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山人 - 2019年分

選出作品 (投稿日時順 / 全19作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


●月〇日

  山人

 ●月×日、彼女らと会った日だった
まったくひどい日だった
俺のあらゆること、すべて拒否されたような日だった
従食の食事は特にまずく感じられ、異質な物体がただ喉を通るだけだった
古びたスキー場のホテルわきでは、中国人親子がわけの解らないことをしゃべっていた
なんでみんなそうなんだ
どこにも俺の存在なんてないじゃないか。心の中ではうつろにその言葉が響いていた
家に帰っても、目は冴え、ひどい動悸に襲われた。まるで眠れる気がしない
きっと血圧も高くなっていると思った

翌朝●月〇日、やはり血圧は高かった
ずっとここ何年も暖かい冬が続いたのに、その朝は冷えた
春先の放射冷却時ならまだしも、真冬のさなかにこれだけ冷えるのは最近では珍しい
普通なら、寒いな、そうつぶやくはずなのに口を動かす元気もなかった
できるのなら、このままどこかの世界へ逃亡し、消息不明になり
この世から消えてなくなりたかった
しかし、そんなことは許されるはずはない
逃げるのはいつでもできる、俺は戦うことを誓った
 その日、朝8時から戦いは始まった。果たして敵は居るのか、敵などいない
敵は自分の中の弱い心だけだった。俺は消え入るような弱さを無視した
一語一語、目を見開き、反応のない人・人・人の目を射るように見つめ、俺は訴えた
野豚のように丘を駆け、この老体を飛躍させた
いつのまにか、そこには俺と彼女たちだけとなった
戦いはまだ続ける必要性がある。俺は説いた
 まだ、季節は真冬だった。午後になると残照に近くなる
俺は彼女らを連れて山の頂へ向かった
これだけ膨大な純白の雪を見たことがない、その彼女らの急変はすさまじかった
俺はついに交わった、というよりも、彼女らが俺の体内に触手を伸ばし、俺を蹂躙していた
俺の魂と彼女らの魂が山の頂で融合している
俺は酔った。何も武器を持たない俺は勝ったのだった
 その日、白い峰々はかなしいほど鋭角で、青く澄んだ空と同化していた


どうしようもない夜に書いた二篇の詩のようなもの

  山人

僕はかつて、荷台の無い一輪車を押し、整った畦道を走っていた
ところどころ草が生えていたけれど
そこは僕たちが走るにふさわしい硬く尖った土で出来ていて
坊ちゃん刈りした僕の前髪が開拓の風に吹かれてなびいていたに違いなかった
友達もスレンダーに施された一輪車を押しながら
たがいに何か大声で言い合いながら田の畦道を走っていたのだった

畦道は今はない
廃田には、弱い日差しが竦んで
何もかもだらしなくたたずんでいて
そこら辺の雑木は言葉を失い歪んだまま生きていた

隆起した丘を山というならば
そこには、今、いたるところが内臓で覆われ
脳漿が表面を埋めている
私はそこにある、うっすらと道のようなところを
歪んだフレームの一輪車を押しながら歩いている
ずっとずっとずっと
内臓の群れは陽炎を立ち上げながら頂きまで続いているのだろうか
その隙間を縫い
帰化植物がすべてを気にせず日を浴びていた


           



