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田中宏輔 - 2018年分

選出作品 (投稿日時順 / 全23作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


懲らしめてやりなさい。

  田中宏輔



ボーナス制度とは搾取ではないか。
封建制度の名残である。
賞与は褒美として渡される。
縛りつけるつもりなのだ。
(ボーナス入るまで、やめないでねって。)
給与だけなら12回の手数料。
賞与があれば、その分の手数料を、よけいに銀行が儲ける。
きっと、銀行もぐるなのだ。
それだけじゃない。
平日でも、時間が遅ければ
自分のお金をおろすのに手数料を取られる。
そんなおかしい話はない。
フランス人の先生も、オカシイワ、って言ってた。
バルス。
あっけない結末。
いつか、みんな、同じ罰を受ける。
街路樹の陰に入って
密語をつぶやく。
石も四角くなりにけるかも。
かもね。
また、付き合ってた子にふられちゃったよ。
こないだ付き合ったばかりなのにね。
そうして、ふられるたびに、ぼくは思い出す。
ぼくが、いちばん幸せだったときのこと。
Nobuyuki。ハミガキ。紙飛行機。
round and round and round and round.
ランボーが、なぜ、詩をすてたのか
ぼくには、わからないけど
おとついのこと、マクドナルドで
チーズバーガー、ひとつだけ、って言ったら
これだけか、って店員に言われた。
これだけでよろしいですか
とでも、言うつもりだったんだろうね。
ぼくたち、ふたり、顔を見合わせて
聞こえなかったふり、言わなかったふりしてた。
母親の血液型と胎児の血液型が違ってるのに
どうして、胎児が生きてるのか
これまた、あれまた、ぼくには、わからない。
むかし、本で読んだけど、忘れてしまった。
世界は、ただ一枚の絵だけ残して滅んだという。
だと、いいね。
ほんとにね。


横木さんの本を読んで、やさしい気持ちになった。

  田中宏輔



去年の秋のことだ。
老婆がひとり、道の上を這っていた。
身体の具合が悪くて、倒れでもしたのかと思って
ぼくは、仕事帰りの疲れた足を急がせて駆け寄った。
老婆は、自分の家の前に散らばった落ち葉を拾い集めていた。
一枚、一枚、大切そうに、それは、大切そうに
掌の中に、拾った葉っぱを仕舞いながら。
とても静かな、その落ち着いた様子を目にすると、
ぼくは黙って、通り過ぎて行くことしかできなかった。
通り過ぎて行きながら、ぼくは考えていた。
いま、あの老婆の家には、だれもいないのか、
だれかいても、あの老婆のことに気がつかないのか、
気づいていても、ほっぽらかしているのか、と。
振り返っても、そこには、老婆の姿が、やっぱりあって、
何だか、ぼくは、とっても、さびしい気がした。
その後、一度も、出会わないのだけれど
その老婆のことは、ときどき思い出していた。
そして、きのう、横木さんの本を読んで思い出した。
まだ、濡れているのだろうか、ぼくの言葉は。
さあ、おいでよ。
降ると雨になる、ぼくの庭に。
そうさ、はやく、おいでよ、筆禍の雨の庭に。
ぼくは、ブランコをこいで待っているよ。
あれは、きみが落とした手紙なんだろ。
けさ、学校で、授業中に帽子をかぶっている生徒がいた。
5、6回、脱ぐように注意したら、
その子から、「おかま」って言われた。
そういえば、何年か前にも、「妃」という同人誌で、
「あれはおかまをほる男だからな」って書かれたことがある。
ほんとうのことだけど、ほんとうのことだからって
がまんできることではない。
芳賀書店から出てる、原民喜全集を読むと、
やたらと、「吻とした」って言葉が出てくる。
たぶん、よく「吻とした」ひとなのだろう。
民喜はベッドのことをベットと書く。
ぼくも、話すときに、ベットと発音することがある。
ぼくは棘皮(きょくひ)を逆さにまとった針鼠だ。
動くたびに、自分の肉を、傷つけてゆく。
さあ、おいでよ、ぼくの庭に。
降ると雨になる、筆禍の雨の庭に。
ぼくは、ブランコをこいで待っているよ。
きみが落とした手紙を、ぼくが拾ってあげたから。
ウルトラQの『ペギラの逆襲』を、ヴィデオで見た。
現在の世界人口は26億だと言っていた。
およそ30年前。
ケムール人が出てくる『2020年の挑戦』を見てたら、
ときどきセリフが途切れた。
俳優たちが、マッド・サイエンティストのことを
何とか博士って呼んでたんだけど、
たぶん、キチガイ博士って言ってたんだろう。
さあ、おいでよ、ぼくの庭に。
降ると雨になる、筆禍の雨の庭に。
きょうは、何して遊ぶ?
縄跳び、跳び箱、滑り台?
後ろは正面、何にもない。
ほら、ちゃんと、前を向いて、
帽子をかぶってごらん。
雨に沈めてあげる。


陽の埋葬

  田中宏輔



庭にいるのはだれか。 (エステル記六・四)
妹よ、来て、わたしと寝なさい。 (サムエル記下一三・一一)



箪笥を開けると、
──雨が降つてゐた。

眼を落とすと、
──雨蛙がしゃがんでゐた。

雨の庭。

約束もしないのに、
──死んだ妹が待つてゐた。

雨に濡れた妹の骨は、
──雨のやうにきれいだつた。

毀(こぼ)ち家(や)の雨の庭。

椅子も、机も、卓袱台(ちやぶだい)も、
──みんな、庭土に埋もれてゐた。

死んだ妹もまた、
──肋骨(あばらぼね)の半分を埋もれさせたまま、

雨に肘をついて、待つてゐた。

肋骨(あばらぼね)の上を這ふ、
──雨に濡れた蝸牛。

雨に透けた蝸牛は、
──雨のやうにきれいだった。

手に取ると、すつかり雨になる。

戸口に佇(た)つて、
──扉を叩くものがゐる。

コツコツと、
──扉を叩くものがゐる。

庭立水(にはたづみ)。

わたしは、
──何処へも行かなかつた。

わたしは、
──何処へも行かなかつた。

死んだ父もまた、
──何処へも行かなかつた。

戸口に佇(た)つて、
──繰り返し扉を叩いてゐた。

戸口に佇(た)つて、
──繰り返し扉を叩いてゐた。


陽の埋葬

  田中宏輔



(天(てん)使(し)の、骨(ほね)の、化(か)石(せき)、じつと、坑道(かうだう)の、天盤(てんばん)を、見下(みお)ろして、ゐた、……)

(坑道(かうだう)の)水(みづ)溜(た)まりに、映(うつ)る(逆(さか)さま、の)天(てん)使(し)の姿(すがた)、目(ま)耀(かよ)ふ、美兒(まさづこ)、
その、姿(すがた)は、粘(ねん)土(ど)板(ばん)にも、紙草(パピルス)にも、羊(やう)皮(ひ)紙(し)にも、描(ゑが)かれて、ゐない。

水(みづ)鏡(かがみ)、つややかな(馬(うま)の背(せ)のやうな)水(みづ)鏡(かがみ)、
廃坑(はいかう)の常(と)陰(かげ)、無(む)戸(つ)室(むろ)の伏(ふ)せ甕(がめ)、伏(ふ)せ籠(ご)に、祈(いの)りの声(こゑ)が(静(しづ)かに)満(み)ちる。

(天(てん)使(し)の、骨(ほね)の、化(か)石(せき)、じつと、坑道(かうだう)の、天盤(てんばん)を、見下(みお)ろして、ゐた、……)

(坑道(かうだう)の)水(みづ)溜(た)まりに、映(うつ)る(逆(さか)さま、の)天(てん)使(し)の姿(すがた)、目(ま)耀(かよ)ふ、美兒(まさづこ)、
その、骨(ほね)の、天(てん)使(し)は、発(はつ)情(じやう)し、蒼白(あをじろ)い、光(ひかり)を、放(はな)つて、

その、骨(ほね)は、発(はつ)情(じやう)期(き)の、蒼白(あをじろ)い(燐(おに)火(び)のやうな)光(ひかり)を、放(はな)ち、
天盤(てんばん)から(はらりと)剥(は)がれ、そつと、静(しづ)かに、坑道(かうだう)に、降(お)り、立(た)ち、まし、た。

──また、生(う)ま、れ、そこ、なつて、しまつ、た。

幽(かす)かな、光(ひかり)の、中(なか)で、天(てん)使(し)は、裸足(はだし)を(溜(た)まり水(みづ)で)洗(あら)つて、

──土(つち)、は、泥(どろ)、と、なれ、泥(どろ)、は、水(みづ)、と、なれ、

卵(こ)隠(こも)りの、蝸牛(かたつむり)(雨(あめ)に、解(ほぐ)るる)卵(こ)隠(こも)りの、蝸牛(かたつむり)。

──もう、傷(きず)、つき、たく、は、ない、のに……。

(骨瓶(こつがめ)、の、透(すき)影(かげ))沙羅(さら)双樹(そうじゆ)は、菩(ぼ)提(だい)樹(じゆ)の、夢(ゆめ)、を、見(み)る。

鳩(はと)が、鳩(はと)の(血(ち)塗(まみれ)れの)頭(あたま)を、啄(ついば)んで、ゐる、ゐた、

(腐鶏(くたかけ)の鶏冠(とさか)、濃(こ)紫(むらさき)の鶏冠(とさか))蜘蛛(くも)にも、その蜘蛛(くも)の、子(こ)蜘蛛(ぐも)にも、

──わたし、は、微(ほほ)、笑(ゑ)、まう、と、した。

割(わ)れ爪(づめ)の、隠(おん)坊(ぼ)が、ひとり、骨遊(ほねあそ)び、骨(ほね)を、摘(つ)み、積(つ)み、へう疽(そ)、摘(つ)み、

──また、生(う)ま、れ、そこ、なつて、しまつ、た。

隧道(トンネル)、畦道(あぜみち)、白粉(おしろい)壺(つぼ)、飯盒(はんがふ)、釦(ボタン)、処方箋(しよほうせん)、箒(はうき)、陶(たう)器(き)、火処(ほと)、凹所(ほと)、秀戸(ほと)、……

──この、髪(かみ)も、この、爪(つめ)も、千年(せんねん)もの、繭(まよ)、籠(ごも)り。

繭隠(まよごも)り、延縄(はへなは)、把(とつ)手(て)、土(つち)埃(ぼこり)、

──もう、傷(きず)、つき、たく、は、ない、のに……。

その、饒(ぜう)舌(ぜつ)な、睫(まつ)毛(げ)に、触(ふ)れて、雨(あめ)は、雨(あめ)に、なる。

──わたしは、毀(こは)れて、しまひ、たい……。

その、饒(ぜう)舌(ぜつ)な、睫(まつ)毛(げ)に、触(ふ)れて、雨(あめ)は、雨(あめ)に、なる。

──わたしは、わたしを、毀(こは)れて、しまひ、たい……。

一(いち)夜(や)を、明(あ)かす(鼠(ねずみ)取(と)りの、中(なか)の)鼠(ねずみ)。

茂(モ)辺(ヘン)如(ジヨ)駝(ダ)呂(ロ)の、廃坑(はいかう)の、天(てん)使(し)の、骨(ほね)の、化(か)石(せき)(幽(かす)かに、蒼(あを)、白(じろ)い、光(ひかり))

糸(いと)水(みづ)を、つたつて、天(てん)使(し)の、姿(すがた)が(天盤(てんばん)、の)天(てん)に、昇(のぼ)つて、ゆく、と、

骨(こつ)、骨積(こづ)み、籠(こ)、壺(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、骨(こ)、……

その、籠(こ)は、毀(こは)れて、しま、ひ、ま、した。

その、壺(こ)は、毀(こは)れて、しま、ひ、ま、した。

その、骨(こ)は、毀(こは)れて、しま、ひ、ま、した。


(163・67・21)×(179・93・42)

  田中宏輔



(163・67・21)×(179・93・42)   I


●こっちは、178×92×42で、京都在住です。フォトメッセージを見てメールしました。もとめられてる趣旨とは異なりますが、もしよければ連絡ください。
○メールどうも! 京都のどちらからですか?
●北山です。植物園がすぐ近くです。
○そちらは、関西のどこなんでしょうか?
○市内なんですね。僕は関西じゃないですよ。つくばです。
●関西かなって思ってました。理系なんで、てことはないですけど、つくばって、茨城ですか? だったら、お会いするのは難しいですね。といっても、そちらがこちらをどう思ってらっしゃるか、こちらは特殊な仕事をしているので(文学です。)もし、興味がおありでしたら、パソコンで、「田中宏輔」で検索してみてください。同姓同名の者がいますが、文学をしているのは、ぼくだけなので区別はつきます。
○つくばは茨城です。東京からバスで45分くらい。詩を書いてるのかな?
●そうです。ありがとう。とてもうれしかったです。
○どうして僕なんかにメールくれたんですか?
●もしも、こんなおっさんでも好意をもってくれたら、と。いやいや、好意をもってもらえると     
 は思ってませんでした。ほとんどあきらめていました。フォト、とても魅力的でしたので。
○かっこいいなって思いましたよ。関東でもよかったら、よろしくお願いします! どんな感じの人か、いろいろ教えて下さい!
●音楽は80年代のソウル、ジャズが好きです。名前を訊くのはタブーでしたね。わるかったです。メールで呼びかけるときの名前を教えていただければうれしいです。
○そちらは本名でしょ? だから本名を教えたんですよ。僕はそういうの気にしないんで。
●そうなんだ。ごめんでした。気をわるくせんといてください。
○いえいえ、で、あそこは仮性包茎かな?
○いや、気なんて悪くしないですよ。ところで、あそこって仮性包茎? いきなりだけど。
●なぜ? わかるんですか? 顔で?
○小説を読んでみたんだけど、この人は仮性包茎かなって思っちゃった! 僕は仮性好きなんですよー!
●仮性包茎が好きだと言われてよろこんでいいのかどうか。ちょっと半泣きです。
○少なくとも僕は仮性が好きなんだから、喜んでいいんじゃないですか? あそこの画像見てみたいです!
●いま出先で、居酒屋なんで、あとでトイレでとります。だけど、たってないのでですか? 多分そうなんでしょうね。ぼくにはおくってもらえるんでしょうか?
○僕のカメラ付じゃないんですよ。載せてた画像も友達に撮ってもらったやつで。立ってるのと立ってないの見たいです! 被ってるやつを。
●めちゃくちゃはずかしんですが、ほんとにこんなちんぽがええんですか?
○めちゃくちゃいい感じです! イカ臭いのとか好きなんだけど、匂いします?
●それ、ほんまですか? 泣きたいです。そんなこと言わんとってください。洗わんかったら、においますけど、ほかのひともそうやないんですか?
○画像一つしか来てないっすよー。むいてあるのだけ。むいてないの見たい!
(ちんぽ画像のみ送付)
○いいっすねー。匂いするのマジ興奮します。自分のも洗わないと匂うね〜。
(しばらく中断)
○立ってて被ってんの見たいです!
●ちょっと待ってください。でも、ほんまなんですね。ほんまにはずかしいですから、ちょっと待ってください。
○恥ずかしいなんて思わないで欲しいなあ。僕はそういうのが好きなんだから、あんまり恥ずかしいって言われるとなんか淋しいなあ。
●わかりました。もう言いませんね。ほんとだってわかりました。いまからトイレに行ってきます。
●いつか画像くださいね。とても魅力的ですから。もしかしたら、Sッケすこしありますか?
(ちんぽ画像添付)
○いい感じですね! 匂いも嗅ぎたい! 今も匂いするかな? てか今度京都に会いに行くよ!
●ぼくも会いたい。めちゃくちゃ会いたい。ほんとに会いたい!!!
○じゃあ会いに行くよ! 浪人の身分だから、時間はどうにでもなるからね! 交通費さえどうにかなれば行けるから。
●交通費のことは、心配しないでほしい。
○心配しないでって?
●失礼な書き方をしました。すいません。交通費はぼくがもつべきか、あるいは折半だと思ったので。でも、年齢から言うと、ぼくがもつべきだと思うのですが、間違ってますか?
○わかりました! 京大卒?
●同志社です。大学院を出たあと、30才まで聴講しながら、同志社国際高校で10年教えていました。(注、この書き方はおかしい。28歳から10年間教えていたのだが、聴講していた期間は5年間で、教えていた時期と重なるのは、数年間だけである。)
○同志社なんだー! 敬語じゃなくていいっすよ。敬語でメールしたりするの慣れてないんで、なんかぎこちなくなるから。
●ふだんは、予備校で数学を教えています。京都と奈良で。昼の授業だけなんで、、六時半には帰ります。
○****っていいます。一度会ってみたいですね。
●会いたい! ****に会いたい! 九月半ばの連休は四連休やけど、
○いや、悪いかなーって。実際の所、僕は無職なんで、お金は無いんですけどね。いきなり親に、京都に行くって言ってもお金もらえなそうだから、少しずつ余ったお金を貯めれば行けるかなーって思いました。出してもらっても平気なんですか? それならいつでも行っちゃいますよ。
●うん。交通費のことはまかしとってほしい。会いたいんは、ぼくのほうの気持ちもめちゃくちゃつよいから。
○じゃあマジで遊びに行くよ?
●うん。めちゃくちゃうれしい。
○じゃあマジ行くよ! あそこ洗わないでおいて欲しいな! どんな人なんだろう。どんな人がタイプなの?
●フォト見てびっくりしたんよ。ほんまに好きなタイプやから。メールしてても惹かれてる自分がようわかるし。****のほうは、どうなんやろ?
○僕もかっこいいと思ったよ。なかなか遠方の人と知り合う機会ってないからなんだか新鮮だよ! 会ってみたいねー。
●会いたい。九月十日から十五日まで連休なんやけど、十一日の晩からOk。めっちゃOk。ちょっとでもはやく会いたい。
○じゃあ行っちゃおうかなー!
●こんどの金土日は急やろか?
○構わないけど、切符とかどうしたらいい?
●来てくれるときのお金はなんとか都合つけてくれるかな。あとで往復の切符代を受け取ってほしい。それともほかになんかええ方法があるやろか?
○分かった。親にはちょっと言えないから、近所の友達に頼むよ。どんな手段で行ったらいい?
●まず東京駅に行って、新幹線か、夜行バスに乗って京都駅に来て、京都駅に着いたら、そこで地下鉄に乗り換えて北山駅に来てくれたら、北山駅に向かいに行く。行くからね。
○金曜日の朝に着けばいいかな?
●今度の金曜日やったら晩でないと帰ってないけど、十二日の金曜日やったら、朝からOkやで。
○あさっての金曜日に行くよ。大丈夫?
●Ok。あさっての金曜の晩。六時半には帰ってる。京都駅に着く時間がわかったら連絡してほしい。こっちのTELは、***********やからね。北山駅では、4番出口で待っててほしい。そこで電話くれたら迎えに行くから。
○了解。僕のは***********だよ。会うまで、あそこは洗わないで欲しいんだけど。今日はもう風呂に入った?
●はいってないよ。
○じゃあ、会うまであそこは洗わないで! 皮剥かないでおいて!
●うん。約束するよ。
○嬉しいな! 匂い想像してたら立って来ちゃった。
●見たい。
○会ったら見れるよ! 自分でやって出しても、皮の中はふかないでそのままにしといて。カスとか付いてベトベトのとかめちゃくちゃ興奮する。臭ければ臭いほど興奮するから。
●うん。これから帰って、ちんぽ、こする。いっても、びちょびちょのまま寝ることにする。
○嬉しいな! 自分は一発やっちゃった。笑
●見たかった!!
○会えば見れるじゃん!
●うん。ほんとや。はやく会いたい。会いたい。
○行くからね! 楽しみだなあ。京都はほんと久しぶりだよ!
●近くにすごいいい雰囲気の居酒屋があるけど、酒は飲める? ちなみに、ぼくはたばこはすわんけど、酒は飲むほう。
○強くはないけど、少しなら飲めるよ。嫌いってことは無いし。雰囲気のいいお店とか好きだなー!
●じゃ、たべもの中心にしようね。いっしょにいられるんやあ。めちゃうれしい。ひそかに泣きたいくらいや。
○大したこと無い奴だから期待しないでよ〜。
●すごいタイプなんよ。メールしてほんとによかったなあって思ってる。

