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田中宏輔 - 2019年分

選出作品 (投稿日時順 / 全23作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


陽の埋葬

  田中宏輔



岩隠れ、永遠(とは)に天陰(ひし)けし岩の下蔭に、
──傴僂(せむし)の華が咲いてゐた。

華瓣(はなびら)は手、半ば展(ひら)かれた屍骨(しびと)の手の象(かたち)、
──手の象(かたち)に揺らめく鬼火のやうな蒼白い光。

根は荊髪(おどろがみ)、指先にからみつく屍骨(しびと)の髪の毛、
──土塊(つちくれ)に混じつて零れ落ちる無数の土蜘蛛たち。

芬々(ふんぷん)とむせる甘い馨(かを)り、手燭(てしよく)の中に浮かび上がる土蜘蛛の巣、
──巣袋の傍らに横たはる土竜(もぐら)の屍(しかばね)。

頬に触れると、眼を瞑つたまま、口をひらく、その口の中には、
──羽虫の死骸がぎつしりとつまつてゐた。

隠水(こもりづ)、月の光つづしろふ薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)、
──葬(はふ)りのたびごとに葬玉を産卵する岩の端(はな)。

(イハ、ノ、ハナ)

串(くすのき)の嬰兒(みどりご)、袋兒(ふくろご)の唖兒(あじ)、

──わたくしの死んだ妹は、天骨(むまれながら)の、纏足だつた(つた)

生まれたばかりの九つの葬玉、

九つの孔(あな)を塞ぐ。

合葬。

死んだ土竜(もぐら)とともに、わたしは、わたしの、ちひさな妹を、埋葬し(まい、さうし)

古雛(ふるびな)の櫛の欠片に火をともし(ひを、ともし)

蒐(あつ)めた羽虫の死骸を、つぎつぎと、火の中に焼(く)べていつた(、つた)

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んでしまつた蝦足(えびあし)の妹に恋をしてゐる。

蕊(しべ)をのばして乳粥(ちちかゆ)のやうな精をこぼす。

(コボ、ツ?)

養(ひだ)さむ背傴僂(せくぐせ)。

わたしは傴僂(せむし)。

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んだ妹に恋をしてゐる。

馬の蹄に踏み砕かれた伏せ甕。

重なりあつた陶片(たうへん)の下闇。

蝸牛の卵たちがつぎつぎと孵(かへ)つてゆく。

蝸牛の卵たちがつぎつぎと孵(かへ)つてゆく。

──これがお前の世界なのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、罫線加筆)

ああ、苦しい、苦しい。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

わたしは傴僂(せむし)。

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んだ妹に恋をしてゐる。

輪廻に墜ちる釣瓶(つるべ)。

結ばれるまへにほどける紐。

Buddha と呼ばれる粒子(りふし)がある。

わたしは傴僂(せむし)。

傴僂(せむし)の華が恋をしてゐる。

死んだ妹に恋をしてゐる。

ああ、苦しい、苦しい。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あはれなる、わがかうべ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

あやしくも、くるひたり。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

あはれなる、わがかうべ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

あやしくも、くるひたり。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)

り。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、歴史的仮名遣変換)


(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)


陽の埋葬

  田中宏輔

                           

 部屋に戻ると、原稿をしまって、インスタントのアイス・コーヒーをつくった。詩人にいわれた言葉を思い出した。自分では、小説を書いたつもりであったのだが、小説にすらなっていなかったということなのだろう。ほめられなかったことに、どこかで、ほっとしている自分がいる。
 半分くらい読んでいた詩集のつづきを読んだ。ヘッセの詩集だった。ヘッセの詩はわかりやすく、しかも、こころにとどく言葉がたくさんあった。先日買っておいた『デミアン』を手に取った。
 話し声がしたので、窓のほうに目をやった。カーテンをひいた窓の外は真っ暗だった。真夜中なのだった。窓を開けておいたので、ふつうの大きさの声でもよく聞こえてくる。暑かったのだが、クーラーをつけるほどではなく、窓を開けて風を取り入れてやれば十分にしのげるぐらいの暑さだった。時計を見ると、三時を過ぎていた。部屋に戻ってきたときには、すでに十二時を回っていた。栞代わりに絵葉書を本のあいだに挟むと、テーブルの上に置いて、窓のところにまでいって見下ろした。部屋は、北大路通りに面したビルの二階にあった。下で、二人の青年が話をしていた。しばらくすると、一人の青年がこちらを見上げた。目が合った。体格のよい童顔の青年だった。もう一人の青年のほうも顔を上げた。その顔が見える前に、ぼくは窓から離れていた。もう一人のほうの青年の顔は、ほとんどわからなかった。二人は話をやめた。二人とも自転車に乗っていた。自転車をとめて話をしていたのだった。二人は去っていった。何か予感がした。部屋から出て、階段を下りると、マンションの外に出た。通りをうかがった。すでに、二人の姿はなかった。マンションを下りてすぐのところがバス停になっていて、二人は、そのバス停にしつらえてあったベンチに足をかけて自転車にまたがりながら話をしていたのだった。しかし、そのバス停の明かりも、とっくに消えていて、明かりといえば、等間隔に並んでついている街灯と、北大路通りの西側にあるモスバーガーと、北大路通りと下鴨本通りの交差しているところにある牛丼の吉野家のものだけだった。しばらくすると、さっきぼくと目を合わせた青年が、北大路通りを東のほうから自転車に乗ってやってきた。そばにまでくると、ゆっくりと歩くぐらいの速度にスピードを落として、ぼくの目の前を通り過ぎていった。ちらっと目が合った。後ろ姿を見つめていると、彼が自転車をとめて振り返った。彼はハンドルを回してふたたび近づいてきた。ぼくのほうから声をかけた。「こんな真夜中に、何をしているのかな?」「ぶらぶらしてるだけ。」「夏休みだから?」「ずっと夏休みみたいなものだけど。」ぼくは、明かりのついている自分の部屋を見上げた。彼もつられて見上げた。「よかったら、話でもしに部屋にこないかい?」「いいですよ、どうせ、ひまだから。」
 名前を訊くと、林 六郎だという。部屋に上がると、二人分のアイス・コーヒーをつくった。年齢を聞くと、十六だというので驚いた。体格がよかったので、大学生くらいに思っていたのだ。音楽が好きだという。音楽の話をした。彼はハーモニカの音が好きだといった。窓を閉めて、エアコンのスイッチを入れると、スーパー・トランプの『ブレックファスト・イン・アメリカ』をかけた。
 そのまま二人は眠らなかった。朝になって、彼は帰っていった。何もなかった。
 二日後、彼が部屋にきた。それは夕方のことであった。ぼくが仕事から帰ってきて、すぐだった。テーブルを挟んで向かい合わせに坐った。彼は、しきりに自分の股間をもんでいた。ぼくの視線は、どうしても彼の股間にいってしまった。彼はそのことに気づいていたのだと思う。彼の股間は、はっきりと勃起したペニスのかたちを示していた。泊まっていくかい? と、ぼくがたずねると、彼は笑顔でうなずいた。
 夜になって、彼はソファに、ぼくは布団の上に寝た。横になってしばらくすると、ソファに寝そべる彼のそばにいった。彼は眠っていたのかもしれなかったし、眠っていなかったのかもしれなかった。どちらかわからなかったのだが、タオルケットの下から手をもぐりこませて彼の股間にそっと触れた。彼は、ジーンズをはいたまま眠っていた。ぼくが、ぼくのパジャマを貸すといっても、遠慮して、ジーンズをはいたまま眠るといっていたのだった。彼の股間が膨れてきて、彼のペニスが硬くなっていった。ぼくの期待も急速に高まっていった。心臓がドキドキした。ジーンズのジッパーを下ろしていった。半分くらい下ろしたところで、彼は目を開けて、身体を起こした。「すいません、帰って寝ます。」「ああ、そうするかい。」ぼくは、あわててこういった。
 それから、彼は二度とぼくの部屋にこなかった。外でも出会わなかった。彼が、ぼくに何を期待していたのか、ぼくにはわからない。ぼくが彼に期待したものと、彼がぼくに期待したものとが違っていたということだろうか。それとも、ただぼくが性急だったので、彼の警戒心を急速に呼び起こしてしまったということなのだろうか。こんなふうにして、状況をぶち壊しにしてしまうことが、ぼくには、たびたびあった。幼いときから、ずっと、である。ぼくの人生は、そういった断片からできているといってもよいぐらいだ。
 詩人が、ぼくの話を聞いて、それを詩にしているということが、これまでずっと不思議に思っていたのだが、ヘッセの詩集や小説の解説を読んでいて、ようやくわかるような気がした。詩人が、ぼくの話を聞いて詩にしていたのは、おそらく、ぼくがぼく自身の人生をうまく生きていくことができない人間だからなのであろう。
 あるとき、詩人にたずねたことがある。あなたには、語るべき人生がないのですか、と。詩人は即座に答えた。「自分のことだと、何をどう書けばいいのか、とたんにわからなくなるのだよ。しかし、他人のことだと、わかる。何をどう書けばいいのか、たちまちわかってしまうのだよ。」と。
 きょう、「ユリイカ」という雑誌を買った。ぼくの名前で出した投稿詩が載っていたからである。詩人が、ぼくの名前で出すようにいったのだった。それは、ぼくが詩人に話したぼくの学生時代の経験を、詩人が詩にしたものだった。「高野川」というタイトルの詩だった。


陽の埋葬

  田中宏輔


I

少年は待っていた。
雨が降っている。

少年は待っていた。
雨が降っている。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
雨が降っている。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
男は来なかった。


II

あの日も雨が降っていた。

男は少年を誘った。
少年はまだ高校生だった。

あの日も雨が降っていた。

男は少年を抱いた。
少年ははじめてだった。

あの日も雨が降っていた。

買ったばかりのCD、
ホテルに忘れて。

あの日も雨が降っていた。

また、逢ってくれる?
少年は男にきいた。

あの日も雨が降っていた。

また、逢ってくれる?
男は振り返った。

あの日も雨が降っていた。

また、逢ってくれる?
男は頷いてみせた。


III

少年は待っていた。
雨が降っていた。

少年は待っていた。
雨が降っていた。

少年は待っていた。
雨が降っていた。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
男は来なかった。

少年は待っていた。
男は来なかった。

いつまで待っても
男は来なかった。

いつまで待っても
男は来なかった。

雨と雨粒、
睫毛に触れて、

少年のように
雨が降っていた。

少年のように
雨が待っていた。


陽の埋葬

  田中宏輔



 チチ、チェ、ケッ、あんた、詩人だろ、二週間ばかり前じゃねえかなあ、あんた、ドクターとしゃべってたろ、あとで、オイラ、あのドクターにオイラのチンポしゃぶらせてやったんだぜ、チチ、チェ、ケッ、それ、知ってるよ、オイラも、ドクターにもらったからな、さわるなって、オイラ、手でさわられるのってヤなんだよ、Dだろ、D、右のほうのDをあんたが飲んで、左のほうのDをオイラが飲むと、あんたがつくる世界に、オイラが入るんだよな、チチ、チェ、ケッ、ヤだよ、オイラがコッチで、あんたがソッチ飲むんだよ、そしたら、オイラがつくる世界に、あんたがくることになる、さわるなって言ってんだろ、そんなにオイラのチンポがほしいんなら、直接しゃぶれよ、さわんなって、オイラが自分で出すよ、ほら、ビンビンだぜ、うまそうだろ、チチ、チェ、ケッ、ほら、口から出すなよ、ずっとしゃぶりつづけろよ、口だけだぜ、手でさわんなよ、そうだよ、強く吸ってくれ、舌ももっと動かしてくれよ、えっ、何、年か、オイラ、まだ十七だよ、ほら、しゃぶりつづけろって、あんた、上手だよ、え、何、初体験はって、チチ、チェ、ケッ、メンドクセーな、犬だよ、犬、あん、おっ、あの光、見ろよ、あんた、見たかい、あの光、見に行こうぜ、あれは、オイラが仕掛けた凍結地雷の光なんだぜ、あんた、見たことないかい、行こうぜ、ほら、ほら、お、これだ、これだ、こんなヤツがひっかっかった、見ろよ、こいつも犬だってよ、こんなカッコでトイレの横で凍結しちまってよ、チチ、チェ、ケッ、丸裸で、首に、こいつは犬です、小便をかけてやってください、だってよ、こんなカッコで固まってやがんの、チチ、チェ、ケッ、お、薬が効いてきたな、ほら、これがオイラの部屋さ、何もねーだろ、オイラ、こう見えても、いっぱしの配管工なんだぜ、こういった、からっぽの部屋に、パイプをぎゅうぎゅうつめて、パイプだらけの部屋にするのがオイラの夢なんだ、あんた、そこに四つんばいになんな、そうだよ、入れてやるよ、あんたみたいなおっさんを後ろから犯すのがいいのさ、ほら、この部屋みたいに、あんたのケツに、あんたのからっぽに、オイラのパイプを突き刺さしてやるぜ、オイラのでっけーパイプを突き刺してやるぜ、あんたのからっぽを、オイラのパイプをぎっしりつめ込んでやるぜ、ほら、ほら、グリグリグイグイ、ズリズリズンズン、ほら、痛いかい、もっとツバつけてやるからな、それでも痛いだろうけどよ、オイラのチンポ、でけーからな、痛かったら、痛いって言えよ、泣いたっていいんだぜ、泣けよ、ほら、痛いだろ、泣けよ、泣き叫べよ、この部屋にパイプがぎゅうぎゅう、パイプがぎゅうぎゅう、あんたのケツにも、オイラのチンポが、グリグリグイグイ、ズリズリズンズン、あんた、緑の顔の男とは双子なんだってな、だけど、あんたは、あの男の緑の顔からほじくりだされた、にきびの塊だって話じゃないか、ジョーダンだよ、あんたがホムンクルスじゃないってことは、このケツのしまり具合でわかるさ、でもよ、そのビクビクしたところなんか、ホムンクルスそっくりだぜ、え、ああ、あんた、クソちびったのかい、チチ、チェ、ケッ、オイラ、クソまみれのケツ、好きだぜ、ほら、液体セッケンだぜ、しみるだろうけどよ、いったあとに、すぐに洗い落とせるからな、オイラのザーメンも、あんたのクソも、ほら、もっとクソちびりな、クソまみれのケツ、犯すの、おもしれーぜ、ほら、ブッスンブッスン鳴いてるぜ、あんたのケツが、チチ、チェ、ケッ、オイラが突いてるときに入った空気の音だよ、あんた、恥ずかしいだろ、恥ずかしいんだろ、え、ほら、もうじき、あんたのクソまみれのケツに出しちゃうぜ、ほら、ほら、ほら、うっ、うっ、いいだろ、よかったろ、あん、あ、薬が切れてきたかな、公園の風景と、オイラの頭のなかの部屋が、かわりばんこに入れ替わる、お、お、お、元にもどったな、さわんなって、オイラ、手でさわられるのがヤだって言ったろ、それに、もういっちゃったんだよ、頭んなかでさ、あんたのクソまみれのケツのなかに出しちゃってるんだよ、まあ、もうイッパツ出してもいいかな、おいおい、さわんなって言ってるだろ、オイラが自分で出すからよ、ほら、しゃぶりな!


陽の埋葬

  田中宏輔



──おいでなさい。よい星回りです。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)


畳の湿気った奥座敷、御仏壇を前にして、どっかと鎮座する巨大なイソギンチャク。


(座布団が回る、イソギンチャクが回る、互いに逆方向に回りはじめる)


──おいでなさい。よい星回りです。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)


イソギンチャクが呼吸をするたび、星々が吸い込まれ、星々が吐き出される。


(そのたびごとに、宇宙はこわれ、宇宙はつくられる。)


──おいでなさい。よい星回りです。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、罫線加筆)

螺旋に射出された星々が超高速で回転する。


(刹那の星回り!)


星と星と星との饗宴。


鐘と鐘と鐘とが響きあう。
(ジョイス『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュブディス、高松雄一訳)

(団栗橋だなんて、懐かしいわねえ
 京阪電車も、以前は、地面の上を
 走ってて。ほら、憶えてるでしょ
 橋の袂を通るたび、桜の花びらが)


semaphore 腕木信号機。


(通過する急行電車!)


semaphore 腕木信号機。


(通過する急行電車!)


──もうどのくらい占星術に凝っているのかね?
(シェイクスピア『リア王』第一幕・第二場、大山俊一訳、罫線加筆)

(憶てるでしょ、ほら)


点滅する信号機!


さくら、


さくら、


点滅する信号機!


さくら、


さくら、


陽の埋葬

  田中宏輔



水裹(みづづつ)み、水籠(みごも)り、水隠(みがく)る、
──廃船の舳先。


舵取りも、水手(かこ)もゐない、
──月明(げつめい)に、


水潜(みくぐ)り過ぐるものがゐる。


新防人(にひさきもり)の亡き魂(たま)の
──その古声(ふるこゑ)に目が覚めて、


水潜(みくぐ)り過ぐるものがゐる。


呼び寄せらるる水屍骨(みづかばね)、


似せ絵のやうな
貌(かむばせ)。


──その貌(かむばせ)は、亡き新防人(にひさきもり)に、瓜二つだつた。


あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。
(イザヤ書四三・二、日本聖書協会・口語訳)

わたし?


──わたしは、長夜(ちやうや)の闇に、夢を見てゐました。


さうして、


毎日毎日(マイヒニヒニ) この(コノ) 道を(ミツ) 通ひました(カヨタ)。
(『全国方言資料・第三巻/東海・北陸編』日本放送出版協会、歴史的仮名遣変換)

マイ ヒニ ヒニ コノ ミツ カヨタ


海胆も、海鼠も、


コノ ミツ カヨタ








剥がれてゆくものがある。


ひとりでに剥がれてゆくものがある。


──もう、それは、わたしぢやない。


、わたしだつた。


はぐれた鱗(いろこ)がひとつ、


龍門の下を、


潜つて、ゆ


、ゆき


まし






陽の埋葬

  田中宏輔



月の夜だった。
  海は鱗を散らして輝いていた。
    波打ち際で、骨が鳴いていた。
     「帰りたいよう、帰りたいよう、海に帰りたいよう。」
   と、そいつは、死んだ魚の骨だった。
そいつは、月のように白かった。

月の夜だった。
 ぼくは、そいつを持って帰った。
    そいつは、夜になると鳴いた。
     「帰りたいよう、帰りたいよう、海に帰りたいよう。」
   と、ぼくは、そいつに餌をやった。
そいつは、口をかくかくさせて食べた。

真夜中、夜になると
  ぼくは、死んだ母に電話をかける。
   「もしもし、お母さん? ぼくだよ。ぼくだよ、お母さん……。」
  電話に出ると、母はすぐに切る。
 ぼくは、また電話をかける。
番号をかえてみる。

真夜中、夜になると
  ぼくは、死んだ母に電話をかける。
   「もしもし、お母さん? ぼくだよ。ぼくだよ、お母さん……。」
  きのうは、黙ったまま(だまった、まま)
 母は、電話を切らずにいてくれた。
ぼくは、その番号を憶えた。

鸚鵡が死んだ。
  父の鸚鵡が死んだ。
    ぼくは、もう鸚鵡の声を真似ることができない。
     「グゥエー、グググ、グ、グゥエー、グゥエー、エー。」
   と、ぼくは、もう鳴かない。
もう鳴かない。

鸚鵡が死んだ。
  父の鸚鵡が死んだ。
    とまり木の上で死んでしまった。
     「グゥエー、グググ、グ、グゥエー、グゥエー、エー。」
    と、とまり木の上の骸骨。
そいつは、ぼくじゃない。

骨のアトリエで
  首をくくって死んだ父を
    ぼくは、きょうまで下ろさなかった。
     「どうしたんだい、お父さん? 何か言いたいことはないのかい?」
    首筋についた縄目模様がうつくしかった。
ぼくは、父の首筋をなでた。

骨のアトリエで
  死んだ魚に餌をやると、憶えていた番号にかけた。
    死んだ父に、死んだ母の声を聞かせてやりたかった。
     「どうしたんだい、お父さん? 何か言いたいことはないのかい?」
    死んだ父は、受話器を握ったまま口をきかなかった。
死んだ鸚鵡も口をきかなかった。


舞姫。

  田中宏輔



舞姫・第一部―その1―

彼女が瞬きすると
いっせいに十人も二十人もの小人たちが
まぶたの上で足をバタバタさせた
すると色とりどりの靴の先から
きらきらと光がほとばしり
わたしの目をくらませた
彼女は遠い惑星リゲルから
わたしを追って地球にやってきたのだった
彼女は触手をわたしの頬にのばしてつぶやいた
「愛しています」
惑星リゲルの言葉で
わたしも愛していると言った
わたしは一ヶ月前まで3年のあいだ、惑星リゲルに語学留学していたのだった
わたしは
わたしの頬に触れている彼女の第一触手をとって
待たしていたロボット・タクシーに乗り込んだ
タクシーの運転手は目を丸くして
といっても、最初から丸い目なのだが
わたしにはよりいっそう目を丸くしていたように思えたのだ
そんなはずはないのだが
口調が乗ってきたときよりも性急で
いささか大げさに驚いていたように感じられたからだった
「いや〜、ものすっごいべっぴんさんでげすなあ。
 地球の方やおまへんでっしゃろ。
 あんたはん、かなりのスケこましでんなあ。
 で
 どこいきはる?
 予定通り
 京都の竜安寺でっか?」
いくら大阪の宇宙空港だからといって
こんなぞんざいな言い方はないと思って
わたしは、ぶすーっとして一言
「そうだ」と返事した
彼女は第一触手に力をこめて
わたしの手をぎゅっと締め付けた
正直言うと痛かった
しかし
わたしはそれを顔に出さず
彼女の顔を見て微笑んだ
遠い距離をはるばるわたしを追って
やってきてくれたのだから。
わたしも彼女の第一触手をぎゅっと握り返した
第一触手の先から緑の体液が滴り落ちた
ロボット・タクシーは速度を上げて空を滑っていった


舞姫・第一部―その2―

時間と場所と出来事の同時生起
これらの石は
ある時間のある場所のある出来事である
それらの間にある
砂の波によって描かれた距離は
時間ではない時間であり
場所ではない場所であり
出来事ではない出来事である
それらの石である
ある時間のある場所のある出来事は
時間ではない時間と
場所ではない場所と
出来事ではない出来事である
砂の波によって結びつけられているのである
しかし
見方をかえれば
砂の波である
時間ではない時間を
場所ではない場所を
出来事ではない出来事を
ある時間のある場所のある出来事である
それらの石が結びつけているとも言えるのである
いずれにせよ
結びつけるものがあり結びつけられるものがあるということである
あるいは結びつけると同時に結びつけられているとも言っていいわけだが
ところで一方
見方をかえることのできるような主体はいったいどこにあるのだろうか
それらの石である
ある時間のある場所のある出来事のなかにだろうか
それとも
砂の波である
時間ではない時間であり
場所ではない場所であり
出来事ではない出来事のなかにだろうか
なかにと言ったが
時間も場所も出来事も容器ではない
むしろ
容器の中身である
いや
容器でありかつ容器の中身である
袋のなかにいて
袋を観察できるわけがない
主体は
ある時間のある場所のある出来事のなかにはないであろう
では
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事のなかにであろうか
主体また結びつけるものであると同時に結びつけられるものなのだろうか
砂の波
つかの間の輪郭
つかの間の形
いや
砂の波ではない
そうだ
石の外
つねに石の外から眺めているのだ
いくつかの石があり
そのいくつかの石の外から眺めているのだ
しかし
砂の波のなかにではない
砂の波が足元に打ち寄せはするが
砂の波のなかにではない
ひとつの石に寄りかかり
眺めているのだ
いや
いくつかの石に同時に寄りかかりながら眺めているのだ
主体がひとつであるとは言えないではないか
存在確率のようにぼんやりとした影のようなもので
同時にいくつかの石に寄りかかっているかもしれないのである
彼女の第一触手をいじりながら
わたしはこういった話をしていた
竜安寺の石庭には
リゲル星人のカップルが
わたしたちと同じように
腰を下ろして話をしていたのだけれど
彼女のほうに
カップルたちの第一触手が振られると
彼女は第一触手をわたしの手のなからすっと抜いて
彼らのほうに挨拶し返した
わたしはその挨拶が済むまでしばらくの間
目をつむって
さきほど彼女に話していた事柄を思い出していた
わたしという主体は
時間そのものでもなく
場所そのものでもなく
出来事そのものでもない
というのは
時間そのもの
場所そのもの
出来事そのもの
といったものがないからであり
時間と場所と出来事が同時生起するものであるからであるが
それを
主体は
ある時間と
ある場所と
ある出来事と
まるで別々のものであるかのように意識するからであるが
その意識する主体というもの自体が
それらのある時間でありある場所でありある出来事と
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事によって
刹那に形成される
つかの間の存在であるというふうに捉えると
いったいわたしとは何であるのか
わたしは何からできているのか
何がわたしになるのか
どこからわたしになるのか
わたしには考え及ばないものに思えてしまうのであった
いや
そもそもわたしが考え及ぶようなところには
わたしはないであろう
わたしが考え及ぶことのできるわたしは
けっしてわたしではないであろう
彼女のまぶたから小人たちが下りてきた
カップルたちのまぶたからも小人たちがおりてきた
何十人もの小人たちが
石庭でダンスを踊っていた
彼女の小人たちの踊りは見事だった
やはり彼女は見事な踊り子だった
彼女の小人たちの踊りは
カップルたちの小人たちの踊りとは
比べ物にならないくらい見事なものであった
彼女が第一触手を石庭におろすと
彼女の小人たちがするするとよじ登って
彼女のまぶたの上にもどっていった
カップルたちもまた石庭に第一触手をおろした
わたしは彼女の第一触手をとって立ち上がって
カップルたちにお辞儀をすると
砂の波の上に残った
小人たちの足跡に目をやった
砂の波はもとの形を崩していたが
それもまた美しい波の形を描いていたのだ
わたしは今晩また
眠る前に考えることができるぞと思って
彼女の第一触手を軽く引っ張った
彼女のまぶたの上で
小人たちがバタバタと
楽しそうに足をちらつかせていた


舞姫・第一部―その3―

母は
わたしたちに気遣って
夜食を付き合ってくれたのだが
やはり彼女に伝わってしまった
彼女があとで
わたしにこう言ったのだ
お母さまは
わたしが来たことを迷惑に思ってらっしゃるのではないですか

わたしは
布団のなかで
母の言動を思い出していた
リゲル星での彼女の暮らし
彼女の家族の話
すべてがリゲル星を思い出させようとするものだった
彼女のまぶたの上から小人たちが下りてきた
彼女は眠ってしまったのだろう
小人たちがわたしの耳元で踊りを踊りはじめた
少しのあいだもじっとしていない小人たちだった
リゲル星での彼女との同棲で
小人たちの浮かれ騒ぎの声には慣れていたのだけれど
久しぶりのことだったので
なかなか寝つけなかった
しかし
昼間に寄った竜安寺の石庭でのことを思い起こして
考えることができた
この小人たちが
あの砂の波の形をかえていたこと
波の形がかわると
石の印象も違って見えた
見えたような気がする
ちらっとだが

そうだ
意識の下
潜在意識の部分で
わたしは他者とつながっている
砂の波
波に足を浸らせている
じかに触れているとも言えよう
他者に触れているのだ
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事
ああ
もう少しで届きそうだ
そうだ
時間や場所や出来事が析出するのだ
析出したものが時間や場所や出来事なのだ
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事を
砂の波にたとえたのは
わたしの直感のなせるものであった
時間ではない時間も
場所ではない場所も
出来事ではない出来事も
時間であり場所であり出来事でもあるものと
まったく同じものからできているのだ
同じものでありながら
同じ溶液でありながら
その溶液中に
濃度に違いがあり
その濃度のとても濃い部分が
まるで結晶を析出させるかのように
析出させているもの
それが時間であり場所であり出来事なのである
違うだろうか
何かがきっかけになり
意識が働くのも
過飽和溶液に衝撃を与えると
たちまち結晶が析出するようなものだ
あるいは
ごくわずかの量の不純物か
不純物
偽の記憶
偽の体験
似ているが同じものではないもの
他者の体験
他者の体験の記録

文学
芸術
音楽
美術
ふだんの生活
わたしはあの石庭を宇宙に喩えることはしなかった
わたしは宇宙を外から眺めやることができないと思っていたからである
またあの石庭を宇宙に喩えて
それを把握する脳というものと相似しているとも言わなかった
あの石は
あの砂の波は
脳にも喩えられる形状をしていたのだけれど
では
わたしが
時間と場所と出来事に喩えたのは?
時間ではない時間と場所ではない場所と出来事ではない出来事に喩えたのは?
わたしの直感だろうけれど
それらに喩えた理由を思いつく前に眠りが訪れた
もう少しで届くような気がしたのだが
しかし
そのもう少しというのが
とてつもなく長い時間であることもわかっていたのである
けっして辿り着くことなどできないような


舞姫・第一部―その4―

きょうは切腹を見に行く予定だけれど
きみはもちろんはじめて見ることになるのだけど
きのう寝るまえに話していたように
今朝は食事をしないで出かけるからね
これは日本の伝統なんだよ
切腹
きょう切腹するのは賄賂を受け取った役人でね
役人は特権階級の者しかなれないのだけれど
それだけにね
それだけよけいに罪が重いんだ
残酷だって?
いや
痛みはないんだよ
痛みは除去している
薬でね
でもまあ相当の勇気はいるだろうね
こころにも慣性のようなものがあって
自分の腹を切るなんて考えただけで
痛みに似た感覚が生じたような気になるんじゃないかな
錯覚でもやっぱり感覚が混乱して
何もないかのように自分の腹を切るなんてことはできないだろうからね
ぼくはもう何度も見てるけれど
自ら腹を切るという行為にはつねに惹きつけられるね
まあ
そのあとの斬首という決定的な見せ場があるのだけれど
ぼくには切腹のほうが強烈な印象があってね
なにか哲学的な意味をそこに付与したくなってしまうんだけれどね
いつも中途半端な考察しかしてこなかったよ
きょうはきみといっしょにつぶさに見て
それに何が見出せるか
考えてみたいと思う
きみといっしょに眺めるということで
違った見方ができるかもしれないしね
異星人にも公開しているのは
日本伝統が素晴らしいものであることをアピールしているのだろうけれど
ちゃんと恥を知っている文化を有しているということでね
自ら汚名をそそぐという行為を
日本人がしているということを知ってもらうということなのだろうけどね
さあ
もう出かけようか
ほら
ロボット・タクシーが到着したよ
お母さん
行ってきますね
夕食は軽いものをお願いしますよ


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その1

内臓を愛する
わたしを愛しているのなら
わたしの臓器も愛してくれるかしら
という記述を思い出すシーンを入れる
サルトルだったかデュラスだったか
できたらノートを調べておく
調べても見つからなかったときは
サルトルかデュラスの言葉だったことを明記する

内臓器官=思考の表出結果である言語
これは音声である場合と記述されたものである場合とあるが いずれにせよ
切腹によって露出された臓器との比較をすること
体内に収まっている臓器
思考になる前のものとの違いを考察
しかし露出された臓器で
思考について考察すること
物質と精神
アナロギーが成立するかどうか
しない場合についての考慮も必要
しかし
同時に列記することにより
アナロギー的なものが生じる可能性については放棄してはならない
必ず書くこと
臓器と表出された思考のアナロギー(的なもの)
血がなにか
切腹と言う行為がなにか
切腹を強要する文化について
それが文化的強要との類似性について必ず言及すること
体内の臓器の成長と老化と
言語の履歴と
文化の連続性について比較すること
血まみれの臓器と
言語の履歴の比較
美しく
また哲学的に書くこと
哲学をすること


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その2

内臓
臓腑の配置
石庭が真っ赤に染まる
石が心臓に
肺に
腸に
胃になる
砂の波が血管となって脈打つ
ばら撒かれた内臓には
もとの秩序だった内臓配置がない
血で真っ赤に染まった石庭
巨大な臓器でできた石と
血管でできた砂の波
書かれた思考が
言語によって成立するというのならば
これらの内臓の庭は
それだけで完全である
しかし
血液は
常に新鮮な酸素を必要とする
命を保つためには新鮮な空気を必要とする
書かれた思考も
言語によって成立しているのだが
言語はつねに言語ではないものによって
言語となっている部分を支えられている
言語は辞書のなかの意味だけでできているのではないからだ
これは観察者が変わると物理条件が変わる素粒子物理学の話に近い
読む者によって言語はさまざまな意味概念をもつのだから
百万の読者がいると
百万以上の解釈が生じる
似通ったものはあるだろうけれど
同じものは一つとしてないのだ
ほとんどの人間が同じ名称の内臓組織を持っているのに
ひとつとして同じ内臓がないように
血まみれの石庭
目をつむると見えた
これ
あるいは
これに近い言葉ではじめること
だめだな
ひとまばたき
それで
切腹のシーンから
石庭に切り替わったことを示す言葉ではじめるべき
目をつむってはダメ
内臓でできた石庭を
しっかり目に見ている必要がある
小人たちが
刀の先で踊るシーンも入れること
笑いで終わるべき


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その3

石庭の石
それらひとつひとつの内臓が時間と場所と出来事であり
それらの内臓すべてに流れる血を
砂の波である血管を
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事に喩える
ひとつひとつの内臓を言葉に
血と血管を
言葉ではない言葉に喩えること
刀の先で踊る小人
笑いで終わること


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その4

腹を切る 内臓がこぼれ出てくる
自分の内臓を見る役人
石に寄りかかりながら
石庭のなかを見渡す
見渡すことはできるが
自分の姿はけっして見えない
ただ
他の石に寄りかかっている自分の残像を
目にすることはできる
言葉を見る
言葉は思考そのものではない
思考のいくばくかを拾い上げてはいるが
すべてではない
腹を切る
内臓を見る


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その5

石庭の石
ひとつひとつが
異なる時間と場所と出来事を表わしているのと同様に
臓器のひとつひとつもまったく異なるものではあるが
それが一体となって人間の臓腑を形成している
砂の波が石と石を結びつけているのと同様に
臓器と臓器も結びついている
ひとつひとつの臓器が異なる機能を持つように
ひとつひとつの石も異なる精神作用を自我に及ぼすのであろう
ひとつひとつの言葉が自我に精神作用を及ぼすように
しかし
臓器同士の結びつきとは別に
すべての臓器に結びついているもの
すべての臓器を結びつけているものがある
血管だ
血だ
血管も血も臓器のひとつと見なすこともできるが
結晶が析出した濃厚な溶液における溶媒にも喩えることができる


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その6

心臓に相当する時間と場所と出来事
肺臓に相当する時間と場所と出来事
胃に相当する時間と場所と出来事
腸に相当する時間と場所と出来事
腎臓に相当する時間と場所と出来事
では
血管は
血は
時間ではない時間なのか
場所ではない場所なのか
出来事ではない出来事なのか
臓腑でできた血まみれの竜安寺の石庭が
もとの白い石と
砂の波にもどる
では骨は?
皮膚は?
いったい竜安寺の石庭のどこに骨があるのか?
どこに皮膚があるのか?
骨は石庭の何なのか?
皮膚は石庭の何なのか?
言葉の骨と皮膚
言葉の臓腑と血
小人たちが
斬首された役人の首の前を走る
「無礼者!」
小人たちは刀の先で踊る
首を切り落とした者の一括に
みながかたまる
刀が小人たちの身体をかすめる
小人たちは美しい弧を描きながら
彼女のまぶたの上に舞いもどる
「見事じゃ!」
会場が笑いに包まれる
時間ではない時間
場所ではない場所
出来事ではない出来事


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その7

それぞれの臓器が
救われる時間を場所を出来事を求めていた

それぞれの臓器が
告白する時間を場所を出来事を待っていた

小人たちが
観客たちの声援に応えて
ふたたび血まみれの壇上で
放屁のダンスを繰りひろげた


舞姫・第一部―その5―のための覚書 その8

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ

おならがとまらない

小人たちの放屁のダンス

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ

おならがとまらない

むごい人生もおならにして

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ

プペペポプペペペピ
プペペプピプペ
プププペプピ


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その1

庭先に下ろした第一触手に
蟻が這い登る感触を思い出して楽しんでいる宇宙人

ドイツ語には現在形はあっても現在進行形がない
また過去形がなく現在完了形で過去を表わす

リゲル星人の言語には動詞は現在形しかない
しかも語形変化しないのだ
前後の文脈と、副詞に相当する語によって
時制が決まるのである

彼女は第一触手に
蟻が這い登る感触を思い出して楽しんでいる

その感触は、人間が思い出して味わう記憶の快楽と異なっている
まったくといってよいほどほとんど、
そのときの感触と同じ感触を再生させているのである

動詞に現在形しかないことと関連しているという分析がなされているが
リゲル星人の生理機能そのものにまだ謎が多く
リゲル星人はその情報をいっさい地球人には教えていない
地球人側は先に地球人側のデータを渡してしまっている

