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kaz. (はかいし) - 2013年分

選出作品 (投稿日時順 / 全2作)

  • [佳]  数の病 - はかいし  (2013-02)
  • [佳]  逆転 - はかいし  (2013-12)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


数の病

  はかいし

 例の男が置いていった一億円のトランクを
開けっ放しにしたまま、ぼくは連絡橋にじっ
と立っていた。足のすぐ下を車が過ぎていく。
男のおかげで、ぼくは確かに一億円を手に入
れはした。だがその日を境に、ぼくは奇妙な
病を発症した。ぼくは自分のうちにとある不
自由を抱えるようになった。それは数に関す
るもので、一介の数学者としては全く恥ずか
しいので、誰にも知られないように、ここで
その病ごと、さっさと始末するつもりでいた。
だが、その場所に連絡橋を選んだのは、明ら
かに間違いだった。車がいくつも通り過ぎて
いくのを見ると、それを数えずにはいられな
くなってしまったのだ。
 一つ目を数えるのは上手くいく。でも、も
う一つ目の、その次の数を思い出すことがで
きない。その次の次の数は分かる。十一を超
えたら、またあの十の次の数がやってくると
思うと、もうそれだけで頭がいっぱいになっ
てしまう。それで、結局いくつなのか分から
ないまま一に戻り、またもう一度数え直して
は一に戻る、その繰り返し。一の次にある、
あの一と一を組み合わせた、あの数、一の隣
にある、一の次にあるやつ、ああなんて言え
ばいいんだ、とにかくあれだ、あの数! そ
れが出てこないのだ。
 気がつくと、もう何時間も経ってしまって
いた。だが時計を見た訳ではない。時計はも
う何も教えてはくれない。日が暮れ掛けてい
るので、そのことが分かるというだけだ。も
う、ぼくの頭には何もない。このトランクみ
たいに、数に関する知識はぎっしり詰まって
いるが、いざ何かを数えようとしてしまうと、
全く言いようのない違和感が起こってくるの
だ。じゃあ、この話はここで終わりだ。ぼく
はここから飛び降りて、この絶望感を解決し
てやらねば。ぼくは欄干を乗り越える。ぼく
は世界を乗り越える。ぼくの足が、一瞬、宙
に浮いた、と思う間もなく、真っ逆さまにな
る。加速する。その途端、身体の感覚がなく
なる。重さが、すっと消えて、かわりにぼく
のいた場所には、何かの手品みたいに、紙幣
がひらひらと舞っている。ぼくはこの世界か
ら、消え去った。
 今、ぼくは紙幣の一つ一つに描かれた、夏
目漱石の瞳の奥にいる。不思議なことに、こ
うした論理的に不可能な表現のほうが、この
状況を言い表すのに適している。というのも、
それは、閉ざされたまま、もうどこにも行け
ないということを意味しているからだ。漱石
の瞳が放つ鄙びた光の中に、自分がいる。こ
の世界から出せ、出せ! と叫ぶが、それを
見ているのもまた、自分のようだ。ぼくが紙
幣になったのか、あるいは漱石の瞳の中に住
んでいるのか。ぼくは瞳の中にいる自分を見、
その自分の瞳の中にいる自分、さらにその自
分の瞳の中に、……と永遠に続いているから、
何時まで経っても、「ぼく」を辿ることしか
できない。全くうんざりする。……ああ、ま
ただ。また「ぼく」がここに何人いるのかを、
数えたくなってしまった。

