蜜の、臭いの漂う限界庭園には、陳列された躑躅のサンプルがあり、押し黙った庭師が敷地をあるく。初めに映し出されるのは、手。接写状態の、傷だらけの手のしわ。老いた猿の知恵深さと、ヒトの狂気と、神の精密さをあわせ持つ。続いて、突如、遠景であるはずの容れものが、つまりは、この限界庭園の全体が、ぼやけて不確かな像を結ぶ。あらかじめ、定義された大気が動き、花粉や虫の糞やらを、あらぬ方位に運び去っている。
ひとつの躑躅をしらべ終わると、次の躑躅が、拡大して顕れる。限界庭園には、近景と、遠景しかないから、視覚は、常に極端をスイッチする。庭師の手は雨垂れに濡れ、断続的な、時の侵食に奇しくも犯されて、架空の神の、魚眼レンズとなる。ヒトにとっての、悔いとなり得る。
ところで、更なる次の躑躅のサンプルは、突如、花ひらく。それから、限界庭園のかたい石床の、水溜りへと花びらをばら撒く。蜜の、臭いで雨を閉じ込め、葉むらの構造の深い底で、夢をむさぼる。青いビニールで補完されている、庭師の極めて長躯のからだ。雨を吸いこむ株の向こうに、それが遠景で時おり見える。温帯の、豹やライオンが持つ疲労尿素と、気高い孤独とが、来園者の胸を打ち、愕かす。
透視図法の、雨垂れの連続は、残酷な手つきでこの限界庭園を、猿と、ヒトと、神がなすこの無意味な実験を、始終、飽きることなく包囲し続ける。雨が弱まると、庭園の敷地の限界が、音もなく膨らむ。雨が強まると、魚眼レンズごしに見た曇り空は暗く、庭師、ライオン、神、来園者、躑躅までを含め、すべてが定位して怖ろしくひき締まる。
さて、終りの躑躅のサンプルは、だんだんに巨大化を止めない。限界庭園にとっては、危機とも、久遠ともいい切れる、あの庭師のビニールの青。ぼやけたそれが近景となる。雨垂れに犯されると、多くの花が、突如、震える。猿の手が、均一に育て上げたあり得ない球。株分けに、株分けを重ねた、躑躅のコピー。いちいち、雨をはじく花びらの芯が、限界庭園の近すぎる空を、勝手に夢見ている。密生に、密生を重ねた大気の密度が、雌しべのひとつに、接写していく。別の、来場者がとおり過ぎ、庭園の記録に改行を増やす。最後に映し出されるのは、手。老いた猿の知恵深さと、ヒトの狂気と、神の精密さをあわせ持つ、という。
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黒沢 - 2011年分
限界庭園
亡国
*
あけ方 火の柱が
空を訊ねるにの腕に見えて
ドアの外では
途が
焼かれているのかと思う
食器
羽をぬらす鳥
みずは地下茎となり
吃音となって
やみへ ひろやかな波形図へと至る
*
目が、暗たん
という
非対称は気にしない
焔がはやく 侵入してきて
とまった舌や
雨の予兆を
他愛なくそして生ぐさく思った
*
今度うまれ直したら
マジシャンになって 恥じらい
みたいな
悪い
布でまどを被うの
私は ひと、
となり
よび名を塩ぬきされていく
真昼のふれる月なのか
*
目を 見かえすと光りが溢れ
みず雲がはしるように
時間が煙るから
疲れがおりてきたよと火遊びを中断する
指を別のところへ絡めると
今さらなのねとその目が、移ろい
教えが嘘だったらしいとシーツの端に
浅ましい言葉たちを隠した
羊飼いになりたかったけれど
治めるべき故国も
暦すらも持たないから
ふいに誰もが
死びとみたいだと愕いてしまう
光りが溢れてくる
直ぐにそれらが失調することを知っている
居眠りのため
そっとぜん身をずらしていくと
これでもかと、何処かに墜されていきそうだ
シナガワ心中
星が、縺れ
ひきつりながら後退していく
瞳の表てに 何かが
写り、
母と呼ばれる無限のそうしつの
暗いどよめき
― 私と貴方は、同じ階段を、べつべつに下りていく。
上空、どれほどの高さだったか。ほそ長い階段が、ぶきように延ばされた飴細工のように、闇を伝い、宙づりの影を縫って、彼方の市街地へと下降している。色とりどりの立体灯火。貴方は途中、何度も足をやすめながら、軌道の向こう、 滲んで見える品川の全景を、しつこく指差した。
*
もう 此処でいいですか
かあさん やはり違うんです
― 風が、うごく。
予想外の焦点のゆれ。遅れてきしむこの階段を、何時から下りはじめ、いつになったら、私と貴方は辿り終わるのか。それを考えるにつれ、謂れのない疲労を感じた。
此処でいいですか
*
年老いた彼女は、汚れの目立つ手すりに掴まり、己れの足運びを何度も反芻して、思い返すみたいに、時間をかけて前へ進んだ。
息をのむ近さで、馬や、ラクダや、いて座や、近未来や、有り得ない生きもの達の星座が流れ、右やひだりを遷移していく。母は時折、見えづらいはずの瞳を伏せ、やみ雲に光りを追いかけて、名前を与える。
*
教えられる、
発話のしかた
事物の名称
世界のふところ
内奥、
ということ
― 父の顔を捜していた。
彼女に聞かされたその投影は、この上空の何処を求めてもない。あれは、ばら色星雲ですか。私の声を受けて、母がかさねる。あれはお前に、ずっと昔にくり返し教えた、にくの欠片。
*
かあさん やっぱり違うんです
階段は品川の、時代遅れのネオン街に下りたつ。地上で立ち止まると、却ってぐらぐら視線がみだれた。かあさん、少し、よりすぎだよ。
― よりすぎですよ。
パチンコ屋の裏口が見えた。仕事を終えた勤めにんやら、休憩時間の店員やらが、ごみのバケツを覗き込んでいる。電線の向うには、曲りくねった化学照明が吊るされていて、夢の名残りを辺りにばら撒く。かあさん、ここではないですからね、私は先回りした。
*
明りのなかで見ると、貴方はぞっとするほどの生めいた瞳だ。水の淡いで星が泳いでいて、ゆれやすい生きものを形作る。父ではない、他のにんげんの顔が横切り、私は嫌悪からでなく、怖れのために先を急いだ。地下道にはいる。銀の移動体が通りすぎていく。列車、だったか。
もう 此処ならいいでしょう
未だなのですか
はは、とは
彼女は
呼び名ではなく、
*
改札では、足もとの覚束なかった彼女が、今では黙って後ろを歩いている。地下道は、線路を伝い、行方のわからない排水溝や、非常経路を縫って、もう暫らく続くのだろう。見しらぬ花が、咲いている。私はそれに言及しない。綻び、きえた風の見取り図。頭上で駅員のアナウンスが、ひずんだマイクで拡大された。
― 暗いどよめき。
終端にきて、地べたのマンホールをずらすと、また、内奥から闇があらわれた。私と貴方のうす寒い目前に、べつの階段があり、それは飴細工のように、ぶきように引き延ばされて、さらに深くへ下降していく。かあさん、未だまだ、終わりはこないようです。
*
星が、見える
生きものは
かたむき 死滅して
渦を巻いている
無限のそうしつと
発話したのは私だったか だれ、
だったのか
おそらく品川のビル群が見える。遥か足下で、識別灯が、気が遠くなるほどの疎らさ、じれるような間隔で、明滅を続けていた。