第二次世界大戦で地球は日本・ドイツ・イタリアの枢軸国側が勝利している
南北に分断されているアメリカが統一化を望んでいる
統一されたあと、一気に枢軸国側から離れて独立しようという運動が盛んである

第一触手の先から出る緑の液体
それを口にして、精神感応する青年
ほとんど同化している
青年の高い精神感応能力


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その2

隠喩の石庭がさまざまな場所に現われる
隠喩の石庭がしきりに語りかけてくるのだ
石庭の岩の一つ一つが他のすべての岩を内に秘めているのだ
一つ一つの岩が自分以外の岩すべてを内に蔵しているのだ
ときに、ぼくは砂利となり、波となって岩に打ち寄せる
岩の肌に触れる
石庭の岩は、ぼくの思考を岩と砂利でいっぱいにする
岩の影が砂利の上に貼り付いている
それをこころの目がはがしてみる
いっさいの影のない石庭が展開する

「あの猫は自殺したのよ」
「母さん、猫が自殺などするわけがありませんよ」
「わたしは見たのよ。猫が自分から走っている車の前に跳び込むところを」
「そう見えただけですよ」


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その3

鳥の散水機

鳥である散水機

鳥であった散水機

鳥であろう散水機

鳥の散水機の電気技師

鳥であり散水機である電気技師

鳥であって散水機であった電気技師

鳥であろう散水機であろう電気技師

鳥の散水機の電気技師の植木鉢

鳥であり散水機であり電気技師である植木鉢

鳥であって散水機であって電気技師であった植木鉢

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピン

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢であるネクタイピン

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であったネクタイピン

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピン

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑み

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンである微笑み

鳥であった散水機であった電気技師であった植木鉢であったネクタイピン出会った微笑み

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑み

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーター

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みであるエスカレーター

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであったエスカレーター

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーター

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みでありエスカレーターである瞑想

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであってエスカレーターであった瞑想

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーターであろう瞑想

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みでありエスカレーターであり瞑想である溜まり水

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであってエスカレーターであって瞑想であった溜まり水

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーターであろう瞑想であろう溜まり水

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水の肘掛け椅子

鳥であり散水機であり電気技師であり植木鉢でありネクタイピンであり微笑みでありエスカレーターであり瞑想であり溜まり水である肘掛け椅子

鳥であって散水機であって電気技師であって植木鉢であってネクタイピンであって微笑みであってエスカレーターであって瞑想であって溜まり水であった肘掛け椅子

鳥であろう散水機であろう電気技師であろう植木鉢であろうネクタイピンであろう微笑みであろうエスカレーターであろう瞑想であろう溜まり水であろう肘掛け椅子

リゲル星人の言葉では「の」で名詞をつなぐと、
このように3つの時制のこのような文脈で解されるのがふつうであるが、
最後の名詞を強調するために、前置きに名詞を羅列する場合もあって
その意味を解する場合には、状況をよく見極めなければならない

たとえば、場合によって、最後の

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水の肘掛け椅子

は、つぎのような意味になる

鳥でもなく散水機でもなく電気技師でもなく植木鉢でもなくネクタイピンでもなく微笑みでもなくエスカレーターでもなく瞑想でもなく溜まり水でもない肘掛け椅子

鳥でもなく散水機でもなく電気技師でもなく植木鉢でもなくネクタイピンでもなく微笑みでもなくエスカレーターでもなく瞑想でもなく溜まり水でもなかった肘掛け椅子

鳥でもないであろう散水機でもないであろう電気技師でもないであろう植木鉢でもないであろうネクタイピンでもないであろう微笑みでもないであろうエスカレーターでもないであろう瞑想でもないであろう溜まり水でもないであろう肘掛け椅子

それでも、やはり時制は3つなのだ
リゲルの言葉に進行形はない
この3つの時制のなかに進行形の文意が含まれている


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その4

映画館
公衆トイレ
タクシー
岸壁
蜘蛛

金魚
エビ
日時計
哲学者
収集癖
涙声

岸壁
回想録
料理
飼育係


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その5

舞姫のリゲル星人の感覚:同時に複数の時間
群生生物であり、常に他のリゲル星人の個体の状況を把握
それがリゲル星人の言葉の成り立ちと関係していることを示唆
            
The Gates of Delirium。に出てくる、
月の裏側の宇宙船の遺留品に見せかけたドラッグは
じつはリゲル星人が地球人の精神感応能力を高めて
自分たちとコンタクトさせるためのものであったこと
これを書き込むこと。

舞姫に出てくる詩人である主人公の青年を
The Gates of Delirium。の詩人と重なるように書くこと

ただし、『舞姫』では、ゲイであるようには書かないこと
しかし、もっとも、The Gates of Delirium。においても
詩人がゲイであることを示す描写はもともと少なかった
『舞姫』で主人公の詩人と、リゲル星人の彼女との
性的な描写は、彼女の第一触手の先から滲み出る緑の体液を
口にしたときに、彼女と精神的に同化する場面をエロティックに
ことさら熱情的に変態的に異常に描くこと

精神的に同化すること
それがある程度の量のドラッグを
摂取した結果であり、その効果が恒久的なものであること
また、ある程度のドラッグを摂取したあとは
一度、脳がそうした感覚にさらされると
そのような状況にいつでもなること
それゆえ、主人公の詩人がつねに幻視のヴィジョンに
さらされ、同時に複数の時間と場所と出来事のなかに
いることを示唆しておくこと

母親の狂気の発病

鳥の猿の猫の散水機の電気技師の哲学者の映画館のハンドクリームの写真のトマトの公衆トイレの飼育係の岸壁の角砂糖の書籍のエビの金魚の海草の日時計の涙声のカメラのタクシーの船の飛行機の収集癖のハンカチの溜まり水のバナナの木の蜘蛛の料理の煙の視線の洗濯機の回想録


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その6

母親の前で、主人公の青年がリゲル星人の言葉について述べている

母親の狂気のはじまり

母親がつぶやく言葉として

つぎの言葉を挿入(思いついたら、順次追加すること)

小鳥の映画館の薬莢の古新聞の電信柱の蜜蜂の肘掛け椅子のビニールの牛の藁屑の理髪店の新幹線のレモンの俯瞰の花粉の電気椅子の雲のいまここのいつかどこかのかつてそこの自我の麦畑の船舶のカンガルーのハンカチの襞の草の等級の新約聖書の自明の連続のオフィーリアの多弁の乾電池の朝食の時計のトランプの絆創膏のバインダー・ノートの孔子の老子の荘子の散文の韻文の衣装のルーズ・リーフのコンセントの歌留多の帽子の絵空事の杜甫の陶淵明の描写の退屈の旧約聖書の情念の壁の表現のタイルのタオルの葱の小松菜の逐電のレコードのハミガキチューブの古典の技巧の細胞の組織の飛び領土の直線の亡霊の故郷の世界のコーランの原始仏典のチャートの汗の株式相場の計算用紙の意味の構造の漢字の経験の翻訳の瞬間の全体の官能の食料品店の心臓病の収集の薬玉の土曜日の寝台の手袋の顔の曲がり角の森羅万象の金魚の石榴の自転車の蝙蝠の幸福の鉄亜鈴の約束の珊瑚の嵐のつぐみの左手の教理問答の彫像のゼニ苔のウミガメの無関心の修練の献血の飛行機のつぼみの砂肝の道標の犯罪者の群青の異端者のチョコレートの意識の知覚の因果関係の非能率の膝頭の壺の光の風景の事物の言葉の音の葉脈の噴水の羽毛の噴水の間違いの存続の鼓動の樹冠の犬の亀裂の娯楽の技法の臨界の砂浜の蚊柱の鍵束の呼吸の神話の紙やすりの継母の自然の奢侈の経路の埃の食虫植物のヨットレースの舌打ちの撫子の洗面台の受話器の周期の背中の万葉集の釘抜きの微笑みの悲しみの平仮名の山脈の軍需工場の贓物占いのスパンコールの麻痺の渦巻きの赤錆のハンバート・ハンバートの考察のジュリアン・ソレルのスポーツ観戦のドン・ジョバンニの俳句の勢子のDNAの砂糖菓子の証言の肉体のコマの胡麻の素朴の軋轢の単位の美の事情の技術の不穏の明晰のヒキガエルの知識の木炭の発音の魂の太平記の嘘の散文の真実の異議の働きの輸入品の人生の物語の現実の井戸の存在の舞踏家の無為の沈黙の殖産興業の小太鼓の違反者の抑揚のカインの営みのアベルの形容詞の通年の活版印刷のミンチカツ・ハンバーガーの猿の微振動の猫の霞の圧迫の雨の回転運動のマルガレーテの対称移動のジュリエットの杖のハムレットの翼のリア王のショッピングモールの芭蕉のファウストのアーサー王の神のコーヒーのクーラーの破局の悶えのカメラの糊のポールのジョンのジョージのリンゴの黒人の白人の哲学の季節の偏見の創造の黄色人種の骸骨のピンクの仮定の青の紫の向日葵のニガヨモギの裸電球の暁のクエン酸の馬頭星雲の薄暮の朝日の真夜中の正午の文庫本の図鑑の辞書の感情のボール箱の物証の治療のダイダロスの歯ブラシの比喩のエンジンのタオルの事典の韻律の休暇の雑誌の孤独の

「ぼくは、きみが、ものすごくグロテスクだから好きなんだ」
「ぼくは、グロテスクなものを、とてつもなく深く愛しているんだ」
「あ、きみが、こんなにもグロテスクだから、ぼくには魅力的なんだ」
「ぼくたちの幼いセックス」

ぼくのなかの貪欲者が目を醒ました

石庭には
蟻以外にも、見知らぬものが数多く潜んでいるのだ

「なぜ切腹という儀式があるの?」
「あ、くわしくはわからない。だけど、ぼくたち人間の意識というのは
何か思いがけないこと、
日常に行なわれていることのほかに行なわれることを通じて
目覚めさせられる必要があるのだよ
つまり、非日常的な出来事を目の当たりにすることでショックを受けて
不活性化させられている精神のところどころを
活性化させる必要があるのだよ
おそらく、それじゃないかな。
そのショックというのが、日常の生活でうずもれていってしまう感覚を
よみがえらせて、ぼくたちをしゃきっとさせるのだと思う
注意力を与えるというか
日常のさまざまなものに意識を向けてやることができる
そんな能力を培うんじゃないかな
切腹なんてものがあること自体が、ぼくたち人間のあいだでも
ずいぶんと衝撃を与えるものだったんだよ
いわんや、それを目の前で見るとなると、ずいぶんとショックなんじゃないかな
はじめて見る人間にはね
教養のある人間のなかにも切腹なんてナンセンスだという者がいるけど
切腹があるおかげで、身分の高低が維持されているのだと思うよ
役人階級って、むかしの武士階級でね
庶民に切腹は許されていないからね」


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その7

母親の発狂の言葉に追加

叫びの螺旋の出来物の表面の剃刀の括約筋の潰瘍の内部の露台の鱗の声のモザイクの交接の繊毛の接触の屏風の喉の階段のイメージの現実の波の肉体の焦点の麻薬の足音の旋回の儀式の背骨のゲップの名残のジャイロスコープの出産の弾丸の迷信の凧の深淵の排泄の漆黒の禿の勝利の偏光のクラゲの恥辱の弾丸の象牙の皮膚の響きの切り株の人混みの廃墟の高木の茂みの鈴の模様の繁殖の移植の抱擁の恍惚の布地の汚染の睦言の大衆の蔓の火打ち石の海鳴りの緊張の気泡の道の根の演技の橇の憂鬱の記録の噴水の壁掛けの緊張の眉毛の習慣の屈折の桟橋の平面の棍棒の瘡蓋の乳房の眉毛の真珠の刷毛の挨拶の信頼の解説の休息の襲撃の陰毛の物語の誤解の躊躇いの雑草の炎の物腰の強さの弱さの根の結晶の魂の寄生虫の万華鏡の曖昧の覇者の

彼女はぼくの魂のなかの岩に語りかけてきた
砂利の波がうごめいている
ぼくの魂のなかの岩が波の形を見つめている
岩からしみ出たぼくが
その岩に寄りかかりながら
その岩の視点で
波の形を見つめている
ぼくのゴーストだ
彼女の魂が砂の波を激しく波立たせていた

岩も砂利もあらかじめ存在していた
ゴーストのぼくの視線と
彼女の砂利を動かす力は
それらが存在するからこそ現われるものなのではないか
あるいは
ぼくの魂の目と
彼女の魂の働きが
ぼくの魂のなかの岩と砂利を存在させているのかもしれない
二人の魂が
いまこの瞬間の時間であり場所であり出来事である魂の石庭を形成しているのか
いまこの瞬間の時間であり場所であり出来事である魂の石庭が
二人の魂を形成しているのか


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その8

じっさいには鳴ってもいない音楽を
頭のなかであたかも再生しているかのごとく
聴いているように感じることがあるが
この音楽というものはそもそも自然に存在するものではない
人間がつくりだしたものだ
言葉もそうだ
そして自然に存在するものも
人間はそれぞれの事物や事象に言葉を与えて呼んでいる
まだ言葉を与えていない事物や事象もあるが
そのうちそれらにもいずれ言葉が与えられるだろう
なかなか言葉が与えられない事物や事象があるかもしれないが
おそらくそれらは未知なる事物や事象であろうが
存在が確認されれば
いずれそれらにも言葉が与えられるであろう
存在が確認されても
いつまでも言葉が与えられない事物や事象もあるかもしれないが
それらはいつまでも言葉が与えられないほうが文脈形成上
都合がいいときであろう
それについては別のところで考察することにする
ふだんの意識のなかでは
異なる個々の事物や事象に同じ言葉を与えて
文脈を形成し意味内容を捉えるのであるが
言葉を与えた対象について考えてみると
与えられた言葉を精神が認識したとたん
それは現実の事物や事象と異なるものとなるのである
もちろん言葉は個々の事物や事象と一対一で対応しているものではなくて
一対多または多対多のあくまでもシンボルや象徴としての対応をしているのであって
そうした言葉によって
言葉と事物や事象との関わり合い方によって
人間は精神活動をし、認識をしているのである
したがって人間の意識や精神は人間がつくりだしたものでできているのだとも言える
わたしたちがつくるもの
わたしたちから生まれたものが
またわたしたちをつくる
わたしたちを生むというわけである

導線に電流が流れると磁界が生じるように
何か概念想起のきっかけになるものがあると
ほとんどその瞬間に自我が生じるのではないだろうか
導線の向きが変われば磁界の向きも変わる
同じ導線でも流れる電流の多少で磁界の強さが変わる

これはいつもぼくがつまずくところだ
概念を想起させるものが外界からなんらかの情報の形で入ってきてから
概念を形成する自我が生じるのか
それらの概念を想起させる自我があらかじめ精神領域に存在していたのか

磁石の一方の極を鉄の針にこすり付けると
その針が磁力または磁気を帯びるが
このことは潜在自我の存在を示唆している

自我は概念と概念を結びつける働きをするものという
ヴァレリー的なモデルで考えている
おもに思考傾向をつかさどるものとして
ぼくは考えているのだが
より詳細な考察は The Wasteless Land.IIで書いたのだが
この延長上に
あの切腹について考えてみた

リゲル星では個人の罪という概念が
地球人のいうところのものと著しく異なっている
日本人のものというだけじゃない
これは二重の意味で著しく異なっているのである

第一に、リゲル星人のいうところの個人と
地球人の個人とでは意味内容が異なる

第二に、リゲル星人には
罪を個人のものとする習慣がないのである

リゲル星人は、責任を個人に帰することがないのである

なぜなら、彼もしくは彼女をつくるのが彼もしくは彼女本人だけではなくて
彼や彼女をとりまくさまざまな状況が彼や彼女をつくりだしたのであるから
責任を個人に帰することには合理性がない、という考え方である

これは一部の地球人には受け入れられる考え方であるが
日本やドイツやイタリアおよび第二次世界大戦後
日本やドイツやイタリアによって占領された多くの国々では
受け入れない考え方である、少なくとも法律的には

(コードウェイナー・スミスの『シェイヨルという名の星』に
 個人が重い罪を犯した場合、その個人の記憶を消去して
 ふたたび社会に復帰させるという制度が出てくる。)


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その9

ぼくの『舞姫』の設定では
日本が第二次世界大戦で勝っているし
切腹の儀式も残っているし
三島由紀夫が憂いを感じる必要のない社会であるので
三島由紀夫は自殺せず
ノーベル文学賞を受賞しているという設定にするつもり
三島由紀夫を作品中の登場人物にするかどうかは
まだわからないけれど
登場人物として三島由紀夫を挿入するのは
それほど難しいことではないかもしれない

三島由紀夫の言葉を引用するさいに
三島由紀夫が生きていて
ノーベル賞を受賞したことに言及してもいいのだし
切腹といえば
やはり三島由紀夫の名前を出したい

それはやはり
ある時間の場所の出来事の反響だ

不活性な状態から活性化された状態への遷移

石庭の岩のひとつが星を夜空に吐き出した
すると、他の岩たちもつぎつぎと星を吐き出していった
夜空は、岩が吐き出した星たちでいっぱいになった
砂の波に月の光が反射してきらきら輝いている
岩端も月の光が反射して輝いている
すべてが調和した夜の石庭
誰ひとりの観察者の視線もない石庭


舞姫―その6―のための覚書 その10

夜空に突然巨大な手が現われて
星々を払いのけ
最後に月をむしりとると
真の暗闇が石庭に訪れる

リゲル星人は2種類の伝達手段を持っている
1つは近くにいる個体間で連絡し合うもの
もう1つはどんなに離れた個体間でも瞬時に連絡し合えるもの

主人公は自分の声を
舞姫の声にしている
舞姫の発するリゲル語を
こなれた日本語にする翻訳機械は
まだ開発されておらず
主人公の詩人の青年が耳にするのは
あくまでもリゲル語の直訳である
舞姫の声を自分の声で聞くこと
それは主人公の美学であり
母親が発狂する要因の1つともなっている

舞姫―その5―で
「お見事!」と声をかけるのを三島由紀夫にすればよい。
そのシーンでノーベル文学賞受賞作家の三島由紀夫のことを書くことができる
受賞作品は「豊穣の海」

舞姫・第一部は母親の発狂のシーンと
アメリカの過激派がリゲル星人を人質に
アメリカの独立を主張する事件が勃発し
そのニュースを主人公が知るところで終わる


舞姫・第一部―その6―のための覚書 その11

母親の発狂するときの言葉に追加

タクシーの騒動の鶏の胃の腸の肺の歓喜の音階の神秘の感触の一枚の溝の隠喩の霧の伸縮自在の追跡の恋歌の波紋の潅木の鳴子の象徴の人間の爆発の楔形文字の饗宴の旋律の木造のトマトケチャップの福音の隣人の頭蓋のマヨネーズの手術の霊感の悲劇の定期券の寝室の読み物のオーバーヒートの性的倒錯の頌歌の凸凹の司祭の蹄鉄の溺死の瞳の狼狽の非在の歓楽街の親指の精神安定剤の地雷の空集合の枯れ枝の跳躍の共鳴の消滅の象形文字の有刺鉄線の存在様式の境界の騙し合いの切符の跳躍の湿疹の手榴弾の田園交響曲の警察の驚愕の手紙の片隅の無人の胸部の思春期の急流の未遂の図書館の地平線の群集の無意識の自動皿洗い機の運動靴の周辺の臍の観覧車の憂いの銀紙のバス停の花壇の白旗のこめかみの頂点の吊革の吸い取り紙の懺悔の踏み越し段の籠の頬の妄想の


舞姫・第二部―その1―のための覚書

bees と wasps
wasp、は警察が放つスズメバチ型の監視カメラのこと
bee、はアメリカのテロ集団の用いるミツバチ型の情報収集カメラのこと

テロ組織がリゲル星人を捕らえる場所をどこにするか
テロ組織のメンバーの実行構成員を何人にするか
白人男性1人・白人女性1人・黒人男性1人・日本人男性1人の4人+α
その日本人の名前を「フクイ・エイジ」にすること

リゲル星人が人質になって、しばらくして、
リゲル星人の大使から日本政府に連絡が入る
大使による、リゲル星人には危害が加えられる可能性がまったくないことの説明
小人たちがリゲル星人の本体から離れると、その距離の二乗に反比例して
本体のこの世界の時空における存在する確率密度が減少するために
複数の可能世界の時空の扉が開き、
実質的にリゲル星人の本体は小人の身体とともに
不可侵の存在になるため(この世界での完全な現実存在ではなくなるということ)
このことを日本政府の首相・小泉純一郎に伝えてくる
小泉首相は、将軍をはじめ軍の主だったものたちとと宮内庁に緊急連絡し
即刻事態を収拾させるよう将軍に命じる
犯人の一人が小人を捕らえようとするが
手のなかに入ったと思った瞬間に、小人は手のなかをするりとくぐり抜け
手の甲から滑り降りる
小人はある一定の距離の範囲でリゲル星人とのあいだに距離を置いている
リゲル星人も、小人たちも、身体がすこし透けて見える
ダブル・ヴィジョンで見える
これらの事件を主人公がテレビを見て知るのだが
テレビを見て知るシーンを冒頭に持ってきて
前述の事柄をあとで書いていく方法をとると面白いかもしれない
また、何かの記念行事でテレビが入っている会場で
この事件が起こったことにするとよいかもしれない
第一部の切腹の会場がいいかもしれない
第一部で三島由紀夫が声を小人たちに声をかけて
会場が沸くが、そのあとすぐに事件が起こったほうがいいかもしれない
テロ組織の名前をアメリカ独立戦線ということにしようか

岩といえば、誰々の何々を思い出す
石といえば、誰々の何々を思い出す
砂といえば、誰々の何々を思い出す
岩といえば、何々を
石といえば、何々を
砂といえば、何々を

主人公の青年に
犯人たちが通訳をしろというのもいい
人質は舞姫だということにするとさらによいかも


舞姫・第二部―その2―のための覚書

事件が解決し
リゲル星人の正体についての論議が沸騰するなか
舞姫は一時、大使館に保護される
舞姫と一時的に別れた主人公の詩人が、葵公園で、
「田中宏輔」という青年と再会する
青年は詩人が死んだものと思っていた
霊魂図書館で、詩人の死体を捜したことを告げる
詩人がドクターからもらった薬を青年に手渡す
何度目かの精神融合のこころみ(「The Gates of Delirium。」と重複)
主人公の母親が発狂
母親の死
人葬所(ひとはふりど)で、母親の骨を見て、主人公が人生の無常について考察
舞姫が主人公の詩人のところに舞い戻る
舞姫に、リゲル星人の正体を詰問する主人公
黙する舞姫


舞姫・第二部―その3―のための覚書

葵公園で公家の青年が月の光のもとで
刀を振り回して舞を舞っている
真っ裸のパフォーマーが河川敷と道路のあいだを
繰り返し何度も往復する
公衆トイレのなかから人間犬が現われる
配管工の青年が「田中宏輔」に初体験を語っている
キッズたちがドクターを襲って薬を手に入れる
「田中宏輔」がドクターを水のなかから引き上げる
ドクターが脳障害を起こして薬について話をする
リゲル星人によってもたらされた薬であるらしいことを知る
公園のなかで凍結地雷によって何人もの被害者が出る
葵公園が特別な地域であったことがドクターによって教えられる
「田中宏輔」は、詩人が事情を知っていたのかどうか詩人に尋ねようと決心する


舞姫・第二部―その4―のための覚書

凍結した人間犬の死体がばらばらになって地面の上に落ちる
凍結したキッズの身体がばらばらになって地面の上に落ちる
凍結した裸のパフォーマーたちの身体がばらばらになって地面の上に落ちる
詩人が現われる
ドクターといっしょの「田中宏輔」と出会う
ドクターの意識が戻っている

警察が来る
ドクターが知っている限りの真相を、詩人と「田中宏輔」に話す
警察の尋問がそこかしこで繰り拡げられる
血まみれの肉片を見て詩人が石庭のヴィジョンを見る
ヴィジョンが、葵公園自体の持つ現実世界の扉を解放して
複数の可能世界の扉を開く
視点がゴーストとなる
ゴーストが複数の可能世界を現実世界の扉の入り口で結び合わせたりどいたりする
二つの月が空にかかっていて
詩人が「田中宏輔」とともに詩人の加茂川を流れてくる死体を見る
橋の上にいる別の可能世界の詩人が川を流れる詩人と
それを眺める詩人と「田中宏輔」を見る
空にかかる月が二つから三つになり
やがて、そのうちの一つが砕け散る
空が真昼のような明るさを放ったその瞬間に
千億の目が草むらのなかで目をさまし
千億の耳が樹木のあいだで耳を澄ます
やがて無数のゴーストとなった同一の魂は
千億の鼻をもって河川敷の空中を嗅ぎまわり
千億の皮膚をもってあらゆる生物の温もりを求めて
加茂川と河川敷と葵公園の上空をただよう
複数の可能世界の考えられる限り詩的で
不可思議な描写で小説を終えること


『舞姫』に使うエピグラフ その1

私の眼に初めて映ったとき、
彼女は歓びの幻であった。
瞬間を彩どるために送られた
愛らしき幻のよう。
彼女の眼は黄昏に輝やく美しき星のごとく
またその黒髪も黄昏のそれかとまごう。
されどそのほかの身につくすべては、
五月とうららかな暁よりもたらせるもの。
つけまとい、人を驚かし、待ち伏せする
躍る姿、陽気な像。
              ワーズワース「彼女は歓びの幻」田部重治訳

更に近づいて見ると、
幻のようで、まことの女、
家庭の動作は軽くのびやか、
足取りは乙女にのみ与えられた自由さ。
過ぎし日の楽しき想い出と、
美しき未来の希望との入り交れる顔、
人の情の日々の糧として、
あまりに輝やかしくも、また、善すぎもせざるもの。
また、一時の悲しみ、単純なたくらみ、
賞讃、非難、愛、接吻、涙と微笑にもふさわしきもの。
              ワーズワース「彼女は歓びの幻」田部重治訳

いま私は静かな眼で、
彼女のからだの鼓動を眺めると、
物思わしげな呼吸して
生より死への旅路を辿るもの。
変らぬ理性、慎み深い意慾、
忍耐、深慮、力、熟練を備え、
警告し、慰藉し、支配すべく、
気高くも神により作られし完き女、
されどなお一つの霊で、
天使の光明にも似て輝やかしい。
              ワーズワース「彼女は歓びの幻」田部重治訳

上は、第一部の扉のつぎに
真ん中は、第二部の扉のつぎに
下は、第三部の扉のつぎに掲げるかな。


舞姫・第二部―その1―のための覚書 表現とレトリック

男がスイッチを入れると
彼らが運んできた箱の上部の蓋が開いて、
ミツバチ型ロボット・カメラが群がり出てきた
雲霞のごとく 観客たちのひとりひとりの身体にまとわりつく
無数のミツバチ型ロボット・カメラたち
ミツバチたちは螺旋を描きながら人間の身体のまわりを旋回すると
すばやく流れさる雲のように離れて、つぎの人間の身体にまとわりつく
そのミツバチたちは、ひとりひとりの人間たちの位置と特徴を記録している
さまざまな角度からの表情 人種的特徴 服装 など
それらの情報を巣のなかの機械に送信している
三島由紀夫は驚きつつも、
彼の敬愛する作家であるオスカー・ワイルドなどの言葉を
きっと思い出しているはずだ、と主人公の青年は思う

「詩人の才能よ、おまえは不断の遭遇の才能なのだ」
                 (ジイド『地の糧』第四の書・一、岡部正孝訳)

「あらゆる好ましいものとあらゆる嫌なものとを、次々に体験し」        
         (ヴァレリー『我がファウスト』第一幕・第一場、佐藤正彰訳)
「一つひとつ及びすべてを、一つの心的経験に変化させなければならない」
                      (ワイルド『獄中記』田部重治訳)


舞姫・第三部―その1―のための覚書(10通りの、その1)

第三部−その1−は、10通り書く
主人公の青年が惑星リゲルに向けてスペースシャトルに乗り込む場面を
10の文学作品のパスティーシュでつくる
10通りの出発の模様を描出する
1つはもちろん森鴎外の『舞姫』の冒頭のシーンのパスティーシュ
文体はもちろん
状況も10通りあることをわかるように書く
現実世界の扉が打ち砕かれ
可能世界の扉が開かれ
10の平行宇宙がある一点のみで交わってしまった状況を描くこと
第二部の最後のシーンのなかに
主人公がはじめて惑星リゲルに向かってシャトルに乗り込み
惑星リゲルに到着し
舞姫と出会った日のことを回想させるシーンを
細切れに入れておくこと
第三部の10のシチュエーションを
それと少しずつ変えておくこと

現実世界とは
1つの平行宇宙から見た場合 それ自身のこと
したがって、それ自身をのぞく、ほかの平行宇宙は
その平行宇宙から見ると、すべて可能世界ということになる

交わりは
予感という形
ふとよぎる前触れの感受という形を通して描くこと
それ以外に、平行宇宙の交わりは幻視を通してしか得られないので
幻視は第二部の最後で、幻視自体が現実を打ち砕く場面が出てくるので
第三部では、静かに「語る」こと
歓びの予感に打ち震える静けさを描出すること


舞姫・第二部および第三部の創作メモ
(詩論展開部分・時間論展開部分・自我論展開部分)

悲劇の言葉は喜劇の行動を生む

知識の総体というものがあるとすれば
それは時間が流れておりますあいだ増量していくと思うのですが
それらの知識の総体のあいだに、互いに結びつきあおうとする力が生じると
小生は考えておりまして、自らの意思で、その場を提供することのできる者が
知性体であり、その知性体の場と、場を提供する意思を
知性と呼ぶことができると思っております。

人間も知性を有していない段階では知性体ではないように思いますが
ふつうは、種族のある幅のある段階をもって、その種族のおおよその
概念規定をするでしょうから、人間を知性体と呼ぶときには
規定から外れる場合も考慮しないといけないと思いますが
厳密性を求めない作品では、これは無視されている状態であり
また、そうしておいて、だいたいのところは問題がないと思います。

知性のイデアなるものがあるとすれば、神でしょうか。

あるとき、テレビのニュース番組のなかで、
南アフリカ共和国のことだったと思うのですが、
黒人青年を、白人警官が警棒で殴打している様子が映し出されたのですが、
それを見て、その殴打されている黒人青年の経験も、
殴打している白人警官の経験も、
ひとしく神の経験ではないかと思ったのでした。
翌日、詩のサイトの掲示板に、この感想を書きまして、
さらに、
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」
と、 付け加えたのですが、なぜこのようなことを思いついたのか、
よくよく振り返ってみますと、
汎神論というものについて、以前より興味がありまして、
ボードレールからポオ、スピノザ、マルクス・アウレーリウス、プロティノス、
プラトンにまで遡って読書したことが、筆者をして、
「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。」
といった見解に至らしめたと思われます。

「神とは、あらゆる人間の経験を通して存在するものである。それゆえ、
どのような人間の、どのような経験も欠けてはならないのである。
ただ一人の人間の経験も欠けてはならないのである。
どのような経験であっても、けっしておろそかにしてはならないのである。」

知性体とは、知識が堆積し、それらが自ら結びつこうとする場のことで、
そのとき、さまざまな知識自体が互いに認識し合うのですが、
知性が高くなるということは
すなわち、知識が真の知識に近くなっていくことでもあるのですが、
さて、これを時間論と絡めて考えますと
推理や推論は、未来の知識ということになります。
知識自体が他の知識と結びつき、推理力・推論力となるわけです

神とは、過去・現在・未来の知識である。

リゲル星人は、少し先の未来の知識をもって、現在から少し先の可能世界に
またがって同時的に存在することができるのですが
人間は、たとえば、主人公の幻視のヴィジョンによって、
より先の可能世界にまたがって同時的に存在できるのですね。

まったく同じ状態の並行世界は存在するのか。

神への進化は、知性の進化である。

さまざまな可能世界の扉を開く→並行宇宙の同時的な存在(存在確率密度)

並行世界が同時的に存在→知性体は、
世界の存在する理由の媒体的役割を果たしている

世界は、現実世界と可能世界に同時的にまたがって存在している
並行宇宙の一つ一つに現実世界と無数の可能世界がある。

未来は可能世界の量子的な状態にある(存在確率密度)

リゲル星人は、世界が存在するための触媒の触媒にしか過ぎず、
真の触媒は人間である。
より詳しく言えば、真の触媒は、人間のヴィジョンである。

知性体は触媒になっている→場を与えている

主人公のヴィジョンのなかで、現実世界の扉が打ち砕かれ、
複数の可能世界の扉が開かれ、複数の並行宇宙が
ヴィジョンのなかで結びついて、その複数の並行宇宙にまたがって、
主人公がその結びついた並行宇宙のあいだを自由に居場所を変えられる。

さまざまな可能世界が、お互いに引きつけ合う。
その引きつけ合う場が、知性体のヴィジョンのなかにある。

リゲル星人が現実世界と可能世界の入り口近くに同時的に存在するとき、
不可侵の状態になっているのは、リゲル星人のなかでは現実世界と可能世界が
同時的に存在して、世界が引力によって結びついているあいだ
リゲル星人の外では斥力が働くため。

リゲル星人の体型は、ダルマ型。

シャトルで月にさえ行ければ、リゲル星人の宇宙船と施設があって、
その施設にある装置によって、限りなくゼロ時間に近いに時間に移動できる。

このことは、リゲル星人より発達した知性体の存在が示唆される。(ドクター)

「アメリカびいきの日本人がいるのだ、日本びいきのアメリカ人がいるようにね。」

宇宙人同形論者   右翼・左翼

思考のプロセスと存在のプロセスのアナロジックな関係

リゲル星人は現実世界と、現実可能性の高い未来のいくつかにまたがって
存在しているが、すぐに近い未来の可能世界であって、
並行宇宙を呼び寄せるほどではなく
地球の主人公は、リゲル星人よりも現実可能性の幅のひろい範囲に
わたってヴィジョンを見ることができる。
つまり、リゲル星人よりも先の未来にまたがって存在することができる
知性体であるということである。
(つまり、知識自体がより知識とより強く引きつけ合い、結び付き合うということ)
そのため、並行宇宙が、主人公のヴィジョンを場にしてによって結びつく。

言語主義といいますか、言語還元主義とでもいいますか
ぼく自体は、そういった立場にはないです。
『舞姫』の主人公が、あるいは、ドクターや、「田中宏輔」が
どのようなことを考えたことにするのかは
まだまだ流動的です。数年かけようと思っています。

存在するもののなかに精神や物質があり言語もあるので
概念規定によって存在に言及することはじつはできないと思っています。
よく比喩として述べるのですが
袋のなかにいて、袋の外から見ることはできないと。
したがって、ぼくが上に書いたことも
矛盾があって無理もあります。

「悲劇の言葉は喜劇の行動を生む」というのも
「書くことは悲劇であり喜劇である」と、自分では解釈しています。

まずは書くこと。
矛盾を恐れずに、というか、あえて、矛盾を呼び込もうとしています。

追記

ある人のつぶやきに対する、ぼくのコメント

つまらない人生というのは、
自分の人生を振り返ったとき、ぼくもよくそう思います。
じっさい、明日から新しい仕事探しです。
47歳ですけれど、いまだフリーターです。
先々週に勤め先の女性に
「田中さん、そんな暮らしで、自分が情けなくなってきいひんか?」と言われ、
ひとから見れば情けなく思える人生なのかと思いましたが、
しかし、文学といいますか、道楽の文芸に携わっている自分としては、
暮らしは みじめですが、生き方としてはそれほど悲観的ではありません。
つまらない人生と いうのは、
正直言って、自分でも自分の人生をそう思うことがよくありますが、
冷静に落ち着いて見れば、つまらない人生ではないと思っていますし、
ほかの ひとの人生を見るときに、
つまらない人生かどうかの判断は、ぼくにはできないのですが、
少なくとも生きているというだけでも、かなりすごいことだと思っているので、
つまらない人生はないと思っています。
言い方を変えますと、生きている意義のない人生はひとつもないと思っています。なにげない日常のことがらの一つ一つが
かけがいのない異議を持っているのだと思っています。
まあ、ほんとうのことを言えば、
日常生活では、そんなこと忘れてしまって、ないがしろにすることが多いのですが。
笑。
神はマゾでもありますし、サドでもあるのでしょう。
神はあらゆるものであるのでしょう。
人間があらゆるものになりうるならば。
むかし、こんなことを考えたことがあります。
さまざまなものが、人間に見られたり触れられたり知られたりすることで、
人間の魂が付与されるんじゃないかと。
と、同時に、
そのさまざまなものが人間の魂をより豊かなものにするのではないか、と。
万物が神である、という汎神論に、強く惹かれますが、
どうしても、神というとき、人間中心に見てしまいます。
どうしても、神概念が人間とは切り離して考えられないのです。

