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ヌンチャク (葛原徹哉) - 2015年分

選出作品 (投稿日時順 / 全9作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


くろひげききいっぱつ

  ヌンチャク

みゅう(※)、さくたろう(※)、
いいこに してますか。
パパは いま、
おしごとちゅうです。
あさからの あめが、
ゆき(※)に かわって、
はやし(※)も、
みち(※)も、
まっしろです。
ゆきや こんこ、(※)
きつねも こんこん、
ふっても ふっても、
ふりふり ポテト。
おうちの ほうは、
どうですか。
おにわに ゆきが、
つもったら、
ゆきだるまを つくれますね。
ぼく オラフ、(※)
ぎゃーっと だきしめて!
きょうは、
せいじんのひ(※)です。
おとなに なった、
おいわいを するひです。
おさけを のむひ(※)では ないですが、
いつか みゅうと さくたろうも、
おとなに なったら、
パパと いっしょに のみましょう。
やきとりやで せせりでも かじりながら、
こどもの ころの おもいでばなしや、
しょうらいの ゆめ に ついて、
(あるいは し に ついて)
おおいに、
かたりあいましょう。
いつも、
パパが おうちに かえったら、
ママと みゅうと さくたろうが さんにんで、
いちどに しゃべって くるものだから、
じ ゅ ん ば ん !(※)
パパは こまってしまうのですが、
おとなに なっても、
パパと たくさん おはなし してください。
みゅうは さいきん、
さくたろうの めんどうを よくみて、
すごく しっかりした、
おねえちゃんに なりましたね。
もっと たくさん、
あまえても いいですよ。
さくたろうは やんちゃで、
みんなに しょうらいを、
しんぱいされて いるけれど、
パパは なんにも、
しんぱいなんか していません。
みゅうも さくたろうも、
ぜったいに だいじょうぶ。
なにが、
と きかれると、
なんのことだか わかりませんが、
パパの いうことは、
あたります。
しんじる、
という ことばの いみを、
パパは しっているからです。
きもちは ねつです。
ことばは ひかりです。
パパは そのふたつを もっているから、
いつでも みゅうと さくたろうを、
あたためることが できるし、
てらすことも できます。
パパが おうちに かえったら、
きょうも くろひげききいっぱつ(※)で、
あそびましょう。
パパは もうすこし、
ファイトいっぱつ、(※)
おしごと がんばります。
ぴょん、って とばないように。
ゆきが つよく なってきました。
でんしゃも とまるかも しれません。
アレンデールが き き な の よ。(※)
ことしも せいじんしきは あれんでーる。
どうか あんな おとなだけには ならんでーる。
あざわらう ヤンキイは いやだ いやだ!(※)
いつか まとまって やすみがとれたら、
おんせんりょこうへ いきましょう。
きょうの ひの かたまりに あう、(※)
おいしい かにを たべましょう。





※ 詩の女神ミューズから名付けました。(大嘘)

※ 萩原朔太郎から名付けました。(大嘘)

※ さおりじゃない。

※ ますみじゃない。

※ やすえじゃない。

※ 『雪/文部省唱歌』の替え歌。

※ 『アナと雪の女王』に出てくる雪だるま。

※ さっくんはおっぱい星人。

※ 週に二日は休肝日をつくりましょう。

※ 『となりのトトロ』より引用。

※ 『黒ひげ危機一発/タカラトミー』
  パーティーでやると盛り上がるよね!
  文極史上初(?)のステマポエム。

※ 『リポビタンD/大正製薬』
  美味しいよね!
  文極史上初(?)のステマポエム。

※ 『アナと雪の女王』劇中歌より引用。

※ 『秋の一日/中原中也』より引用。

※ 『今日の日の魂に合う
   布切屑をでも探して来よう。』
  引用のために『秋の一日』を読みかえしてみて、
  今さらながら気付いたんですけど、
  僕は今まで20年以上も、
  なぜだか『魂』を『塊』と誤読していたのでした。


無言電話

  ヌンチャク

ふた月ほど前からだろうか/毎晩眠りにつこうとすると/無言電話がかかってくるようになったのは

非通知でかかってくるそれを/無視するか着信拒否をすればそれで済む/ありがちな悪戯だったが/何故だか私は毎晩律儀に/無言電話を取り続けた

部屋の灯りを落としまぶたを閉じると/携帯がビリビリ震える/私は青白く光るディスプレイをぼんやり見つめ/無言のまま通話する/小さな携帯を耳に押しあて/暗闇の向こうに耳を澄ます/言葉どころか/息づかいすら聞こえないのに/確かに気配だけは感じるのだ

何故無言なのか/私は不思議だった/私への嫌がらせのつもりであれば/憎悪にしろ嘲笑にしろ/何か言いたい事があるのではないのか/言葉にならない声に/私は無性に興味を引かれ/しまいに無言電話を心待ちにするようになっていた

いつも知らないうちに眠ってしまう/そうして決まって夢を見た/私は小さな魚になっていて/青い海の中を一匹で泳いでいた/親もいない子もいない恋人も友人もいない/静まり返った海の中を/ゆらゆらとあてもなくさ迷っていると/突然辺りが闇に覆われ/雷鳴と共に嵐がやって来る/激流に飲まれながら/助けを求める為なのか/それとも危険を知らせる為なのか/とにかく私は大声を上げようとするのだが/どれだけ喉を開いても/まったく声が出ないのだ/そしてまた/仮に大声が出せたとしても/それを聞く者は誰もいないという事実に/私は嵐よりも酷く打ちのめされる

無言電話を聞き続けているうちに/私はある事に気が付いた/私が相手の声を聞きたいと欲しているように/相手もまた/私の声を聞きたがっているのではないかと/つまり何か言いたい事があって電話をかけてきているのではなく/私から何かを聞き出す為に/私の言葉を待っているのではないかと/私は何を話すべきなのだろう/生まれてきた朝の空の色/小さな頃の兄弟喧嘩/初めて触れた女の子の髪の匂い/人を傷付けてしまった夜/言いたい事はたくさんあった/けれどもそれを言い表す言葉はどこにもなく/私はいつまでも無言のままで/今夜も一人着信を待つ

貝殻のように携帯を握り締めると/かすかに/波の音が聞こえた


ふるさと

  ヌンチャク

さっくんと男同士
風呂に入る
タイルに貼った
にほんちずを見ながら
話をする

さっくんがうまれたのはここ
なら
だいぶつの絵が描いてある
パパがうまれたのはここ
ながの
ぶどうの絵が描いてある

  今でも生家は長野にあるが
  私の帰る家はない

  生きていくのに邪魔になったら
  いつでも親は捨てて行け

さっくんのふるさとはここ
なら
だいぶつの絵が描いてある
パパのふるさとは
このちずの
どこにもない


ポエム、私を殴れ。

  ヌンチャク

メロスは激怒した。
必ず、かの厚顔無恥の王を
除かなければならぬと決意した。
メロスには現代詩がわからぬ。
メロスは、腐れポエマーである。
ホラを吹き、ポエムを書いて暮して来た。
けれども自意識に対しては、
人一倍に敏感であった。

と、ここまで書いて、
ヌンチャクは思った。

一人の作者だけから全文引用して、
自分の作品とするのは、
たしかアウトだったかな。

そうだそうだ。
引用なんてくだらない。
所詮は借り物の衣装に過ぎない。
太宰マントは脱ぎ捨てろ!
おまえは誰の言葉でもなく、
自らの言葉で、
語らねばならぬ、
おまえの愛を。
おまえの詩を。
夕陽が沈む前に。
走れ、僕のメロス。
ポエろ、僕のメロス。

 ぼくは新しい倫理を樹立するのだ。
 美と叡智とを規準にした新しい倫理を創るのだ。
 美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。
 醜と愚鈍とは死刑である。
 『もの思う葦/太宰治』

あ、また引用しちゃった。
アウト?
セーフ?
よよいのよいっ!

  おまえたちは、わしの心に勝ったのだ。
  虚飾を脱ぎ捨てた、
  この裸身のような心で、
  わしも仲間に入れてくれぬか。

  王様!
  改心するの早いって!
  まだセリヌンティウスも呼んでないのに!

王宮に、
メロスの竹馬の友、
セリヌンティウスが呼び出された。
久しぶりの再会であった。
メロスを見るなり彼は言った。

  王様、裸じゃね?

セリヌンティウスはすぐさま刑吏に捕らえられ、
処刑台にくくりつけられた。
ざわめく聴衆に、
彼は必死に訴え続けた。

  ボロは着てても心は錦!
  一糸纏わぬ裸は裸!
  引用してもいいんよう!

 ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む
 ぎんぎんぎらぎら 日が沈む
 『夕日/作詞: 葛原しげる』

アウト?
セーフ?
よよいのよいっ!

夜酔いの宵っ!

  看守長!
  さきほどから部屋の隅で、
  何やらブツブツとあの囚人が、
  様子がおかしいのでありますが、
  大丈夫でありましょうか?

  放っておけ。
  あんなキチガイナイスガイ、
  裁判を待つまでもなく、
  じきに国外追放だ。

公序良俗に反した罪で、
牢に入れられている全裸のメロスに、
緋のマントをかける少女はいない。

 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、
 ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、
 『斜陽/太宰治』

 金比羅船々追風に帆かけてシュラシュシュシュ
 『民謡』

 シュリケン、シュリケン
 シュシュシュシュシュ!
 『さっくん忍者参上!/ヌンチャク』

ポエム、私を殴れ。
音高く、私の頬を殴れ。
私は一度だけ、君を疑った。
いや、二度。
嘘、三度。
土台こんなものは詩でないと、
誰に裁く権利があるものか。
とりあえず私を殴れ、
私も殴る、
そうでなければ私には、
君と抱擁する資格さえないのだ。

微笑むポエム、ポポエム。

ヌンチャクは、ひどく赤面した。


モロゾフ

  イヤレス芳一

バスケ部の練習を終えて
川沿いをチャリで走っていると
いつもこの時間
クマみたいな犬を散歩させてる
おねえさんとすれ違う

モコモコフワフワの茶色い毛
鼻の低い丸い顔
どう見ても犬じゃない
でっかいテディ
ヌイグルミみたいなやつ

なんて言う種類の犬か
おねえさんに聞いてみようと思いながら
白いワンピースがヒラヒラするから
眩しくて
いつも
聞きそびれる
なんだか自分が
いっつも失敗ばかりしてる
チャーリー・ブラウンみたいに
すごくダメなやつに思えてきて
心の中でわーってなって
チャリを立ち漕ぎする

