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ベイトマン

選出作品 (投稿日時順 / 全6作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


戦後ノスタルジー

  ベイトマン

ここは浅草 山谷の掃き溜め 音に聞こえたカッパの松が チャンコロ野郎に殺されて いまじゃ新橋 奴らの天下 デンゴロ食えねえ日本人 泣く泣くドヤに移り住む
さあさあ 御用とお急ぎで無い暇な方はちょいとばかしお耳を拝借させてくれ 聞くも哀しき語るも虚しき話だよ なに銭はいらねえし 荷物にもならねえさ

真夏の陽射しが四畳半の狭い部屋を照らしつづけた。威勢のいい行商人達の掛け声、遠くから聞こえる子供達の笑い声──胸糞が悪くなる。
台所の片隅で、眼球が白濁したネズミの死骸に群がった五匹のゴキブリが、茶色い触覚を震わせてうまそうに腐肉をついばむ。
湿気で不快にべとつく腋の下、異臭漂う室内、蚤が跳ね回るぶよついた畳は不潔に黒く変色し、たまげるばかりの太陽の輝きが思考を腐らせる。
蒸し暑い。毛穴から吹き出す汗の雫が熱気で蒸発した。外を見やった。道の脇に捨てられたイワシの残骸。ぼやけた陽炎。土ぼこり。
腐敗したイワシの眼窩へもぐる無数の黄白色の蛆虫どもが身をうねらせながら歓喜した。──汚らしいギンバエの羽音がやまかしく石川の鼓膜を障った。
柔らかい熱風が吹いた。吐き気を催すイワシの悪臭が風に混ざって部屋へと流れ込み、汗、畳、ネズミから立ちのぼる異臭とイワシの腐臭が嫌味なくらいに絡みつく。
前頭葉を刺激する強烈な匂い──石川の脳裏に淋病持ちで鼻持ちならなかった娼婦の姿が浮かび上がった。うつろな視線が宙を泳いだ。
灰色の膜に覆われたこの世と胸裏深くに根付いた虚無感だけが己の因(よすが)を浮き彫りにする。石川は力なく笑った。ただ、力なく笑った。

六尺に足らねえ五尺の、十に足らねえ九(ここのつ)の半端モン ボロ着た浮浪者 かっぱらい 星の旗振る兵隊さんが横流し バイ人達も大喜びだ

戦争帰りの傷痍兵 徒党を組んだ中国人と朝鮮人の小競り合いがやかましくってしょうがねえ あの三国人どもがいい気になりやがってよ

日本人に償う必要はないぞ 俺はあいつらがパンパンと乞食をいじめてやがんのを知ってんだ 確かじゃねえがそうなんだ 

サイホン引きのイカサマ博打 ゴロゴロ転がるのは四角いサイコロの目ん玉よ 目、目、目がでねえ 俺の目がでねえなあ いくらサイコロ振ってもよ 出ねえもんは出ねえな

頭に来て文句いってやったらよ 飛んできたのは直刃のドスだよ 俺はすぐさま土下座した 勝ち目が無さそうだったから あいつら俺を根性が無ねえだとか好き勝手にほざいてたよ