善のイデアは神である、というのはカントでしたでしょうか。
知性のイデアが神であるというのは、
それをヒントにして考えたのですが、
もちろん、すでに誰かが考え述べていることかもしれません。
ギリシアの愛の言葉の定義の一つに知への愛と言うのがあったと思うのですが、
ぼくは知性の定義の一つに愛があるような気がしています。
ほんとうに知性的な人って、愛の目をもってさまざまなものを
見ることができるような気がするのです。
ボードレールが自分の日記に、つぎのようなことを3、4度書いております。
「ロペスピエールはつぎのようなことを述べている。
このことをもって、ロペスピエールは十分に尊敬に値する。
彼は、こういった。
わたしは人を見るとき、愛情をもって見ることのほか、何もできないのである。」と。
ボードレールが書いたロペスピエールの言葉は、
たびたび、ぼくのこころに刺さります。
とりわけ、仕事場で、とてもいやな思いをしたときに、
ああ、人って、こんなに醜い面があるのだなと思ったときに。
しかし、その醜いと思われる面を見せているその人にも事情があって、
そんな面を見せているのだなと思うと、納得できることも多々あります。
おとついなど、ある人にミクシィの日記に、昨年の暮れに上梓した拙詩集について、「得るところのないもの」ですとか、「凡庸な病者が書いたものである」ですとか、「ナルシズムに満ちている」みたいなことを書かれてへこんでいたのですが、
そういう意見もありなのだと、そういうふうに判断されるぐらいに、
その人は、きっとたくさんのいいものを目にしてきたのであろうから、
そういう人に、目を通してもらえたことを光栄に思って喜ぶべきであると、
きのう思い至りました。

人生にはさまざまな面があり、そのさまざまな面に人生があるのでしょうから、
やはり、どの瞬間も、一つ一つ、大事なものなのでしょうね。
そう認識していても、つい、忘れてしまうのですが、笑。


『舞姫』で使用するセリフ・メモ

遠隔共感能(テレ・エンパシー)

hives 蜂の巣箱

彼女は、ぼくが口に出して言ってもいない言葉に返事をした。

言葉が、
その言葉が属している言語の文法規則にそって使用されていないときにでも
その言葉は、「何々語」であると言えるのだろうか。
日本語の単語が用いられていても、日本語文法に則っていなければ
その日本語の単語で書かれた言葉は、日本語ではないのではないだろうか。
では、翻訳機械を通したリゲル星人の発するこの言葉は、日本語なのだろうか。

書くことで、その言葉が言及している(であろう)事柄から逸脱する。

それは、彼のこころに反していただけではなく、そのときのぼくには
わからなかったのだけれど、ぼく自身のこころにも反していたのだった。

この夜の出来事が、これからのぼくの思考のすべてを支配するものになるとは
思いもしなかった。

そのよろこびや悲しみは、ぼくのこころがつくりだしたものなのだから
ぼくがそのよろこびや悲しみなどなかったことにすればいいだけじゃないのかな。

起きるであろうことではなくて、起こらなかったことまで知ることができるのだ。

言葉ではない、ほかの何ものかが、こころのなかで、互いに尋ね合い、
答え合っているということがあるのだ。(結びつくということ)

視線が、互いに探り合っていたのだった。

さまざまな結びつき方があるのだ。

藪のなかに潜んでいる何かが動き出そうとしているのではなかった。
藪そのものが動き出そうとしていたのだった。

場所ではないが、場所としかいいようのないものであった。

それ自らが媒体であり、また媒体によって繋ぎ合わされたものなのである。

しっかり目を開けているからといって、ちゃんと見えているかどうかはわからない。

それは、単に、言葉で編まれた世界にしか過ぎない。世界そのものではない。

すべてのものの目として目覚めるゴースト

あらゆる可能世界が現実世界になろうとしているのだ、
あらゆる瞬間が永遠になろうとするように。

だれが自我などに云々するだろうか。あるかどうかもわからないようなものに。

それもまた、ぼくのけっして理解できないものの一つであるように思われた。

それがそのときの気持ちだった。少なくともそのときの気持ちの一部だった。

どちらがそのときの気持ちだったのだろう。
もしかしたら、どちらもほんとうの気持ちではなかったのかもしれない。

音には映像を膨らませる力があった。

そのとき表現されたものは、すべて虚しい一吹きの風にしか過ぎなかった。
表現されなかったもののなかにこそ実体があり内実が伴っていたに違いない。

他者が存在するので、自分自身をそこに映し出して見ることができるのだ。

あなたの詩はリズムによって理性が崩壊するところがよい。

わたしは彼に魅力を感じていた。悪いことに、そのことを強く意識してもいた。

細かく砕けた自我が降りそそぐ。

リゲル星人の第一触手に這い登る蟻は
石庭の見えないところに存在するものがあることを示唆している。

それは、自分が何を見たのか、何を知りたかったのかを
はっきりと教えてくれるものであった。

それは、全く眼に新しい光景、感覚なのに、
なぜかしら、よく知っている、なじみのある感じを起こさせるものであった。

さまざまなものが同じものに見えるのだ、
違った時間が、違った場所が、違った出来事が。

ふらふらとさまよう魂のように

思考は思考対象を必要とする。何かきっかけとなる言葉や事柄があるということだ。
しかし、それは、思考を制限するものではなかった。
むしろ、思考をさまざまな方へと自由に飛翔させる原因となるものであった。

それは虚しかった。虚しいということがわかっているからこそ、よけいに。

「すべてがノイズになる。」と書いていたのは、
ジョン・スラディックであったろうか。

そいつは、ぼくがどこにいるのかを、ぼくに教えてくれていたのだった。

なぜ、ぼくの顔はこわばっているのだろう。
なぜ、ぼくの顔の筋肉はしきりにこまかく引き攣り震えているのだろうか。

真実でないものは、すべて虚偽なのであろうか。

ぼくのこころが、これらの風景をつくりだしたに違いない。

これはただの光ではない、魂をもつものの光なのだ。

その言葉は、ほんとうのものらしくはなかったけれど、ぼくのこころを喜ばせた。

無意識のうちに、まだ何もはじまってもいないのに
それは、ぼくに愛の営みを思い浮かばせていた。

言葉では表されないもの、言葉と言葉をつなぐもの、文法というのか
ごと語をつないでいるものが、そこに身をかがめてじっと待機しているのだ

その言葉は、たちまち情景のなかに吸収されてしまった。

人影は数多くの感嘆符となって、あちらこちらに立っていた。

小林ジュンちゃんのことが思い出される。
1989年8月号の『詩とメルヘン』かな。
そのときの編集者の名前が小林潤子さんといって、
そのひとの判子が、送られてきた雑誌の後ろに押されていたのだった。

彼のひざの上の手の動きに戻ろう。彼のひざの上の手の動きに目を戻そう。

倫理的な人間は、つねに神に監視されている。

それは相手に警戒心を呼び起こすような微笑みだった。

つぎつぎと無数の映像を吐き出していった。

目がしばたたくと、意識もしばたたいた。

ああ、それがただの比喩であったらよかったのだけれど。

彼は違っていた。ぼくの知っているいかなる世界とも異なっていた。

こころのなかで、ぼくじゃないぼくが、獣のように打ち震えていた。

天国と地獄ははじめから存在していたのかもしれないが
もしかしたら、人間は、より多くの地獄をつくりだしたんじゃないかな。

声は文字よりも現実的であり、文字は声より幻想性が強い。
これは、身体が概念よりも現実的であるからだろうか。

そこには、新しい連結がたくさんあったのだった。

どうして、いつも悲しみをもって見つめてしまうのだろうか。

比較する対象がたくさんあると、現実感が増していく。

ぼくたちは言葉で語るのをやめた。

それは、はじめて見る表情だった。

それは、ある精神状態にあるときにのみあらわれるものなのだった。

はっきりと目に見えなかったが、人の形をしているのは感じ取れた。

知らず知らずのうちに、互いに魂を混じり合わせていたのであった。

過去でもあり現在でもあり未来でもある時間が、場所が、出来事が
わたしのもとに訪れた。

あらゆるものが闇のなかに潜んでいた。

象徴と象徴が重なった。

それでも、それは人生においてもっとも幸福な瞬間の一つだった。
もっとも、そんなにたくさんあったわけではなかったけれど、
ひとのつねで、見栄を張って、ワン・オブ・ゼムと書いてしまうのだ。

すぐに愛を感じ取れないからといって、
いつまでも感じ取れないということはないであろう。
すぐにわからないからといって、
いつまでもわからないというわけではないように。

私は、自分のこの気持ちを、感情を、落ち着いて、違う角度から眺めて
解釈することができるだろうか。
いや、やらねばならない、自分のために。

問うのは答えを得るためであろうか。
問いかけから新たな問いかけをするのが、真の詩人の務めではなかろうか。

問いかけの輪郭を明確にすると、問いかけ自体が異なった意味をもつことがある。

ぼくは憎んでいた。
彼がけっしてぼくのものにならないことを知っていたからである。
ぼくのものになるのは、ぼくのつくりだした彼のイメージであって、
それはもしかしたら、
彼自身がつくりだした彼の魂の一部分を含むものかもしれないが、
しかし、彼のイメージの大部分は、ぼくがつくりだしたものであり
そのイメージが
来たるべき現実の彼の姿とは似ても似つかぬものになるであろうことを
ぼくが知っていたからである。
どの欲情の記憶も数え上げるのがそれほど困難ではない数の記憶に集約される。
それに加えられるものは、ごくわずか、直近のものだけだ。

生きているあいだに、知ることのできるものより、知ることのできないもののほうが多く
目の前を通り過ぎていってしまうのではないだろうか。
知ることのできないもの、それが何であるかということさえ知ることのできないものなのだ。

思考対象がなければ自我は働かない。
自我を思考傾向のようなものとして捉えれば、
思考対象がないときには、自我が形成されないということだ。
それとも、思考対象がなくても、思考傾向だけがあるということもあるのだろうか。
「自我の存在」=「わたしの存在」ではないが
思考傾向を書いた「わたし」は「わたし」ではないように思われる。

過去・現在・未来のヴィジョンがバブルとなって
ぷつぷつとまじわっていく。
身体をバブルが包み込む。

どんなにそれがすばらしい作品であっても、それだけでは意味がない。
それが人の目に触れる場所に発表され、人の目にとまる機会を持たなければ。
そうした状態に置かれてはじめて、作品に意味があることになる。
そうした状態に置かれてはじめて、作品は人のこころにまで届くものとなり、
人の魂の領土を拡げ、人のこころを生き生きとしたものにすることができる。
できるのである。

「余白」には、何もないわけではない。言葉と言葉が作用し合っているときに、
「余白」はその作用に影響を及ぼす場所となっているのである。
あたかも、空間の距離が、物質と物質のあいだに働く
引力というものに密接に関係しているかのように。


舞姫・第二部 主人公の母親が発狂する要因となる舞姫の言葉の一部

劇場の陶器の奴隷の囀りの膨張の波動の唸りの洟水の背鰭の軋りの偶然の朝市の被写体の動揺の威厳の木っ端微塵の藪睨みの反復の審問の実体の瞼の突起物の語彙のこおろぎの微熱の絨毯の鼻梁の契約の気配の吟味の喪服の目配せの持ち前の雨音の滑走の武装解除の欄干の義足の上辺の胎動の瀕死の橋梁の指令の血筋の刹那の痙攣の沸点の波間の花びらの権利の水圧機の衝動の触角のエレベーターの符牒の生簀の眩暈の養子の鍾乳洞の数年前の例外の浴室の蛹の駐車場の破片の台風の動機の水槽の容貌の承認の純粋の迷走の虐待の美徳の跳躍の旋律の使徒の足蹴りのなだれの帽子の眩しさの犠牲者の観念論の悔恨の擦れ違いの城壁の封印の漣の尾鰭の輪郭の盲人の狼藉の趣味の国家の行列の神経の迷走の起源の解毒剤の穿孔器の元老院の深層心理の遠心分離機の紙くずの摘み手のひと刷毛の滑稽の満足感の化粧のピーナツバターの自学自習の生まれ育ちの執刀医の瞑想の血管の謝罪の難点の相殺の花盛りの孵化の把手の留置場の小枝の虹彩の心無しの面影の量子ジャンプの軌道追跡装置の永劫の揮発性の移植の化石の返信の新陳代謝の斥力の割増料金の一瞥の孤島の昏睡状態の拒絶の意思疎通の略奪の新聞紙の弛緩の興奮の先祖の液体酸素の空腹の引力の映写機の緊張の王さまの兆候の激痛の湖岸の人形の難点の不機嫌の習わしの多幸症の瞬きの処方箋の暗黙の減圧室の妥協の茫然自失の物真似の長時間の告白の岸辺の意識の汚染の取り違えの真実の屈辱の芥子の静寂の袋小路の伝染病の微笑の訂正のガラガラのグリグリのバリバリの前歴の水流の偽りのアルマジロの段々畑の糸巻きの憎悪の残量の動作の咽喉の胚芽の悲哀の範囲の潜水艦の闘技場の試験結婚の饒舌の回収の両眼の縫合の禿げ頭の交信の大気圏突入の円環体の蜃気楼の胎児の壁紙の軌道の妊娠の避難の礼儀の汚染の鰐の催眠術の継ぎ目の急降下の輪転機の蜜蜂の大津波の胞子の渓谷の雷電の擬態の翻訳の慈善家の熱風の水蒸気の蝶の消化不良の象の幽霊の結び目の放浪の隊列の嫉妬の抱擁の泥炭質のまがいものの便箋の日没の狩猟場の音楽室の地すべりの電位差の巻き毛の官吏の凝結の鯨の剥製の宇宙飛行士の絶滅の理解の落下の殺戮の交換台の精神改造の戦さ化粧の徘徊の悩みの宇宙人同形論者の基盤の異種族嫌悪症の構造の大股のないがしろの塊の否定の状況の遮断の崇拝の間違いの鉄くずの水牛のスキャンダルの脊髄液の霊魂の繊維のひき蛙の陳列の宿命の費用の輻射熱の横笛の腐敗の還付の突然変異の反動の不意打ちの頭文字の輸出入の塒の呪いの錯覚の鸚鵡の所要時間の合唱の正体の檻の足元の思案の貧困の呟きの鉱山の傍観の砂漠の踊りの爬虫類の演説の凝視の折柄の初耳の彫刻家の爆破


舞姫・設定変更その他の若干のメモ

設定変更:翻訳機を通しての翻訳は考えないこと
     リゲル星人との会話はすべて精神融合によるものとする
     
     月の裏側で、リゲル星人の宇宙船と移動装置と薬の発見
     リゲル星人の姿は見られず、半年後に姿を現わす
    
     リゲル星人が姿を現わすまで、薬の効果について
    
     地球人側は、動物実験と人間を使った実験をしている
     薬は同種族の間では精神融合を即時的にもたらせる
     異種族の間ではかなりの時間をとるうえに
     不完全な相互理解に陥ってしまうことがわかる

     意味の伝達が異種族の間では不完全であるが
     知的であればあるほど、想像力がそのギャップを
     埋めるはずで、結局のところ、知的生物は相互に
     ヴィジョンを形成し、感情を付与し、さらに
     それに名辞を与えることにより、言語化して
     自身の脳に記憶させ、それを参照材料として
     リゲル星人と地球人は意思疎通をはかることができる

     似た経験を通しての相互理解が不可能なことから
     最初に意思の疎通をはかる段階で
     人間もリゲル星人も、一週間ほどの昏睡状態に陥る
     記憶がバブルになるというところは、リゲル星人と
     精神融合してからずっと起こる事柄にしておく
     
     薬によって、すべての人間に感応能力がもたらされる
     わけではない。また、薬を何度も使っているうちに
     精神感応力が自然について、そのうち、薬が不要になる
     ただし、薬によってテレパスになるのは一部の人間だけ
     そのほかの人間は、ドラッグのような幻覚作用が伴うのみ
     ドクターを襲うキッズたちは、この類     
     
     言語の成り立ちが、ヴィジョンの形成と感情の付与と
     意味概念の定義づけとどう関わっているか
     それをリゲル星人と、人間という
     まったく異なった経験を有する知的生物の間での
     精神融合という、むちゃな設定において、どう生かすか
     
主人公の詩人が、葵公園で出会った「田中宏輔」の話を聞いて
「田中宏輔」に薬を渡して、精神融合する気になった理由:

四条河原町のジャズ喫茶のビッグボーイでのコーヒーカップを
振り上げて友人の頭に振り下ろすヴィジョンを見ながら、同時に
友人の退屈な話を聞いているという「田中宏輔」の二重ヴィジョンと
二重意識の存在に興味を持ったため。

「田中宏輔」は、同志社国際高校の数学科の非常勤講師であったが
ある日、勤め帰りに、近鉄電車のなかで、帰りに寄る予定であった
イタリア会館の前の道路の様子を二重ヴィジョンで見る
(これ、実話なんだよね。20代のときの。詩のなかで、ダンテの
『神曲』の一節を原文で引用するため、原著をコピーさせてもらう
約束をしていて、それでね。イタリア会館のそばに、ミッドナイト・カフェって
いって、京大の寮の一つを土曜の夜にカフェにして、ゲイやレズや
ストレートのインテリたち(笑)なんかが集まって意見交換などしてたんだけど、
いまもあるのかなあ、何回か行った。そこで見かけたきこりの青年が
めっちゃカッコよかったなあ。)のだが、このことも文章に書くこと
そういった素質があることを、詩人が直感的にも感じ取っており
そういう理由で、「田中宏輔」と接触していたのである
「田中宏輔」のドッペルゲンガーの話も書き込むこと
(これまた、実話なんだよね。だから、見たときのまんま書けるね)

薬の効能:精神感応力を増加させ、ヴィジョンに感情を付与させ
     意味概念の形成と、その固定を容易にさせる

真の暗闇は見ることができない

岩たちが本来自分たちがいるべき場所を思い出して、石庭に戻っていった。

現実離れしたことをも思考するこの詩人というものは、
人生についてつねに現実を傍観するという立場に自分を置いているからこそ、
現実というものの全体を把握することができるのではないだろうか。

ぼくはいま鳥なのか、鳥が足で壊していく水面に映った月の光なのか

ある程度のテレパシー能力があるということも一因ではあるが
詩人は、生まれつき、他人がどう感じているのか、どう考えているのか
それを、その他人が使う言葉とその言葉を発したときの表情に加えて
より状況に適した言葉を補い、
ときには、その言葉の順番を入れ換えたりしながら
推測する人間であった。
自分の気持ちを分析するよりもずっと容易に他人の気持ちを推測することができた
これが、詩人がリゲル星人の通訳になった理由の一つである

翻訳機械を通じての翻訳をやめて、テレパシーによる意味概念の言語という
なんともわけのわからない雰囲気のものではあるが(まだ書いてないし、
どうなるか、未定だけど、でも)おそらくは、言語獲得過程について
かなり掘り下げた考察ができると思う

詩人は、加茂川の河川敷を歩いているときにUFОを見るが
それほど驚かなかったエピソードを入れること(これ、実話なんだよね)
もちろん、リゲル星人の円盤なのだけれど、笑。

二重ヴィジョンと二重思考の違いについて考察すること
二重ヴィジョン≠二重思考
   
むかし、こんなことを考えたことがあります。

さまざまなものが、人間に見られたり
触れられたり知られたりすることで、人間の魂が付与されるんじゃないかと。と、
同時に、そのさまざまなものが人間の魂をより豊かなものにするのではないかと。
万物が神である、という汎神論に、強く惹かれますが、どうしても、神というとき、
人間中心に見てしまいます。
どうしても、神概念が人間とは切り離して考えられないのです。

で、概念形成という場面で、ぼくは dio に発表した「多層ベン図」の考え方を
いまだにしているのですが、『舞姫』でも、この多層ベン図を下敷きにして
概念形成モデルを提出できれば、と考えています。
空集合面を最下層の面にして、それが万能細胞のごとく、変化し
実集合面を形成していくというモデルですね。
これは上記の「魂の与え合い」による世界の拡大とも関連してきます。
赤ん坊がタブラ・ラサであるという見解を、ぼくは持っているのですが
その下地に、魂の空集合面が存在しているではないか、ということですが
それはタブラ・ラサではないと、先日、哲学科の先生に言われたのですが
その先生の意見は無視します、笑。


舞姫・第二部 主人公の母親が発狂する要因となる舞姫の言葉の一部
(追加分)

密告者の護符の政府承認のエクトプラズムの内証の寄木細工の検査官の逮捕のスパイ行為のサボタージュの政治的偏向の告発の拷問の刑罰の電極の首吊り縄の因果律の代謝作用の服従の手術室の潜在的同性愛者の勲章の去勢の堕落の座薬の愚連隊の緊急の抑揚の接触の勃起の放棄の激怒の原爆の踏み板の有刺鉄線の証明書の隔離状態の売春宿の特権階級の代謝作用の遺伝性機能障害の興奮の摩滅の異星人情報局

バロウズの『裸のランチ』から取り出した言葉だけれど
これをこの間、書いたものに混ぜると

鳥の散水機の電気技師の植木鉢のネクタイピンの微笑みのエスカレーターの瞑想の溜まり水の肘掛け椅子の小鳥の映画館の薬莢の古新聞の電信柱の蜜蜂の肘掛け椅子のビニールの牛の藁屑の理髪店の新幹線のレモンの俯瞰の花粉の電気椅子の首吊り台の雲のいまここのいつかどこかのかつてそこの自我の密告者の麦畑の船舶のカンガルーのエクトプラズムのハンカチの襞の寄木細工の草の内証の等級の新約聖書の自明の連続のオフィーリアの多弁の乾電池の朝食の時計のトランプの絆創膏の護符のバインダー・ノートの孔子の老子の荘子の政府承認の散文の韻文の抑揚の踏み板の首吊り縄の勲章の衣装のルーズ・リーフのコンセントの歌留多の帽子の絵空事の逮捕の証明書の勃起の遺伝性機能障害の検査官の杜甫の陶淵明の去勢の描写の退屈のスパイ行為の旧約聖書の情念のサボタージュの堕落の壁の政治的偏向の因果律の表現のタイルのタオルの葱の小松菜の逐電の代謝作用のレコードのハミガキチューブの古典の技巧の細胞の組織の飛び領土の直線の亡霊の故郷の世界のコーランの原始仏典のチャートの汗の株式相場の計算用紙の意味の構造の漢字の経験の翻訳の瞬間の全体の官能の食料品店の心臓病の収集の薬玉の土曜日の寝台の手袋の顔の曲がり角の森羅万象の金魚の石榴の自転車の蝙蝠の幸福の鉄亜鈴の約束の珊瑚の嵐のつぐみの左手の教理問答の彫像のゼニ苔のウミガメの無関心の修練の献血の飛行機のつぼみの砂肝の道標の犯罪者の群青の異端者の刑罰の電極のチョコレートの意識の知覚の因果関係の非能率の膝頭の壺の光の風景の事物の言葉の音の葉脈の噴水の羽毛の噴水の間違いの存続の鼓動の樹冠の犬の亀裂の娯楽の技法の臨界の砂浜の蚊柱の鍵束の呼吸の神話の紙やすりの座薬の継母の自然の服従の奢侈の経路の埃の食虫植物のヨットレースの舌打ちの撫子の洗面台の受話器の因果律の告発の周期の背中の万葉集の釘抜きの微笑みの悲しみの平仮名の山脈の軍需工場の贓物占いのスパンコールの麻痺の渦巻きの赤錆の手術室のハンバート・ハンバートの考察のジュリアン・ソレルのスポーツ観戦のドン・ジョバンニの俳句の勢子のDNAの砂糖菓子の証言の肉体のコマの胡麻の素朴の軋轢の潜在的同性愛者の有刺鉄線の単位の美の事情の技術の不穏の明晰のヒキガエルの知識の木炭の発音の魂の売春宿の特権階級の太平記の嘘の真実の異議の働きの輸入品の人生の隔離状態の接触の摩滅の物語の現実の井戸の存在の舞踏家の無為の沈黙の殖産興業の小太鼓の原爆の違反者の抑揚のカインの営みのアベルの形容詞の通年の活版印刷のミンチカツ・ハンバーガーの猿の微振動の猫の霞の圧迫の雨の回転運動のマルガレーテの対称移動のジュリエットの杖のハムレットの翼のリア王のショッピングモールの芭蕉のファウストのアーサー王の神のコーヒーのクーラーの破局の悶えのカメラの糊のポールのジョンのジョージのリンゴの黒人の白人の哲学の季節の偏見の創造の黄色人種の骸骨のピンクの仮定の青の紫の向日葵のニガヨモギの裸電球の暁のクエン酸の馬頭星雲の薄暮の朝日の真夜中の正午の文庫本の図鑑の辞書の感情のボール箱の物証の治療のダイダロスの歯ブラシの比喩のエンジンのタオルの事典の韻律の休暇の雑誌の孤独の叫びの螺旋の出来物の表面の剃刀の括約筋の潰瘍の内部の露台の鱗の声のモザイクの交接の繊毛の接触の屏風の喉の階段のイメージの現実の波の肉体の焦点の麻薬の足音の旋回の儀式の背骨のゲップの名残のジャイロスコープの出産の弾丸の迷信の拷問の凧の深淵の堕落の緊急の排泄の漆黒の禿の勝利の偏光のクラゲの恥辱の放棄の愚連隊の弾丸の象牙の皮膚の響きの切り株の人混みの廃墟の高木の茂みの鈴の模様の繁殖の移植の抱擁の恍惚の布地の汚染の睦言の大衆の蔓の火打ち石の海鳴りの緊張の気泡の道の根の演技の橇の憂鬱の記録の噴水の壁掛けの緊張の眉毛の習慣の屈折の桟橋の平面の棍棒の瘡蓋の乳房の眉毛の真珠の刷毛の挨拶の信頼の解説の休息の襲撃の陰毛の物語の誤解の躊躇いの雑草の炎の物腰の強さの弱さの根の結晶の魂の寄生虫の万華鏡の曖昧の覇者のタクシーの騒動の鶏の胃の腸の肺の歓喜の音階の神秘の感触の一枚の溝の隠喩の霧の伸縮自在の追跡の恋歌の波紋の潅木の鳴子の象徴の人間の爆発の楔形文字の饗宴の旋律の木造のトマトケチャップの福音の隣人の頭蓋のマヨネーズの手術の霊感の悲劇の定期券の寝室の読み物のオーバーヒートの性的倒錯の頌歌の凸凹の司祭の蹄鉄の溺死の瞳の狼狽の非在の歓楽街の親指の精神安定剤の地雷の空集合の枯れ枝の跳躍の共鳴の消滅の象形文字の有刺鉄線の存在様式の境界の騙し合いの切符の跳躍の湿疹の手榴弾の田園交響曲の警察の驚愕の手紙の片隅の無人の胸部の思春期の急流の未遂の図書館の地平線の群集の無意識の自動皿洗い機の運動靴の周辺の臍の観覧車の憂いの銀紙のバス停の花壇の白旗のこめかみの頂点の吊革の吸い取り紙の懺悔の踏み越し段の籠の頬の妄想の劇場の陶器の奴隷の囀りの膨張の波動の唸りの洟水の背鰭の軋りの偶然の朝市の被写体の動揺の威厳の木っ端微塵の藪睨みの反復の審問の実体の瞼の突起物の語彙のこおろぎの微熱の絨毯の鼻梁の契約の気配の吟味の喪服の目配せの持ち前の雨音の滑走の武装解除の欄干の義足の上辺の胎動の瀕死の橋梁の指令の血筋の刹那の痙攣の沸点の波間の花びらの権利の水圧機の衝動の触角のエレベーターの符牒の生簀の眩暈の養子の鍾乳洞の数年前の例外の浴室の蛹の駐車場の破片の台風の動機の水槽の容貌の承認の純粋の迷走の虐待の美徳の跳躍の旋律の使徒の足蹴りのなだれの帽子の眩しさの犠牲者の観念論の悔恨の擦れ違いの城壁の封印の漣の尾鰭の輪郭の盲人の狼藉の趣味の国家の行列の神経の迷走の起源の解毒剤の穿孔器の元老院の深層心理の遠心分離機の異星人情報局の紙くずの摘み手のひと刷毛の滑稽の満足感の化粧のピーナツバターの自学自習の生まれ育ちの執刀医の瞑想の血管の謝罪の難点の相殺の花盛りの孵化の把手の留置場の小枝の虹彩の心無しの面影の量子ジャンプの軌道追跡装置の永劫の揮発性の移植の化石の返信の新陳代謝の斥力の割増料金の一瞥の孤島の昏睡状態の拒絶の意思疎通の略奪の新聞紙の弛緩の興奮の先祖の液体酸素の空腹の引力の映写機の緊張の王さまの兆候の激痛の湖岸の人形の難点の不機嫌の習わしの多幸症の瞬きの処方箋の暗黙の減圧室の妥協の茫然自失の物真似の長時間の告白の岸辺の意識の汚染の取り違えの真実の屈辱の芥子の静寂の袋小路の伝染病の微笑の訂正のガラガラのグリグリのバリバリの前歴の水流の偽りのアルマジロの段々畑の糸巻きの憎悪の残量の動作の咽喉の胚芽の悲哀の範囲の潜水艦の闘技場の試験結婚の饒舌の回収の両眼の縫合の禿げ頭の交信の大気圏突入の円環体の蜃気楼の胎児の壁紙の軌道の妊娠の避難の礼儀の汚染の鰐の催眠術の継ぎ目の急降下の輪転機の蜜蜂の大津波の胞子の渓谷の雷電の擬態の翻訳の慈善家の熱風の水蒸気の蝶の消化不良の象の幽霊の結び目の放浪の隊列の嫉妬の抱擁の泥炭質のまがいものの便箋の日没の狩猟場の音楽室の地すべりの電位差の巻き毛の官吏の凝結の鯨の剥製の宇宙飛行士の絶滅の理解の落下の殺戮の交換台の精神改造の戦さ化粧の徘徊の悩みの宇宙人同形論者の基盤の異種族嫌悪症の構造の大股のないがしろの塊の否定の状況の遮断の崇拝の間違いの鉄くずの水牛のスキャンダルの脊髄液の霊魂の繊維のひき蛙の陳列の宿命の費用の輻射熱の横笛の腐敗の還付の突然変異の反動の不意打ちの頭文字の輸出入の塒の呪いの錯覚の鸚鵡の所要時間の合唱の正体の檻の足元の思案の貧困の呟きの鉱山の傍観の砂漠の踊りの爬虫類の演説の凝視の折柄の初耳の彫刻家の爆破


人柱法

公共施設は、百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
千人を超える公共施設に関しては、二百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
人柱には死刑囚をあてること。
准公共施設については無脳化した手術用クローンをあてること。
人数に関しては公共施設の場合を適用する。
一般家屋ではホムンクルス一体でよい。


霊魂図書館

詩人は生きている死体が収容されている霊魂図書館に行き
死んだ父親に、自殺した母親のことを報告する。
母親が発狂した原因が母親もまたテレパスであって
詩人がリゲル星人と共感応したために
詩人がもはや自分の息子でもなく
人間でもなくなっていることに
ショックを受けていたことを
死んだ父親に教えられる。
精神感応する際に
ある程度の同一化が必要で
その過程で、人間ではない精神領域を
詩人が有してしまったために
母親がとてつもないショックを受けていた
ということ。
もちろん、『舞姫』における「霊魂図書館」は『図書館の掟』の設定である。
死んだ父親は、息子である詩人の接吻で目覚める。


葵橋

  田中宏輔



真夜中、夜の川
川面に突き出た瀬岩を
躱しかわしながら
ぼくの死体が流れていく
足裏をくすぐる魚たち
手に、肩に、脇に、背に、尻に
触れては離れ、触れては離れていく
この川に流れるものたち
朽ち木につつかれて、枯れ葉を追い
つぎからつぎに石橋の下を潜り抜けていく
冷たくなったぼくの死体よ
木の切れ端に、枯れ草、枯れ葉が
水屑に、芥に、縺れほつれしながら、流れていく
冷たくなったぼくの死体が、流れていく
ぼくの死体よ
絶え間なく流れる水
岸辺に、瀬に、囀る水の流れ
うねり紆りしながら
月の光を翻し、星の光をひるがえし
流れに流れていく、水の流れ
水面に繋がれたさまざまな光の点綴が
ぼくの目を弄しながら流れていく
水面に靡く、窓明かり、軒灯り、街灯の
滲み煌く輝き、ほくる眺め
揺蕩う、映し身
ぼくの死体よ
冷たくなったぼくの死体よ
おまえを追って
いまひとり

ぼくはまた葵橋の上から身を投げた






  躱しかわしながら            かわしかわしながら
  水屑に、芥に、縺れほつれ        みくずに、あくたに、もつれほつれ
  囀る                  さえずる
  うねり紆りしながら           うねりくねりしながら
  点綴                  てんてつ 
  靡く                  なびく
  軒灯り                 のきあかり
  揺蕩う                 たゆたう


わたしが死んだ夜に。

  田中宏輔



犬が吠える。
わたしに吠える。

わたしの姿など
見えるはずがないのに。

犬が吠える。
わたしに向かって吠える。

犬にだけは
見えるのかもしれない。

おもむろに上昇すると
わたしは二階のベランダに降り立った。

どの部屋も暗かった。
わたしは寝室に目を凝らした。

女が眠っていた。
わたしの男の腕のなかで。

窓ガラスを通り抜けて
わたしはふたりに近づいた。

男の腕を使って
女の首を絞めるために。


回す!