世界中が空っぽのような夜
なんだかすごく懐かしい音が聞きたくなって
こうして聴いている

街の喧騒やクラクションの音とか
女の吐息や鼓動
それらが渦となって塵とともに枯れたビル街に舞い上がって
それらが得体のしれない猛禽となって
世界に再び舞い上がる

誰か止めてほしい
この限りなく狂おしい走りざまを
疾走する死を


もう、次の日がやってきたのだ
去っていく時間はあらゆるものを駆逐して
一篇の詩を書くことも拒否してしまうだろう


開拓村

  山人

 父は二十代前半にO地に入植。
三十三年に私が生まれ、開拓村で生まれたので隣人が拓也と名ずけたと聞く。
妹は五年後、自宅で産婆のもと生まれたのを記憶している。
 あまり幼いころは記憶に無いが、四歳くらいの頃私はマムシに噛まれたようだ。体が浮腫んでいる中、母の背中で祭りに連れて行ってもらった記憶がある。その後、その毒が原因なのかどうかわからないが半年の入院となった。病院は薄暗く、ただただ広く、いつまでも悪夢の中に出てきた負のイメージである。
 小学校は開拓村から四キロ下方にあり、朝六時半に開拓村の子供たち数人で出発し一時間掛けて歩いて通った。
文字通り、子供らばかりの通学は道草を食いながらであり、春にはスカンポ・ツツジの花・ウラジロウヨウラクの花弁などを食した。
当然帰りも歩くわけで、少しでも歩きの負担を減らそうと砕石工場のダンプカーの後ろを追いかけ、つかまって飛び乗ったりした。当時はすべて砂利道で急坂が多く、走るとダンプに乗れた。
 初夏には、おいしい果実が豊富だった。クワイチゴが一番糖度があったが、紫色の果汁で衣服を汚し、母に怒られていた。クワイチゴ>クマイチゴ>ナワシロイチゴ>イワナシと糖度が落ち、代わりに酸味が増した。
 今では考えられないが、昔は土木工事も盛んに行われ、女性も働き背中に大きな石を背負い働いたものである。安全管理もずさんで、土木工事のみならず林業の伐採でも多くの人が事故死したり重傷をうけた人もいたのである。
ひとりで帰り道を歩いていると、突然河原から発破が鳴り響き、私の周辺にリンゴ大の岩石がバラバラと降ってきたことがあった。運良く当たることがなかったからこうして生きている。
 冬はきちがいのように雪が降り、五〜六メートルはあたりまえに降った。そして今より寒かった。十二月初旬からすでに根雪となるため、私たち開拓部落の子供五人は小学校の近くの幼稚園と集会所と僻地診療所が兼用されている施設の二部屋を寮として提供されていた。そこに私達O地区とG地区の子供たちがそれぞれ一部屋づつに別れ入寮していた。
 クリスマスごろになると学校の先生がささやかなケーキなどを持ってきてくれた。初めてシュークリームを食べた時、こんなに美味いものがこの世にあったんだと思った。
 夜中の尿意が嫌だった。トイレは一階にあり、昔墓だったとされたところで、下はコンクリの冷ややかな場所だった。薄暗い白熱電球をそそくさと点け、パンツに残った尿を気にもせずダッシュで二階に駆け上がった。
 土曜の午後になると開拓村の父たちが迎えに来る。父達の踏み跡は広く、カンジキの無い私たちはそこを踏み抜くと深い深雪に潜ってしまう。長靴の中には幾度となく雪が入り、泣きながら家にたどり着いたのである。
たらいに湯を入れたものを母が準備し、そこに足を入れるのだが軽い凍傷で足が痛んだ。痛みが引くと父の獲ってきた兎汁を食らう。特によく煮込んだ頭部は美味で、頬肉や歯茎の肉、最後に食べるのが脳みそであった。
一週間に一度だけ、家族で過ごし、日曜日の午後には再び寮に戻った。天気が悪くなければ子供たちだけで雪道のトレースを辿り下山するのである。私たちが見えなくなるまで母は外に立っていた。
 
 開拓村は山地であり、孤立していたので子供の数は五人ほどだった。
父親がアル中で働けない家庭や、若くして一家の大黒柱が林業で大木の下敷きになった家庭もあった。
若かりし頃、夢を追い、頓挫し、まだその魂に熱を取り去ることもできなかった大人たちの夢の滓。それが私たちだった。
 初雪が降ると、飼っていた家畜があたりまえに殺された。豚の頭をハンマーでかち割り、昏倒させ、頭を鉞でもぐと血液が沸騰するように純白の雪の上にぶちまけられ、それを煮た。
寒い、凍るような雪の日に、山羊は断末魔の声を開拓村中響かせながら殺されていった。
傍若無人な荒ぶる父たちの悪魔のような所業、そして沸点を超え父たちは狂い水を飲んだ。

