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鈴屋

選出作品 (投稿日時順 / 全55作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


恋歌連祷  8

  鈴屋

   
 
   8
  
  
   給水塔の上
   キジバトが世間を見ている
   
   十月 あなたはあなたの街を散歩する 散歩に希望はい
   らない? あなたは見る 青空がかぎ裂きに裂け宇宙の
   黒い欠片が降りしきるのを みどり色の芋虫が路面電車
   よろしく体を波打たせながら坂を馳せ下りてくるのを
   レストランのアクリルケースの中で薔薇とパスタが埃に
   まみれているのを 海鼠のプラットホームの上に佇み芋
   虫の愛らしいマスクを待ちながらあなたは吐く なんど
   も吐く 遠くであなたの母が笑いながらたしなめている
   あなたはしもた屋のガラス戸を開け土間の奥の畳敷きに
   上がる 唇が異様に紅いバカそうな少年が入ってきてあ
   なたを押し倒す あなたの上で少年は嬉々として暴れ犯
   しはじめる あなたは白壁のグリーンランドに似た染み
   を見詰めている 畳の埃で頬がさらさらする 母に会い
   たくてまた吐く 遠くで母が笑いながらたしなめている 
   砂漠の町の静かな広場で男が男を壁に押しつけ刺してい
   た なんどもなんども刺していた 男が崩れ落ちて死ぬ
   とまた最初から男が男を刺していた なんどもなんども 
   刺していた 男が死ぬとまた男が男を刺していた 刺し
   た男はオートバイよりも速く地平線まで逃げた 死んだ
   男は陽の下で死につづけた

   プラタナスの葉裏が光る
   紅茶は紅い
   
  
   


恋歌連祷  9

  鈴屋


 
 
道ばたの草が汚れている
タールの新鮮な飛沫
 
あなたを連れていく 雨に濡れながらあなたを連れてい
く バターのようなぬかるみ道をあなたの腰を抱いて登
っていく 手をからめ脚をからめ毛髪をからめ目や舌や
息をからめ体液をからめあらゆる性愛をからめあなたを
連れていく 登りつめれば頭上の大いなる天の蓋を切り
裂きさらにさらに登っていく 雨に濡れながら連れてい
く 天国だの地獄だの わかっているだろう そんなも 
のは ない あなたを連れていく 人が創ったちゃちな
書物と建築 言葉と音楽 そんなものは ない 信仰は
人の悪い癖 信仰の代わりも悪い癖 戦争?やってろ
平和?やってろ そんなものは ない あなたとわたし
のあらゆる突起と穴をギシギシギシギシ圧しつけあって 
雨とぬかるみと血にまみれ もうもうと湯気をのぼせ
性愛しながら連れていく 世界? 宇宙? わかってい
るだろう そんなものは ない 生きても死んでも そ
んなものは ない
 
窓の
明るい雲
電子レンジが呼んでいる 


恋歌連祷  10

  鈴屋

10


岸辺にいると不安なので
内陸へ向かう

わたしが愛するあなた あなたを捨てにいく あなたの
首はなだらかな丘の頂にそっとおく あなたはけっして
ふり向かない木になる あなたの腕と脚は束ねて括って
寂しい駅のベンチに忘れてくる 学校帰りの少年がひと
り美しい眉をひそめる あなたのコスモス色の10の爪は
ティシューに包んでポケットにおさめる あとではじい
て遊ぶ あなたの眸は秋の曇り空に投げ入れる ときど
き瞼をあけては道行く人の背後を見詰める あなたのト
ルソーは湖に立たせる 千年昔の悲しい恋の伝説になる
あなたの唇はポスターにして街中の壁という壁に貼る 
万人があなたの唇を買い求める あなたの血液のことご
とくはわたしが吸いつづける わたしの永い逃避行の糧
とする あなたの女性器は荒れ野の枯れ木に吊るし北風
に晒す わたしはその荒れ野で泣きながら夕日を見る 
わたしが愛するあなた あなたを捨てにいく あなたの
すべてを捨ててしまえばわたしは旅を終え紳士服など買
いにいく

ドアミラーの中の青空
はるかな送電塔の数列  


花冷え

  鈴屋

あなたがふりむく 春
花冷えに二の腕をさすり あなたにこどもを生ませる 春
いきるきもちもてない? 春 
桜なんて紙くずじゃないか
窓のそとのどこかの空でヘリコプターがとんでいる 春 さわらないで
水のませてくれ
 *
歩いていく
バイクがたおれている 発泡スチロールのカケラが目のまえを転がっていく
あなたの二の腕の鳥肌のザラつきに触れようとする
春 タイトスカートの裾から赤ン坊が降りてくる
あなたがふりむく  
洗面台の上の小窓が閉まらなかった 蛇口の雫が止まらなかった 春
さわらないで 紙くずじゃないか 
スカートの下に赤ン坊をぶら下げている
あなたの歩きにくさを忖度する

 *
歩いていく 自販機がある
カーディガンの袖で手をつつみ あなたにこどもを生ませる 春
まえをゆく尻の下で皺が左右にはしる
あなたの膣の熱をおもう 風が濡れ匂いたつ 春
ツーツーツー どこかで配送車がバックしている 
あなたがふりむく 桜なんて紙くずじゃないか
こどもは腹にもどっている いきていける? さわらないで
春 小銭をいれる
ウーロン茶でいいのか?


日暮れまで

  鈴屋

せめて喉をひらくほどの
風がほしい

倒れかけた一本の杭が
有刺鉄線にかろうじてぶら下がっている
足もとの草むらから椋鳥が飛び立ち
驚いてみることも救いなのだと
顔をあげれば、電線から垂れている紐の類

  あのひとの部屋で
  あのひとの裸体をステンドグラスみたいに
  区分けしてきたんだ

道のゆくての黄ばんだ空に
家や木立や電柱が、切り絵のように立てかけられて
歩いていっても崖、明日なんかない

蚊柱に立ち止まり
とある一匹を目で追っていくのは
存外たやすいことがわかる、けれども電柱にじゃまをされ
「耳鼻咽喉」って、どこの言葉?
踏み込んでしまった水溜りの
油膜の暗い虹
吸殻
ボルト
曲がっているのは釘?
ミミズ?

  あのひとの部屋で
  あのひとの内臓や管のひとつひとつを
  十二色のパステルで塗り分けてきたんだ

薄闇のなかに
ひとむらの小手毬がしろじろ浮かんでいる
住宅の閉ざされた窓々のひそやかさ
レジ袋を満載したママチャリにぬかれ、それきり
路上に人が絶えて、ふいの
風のように
学園のチャイムが中空をめぐり
放浪の予感?
ふりむけば
巨大な夕焼けが逆巻いて


恋歌連祷 6(仮)

  鈴屋

月は高く
植物は帰化する

あなたと手をつないで秋の花を観にいく 河原に泡立草と
芒を観にいく 明けるのか暮れるのか雲が垂れ込めいつま
でも仄暗い 対岸の丘陵の中腹にゴミ処理施設の煙突が見
える 鉄橋を電車が渡っていく なぜいつまでも暗いのか
クレゾールが臭う 河原一面泡立草と芒の金銀の斑がぼう
と浮いている 土手から河原に降りる 芒の葉陰であなた
の口を吸う あなたの顔が風に掃かれ白々瞬く 足許で人
が死んでいる 川岸でも半身を水に浸しながら人が死んで
いる その爪先が浮き沈みしている 土手の草の上で人が
死んでいる あちこち累々と死んでいる クレゾールが臭
う 上流の空の果てが傷口のように爛れている ゴミ処理
施設の床にも煙突の中にも死体が詰まっている 電車のシ
ートにも床にも死体が転がっている あなたと手をつない
で死体を見ていく 橋脚の下でわたしの母が死んでいる
波際であなたの姉が腐っている 姉の右の乳房が陥没して
いる 泡立草と芒の中に分け入り わたしたちは向かい合
ってしゃがむ あなたの口を吸う あなたの顔が風に掃か
れ白々瞬く 花を観に来たのだから 仕方がないのだから
わたしたちも死ぬ準備をする

尾長が叫ぶ どこかで
今日が始まる


あなたの行方(1〜5のうち1・2・3)

  鈴屋

1 広場


五月の透明な日差しには純白のワンピースがよく似合う
あなたはわたしとの約束の場所、広場のとある片隅に佇んでいた

雑踏のなかにわたしを見つけたときの微笑のために口許をととのえ
ビーズのストラップを下げたケイタイを右胸のあたりで握りしめ
ときには舞い立つ鳩のゆくえを追って
ビルの稜線に狭められた青空を仰ぎ見ることもあった
あなたはあなたという少女の見かけほどに幸せであり、あなたからすれば
目のまえの人々の行き交いも同じていどには幸せなはずだった

あなたがぼんやり眺めているおびただしい頭の群れ
メガネ、ピアス、ケイタイ、開いたり閉じたりしている唇
振られる手、つないでいる手、ザラザラ過ぎていく靴の右左
たえまなく吸われ、吐かれる空気
あなたがぼんやり眺めているおびただしい群集、黄色い人種の多彩な休日

その言葉は
あなたではなくあなたの唇の唐突な発見だった
「あなた方を愛さない」
あなたの眸が広場のすべての人々と数羽の鳩、そしてあなた自身をかき消した
  
あなたはどこへ消え去ったのか
いつの日もハンカチを干していたあなたの小さな窓を
わたしが訪れたときにもあなたはいなかった



2 雨期


あなたは雨が降りつづく内陸を旅していた
水漬く草と森、髪と皮膚、ひとすじどこまでも伸びていく道を
ぬかるみも厭わずあなたは歩きつづけた
降る雨が昼も夜もこんなにも銀色に光るものとは
たえず濡れていることがこんなにも清潔なこととは
前方のぬかるみの輝きを見つめ、空を仰ぎ、顔に水の粒を打たせ
歩いていくことがこんなにもすがすがしい所作とは・・・

あなたは自分の肉体の重みを憎んだ
たっぷりとタールを内蔵しているような重みを憎んだ
憎みきって、頭蓋を開き、胸を開き、腹を開き
豪雨に打たせ隅々まできれいに洗い流してしまえば
身は軽くいよいよ旅は快適となり
丘陵の上の雲間の明るみから
草はらの上に淀んでいる巨大な黒雲に至る大空の繊細な諧調
その美しさをこころゆくまで楽しんだ

あなたは丘陵の頂から頂へと伝うひとすじの細い道を歩いていた
霧雨なのか霧なのか
それ自身光の粒を含んでいるかのような
明るい乳白色の大気が眼下から濛々と立ちのぼり、あなたを包んでいた
永い旅の末、疲労はあなたのなにを蝕んだろうか
頬はこけ、眼差しは呆け、先の定かではない道の危うさを気づかうでもなく
ふわりふわりと浮いているような足取りは影も曳かず
消えかかり、やがては消え失せる幻影と化して・・・
だが、あなたは
視界を閉ざし染み入るようにまとわりつく大気の温みのなかで
生きることに深々と染まり満ち溢れ、
やはり歩を進めていった



3 革命


それは蜃気楼のようにも見えた
地平線に長々と横たわる群集の帯

委員会はいつも風が吹きすさぶ大地で開かれた
紙もペンも押さえるより速く
テーゼも戦術も討議も声になるより速く吹き飛ばされ
あなたはあなたでサンバイザーとサングラスとスカートの裾を交互に押さえていなければならなかった
評議会はいつも地平線まで伸びている鉄路の上で開かれた
レールがカツンカツンと鳴りはじめ警笛が聴こえるたびに
あわてて椅子とテーブルを両側に運び出さなければならなかった
通過する車輪の隙間に、なにやら怒鳴っているアジテーターの振りかざす拳が見えたことも
あなたの片方のパンプスが運悪くレールの上に脱げ落ち、轢かれたこともあった

あなたの真摯な眸とキイロスズメバチとママコノシリヌグイの花束が革命に向かった
あなたの尖った剥きだしの乳房とヤマカガシと廃線の電気機関車が革命に向かった
地平線の果てまで落ちている硬いもの柔らかいもの、石や瓦礫や寝具の類
地平線の果てまで立ったり並んだり倒れたりしているもの、電柱や杭や広告塔の類
それらすべてが革命に向かった
あなたは電気機関車のデッキに立ち、それらすべてに向かって叫んだ
「われわれは名もない遍在であること、名もない孤独であること、
名もない日常、名もない事物、名もない死であること
それら名もない集積の名もない革命であること・・・」


あなたのゆくえ(1〜5のうち4・5)

  鈴屋

4 花 


夜、星たちが暗黒に天蓋の形をあたえた
昼、太陽が天蓋に軌道をひいた
灼熱が地平のわずかばかりの禾本科の草を枯らし
驟雨と夜がまたわずかばかりの発芽をうながした
あなたは細い水脈を見つけては水を手のひらにすくい、すすり
ただちにそれは汗となって薄い衣服を濡らし、乾いては塩の染みを跡づけた
日に日をついで大地を蛇行していくあなたの足跡が、まだしも、けものの証なら
神の名を知らぬまま、未明の空遠く鳴いてみることも