  田中宏輔



グキッ
ボキッ
とかとか鳴らして
首の骨を
鳴らして見せる
ジュン

凝り症だから
とかとか言って
しょっちゅう
ボキボキ
やってた

いつだったか
おもっっきり
首を回して
(まるで竹トンボのように、ね)
飛んで
いって
そのまま
まだ
戻らない


蛙男。

  田中宏輔



まるで痴呆のように
大口あけて天を見上げる男
できうる限り舌をのばして待っている
いつの日か
その舌の上に蝿がとまるのを
(とまればどうすんの)
蛙のように巻き取って食うんだ
(と)
その男
舌が乾いては引っ込め
喉をゴロゴロ鳴らす
そうして、しばしば
オエー、オエー
と言っては
痰を飲み込む
(ほんと、いくら見ても厭きないやつ)
訊けば、その男
蛙がごときものにできて
人間たるわしにできんことはなかろう
(とか)
言って
じっと待つのであった
(根性あるだろう、こいつ)
ぼくはそんな友だちをもってうれしい
ほんとにうれしい


人面瘡。

  田中宏輔



 あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、顔みたいなものができてて、じっと見てたら、そいつが目を開けて突然しゃべりだしたので、びっくりした。どうして、ぼくの手に現れたのって訊いたら、あんたがひととしゃべらないからだよって言った。いつまでいるのって訊いたら、ずっとだって言うから、それは困るよって返事すると、ふだんは目をつむって口も閉じておいてやるからって言った。きみともあんまりしゃべることないよと言うと、気にしない気にしないって言うから、ふうん、そうなんだって思った。でも、なんだか迷惑だなとも思った。


白い毛。

  田中宏輔



 あさ、目が覚めたら、左手の甲の真ん中に、白い毛が一本生えてて、定規で計ったら3センチくらいあって、手をゆらゆら揺らしたら、毛もゆらゆら揺れたので、これはおもしろいと思って、剃らないことにした。


水没都市。

  田中宏輔



 教室が半分水につかっているのに、先生は黒板の端から端まで書いてる。ばかじゃないの。「ばかやろー」って叫んだ子がいる。どうせ街中、水びたしなんだけど、せめて学校でくらい、机のうえに立って、濡れないでいたいわね。


小羊のメアリーちゃん。

  田中宏輔



 ぼくの机の真ん中の引き出しから、なんかまちがってるんじゃないのというような顔をしてまっすぐにぼくの顔を見つめてくる小羊のメアリーちゃん。かわいい。


負の光輪。

  田中宏輔



一 影と影


ああ、むかしは、
民の満ちみちていたこの都、
    (哀歌一・一)

 荷馬車に乗った私たちが、市門を目にしたときには、もうそろそろ狼さえも夜目のきかない時間になろうとしているところだった。
 ところどころ縁が欠け、いたるところ、石灰塗りの白壁が剥がれ落ちた亜麻色の積み石、その見上げるほどに丈高い市壁の間隙を抜けて、私たちは、アンフィポリスの町に入った。
 板石を敷き並べた大通りを挾んで、まるで半開きの唇から覗かれる歯列のように、二条に列をなして、白塗りの建物が向かい合っている。
「神父さん、修道院まで送ってあげるよ」
「そうしてくれるかな」
 知りあって間もないふたりであったが、私と少年とは、あたかも以前から親しい間柄のように振る舞っていた。というよりは、むしろ少年の屈託のない笑顔が、恐れるものが何もない、とでもいった無蓋の微笑みが、ひととは、常に、ある一定の距離を保ち、決してこころの内の思いをさらけ出したりすることのない私を、その私の強い警戒心を、まるで風の前の籾殻のように、たちまちのうちに吹き飛ばしてしまったという方が真実に近いだろう。
「神父さん、おいら思うんだけど、どうしてこんなちっぽけな町に、あんなりっぱな修道院があるのかなあって」
 コンスタンティンは、右の掌に手綱の端をひと回り巻きつけて、左に座っている私の顔を見上げた。
「いまでは滅んでしまったけれど、テッサロニキも何百年も前は、カルキディキいちの都だったらしいね。きっと、この町も、ほかの町と同じように、以前はもっと大きな町だったんだろう。このアンフィポリスにある修道院が、いまでは町に不釣り合いなほどりっぱなものに見えるということは、この町が、昔はもっと大きなものであったということだろう」
「どうしてテッサロニキは滅んでしまったの」
「きみも、だれかに話をしてもらったことがあるだろう」
 少年は頷いた。
「おやじもおふくろも、それに、おいらの村の教会の神父さんも、みんな、神さまが人間に罰を与えたんだって言ってた」
「そうだよ、伝え聞くところによると、その昔、ひとびとが主の恩恵を忘れ、あまつさえ神への信仰を蔑ろにするようになったためについに主が、それらのひとびとの頭の上に、怒りの七つの鉢を傾けられたのだという。そのとき、世界じゅうの大都市は、かつて栄華を誇っていたソドムとゴモラさながら、完膚なきまでに打ち滅ぼされたのだという」
 少年の顔から好奇心の色が消えた。彼は前を向き、眉を寄せて、何かものを考えるような表情をしてみせた。
 敷石を踏み歩く蹄の音と、荷馬車の車輪が転がる音が、通りに大きく響いている。それは、蹄に打ちつけた蹄鉄と石が車輪に嵌めた鉄輪と石がぶつかる、硬くて乾いた不快な韻律であったが、なぜか、荷馬車の振動に心臓の鼓動が連動しているような錯覚に囚われた。長旅で疲れているのかもしれない。少年が、納得がいかないとでもいった顔を私に向けた。
「よく分からないや、いったいどうして神さまは、人間に罰を与えるなんて気になられたんだろう、ねえ、神父さん、罰を与えられたひとたちは、みんながみんな悪いことをしたひとたちなの、いいひとはひとりもいなかったの」
「いいひとがひとりもいなかったなんてことはなかっただろうね、ロトのようなひとがいたかもしれない、しかし、数百年前の神の怒りの鉢からは、だれひとりとして、逃れ出ることができなかったという話だよ」
「じゃあ、いいひとたちは、その悪いひとたちの巻き添えを食っちゃったってわけなの、そんなのおかしいよ、だって、そうでしょ、たとえば、家族んなかに泥棒がいたら、家族みんなに泥棒をした罰が下るなんて、そんなの絶対におかしいよ」
 私は、私の右の手を、膝の上の頭陀袋からどけて、少年の膝の上においた。
「だけど、コンスタンティン、もしも、家族の内のだれかが、その泥棒をしたものにちゃんと目をそそいでやっていたら、道を踏み外しかけたときに、ちゃんと手を差し延べてやっていたらどうだったろう。もしかしたら、彼は、泥棒になっていなかったかもしれないよ。だとしたら、ほかの家族にも責任があるんじゃないだろうか、罪とは言わずとも、そういったものがまったくなかったとは言えないんじゃないかな」
 ひと瞬き、ふたまばたきのあいだ、少年は、考えがまとまらないのか、それとも、適当な言葉が見つからないのか、まだ何か言い返したいことがあるのだけれども、それができないでいるというもどかしさを表情に出して私を見つめていたが、急に興味を失ったかのように顔を逸らせると、彼は通りの人影に目を向けた。
「女たちは、いったい何の話をしてるんだろう、朝っぱらから、椅子を玄関先に引き摺り出して、日が暮れても、ちっとも片づけようとはしないんだから」
 コンスタンティンは、私の顔を見ずに、馬の背にひと鞭くれて、そう言った。彼の言うとおり、頭巾を被った女たちが椅子に腰掛けて、片頬を寄せんばかりに喋り合っている。また、椅子のない門口でも、頭をくっつけんばかりに寄せ合って、じっと佇みながら話し込んでいる小さな影の固まりが、通りを挟んだ道の両側にいくつも見受けられた。どの影も、その頭には白い頭巾を廻らしている。彼女たちのなかには、ごく僅か、私たちの方を見やっても、すぐに顔を背向けるものもいたが、大抵のものは、会話を中断させたまま、私たちが通り過ぎて行くまで、片時も目を離そうとしなかった。目だけは、薄暗闇のなかでも見分けられる。影から分離してはっきりと見分けがつくのである。そして、また、私たちの乗った荷馬車が、彼女たちの目の前を通り過ぎたあとでも、私は、私の背に、執拗に纏わり追ってくる視線の束を、まるでひとを物色するような視線の塊をひしひしと感じ取っていた。目を逸らしたものも、目を外さなかったものも、どちらにせよ、どの頭巾もみな、まず一度は、私たちの方に目をくれないことには、話し続けることも、また、口を噤んで黙って見つめ続けることもなかったようである。
 しかし、それも当然のことといえばいえないこともない。アンフィポリスのように歴史のある小さな町では、都会にはない緊密な人間関係が形成される。そういった閉鎖的な空間では、隣人とは、何代か前の祖先にまで遡る付き合いがあったりするのである。そんなところでは、隣近所のものは、家族同様に付き合わなければ、お互いにすぐに溝ができてしまう。なかには、まるで敵同士のように反目し合っている家もあるが。そして、どちらかといえば、家族のような付き合いをしているところよりも、そういった反目し合っているところの方が、相手の家のことをよく知っているものである。憎しみが、そのひとに、相手の家族ひとりひとりが持っている服やサンダルの数までをも知るようにさせるのである。そんなところで、大きな音を立てながら、石畳の道をやって来る荷馬車に目をやらないものなどいるだろうか。それに、その荷馬車の上の奇妙な取り合わせに目を瞠らせないものなどいるだろうか。牧童と修道士、つば広の麦藁帽子を斜交いに被った牧童と、椀形の黒い丸帽子を頭頂に戴いた修道士、剃刀などあてる必要もない、優しく柔らかな頬辺の牧童と、鋏さえいれることのない伸ばし放題の髭面の修道士、半袖の白シャツから陽に灼け焦げた柔腕を覗かせた牧童と、手首のところまで袖のある黒衣を纏った修道士。そういった対照的な姿のふたりが、彼女たちの双の目に奇異なものとして映ったとしても、何ら不思議はない。しかも、この時間にである。本来ならば、修道院で主に祈りを捧げているはずの晩課のこの時間に、荷馬車を走らせている修道着姿の人間など、これまで彼女たちは、一度も目にしたことなどなかったであろう。
 頭巾のない影の固まりが、道を隔てた大通りを横切って、右から左に渡ってゆくのが目に入った。
「女たちばかりではないようだよ、見てごらん、コンスタンティン」
 私は、顎先を向けて、居酒屋の表口にすだく、いくつかの影に、少年の視線を促した。おそらくその店の主人なのだろう、柄の大きな影がひとつ、小さな脚立の上に立って、とば口に張り出した看板に、その房なす葡萄と絡まり縺れた蔦のシルエットに両の手を伸ばしているところだった。そばには、彼に話しかけるふたつの影があった。
 私たちの乗った荷馬車が、彼らの前を通り過ぎようとしたとき、蔦の巻きひげの先にランプの火が灯り、そこで振り向いた主人の目と私の目が合った。彼は私の姿を見て、少し驚いたような表情を顔に浮かべたが、すぐに目を逸らせると、脚立の踏み段を後ろ向きに、足元を確認しながら一段一段ゆっくりと下りていった。
 二、三瞬後、肩越しに振り返ると、その大きな影が、折り畳んだ小さな脚立を左手に捧げ持ち、右手を風に揺れる葦のように滑らかに揺れ動かしながら、背後からふたつの影の背を押すようにして、扉のなかに入っていく姿が見受けられた。
 街路に立ち並ぶガス燈に、次々と火が灯っていった。

  影たちは黄昏の中を行く、
  靜かにすべるやうにして。

  影たちは集まり、影たちは誘ひ合ひ
    (C・V・レルベルグ『夕暮れの時が來ると』堀口大學訳)

 建物と建物のあいだ、路地の薄暗闇のなかから、影と影が姿を現わす。通りに自身の無数の影を曳きながら、あたかも誘蛾燈におびき寄せられた羽虫さながら、いくつもの影が、あのランプの下、酒神ディオニュソスの聖木の下に群がり集まってゆく。



二 修道院

 教会前の大広場を通り過ぎると、私たちは町外れの十字路に出た。
「これを真っ直ぐに行けば港に出られるよ。修道院はこっち、この十字路を左の方に曲がったところ」
 と言って、コンスタンティンが、手綱を左に引っ張ると、馬は方向を転じて、十字路を左に曲がった。
 しだいに道は狭くなってゆき、家並みは隙間を詰めて石垣を高く廻らせるようになっていった。それゆえ、道は、より窮屈に、より暗くなっていくように感じられた。もしかしたら、ここは、アンフィポリスでもっとも早く夜の懐に抱かれるところなのかもしれない。

  修道院の
  高き壁に沿ひて
  木の葉は
  風にわななく。
    (アルベール・サマン『小市夜景』堀口大學訳、著者改行)

 聖アンフィソス修道院は、堅牢な石造りの大修道院であった。切り石積みの外壁は、まるで城壁のように高くそびえている。コンスタンティンは、その横手を廻って、私を聖堂の入り口まで送ってくれた。入り口の踏み段を、ふたつ、みっつ昇ったところで振り返ったときには、すでに、少年の後ろ姿はなかった。ただ、遠ざかりつつある荷馬車の音だけが、夜の闇のなかにあった。しかし、それもまた、すぐに私の潰れた耳には聴こえてこなくなった。
 壁面はまだ熱くて、手で触れると熱が直に伝わってくる。私は、木でできた、いかにも頑丈そうな入り口の扉を二度叩いた。しばらく待っていてもだれも出て来なかったので、もう一度扉を叩こうと叩き金に手を伸ばしかけたところで、おもむろに扉が内側に開いた。出て来た輔祭に名前と用件を告げると、彼は、快く私を聖堂のなかに入れてくれた。私は、胸の前で十字を切り、一礼してから聖堂内に足を踏み入れた。冷やりとした空気が漂っている。おそらく、あの分厚い外壁が、内部にまで太陽熱を浸透させないためだろう。私は、輔祭の後ろに付き従って行った。聖堂の大広間から外来者接待室の前を横切って、通廊に出ると、そこにいくつか並んだ巡礼者用居室のうち、一番手前の部屋に案内された。どの部屋もなかの様子は同じであろうが、そこには、窓辺に、木でできた小さなテーブルと、その傍らに、飾り気のまったくない粗末な寝台がひとつあるきりであった。しかし、修道士である私たちには、それだけで十分なのである。すでに窓の穿ちには夜の闇が嵌め込まれていた。
 輔祭は、手元の蝋燭を傾けて、テーブルの上に置かれた燭に火を注ぎ、それに火屋を被せると、私の来訪を修道院長に知らせるために部屋から出ていった。
 まずは、足の裏を休めようと、寝台の端に腰掛けて、サンダルの革紐を緩めていると、歳若い見習い僧が、足だらいを持って、部屋に入って来た。どうやら彼は、私の足を洗いに来たらしい。ここでは、それも修行のひとつなのかもしれない。サンダルを脱いで、私は裾をまくった。彼は、私の足下にかがんで、足を入れたたらいに水を注いでいった。冷たい水に浸されて、まるで墨が水に溶けるように足の痛みが水のなかに速やかに拡散していった。
「さぞ、お疲れになったでしょう。膨脛の筋肉がずいぶんと脹れています」
 彼は、脹脛から踝にかけて、ていねいに汚れを落としてくれる。
「踝のところに腫れものがありますね」
「虫にかまれたのだよ」
 私は自分の左足の外踝に目を落とした。そこは、親指の先ぐらいの大きさに膨らんでいたが、いまではもう、痛みはなかった。昼間、パンゲオン山のふもとで噛まれたばかりなのに、すでにその傷の痛みは、瘡蓋になりかけたときの痛痒感のようなものに変わっていた。
「右足の踝にも傷があるんですね」
 彼は手を止めて、そう言って顔を上げた。
「とても古い傷だ」
 古傷に触れられた煩わしさに、私は、私の顔の表にわざと苛立たしさを出して、普段になく乱暴に、言葉を短く切って、そう言い放った。彼は目を伏せて、自分のするべき仕事に戻った。一方、私は、私の振る舞いを恥じた。いや、恥じなければいけないと思ったのである。たとえ一瞬であっても、私がわざと顔に出して見せた怒りは、精神の完全な平静や静寂とかいったものとは遥かに遠いところにある、歪んだ、醜い感情に由来するものであるのだから。修道士として、まだまだ、私が未熟であるということだろう。悟りの境地に到達するためには、極めて長い道のりを要すると言われているが、私に、その道を極め尽くすことができるだろうか。
「あとで塗り薬を持ってまいりましょう」
 見習い僧は足だらいを退けて、私の濡れた足を布切れで拭うと、足下に揃えて置いてくれていたサンダルをとって、その革紐までも結んでくれた。私が礼を言うと、彼は、立ち上がりざま、自分の濡れた手を拭って、それが現在、自分のなすべきことであると答えた。私は、足だらいを持って部屋を出て行こうとする彼に声をかけて、たとえ僅かな時間でも引き止めて話をすることによって、さきほど私が彼に与えた印象を改めてみたいと思った。
「夜は涼しくて過ごしやすいね」
 彼は、足だらいと水袋を下に置いた。
「北風のせいですよ、夕方になると、このヘラスには、北から冷たい風が吹いて来るのです。九月に入ってからは、薄着などしていますと肌寒く感じられるほどです」
 彼は、そう言って、鼻をひと啜りした。
「風邪でも引いているのかな」
「いえ」
「しかし、声も嗄れ気味なんじゃないかな」
「いいえ、この声は元からなんですよ」
「そうかい、だけど、夜になってこんなに涼しいと、ちょっと油断しただけでも風邪を引いてしまうだろうね」
「ええ、本当に」
 覗き窓に人影がよぎると、扉が開かれた。
「師父」
 私は立ち上がり、ゲオルギオス・パパドプロス修道院長のところに駆け寄って、そのふくよかな両頬に接吻した。
「私の方からお伺いしましたのに」
「まあ、よいて、わしの方から来たぞ。ミハイール・グリゴーリェヴィチ神父よ、ふむ、すっかり修道士らしくなりおって」
「そう言っていただけて光栄です、師父」
「わしの方こそ、そう師父、師父と呼ばれては、耳がこそぼったいて、何しろ、おまえの師父は、いまでは、わしではないのだからな」
 見習い僧が修道院長に頭を下げて部屋から出て行った。
「それでは、どうお呼びすればよろしいのでしょう」
 ゲオルギオス修道院長は、私の問いかけに一瞬のあいだも躊躇なさることなく、即座に答えられた。常に迅速に決断なさる方であった。また、決断なさってから実行に移される際の手際のよさと、その行動力には、キエフの修道院にいた、だれもがかなわなかった。ときには、強引なこともなさったらしい。しかし、だからこそ、ヘラスに戻られて、ここで、こうして修道院長にもなられたのだろう。人望だけで選出されるものではないのである、修道院長という役職は。
「まあ、師父でよかろう、わしもおまえにそう呼ばれると、キエフでのことが思い出される。懐かしいものじゃ、過ぎし日のロシアも。おお、そうじゃ、それはそうと、輔祭のテオ・バシリコス神父から聞いたのじゃが、おまえがここに立ち寄ったのは、アトスに入山するためだとか」
「ええ、そうです。許可していただけますか、師父」
 アトス入山には、ヘラスの主教の許可が必要なのである。聖アンフィソス修道院の主聖堂には、アンフィポリスの主教座がある。つまり、師父は、聖アンフィソス修道院長であり、かつまた、マケドニアの主教のひとりでもあるということである。
「請願書には、キエフで印を押してもらっておるのじゃろう」
 私は首肯いた。師父は、さらに笑みの皺を増して私に微笑まれた。
「では、許可できない理由は何もないわけじゃな」
「ありがとうございます、師父」
 私は十字を切って、師父の足下にぬかずかんばかりにしてしゃがみ込むと、履きものの上から、その足に唇を軽く圧しつけた。埃に混じって細かな砂粒が舌先に感じられた。どんなときにも、接吻のあとには、舌を出す癖がある。下を向いていたので、師父には見えなかったであろう。キエフ時代は、よくこのことで叱られたものである。
「ところで、いつここを出発するつもりかね」
 師父は手をとって私を立たせられた。
「できましたら明日にでも、アトスに向かって出発したいと思っております」
「えらく急じゃな、まあ、しかし、一度口にした言葉は、二度と覆すことのなかったおまえのことじゃ、明日の朝には、おまえにそれを渡せるようにしておいてやろう」
 円柱形の側面にワニスを塗った蝋燭が、一ベルショークほども短くなるあいだ、キエフの修道院での思い出話や、私の旅の話など、話の種はなかなか尽きなかった。
「ところで、ヘラスでは、ここの他にどこか寺院にでも寄ってみたかね」
「ええ、パンゲオン山のふもとで、廃墟となった寺院に立ち寄りました」
 師父の顔から笑みが消えた。
「何か変わったことはなかったかね」
「はい、そこで私は、ひとりの侏儒に出会いました。ひとの背の半分ほどの大きさの小人に」
 師父が窓辺に背を向けて立った。机の上の蝋燭の光が遮られたために、部屋のなかがぐっと暗くなった。
「詳しく話してごらん」
 師父の影は微塵も動かなかった。
 まるで息をすることさえやめてしまったかのように・・・・・・



三 毒葡萄

  彼らのぶどうの木は、
  ソドムのぶどうの木から出たもの、
  またゴモラの野から出たもの、
  そのぶどうは毒ぶどう、
  そのふさは苦い。
  そのぶどう酒はへびの毒のよう、
  まむしの恐ろしい毒のようである。
   (申命記三二・三二−三三)

 東西に並んだ二条の山脈、ピリン山脈とオグラゾデン山脈のふたつの山脈に挟まれた渓谷には、急峻な山々の峡谷からすべての細流を撚り合わせてストルーマ河が流れていた。その渓流はオグラゾデン山脈の南端麓で半円を描きつつふた股に分かれている。西の本流は、木賊色の水を湛えたブトコブー湖で尽き、そこで新生したストリモン河がなおも南に峰を連ねるピリン山脈の裾野を縦割りに流れている。一方、円弧の半ば辺りで背を向け、利鎌状に湾曲していく東の分流は、その中流で、ピリン山脈の切れ込みから流れてくる川と合わさり、また、ストリモン河から分岐した支流とも合わさって水嵩を増し、さらにその下流で、ストリモン河本流と合流していた。そして、それは、その最下流で、パンゲオン山の覆輪を廻りくる河骨と結ばれていた。 
 修道士ミハイール・グリゴーリェヴィチ・ソポクレートフは、この最後の結ぼれに立ち、しばらくのあいだ目を凝らして、パンゲオン山のふもとを見つめていた。緑布が敷かれた平原にあって、そこだけは白く染め抜かれたかのように、砂と石塊のほかには何もない乾燥し切った地面が、まるで癩病に冒されたものの身の皮にできた白い腫れもののように盛り上がり、ところどころ生きた生肉のような赤い土塊を覗かせている。その背後に聳える山々には、オリーブの樹木のごく僅かな緑がまばらにあったが、大方のところは、ふもとと同じように、石灰岩質の白い地肌を地の表に剥き出しにしていた。草は枯れに枯れ、岩の上、砂の上、道の上に、まるで蛇の抜け殻のように、枯れ萎んだ身をいくつもいくつもへばりつかせていた。夏枯れ知らずの灌木も、一木いち木が斑紋状に散らばって、僅かに枯れ残った緑の葉を、まるで湯に浸けられた鶏のように、羽毛という羽毛が抜け落ちた鶏の身さながら、枝の節々を奇妙に捩じ曲げ、天に向かって枯れ萎んだ腕を拡げていた。そこは、人家も何もない、まったく不毛な土地であった。しかし、だからこそ、彼の目を惹いたものがあった。神に呪われたもひとしいそんなところに、神を祈るひとびとの家があったのである。藍色の丸屋根、ギリシア十字架を戴いた鐘楼、彼の足が好奇心に動かされた。
 それは、数百サジェーニほど先の小高い丘の上にあった。

  いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、
  その石がきはくずれていた。
  (箴言二四・三一)

 彼は寺院の目の前まで来た。壁面の塗料は粗方剥がれ落ち、積み石本来の卵殻色の地肌が露出している。彼は鐘楼を見上げた。虚ろな窓に空が透けて見える。そこには鐘の姿がなかった。
 十字を切って教会堂に足を踏み入れると、彼は、翼廊の北出入り口に立って内部を見回した。それは、長軸の身廊に短軸の翼廊が直交した、いわゆるバシリカ式の教会堂であった。頭上の天蓋を廻る数多くの小窓、その小窓から射し込むいく筋もの陽の光、その陽の光の帯のなか、大理石模様にゆっくりと立ち昇る塵と埃、そして、その塵と埃の舞うなか、形を崩した吊り燭台が、床面の上に落ちたままの姿を晒していた。彼は思わず溜め息をもらした。彼は内陣に目を移した。祭壇は前倒しにされ、破れた背を見せている。説教壇や聖書台も、それらが本来あるべきところになければ、まともなときの姿など想像できないほどに壊されていた。後陣の背面には掲げてあったはずの聖像画がひとつもなかった。聖なる衝立ともども、どこか別の場所に持ち去られたのだろう、彼にはそうとしか考えられなかった。    
 彼は、床面の上に骸を曝した吊り燭台を、蜘蛛の巣に飾られた照明器具の残骸を、足で踏まないように注意深く廻って、内陣の階段に足を掛けた。にもかかわらず、足下の埃を舞い上がらせずに聖所内を歩くことは不可能であった。彼は床面に目を落とした。足跡がある。裸足の足跡がいくつもある。同じ大きさの裸足の足跡がいくつもある。埃を被って消えかけたものなら身廊のところにもあった。だが、ここにあるのは、足跡に足跡を重ねた真新しいものばかり。しかも、そのどれもがみな、子供のもののように小さかった。子供が遊び場にでもしているのだろうか。それにしても、裸足であるというのが、彼には解せなかった。
 音がした。翼廊の方だった。彼は内陣を駆け降りた。翼廊の南側、子供が出て行く。身体には、ほとんど何も着けていなかった。腰に小さな布切れのようなものを着けているだけだった。彼は声を掛けようとした。すると、言葉が口から出る前に、それが振り返った。彼は息を呑んで立ち止まった。それは小人だった。それは、侏儒と呼ばれる畸形だった。それは、まるで白痴のようにだらしなく口を開き、目をいっぱいに見開いて彼の顔を見つめ返した。彼は一歩前に進み出た。すると、それは信じられないほどの俊敏さをもって、丘の上を駆け登っていった。見る間に、その姿は林のなかに消えてゆく。  
 彼は追いかけるのをあきらめた。あまりのすばしっこさに、彼は、ただ呆気にとられて立ち尽くすことしかできなかったのである。
 緑、目の前に緑があった。匍匐性の植物なのか、草丈はせいぜい彼の腰の辺りまでしかなかった。しかし、よく見ると、それには、無数の丸い葉と螺旋に巻いた枝蔓があり、大小さまざまの葡萄がぶら下がっていた。房なりの黒い実。どの葡萄も、十分に成熟した真っ黒な実をつけている。彼は腰を屈めて、ひと房もいでみた。うっすらと蝋状の白い粉を吹いた葡萄の実。喉の渇きを癒すため、彼は、房からひと粒だけもぎとって口のなかに入れてみた。噛んだ途端に、強烈な苦味が口のなかに拡がった。吐き出した。彼はそれを吐き出した。苦い唾を何度も吐き出した。そのたびに唾が、乾いた地面に吸い込まれてゆく。彼は何度も唾を吐き出した。しかし、それでも苦味は、彼の口のなかにしつこく残った。
 と、突然、彼は足下に激しい痛みを感じて跳び退いた。咬みつかれたのである、蝗に似た、黒みがかった焦げ茶色の昆虫に。彼は慌てて、それを引き剥がした。肉が食い破られて、そこから外踝を伝わって血が流れ落ちてゆく。足首の上を、真っ赤な血が流れ落ちてゆく。彼は、自分の血の温かさを感じた。彼は敵を裏返してみた。まさに咬み食らう蝗、それには虎鋏のような歯があった。しかも、その顎のなかには、もうひとつ顎があって、それにもまた、先の鋭く尖った、牙のような歯があったのである。彼は気味が悪くなって、それを葡萄の茂みのなかに放り投げた。

 私が話し終えても、しばらくのあいだ、師父の影は動かなかった。しばしの沈黙、その沈黙はカピトゥルムのそれのように、部屋のなかに陰欝な空気を満たしてゆく。堪え切れずに、私の方から口を開いた。
「師父、どうかなされましたか」
「あれは死ぬべきものじゃ、胎から出てすぐに死ぬべきものなのじゃ。ひとから生まれはするが、ひとではないものじゃ」
 影の声は、どこかこの世とは遠いところ、地の底をも越える深いところから響いてくるようであった。影が移動すると、部屋のなかが明るくなった。蝋燭の揺らめく光のなかに師父の姿が浮かび上がる。窓枠に背凭たれながら、師父は私に語りかけた。夜の闇に重なる声、師父の声に燭の光が揺らめき揺らめく。
「その昔、人類が科学文明に依存して生活していたことは知っておるな、それが主を蔑ろにする元凶となり、ひいては、主の怒りをかうことに、全能なる主の呪いを被ることになったことを。ひとびとがみな、主の呪いに撃たれ、世界じゅうの大都市が壊滅し滅びの穴となったことを。それはみな、科学文明が元凶となって引き起こしたことなのじゃ。そして、侏儒が生まれたのだ。呪いの裔たる畸形の侏儒が生まれたのだ。このヘラスに」
 師父の顔がひどく歪んでいた。キエフ時代にも、喋べっているうちに、だんだんと興奮なさってこられることはよくあったが、このように唾を飛ばして話されることなど以前にはなかった。
「どうして侏儒が死ぬべきものだとおっしゃるのですか、ひとはみな、いつかは死ぬべき定めにあるものだと」
「そんなことをおまえに教わろうとは思わなかったぞ、主が創造されたものがみな、はかない息にしかすぎないなどと」
 私の言葉が途中で遮られた。師父の激しい剣幕に、私の身が凍りついた。かって、神学校時代に私を叱りつけられたときのように、師父が私の顔を睨みつけられた。当時のように、私はただ押し黙って耳を傾けることしかできなかった。
「まあ、よい。どうやら、わしも説明不足のところがあったようじゃ。ちゃんと話してやらねばなるまい。そうじゃ、初めから話してやろう。およそ三百年ほども昔、主の怒りの鉢から呪いの酒が大都市の上に傾けられたとき、その飛沫が周辺の都市に、村里に、牧地に、ありとあらゆるところに降りかかったのじゃ。そして、降りかかったところはすべて、永遠なる不毛の地となってしまったのじゃ。ただし、そういった呪いの地のなかで、どういった理由でかは分からんのじゃが、パンゲオン山のふもとにだけ緑がよみがえったのじゃ。それを見た当時のひとびとは、呪いが解かれたのかと思って、たいそう喜んだという。じゃが、その緑こそが実は、神の大きな怒りの鉢、呪いの酒じゃった。その緑とは、おまえが目にした葡萄じゃ。それは、おまえも口にして味わったように、その実は渋味と苦味で食えたものではなかったのじゃが、それまで知られていたどの葡萄のものよりも口を潤す、こころを潤す酒となったのじゃ。当時はだれも、それが神の呪いの葡萄酒であるとは思いもよらなかったことじゃろう。牧するものも牧されるものも、人類という人類が滅びの穴の崖っぷちに立たされていたのじゃ、道端の雑草でさえ口にしたという当時のことじゃ、飢えた腹に、飢えた身体にその葡萄酒はさぞかし染み入ったことじゃろう。そして、主の呪いが、一年も経たないうちに女という女の身体のなかに実を結んだのじゃ。まだ清めの儀式さえも済ましておらぬ娘が、とっくの昔に胎を閉ざした老女が、その葡萄酒を口にした女という女がみな、畸形の侏儒をはらんだのじゃ、呪われた子を、忌むべきものを。小人である侏儒どもは何も悪さはせん。ただ、主なる神の忌み嫌われる格好をしておるだけじゃ。じゃが、ここヘラスは、古代において、異教の神々が根強く崇拝されていたところじゃ、ひとびとは、その侏儒を古代の神々に生け贄とすることにしたのじゃ。もともとが、いにしえの昔に、傴僂や小人といった畸形を、まるで犠牲獣のように、生きたまま皮を剥ぎ、骨を断ち、火に焼べて異教の神々への供物として捧げていた民じゃ。古代の神々が復活するのにそれほど多くの時間を必要としなかったろう。当時、教会を再建することに全力を傾けていた正教会には、そういった異教の神々の復活を阻止する余力がなかったのじゃ。ひとびとはその時代を黙示録時代と呼ぶが、われらは単に暗黒時代と呼んでおる、正確に言うと、黙示録時代はまだ続いておるというのがわれらの解釈なのじゃからな」
 一気に喋べられて疲れられたのだろう、肩で息をされている。
「そのような話は聞いたことがありません」
「そうじゃろうて、いまではここヘラスでさえ、ひとの口にのぼることなどめったにないことじゃ。というのも、それらの呪われた子らはみな、自分を産んだ母親もろとも滅びの穴に投げ込まれたのじゃから。放り投げられた石が、穴の底に達するまでに一日といち夜かかるという、あの滅びの穴に、あの暗黒の滅びの穴に。確かに、それは悲惨な出来事ではあった。じゃが、それは、どうしてもなされなければならなかったことなのじゃ」
「葡萄はどうなされたのですか」
「もちろんのこと、すべて焼き払われたのじゃ。それらの茎は最後の一本までも引き抜かれ、焼き払われ、それらの根は地から完全に絶ち滅ぼされたのじゃ。ところが、その毒葡萄の種は、火のなかをくぐり抜けたあともなお角ぐみ、しばらくして、またその呪われた実を結んだのじゃ。そして、ふたたび神に呪われた子らが地の表にはびこることになったのじゃ。じゃが、二度目のときの正教側の退治法は完璧じゃった。焼けて灰になったものも、焼け切らずに燃えさしとなったものも、それらの毒葡萄はみな枝蔓から茎から根っこから落ち葉にいたるまですべて甕のなかに封印し、塩の地に埋めていったのじゃ。以来、ヘラスには、その毒葡萄も、侏儒も姿を現わすことがなかったのじゃ。その記録はヘラスでも、この聖アンフィソス修道院にしか保管されてはおらん。三百年という歳月が、ひとびとの頭のなかから侏儒の姿を消し去ったのじゃ。まあ、わしらの努力もあったがな。じゃが、いまのおまえの話では、どうやらその呪われた毒葡萄がよみがえったようじゃな、あの忌むべきもの、呪われた子らとともに」
「しかし、お話によると、それらは、かつて私たち正教の神父たちの手によって完膚なきまでに絶ち滅ぼされたのではなかったのですか」
「ふむ、わしもそれをいま考えておるのじゃよ。当時の種が絶ち滅ぼされたのは確かなのじゃ。もしも、種が残っておったとすれば、その繁殖の仕方を文献から推測するに、三百年もあれば、たった一本の木からいま頃、ヘラスじゅう、野は神に呪われた毒葡萄だらけとなっておったはずじゃからな。しかるに、そういった事態にいたらなかった、ということは・・・・・・もしかしたら、だれかが記録を盗み読んで、封印を解き甕のなかの残渣をパンゲオン山の裏手で隠し育てていたのかもしれん。そんなことはありえんことじゃが・・・・・・」
 師父の語調が少し和らいだ。
「ところで、おまえが口にしたという毒葡萄のことじゃが」
 私は透かさず答えた。
「すぐに吐き出しました」
「嚥み下してはいないのじゃな」
「ええ、舌の上に残った苦味さえ飲み下すことはしませんでした。その苦味がなくなるまで何度も何度も唾を吐き出さなければならなかったのです」
 心配してくださったのであろう、私がそう返事すると、安心なされたのか、師父の語調がぐっと和らいで聞こえた。
「それと、踝の傷のことじゃが」
 私は裾をまくって、虫に咬まれたところが見えるようにした。
「大丈夫だと思います」
 師父は屈んで、傷痕を見てくださった。
「あとで薬を持って来させよう。塗っておきなさい。毒虫かもしれん。おまえの説明にあったその毒虫の特徴は、文献に載っていたものに酷似しておる」
「あの虫は毒虫だったのですか」
「その可能性は非常に高い。文献によると、大した毒じゃないらしいが、用心に越したことはなかろう」
 師父は、まだ何か言い足りなさそうな顔をしておられたが、突然、気を取り直したかのような顔を向けられると、キエフでの神学校時代のように、
「では、また明朝に。たとえどんなに疲れていようとも、就寝の祈祷を欠かせることなどなきように」
 と言われた。私もまた、当時、口癖になっていた言葉を口にした。
「よくこころえております、師父」
 師父が部屋から出て行かれた。
 火屋を被せた質の悪い蝋燭が、弱々しい光を瞬かせていた。



四 罅割れ

  なぜ、あのとき、自分が
  裏切りを働いていると気づかなかったのだろうか。
  (ル=グィン『魂の中のスターリン』小池美佐子訳、著者改行)

 窓の掛け金に手をかけた。夜とも切り離されて、部屋のなかにひとり、私は蝋燭の揺らめく灯りを見つめた。
 ふくらんでは縮み、ちぢんでは膨らむ光の輪、部屋も息をしているかのようだ。
 私は、溜め息をつくと、寝台に腰掛け、傍らのテーブルに両拳を載せた。知らず知らずのうちに溜め息が次から次に出てくる。師父が部屋を出て行かれて、張り詰めていた気が急に抜けたためだろうか。師父は厳しいひとだった。信仰にだけではなく、普段の生活態度全般に渡って厳格な躾をなさるひとだった。ゲオルギオス・パパドプロス修道院長は、私がキエフの聖アントニオス修道院付属神学校の学生であったときの直接指導教師であった。つまり、学校においては、私の師父のような立場におられた方なのである。しかも、私は、神学校を出てからも師父の下で学びながら、師父の教えに導かれて、修道士としての修行を続けていたのである。六年前にヘラスに帰郷されるまで、ずっと私の面倒をみていただいた方なのである。その師父を前にして、私は緊張せざるをえなかった。師父に話しかけるときにはついつい上がり調子の声になってしまう。さっきもまた、私の声はうわずっていた。師父のふくよかな顔にあって、唯一目だけが険しい光を放っていた。その目に見つめられると私は、どんなに小さな嘘でさえ口にすることができなかったのである。しかし、それほど恐れていたひとであったのに、私は、師父を騙したことがある。私は、私の偽りの舌でもって、師父を裏切ったことがあるのだ。それは、父が亡くなったという知らせが、神学校にいた私のところに届いたときのことであった。私は、まだ神学校の学生で、三度目の行を始めるために、準備訓練をしていたときのことである。私はそれを口実に実家に帰ろうとしなかった。私の故郷ルブヌイはキエフからずいぶん遠かったし、帰る頃には葬儀も何もかもすっかり終っているだろうと思っていたのである。いや、いや、いや、自分自身に偽るのはやめよう。父、父、父、私は私の父を憎んでいたのだから。私は私を殴り、私の左耳を潰して、私の左手の指を潰した父をこころの底から憎んでいたのである。だれかと話しているときに、相手の言葉が聞き取れないということがあるたびに、ひしゃげた耳を鏡のなかに見るたびに、曲がったまま動かない二本の指が服の袖に引っ掛かるたびに、私は私の胸のなかに父への憎悪を、まるで酒樽の底の澱のように凝り固まらせていたのである。また、弟のことがあった。私が死なせた、弟のことが。そんな私が、どうして継母のもとに帰れただろうか。ところが、そのような事情を知っておられた師父は、頑なに凝り固まった私のこころを解こうとして苦心してくださったのである。そうして、私も、知らせを聞いた日の翌々日には帰ることにし、継母の待つルブヌイに向けてキエフを出発したのである。ところが、いったんは帰る決心をしたものの、臆病な私は、最終的にはルブヌイには行かず、帰路の途中に立ち寄った村の農家で野良仕事を手伝いながら半月ほど過ごしたあと、キエフに戻ったのである。師父には故郷に帰って、父の顔を、死に化粧をした父の真っ白な顔を見てきたと話した。そのとき私は、いったいどんな顔をして師父の前に立ったのだろう。師父に嘘をつきながら、どんな表情を見せていたのだろうか。師父のあの刺すような視線を受けて、私は、しっかりとその目を見つめ返すことができただろうか。ただ、私が覚えていることは、あのとき、師父の視線が、その視線の矢の痛みが、私の目を通して私の身体を、頭の天辺から足の爪先まで、貫いていったということだけである。それは、私にとって長い時間だった。もしかしたら、師父は、見つめられてすぐに目を逸らした私を見られたかもしれない。いや、それだけではないだろう。おそらく、私の偽りの舌が、欺きの口のなかに震えるのをさえ目にされたに違いない。きっと、師父は、私の言葉のなかに嘘があるのを知っておられたのであろう。なぜ、私を問い詰められなかったのかは分からないが、それだけに、私にとって、師父は不可解な、恐ろしい存在であった。あのとき私は若かった。気の弱さがそのまま顔の表に出る歳頃だったのだ。きっと師父は知っておられたに違いない。
 昔のことを思い出すのはつらい。私は蝋燭の灯りを見つめた。いまにも灯芯が燃え尽きかけようとしている。火屋のガラス筒の上方にある罅割れが、部屋の隅に大きな影を映し出している。蝋燭が息をするたびに、影もその輪郭を頻繁に拡げたり縮めたりしながら激しく息をしていた。ああ、しかし、いまとなっては、父のことも、弟のことも、継母のことも・・・・・・