 良という三学年上の友達が居て、危険を栄養にするような子だった。橋の欄干わたり・砂防ダムの袖登り・急峻なゴルジュを登り八〇〇メートルの狭い水路トンネルを通ったこともあった。冬は屋根からバック中をしたりと、デンジャラスな少年期を過ごしていた。
私は良という不思議な年上の少年に常に魅せられていた。
良は父を林業で亡くし、おそらくであろう、生保を受けていた家庭だったのかもしれない。
母が初老の男と交わる様を、冷酷な目で冷笑していた時があった。
まるで良は、感情を失い、冷徹な機械のようでもあり、いつも機械油のようなにおいをばらまいていた。
良の目は美しかった。遠くというよりも魔界を見つめるような獅子の目をしていた。彼は野生から生まれた生き物ではないか、とさえ思った。
良は、いつもいなかった。良の母が投げつけるように「婆サん方へ行ったろヤ!」そういうと、私は山道を駆け抜けるように進み、しかし、やはり良はいなかった。
今現在、やはり良はこの世にはいない。それが当たり前すぎて笑えるほどの生き様ですらあった。


昭和四十七年にかつての開拓村はスキー場として生まれ変わった。
いくつかの経営者を経、一時は市営となり、今は再び得体のしれない民間業者が経営している。
寂れた、人影もまばらな山村奥のスキー場に、私は今日も従業員としてリフトの業務に出かける。
第二リフト乗り場付近に目をやると、杖を片手に持った父が、すでに物置と化した古い家屋に向かうところであった。


          
         ※


開拓村には鶏のおびただしい糞があった
すべての日々が敗戦の跡のように、打ちひしがれていた
父はただ力を鼓舞し、母は鬱積の言葉を濾過するでもなく
呪文のようにいたるところにぶちまけ
そこから芽吹いたアレチノギクは重々しく繁殖した
学校帰りの薄暗くなった杉林の鬱蒼と茂る首吊りの木の中を
ホトトギスがきちがいのように夜をけたたましく鳴き飛ぶ

オイルの臭いから生まれたリョウは
月の光に青白く頬をそめ薄ら笑いをしている
白く浮く肌、実母の肢体を蔑むでもなく冷たく笑う
リョウは婆サァん方へ行った・・・
いつもリョウは忽然と消え、ふいに冷淡な含み笑いをして現れる
頑なだったリョウ、そしてリョウは死んだ
夢と希望の排泄物がいたるところに散乱し
その鬱積を埋めるように男たちはただ刻んだ
そう、私たちは枯れた夢の子供

一夜の雨が多くの雪量を減らし、ムクドリが穏やかな春を舞う
空気は満たされ、新しい季節が来るのだと微動する
普通であること、それは日常の波がひとつひとつ静かにうねること
それに乗ってほしいと願う
血は切られなければならない
私達の滅びが、新しい血の道へ向けてのおくりものとなる


朝、ホオジロは鳴いていた

  山人

父は固まりかけた膿を溶かし
排出するために発狂している
脳の中に落とし込まれた不穏な一滴が
とぐろを巻き、痛みをともない
いたたまれなくなると腫れ物ができる
透明で黙り込んだ液体を
父は胃に落とし込む
体の中に次々と落とし込まれる液体のそれぞれが
着火しエンジンを稼働させ
そのすさまじい熱量が怨念となってさらに引火し
いくつもの数えきれない父の仔虫が
いたるところに蠢きながら断末魔の声を発している
仔虫は幾千の数となって床を這いまわり
父の怒声から次々と生まれては死亡している
       ※
真冬、季節は発狂していた
冬という代名詞は失せ、無造作な温暖が徘徊していた
あたかもそれは衝動的な狂いではなく
ひたひたとあらゆる常識の礫が破壊され
あきらかに季節は発情を迎えていた
消沈した寒さは時々痛みを加えるが
その底に居座るのは穏やかな発狂であった
       ※
寝息が不快な音源となり
目が沙え眠れない夜
黒く闇は脳内に穿孔し
糜爛した傷口から生み出される不安
それらは正常なものから逸脱したやわらかな異常
狂いはしずしずと執り行われ
負の同志を増殖させ穏やかに発狂している
       ※
目指すは美しい発狂ではないのか
古い病院の鉄のにおいや
メチルアルコールのにおいではないだろう
リノニュームから逃れたところに田園はある
ところどころ雑草が生え、そこに
見たことのない美しい花が発狂しているではないか


gear

  山人

整然とたたずむ物達の群れが一心不乱に存在していた
確固たる意志と使われるべき時に備え、静かに眠っている
発情した野良猫の奇怪な声や、地の底に落とし込むような梟の声
建物の背面を擦るように鳴く夜の風の音にも動ずることもない