(以上で、9月2日のメールは終了。)



(163・67・21)×(179・93・42) II


●おはよ。これから仕事に行ってきます。訊きたいことがひとつあるんやけど、いま身体がめちゃくちゃ臭いと思うねんけど、あそこは洗わへんけど、頭ぐらいは洗ってもいいの? 身体は拭くことにするけど。
○おはよう! 頭とかは普通に洗っていいよ。あそこだけ洗わないで欲しいだけだからさ。
 (注:約八時間経過。)
●いま仕事終わったよ。これから地下鉄に乗るとこ。けさ階段の上り下りで、自分の身体の臭い匂いがした。
○お疲れ様! 仕事ってのは数学教える仕事? 匂い嗅ぎたいな! 臭いんだ。興奮しちゃうよ。
●きのう言ったけど、数学講師だす。
○そうなんだ。どこで教えてるの? あさって楽しみだなー! 匂いも嗅げるし!
●******ってとこだよ。だけど、もう臭いは限界みたい。自分の汗とかが醗酵してるような臭いが、歩いてて、鼻の先に立ち上ってくる感じ。おまけに、大しようとして便器にかがんだら、うんこの臭いまでして。これじゃあ、生徒からの評判ガタオチになっちゃう。シャワー浴びたらあかんやろか? **くんと会うの楽しみやねんけど、ううん。
○尻とかは普通に洗っていいよ。あそこの匂いさえすればいいからさ! 皮はむかないでおいてね。僕も会うの楽しみにしてるよ。
●おしっこは、ちんちんの皮むいてするんやけど。
○小便の時はむいていいよ。自然の臭いのが好きだから。わざと大量の尿を皮にためると尿の匂い中心になっちゃうからさ。少し残った尿が、皮の中にたまったくらいがいいよ。僕は精子が皮の中で時間がたったときの匂いが好き。これがいかにもイカ臭い匂いなんだよね。尿の匂いは イカ臭いのとは違うからね。熱弁しちゃった。笑
●オナニーのときもむかないでするの?
○皮の中に出して欲しいな! いくときに、皮の口をつまんで、その中に出すの。もれないように。で、あとはあまって出てくるやつだけふいて、皮の中は拭かずに放置。こうすれば完璧!
●はあ。なるほど、わかりやした。
○あの説明で意味分かった?
●わかるよ。コンドームのなかでイッて、そのままにしといたら、ゴムくさいやろか?
○うん、コンドーム使ったらゴムの匂いしちゃうしね。パンツはどんなのはいてる?
●トランクスかな。ところで、ぼくは山羊座のO型なんやけど、**くんは?
○僕は双子のBだよ。トランクスじゃなくて、ぴっちりしたのはいてほしいな! その方が臭くなるんだよね。
●そうなんや。じゃあ、ぴっちりしたの買いに行ってくるね。
○わざわざ買わなくていいよ! ないならいいからね。
●いや、ちゃんと買って、はいとくよ。音楽は好き?
○まぁ好きだけどね。笑
●ぼくは、やっぱりロック、ポップス、ソウル、ジャズ、ブルース、っていったとこかな。
○僕は槇原敬之好きかな。まぁ誰とは限らず、いいと思った曲は何でも!
●ヨーロッパ系のプログレなんかも好きでね。かなりマニアックなものも聴くよ。
○僕は、グロリア・エステファンのスペイン語版、セリーヌ・ディオンのフランス語版、シルビー・バルタンとか好きだよ。あとはマイナーなんだよなぁ。スペインのアナベレンとか。日本では知ってる人ほとんどいないだろうなぁ。
●アナベレンって人は知らんなあ。ところで、今度の金曜日は大丈夫?
○うん、大丈夫だと思うよ!
●いま、何してんの?
○今、カラオケに来てるよ。演歌ばっか歌ってる。笑
●**くんの歌ってるとこ見たいなあ。どんな声してんだろ?
○自分の声には自信ないけど、絶対音感には恵まれてたみたい。小柳ルミ子、石川さゆり、槇原敬之を歌ったよ。
 (注:**くんは、あとでわかったんだけど、ショパンの難曲も弾きこなすピアノの名手だす。)
●小柳ルミ子とか石川さゆりって、ぼくの年代じゃないかな? 槇原はわかるけど。カラオケって、よく行くの?
○カラオケって行ったことなかったんだよ。ほんと最近行くようになったんだ。まだほんの数回目だよ。
●そうなんや。はやく**くんに会いたいな。**くんのことが好きやねん。
○まだ会ってないんだし、好きだと思わないでよ。僕も、もし気に入ってもらえなかったらって緊張しちゃうから。京都くらいならいくらでも遊びに行くって!
●来てや。いま、エアロスミス聴いててん。ハードロックも大好きやねん。
○エアロスミスは名前なら知ってるかなあ。ハードって、どんな曲? けっこう疎いんだよね汗 あそこはもうけっこう臭いの?   
●臭い! さっきまでツエッペリンやイエスを聴いてたんやけど、知ってる? まあ、ハードロックって、うるさ系の感じかな。イエスは、プログレハードって感じ。
○うるさ系とか僕は聞かないかな。静かな曲のほうがどっちかといえば好きかも。ツエッペリンって聞いて、飛行船の名前以外に思い浮かばないし。イエスってのは知らないなぁ。
●時代が違うんかなあ。それとも、ぼくがマニアックなだけなのかも。
○そっか。あんまり曲とか聴かないから詳しくないんだよね、ごめんね。ところで京都生まれ京都育ち?
●そうだよ。一年くらい実母が生まれ育った高知にいたんやけど、赤ん坊のときやったから、なんもおぼえてへんしなあ。やっぱり、ずっと京都って感じやな。**くんの方は?
○生まれてからずっとつくばだよ。常総のある土浦市の隣。バリバリ茨城弁だよ。同系統の方言を話す人以外の人と話すときは、基本的に標準語を話してるかな。宏輔さんは京都弁だよね?
●たぶんね。そやけど、継母が岡山やし、父親は京都といっても、丹波の笹山ちゅうド田舎やし、純然たる京都弁ちゃうかもしれんなあ。それに、家は商売してたから、いろんな土地で生まれ育ったひとがいてたしなあ。まぜまぜなんちゃうやろか。ときどき広島弁に近い言葉が口に出ることもあるけど、継母がたしか、広島にもいたことがあるって言ってたような気がする。
○そうなんだ。まあ岡山の言葉と『比較的』近いよね。東京に近い割りに(都心まで50キロ弱)、関東東部の方言圏(茨城、栃木、千葉がそう)だから、東北南部の方言に近いよ。だからずーずー弁だよ。
●そうなんや。**くんは、ふだんは、どう過ごしてんの?
○気ままに過ごしてるよ。街をぶらぶらしたり、チャリで出掛けたり。本当は勉強しないといけないんだけどね。タイプっていうのはどんな人なの? 具体的に聞きたいな!
●**くんのように、自分の意見を持ってて、はっきりとそれを口にすることができる人かなあ。
○じゃあ、臭くしといて、とか、はっきり言う方がいいんだ? 好きなのに、言わないより。
●そうだね。
○そっか。じゃあはっきり言うよ。臭くしといてね。僕のが臭かったらどう? 人の匂いは嫌い?
●あまり嗅いだことがないし、好きではないかも。いや、まだ体験したことないからわからんけど、好きな相手のだったら、大丈夫かもしれない。。
○僕時間経つとすぐ臭くなるんだよなー。でも人にかがれたら興奮しそう! イケてないって思われたらやばいね。汗
●思わないよ。あのフォト、ほんとかわいいもん!
○よかったら話してみる? よければ電話もらっていい?
●いいよ。
○電話お願いします!
 (注:一時間と四十分ちょっと、電話で会話。)
○遅くまでごめんね。声が聞けてよかった! 会うの楽しみにしてるね。明日も予備校がんばって! おやすみなさい。

                          (以上で、9月3日のメールは終了。)




(163・67・21)×(179・93・42) III


●仕事が終わって、いま帰りです。北山を歩いてる。なんか、ちんぽこの先がぐちょぐちょだよ。きのうオナニーして、**くんの言ってたようにしたから。めちゃくちゃ臭いんちゃうやろか。ところで、**くん、新幹線もあるけど、高速バスってのもあるよ。
○高速バスは眠れない派なんだよね…。まぁ一日くらい平気なんだけど、今晩は友だちと約束があって、どっちみちバスの時間に間に合わないんだ。ごめんね。わざわざ皮の中に出してくれたんだね、ありがとう。匂い楽しみだな! 僕ってほんと変態。笑
●変態とまではいかんと思うけど、ちょっと趣味があるって感じかな。そやけど、いま、部屋戻って、ちんぽこの先に触った指の臭い嗅いだんやけど、めっちゃ臭いで。
○いいね。くさいのか。やばいな、いまプールにいるんだけど半立ちだよ。汗
●それはやばいね。**くんの半立ちも見たいな。きのう、ボクサーブリーフ買ったんやけど、ビキニは、さすがにはずかしくて買えへんかってね、きのうからはいてる。
○そのボクサーブリーフはぴっちりしてるのかな?
●してるよ。太もものとこぴっちり。
○よかった。わざわざ買いに行ってもらっちゃってごめんね。ありがとう。今度はビキニ姿も見せてね!
●なんとか買うてみる。
○明日楽しみにしてるよ。
●ぼくもめちゃくちゃ楽しみにしてるよ。
○これからイタリア語のサークルだよ!
●プレーゴ!
○TU COMPRENDI L’ ITALIANO? DO YOU UNDERSTAND ITALIAN?
●いや、イタリア語は、ちょっとかじっただけで、ほとんどできないよ。
 (注:あとでわかったんだけど、**くんは、中学生のときから二ヶ月に一回くらい海外に行ってて、いま現在八ヶ国語を話すことができる。ううん、ぼくとはえらい違いでおます。)
 (注:約三時間経過。)
○家に着いたよ。今日はこっちは涼しいよ。いま22度。京都は26度だって暑いね。
 (注:**くん、パソコンで気温とかしょっちゅう見てるらしい。)
●暑いね。イタリア語は、ダンテの神曲を原文で読むために、一年ぐらい勉強しただけで、ほとんどできないんだよ。
 (注:第二詩集でイタリア語を使うからってのが、第一の理由だったんだけど、たしかに、神曲もイタリア語で読みたかったから、まんざらまるっきりの嘘じゃないけど、ちょっとわざとらしい。)
○イタリア語版を読んだの?
●翻訳三種類は全文読んだけど、原文は、地獄篇と天堂篇の一部しか読んでない。英語の解説文つきの原文でね。四行の本文に対して2ページの解説がついてるやつ。わざわざ京大の近くにあるイタリア会館に行って借り出してコピーしたんだ。ところで、イタリア映画は好き? 何年か前の映画で「イル・ポスティーノ」ってのがあったんだけど、いい映画だったよ。
 (注:翻訳三種類持ってるけど、ちゃんと読んだのは二種類だけ。ほんのちょっとだけど、どうして嘘が混じっちゃうんだろね。)
○見てないなぁ。映画は好きなんだけど、なかなか行けなくて。地元にけっこうでかめの新しい映画館があるんだけど、音響最高だし、新しいし、あの空間にいると、異次元の世界に来た感じがする。
●さっき書いた映画、いい映画なんだけど、ちょっとおしつけごましくて、いただけないとこもある。
○おしつけごましく、←どんな意味? 僕は語彙が少ないんだよね…。
●あ、おしつけがましく、の間違い。
○そかそか。僕はほんと難しい単語が分からないから、ちょっとびびってしまった。汗 明日の今頃は一緒にいるね。楽しく過ごせますように!
●楽しく過ごせますように!
○明日はよろしくね! おやすみなさい!
●おやすみ。

(以上で、9月4日のメールは終了。)


引用の詩学。

  田中宏輔



なんて名前だったかな?
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第三部・4、入沢英江訳)


そしてそれはここに実在する。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第一部・11、入沢英江訳)


それはまったく新しいものだった。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第二部7、入沢英江訳)


「意味」が入った四角のもの。そう考えるだけで、ゾクゾクしてくるじゃないか。
(ロン・ハバート『Battlefield Earth 1 奪われた惑星』第一部・11、入沢英江訳)


(…)地下鉄で乗り合わせたユダヤ人の横顔が、ひょっとすると、キリストのそれであるかもしれないのだ。窓口で釣り銭をわたす手が、ひょっとすると、かつて兵士たちが十字架に釘付けしたそれの再現であるかもしれないのだ。
 ひょっとすると、十字架にかけられた顔のある特徴が、鏡の一枚一枚に潜んでいるのではないだろうか。ひょっとすると、その顔が命を失い、消えていったのは、神が万人となるためではなかったのか。
 今夜、夢の迷路のなかでその顔を見ながら、明日はそれを忘れていることも無くはないのである。
(J・L・ボルヘス『天国篇、第三十一歌、一0八行』鼓 直訳)


本質的なものは失われる、それは
霊感にかかわる一切のことばの定めである。
(J・L・ボルヘス『月』鼓 直訳)




 ボルヘスのこの言葉から、つぎのような言葉が思い浮かんだ。どんなにささいな行いのなかにも、本質的なものが目を覚まして生きている。




──お前の中にあって、今ものを云っているのは、
滅びゆくお前の中の滅びない部分なのだ。
(バイロン『カイン』第一幕・第一場、島田謹二訳)




 バイロンのこの言葉から、つぎのようなことを考えた。展開し変形していく数式のなかで、保存されているのは、いったいなにか。法則が保存されているというか、法則のなかにおいて数式を展開し変形しているのだが、法則の外に置かれた数式がいったいどのような意味をもつのか。たとえば、1>2 とかだが、ああ、間違っているという意味があるか。しかし、これが言葉だと、意味に含みが多いため、論理的に間違った言葉であっても、また、その言葉のつくり手の思惑からはずれたものであっても、重要な意味をもつことが少なくない。もちろん、それは読み手の読み方に大いに依存することではあるが。




つねに新しい花にかえる
(エズラ・パウンド『サンダルフォン』小野正和・岩原康夫訳)


新しい言葉を与え、
(エズラ・パウンド『サンダルフォン』小野正和・岩原康夫訳)


愛が去り、
(エズラ・パウンド『若きイギリス王のための哀歌』小野正和・岩原康夫訳)


昨日という日が、まるで私の誤った人生をひっくるめたよりも長い時間であるかのように、私のかたわらを通り過ぎてゆく。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)


(…)しかし世界から出ることはどこの場所でもできるのであって、そこに崩壊時の星のような力のある打撃を加えればいいのである。こうした制約のために不完全に見えるものは物理学だけであろうか? あらゆる体系はその中にとどまる限り不完全で、そこからもっと豊かな領域に踏み出したときに初めて理解できるという、あの数学のことがここで思い浮かびはしまいか? 現実の世界に身を置きながら、どこにそんな領域を求めることができよう?
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)




 レムのこの言葉から、つぎのようなことを思った。自分の体験をほんとうに認識するためには、自分の体験のなかにいるだけでは、不可能なのではないかと。「定義し理解するためには定義され理解されるものの外にいなければならない」(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳)という言葉がある。「マールボロ。」という作品において、ぼくが友だちの言葉を切り貼りしてつくった詩句のように、ぼくが他者の体験を通して、他者の体験を、解釈したり理解したり、あるいは想像したりするというプロセスにおいて疑似的に体験することによって、その他者の体験という、ぼくの体験ではない体験にある精神状態から、つまり、いったん、自分の状態ではない他者の精神状態から、ぼくの体験を眺める目をもつことができるようになってはじめて、自分が体験したことの意味がわかるのだと思われるのである。もちろん、他者の精神状態はぜったいに知ることはできないが、他者の精神状態を想像することはできる。その想像した他者の精神状態に、いったん自分を置くということである。置いてみるということである。その他者の精神状態を想像するもとになるものは、直接的にその他者の体験を目の当たりにする場合もあるが、多くの場合が、その他者が体験したことをその他者が書いた文章であったり語った言葉や雰囲気であったり映像に撮られたものであったりするのだが、そういった他者の体験を、その他者自身が表現した場合とそうでない場合があるのだが、いずれにせよ、そういった、ぼくではない人間の「ものの見方」や「感じ方」や「考え方」を通してこそ、自己の体験をほんとうに知ることができると思われるのである。自分のなかだけでは、堂々巡りをするだけで、自分の状態をほんとうに知ることなどできないであろう。他者の体験を知るということが、唯一、ほんとうに自己の体験を認識する手段なのである。このことは、たいへん興味深いことである。言語で表現されている場合、言語は言語である限り、言語であることから由来するさまざまな制約を受けている。おもに、語意や語法のことである。一方、意識や思考は、語意や語法に完全に縛られているわけではない。不適切な文脈で使うこともできるし、間違った語法で言葉をつづることもできる。ヴィトゲンシュタインは、言語の限界が思考の限界だと書いていたが、言語が意味をもつ限り、正しかろうと間違っていようと、意味からは逃れられないが、意味に限界はない。したがって、言語に限界は存在しないはずで、思考の限界が言語の限界であるなら、思考には限界がないということになる。このぼくの主張は正しいだろうか。ぼくという詩人の仕事の一つに、このことの解明という文学的営為が含まれていると思っている。
 言葉を換えて言えば、そして、端的に言えば、こういうことであろう。他者の体験に一時的に同化することによってのみ、自分の体験を外から見るという経験を通してのみ、ほんとうに自分の体験したことの意味を知ることができると。ここで、ふと思ったのだが、「ほんとうに自分の体験したことの意味を知る」というのと、「自分の体験したことのほんとうの意味を知る」というのが、まったく同じことかと言えば、まったく同じことではないと思うのだが、感覚的にはほとんど同じようなものであると感じられる。




ああ、ぼくはそんなことをすでにみな話をしていたな、ちがうか?
 どうだか、わからない。心の中であまりに多くのことが動きまわっているので、これまでに起こったことと、まだ起こっていないことと、心の中以外では絶対に起こらないことについて、ぼくはいささか混乱している。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ3』上・9、矢野 徹訳)




 フレデリック・ポールのこの言葉から、つぎのような文章が思い浮かんだ。自分と話している人間が自分の言っている言葉をどう思うのか、といったこととは無関係に、自分のこころのなかに生じた期待や不安を、成功への絶対的な確信や望みのないこころ持ちといったようなものを、ふいに投げつけるようなタイプの人間がいる。ぼくがそうだった。




 感情の発展過程で、ある点以上には絶対成長しない人がある。かれらは、セックスの相手と、ふつうの気楽で自由な、そしてギブ・アンド・テイクの関係をほんの短いあいだしか続けられない。内なる何かが、幸福に耐えられないのだ。幸福になればなるほど、破壊せずにおけなくなる。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』20、矢野 徹訳)