やがてあなたは色濃い草と森に沈む村に辿りついた
炎天のもと、静まりかえる畑中の道、よどむ溜池、生垣から覗く庭、
なぜ人は花を植えたがるのか、あなたが怪しむそこここに夏の花は咲き
よそ者ふぜいを隠しもせずとぼとぼと過ぎていくとき
蓮華、露草、昼顔、山百合、金鶏草
あなたを訝るすべての花が
あなたに強いた
「もだせよ」と
小道のわきには百日草がならび咲き
土塀をなぞる指がふと空をおよいで、あなたが覗き見た庭には
沙羅、合歓、花魁草、凌霄花
花かげの奥の座敷で、花よりも紅い女と
花よりも蒼白な男が
死よりも哀しくまぐわい
あなたが見渡すすべての花が
あなたに強いた
「もだせよ」と

百日紅の根方の石にあなたは座した
足許の先に六つ七つの蟻の巣穴が散らばり、
運び出すもの、運び込むもの
旅に出るもの、帰還するもの、交渉するもの、連絡するもの
蟻の集落の殷賑をあなたは飽かず眺めた
周囲には酢漿草の花が明かりのように咲きそろい、さらに鳳仙花、葉鶏頭の森が囲んでいた
なつかしい民族のように彼らの言葉を音楽をかすかに聴きながら
幹にもたれ、日暮れへさそう風にわずかに花冠をゆらす芙蓉を
見るとはなしにいつしか眠った
それは誰だったか、肉親がひとり
あなたが忘れていたあなたの名をしきりに呼んだ




5 広場


秋になった
わたしはあなたを失った広場に佇んでいた
あれからいくたびか雨が降り、いくたびか日が照り、舗石はしろじろ洗われ、清潔な風がふきわたり
舗石の隙間という隙間に針金のような帰化植物が生え
あちこち鼠色の穂ををつけているのもあった
ビルの壁には四角い青空が整然とならび、そのなかのひとつが思いがけず日を弾いた
  
地平線は目の高さにあった
点と見えたものが短い縦軸になり、ゆらめく紡錘形となり
それはわたしにむかって歩いてくるあなたの姿だった
あなたは歩を止めると、両手を垂らして立ち尽くし
その眸はわたしを、それともわたしの背後を、いや、なにひとつ見ないかのようにさ迷い
やがてわたしが聴いたのは、たしかに懐かしいあなたの声だった
「批判につぐ批判、払拭につぐ払拭、変遷につぐ変遷、草をはむこと、石をけること
落ちているものを拾い、手のひらにのせ、見つめ、捨てること、歩いていること、川をわたること、そしてなお、けっして成就しないこと・・・、そう、だから、わたしはあなたに言う、さようならすべて・・・
キイロスズメバチが死ぬまぎわ、嗤いながら言ってた、地上の解放は人の消去だって、わたしはかれを笑って見送った
眠り、目覚め、水をのむこと、日をあび、風にさらされ、ときに生に、ときに死に至ること
そしてなお、けっして成就しないこと、・・・そう、だから、わたしはあなたに言う
さようならすべて
さようならすべて
さようならすべてがすべて」
 
地平線は目の高さにあった
あなたの後姿はゆらめく紡錘形となり、短い縦軸になり、地平線に交わる点となって消えた
わたしは舗石の上に落ちているホワイトパールのケイタイと片方のパンプスと
キイロスズメバチの屍骸を拾い、ベンチの上にならべ
手をはらいネクタイを締めなおし、広場からオフィス街に向かう広い鋪道を歩きはじめた
振り向かずともたしかに、背後で人々やバスやタクシーが行き交い、鳩が舞ったりしているのがわかった、はやりの唄や靴音やクラクションが聴こえてきた
わたしはわたしが給料生活者であることを思い出し、それはゆくりなくも
「嗚呼」という声とともに空を仰ぐほど新鮮だった


わたしが歩いていく

  鈴屋


電柱が並んで立っているのはわかっている
灰色の円筒形を給水塔とよぶこともわかっている
ガードの上をいずれ電車が通ることもわかっている
そこまではわかって、そのあとがよくわからない
見えているのに、だ
 
風景のなにもかもがよく見えている
よく見えてはいるが金属的に光っている 
金属の平たいピースを嵌めこんだようだ
そのひとつひとつが独自に光っていて
それらを何々と名指すことができない
そのことについては
ふむふむと頷きながら事実としてわかっている
  
女の部屋に向かっている 
別れてくれ、と云われるのはわかっているし
それはそれでかまわないし
好都合だとも云える
未練がないわけではない、とも云える

彼女の像はすぐ思い浮かぶ
へんなものだ
それが女の肉体であるというのはすぐわかる

歩きながら
壁、とか、電線、とか、反射、とか
瞬間的にそんなふうにわかることはたまにはある
梅澤眼科、とか、漢字が読めてしまうこともごくたまにはある

目のまえのなにもかもがよく見えている
なにもかもがよく見えているとき
おもいだす昨日が無いのがわかり
自分が他人だ、ということがつくづくわかり
歩いていくが
なにひとつ名指せない


秋の散歩

  鈴屋

ネコジャラシが風を批判している

 *

こいびとよ
秋はあなたのひかがみのさびしみ 
日の当たる縁側をあなたの足うらはひそかにかよい
綿ぼこりはまろび、ドアのむこうは青空 
崖上からふみだす歩のかるさ
秋は散歩のたのしみ 
通りすがりの一つ家の孤独な火災をやりすごせば
爪ではがした昼の月と恋の瘡が煙にさらわれ
失うことのさわやかさ、見返り美人をこころみる 
秋は花と血のたのしみ 
すすきをなぎ曼珠沙華をふみしだき 
日がな一日肉を斬りあう無頼が二人 
一人がかなしく死に
一人がかなしく生きのび
二つながら 
あなたの恋がまたはじまる、こいびとよ
踏切の警報機が鳴り
黒と黄の縞々模様の棒が横たわるむこうで
ガス器具販売店の幟旗がはためき 
郵便配達の赤いバイクがジグザグに遠ざかり
老婆が門扉のあたりを掃くそれらのながながしい時、時
鉄の車輪が瞬き、去り、棒があがり
人けのない道に、黄金の
金木犀一樹
二秒、一秒
あなたは世間から醒める
こいびとよ
秋は角を曲がる、秋は全体的に角を曲がる、秋は軋む、秋は軋みながら全体的
に角を曲がる、秋は傷つける、秋は軋みながら全体的に傷つけ角を曲がる、秋
は現世を運ぶ、秋は軋みながら全体的に傷つけ、現世を運びながら全体的に角
を曲がる、こいびとよ 
縁側の陽だまりはうつり 
帰宅したあなたの足うらはひそかにかよい 
綿ぼこりはまろび 
あなたはふるび、ふるび色づくあなたの 
秋はさびしみひかがみの秋
こいびとよ

 *

雲とコスモスと
「マー君」という叔母の犬


空き室

  鈴屋

曇ってる
いつだって曇ってる
昼下がりの駐車場には青い2tトラックが一台だけ
そのむこうのモルタル壁のアパート
そこに住んでた女をつけたことがある
臙脂色のスカートの腰ばかりを見ていた
足が悪いのかもしれない、変則的にゆれた
ヒッコリ、ヒッコリ・・・、そんなふうに口ずさんだように、おもう
横顔しか見なかった

 *

鉄の階段をのぼる
足裏にかすかな共振をかんじる
2階の屋外通路に上がってあたりを見わたす
電線が急に増えている
駐車場の四角い網柵沿いに雑草とコスモスがいっしょに生えている
路面の白線が浮いている、道にも住宅にも人がいない、動かないから写真みたいな景色
二番目の部屋のノブをまわす、軸があまくなっている
うしろ手に閉めて板の間に上がる
ぬぎ捨てたスニーカーを見かえす、片方がひっくり返っている
ステンレスの流し台が乾いている
クレゾールがにおう、気がする
クレゾールのように美しい、というおもい
トイレを開けてみる
ごくうすく水ぎわの形に黒ずんでいる
板の間から畳の部屋へ
押入れはすべて開け放たれている、その空っぽの床に落ちている
ピンクのセロハンに包まれた二個のナフタリン
半月のように欠けている
柱の釘の黒い頭、点々とある釘やフックを抜いた黒い穴
畳はあんがい傷んでいない
女はそのように歩いた
カーテンのない窓を顔の幅に開け外を窺う

降りだしそうな空の下に一面の野菜畑、そのむこうに
私鉄の架線だけが見えている
溝みたいなところを走っているらしい
窓を閉めて部屋に向きなおる
壁に跡づけられた家具の幻影
にわかに動きはじめる空気
じっと見つめる
人型が板の間のほうから入ってきて立ち居ふるまいする
腰のあたりを目で追う、ヒッコリ・・・
あとをつけたことがある、自涜に駆られる眩暈
畳に尻から落ちて仰向けに寝る
外の音をさぐる、なにもしない
ドーナツ型の蛍光灯が真上にある
遠く、警報機が鳴る
背中に寒い湿り気をかんじる
横顔しか見なかった
電車の音がする
密生するサトイモの葉の上をパンタグラフが蟹みたいにシャカシャカ滑っていく
窓に立たずとも見える
好きな景色


給水塔の上で

  鈴屋


住宅では繋がれた犬が叫んでいる 
畑では白菜とキャベツが腐っている
僕は職業をさがしにいかなければいけない
それだから歩いている
切れ切れに飛んでくる黒い煙の
来し方見れば
給水塔の上で女が焼けている
 
黄ばんだ空にムクドリがつぎつぎ刺さっていく
電柱とビルディングが反りかえる
アスファルトのひび割れが刻々と近づいてくる
台所の小窓を閉めたかどうか
ガスストーブを消したかどうか
「アナタノイッサイヲアイシテイマス」
出がけにテレビが言っていた
郵便受けには極彩色のチラシが溢れていた
僕は職業をさがしにいかなければいけない

こめかみの方角
給水塔の上で女が焼けている
道路では街路樹が捻れている
路上に点在している人々が
バサリバサリとすれちがう
太陽はうす汚い
月は透けている
ふいの梅の香は
心底身に余る
この世は単純だ
僕が終われば
風景はない
僕は息をしている
風景を愛している

給水塔の上で
女の黒焦げの四肢が虚空を掻きむしっている
そのかたちのまま固定される
白いビニール袋が路面を滑っていく
2トントラックに轢かれ
しかしなにごともなく滑っていく
燻ぶりつづける女の
真っ赤な内臓のことをしきりに考える
舌がかってに口の中で動き回る
唾を吐く
僕は職業をさがしにいかなければいけない
それだから歩いている


恋歌連祷 11(仮題) 

  鈴屋

そしてすべてが黒い

恋人よ いまあなたはこの世界の人である 2007年9月
東京 立川市曙町の舗道であなたはケイタイを耳にあててい
る あなたの唇の端から笑みが広がり手をふる プラタナス
の葉がいっせいに翻る そしてすべてが黒い 河だけが光っ
ている 恋人よ いまあなたはこの世界の人である 曙町の
アパートの三階の窓からあなたが呼ぶ 笑顔が翳る 河だけ
が光っている かぼちゃのスープおいしい? わたしは肯く
スプーンの手を休め わたしはわたしのあなたへの愛につい
て説明する あなたは指先のマニキュアを見つめながら頬笑
んでいる ルージュが伸び縮みする 鉄橋を電車が通過する
そしてすべてが黒い 河だけが光っている 立川市曙町の舗
石の隙間に一本の螺旋形にねじれた草が生えている 岡野歯
科クリニックの前であなたのヒールの尖り具合についてから
かう あなたはわたしの脛を蹴るまねをする わたしたちだ
けが笑っている 恋人よ いまあなたはこの世界の人である
アパートの三階の窓からあなたがわたしを見送っている 恋
人よ わたしはいぶかる あなたの顔が指に見える 指紋が
渦巻き そしてすべてが黒い

曙町は普通だ
河だけが光っている


  鈴屋

 郊外へ向かう電車に乗っている。街が河のように流れていく。どこへいくのかは考えていない。仕事は休んだ。朝、始業前に会社に電話を入れると、林崎久仁子が出た。「風邪だと思う、熱がひかない」と理由を告げてから同僚への連絡事項をたのんだ。「お大事にいぃ〜」と語尾を流しながら切られた。
 川を渡る。車輌の床を鉄橋の柱の影がジグザグによぎる。川面で無数の光の粒が踊っているのが見える。やがて人家がまばらになり畑や森が目立ってくる。風邪などひいていないが、座席に深く座り襟を立て、風邪ひきの気分にひたってみる。 
 