朝、道具は静かに使い手によって所定の保管場所から取り出され、水を掛けられる
使い手の指先がその刃先をなで、静かに作業は執り行われる
材が鋭い刃によって左右に押し分けられ使い手の意思によって成形される

道具を使いこなす、というよりも、その道具はすでに生きているのだろう
使い手の細胞が道具に入り込んでいる
もとは、何の変哲もない器具や道具であった
しかし、使い手の思いや、日々の理念が道具に命を送り込む
使い手にとっての道具はこどもであり、妻でもあり、兵でもある
道具を磨き、寝心地の良い寝室を用意し、静かなひと時を過ごさせる
それによって、道具はいつも満たされていると感じ、使い手に仕えていくのだろう

使い手の安堵によって、道具は飛翔する
愚直に物として存在し、使い手との出会いを待っている


海へ

  山人

海の中の貝が
すべて心を閉ざしているのなら
真実は海底へと潜っていくだろう
貝は静かに砂に身を置き
塩辛い海水の中の養分を
ぱくりぱくりとつぶやくように
食べている
貝は夢を食べ
砂とともに時を過ごし
塩辛い水に身を浸して
その夢ごと貝殻に閉じ込めて
なめらかに生涯を終える



テトラポットに打ちつける波が
なにかの爆裂音のようで
心音とともに カモメの低空飛行を見ていた
きっと波の中の空気がわだかまり
雪のような泡となって
未だ冷たい春に怯えている

水平線のはざかいで
船が浮かんでいる
いずれ視界から消えるであろう船の上を
海の生ぐさいにおいに促されて
多くの海鳥が飛翔している

流れ着いた漂流物を眺めながら
僕たちの宝物の話をしに
君を誘う日が
来るかもしれない

貝の声がとどく日に


発信

  山人


人々はどこに向かうのか
それぞれが口を結び、皮膚の下の血液は静かに流れていた
生きるために日々を送るのではなく
どんな死にざまをするかのために
人は歩いていた

現実の平面に立ち、日々を送る
ふくよかに肥った現実はとても強固だ
その硬さを
水が、石を摩耗させるように
ゆっくりと時間とともに
ひたむきに念ずることで硬さは溶け出してゆく

*

古い映画に出てくるような、町の一角の公園のベンチには
Yシャツの袖をまくり、静かに清涼飲料水を飲む男がいる
足を軽く組み、いくぶん右側に重心が傾けられ
左手をベンチの隅に立てている
清涼飲料水が空になると、男はまっすぐ座り
呪文のように独り言を言い始めた
表情を変えることもなく、淡々と同じ抑揚で唱えている
口から放たれた言葉は自由だ
発せられた言葉は、空間で凝固し
やがて小石のように地面に落下した
砂粒の少し大きいくらいの石粒が地面に落ちている

              *


それにしても、神たちは多く居るものだ
神の数すら誰も知らないが、人の数ほどいるのかもしれない
それほど多い神は、日々無碍に過ごし
如何なるところにも佇み漂っている
公園の滑り台や、道路のガードロープに
それぞれおもいおもいの座り方ですわり
特殊効果のように奇怪な動きをし
わざとらしく衣服を風になびかせている
神は働きたがっているようだ
時間は穏やかに停止され
小さな神たちが一心不乱に
男の吐き出した言葉の石粒を籠に入れている
小さく風が吹くと
有翅昆虫のように空中へ飛散し始めた


砂漠の中のひとつぶの砂のような奇蹟
可能性に向けて自由を得た
どこか知らない宇宙の一片に
動力があるとすれば
それは神たちのコロニーなのか母なのか
あらゆる物が攪拌され
やがて光が生まれ出る
              



とある日
公園のベンチにあの男はふたたび座っている
携帯が鳴ると男は礼を言い
穏やかに口元から一つの言葉が発せられた

男はずいぶん老いてしまっていた。


五月の雨

  山人

草や木の葉が雨に濡れている
五月の雨は麓の村を包んでいた
蛙はつぶやくように、りりりと鳴き
アスファルトは黒く光っていた
そうまでして生き物たちは
生きなけばならない生きなければならないと
季節をむさぼる