だからあいつらが油断して後ろ振り向いた瞬間に転がってたドス握って背中ぶった斬ってやったさ ざまあみろだ

GHQが警察から拳銃取り上げやがった 今じゃあ黒いのと白いのが街中で女と餓鬼をレイプしてんだ みんなあいつらの横暴に見てみぬ振りを決め込んでたさ
 
野良犬やら野良猫やらをドラム缶にぶちこんだモツ煮の饐えた匂いが胃の辺りをくすぐる 人の活気と熱気ほどうっとうしいもんはねえよ メチルで作ったバクダン カストリ 

石ころみてえにゴロゴロ転がっていくよ 明日なんぞを信じてる馬鹿どもが 石ころみてえに我慢して石ころみてえに冷たくなって

穴が開いちまったテント張りの店 ほつれたゴザしいて品物を並べただけの粗末な露天商 呵責ねえ三国人の罵声に若い巡査はたまらず泣き出しちまった

大の男がよ 俺の目の前で泣いたんだよ 大粒の涙こぼしてよ 顔クシャクシャにして泣いたんだよ チャカが欲しいな 中古のS&Wが欲しい それにギョクも 

バタヤンが新宿第一劇場でショーやってんだ あんたは七十円に一十八円足らねえ生活した事あるかい 俺がもし風船だったらなあ

そうだ 風船玉だ タタキやりながらふわふわ風にゆられて西へ東へ自由気ままな極楽トンボ そんでパーンと破裂してよ どこで野たれ死にしようがかまうもんかい

百円で買った名も知らぬ女の瞼に口づけする。眉間に縦皺を刻み、僅かに震える女の眼球──薄い皮膚を通して石川の唇に伝わった。
舌先を緩やかに瞼の隙間に這わせて直に舐めた。眼球は完全な球体ではなかった。角膜の舌触り──石川は微細な凹凸を知覚した。女の小さな耳朶を前歯で軽く噛んだ。
くすんだ肌の匂い。石川はこの匂いが嫌いではなかった。尿道が痺れる。首筋に触れた。指を肌からゆっくり滑り落とした。柔らかい。
女だけが持つ果肉の豊穣──男の本能を呼び起こす肉の感触。十本の指が無意識に蠢いた。女の喉くびに食い込む。指先から女の激しい脈拍が伝わってきた。
掌が熱をはらんだ。視神経が真っ赤に染まる。高ぶった。ベテルギウスの幻影が見えた。身体は芯まで火照るくせに、心はやけに冷えてくる。石川はじわじわと指先に力を込めた。
不条理な殺人に直面した女は爪で石川の腕を力の限り掻き毟った。腕の皮膚に血が滲む。石川の心臓が女を殺せと急かし、胸板を激しく乱打した。
見開かれた瞳──女の鼓動が消えうせた。女の顔が蒼白く──やがて紫へと退色していく。石川は息をのんだ。
女の股間からぬめつく褐色の糞便と小便がこぼれ落ちる。こぼれた糞尿が太腿を伝った。
女を仰向けに寝かせて汚れた太腿を両手で開き、石川は女の性器を覗いた。左右非対称の肉片、灰色のラビアは細長く、決して美しくは無かった。
糞便に混じり腐った魚のような臭気が鼻腔粘膜を強烈に刺激した。横隔膜を刺激する匂い。沸騰した胃液を逆流させながら石川は女にのしかかった。
食道の焼ける感覚が一種の感奮をもたらし、反吐をぶちまけながらも何故か心地よかった。つらい眩暈がした。激しい酩酊感が体を襲う。
獣のように吠え、獣のように女の内部で暴れる。ペニスの根元が痛みに叫んだ。生命の温もりを残す女の子宮に石川は断末魔の如くザーメンを放った。
己の乾いた血で黒ずんだ女の指を噛み千切り、石川は何度もほお張っては咀嚼する。爪と骨が大部分を占める指は旨くもなんともなかった。
舌腹に女の生酸っぱい錆ジャリの味が突き刺さる。口腔内でざらつく骨片──石川は痰とともに地面へ吐き捨てた。骨肉の混ざったぬめる痰唾が地面にビチャっとへばりついた。

なあ、女に惚れたことあるかい? なあ、惚れた女はいるかい? こんな俺にも惚れた女がいたよ その惚れた女がよ

三年間愛した女がいた 惚れた腫れたで一緒になって ふたりで一緒に幸せ掴もうなって 煤だらけになりながらリヤカーひいて銅線、鉄くず拾い集めてよ

だけど、だけどよ あいつはただの死体になっちまった 野原の隅で ススキに囲まれて ズタボロになっちまって 無残な姿になっちまって

あいつに買ってやった浅草神社のお守りもあいつの事 守っちゃくれなかったよ 痛かっただろうな 辛かっただろうな

糞ったれ あのチョン公めらが 戦勝国民 戦勝国民ほざきやがって好き放題しやがって 挙句の果てにゃこれかよ ポリもよ 俺達にゃなんにもしちゃくれなかった

だからよ だから俺は堅気やめたんだよ 堅気やめてよ 俺は外道になったのさ

泥んこにまみれちまったお守り握りしめてよ 取ろうとしても指の間でつっかえちまうんだ 身体中あざだらけで それでも それでもあいつは綺麗だったよ

たまらなく綺麗だったよ だから──俺はあいつを食ったんだ 眼から鼻から涙がダラダラこぼれてよ 口がひん曲がるくれえ肉が塩っ辛くて それでも俺は食い続けたよ

何度も何度も吐き戻しちまって それでも俺はあいつを食い続けたよ お日様が沈んでいくよ 俺のお日様が沈んでいくよ 俺のお日様が遠くにいっちまう

俺もお前も所詮は虫ケラ だかよ虫ケラにゃ虫ケラの意地があらあな ダンピラくぐってドス突き刺しゃあよ ちいとはポコペン野郎も大人しくなるだろうさ

徒党を組んだ三国人渋谷署を襲撃した。己らの威光と恐ろしさを世間に見せ付けるためだ。力だけが──暴力だけが全てを支配する時代だった。
三国人の集団を相手に真っ向からたちふさがったのはジュクの万年東一を筆頭とする愚連隊──その当時、三国人に怯える市井の民を守っていたのはヤクザと愚連隊だった。
神戸では三代目山口組組長田岡一雄率いる「山口組抜刀隊」が、ここ新宿では殺された「カッパの松」こと関東松田組組長松田義一が無力な警察の代わりをつとめていたのだ。
石川は他の愚連隊仲間とモクをふかしながら三国人の襲撃を今か今かと待ち構えていた刹那──鼓膜をつんざく銃声が闇の中で轟いた。安藤昇が先陣を切って散弾銃をぶっ放す。
拳が空気を切り裂いた。加納貢のストレートパンチが三国人の顔面に決まる。鼻骨を砕かれた三国人が哀れな声を出して地面にうずくまった。