犬の名前がわからないから
勝手に
モロゾフと呼ぶことにした

ダラダラと練習サボって
ガンちゃんにシバかれた日も
もうこんな部活辞めてやるって
チャリでブッ飛ばしたけど
川沿いを
モフモフとモロゾフが歩いてきて
ぼくのことなんかまるで
興味がないとでも言いたげに
チラ見してシカトして通りすぎて行って
ワンピースがヒラヒラヒラヒラしていて
なんだかやりきれなくて
モロゾフのやつ
おねえさんのくるぶしを
うれしそうにクンクンしやがって

真夏日なのに青い春って
カルピスソーダみたいだ
水色に白の水玉
ちがう
白色に水色の水玉か
どっちでもいいや
濃ゆいカルピスを
はじける刺激で割って
おねえさんと飲みたい


  ではああ、濃いシロップでも飲もう
  冷たくして、太いストローで飲もう
  『秋日狂乱/中原中也』


モロゾフの本当の名前
いつかわかる日が来るんだろうか
知りたいような知りたくないような
クマみたいな犬の名前
犬みたいなクマだったらどうだろう
おねえさん実は
猛獣使いだったりして
おねえさん実はぼくも
モンスターなんですって言って
バカすぎて笑える


  恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
  『斜陽/太宰治』


たまに
遠くの空の夕焼けに
青と赤の交わるところに
見とれることがある
そんな姿を
クラスのやつらに見られるとうるさいから
ジョージ、昨日夕焼け見てたやろって
ジョージ、ちょっとウルッときてたやろって
おさるのジョージに似てるからって
そのあだ名やめろよ

今年の夏は
スリーポイントシュート
うまくなりたい

あと
おこづかい貯めて
ビアンキのMTB欲しい
夏空色
チェレステカラーの


孵化

  イヤレス芳一

侮辱された追憶が花瓶を割った
 赤蟻の群がる朝露の香気を嗅いで
絹の靴下を履いた氷嚢を押しつぶすように
 顔のない声が墓場の輪郭をぼんやりさせる

海洋がさざ波の底に僕を埋めた
 深い夕凪と予言のあいだで
煤けた煙突の陰影に傲慢と罪が重なり
 ぼろを纏った核心が夜に怯える

潮流に乗って旅をする片口鰯の群れを
 赤銅色の鯨が歴史をさえずり丸飲みすると
ずれた地軸の果てに悔恨と月が凍るのだろう

――忘れ去られた彗星の記憶!
 胎児がヒタヒタと朝陽の夢に溺れている時
隻眼の母は薄目を開けて古びた文字を聴いている


ぼくがさかなだったころ

  イヤレス芳一

 私はその男の詩を、いくつか、読んだことがある。
 数年前から私は『現代詩日本ポエムレスリング』という詩のSNSに、趣味として書いた自作詩を投稿している。同じように詩を書いている会員同士が、互いの作品の感想を述べ合ったり詩にまつわる雑談を交わしたりと、『詩』という世間一般ではそれほど愛好者の多くない趣味をネット上で気軽に共有できる社交場として、それぞれ楽しんでいるのである。昨年の春先、シュリケンというHNのその男は現れた。男は有名な詩句のパロディ作品を投稿しているようだったが、お世辞にも上手とは言い難い。改行をしただけの日記のようだ。自分の気持ちや日常の些細な出来事をそのままストレートに言葉にしただけでなんの趣向もレトリックもないのだが、逆に本人はそのシンプルさがご自慢らしい。作品やコメントの端々に、どこか詩や詩人を馬鹿にするような舐めているようなニュアンスも見受けられる。たとえば、こんな作品がある。


 『詩をやめる』シュリケン

 詩をやめろ
 日記を書こう

 日記なら
 魂などいらない

 こんなものは詩ではない
 と言われたら

 そうですよこれはスケッチブックです
 と言ってやろう

 わたくしという現象は青色発光ダイオードの
 せわしい明滅(←いかにも現代詩っぽい単語)

 やる気スイッチが入った時だけ
 光ります


 賢治を侮辱している、そう思った。そうして自分の未熟で粗末な作品は棚に上げ、他人の作品は評価せずに「馴れ合いだ。」「くだらない。」などと罵るのである。詩の投稿サイトにはよくいる、実力も才能も伴わないのにプライドばかり無駄に高く人と衝突ばかり繰り返す、人間性に難のあるメンヘラ、コミュ障、酔っ払いの類いの一人なのだろう。こういう手合いは、ひたすら無視をするに限る。なに、実生活が孤独で惨めなので、せめてネットの中だけでもチヤホヤされたいのに違いないのだ。遊び半分でヌンチャクを振り回し自滅する中学生のように、ひとしきり暴れるだけ暴れ痛手を負うとアカウントを削除して行方をくらまし、時が過ぎればまた別のHNを使用してなに食わぬ顔で恥ずかし気もなく舞い戻ってくる。どこの詩サイトにも、そういうはた迷惑な寄生虫のような利用者が、一人や二人、必ずと言っていいほど存在するものだ。そう思い私も、わざわざ関わり合いになるつもりはなかったのだが、男の傍若無人な振る舞いはさすがに鼻につくところがあり、私の大切な居場所を土足で踏みにじられては堪らないというような義憤も手伝い、なによりその高慢な態度とは裏腹にあまりにも作品が空虚で次元が低いため、ついつい我慢できずに「相当酷い。批評以前の問題。」とコメントを入れてしまった。私は、日頃の男の言動から察するに感情的な反論や口汚い罵倒の言葉が返ってくるものとばかり思い込み、これでは私も奴と同じ穴のムジナではないか、やはり自ら関わるべきではなかったと己の軽率さを悔やむとともに、今後起こるであろうコメント欄での不毛なやり取りを想像し内心鬱々としていたのだが、事態は意外にも、さらにおかしな方向へと動いたのだった。SNS内の私信機能を使い、男から、長い長いメールが送られてきたのだ。



 *****

 こんばんは。先日は僕の詩にレスをいただき、ありがとうございました。早いもので僕がネットで詩を書くようになってから、もう五年ほど過ぎました。こうしてお会いしたこともない方に自分の詩を読まれ、感想を頂くということは、なんとも気恥ずかしく、また、嬉しいものですね。僕はPCを持っていないので、それまでネットの世界というものをまったく知らないまま生きてきたのですが、五年前、暇潰しに携帯でネットを見るようになり、そこで初めて詩のサイトがあるということを知ったのでした。
「こんなところに詩人がいる! 」
 大げさな言い方ですが、その発見は僕にとっては、南太平洋の真ん中で人知れずひっそりと栄える小さな秘島、楽園を見つけたような、あるいは地中海の断崖絶壁、入り江の奥の奥にそこだけ陽の当たる白い砂浜、美しい渚にたどり着いたような、思ってもみなかった衝撃、興奮でした。長らく眠っていた詩への思い、詩作への情熱が、ふつふつと甦ってくるのを感じました。恥ずかしい話ですが、僕にもこれでも若い頃、ぼんやりと詩人を夢見ていた時期があったのです。

 小学生の頃から僕は、学校の授業や全校朝礼など、時間的空間的に自由を制限されるような状況や集団行動に対して、動悸、目眩など、一種のパニック障害、不安神経症のような症状を持っていました。息苦しくなるといつも、死にかけの金魚のように空気を求めてパクパクと大きな口を開けて呼吸していました。中学生の頃には、授業中の緊張感、不安感を身体的な痛みで紛らわすため、右手に収まる小さなカッターナイフで左手の指の腹を切るのが癖になっていました。当然、血が滲んでくるのですが、そのままにするわけにもいかないので、手のひらにスティック糊を塗り、そこに血を混ぜ合わせ、赤黒くなった糊を垢のように練り上げるのです。そうすることで少しでも不安から意識をそらし、時間を潰そうとしていました。自分のそんな病状を誰にも言えず、自分でも受け入れられず、そうでもしなければやっていられなかったのです。授業中に血まみれの手のひらを捏ね回すその奇行をクラスメートに見つかり、問い詰められたこともあります。

 高校に入ってからもますますひどく、授業に集中できない状態は続き、教師の目には「やる気の感じられない怠惰な生徒」として映っていたのでしょう、日本史の授業中でした、僕は態度を注意されました。
「日本の歴史も学べないとはおまえは非国民か。窓から飛べ。」
 先生は笑いながら言って、もちろんクラス全員、それがブラックユーモアであることは理解していましたが、僕は瞬間的に頭に血が昇ってしまい、無言のまま窓枠に飛びついたところで、数名のクラスメートに引きずり下ろされました。こいつなら本当にやりかねん、普段からそう思われていたのでしょう、僕は誰とも目を合わせることができずにいました。(イヤレスさん、ここでBGMに『Raining/Cocco』を聴いてください、グッときますよ。)

 高校二年の秋、十七才でした。僕は修学旅行を欠席しました。二時間、三時間に渡る新幹線やバスでの団体移動は、僕にとっては拷問に等しいものだったのです。旅行前日まで担任には何度も職員室に呼び出され説得され理由を聞かれましたが、僕は黙秘権を行使する犯罪者のようにひたすら無言を貫きました。僕の弁護をしてくれる奇特な人などどこにもいないと思っていました。

 クラスメートが修学旅行へ行っている間、課題として司馬遼太郎『街道をいく』の読書感想文の提出を命じられていましたが、僕はそれにはまったく手をつけず図書室で一人、やなせたかし先生の『詩とメルヘン』を読んでいました。大きな見開きページの一面、きれいなイラストに飾らない詩が添えられ、僕はすっかりその世界に魅了されてしまいました。それが、僕の詩との出会いです。いつか、やなせ先生に僕の詩を読んでもらいたい。(今となってはそれももう、叶わぬ夢となってしまいましたね。)それ以来、胸の奥に溜まっていく泥を、グチャグチャにノートにぶちまけることが、僕の日課になりました。(後日談ですが、僕の提出した読書感想文を読んだ副担任に、おまえには文才がある、と誉められたのです。今思えば、そのひとことが卒業後の進路決定にも繋がっていたのかもしれません。)

 高三に上がる春休み、両親が別居することになり母は家を出ました。僕は父と家に残りましたが、それはけして父を慕っていたからなどという理由ではなく、ただ単に高校が近かったからということと、父がいない間は一人きりでいられるからという理由でした。夏休み直前、僕はふとしたことから拒食症に陥り、一日にビスケットを三枚しか食べない日々が続き、二学期が始まる頃にはその反動が来たのか、過食症になっていました。誰もいない家の中で、胃がはち切れそうになるまで無理矢理食べ物を流し込み、トイレで喉の奥まで指を入れて吐きました。けれども、いくら吐いても胸の奥の泥は吐き出すことは出来ず、吐けば吐くほどますます深く、沼のように沈みこんでいくのでした。その頃、体重は54kg(身長は178cmありました。)くらいまで落ち、体重が減れば減るほどどこかほっとして、浮き出たあばら骨を撫でながらつかの間の安心感を得てはいましたが、それでもどうしても自分のことを好きになれず、周囲の人間とも馴染めず、馴染む気すらなく、自分は人とは違う、人よりも数段劣った人間なのだ、と思っていました。これ以上親の世話にはなりたくない、顔も見たくない、早く家を出たい家を出たいと願いながら、けれども、人並みに社会に出て仕事をこなし生活していくなんてことは僕にはとても無理だ、もしそうなったら出来るだけ早く死ななければいけない。いずれ死ぬことが僕に出来る唯一の責任、僕に与えられた使命なのだと、今思えばなんとも馬鹿馬鹿しい青臭い病的な考えですが、当時の僕は真剣にそう信じ、思い詰めていました。