雨は、
その深部にしみこみたくて
どこか、
スイッチが入れられて
次第に空気が湿り
その細かい霧粒が固まり
落下したいと願ったのだった

雨は平坦な記憶をさらに水平に伸ばし
過去を一枚とびらにしてしまう
その一点に思考が集中するとき
ふとコーヒーの苦みが気になるように
記憶の中に鉄球を落とす

少し、遠くまで歩こう
そう思いかけた時、雨は強くなった
隣人の柿の木が枝打ちされている
のを見ていた
雨はそこにだけ降り積む
誰かが誰かのために
何かが実行されたのだった

雨は降るのをやめなかった
緑も濃くなることをやめなかった
すべては何かのために変わり
なにかを生んでいく

うすれていく光源は
不確かにともされている
無造作に伝達士は言うかもしれない
あたりまえに普通のことばで
その語彙を受けなければならない
一度は解読しなければならないだろう

集落の朝のチャイムが鳴り始めた
今日も食事を摂り、排泄し
歯も磨くだろう
食後の投薬をすませ
背伸びをするかもしれない


  山人

使われていないテニスコートは、吐瀉物と下痢便の様な汚泥とともに、何年もの堆積した落ち葉が敷き詰められ、私たちはそれを撤去するために荒い吐息と、鉛のような腰の痛みと、まとわりつく害虫に悩まされながら肉体労働に精を出していた。しきりに耳元で、狂ったバイクのアクセルの様にいやがらせの羽音を蹴散らす害虫に悪意はなく、神の声に従い飛んでいるに過ぎなかった。作業手袋と作業着の間の皮膚に吸血する虫たちの食餌痕の血液が皮膚に散らばっている。鉄分の混じった泥と落ち葉の黒く土化したものから発せられる特有の悪臭が、私たちを人間から獣へと生まれ変わらせ、ついには土とともにのたうち回る虫にまで失墜していた。しかし、私たちはすでに使われることのない、今後使われはずのない、テニスコートの声をずっとずっと聴いてきた。私たちが私たちのために施した、この鬼畜の作業の中でテニスコートは声を発していた。こそげ採った泥のあとを暑い日射と風が通り過ぎ、あたりは何事もなかったように平面をさらしていた。それが声だった、かつてテニスコートだったはずの平面の声だった。
私たちの声とテニスコートの声が、寂れた施設のなかで静かに交わっていた。


僕の少年

  山人

薄くひらかれた口許から 吐息を漏らしながら声帯を震わす
まだ 生まれたての皮膚についたりんぷんを振りまくように
僕の唇はかすかに動き なめらかに笑った

足裏をなぞる砂粒と土の湿度が おどけた動きをリズミカルに舞い上がらせ
僕はその 遊びの中で
くるくる回りながら気持ちを高揚させていた

土埃の粒子が何かのエネルギーに吸着され 一度残酷に静止した
世界はやはり 僕の回りで凍り始める
--あなたから発せられたひとつの言葉--
静かに細胞は壁を破砕し 平らに横たわっている
ジャングルジムの鉄の曲線に 僕の眼球は一瞬凍りつき
やがて ぐらりとそのまま土の上に落下した
僕の中の仔虫たちは惨殺された

緑の林縁はオブラートに包まれ 目はしなだれた
複眼に覆われた ぼんやりとした視界があった
土を丸く盛り 仔虫をひとつづつ埋葬し目を綴じた

あの日 僕の中の少年は
--あなたから発せられたひとつの言葉--
によって撃墜された


*

たおやかに流れる豊年の祝詞の声
村々にたなびく 刈り取りの籾の焼けるにおい
はるか昔の 少年は
薄く染められた秋の気配に
どこかの葉先の水滴に 映し出されている
僕の中の少年はまだ死んでいるけれど
少しづつ僕は
ながい呪縛から抜け出そうとしている
ゆるやかな階段を降りるために


ガラケー

  山人

半覚醒状態で掛布団の下でうずくまる
地球外生命体の逃亡者のような私は
テレビの声だけ聴きながら丸く横たわっている
いっとき、毒水は体を掛けめぐり
麻薬のように高揚したかと思ったが
今は、毒々しい血液を運ぶために
鼓動はうるさく高鳴っている