浮世の憂さ晴らしといこうかい あのポコペンどもを叩きのめしてやる 命が惜しけりゃ引っ込んでやがれ どうせ人間死んじまえばただのオロクよ

善人も悪人もねえ ただのオロクよ そんでよ 燃えて砂利になって風に流されていくだけだあな おい、見ろよ 加納貢のメガトンパンチを

相変わらず凄げえな おっと、あそこにいるのはピスケンじゃねえか

直刃のドスがうなりあげるように吠えた。石川の握ったドスが男のドテッ腹に食い込む。鮮血が飛沫をあげた。怒号、絶叫、叫喚、あらゆる叫びが錯綜した。
割れた傷口から湿った空気の抜けるような音が漏れた。男が驚愕の表情を浮かべた。躊躇せずに石川は腹に突き刺したドスを滅茶苦茶にねじり回して男の腸を切り裂く。
己を凝視する男の悲壮に満ちた眼差し──石川の背筋に冷たい快感が走った。生温かい男の血がドスを握りしめた手を濡らす。狂乱が脳天を打ち砕いた。
ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。ドスを引き抜いた。突き刺す。
こめかみに浮き上がった血管が激しく脈打った。心が、感覚が、魂が激しい憎しみに氷結した。血溜まりに息絶えた男の身体を転がし、石川は次の獲物を探し始めた。
初めて人を殺した感触──石川は無意識のうちに射精していた。

そんなわけでよ 俺は今この府中刑務所にいる 女も殺した チョン公もチャンコロも殺した 思い残す事はもうねえさ


キチ(ピーッ)妄想

  ベイトマン

平行線状に血が滲む唇を拭って俺は喘ぐ。俺は自分で神を作り上げ、俺は少女を生贄を捧げた。神々はつねに血に渇いているのだから。
生きた少女を絞殺して神へと供物としたんだ。死んだ少女は神からの神聖なお下がり、俺は屍で長年の願望を叶えた。
俺は少女の屍がたまらなく欲しかった。少女の腐った死体とセックスする──それが子供の頃の憧れだった。
腐れ爛れた少女は俺のダッチワイフだった。蝿がたかって肢体に蛆が湧き、それでも抱き心地は良かった。
凍りつくような冷たい粘液に覆われた内側がまぐわう己自身を滑らせる。眩暈に侵され、手足をからませあいながら、俺はかなたこなたに揺れる少女の鼻先を食いちぎった。
指でつまむと溶けた緑色の肌が剥がれ、腐汁にまみれた少女の内面が浮き彫りにされる。少女が俺だけに曝す一面──それを眺める時、俺の心は癒されるのだ。
目頭を揉んで俺はいつまでも死んだ少女を見続けた。二人だけの穏やかな時間に揺られて、俺はオルガスムスの歓喜にシンクロする。
赤錆色の鉄格子、張り巡らされた蜘蛛の糸、日中の光さえ差し込まぬ独房で頼りない意識のまま俺は身体を丸めてすすり泣いた。
胎児のように身体をまるめて俺はすすり泣いた。朽ちかけた白い壁に背を向けて、全身に鳥肌をたてながら、一体誰なんだ。
誰が俺にこんな孤独をもたらしたんだ。このままでは寂しさに押し潰されしまう。俺の精神が悲痛に打ちひしがれて変容する前に、誰か少女の骨を食わせてくれ。
転がるのは瓶詰めの赤ん坊とタランチェラ、白癬菌を煩った首が痒くてたまらない。死を恐れぬ野蛮人は殺し殺され虫の息になった男達を慰める。
コインが五メートル飛んだ。飛んだコインが砕け散った。そのコインがチャリン、チャリンと鳴るんだよ。何か哀しい事でもあったのかい。
毒々しい褐色の垢、破れかけた布団、こめかみが痛い。俺は小さい欠伸をもらして瞼をこすった。
汚物の懐で俺は揺蕩う。監獄は仄白い世界、個数で人を数える看守は囚人を人間扱いしないんだ。一個、二個、三個……一個壊れたか。
せいぜい俺に残された自由は布団の中でマスをかくのが関の山。
膀胱がやけに冷たいよ。このまま漏らしてしまおうか。屎尿の匂いはもう嗅ぎなれてる。ストレスで神経や胃腸が壊れた囚人は首を吊って自殺した。
なんて幸せな囚人なのだろう。自殺できるなんて。罪の浄化などここには存在しない。囚人を洗脳するか狂わせるかだけだ。
外部から肉体的苦痛、精神的な責め苦を与えて囚人を思考停止にして操り人形にするだけだ。
愚鈍な赤い玉が脳内に侵入し、俺の頭蓋骨を圧迫する。思考が停止するほうを選ぶのか、それとも精神が停止するほうがマシか。
俺達は人間以下の物体として扱われる。それなのに心だけは気高い。俺が犯した少女殺しは社会科学の見地から正しい行動だった。
人権を掲げるこの日本で、至高存在を創造した俺がなにゆえ狂人扱いされるのだろう。神々は渇くのだ。
だけど精神科医は俺に言うんだ。今の時代に自らの妄執と想像で作り上げた神の為に人を殺すのは異常だと。
人間だけが裸になるのを恥ずかしがる理由とは何かを暇つぶしに議論を交わす看守がふたり。
看守A曰く、人口を制御する為のプログラムなり。もうひとりの看守が反論する。看守B曰く単純に時代社会の変化なり。
どこかの本の受け売りを熱く語る看守に幸あれ。俺も人のことは言えないが。七年以上の懲役を受けた在日朝鮮人は明後日には本国へと強制送還される。
自分の国の言葉も喋れない日本で生まれて日本で育った朝鮮人は、自国で異邦人となり、苦しむのだろう。
コンクリートのシミは黒い蝶になって羽ばたいた。支離滅裂だ。くそ、喋るのもいい加減飽きてきた。それでも俺は喋らずにはいられないんだ。


