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岩尾忍 - 2011年分

選出作品 (投稿日時順 / 全1作)

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as a carrier

  岩尾忍

風の流れる音だけがしている。もう死なず、死ぬはずがなく、膝を抱えて笑いながら彼は、交互に訪れる悪寒と高熱を数える。どちらにも用途がある。それから全身を埋めてゆく発疹を、こよない恍惚の表情で認める。春。太陽に無縁の花期。

「ここは病院だった、昔は。」「今は何?」「さあ、電波塔かな。」

その日から記憶は始まる。以前には何もない。あの秋の空の澄み切った午後、ここに来て、停止した大小の計器と、塵を浴びたシーツと、観念でしかない死者たちを片寄せ、一人分の空間を作った。そして待ち始めた。最初の症候を。

戸の裏は一枚の鏡。戸をとざす彼の手の平凡な五裂が映り、

(誰がいたのかは知らない。)

「ここ」と呼ばれた点が

散乱し、

最初の発熱の中、頬を紅くして、彼はその鏡の面に中指の先で書いた。彼の経血で。Welcome to the world of―― だが指はその位置で止まる。彼は彼の病名を知らない。いや、誰も知らないのだ。今ようやく破綻する嚢、摂氏三九度五分の培地に、彼が今咲きこぼすものを。

「宇宙がある、包帯がある、目がある、不在がある、これで永久に遊べる。」

知りうる限り、部屋には通気口が一つあり、一つしかない。それは彼の頭上、天井の一角にあり、人の顔ほどのパイプの断面だ。その円周には細く刻まれた白い紙が貼られ、びらびらと靡いている。常に靡いている。外へと。

知りうる限り、部屋には通気口が一つあり、一つしかない。にもかかわらず、風は吹いている。吹き続けている。風は彼の体表に触れ、ひしめく疹丘の一々をたどり、その頂に滲み出すものを、熱い舌先で舐めつくすようにして吹く。そして彼を過ぎ、白い紙切れを軽く震わせて抜ける。

彼は笑っている。とうに正気など必要ではないから、と医師ならば言うだろうが彼には彼の理由がある。笑うべき理由が。

風は吹いている。外へ。彼は笑っている。笑っている。その声は音節を成し、薊の冠毛が吹きちぎられるように、やがて、一連の言葉として洩れる。ユケチノハツルマデ。

文学極道

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