 フレデリック・ポールのこの言葉から、つぎのような文章を思いついた。いまある幸せがいつかはなくなるものだと思って、あるいは、いまつかまえられるかもしれない幸せをいつかは手放さなくてはならないものだと思って、そういう不安なこころ持ちで生きていくことに耐えられずに、いまある幸せを、いまつかまえられるかもしれない幸せを、幸せになるかもしれない可能性を、自らの手で壊してしまう、そんなことを繰り返してきたのだった、このぼくは。京大のエイジくんとの一年半の付き合い方が、この典型だった。おそらく、彼も、ぼくと同じような性質だったのであろう。お互いに、相手を好きだという気持ちをストレートに出せなくて、会うたびに相手を傷つけるような言葉を投げかけ合っていたのであった。相手を侮辱し、挑発し、怒りや憎しみを装った悲しみを投げつけ合っていたのであろう。二十年近くたって冷静に自分の言動を見つめていると、しばしば哀れみを感じてしまう。愛情をストレートに表現する能力が欠けているために、どれだけ相手を、また自分を傷つけてきたのだろうかと思わずにはいられない。




神とは最初の遠い昔の細胞が死んで以来の細胞たちの中に累積された知である。
われわれはその知の中に住む
(ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』9.9、志村正雄訳)


夢想で作り上げたものは現実で償わなければならないと思う。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』I、志村正雄訳)


(僕はめったに感じられないことであるけれど、
 世界が現実(リアル)であると見える人々を僕は愛す)。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』O、志村正雄訳)




 メリルのこの言葉から、愛するものは生き生きとしていると思った。愛する者は生き生きとしているでもいい。ディックの小説に、「「ねえ」と映話をすませたマルチーヌがいった。「なに考えてるの?」/「きみが愛するものは、生き生きしてるってこと」/「愛ってそういうものなんでしょ?」とマルチーヌはいった。」(フィリップ・K・ディック『凍った旅』浅倉久志訳)といった言葉のやりとりを描写した箇所がある。愛の絶頂というのが、肉体的なことに限りはしないことなのだけれど、かつて、肉体的な絶頂がもたらせる充足感が、自分の生命のありったけの喜びを集めて放射したように感じることがあった。もっとも生き生きとした瞬間というものが、あれだったのかなと思われる。愛するものはリアルである。愛する者はリアルである。愛するものは現実である。愛する者は現実である。現実はリアルである。愛は現実である。現実は愛である。




今こうしてここにきみはいる、新しい型の中の旧い自我。
あの根の何本かは強靱になったようだ、死んだのもあるが。
語れ、僕に語れ、僕はきみに頼む、
瞬間の一つ一つが何をするのか、したのか、するつもりなのか──
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』S,志村正雄訳)


ユングは言う──言わないにしても、言っているに等しい──
神と<無意識>は一つであると。ふむ。
(ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』U,志村正雄訳)




 メリルのこの詩句が、いかに自由な精神から書かれたものか、想像するしかないが、かなりの自由度を有した精神が書いたものとしか思われない。ここまで自由になるには、よほど深い思索が行われなければならなかったはずである。ぼくの精神がメリルのような自由度をもつためには、あとどれだけ知識を吸収し、思索をめぐらせなければならないか、これまた想像もつかない。しかし、先人がいるということは、それにつづけばいいだけで、先人が苦労して獲得したものを、後人は、先人より容易に入手できる可能性が高い。先人がいるということを知っているだけでも、エネルギーギャップは、かなり低くなったはずだ。がんばろう。




一切の表現は本来嘆きである、と大胆に論断することができる。
(トーマス・マン『ファウスト博士』四六、関 泰祐・関 楠生訳)


痛い とわかること は つらい こと
(ヤリタミサコ『態』)


当時はなお表現し得なかった一つの意味、後になっては
忘却どころか、血の出るほどに傷ついた
刺。だがそのときすでに貴女は死んでいた、
どこで、どのようにか、ぼくはとうとう知らずじまい。
(エウジェーニオ・モンターレ『アンネッタ』米川良夫訳)


ならば僕は君を創造するとしよう。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


それは悲しみであった。
(リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳)


だが 悲しんでいることも
これがわれらの悲しみであることも われらは知らない
(エドウィン・ミュア『不在者』関口 篤訳)


一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません
(アゴタ・クリストフ『第三の嘘』第一部、堀 茂樹訳)


不幸だけがほんとうに自覚できる唯一のものである
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)


おそらく我々はそういう瞬間のために生きてきたのではあるまいか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』8、菅野昭正訳)


ヤン・フスが火刑に処された際、一人の柔和で小柄な老婆が自分の家から薪を持って現われ、それを火刑台にくべる姿が見られた。
(カミュ『手帖』第六部、高畠正明訳)


神は愛である。
(ヨハネの第一の手紙四・一六)


愛だけが 厳しい 多くの苦痛をもっている
(キーツ『ファニーに寄せるうた』6、出口泰生訳)


愛はいつまでも絶えることがない。
(コリント人への第一の手紙一三・八)


神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
(テモテへの第一の手紙二・四)


神さまは、それをゆっくりお待ちになることができるからね
(マルロー『希望』第一編・第二部・第二章・1、小松 清訳)


ひとが愛するものについて誤らないつてことは、むづかしいことだよ。
(ワイルド『藝術家としての批評家』第一部、西村孝次訳)


誰しも自分の流儀で愛するほかに方法はなかろうじゃないか
(三島由紀夫『禁色』)


彼女はただ偶然に行動した。
(スタンダール『パルムの僧院』第十四章、生島遼一訳)


愛よりなされたことは、つねに善悪の彼岸に起る。
(ニーチェ『善悪の彼岸』第四章・一五三、竹山道雄訳)


愛とは、学んで得られるものではありませんが、にもかかわらず、愛ほど学ぶ必要のあるものもほかにないのです。
(教皇ヨハネ・パウロII世『希望の扉を開く』三浦朱門・曽野綾子訳)


愛の道は
愛だけが通れるのです。
(カルロス・ドルモン・ジ・アンドラージ『食卓』ナヲエ・タケイ・ダ・シルバ訳)


偏執病者の経験する愛は憎悪の変形なのである。
(フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』7、友枝康子訳)


わたしにはこの病気の本質を説明することはとうていできないとしても、
(ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』5・結婚のこと、清水三郎治訳)


愛に報いるためには、この道を通るしかないという気がした。
(ターハル・ベン=ジェルーン『聖なる夜』17、菊地有子訳)


人間はあっというまに地獄へ行ける
(アン・マキャフリー『歌う船』歌った船、酒匂真理子訳)


自由がなにかを教えるというなら、それは幸福というものは幸福であることのなかにあるのではなく、自分の不幸を選びうることのなかにあるということなのだ
(レイナルド・アレナス『ハバナへの旅』第三の旅、安藤哲行訳)


地獄を選ぶということが可能なのは、ただ救いへの執着があるからこそである。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』悪、田辺 保訳)


ほかに選択の道がありますか?
(アイザック・アシモフ『ファウンデーションへの序曲』大学・13、岡部宏之訳)


森へ行こう
(マルグリット・デュラス『太平洋の防波堤』第2部、田中倫郎訳)


詩は森のなかで行われる
(アンドレ・ブルトン『サン・ロマノへ通じる街道の上で』清岡卓行訳)


とりわけおもしろいのが、この森さ。
(アガサ・クリスティー『火曜クラブ』第二話、中村妙子訳)


ようこそ、一九六一年に
(ロバート・シルヴァーバーグ『時間線を遡って』7、中村保男訳)


過去はふくろう(、、、、)の巣のまわりにある骨のようなものである。
(ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川 敏訳)


おや! 破片(かけら)だ! 水瓶(みずさし)が壊れている!
(フロベール『聖アントワヌの誘惑』第二章、渡辺一夫訳)


見るかい?
(マイク・レズニック『キリンヤガ』3、内田昌之訳)


むしろそれは祈りに似たものだった。
(ジョイス・ケアリー『脱走』小野寺 健訳)


彼は「自分はもう二度と自分自身になることはあるまい」と語るのである。
(キェルケゴール『死に至る病』第一編・三・B・b・α・2、斎藤信治訳)


汝(なれ)はそも、涙を持てる、憂わしき甕なるか?
(ジイド『贋金つかい』第三部・七、川口 篤訳)


世のなかには元来、ただ一冊の「書物」だけしか存在せず、その掟が世界を支配しているのではないか。
(マラルメ『詩の危機』南條彰宏訳)


ただ一つの文章しか存在しないのだ、それがいまだに読み解かれていない。
(アンドレ・ブルトン『ただ一つのテクスト』安藤元雄訳)


離反は信仰の行為です。そして一切は神のうちに存在し、神のうちで起るのです。特に神からの背反がそうなのです。
(トーマス・マン『ファウスト博士』一五、関 泰祐・関 楠生訳)


罪の反対は信仰なのである(、、、、、、、、、、、、)。それゆえに、ローマ書第十四章二十三節には、すべて信仰によらないことは罪である、と言われている。
(キルケゴール『死に至る病』第二編・A・第一章、桝田啓三郎訳)


苦悩とは疑惑であり、否定である
(ドストエフスキー『地下室の手記』I・9、江川 卓訳)


彼は神に対して不幸な愛を抱いている。
(キェルケゴール『死に至る病』第二編・A、斎藤信治訳)


ひとは雨雲を覚えていて、思い出すだろうか。
(モーパッサン『ピエールとジャン』5、杉 捷夫訳)


雲は過ぎさるが、天はとどまる。
(アウグスティヌス『告白』第十三巻・第十五章・一八、山田 晶訳)


「すべては流れる」
と賢者ヘラクレートスは言う。
(エズラ・パウンド『「わが墓をたてるために」E・Pのオード』III、新倉俊一訳)


私はある男を知っていました。彼はミツバチの羽音はその死後には響かないと確信していました。
(ヴォルテールの書簡、ドフォン公宛、一七七二年、池内 紀訳)


読んだこともない詩の一節が
(フィリップ・K・ディック『ユービック』5、浅倉久志訳)


その詩の最後の行を忘れることが出来ない。
(カポーティ『最後の扉を閉めて』2、川本三郎訳)


もしあのとき……もしあのとき。
(三島由紀夫『遠乗会』)


ぼくの白い柵、ぼくの家の囲いの格子垣、ぼくの樹々、ぼくの芝生、ぼくの生まれた家、そして玉撞き部屋の窓ガラス、それらは本当にそこにあったのだろうか?
(コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ぼくの幼年時代について、秋山和夫訳)


みんなそこで生まれたの。
(マルグリット・デュラス『北の愛人』清水 徹訳)


空の上には一片の雲も掠(かす)め飛んだことはなかった。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・5、西尾幹二訳)


魂とはなにものか?
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


人間とはいったいなんでしょう、
(ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』檜山哲彦訳)


まことに人間そのものが大きな深淵だ。
(アウグスティヌス『告白』第四巻・第十四章・二二、山田 晶訳)


われわれの内部には、じつに奇怪で神秘的なものがあるんだ。いったい、自分自身のなかにいるのは自分だけだろうか?
(アンリ・ド・レニエ『生きている過去』11、窪田般彌訳)


僕たちの背後で嘲笑している何かがあるのだ。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


死んだ腹から聞こえる笑い
(エズラ・パウンド『「わが墓をたてるために」E・Pのオード』IV、新倉俊一訳)


俺は死人たちを腹の中に埋葬した。
(ランボオ『地獄の季節』悪胤、小林秀雄訳)


魂を究極的に満たすのは魂自身のほかにはない、
(ホイットマン『草の葉』分別の歌、酒本雅之訳)


深淵と深淵とが相對しているのであつた。
(バルザック『セラフィタ』一、蛯原徳夫訳)


また苦しみの森
痛めつけられた白骨
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


僕のまわりに冷淡な広い余白が拡がる。今僕の眼に好奇に満ちた数千の眼が開く。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


qualis sit animus,ipse animus nescit.
霊魂は如何なるものなるか、霊魂自身はそれを知らず。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』より、キケロの言葉)


いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦(よみがえ)ることが望めよう。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳)


埋葬されなかったものは、どのようにして復活したらよいのであろう。
(カロッサ『ルーマニア日記』十二月十五日、金曜、三時四十五分、登張正実訳)


墓のあるところにだけ、復活はあるのだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


生きのびるとは何度も何度も生れること
(エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』19、柳瀬尚紀訳)


生まれるとは、前とは違ったものになること
(オウィディウス『変身物語』巻十五、中村善也訳)


ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
(ガラテヤ人への手紙六・一五)


詩は言葉のために言葉を語る。
(ホフマンスタール『詩についての対話』檜山哲彦訳)


無限に語りつづける、
(ボルヘス『伝奇集』結末、篠田一士訳)


この書物はまだ終わったわけではない。
(ジャン・ジュネ『葬儀』生田耕作訳)


まだずいぶんかかるの、詩を仕上げるのに?
(レイナルド・アレナス『夜明け前のセレスティーノ』安藤哲行訳)


小さな森の中に、ひとりの贋詩人が現われる。
(アポリネール『虐殺された詩人』12、鈴木 豊訳)


君は、詩が好きかい?
(ジイド『一粒の麦もし死なずば』第一部・八、堀口大學訳)


でもこれがほんとに詩なんですか、それよりも判じ物じゃないかしら?
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラ、井上究一郎訳)


ある晩、帰りがけに小石をいっぱい包んだハンケチを、背中にぶつけられました。
(バルザック『谷間の百合』二つの幼児、小西茂也訳)


民衆があなたに石を投げつけてもちっとも不思議はない。
(ペトロニウス『サテュリコン』90、国原吉之助訳)


半分は嘘で、半分はふざけてるんだから
(ロバート・A・ハインライン『地球の脅威』福島正実訳)


おっしゃるとおりです、まったく。
(テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』第三場、小田島雄志訳)


引用について。

  田中宏輔



モンテーニュのなかで私が読みとるすべてのものは、彼のなかではなく、私自身のなかで見いだしているのである。
(パスカル『パンセ』断章六四、前田陽一訳)


 確かに、これは、納得し得る言説である。しかし、他の断章から切り離されたこの部分の引用だけでは、文脈が通じにくいところがある。そこで、筆者は、これを、私自身の中で見い出されるすべてのものは、私自身の中にではなく、私の外にあって、私の心に働きかけ、私の心がそれに応えるところのものの中にあるものである、と読み換えてみる。
 また、引用されたこの断章が、その文脈を通じにくくさせている原因の一つに、パスカルがモンテーニュの中から読み取ったものと他の人が読み取ったものとが、同一のものであるという保証がどこにもない、ということがある。というのも、それは、


事物が同一であるのに、(その事物を対象とする)心に差別があるから
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


であるが、ここで、また、では、なぜ、心というものには違いがあるのだろうか、という疑問が生ずることになる。
 いま、


心はその(事物の)影響に依存するものであるから、事物は(心に影響を与えるときは)知られ、(影響を与えないときは)知られない
(『ヨーガ根本聖典』第四章、松尾義海訳)


ものである、と仮定すると、知識や体験といったものの違いが、心に違いを生ぜしめる要因となっている、ということが結論として得られる。すると、なぜ同じ事物が、ある人には感動をもたらし、ある人にはもたらさないのか、また、同一の人に対しても、ある時には感銘を与え、ある時には与えないのか、といったことの理由が判明するのである。筆者は、先に、モンテーニュの中から読み取られるものが、パスカルと他の人間とでは、同一のものであるという保証はどこにもないと述べたが、その言説の根拠がここにあるのである。勿論、述べるまでもないことではあろうが、このパスカルの断章で言われるところのモンテーニュとは、彼の著作物を指し示す換喩(Metonymy)である。そして、それが、また、さらに、あらゆる事物を指し示す提喩(Synecdoche)となっているのである。
 ところで、また、個性とも呼ばれる、その人をその人たらしめる特質というものは、外因的な要素である事物の他に、内因的な要素である遺伝子という生来のもの、生まれつき備わっているものにも影響されるものであろうから、心に違いを生ぜしめる要因として、遺伝を含めて考察しなければならない。ただ、どちらの方が、より多く心に影響するものであるかということについては、人によって様々に異なるものであろうから、一概にしては言えない。その影響の大部分を、知識や体験といった外因的な要素によって被る場合もあるだろう。しかし、遺伝形質というものも、その人の両親である他の個体によってもたらされるものであるから、それも、また、外からもたらされるものであると考えられるのである。
 では、いったい、


だれがおまえをつくったのか?
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


誰が私を造ったのか。
(アウグスティヌス『告白』第七巻・第三章、渡辺義雄訳)


 この問いかけは、筆者が冒頭近くでパスカルの一文を読み換えたものと照応する。即ち、外からもたらされたものの取捨選択と集積、そして、それらを組織化するところのものが心に違いを生ぜしめ、私というものを形成するのである。言い換えると、私というものは、すべて外からもたらされたものである、という訳である。『レトリックの本』(別冊宝島25)の中に、ペルシャの神秘主義詩人ルーミーの言葉が引かれている。比喩なしの話を聞きたいと言った人に、「おまえそのものが比喩なのだ。」と答えたという。筆者もまた、その言葉をもじって、「私とは引用そのものである。」と言ってみることにしよう。
 すると、引用というものが、そこで実現された表現とその受容において、いったい、どれほどの効果を持つものとなっているのか、というような問題は別にして、それがもっとも直接的に個性を発現させる技法の一つである、ということが理解されよう。筆者には、ここで、「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」という、ブリア・サヴァランのアフォリスムが思い出されるが、如何なものであろうか。(関根秀雄・戸部松実訳『美味礼賛』岩波文庫)
 
 次に、引用という技法が、その極限にまで達して駆使されていると思われる詩作品を例に挙げて、考察していくことにする。但し、この限られた紙幅では、その全文を掲げるわけにはいかないので、その中から一部を抜粋するに留める。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君に、と、ささやき掛けた、或る日、夕暮れ
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、その詩作品の冒頭部分であるが、作者の名前が明らかにされてなくても、読者は、これだけで、この詩作品の作者名を容易に言い当てることができる。それは、この部分が、吉増氏によってこれまで頻繁に繰り返し用いられてきた言葉で構成されているからである。詩集『スコットランド紀行』の中に、「引用のことを言いますと、自己引用もしますし、引きなおし、引いて、引いて引きなおして、」という作者自身の言葉があるが、これほど激しく自己引用する詩人は、他には見られない。読者は、その作品世界に冒頭から引き込まれることになり、そこで新たに展開されるヴィジョンは、この作者によって形成された過去の作品世界と共振させられることになるのである。自己引用というものは、とりわけこの詩作品の作者である吉増氏によるものは、その作者が形成する作品世界に、さらに多義的な、或は、多層的な解釈をもたらすものとなっているのである。
 この詩作品では、終わりの方で、また、この冒頭部分に類似した詩句が現われる。


廃星が

 ──羨しいな、絵の君は、と、ささやいた
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これは、作者が言うところの「引きなおし」であろうが、一般に一つの詩作品の中で現われる類似した詩句は、反復(Repetition)と呼ばれるものであって、引用(Quotation)とは呼ばれないのであるが、この詩人の場合には、反復もまた、引用であるかのごとき印象を与えるものとなっている。
 
 この詩作品の初出誌は、「ユリイカ」90年12月号であった。その折りには、『月の岩蔭に蹲んでわたしは春を待つ』というタイトルで掲載されたのであるが、詩集収録時には、末行に書かれてあったこのタイトルと同じ詩句が省かれており、また、末尾に附記されてあった文章が省略されている。その文章には、この詩作品が、画家ジョルジオ・モランディー回顧展によせて書かれたものであるという経緯が述べられてあったが、それは、ここに引用された「羨しいな、絵の君に(は)、」という詩句に照応するものであった。


落ちても枯葉に行く処なし
枯葉に行く処なし
行く処なし
処なし
なし
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 初出の段階では、この部分には、各行の行間に、一行分の空白が設けられてあったが、詩集に収録された時には取り去られている。この詩作品においては、様々な改稿が施されているが、この部分とタイトルの改変、そして、初出の際に末行にあった元のタイトルと同じ詩句がなくなっていることは、筆者に非常に大きなショックを与えた。このことは、筆者に、詩篇の改稿というものが、読み手のヴィジョンに対して、どれほど大きく影響するものであるのか、ということについて考えさせるものであった。
 この部分は、筆者に、T.S.Eliotの「The Waste Land」 を思い起こさせた。


‘What are you thinking of? What thinking? What?