 二学期も中頃、秋も深まり校庭の木々が赤く染まっていくように、クラスメートの話題も受験一色になり、皆次々と将来を見据えた進路を決めそれに向かい受験勉強をしている中、僕は一人焦っていました。どうせいずれは死ななければならないのだから勉強なんてしたくない、かと言って出来損ないの僕には就職などは到底無理だ、今やりたいことと言えばしいて言うなら詩を書くことぐらいだろうか、どこかに学科試験も面接もなく受験できる、詩を書くための大学でもあればいいのに。いくらなんでもそんな虫のいい話あるわけないと思っていたら、あったのです。推薦入試は小論文だけ、大阪芸術大学文芸学部でした。(副担任の言葉を真に受けていたのかどうか、僕は論文の練習などせずとも、必ず合格する、これは運命なのだと何の根拠もなく確信していました。)

 近鉄南大阪線喜志駅を降りて学生専用のバスに乗り、細く曲がりくねった路地を抜けたところに大学はありました。桜並木の坂道を上りキャンパスに入ると、そこは高校とはまったく違う、自由な華やかさで溢れていました。無事に高校を卒業し大学生になった僕は、その伸びやかで開放的な雰囲気の中で人目をあまり気にすることもなく、他人と足並みを揃える必要もなくなり、広場恐怖のような緊張感もだいぶやわらいでいくように感じ、これが何か自分を変えるきっかけになるかもしれないと思い、新しい学生生活に期待もしていたのですが、そこでもやはり僕は馴染むことが出来ませんでした。周囲を見渡すと、スキンヘッドで全身黒ずくめの女やサザエさんのような髪型で薄汚い破れたTシャツを着た無精髭の男、個性的でなければ芸術家ではないとでも言いたげな奇抜な格好をした者も多く、地元では『丘の上の精神病院』と揶揄されるほどで、作品そのものではなく外見や言動を少しでもエキセントリックに見せようと張り合っているような馬鹿者たちもいましたし、真摯な芸術家の集団と言うよりはむしろ世間からは相手にされない奇人変人の吹き溜まりといった様相で、もちろん僕自身もそういう出来損ないの一人ではありましたが、まだ若く芸術に対して理想もあった僕にはどうしてもそれが許せず、その吹き溜まりに自ら安らぎを求めるのも嫌でしたので、作品を創る者が自ら作品になってどうする、芸術家はただ黙って芸術だけを創ればいいのだと、一人で憤っていました。芸術なんて程遠い、所詮僕らは美術館の片隅で誰にも見られることもないまま錆びていくオブジェに過ぎないのだ、いや、そのオブジェにすらなれない僕はいったい何なんだ、と思うと無性に虚しくなり、そのまま授業に出るのもやめてしまいました。昼前に大学に来て、誰もいないところで煙草を吸ったり、夕暮れ、四階の廊下から地面を見下ろし、散ってしまった桜の花びらのようにヒラヒラ舞い落ちてしまいたい、今飛び降りたら明日の朝までは見つからずにいられるだろうか、などと思ったりしました。

 そんな短い学生生活の中で、ひとつだけ記憶に残っている授業があります。文芸学部らしく、創作の授業があったのです。眼鏡をかけたまだ若い助教授から与えられたテーマにそって、原稿用紙二枚の散文を書き、次週、助教授がそれを寸評していくというゼミ形式の授業でした。第一回目のテーマは「自己紹介」でした。小さな教室で助教授を囲むようにして向かいあって座る十五人ほどの学生は皆、作家や編集者を志しているような者ばかりですから、自己紹介程度の散文などお手の物とでも言いたげに、始めの合図と共に、競い合うようにして一斉に筆を走らせ始めました。人生や人付き合いにおいてすっかり卑屈になっていた僕は、自己紹介などする気も起こらず、何を書いたらいいものか、しばらく周りの学生が何やら真剣にカリカリと音を立てて書いているのを阿呆のように眺めていました。けれども僕もこのまま何も書かないというわけにもいかず仕方なく、自己紹介とはまったく関係のない『ぼくがさかなだったころ』という空白だらけの詩を即興で書き殴り提出しました。次の週、返ってきた原稿用紙を見ると、タイトルの横に赤いインクで、『A+』と書かれていました。最高点でした。A+は二名だけ、と助教授は言い、スティーブン・キングが好きだと言うもう一人のA+である学生の原稿用紙のコピー(私は霊を見たことがある、という書き出しで始まるその学生の散文は、段落分けするのも惜しい、というくらいにぎっしりと最後まで文字で埋め尽くされていました。)を皆に配り、それを見ながら講義を進めていきました。最後まで僕の名前も、僕の詩も、話に出てくることはありませんでした。




  『開襟シャツ』


  人生というのは死ぬまでの間の
  小さな金魚鉢に過ぎんよ、君

  と助教授は笑った
  日々は新緑のように眩しくて

  言葉はいつも僕に寄り添い
  いつでも僕を置き去りにする

  初夏、汗ばんだシャツの胸元を開け
  風を迎え入れる

  身震いするほど美しい詩を一篇書いて
  死んでやろうと思ってた




 授業にも試験にも出ないまま一年が過ぎ春休みに入り、僕は父に呼ばれました。大きな黒い座卓の上に、不可とすら書かれていない白紙の成績表を広げ、父は言いました。「詩人になるっていう夢は諦めたのか」 いつ僕が会話もなかった父に「詩人になりたい」などと告白したのか、それは今となってはわかりませんが、僕は恥ずかしさと悔しさで、芸術は人から教わるものではない、自らが感じるものだ、勉強なら大学でなくても出来る、と負け惜しみを言いました。父は呆れたのか諦めた様子で、それ以上何も言いませんでした。大学で学ぶための費用を働いて得るということがどれだけ大変なことか、それをみすみすどぶに捨てるということがどれだけ愚かなことか、そんな当たり前のことも僕はわからず、ただ自分の苦しみばかりに囚われていたのでした。学生という肩書きを失い、ひっそりと社会に放り出され、今こそいよいよ死ぬべき時が来たように思いました。けれどもそうは思いながらもなかなか死ねず、ずるずるとその時を先伸ばしにして日々を送っていたのです。ちょうどその頃、片想いしていた女の子(高校を中退してフリーターをしている、どこか陰のある女の子で、細いメンソールの吸殻に、いつも紅いルージュが付いていました。一度だけ二人で、映画館デートをしました。薄暗い館内でひとつ年上の彼女の肩に甘えて頭をちょこんと乗せて、2時間寝た振りをしていました。僕はこの世の中で彼女にだけは、過食嘔吐のことを打ち明けていたのでした。帰り道、家の近くまで送って行き、別れ際、どちらからというわけでもなく不器用にキスをして、次の日から、何となくお互いに気まずくなってしまい、それきり、この恋は終わったのでした。BGMは、『東京/くるり』をどうぞ。)が結婚するということを風の噂で聞き、いよいよもう、この世に未練もなくなった、いつ死んでもかまわないと思いました。世間では『完全自殺マニュアル』という本が話題になっていて、僕も書店で立ち読みしましたが、僕に必要なのは手段でも方法でもない、死ぬ覚悟なのだ、と思い真夜中、マンションの非常階段を上り地面を見下ろし、煙草に火を付け、それから遠くの灯りをぼんやり眺めたりしました。

 結局いつまでたっても死ねないまま、僕は二十歳になり、バイトで貯めた金をもとに、念願の一人暮らしを始めることになりました。築三十年はたつであろう、ボロボロのアパートでしたが、日当たりの悪い薄暗い四畳半の部屋で一人僕は、もう二度と誰の言うことも聞かない、と決意しました。カサカサ、と背後で音がして振り向くと、ザラザラした土壁の上のほうで、赤茶色のゴキブリのつがいが交尾しているのでした。

 バイトとは言え自分で働いて得た金で自活できたことが自信になったのか、それともただ食費がなかっただけなのか、少しずつ過食も抑えられるようになってきて、あまり吐かなくなったある日、もう悩むことにすら疲れ、ふと、奇妙な感覚に襲われました。ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいた影響もあったのでしょう、ラスコーリニコフが金輪際誰にも心を打ち明ける必要はないと悟るシーン、自分一人がやっと立てる断崖絶壁で生きていく覚悟を決めるシーン、それらはラスコーリニコフにとっては絶望や諦めにも似た暗く深い心情として描かれていたようでしたが、僕には逆に、新しい道のように思えたのです。そうだ、苦しいなら苦しいまま、死にたいなら死にたいまま、そのままで生きていってもかまわないのだ。死ぬしかない、とそう固く信じこんでいた自分にとって、新しいその考えは、ひとつの救いのように感じられました。



  「人非人でもいいじゃないの。
  私たちは、生きていさえすればいいのよ」
  『ヴィヨンの妻/太宰治』



 バイトの給料が月十万程度の、PCどころかエアコンもテレビも冷蔵庫もない質素な生活の中で、ちょうど『インターネット』『ネットサーフィン』などの言葉が一般に広まりつつある頃だったと思いますが、ネットの片隅で新たな詩の世界が産声を上げつつあることなど知る由もなく、僕は次第に詩から離れ音楽に傾倒するようになりました。詩は音楽に負けたのだ。詩は歌詞に負けたのだ。本当はただ、僕の才能がなかっただけなのですが、どうしてもそれを認めたくなかったのです。『elfin』という占いの月刊誌がありそこの読者投稿欄に、カリノソウイチというPNでイラストを添えたポエムを投稿し常連になっていましたが、その雑誌もしばらくして休刊となり、また僕自身の生活も、フリーターとして何度か転職を繰り返した後にようやく正社員の仕事に就くことができ、あれだけ怖れていた『社会人』というごく普通のありきたりで忙しない日常を送る中で、次第に僕は、詩を忘れていきました。詩を忘れることでようやく僕もかつての、いずれは死ななければならない出来損ないなどではなく、『普通の人』として生きていく資格を得た、今となってはそんな気もするのですが、果たしてそれが本当に良かったのか悪かったのか、たった二枚の原稿用紙ですら埋めることのできなかった空白だらけの僕の詩は、そのまま僕の生き方のようでもありました。