 田園地帯が続いている。停車するたびに靴がぱらぱらと舗石の上に降りていく。もう昼を回った頃か?昼食後の林崎は工場の裏手の日溜りでメンソールタバコを喫っていることだろう。林崎か、人の視線を無視する女だ。丘陵の連なりが見えてくる。狐の嫁入りだ、日差しの中に雨が混じる。野山の緑がゴムびきのようにぬらぬら光っている。遠くの尾根にぽつんと立っている送電塔がけぶっている。いったいこの電車はどこまで行くのだろう、かまいはしないが・・・。
 
 *

 プラットホームに降り立ち自販機で桃のネクターを買って飲む。雨はやんでいる。缶に口をつけたまま空を仰ぐ。日はどの辺にあるのか、雲の隙間の明るみがあちこちで蠢いている。私が乗ってきたエンジ色の電車がプンッと警笛をならし、私を残して出発してしまった。テールランプが左にカーブして見えなくなった。ひとつ隔てたホームに停まっていたカラシ色の電車が動き出し、アーチの橋を渡り草ぼうぼうの丘のむこうへのめりこむように消えていった。頭上では高架線が斜めに交差している。そこを突然明るいクリーム色の特急列車が流れる帯のように通過して、すぐトンネルに吸い込まれる。隣のトンネルから同じクリーム色の特急列車が飛び出してきて反対方向へ通過していく。プラットホームや駅舎は四角い筒型の跨線橋や通路で連絡され、斜めだったり水平だったり捩れていたり、いったいどこをどう行けばいいのか複雑に絡み合っている。エンジ色とカラシ色とクリーム色の電車が激しく行ったり来たりしている。
 
 ホームのふちまで歩を進めて下を窺うと、線路の向こうは眩暈がしそうな深い峡谷だ。白い糸くずのような谷川が見える。山の中腹から山肌に沿って二本の太い管が谷川の四角い箱型の施設まで下っている。水力発電所だ。眼下で一羽、茶褐色の鳥が翼を張ったままゆっくり旋回している。足許を冷たい風がすくう。ようやく私は踵を返す。
 峡谷の反対側は二つ向こうのプラットホームからいきなり険しい断崖が聳えている。その崖の上、暗い雲におおわれた空を背景に一軒屋が建っている。そのひとつの窓に私が住んでいるのが見えた。
 
 *

 はじめ私はここに一人で住んでいるのだとばかり思っていた。襖を足先で開けて、缶ビールを両手に林崎久仁子が入ってきたとき「ああ、そう、そうだったんだ、私たちはここで暮らしていたんだ」と納得し、それはすぐ普通になった。
 私たちは缶ビールを片手に窓際に座り、ゆっくりと変化していく雲や向かいの山岳や眼下の駅を眺めた。もう夕方と呼ぶべき時刻なのか、雲のふちが黄ばんでいた。身を乗り出して真下の崖を覗くとざわざわと蠢くものがある。蔦が生長しているのだった。あちこちで赤っぽい芽が上へ上へと虚空をまさぐり揺れている。それに連れて夥しい数の葉が星を半分に割ったような形ににらにらと開き、壁面を隙間なく埋めていく。じきにこの窓にもとどくだろう。「気持ちわるい」と私がいうと、久仁子は「なにも」と答えた。私は久仁子の肩を引き寄せ押し倒した。ビールが畳にこぼれた。仰向けの久仁子は窓の外の薄闇を横目で眺めていた。 
 私たちは畳の上でじかにセックスした。考えてみれば私たちはこの家でセックスばかりしてきたのだった。セックスしているとき久仁子は真っ暗な空洞だった。その空洞の中にいて私は、これからもこの崖の上の粗末な一軒屋で林崎久仁子とともに暮らし、そして生涯を終えるのだろう、と思った。悪くはなかった。
 


問題はない

  鈴屋


電柱が並んで立っている(問題はない)
白いミニバンが曲がっていく(問題はない)
三月、休日、曇り、午後三時半、コーヒーショップの窓際(問題はない)
宅配の車がマンションの前でハザードランプを点滅させている(問題はない)
人が通る(問題はない)
ここまで問題はない(問題はない)

 
コーヒーを飲みほす
カップの底に薄茶色に染まった砂糖が残っている
スプーンで掬って舌にのせたい、と考える
客が出入りするたびにカロンカロンと鈴が鳴る、耳に障る
タバコに火を点け、また外を眺める
女が通る
「女」という一字がこめかみに浮かぶ
BMがよぎる、Mスポーツだったか
BMは好みだ、中古屋の志村に相場を訊こうとおもう、4・5年落ちのセダンでいい
今のインテグラには五年乗っている、これも中古
先月、リアバンパーの左角を潰した
ジャケットのポケットでケイタイがはしゃぐ、雀荘からだ
「須藤さん、見えてるわよ」
志村は?と訊くと、今日は一度も顔を出していないという
窓ガラスに顔をよせ空模様を窺う
雨の気配はない
「雨」という一字がこめかみに浮かぶ
胸元のパン屑を払い、灰皿にタバコを圧しつけ席を立つ
通りに出て、気分を計る
こんなものか


雲が薄く張っている、日がクラゲのように泳いでいる
狭い舗道、老夫婦らしき二人連れが前にいる
男のほうが「いつつつ、いつつつ」とかなんとか、愚図っている
いっこうに進まないので追い越す 
石段の上に出る
歩をとめて市街を眺める
空と地面のあいだで住宅やビルや塔や電柱や広告や女や事務所や樹木のたぐいがベタベタ横たわっている
くだらねえ、と考える
木とか空とか人とか地面とか雲とか住宅とか犬とか雨とか電線とか窓とか腑分けして呼んでいること
呼んでつなげて知らず知らず文脈など考えていること
くだらねえ、と考える


薬屋に寄ってドリンク剤を飲む
財布を覗いて札の数を確認する
その先
パブスナックのドアが開いている
暗がりの中、男がくわえタバコでモップ掛けしている
その角を曲がる
路地の奥で明るいうちからアクリルの看板が光っている
うす緑の地に赤く「麻雀」と抜いてある
にわかに、血がめぐりはじめる
皮膚に、指先に、頭蓋に
血がめぐりはじめる
今日、はじめて肉が新鮮になる
二階に上がる階段めざして、おのずと
歩が速まる


道のはた拾遺(1.2.3)

  鈴屋

1.電柱


一叢のカタバミ
埋もれた茶碗のかけら
蟻の巣など
道のはたの
一隅
灰色の棒、電柱が立っている
剥がし残したビラが
風になびき
突き出ているボルトをたどり
腕金
トランス
碍子
黒い
   線 線 線
   線  線  
    線  線
    線     
青空

はるかな
虚無に
ジクジク
刺さってゆく
光る棘
曳く
一すじの
飛行機雲
昨日死ぬべき者は昨日死んだ、今日死ぬべき者は今日死につつある
線をよぎる
  鳥
      鳥
苦情受け付けます




2.田園 


春のひと日
はからずも
ここまで来た

町の外れ
造成地は放置され
土ほこりが道を這う
日がな歩き暮らすほかない、わたしは
労働者だが、無職だ
おお、無職、このさびしく歪んだ呼称を愛す
この自由のさびしさを愛す

野に出でて
日差しに背が汗ばむころ
菜園と草野が青々と広がり
とおくちかく、緑わきたつ森に囲繞され
はるか電柱がならんでいるあたり、道はつづいていく
雲は光り輝き、とうとつに
風が狂えば
畑も森もいっせいに白々、世界をひるがえす
おお、無職、この五月の田園のただ中で
わたしの無職は雄雄しいか

泥をふみ
草をふみ
道はたによれば
雀、ツメクサ、ベニシジミ 
スイバ、カナヘビ、蜂、ハルジオン
おお、無職、不吉な人影よぎるとも、かれらは
わたしにしたしいか




3.河 


杭が立っている
女が立っている
犬が舌を垂らしている
 
杭と女と犬が動いたり動かなかったりしている
世界にはこれぐらいのことしかない
じゅうぶんだ

木が枯れていく
砂が水を吸っていく
わたしは人をやめ、夕日になるつもりだ
いや、枯れ木でもいいし、犬でもいいし
河でもいい

日と鳥が空に固定している
魚と貝が水に固定している
そのはざま、木と草と虫と獣が陸に固定している
世界は壁の痕跡であり
人についても、どこかに掻き傷くらいあるはずだ
といって、どこにも記憶などありはしない

杭が立っている
わたしが立っている
いや、わたしは流れているのであり
河だ


道のはた拾遺 4.

  鈴屋


4.日暮れ


闇が
畑野や町を
慈愛のように潤して
まだ暮れのこる茜空

血の雫が
てんてんと
長い坂を馳せおりて
外灯の明かりのもとにしゃがみこみ
はげしく放尿した
女になって爛れたかった
明るい眸で

街道をゆくトラックから
塩漬け肉が
もんどりうって転げ落ちて
はげしく泣いた
男になって腐りたかった
澄んだ口笛ふいて

町で一つの
駅舎に灯がともるころ
着いた電車から
蛆がいっぱい這いだした
路地の闇にちりぢり潜りこんで
世間になりたかった
病気の

朧月夜の田舎道
血の雫の女と
塩漬け肉の男が
より添いながら町を出た
深い森のまんなかで
女は男に犯罪をねだった
血よりもきつく
匂いたつ


川は流れた

  鈴屋

川は女だった
川は流れた
女は林崎久仁子と言い
夜、電車で鉄橋をわたり帰郷し
翌朝、実家近くの土手で青い矢車草を摘んだ
河原にしゃがんで流れる水を眺め
林崎は川とともに流れ
浮いたり沈んだり、目の前を通過する自分の裸体を見た
他日、川が
「わたしには寄る辺がない」と言うので
「それはわかるが・・・」
と私は川に言い、両岸の土手の効用を説いた

川は上流で妊娠し
河口で中絶し流した
川が流れる平野の町では人々がよく労働した
ある日戦争が済んで、つぎつぎに屋根がはびこり、道は網目となり
銀行は貨幣を出し入れし、電車はめまぐるしく回り
私は正しく修正主義者となり、いくたりか女と情をかわした
電車は鉄橋で瞬き、夕日は何度でも落ち
川は流れ、流した 
林崎は流れた
私は歩いた

林崎久仁子の実家の靴箱の上で青い矢車草が枯れ
林崎は流れた
父母は庭でインゲン豆を育て、父は長々しく理屈を言い、入れ歯を洗い
母は無言で草をむしり、芋虫を踏み潰し
林崎は流れた
私は休日のたびに河川敷に草野球を見に行き
そのときも川は流れ
センターフライを追いつづけ
白球は空で孤独な穴になった
「わたしは川底の下でも流れているのよ、知ってて?」と川は言い
私は笑いながら首をふった

林崎と私はアパートの二階で暮らした
畳の上で林崎は流れ、私は競艇の予想紙に赤鉛筆で印をつけた
窓からは色づきはじめた枇杷の実と
青空に刺さっているジェット戦闘機が見えた
夜更け
闇の中に横たわり
鉄橋を渡る電車の響きを聴いた
耳もとで水の音がすることもあった
川は流れ、流した
眠る林崎は流れた
闇夜の山岳、丘陵、平野を流れ
上流から下流まで全体が光って浮上し川は流れた


侘び住まい・六月

  鈴屋

雨期がつづく 
耳のうしろで河が鳴っていて、困る
部屋にひとり座し
壁など見つめていれば
列島を捨てて大陸へ行きたく、はや 
赤錆びたディーゼル機関車が原野を這う 
地平線のむこうから
雨、雨雲、山岳、狩る人、狩られる獣、村、など
風景がひりだされる

自分の顔を知らず 
片手で鷲掴みしてみる 
このヌルとした凹凸 
手指は私だが、まさぐる顔は他国者
指のすきまに小窓が見え、つかのまの青空
十字格子にかかる
白い月の
そのなけなしの清しさは、さあれ
苦もなく黒雲に仕舞われる

流し台の蛇口の先から
蛇がこちらを覗いている 
かわいい
縞蛇の女かもしれない
喉元の青白い鱗から絶えず雫が滴っていて
パッキンを取り換えねばならないが  
雑貨屋があるのは町の東
ディーゼル機関車は西へ西へ

無人駅のまわりには
ルビー蝋貝殻虫の集落がこびりつき
そのはずれに、角蝋貝殻虫が三つ四つ
白蝋の屋根を寄せ合っている 
その一つに私は寄宿し
雨の日は 
清潔を好み、幸福を好み
ふたつながら得ている

耳のうしろで河が鳴っていて 
鉄橋を機関車が渡っていくので、よけい困る  
「召しあがれ」と、窓辺に
姫沙羅の花を添えて
枇杷が置かれ、隣家の小さい傘が去る 
雨期がつづく
平野では河が溢れ、湿地帯に草が茂り樹が茂り
やがて石炭が出来る