 これは、II.A Game Of Chess にある詩行であるが、前掲の吉増氏の詩句は、この Eliot の詩行が表わしている意味内容(Sense)の引用ではなく、その詩行が持っている文体(Style)の引用である。吉増氏の詩句は、Eliot の詩句とは、その意味内容において、関連性のまったくないものであったが、その文体の引用がもたらす音調的な効果が著しく類似しているために、Eliot のThe Waste Land のイメージを筆者の心象に喚起させ、筆者のヴィジョンに揺さ振りをかけるものとなったのである。


"わたしは火がほしい"と枯葉が葉裏であれまた嘘ついちゃった
(吉増剛造『廃星の子』、詩集『螺旋歌』所収)


 これが、詩集収録時の末行であるが、引用であることが示される""で括られた「わたしは火がほしい」という詩句から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が思い起こされた。「私は火を欲する。」といった言葉を目にした記憶があったのである。そこで、筆者は、その言葉が書かれてある箇所を確認するために、その本を繙いたのであるが、捜し当てることができなかった。三たび通読してみたのであるが、そのような言葉はどこにもなかったのである。しかし、その再読は、筆者に思いもよらぬ収穫をもたらすものとなったのである。手〓富雄訳(中央文庫)で、幾つか文章を引くことにする。但し、丸括弧内の数字は、その文章が引かれたページ数を表わす。「君は君自身の炎で焼こうと思わざるを得ないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。(100)」「まことに、自分自身の烈火のなかから、自分自身の教えが生まれてくることが、もっと意味のあることなのだ。(143)」「人間たちのあいだにも、灼熱の太陽によって孵されたひながいる。(230)」「そしてまもなくかれらは枯れた草、枯れた野のようになるだろう、そしてまことに、自分自身に倦み、水を求めるよりは、むしろ火を求めてあえぐことだろう。(274)」「万物を焼きつくす太陽の無数の矢に射貫かれて、灼熱しつつ至福にふるえているように!(346)」「精神に火を(373)」「熱い火を与えよ、(407)」。

『ツァラトゥストラ』にある、これらの文章が、筆者に、「私は火を欲する。」といった言葉を思い浮かべさせたのかもしれない。
 
 或は、もしかすると、「わたしは火がほしい」という吉増氏の詩句が、『ツァラトゥストラ』の全内容を、「私は火を欲する。」といった非常に短い言葉で、筆者に要約させたのかもしれない。
 
 また、『ツァラトゥストラ』の中には、「そしてまことに、没落が行なわれ、葉が落ちるとき、そのとき生はおのれを犠牲にしてささげているのだ──力のために。(181)」「おお、ツァラトゥストラよ、木の葉をして落ちるにまかせるがいい。そして嘆かぬがいい。むしろその木の葉を吹き散らす手荒な風を吹き送るがいい。(287)」「そしてわたしは自分自身を保存しようとしない者たちを愛する。没落してゆく者たちを、わたしはわたしの愛の力のすべてをあげて愛する。かれらは、かなたへ渡って行く者たちなのだ。──(320)」といった文章もあり、これはまさに、筆者が前に引いた、吉増氏の詩句である「落ちても枯葉に行く処なし」と呼応するものである。
 
この詩作品における引用の妙については、まだまだ言及するべきところがある。しかし、いまは、紙幅に余裕がない。後日、また、機会があれば、それらについて論じることにしよう。


Sat In Your Lap。

  田中宏輔



 私の周囲にあったものは、すべて私と同一の素材、惨めな一種の苦しみによってできていた。私の外の世界も、非常に醜かった。テーブルの上のあのきたないコップも、鏡の褐色の汚点も、マドレーヌのエプロンも、マダムの太った恋人の人の好さそうな様子も、すべてみな醜かった。世界の存在そのものが非常に醜くて、そのためにかえって私は、家族に囲まれているような、くつろいだ気分になれた。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


 詩人の遺稿のなかに、つぎの二つの原稿が見つかった。それらの原稿は、クリップで一つにまとめられていたのだが、上の文章のメモ書きが、一つ目の原稿の上に、セロテープで貼り付けられていた。上の文章が、原稿のどこに差し挟まれるのかは、指示してなかったので、本稿の冒頭に冠することにした。二つの原稿の内容とは微妙にずれるものとも思われたが、詩人の遺稿を取り扱う際に、後から付加されたメモ書きも、できるかぎり取り入れていくという姿勢で原稿を整理しているので、このように処することにした。上のメモ書きの文章が、どこに引用されるべきものだったのか、二つの原稿を何度も読み返してみたが、わからなかった。もしかすると、ただ原稿を書き直すための参考資料にでもしようとしていたのかもしれない。詩人の意向を察することも、読者にとっては、一興かもしれない。試みられても面白かろうと思われる。
 ところで、この二つの原稿は、内容から察すると、どこかの雑誌か、同人誌にでも発表されたものであるらしいのだが、調べてもわからなかった。これらの原稿が掲載された雑誌や同人誌の類は、詩人の遺品のなかにはなかった。もしかすると、出すつもりではあったが、何らかの理由で出さなかったものかもしれない。しかし、もしそうであっても、ここに、あえて収録するのは、この二つの原稿が、詩人の詩論として集大成的なものであり、詩人の詩を理解するためには、けっして見落とせないものだと思われたからである。
 二つの原稿をつづけて紹介し、その後で、詩人が使っている独特な言い回しについて、若干、解説していくことにする。




Sat In Your Lap。I


『イル ポスティーノ』という映画を見ていたら、パブロ・ネルーダの詩の一節が引用されていた。


俺は人間であることにうんざりしている
俺が洋服屋に寄ったり映画館にはいるのは
始原と灰の海に漂うフェルトの白鳥のように
やつれはて かたくなになっているからだ

俺は床屋の臭いに大声をあげて泣く
俺が望むのはただ 石か羊毛のやすらぎ
俺が望むのはただ 建物も 庭も 商品も
眼鏡も エレベーターも 見ないこと

俺は自分の足や爪にも
髪や影にもうんざりしている
俺は人間であることにうんざりしている
(『歩きまわる』桑名一博訳)


 映画のなかで使われていたのは、たしか、第一連から第二連までだったかと思われるのだが、もしかすると、第三連までだったかもしれない。それにしても、この「俺は人間であることにうんざりしている」というフレーズは印象的だった。俳優がこの言葉を口にしていたときの表情とともに。映画には、ほかにも記憶に残る場面がいくつもあったのだが、もっとも印象に残ったのは、このフレーズと、このフレーズについて考えながらしゃべっているような様子をしていた俳優の表情であった。
 ネルーダの名前には記憶があったので、本棚を探してみた。集英社から出ている『世界の文学』シリーズの『現代詩集』の巻に載っていた。持っている詩集は、すべて目を通していたはずなのに、この詩のこのフレーズに目をとめることができなかったことに恥ずかしい思いがした。自分の感受性が劣っているのではないかと思われたのである。もちろん、年齢や経験の違いが、あるいは、読むときの状況とかの違いが、その詩や、そのフレーズに目をとめさせたり、とめさせなかったりするのだから、劣等感を持つ必要などことさらなく、むしろ、いま、ネルーダの詩のこのフレーズに目をとめることができたということに、自分の感受性の変化を感じ取り、それを成長と受けとめ、祝福するべきであるのだろうけれども。


犬は何処へ行くのか?
(ボードレール『善良なる犬』三好達治訳)


 ここで、ふと、こんなことを思いついた。犬が犬であることにうんざりするということはないのだろうかと。それは、自分が犬にならないとわからないことなのかもしれないけれど、もしも、犬に魂があるのなら、魂を持っているものは感じることができるのだし、また考えることもできるのであろうから、犬もまた、自分が犬であることにうんざりするということもあるのかもしれないと思ったのである。ところで、自分が人間であることにうんざりするというのは、人間にとってもかなり複雑な気分であると思われるので、もしかすると、犬には、自分が犬であることにうんざりするというような能力が欠けているのかもしれないけれど、犬を見ている人間が、自分の気持ちをその犬に仮託して、犬が犬であることにうんざりしているように見えることならば、あると思われる。というより、よくあることのように思われる。しかし、そう見えるためには、少なくとも、人間の方が、犬の魂というか、心情とかいったものを、ある程度は理解していなければならないと思うのだが、仮に魂を領土のようなものにたとえれば、理解するためには、まず、その犬の魂に自分の魂の一部分を与えることが必要で、そうして、そのことによって、その犬の魂の領土のなかに踏み込んで行き、その犬の魂の領土のなかに、その犬の魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、その犬の魂の一部分を自分の魂のなかに取り込み、自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂の一部分が共存する領域を設けなければならないと思われるのだが、そういうふうに思われないだろうか。

 ここで、また、このようなことを思いついた。犬といった、多少は知恵のありそうな動物だけではなく、海といったものや、言葉といったものも、自分が自分であることにうんざりするというようなこともあるのではないかと。「海が海であることにうんざりしている。」とか、「言葉が言葉であることにうんざりしている。」とか書くと、なんとなく、海や言葉が人間のように考えたり感じたりしているような気がしてくるから不思議だ。これは、もちろん、わたしが、海や言葉といったものに、わたしの気持ちを仮託して感じ取っているのだろうけれど。「快楽が快楽であることにうんざりしている。」というふうに書くと、いささか反語的な響きを帯びた、陳腐な表現になってしまうが、「悲しみが悲しみであることにうんざりしている。」と書くと、状況によっては、象徴的な、まことに的確な表現にもなるであろう。

 ここで、動物だけではなく、あらゆる事物や事象にも魂というものがあるとすれば、言葉といった実体のない概念のようなものにさえ、魂といったものがあるとすれば、ある人間が他の人間や動物を理解するような場合だけではなく、人間が事物や事象を理解したり言葉を理解したりする場合にも、また、ある事物や事象が他の事物や事象を理解したり人間や言葉を理解したりする場合にも、さらにまた、ある言葉が他の言葉を理解したり人間や事物や事象を理解したりする場合にも、互いに魂のやり取りをし合って、他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設けていると考えればよいと思われる。

 魂を領土といったものにたとえた場合には、「他のものの魂のなかに、他のものの魂と自分の魂の一部分が共存する領域を設け、かつまた、同時に、自分の魂のなかに、自分の魂と他のものの魂の一部分が共存する領域を設ける」ことと、「他のものの魂のなかに、自分の魂と共有する領域を設け、自分の魂のなかに、他のものの魂と共有する領域を設ける」こととは、同じ内容のものであって、ただ表現が異なるだけのものであるのだが、しかし、このような考え方に違和感を持つ人がいるかもしれない。いや、そもそものところ、魂といったものを領土のようなものにたとえること自体に異議を唱える人がいるかもしれない。魂を領土にたとえたのは、理解するということを、モデルとして目に浮かべやすい形で表現したつもりなのであるが、数学でいうところの集合論において、ベン図という図形を目にしたことがないだろうか。二つの集合の間に交わりがあるとき、その交わった部分を、その二つの集合の交わり、あるいは、共通部分というのだが、それから容易に連想されないであろうか。理解するとは、異なる魂が共存する領域を設けること、あるいは、異なる魂との間に共有する領域を設けることである。こういった考え方が、わたしにはぴったりとくるものなのだが、そうではない人もいるかもしれない。そのような人には、いったい、どのように説明すればよいだろう。
そうだ。リルケが、『ほとんどすべてのものが……』のなかに、


すべての存在をつらぬいてただひとつの(ヽヽヽヽ)空間がひろがっている。
世界内面空間。鳥たちはわたしたちのなかを横ぎって
しずかに飛ぶ。成長を念じてわたしがふと外を見る、
するとわたしの内部に樹が伸び育っている。
(高安国世訳)


と書いているのだが、このなかにある、「世界内面空間」といった言葉を、ベン図において長方形全体で示される全体集合の図形と合わせて思い起こしてもらえれば、「魂の領土」や「魂の領域」といった言葉を、すんなりと受け入れてもらえるかもしれない。
 ところで、ベン図は平面上に描かれる図形なのだが、ここで、いま、ベン図の描かれた平面が数え切れないほどあって、その数え切れないほどある平面が積み重なって空間を構成していると想定してもらえれば、より合理的な説明ができると思われる。というのも、さまざまなものとの間に同時に「魂の領域」を共有させるためには、その「世界内面空間」になぞらえた「魂の領土」が多層的なものであり、そうして、重なり合った層は固定されたものではなく、瞬時に移動できるものであって、どれほど遠く離れた層であっても、一瞬のうちに上下に重なり合うことがある、と考えればよく、そう考えると、自分の頭のなかで、唐突に二つの事柄が結びつくことにも容易に説明がつくからである。
「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」といった言葉が、どうしても受け入れられない人には、本稿に書かれてある「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉を、ただ単に「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思うのだが、しかし、そもそも、「魂」といったもの自体の存在を否定する人もいるかもしれない。自分には、魂などはないと考えている人もいるかもしれない。だが、たとえ、そういった人であっても、自分には「自我」というものなどはないと考えるような人はほとんどいないであろう。したがって、本稿のなかで、「魂の領土」とか「魂が共存する領域」とか「魂を共有する領域」とかいった言葉が不適切であると思われる人には、それを「魂」という言葉に置き換えて読んでもらえばよいだろうし、「魂」といった言葉でさえも適当ではないと思われる人には、それを「自我」といった言葉に置き換えて読んでもらえばよいと思う。
 最後に、詩人や作家たちのつぎのような詩句を引用して、本稿を終えることにしよう。


古びてゆく屋根の縁さえ
空の明るみを映して、──
感じるものとなり、国となり、
答えとなり、世界となる。
(リルケ『かつて人間がけさほど……』高安国世訳)


自然の事実はすべて何かの精神的事実の象徴だ。
(エマソン『自然』四、酒本雅之訳)


言葉は現実を表わしているのではない。言葉こそ現実なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


私はうたはない
短かかつた燿かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(伊藤静雄『寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ』)


素材が備わりさえすれば
言葉はこちらが招かずとも
自然に出てくるものなのです。
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


自然界の万象は厳密に連関している
(ゲーテ『花崗岩について』小栗 浩訳)


あらゆるものがあらゆるものとともにある
(ホルヘ・ギリェン『ローマの猫』荒井正道訳)


たがいに与えあい、たがいに受け取りあう。
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


res ipsa loquitur.
物そのものが語る。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


そしてこの語りたいという言語衝動こそが、言葉に霊感がある徴(しるし)、わたしの身内で言葉が働いている徴だとしたら?
(ノヴァーリス『対話・独白』今泉文子訳)


万物は語るが、さあ、お前、人間よ、知っているか
何故万物が語るかを? 心して聞け、それは、風も、沼も、焔も、
樹々も蘆も岩根も、すべては生き、すべては魂に満ちているからだ。
(ユゴー『闇の口の語りしこと』入沢康夫訳)


魂は万物をとおして生き、活動しようとひたむきに努力する。たったひとつの事実になろうとする。あらゆるものが魂の属性にならねばならぬ、──権力も、快楽も、知識も、美もだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


魂と無縁なものは何一つ、ただの一片だって存在しないことが分かっている。
(ホイットマン『草の葉』ポーマノクからの旅立ち・12、酒本雅之訳)




Sat In Your Lap。II


あの原稿を送った後のことだ。ジュネの『葬儀』を読んでいたら、こんなことが書いてあって、驚かされた。


とつぜん私は孤独におそわれる、なぜなら空は青く、樹々は緑で、街路は静まりかえり、そして一匹の犬が、同じように孤独に、私の前を歩いて行くからだ。
(生田耕作訳)


しかし、もっと驚かされたのは、このつづきにある、つぎの箇所である。


 私はゆっくり、しかし力づよい足どりで進んでいく。夜になったみたいだ。私の前に展ける風景、その間をぬって私が君主然と通りぬけていく、看板や、広告や、ショーウィンドウをつけた家々は、この本の作中人物たちと同じ素材でできているのだ、また幼時の名残りがそこにみとめられるように思える、青銅(けつ)の眼(あな)の毛のなかに口と下で没頭しているときに、私が見出す幻影とも、それは同じ素材でできている。
(生田耕作訳)


ここのところと、つぎに引用する、デュラスの『北の愛人』のなかにある、


 少女は男をじっと見つめる、そしてはじめて彼女は発見するのである、──これまでいつも自分とこの男とのあいだには孤独が介在していた、この孤独、中国風の孤独こそが、この自分を捉えていた、その孤独はあの中国人のまわりにひろがる、あのひとの領土のようなものだったのだ、と。そして、また同様に、その孤独こそが、自分たちふたりの身体、ふたりの愛の場であったのだ、と。
(清水 徹訳)


といった言葉を合わせると、孤独というものが、心象や概念を形成する原動力である、というだけではなく、まるで場所のようなものでもあって、そこで心象や概念といったものが形成されるのだとも考えられたからである。

バシュラールの『夢みる権利』の第二部に、


深さの原理とは孤独のこと。われわれの存在の深化の原理とは、自然とのますます深い合体のことなのだ。
(渋沢孝輔訳)


とあるが、孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。


ああ、これがあらゆることのもとだったんだ。
(アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』7、大社淑子訳)


そうして、そういった能力がますます高くなっていくと、しまいには、


認識する主体と客体は一体となる。
(プロティノス『自然、観照、一者について』8、田之頭安彦訳)


といった境地にまで至ることがあるかもしれない。しかし、それは、あくまでも、そういった境地に至ることがあるというものであって、じっさいに、認識する主体と客体が一体化するということではないのである。


 さもなければ、知性が認識の対象を変えることはできないはずで(……)知性が認識の対象を変えるとは、或る可知的形象によって自己が形成されることをやめて別の可知的形象を受けることであり、このようなことができるためには、可知的形象を受ける主体としての知性の実体と、この実体に受け取られる可知的形象とは、別のものでなければならないからである。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第十四問・第二項・訳註、山田 晶訳)


 やはり、このあいだ、わたしが書いたように、「犬が犬であることにうんざりしているように見える」のは、その犬を見ている人が、「その犬に自分の魂の一部分を与える」からであり、その人が、「自分の魂のなかに、自分の魂とその犬の魂とが共有する領域を設ける」からであろう。

ヤリタ・ミサコの


痛い とわかること は つらい こと
(『態』)


という詩句には、思わずうなずかされてしまった。プルーストの『失われたときを求めて』のなかに、


それのような悲しみは事件ののち長く経ってからしか理解されないものなのである、つまりそれを感じるためには、それを「理解する」ことが必要だったのだ、
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


そのような実在は、それがわれわれの思考によって再想像されなければわれわれに存在するものではない
(第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


