたくさんの人々や、俺が彼らに向けて発音するであろう単語の数々。そして俺の身体が相似形をなす、曇り空におおわれた路地や街角が、ガラス瓶の底の風景のように見えている気がしていた。


Avenida 68 (藝術としての詩)

  天才詩人


Lと出会ったのは、まばらな枯れ木が散らばる空地が豊かな森に変わる、街のはずれのある小ぎれいなパン屋だった。そのパン屋で、僕は毎週土曜日、夢のようなケーブルを敷設するプランについて話す場をもつため、大勢の客を招いてミーティングを開いていた。大きな常緑のプランターがならぶ窓から鈍色の午後の日がこぼれる、つややかな白い2階のフロアで、エンジニア、学生、服飾デザイナー、それから町の安宿にちょうど居合わせた外国人旅行者など、いろいろな職業や国籍の参加者が、部屋の四つ角に配されたテーブルを囲み、意思の疎通を図った。僕らは、各自が発音する単語を一つ一つていねいに厚いボール紙の表面に記入しながら、日ごとの参与観察のデータと、国外へ移動する人々のフローを追尾する、遠く離れた土地での追加調査、それから調査地に着くまでに歩いたり立ち止まったりした街角やL字とS字形の路地を、色とりどりの地図上にボールペンで書きこんでいった。

そのグループのなかの、Lという端正な顔立ちの女性がとりわけ僕の注意を引いた。Lはその町の大手新聞社の販売部で働いていた。彼女の家は、街の貧困地区を南北に縦断する片側4車線の首都高速を、気の遠くなるほど長い跨線橋でオーバークロスした、溶接工場やショッピングセンターが混在する再開発地区にあった。グーグルマップで見ると、その場所からLのはたらく新聞社までは東へわずか2キロの道のりだったが、この街ではライトレールや路線バスはすべて南北に走る高速道路にに沿って整備され、彼女の通勤はいつもそれだけで「一日が終わってしまうんじゃないかと思うくらい」の時間がかかった。「歩いたほうが早いんじゃないの?no será mas fácil moverte a pie?」と笑いながら僕が言うと、彼女は答える「あなたはまだ来たばかりだから、この街を東西の方向に移動することの大変さを知らないのよ。」

Lは続けた「私の家は68号通りにあるんだけど、人はその一帯をいまだに『72』って呼ぶ。廃線になった国鉄のターミナルが解体されたあと、市は区画整理のために一本一本の通りにつけられた番号を調整しにかかった。だけどそこに大きなミスがあって、72と呼ばれるエリアは、地図のなかから消えてしまった。そんな市当局の失態のせいで、ここ数年、清掃局の車はLの家の周辺をいつもうっかりと通り過ぎてしまう。白昼の路上に何日たっても回収されない廃棄物がうず高く積もり、住民がついに抗議集会を開き、68号線を封鎖した。人々は巨大なスピーカーを通りの真ん中に据えてサルサ音楽を大音量で鳴らし、夜を徹して踊りつづけた。やがてにわかづくりの食べ物屋台がならぶ夜市が現われ、外国人観光客が見物に来るまでになった。その狂騒の一部始終が彼女の働く新聞社の朝刊で『72号線のカーニバル』というタイトルのもとに一面をかざったのはついさいきんのことだった。」

数ヵ月たったある夕方、はじめてLの住む家を訪れた。曇り空の水滴がアスファルトの路面を湿らす、しずかな日曜日だった。午前中から、街のあちこちで彼女のバーゲン品探しに付き合い、そのあと何をするでもなく、ぶらぶらと「72」の近くまでやって来た。Lの家は、68号線から小さな路地をはいったところにあるコンクリートの3階建てで、このあたりでは目をひく建物だった。しかしLの家族は、建物の屋上部分に置かれた、廃品の市バス3台を改造した小さなスペースに住んでおり、その外側のパティオには観葉植物や洗濯物を干すスペースが所狭しとならんでいた。Lによれば、地上階の部屋の多くはアパートとして賃貸されており、あまり楽ではないらしい彼女の家族の生計を支えていた。Lの家族が暮らすその屋上からは、灰色のセメントの住宅群や、大型量販店のむこうにスモッグにかすむ首都高速の防音壁が見え、そこを疾走する自動車のタイヤがアスファルトを擦る音が、微かにしかし絶え間なく聞こえていた。

いまではほとんど市井の人々の口にはのぼらない。だが、ちょうどその量販店の真新しいアスファルトの駐車場があるあたりには、ほんの4−5年前まで、この町の玄関として今世紀のはじめに建設された、ル・コルビジェ様式の近代的な国鉄ターミナルがあった。その話をどこかではじめて聞いたとき、僕は心が躍った。そして、それ以来、国鉄の駅があったころのこの一画の様子をいつも地元の誰かに聞こうと心に決めていた。しかし不思議なことに僕は毎回その機会を逸した。どんな相手と会っても、肝心なときにうっかりそのことを聞き忘れてしまうのだ。そして今日、屋上からまさにそのガラス張り建築のターミナルがあった場所に目をやりながら、Lにその話をしようと思ってふり返ると、僕が口を切るよりも早く彼女は言った。「明日の朝食のパンを買いに行かなくちゃ。一緒に来る?」

そして部屋に入ると、黒いジャンパーを羽織り、僕の存在を忘れたかのように、早足で階段を下りはじめる。僕はLに一歩遅れたまま後ろを歩き、S字形にくねった路地をゆく彼女の背中を追う。「今日はパン屋に行くのもう2度目だよなぁ Ya es la segunda vez que vamos a panadería hoy! 」と叫ぶと、彼女は後ろを振り向くことなく「そうね!siii!」とだけ答える。大型スーパーの広告塔ごしの、ツイストロールのかたちをした雨雲が浮かぶ空。解体されアスファルトで整地され、まるで浮き島のように住民の記憶から消えつつあるガラスばりの近未来建築と、廃棄物やスクラップで封鎖された幹線道路で住民が踊りつづける、「カーニバル」の夜深け。僕はLとこの街で出会ってからの数ヶ月間歩いたり立ち止まったりした、ボール紙の地図の上に色とりどりにマーキングされた無数の地点を思い出しながら、彼女と最初に言葉をかわした、あのパン屋の午後の日がさすフロア、そして、その店がある豊かな森におおわれた界隈まで引き返すための交通機関と、それだけで「一日が終わってしまい」そうな道のりについて反芻していた。

Avenida 68 (藝術としての詩・続) Copyright 天才詩人 2016-08-18 11:00:27

文学極道

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