  『雨空』

  生まれ変わったら詩はもうやめて
  絵描きになろうと私は思う

  小さな屋根裏をアトリエにして
  来る日も雨の絵ばかりを描こうと思う

  灰青色の絵の中で
  雨に打たれている私は

  何かを叫ぼうとするのだけれど
  私は詩はもうやめたのだ

  晴れることない雨空で
  いつも私の胸は濡れている  




























  ジオゲネスの頃には小鳥くらい啼いたろうが
  きょうびは雀も啼いてはおらぬ
  『秋日狂乱/中原中也』























 詩を書かなくなってからも、完全に詩を諦めてしまったわけではなく、心のどこかで、誰にも読まれなくてもいい、自己満足でもいい、この詩を書くために生まれてきた、この詩があれば生きていける、そんな詩を死ぬまでに一篇だけ書いてみたい、もしかしたら心のどこかにそんな思いがまだ残っていたのかもしれません。空白を抱えたまま十年以上の月日を過ごし五年前、初めて詩のサイトを見つけた時の僕の喜び、おわかりいただけるでしょうか。長い長い沈黙が嘘のように、堰を切ったように後から後から言葉が溢れ出してきて止まらず、最初は僕も嬉々として次から次へと詩を書いて投稿していたものですが、次第に何が何やら自分でもわからなくなり、削除したり暴言を吐いたり、多くの方にご迷惑をおかけして、穴があったら入りたい気持ち、あ、こんなところにちょうどいい穴が、と思い覗きこむと、それは自らが掘った墓穴ですから、どうすることも出来ません。

 いただいたコメントへの感謝の気持ちをお伝えしようと書き始めたのですが、結局いつもの、感傷的な自己憐憫、自分語りになってしまいました。けれどもこれが、エンジン全開クラッチ切れてる、シュリケンスタイルなのです、なんて、開き直れるほど面の皮も厚くなってしまい困ります。

 今、帰りの電車の中です。もうすぐ最寄り駅に着きます。寒くなって来ましたので、お体には気をつけて。イヤレスさん、僕たち、うまくやれそうですね。『Whatever/OASIS』聴いてください。これからもよろしくお願いします。

 それでは、また。



 *****


 何が、「それでは、また」だ。私はとにかく不快だった。今まで、これほど薄気味の悪い私信をもらったことは一度もない。見ず知らずの私に長々と自己愛にまみれた大げさな自分語りを送りつけてくるその狂態、痴態もさることながら、一見、自分の弱さや醜さをさらけ出した独白のように装いつつ、実はそれらを言い訳にして自己を正当化しようとしているその見え透いた魂胆、薄汚く歪んだ自己顕示欲、現実逃避、太宰の威を借る狐、詩にたかる蝿のような執着心、「内心では読者を鼻で嗤っているのではないか」と勘繰りたくなるような、丁寧な言葉使いではあるけれども蜘蛛の巣のようにネットリとまとわりつく奇妙な文体、深みのないひとりよがりな苦悩、すべてが私には嫌悪しかもたらさず、なぜだか私自身が侮辱を受けているような倒錯すら感じ、ただただ不快であった。
 聞くところによるとこのシュリケンという男は別の筆名を持っていて、『頂上文学』という芸術系詩サイトに参加しており、エンターテインメントの書ける作者としてある程度の評価を受けているのだという。どのような作品が評価されたのかは知らないが、この私信のように自意識過剰でわざとらしい自分語り、自己戯画化、私生活の切り売りが果たしてどこまでエンターテインメントたりえるのかどうか、私には甚だ疑問である。どうせ、仲間内での誉め合いなのだろう。そうだ、きっとそうに違いない。偉そうなことを言っておまえだってしっかり馴れ合っているじゃないか、いったい私と何が違うのだ、確かに私の詩は趣味ではあるが少なくとも私はおまえのように詩を馬鹿になどしていない、詩が好きで、詩を必要としているその気持ちに勝手に優劣など付けられてたまるものか、何がシュリケンだ、文責も持たず好き放題書き散らしたあげくどうせまたすぐに名前を変えるつもりなのだろう、それで居場所を見つけたつもりなのかそれがおまえのやりたかったことなのか詩とは何だ文学とはそんなものか芸術なんてどこにある、作品を創る者が自ら作品になってどうする芸術家はただ黙って芸術だけを創ればいいのだ、いつまで自分を偽るつもりだ姿をあらわせ、本当のおまえはどこにいる?シュリケン、シュリケン、シュルシュルシュ、誰にも見られることのないオブジェ、顔のないトルソー、ド田舎のラスコーリニコフ気取り、唾と蜜、露悪趣味、止まり木、金魚鉢、空白、おまえにとって私は誰だ私にとっておまえは何だ、アントなのかシノニムなのか私の名前は‥‥‥。
 遠く記憶の奥底に沈めたはずの、忘れていたはずのあの目眩、あの息苦しさをうっすらと思い出しながら私は、シュリケンに返信した。(私は、さかなに還るのだろうか。)
「ずいぶん大層なフィクションですね。
詩は、いや、人生は、私小説くずれの慰みものであってはならないと思います。
BGMは、『海を探す/BLANKY JET CITY』で。」




  「私たちの知っている葉ちゃんは、
  とても素直で、よく気がきいて、
  あれでお酒さえ飲まなければ、
  いいえ、飲んでも、」
  『人間失格/太宰治』


バックミラー

  イヤレス芳一

深夜
交通量の少ない山道を
車で帰る
トンネルの手前で
カーラジオの電波がおかしくなって
崖側のガードレールの後ろに立つ
白い人影が見えた


あっ


て思ってそのまま通りすぎて
トンネルの中を逃げるように走っていると
だんだん背筋が寒くなってきて
あー嫌だなー嫌だなーって心臓がドキドキバクバクなって
身体中から冷たい汗がドワーっと吹き出してきて
バックミラーをちらりと見ると
後部座席に
びしょ濡れの女のひとが座っている
バッチリ目が合ってしまったので
無視するわけにもいかず
舌打ちしながら
雑巾のような勇気を振り絞り
「お客さん、どちらまで?」
と聞くとびしょ濡れの女のひとは
長い髪をかきあげて


「おまえタクシーちゃうやろ!!」


と怒って消えた
それを言うなら正しくは
タクシードライバーだとは思ったが
私は霊媒師ではないので
地縛霊の考えることはようわからん

でも
見えてまう

別に見たないけど

見えてまうねん


いつまでたっても
成仏できへん
びしょ濡れの女のひとが


タクシーじゃなかったら
いったい何を待ってんねやろ


私の車の後部座席が
いつもひんやり冷たく感じられるのは
おおよそそんな理由です
そうです
ちょうど今あなたが
右手で撫でているそのあたりです

(運転手はそう言って低く笑った)

ひんやりしているでしょう?
しっとり濡れているでしょう?
お客さんわかりますかそのシートの染みに込められた
びしょ濡れの女の
行き場のないかなしみが
毎晩のようにその道を通り
その度にびしょ濡れの女を後ろに乗せて
なんだか私は女に親近感すら抱くようになったのですよ

と言ってもよかったかもしれません
いつだったか私が

今夜も濡れてるね
グショグショだね

って言うと女は
一瞬ギョッとした表情をしてそれから
少しはにかんだまま

「おまえタクシーちゃうやろ!」

ってもうそれが口癖なんですね
あなたはイエローキャブなんですか?
ってくだらない冗談で私は返して‥‥‥‥





(なにヤダこの運転手さん気持ち悪い‥‥‥)
わたしは身の危険を感じて口を開いた
「すみません、ここで止めてください、降ります!」

運転手は無言のまま振り向きもしない
タクシーはますますスピードを上げ深夜のカーブをタイヤをギュルギュル軋ませながら曲がって行った

「止めてください! 止めて! 今すぐ降ろして!」





キキーーーッッッッッ!!!!






突然の急ブレーキで車は止まった
わたしは助手席の背もたれに頭をぶつけた
恐怖とパニックで慌てふためき
ガチャガチャとドアを開けようとしたが
ロックされているのかなかなか開かない
ゆっくりと運転手がこちらを振り返った時
わたしは男が正気でないことを悟った‥‥‥
わたしはハッキリと見たのだった
黒い沼のように澱んだ男の瞳に


ポエム



書かれてあるのを‥‥‥‥‥‥


ダメヤン

  葛原徹哉


 戦後生まれ、
 戦後生まれと言われて久しい僕たちは、
 あと五十年もすればもしかしたら、
 戦前生まれとして後世の人に記憶されるのかもしれない。

 ある日、
 家に帰ると郵便受けに、
 赤紙が入っている。

 その瞬間に僕の額には、
 小さく深く、
 『歩兵』と刻印され、
 一歩一歩、
 前進あるのみだ。
 後退はない。

 天皇陛下万歳、
 でもない、
 大日本帝国万歳、
 でもない、

 百歩譲って(歩兵だけに)
 死ぬのはいい、
 けれど二十一世紀の僕たちは、
 いったい何に万歳をして、
 死んでいけばいいのだろう。

 万歳のポーズというのは、
 まさか、
 『もはやお手上げ』の意じゃあるまいか‥‥‥。



 そんな詩をいつものようにポエムサイトに投稿して数日後、ぼくは突然、自宅の部屋の中に押し入ってきた数人の男たちに無理矢理部屋から連れ出され、大きな黒いワゴン車の後部座席に押し込まれた。何が起きたのかわけがわからず、混乱する頭の中で思い浮かんだのは、数日前に書いた自分の詩だった。そうか、ついに日本も戦時下に入ったのだ、言論の自由はもはやないのだ、戦争に批判的なことをネットに書き込んだぼくはどこか秘密の場所へ連行され、とても言葉では言えないほど残忍な拷問を受けたり、恥辱の責め苦を浴びて改心と国家への忠誠を誓わされるのだと、恐ろしい想像がふくらみ内心ブルブルと震えていると、走り出した車内で、男たちは手荒なやり方を詫びた後に自己紹介を始めた。彼らは、中学の頃からひきこもりで重度のネットポエム依存症であるぼくを更正させるために、ぼくの両親から依頼を受けた、NPOの職員なのだと言う。そのまま2時間ほどだろうか、車は市街地を抜けて山道をクネクネと走り続け、山奥に突如現れた小さな建物の前で止まった。

 施設の中は病院のように清潔で、天井も壁も真っ白だった。ぼくは持っていたスマホを没収され、白いジャージへと着替えさせられた。これから、ネットポエムのない生活が始まるのだ。PCどころか携帯もスマホもない。外部との連絡は堅く禁じられていた。脱走しようにも、深い森の奥である。方向オンチで土地勘のないぼくにはここが何県なのかすらわからなかった。職員の車を奪ったところで、ぼくは車の免許も持っていない。冬の気配近付く見知らぬ山の中を、徒歩で逃げる勇気はなかった。両親を恨んではみたものの、今さらどうなるというものでもない。拷問を受けるよりはマシだと自分を納得させるより他はなかった。