  ベイトマン

鼻につく屎尿の匂い、ひび割れた打ちっぱなしのコンクリート、落書き痕が滲む黒ずんだ古い壁、薄汚れたトイレの個室で僕はマスをかきつづけた。
ここは僕にとって思い出の場所だった。初めて香と出会った思い出の場所──いつまでも変わらぬこの匂いに懐かしさがこみ上げる。
荒くなる鼻息──淡く黄色がかった象牙色に染まる傲慢な陶磁器のように突き出た香の尻朶が僕の脳裏に浮かんでは消えた。
まるで波打ち際の泡のように、脳裏に浮かんでは儚く消えた。アヌスから漂う香の臭気──あらゆる体臭を濃縮した馥郁たる芳香。
小便で黄ばんだ便器に向かって黄色く濁った精液をぶっ掛けた。便器の縁側にこびりついたどす黒い糞滓に見事命中した。
射精しても僕はオーガズムなど感じやしない。虚しさだけが頭を垂れる。濃厚な重低音を効かせた激しいビートの幻聴──脳髄がビブラートした。
左腕を黄疸色のチューブで縛りつける。親指を握りこみ、僕は指腹で何度も皮膚を表面をこすった。垢と混じってくすんだ汗の匂いがした。
香と過ごしたあの日々が極彩色に輝き、僕の瞳が溶け出してしまいそうなほどやけに眩しく映る。浮かび上がった蒼白い血管に僕は接吻した。
ポケットから取り出したスプーンを不恰好に砕かれた白い結晶を乗せる。チューブを巻いた腕の指間にスプーンのヘラを強く押し込んだ。
親指でジッポーライターのヤスリをこすった。痛い。桃色だった指が白くなる。
所々黒黴が覆う蛇口の水道水をスプーンの上に数滴ほど垂らし、僕は緩やかに息を吐いた。スプーンの背をジッポーの火で軽く炙る
焦げた黒砂糖と樟脳の甘ったるい香りが鼻腔に触れた。適度に不純物の混ざったガンコロ──メタンフェタミンの匂いだ。
僕はこの匂いもたまらなく好きだった。無意識に股間の一物がいきり立つ。水面が沸騰した。ゆるやかに泡立つ。薄い蒸気が揺らめいた。
注射器の針を溶液に浸し、一滴残らず吸い取る。二の腕辺りに盛り上がった静脈がのた打ち回って激しく脈打つ。
香の肛門に突き刺す寸前の僕のペニスのように微かな音を立てて激しく脈打つ。僕はニードルを突き刺した。
ローションで濡れ光る針の先端──抵抗なくスムーズに血管の中へと突き進んだ。軽くピストンを引いた。血液がポンプ内で小さな渦を巻いて逆流する。
赤い水中花が咲いてはシャブと同化していく。焦らすようにゆっくりと僕は血管に向かってアンナカ入りの溶液を流し込んだ。
背筋にドライアイスを押し付けられたような冷たい感触──背筋がざわめく。冷たい。身体の芯まで凍りつきそうな感覚が神経を襲う。
冷たかった。ただ、冷たかった。溶液が染み渡る。身体中の毛細血管がシャーベットになる。
凍てつく快感が後頭部でシャッフルした。毛穴が開く。僕は熱を失ったスプーンを口に含むとわざと下品にしゃぶって見せる。
こうしてペニスを愛撫されるのが香、君は好きだったよね。香と僕は互いの糞尿を啜りあい、互いの肛門を犯しあった。
僕達の性癖は異常だっただろうさ。だから君は僕を置いて自殺してしまったんだ。ああ、だけど心配しないで欲しいんだ。
僕も今からそっちにいくから。カルシウムの錠剤を口入れて溶かす。白い唾液をスプーンにこぼして注射器でスポイルする。
もう一度血管にニードルを刺した。僕の心臓が停止するまであと三秒だ。