  鈴屋

額にあてた手を顎までしぼって汗をぬぐう
ベンチに座って
親指と人差し指の爪を立て
桃を剥く
噛みつくように食う
陽は錆びついたまま動かず、空は地平よりも暗い
02年、夏
「ブッシュ、バカよ」とイラン人が言った
「ブッシュ、バカよ」と私が復唱した
私はトヨタの99年式ランクルをイラン人に売った
 
桃を食う
すする
果肉を歯と舌でねぶり、つぶす
遠くの丘陵の崖が崩れ赤い土が剥き出しになっている
崖の上で樹木が風にあおられている
私もあおられ頁が繰られるように薄くなっていく
翼竜が空を渡っていく
立ち上がって、丘のむこうへ消えるまで見届ける
プテラノドンだろう
手の中の桃がぐちゃぐちゃしているのを思い出し
あわてて手の甲のほうから汁をすすりあげ、座りなおす

指も口辺も濡れる
甘いな、甘いな、甘いな、と喉がごくごくするが
舌の根もとが、わずかに苦い
夏風邪かもしれない
複葉機が空中戦している
レッドバロンのフォッカーがソッピース キャメルを追い回し、撃墜する
黒煙を曳いて丘の中腹に激突する
目の前を、刻々と時をうつしながら
零戦がゆっくり過ぎていく
プロペラの回転、胴体の日の丸がくっきりしている
悲劇の戦闘機
なんのことだか、かまいはしないが

指も口もべとべと
私は零戦が好きだ
踏み切りのむこうで日傘の女がこっちを見ている
知っている女のはずだが・・・
捨てたか捨てられたかした女のはずだが・・・
笑っているようにも泣いているようにも見えるが・・・
コンテナ貨車がよぎる
いや、アパートの二つ隣の奥さんかもしれない
急な支払いに「持ち合わせがなくて」と言って
ひと月まえに六千円借りにきた、一万円渡したがまだ返さない
道で出会っても会釈をよこすだけ、金のことは一言もない
日傘をかたむけ変幻自在、小首かしげてルージュが伸びきり、みごとに頬笑む
回る日傘が遠ざかる
銀色のタンク貨車がよぎる
シェルのマークがつぎつぎよぎる
亭主のことを「十七ちがうの」「わたしだけがたよりなの」
訊きもしないのにわざわざ言っていた
また借りにくるはず
 
09年8月1日 米ドル/円 94.25円
欧州ユーロ/円 134.50円  ポンド/円 155.32円  
桃を食う
すする
果肉を歯と舌でねぶり、つぶす
汁が指の隙間から肘へ伝い、汗まじりの雫がサンダルの爪先の先に落ちる
砂が吸う

あるかなきか命がけ
の味がする

パイプがむき出しの蛇口が見える
そばの日陰で犬が寝そべって上目遣いしている
犬は空を絶対に見ない
三つ四つ蟻の巣がある
黒い点があちこち動めいているのがわかる
まだ果肉がくっついた赤紫の種を放ってやる
蟻よ
集まれ
蛇口まで手と顔を洗いにいくつもりだが
指と顎を垂らしたまま
ぐずぐずしている


道のはた拾遺 6.

  鈴屋

6.自転


いちめん、浅黄は刷かれ
しのんでいく、晩秋の柔毛の
密集に落ちていったのか、椋鳥と椋鳥

警笛を湛える湖、あなたは形式をうそぶき
頬笑みを匙かげんする
上唇と下唇の隙間で高速回転する衛星歯車
かなしいのです
と、あなたは告げる

閃く額、暮れる唐紅
くるぶしが、カッ、カッ、削られ、こぼれ
見ひらく瞳孔に引込線が出入りする
丘に佇み
回っています、と、あなたは耳をそばだてる
自転のはるかな轟き、地の擦過音

木々やあなた、向こうのなにかの尖塔
立ち尽くすものは
傾いては立ち、傾いては立ち
修正する


夜歩き

  鈴屋

 
 昼間は壁に染みて休息しています。壁ならなんでも良いというわけではありません。古い壁ほど染み込み易いし居心地が良いのです。たとえば築四・五十年以上経ったモルタルの壁とかコンクリートの擁壁とか・・・、近頃ではめったにお目にかかれませんが、旧家の土塀などは染み込み具合が最高ですね。それで、日が落ちてすっかり暗くなったのを見計らい、そろりと壁から染み出し、夜毎の夜歩きに出かけるのです。  
 
 もちろん明るいのは苦手ですから街の賑わいは迂回します。闇を求めて路地から路地へ、有刺線をくぐって空地を横切ったり、機械油のような硫黄のような臭いがのぼってくる掘割に沿うたり、工場裏の万年塀に沿うたり、人通りの少ない場所を択んで歩きます。橋の上ではよく一服します。窓明かりなんかが黒い水面でとろりとろり揺れているのを欄干にもたれていつまでも眺めます。私にもあるんですよ、そんな所でぼんやり想ってみたい来し方が。

 塔の類、送電塔だの給水塔だの鐘楼だのは好きです。夜空に聳える黒い影を巡りながらときどき立ち止まっては見上げるのですが、考えてみれば私が夜空というものを見上げる機会はこんな時くらいしかないような気がします。つまりこれは私がいつも俯いていて、星とか月とか天体というものにまったく関心がないということの証左です。
 角を曲がったところで歩を休め、行く手を見やると、暗い道の一隅が古ぼけた外灯にそこだけ丸くぼうと照らされていたりします。遠くから眺めながら、私はうっとりしますね。なんといいますか、そのささやかな蜜柑色の光の輪の中に不在の幸福というものを見るのです。いやおうもなく私はその場所へ向かいます。灯の周りを羽虫や蛾がひっきりなしに舞っているのを、何が面白いのかいつまでも見上げています。ただ、ただ、何ごともなく・・・、わかっていることですが。 

 闇を求めて歩くといっても、油断していると車のヘッドライトに顔を掃かれることが、ごく稀にあります。そんなときは、とっさに人の顔をします。世間の顔ということです。光が過ぎ去ればすぐ夜顔に戻りますが、その時のふたたび闇に深く吸われていく感じはうれしいものです。この夜、私だけが生きて動いている、そんな感じです、住宅の明るいあの窓この窓、窓の中の家族という泥人形、無花果の形した土気色のがん首たち、実に私だけが肉に血を奔らせ生きて動いている、そんな感じです。
 私は木立のあいだの闇の奥の奥が無性に懐かしいのです。 夜の大気の水の匂いを嗅ぎわけられるのです。だとしたら私は獣になれるでしょうか。夜行のゆく手にたち現れる黒い物象どもを名付けたりしない、まして自分の名など呼んだりしない獣に。

 夜が深まるにつれ、夜は捻られ、いびつになり、繁殖していきます。坂を上れば下る裏側を歩かされ、十字路を右に曲がれば、左に曲がっていく背がある、線路沿いを歩けば頭上の跨線橋を渡り、見知らぬ街を行けば向こうから見知った街をやってくる、私は複数を生きています。もはや異性という同伴者の存在は忘れました。どんな形だったか、匂いだったか、声だったか、忘れました。自分の陰茎を腫らすいとしい血も忘れました。しかし、そんなことがどうだというのでしょう。この巨大な都会で私は単独を択びながら、しかも夥しい数を生きているのですから。
 やがて私は闇よりも濃い影になりおおせ、憑かれたようにさまよいます。このころになれば、このあてない一夜の旅を、何の意志か何の慰めかも問わず、被服と皮膚の狭間に燐のようなものを奔らせ、自分を歩き潰すまで歩きつづけるほかありません。昔、私が眠った酸っぱい寝床は夜空の見えない高みに吊られ、凍っているのでしょう。もうそんなところには還るわけにはいきますまい。さて、そろそろ空が白みはじめるようです。またどこか古壁を探すとしますか。


あなた、と、わたし

  鈴屋


ピンクと白のコスモス飾って
晴れやかな、朝
あなた、と、わたし
唇すぼめ
ティーカップのふちを、ふっ、とふく

ひと粒、ふた粒、口にふくむ
葡萄の粒
紅茶に、あうかも
この仄かな、しぶ味は

明るい出窓の
レースのカーテンが、ふわり 、 、 、 ふわり
ボーイング767が庭から飛来
ひとしきり部屋をめぐって
あなたの、こめかみに
激突!
あなたの唇が、あっ! と、丸くあいて、瞳がふたつ、ななめ上にそろう

わたしはハハハと笑い
バンドエイドを貼ってあげ
テーブルの惨状を
かたづけ

おもいだすのは、ゆうべのこと
お腹にしるされた葡萄色
サハリンそっくりの
ほそくてながい
痣、が
好き

昼下がりの
窓は、銀糸のこぬか雨
あなたをさそって、午睡する
 
あなた、と、わたし
脚のつけ根にたばさむのは
ほんとうは、ベッドより
藁のむしろがふさわしい、東洋の
くすんだ性器

言葉はかわさなくて、目をつぶり
つかのま、いろいろな
ことに

さようなら    、   さようなら


あなたの街の夜

  鈴屋

あなたをさがしに、地平をさ迷い
散らばるあなたを区分けする
 
眸は暮れ、唇は雲に刷かれ
空を噛むあなたの歯形が街になった、つきない嘘が窓をならべた
そ知らぬふりをしているので、外灯の灯が坂を駆けのぼる 

高架電車の窓明かりがリボンのように結ばれ、ほどける
夕闇に浮かぶ噴水、一瞬、静止する水の粒の煌き
かつてあなたは化石の子宮を博物館にあずけた

垂直に裂けているあなた、その滲む血と微笑を私に与えることなく 
とおく立ち去りながら、ささやく

 「冷たいタクシーにお乗りなさい
  知らない街の冷たいバーで、知らないわたしにするように、冷たいウォトカをなめなさい」

地平線のふたつの乳房を十三夜の月が照らす 
横たわる裸体の、額から爪先までのはてしない距離
林立する白蝋の街、芒ヶ原、道のはたの霜枯れの菊花

足許から延べられていく、あなた
あなたの土と砂

夜空の高み、電飾の娼婦が神をいだく
街角が影を曲げていく、靴音が耳の回廊をめぐる
壁という壁でひとりの女の舞踏が乱れる
ついに私はあなたの液体を知らない

たどりつけない星空の凍るベッドで
あなたがあまりに死に近く眠るので、街は浸水する
人や家具や犬、鼠や虫や木、るいるいと浮かび、安らぎ、憩う

明けやらぬ街に満ちていく霧の寝息


窓をあければ

  鈴屋


「窓をあければ、港が見える」* 
と、父と母が唄って
この島国は生まれた
1945年、四方を潮のしぶきが洗った

ふたたび日は昇り、日は落ち
タールまみれの群衆が湧きだし
行列し、行進し、ひしめきあい
海にこぼれる者も汽車に轢かれる者もいた

やがてわたしが生まれ
はやりの唄が子守唄
海のむこうの戦争がおとぎ話だった
夕焼けと食い物のほかに人に語るほどの少年時代はなく
大学を出た

通勤電車から見える西日のあたる丘には
牡蠣殻のように屋根がひしめき
身をかがめ、車窓から眺めるたびに
そのひとつに私が棲んでいるとは
なんとふしぎなことだったろう

回る目玉がなかなかそろわず、いつも口紅がはみ出している妻と
三角形の赤いスカートをはいてさかあがりする娘と
四半世紀暮らした
人並みに、思えもして
幸せだった

そして、それから
どうしたものか
近しいことはなにひとつとして思い浮かばず

窓をあければ、電線のうえ
青空のひじょうに高いところ
さらさらとすじ雲はながれ
窓をあければ、生きてゆきたい


 
   * ・・・・・ 「別れのブルース」 淡谷のり子 唄


荷札の顔

  鈴屋


電柱がかたむいていて
煙りもかたむいてのぼる田舎の町で
女が荷札の顔して
ひとりくらしてた 
路地には蜆の殻がしいてあって
木のサンダルがばちばち鳴った
晴れた日には
顔がかわいてめくれるから
頬に両手をあててた
雨がふると
蟹が畳にあがってきて
彼女の足うらの垢をけずって食べた
裏庭のむこうをはしる
ディーゼル車の警笛を聴いても
なにもおもわないで
毎日しずかに
くらしてた

ぼくがただ一度きり彼女をみたのは
ディーゼル車の窓からだった
戸口にかたむいてたって
どこかをみてた
そのときも
ちいさな荷札の顔してた


冬の散歩

  鈴屋


マフラーを首にひとまき
「タバコを買いに」と妻の背に告げ、おもてに出る

真新しい電柱がならぶ新開地を行く
鉄線柵にかこわれた休耕地の角をまがる
雨戸を閉めた住宅の庭で、黒い犬がはげしく吼えている
私の鼻先で輝く巨大な牙と舌
遠近をうまく調整できないでいる
光と影がすさぶ
どこかでプラスティックが燃えている
駅のほうへ向かう                   
                   