 施設の生活は規則正しい。朝6時に起床し、寝具を片付け、清掃をする。床をみがき、庭の落ち葉を掃き、ひととおりの清掃を終え、朝食に移る。ごはん、豆腐とワカメの味噌汁、里芋とカボチャの煮物、茹で卵、焼き海苔。朝食が済むと、毎朝恒例のグループカウンセリングが始める。ひとりひとり今まで自分が書いてきた詩を発表し、それを皆で否定し合うのだ。ここの言い回しが気取りすぎていて気持ちが悪い、隠喩が難解でただの自己満足である、等々。他人にハッキリと否定してもらうことで、自分の詩を客観的に見る視線を養い、自惚れのくだらなさを自覚させるのだと言う。ぼくの詩は毎朝さんざんに罵倒されている。

 二週間ほどたち、ぼくも少し周囲の入所者と親しくなってきた。施設のルールでは入所者同士、ネットで使用していたHNで呼び合うことは禁じられていたが、職員のいない自由時間など、ぼくたちは隠れてHNで呼び合った。むしろHNこそが、ぼくたちの本当の名前のようにすら思えるのだった。

 談話室の、いつも窓際の日当たりのいい席に座っている、白いヒゲがご自慢のおじいちゃんのHNは、ヒカル現詩さん。もう六十過ぎだというのに、フランク・ミュラーの腕時計を愛用し、天気のいい日の自由時間には庭で颯爽とローラースケートを乗りこなす粋なおじいちゃんだ。昔はかなりの男前だったらしく、ジャニーズの面接も受けたことがあると自慢している。HNは、光GENJIというグループ名をもじったものだそうだ。続いて、紅一点のマドンナ、エデンの園子さん。三十才くらいだろうか、物静かで、長い黒髪の華奢な女性。いつも白いジャージの袖を指が隠れるほど伸ばしているので気付かなかったが、ほんとか嘘か彼女の左腕には、リストカットの傷がいくつもあるらしい。
「こいつな、若い頃男に捨てられよってん。四股かけられてな。」
 現詩さんが欠けた前歯を見せてゲラゲラ笑いながらぼくに言う。
「しかもそれが発覚したのが結婚式の当日や。見たこともない女が3人も式場に乗り込んできてな、フィーリングカップル1対4や、そらもう修羅場やで、わかるやろ? 家族親類、会社の上司同僚の前で赤っ恥かかされて、そっからちょっとおかしなってもうてな、その恨み辛みをポエムで晴らそうとしたっちゅうわけや。いわば復讐やな。辛気臭い詩書きよんねん。笑うやろ?」
「違います。勝手に話をつくらないでください。怒りますよ。」
「わはは。すまんすまん。新入りのにいちゃんも退屈やろ思てな、リップサービスや。」
「どんなリップサービスなんですか。よくもまあそんなありもしないデタラメをペラペラと、ほんと現詩さんは骨の髄までポエマーですよね。空想好きと言うか、ただの虚言癖じゃないですか。」
 横から口を挟んだのは、坊主頭でよく日に焼けた少しコワモテの中年、ヌンチャクさん。左耳にピアスを2つしている。
「何が虚言癖や。嘘から出たまこと言うやろ。ひょうたんから駒、棚からぼた餅や。ポエムっちゅうのはな、何書いてもほんまになんねん。そこにポエジーがあればの話やけどな。」
「ポエジーどころかポエじじいのくせに何格好つけてるんですか。前歯半分ありませんよ。」
 現詩さんとヌンチャクさんのやり取りは、いつもこんな調子だ。はじめはケンカしているのかと思ったが、犬猿の仲のようで案外、これはこれで気が合うということなのだろうか。
「これはおまえ、名誉の負傷っちゅうやつやないか。先の大戦中、竹槍で戦闘機撃ち落とす訓練中にやな、顔から派手にこけたんや。」
「現詩さん、思いっきり戦後生まれじゃないですか。誰が信じるんですかその話。どうせローラースケートでこけたんでしょう? 昔ジャニーズに入ってたっていうのも嘘だったじゃないですか。」
「災いなるかな、信仰心の薄い者よ。嘘って言うなポエジーと言え。信じるも信じないもあるかい。地球の歴史は人類の共有財産や。親から子へ、子から孫へ、人類みんなで受け継いでいくもんや。石垣りんが『空をかついで』で言うとったやろ。なあ、にいちゃん。」
 急に話を振られて、ぼくは口ごもった。
「‥‥‥そんな詩じゃなかったと思うんですけど‥‥‥。」
「ほんまに読んだことあるんかいな。にいちゃん、HNなんやったっけ?」
「‥‥‥sclapです‥‥‥。」
「せやせや、スクラップや、クズ鉄やな。乗り鉄、撮り鉄は知ってんねんけど、クズ鉄は聞いたことないわ。廃線マニアか。廃棄車両が好きなんか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど‥‥‥」
「新人いびりはその辺にしたらどうですか?」
 左手の裾を伸ばしながら園子さんが、助け船を出してくれた。
「いびってへんわい失礼な。わしは詩の話をしとんねん。」
「もう詩の話はいいじゃないですか。」
 今まで黙って聞いていた吉永さんが口を開く。
「僕達は詩を辞めるために集まったのですから、施設を出た後の生活のこととか、もっと前向きな話しましょうよ。」
 若い十代や二十代の入所者は、たいていはぼくのように、自身の意思に反して家族に無理矢理入所させられてしまった人がほとんどだが、吉永さんはネットポエム依存から脱却するため、自らの意思でここへ来たという変わり種だ。国立大を出ているのに、ネットポエム依存が原因で就職を棒に振ってしまったことを今でも悔やんでいる。
「たまに口開いたと思たらまたそれか、極寒メガネ。」
「極寒メガネじゃありません、僕の名前は吉永隆太郎です。」
 吉永さんは一人だけ、HNで呼ばれることを頑なに拒否している。極寒メガネというのは、現詩さんが付けたあだ名だ。
「吉永隆太郎て名前だけはいかにも詩人ぽいけどな、きょうびネットポエムで実名なんか流行らんぞ。おもろいHN考えたほうがマシやで。」
「いいんです、僕は詩を辞めて早くまっとうな生活をしたいのですから。」
「まっとうな生活? なんや、結婚でもすんのか? やめとけやめとけ女なんか。騙されて捨てられるのがオチや。ポエムのほうがええぞ。」
「ポエムで飯が食えますか? 結婚よりもまず就職ですよ。」
「就職ぅ? ポエムキチガイに就職先なんてあるわけないやろ。いっそ自分で商売やったらええねや。バーなんてどうや? ポエムバー『北極』のマスター、極寒メガネこと吉永隆太郎です。どうぞ、今宵のオススメ、ドライジンにライム果汁と谷川俊太郎をミックスしたカクテル、『ネリリとキルル』です。いかがですか? 口中に広がる宇宙感覚が舌の上でハララするでしょう? ってそれただのジンライムやないかい! 言うてな、どやこれ? おもろいやろ?」
「店開けるのにどれだけ資金がいると思ってるんですか? あなたが無利子無担保で全額貸してくれると言うなら考えますけどね。」
「アホか。わしみたいな独居老人のわずかな貯えを狙うとはおまえ鬼か? わしこれから先どないして生活していったらええねん。」
「知りませんよ、自分が言い出したんじゃないですか。とにかく、僕はもうネットポエムを辞めたいんです。」
「辞めんのなんか簡単やないかい。一、詩を書かないこと、二、ネットを見ないこと、それだけや。」
「へっ、それが出来たらおれらみんな、今頃もっと幸せな人生送ってますよ。」
 そうだ、みんなわかっているんだ。それが出来ずに、こんな山奥に幽閉されている。ヌンチャクさんの皮肉に一同、苦笑するしかなかった。

 職員がやってきて言った。
「そろそろ消灯の時間です。皆さん各自の部屋へお戻りください。」



 ここ、ネットポエム依存症患者のためのリハビリ更正施設、『実りある生活』は、毎晩10時に消灯となる。

 入所者には一人ずつ部屋が与えられている。6畳ほどの部屋にベッドと、鏡台のついた小さな机、椅子、タンスがおいてあり、奥のほうにユニットバスと小さなベランダがある。洗濯物は共用の洗濯機を使い、各自でベランダに干すのだ。15インチのテレビはあるが、もちろんPCやタブレットはない。電話もない。ネットポエム依存から脱却するためには、やはりネットに接続しないということが重要なのだろう。部屋のドアには鍵も付いていて、プライベートは保障されている。部屋から出る時は必ず鍵をかけるように指導されている。過去には、入所者による窃盗の被害などもあったらしい。そして、この施設のいちばんの懸案事項は、入所者同士の恋愛のもつれによる対人トラブルなのだそうだ。詩を書く人間などというものは、もともと自分の感情に酔いしれるところがあるし、その分、大げさに他人に共感したり、恋愛感情も芽生えやすいのかもしれない。施設では恋愛はご法度とされていて、トラブルを未然に防ぐため、職員たちも人間関係には特に目を光らせている。こうして消灯時間が過ぎた後も、入所者同士の密会がないかどうか、当直の職員が1時間おきに廊下を見回っているのだ。自分の生活が他人の監視管理下にあるのかと思うと、鉄格子こそなけれど、ここは半分、刑務所のようなものなのか、と後ろ暗い気持ちになってくる。ネトポ廃人。ネットポエム依存なんて、世間の人たちから見ると、もはや人ではないのだろう。

 『実りある生活』では当然のごとく、詩を書くことは禁じられている。代わりに日記帳を与えられ、
毎日、日記を書くことが義務付けられているのだ。その日記を翌日職員が読み、事実のみを簡潔に述べるようにだとか、無意味な改行はやめましょうとか、文章に過度な装飾はしないように等と、丁寧に添削するのである。今までぼくは、ポエムサイトに作品を投稿しては、「こんなものは詩ではない」と馬鹿にされてきたものだけれど、ここでは反対に、「これでは詩ですね。日記を書いてください。」と言われるのだから不思議なものだ。詩と日記の境界線なんて、結局は読者それぞれの主観の中にしかないんじゃないか、そんな気もしてくる。

 ベランダに出て、夜風にあたる。深い森を渡ってくる風はひんやりと、心の中にまで染み込んでくるようだ。おっといけない、ここでは詩的な言い回しをしようとしてはいけないのだ。葉が揺すれる音、虫の声、なんだか鳥の鳴き声も聞こえるけれど、なんていう名前の鳥なのか、ぼくは知らない。植物の名前、昆虫の名前、鳥の名前、星の名前、世の中にはたくさんの名前があるけれど、ぼくはそのほとんどを知らない。世界を知らない、知識もないということは、やっぱりぼくには詩は向いてないのだろう。ぼくの名前はsclap。現詩さんの言うとおり、人生のクズ鉄なんだ。
 フィッ、クション!! 嘘みたいなくしゃみが出たところで、今夜は、もう寝よう。おやすみなさい。(誰に話かけてるんだ、ぼくは?)