オカマ

  ベイトマン

 七月の半ばだった。
 光と影が訪れては去っていく。太陽と月が昇っては下がっていく。朝と夜が現れては消えていく。
 浮浪者が便所以外の場所で糞を垂れている。餓鬼が電信柱以外の場所で小便を引っ掛けている。
 壁に落書きされた子憎たらしい小僧のイラストが、これでもかといわんばかりに壊れた笑みを浮かべている。
 ドン、ドン、ドン、ドンキー、ドンキホーテ……耳を聾する聞きなれた単調なリズム。
 道玄坂二丁目にあるドンキホーテで、俺はトリスウイスキーを一本買った。
 一番安いウイスキー……俺がトリスを買ったのは単純に金を持ってなかったからだ。
 酒を飲みながら路地を突っ切った。道玄坂のクラブに顔を出す。行きつけのクラブだ。
 それから他の酔っ払いと喧嘩になり、ドテッ腹をしたたかにぶん殴られて、アルコール臭いゲロを口と鼻の穴からぶちまけた辺りで、
 俺の記憶はぷっつりと途切れていた。
 後頭部の辺りがやたらと重苦しい。首の付け根を回す。関節が厭味な音を立てた。身体中がたまらなくだるい。
 アルコールの過剰摂取に肝臓が悲鳴を上げている。それでも俺は毎晩飲み歩いた。
 ベッドから身体を起こし、サイドボードの引き出しを開けて、ラムのスキットルボトルを取り出す。
 酒を飲みながら洗面器に向かう途中で、むくんだ脚がもつれそうになった。洗面台の蛇口を捻って顔を洗い、鏡を覗き込む。
 鏡にうつった俺の顔──眼にクマが出来ている。顔色は青白く、日頃の不摂生を物語っていた。
 シャワーを浴びて汗と埃を洗い流したかった。腕時計を見る。舌打ち。時間がない。待ち合わせの時刻に遅れそうだ。
 ゲロまみれのTシャツを脱いで、洗濯機の中に放り込む。
 それから新しく着替えるとジーンズの尻ポケットから携帯を取り出し、イサムに遅れるとメールを送信する。
 こめかみが痛んだ。二日酔いのせいだ。俺は洗面所から出ると、テーブルの上に置かれた生温くなったコーラの缶を手に取った。
 小便がしたくなる。コーラを持ったまま、浴室の中に入った。シャワーのコックを捻り、頭から水を浴びた。
 冷たい。俺の尿意が増していく。俺はシャワーの水を浴びた状態で膀胱を緩めた。
 排水溝に水と混ざった生温い液体が吸い込まれていった。
 