   消火栓の標識のかたわら
   妻が私のほうを見て笑っている、レジ袋を下げている
   引っ越し屋のトラックが過ぎ、軽油の焼ける臭いが吹きすさぶ
   まだ笑っている、瞬くように笑っている
   手を振るわけでもない  
   私が見えないのか、それとも私を忘れかけているのか
   ふらつく視線でえんえんと笑いながら遠のいていく   
   妻の名をなんども呼ぶのだが
   その声が当の私にも聴こえない

   *
   
駅前のコンビニでタバコとライターを買う
通常の帰り道をそれてみる
集合住宅が2棟並んでいる
二階のベランダで一枚の黄色いシャツがコメディアンを演じている
クリーム色の壁面に貼りついた矩形のよそよそしい青空
明るい飛行機雲が斜めにかかっている

   閉じられた窓、二度とそよがないレースのカーテン
   テーブルの上では、飲みのこしの紅茶が、時をかけゆっくりと乾ききる
   音のない部屋、鏡にうつっている真鍮のノブ
   そこにある一点の暗い光が、いわれもなくどこまでもこびりつく

   * 
   
来たことのない単線の踏み切りを渡る、道は畑野に入る
せっせと歩いている自分が可笑しい
途中、誰もいないバス停のベンチでタバコを喫う
目の前に冬枯れの桑畑が広がる
いじけた子どもの頭のような瘤が無数ならんでいる

ふたたび歩きはじめる
傾きはじめた日のほうへ向かう 
ひと筋のびている道が地から剥がれ、遠くの林のうえにしろじろ浮いている
褐色の丘陵を越えていく送電塔の列、斜めに刺さっているくさび型の雲
さびしさは方位にもとり憑く
立ちどまり、しばらくは行く手の茫漠を見つめ、踵を返す
   
   深夜
   地平の果てで、世間は冷え切っている

   凍りつく星座の下
   裸の妻が山脈の尾根を駆けぬける   
   膣からつややかな液体がいく筋も垂れて、私を誘う
   裸の私が追いかける      
   背後に追いすがり、抱き合ったままころげ落ち、乾いた朽ち葉に埋もれる
   妻の慟哭がこだまする
   「かわいそ」と妻のうなじにいう、「かわいそ」と妻も私にいう

   *   

疲れたのか、黒い犬が今にも吼えそうに鼻づらをもたげている
ちらと私を見る、吼えるわけでもない
郵便受けには役所からのハガキが一枚ある
居間に入ると、妻が庭にしゃがみこんで、パンくずを雀に投げ与えている
「ただいま」をいう
唇に人さし指をおいて、ゆっくりふり向く
「キジバトもくるのよ」と小声でいうのをタバコに火を点けながら聞く


おんみ

  鈴屋


壁の日めくり、二月某日
さしこむ西日に侘助は明るみ
すきま風に追われては、紅ひとつ方丈にくずれる

おんみは綿にくるまれ熱に饐えて、ほしがる水は口うつし
されば世の男のはしくれとてふれた唇そのままに
やわらに舌を吸いあげ、乳房に顔をうずめ
うつせみの世の隅そのまた一隅
侘しくあればこそのいちずな色の行い

  
 「小宮さん、先日亡くなった瀬木さんは末期癌だったんですよ」 
 「刑事さん、どうしてわたくしがその瀬木さんと組んで堂島さんを殺さなければならないのです?」
 「復讐ですよ」
 「復讐?まあまあまあ、なんと興味深いお話」

 
枯れがれの檜葉の梢の夕月に
そのあたり風すさび、おんみのおえつ笛のごと鳴る
肌身を捨てても心をすてても、おんみの瞳は空をさすらい
海と陸
日と月
雲と波浪
見えるかぎりの果ての果てまで
こうしてひたすら見わたしているのだから
ああ、なんという愉楽
生まれなければよかった、からだなど
こころなど、なお
生まれなければよかった

波打つ胸の起伏をはじらい、あえぎを呑みこみ息をととのえ
おんみはうっすら瞼をひらく、そのいとしさあいらしさ
洩れる吐息の香味を惜しむあまり
息を絡ませまた口づける

 
 「瀬木さんが二階の堂島さんの居室で凶行に及んだあと、凶器のナイフと血のついた上着を窓から落とした、それをあなたが拾って松円寺公園の藪に捨てにいった、こうして瀬木さんのアリバイはつくられたのです」
 「ほんとにまあ、よく出来たお話だこと、でも、再三再四申し上げていますように、なぜわたくしが人殺しの、おお、なんという怖ろしい言葉、そんな手助けなどしなければならないのでしょう」
 「手助けをしたのは瀬木さんのほうですよ、小宮さん、あなたが二十年このかた胸に秘めていた復讐のね」


顔の幅に窓をあけて苗圃をぬける小道を見やれば
夕日は蕭々として、去り行くおんみのうしろを照らし
道にならぶ立木の影がつと起きては倒れ、つと起きては倒れ
これがおんみの見おさめ、まさか
まさかそんなはずはなどと危惧するのは
わずかに手をふった別れぎわの
笑まいのさびしさのせい


 
  
 注、次のように修正しました。  榧→檜葉。 木立→立木


笑う男

  鈴屋

バス停に人はいない
ベンチを借りてタバコを喫う

畑野の上
雲の群れが底辺をそろえ、刻々と移動している
男が一人やってくる
五十前後、黄色いカーディガンのなで肩、痩せた紡錘形
笑っている
煙を吸い灰をにはじく

男の上下の唇がしきりに揉みあい
笑っている
前歯が一本、下唇を噛んでいる
窪んだ眼がとつぜん空に向かって剥かれ
笑っている
たまに、グフッと声が洩れる
近づいてくる
ズボンの皮ベルトの余りを前に垂らしながら
近づいてくる
目が合うぞ、と覚悟する間も無く
極端な上目遣いが素通りしていく
二つの水気のない石の目玉が
笑いに似合っている
通りすぎて
黄色い背中が町のほうへ去っていく
煙を吸い灰をはじく
去っていく男が横を向くと
やはり笑っている
鉤鼻を空にもたげ
唇のはしと目尻がくっつかんばかりに
笑っている

指に熱を感じる
吸殻を携帯灰皿に捨て立ち上がる

時折、雲の群れの底辺が割れることがあり
丘の上に光の柱が立ったりする
私が笑ってみる
唇を揉みあわせる、目を剥く、グフッと言う
ずっとそうやって
笑いながら町の方へ歩いていく
これで
やっていけるのがわかる


関東平野

  鈴屋

関東平野ではなく、人の皮膚について書いた。それは丘陵の斜面をたどる散兵隊をルーペで観察す
ることだった。
静脈と漂泊について書いた。男は故郷を捨てたあるいは市制都市の円筒型給水塔を設計施工したと
書いた。

雷鳴まじりの天気雨は梅雨明けのしるし
奥武蔵の山裾、自動車解体業の男が行方不明
廃業した事務所で内縁の妻は日がな笑って暮らし
私は関越沿いの南国風モーテルに彼女を連れ出し、抱く
ソバージュに指を差しこみ
真っ白に磨かれた乱杭歯に舌を這わせて

私の仕事は自動車中古部品販売の営業です
白いハイエースを駆り、緑に濡れ光る関東平野をカミソリのように縦横に切り裂く、狂える営業です

街道沿いにはタチアオイが並び咲き、薄紅、濃い紅
花はジグザグに連なって夏空に昇る
かつて、この私が子供だったという不思議
夏休みの校庭の隅で
たったひとりで見とれていた
同じ紅、灼熱の光り、花びらの翳り

関東平野ではなく、女の背中について書いた。それは筆跡としてのアスファルトの路面がざあざあ流
れていくことだった。
乳房と川について書いた。母は少年を捨てたあるいは鉄橋を渡るステンレスボディーの電車は4両編
成であったと書いた。

もちろん私は知っている
自動車解体業の男が溜池に沈んでいるのを
八月中旬、予定通りゴルフ場造成業者のブルドーザーが溜池を埋め尽くしたのを
廃業した事務所で私と女はウイスキーで乾杯
夜更けまで、鼻と唇を酒で濡らして
羽虫と一緒にくるくる回って
舌をしゃぶりあって
はしゃいで笑って乾杯
笑って済む話は笑うしかない
私と女と死んだ男のありふれた履歴
関東平野の北北西の隅のちょっとした凸凹、笑うしかない

パンタグラフが架線をシャカシャカ擦って、新幹線が北関東の山岳に穴をあける
平野を撫でれば、縦横に張り巡らされた高圧線が指に引っ掛かる
晩夏、傾く日は錆びつき、平野の緑は灼け、数本の川が河口からぬるい水を海へ押し出す
夜が来る、澱んだ闇が微細な生き物達に原始の夢をうながす
空が白めば夢はうたかた、ふつふつ割れては消え、やがて
朝日が昇る
関東平野がゴム引きのようにぬらっと光る

小さな町で女とスナックなどやってみようか
東北道沿いの営業の途中、小奇麗な居抜きの店舗を見つけたのだ
筑波の山が近くに座っていた
ハイエースのフロントガラスの向こうの
少し先の、心和む、そこそこの、私の人生

関東平野ではなく、初秋に出会った見ず知らずの眸について書いた。それは山稜に佇む銀色の美し
い一基の送電塔について語ることだった。


町の散歩

  鈴屋


五月、私は
つねに私であり、歩いていた
電柱は問題なく立ち
道々の薔薇は不完全に美しい
たったいま
道路鏡をよぎったのは私か?
出掛けに
ケイタイは充電すると重くなることを知った

歩きながらの
私の身柄に
赤い液体が満ちているはずもなく
とりどりの内臓など詰め込んでいるはずもなく
抜きつ抜かれつ、左右の靴先が
舗道に滑り出ているはず

切り取りでもしないかぎり
私は、生涯
自分の耳を見ることはできない
天気雨だった

雨女のあの女は
私の濡れた耳のへりを旅していて
粉ガラスのような金色の雨粒を裸にまとい
あまりに自分が好き
女神を気取り
崖上から羽ばたこうとする

私は
つねに私であり、歩いていた
陽射しが町をすばやく乾かしていく
パン屋の店先、一輪のマーガレットから雫が逃げる
空のすみずみまでチャイムがめぐり
郵便配達のバイクが
片足投げだしUターン
小麦粉が焼け
それきりの

静寂に
顔をあげれば、あの女の
息吹が一陣、町を掃く、色彩を刷る
とつぜん私は愛される
せつなの苦しい
幸福
身をふるわし
歯をくいしばる

過ぎれば短い橋が見えてくる
手前の幟旗はたしかクリーニング店のはず


雨期

  鈴屋

水びたしの森と草
ざあざあ、雨だけが記憶される
ふり返ればあなたの住まいは、もやい舟のようにたよりない
わたしを見送る仄白い顔も窓から消えた
 
木陰で紫陽花の青が光っている
踏切ではレールが強引に曲がっている
側溝で捻りあう蛭の恋愛
あなたはただ単に明るく生きればいい存在だ
傘をかたむける、雨がまぶしい、白磁の空の下を絽の端切れのような雲が渡っていく

線路沿いを歩く
電車が追い抜いていく
車輪とレールの接触点、硬い理屈について考える
コンビニでタバコ、ついでに単3電池を買う
駅舎の前で傘をさしたまま一服
ロータリーにはタクシーが一台だけ
路面に水が張っている
タバコが終わるまで、尽きることないリングの明滅を見つめていた

あなたの姓名を呟いてみる、あなたは気付いていただろうか、わたしが畳に寝転がり肘枕してあなたの立ち居振る舞いを盗み見ていたのを、あなたは洗濯物を部屋干ししていた、目の高さをあなたの素足がせわしなく行き来する、無防備に晒されているひかがみ、きつく跡付けられた二本の湿った皺、そこで折れ曲がっている静脈、足の裏の秘密めいた汚れ、もう一度あなたの姓名を呟いてみる、あなたは国語に似ている、水漬く国の

車内は空いている、湿って生暖かい
座席の端に座り、傘を畳んで膝のあいだに立てかける
床を水の脈が幾すじも横断している
電車がカーブするとわたしの傘の水も参加する
丘陵の上の電波塔がゆっくりと移っていく
屋根の重なり、煩雑なテレビアンテナ、波のように上下する電線
なにもかも雨の散弾が溶かしにかかる

長雨は人をぼんやりさせる、今あなたはようやく片付けごとが一段落したところかもしれない、飲みのこしのコーヒーを前に窓の雨音に耳をかたむけているかもしれない、こんなふうにわたしがあなたをおもうように、あなたもまた、車窓をぼんやり眺めているわたしをおもうだろうか、わたしが何かしら途方に暮れているように、あなたにも何かしら途方に暮れるわけがあるのだろうか、垂直に降るあなたの雨、斜めに降るわたしの雨、そんなことを考えもしたろうか

忖度はつつしむべきものだ
眠気がやってくる
とつぜん警報機の音が過ぎる
青空、そんなものはあったか
雨を良しとして、瞼が下りる


道のはた拾遺 7.