  ・・・・今ではすべてが空しいのだ。
  わたしはランプの灯影に眠らう、
  机の上にのせた拳に額をのせて、
  それ以外には聲を聞かぬ人だけが聽く
  不斷の私語にゆられながら。
    (フランシス・ジャム『去年のものが・・・・・・』堀口大學訳)

 ルブヌイの夏は過ごしやすい。灼熱を孕んだ陽光も、日陰にさえ入ってしまえば、どうということもない。吹き出た汗も風のひと吹きで静まってしまう。何といってもルブヌイは、中央ロシア高地とカルパチア山脈に挟まれた平野にあるために、地をなめるようにして吹き荒ぶ北風が冷たい空気を運んでくるのである。夜ともなれば、気温が信じられないぐらいにぐっと下がる。場合によっては、夏の季節に、ペチカに柏の薪を詰め、木炭に火を点けることにもなるのである。
「ミーシャとヴァーニャはまだ帰らないのかい」
 アンナ・パーヴラヴナ・ソポクレートヴァは、声のする方を振り返った。納戸の薄暗がり、床よりも天井に近い、ペチカと内壁のあいだに渡された一枚の寝板の上から、姑が陰気な顔を覗かせている。
「まだですよ、夜飼いに出てるんですからね、そんなに早く帰ってくるわけがないでしょ」    
 老女は、そう言われても、まだ不安気な顔でアンナを見下ろした。
「そうかい、でも、この夏はえらい冷え込み方で、牧には草なんかちっとも生えてないっていうじゃないかい。何かあったんじゃ」
 アンナは、自分と同じ名前を持った姑の言葉を、こともなげに遮った。
「だから、遅くなるんですよ。まだ、日が暮れてそんなにならないでしょう、心配することなんかありませんよ。それに、あの子たちだって、もう一二と八つなんですからね」
 年寄りのアンナは、まだ何か言い足りなさそうにして、歳若いアンナを見下ろしていたが、彼女が睨み返しているのに気がついて、納戸の奥に慌てて身を滑らせた。かつては姑に頭の上がらなかったアンナも、姑がその連れ合いを亡くしてしまってからは、ずいぶんと強気になっていた。その逆に、すっかり弱気になっていた姑の方は、ともすれば言いたいことの半分すらも嫁のアンナに口出しすることができなくなっていた。いまも、年老いたアンナは、納戸の薄暗がりのなかで、声を上げることすらできずに、悔しさに涙を流していたのである。アンナは立ち上がってペチカに火を点け、部屋の中央にルチーナを持ってきた。松明の火とペチカの火が弾けた音を立てながら燃えている。アンナはテーブルのところに戻って、やりかけの刺繍を取り上げた。アンナは、夫のルパーシカの縫い取りを終えた。彼女は、それを松明の灯に照らしてみた。覆輪に施した青い薔薇が美しかった。それに使った縒り糸は、これまでに彼女が作ってきたもののなかでもっとも出来のいいものであった。アンナはそれを青く染めた。染め上がりは、また、彼女の予想以上に素晴らしいものであった。アンナは、モルフォ蝶のような光沢を持ったその刺繍の上に指を這わした。働きもののアンナの荒れた指先が固くなって久しい。その指の腹が青い花の上を滑る。現実には存在しない青い薔薇に、現実の塊のようなアンナの節くれだった指が触れる。アンナは、陶酔したような表情で、何度も何度も繰り返し親指の腹で縫い取りの上を撫でていた。
 ルチーナが大きな音を立てて燃え弾けた。青い薔薇に見蕩れていたアンナは、それをテーブルの上に置き、三つの小さな四角い窓がある方に目をやった。夜の闇のほかには何もなかった。彼女は振り向いて、ペチカの横に目をやった。イヴァーンとミハイールがいない。まだ帰らないのである。こんなに遅くなることはなかった。寝床では、ペチカの影が微かに震えている。アンナは、ふたりが帰ってきたら、思いっきりお仕置きしてやろうと思った。それにしても遅かった。姑の言うことには何でも反発して、さっきもあんなことを言っていたアンナではあったが、いまでは自分も心配になっていた。夫もまだ帰らない。沈黙と静寂のなか、松明の燃え弾ける音が、アンナにはしだいに耳障りになってきた。アンナはルチーナの灯を睨みつけた。睨みつけられた松明は、苛立つアンナの気持ちにはお構いなしに、バチバチと燃え弾けている。
 声がする。彼女は玄関のところに走り寄っていった。
 イズバの外では、グリゴーリィ・セルゲーエヴィチ・ソポクレートフが妻の実弟のヴァシーリィ・パーヴロヴイチ・アクショーノフに肩をかしてもらいながら一歩一歩戸口の階段を上っていくところであった。
「ほれ、義兄さん、足下に気いつけて」
 玄関まで僅か六段の階段である。
「分かってるってさ」
 口ではそんなことを言っていても、しこたま呑んで酔っ払っているグリゴーリィは最上段の蹴込みにつまずいた。
「いててててっ」
「ほれ、言わんこっちゃなかろう」
「いてえ、いてい」
 グリゴーリィは、義弟の肩に掴まりながら、空いた方の手で向脛をズボンの上からさすった。張り上げる声を聞きつけて、家のなかからアンナが出てきた。
「あんた、また酔ってからに」
「うるさい」
 グリゴーリィは、自分を抱きかかえようとするアンナの腕を振り払った。アンナは拡げた両の腕を下げないで、そのまま腰のところに持っていくと、さらに額に皺を寄せて、
「なんで寄り合いのたんびに酔っ払って帰ってくんだい、いいかげんにおしよ」
 と、喚くように言葉を夫にぶつけた。グリゴーリィは、いままで支えてくれていた義弟の肩から腕を振り解くと、
「寄り合いは男だけのもんだ、女が口出しなんかするなあ」
 と、怒鳴ると、身体の平衡を保てなくなって、玄関口の横の壁に寄りかかった。ヴァシーリィは両手を拡げたまま、グリゴーリィが倒れたりしないだろうかと心配しながら、義兄の側にまだ立っている。アンナはそれを見て、夫に近寄ると長身の彼を横から抱きかかえて実弟に礼をいった。
「いつもすまないねえ、おまえ」
「いいんだよ、姉さん。そいじゃ」
 別れを告げて手を振る実弟を見送ると、アンナは夫と家のなかに入っていった。部屋のなかに入ると、アンナはまず、赤い隅と呼ばれる聖像画が置かれた神棚に頭を下げ、次いで納戸のある方を見上げた。姑は眠っているのか、顔を覗かせない。
「あんた、ヴァーニャとミーシャがまだ帰って来ないんだよ」
 テーブルに両肘を載せ、それに額を圧しつけて俯せになっていたグリゴーリィが、頭を揺らしながらゆっくりと顔を上げた。そして、ひと瞬き、ふた瞬きほどのあいだ、アンナが口にした言葉の意味を考えていたが、急に吐き気でも催したのか、顔をしかめ、涙を溜めた目でアンナを見つめた。
「どうしたんだあ、とっくに帰って寝ちまってる時間じゃないのか」
 アンナは立ったまま、夫を見下ろしながら言った。
「あたしゃ、何だか心配だよ。ミーシャは、あんたに似てあのとおりぼやっとしてるしねえ、それに、ヴァーニャはまだ小さいしね」
「おまえが心配なのはヴァーニャだけだろ」
 アンナは夫の顔を上から睨みつけた。グリゴーリィは妻の顔から目を逸らすと、部屋の隅にある神棚に向かってこくりと頭を下げて囁くような小さな声でつぶやいた。
「神さま、ふたりとも何ごともなく無事でありますように、あなたはかならず見ておられます。あなたは、あなたの小さな子羊をつねに見守ってくださってます、神さま」
 何事かがあると、こうして神棚に置かれた聖像画に向かって祈るのが、ロシア正教徒の、つまり、ほとんどすべてのロシア人の習慣のひとつとなっているのである。アンナがさきほど部屋に入る際にしたように、正教徒たるロシア人たちは、赤い隅に頭を下げることなしには、部屋のなかに入って来ることさえなかったのである。
「捜しに行こうさ、風にあたれば、あんたの酔いもすぐに醒めちまうよ」
 ふたりは子供たちを捜しに出かけることにした。
 外は暗闇、星はなく、刈り鎌のように抉り欠けた月が、その鋭い刃先を雲に突き刺している。家々の窓、数多くの四角い目から零れ出る灯明の欠片、そのほつほつとした光だけが、夜の道に浮かんでいた。そのうち、月が姿を隠した。夜の天幕を繕ったものがいるのかもしれない。ふたりは蝋燭燈をかざしながら、その頼りない貧弱な明かりを導き手に歩くほかなかった。
 子供はいなかった。どこにもいなかった。草のある牧にも、水のある川辺にも。ふたりはいたるところ捜して歩いた。郷の中央を流れるその川は、大人でさえ渡り切れないほど、岸から岸までずいぶんとある大きな川であった。グリゴーリィとアンナのふたりは、何時間も捜し回った。風呂場として使われている小屋のなかも、橋の袂やその橋脚の陰となったところまで、ふたりは、隈なく捜し回った。また、グリゴーリィは、昔、自分が子供だった頃によく遊んだところを思い出しては、アンナの手をひいて捜し回った。ざりがに捕りをした沼や、隠れ場にしていた廃屋など、思いつくところはすべて捜した。それでも見つからなかった。
「きっと、もう帰ってるわよ」
「そうにちげえねえ」
 もうすっかりグリゴーリィの酔いは醒めていた。ふたりは歩き疲れた足を引き摺り引き摺って帰路を急いだ。しかし、蝋燭の替えなどはとっくになくなっていた。ふたりは真っ暗闇のなかを歩かなければならなかったのである。それでも何とか帰ることはできた。
 先の方に小さな明かりが見えてきた。
「あれは、おれんちのへんだろ」
 ふたりとも、急に足が軽くなったように感じた。
「きっと戻ってるわね」
「ああ、きっと戻っちまってるさあ。だけど、うんと叱ってやらねえとな」
 ふたりは玄関の階段を駆け上がった。
「おふくろ、ミーシャとヴァーニャはっ」
 ペチカの前で、祖母に抱かれるようにして、ミハイールが、毛布にくるまり、膝をかかえて震えていた。しかし、その震えは、寒さばかりのせいではなかった。部屋のなかは、暑いくらいに暖まっていたのである。イヴァーンの姿がなかった。
「ヴァーニャはどこだ、どこにいる」
 その声を聞くと、ミハイールは身体をひくつかせて泣き始めた。グリゴーリィの後ろから妻のアンナが顔を出した。
「ヴァーニャはどこなの」
 祖母は孫を庇って、その枯れ皺んだ細い腕でミハイールを抱きながら言った。
「おぼれたんじゃと、牛に水をやっているときに溺れたんじゃと。あれは子牛じゃったが、力はすごいもんじゃろ。急に暴れだした子牛に振り回されて、ふたりは川に落っこっちまったんじゃと」
「そいじゃあ、ヴァーニャは溺れちまったってことけえ」
「そんなっ」
 と、アンナはすっとんきょうな声を上げると、夫を押し退けて、ミハイールのところに駆け寄った。
「ヴァーニャはっ、ヴァニューシカはどうしたんだいっ」
 アンナは、震えるミハイールの肩から毛布を剥ぎ取って、その小さな肩を前後に激しく揺さぶった。
「さがしたよ、さがしたよ、さがしても見つからなかったんだよう、ずっとずっとさがしたんだよう」
 子供は泣きじゃくりながら訴えた。
「あんたっ、ヴァニューシカはどうしちまったんだろ」
 アンナは振り返って夫の顔を見た。
「おまえはいつ戻ってきたんだっ」
 姑は、嫁の手を、その食い込んだ指を、血の滲んだ孫の肩から外してやると、口を開けば震えながら、ただ歯をがちがち鳴らしているばかりのミハイールの代わって答えてやった。
「ついさっきじゃよ、納屋の戸が開く音がしてね、それで納屋を見に行ったら、この子が馬房の前で干し藁にくるまって震えておったんじゃ。わけを訊くとな、この子が・・・・・・」
 グリゴーリィの耳には、それ以上母親の声は聞こえなかった。
「おまえが溺れさせちまったんじゃな」
 そう言うと、グリゴーリィは、玄関口に立てかけてあった杖を右の手にした。それは、母親が歩行の際に使う、樫の木でできた杖であった。彼は、それを振り上げるとミハイールの頭の上に打ち下ろした。年老いたアンナが腰にすがりついて止めても、杖で撲つのをやめなかった。ミハイールは泣き叫んだ。それを聞くと、なおいっそうグリゴーリィは杖を激しく打ち下ろした。歳若いアンナは夫の形相を見て、ただ呆然として立ち尽くすことしかできなかった。懲らしめの杖は、何度も何度も打ち下ろされた。杖が折れたときには、ミハイールは気を失っていた。子供の顔は血塗れだった。肩で息をしている夫の手から、妻のアンナが樫の棒を恐る恐る取り上げた。姑はミハイールの横に坐り込み、両手で顔を覆って絞りだすような声で泣いている。
 ミハイールの顔は血塗れだった。奇妙に折れ曲がった小さな指のあいだから潰れた左耳が覗いていた。

 鳥の声。指先が触れる。潰れた耳。鳥のさえずる声。指と人差し指の腹でつまむ。潰れた左耳。鳥のさえずる声が聞こえる。耳輪の瘤の膨らみが、耳たぶに繋っている。外耳道は、肉が盛り上がって塞がっている。鳥のさえずる声が微かに聞こえる。私は目が覚めた。
 私は、目の前に、曲がったまま真直ぐに伸ばせなくなった左手の指をもってきた。撲たれたときに頭を庇った薬指と小指である。
 私は起き上がって、部屋のなかを見回した。何もかも、紫色に染まっている。かわたれ時か、そういえば、あのとき私が、気を失ってから初めて目が覚めたのも、このぐらいの時間だったろうか。ルブヌイの修道院に担ぎ込まれた私が、そこの施療院の寝台の上で初めて目を覚ましたときと同じように、壁も、掛け布も、テーブルも、そして、私のこの歪んだ指も、何もかもが濃い紫色に染まっていたのである。あのあとしばらくのあいだ、私は、だれとも口をきくことができなかった。だれが部屋のなかに入って来ても、掛け布を頭からすっぽりと被って、決して顔を見せないようにしていたのである。親が会いに来ても、私は、掛け布の下から頭を出すことなく、ただ震えてばかりいたのである。そして、いつのまにか親は、施療院に現われなくなった。修道院が使いを送っても、私の親は、私を連れ戻しに来なかった。そして、二度と私の前に現われることがなかったのである。修道院側は困っただろうが、私の方はそれを聞いて嬉しかった。こころから喜んだ。二度と家に帰りたくなかった。絶対に戻りたくなかったのである。そして、その頑なな思いを遂げるためには、私は、僧侶になるほかなかったのである。すなわち、父が、私の頭の上に振り下ろした懲らしめの杖は、私をして修道士にならしめたのである。何ということだろう・・・・・・

  そして もし悲しむこころの泉が封印されるなら、
  それをやぶらぬがよい!
  おまえが家に帰れば おまえの泉は
  涙と悔恨にあふれていようから。
  世のきびしいあらしから
  墓のかげに隠れ家を求めよ。
   (パーシー・ビッシュ・シェリー『アドネース』上田和夫訳)

 昔のことを思い出すのはやめよう。つらいだけなのだから。
 祈りの準備をするために、私は、寝台の脇に置いておいた頭陀袋のなかからヴェルヴィツアと祈祷書を取り出した。ヴェルヴィツア、これは、キエフの修道院にいたとき、師父に贈られた数珠で、紐に編んで作られたものである。起きるのが遅かったために、暁課には間にあわなかったが、その分、朝課と一時課にまたがって、こころから勤めを果たすことにした。
 私は祈祷書のページを繰っていった。



五 分時鐘

  明らかな意味と、
  隠されているといわれる意味と。
  (パスカル『パンセ』第十章、前田陽一・由木康訳、著者改行)

 鐘が鳴っている。短く切って、また、鳴らされる。なっては止み、やんでは鳴る鐘の音、分時鐘、何ごとかあったのかもしれない。死を報ずる鐘、弔鐘だろうか。耳に慣れない異郷の鐘だと、打ち方が違って、それが何を意味するのか分からないものである。しかし、何か、ただならぬことが起きたということだけは分かる。修道院のなかの廊下を小走りに駆けてゆく修道士たちの足音が聞こえるのである。私は一時課を終えたばかりであった。それまで床に膝をつけて神を祈っていた私は、立ち上がり、振り返ると、扉の覗き窓から外の廊下の様子を見た。ただならぬ空気が漂っている。何か霊感といったものに衝かれたかのように私の足が勝手に動いてゆく。出合い頭に、きのう私をこの部屋に案内してくれた輔祭の胸に軽くぶつかった。
「何かあったのですか」
 彼は一瞬のあいだ、躊躇するように目を逸らして考えるような顔をしてみせたが、
「とにかく来れば分かりますよ」
 と言って、私の手をとって急がせた。
 私たちは修道院を出ると、鐘の音がする方に向かって走り出した。大通りに出ると、町のものも鐘の音に導かれて家々から、路地路地から出て来た。みな、教会前の大広場に集まっていくようだ。駆けてゆくものもいれば、喋べりながら歩いてゆくものもいる。
 広場のひとだかり、その上には二体の骸がぶら下がっていた。私たちは、ひと波のあいだを擦り抜けて前に進み出た。それらの死体は侏儒であった。私は、横にいる輔祭の顔を見た。彼は、まるで急に馬鹿になったかのように、ただぽかんと口を開けて、風に揺れる小人たちをじっと見上げているばかりであった。
 私は彼に声をかけた。
「これらは・・・・」
 彼は、初めて私の存在に気がついたかのように、目を瞠って私の顔を見つめた。
「これらは町のものたちにサテュロスとか、パーンの裔とかと呼ばれています」
「しかし、きのうの修道院長の話では、ここ何百年間のあいだに現われることなどなかったということでしたが」
「噂はありました。羊飼いや山羊飼いたちのあいだで、また、木こりや行商人たちのあいだで、何度も見かけたという話があるのです。まあ、教会側としては、やっと調査に乗り出したところでしたが、ゲオルギオス主教の指示で、けさ未明、パンゲオン山のふもとの方に討伐隊が派遣されたのです」
 私は、その吊されたものたちのなかに、きのう私が見た小人がいるか確かめるために絞首台に近づいた。後ろ手に縛られ、裸に剥かれたその骸は、どちらもひとの背の半分ほどしかなくて、顔面だけが白粉をまぶされて真っ白になっていた。喉もとに食い込んだ絞首索が肉のあいだに埋もれて見えない。白塗りの目を閉じたふたつの顔はそっくり同じで区別がつかなかった。きのう見た侏儒がぶら下がっているのかもしれないが、私には見分けがつかなかった。さらに近づいて、じっくりとつぶさに見た。奇妙に捩れた首の上には、この世のものとは思われないほどに醜く歪んだ顔があった。目頭に血が固まっている。黒紫色に変色した短い舌を覗かせた口のなかに二条の歯列を見ることができた。歯が二列になって並んでいるのである。奇妙というより無気味なさまであった。髪の毛は、生れてから一度だって洗ったことも、櫛を入れたこともないように、脂と埃にまみれて団塊状に固まっている。目を下にやれば、生っ白い、太短い胴から、毛むくじゃらの浮腫んだ足が二本ずつ生えていた。角さえ揃えば、神話に出てくるサテュロスそのものだった。
 叫び声がした。輔祭も私も振り返った。身なりの貧しい、若い女が泣き叫んでいる。
「どうしたのですか」
「どうやら異教徒のようですね。この呪われた獣たちを、絞首台から降ろすよう願い出てきたようです。しかし、それが聞き入れられないと分かって泣き叫んでいるのでしょう」
 その女が数人の修道士に取り囲まれた。そして、立たせられると、引き摺られるようにして人々の輪の外に連れて行かれた。
「どこへ連れて行くのですか」
「教会ですよ、もちろん」
「彼女はどうなるのですか」
「それは私にも分かりません」
 輔祭は、また、目の前のオークの枯れ木に吊り下げられた、二体の忌むべきものたちに目を移した。私は、私自身の意志で輪の外に出た。
 終ったはずの夏、その夏を思い返させるほどに嗜虐的な陽の光、太陽が灼熱を懐胎した無数の鞭をそこらかしこに打ちつけていた。乾いた道に、その白い石畳の上に。
 くっきりとした濃い影が私の前を歩いている。それは、あのサテュロスのように、私の半身ほどの大きさしかなかった。
 見上げると、どこまでも青い空の端で、秘かに置き忘れられた斑入りの片雲が、瞬きの間に飛び去る蝶のように、速やかに流れ去っていった。



六 聖なる山

 ヘラス北部のカルキディキからは、細長い三つの半島が、三つ叉の肉刺しのように突き出ている。標高およそ二ベルスターほどのアトス山は、その最北東部のアクティ半島突端に聳えている。しかし、人々は、慣用的にこの半島全体を指して、アトス山、または、単にアトスと呼んでいる。というのも、ここには、中世以来の伝統ある正教寺院が数多くあり、それが特にアトス山に集中しているためである。正教圏のさまざまな国から、府主教クラスの高位聖職者が派遣されている。エルサレムと同じように、このアトスもまた、正教の聖地となっているのである。

  周囲には
  陰鬱な海面が
  風にさえ見放されて
  波も立てず
  あきらめ切ったように
  大空の下に横たわっている。
  (E・A・ポオ『海の都市』入沢康夫訳、著者改行)

 港には潮の香りがきつく匂っている。私は、師父に手配してもらっていた小さな商船に乗り込んだ。それはガフセール型の帆船で、半島付根のイェリソスまで食料品や衣類を運び、帰りにアトスの修道院で作られた聖像画や、聖書や古書の写本や、浮き彫りを施した聖具類などを積んで戻るらしい。風がない。舫いが解かれてしばらくしても、船はなかなか岸から離れようとしない。揚げられた帆が、だらしなくたるんだままだった。数十羽のペリカンが、岸辺をわがもの顔に闊歩している。風は微塵も吹かない。嘴の下に大きな袋をぶら下げて、岸辺で騒ぐ水鳥たち。飛びかけるものもいれば、不格好なさまで踊るように走るものもいる。網からこぼれた魚をついばむ水鳥たち。港の朝の風景。風はまだ吹かない。水鳥たちの鳴き声ばかりが耳につく。身を廻らせて海を見た。弾け飛ぶ陽の光。水面の上の無数の煌き。太陽の欠片が海に零れ落ちている。こぼれ落ちて蒸発しているのだ。
 それは、私の視覚を麻痺させるような輝きだった。
 船長が私の側にやって来た。
「神父さん、こんなときは待つんですよ。ただ待つのみですよ。あなたがたは、天のことなら知っていなさるが、海のことなら、私たちの方がよく知ってるんですから」
 彼は、さも自信あり気に葉巻をひと喫いした。口の端に吐き出された煙草の濃密な烟が白い口髭にいったんこもって、また、ゆっくりと顔の前を舞い上がっていった。
「どれぐらい待つことになるのでしょう」
「さあ、それは分かりませんな、風は気紛れでしてな。私たちは、ただ待つことしかできません。しかし、そんなに長い時間待つこともないでしょう」
 海洋民族の末裔は、目尻に強烈な皺を寄せて微笑んだ。すると、突然、風が身体をなぶった。私は風に吹き飛ばされそうになって、咄嗟に帽子を押えた。頭の上で音がした。水に濡れた掛け布が、力いっぱいはたかれるような音がした。
 見上げると、帆が風をはらんで大きく膨らんでいた。
「こんなもんなんですよ、神父さん」
 先が炭火のように真っ赤になった葉巻を斜交いにくわえたまま、船長は目を細めた。
 そして、船は、同磁極を向かい合わせた磁石が反発するように、するりと岸から離れると、煌き煌く永遠の輝きを切り裂いていった。



七 腫れた足

 船がアクティ半島の東北岸にあるイェリソスの港に着くと、小舟に乗ってクセルクセスの運河からシンギティコス湾側に出て、そこから海岸線に沿って半島の折れた腕の上腕部にあたるウラノポリスまで歩いた。そこで、またふたたび船に乗り、半島の中央、腕の屈曲点にあるダフニまで海から廻っていった。そして、ダフニで驢馬を借り、首府カリエスまでそれの背に跨がっていったのである。船乗りたちを別にすれば、ウラノポリスから、アトスで見かける人間たちは、みな黒衣に身を包んだ修道士ばかりであった。女人禁制のこの地には、驢馬でさえ雌はいないらしい。私が跨がるこの驢馬も雄である。
 カリエスの政庁で手続きを済ませると、パンテレイモン修道院から交代勤務に来ていたヴィサリヨーン神父が、わざわざ私をそこに案内してくれることになった。パンテレイモン修道院は、ロシア正教がアトスに持つ修道院のなかで最も大きいものであった。そこに行くには、山を越えなければならなかった。
 黄緑っぽい茂りや、深緑のこんもりとした固まり、灰色がかった緑のオリーブ園、アトス山はさまざまな緑に覆われていた。私たちはいったん、目的地近くの海岸線に出た。回り込んで行くことにしたのである。パンテレイモン修道院は、船着き場から急に引っ込んだところにある。
「ミハイール神父、顔色がよくないようですが」
 彼は私の顔を覗き込んだ。
「いいえ、ヴィサリヨーン神父、大丈夫ですよ。ただ、ほんの少し旅の疲れが出たのでしょう」
 とは言ったものの、私は、道の途中で坐り込んでしまった。ここに来て、旅の疲れが出たのかもしれない。しばらくのあいだ、私は、腫れた足を休めさせてもらうことにした。ヴィサリヨーン神父は、黙って傍らの樹の下で、涼をとって休んでくれた。しかし、いつまでも甘えてはいられない。陽が傾きかけてきたようだ。海の顔が微妙に変わってきた。やがて、ホメロスが讃えたように、アイゲウスの海は葡萄酒色に染まってゆくのだろう。
 私たちはふたたび歩き始めた。腫れた足に山道はきつかった。
 目的地に着いたときには、私の両の足は、鉄の鋲でも刺さらないほどに堅く凝り固まっていた。しかし、間近に聖堂の丸屋根を目にしたときには、いくらか足の凝りが和らいだ気がした。



八 負の光輪

 礼拝堂にあるものは、吊り燭台も、その光に照らし出された聖なる衝立も、それに架けられた夥しい数の聖像画も、みな金ずくめであった。その輝きを背にして立っておられる白髪の小柄な老人が、パンテレイモン修道院長であった。
「きみは、ゲオルギオス・パパドプロス神父の弟子だという話だが、かっては、神父が、わしの弟子だった。すると、きみはわしの孫弟子とでもいうところかな」
 ピョートル・ヴァシーリェヴィチ・セミョーノフ修道院長の両の目が私を捉えた。
「きみは、異端の詩人の作品の研究が専門らしいが、いったいどういった詩人について研究しているのか、聞かせてくれたまえ」
「サッフォー、バイロンなどといった、ヘラスゆかりの詩人たちの詩歌について研究しております」
「ここには、異端の宗教家や思想家について、たいそう詳しいものがいる。しかし、そういった異端の研究者は常に少数者だ。とりわけ、本院においては、そういった異端の研究をこころよく思わないものが多いのだ。だからもしも、きみがきみの研究を続けてゆくつもりなら、しばらくのあいだは、本院から離れて、ラブラ形式でやってもらわなければならない。そして、きみはそれを承知でここにやって来たという」
 私は首肯いた。ラブラ形式、それは、ひとりではなく、数人で行なう修行形体のことである。
「いま、ふたりの修道士が、この山の裏手にある洞穴を隠処にして修行しておる。きみはそこに加わって修行することになる」
 ピョートル修道院長は、その皺だらけの顔面に微かに笑みを浮かべられると、
「さあ、それでは、ふたりのいるところに案内しよう、私が行く。彼らの様子も見ておきたいのでな」
 と言われて、聖堂から出るように促された。
 その洞穴は、パンテレイモン修道院の裏手にある分院の横道を下り、さらに左手に分岐した小道を下ったところにあった。傍らには、水底まで透いて見えるほどに清い水を湛えた小さな泉がある。修道院長が先に洞穴のなかに入ってゆかれた。私はあとからついていった。奥行のない、天井の低い洞穴で、狭くて窮屈ではあったが、私を入れて三人の人間が居住するには十分な広さであった。
 しかし、ここにはふたりの姿がなかった。
「森のなかにでもいるのだろう」
 と言って、修道院長は蝋燭に火を灯して、粗末な机の上でペンをとられた。
「ここに事情を書いておこう。きみが、きょう、パンテレイモンにやって来たことを、これから先、きみがここに加わって修行することを」
 自分の名前を署名し終えると、ピョートル修道院長は、聖パンを置くパテナに似た金属製の小さな丸皿の下にそれをかませられた。
「私はどうしていたらよいのでしょう」
「ここで待っておればよろしい、そのうちにふたりとも戻って来るだろうて。さて、それにしても、きみはずいぶんと疲れた顔をしているな、ここで少し横になって休めばよかろう」
 そう言い残して、修道院長は立ち去られた。
 私は寝具の上に横たわった。いま頃になって、踝の傷が痛むのである。手に触れると、そこは熱をもって腫れていた。あの泉の水に浸けてみようか。あの澄んだ水は冷たそうだった。
 私は起き上がり、洞穴の出口に向かって歩いた。すると、出口のところで、普段なら決して躓いたりしないような、何ともない窪みに足を取られた。やはり、相当疲れているのだろう。
 咬み傷のある左足の方から浸けていった。泉の水は思っていたよりずっと冷たかった。腫れの痛みがたちまち和らいでゆく。上から覗くと、底は浅そうだったのに、実際はずいぶんと深かった。腰の辺りまで水に浸けようと、私は泉の中心に向かって石伝いに歩いていった。足場に手ごろな平たい岩の上に立って、私は、胸の前で肘を引き、両の掌を合わせて印を結んだ。祈ろうとした。祈ろうとして、目をつむった。しかし、目をつむったが、こころを一点に集中することができなかった。

掌をふたつに離し
目を開けて空を見上げた
一線に並んだ白い雲が
ゆっくりと地上を見下ろしながら
私から遠ざかってゆく
雲は去り
二度と帰らない
あの雲は、どこに行こうとしているのか
あの雲は、どこでその命を尽きるのか
雲は去り
二度と帰らない
私もまた・・・・・・
足場にしていた岩が動いた
水に足を取られた
足が攣り、水に縺れた
息ができない
口からも、鼻からも
慌てて水を吸い込んだ
何とか息をしようとしたが
水面に顔を上げることさえできなかった
目と、耳と、鼻と、口と
みな、水の苦しみにもがいていた
そして、私は
激しい苦しみのなかに
目の前が真っ暗になっていった・・・・・・

 私は暗闇のなかにいた。しだいに、輪郭が浮かび上がってくる。それでも、辺りは濃紺色に閉ざされて、はっきりとは見えない。川辺であることだけは確かであった。柳が、歯の欠けた櫛のように、川端にとびとびに立ち並んでいる。どの木も、その柔腕に無数の鞭を垂らしていた。川面は、恐ろしく見事にみがき上げられた黒曜石のように月の欠片を映して煌いている。そうだ、私は知っている。これは夜だった。私は弟を捜していたのだ。捜していたのである。見つかるだろうか。見つかるだろうか・・・・・・。いや、見つかる可能性はほとんどないだろう。あの流れでは見つかりはしないだろう。なら、なぜ捜しているのだろう。そもそも、私は真剣に捜しているのだろうか。ただ捜す振りをしているだけなのだろうか。父に言い訳ができないからか、それとも継母と顔を合わすことができないからか。いや、理由はどうであれ、イズバに戻ることはできない。
 私は川面に目を落とした。無数の砕けた月の欠片たち。川面は銀の光にちらちらと瞬いている。弟ひとりに子牛に水をやらせて、私は水辺で休んでいた。昼間の水汲みに疲れていたのである。玄関に置いてあるあの甕に水を満たすために何十往復したものか。しかし、どうして私は、弟ひとりに子牛をみさせたのだろうか。私は、川辺の雑草を引き抜きながら、弟の姿を見つめていた。子牛が突然暴れだした。私が立ち上がるのと同時に、弟の姿が水のなかに吸い込まれた。牛が駆け出した。取り押さえに走り寄ったが、たとえ子牛であっても、子供の手におえるものではなかった、私は振り払われて躓いた。躓き、膝をついて泥だらけになった。見る間に子牛は走り去っていった。弟は、弟は・・・・・・。私は川岸に立って川の流れに弟を捜した。捜しても見あたらなかった。私は、川筋に沿って下りながら弟の姿を捜していた。捜して、捜し歩いた。弟の姿を捜し求めて、どんどん川を下っていった。どうして私は、あのとき、まず、弟が落ちたところに走り寄らなかったのだろうか。その一瞬に、私は何を考えたのだろうか。すぐに弟の落ちたところに駆け寄るべきであったのに。その一瞬のあいだに、私は躊躇したのだ。その一瞬のあいだに、私の頭のなかに継母のことが過ったのである。自分の産んだ子供だけを、弟だけを可愛がる継母のことが。私には見せたこともないような優しげな表情で弟を抱く継母のことが。私の母が死んですぐに父と一緒になった継母のことが。そして、父のことが。女にだらしのない父のことが。父は私の存在を無視していた。子供には冷たいひとであった。お祖母ちゃん子だった私も、父に親近感を抱いたことなどなかった。むしろ、私は私の母が死んですぐに継母を娶った父のことが許せなかった。憎しみさえ抱くようになったのである。この耳も、この潰れた耳も・・・・、この耳も。私は立ち止まって、自分の左耳に触れてみた。確かに耳は潰れている。欠けた耳に、虚ろな風が吹き通る。私は辺りを見回した。いままで、こんなに川下まで来たことがなかった。知っているようで、知らないところだろうか。いや知っている。ここには来たことがある。私の母がまだ生きていた頃に、私がまだ本当に幼い頃に、父が、よく釣りに連れてきてくれたところだ。あるとき、父は、川床に溜った朽ち木に釣り針を引っかけて難儀したことがあった。何度か竿を引っ張っても取れなかったので、とうとう父は川に飛び込んだ。なかなか顔を出さない父のことが心配になって、母に泣きついた記憶がある。やっと顔を上げて、水から上がってきた父に、母が私のことを話した。それを聞くと、父は濡れた身体で私を抱き締め、思い切り声を張り上げて笑った。濡れた胸に抱かれた私は、嬉しいような、恥ずかしいような変な気分にさせられた。そんな父が、いつから変わったのか、そんな私が、いつから変わったのか。いつから私は、父のことを憎しみの目で見るようになったのか。いつから私のこころは、父の胸から離れたのか・・・・・・。少し離れたところに人影が見える。膝を折って、向こう向きにうずくまっていた。私は近づいていった。継母の後ろ姿に似ている。そばまでゆくと、その影が振り返った。予感が当たった。それは継母だった。吊された侏儒のように、オークの木にぶら下げられたあのサテュロスのように、白塗りの顔で、私を睨みつけたのである。その腕には、溺れたはずの弟が抱かれていた。目を閉じたその顔は青く、息がないように青かった。継母が口を開きかけた。私は思わず後退った。すると、もの凄い力で肩を掴まれた。顔を後ろに向けようと振り返るより速く、私の上半身がその力に捩られた。捩られて合わせた顔は、父のものだった。真っ白に塗られた顔、充血して真っ赤な目。強張り固まった私の肩を、父は激しく揺さぶった、激しく揺さぶった・・・・・・。