きっと生まれた星は何処かにあって
こんな 
夜の雨が似合う天体なんかじゃなかったはずだと
うっすらと眼を開けてみる

はるか何光年の前に
たしかにルーツがあって
それが光となって到達し
芽吹いた命
旅を重ねていたころの記憶はないが
たしかにどこかの宇宙から来たのだ

記号のような名をずっとつけられて
こんなに加齢した体を押し付けられて
夜の雨音を聞いている

妻のような人が
部屋の電灯を消した
ずっとよその星の人と
思っていたに違いないのに

黒くくすんだ布団の中で
携帯のふたを開けて
遠い星からの
伝達がなかっただろうかと
やはりうるさく響く夜の雨音を聞いていた


  山人

目を開けたまんまの
ぬるぬるの
水を切るように泳ぐ生き物
魚になって
川を泳ぐんだ
川面の虫を捕らえて
ぱくりと
岩陰へ潜む
心地よい風は水
液体の風
だから風の摩擦を感じる

あなたは川
繰り広げる歴史と重さを漂わせ
私はあなたの中を泳ぐ
あなたの流れに
摩擦に促され
私はあなたの
水みちを泳ぐ


*


私は気弱な動物にさえなれず
眠ることも許されない魚だ
潮の重さに鱗をはがれながら
私は泳ぐ
瞼は閉じられることなく見開き
形はいつも同一の流線形
立ち止まって考えることもなく
私は泳ぐ
鱗を擦る海水の直喩の肌触り
時折さす海面のまなざし
口から肛門へと流される思考
私は魚だ
魚以外に生きていられなかっただろう


野紺菊

  山人

蛾がおびただしく舞う
古い白熱電球のもとに
私はうずくまり
鉛の玉を抱えていたのだった

来たる冬はすでに失踪し
魚眼のように現実を見つめている
そして体内に大発生した虫
幼虫の尖った口が震えながら胸をつつく

すべての事柄に
深い意味があるのなら
まるで体をなしていない
この鉛の塊に
どんな意味があるのだろう

夏は終わった
やがて道端には、あの
鮮烈な紫色の野紺菊が
きっと咲くだろう

しろい決断の前に
あざやかな色どりの野紺菊が
少しでも胸の虫どもを
やさしく殺して欲しい


清水のあるところ

  山人

通る車もない、山間のアスファルト道路の端に、うっすらと冷気の上がる清水があった
名があるわけではなく、灰色の塩ビ管が埋め込まれ、その脇にかつて子供が使っていたであろうか
イラスト入りのプラスチックカップが伏せてある
農民が一日数回通るであろうその道路は、雑草が蔓延り
熱病に侵されたヒグラシとニイニイゼミの沼のような鳴き声しかなかった
どの位の深さから湧き出るのであろうか、その地下水が地上に顔を出し、こぽこぽと容れ物を満たし
多くの人の喉を通っていったことであろう
その清水のことを知ったのは、数日前であった
こんなにも純粋で冷たく清涼な液体が、まだいたるところに残されているのだった


遠い昔のことだった
隣人の朝子は浅黒い顔で足が速く、彼女の後ろを息も絶え絶えになって走って行ったものだった
ゴールは「清水のところ」と決まっていて、そこには決まって冷気が上がり
大きなフキの葉がたくさんあった
こうすれば飲める、と、朝子はフキの葉を裏側に曲げてカップ状にし
そこに冷気の上がる清水を入れて、唇からこぼれる清水を拭きもせず飲み干していた
フキの葉独特の香りが、純粋な水と絡まり、腹の中に収まっていったときに
たぶん私たちは互いの顔を見合いながら笑っていたのだと思う



午後の日差しは容赦なく私たちを照らし
荒唐無稽のような舞のように体を躍らせ、働いた
一服の時にはその、汲んできた清水を飲みながら
朝子の首筋から光りながらなめらかに流れ落ちていった
あの、清水のことを思い出していた
休憩が終わるころ、再びヒグラシは強く鳴き
やがて夕立の音が聞こえ始めていた


山道へ

  山人



明けない朝、雨音が体中にしみこみ、体内に落とし込まれている
体内にピカリピカリと衛星が動き
コーヒーの苦い液体が少しづつ私を現実の世界へと導いていく
ありったけの負の感情と、希望の無い労働のために
むしろ、その負の中に溶け込んだおのれを
苦みとともに臓腑の中に流し込んだのだった