  鈴屋

7. 神


日暮れの町はずれ
神がつっ立ってこっちを見ている
ついて来るのだ

むこうへ行け、俺にかかずらうな、と俺はいう
仕事がないのだ、と彼はいう

尾長が一羽、叫びながら森へわたる
舌が尖っている
彼も見あげている

姿は蚊柱、顔は砂、神とはそんなものだ
言葉の要請にすぎぬ
俺がわらう
彼もわらう

風はすずしく、メヒシバがゆれる
道の先は闇にとけ
夕餉はとおい

先をいそぐ俺の背に
おまえは仕事になる、と神はいう 


木杭

  鈴屋


秋は正午、いましも
日が傾くとき

私は荒れ地の高みにつっ立つ古い木杭だった、しかも
荒れ地の高みにつっ立つ古い木杭は私だった

私は木杭として
地に穿たれ微動だにできない
それが悪い事態とは考えない
つまり、考えない

自分の身柄を見ることはない
ただ、砂地におちている棒状の影に私を見出す
先端に一羽の鳥の影を見ることもある

影の傍らには、一輪の白い花が咲く
影が移り花を暗くする
すぐ明るくなる

見晴るかす地平の一画
石の街区を曲がっていくあの私
一脈の川を渡っていくあの私
そんなふうに
幾多の私が私を剥がれ、去った

あの私らはもはや私を捨てた
私も捨てた

私は木杭として
楽しくも悲しくもない
たとえば、葉擦れの囁き、線虫が描く数字、砂の上の発条
身辺の
ありもしない謎に遊ぶことはある

私は木杭として
つねに、とても気持ちよく私を忘却する
荒れ地の高みにつっ立つ古い木杭は私を忘却する


恋唄五つ

  鈴屋


カーテンの隙間から差しこむ日に
タバコの煙を吐きつけると大理石の壁が立ち上がる

毛布にくるまれたわたしたちの
よごしあった皮膚の上では微生物が急速に繁殖している
安息とは饐えることにはちがいない

あなたはベッドを降りて
下着を胸に掻き抱き、前かがみに浴室へ向かう
楽園を追われるイブ、とわたしはわらう

 +   +

ケヤキ並木の影が路上に倒れている

遅い秋の午後ともなれば
一秒、二秒、日輪を見詰めることができる
黄金のリング、暗い渦
逸らす視線の先、美しい緑青の斑がいつまでも剥がれない

不意に木枯らしが吹くと
吹き溜まりに眠っていた落葉がいっせいに立ち上がり
ケラケラ、ケラケラ、小躍りしながらアスファルトを駆けていく

「唄はだあれ?」
「ヘレン・メリル」

わたしがキーを回したので、あなたはカーラジオのボリュームを上げる
タイヤが枯れ枝を踏んで、小気味好い音をたてる

 +   +

窓の外の空をまだだれも冬とは呼んでいなくても
暖かく支度した部屋で、二つの紅茶は紅く、わたしたちは眠い
レモンスライスを浮かべると紅が薄まるのは口惜しい気もする

あなたは唇に手をあて隠れるように短い欠伸をする
それからうっすらと涙目になって、そのまま溶け入るような頬笑みをよこす

とてもたいくつ
とても大切なたいくつ

あと1時間
明日一日
それから一週間、それから一年
それから先もつづくはずの
大切なたいくつ

 +   +

闇の中に座って、それでも乳房の白さはぼうと映えて
わたしはあなたの腰をささえ
わたしの左右の二の腕にあなたの爪が食い入る
あなたの二つの眸と口がなおさらに黒い三つの空洞となって揺れ
あなたは死に仕える埴輪のようにゆるやかに踊っている

なぜわたしたちはこの現在にいるのか
なぜこんなところでこんなことをしているのか

あなたの忍び音は山脈の果てからとどく悲鳴のようにも聴こえ
藪を分けて、山犬がこちらを向く

 +   +

電車が鉄橋を渡る
草サッカーの歓声が上がる
耳もとでは絶え間ないススキの葉擦れ
絵画のように音にも遠近法があるのがわかる

わたしから離れて
今あなたは水辺にたどりついた

川面では夥しい光りの欠片が煌く
スカートをじょうずにたくし上げ、しゃがんでは手を水に晒し
立っては覚束ない足許のせいでふらついたりもする

あなたは上流から下流へゆっくり首を回してから
光のほかに何もない空を仰ぎ見る、いつまでも
そのままに、あなたは遠い
光りの中にいて、はるかに遠い


河口付近

  鈴屋


河は亡びる 海は沸く 子犬を連れた奥さんが突堤を散歩する 海 海についての感慨を厭う 指先の紫煙を潮風がぬぐう 私は知っている 見晴るかす水平線の先が瀑布だということ その奈落の底で太陽が生まれるということ 太陽は日毎天空に弧を描いては昼をつくり ふたたび奈落に落ちては一日の命を閉じる 月は生まれない なぜなら月はつねに母だからだ 乳白の相貌を空にかかげ はるかな落日を見送る 星は瀑布の飛沫にすぎず とくに使命はない 人にもとくに使命はない
   
   +       +

河は亡びる いずれ海も亡びる 私は子犬を連れた奥さんと恋愛する 私は告げる 貨幣は言葉よりも真に近く純粋で美しいと 奥さんは頬笑み 私に告げる 貨幣は真昼よりも眩く 語り継がれた海と陸の物語よりも尊いと 私はもう一度告げる 奥さんの頬笑みは貨幣よりも美しく 風雨をなだめる月よりも優しいと 浜辺の老いた波頭は来たり去り こうして私たちの恋愛は成就した

   +       +

貨幣は世界を化石化する 私はその林立するパールホワイトの世界で生きる 奥さんのトイプードルを抱いてみる 茶色い子犬の二つの眸 子犬が見ている世界には吐き気がする 海と陸を見つめる奥さんのはかなげな眼差し 世界を見るという過酷な行い けなげな睫 奥さん 私はあなたのその眸の中に永遠に棲みつきたい 見ていることが思うことであるために永遠に言葉を失いたい 遠くの鉄橋をコンテナ貨車の長い列が渡っていく その眠たげな響きにさえ 奥さんの眸は涙ぐむのですか?

   +       +

河は亡びる 杭が露出し暮れなずむ 私はそろそろ清算をしなければならない 何ごとを? 私の身過ぎ世過ぎ 山脈を削り来たった河の土砂の堆積 貨幣の浪費 太陽と月の関係 河原の斑模様の小石と小鳥の卵の関係 昼と夜の光りの貸借 奥さん 私はあなたを失ってしまいたい 水は死を誘う 私はあなたの死を夢見る あなたの入水を夢見る 奥さん 夕凪は深い慈愛を湛えている 真の悲しみは私を生かすはず 頬笑み忘れがたく 子犬を連れた奥さん    
   




 註 ・・・・「子犬を連れた奥さん」、チェーホフの同名の小説から借用
    ・・・「子犬が見ている世界には吐き気がする」、投稿欄、Jさんの「犬」という詩への右肩さんのレスよりヒントを得る。


日暮れの鉄道

  鈴屋


鳴きすぎて 喉を裂き 血を吹き よぎる ひよどり 夕焼け
に 送電塔は身を焦がし  

森をめぐり 鉄橋をわたり 田畑の中を 一両きりゆく 電車
の 運転手は クレヨン描きの 紙の顔 
 
暮れて流れる車窓の山の端 いまだ まばゆさ 残るあたりに  
町から帰る 人妻が 昔の恋人の横顔かさね

薄闇よどむ山懐に 見つけた窓明かりの ふたつみつ ああ
あんなところにもある 人の暮らし

それから おもわず 口をついた さようならは はて だれに
告げたのか 当の人妻にさえ わからない

線路が見える庭の隅 貰われてきた子猫の 涙目に 映る信号
の 色変わり それはそう だれも 知らないこと


唇に夕日

  鈴屋


真昼
漆黒の青空 海と陸あり                          
日傘をかたむけ
唇が わらう

一度 世界を かき消し
窓は ガラスでつくる
ドアは 背後を切りぬき 地平線は ひっ掻く 
心は 草を編んだ籠のごときもの  
椅子とテーブルは 置かない

非常に悲しい 午後の 
唇は

管弦楽を聴き
白湯をすすり 温まり 
祈ってはならない 実務をなせ 
受話器をとり 箱を運び 伝票を集計し ファックスを送り  
タバコを吸い ルージュをひきなおし 
白紙に歳月を刻み 昨日今日 健全に生きている者は 死者を統計する
うしろ手にドアを閉め 
唇は 空を吸う

夕日
ニセアカシアが匂う河原で 
小石を拾い
まるみ ざらつき 重さを 指に覚え 捨てる
捨てた石は石にまぎれ 澄ましていて 
わからなくなる
夕日
死者は 汀によこたわり 
瞳の砂を 水が洗う 
紫色の空 黄金の船団 
眼差しは せめて ひとときを さかしまの海に遊ぶ
死ぬこととは腐敗すること

腐敗する 春 
唇に夕日
橋上にテールランプがならび
工場とオフィスが おびただしい人影を排出する 
駅前では バスがどこかへ去り 臓物が焼け 煙は夕日にほのぼの染まり 
とある 神秘的な静けさ 
まさか 明日を 信仰するとは まさか しないとは

五月こそ 
とくべつの青空
唇は
タバコを吸い付け
となりの粗野な堅い唇に そっと差し込む 
ルージュの甘い残り香 
新緑の山裾 消えのこる雪の山岳 
街道を内陸へひた走る 大型トラックの 
運転席でのこと


昼下がり

  鈴屋

何かがあるわけではないが
指でなぞれば、雲がたなびく、セスナ機も飛ぶ 
眼をしばたけば、歓楽の館がならぶ、列車も通る
夏椿の花は好きだ、枇杷をしゃぶる子供は嫌いだ

生きていたくないあなた、死んでもいたくないあなた
あなたを追って跨線橋をわたり、駅構内の食堂に入る
店内はおびただしい日本国国民で満席、汗が噴きだしてくる
テーブルには父母がいて、弟夫婦も従兄弟も叔母もわたしの娘もいて 
今しも生ビールで乾杯するところだ
誰も私に気付かないので気持ちだけは涼しい
昔も今もこれからも、いつでも彼らは私に気付かない
食堂にはベッドがしつらえてあって、横たわるようあなたをうながす
私はスパゲッティーをフォークに巻きつけ
あなたと私の唇をトマトソースで汚す
もう片方の手をシーツの下に這わせ
あなたの性器のありどころ、暗がりのなつかしい湿り気をさぐる
たっぷりとした太ももが逃げていく
海底を這う蛸のようにすり抜けていく
あなたはひじょうに小さくなって街路を歩いていたりする
ひじょうに大きくなって床に横たわっていたりする
国民の頭と頭の隙間で学生時代の友人が手招きしている
なんだ死んだんじゃないのか、とおもう
垣間見える父母や叔母や従兄弟も、なんだ死んだんじゃないのか、とおもう
ビールがぬるいとあなたはいう、生きてこれたのねとあなたはいう
おたがいさまだと私がいう

食堂の窓の外は天気雨
老人がテューバを吹いている
私の娘がバトンガールの練習をしている、槿の花が咲いている
通過列車が窓をかき消し、三秒後には遥かな地平を巡っていく
列車に乗っているあなたが見える、あなたをさがしている私も見える
どこへでも行けばいい
あなたにも私にもさよならだ

何かがあるわけではないが
風だけは吹いている昼下がりだ
行進曲はやめてもらいたい


夏日

  鈴屋


遊ばない夏
炎天にネムの花は動かず
うつむけば汗の二雫、舗石に染む

葉かげに座り、なにゆえの苛立ちか
指先をふるわしタバコのひと吸をいそぐ 
靴の先のそこかしこ、蟻の巣穴の出入りせわしく
俯瞰する村は蝉の解体に祭りの賑わい
ひととき人を忘れる

人を忘れ
荒れ野に踏みこむ
背丈に余る夏草に囲われ、動物じみる
小便をする
草いきれと尿の臭気がまじりあい
見えるがごとく中空へ立ちのぼり
仰ぐ顔のまま、くらりと傾くのを
踏みとどまる

街道に出る
渡ろうとしてガードレールをまたぎ、足許に
ヒャクニチソウとユリの花束を見つける
「おーいお茶」が添えてある
人は壊れやすい
ぶつかってみればわかる
瞬間だが、こうやって自分は壊れるのだな、と
苦痛がくる前にまざまざとわかる
難しくない

灼熱に息苦しくなる
見渡す限りの水田、白い道の交叉、光る積乱雲
叫びのような明白さ
もしかしたらこれは暗黒ではないのか
まったく人影を見ない
ずっと見ていない
世界が人を失っているのは歓迎すべきことだが
私がいる

ヤブガラシの花の上
一羽の黒揚羽がランダムに飛ぶ
顔の汗をぬるりと手で絞れば
遠い希望のような
ひとすじの蛇口の水


「明眸」と名付けられた少女の肖像

  鈴屋


顔の裏側は灰色
誰でもそうなんでしょう?