 私は肩を揺すぶられて目が覚めた。周囲には、心配そうな表情で私の顔を覗き込む、たくさんの顔があった。
「ずいぶんと、うなされていた」
 ピョートル修道院長の顔があった。
「息を吹き返してよかった。きみは、泉で溺れて気を失っていたところを、森から戻ってきたそこのふたりに助けられたのだよ」
 寝台の両脇にいたふたりの修道士が、交互に口を開いた。
「洞穴に戻ってきてね、きみのことが書かれた紙を見たんだが、肝心のきみの姿が見あたらなくてね、それで、ふたりで捜しに出たんだよ」
「そして、泉の縁で、岩にしがみついたまま気を失っていたきみを見つけたんだよ」
「ずいぶんと重かったね」
 目に映るふたりの顔が、しだいに涙でぼやけていった。

 U字型の回廊に囲まれた修道院の中庭、そのU字形の屈曲点に、造りつけの椅子がある。そこに私と修道院長が並んで腰掛けていた。陽は高く、芝生の上にはほとんど影がない。ただ片側の回廊から続いた影の一部が、僅かばかり緑の端に顔を覗かせているだけだった。
「きみはいま、信仰に対する気持ちが揺れ動いていると言ったね。しかし、それは、きみが自身の行ないを罪と意識してこそのこころの動揺なのだよ」
 私が弟を殺したのだ。死ねばいいとは思わなかったが、結果は同じことなのだ。そこにどれほどの違いがあるだろうか。いや、これも自身への偽り、裏切りかもしれない。かって一度として、弟のことを死ねばいいと思ったことがなかっただろうか。
「私は、弟に、父に、そして、継母に取り返しのつかないことをしました。本当に、取り返しのつかないことを」
 修道院長は私の言葉を途中で遮られた。
「弟を見殺しにしたと思っていたきみは、永いあいだ悩んできたわけだ。確かにそれは罪である。贖われなくてはならない罪であった。そして、きみは、いままで修道士として神を祈ることによって、それを贖ってきたのだ。いま、きみが修道士をやめることは、そこに、新たな罪を増し加えることになるのだよ、これまでの贖いをも無益なものにしてしまうのだから」
 私は、私の新たな師父の言葉をこころのなかで噛みしめた。
 師父は立ち上がって、中庭の中央に向かって歩き出された。私も立ち上がり、師父のあとについて歩いた。前を向いたまま手を後ろに組んで、師父が言われた。私の影法師が師父の踵に触れた。
「罪に対する自覚は、決してきみの信仰心を揺るがせるものではないはずだ。それはきみの信仰心をより強固に、より深いものにするに違いない」
 師父の足が、中庭の中央にある長方形の池の前で止まった。私も立ち止った。師父は空を見上げられた。
 池の縁石を踏んで、私は水面を見下ろした。水鏡に映った空のなか、ちょうど私の被った丸帽子の後ろで、太陽が輝いている。微風が水面に触れた。その一瞬、ひと瞬きのあいだ、私の顔がさざ波に崩れさる前に、私は父の顔を見た。そして、その水面に映った父の頭には、いままで見たことのある、どの聖像画のものよりも眩しく輝く金色の光の輪があった。


鳥籠。

  田中宏輔



みんな 考えることが
おっくうに なったので
頭を はずして
かわりに 肩の上に
鳥籠をのっけて 歩いてた
鞄を抱えた 背広姿の人も
バス停でバスを待つ 女の人も
みんな 肩から上は 鳥籠だった
鳥籠の中には いろんな鳥がいた
いかつく見せたい人は 猛禽を
かわいく見せたい人は 小鳥やなんかを 入れてた
いろんな鳥が鳥籠の中で 鳴いてた
でも 中には 死んだ鳥や
死んだまま 骨になったものを入れて
平気で歩いてる人もいた
さっき 病院の前で
二羽も 飼ってる人を 見かけたから
ぼくは その人に ぼくの小鳥を あげた
これから ぼくは ぼくの鳥籠には
何も 入れないことにするよ
だって 小鳥を飼うのも 面倒くさいもの


鳥籠。

  田中宏輔



引っ越してきたばっかりなのに、
ほら、ここは、神さまの家に近いでしょ。
さっき、神さまが訪ねてきたのよ。
終末がどうのこうのって、うるさかったわ。
だから、持ってた布団叩きで、頭を叩いてやったの。
でも、まだ終末がどうのこうのってうるさくいうから、
台所から、包丁もってきて、ガッ、
ゴトンッて、首を落としてやったの。
まっ、首から下は、返してあげたけどね。
はいはいしながら、帰っていったわ。
首は鳥籠に入れて、部屋に置いてあるのよ。
お父さんの首の隣に吊るしてあるの。
お化粧したり、飾りをつけたりしたら、
けっこう、いいインテリアになるわよ。
えっ、また、うるさくしたらって?
大丈夫よ。
お父さんのように、火のついた棒で脅かしておいたから。
それにしても、わたしの終末なんて、
そんなもの、どうしようと、わたしの勝手よねえ。


ロー、ローラ、ロリータ!

  田中宏輔



「どうしてあなたはこんなところにたったひとりですわってらっしゃるの?」
 議論なんかしたくないと思ったので、アリスはそうたずねました。
「なぜって、だれもつれがいないからさ」ハンプティ・ダンプティは答えました。
(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』高杉一郎訳)


きょうは仕事を休んで、ただ部屋でぼうっと過ごしているつもりだった。
車に乗って遠出をしようだなんて、ちっとも考えちゃいなかった。
でも、あんまり陽気がよかったから、ずいぶん遠いところまで車を走らせた。


車を止めて休んでいると、公園で遊んでいるきみの姿が目に入った。
砂場で遊んでいる、小さくて可愛らしいきみの姿が目に入った。


きみは変わった子だったね。
おじさんちに遊びにくるかいっていうと、
「誘拐するのね」って、
「そして、わたしに悪戯するのね」っていって笑った。
そのとき、ぼくはナボコフのロリータを思い出したよ。
そして、ぼくは、こういったね。
「さあ、ローラ! はやく車にお乗りよ」って。
そしたら、きみは、ぼくの顔を、きっと睨み返して、こういったね。
「わたしはアリスよ」って。


でも、どっちにしたって、
そのこまっしゃくれた、生意気な口の利き方は
とっても可愛らしかったよ。
そう思ったのは、ぼくが、おじさんだからなのかもしれないけどね。
ああ、それにしても、
きみの裸は美しかった。
その剥き出しの足は、ことのほか美しかった。
そのやわらかな太腿、そのやわらかくすべすべした膝っ小僧、
そのやわらかくすべすべした小さな踵。
すべてがやわらかくすべすべして小さくて可愛らしかった。
ぼくの指が触れると、
きみはくすくす笑って、すっかり薄くなったぼくの髪の毛を引っ張った。


「なんて、へんてこな気持ちでしょう」と、アリスはいいました。
(ルイス・キャロル『ふしぎの国のアリス』高杉一郎訳)


でも、きみは夜になると、家に帰りたいといって泣き出した。
その声があんまり大きかったから、ぼくはきみの口をふさいだ。
鼻もいっしょにおさえた。
苦しがるきみの顔は、とても可愛らしかった。
とても可愛らしくて、愛らしかった。
だから、ぼくは、おさえた手を離すことができなかった。
できなかったよ。


「ロー、あれをごらん」
(ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


「アリスだっていったでしょ」


「口答えは、およし。ローラ」


流れ星だよ。
はじめて、ぼくは見たよ。
きみは、何かお願いごとをしたかい。
ぼくはしたよ。
これからも、きみといっしょに、
ずっといっしょにいられますようにって。


「ね、ローラ」


「アリスだっていったでしょ」


「おまえは、おかしなやつだね、ロリータ」
(ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


さっ、ローラ。
また、ぼくといっしょに遊んでおくれ。
残り少ないぼくの髪の毛を、思いっきり引っ張っておくれ。
引っ張って、ひっぱって、引き毟っておくれ。


「そのかわいい爪でね、ロリータ」
(ナボコフ『ロリータ』大久保康雄訳)


詩の日めくり 二〇一七年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年五月一日 「もろもろのこと。」

 だいぶ本を処分したんだけど、またぼちぼち本を買い出したので、本棚にかざる本をクリアファイルで四角く囲んでカヴァーにして立ててかざれるようにしてるんだけど、そのクリアファイルがなくなったので、西院のダイソーにまず寄って、108円ジャストを払ってA5版の透明のクリアファイルを買った。
 それからブレッズ・プラスに行って、ホットサンドイッチ・セットを注文して(税込628円だったけど、200円の割引券を使ったので、426円)飲み物はダージリンティーのアイスで、喫茶部の席が1席しか空いてなかったので、さきにバックパックとさっき買ったばかりのクリアファイルを置いておいて料金を払った。ここでも、ぴったし426円を払った。坐ってクリアファイルを袋から出して状態を調べていると(曲がりがあったりしていないかどうかとかね)隣の席にいたおばあさん二人組の会話が聞こえてきた。月曜日の3時過ぎって、気がつけば、おばさんと、おばあさんたちばかりだった。おじさんやおにいさんの姿はひとつもなかった。で、隣に坐っていたおばあさんのひとりが、相手のおばあさんに、こんなことしゃべっているのが耳に聞こえてきたのであった。「隣の娘さんとは、小さいときには口をきいたけど、もう学生やろ。そんなんぜんぜん口なんかきいてへんねんけど、いま美容院の学校に行ってはんねんて。将来、美容院にならはるらしいわ。」って。それ、美容院の店員の間違いちゃうのんってツッコミ入れたくなったけど、なんか髪形がダダみたいな感じで、化粧の濃い迫力のあるおばあさんだったから黙ってた。黙ってたけど、これ、メモしとかなければならないなと思って、その場でメモしてた。
 ホットサンドだけではおなかがいっぱいにならなかったので、帰りに松屋に寄って、牛丼のミニを食べた。240円やった。このときは、250円を自販機に入れて10円玉一個のお釣りを受け取った。このとき小銭入れにジャスト240円あればよかったのになあって、ふと思った。まあ、どってことないことやけど。
 そや、クリアファイルで、立てられるブックカヴァーつくろうっと。いま、サンリオSF文庫のをつくってる。すでにつくってあるのは、ミシェル・ジュリの『熱い太陽、深海魚』、フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』と『ヴァリス』、ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の4冊。これからつくるのは、ミシェル・ジュリの『不安定な時間』、ロバート・シルヴァーバーグの『内側の世界』と『大地への下降』、アントニイ・バージェスの『アバ、アバ』、ボブ・ショウの『眩暈』、ゴア・ヴィダルの『マイロン』、シオドア・スタージョンの『コスミック・レイプ』、ピエール・クリスタンの『着飾った捕食家たち』、トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』、フリッツ・ライバーの『バケツ一杯の空気』、マーガレット・セント・クレアの『どこからなりとも月にひとつの卵』、ボブ・ショウの『去りにし日々、今ひとたびの幻』、シオドア・スタージョンの『スタージョンは健在なり』、トム・リーミイの『サンジィエゴ・ライトフット・スー』。いまからつくる。ぜんぶつくれるかどうか、わからないけど、がんばる。つくり終わった。これから、フィニイの短篇集のつづきを読む。

二〇一七年五月二日 「永遠」

 いま、ジャック・フィニイの短篇集『ゲイルズバーグの春を愛す』のさいごに収録されている「愛の手紙」を読み終わったところ。さいごの二行を読んで、涙が滲んでしまった。齢をとると涙腺がほんとに弱くなってしまうのだな。永遠の思い出のためにって、まだ永遠なんて言葉に感動するぼくがいたんやね。

二〇一七年五月三日 「ゆ党」

 いま日知庵から帰った。国立大学出身・一級公務員の女子(30数歳)から聞いた話。「与党、野党があるんだったら、ゆ党もあればいいと思いません?」と言われて、「えっ、なんのこと?」と尋ねたぼくに、「やゆよですよ。よ党、や党でしょ? ゆ党ってあってもいいと思いません?」笑うしかなかった。

二〇一七年五月四日 「時間」

 なぜ時間というものがあるのだろう? 時間がなければ、見ることも聞くことも感じることもできないからだろう。見ることができるために、聞くことができるために、感じることができるために、時間が存在するのである。

二〇一七年五月五日 「真珠」

 日知庵に行くと、ほぼ満席で、空いてるところは一か所だけだったのだけれど、奥のカウンター席だったのだけれど、そこに坐ってからお店のなかを見回すと、入り口近くのカウンター席に、植木職人24歳の藤原くんが腰かけていて挨拶したら、その隣に坐ってらっしゃる方も存じ上げていた方だったのでご挨拶したのだけれど、そうそう、その方、大石さんて、えいちゃんに呼ばれてらっしゃったのだけれど、御年76歳で、剣道6段の方で、ご自分で道場もお持ちらしくって、その二人の隣の席が空いたときに、ぼくは移動して3人でしゃべっていたのだけれど、前のマスターの亡くなられたことが話題になったのかな、前のマスターは78歳で亡くなったと思うのだけれど、死の話が出て、いったいいくつくらいで人間は死ぬのでしょうねとか話してたら、大石さんが、「このあいだ、うちの道場にきてた73歳の方が、道場を掃除し終わった瞬間にぽっくり亡くなられましたよ。」っておっしゃったので、「その掃除が心臓に負担になって亡くなったんじゃないですか?」と言うと、大石さんは笑ってらっしゃったけれど、藤原くんが、「田中さん、エグイっすね。」と言うので、「ほら、日本人って背中を曲げてお辞儀をするじゃない? あれもそうとう心臓に悪いらしいよ。外国人は背中は曲げないしね。」とかとか話してた。大石さん、あとで店に来た女性客のことが気に入られたのか、名刺を渡されたのだけれど、ぼくの目のまえを名刺が手渡されたので、ちらっと見たのだけれど、真珠のデザイン会社をなさっておられるらしく、曲がった真珠の指輪をなさっておられて、その女性客がしきりと感心していた。ハート型の真珠だったのだ。ぼくは、「ああ、バロックだな。」と言ったのだけれど、ぼくの意見は無視されてしまって、大石さんと女性客(このあいだ話題にした某国立大学出の公務員だ)のあいだで、その真珠のとれた外国の話で盛り上がっていた。どこの国だったか、腹が立っていたので記憶していない。

二〇一七年五月六日 「原 民喜」

 原 民喜は、青土社から出ていた全集で(二冊本だったかな)読んでいて、ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』に収録している詩に、数多くの文章を引用しているが、日本語のもっとも美しい使い手だと、いまでも思っている。民喜のもの以上に美しい日本語の文章は見たことがない。

二〇一七年五月七日 「パロディー」

 日知庵で飲んでいると、知り合いが増えていって、話がはずんでいたのだけれど、女性客3人組が入ってきて、カウンター席に坐ってマシンガントークをはじめたのだけれど、こんなん言ってたから、メモした。「あたし、とつぜん夜中の12時に唐揚げが揚げたくなって、それからしばらく唐揚げ揚げっぱなしやってん。」「このあいだドアに首が挟まっててん。寝てて目が覚めたら、上を見たら、ドアの上のところやってん。寝ているうちに、ドアに首が挟まっててんな。」いったん、ぼくは、日知庵を出て、きみやに行ったら休みだったので、も一度、日知庵に行ったら、ぼくがいないあいだに、ぼくの噂をしていたみたいで、ぼくがカウンター席の端に腰を下ろしたら、女性客3人組のうちのひとり、あのドアに首を挟まれてた彼女が、ぼくの隣に腰かけてきて、それから彼女が指を見せてきて、「あたし、指紋がないのよ。着物を扱ってるから。」と言うので、「印刷所に勤めているひとにも、指紋のないひとがいるって本で読んだことがありますよ。」と返事したりしていた。彼女はいまは着物を扱う仕事をしているみたいだけど、以前は塾で国語を教えていたらしくて、漢文の話になったのだけれど、ぼくは漢文がぜんぜんできないので、話を『源氏物語』の方向にもっていった。源氏物語なら、2年ほどかけて読んだことがあったので。与謝野晶子訳でだけれども。まあ、よくしゃべる、陽気な、しかも、大酒飲みの女性だった。ぼくは、彼女たちよりも先に勘定をすまして日知庵を出たのだけれど、11時30分に送り迎えの車がくるという話だった。送り迎えするのは、彼女たちが属している楽団の一員で、ぼくも知ってる人物だけれど。いや〜、やはり、日知庵ですごす一日は濃いわ。けっきょく、ぼくも、5時から11時くらいまでいたのだけれど、阪急電車に乗ったのが、11時5分出発の電車だったから、出たのは、11時ちょっとまえか。でもまあ、長居したな。焼酎のロックを2杯と、生ビールを4杯か5杯くらい飲んでる。

 ところで、日知庵で、原 民喜の詩を思い出していたのだけれど、まだ、買ったばかりの岩波文庫の『原民喜全詩集』のページもまったく開いていなかったときのことだけれど、5時過ぎのことね、民喜の詩のパロディを考えたのであった。こんなの。


コレガろぼっとナノデス

コレガろぼっとナノデス
原発事故デメチャクチャニナッタ原子炉ヲゴラン下サイ
ワタシハココデ作業ヲシテイマス
男デモナイ女デモナイ
オオ コノ金属製ノ躰ヲ見テ下サイ
壊レヤスク造ラレテハイナイケレドイツカ壊レル
コレガろぼっとナノデス
ろぼっとノ躰ナノデス


メモには、こう書いてた。さっき書いたのは、じつは、民喜の詩を参考にしたものであったのだ。ぼくは嘘つきだね。


僕ハ人間デハナイノデス

僕ハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス
血管ガナイノデ血ハ出マセンシ
故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業シテイルノデス
僕ハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス


これは、こうしたほうがいいな。


コレハ人間デハナイノデス

コレハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス
血管ガナイノデ血ハ出マセンシ
故障シテモゼンゼン痛クモアリマセン
ダカラ放射能渦巻ク原子炉内デ作業ヲシテイルノデス
コレハ人間デハナイノデス
ロボットナノデス

二〇一七年五月八日 「肉吸い」

 イオンに行ったら、イタリアンレストランがつぶれてて、しゃぶしゃぶ屋さんになってた。そこで、しゃぶしゃぶ食べたことあるのに、すっかり忘れてた。レストランのところからフードコートのコーナーに行って食べることにした。はじめて行った店だった。肉問屋・肉商店という店で、そこで、なにがおいしそうかなって思って看板見てたら、カルビ丼と肉吸いセットっていうのがあって、肉吸いって、大宮の立ち飲み屋で食べたことがあって、おいしかったから、ここでもおいしいかなって思って注文した。980円だったけれど、税金を入れると1058円だった。おいしかったけど、ちと高いかな。
 さて、部屋に戻ってきて、コーヒーも淹れたので、これから読書に戻る。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』あと2篇。きょうじゅうに読めるな。時間があまったら、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読む。というか、時間、完全にあまるわな。詩集の編集は、きょうはしない。河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』読み終わった。これには、2カ所、クラークの短篇集『天の向こう側』には、4カ所、ルーズリーフに書き写したい文章があるが、いまはせずに、つづけて、岩波文庫の『大手拓次詩集』のつづきを読むことにする。ルーズリーフ作業は、べつに、きょうでなくてもよい。『ドラキュラ ドラキュラ』のBGMはずっとプリンスだった。『大手拓次詩集』では、EW&Fにしようかな。いや、やっぱり暗めのほうがいいかな。いやいや、EW&Fのファンキーな音楽で「大手拓次」を読んでみるのも、おもしろいかもしれない。「大手拓次」と「EW&F」の組み合わせもいいかも。ぼくの悪い癖が出てる。エリオットでも笑っちゃったんだけど、大手拓次のものでも、まじめに書いてあるところで笑ってしまうんだよね。ぼくの性格というか、気質の問題かもしれないけれど。エリオットの『荒地』なんて、笑うしかない、おもしろい詩集だと思うのだけれど、だれも笑うなんて書かないね。

二〇一七年五月九日 「言葉」

ぼくが言葉をつなぎ合わせるのではない。
言葉がぼくをつなぎ合わせるのだ。

二〇一七年五月十日 「ウルフェン」

 きのう寝るまえに、サリンジャーの『マディソン街のはずれの小さな反抗』(渥美昭夫訳)を読んだ。なんの才能も、とりえもない平凡な青年と、これまた平凡な女性との、ちょっとした恋愛話だった。平凡さを強調する表現があざとかったけれど、さすがサリンジャー、さいごまで読ませて、笑かせてくれた。学校の授業の空き時間と通勤時間には、ホイットリー・ストリーバーの『ウルフェン』(山田順子訳)を読んでいたのだが、これが初の長編作品かと思われるくらい、おもしろくって、描写に無駄がなくて、会話もウィットに富んでいるし、きょうだけで、153ページまで読んだ。半分近くである。

二〇一七年五月十一日 「闇」

このぼくの胸のなかに灯る闇を見よ。
ぼくの思いは、輝く闇できらめいているのだ。
彼のことを、ぼくの夜で、すっぽりと包み込んでしまいたい。
ぼくのこころからやさしい闇でできた夜で。

二〇一七年五月十二日 「うみのはなし」

 いま、郵便受けを見たら、橘上さんから、詩集『うみのはなし』を送っていただいていた。さっそく読んでみた。とてもよい詩集だと思った。

二〇一七年五月十三日 「薔薇の渇き」

 いま学校から帰った。ストリーバーの『薔薇の渇き』たしかに、『ウルフェン』ほど興奮して読まないけれど、表現が的確で、かつ簡潔なので、ひじょうに勉強になる。もちろん、おもしろい筋書きだ。名作である。『ラスト・ヴァンパイア』を読んで捨てたけど、もう一度、Amazon で買い直そうかな。

二〇一七年五月十四日 「河村塔王さん」

 来々週の土曜日、5月27日に、河村塔王さんと日知庵でお会いする。ひさびさだったかしらん。1年か、2年かぶりのような気がする。本に関する、というか、言葉に対する、現在もっとも先鋭的な芸術活動を行ってらっしゃるアーティストの方だ。言葉について関心のある人で知らない人などいないだろう。そういう最先端の方が、ぼくの作品に興味をもってくださっているということが、ぼくにはなによりもうれしいし、誇りに思っている。がんばらなくては、という気力が奮起させられる。いや、ほんと、がんばろうっと。きょうは、ルーズリーフ作業をする日にしていた。作業をしよう。目のまえに付箋した本が5冊あって、いま読んでいるストリーバーの『薔薇の渇き』も付箋だらけである。ああ、ほんとうに、ぼくが知らない、すばらしい表現って、まだまだたくさんあるのだな。ぼくの付箋━ルーズリーフ作業も一生、つづくのだな。もうこの齢になるとライフワークばかりになってしまった。みんなライフワーク。
 そいえば、きのうは、大谷良太くんと日知庵で、ひさしぶりに飲んだのであった。ぼくは、きみやと日知庵と合わせて10杯以上、生ビールを飲んでいて、べろんべろんだったけれど、大好きなFくんもいて、かなちゃんのかわいい彼氏や優くんもいて、めっちゃゴキゲンさんで、しゅうし笑いっぱなしだった。かなちゃんから、「きょうの田中さん、テンション高すぎ。」と言われるくらい、きのうははじけていたのだ。「かなちゃんの彼氏、とっちゃおうかな。」と言うと、「どうぞ、どうぞ。」と笑って答えてくれたけど、肝心のかなちゃんの彼氏が、「かなちゃんのこと好きだし、いまはだめです。」と言って。56歳のジジイのぼくはやっぱり、24歳の女子の魅力には劣るのだなと思った。笑。まあ、なんやかやと、人生は絡み合うのがおもしろい。というか、絡み合いしか、ないでしょうといった気持ちで生きている。仕事も、酒も、文学も。でも、なぜ、この順番に書いたんだろう、ぼく。笑。重要な順番?

二〇一七年五月十五日 「人間の規格」

 クラークの短篇集『天の向こう側』、河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』、ストリーバーの『ウルフェン』のルーズリーフ作業が終わった。岩波文庫の『大手拓次詩集』のルーズリーフ作業はあしたにまわして、さきにまだ読んでるストリーバーの『薔薇の渇き』を読んでしまおう。きょうの文学だ。
 それはそうと、日知庵に行くまえに、ユニクロで、夏用のズボンを買わないといけないと思って買いに行ったのだけれど、ぼくのサイズ、胴周りが100センチで、股下が73センチなんだけど、置いてなかった。このあいだまであったのに、いまは91センチが胴周りの最高値みたいで、店員に、「デブは人間の規格じゃないってことなのね。」と言ったら、「ネットで、そのサイズのものを買ってください。」という返事だった。いまからネットで、ユニクロのHP見るけれど、胴周り100センチのものがなかったら、ユニクロでは、デブは人間の規格ではないってことを表明してることになると思う。どだろ。いまユニクロのHPで、会員登録をして、胴周り100センチのものを股下補正して76センチから73センチにしてもらって買った。2本。8615円やった。消費税なしやったら、1本3990円なのにね。まあ、どんな感じのパンツかは、ユニクロの店で見たから、あとはサイズがぴったしかどうかね。
 さて、きょうは、もう寝床について、ストリーバーの『薔薇の渇き』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ! あしたは、岩波文庫の『大手拓次詩集』の付箋したところをルーズリーフに書き写す作業をする。76か所くらいあったかな。一か所1行から10行くらいまで、さまざまな行数の詩行だけれど。

二〇一七年五月十六日 「異星人の郷」

 いま起きた。ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業がまだなんだけど、これ、学校に行くまでしようかな。これも付箋が大量にしてあるから、ぜんぶ終わらないだろうけれど。ストリーバーの表現、すごくレトリカルなの。びっくりした。エンターテインメントの吸血鬼ものなのにね。驚いたわ。あ、まずコーヒーを淹れて飲まないと、完全に目が覚めない。体内にまだ睡眠導入剤や精神安定剤の痕跡があるからね。8時間以上たたないと対外に排出されないと聞いている。クスリによっては、もっと体内に残存しているともいう。まあ、とにかく、まず、コーヒーだな。淹れて飲もうっと。
 ストリーバーの『薔薇の渇き』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、学校がお昼前からだから、ゆっくりしている。あと、もう一杯、コーヒーを淹れて飲んだら、お風呂に入って、仕事に行く準備をしよう。そだ、きのう寝るまえに、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を少し読んだのだけれど、字が小さくて読みにくかった。ハヤカワSF文庫はかくじつに字が大きくなって読みやすくなった。代わりに、文庫のくせに価格が1000円軽く超えるようになったけれど、創元も字を大きくしてほしいなと、きのう思った。やっぱり、字が小さいと読みにくい。ハヤカワ文庫は、その点、改善されてるな。
 いま学校から帰ってきた。マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻を、授業の空き時間に、そして通勤時間に読んでた。めちゃくちゃおもしろい。作者がいかに膨大な知識の持ち主かわかる。エリス・ピーターズのカドフェル修道士ものをすべて読んだくらいのぼくだけれど、カドフェル修道士を思い起こさせる主人公の修道士の文学的にレトリカルな言葉のやりとりと、哲学者けん神学者の怜悧な頭脳と、その心情の人間らしさに驚かされている。ふつう、頭のよい人間は冷たいものなのだ。しかし、この『異星人の郷』の14世紀側の主人公の人間性は、ピカいちである。傑作だ。まだ半分も読んでない138ページ目だけれど、ほかのものより優先させて読むことにしてよかった。人間いつ死ぬかわからないものね。ぼくは、おいしいものから食べる派なのだ。本も、よいものから読んでいく派である。したがって、聖書、ギリシア・ローマ神話、シェイクスピア、ゲーテから文学に入ったのは当然のことなのである。
 いまから、マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のつづきを読む。ほんとうにおもしろい。きのう、おとつい読んでたストリーバーの『ウルフェン』や『薔薇の渇き』以上かもしれない。いや、きっとそうだろう。この本に書き込まれている量は、ぼくの知識欲をも十分に満足させられる膨大な知識量である。

二〇一七年五月十七日 「人身売買」

 AKBとかの握手会って、お金をCDに出させて握手させるって仕組みだけど、人身売買と同じじゃないのって、このあいだ、日知庵で話したのだけれど、人身売買ってなに? って言われたくらいなのだけれど、人身売買って、そんなに古い言葉なのかしら?

二〇一七年五月十八日 「規格外」

 いま日知庵から帰った。きょう、月曜日に注文したユニクロのパンツが届いた。ぴったしのサイズ。すごい。日知庵では、めっちゃかわいい男の子(26才)がいて、「ぼくがきみくらいかわいかったころ、めちゃくちゃしてたわ。」と言ったら、「ぼく、いまめちゃくちゃしてます。」という返事で納得した。

そのとおり。時間とは、ここ、場所とは、いま。

二〇一七年五月十九日 「微糖」

 いまセブイレでは、700円以上、買ったら、くじ引きができて、コーヒーとサンドイッチ2袋買ったら、876円だったので、くじを引いたら、缶コーヒーがあたっちゃった。WANDA「極」ってやつで、微糖なんだって。わりと大きめの缶コーヒー。ラッキーしちゃった。これからサンドイッチの晩ご飯。

二〇一七年五月二十日 「異星人の郷」

 マイクル・フリンの『異星人の郷』下巻を読み終わった。無駄な行は一行もなかった。すべての言葉が適切な場所に配置され、効果を上げていた。しゅうし感動されっぱなしだったが、さいごの場面は、ホーガンの『星を継ぐ者』を髣髴した。傑作であった。部屋の本棚に飾るため、クリアファイルでカヴァーをこれからつくる。つぎに読むのは、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』にしよう。手に入れるために、高額のお金を払ったような気がするのだが、いま、Amazon ではいくらくらいするのだろう。ちょっと調べてみよう。Kindle版しかなかった。ぼくの持ってるような書籍の形では売っていなかった。やはり貴重な本だったのだ。いったい、いくらお金を払ったかは記憶にはないが、安くはなかったはずだ。ジャック・ヴァンスも、ぼくがコンプリートに収集した作家の一人であった。『終末期の赤い地球』を読んでいこう。あした、あさっての休みは、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をする。付箋をした所、書き写すのに、まるまる2日はかかる量である。いや、それ以上かもしれない。おびただしい量である。しかし、書き写すと、確実にぼくの潜在自我が吸収するので、しんどいが喜んで書き写す。

二〇一七年五月二十一日 「血ヘド」

 いま日知庵から帰ってきた。行きしなに、南原魚人くんとあって、いっしょに日知庵で飲んでた。+女の子ふたり。ぼくは、きょうも飲み過ぎで、「また血を吐くかも。」と言うと、えいちゃんに、「血ぃ吐け!」と言われた、笑。

二〇一七年五月二十二日 「無名」

 いま数学の問題の解答が2分の1できた。ちょっと休憩して、あと2分の1を済まして、マイクル・フリンの『異星人の郷』上下巻のルーズリーフ作業をはやくはじめたい。とてもすばらしい、レトリカルな言葉がいっぱい。ぼくには学びきれないほどの量であった。しかし、がんばって書き写して吸収するぞ。

 いまでも緊張すると、喉の筋肉が動かなくなって、言葉が出てこないことがある。まあ、この齢、56歳にもなると、さいごに吃音になったのは、数年まえに、えいちゃんに問いかけられて、すぐに答えられなかったときくらいかな。そのときは、緊張ではなく、極度の疲労から、どもりになったのであった。

 文学極道の詩投稿掲示板で、「田中さん貴方も世間からは何一つ認められていない 貴方もクズみたいな作品でしょ 大岡に認められたユリイカに認められたって誰もあんたのことなど知らないし知りたくもないんだよ」なんて書いてる者がいて、それは、ぼくにとってよい状態だと思っているのだがね、笑。以前は、「イカイカ」というHNで書いてた者だけれども、いまは、「生活」というHNで、相変わらず、才能のひとかけらもないものを書いているしょうもないヤツだけど、才能もないのに、ごちゃごちゃ抜かすのは、逆に考えると、才能がないから、ごちゃごちゃ抜かすということかもしれないなと思った。あ、芸術家は、無名のときが、いちばん幸福な状態であると、ぼくは思っているので、ぼくの場合も、もちろん、死ぬまで、無名の状態でよいのである。何といっても、すばらしい音楽を、すばらしい詩を、すばらしい小説を、だれにすすめられることもなく、自分の好きになったものを追いかけられるのだ。しかし、この「生活」という人物、もと「イカイカ」というHNの者、世間に認められることに意味があると、ほんとうに思っているのだろうか。芸術家にとって、無名であること以上に大切なことはないと、ぼくなどは思うのだがね。まあ、ほんとに、ひとによって感じ方、考え方はさまざまだろうけれどね。そいえば、同僚の先生で、小説を書いてる方がいらっしゃって、ぼくに、「有名にならなければ意味がありませんよ。」なんて言ってたけれど、どういうことなんだろうね。有名になるってこと。なんか意味でもあるのかな。重要な意味が。ぼくには、なにも見当たらない。

 マイクル・フリンの『異星人の郷』上巻のルーズリーフ作業が終わった。下巻突入は無理。というか、とても疲れた。あした以降に、『異星人の郷』下巻のルーズリーフ作業をすることにした。きょうは、もうお風呂に入って、ジーン・ウルフの原著を声を出しながら読んで、寝るまえにはジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読む。魔術が支配している未来の地球の話だけど、マイクル・フリンに比べたら、数段に劣る描写力。しかし、ヴァンスは、シェイクスピアの『オセロウ』に匹敵する名作、魔王子シリーズの1冊、『愛の宮殿』(か、『闇に待つ顔』か)を書いた作家だからなあ。はずせない。

二〇一七年五月二十三日 「誤植」

 きょうはかなり神経がピリピリしている。眠れるかどうかもわからない。とりあえず、お風呂に入って横になって、ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』のつづきを読もう。おやすみ、グッジョブ!