 6時起床。シーツと枕カバーを外し、洗濯機置場のカゴへ入れ、職員からクリーニングされた新しいものを受け取る。衣類やタオルは自分で洗濯することになっているけれど、シーツと枕カバーだけは業者に任せているのだ。

 続いて部屋の掃除。掃除と言っても私物がほとんどないので、部屋の中が散らかることもないし、軽く掃除機をかける程度で、掃除らしい掃除といえば、トイレとバスタブくらいだ。ぼくは今まで実家では、部屋の掃除をほとんどしたことがなかった。中学の頃から引きこもりで、一日中部屋にこもり、母親も入れないようにしていたし、脱いだ衣類や雑誌、ゲーム機、食べ残しのカップ麺、缶ジュース、ゴミ屋敷と大差ないような部屋でずっと生活してきたのだ。深夜に部屋の明かりもつけずPCのモニターを見つめ、複数のポエムサイトを行き来しながら、今日はぼくの投稿作に何ポイント入っているだろうかとか、コメントは来ているだろうかとか、そんなことばかり気にしていたものだ。実生活で人との繋がりがなかったぼくには、ポエムサイトの中が現実そのものだったし、そこでの顔の見えない言葉のやり取りが、人間関係のすべてだった。この施設に来て、久し振りに他人と顔を合わせて直に話をして(それも詩についての話!)、ぼくはまだまだうまく喋ることができないけれど、確かな充実感があった。生身の人間とのふれあい、他人との交流、長い間怖れてきたもの、拒否し続けてきたものが、本当はぼくの欲してきたものだったんだろうか。

 今こうして、無駄なものがまるでないきれいな部屋で過ごしてみると、なんだか頭の中まですっきりと整理されたような気になる。いつか家に帰る日がきたら、まずは部屋の掃除から始めてみよう。燃えるものは燃やすゴミ、燃えないものは燃やさないゴミ、余計なものを全部捨てれば、だいぶさっぱりするに違いない。けれど、心の中のいらないものは、どこへ捨てたらいいんだろう。

  そして理屈はいつでもはつきりしてゐるのに
  気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。
  『憔悴/中原中也』

 大人になったらいつか、そんな気持ちも薄れるのだろうか。

 7時には食堂に集まり、皆で朝食。今朝は、ちょっとした事件が起こった。



 今日の朝食には、デザートにリンゴがひときれ付いていた。現詩さんがうれしそうにぼくに耳打ちする。
「見てみ、クズ鉄。エデンの園子が禁断の果実食いよるで。あかんあかん、それ食うたらここ追い出されるで、あ、でもアダムがおらんからな、四股して逃げて行ったんや、信じてた男に捨てられるって惨めなもんや、アダムっちゅうよりむしろ蛇やな、まあしゃあないわ、男なんてみんなそんなもんや、股間に鎌首一匹飼うとる。騙される女が悪いねん、ええかクズ鉄、ポエムこそが禁断の果実やで、わしらみんなもう楽園には戻られへんねん、なんでこんなもん食うてもうたんやろなぁ、あー、あかん園子食いよった、知恵付いて自分の姿が恥ずかしなんねん、イチジクの葉っぱでな、股間は隠せても左手の傷はよう隠さんてか‥‥‥。」
 バンッ!!
 黙って聞いていた園子さんが、テーブルを叩いて立ち上がり、無言のまま部屋へ帰ってしまった。
「なんやなんや、ヒステリーか。これやからメンヘラはかなんのう。」
「現詩さん、今のは言い過ぎじゃないですか。」
 ヌンチャクさんが咎める。
「何がや。わしはみんなを楽しませようと思ってやな、冗談や冗談、ポエジーやないか。本気にするほうがアホやねん。」
「ペンは剣よりも強し。冗談も過ぎれば人を殺します。」
「なんやツンドラメガネ! わしとやるっちゅうんかい!」
「吉永です。」
「前からおまえのその優等生ヅラ気にいらんかったんじゃ! 大学出がそんな偉いんか!? いつもいつもくだらん文学論振りかざしよって!」
「僕がいつ大卒を自慢しました? 文学論てなんですか、そんなものは知りませんよ、中卒だかなんだか知りませんが、学歴コンプレックスはそっちじゃないですか! つまらない言いがかりはやめてください!」
「言うやないか小僧! 表出ろやボケェ!」
 現詩さんが派手に椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。続いて吉永さんも静かに立ち上がり、無言のままにらみ合う。うつむいたぼくの視界に一瞬、吉永さんの握りこぶしが入った。青い血管が浮いていた。

 沈黙。

 ピリピリした空気を破るように、ヌンチャクさんが静かに口を開いた。
「現詩さん、もちろんそれも冗談なんでしょう?もし本当にここで一戦始めるっていうならおれも――。」
 口調は柔らかかったけれど、日に焼けたヌンチャクさんの顔は紅潮してさらに赤黒く、仁王像のような有無を言わさぬ迫力があった。
「わかったわかった、謝ったらええんやろ? みんなわしが悪いねん、いつの時代でもそうやおまえら若者はな、何でも年寄りを悪者扱いにして、自分らは関係ありません、責任ありません言うとったらええんじゃ!」
「どこへ行くんですか? 食事中ですよ。」
「飯はもうええ。頭冷やして来るわ。‥‥‥すまんかったな、吉永。」
 張りつめていた空気が一気に緩み、ぼくはふうっと息をついた。
「それでは僕もこれで失礼します。」
 吉永さんも席を立ち、後にはヌンチャクさんとぼくだけが残った。ぼくはどうしていいかわからず終始うつむき、子ウサギのように震えながら、リンゴをシャリシャリとかじっていた。これだから人付き合いは嫌なんだ。仲良くなったと思っても、些細なことでいがみ合い、いさかいが起こる。人は憎しみや怒りをぶつけ合わなければ、コミュニケーションが出来ない生き物なんだろうか、ぼくはそんなのは嫌だ、早く家に帰って、また一人だけの世界に閉じこもりたい、こんな世界はみんな嘘だ、ネットポエムの中にこそ、本当のぼくが生きる世界がある、そんなことを頭の中でグルグルと思い巡らせていると、
「詩を書く人間も色々いる。無闇に他人を排除するのもよくないが、他人の意見に振り回されず、自分をしっかりと見つめることだ。自分の詩は、自分で書くしかないのだから。」
 ひとりごとのように呟いたヌンチャクさんの言葉に、ぼくはなんだか胸の内を見透かされたような気がして恥ずかしくなり、慌てて話題をそらした。
「皆さん、大丈夫でしょうか?」
「うん、現詩さんは大丈夫だろう。口は悪いけどああ見えて、根はいい人なんだ。年を取ると、自分が悪いとわかっていても、なかなか引っ込みがつかなくなるものなんだよ。大声を出して威嚇しながら心の中では、誰かが止めてくれるのを待ってたのさ。吉永君はまだ若いから、その辺りの心の機微っていうのかな、わからなかったのか、それか、わかってても我慢できなかったんだろう、いやいや、彼も男気のある、いい青年だよ。」
「園子さんは?」
「‥‥‥どうだろう、吉永君もそうだけど園子さんも、生真面目過ぎるというか、思いつめるところがあるから‥‥‥、もしかしたら、もう一波乱あるかもしれない。」
「どういうことですか?」
「ごちそうさま。お先。」
 ぼくの質問には答えずに、ヌンチャクさんはそそくさと食器を片付け、意味ありげな笑みを残して部屋へと戻っていった。

 その後、グループカウンセリングのために集まったぼくたちは、気まずい空気のまま、けれど誰も朝の一件には触れることなく、表面上はいつもと変わらない一日が静かに過ぎていった。