去っていく人だけが信じられる
少しは賢くなった九月

菜園の向こうには
給水塔とメタセコイアの森
いつも同じ窓の風景を見ているのに
少しも飽きない
心静かな九月

時おり
誰とは知らない女の人が
庭で摘んだ花を活けていく
美しいお婆さんです

わたしを十五秒ほど見詰めてから
瞼を閉じて
そのまま、じっと眉根をよせている
お婆さん

瞼を開いて、眸が
ぱちんと明るく晴れて
窓の外の空をしばし望むのは
きまりごとのよう

花瓶の鶏頭花は
二日も経つと
黒い小粒の種がテーブルクロスに散らかり
それからまた二日
花首が曲がり
色あせる

月夜には
窓辺に子猫がやってきて
ケッ、ケッ
銀色の粘液にまみれた魚の骨を
吐いた
口を濡らし
半分膜がかかった眼でこちらを向くと
あるところで光った
わたしの友だち

麻地のワンピースに
エナメルのベルト
その下には
色とりどりの宝石のように
お腹の臓器があって
これは誰もご存じないこと

ちゃんと子宮もあります
青磁の色の

給水塔に
茜の雲がかかり
この日も暮れ

五十年、昔
「明眸」
ひと言、そう告げた男の人は去り
窓辺に
こちらを向いて立つことは
二度とありません


拝島界隈

  鈴屋

あなたは行方不明をくりかえす。あなたが食べ残したポテトチップスの塩味に指をしゃぶりながら、さて、わたしは遅まきの恋愛に悩み、ウォトカをすすり、あなたの臍の右上7cm、臙脂色の痣をサハリンに見立てて一人、夜の旅に出る。駅前を右へ、やや行って左へ、坂を下って軒と軒の隙間、こめかみあたりに十一月の月は高く、身と心の由来をとおに忘れたあなたは、帰化植物が繁茂するこの街に擬態しているので見つけることができない。そうだよ、あなたもわたしも民族の子ではなかった。

サハリンの火はいまなお消えず、と鼻唄まじりにそぞろ歩いていくはずが、いつしか声もあがらず酔いも醒めて、見つからないあなた、あなたはわたしの知らない男達のせいでいつも湿っていたから、薬臭い水が追いかけてくる路上に、カーテンが破れている仕舞屋に、瞳を見開いている道路鏡に、股のあたりから饐えてとろけて菌のようなものをなすりつけていくから、ほらあんなふうに闇の奥のどこまでも青錆色に光る点々をあとづけて。

この世で一番うまいものは水と塩だ。あとは幅の問題にすぎない。引き戸一枚、小窓一枚、風が帯のようにすり抜ける小部屋のベッドで、うつ伏せの背中に耳をあてると川が鳴っていたあなた。仰向ければ投げ出した二本の脚のつけ根から額まで海峡のように裂けていたあなた。肉と草はいらない、水と塩にあなたを漬けて、タバコをくわえながら窓から見える電柱の2個の碍子をひどく欲しがっていた遅い秋の一日。雪よ降れ、屋根という屋根に雪よ降れ、雪が降れば当節に馴染めることもあるかと、わけもなくおもっていた初冬の一日。

夜が明けていく。立ち枯れたオオアレチノギクの空き地の向こう、国道16号拝島橋を渡っていく大型トラックのテールランプが、あなたのふたつの瞳の奥で遠ざかる。あなたには心なんて贅沢すぎる、かなしいだの、うれしいだのは身のほど知らず、とついこのあいだ悪態ついたばかりで、それでもこのミルク色の薄明はいくらかでもあなたに安らぎを与えているだろうか。あなたの手をひき、枯れ草を踏みしだき、工場跡地を抜け、その先の角を曲がり、長い万年塀に沿って行くとき、近づいてくる踏み切りの向こうのいまだ眠っている街、あれが社会なのだとわかる。


厨房

  鈴屋


ホールの照明を消し、コック服をスーツに着がえ、厨房に戻る。ショットグラスにウイスキーを注ぎ、一息にあおる。調理台に椅子を引き寄せ座り、一度締めたネクタイをゆるめ、調理台に片肘をつき脚を組む。二杯目は唇を湿らすように啜る。胃が熱い。塩の効いた生ハムを噛む。こうして孤独を周到にととのえる。閉店後のこの男の習慣である。

手入れの行き届いた頭髪と靴。よく似た黒い艶。
白色タイルの壁に囲まれた密室に視線をめぐらしていく。首が遅れてついていく。
ダクトのファンが回っていないので空気が動かない。
冷凍冷蔵庫のモーターがクンッと止まって、いまさら、ノイズに気づく。
庫内の闇で動植物の細胞が静かに死につつある。
荒涼とした地平が望まれる。
調理台、二槽シンク、オーブンレンジ、ズンドウ、ボール、フライパン、レードル、バット、等々。
つねに摩擦を浴びている金属の柔和な輝き。
油の染み、水滴、一点もない。
日々、男は磨いた。
耳を澄ましてみる。沈黙は金属の本領だが、ひじょうに遠い闇の場所でかすかに軋む気配がある。
料理のようなもの、顔のようなもの、女のようなもの、ぶよぶよしたものがきゅうに厭になる。
壁、什器、備品の光りが増していく。それ自体発光し、瞬く。
用途が失せる。反乱を感じる。
首が動かない。
何も考えない。
ということは男によって疑われているが。
赤銅色に鈍く光っている男の顔。幾つかの穴と中央の突起。用途が失せる。
金属、道具、首の宴。あるいは男の喪。
首の内部の砂の飽和と消失。
時間は刻まれているか。
すべては疑われているか。
鳥葬が望まれる。
地平の果て。
ショットグラスが指をすり抜ける。

ランチタイムの白ワイシャツの群れがよぎる。プラットホームの雑踏とキオスクにならぶスポーツ新聞の赤い見出しとオーダーをとおすウエィトレスの思わせぶりな目つきがよぎる。今日一日のカケラが擦り切れた昔になる。男が立ち上がる。これから階段を昇り深夜の舗路に佇み、生臭い夜気を肺いっぱいに吸いこむだろう。人影絶えたビルとビルの狭間を足早に立ち去るだろう。普段のことだが。


あなたが散歩する

  鈴屋


日は明るくとも
空は寒い
住宅がならぶ静かな町の

箱の一つ一つに人はひそみ
日溜りの猫の視線にねぶられ
沈丁花の香が生垣をめぐってくる道は
おとなしかった少女のころ
かよったような

二月
いきさつに追われ
あなたはあなたを少々失って
風邪薬に似た
微量の不幸を味わっている

吸殻やほこり玉
舗道に落ちているのは
きたないものばかりだから
有刺線にからむピンクのリボンを
救いあげようとして
手指がない

メタセコイアの梢のあたり
銀ねずのだんだら雲に
あなたの瞳は嵌めこまれ
見つめているのは
公園の広場を横切っていくあなたの背中

唇をなくしたので
鼻唄にしますか?
鼻をなくしたので
そら唄にしますか?
聴いているのははるかな高みの雲の耳

いましがた
あなたは歯医者の角を曲がっていった
最後に残された片方の足の
スニーカーの靴裏が消えない

つづら模様と白い砂つぶが
からの心に
克明すぎて消えない


道のはた拾遺 8.

  鈴屋


8.死んでいる男


野づらの一本道を歩いている
雲は低く、雨は
降るとみえて降らない

行く手の道のわき
枯れた草地になにか横たわっている
近づくにつれ
男が仰向けに倒れているのだとわかる

寝ているのかとおもいつつ
見下ろす
素足の片足を溝の水に浸けている
顔から首にかけて
皮膚は艶を失い土気色

反応など期待したわけではないが
頬骨のあたりを靴先で小突いてみる
首は揺れない、固まっている

「死んでいる」 と
私ではなく、男がいう

シャツがはだけ、凹んだ腹が晒されている
草と地を圧している相応の重量、死んだ肉体
顔を見る
赤黒い口腔、乾いた目玉、濁った瞳孔
まじまじ見詰める
死が関係を単純にする

ヒクヒクと笑いがこみ上げてくる
なにが可笑しいのか
笑いながら自分を怪しむ
十五秒ほどつづいたとおもう
あまりに広い空と地の狭間では
笑いは孤独にすぎ、すぐ醒める

耳朶に風が絡んでいるのがかすかにわかる
ひとしきり雲の動きを眺める

「はやく行け」 と
男がいう
「ひとり死んでいたい」 と
男がいう

踵をかえし、先をいそぐ
雨の最初の一粒が
私の額にあたる
最初の一粒は彼にもある


春の花木によせて・三篇

  鈴屋


天と地の はざまを ぼたん雪は舞いおり ハクレ
ンは 百花を くうに浮かべる 花は雪に 雪は花
にまぎれ 世事におわれ 樹のもとを いそぐ あ
なたの 目にとまらずとも この一日の ひととき
世は ただしく うつくしく

 +
     
ソメイヨシノのにぎにぎしさに こころふたぎ の
がれきた 町のはずれ おりしも オオシマザクラ
一樹 小雨につつまれ あなたは 傘をおさめ 首
をぬらして あおぐ 花よ 花よ 生きてあればこ
そ このさき ついさき 死の なつかしさ

 +

街には だれもいなくて清潔 並木のハナミズキは
ピンクと白 どこまでも 咲きそろい 観るものが
いなければ さらに あかるく はなやぎ 舗石の
すきまにツバナはたわむれ つばめ一閃 ビルの壁
に 窓のかたちをかりて 笑うのは だれ


梅雨時

  鈴屋

日毎、わたしが生きている街はとても親切
わたしの死のありもしない謂れを探る
 
傷を歌う本を読み
紙とインクの海岸線を燃やして 
センタクバサミの辻褄に暮らす梅雨のさ中
紫陽花の青は定まらず
薔薇は不完全に美しく
窓のアリアはとてもたいくつ
ビタミンを五粒のもう、ミネラルを噛み砕こう
肉と骨ではなく、眼差しのさびれに抗うため
          
雨雲が退いて
昼下がりの街は日差しと蒸気につつまれる
つかの間の青空をチガヤの綿毛がさわさわ渡り
生乾きのアスファルトからは、いい匂いがたちのぼる
わたしの手のひらで死んだ燕のなんという軽さ、明るさ

見上げる駅舎はわたしの教会?
厳粛に佇むエスカレーター、懺悔のプラットホーム
電車にのると現世が漂流していく
傷を歌う本を拾い読みしながら、世界を滑っていけば
車窓から望むなにもかもはちゃちな小道具にすぎない
海よ、地動説のはかない海よ
陸地は女神の排泄の痕跡 
文明は地球の黴
オーロラはだれの睡眠?
日も月も惑星も糸で吊られた発光パネル

わたしが
どこかをさまよっている
彼はいう
「逃奔の果て、山は霧雨に濡れ、枇杷の実が灯る。紫煙を吐く寸暇、眼差しは無為に親しむ」
部屋の窓を開け放つ、レースのカーテンの裾がおどる
コーヒーを淹れる
なにによらずタバコは悪い習慣
壁にかかる、わたしが描いた川の絵は
逆さにすると川が空になる、名画だ


青空

  鈴屋


あなたが町のマーケットで買い物を済ませて、自転車で畑中の四つ辻まで戻ってきたころには、曇り空の底も丘をつつむ森も暗さを増して、もう夕方とよんでもよい時刻にさしかかったのだと知れる。

道の端に停めた自転車をおりて、フレアスカートの裾を整えてから胸の前で腕を組んで、風を受けてきたせいで冷たくなった半袖の二の腕を交互に摩ってみる。それから籠の中のペットボトルの水をひと口ふた口含んで、これから上っていかなければならないなだらかな坂道を視線でたどっていく。道がカーブして見えなくなっても半ば木立に埋もれた電柱の列がその在り処を示している。そのさき丘の中腹にあなたの住まいが見える。茶色い屋根と灰色の壁、ひとり住まいのあなたの帰りを待つ二つの窓。

自転車のかたわらに佇んだままあなたの視線はさらに昇っていく。獣の背のような丘の稜線、だんだら雲が空いっぱいに隙なく詰めこまれ、いや、そうではなかった、思いがけなく一ヶ所、布地を裂いたように雲が割れ青空が覗いていた。横長の平行四辺形の澄み切った青空。瞳から体のすみずみまで浸みこんでくる青空。見詰めつづけるあなたの唇がわずかに開いたのは、声というにはおぼつかない呟きのせいかもしれない。
「なにかすてきな意味を誘っているの?」と。
唇の両端がわずかに伸びたのは、それは微笑のせいかもしれない。
「そうね、あと二日三日、生きていてもいいよ」と。