 ふと、誰かがぼくの身体に触れて、我に返
った。ぼくは自分の背丈ほどの高さしかない
小さな直方体の中にいた。四方の壁が、全く
紙幣そのものの絵をしている。そして夏目漱
石の顔が描かれるべき場所に、ぼくの顔があ
る。壁のその部分が鏡になっているのだ。い
わばぼくは無限に続く紙幣の狭い部屋の中に
いた。ぼくの姿が映った後ろにもぼくの姿を
映す鏡がある。夏目漱石の顔が、ぼくの向こ
うにずっと続いているように、見えなくもな
い。そういえば、ぼくは夏目漱石そっくりの
顔をしていると、友人たちによく言われたも
のだった。いったいここには何人の夏目漱石
がいるのだろう。ぼくはたまらず数え始める
が、またあれだ。あれが出てこない。数の悪
魔に取り憑かれているとしか言いようがない。
一の次の数が出てこないのに、その次の数を
思い出そうと脳が勝手に働き出して、もう頭
が割れそうだ。そこで意識が途切れる。
 今、ぼくの意識は、もとの世界にぼんやり
と漂っている。ぼくの身体は紙幣になり、世
界に散らばった。散らばった身体の部分が、
それぞれの紙幣が、誰かに拾われている。麗
しい指先の女性の手、ニスの匂いのするゴム
手袋、古めかしい革手袋もあれば、あるいは
浮浪者らしい湿った掌もある。拾った人々は
みな一様に、透かしの向こう側に黄金がある
と信じているらしい。ぼくには奴らの考えて
いることが、受け取られたものの手を通して
伝わってくるのだ。黄金を得るための暗号は、
この旧い千円札の漱石の瞳の部分に穴を開け、
穴を通してその向こうにある夕焼けを望むこ
と。
 ついに、紙幣を手にした人たちのあらゆる
手によって、それが執行される。コンパスや
画鋲で穴を開けるものもいれば、あるいは単
なる指先、爪の先で引っ掻くようなものも、
みなすべて、紙幣の漱石の瞳を貫く。そのと
きぼくは、眼球に焼けつくような痛みを感じ
る。ぼくは叫ぶが、声にならない。叫びを上
げるための喉がないのだ。目を押さえようと
するが、眼球も目蓋もない。押さえるための
手もない。ぼくは透明でどこにも姿をもって
いない。痛みだけが空中を漂っている。ぼく
は血を流す。だが血しずくは見えない。その
血は透明で、陽の目に混ざり合い金色に輝く。
晩照に染まる西の海が、ぼくの全ての血潮だ。
そしてぼくの瞳は太陽なのだ。
 人々に光を分け与えよう。肉体のすべてと
引換に、差し上げよう、ぼくを犠牲にした黄
金の錬金術。ぼくの身体から数字が溢れ出し、
世界の経済を破壊するのだ。彼らは黄金を手
に入れる。彼らは地上のありとあらゆる富を
享受する。自分を大富豪と信じている人々の
嬉々とした顔。翌日、ハイパーインフレーシ
ョンの号外と共に、その顔は土気色に変わる
ことだろう。あの夕潮はぼくの流した血の大
河、その流れは水平線の彼方で途切れている。
そのぎらぎらした照射の下、穴の開いた無数
の紙幣が水面に浮かんでいる。


逆転

  はかいし

――本の上でのあの素晴らしい眠りを与えてくれたサルトルに捧ぐ


 お前は女に出会った。運悪くそこはベッドの上だった、初体験で風俗という、いかにも吐き気がしそうなことをお前は試みていた。もちろんすべての人々がそう感じるとは思わない、しかしお前は感じたのだ、その吐き気を、その初々しさを、おのれの若さを。そしてうんざりした。お前はうんざりする自分を感じた、そう言い直してもいいだろう。お前は真っ直ぐに愛を表現できる相手が見つからなかったために、つまりどこかひねくれたところがあったために、そうなってしまったのだ。お前は暑さの中で、くねくねした路地裏を抜けて、その店へ入っていった。
 そこに夢があった。愛する。これはなんだろうか? ここに乳房がある。ここに谷間がある。鎖骨がある。肩がある。愛する、これは奇妙なものだ。この体のどこに、そんなものがあるのだろう? 股の間には物静かな陰毛しか生えていないし、うなじには甘い汗の一滴もない。これを愛と呼ぶならば、果たして人々は何を味わうのだろう? そんな快い眠りを開かれた目に見続けていた、女の夢だった。お前は愛すると同時に、その体で哲学してしまうのだ。お前が愛しているまさにその体で生き抜いてしまうのだ。
 すべてが終わると、今度はもう来ないぞという気持ちがした。もう来ないぞ。もう二度と。そして、それをいつかまたどこかで言い聞かせてしまうのかもしれないと思ってしまう。お前は愛について数多くの比喩を知っていたが、愛することと愛そのものとの違いについて、深く考えたことはなかった。