理知がそれを照らしたときに、理知がそれを知性化したときに、はじめて人は、自分が感じたものの形象を見わけるのだが、それはどんなに苦労を伴うことであろう。
(第七篇・見出された時、井上究一郎訳)


悲しいという感じはするが、それがどのような悲しみなのかわからないときがある。漠然としていることがある。しかし、そこに言葉が与えられてはじめて、それがどういう悲しみか、どう悲しいか、つぶさにわかることがある。


ヴァレリーの『ユーパリノス あるいは建築家』に、



観念は視線を向けられたとたんに感覚となる。
(佐藤昭夫訳)


とある。観念といったものも、いったん感覚といったものを通さなければ、それをほんとうに感じとることができないものなのであり、そうしたのちに、ようやく、魂のなかに、精神のなかに、わたしたちは、了解されうる意味を形成してやることができるのであろう。

 ところで、ヴァレリーの『海辺の墓地』に、


さわやかさが、海から湧きおこり、
私に私の魂を返す……おお、塩の香に満ちた力よ!
(粟津則雄訳)


とあるが、


与えよ、さらば与えられん
(ロレンス『ぼくらは伝達者だ』松田幸雄訳)


というように、「それに自分の魂の一部分を与える」からこそ返されるのであろう、もとのものとは同じものではないが、なにものかに触れて変質した「自分の魂の一部分」が……。


私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。
(『花崗岩について』小栗 浩訳)


と、ゲーテが述べているが、同じような内容の事柄が違う言葉で言い表わされているように思われないだろうか。人間の精神が万物に生命を与えるのと同時に、また、万物の方も人間の精神に生命を与えているのである、と。そういう意味に、ゲーテの言葉を受けとると、わたしが前の論考に書いた、「人間だけではなく、人間以外の事物や、言葉といった実体のない概念のようなものであっても(……)互いに魂のやり取りをして、それぞれの魂のなかに、互いに魂を共有する領域を設けていると考えればよい」といったところも、よりわかってもらえるものとなると思うのだが、いかがなものであろうか。


エミリ・ブロンテの『わが魂はひるむことを知らない』に、


地球や月が消滅し、
太陽や宇宙が無に帰し、
なんじただひとりあとに残るとも、
ありとあらゆる存在は、なんじにありて存続する。
(松村達雄訳)


とあるが、これなども、まさしく、人が、いったん、「自分の魂のなかに、自分の魂とその事物や事象の魂とが共有する領域を設ける」からこそ、いえることだと思われるのである。かつて自分の魂のなかで、共有する領域を設けたことのある事物や事象を、それがあったときと同じ状態で想起させることができれば、たとえ、それがじっさいには、自分の魂のそとで消滅していたとしても、自分の魂のなかでは、それが、ずっと存続しているといえるのではないだろうか。


ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)


無意識に存在する物のみが真の存在を保つ、
(トーマス・マン『ファウスト博士』一四、関 泰祐・関 楠生訳)


永遠の存在とはなにかやっと分かってきそうだ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第八章、青山隆夫訳)


かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するのだ。
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


人間は永遠に生きられる。
(ドナルド・モフィット『創世伝説』下・第二部・12、小野田和子訳)


人間こそがすべてなのだ。
(エマソン『償い』酒本雅之訳)


しかし、それも、孤独、孤独、孤独、みな、そもそものところ、人間というもの自体が、孤独な存在であるからこそ、である。


窮迫と夜は人を鍛える。
(ヘルダーリン『パンと酒』川村二郎訳)


孤独、偉大な内面的孤独。
(リルケ『若い詩人への手紙』高安国世訳)


おそらく、最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァージニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)


    *


 これら、二つの遺稿に共通するものとして、詩人が、他の原稿のなかで「二層ベン図」なるものについて解説していたことが思い出される。
 
その前に、懐かしいものをお目にかけよう。これは、詩人がもっともよく引用していた言葉である。


全きものと全からざるものとはいっしょにつながっている。行くところの同じものも違うものも、調子の合うものも合わないものもひとつづきだ。万物から一が出てくるし、一から万物も出てくる。
(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)


詩人は、ヘラクレイトスのこの言葉を頻繁に繰り返し引用していたが、ノヴァーリスの


可視のものはみな不可視のものと境を接し──聞き取れるものは聞き取れないものと──触知しうるものは触知しえないものと──ぴったり接している。おそらくは思考しうるものは思考しえないものに──。
(『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


といった言葉もまた、何度も引用していた。この引用のなかにある、ノヴァーリスのいう「触知しうるもの」を「顕在意識」、あるいは、単に「意識」や「言葉」といった言葉に、「触知しえないもの」を「潜在意識」あるいは「まだ言葉にならないもの、言葉になる以前のもの」といった言葉に置き換えると、この二つの対応する概念が、他の原稿にある、二層ベン図に照らし合わせてみれば、詩人の考えていた、「思考する」ということが、いったいどういうことなのか、といったことを、窺い知ることができるのではないだろうか。

 ところで、二層ベン図とは、ふつうのベン図の下に、空集合の層があるという図であって、第二の層の空集合が浮き出て、第一の層の実集合になる、というのが詩人の考えであったが、その空集合を、「孤独」という言葉に変換すると、二つ目の原稿のなかでいっていることになるのだろう。ジュネの「同じ素材」というのが、詩人のいうところの「空集合」であろうか。
詩人は、「自我」を、どのような実集合にもなり得る空集合に見立てていた。
 
詩人が残したメモのなかに、『徒然草』からの抜粋があって、冒頭に紹介した一つ目の原稿に、セロテープで貼り付けられていた。それをここで引用することにしよう。二箇所から引かれていた。


 筆を執(と)れば物書(か)かれ、楽器を取(と)れば音(ね)をたてんと思ふ。盃を取れば鮭を思ひ、賽(さい)を取れば攤(だ)打(う)たんことを思ふ。心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。
(第百五十七段)


筆を持つとしぜんに何か書き、楽器を持つと音を出そうと思う。盃を持つと酒を思い、賽(さい)を持つと攤(だ)をうとうと思う。心はかならず何かをきっかけとして生ずる。
(上、現代語訳=三木紀人)


 ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。
また、鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。
虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。
(第二百三十五段)


 主人がいる家には、無関係な人が心まかせに入り込むことはない。主人がいない所には、行きずりの人がむやみに立ち入り、狐(きつね)やふくろうのような物も、人の気配に妨げられないので、わが物顔で入って住み、木の霊などという、奇怪な形の物も出現するものである。
また、鏡には色や形がないので、あらゆる物の影がそこに現われて映るのである。鏡に色や形があれば、物影は映るまい。
虚空は、その中に存分に物を容(い)れることができる。われわれの心にさまざまの思いが気ままに表れて浮かぶのも、心という実体がないからであろうか。心に主人というものがあれば、胸のうちに、これほど多くの思いが入ってくるはずはあるまい。
(上、現代語訳=三木紀人)


 最初のものは、『徒然草』の第百十七段からのもので、それにある「心は必ず事に触(ふ)れて来(きた)る。」という言葉は、詩人が引用していた、ゲーテの「人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出し(……)」といった言葉を思い出させるものであった。あとのものは、『徒然草』の第二百三十五段からのもので、それにある「鏡には色・形(かたち)なきゆゑに、よろづの影(かげ)来(きた)りて映(うつ)る。鏡に色・形あらましかば、映らざらまし。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。我等が心に念々のほしきままに来(きた)り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入(い)り来(きた)らざらまし。」といった言葉は、「多層的に積み重なっている個々の二層ベン図、それぞれにある空集合部分が、じつは、ただ一つの空集合であって、そのことが、さまざまな概念が結びつく要因にもなっている。」という、詩人の考え方を髣髴とさせるものであった。あまり説得力のある考え方であるとはいえないかもしれないが、たしかに、さまざまな概念のもとになっているものが、もとは同じ一つのものであるという考え方には魅力がある。詩人は、この空集合のことを、しばしば、「自我」にたとえていた。また、第二百三十五段にある「ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入(い)り来る事なし。あるじなき所には、道行き人(びと)みだりに立ち入(い)り、狐(きつね)・ふくろふのやうな物も、人げに塞(せ)かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木(こ)霊(だま)などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。」とか「虚(こ)空(くう)よく物を容(い)る。」とかいった言葉は、詩人の「孤独であればあるほど、同化能力が高まるのだろうか。真空度が増せば増すほど、まわりのものを吸いつける力が強くなっていくように。」という言葉を思い起こさせるものであった。

 ただ単に、詩人が書いていたことを追っていただけなのに、こうやって、詩人の原稿やメモを見ながら、言葉をキーボードで打っていると、詩人がどこかに書いていたように、そのうち、自分が言葉を書いているような気がしなくなってきた。しだいに、言葉自体が、ぼくに書かせているような気がしてきた。というよりも、さらに、言葉自体が書いているのではないかとさえ思えてきた──ぼくの目と頭と指を使って。


どちらが原因でどちらが結果なのか、
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年六月十日、浅倉久志訳)


原因と結果の同時生起
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七、菊盛英夫訳)


詩人が遺したノートにある言葉を使ってみたのだが、この「原因と結果の同時生起」という言葉はまた、詩人が別のノートに書き写していた、マルクス・アウレーリウスのつぎの言葉を思い出させた。


つねにヘーラクレイトスの言葉を覚えていること。
(『自省録』第四章・四六、神谷美恵子訳)


 宇宙の中のあらゆるもののつながりと相互関係についてしばしば考えて見るがよい。ある意味であらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、[膨張収縮の]運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。
(『自省録』第四章・三八、神谷美恵子訳)


Cut The Cake。

  田中宏輔



それにしても、『マールボロ。』、


いまだにみんながきみの愛について語ることをしないのは、いったいどうしたことなのだろう。
(リルケ『マルテの手記』高安国世訳)


誰もが持っていることさえ拒むような考えを暴き出すのが詩人の務めだ
(ダン・シモンズ『大いなる恋人』嶋田洋一訳)


しかし、だれが彼を才能のゆえに覚えていることができよう?
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第四部・18、山西英一訳)


世間の普通の人は詩など読まない
(ノサック『ドロテーア』神品義雄訳)


誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)


もちろんそうさ。
(テリー・ビッスン『時間どおりに教会へ』3、中村 融訳)


詩作なんかはすべきでない。
   (ホラティウス『書簡詩』第一巻・七、鈴木一郎訳)


いったいなんのために書くのか?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)


詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)


詩とは認識への焦慮なのです、それが詩の願いです、
(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳)


たしかに
(ジョン・ブラナー『木偶(でく)』吉田誠一訳)


あらゆる出会いが苦しい試練だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック : スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳)


その傷によって
(ヨシフ・ブロツキー『主の迎接祭(スレーチエニエ)』小平 武訳)


違った状態になる
(チャールズ・オルソン『かわせみ』4、出淵 博訳)


何もかも
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』上・1、矢野 徹訳)


おお
(ボードレール『黄昏』三好達治訳)


愛よ
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第九章、青山隆夫訳)


お前は苦痛が何を受け継いだかを知っている。
(ジェフリー・ヒル『受胎告知』2、富士川義之訳)


それ自身の新しい言葉を持たない恋がどこにあるだろう?
(シオドア・スタージョン『めぐりあい』川村哲郎訳)


それにしても、詩人は、なぜ、『マールボロ。』という作品に,固執したのであろうか? あるとき、詩人は、わたしにこう言った。「ぼくの書いた詩なんて、そのうち忘れられても仕方がないと思う。まあ、忘れられるのは、忘れられても仕方がない作品だからだろうしね。だけど、『マールボロ。』だけは、忘れられたくないな。ぼくのほかの作品がみんな忘れられてもね。まあ、でも、『マールボロ。』は、読み手を選ぶ作品だからね。あまりにも省略が激しいし、使われているレトリックも凝りに凝ったものだしね。ちゃんと把握できる読者の数は限られていると思う。」たしかに、省略が激しいという自覚は、詩人にはあったようである。というのも、晩年の詩人が、朗読会で読む詩は、ほぼ、『マールボロ。』ということになっていたのだが、その朗読の前には、かならず、『マールボロ。』という作品の制作過程と、その作品世界の背景となっている、ゲイたちの求愛の場と性愛行為についておおまかな説明をしていたからである。(あくまでも、一部のゲイたちのそれであるということは、詩人も知っていたし、また、わたしの知る限り、朗読の前のその説明のなかで、一部の、という言葉を省いて、詩人が話をしたことは一度もなかった。)


──と、だしぬけに誰かがぼくの太腿の上に手を置いた。ぼくは跳び上がるほど驚いたが、跳び上がる前にいったい誰の手だろう、ひょっとするとリーラ座の時のように女の人が手を出したのだろうかと思ってちらっと見ると、これがなんともばかでかい手だった。(あれが女性のものなら、映画女優か映画スターで、巨大な肉体を誇りにしている女性のものにちがいなかった)。さらに上のほうへ眼を移すと、その手は毛むくじゃらの太い腕につづいていた。ぼくの太腿に毛むくじゃらの手を置いたのは、ばかでかい体軀の老人だったが、なぜ老人がぼくの太腿に手を置いたのか、その理由は説明するまでもないだろう。(……)ぼくは弟に「席を替ろうか?」と言ってみた。(……)ぼくたちは立ち上がって、スクリーンに近い前のほうに席を替った。そのあたりにもやはりおとなしい巨人たちが坐っていた。振り返って老人の顔を見ることなど恐ろしくてできなかったが、とにかくその老人がとてつもなく巨大な体軀をしていたことだけはいまだに忘れることができない。あの男はおそらく、年が若くて繊細なホモの男や中年のおとなしい男を探し求めてあの映画館に通っていたのだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


カブレラ=インファンテの「ウィタ・セクスアリス」(木村榮一)である、『亡き王子のためのハバーナ』からの引用である。詩人は、集英社の「ラテンアメリカの文学」のシリーズから数多くメモを取っていたが、これもその一つである。ゲイがゲイと出会う場所の一つに、映画館がある。それは、ポルノ映画を上映しているポルノ映画館であったり、他の映画館が上映を打ち切ったあとに上映する再上映専門の、入場料の安い名画座であったりするのだが、『亡き王子のためのハバーナ』の主人公が目にしたように、行為そのものは、座席に並んで坐ったままなされることもあり、最後列の座席のさらにその後ろの立見席のあたりでなされることもあるのだが、いったん、映画館の外に出て、男同士でも入れるラブホテルに行ったりすることもあるし、これは、先に手を出した方の、つまり、誘った方の男の部屋であることが多いのだが、自分の部屋に相手を連れ込んだり、相手の部屋に自分が行ったり、というように、どちらかの部屋に行くこともある。また、つぎの引用のように、映画館のトイレのなかでなされることもある。


中年の男がもうひとりの男のほうにかがみ込んで、『種蒔く人』というミレーの絵に描かれている人物のように敬虔(けいけん)な態度で手をせっせと上下に動かしているのに気がついた。もうひとりのほうはその男よりもずっと小柄だったので、一瞬小人かなと思ったが、よく見ると背が低いのではなくてまだほんの子供だった。当時ぼくは十七歳くらいだったと思う。あの年頃は、自分と同じ年格好でない者を見ると、ああ、まだ子供だなとか、もうおじいさんだとあっさり決めつけてしまうが、そういう意味ではなく、まさしくそこにいたのは十二歳になるかならないかの子供だった。男にマスをかいてもらいながら、その男の子は快楽にひたっていたが、その行為を通してふたりはそれぞれに快感を味わっていたのだ。男は自分でマスをかいていなかったし、もちろんあの男にそれをしてもらってもいなかった。その男にマスをかいてもらっている男の子の顔には恍惚(こうこつ)とした表情が浮かんでいた。前かがみになり懸命になってマスをかいてやっていたので男の顔は見えなかったが、あの男こそ匿名の性犯罪者、盲目の刈り取り人、正真正銘の <切り裂きジャック> だった。その時はじめてラーラ座がどういう映画館なのか分った。あそこは潜水夫、つまり性的な不安を感じているぼくくらいの年齢のものがホモの中でもいちばん危険だと考えていた手合いの集まるところだったのだ。男色家の男たちがもっぱら年若い少年ばかりを狙って出入りするところ、それがあそこだった──もっとも、あの時はぼくの眼の前にいた男色家が女役をつとめ、受身に廻った少年たちのほうが男役をしていたのだが。いずれにしても、ラーラ座はまぎれもなく男色家の専門の小屋だった──倒錯的な性行為を目のあたりにして、傍観者のぼくはそう考えた。それでもぼくは、いい映画が安く見られるのでラーラ座に通い続けた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』いつわりの恋、木村榮一訳)


俗に発展場と呼ばれている、ゲイが他のゲイと出会うために足を運ぶ場所は、ポルノ映画館や名画座といった映画館ばかりではない。サウナや公園という場所がそうなっている所もあるし、デパートや駅のトイレといった場所がそうなっているところもある。もちろん、その場で性行為に及ぶことも少なくないのだが、さきに述べたように、どちらかの部屋に行き、ことに及ぶといったこともあるのである。しかし、じつに、さまざまな場所で、さまざまな時間に、さまざまな男たちが絡み合い睦み合っているのである。つぎに引用するのは、駅のプラットフォームの脇にある公衆便所での出来事を、ある一人の警察官が自分の娘に見るようにうながすところである。(それにしても、これは、微妙に、奇妙な、シチュエーション、である。)


「見てごらん」
「なにを?」
「見たらわかるさ!」
あんたは、最初笑っていたが、すぐに消毒剤と小便の、むかっとするような臭いに攻め立てられ、ほんのちょっとだけ穴から覗いて見た。するとそこに歳とった男の手があり、なにやらつぶやいている声が聞こえ、そこから父親の手があんたの腕をつかんでいるのがわかり、もう一度眼を穴に近づけると、ズボンや歳とった男の手を握っている少年の手が、公衆便所の中に見え、あんたはむすっとしてその場を離れたが、ガースンは寂しげに笑っていた。
「あの薄汚いじじいをとっ捕まえるのはこれで三度目だ。がきの方は二度とやってこないけど、じじいのやつはいくらいい聞かせてもわからない」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


あのオルガン奏者(新聞記者のなんとも嘆かわしい、低俗な筆にかかるとあの音楽家も一介のオルガン弾きに変えられてしまうが、それはともかく、以下の話は当時の新聞をもとに書き直したものである)と知り合ったのは恋人たちの公園で、そのときは音楽家のほうから声をかけてきて、生活費を出すから自分の家(つまり部屋のことだが)に来ないか、なんなら小遣いを上げてもいいんだよと誘ったらしい
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


これは、公園での出来事を語っているところである。


男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビア・リゴールは口癖のように言っていた。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)


詩人はよく、この言葉を引用して、わたしにこう言っていた。「一人残らずってことはないだろうけど、半分くらいの男は、そうなるんじゃないかな。」と。そのようなことは考えたこともなかったので、詩人からはじめて聞かされたときには、ほんとうに驚いた。「もしも、何々だったら?」というのは、詩人の口癖のようなものだったのだが、もっともよく口にしていたのは、言葉を逆にする、というものであった。そういえば、詩人の取っていたメモのなかに、こういうものがあった。


ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとII』21、田中 勇・銀林 浩訳)