 もう一波乱あるかもしれない、というヌンチャクさんの予言は、次の日の朝、現実となった。



 朝6時になると施設内には、起床の合図として音楽が流れる。カーペンターズの『Top Of The World』という曲だ。毎朝聞いているのですっかりメロディが頭に染み付いてしまい、口ずさみながら掃除を始める。なんだか今朝は職員たちが騒がしい。しばらくバタバタと走り回っていたかと思うと、じきに静かになった。ほとんどの職員がいなくなったようだ。何事だろうと思いながら食堂へ行くと、現詩さんとヌンチャクさんがもう座っていた。
「おはようございます。何かあったんですか?」
「まあ座れや。」
 3人が揃ったところで、職員の一人が声をかけてきた。
「すみませんが、今日一日、自由時間とさせていただきます。ただし、外出は控えてください。詳細はまた後日、お話いたします。」
 職員が事務所へ戻ったのを見て、現詩さんがヒソヒソと囁く。
「駆け落ちや。」
「えっ?」
「吉永君と園子さんさ。昨日の一件があるからもしかしたら、とは思っていたけど、まさか本当にやるとはね。」
「園子とメガネができとったとはのう。ヌンチャク、おまえ知っとったんか?」
「なんとなくですけどね、勘付いてはいましたよ。
現詩さん、何も気付かなかったんですか?」
「アホか! 気付いてたに決まってるやろ! わしぐらいになるとな、予感霊感千里眼、ポエジーさえあれば過去から現在未来まで、黙ってても何でもお見通しじゃ。」
「そのわりには結構動揺してるじゃないですか。」
「やかましわ。わしの心は明鏡止水、波風ひとつ立ってへんわい。クズ鉄、醤油とってくれ。」
 ぼくは醤油差しを手渡した。現詩さんは生卵を小皿に割る。カパッ。
「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界や。」
「デミアンですか、ヘッセの。」
 ぼくも読んだことがある。おどおどとした気の弱い主人公が、デミアンという少年に出会い、導かれるようにして人生を切り開いていく話だ。主人公に感情移入しながら読んだことを思い出し、ふと、ヌンチャクさんはなんとなくデミアンに似ている、と思った。
「まあおまえらはデミアンいうより、ダメヤンいう感じやけどな。なあ、ヌンチャクよ。」
「大きなお世話ですよ。」
「ケッ。それにしてもあいつらうまいことやりよったな。卵から抜け出よった。わしらはあかん、翼どころか雛にもなれん無精卵や。ええかクズ鉄、これがわしらの世界や、グッチャグチャにかき混ぜて、これがカオスや、我がの腹の中に、世界を飲み混むねんぞ。」
 そう言いながら現詩さんは大げさな身振りで、醤油の色に黒く染まった卵かけごはんを口一杯にかきこんだ。
「現詩さん、園子さんに気があったでしょ?」
 突然のヌンチャクさんの言葉に、現詩さんは大きく咳き込み、派手にごはん粒を撒き散らした。
「な、何言うとんねんアホちゃうか! なんでわしがあんなヒステリー女好きにならなあかんねん! 適当抜かすのも大概にせえよ! 怒るでしかし! 」
「園子さんによくちょっかい出してましたよね。」
「あれはやな、おまえ、あれや、ひま潰しやひま潰し。わしああいう辛気くさい女嫌いやねん。年がら年中じとじとぴっちゃん梅雨前線みたいやろ。心の中にまでカビ生えそうやないか。わし、カラッと晴れた秋晴れの後の鱗雲みたいな女が好きやねん。」
「鱗雲の喩えがよくわかりませんけど、女心と秋の空って言いますからね。そうそういつも明るく晴れ渡っているわけにはいきませんよ。誰にだって、人には言えない秘密もあります。」
「左手か? 小さい頃の火傷の痕やろ?」
「なんだ、それは知ってたんですか。」
「知ってるわそれくらい。母親の不注意で火傷したっちゅうやつやろ。ほんで結局それが原因で両親が離婚してもうたとかなんとか。」
「じゃあなんでためらい傷だなんて?」
「ギャグやギャグ! ポエジーやないか! ええ年こいていつまでも両親の離婚は自分の責任やとか火傷の痕気にしてウジウジしてるさかい、笑いに変えたっただけや!」
「誰も笑ってませんでしたけどね。」
「アホウ、メチャメチャウケとったわ、なあ、クズ鉄?」
「えっ? あの、いえ、その‥‥‥、見つかりますかね、二人とも?」
 ぼくは慌てて言葉を濁し、ヌンチャクさんに話を振った。
「深夜は職員の見回りがあったし、逃げ出したのはたぶん4時か5時、明け方近くだろうから、まだそれほど遠くには行ってないと思う。じきに見つかるだろうね。ただ、問題は、道路から外れて山の中へ入って行ってたとしたら。」
「遭難ですか。」
「それもあるけど、ほら、園子さんは少し情緒不安定なところがあるから‥‥‥。」
「心中か。」
「そうですね‥‥‥、いやいや、吉永君がついているから大丈夫でしょう、彼は若いけれどしっかりしている。おれの思い過ごしですよ。」
「そうやとええけどな。」
「もし見つかったら、またここに戻ってくるんでしょうか?」
「それはないね。二人が恋愛関係にあるとわかった以上は、同じ施設内で共同生活させるわけにはいかない。発見次第、家に帰されるんじゃないか。」
「まあとりあえず、騒動のおかげでわしらは一日、自由の身になったっちゅうわけや。カゴの鳥やけどな。ちゃうちゃう、生卵か。飛び立つことも出来んつまらん世界や。今日も一日ひまやのう。朝ドラも見飽きたし。なんやねんパテシエて? 山口県を舞台にしてやな、ネットポエムから中也賞目指すヒロインの朝ドラとかええんちゃうか。わし、ド田舎の美少女が書いたポエム読みたいわ。青空と入道雲と山の稜線とセーラー服と赤い自転車と、小さな恋と喜びと試験と放課後と親友とのケンカと涙と仲直りがあってやな、なんやもうキラキラして眩しくて目ェ開けてられへんようなやつ。もうこの年になるとな、ババアのズロースみたいな生活臭漂うクソポエムなんか読みたないねん。ぽたぽた焼きちゃうねんからやぁ、おばあちゃんの知恵袋みたいな詩読まされてもどないせえ言うねん、のう、クズ鉄、なんかおもろいことないんかい。」
「え、そんな、急に言われても‥‥‥。」
 口ごもるぼくを横目にヌンチャクさんが、悪巧みを思い付いたいたずらっ子のような笑顔で口を挟む。
「実は、こんな時のためにと思って、取って置きのものがあるんですよ。一緒にやりませんか? 現詩さん、いけるクチでしょう?」
「これか?」
 現詩さんはキョロキョロと辺りを伺い職員がいないのを確認すると、テーブルの上にグッと身を乗り出し、うれしそうに口をすぼめてお猪口を傾ける仕草をしてみせた。



 朝食後、ぼくらはヌンチャクさんの部屋に集まった。現詩さんは椅子に座り、ぼくはドアの近くの床に腰を下ろした。
「ちょっと待ってくださいよ。」
 ヌンチャクさんがゴソゴソとボストンバックから、ラベルの張ってない茶色い一升瓶を取り出し、3つのグラスに酒を注ぐ。
「怪しげな瓶やな。闇市みたいや。どっから盗んで来たんや。」
「人聞きの悪いこと言わないでください、おれの私物ですよ。ここに入所する時、コッソリ持ち込んだんです。もちろんメチルじゃないですよ、中身は普通の焼酎ですから。安物ですけどね。」
「飲めたら何でもええねん。久しぶりやからな。おいクズ鉄、廊下見張っとけよ。」
「はい、なんか、修学旅行みたいですね。」
「枕投げたろか? こんなところに閉じ込められてたら、隠れて酒飲むだけでもなんや悪いことしてる気になるわ。いただきます。‥‥‥。くうぅぅー、うまい、まさに至福のひとときやな。あとは横に酒ついでくれるねえちゃんがおったら言うことないわ。吉瀬美智子みたいなん。おっさんとガキンチョ相手ではのう。」
「まだ園子さんに未練があるんじゃないですか?」
「アホ抜かせ。来る者拒まず、去る者は追わず、男の恋に未練は似合わん。男は黙ってネットポエムじゃ。」
「やっぱり好きだったんですね。」
「知らん知らん。ふりむくな、ふりむくな、うしろには夢がない。寺山修二やったっけ? そんなこと言うとったな。」
「僕の後ろに道はできる、じゃなかったでしたっけ?」
「 sclap君、それは高村光太郎。」
「隅っこでレモンでもかじっとけやおまえは。おまえの本当の空なんかどこにもないぞ。そうやクズ鉄、食堂からレモンパクって来い。焼酎にはレモンいるやろ。梅干しはあかんぞ。わし、年寄りくさい食い物嫌いやねん。」
「もう十分年寄りですよ現詩さん。」
「そんなことあるかい。わしこう見えて、生まれたての仔猫みたくピュアやねん。気持ちはガラスの十代やねん。壊れそうなものばかり集めてまうねんな。なんでて思春期に少年から大人に変わりそこねてるやろ‥‥‥って誰が壊れてもうたRadioや! まだまだ現役じゃ! わしにもほんまのしあわせ教えてほしいわ!」
「うわ、飲んだらさらに面倒くせえなあんた! とにかく、レモンは諦めてください、職員に見つかると厄介ですから。sclap君は、酒はいけるのか?」
「いえ、ほとんど飲んだことないんです。」
「そうか、これも大人のたしなみだ、社会勉強だと思って飲んでみるといい。」
「せやせや、わしの注いだ酒飲めん言うたら張り倒すぞクズ鉄。」
「はい。」
 ぼくは恐る恐るグラスに口を付けた。
「‥‥‥うえっ、ゲホッ、ゲホッ‥‥‥。」
 それを見ていた二人が声を上げて笑う。
「そらそうや、いきなり焼酎のストレートなんて、お子ちゃまのクズ鉄には100年早いわ!」
「どれ、カルピスソーダで割ってやろう。」
「すみません‥‥‥。」
「何、謝ることはないよ。おれも若い頃はそうやって親方に仕込まれたもんさ。」
「親方?」
「うん、大工の見習いみたいなことをしていてね。」
「なんやヌンチャク、おまえ大工やったんか?」
「いえいえ、若い頃の話ですよ。厳しい上下関係が肌に合わずにすぐにやめました。」
「わかるわかる、おまえクソ生意気やもんな!」
「酷いな、現詩さん。おれのことそんなふうに見てたんですか?」
「家族はいてるのか?」
「昔結婚してましてね、子供も男の子が一人、朔太郎って名前なんですけど、十年前に離婚してそれきり、今は独り身ですよ。」
「なんや独り身か、わしと一緒やないか。朔太郎、ええやないか。『人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。』っちゅうやつやな。男は黙ってロンリーウルフや。孤独にもA級とB級があってやな、もちろん萩原朔太郎は文句なしのA級やけど、わしらみたいな、けして世に出ることない無名のネットポエマーでもやな、心持ちと覚悟だけはいつもA級でありたいわな。」
「たまにはいいことも言うんですね。」
「待て待てクズ鉄! たまにちゃうやろ! わし、人生もポエムも喋りも、いつでも全力投球真剣勝負、勇気100%やっちゅうねん! 常にええことしか言うてへんわい!」
「でも自己評価だけは恐ろしく高い。」
「当たり前やろ! わしの人生や他人の評価なんかあてにできるかい、わしの価値はわしが決める。そう言うおまえはどうやねんヌンチャク、ほんで、嫁はんに逃げられて、ネットポエムに慰めを見出だした、ってわけか。」
「まあ、そんなところですよ。」
「クズ鉄、おまえは女おるんかい?」
「いえ、あの、いないです‥‥‥。」
「せやろな。聞くまでもないわな。こないだのグループカウンセリングで見たおまえのポエム、モロゾフやったっけ? ほんまあれは酷かったわ。おまえ童貞やろ? 僕の前に女はいない、この遠い童貞のため、ってな。」
「‥‥‥。」
「まあまあ、気を落とすなよ、あれはあれで、思春期の煩悶が鮮やかに描かれていて、なかなか良かったよ。おれの子も君と同じくらいの年だから、あれから10年か、もう大きくなっているんだろうな。」
 ヌンチャクさんの優しい眼差し。ぼくに別れた息子さんの面影を重ねているのだろうか。なんだかくすぐったくなって、ぼくは目をそらした。
「せやせや、おまえよう見たら目ェクリッとして子グマみたいで、年増に可愛がられそうな顔しとるわ。将来マダムキラーになるんとちゃうか。世の中広いからな、どっかに年上の美女に囲まれてチヤホヤされる夢のような世界があるかもしらんぞ。」
「別にうれしくないですよ。」
「まあまあ、まだ若いんだから人生も詩もこれからさ。飲めよ。」
「孤独と、酒と、ネットポエム! それがわしらの人生や!」
「いよっ、自称天才詩人!!」
「自称は余計や! それが生意気やっちゅうねん!」
「酒の席とネットポエムは無礼講ですよ無礼講。そうそう、おれね、無礼派っていうHNも持ってるんです。」
「知らんがな! 誰得やねんその情報! ええかクズ鉄、ポエムはいつか現実を越えるぞ、ネットポエムが文学史を塗り変える日が来る! いつか来るその日のために、ネットの海で華々しく雄々しく散る、我等ポエジーに命捧げた幾千幾万の特攻兵や! ネットポエム万歳や! 死ぬ気で詩ィ書けよ! って言うてもほんまに死んだらあかんで、喩えや喩え、大人は見えないしゃかりきコロンブス、そういう気持ちやぞ、わかるか?」