そう遠くない自分の住まいを目指してふたたびペダルを踏みはじめる。もう少しすればあの二つの窓に明かりが灯るだろう、とあなたはかんがえる。ハンドルの前の籠には野菜や調味料といっしょに一枚の動物の肉が入っている。もう少しすれば、ガスコンロに乗せたフライパンの上で一枚の肉が焼けるだろう、とあなたはかんがえる。肉から滲み出た油が肉の縁にまとわりついてピチピチと黄金色の小粒の粒になって小気味よく撥ねていることも。


秋にめぐらす 三編

  鈴屋

道に立木の影はやつれる 野づらの菊花は しろじろと霜に臥
す 民族が曲がり来たった いく千年 土壁の 蜘蛛の眼は寄
りつつあり ヤモリの眼は離れつつあり山里に 最後の人々の
記憶が生きのびていく耳鳴りの 森に隠れた少女よ 死臭まと
わる処女よ 振り向きざま 「ほら」と笑んでは とりどり宝石
と見紛う臓腑を きらきら散らかす秋の長夜

 +
  
ネコジャラシが風を 批判している坂の上の 生ハム色の雲の
舌がねぶる窓辺で 夕空見つめ涙ぐむ 少女よ 神を「神様」
と呼んではいけない 神は命名を忌む せめても「嗚呼」と小
さく喉を震わせなさい あなたは見つける 立ち去った神の 
もはや 消えのこる白衣 あなたはいつだって 運命のように
遅れ わたしはといえば 町はずれの変電所を見学し 落葉ふ
みしめ舗石に歩をたがえ 勝手口から 蛇口に至る技術的な秋

 +

秋 少女の古典的な靴音 駅 町 道 辿る 孤独な母国語 
少女が日暮れの街角で 死のお菓子を街頭販売する 紅いリボ
ンと微笑をそえて 行きかう民族に 売る 星空のもと お歯
黒のような家並みの 乏しい窓明かりを横目に わたしは帰る
帰る? いずくへ? 死のお菓子を一口 口に含めば 冷たい
甘みが溶けだし薄荷が すうすう わたしを捨てて 身体がか
ってに先を行く 


侘び住まい・冬の末

  鈴屋


藪がさわぎ
川面がけばだち 雨風まじり

二日まえから 蜘蛛が棲みつく部屋で 
女が 石の子宮に 掌をあてている   
 
鉄橋を渡る貨物列車に耳をそばだて 
風の方位を測り 
レールの光を 壁になぞり 
旅する

竹筒に一輪 侘助は伏し目がち
女が 下からしつこく覗きこむので 
花弁は芯から赤らんで

たまさか 窓にさす薄日
畳を這う蜘蛛
色味のとぼしい唇 
そろって微笑する

両手で湯呑を包み
背筋を伸ばし 正座している女の ひととき 
壁が消え 一面 川の景
部屋が 上流に動いてやまない


女は街までの道すがら二度頬笑む

  鈴屋

寺の墓地を抜けていくのは街への近道、といって女は急いでいるわけでもない。ひとり歩きの気楽さ、両の手を後ろで軽く繋ぎ、散歩がてらという風情で墓石の間の敷石道をゆっくり踏んでいく。ふいに枯芝色の犬に追い抜かれる。「おや?」と後ろ姿を目で追いながら舌を「チョッチョッ」と鳴らして呼んでみる。犬のほうは地面のあちこちを鼻から先に寄り道していくばかりで一顧だに返さない。いっそ気持ちの良い無関心。女はその犬がちょっと好きになった。

犬が曲がっていく先に付いていくと、大島桜の大樹がおりしも満開を迎えている。女は「これはこれは」と歩を止め「言葉を仕舞え」と誰かに命じられでもしたかのように、しばらくは呆けて花をふり仰いでいる。風が吹く。いっせいに空が乱れる。女は唐突に目を覚まされた気分になって、舞い散る花びらの下、桜の根方をしきりに嗅ぎまわる犬に気付いた。一面敷き詰められた花びらが鼻息でほころび、そこだけ黒い土が露わになる。

犬が尻を落として尾の付け根のあたりを激しく噛みはじめた。その姿勢がきついのか、転びそうになるのを前肢でこらえて、尾の痒みに口先を届かせようとくるくる地を擦り回る。歯を剥き出しグッグッと鼻を鳴らし噛みつく。三度四度擦り回ってようやく気が済んだらしく、犬は前肢をそろえ端正に座り直し、そこではじめて女のほうを見た。犬が演じた愉快な振る舞いに頬笑みを返しながら、女のほうも犬を見詰める。そこにあるのは黒い二つの眼だ。

女が山門に向かおうとすると先導するように犬が前を歩く。曲がり角で来し方を見やると、ひと筋の敷石道の先、林立する墓石の上に、さいぜんの大島桜が扇の形に白くぼうと浮かんでいる。そのあたり風もなく静まり返っている。少し寒い。胸の前で両腕を交差させカーディガンの上から二の腕を擦った。犬が離れていく。敷石の上を軽やかに爪音たてて、つんつん立ち揺れる尾がいきおい先に行きそうに胴が斜めになる。女が頬笑む。山門をくぐればそこから街がはじまる。


夜行ドライブ

  鈴屋



道が西にカーブする
サンバイザーを下ろす
暑い
エアコンが効かない
15年落ちのセダンだ

女は眠っている
唇を薄くあけ、股をひらいている
ルージュで汚れた前歯、タイトスカートのぴんと張った裾
ヒールが片方脱げかけている
助手席のサンバイザーに手を伸ばし
女の瞼にも影をつくってやる

陽が山脈に落ち、闇が田園を水位のように浸していく
右のこめかみのあたり、膨らんだ月が平行してくる
ヘッドライトがアスファルトの路面を食んでいく
蛾が横切る、一瞬、眼が赤く光って
こちらを見た
黒々つづく山並みの麓に人家の灯が点々と綴られ
そのひとつひとつに
なんのつもりか、人が宿っている

棲みつくことは堕落だよ
「なっ?」
女は眠っている

女を乗せて三日目の夜だ
はじめ、女の故郷の小さな地方都市へ行くはずだった
女が、そこで暮らそう、というのを生返事で頷いたものだが
今ではどうでもいい話だ
あてなどなくても、アクセルを踏んでいる限り
ライトの先に道はひとすじ用意され、尽きることがない
そんなことに妙に感心する

道は山に入る
上るにつれ月は冴え、峰の稜線を際立たせる
エンジン音に耳をそばだて、ギアを選び
ゆっくりと上っていく
ハンドルを右に左に
やがてフロントガラスの視界が広がり
峠に出る
小休止のつもりで車を脇に寄せ、ライトを消しエンジンを切る
完璧な静寂
ウインドウを下げる
冷気に身震いする
月明かりの下、見渡す限り山の稜線が重なっている
それが際限のない緻密なつづら模様となって夜空に溶けこんでいく
無限という感覚
不快が込み上げ目を閉じる

目をあける
耳朶からぶら下がるトルコ石
闇の中に白い顔がぼうと浮かんでいる
女は眠っている

眠りにつくことが死ぬことなら
死ぬことも悪いことじゃない
「なっ?」
女が肯いたような気がする
 
キーをまわし
先を下り
さいぜん望んだ山並みを縫って行く


最後の人々について

  鈴屋


わたしの頭のうしろで 雲はながれ 雲の下 浅黄に刷かれた
丘のふもとに 最後の人々は住む わたしの頭のうしろで 川
はながれ 蜥蜴の尾のように青くかがやき 野の果てまでくね
くねと細り むこう岸の木立のまにまに 最後の人々は住む


かれらは 明るい窓辺のベッドで死ぬ 神の理ではなく窓枠に
切り取られた青空の理によって死ぬ そよぐ枝葉 つっつっと
降りてくる蜘蛛 背伸びして覗きにくる子供と犬 矩形のなか
のそんなものらを 眸にうつして死ぬ


かれらは生きる 人としてありていに生きる 太陽の下で穀物
と家畜をそだて 工場で機械と電磁波をつくり 日々を生きる
しかもかれらは 生きてかなしむ たとえば野にあるとき 頭
上の青空のもっともふかい青 そのようにかなしみ やがてか
なしみは しずかなよろこびに反転する


この秋 わたしは赤松林をぬけ 古池を散策する 木立が水面
までのばす枝先の もみじ葉の翳りのなか 一尾の鯉がじっと
身をひそめている ときとしてそのあたり 失われた祖国の影
が病葉ようにただよい わたしはあまりの懐かしさに 身を震
わす よって わたしはかれらに属する者ではない
        

かれらは 欲しいものはなんでも手に入れることができる 死
さえも苦もなく手に入るので つまり 欲しいものはなんでも
あらかじめそこにある いえ そうではなく 欲しいものはつ
ねにそこに 新鮮に たちあらわれる


かれらはみな寡黙である かれらは長い年月をかけて 徐々に
に言葉を失いつつある すでに人称代名詞のうち わたし あ
なた が使われることはない 愛 苦 望み など 人の心に
まつわる言葉については 知らないと こともなげに言う


言葉が失われていく しかしかれらは 海や陸や天体にたいし
てと同様 隣人たちとふかく親和している それでいて あく
までも個の点在を尊ぶ わたしには未知の 沈黙の交感をつか
さどる気圏に 包摂されているとしかおもえない 見ることの
叶わぬ風景として 
 

わたしの最後の人々についての知見は このていどでしかなく
わたしがかれらとともに生きることは ついになかった わた
しは旅の途上にあり 国境線の消えた大地をさまよい 海は海
のままに 陸は陸のままにながめ どこまで歩いていっても 
わたしの頭のうしろで かれらの群像は遠のく


あなたの春の一日

  鈴屋




ベッドを降りて すぐ窓辺に向かうのは ごく自然なあなたの
習わし 目覚めるまぎわの 夢の中で負った新鮮な傷口が春を
染めあげ 「生まれたばかりの幼い蜥蜴に会いたく」は 行く
春の謂われとしては 姑息なもの言い 庭に一輪 咲き初めた
白薔薇に 「おまえを切る」と鋏を入れ グラスに挿したテー
ブルに頬杖ついて見つめていても しょせんは成就しない美と
いうもの 紅茶は冷えていたずらに紅い



河口と雲だけが輝き 突堤の先端では 日傘を傾けるあなたも
あなたが連れたトイプードルも 記憶のように瞬きながら翳る
毛細管が急速に繁茂していく青空 やがて暗黒へとゆらいでい
く青空 水平線が飛沫をあげて垂直に立ち上がり 目盛られる
来し方100年 さらに100年 「戦争は宴だった?」 初夏を思わ
す太陽の下で あなたは質素だった食卓のことばかり思い出す
そこに居たはずの わずかな係累のことも  



あなたにとって星は 呼びかけうる最も近しい隣人 窓が閉じ
られカーテンがひかれ そそくさと踵を返すキッチンでは 一
枚の肉が夕焼けのように焼けていく 皿を並べたテーブルの上
では 白薔薇の首が刻々死へと落ちていく 肉の油で汚れた唇
をぬぐい 膝に前肢を掛ける三毛をたしなめ なにより無事を
尊ぶあなたの生活 きょう一日のことを 「あれ?」と こと
もなげに忘れてしまえば 忘れたことはあしたまで見る夢の糧

 


四月某日

  鈴屋


草が生える
歩はのろい
わたしはわたしと平行している
目の前で草が生える
43°の酒を一口、喉にとおす
洋梨の形した女が叫びながら坂を駆けおりてくる
わたしはわたしを見ないし
わたしもわたしを見ない
坂の上で雲が湧く
坂の下で洋梨の形した女が叫びながらバスに乗る
とつぜん陽が差し
サンシキスミレの猿顔が
いっせいにわらう
ばかな日だ

胃が熱い
ペットボトルのウーロン茶を喉に通す
目の前で草が生える
セスナが飛んでいる
坂の上に雲がたちこめる
エンジン音が空をかき回している
見あげたままめまいする
以前、わたしはわたしと会ったことがある
如才ない男だった
何度も足を踏み出す
目の前で
キジバトがキコキコキコと垂直に飛び立ち
靴先が水溜りのふちで止まる
濡れた軍手を踏んでいる
水面で虹色が滲んでいる
水の底、ミミズが錆び釘のように曲がっている
悪くない
カラスノエンドウが咲く
ふつうの日だ

木杭が倒れかけている
踏みつける
靴が滑り
木杭が跳ね返えったので身をそらす
有刺線がブルンと震えて止む
国道のほうからバイクの爆音がしてすぐ止む
アパートに戻ろうとおもう
自宅というものがあることを
あたりまえだとおもっている
わらう
楕円の中に台所が見える
蛇口をきつく閉めてきただろうか
パッキンがあまいことに、数日
悩んでいる

文学極道

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