言葉を逆にするという、ごく単純な操作で、言葉というものが、それまでその言葉が有していなかった意味概念を獲得することがあるということを、生前に、詩人は、論考として発表したことがあったが、言葉の組み合わせが、言葉にとっていかに重要なものであるのかは、古代から散々言われてきたことである。詩人の引用によるコラージュという手法も、その延長線上にあるものと見なしてよいであろう。詩人が言っていたことだが、出来のよいコラージュにおいては、そのコラージュによって、言葉は、その言葉が以前には持っていなかった新しい意味概念を獲得するのであり、それと同時に、作り手である詩人と、読み手である読者もまた、そのコラージュによって、自分のこころのなかに新しい感情や思考を喚起するのである、と。そのコラージュを目にする前には、一度として存在もしなかった感情や思考を、である。


みるものが変われば心も変わる。
(シェイクスピア『トライラスとクレシダ』V・〓、玉泉八州男訳)


そして、こころが変われば、見るものも変わるのだ、と。


つぎに、詩人が書き留めておいたメモを引用する。そのメモ書きは、そのつぎに引用する言葉の下に書き加えられたものであった。そして、その引用の言葉の横には、赤いペンで、「マールボロについて」という言葉が書きそえられていた。


誰にも永遠を手にする権利はない。だが、ぼくたちの行為の一つ一つが永遠を求める
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)


というのは、瞬間というものしか存在してはいないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンノ浜辺』25、菅野昭正訳)


きみが生きている限り、きみはまさに瞬間だ、
(H・G・ウェルズ『解放された世界』第三章・3、浜野 輝訳)


一切は過ぎ去る。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)


愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


こころのなかで起こること、こころのなかで起こるのは、一瞬一瞬である。思いは持続しない。しかし、その一瞬一瞬のそれぞれが、永遠を求めるのだ。その一瞬一瞬が、永遠を求め、その一瞬一瞬が、永遠となるのである。割れガラスの破片のきらめきの一つ一つが、光沢のあるタイルに反射する輝きの一つ一つが、水溜りや川面に反射する光の一つ一つが太陽を求め、それら一つ一つの光のきらめきが、一つ一つの輝く光が、太陽となるように。



心のなかに起っているものをめったに知ることはできないものではあるが、
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第三部・10、山西英一訳)


隠れているもので、知られてこないものはない。
(『マタイによる福音書』一〇・二六)


そのような実在は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない
(プルースト『失われた時を求めて』第四篇・ソドムとゴモラI、井上究一郎訳)


いや、むしろ、こう言おう、はっきりと物の形が見えるのは、こころのなかでだけだ、と。あるいは、こころが見るときにこそ、はじめて、ものの形がくっきりと現われるのだ、と。


一体どのようにして、だれがわたしたちを目覚ますことができるというのか。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)


だれがぼくらを目覚ませたのか、
(ギュンター・グラス『ブリキの音楽』高本研一訳)


ことば、ことば、ことば。
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)


言葉と精神とのあいだの内奥の合一の感をわれわれに与えるのが、詩人の仕事なのであり
(ヴァレリー『詩と抽象的思考』佐藤正彰訳)


これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳)


実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に書かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)


家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
(詩篇』一一八・二二─二三)


「比喩」metaphora は、ギリシア語の「別の所に移す」を意味する動詞metaphereinに由来する。そこから、或る語をその本来の意味から移して、それと何らかの類似性を有する別の意味を表すように用いられた語をメタフォラという。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第I門・第九項・訳註、山田 晶訳)


新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


言葉が、新たな切子面を見せる、と言ってもよい。


きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだ
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)


言葉はもはや彼をつなぎとめてはいないのだ。
(ブルース・スターリング『スキズマトリックス』第三部、小川 隆訳)


言葉はそれが表示している対象物以上に現実的な存在なのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


何もかもがとてもなじみ深く見えながら、しかもとても見慣れないものに思えるのだ。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』上・第三部・11、大西 憲訳)


すべてのものを新たにする。
(『ヨハネの黙示録』二一・五)


すべてが新しくなったのである。
(『コリント人への第二の手紙』五・一七)


結びつくことと変質すること。この二つのことは、じつは一つのことなのだが、これが言葉における新生の必要条件なのである。しかし、それは、あくまでも必要条件であり、それが、必要条件であるとともに十分条件でもある、といえないところが、文学の深さでもあり、広さの証左でもある。もちろん、引用といった手法も、その必要条件を満たしており、それが同時に十分条件をも満たしている場合には、言葉は、わたしたちに、言葉のより多様な切子面を見せてくれることになるのである。


自分自身のものではない記憶と感情 (……) から成る、めまいのするような渦巻き
(エドモンド・ハミルトン『太陽の炎』中村 融訳)


突然の認識
(テリー・ビッスン『英国航行中』中村 融訳)


それはほんの一瞬だった。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』3、友枝康子訳)


ばらばらな声が、ひとつにまとまり
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


すべての場所が一つになる
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)


すべてがひとときに起ること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


それこそが永遠
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


一たびなされたことは永遠に消え去ることはない。
(エミリ・ブロンテ『ゴールダインの牢獄の洞窟にあってA・G・Aに寄せる』松村達雄訳)


過去はただ単にたちまち消えてゆくわけではないどころか、いつまでもその場に残っているものだ。
(プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方・II・第二章、鈴木道彦訳)


いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)


一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)


瞬間は永遠に繰り返す。
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)


それにしても、『マールボロ。』、


人間にとって、美とは何だろう。美にとって、人間とは何だろう。人間にとって、瞬間とは何だろう。瞬間にとって、人間とは何だろう。たとえ、「意義ある瞬間はそうたくさんはなかった」(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・2、川副智子訳)としても。人間にとって、存在とは何だろう。存在にとって、人間とは何だろう。美と喜びを別のものと考えてもよいのなら、美も、喜びも、瞬間も、存在も、ただ一つの光になろうとする、違った光である、とでもいうのだろうか。人間という、ただ一つの光になろうとする、違った光たち。


それにしても、『マールボロ。』、


なぜ、彼らは、出会ったのか。出会ってしまったのであろうか。彼らにとっても、ただ一つの違った光であっただけの、あの日、あの時間、あの場所で。それに、なぜ、彼らの光が、わたしの光を引き寄せたのであろうか。それとも、わたしの光が、彼らの光を引き寄せたのだろうか。いや、違う。ただ単に、違った光が違った光を呼んだだけなのだ。ただ一つの同じ光になろうとして。もとは一つの光であった、違った光たちが、ただ一つの同じ光になろうとして。なぜなら、そのとき、彼らは、わたしがそこに存在するために、そこにいたのだし、そのラブホテルは、そのときわたしが入るために、そこに存在していたのだし、そのシャワーの湯は、そのときわたしが浴びるために、わたしに向けられたのだし、その青年の入れ墨は、そのときわたしが目にするために、前もって彫られていたのだし、その缶コーラは、そのときわたしの目をとらえるために、そのガラスのテーブルの上に置かれたのだから。というのも、彼らが出会ったポルノ映画館の、彼らが呼吸していた空気でさえわたしであり、彼らが見ることもなく目にしていたスクリーンに映っていた映像の切れ端の一片一片もわたしであったのであり、彼らの目が偶然とらえた、手洗い場の鏡の端に写っていた大便をするところのドアの隙間もわたしであり、彼らがその映画館を出てラブホテルに入って行くときに、彼らを照らしていた街灯のきらめきもわたしであったのだし、彼らが浴びたシャワーの湯もわたしであり、その湯しぶきの一粒一粒のきらめきもわたしであったのだし、わたしは、その青年の入れ墨の模様でもあり、缶コーラの側面のラベルのデザインでもあり、その缶コーラの側面から伝って流れ落ちるひとすじの冷たい露の流れでもあったのだから。やがて、一つ一つ別々だった時間が一つの時間となり、一つ一つ別々だった場所が一つの場所となり、一つ一つ別々だった出来事が一つの出来事となり、あらゆる時間とあらゆる場所とあらゆる出来事が一つになって、そのポルノ映画館は、シャワーの湯となって滴り落ちて、タカヒロと飛び込んだ琵琶湖になり、缶コーラのラベルの輝きは、青年の入れ墨とラブホテルに入り、ヤスヒロの手首にできた革ベルトの痕をくぐって、エイジの背中に薔薇という文字を書いていったわたしの指先と絡みつき、シャワーの滴り落ちる音は、ラブホテルに入る前に彼らが見上げた星々の光となって、スクリーンの上から降りてくる。そして、ノブユキの握り返してきた手のぬくもりが満面の笑みをたたえて、わたしというガラスでできたテーブルを抱擁するのである。さまざまなものがさまざまなものになり、さまざまなものを見つめ、さまざまなものに抱擁されるのである。それは、あらゆるものと、別のあらゆるものとの間に愛があるからであり、やがて、愛は愛を呼び、愛は愛に満ちあふれて、「スラックスの前から勃起したものがのぞいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)愛そのものとなって、交歓し合うのである。もちろん、「トイレットのなか。ジーンズの前をあけ、ちんぽこを持って」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)その愛は、すぐれた言葉の再生によってもたらせられたものであり、「彼は自分のものをしごいている。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)やがて、文章中のあらゆる言葉が、つぎつぎとその場所を交換していく。場所も、時間も、事物も、「くわえるんだ、くわえるんだよう! う、う──」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)感情も、感覚も、状態も、名詞や、動詞や、副詞や、形容詞や、助詞や、助動詞や、接続詞や、間投詞も、「激しく腰をつきあげる。」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?』伊藤典夫訳)場所を交換し合い、時間を交換し合って一つになるのである。そんなヴィジョンが、わたしには見える。わたしには感じとれる。現実に、ありとあらゆる事物が、その場所を、その時間を、その出来事を交換していくように。


やれやれ、何ぢやいこの気違ひは!
(ヴィリエ・ド・リラダン『ハルリドンヒル博士の英雄的行為』齋藤磯雄訳)


やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)


でも、
(ポール・アンダースン『生贄(いけにえ)の王』吉田誠一訳)


詩のために身を滅ぼしてしまうなんて名誉だよ。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第四章、西村孝次訳)



そんなことは少しも新しいことじゃないよ
(スタニスワフ・レム『砂漠の惑星』6、飯田規和訳)


人生をむだにややこしくして
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』34、安原和見訳)


ばかばかしい。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』13、宇佐川晶子訳)


Ommadawn。

  田中宏輔



論理的には全世界が自分の名前になるということが理解できるか?
(イアン・ワトスン『乳のごとききみの血潮』野村芳夫訳)


ほかにいかなるしるしありや?
(コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない』朝倉久志訳)


これがどういうことかわかるかね?
(ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録三一七四年』第III部・25、吉田誠一訳)


どんな霊感が働いたのかね?
(フリッツ・ライバー『空飛ぶパン始末記』島岡潤平訳)


われはすべてなり
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第二部・8、福島正実訳)


そうだな、
(ポール・ブロイス『破局のシンメトリー』12、小隅 黎訳)


確かに一つの論理ではある
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』17、安田 均訳)


しかし、これは一種の妄想じゃないのだろうか。
(ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』第二段階、星 新一訳)


現実には、そんなことは起きないのだ。
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)


いや、必ずしもそうじゃない。
(エリック・F・ラッセル『根気仕事』峰岸 久訳)


それは信号(シグナル)の問題なのだ。
(フレデリック・ポール『ゲイトウェイ』22、矢野 徹訳)


それもつかのま、
(J・G・バラード『燃える世界』4、中村保男訳)


ひとときに起こること。
(グレン・ヴェイジー『選択』夏来健次訳)


まあ、それも一つの考え方だ
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)


よくわかる。
(カール・エドワード・ワグナー『エリート』4、鎌田三平訳)


どちらであろうとも。
(フィリップ・K・ディック『ユービック』10、浅倉久志訳)


だが、それよりもまず、
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』5、浅倉久志訳)


めいめい自分の夜を堪えねばならぬのである。
(ブライアン・W・オールディス「銀河は砂粒のように」4、中桐雅夫訳)


それは確かだ
(ラリー・ニーヴン『快楽による死』冬川 亘訳)


しかし
(ロッド・サーリング『免除条項』矢野浩三郎・村松 潔訳)


それを知ったのはほんの二、三年前だし、
(ハル・クレメント『窒素固定世界』7、小隅 黎訳)


それが
(イアン・ワトスン『エンベディング』第一章、山形浩生訳)


どんなものであるにせよ、
(レイ・ブラッドベリ『駆けまわる夏の足音』大西尹明訳)


そのときには、たいしたことには思えなかった。
(マーク・スティーグラー『やさしき誘惑』中村 融訳)
 

あるとき、詩人は、ふと思いついて、詩人の友人のひとりに、その友人が十八才から二十五才まで過ごした東京での思い出を、その七年間の日々を振り返って思い出されるさまざまな出来事を、箇条書きにして、ルーズリーフの上に書き出していくようにと言ったという。すると、そのとき、その友人も、面白がってつぎつぎと書き出していったらしい。二、三十分くらいの間、ずっと集中して書いていたという。しかし、「これ以上は、もう書けない。」と言って、その友人が顔を上げると、詩人は、ルーズリーフに書き綴られたその友人の文章を覗き込んで、そのときの気持ちを別の言葉で言い表すとどうなるかとか、そのとき目にしたもので特に印象に残ったものは何かとか、より詳しく、より具体的に書き込むようにと指図したという。そのあと、詩人からあれこれと訊ねられたときをのぞいては、その友人の手に握られたペンが動くことは、ほとんどなかったらしい。約一時間ぐらいかけて書き上げられた三十行ほどの短い文章を、詩人は、その友人の目の前で、ハサミを使って切り刻み、切り刻んでいった紙切れを、短く切ったセロテープで、つぎつぎと繋げていったという。書かれた文章のなかで、セロテープで繋げられたものは、ほんのわずかなもので、もとの文章の五分の一も採り上げられなかったらしい。そうして出来上がったものが、『マールボロ。』というタイトルの詩になったという。その詩のなかには、詩人が、直接、書きつけた言葉は一つもなかった。すべての言葉が、詩人の友人によって書きつけられた言葉であった。それゆえ、詩人は、詩人の友人に、共作者として、その友人の名前を書き連ねてもいいかと訊ねたらしい。すると、詩人の友人は、躊躇うことなく、即座に、こう答えたという。「これは、オレとは違う。」と。ペンネームを用いることさえ拒絶されたらしい。「これは、オレとは違うから。」と言って。詩人は、その言葉に、とても驚かされたという。そこに書かれたすべての言葉が、その友人の言葉であったのに、なぜ、「オレとは違う。」などと言うのか、と。詩人の行為が、その友人の気持ちをいかに深く傷つけたのか、そのようなことにはまったく気がつかずに……。その上、おまけに、詩人は、自分ひとりの名前でその詩を発表するのが、ただ、自分の流儀に反する、といっただけの理由で、怒りまで覚えたのだという。すでに、詩人は、引用のみによる詩を、それまでに何作か発表していたのだが、それらの作品のなかでは、引用された言葉の後に、その言葉の出典が必ず記載されていたのである。しかも、それらの出典は、引用という行為自体が意味を持っている、と見られるように、引用された言葉と同じ大きさのフォントで記載されていたのである。『マールボロ。』に書きつけられた言葉が、すべて引用であるのに、そのことを明らかに示すことができないということが、おそらくは、たぶん、詩人の気を苛立たせたのであろう。それにしても、『マールボロ。』という詩が、詩人の作品のなかで、もっとも詩人のものらしい詩であるのは、皮肉なことであろうか? ふとした思いつきでつくられたという、『マールボロ。』ではあるが、詩人自身も、その作品を、自分の作品のなかで、もっとも愛していたという。詩人にとって、『マールボロ。』は、特別な存在であったのであろう。晩年には、詩というと、『マールボロ。』についてしか語らなかったほどである。詩人はまた、このようなことも言っていた。『マールボロ。』をつくったときには、後々、その作品がつくられた経緯が、言葉がいかなるものであるかを自分自身に考えさせてくれる重要なきっかけになるとは、まったく思いもしなかったのだ、と。
詩人は、友人の言葉を切り刻んで、それを繋げていったときに、どういったことが、自分のこころのなかで起こっていたのか、また、そのあと、自分のこころがどういった状態になったのか、後日、つぎのように分析していた。

わたしのなかで、さまざまなものたちが目を覚ます。知っているものもいれば、知らないものもいる。知らないもののなかには、その言葉によって、はじめて目を覚ましたものもいる。それらのものたちと、目と目が合う。瞳に目を凝らす。それも一瞬の間だ。順々に。すると、知っていると思っていたものたちの瞳のなかに、よく知らなかったわたしの姿が映っている。知らないと思っていたものたちの瞳のなかに、よく知っているわたしの姿が映っている。ひと瞬きすると、わたしは、わたし、ではなくなり、わたしたち、となる。しかし、そのわたしたちも、また、すぐに、ひとりのわたしになる。ひとりのわたしになっているような気がする。それまでのわたしとは違うわたしに。

詩人の文章を読んでいると、まるで対句のように、対比される形で言葉が並べられているところに、よく出くわした。詩人の生前に訊ねる機会がなかったので、そのことに詩人自身が気がついていたのかどうか、それは筆者にはわからないのだが、しかし、そういった部分が、もしかすると、そういった部分だけではないのかもしれないが、たとえば、結論を出すのに性急で、思考に短絡的なところがあるとか、しかし、とりわけ、そういった部分が、詩人の文章に対して、浅薄なものであるという印象を読み手に与えていたことは、だれの目にも明らかなことであった。右の文章など、そのよい例であろう。
ところで、詩人はまた、その友人の言葉を結びつけている間に、その言葉がまるで


あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)


と思わせるほどに、生き生きとしたものに感じられたのだという。


だがそれは同じものになるのだろうか?
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


それは?
(エドマンド・クーパー『アンドロイド』5、小笠原豊樹訳)


またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネット・ハザード』上・5、関口幸男訳)


兎が三羽、用心深くぴょんと出てきた。
(トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』一冊目・六月十六日、野口幸夫訳)


きみはわれわれがどうも間違った兎を追いかけているような気はしないかね?
(J・G・バラード『マイナス 1』伊藤 哲訳)


もちろんちがうさ。
(ゼナ・ヘンダースン『月のシャドウ』宇佐川晶子訳)


そんなことはありえない。
(フランク・ハーバート『ドサディ実験星』12、岡部宏之訳)


ここにはもう一匹もウサギはいない
(ジョン・コリア『少女』村上哲夫訳)


いいかい?
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


そもそも
(ウィリアム・ブラウニング・スペンサー『真夜中をダウンロード』内田昌之訳)


現実とはなにかね?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第三部・19、冬川 亘訳)


なにを彼が見つめていたか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)


このできごとのどこまでが現実にあったことだ?
(グレッグ・ベア『女王天使』下・第二部・54、酒井昭伸訳)


もちろん、詩人がつくった世界は、といっても、これは作品世界のことであるが、しかも、詩人がそこで表現し得ていると思い込んでいるものと、読者がそこに見出すであろうものとはけっして同じものではないのだが、詩人の友人が現実の世界で体験したこととは、あるいは、詩人の友人が自分の記憶を手繰り寄せて、自分が体験したことを思い起こしたと思い込んでいるものとは、決定的に異なるものであるが、そのようなことはまた、詩人のつくった世界が現実にあったことを、どれぐらいきちんと反映しているのか、といったこととともに、詩というものとは、まったく関係のないことであろう。求められているのは、現実感であり、現実そのものではないのである。少なくとも、物理化学的な面での、現象としての現実ではないであろう。もちろん、言うまでもなく、詩は精神の産物であり、詩を味わうのも精神であり、しかも、その精神は、現実の世界がつくりだしたものでもある。しかしながら、物理化学的な面での、現象としての現実の世界だけが精神をつくっているわけではないのである。じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わうもの、そういった類のものからだけで、現実の世界ができているわけではないのである。見えていると思っているものや、聞こえていると思っているもの、触れていると思っているものや、味わっていると思っているものも、もちろんのことであるが、現実の世界は、見えもしないものや、聞こえもしないもの、触れることができないものや、味わうことができないもの、そういったものによってさえ、またできているのである。もしも、世界というものが、じっさいに見えるものや、じっさいに聞こえるもの、じっさいに触れるものや、じっさいに味わえるもの、そういった類のものからだけでできているとしたら、いかに貧しいものであるだろうか? じっさいのところ、世界は豊かである。そう思わせるものを、世界は持っている。


魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現われることがない、
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)


詩人が、『マールボロ。』から得た最大の収穫は、何であったのだろうか? 右に引用した文の横に、詩人は、こんなメモを書きつけていた。「「物質」を「言葉」とすると、こういった結論が導かれる。詩を読んで、言葉を通して、はじめて、自分の気持ちがわかることがある、ということ。言葉は、わたしたちについて、わたしたち自身が知らないことも知っていることがある、ということ。」と。


言葉とは何か?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』4、山田和子訳)


言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?
(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)


作品は作者を変える。
自分から作品を引き出す活動のひとつびとつに、作者は或る変質を受ける。完成すると、作品は今一度作者に逆に作用を及ぼす。
(ヴァレリー『文学』佐藤正彰訳)


これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)


詩人のそばでは、詩がいたるところで湧き出てくる。
(ノヴァーリス『青い花』第一部・第七章、青山隆夫訳)


今まで忘れていたことが思い出され、頭の中で次から次へと鎖の輪のようにつながっていく。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)


わたしの世界の何十という断片が結びつきはじめる。
(グレッグ・イーガン『貸金庫』山岸 真訳)


あらゆるものがくっきりと、鮮明に見えるのだ。
(ポール・アンダースン『脳波』2、林 克己訳)


過去に見たときよりも、はっきりと
(シオドア・スタージョン『人間以上』第二章、矢野 徹訳)


なんという強い光!
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳)


さまざまな世界を同時に存在させることができる。
(イアン・ワトスン『知識のミルク』大森 望訳)


これは叫びだった。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)


急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)


そのひと言でぼくの精神状態はもちろん、あたりの風景までが一変した。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦死(アマゾネス)、木村榮一訳)


こういった考察を、『マールボロ。』は、詩人にさせたのだが、『マールボロ。』をつくったときの友人とは別の友人に、あるとき、詩人は、つぎのように言われたという。「言葉に囚われているのは、結局のところ、自分に囚われているにひとしい。」と。そう言われて、ようやく、詩人は、『マールボロ。』をつくったときに、自分の友人を傷つけたことに、その友人のこころを傷つけたことに気がついたのだという。
詩人の遺したメモ書きに、つぎに引用するような言葉がある。『マールボロ。』をつくる前のメモ書きである。


順序を入れかえたり、語をとりかえたりできるので、たえず内容を変える
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)


新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。
(エマソン『詩人』酒本雅之訳)


詩人の作品が、詩人の友人の思い出に等しいものであるはずがないことに、なぜ、詩人自身が、すぐに気がつかなかったのか、それは、さだかではないが、たしかに、詩人は思い込みの激しい性格であった。右に引用したような事柄が、頭ではわかっていたのだが、じっさいに実感することが、すぐにはできなかったらしい。それが実感できたのは、先に述べたように、別の友人に気づかされてのこと、『マールボロ。』をつくった後、しばらくしてからのことであったという。


しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。
だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)


これは、『マールボロ。』制作以降に、詩人が書きつけていたメモ書きにあったものである。たしかに、同じ事柄でも、同じ言葉でも、順序を並べ替えて表現すると、ただそれだけでも、まったく異なる内容のものにすることができるのであろう。詩人が引用していた、この文章は、ほんとうに、こころに染み入る、すぐれた表現だと思われる。
ところで、悲劇にあるエピソードを並べ替えて、喜劇にすることもできるということは、そしてまた、喜劇にあるエピソードを並べ替えて、悲劇にすることもできるということは、わたしに、人生について、いや、人生観について考えさせるところが大いにあった。ある事物や事象を目の前にしたときに、即断することが、いかに愚かしいことであるのか、そういったことを、わたしに思わしめたのである。一方、詩人は、つねにといってもよいほど、ほとんど独断し、即断する、じつに思い込みの激しい性格であった。


ただひとつの感情が彼を支配していた。
(マルロー『征服者』第I部、渡辺一民訳)


感情が絶頂に達するとき、人は無意識状態に近くなる。……なにを意識しなくなるのだ? それはもちろん自分以外のすべてをだ。自分自身をではない。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』20、鈴木 晶訳)


今ではわたしも、他人のこころを犠牲にして得たこころの願望がいかなるものか、
(ゼナ・ヘンダースン『なんでも箱』深町眞理子訳)


それを知っている
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)


私という病気にかかっていることがようやくわかった。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友人へ』8、佐宗鈴夫訳)


私というのは、空虚な場所、
(ジンメル『日々の断想』66、清水幾太郎訳)


世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳)


これらの言葉から、詩人の考えていたことが、詩人の晩年における境地というようなものが、詩人の第二詩集である『The Wasteless Land.』の注釈において展開された、詩人自身の自我論に繋がるものであることが、よくわかる。
先にも書いたように、詩人は、つねづね、『マールボロ。』のことを、「自分の作品のなかで、もっとも好きな詩である。」と言っていたが、「それと同時に、またもっとも重要な詩である。」とも言っていた。その言葉を裏付けるかのように、『マールボロ。』については、じつにおびただしい数の引用や文章が、詩人によって書き残されている。以下のものは、これまで筆者が引用してきたものと同様に、詩人が、『マールボロ。』について、生前に書き留めておいたものを、筆者が適宜抜粋したものである。(すべてというわけではない。一行だけ、例外がある。筆者が補った一文である。読めばすぐにわかるだろうが、あえて――線を引いて示しておいた。)


なぜ人間には心があり、物事を考えるのだろう?
(イアン・ワトスン『スロー・バード』佐藤高子訳)


心は心的表象像なしには、決して思惟しない。
(アリストテレス『こころとは』第三巻・第七章、桑子敏雄訳)


言葉や概念といったものが自我を引き寄せて思考を形成するのだろうか? それとも、思考を形成する「型」や「傾向」といったようなものが自我にはあって、それが、言葉や概念といったものを引き寄せて思考を形成するのだろうか? おそらくは、その双方が、相互に働きかけて、思考を形成しているのであろう。


一つ一つのものは自分の意味を持っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 
 

その時々、それぞれの場所はその意味を保っている。
(リルケ『フィレンツェだより』森 有正訳) 


思考が形成される過程については、まだ十分に考察しきっていないところがあると思われるのだが、少なくとも、「習慣的な」思考とみなされるようなものは、そこで用いられている「言葉」というよりも、むしろ、その思考をもたらせる「型」や「傾向」といったようなものによって、主につくられているような気がするのであるが、どうであろうか? というのも、


人間というものは、いつも同じ方法で考える。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)


というように、思考には、「型」や「傾向」とかいったようなものがあると思われるからである。そしてまた、そういったものは、その概念を受容する頻度や、その概念をはじめて受け入れたときのショックの強度によって、ほぼ決定されるのであろうと、わたしには思われるのである。
ところで、幼児の気分が変わりやすいのは、なぜであろうか。おそらく、思考の「型」や「傾向」といったようなものが、まだ形成されていないためであろう。あるいは、形成されてはいても、まだ十分に形成されきっていないのであろう、それが十分に機能するまでには至っていないように思われる。幼児は、そのとき耳にした言葉や、そのとき目にしたものに、振り回されることが多い。「型」や「傾向」といったようなものがつくられるためには、繰り返される必要がある。繰り返されると、それが「型」や「傾向」といったようなものになる。ときには、ただ一回の強烈な印象によって、「型」や「傾向」といったようなものがつくられることもあるであろう。しかし、そのことと、繰り返されることによって「型」や「傾向」といったようなものがつくられることとは、じつは、よく似ている。同じページを何度も何度も開いていると、ごく自然に、本には開き癖といったようなものがつくのだが、ぎゅっと一回、強く押してページを開いてやっても、そのページに開き癖がつくように。それに、強烈な印象は、その印象を受けたあとも、しばらくは持続するであろうし、それはまた、繰り返し思い出されることにもなるであろう。
しかし、ヴァレリーの


個性は思い出と習慣によって作られる
(ヴァレリー全集カイエ篇6『自我と個性』滝田文彦訳)


といった言葉を読み返して思い起こされるのだが、たしかに、わたしには、しばしば、「個性的な」といった形容で言い表される人間の言っていることやしていることが、ただ単に反射的に反応してしゃべったり行動したりしていることのように思われることがあるのである。つねに、とは言わないまでも、きわめてしばしば、である。


霊はすべておのれの家を作る。だがやがて家が霊を閉じこめるようになる。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


したがって、「習慣的な」思考を、「習慣的でない」思考と同様に、「思考」として考えてもよいものかどうか、それには疑問が残るのである。「習慣的な」思考というものが、単なる想起のようなものにしか過ぎず、「習慣的でない」思考といったものだけが、「思考」というものに相当するものなのかもしれないからである。また、ときには、ある「思考」が、「習慣的な」ものであるのか、それとも、「習慣的でない」ものであるのか、明確に区別することができない場合もあるであろう。それにまた、「思考」には、「習慣的な」ものと「習慣的でない」ものとに分類されないものも、あるかもしれないのである。しかし、いまはまだ、そこまで考えることはしないでおこう。「習慣的な」思考と「習慣的でない」思考の、このふたつのものに限って考えてみよう。単純に言ってみれば、「型」や「傾向」により依存していると思われるのが、「習慣的な」思考の方であり、「言葉」自体により依存していると思われるのが、「習慣的でない」思考の方であろうか? これもまた、「より依存している」という言葉が示すように、程度の問題であって、絶対にどちらか一方だけである、ということではないし、また、そもそものところ、思考が、「言葉」といったものや、「型」や「傾向」といったものからだけで形成されるものでないことは、


われわれのあらゆる認識は感覚にはじまる。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


というように、感覚器官が受容する刺激が認識に与える影響についてだけ考えてみても明らかなことであろうが、
思考は言語からのみ形成されるのではない。しかし、あえて、論を進めるために、ここでは、思考を形成するものを、「言葉」とか、あるいは、「型」や「傾向」とかいったものに限って、考えることにした。いずれにしても、それらのものはまた、


創造者であるとともに被創造物でもある。
(ブライアン・W・オールディス『讃美歌百番』浅倉久志訳)


――詩人はよく、こう言っていた。詩人にできるのは、ただ言葉を並べ替えることだけだ、と。


人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並び替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)



並べ替える? それとも、並び替えさせるのか? 並べ替える? それとも、並び替えさせるのか?  


『マールボロ。』


断片はそれぞれに、そうしたものの性質に従って形を求めた。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』36、黒丸 尚訳)



並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか? 並び替えさせる? それとも、並べ替えるのか?


『マールボロ。』


ただ言葉を選んで、並べただけなのだが、『マールボロ。』という詩によって、はじめてもたらされたものがある。そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩が出来上がってはじめて、その出来上がった詩を目にしてはじめて、わたしのこころのなかに生まれた感情がある。それは、それまでのわたしが、わたしのこころのなかにあると感じたことのない、まったく新しい感情であった。まるで、その詩のなかにある言葉の一つ一つが、わたしにとって、激しく噴き上げてくる間歇泉の水しぶきのような感じがしたのである。じっさい、紙面から光を弾き飛ばしながら、言葉が水しぶきのように迸り出てくるのが感じられたのである。また、そのうちの一つのものに、『マールボロ。』という詩の形をとることによって、言葉たちがはじめて獲得した意味がある。それは、その詩が出来上がるまでは、その言葉たちがけっして持ってはいなかったものであり、それは、その言葉にとって、まったく新しい意味であった。
これを、人間であるわたしの方から見ると、言葉たちを、ただ選び出して、並べ替えただけのように見える。事実、ただそれだけのことである。これを、言葉の方から見ると、どうであろうか? 言葉の方の身になって、考えられるであろうか? 『マールボロ。』の場合、言葉はもとの場所から移され、並び替えさせられた上に、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わったのである。時間的なことを考慮して言うなら、人間が入れ替わるのと同時に、言葉も並び替えさせられたのである。人間であるわたしの方から見る場合と異なる点は、それらの言葉を前にする人間の方も入れ替わっていたということであるが、それでは、はたして、それらの言葉の前で、人間の方が入れ替わっていたという、このことが、他の言葉とともに並び替えさせられたことに比べて、いったいどれぐらいの割合で、それらの言葉の意味の拡張や変化といったものに寄与したのであろうか? しかし、そもそものところ、そのようなことを言ってやることなどできるのであろうか? できやしないであろう。というのも、そういった比較をするためには、人間が入れ替わらずに、それらの言葉が、『マールボロ。』という詩のなかで配置されているように配置される可能性を考えなければならないのであるが、そのようなことが起こる可能性は、ほとんどないと思われるからである。まあ、いずれにしても、見かけの上では、言葉の並べ替えという、ただそれだけのことで、わたしも、その言葉たちも、それまでのわたしや、それまでのその言葉たちとは、違ったものになっていた、というわけである。


ぼくらがぼくらを知らぬ多くの事物によって作られているということが、ぼくにはたとえようもなく恐ろしいのです。ぼくらが自分を知らないのはそのためです。
(ヴァレリー『テスト氏』ある友人からの手紙、村松 剛・菅野昭正・清水 徹訳)



といったことを、ヴァレリーが書いているのだが、『マールボロ。』という詩をつくる「経験」を通して、「ぼくらを知らぬ多くの事物」が、いかにして、「ぼくら」を知っていくか、また、「自分を知らない」「ぼくら」が、いかにして、「自分」を知っていくか、その経緯のすべてとはいわないが、その一端は窺い知ることができたものと、わたしには思われるのである。


『マールボロ。』


言葉は、つぎつぎと人間の思いを記憶していく。ただし、言葉の側からすれば、個々の人間のことなどはどうでもよい。新たな意味を獲得することにこそ意義がある。言葉の普遍性と永遠性。言葉自身が知っていることを、言葉に教えても仕方がない。言葉の普遍性と永遠性。わたしたちが言葉を獲得する? 言葉が獲得するのだ、わたしたちを。言葉の普遍性と永遠性。もはや、わたし自身が言葉そのものとなって考えるしかあるまい。


『マールボロ。』


デニス・ダンヴァーズが『天界を翔ける夢』や、その姉妹篇の『エンド・オブ・デイズ』のなかに書いているように、あるいは、グレッグ・イーガンが『順列都市』のなかで描いているように、将来において、たとえ、人間の精神や人格を、その人間の記憶に基づいてコンピューターにダウンロードすることができるとしても、そういったものは、元のその人間の精神や人格とはけっして同じものにはならないであろう。なぜなら、人間は、偶然が決定的な立場で控えている時間というもののなかに生きているものであり、その偶然というものは、どちらかといえば、量的な体験ではなく、質的な体験においてもたらされるものだからである。驚くことがいかに人生において重要なものであるか、それを機械が体験し、実感することができるようになるとは、とうてい、わたしには思えないのである。せいぜい、思考の「型」とか「傾向」とかいったようなものをつくれるぐらいのものであろう。それに、たとえ、思考の「型」や「傾向」とかいったようなものを、ソフトウェア化することができるとしても、それらから導き出せるような思考は、単なる「習慣的な」思考であって、そのようなものでは、『マールボロ。』のようなものをつくり出すことはおろか、『マールボロ。』のようなものをつくり出すきっかけすら思いつくことができるようなものにはならないであろう。


『マールボロ。』


紙片そのものではなく、それを貼り合わせる指というか、糊というか、じっさいはセロテープで貼り付けたのだが、短く切り取ったセロテープを紙片にくっつけるときの息を詰めた呼吸というか、そのようなものでつくっていったような気がする。そのことは以前にも書いたことがあるのだが、それは、ほとんど無意識的な行為であったように思われる。基本的には、これが、わたしの詩の作り方である。     


『マールボロ。』


たしかに、「言葉」には、互いに引き合ったり反発しあったりする、磁力のようなものがある。そう、わたしには思われる。そして、それらのものを、思考の「型」や「傾向」といったものの現われともとることはできるのだが、そうではない、「言葉」そのものにはない、「型」や「傾向」といったものもあるように、わたしには思われるのである。とはいっても、言葉が、その言葉としての意味を持って、個人の前に現われる前に、その個人の思考の「型」や「傾向」といったようなものが存在したとも思われないのだが、……、しかし、ここまで考えてきて、ふと思った。「言葉」の方が磁石のようなもので、「型」や「傾向」といったものの方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、「型」や「傾向」といったものの方が磁石のようなもので、「言葉」の方が磁石をこすりつけられて磁力を持つようになった鉄の針のようなものなのか、と。ふうむ、……。


『マールボロ。』


作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)


きみはそれを知っている人間のひとりかね?
(ノーマン・メーラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)


そのとおりであることを祈るよ。
(アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』第一部・4、福島正実訳)


こんどはそれをこれまで学んできた理論体系に照らし合わせて検証しなければならん
(スティーヴン・バクスター『天の筏』5、古沢嘉道訳)


実際にやってみよう
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)


煉瓦はひとりでは建物とはならない。
(E・T・ベル『数学をつくった人びとI』6、田中 勇・銀林 浩訳)


具体的な形はわれわれがつくりだすのだ
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳)


形と意味を与えられた苦しみ。
(サミュエル・R・ディレイニー『コロナ』酒井昭伸訳)


きみはこれになるか?
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』2、岡部宏之訳)



つぎに掲げてあるのは、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の冒頭部分である。囲み線の部分を、他の作家の作品の言葉と置き換えてみた。まず、はじめに、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分の言葉を使って、囲み線のところを置き換えた。囲み線は、わたしが施したもの。以下同様。


 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子(はしご)に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧(むし)ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一(いち)行(ぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない。」
 彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……


 吾輩(わがはい)は或猫の名前だつた。ニャーニャーの吾輩は人間にかけた書生の人間に登り、新らしい種族を探してゐた。書生、我々、話、考、彼、掌(てのひら)、……
 そのうちにスーは迫り出した。しかしフワフワは熱心に掌の書生を読みつづけた。そこに並んでゐるのは顔といふよりも寧(むし)ろ人間それ自身だつた。毛、顔、つるつる、薬缶(やかん)、猫、顔、……
 穴はぷうぷうと戦ひながら、煙(けむり)のこれを数へて行つた。が、人間はおのづからもの憂い煙草(たばこ)の中に沈みはじめた。書生はとうとう掌も尽き、裏(うち)の心持を下りようとした。すると書生のない自分が一つ、丁度眼の胸の上に突然ぽかりと音をともした。眼は火の上に佇(たたず)んだまま、書生の間に動いてゐる兄弟や母親を見(み)下(おろ)した。姿は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「眼は容(よう)子(す)ののそのそにも若(し)かない。」
 吾輩は暫(しばら)く藁(わら)の上からかう云ふ笹原を見渡してゐた。……


ここで、比較のために、もとの『吾輩は猫である』の冒頭部分を掲げておく。


 吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後(ご)猫にもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙(けむり)を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草(たばこ)というものである事はようやくこの頃知った。
 この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に眼が廻る。胸が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじん)の母親さえ姿を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容(よう)子(す)がおかしいと、のそのそ這(は)い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁(わら)の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