 一ヶ月もしないうちに、また別の女のところへ行った。今度はアパートだった。女は姦通の最中に気分が悪くなり、嘔吐した。お前は、それが女のものであるとは思わず、自分のものであると考えた。お前は前回の経験を思い返していたのだ。お前は立ち上がり、吐き出されたものを、まるで自分のものであるかのように扱って、女をますます気分悪くさせた。女は突き刺されたまま、洗面所とベッドの間を行ったり来たりしなければならず、またお前は突き刺したまま、雑巾で床を拭かなければならなかった。お前は、ちょうど直立した女に対して、逆立ちするような体勢でいた、女が動くたびにお前はペニスを軸にしてぶら下がり、女の動きに合わせてどこまでも行ったり来たりすることができた。一通り吐瀉物がなくなると、お前はこう言った。「あのいきのいい魚や野菜が、ゴミになっちまうなんてなあ。俺が持っていくからな」もちろん、お前は冗談のつもりで言ったのだ。しかし、お前は逆さまだった。すべての言葉、お前が口にするすべてのことは、女には反対の意味に受け取れるようだった。女はお前の過剰なユーモアを、自分に別れを告げる深刻なメッセージと勘違いした。「自分よりも魚や野菜の方が大事なの? 信じられない……」また吐いた。仕方なく、お前は自分と女を逆にしてみた。つまりお前は直立し、女が逆立ちするのだ。こんなことをしたらかえって逆効果なのではと思うかもしれない、そしてそれはじっさい逆効果だった。女は吐きまくり、それは止まらなかった。辺り一面が吐瀉物の海になった。その吐瀉物の中の酸のせいで、女は溶けてしまった。お前は吐瀉物に溺れながら女を探したが、見当たらない。ここには乳房もない。ここには谷間もない。鎖骨もない。肩もない。しかしお前は納得した。なるほど、愛が女をとろけさせるとは、このことか。いつの間にやらお前も溶け出した。その日のうちに、アパートの住民たちは異臭のためパニックに陥り、ドアの郵便入れから吐き出される吐瀉物にびっくりして、大家さんまでもが逃げ出す始末だった。直ちにアパートに包囲網が張られ、これを解体するべきかどうかという議論が持ち上がった。多くの人々が反対した。しかし議論している間に、その集会場にも吐瀉物が押し寄せてきているという誤情報が入り、慌てた人々が窓を扉を閉めて隙間を粘着剤で塞ぎ、自分で自分たちが閉じこもる密室を作ってしまった。密室殺人が起こる準備は万全と言えた。外部の様子を確認しようと思ったら窓を割るしかないが、あの異常な酸っぱい匂いを我慢しなければならず、また酸っぱさのために目が潰れてしまうというデマが流布していて、誰にも手のつけようがないのだ。誤情報を流した犯人探しが始まったが、それ以前にどの情報が正しく、どの情報が正しくないのかを、判断できる人間がその場にいなかった。一人が発狂し、一人が何者かに殺害された。やがて、議論は哲学的な方向に進み出した。この極限状態において、そもそも正しさとは何か、と言い出す厄介な輩がいたのだ。「考えてみれば、我々もひょっとすると、もう溶けていて、この世界には存在していないのかもしれないぞ」「いいや、存在することと、存在するものはまったくの別物だ。たとえ我々が溶けてしまったとしても、我々は存在する」こんな調子で、集会場にいた人々は極端なニヒリズムに陥ることになった。「すべては存在しないのだ。すべては無だ。おそらくその言い分が最も我々にとって説得的だろう」吐瀉物が住宅街を埋め、山々を溶かし、マグマと混ざって海を蒸発させ、全世界を浸食しつつあったが、この密室の人々はもはや自分から存在を否定していたので、溶けようが溶けまいが関係なかった。他の家々でも、これと同じことが起き、いくつも密室が生まれていた。人々は閉じこもり、乱交にふけり、殺し合い、それで快楽を増やしていた。世界のあらゆる愛はこうして終わることとなった。どこかに出かけることもなくなったので、「もう来ないぞ」と言うものは誰もいなかった。もちろんこの吐瀉物の大陸に、誰かが出かけて船で近づいてくるなんてことはあり得ないし、その意味でこの愛を邪魔するものはいないのだった。

文学極道

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