 ☆
 
 ケツを拭く紙がほしい。それも福沢諭吉の似顔絵が描かれた紙を。俺は109を通りかかった。
 流行のファッションに身を包んだ少女達が、自分の服装をチェックしている。服装──どれもバラエティーに富んでいる。
 少女達の顔──どいつもこいつも同じで見分けがつかない。同じ表情を浮かべ、同じセリフを掛け合う少女達。
 表のツラでは、同じ褒め言葉を並べ、同じ返事をして、互いのスタイルやらアクセサリーやらをベタベタと大仰に褒め称えている。
 その癖、裏では女子高生向けのストリートファッション雑誌に必死に食いついて、
 どれだけ自分がイケているのかを他の奴らと競っている。
 考えている事も恐らくは同じだ。私が一番可愛い──俺から言わせればドングリの背比べに過ぎない。
 バカ高いカジュアルやらアクセやらを揃える為に親父に股を開き、援助交際に精を出してモデルと同じ格好をしても土台が違う。
 胴長短足のカボチャみてえな顔した奴がモデルと同じカジュアル姿になったとこで、似合うわけがない。
 俺は小便臭せえ雌ガキどもからさっさと離れた。
 蒸し暑い熱気、錆色に輝くマンホール、ぎらついたコールタールの臭気、溶けて黒くなったガムをへばりつかせたアスファルト。
 わいわいがやがや──雑多な路上を突っ切って俺は渋谷センター街に入った。
 センター街の入り口にあるスターバックス──そこが俺とイサムのいつもの待ち合わせ場所だった。
 イサムはサイドに黒いベージュのフリンジが揺れる紺色のワンピースを着て、その上から白いボレロを羽織っていた。
 ほっそりとした華奢な身体、黒い大きな瞳、薄い唇に整った顔──イサムはどこかのファッション雑誌の
 トップモデルにスカウトされても、おかしくないレベルの容姿をしている。
 「遅かったじゃないの」
 イサムが俺に向かって眉をひそめた。
 「だから遅れるってメール打っただろ」
 内心で、俺はうるさいオカマだと舌打ちした。
 イサム/綺麗なオカマ/新宿二丁目をうろつく衆道狂いの親父と、鶏姦好きの警官にはたまらない美少年。
 アレン・ギンズバークの詩に出てくるようなゲイ好みの少年とは違う、ドラァグ・クイーン系の少年。
 寺山修司の名作/現代に生まれた毛皮のマリー/KYゼリーの申し子。
 もしも俺がイサムと同じ格好をしても、醜女のマリーになるだけだ。
 俺はイサムと並んで歩いた。酷く喉が渇く。糖尿病かもしれない。違う。イサムのせいだ。
 俺の鼻腔粘膜が勝手にイサムの体臭を嗅ぎ取る。
 白く滑らかな首筋、肌から立ち上るイサムの汗の匂い、髪の香り、身体が疼いた。昂ぶる。
 酒が欲しくなった。いや、俺が欲しいのはイサムの身体だ。
 ヘテロ/バイ/ホモセクシャル──俺にそっちの気はなかった。俺は自分自身にゲイの素養はないと思っていた。
 ノンケという思いは所詮、俺の思い込みでしかなかった。
 二週間くらい前に見た生物学のテレビ番組が俺の頭の中に浮かんだ。
 同じ形質の遺伝子同士が組み合わされば、それはホモになり、違う形質の遺伝子同士が結合すればヘテロになるとかって話だ。
 だから同性と繋がればホモで、異性と繋がればヘテロになる。俺は自分がくだらないと思った。
 ただ、言葉の綾の違いってだけだ。
 「ねえ、カズ、どうかしたの?」
 首を斜めに下げて見返してくるイサム──俺の目を覗き込みながら、コケテッシュな笑みを浮かべて尋ねてくる。
 わざとらしい仕草だ。
 可愛い子、ブリッ子、それがイサムの強みだ。そうやって、イサムはバイセクシャルの親父を引っ掛ける。
 俺はイサムを無視した。往来の横側に移動──通りがかったリーマンの親父がガムを噛んでいる。
 クチャクチャ。これみよがしにガムを噛む音が癇に障る。
 暇を持て余すようにぶらぶらと俺達は歩いた。デートってわけじゃないから目的なんてものもない。
 それからふたりで東急ハンズで時間を潰し、マックでポテトを食った。
 後ろを振り返ると、マックのボックス席に一人で座っていたビーボーイ系のデブが眠たそうに欠伸をしていた。
 頭の悪そうなツラをしている。
 俺達の隣の席に座っていた三十代半ばほどのリーマンが携帯でつまらねえ愚痴を吐いていた。
 「最近さぁ、明るい話題がニュースに流れてないよねぇ、みんな人殺しとかの暗い話題ばっかりじゃん。日本の未来は暗いなぁ」
 強盗や殺人なんかの凶悪犯罪がニュースにならねえなら、そっちのほうがよっぽど問題だ。
 信号を渡ろうとする年寄りを手助けしたり、川で溺れてる子供を助けたなんてニュースが大々的に放送されて、
 どっかでレイプやら放火やらが起こってもニュースに流れないなら、そんな社会のほうがヤバイし、暗い。真っ暗だ。
 「おい、イサム。頭の悪いリーマンがいるぜ」
 「どこどこ?」
 聞こえよがしにイサムに声をかけるとリーマンが俺達を睨む。俺はリーマン野郎に睨み返した。
 途端に俺から視線をはずし、リーマンはマックから足早に出て行った。
 