 ジャック・ヴァンス『終末期の赤い地球』日夏 響訳 誤植 157ページ上段3行目「革は痛みきってひびが入っている。」この「痛み」は「傷み」の誤植だろう。まあ、古い本だけど、Kindle版が出てるそうだから、そこでは直ってる可能性があるけど、そこでも誤植のままの可能性もある。どだろ。

二〇一七年五月二十四日 「誤植」

 週に3.5日働いているが、きょうはその3.5日のうちの1日。朝から晩まで数学である。とはいっても、通勤時間や授業の空き時間に読書しているが。ジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』は有名な作品だからていねいに読んだが、あまり価値はなかった。ジャック・ヴァンスのつぎに読みはじめたのは、ヴァンスの『終末期の赤い地球』と同じく久保書店からQ‐TブックスSFのシリーズの1冊、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』。シルヴァーバーグもヴァンスと同様に、ぼくがその作品をコンプリートに集めている作家や詩人のうちのひとりだ。すばらしい作家だが、この『10万光年の迷路』は、いわゆる、ニュー・シルヴァーバーグになるまえの習作のような感じのものだ。アイデアはあるが、文章というか、文体に、深みがない。暗喩も明楡も、めざましい才能を見せる場面はまだない。まだ50ページほどしか読んでいないのだが、それくらいは、この分量を読んだだけでもわかる。で、さっそく、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』中上 守訳の誤植 29ページ下段、うしろから1行目 「 が余分についている。35ページ下段、1、2行目「あなたは学問の世界ののわたした名声と地位を叩きこわそうとされた」 これは「世界でのわたしの名声と地位を」だろう。

二〇一七年五月二十五日 「継母」

 朝からいままで二度寝をしていた。継母が亡くなった夢を見た。とっくに亡くなっているのだけれど、よくできたひとで、とても気のいい継母だった。美術にも造詣が深くて、壁紙は黒で陶器製の白い天使の像を砕いて、翼だとか腕だとか足を影から突き出させるように壁に埋め込んだりしていたおしゃれなひとだった。ぼくの美観を父と共に培ってくれたのだった。その継母が亡くなる夢をみたのだった。とても悲しかった。ぼくに遺言があったみたいだけど、それが書かれた紙を読もうとしたら目が覚めた。じっさいに遺言はなくて、継母は癌で急死したのだった。手術後四日目に。手術しない方がぜったい長く生きていたと思う。まあ、気のいい、うつくしい継母だった。

 きょうは休みなので、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読もう。この久保書店のQ‐TブックスSFシリーズ、ぼくはあと1冊持っていて、A・E・ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』だけど、このシリーズに入ってるSF作品のタイトルを見ると、びっくり仰天するよ。たとえば、こんなの、O・A・クラインの『火星の無法者』、デイヴィド・V・リードの『宇宙殺人』、ジョージ・ウエストンの『生殖能力測定器』、L・F・ジョーンズの『超人集団』、ジョージ・O・スミスの『太陽移動計画』、J・L・ミッチェルの『3万年のタイムスリップ』、C・E・メインの『同位元素人間』、L・M・ウィリアムズの『宇宙連邦捜査官』、W・タッカーの『アメリカ滅亡』、J・ウィリアムスンの『超人間製造者』、ジョージ・O・スミスの『地球発狂計画』、M・ジェイムスンの『西暦3000年』、アルジス・バドリスの『第3次大戦後のアメリカ大陸』、バット・ノランクの『戦略空軍破壊計画』、D・グリンネルの『時間の果て』、E・イオン・フリントの『死の王と生命の女王』、A・B・チャンドラーの『宇宙の海賊島』、アンドレ・ノートンの『崩壊した銀河文明』、E・ハミルトンの『最後の惑星船の謎』などである。この2級の品物くさいところがいいね。

二〇一七年五月二十六日 「トライラスとクレシダ」

 いま学校から帰ってきた。ああ、ビールが飲みたい! と思ったけれど、コーヒーを淹れてしまった。ビールは、あとでコンビニに買いに行こう。きょうは授業の空き時間と通勤時間に、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のつづきを読んでいた。冒頭で、イエイツの詩の引用、いま読んでいるところでは、シェイクスピアのソネットの引用という、ぼく好みの小説だ。いや、ぼくの好みの詩が引用されている小説だ。イエイツの引用なんて、「ビザンチウムに船出して」だよ。高級中の高級の詩である。シェイクスピアのソネットの引用もよかった。これから原詩を読もうと思う。ソネットの18だった。小説のなかでの訳では、とりわけ、「すべての美はいつか、その美をそこなってゆく……」(中西信太郎訳)の部分が好きだ。「君を夏の日にたとえようか。」ではじまる有名なソネットだ。背中の本棚に、シェイクスピア詩集は見つかったのだが、ソネット集がない。別の本棚かな。よかった別の本棚にあった。岩波文庫から出たシェイクスピアの戯曲を集めた棚にあった。もちろん、岩波文庫から出たすべてのシェイクスピアの戯曲を集めているのだが、『トライラスとクレシダ』という岩波文庫ではまだ読んでいないものもある。シェイクスピアはすべて読んだが、なぜ、岩波文庫の『トライラスとクレシダ』がめちゃくちゃ分厚いのかは不明。小田島雄志の訳だと、ふつうの長さなんだけどね。岩波文庫の『トライラスとクレシダ』は、もう、ほんとに、ぼくの持ってる岩波文庫のなかで、いちばん分厚いんじゃないかと思う。あ、ナボコフの『青白い炎』も分厚いか。比べてみようかな。分厚さは同じくらい。物差しで測ってみよう。『トライラスとクレシダ』は22ミリ。ページ数は註を入れて345ページ。『青白い炎』は24ミリで、解説を入れて548ページである。ありゃ、『トライラスとクレシダ』の分厚さは、ページ数からきているというより、古さからきているのかもしれない。昭和二十四年八月二十五日印刷、同月三十日発行ってなってる。ハンコの圧してある小さな正方形の紙が奥付に貼ってある。もちろん、旧漢字の、旧仮名遣いの本である。めちゃくちゃ古書って感じのもの。初版のようである。ひさしぶりに、シェイクスピアの全戯曲の読み直しをしてもいいかもしれないな。この小さな正方形の紙、ハンコが押してあるもの、あ、ハンコは圧すか押すかどっちだったろう。ありゃ、捺すだった、笑。これって、なんていったかなあ。著者検印だったっけ? たしか検印って云ったと思うのだけれど、検印廃止になって、ひさしいのではなかったろうか。かわいいのにね。面倒なのかな。ネットで「検印紙」というので調べたら、「かつて書籍の奥付に著者が押印した貼ってあった。それぞれの出版専用のものがあり、この検印の数に基づいて印税が計算された。わが国独特の習慣。現在ではほとんど省略されている。」ってあった。さっきも書いたけれど、かわいらしいのにね。やればいいのに。

詩人は自分の声に耳を澄ます必要がある。

二〇一七年五月二十七日 「10万光年の迷路」

 起きた。コーヒー淹れて飲もう。きょうは0.5日の仕事の日だ。夕方から、先鋭的なアーティストの河村塔王さんと日知庵で飲むことになっている。楽しみ。

 いま学校から帰った。授業の空き時間と通勤時間で、ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』を読み終わった。さすが、初期の、とはいっても、シルヴァーバーグである。ぼくにルーズリーフ作業をさせるところが6カ所あった。きょうは、疲れているので、このあと、ヴァン・ヴォークトのQ‐TブックスSFシリーズの1冊、『ロボット宇宙船』を読む。夕方から日知庵に。河村塔王さんと飲む。シルヴァーバーグのルーズリーフ作業は明日以降にすることに。

 いま帰ってきた。げろげろヨッパだす。おやすみ、グッジヨブ!

二〇一七年五月二十八日 「檸檬のお茶」

 もう、寝るね。ぼくのいまのPCのトップ画像、ある詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像だけど、まあ、なんて、いうか、ぜったい、そんなことしてくれそうにない詩人が、ぼくのほっぺにチューしてくれてる画像で、ぼくは、ここ数日間、毎日、いや、ここ一週間かな、見てニヤニヤしてるのだ。

 きのう河村塔王さんに、お茶をいただいたので、さっそく飲もう。このあいだは、花が咲くお茶だった。きょうのは、なんだろう。楽しみ。いただいたお茶、檸檬の良い香りが。味も、おいしい。

 ロバート・シルヴァーバーグの『10万光年の迷路』のルーズリーフ作業が終わった。これからお風呂に、それから河原町に、日知庵に飲みに行く。

 いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパだけど、読書でしめて寝る。寝るまえの読書は、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』。ヴァン・ヴォークトは、『非Aの世界』、『非Aの傀儡』、『スラン』が傑作だけど、『非A』シリーズ、第3部が出ているらしいので、はやく翻訳してほしいと切に望む。

二〇一七年五月二十九日 「潜在自我」

 いま起きた。北山に住んでたときの夢を見た。いまより本があって、いまも本だらけだけど、さらに本だらけで、どうしようもない部屋だったときのことを夢見てた。本から逃れられない生活をしている。いたのだな。きょうも晴れ。洗濯しようっと。

 けさ見た夢のなかで書いてた言葉。あんまり下品で、書かなかったことにしようか、考えたけれど、ぼくの潜在自我が書いたものだからねえ。起きてすぐメモしたもの。

脳内トイレ。
脳内トイレ。
ジャージャーと、おしっこする。
ジャージャーと、おしっこする。
そして、ジャーと、水を流す。
そして、ジャーと、水を流す。

 いま王将から帰ってきた。きょうは読書の一日。ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』のつづきを読む。62ページまでに誤植が3カ所。ひどい校正だ。

 きょうは、一日中、読書してた。ちょっと休憩しよう。いま、ヴァン・ヴォークトの『ロボット宇宙船』192ページ。誤植またひとつあった。久保書店のこのQ‐TブックスSFのシリーズ、ちょっと誤植が多すぎないだろうか。まあ、活版の時代だから校正家だけの責任じゃないんだろうけどね。

 ヴォークトの『ロボット宇宙船』を読み終わった。読まなければよかったと思われるくらいのレベルのひどい作品だった。きょうは、ひきつづき、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読む。これも久保書店のものだ。ヴォクトは、やはり、ぼくのコンプリートに集めた作家のひとりだから読むのだが。タイトルからして、2級だってことがわかるものだけれど、ジャック・ヴァンスといい、やはり、ぼくがコンプリートに集めた作家だけのことはある。たとえ2級品の作品でも、なにか魅力は感じられる。さっきまで読んでた『ロボット宇宙船』なんて、いまの出版社なら、ぜったい出版しないだろう。ヴォクトの『銀河帝国の創造』(中上 守訳)5ページさいしょの文章、こんなのよ、笑。「「神々の子」は成長を遂げていた。紀元一万二千年ごろ、未開の血をまだとどめながら衰退期にさしかかったリン帝国の王家に歓迎されざるミュータントの子として生まれた彼は、(…)」 こんなの読むのね。

二〇一七年五月三十日 「銀河帝国の創造」

 ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』105ページまで読んだ。タイトル通り、カスのようなお話。進化したリスが人類より発達した科学力で人類と戦っているのだ。なんちゅう話だろう。ヴァン・ヴォクト以外の人間が描いてたら、即刻、捨て去っていただろう。95ページにこんな言葉がある。「あなたは慎重すぎるのよ。人生は短いんだってこと、わかってないのね。恐がらずに、思いきってものごとに突っこんでいくべきだわ。わたしが人生で恐れるのはたったひとつ、何かを見のがしてしまうことよ。経験すべき何かを。生きているっていうたいせつな実感を……」(ヴァン・ヴォクト『銀河帝国の創造』11、中上 守訳、95ページ・1‐4行目)この見解には、ひじょうにうなずくところがある。ぼく自身が慎重すぎて、経験できなかったことが、いっぱいあるからである。若いころにね。20代後半から、つまり、詩や小説を読んだり書いたりしはじめてから大胆になったけれど、それは文学上のことで、実生活は平凡そのもの。それはいまも変わらず。

 高柳 誠さんから、詩集『放浪彗星通信』(書肆山田・二〇一七年五月初版第一刷)を送っていただいた。改行詩と散文詩との綴れ織り。改行詩は透明感が半端なく、その繰り出される詩行には、言葉の錬金術を目にするような印象を受けた。散文詩の部分はカルヴィーノの『レ・コスミコミケ』が髣髴された。

 韓国人の、かわいらしいおデブさんから、FB承認依頼がきたので、即刻、承認した。コントをしてらっしゃるサンドイッチマンのメガネをかけているかたにそっくり、笑。そいえば、ぼくは、あのサンドイッチマンというコントのかたたち、ゲイのカップルだと思ってたんだけど違ってたのかな。結婚したね。

 あと一時間、ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』のつづきを読んだら、クスリのもう。進化したリスと人類との闘い。しかもリスの方が強いなんて、なんという設定だろうか。ふと、ドナルド・モフィットのかわいらしい表紙のSF小説が思い浮かんだ。未来の人類の敵はネズミが進化したものだった。

二〇一七年五月三十一日 「さらば ふるさとの惑星」

 ヴァン・ヴォクトの『銀河帝国の創造』を読み終わった。これといい、このまえに読んだ『ロボット宇宙船』といい、げんなりとするくらいの駄作だったのだが、『非Aの世界』と『非Aの傀儡』は、高校生時代に読んでびっくりした記憶があるのだけれど、初版の表紙の絵もいいしね。でも怖くて読み返せない。つぎに読むのは、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』。ホールドマンは、安心して読める作家の一人だ。まさか、ジャック・ヴァンスや、ヴァン・ヴォークトほど劣化していないと思うのだけれど、どだろ。むかしのSFって、ほんと差が激しい。ひとりの作家でもね。いまのも差が激しいか。

きょうも日知庵に行く予定。雨かな。


詩の日めくり 二〇一七年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年六月一日 「擬態」

 ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』ちょっと読んだ。ちょっと読んでも、ヴォクトの2冊の本よりはよいことがわかる。ヴォクト、非Aシリーズが傑作だった印象があるので、さいきん読んだヴォクト本にがっかりしたのは、自分でもずいぶんと驚いている。非Aシリーズを再読しないかも。

 人生において重要なのは、下手に勝つことよりも、いかに上手に負けるかである。うまく負けるのに、とびきり上等な頭が必要なわけではない。適度な考える力と、少々の思いやりのこころがありさえすればよい。ただ、この少々の思いやりのこころを持つというのが、人間の大きさと深さを表しているのだが。

 休みの日は、だらだらと寝ているか、小説を読んだり、ときには詩集をひもといたりしているか、まあ、自堕落な時の過ごし方をしているが、いま読んでいるジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』は読みごたえがある。ホールドマンの作品は、一作をのぞいて、すべて傑作だったと思う。

 その一作って、タイトルも忘れてしまったけれど、ほかの作品は、みな傑作であった。その一作は、文庫にもならなかったもので、といえば、この『さらば ふるさとの惑星』も文庫化していないけれど、その一作も叙述はしっかりしていたし、おもしろくなかったわけでもないけれど、さいごの場面が安易で、ぼくの本棚に残しておく価値はないと判断したのであった。まあ、このあいだ読んでた、二冊のヴァン・ヴォクト本に比べれば、読み応えがあったけれども。いま読んでる『さらば ふるさとの惑星』って上下二段組みなので、字がびっしりって感じで、今週中に読み終えられるかどうかってところ。どだろ。

 そろそろクスリをのんで眠りにつく。寝るまえの読書も、ひきつづき、ジョー・ホールドマンにする。サリンジャーの短篇集『倒錯の森』も寝具の横に置いてあるのだけれど、なかなかつづきを読む気が起こらない。まあ、そのうち、SFにまた飽きたら、純文学にも手を出すだろうとは思うのだが。おやすみ。

 うわ〜。大雨が突然、降りはじめた。雷も鳴っている。ただ一つ、えいちゃんの仕事帰りが心配。それにしても、きつい雨の音。すさまじい勢いだ。急いでベランダにある干し物を取り入れた。雨は浄罪のシンボルだけれど、さいきん罪を犯した記憶はないので、過去の自分の過失について思いを馳せた。

 クスリがまだ効かない。雨が小降りになってきた。ジョー・ホールドマンも、ぼくがコンプリートに集めた作家や詩人のひとりだが、最高傑作は、『終わりなき平和』だろう。ぼくが、手放したホールドマンの本は『擬態』だった。叙述は正確そのものだったのだが、さいごの場面がなぜかしら安易だったのだ。

二〇一七年六月二日 「さらば ふるさとの惑星」

ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』半分くらい読んだ。だんだん政治的な話になっていくところが、ホールドマンらしい。つづきを読もう。

あした午前に仕事があるので、お酒が飲めず、あてだけを食べている、笑。焼き鳥、枝豆、にぎり寿司。

 きょうも一日、楽しかった。いろいろあるけれど、ぜんぶのみ込んじゃって、楽しめるようになったかな。これからクスリのんで寝る。といっても、一時間近く、眠れないで読書するだろうけれど。ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』付箋だらけ。やっぱり、ホールドマンの言葉は深い。

二〇一七年六月三日 「さらば ふるさとの惑星」

仕事に。きょうは、夕方から日知庵で飲む予定。

いったん仕事から帰ってきて、読書のつづきをしている。夕方にお風呂に入って、日知庵に飲みに行く予定。

いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。いまからFB、文学極道の詩投稿掲示板を見に行ってくる。

 きょうも、寝るまえの読書は、ジョー・ホールドマン。やっぱり哲学があって、叙述力がある作家だと思う。『擬態』はよくなかったけれどね。叙述力はあっても、さいごの場面が安易すぎた。残念。それ一作以外、みな傑作なのに。

 クスリのんで横になる。横になって、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。これって、Amazon で見たら、200円台で売ってるんだよね。びっくり。よい作品が安い値段で出てるってのは、ぼくはよいことだと思う。

二〇一七年六月四日 「さらば ふるさとの惑星」

 きょうは、昼に大谷良太くんとビールを飲んで、夕方から日知庵でビールを飲んで、文学をまったくしていなかったので、きょうは、これから寝るまで、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のつづきを読む。いま199ページ。あと65ページある。読み切れないだろうけれど、がんばる。

二〇一七年六月五日 「さらば ふるさとの惑星」

 ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』を読み終わった。あしたの昼に、ルーズリーフ作業をしよう。ぜんぶでメモした箇所が13カ所。あまり、いい数字じゃないな、笑。でも、こころをこめて、ていねいにルーズリーフに書き写すことによって、きっとぼくの潜在自我が吸収してくれると思う。

 クスリのんで寝ます。あしたは笹原玉子さんと、笹原玉子さんが連れてこられるゲストの方(まだお名前を教えていただいていない)と、3人で、夕方5時に、きみやで食事をすることになっている。3人の平均年齢が、およそ70歳くらいなのだ。どんな会話になりますことか、チョー楽しみにしています。

 寝るまえの読書は、ひさびさに、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきから。

二〇一七年六月六日 「笹原玉子さん」

 いま起きた。休みの日は、たいていこの時間くらいに起きだす。さて、コーヒーとサンドイッチでも買ってお昼を食べてから、ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業をしよう。夕方からは笹原玉子さんたちと河原町で食事だ。

 ジョー・ホールドマンの『さらば ふるさとの惑星』のルーズリーフ作業が終わったので、あと一時間ほど、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきを読もう。まだ2篇目だけれど。

 いまから河原町へ。平均年齢70歳の3人が、めっちゃモダンな居酒屋さんへ。きみやヘ、ゴー!

 いま、きみやから帰ってきた。笹原玉子さんと、お酒を飲んでいた。もうおひとりの方は来られなかった。文学の話をいっぱいして楽しかった。京都に来られたのが、じつは彼女の玲瓏賞の授賞式だったからだと聞いて、喜んだ。

 帰りに、西院駅のまえのビルの2階にある「あおい書店」で、文庫本を3冊買った。ハーラン・エリスンの『死の鳥』と『ヒトラーの描いた薔薇』と、ロバート・F・ヤングの『時をとめた少女』である。エリスンの『死の鳥』は、出たときにも買ったのだが、さいしょの2篇があまりにも駄作だったので、破り捨てたのだけれど、あとで、タイトル作が名作だと聞いて、そのうち、買い直そうと思っていたもの。『ヒトラーの描いた薔薇』は、いま出たとこなのかな。平積みされていたので買った。ヤングはもう仕方ないね。買って読んで捨てるってパターンの作家だな。でも、いちおう全作、読んでるんだな。

 きょうは寝るまで、ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読もうと思う。

 ヤングの短篇集『時をとめた少女』を91ページまで読んだ。わくわく感はない。安定した叙述力は感じるが、ただそれだけだ。しかし、せっかく買った、ひさしぶりの新刊本なのだから、さいごまで読もうとは思う。木曜日までには読み終えて、ハーラン・エリスンの『ヒトラーの描いた薔薇」を読みたい。

二〇一七年六月七日 「時をとめた少女」

 ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』を読み終わった。ヤングらしくないさいごの2篇がよかった。とくに、さいごに収録されている「約束の惑星」はさいごのどんでん返しに感心した。冒頭の「わが愛はひとつ」はいつものヤング節かな。「妖精の棲む樹」と「花崗岩の女神」は同様の設定だったが、こういう方向もあったのだと、ヤングを見直した。短篇集として、『時をとめた少女』は、5点満点で3点というところか。まあ、普通だったかな。でも、一か所、ぼくが死ぬまでコレクションしつづけるであろう詩句を、「花崗岩の女神」IIのなかに見つけた。ひさびさのことで、ちょこっと、うれしい。

「きみの名前は?」(ロバート・F・ヤング『花崗岩の女神』II、岡部宏之訳、短篇集『時をとめた少女』174ページ・5行目)

しかし、このヤングの短篇集の『時をとめた少女』の表紙、どうにかならんか、笑。

 いま日知庵から帰ってきた。きょうから、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読む。きょうは、解説だけかな。

二〇一七年六月八日 「ヒトラーの描いた薔薇」

いま起きた。休みの日はこんなもの。読書しよう。ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』。

 きょうは、ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読んでいた。いま、236ページ。読書疲れだろうか。目がしばしばする。もうちょっと読んだら、クスリのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年六月九日 「法橋太郎さん」

 ハーラン・エリスンの短篇集『ヒトラーの描いた薔薇』を読み終わった。5点満点中3点といったところか。まあ、同じ3点でも、ロバート・F・ヤングの短篇集『時をとめた少女』より、おもしろくは思えたけれども。

 いま目次見て、どれがおもしろかったか、書こうとして、半分くらい話を憶えていないことに気がついて、すごい忘却力だと思った。まあ、おもしろいと思ったのは、「解消日」、「大理石の上に」、「睡眠時の夢の効用」くらいかな。

 きょう、ブックオフで、108円だからという理由だけでほとんどだけど、2冊、買った。創元SF文庫から出てるジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』と、創元推理文庫から出てるピーター・ヘイニング編の短編推理アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻。下巻がおもしろかったら、Amazon で上巻を買おう。いくら本を処分しても、本が増えていく。不思議ではないけれど、そういう病気なのだろうと思う。まあ、読書が生きがいだから、仕方ないけどね。

 帰ってきたら、郵便受けに、法橋太郎さんから詩集『永遠の塔』を送っていただいていた。表紙の絵がいいなと思ったら、装幀がご本人によるものだった。冒頭の詩「風の記憶」にある「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句に目がとまる。つぎつぎと収録作を読んでいく。「幻の群猿」という詩を読むと、「四方に網を掛けた。執着の網を掛けた。猿の類がかかった。おれもまたそうだったが、執着の曲がった視線でしかものを見られない猿たちがいるのだ。」という冒頭の詩句に目がとまった。「死ぬまで爪を切りつづける。」という詩句の具象性と、「四方に〜」という詩句における抽象性と、詩人というものは両極を行ったり来たりする存在なのだなと思った。現在のぼくは、ひたすら具象性を追求する方向で作品を書いているのだが、法橋太郎さんの書かれた詩句のような抽象性も持たなければいけないなと思った。

二〇一七年六月十日 「武田 肇さん」

 日知庵から帰ってきて、郵便受けを見ると、武田 肇さんから、自撰句集『ドミタス第一號』を送っていただいてた。ぼくの好みは、「雲はいつの雲にもあらず雲に似る」、「形あるものみな春ををはりけり」、「足のうら足をはなれてはるのくれ」といった句である。ひとは自分に似たものを好むというアリストテレスの言葉を思い出した。ぼくには、ここまで圧縮できないと思うけれど、自分が考えていることに近いというか、そんな気がする句が好きなようだ。俳句というのは、世界でもっとも短い詩の定型詩だと思うけれど、そこで残るような作品をつくることは、ほんとうにむずかしいことだと思う。むかし集中して俳句を勉強したけれど、いまでも、すっと記憶に出てくるものは10句もない。ルーズリーフに書き写している俳句も200句か300句ほどしかないと思う。武田 肇さんの俳句を味わいつつ、俳句そのものの形式について考えさせられた。ぼくが書くには極めて圧縮された形式でむずかしい。

 武田 肇さんの俳句を読み終わったので、きょうの残った時間は、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』のつづきを読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年六月十一日 「死の鳥」

 ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』を読み終わった。SFって感じがあまりしなかった。どちらかといえば、幻想文学かな。よいなと思った作品は、「ジェフティは五つ」と「ソフト・モンキー」。「ソフト・モンキー」はまったくSFとは無縁の作品。それはもう幻想文学でもない、普通の小説だった。アイデアとしては、未来人との絡みで、ジャック・ザ・リッパーを扱った「世界の縁にたつ都市をさまよう者」が印象的だったかな。あと、「プリティ・マギー・マネーアイズ」も印象に残ったかな。タイトル作の「死の鳥」はまったく意味がわからなかった。「「悔い改めよ、ハーレクイン!」とチクタクマンはいった」と「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は、以前に読んだ記憶がある。どちらも古いSFを読み直しているような気がしたが、前者がオーウェルの『1984年』や、ザミャーチンの『われら』に通じるものだったという記憶がなかったので、そこは意外だった。後者の記憶はほとんどなかったのだが、なんだか、エリック・F・ラッセルか、クリフォード・シマックの短篇を読んだかのような読後感を持ってしまった。まあ、いずれにしても、50年代のSFって感じだった。でも、いま解説を読むと、前者は1965年に、後者は1967年に発表されたものだった。ぼくの1950年代のSF感が間違っているのかもしれない。河出文庫から出ている年代別の短篇SFアンソロジーで調べてみよう。『20世紀SF(2) 1950年代 初めの終わり』と『20世紀SF(3) 1960年代 砂の檻』の目次を見比べた。そうだな。やはり、エリスンのは50年代のほうに近いかなと思った。1960年代は、SFにおいては、ニュー・ウェイヴの時代だものね。短篇集のタイトル作品がニュー・ウェイヴっぽいかなと思ったけれど、ぼくには意味不明の作品だった。2つの話を一つにしたってだけの感じしかしなかった。幻想文学の諸知識と安楽死というものを無理に一つにした小説だね。

二〇一七年六月十二日 「潜在自我」

 きょうはずっと読書している。ときどき、コーヒーを淹れるくらい。ぼくの人生、あとどのくらい本が読めるのだろうか。まだまだたくさんの未読の本が棚にある。それでも、新刊本も買うし、ブックオフで読んでいない古いものも買う。ぼくが本に投資しているのと同様に、本もぼくに投資してくれてのかしら。

 まあ、全行引用詩に貢献してくれているし、なにより、ぼくの潜在自我や建材自我の形成に大きく寄与しているだろうから、ぜんぜん無駄ではないね。しかし、傑作は多いけれど、ゲーテの『ファウスト』やシェイクスピア級の傑作は、それほど多くない。とはいっても、SFで20作くらいはありそうだけど。

二〇一七年六月十三日 「凍りついた空━エウロパ2113━」

 きょう、一日かかって、ジェフ・カールソンの『凍りついた空━エウロパ2113━』を読んでいたのだが、で、いま読み終わったのだが、26ページの記述から以後の記述とのつながりがいっさいなくて、さいごまで読んだのに、なんだか騙されたかのような気がした。作者のミスだと思うが、話の筋自体に、整合性のないものは、いくらSF小説とはいっても許されるべきものではないと思われるのだが、いかがなものであろうか。不条理小説ではなく、どちらかといえば、ハードSFに分類されるような専門用語と設定で押しまくられて、さいしょの疑問がどこでも解かれていないなんて、ひどい話だと思う。ぼくが読んだ長篇SFのなかで、いちばんひどかったのではないかと思う。ちなみに、ぼくの記憶は都合がよくできていて、ひどいものは忘れるのがはやいので、これ以外に、ひどい長篇SFをいま思い出すことはできないのだけれど。というのも、いま部屋の本棚にあるものは傑作ばかりなので思い出せない。しかし、このSF小説のカヴァーはひどいね。芸術的なところが、いっさいないのだね。まあ、さいきんのハヤカワ、創元のSF文庫の表紙の出来の悪さは、経費削減のためなのか、あまりにシロート臭くてひどいシロモノばかりだ。

 今晩から、ピーター・ヘイニング編の短篇ミステリーのアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読む。でももう、きょうは、だいぶ、遅いね。クスリをのんで横になって読もう。12時半くらいには寝たいのだが、どこまで読めるだろうか。さっき、『凍りついた空』読み直ししたけど、やっぱりひどいわ。

二〇一七年六月十四日 「風邪」

 いま学校から帰った。風邪を引いたみたいだ。咳がするし、熱もある。きょうは、このまま横になって寝ておくことにする。

二〇一七年六月十五日 「風邪」

 風邪がひどい。風邪クスリのんでずっと寝てる。

二〇一七年六月十六日 「風邪」

 風邪がよりひどい。きのう、きょうと、学校の授業がなかったので、ずっと部屋で寝込んでいる。あした午前に、一時間の授業があるので、そこをどうやりくりするかである。声が出なかった場合、どうするか。むずかしい。やっぱり、仕事は体力がいちばん大切だなと実感している。いまも熱で朦朧としている。風邪にはよくないと思いながらも、横になって読書をしていた。ピーター・ヘイニング編の短篇推理小説アンソロジー『ディナーで殺人を』下巻の315ページを読んでいたら、ぼくがコレクトしている言葉にぶちあたった。「きみの名前は?」(レックス・スタウト『ポイズン・ア・ラ・カルト』小尾芙佐訳)

 短編推理小説のアンソロジー『ディナーで殺人を』下巻を読み終わった。風邪がひどい状態なので、頭痛がしつつも、痛みが緩慢なときに、ここ数日、読んでいた。つぎには、なにを読もうか。きょうは、もうクスリをのんで寝るけれど、寝るまえの読書はサリンジャーの短篇集『倒錯の森』のつづきにしよう。

二〇一七年六月十七日 「澤 あづささん」

澤 あづささんが、ブログで、拙作『語の受容と解釈の性差について━━ディキンスンとホイットマン』を紹介してくださっています。

二〇一七年六月十八日 「グリーン・マン」

 いま日知庵から帰った。きょうは5時から、日知庵に、9時すぎに、きみやに、また10時30分ころに、日知庵に飲みに行ってた。風邪でめまいもしてたけれど、風邪などお酒で吹き飛ばしてやれという気で飲みに行った。いま、めまいがしながらも、いい感じである。風邪はたぶんひどいままだろうけれど。

 で、一回目の日知庵では、大谷良太くんと出会い、二回目の日知庵では、東京にいらっしゃってて、京都に来られたとき、たまたま横でお話させていただいただけなのに、目のまえで、Amazon で、ぼくが2014年に思潮社オンデマンドから出した詩集『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上巻を、即、買ってくださった方とお会いしたのであった。大谷良太くんとも、そうだし、その方とも、そうだけど、なにか運命のようなものを感じる。まあ、勝手に感じてろって自分でも思うところはあるのだけれど、笑。出会いと人間関係なんて、どこで、どうなるか、わかんないものね。

 きょう、寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』。どこがSFなのか、まだ26ページ目だけれど、さっぱり、わからない。居酒屋けん宿屋の主人の一人称形式の物語。幽霊の話が出てくるのだけれど、ブライアン・W・オールディスが、この作品をベタ褒めしていた記憶があって、エイミスといえば、サンリオSF文庫の『去勢』や、彼は詩人でもあって、アンソロジストでもあるのだけれど、彼が編んだ『LIGHT VERSE』を思い出す。お酒の本も出してたと思うけれど、手放してしまった。キングズリイ・エイミスもゲイだったのだけれど、『LIGHT VERSE』にも、ゲイの詩人やレズビアンの詩人のもので、おもしろいものがたくさんあったと記憶しているのだけれど、そいえば、さいきん、英詩を翻訳してないな。

 あかん。まだ熱がある。咽喉も痛い。クスリのんで横になろう。あしたは、神経科医院に行く日。3時間待ちか。しんどいな。仕方ないけど。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年六月十九日 「自費出版」

 いま神経科医院から帰ってきた。きょうは、もう横になって、風邪の治りを待つだけ。エイミスの『グリーン・マン』いま80ページほど。ていねいな描写なので、疲れない。P・D・ジェイムズのようなていねいさではない。彼女のていねいさは狂気の域に達している。まあ、ぼくはぜんぶ読んだけど、天才。

 キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』 いま152ページ。これって、SFじゃなくて、幽霊話なんだね。しかも、主人公が人妻と浮気して、自分の妻との3人でのセックスの提案をしつづけていたりという、エロチック・怪奇小説って感じ。エイミスって、一流の作家だと思っていたので、びっくり。まあ、いま書いて自分の意見を否定するのだけれど、そんな題材で小説が書けるのだと、いまさらながら気が付けさせられた。そういう意味では、ぼくも死ぬまでに書きたい小説があって、そろそろ手をつけるときかなって思っているのだけれど、構想だけにすでに数年の時間を費やしている。

 チューブで、ホール・マッカートニーのトリビュートを見てたんだけど、まえのアメリカの大統領と同席して、ポール自身が見てたんだけど、ポールが一瞬のあいだも見逃さないようにステージを見つめてたとこに、なんだか、こころにぐっとくるものがあった。音楽で食べてるひとたちもいる。あきらめたひとたちもいる。ぼくも結局、詩集を出すのに1500万円くらいかけたけれど、1円も手にしていない。ほんとうに趣味なのだ。しかも、これからさきも死ぬまで1円も手にしないだろう。永遠のシロートである。しかし、詩人はそんなものであってもよいと思っている。むしろお金を儲けない方がよいとすら思っている。ほかにきちんと仕事を持っているほうが健全だと思っている。賞にもいっさい応募しないので、だれにおもねることもない。献本もしないので、ぼくの詩集を持っているひとは、みな、ぼくの詩集を買ってくださった方だけである。このきわめて健全な状態は、死ぬまで維持していきたいと思っている。

二〇一七年六月二十日 「エヴァが目ざめるとき」

 ピーター・ディキンソンの『エヴァが目ざめるとき』を読み終わった。彼の作品にしては、毒がないというか、インパクトがないというか、それほどおもしろい作品ではなかった。亡くなりかけた娘の記憶を猿に記憶させて云々というゲテモノじみた設定の物語ではあるが、児童書のような印象を持った。

二〇一七年六月二十一日 「源氏の気持ち」

 源氏の気持ちのなかには、奇妙なところがあって、衛門督の子を産んだ二条の宮にも、また衛門督にも、憎しみよりも愛情をより多くもっていたようである。いや、奇妙なことはないのかもしれない。人間のこころの模様は、このように一様なものではなく、同じ光のもとでも、さまざまな色とよりを見せるものであろうし、まして、違った光のもとでなら、まったく異なった色やよりを見せるものなのであろう。源氏物語の「柏木」における多様な性格描写が、ぼくにそんなことを、ふと思い起こさせた。

二〇一七年六月二十二日 「まだ風邪」

 いま日知庵から帰った。風邪、まだ直っていないが、という話を日知庵でしたら、お友だちから、「肝臓がアルコールを先に処理するので、風邪を治すのはあとになるよ。風邪を治すのにお酒はよくないよ。」と言われて、ひゃ〜、そうやったんや。と思うほど、身体の生理機能について無知なぼくやった。Tさん、貴重な情報、ありがとうございました。きょうは焼酎のロック2杯でした。2杯で、ベロンベロンのぼくですが。うううん。寝るまえの読書は、キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』あとちょっと。きょうじゅうか、あしたのうちには読み切れる。さいご、どうなるか楽しみ。幽霊話だけどね。

 キングズリイ・エイミスの『グリーン・マン』を読み終わった。読む価値は、あまりなかったようなシロモノだった。ブライアン・オールディスは絶賛していたけれど、どこがよかったのだろう。よくわからず。まあ、さいごまで読めたので、叙述力はあったと思うのだけれど、そこしかなかったような気もする。

 ここ連続、あまりおもしろくない本を読んでいたので、ここらで、おもしろい本と出くわしたいのだけれど、どうだろうね。

二〇一七年六月二十三日 「敵」

敵だと思っている
前の職場のやつらと仲直りして
部屋飲みしていた。
膝が痛いので
きょうは雨だなと言うと
やつらのひとりに
もう降っているよと言われて
窓を開けたら
雨が降っていたしみがアスファルトに。
でも雨は降っていなかった。
膝の痛みをやわらげるために
ひざをさすっていると
目が覚めた。
窓を開けると
いまにも降りそうだった。
この日記を書いている途中で
ゆるく雨の降る音がしてきた。

二〇一七年六月二十四日 「双生児」

 きょうは、食事をすることも忘れて、一日じゅう読書をしていた。いまから寝るまでも、本を読むつもりだけれど。これまた、ぼくがコンプリートに集めた作家、クリストファー・プリーストの『双生児』本文497ページの、とても分厚い単行本なので、今週ちゅうに読み終えられればいいのだけれど。

二〇一七年六月二十五日 「いっこうに治らない風邪」

いっこうに風邪が治らず、きょうは読書もせず、ずっと寝ていた。あしたは、ちょっとは、ましになってるかな。

二〇一七年六月二十六日 「秋山基夫さん」

 秋山基夫さんから『月光浮遊抄』を送っていただいた。いま自分が来年に出す詩集の編集をしていて、『源氏物語』を多々引用しているためか、秋山さんの詩句に『源氏物語』の雰囲気を重ねて読ませていただいていた。そのうえで、送っていただいたご本の第二次世界大戦時の記述が混じって、その違和感がおもしろかった。