言えるのは、戦いは終わらないということだった
命が潰えるまで続くのだよと
漆黒の闇の中に虫の音の海があって
その音が戦いの継続を示唆している

ゆっくりと私の魂は黒く沈殿してくる
あきらめが脳を支配し、しかしそれは虚脱ではなく
たしかな戦い

雨音は私の内臓の各所に点滴され、脳をも溶かし
私はきっと名もない羽虫のように
無造作に表に出ていくのだろう


       *

入り口はこちらです
あらゆる光景は
私にそう言っていた

ぬめった木道の傷んだ罅に雨が浸み込み
雨は暗鬱に降っていた
季節外れのワラビの群落が隊列をつくり
朽ちかけた鋼線のように雨に打たれている

現実という苦行の中に砂糖水を少し加えれば
さほどでもないだろう
と、山道の蛞蝓は光った
これは苦しみではないのだよ
名もないコバチの幼虫に寄生された毛虫は
季節外れの茎にへばりつき
死を免れる術を知らず、まだ生きている

私はクルクルクルと現実のねじを巻き
体を迷宮の入り口に放り出すのだ
そのあとは勝手に私という生命体が山道を歩きだす

熱は発露し、汗を生み、熱い液体が額から次々と流れ落ち
私はただの湿ったかたまりとなる
作業にとりかかれば、そこには思考の雑踏があらわれ
そのおもいに憑りつかれ、酔い、やがて敗北する

作業の終焉を祝福してくれるものは一介の霧だった
朽ちた道標がのっぺりと霧に立ち
黙って私の疲労を脱がせていた


  山人

静かな日曜日だった
私は雨を見つめていた
雨は何一つ語ることなく、地面に降り注ぎ
そして何も主張することなどなかった
私と雨は窓を挟み、内と外に居た
それぞれが語るわけでなく
心と心を通わせ対話した
雨は私を按じていた
私が私を痛めつけることを見ていた雨だった
そしてひたすら雫を落とし続けたのだ
雨は、私の心も濡らし
あらゆる臓腑にまで降り注いだ
しんなりとした空間を提供し
私をずっと停滞させていた
雨だから。
私は雨をむしろ歓迎していたのかもしれない
暗鬱に降る雨だったが
私はそれをどこかで望んでいたのだろう

雨とカエルは同化していた
雨の湿度を感じたカエルは鳴き
それに呼応するように
しっとりと雨はカエルの皮膚を濡らし
悦びを与え続けていたのだ
カエルは言った
「ころころ」
雨に濡れた半開きの目をしたカエル
恍惚の表情で天を眺めるカエル

静かな日曜日だった
なにもしてはいけない
なにもしなくていいんだ
私はそうして静かにシュラフにくるまり
静かな日曜日の
雨の点滴をずっと聴いていた


水底

  山人



ゆらゆらと浮かんでは漂う
名もない海面の水打ち際で
取り残されている

次第に水分を吸い
やがて海底に沈んでいくのだろうか
誰も知らない青い水底に
目を剥きながら
静かに

誰にも掬い取られることもなく
しかしながら
それも命
運命などと安っぽい言葉が
ぺんぺん草のように蔓延る中で
真実は無残にもざっくりと切りつけられて
海底に沈む

できるものなら
暗黒の底に棲む
チョウチンアンコウたちが
そっと灯火を照らし
一瞬でもその言葉たちを
浮遊させてくれることを
儚く望むものである。


沈黙

  山人


山道の石の沈黙を見たことがあるだろうか
ぎらついた欲もなく、うたう術も持たず
息を吐くこともない
おそろしいほどの年月を沈黙で費やしてきたのだ

いっとき降りやんだ雨と
鈍痛のような、まだ明けない朝の重みが
うしなわれた心臓のような沈黙を保っている

未来が遠すぎてどうにもならなかった男の朝に
つつまれるのは確かな沈黙だ
右往左往するひずみを超えたそこにあるのは
動くことも忘れた
沈黙だった

うしなった唇の向こうに見えるものはなんだ
様々な音が狂おしく葉を撫でて
いたるところにばらまかれている
沈黙が
徐々にではあるが
空へと飛翔し始めていた


星狩り

  山人


君と星狩りに行ったことを思い出す
空が星で埋め尽くされて、金や銀の星が嫌というほど輝いていた
肩車して虫かごを渡し、小さな手で星をつかんではかごに入れていた
ときおり龍が飛んできて、尾で夜空をあおぐと、星がさざめいた
君の寝床の傍にかごを置いて、彼らの好きな鉱水を与えるとよくひかった

文学極道

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