 ☆
 
 「怒羅権のメンバーがヤクザとかち合って、柳包丁で相手を刺し殺したってよ」
 俺達が足を踏み入れたクラブ<モンキー>で最初に耳にした会話がこれだ。
 アーミーパーカーを着たガキと、ホームレスじみたドレッドヘアのガキ同士の会話。
 クラブだっていうのに、いつもの鼓膜に響くようなうるさいサウンドが聞こえてこない。スピーカーがぶっ壊れてるのか。
 そう思っていた矢先にスピーカーから突然激しいドラム音が鳴り響いた。
 流れてきたのは昔懐かしきブラックサバスだ。ガキどもの会話が音楽にかき消される。
 クソみてえな音楽でもクソみてえな会話を聞くよりゃ、マシだ。大音量に合わせて振動する狭っ苦しいフロアの壁。
 金を払ってカウンターの横にあるガラスボックスから、コロナビールの瓶を二本掴んで一本をイサムに渡してやる。
 コロナビール片手にカウンター沿いに歩き、俺は丁度よさそうな席を見つけた。
 スツールに座ってコロナビールのキャップをはずし、俺は冷えたビールを喉に流し込んだ。
 喉が炭酸で灼けるようにヒリついた。
 美味いとは思わなかった。喉がヒリつくような感覚はむしろ不快ですらあった。
 コロナビールをラッパ飲みしながら、クラブのフロアを見渡す。フロアの片隅にあるテーブル席に俺の目が止まった。
 暗い照明の下で、瓶で潰したリタリンとエリミンのブレンド粉をスナッフするクソガキども。一錠二百円の快楽だ。
 ヒロポン、シャブ、走る奴、冷たい奴、スピード、エス──覚せい剤は高い。ガキには中々手が出せない。
 どっかでカツアゲや親父狩りをしてきたか、あるいはパチンコで勝った時くらいしか味わえない。
 女なら援交という手もある。ただし、今の世の中はどこもかしこも不景気だ。
 リーマンどもは財布の紐を固く絞め、ホテル代別でイチゴ(一万五千円)でも中々引っ掛かってこない。
 風俗関係の商売も不景気のあおりを食って、どこも閑古鳥が鳴いている。
 社会人ですら遊ぶ金がない。ガキならなおさらだ。金がないなら代用品で我慢するしかない。
 イサムがスツールから立ち上がり、トイレにいってくるわとカウンターの右手にある男女両用便所の中へ消えていった。
 俺は二本目になったコロナビールを掴み、イサムが来るのを待った。
 三分……五分……十分……時計の針が回る。チクタク、チクタク──俺はえらく長いクソだと思った。
 腹でも壊していたのか。
 気になった俺はコロナビールを尻ポケットに突っ込んでから席を立ち、便所のドアを足の爪先で開けた。
 薄汚れた灰色のタイル/便所で嗅ぎなれたクレゾールの匂い……金髪男の後姿。手首を掴まれたイサム。
 どうやら厄介ごとのようだ。ドアの開いた音で俺に気づいた男が振り返る。
 男はあの晩の酔っ払いだった。男が「あ、テメエ、昨日のっ」と言いながら、イサムの手首を離して俺と向き合う。
 男が顎をイカらせて俺に近づいてくる。
 一歩/二歩/三歩──俺はビール瓶を抜き取ると、すくい上げるように相手の顎にボトルを叩きつけた。
 真下からビール瓶で顎を打たれた男が床に転がった。コロナビールは割れなかった。
 顎を押さえて悶える男の頭に瓶を振り下ろす。ガラスの砕け散る音──俺の手首に衝撃が走った。
 今度は割れた。同時に男の額も割れた。俺はイサムの手を掴むと急いでクラブから逃げた。
 血を見たイサムは興奮していた。昂ぶっていた。激しく昂ぶっていた。俺もたまらなく興奮していた。
 興奮しながら、走り続けた。背中に汗が伝い落ちていく。
 千代田稲荷神社に差し掛かると、俺はイサムを神社の暗がりに連れ込んだ。
 それから数秒ほど互いの眼を見つめて視線を交わし、俺はイサムの唇に自分の唇を重ねた。