二〇一七年六月二十七日 「若菜」

(…)院も時々扇(おうぎ)を鳴らしてお加えになるお声が昔よりもまたおもしろく思われた。すこし無技巧的におなりになったようである。
              (紫式部『源氏物語』若菜(下)、与謝野晶子訳)

無技巧的になって、おもしろく思われる。
ではなくて
おもしろく思われるのも、無技巧的になったからか。
というのである。
コクトーも、うまくなってはいけないと書いていた。
コクトーは技巧を凝らした初期の自作を全集からはずしたが
ぼくも、自分の技巧的な作品は、好きじゃない。
自然発生的なものしか、いまのぼくの目にはおもしろくないから。

二〇一七年六月二十八日 「日付のないメモに書いた詩」

職員室で
あれは、夏休みまえだったから
たぶん、ことしの6月あたりだと思うのだけれど
斜め前に坐ってらっしゃった岸田先生が
「先生は、P・D・ジェイムズをお読みになったことがございますか?」
とおっしゃったので、いいえ、とお返事差し上げると
机越しにさっと身を乗り出されて、ぼくに、1冊の文庫本を手渡されたのだった。
「ぜひ、お読みになってください。」
いつもの輝く知性にあふれた笑顔で、そうおっしゃったのだった。
ぼくが受け取った文庫本には、
『ナイチンゲールの屍衣』というタイトルがついていた。
帰りの電車のなかで読みはじめたのだが
情景描写がとにかく細かくて
またそれが的確で鮮明な印象を与えるものだったのだが
J・G・バラードの最良の作品に匹敵するくらいに精密に映像を喚起させる
そのすぐれた描写の連続に、たちまち魅了されていったのであった。
あれから半年近くになるが
きょうも、もう7、8冊めだと思うが
ジェイムズの『皮膚の下の頭蓋骨』を読んでいて
読みすすめるのがもったいないぐらいにすばらしい
情景描写と人物造形の力に圧倒されていたのであった。
彼女の小説は、手に入れるのが、それほど困難ではなく
しかも安く手に入るものが多く、
ぼくもあと1冊でコンプリートである。
いちばん古書値の高いものをまだ入手していないのだが
『神学校の死』というタイトルのもので
それでも、2000円ほどである。
彼女の小説の多くを、100円から200円で手に入れた。
平均しても、せいぜい、300円から400円といったところだろう。
送料のほうが高いことが、しばしばだった。
いちばんうれしかったのは
105円でブックオフで
『策謀と欲望』を手に入れたときだろうか。
それを手に入れる前日か前々日に
居眠りしていて
ヤフオクで落札し忘れていたものだったからである。
そのときの金額が、100円だっただろうか。
いまでは、その金額でヤフオクに出てはいないが
きっと、ぼくが眠っているあいだに、だれかが落札したのだろうけれど
送料なしで、ぼくは、まっさらに近いよい状態の『策謀と欲望』を
105円で手に入れることができて
その日は、上機嫌で、自転車に乗りまわっていたのであった。
6時間近く、通ったことのない道を自転車を走らせながら
何軒かの大型古書店をまわっていたのであった。
きょうは、昼間、長時間にわたって居眠りしていたので
これから読書をしようと思っている。
もちろん、『皮膚の下の頭蓋骨』のつづきを。
岸田先生が、なぜ、ぼくに、ジェイムズの本を紹介してくださったのか
お聞きしたことがあった。
そのとき、こうお返事くださったことを記憶している。
「きっと、お好きになられると思ったのですよ。」
もうじき、50歳にぼくはなるのだけれど
この齢でジェイムズの本に出合ってよかったと思う。
ジェイムズの描写力を味わえるのは
ある年齢を超えないと無理なような気がするのだ。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくを魅了してきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくを魅了するだろう。
偶然。
さまざまな偶然が、ぼくをつくってきた。
これからも、さまざまな偶然が、ぼくをつくるだろう。
若いときには、齢をとるということは
才能を減少させることだと思い込んでいた。
記憶力が減少して、みじめな思いをすると思っていた。
見かけが悪くなり、もてなくなると思っていた。
どれも間違っていた。
頭はより冴えて
さまざまな記憶を結びつけ
見かけは、もう性欲をものともしないものとなり
やってくる多くの偶然に対して
それを受け止めるだけの能力を身につけることができたのだった。
長く生きること。
むかしは、そのことに意義を見いだせなかった。
いまは
長く生きていくことで
どれだけ多くの偶然を引き寄せ
自分のものにしていくかと
興味しんしんである。
読書を再開しよう。
読書のなかにある偶然もまた
ぼくを変える力があるのだ。

二〇一七年六月二十九日 「『ブヴァールとペキュシェ』フロベール 全3巻 岩波文庫」

欲しい本で、まだ買ってなかったもの。
ヤフオクで、落札価格1900円+送料320円
到着するのが楽しみ。

いま全行引用の長篇の作品をつくろうとしているのだけれど
それを、それの数倍の長さの長篇作品の最後に置くアイデアが
じつは、フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』からだった。

全行引用の長篇の作品とは
「不思議の国のアリスとクマのプーさんの物語。」
のことである。

来年度中には完成させたい。
きょうは、ひさびさにエリオットを手にして
寝床につこうと思う。

じゃあ、行こうか、きみとぼくと、
薄暮が空に広がって
手術台の上の麻酔患者のように見えるとき。
                       (岩崎宗治訳)

後日談

大失敗、かな、笑。
ネットで検索していて
「ブヴァールとペキュシェ」が品切れだったと思って
何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど
きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって
本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。
ううううん。
560円、500円、460円だから
新品の方が安かったわけね。
日知庵に寄って、バカしたよ〜
と言いまくり。
ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。
ひさびさのフロベール体験。
どきどき。
きょうは、これからお風呂。
あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。


このあいだ、ヤフオクで買ったの
届いてた。
ヤケあるじゃん!
ショック。


いまネットの古書店で見たら
4200円とかになってるしな〜
思い違いするよな〜
もうな〜
足を使って調べるということも
必要なのかな。
ネット万能ではないのですね。
しみじみ。
古書は、しかし、むかしと違って
ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。
古書好きにとっては、よい時代です。
こんなスカタンなことも
ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。
前向き。

二〇一七年六月三十日 「岡田 響さん」

 岡田 響さんから、散文詩集『幼年頌」を送っていただいた。300篇の言葉についての緻密な哲学、といった趣と、言葉にまつわる自身の経験的な非哲学の融合、といったところが、同時に感じられるが、質的にだけではなく、量的にも圧倒される。このような作品を書くことの困難さについて思いを馳せた。

二〇一七年六月三十一日 「杉中昌樹さん」

 杉中昌樹さんから、詩論集『野村喜和夫の詩』を送っていただいた。ひとりの詩人による、もうひとりの詩人の詩の詳細な解説である。これは書かれた詩人にとっても書いた詩人にとっても、僥倖なのであろう。しかし、もしも、自分の詩が、ひとりの詩人によって徹底的に解説されたらと思うと、おそろしい。


詩の日めくり 二〇一七年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年七月一日 「双生児」

 いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパである。寝るまえの読書は、ここ数日間、読みつづけている、クリストファー・プリーストの『双生児』である。いま、ちょうど半分を切った267ページ目に入るところである。作者に騙された感じのあるところである。緻密なトリックを見破れるだろうか。

二〇一七年七月二日 「すごい眠気」

いま日知庵から帰ってきた。きょうはずっと寝てたけど、これから横になって寝るつもり。おやすみ。眠気のすごい時節だ。

二〇一七年七月三日 「双生児」

 クリストファー・プリーストの『双生児』を読み終わった。歴史改変SFというか、幻想文学というか、その中間という感じのものだった。プリーストのものも、けっきょく、全作、日本語になったものは読んでしまったことになるのだが、記述が緻密なだけに読みにくく、おもしろさもあまりない。では、なぜ、そんなプリーストのものを読みつづけてきたのかといえば、イギリス作家特有の情景描写の巧みさから、学べるものがあるだろうと思っているからだ。

二〇一七年七月四日 「左まわりのねじ」

 いま日知庵から帰ってきた。あしたは台風なんやね。ぼくは夕方からだけ仕事なので、どかな。影響あるかな。きのう、寝るまえに、A・バートラム・チャンドラーの『左まわりのねじ』を、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』で読み直した。記憶していたものより複雑なストーリーだった。寝るまえに、スカッとさわやかなものを読もうと思ったのだけれど、けっこう凝ったストーリーだった。記憶していたものは、とても短くて、あっさりした、それでいて、びっくりさせてくれるものだったので、けっこう複雑なストーリーで驚いた。記憶って、頼りにならないものなんだね。びっくり。

きょうも、この『ベストSF 1』のなかから、ひとつ選んで読んで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年七月五日 「荒木時彦くん」

 荒木時彦くんが『NOTE 001』を送ってくれた。自殺の話のはじまりから死について、それから人生について書かれてあった。さいしょのページを除くと、うなずくところが多くあった。ぼくは自殺を否定しない派の人間だから、さいしょにつまずいた。荒木くんも作品で否定しているだけだろうけれど。完璧な構成だった。唐突なキャラの出現と行動もおもしろい。さいごの場面の建物と歴史のところは、はかない命をもつ人間に対する皮肉というか、その対比も、ひじょうにうまいなと思った。荒木時彦という詩人の書くものが、どこまで進化するのか、見届けてみたいと思う。齢とってるぼくが先に死ぬだろうけど。

 きょうから読書は、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』。レムは、おもしろいものと、そうでないものとの差が激しいので、心配なのだが、これは、どうだろう。部屋にある未読の本が少なくなってきた。あと、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』と、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』と、マイリンクの『ゴーレム』と、ルーセルの『ロクス・ソルス』と、サリンジャーの短篇集の『倒錯の森』のつづきだけになった。これらを、たぶん、ことしじゅうに読み終えられるだろうけれど、そのあとは、再読していいと思っている作品群に手をつける。それが楽しみだ。寝るまえにSFの短篇を読み直しているのだけれど、そういった読書の楽しみと、それと、海外詩の翻訳の読み直しを大いに楽しみたいと思っている。とくに、ディラン・トマスの書簡集の読み直しの期待が大きい。英詩の翻訳も再開したい。ロバート・フロストの単語調べが終わってる英詩が4作ある。なかなか気力がつづかないぼくであった。

 そだ。シェイクスピアやゲーテの読み直しもしたいし、長篇SFの再読もしたい。未読の本もまだあった。オールディスの『寄港地のない船』と、グレアム=スミスの『高慢と偏見とゾンビ』と、レムの『ロボット物語』と『宇宙創世記ロボットの旅』(これら2冊は読んだ可能性がある。わからないけれど)。ミステリーは、アンソロジー以外、P・D・ジェイムズの『高慢と偏見と殺人』しか本棚に残していない。詩を除くと、純文学は、岩波文庫以外、ラテンアメリカ文学しか残していない。SFが数多く残っている。これらの再読が楽しみだ。読んで、10年、20年、30年といった本がほとんどだ。読むぼくが変わっているはずだから、傑作として、本棚に残した数多くの本が、また新しい刺激を与えてくれると思う。56歳。若いときとは異なる目で作品を見ることになる。作品もまた、異なる目でぼくを見ることになるということだ。楽しみだ。

二〇一七年七月六日 「ヤング夫妻」

 いま日知庵から帰ってきた。学校が終わって、塾が終わって、さあ、きょうはこれから飲むぞと思って日知庵に行ったら、あした、会う約束をしていた香港人ご夫婦のヤング夫妻と出くわしたのだった。きょう、日本に来て京都入りしたそうだ。ご夫妻の話はメモからあした詳しく書く。ご夫妻よりも、帰りの電車で出会った青年のことをいま書く。20代前半から半ばだろうか。ぼくがさいしょに付き合ったノブチンのような感じのおデブちゃんで、河原町駅からぼくは乗ってたのだけど、その子は烏丸から乗ってきて、めっちゃかわいいと思ったら、ぼくの横に坐ってきて、溜息をつきながらぼくを見たのだった。ええっ、ぼくのこと、いけるのって思ったけれど、ぼくもわかいときじゃないし、声をかけてもダメだろうと思って声をかけなかったのだけれど、西院駅で彼も降りたのだった。ぼくは真後ろからついていったのだけれど、駅の改札口から出てちょっと歩いたら、行く方向が違ってて、声をかけなかった。これが、ぼくが20代だったら、声をかけてたと思う。「きみ、かわいいね。ぼくといっしょに、どこか行く?」みたいなこと言ってたと思う。20代で、声をかけて、断られたの2回だけだったから。しかし、いまや、ぼくも50代。考えるよね。声をかけることなく、違う道を歩くふたりなのであった。しかし、息をつきながら、ぼくの目をじっと見つめてた彼の時間のなかで、ほんとうに、ぼくを見た記憶はあるのだろうかってことを考える。ただのオジンじゃんって思って見てただけなのかもしれない。だけど、ぼくはあの溜息に何らかの意味があると思いたい。思って眠る権利は、ぼくにだってあるはずだ。ああ、人生ってなんなんだろう。電車のなかで目が合った瞬間の記憶を、ぼくはいつまで保っていられるのだろう。そういえば、何年かむかし、阪急電車のなかで、仕事帰りに、かわいいなと思った男の子が、ぼくの顔を見てニコッとしてくれたのだけれど、ぼくは塾があったので、知らない顔をしてしまった。いまでも、その男の子の笑い顔が忘れられない。いや、顔自体は忘れてしまったけれど、笑って見つめてくれたことが忘れられない。そうか。ぼくはまだ笑って見つめ返してくれることがあったのだと思うと、人生って、何って思う。ぼくには不可解だ。ぼくはもうだれにも恋をしないと思うのだから、よけい。

 あしたは神経科医院に朝に行って、夜は7時に日知庵で、香港人のヤング夫妻とお話をする。いまから睡眠薬のんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 寝るまえの読書はなんだろう。わからん。SFの短篇集を棚から引き出そう。二度目のおやすみ、グッジョブ! ああ、ヤング夫妻にお土産にお茶をいただいた。

 PC付け直した。メモしていないこと書いとかなくちゃ忘れる。ヤング夫妻に、どうして、こんな暑い時期に日本に来たの? って尋ねると、香港はもっとウエッティーでホッターだと言ってた。そうか、ぼくは京都だけが、こんなに蒸し暑くてって思ってたから、目から鱗だった。これ、メモしてなかったー。

 三度目のおやすみ、グッジョブ! ロバート・シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』ちょこっと読んだ。もうPC消して、ノブチンに似た、きょう阪急電車のなかで出会った男の子のこと考えながら電気決して横になる。あ〜、人生は、あっという間にすぎていく。すぎていく。それでいいのだけれど、涙。

二〇一七年七月七日 「ヤング夫妻」

 いま日知庵から帰ってきた。香港人のご夫婦、ヤング夫妻と飲んでた。お金持ちのヤング夫妻にぜんぶおごっていただいて、なんだかなあと言ったら、「友だちだからね。」と言われて、ふうん、そうなのだ、ありがとうねと言った。次は、2020年に京都に来られるらしい。お金持ちの友だちだ。あ〜あ。

 郵便受けに2冊の詩集が送られていたけれど、きょうは読むのは無理。あした、開けよう。楽しみだ。ぼくは、わかい人の詩集も読んで楽しいし、ぼくと同じくらいの齢の人の詩集も読んで楽しい。個人的な事柄が記載されてあるとき、とくに、うれしく感じるようだ。日記を盗み見る感じなのかな。どだろう。

 曜日を間違えて学校に行くつもりで部屋を出た。駅に着く直前に、きょうは月曜日ではなかったのではと思い、携帯を見たら日曜日だったので帰ったのであった。ボケがきているのかな。短期的なただのボケだったらいいのだけど。

 身体がだるくて、日知庵に行くまで、きょうはずっとゴロゴロ横になってただけだった。きょうはなにもする気がなくて、ただただゴロゴロ横になっていただけだった。どうして、やる気が出ないのだろう。もう齢なのかもしれない。2、3週間前に風邪を引いてからずっと気分が低調だ。歯を磨いて、クスリをのんで寝よう。おやすみ、グッジョブ!

二〇一七年七月八日 「数式」

 数式においては、数と数を記号が結びつけているように見えるが、記号によって結びつけられているのは、数と数だけではない。数と人間も結びつけられているのであって、より詳細にみると、数と数を、記号と人間の精神が結びつけているのであるが、これをまた、べつの見方をすると、数と数が、記号と人間を結びつけているとも言える。複数の人間が、同じ数式を眺める場合には、数式がその複数の人間を結びつけるとも考えられる。複数の人間の精神を、であるが、これは、数式にかぎらず、言葉だって、そうである。言葉によって、複数の人間の精神が結びつけられる。言葉によって、複数の人間の体験が結びつけられる。音楽や絵画や映画やスポーツ観戦もそうである。ひとが、他人の経験を見ることによって、知ることによって、感じることによって、自分の人生を生き生きとさせることができるのも、この「結びつける作用」が、言葉や映像にあるからであろう。

二〇一七年七月九日 「ノイローゼ」

嗅覚障害で
自分では臭いがしないのだけれど
まわりのひとが臭がっているのではないかと思い
きょうは、ファブリーズみたいなの買ってきました。
靴から服へとかけまくりました。
日光3時間照射より強い殺菌力だそうです。
自分で臭いがわかればいいのだけれど。
日知庵で料理を食べても
味だけで
匂いわからず。
まだ味覚があるだけ
幸せか。

嗅覚障害って
治らないみたい。
まだ味覚障害だったら
食べ物で改善できるみたいだけど。
しかし、齢をとると
けっこう多くなるみたい。
こわいねえ。
機械だって
古くなると傷んでくるよね。
ぼくも、膝とか足とか、つねに痛いし。
いもくんは腰だったよね。
ぼくも100キロあったときは
腰がしじゅう痛かった。
いまは朝起きて
背中が痛い。
なんちゅうことでしょ。
若さって、貴重だね。
その貴重な時間を
有効に使ったかなあ。
ばっかな恋ばっかしてたような気がする。
まあ、それで、いま詩が書けてるからいいかな、笑。
その思い出でね。

二〇一七年七月十日 「You are so beatiful」

 いま、きみやから帰ってきた。きょうは、ビール何杯のんだか、わからない。まあ、5時過ぎからこの時間まで飲んでたのだ。飲みながら、考えることもあったのだが、あまり詩にはならないようなことばかり。いや、ぜんぶが詩かな。わからない。人生、ぐっちょぐっちょだわ。いまはもうクスリの時間かな。

 ジョー・コッカーの『You are so beatiful』を聴いている。世界は美しい音楽と、すてきな詩と、すばらしい小説でいっぱいだ。それなのに、ぼくは全的に幸せだとは思えない。なぜなのだろう。欲が深いのかな。あしたから文学三昧の予定なのに、それほど期待していない自分がいる。

二〇一七年七月十一日 「鈴虫」

  月影は同じ雲井に見えながら
     わが宿からの秋ぞ変れる

 このお歌は文学的の価値はともかくも、冷泉院のご在位当時と今日とをお
思いくらべになって、さびしくお思いになる六条院のご実感と見えた。
              (紫式部『源氏物語』鈴虫、与謝野晶子訳)

 同じように見えるものを前にして、自分のなかのなにかが変わっているように感じられる、というふうにもとれる。同じもののように見えるものを目のあたりにすることで、ことさらに、自分のこころのどこかが、以前のものとは違ったもののように思える、ということであろうか。あるいは、もっとぶっ飛ばしてとらえて考えてもよいのかもしれない。同じものを見ているように思っているのだが、じつは、それがまったく異なるものであることにふと気がついた、とでも。というのも、それを眺めている自分が変っているはずなので、同じに見えるということは、それが違ったものであるからである、というふうに。

二〇一七年七月十二日 「ずっと寝てた」

 いま日知庵から帰った。きょうは、焼酎のロック2杯。で、ちょっとヨッパ。きょうも、寝るまえは、SF小説を読む予定だけど、シルヴァーバーグの『ホークスビル収容所』か、レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』か、どっちかだと思うけれど、このレムのものは退屈だ。

 いま日知庵から帰ってきた。きょうは、昼間、ずっと寝てた。暑くて、なにもする気が起きない。

二〇一七年七月十三日 「27度設定」

いま起きた。クーラーをかけないので、部屋がめっちゃ暑い。きょうは休みなので、はやい時間から日知庵に飲みに行こうかな。

いま日知庵から帰った。えいちゃんが、クーラーかけてみたらと言うので、かけてみる。咽喉がすぐにやられるのだが、どだろ。

 27度設定にしてみた。かなりすずしい。これならふとんかけて眠れそう。これからは電気代をケチるのをやめて快適に過ごそう。ただし、咽喉がやられないように、咽喉にきたら、すぐにクスリをのもう。
 
27度は快適なのだが、咳が出てきた。風邪をぶりかえすといけないので、寝るまえにクーラーを消そう。考えものだな。

二〇一七年七月十四日 「芭蕉」

 ときどき詐欺の疑いのある雑誌掲載の電話がかかってくる。ぼくがいままで書いた雑誌では、電話での原稿依頼は、一度としてなかった。内容は「芭蕉」の特集だというので、そこまで聞いて断った。芭蕉についてはほとんど知らないからだ。ぼくのことを知っていたら、「芭蕉」で原稿依頼はしないだろう。

二〇一七年七月十五日 「カサのなか/アハッ」

 いま日知庵から帰った。8月に文学極道の詩投稿欄に投稿する作品をきめた。両方とも、ぼくが中学卒業のときの文集に書いたものだ。両方とも、その十数年後に、ユリイカの投稿欄に投稿したら、そのまま、他の1作とともに、同時に3作品掲載されたものだ。1990年5月号、オスカー・ワイルド特集号。


カサのなか

カサのなかでは
きみの声がはっきりと聞こえる

雨はフィルターのように
いらないものを取り除いてくれる

ぼくの耳に入ってくるのは
ただきみの声だけ



アハッ

雨のなか、走ってきたよ
出された水をぐっと飲み込んで
プロポーズした
でもきみは
窓の外は目まぐるしく動いているから
せめてわたしたちはこのままでいましょうねって
アハッ
バカだな、オレって


スタニスワフ・レムの『宇宙飛行士ピルクス物語』あまりにたいくつな読み物なので、流し読みしている。ぼくの本棚には残さないつもりだ。

いま日知庵から帰った。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年七月十六日 「葛西佑也さんと橋場仁奈さん」

 葛西佑也さんから、詩集『みをつくし』を送っていただいた。まず、散文詩と改行詩がまざったもの、改行詩だけのものと、形式に目がとまった。つぎに、実景の部分がどれくらいあるかと思って読んでみた。意外に多くあるのかもしれないと思った。自分の第一詩集と比較して、より複雑な詩だなと思った。

 橋場仁奈さんから、詩集『空と鉄骨』を送っていただいた。すべて改行詩。平均すると、一行が、ぼくが書くものより長い。たぶん、ブレスで切らないで、意味で切っているからだろう。読んでいて意味がいっこうに入ってこなかったが、そういう詩があってもよいと思う。詩は意味だけではないからね。

「Down Beat」 と、「洪水」という詩誌を送っていただいた。ぼくと同じくらいの齢のひとの書くものに共感するし、年上の方の書かれるものにも共感する。若い書き手は、なにを書いてもよい時期なのだろう。意味はよくわからないが、自由でよいと思う。書く気力が、どの作品からも伝わってくる。

二〇一七年七月十七日 「高知から来られたご夫婦」

 いま日知庵から帰った。高知から来られたご夫婦の方と、2回目の出合い。オクさんもかわいいのだけれど、ダンナさんがかわいらしくて、そのダンナさんに気に入ってもらって、ツーショットで写真を撮ってもらったりしたのだけれど、こんどひとりで来ますねと意味深な一言が、笑。かわいらしい人だった。

 そいえば、ぼくは自分のほうから名前を聞いたりするタイプじゃなかったので、きょうも、かわいいなと思いながらしゃべっていた青年の名前を聞き損ねてしまっていた。まあ、いいか。つぎに会ったときに、聞けばいいから。それにしても、彼も、ぼくのことを気に入ってくれてたので、うれしい。

二〇一七年七月十八日 「J・G・バラード自伝『人生の奇跡』を買ってメモしまくり。」

といっても
バラードの自伝を読んで、ではなく。
朝、西院にあるキャップ書店で、バラードの自伝が
新刊本のところにあったので買った。
財布には1000円札1枚と
ポケットに1500円ほどの硬貨が入っていた。
きのう、小銭を持って出るのを忘れて
近くのスーパー「お多福」で食パンとお菓子を買ったせいで
きょうのポケットは
小銭がいつもより多かったのだった。
バラードの本の値段を見ると
2200円と書いてあったので
ああ、これを買うと昼ごはんは抜きかも
と思いながらも、昼ごはん抜いてもはやく手に入れたい
という気持ちが働いて
レジに持っていくと
「2310円です。」
という店員の女の子の明るい声に
ありゃ〜、税金のこと考えてなかったわ
と思いつつ
1000円札1枚とポケットの小銭を合わせて
ちょうど2310円を支払って
カードは持ち歩かないので、銀行には行かず
本を買って、そのまま阪急西院駅に向かったのだった。

電車がくるまで2、3分あったので
本のあいだにはさまれてあった
新刊本の案内のチラシを眺めることにしたのだけれど
そしたら、このあいだ朝に見た
バカボン・パパに似たサラリーマン風のひとが読んでいた
小林泰三の本が載っていた。
タイトルは、『完全・犯罪』だった。
「完全」と「犯罪」のあいだに
「なかてん」があったのであった。
このこと、このチラシを見なかったら
いつまでも気がつかなかったと思う。
日本人の書いた小説を読むことはほとんどないし
日本人の作家のコーナーにも行ったことがなかったし。
古典から近代までのものはべつにしてね。
偶然だなあって思った。
そういえば、このあいだ、小林泰三さんの本について書いたら
ミクシィをなさってらっしゃるみたいで
ご本人が、そのときのぼくの日記をごらんになってて
足跡があったし

ぼくがメッセージしたら
お返事くださいました。
おもしろいね。
偶然ってね。
あのバカボン・パパは
その後、見かけないのだけれど
偶然ってあるしね。
いつか、どこか違うところで出会ったりして。
出会いたい
出会いたいなあ

いつも見かけるおばさまには
いまでもいつも出会うのだけれど、笑。

たくさんのメモというのは
フローベールの『紋切型辞典』を読んでて取ったメモなんだけど
きょうは、これからテスト問題を考えなきゃならないので
あしたか、あさってか、しあさってにでも大量に書きこみます。
バカボン・パパかあ。
かわいかったなあ、笑。

そうだ。
バラード自伝
解説の巻末に
未訳の長篇2作が
近日発売予定だと書いてあって
小躍りした。
めっちゃ楽しみ。

二〇一七年七月十九日 「倒錯の森」

 いま日知庵から帰った。きのう、寝るまえに読んだサリンジャーの短篇集『倒錯の森』の「ブルー・メロディー」が、黒人差別を扱っていて意外な気がした。サリンジャーの小説でこんなにまっすぐに黒人差別に向かった作品を読んだことがなかったので。ジャズを題材の作品でさいごの描写も繊細でよかった。

きょうの寝るまえの読書は、タイトル作品の「倒錯の森」 おもしろいかな。どだろ。

二〇一七年七月二十日 「ベストSF 1」

 いま、日知庵から帰った。きょうは、大人の会話がさいごに行き渡った。ちんこ臭と、まんこ臭についてだが、これは、ツイッターに書けないので、と思ったけれど、書く。それが詩人だ。まんこ臭については、ぼくはわからないが、成人男子お二人のご意見によると、すごいらしくて、スカートを履いてても臭うらしい。えげつない臭いらしいが、ぼくは嗅いだことがない。チンコ臭のほうだが、これは成人男子お一人のご意見だが、権威的なお方なので、貴重なご意見だと思って拝聴した。汗の臭いと違って、ちんこの臭いがするらしい。ズボン履いててもね。ぼくには信じられないけれど、権威のご意見だからね。ええ、そうなんだって言ったら、えいちゃんが「そんなこと、ツイッターに書いたら、あかんで。」と言うので、書くことにした。「腋臭の男の子と付き合ったけれど、慣れるよ。」と言ったのだけれど、反対意見の方が多かった。ぼくは腋臭の男の子と10年付き合ってたからね。顔がかわいければいいのだ。

 きのう、寝るまえは、サリンジャーの「倒錯の森」ではなくて、サンリオSF文庫の『ベストSF 1』の、ベン・ボーヴァの「十五マイル」と、フレッド・ホイルの「恐喝」を読んだ。SFの短篇の方がおもしろい確率が高いからなのだが、きょうも寝るまえは、やっぱ、SFの短篇にしようかな。と書いた時点で、もう、フレッド・ホイルの「恐喝」の内容を忘れている。ものすごい忘却力だ。

 河野聡子さんから詩集『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』を送っていただいた。かわいらしい装丁で、なかのページもカラーリングしてあって、そのデザインと、さまざまな大きさのフォントで書かれている言葉の内容が絶妙にマッチしていると思った。貴重な1冊を、ありがとうございました。

 8月に文学極道に投稿する2つの作品は、中学校の卒業文集に書いたものなので、14、5歳のときのぼくのことが批評されるのか、それを56歳になって投稿するぼくのことが批評されるのか興味深い。そう考えると、つくった時期と発表する時期が大幅に違うとき、批評家はどういう態度で挑んでいるのか。

二〇一七年七月二十一日 「ピーターさん」

 いま日知庵から帰った。カナダ人の知り合いの話から、お金持ちと小金持ちの違いについて考えた。合気道や空手をなさっている巨漢のカナダ人のピーターさんは、日本に22歳のときにいらして、それから24年のあいだ、日本にいらして、日本文化を学ばれて、今では、日本文化を海外の方たちや日本の人たちに教える仕事をなさっておられるのだけれど、そのピーターさんが11、2歳のころのお話。カナダで、お金持ちの弁護士の家でクリスマスパーティーがあったとき、ムール貝が出てきたので、食べたら、そこの親父さんに叱られたのだそうだ。それは子どもの食べるものではないと言われて。ピーターさんちは小金持ちだったそうで、ムール貝などいくら食べてもよかったらしい。お金持ちほど、子どもに厳しいんだろうね。という話を、きのう日知庵でしたのであった。子どもに厳しいと言うか、大人の領分と、子どもの領分をきっちり分けているということなのだろうね。

 いま日知庵から帰った。日知庵に電話があったのだけれど、ワンコールで切れた。「ひととの縁のように、簡単に切れるんやね。」と、ぼくが言うと、えいちゃんと、何人かの客から、「こわ〜。」と同時に返事があった。そだよ。こわいんだよ。とにかく、生きている人間がいちばん。

二〇一七年七月二十二日 「倒錯の森」

 サリンジャーの「倒錯の森」の122ページ上段8、9行目に、「詩人は詩を創作するのではないのです━━詩人は見つけるのです」刈田元司訳)という詩人のセリフがあって、ぼくもそんなふうに感じていたので共感した。ぼくのつくり方っていうのも、ほとんどみな、そんな感じだったから。

二〇一七年七月二十三日 「倒錯の森」

 いま日知庵から帰った。大きな料亭の店主の鈴木さんから、えいちゃんと、あっちゃんと、カラオケ行きたい。あっちゃんのビートルズが聞きたいと言われて、うれしかった。きょう、昼間、サリンジャーの短篇集『倒錯の森』のタイトル作を読み終わって、やっぱりサリンジャーはうまいなあと思った。ばつぐんに、頭がいいんだよね。

二〇一七年七月二十四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」

横にあった
ボディー・ソープの容器の
後ろに書いてあった解説書を読んでいて
ふと、ううううん
これはなんやろ
なんちゅう欲求やろかと思った。
読書せずにはいられない。
いや
人間は
知っていることでも
一度読んだ解説でもいいから
読んでいたい
より親しくなりたいと思う動物なんやろか。
それとも、文字が読めるぞということの
自己鼓舞なのか。
自己主張なのか。
いや
無意識層のものの
欲求なのか。
そうだなあ。
無意識に手にとってしまったものね。

二〇一七年七月二十五日 「銀竹」

 いま、きみやから帰ってきた。さとしちゃんの友だちのポールが書道を習っていて、「銀竹」って、きょう書いてきたらしいのだけれど、そんな日本語、ぼくは知らないと言うと、さとっちゃんが目のまえで調べてくれて、俳句の季語にあった。夕立のことだって。ああ、でも、いつの季節か忘れちゃった〜。というか、そんな日本語、ぼくも知らないんだから、俳人って、よほど、日本語が好きなんだろうね。というか、漢字が好きなのか。なんだろ。わかんないや。ふつうに使う言葉じゃないことだけは確かだよね。まわりのひと、みんな知らなかったもの。

 へきとらのチューブを見てる。へきほうという男の子が、むかし付き合ってた男の子に似ていて。こういうのは、なんていうのかなあ。ぼくももう56歳だし、その男の子も40超えてるし、なんというか、さいきん、ぼくが文学に対して持ってる支持力と近い感じがするかな。意地力というか。意地というか。

二〇一七年七月二十六日 「余生」

 いま日知庵から帰ってきた。きょうは、うなぎの丑の日ということで、日知庵で、うな丼を食べた。おいしかった。赤出汁もおいしかった。

 未読の本が残り少なくなってきた。また、未読のものを読んでも、おもしろくなくなってきた。たくさん読んできて、ほとんどいかなる言葉の組み合わせにも、これまたほとんどまったく驚かなくなってきた。詩人としては致命的な現象だけれど、人間としては、落ち着いてきた、ということなのかもしれない。まるでひとと競争でもしているように、作品を書いてきたのだけど、もうほかのだれかと競争しているような気分でもないし、余生は読んできたもののなかで、傑作と思った詩や詩集や小説を読んでいられれば、しあわせかなと、ふと思った。

詩をつくることは、なにかいやしいことでもしているかのように思える。

二〇一七年七月二十七日 「読書」

 いま日知庵から帰った。おなか、いっぱい。なんか読むものさがして読もうっと。もう読みたいと思わせるものが未読のものでなくなってしまった。読んだもののなかから適当なものを選ぼう。と、こういうような齢になっちゃったんだな。というか、これまでに膨大な読書のし過ぎという感じもする。

 その膨大な読書のために、最低の時間ですむ労働を選んだのだけれど、その最低の時間ですむ労働さえも、さいきんは、しんどい。きょうも、塾で、ある先生に、「そうとう疲れておられますね。」と言われた。そんなゾンビな顔をしていたのだろう。まあ、自分でも、そうとう疲れていると思っているものね。

二〇一七年七月二十八日 「犬を飼う」

いま日知庵から帰った。

 犬を飼っちゃいけないマンションで犬を飼ってたら、透明になっちゃった。きっと見えないようにって思ってたからなんだろうね。

二〇一七年七月二十九日 「お茶をシバキに」

 植木鉢に、四角柱や三角錐やなんかの立体図形を入れて育てている。でも、すぐに大きくなれって念じたら、それぞれの図形が念じた通りに大きくなってくれるから、とても育てがいのある立体図形たちだ。

 腕くらいの太さの輪っかを六つ重ねてそれをまた輪っかで結びつける。それを詩の土台として飛び乗ると、膝から直接、床に落ちて、めっちゃ痛かった。

これから大谷良太くんとお茶をシバキに。

いま帰ってきた。これから飲みに行く。

二〇一七年七月三十日 「短時間睡眠」

 いま、日知庵→きみやの梯子から帰ってきた。あしたは、一日、ぼけーっとしてるはず。おやすみ、グッジョブ!

 いま目がさめた。何時間、寝てたんだろう。時刻をみてびっくりした。わずか2時間。

二〇一七年七月三十一日 「文法」

わたしは文法である。
言葉は、わたしの規則に従って配列しなければならない。
言葉はわたしの規則どおりに並んでいなければならない。
文法も法である。
したがって抜け道もたくさんあるし
そもそも法に従わない言葉もある。

また、時代と場所が変われば、法も違ったものになる。
また、その法に従うもの自体が異なるものであったりするのである。
すべてが変化する。
文法も法である。
したがって、時代や状況に合わなくなってくることもある。
そういう場合は改正されることになる。

しかし、法のなかの法である憲法にあたる
文法のなかの文法は、言葉を発する者の生のままの声である。
生のままの声のまえでは、いかなる文法も沈黙せねばならない。
超法規的な事例があるように
文法から逸脱した言葉の配列がゆるされることもあるが
それがゆるされるのはごくまれで
ことのほか、それがうつくしいものであるか
緊急事態に発せられるもの
あるいは無意識に発せられたと見做されたものに限る。
たとえば、詩、小説、戯曲、夢、死のまえのうわごとなどがそれにあたる。

文学極道

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