  大いなる文学のために、
  死んで下さい。
  自分も死にます、
  この戦争のために。
  『散華/太宰治』


「しゃかりきコロンブスって何ですか?」
「なんや知らんのかいパラダイス銀河! まあええ、たとえ我等の詩が過去ログの藻屑と消えようとも、我等の高い志、崇高な魂は必ずや後世のネット詩人たちへと受け継がれて行くであろう、ええかクズ鉄、おまえのかついだ空、渡せよ次の世代に!」
「はい!」
「ネットポエムは永久に不滅やでな!」
「はい!」
「現詩さん、巨人ファンなんですか?」
「そんなわけあるかい、わし今でもバリバリの近鉄ファンや。おまえら知らんやろうけどな、藤井寺球場で野茂育てたん、あれ、わしや。」
「え、本当ですか?」
「sclap君、それ嘘だから! 簡単に人を信じない!」
「嘘ちゃうわい、ポエジーやっちゅうねん!」

 他人と笑いながら話をするなんて、何年振りだろう。酒の力も手伝って、ぼくは二人の話に大声で笑い、また自分もいつもより饒舌になった気がする。酒を飲んで詩の話をすることが、こんなに楽しかったなんて、ネットポエムとはまた違う興奮にぼくは包まれ、知らず知らずに飲めないはずの酒が進んでいたらしく、ひどく悪酔いして、いつの間にかその場で眠ってしまったようだった‥‥‥。


「おいっ! 起きろクズ鉄! いつまで寝とんねん!」
 どれくらいの時間がたったのだろうか、眠っていたぼくは、現詩さんに蹴り起こされた。
「‥‥‥おはようございます‥‥‥。」
「何寝ぼけとんねん。早よ起きて自分の部屋見てこい。」
 何が何やらわからないまま、ぼくは現詩さんに腕をつかまれ、無理矢理立たされた。
「すみません、ちょっと待ってください。」
 頭がガンガンする。目を閉じると頭を中心にして体と世界がグルグルと回っているような気がして、吐き気が込み上げてくる。これが二日酔いというやつなのだろうか。
「しっかりせえよ、おまえ、金目のもん取られてへんか?」
「はい?」
 ぐたりと座り込んだぼくを見下ろし、赤ら顔の現詩さんが言う。
「ヌンチャクや。あいつ、金持って逃げよったぞ。」
「何が?」
 突然叩き起こされ、まだ酔いの残っていたぼくは、正常な判断力を失い、現詩さんの言うことを理解できずにいた。
「何がやあるかい。ヌンチャクがわしらの金奪って逃げたんや。あいつ、始めからこれが狙いやったんや。騒ぎに便乗してわしらに酒飲ませて、酔うて寝てるあいだにまんまとやりよった!」
「窃盗、ですか? まさか――。」
 ぼくはなんとか話は理解したものの、酷い目眩と吐き気をどうすることもできなかった。
「ちょっと、吐いてもいいですか?」
「アホウ!こんな時に何言うてんねん!吐くのはクソポエムだけにしとけやクズ鉄!」
 ぼくは四つん這いのままトイレまで這って行き、そのまま洋式便器に顔を突っ込んで吐いた。酸っぱい透明な液体を噴水のように吐くだけ吐いて、悲しいのか悔しいのか涙と鼻水で顔中グシャグシャにしながら、しばらく身動きが取れずにいると、現詩さんが呼んだのだろう、二人の職員に両脇から体を抱え上げられ、ぼくの部屋へと連れていかれ、そのままベッドに寝かされた。その後、夜中も何度か目を覚ました記憶がある。ベッドの横で、職員が付き添っていたようだった。

 翌朝6時。いつものようにTop Of The World で目覚めたぼくは、昨夜の記憶を思い返していた。ヌンチャクさんが窃盗、本当のことなんだろうか。職員はもういない。事務所へ顔を出して、昨日はすみませんでした、と声をかけた。もうすぐご両親が来られますから、しばらく部屋でお待ちください、と職員に言われ、それ以上詳しい話は聞き出せなかった。

 食堂へ行くと、現詩さんが今か今かとぼくを待ちかまえていた。
「早よ座れや。二日酔いは覚めたか?」
「はい、昨日はすみませんでした。」
「そんなんええねん。おまえ何にも取られてへんか?」
「いや、ちょっとまだ、確認できてないんですけど、あの、本当なんですか、ヌンチャクさんがまさか、盗みなんて‥‥‥。」
「間違いない。わしも昨日の記憶が途切れてるんやけど、あいつ酒になんか入れたんちゃうか? わし酒は強いほうやねんけどな。油断したわ。現金とクレジットカード全部いかれてもうた。」
「‥‥‥‥。」
 ぼくは言葉を失っていた。もめ事が起こった際にはいつも仲裁役を買って出ていた、正義感の強いヌンチャクさんに、まさか窃盗癖があったなんて‥‥‥。信じたくなかった。嘘だと思いたかった。
「クズ鉄、目ェ剥いてよう見ろ、事実は小説よりもポエム、これが現実やぞ。」
「‥‥‥なんだか、昨日今日といろいろありすぎて、何を信じたらいいのか、よくわからなくなりました‥‥‥。」
「何言うとんねん。ネットポエムも現実の世界も一緒や。ようさん人間がおって、悪い奴もおればええ奴もおる。気の合う奴もおれば虫の好かん奴もおる。出会いがあって、それと同じ数だけの別れがある。おまえまだ、必死になってしゃかりきコロンブスで生きたことないやろ。早よ胸のリンゴ剥けや。人間ゆうのはな、おまえの知らんところで、笑ったり泣いたり傷付いたり怒ったり嘘ついたり裏切ったりしながら、それでも人間を諦めんと、ええ奴も悪い奴もみんな必死になって生きてんねんぞ。おまえそういうこと知らんやろ。せやから人の上っ面しか見ようとせえへんねん。ネットポエムも現実の世界も一緒や。ただひとつ違うのは、そこにポエジーがあるかないかや。」
「‥‥‥はい‥‥‥。」
「でも、まあ、良かったわ。」
「‥‥‥何がですか?」
「詩の次に大事なフランク三浦は盗まれへんかったわ。ほれ。」
 現詩さんが右腕をぐっと前に付き出して愛用の腕時計をぼくに見せた。よく見ると文字盤に、『フランク三浦』と書いてある。
「これ、フランク・ミュラーのニセモノじゃないですか。」
「アホウ、バッタもんちゃうわい、大阪は西成生まれのオリジナルブランドや。遊び心でリアルを越える、どや、これこそポエジーやろ?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥。」

 昼前、ぼくの両親が施設に到着し、事務所でしばらく話をした後、ぼくは現詩さんに別れの挨拶をする間もなく、実家へと連れ戻された。結局、ぼくの持ち物からも3万円ほど盗まれていたらしい。父親は施設への不信感を募らせ警察に被害届を出すと息巻いていたが、ぼくはなんとかやめてもらうように頼みこんだ。ヌンチャクさんの行方は、まだわかっていない。

「他人の意見に振り回されずに、自分をしっかり見つめることだ。」

 ヌンチャクさんの言葉が、今は虚しく響く。口先だけのきれい事を並べて本当はただのコソドロじゃないか、そういう気持ちはもちろんある。けれどなぜだか、ヌンチャクさんを恨む気にはなれなかった。ヌンチャクさんも、現詩さんも、駆け落ちした園子さんと吉永さんも、みんな本当は心の中にいらないものをたくさん抱えていて、やり場がどこにもなくて、それでも大人だから泣き言ひとつ言えずに、一生懸命虚勢を張って生きているのだ、そう思うと、今まで長いこと一人で抱え込んできた胸のつかえがすっと取れたような、ただ重苦しいだけだった人生が、儚く脆く、それでいて愛しいものに思えてきた。ぼくはまず、部屋の片付けから始めた。カーテンを開け、窓を開け、雨戸を開ける。何重にも覆ってきた心の殻を破り、世界を、光を受け入れる日が来たのだ。


 家に戻ってから2ヶ月後には、ぼくはコンビニでバイトをするようになっていた。1日4時間ほどの勤務で、パートタイマーの主婦たちに囲まれながら、慣れない仕事を教えてもらっている。人手が足りない時は、夕方から夜の時間帯に入ることもある。同年代の子と喋るのはまだ少し気後れするけれど、必要以上に劣等感を抱くことはない。
「誰にだって、人には言えない秘密もあります。」
 ヌンチャクさんの言葉だ。そりゃそうだ、と今では思う。けれども、引きこもっていた頃のぼくには、世間の人たちは皆、自信に溢れ、毎日を充実して送っているように見えて、いつも眩しかった。ぼくだけが暗い穴の中に落ちているように錯覚して、現実逃避からネットポエムに依存し、あがくことすら諦めてしまっていたのだ。

 実はまだ、ぼくはネットポエムを卒業できていない。『実りある生活』でリハビリを受けたけれど、結局、詩を辞めることはできなかった。今も毎日ポエムサイトを覗いている。ネットに投稿していると、たまに、酷い罵倒や批判を受けることもある。時にはそれが作品評を越えて、作者の人格を否定するような言葉になることもある。以前のぼくは、そういう厳しい言葉の表面的な意味ばかりにとらわれ、深く傷付いたり、落ち込んだりしていたものだけれど、最近は、酷いコメントを入れられても、その言葉の裏には何があるのだろう、相手はどういう表情をしているのだろう、と考えるようになった。
「クズ鉄、おまえの詩ほんまクズやのう。」
 毎朝そう言いながらうれしそうにぼくの詩を読んでくれた現詩さんの笑顔、名誉の負傷だと自慢していた半分欠けた前歯が思い浮かぶ。

 毎日のようにポエムサイトを覗いていると、人の動きがよくわかる。誰と誰が仲がいいとか悪いとか、やはりここも世間と変わらないのだ。なんだかみんな顔馴染みのような気さえしてくる。人の悪口ばかり言っている現詩さんに似た人もいれば、園子さんと吉永さんみたいなカップルもいる。他人のもめ事に横から余計な口を挟み便乗して騒いでいるあの人は、HNこそ違うけれど、本当にヌンチャクさんじゃないかとぼくは思う。もう二度と会うことはないだろうけど。

 いつの日か、ぼくがもっと年を取って、現詩さんやヌンチャクさんのようになって、ポエムバー『北極』で、若い子たちと、酒を飲める日が来ればいいなと思う。ぼくは言うだろう、ポエムもリアルも一緒なんだよって、そこに、ポエジーがありさえすれば、と笑いながら。

 ぼくの名前は葛原徹哉。初給料でフランク三浦買いました。最近、少し酒を覚えました。詩は、まだまだこれからです。あなたは、どなたですか?

文学極道

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