ワイス・クラブのイエローキャブ

  ベイトマン

禁酒法時代より少し前のシカゴじゃ売春宿が最も儲かったもんさ。
それも梅毒病みの女を抱えてる安い宿じゃなくて、奢侈で豪勢な調度品に彩られた王様の気分にさせてくれる店が流行ったんだ。
なんといっても景気がよかったからな。一番有名な高級娼館はエヴァーレイ・クラブだったよ。
そりゃもう良い女たちが揃ってたもんさ、淋病にもかかった事がないような粒揃いの娼婦達だったよ。
で、エド・ワイスって男はな、そのエヴァーレイ・クラブをそっくり真似ることを思いついたんだ。
なんでかって、そりゃ、儲かるからに決まってるさ。女も別嬪さんを集めてたよ。
梅毒病みかどうかは別にしてね。ああ、だからワイス・クラブじゃアレの時に必ずゴムをつけさせたんだ。
そう、エド・ワイスのワイスを取ってワイス・クラブさ。エドって男はしたたかでペテンが利いてたよ。
シカゴ中のイエローキャブに客を運んで来たら手数料を渡すと言い含めてたからね。
アマッ子の尻を欲しがる酔っ払いや、高級娼館目当ての観光客を乗せたイエローキャブがワイス・クラブに殺到したもんさ。
貧乏人は門の前で弾かれたがね。良い時代だったよ。真新しい青いドル札がシャンペン代わりに舞った時代さ。
え、それからエヴァーレイ・クラブとワイス・クラブがどうなったかって?
サツのガサ入れで全てがオジャンさ。何でそんな事を知ってるかっていうのかい。
あんた頭が鈍いな、俺はワイス・クラブに一番客を運んだんだぜ。


百姓ちょぼくれ節

  ベイトマン

錆色したドラム缶に観音様が微笑んで、女衒に叩き売られる堕胎児が下水道の赤紙と一緒に流される。
狸面した政治家の演説は、歯欠け爺の金玉じゃねえか。
歯欠け爺の金玉じゃねえのか。

銀座にゃ、カルピスなんてハイカラなドブロクがあるんだってな。
おいらにゃ、一生、縁がないだろな。

皺くちゃ婆のセンズリは腐った茄子より始末に悪い。
仏壇拝むおいらのお袋はいつも仏さんに毒を吐く。
八百長で生まれた赤ん坊はカタワもんだったよ。

酒飲みお父のせいでおいらの姉貴は赤線いっちまい、メリケンさんに観音様を拝ませて隣の倅を恋しがっているんだよ。
隣の倅は首をくくって死んだけど。

松の木にぶら下がって、舌をべろりと出してたさ。

舌をべろりと出してたさ。

糞小便たれながしてくたばってたさ。

どす黒い朝焼けの雲に壊れた白いお日様がちょぼくれ、ちょぼくれ、ちょぼくれとサイコロ振ってやがったさ。

おいらの兄貴は二等兵、チャンコロ野郎に背中を打たれて家族残して今じゃ仏様。

おいらの居場所はどこにある。おいらの人生どこにいく。
可愛いあの娘も村長さんのお妾さん。
おいらの居場所はどこにある。おいらの人生どこにいく。

可愛いあの娘の啜り泣き、おいら納屋で貰い泣き、村長さんがあの娘の上に圧し掛かっていたのさ。
辛い、悲しい、辛い、悲しい、泣くしかないおいらとあの娘。
所詮水飲み百姓の倅、おいら逃げたら家族は村八分。

酸っぱくなったドブロクを一杯ずつ引っ掛けて、おいらあの娘の夢を見る。
おいらあの娘を恋しがる。
まぶた閉じれば、ありありと、浮かぶあの娘の横顔が。

色にボケちまった婆さんも兄ちゃん罵るお袋もロクデナシのお父も残していけないおいらなんだ。
おいらの居場所はどこにある。おいらのお天道様はどこにいく。

前を向いても後ろを振り返っても暗い夜道が続くだけ。
どこまでも、どこまでも、暗い夜道が続くだけ。

親父お袋あんたら覚えてるか。あれはおいらが六つの頃だ。水を張った桶の底、小さな赤子が浮かんでた。
ぷかりぷかりと浮かんでいたんだ。産湯に沈められた弟においら駆け寄ることすら出来なかったんだよ。
涙零して黙ってみてた。間引きされちまった弟は沼に捨てられ、魚の餌よ。

なまんだぶ、なまんだぶ唱えても幸せになるわけじゃなし、あの娘が嫁にくるじゃなし、弟戻るわけじゃなし。
お袋、念仏やめてくれ。おいら気が狂いそうだよ。お袋、念仏やめてくれ。おいら気が狂いそうだよ。

ちょぼくれ、ちょんがら、すっペらぽんのぬっペらぽん、ちょぼくれ、ちょんがら、すっペらぽんのぬっペらぽん。
おいらのとこの村長さん、浮世を流す道楽爺、焼酎片手に観音様を拝み倒しの舐め倒し。

すててん、とんしゃん、すててん、とんしゃん。
やれ、やれ、畜生めとその場で殺して、業のごの字の味を知り、悪のあの字の味を知り。
どうじゃないな、どうじゃいな、悪玉踊りはどうじゃないな。
どうじゃないな、どうじゃいな、悪玉踊りはどうじゃないな。
浮世の糸はしがらみで、罪で苦労する行き流し、義理の格子を掻い潜り、おいら娑婆からおさらばするよ。

悪が娑婆からあばよ。

文学極道

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