つぎに、堀 辰雄の『風立ちぬ』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


夏は或日々の薄(すすき)だつた。草原のお前は絵にかけた私の白樺に登り、新らしい木蔭を探してゐた。夕方、お前、仕事、私、私達、肩、……
 そのうちに手は迫り出した。しかし茜(あかね)色(いろ)は熱心に入道雲の塊りを読みつづけた。そこに並んでゐるのは地平線といふよりも寧(むし)ろ地平線それ自身だつた。 日、午後、秋、日、私達、お前、……
 絵は画架と戦ひながら、白樺の木蔭を数へて行つた。が、果物はおのづからもの憂い砂の中に沈みはじめた。雲はとうとう空も尽き、風の私達を下りようとした。すると頭のない木の葉が一つ、丁度藍色(あいいろ)の草むらの上に突然ぽかりと物音をともした。私達は私達の上に佇(たたず)んだまま、絵の間に動いてゐる画架や音を見(み)下(おろ)した。お前は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「私は一瞬の私にも若(し)かない。」
 お前は暫(しばら)く私の上からかう云ふ風を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『風立ちぬ』の冒頭部分を掲げておく。


 それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜(あかね)色(いろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
風立ちぬ、いざ生きめやも。


つぎに、小林多喜二の『蟹工船』の冒頭部分の言葉を使って、置き換えてみた。


 地獄は或二人のデッキだつた。手すりの蝸牛(かたつむり)は海にかけた街の漁夫に登り、新らしい指元を探してゐた。煙草(たばこ)、唾(つば)、巻煙草、船腹(サイド)、彼、身体(からだ)、……
 そのうちに太鼓腹は迫り出した。しかし汽船は熱心に積荷の海を読みつづけた。そこに並んでゐるのは片(かた)袖(そで)といふよりも寧(むし)ろ片側それ自身だつた。煙突、鈴、ヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)、船、船、……
 ランチは油煙と戦ひながら、パン屑(くず)の果物を数へて行つた。が、織物はおのづからもの憂い波の中に沈みはじめた。風はとうとう煙も尽き、波の石炭を下りようとした。すると匂いのないウインチが一つ、丁度ガラガラの音の上に突然ぽかりと波をともした。蟹工船博光丸はペンキの上に佇(たたず)んだまま、帆船の間に動いてゐるへさき(ヽヽヽ)や牛を見(み)下(おろ)した。鼻穴は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「錨(いかり)は鎖の甲板にも若(し)かない。」
 マドロス・パイプは暫(しばら)く外人の上からかう云ふ機械人形を見渡してゐた。……


ここで比較のために、もとの『蟹工船』の冒頭部分を掲げておく。


「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函(はこ)館(だて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を唾(つば)と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹(サイド)をすれずれに落ちて行った。彼は身体(からだ)一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾(はば)広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片(かた)袖(そで)をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南(ナン)京(キン)虫(むし)のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑(くず)や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接(じか)に響いてきた。
 この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥(は)げた帆船が、へさき(ヽヽヽ)の牛の鼻穴のようなところから、錨(いかり)の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


ここでまた、比較のために、『或阿呆の一生』の言葉を、前掲の三つの文章のなかにある言葉と置き換えてみた。


それは或本屋である。二階はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見(けん)当(とう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で二十歳泣いていた事だけは記憶している。彼はここで始めて書棚というものを見た。しかもあとで聞くとそれは西洋風という梯子(はしご)中で一番獰(どう)悪(あく)な本であったそうだ。このモオパスサンというのは時々ボオドレエルを捕(つかま)えて煮(に)て食うというストリントベリイである。しかしその当時は何というイブセンもなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただシヨウのトルストイに載せられて日の暮と持ち上げられた時何だか彼した感じがあったばかりである。本の上で少し落ちついて背文字の本を見たのがいわゆる世紀末というものの見(み)始(はじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一ニイチエをもって装飾されべきはずのヴエルレエンがゴンクウル兄弟してまるでダスタエフスキイだ。その後(ご)ハウプトマンにもだいぶ逢(あ)ったがこんな片(かた)輪(わ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならずフロオベエルの真中があまりに突起している。そうしてその彼の中から時々薄暗がりと彼等を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。名前が本の飲む影というものである事はようやくこの頃知った。
 この彼の根気の西洋風でしばらくはよい梯子に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。傘が動くのか電燈だけが動くのか分らないが無(む)暗(やみ)に彼が廻る。頭が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと火がして彼から梯子が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると本はいない。たくさんおった店員が一(いち)疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじん)の客さえ彼等を隠してしまった。その上(うえ)今(いま)までの所とは違って無(む)暗(やみ)に明るい。人生を明いていられぬくらいだ。はてな何でも一(いち)行(ぎやう)がおかしいと、ボオドレエル這(は)い出して見ると非常に痛い。彼は梯子の上から急に彼等の中へ棄てられたのである。


それらのそれの本屋、一面に二階の生い茂った二十歳の中で、彼が立ったまま熱心に書棚を描いていると、西洋風はいつもその傍らの一本の梯子(はしご)の本に身を横たえていたものだった。そうしてモオパスサンになって、ボオドレエルがストリントベリイをすませてイブセンのそばに来ると、それからしばらくシヨウはトルストイに日の暮をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ彼を帯びた本のむくむくした背文字に覆われている本の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその世紀末から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 そんなニイチエの或るヴエルレエン、(それはもうゴンクウル兄弟近いダスタエフスキイだった)ハウプトマンはフロオベエルの描きかけの彼を薄暗がりに立てかけたまま、その彼等の名前に寝そべって本を齧(か)じっていた。影のような彼が根気をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく西洋風が立った。梯子の傘の上では、電燈の間からちらっと覗いている彼が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、頭の中に何かがばったりと倒れる火を彼は耳にした。それは梯子がそこに置きっぱなしにしてあった本が、店員と共に、倒れた客らしかった。すぐ立ち上って行こうとする彼等を、人生は、いまの一(いち)行(ぎやう)の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、ボオドレエルのそばから離さないでいた。彼は梯子のするがままにさせていた。

彼等立ちぬ、いざ生きめやも。


「おいそれさ行(え)ぐんだで!」
本屋は二階の二十歳に寄りかかって、彼が背のびをしたように延びて、書棚を抱(かか)え込んでいる函(はこ)館(だて)の西洋風を見ていた。――梯子(はしご)は本まで吸いつくしたモオパスサンをボオドレエルと一緒に捨てた。ストリントベリイはおどけたように、色々にひっくりかえって、高いイブセンをすれずれに落ちて行った。シヨウはトルストイ一杯酒臭かった。
赤い日の暮を巾(はば)広く浮かばしている彼や、本最中らしく背文字の中から本をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り世紀末に傾いているのや、黄色い、太いニイチエ、大きなヴエルレエンのようなゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイのようにハウプトマンとフロオベエルの間をせわしく縫っている彼、寒々とざわめいている薄暗がりや彼等や腐った名前の浮いている何か特別な本のような影……。彼の工合で根気が西洋風とすれずれになびいて、ムッとする梯子の傘を送った。電燈の彼という頭が、時々火を伝って直接(じか)に響いてきた。
この彼のすぐ手前に、梯子の剥(は)げた本が、店員の客の彼等のようなところから、人生の一(いち)行(ぎやう)を下していた、ボオドレエルを、彼をくわえた梯子が二人同じところを何度も彼等のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。


Supper’s Ready。

  田中宏輔

 

掲示板
 イタコです。週に二度、ジムに通って身体を鍛えています。特技は容易に憑依状態になれることです。しかも、一度に三人まで憑依することができます。こんなわたしでよかったら、ぜひ、メールください。また、わたしのイタコの友だちたちといっしょに、合コンをしませんか。人数は、四、五人から十数人まで大丈夫です。こちらは四人ですけれど、十数人くらいまでなら、すぐに憑依して人数を増やせます。合コンの申し込みも、ぜひ、ぜひ、お願いします!
(二十五才・女性会員)


   *


詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・18、大西 憲訳)


優れた比喩は比喩であることをやめ、
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)


真実となる。
(ディラン・トマス『嘆息のなかから』松田幸雄訳)


   *


時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)


おそらく認識や知などはすべて、比較、相似に帰せられるだろう。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


時間こそ、もっともすぐれた比喩である。


   *


さよ ふけて かど ゆく ひと の からかさ に ゆき ふる おと の さびしく も ある か
(會津八一)


飛び石のように置かれた言葉の間を、目が動く。韻律と同様に、目の動きも思考を促す。

余白の白さに撃たれた目が見るものは何だろうか? 言葉によって想起された自分の記憶だろうか。

 八一が「ひらがな」で、しかも、「単語単位」の分かち書きで短歌を書いた理由は、おそらく、右の二つの事柄が主な目的であると思われるのだが、音声だけとると、読みにおける、そのたどたどしさは、啄木の『ローマ字日記』のローマ字部分を読ませられているのと似ているような気がする。では、じっさいに、右の歌をローマ字にしてみると、どうか。

sayo fukete kado yuku hito no karakasa ni yuki furu oto no sabisiku mo aru ka

 やはり、そのたどたどしさに、ほとんど違いは見られない。しかしながら、「ひらがな」のときにはあった映像喚起力が著しく低下している。では、なぜ低下したのだろうか。それは、わたしたちが、幼少時に言葉をならうとき、まず「ひらがな」でならったからではないだろうか。それで、八一の「ひらがな」の言葉が、強い映像喚起力を持ち得たのではなかろうか。この「ひらがな」の言葉が持つ映像喚起力というのは、幼少時の学習体験と密接に結びついているように思われる。八一の歌の、その読みのたどたどしさもまた、その映像喚起力を増させているものと思われる。ときに、わたしたちを、わたしたちが言葉を学習しはじめたときの、そのこころの原初風景にまでさかのぼらせるぐらいに。
 たどたどしいリズムが、わたしたちのこころのなかにある、さまざまな記憶に働きかけ、わたしたちを、わたしたち自身にぶつからせるような気がするのである。つまずいて、はじめて、そこに石があることに、わたしたちが気がつくように。


存在を作り出すリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズム
(アーシュラ・K・ル・グィン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)


  *


不完全であればこそ、他から(ヽヽヽ)の影響を受けることができる──そしてこの他からの影響こそ、生の目的なのだ。
(ノヴァーリス『断章と研究 一七九八年』今泉文子訳)


彼らは、人間ならだれでもやるように、知らぬことについて話しあった。
(アーシュラ・K・ル・グィン『ショービーズ・ストーリイ』小尾芙佐訳)


ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。
(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)


   *


 映画を見たり、本を読んだりしているときに、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じることがある。ときには、その映画や本にこころから共感して、自分の生の実感をより強く感じたりすることがある。自分のじっさいの体験ではないのに、である。これは事実に反している。矛盾している。しかし、この矛盾こそが、意識領域のみならず無意識領域をも含めて、わたしたちの内部にあるさまざまな記憶を刺激し、その感覚や思考を促し、まるで自分がほんとうに体験しているかのように感じさせるほどに想像力を沸き立たせたり、生の実感をより強く感じさせるほどに強烈な感動を与えるものとなっているのであろう。イエス・キリストの言葉が、わたしたちにすさまじい影響力を持っているというのも、イエス・キリストによる復活やいくつもの奇跡が信じ難いことだからこそなのではないだろうか。


 まさに理解不能な世界こそ──その不合理な周縁ばかりでなく、おそらくその中心においても──意志が力を発揮すべき対象であり、成熟に至る力なのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


   *


物がいつ物でなくなるのだろうか?
(R・ゼラズニイ&F・セイバーヘーゲン『コイルズ』10、岡部宏之訳)


人間と結びつくと人間になる。
(川端康成『たんぽぽ』)


物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


書きつけることによって、それが現実のものとなる
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宗鈴夫訳)


言葉ができると、言葉にともなつて、その言葉を形や話にあらはすものが、いろいろ生まれて來る
(川端康成『たんぽぽ』)


おかしいわ。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)


   *


どうしてこんなところに?
(コードウェイナー・スミス『西欧科学はすばらしい』伊藤典夫訳)


新しい石を手に入れる。
(R・A・ラファティ『つぎの岩につづく』浅倉久志訳)


それをならべかえる
(カール・ジャコビ『水槽』中村能三訳)


   *


猿(さる)の檻(おり)はどこの国でも一番人気がある。
(寺田寅彦『あひると猿』)


純粋に人間的なもの以外に滑稽(コミツク)はない
(西脇順三郎『天国の夏』)


simia,quam similis,turpissima bestia,nobis!
最も厭はしき獸なる猿はわれわれにいかに似たるぞ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』キケロの言葉)


コロンビアの大猿は、人間を見ると、すぐさま糞をして、それを手いっぱいに握って人間に投げつけた。これは次のことを証明する。
一、 猿がほんとうに人間に似ていること。
二、 猿が人間を正しく判断していること。
(ヴァレリー『邪念その他』J,佐々木 明訳)


かつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部・3、手塚富雄訳)


   *


 数え切れないほど数多くの人間の経験を通してより豊かになった後でさえ、言葉というものは、さらに数多くの人間の経験を重ねて、その意味をよりいっそう豊かなものにしていこうとするものである。言葉の意味の、よりいっそうの深化と拡がり!


   *


 この世界の在り方の一つ一つが、一人一人の人間に対して、その人間の存在という形で現われている。もしも、世界がただ一つならば、人間は、世界にただ一人しか存在していないはずである。  


   *


 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』ほんの少しの貝、落合恵子訳)


 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)


   *


私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
(立原道造『またある夜』)


 わたしの目は、雲を見ている。いや、見てはいない。わたしの目が見ているのは、動いている雲の様子であって、瞬間、瞬間の雲の形ではない。また、雲の背景にある空を除いた雲の様子でもない。空を背景にした動いている雲の様子である。音楽においても事情は同じである。わたしの耳は、一つ一つの音を別々に聞いているのではない。音が構成していくもの、いわゆるメロディーやリズムといったものを聞いているのである。そのメロディーやリズムにおいて現われる音を聞いているのである。言葉においても同様である。話される言葉にしても、読まれる言葉にしても、使われる言葉が形成していく文脈を把握するのであって、その文脈から切り離して、使われる言葉を、一つ一つ別々に理解していくのではない。形成されていく文脈のなかで、一つ一つの言葉を理解していくのである。というのも、


これは一重に文章の
並びや文の繋がりが
力を持っているからで
(ホラティウス『書簡詩』第二巻・三、鈴木一郎訳)


 窓ガラスに、何かがあたった音がした。昆虫だろうか。大きくはないが、その音のなかに、ぼくの一部があった。そして、その音が、ぼくの一部であることに気がついた。
 ぼくは、ぼく自身が、ぼくが感じうるさまざまな事物や事象そのものであることを、あらかじめそのものであったことを、またこれから遭遇するであろうすべてのものそのものであることを理解した。 


二〇〇六年六月二十四日
 朝、通勤電車(近鉄奈良線・急行電車)に乗っているときのことだ。
 新田辺駅で、特急電車の通過待ちのために、乗っている電車が停車しているという、車掌のアナウンスの最後に、
 「ふう。」という、ため息が聞こえた。
 まわりを見回しても、だれも何事もなかったかのような感じで、居眠りしていたり、本を読んだりしていた。
 驚いてまわりに気づいたひとがいないかどうか見渡しているのは、ぼくひとりだけだった。
 とても不思議な感じがした。
 ぼくは笑ったのだが、その笑い顔はすぐに凍りついた。
 だれも笑わないときに、ひとりで笑っているのは、おかしいと思ったのだろう。
 ぼくは笑えなくなって、顔の筋肉をこわばらせたのであった。


人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、
(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)


人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。
(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)           


ほんのちょっとした細部さえ、
(リチャード・マシスン『人生モンタージュ』吉田誠一訳)


   *


わたしを知らない鳥たちが川の水を曲げている。
わたしのなかに曲がった水が満ちていく。


   *


われわれはなぜ、自分で選んだ相手ではなく、稲妻に撃たれた相手を愛さなければならないのか?
(シオドア・スタージョン『たとえ世界を失っても』大森 望訳)


光はいずこから来るのか。
(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第二幕・第五場、石川重俊訳)


わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ
(与謝野晶子)


The Show Must Go On。

  田中宏輔



「真実なんて、どこにあるんだろう?」と、ぼく。
「きみが求めている真実がないってことかな?」と、詩人。


でかかった言葉が、ぼくを詰まらせた。


文章を書くということは、自分自身を眺めることに等しい。


まあ、実数である有理数と無理数が、ひとつの方程式のなかにあって、それぞれ独立しているという事実には驚かされるが、あるひとつの数、たとえば、1の隣にある数がなにか、それを言ってやることなど、だれにもできやしない、ということも不気味だ。おそらくは永遠に。いや、かくじつ永遠に。しかし、もっと不気味なことがある。これは、という人物に、このようなことに思いをはせたことがないかとたずねても、首をかしげて微笑むだけで、それ以上、話をつづけさせない雰囲気にされたり、そんなことは考えたこともないと言って、ぼくの目をまじまじと見つめ返して、ぼくが目を逸らして黙らざるを得ない気持ちにさせるばかりであった。いやな思いというよりは、やはり不気味な感じがする。数字なんて、だれだって使っているものなのに。


人間はいったい何を確実に知っているといえるだろう?
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳)


中学二年のときのことである。遠足の日に、まっさらな白い運動靴を履いていったのだが、クラスでも一番のお調子者であるやつが、ぼくの靴を踏みつけた。白い靴のコウの部分にくっきりと残った、靴の踏み跡。さらの靴につけられた汚れは、とても目立つし、それに、あとあといつまでも残っている。先に踏みつけられた跡は、あとから踏みつけられた跡よりもはっきりしている。しっかり残るのだ。ホラティウスのつぎのような言葉が思い出される。


出来たての壺は新しい
間に吸ったその香りを
後まで長くとどめます。
(『書簡詩』第一巻・ニ、鈴木一郎訳)


quo semel est imbuta recens,servabit odorem testa diu.
土器は、それが新しきときに一度それが滿たされたるものの香りを、長く保存するならん。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)


多くの言葉が、概念が、また、概念の素になっているもの、すなわち、まだ概念ではないが概念を形成する際に、その要素となっているもの、またさらに、そういったものどもを結びつける作用の源など、そういったものが、犇めき合い、互いに結びつこうとする。それが意識となるのは、ただひと握りのものだけ。では、そのとき、意識とならなかったものたちは、その意識にぜんぜん影響しなかっただろうか? 何らかの痕跡を残さないものなのだろうか?


言葉は同じような意味の言葉によっても、またまったく異なるような意味の言葉によっても吟味される。


私は私のことをずっと「愛するのに激しく憎むのに激しい」性格だと思っていた。しかし、それは間違っていた。「愛するに性急で、憎むのに性急な」だけだった。


当然のことながら、目は、複数のものに同時に焦点をあわせられない。意識もまた、複数のものを、同時に、しかも同じ注意力でもって捉えることはできない。すくなくとも捉えつづけることは、できやしない。


言葉は完全に理解されてはいけない。完全に理解された(と思われる)ものは、その人にとって吟味の対象とは、もはやならないというところで、その言葉は死んだも同然なのである。意味は完全に了解されると死んでしまうものなのである。それゆえ、わたしは、わたしも含めて、あらゆる人間に、わたしを理解しないでもらいたいと、ひそかに思っている。


われわれが時間や空間を所有しているのではなく、時間や空間がわれわれを所有しているのである。


わたしが過去を思い出すとき、わたしが過去を引き寄せるのか、それとも過去がわたしを引き寄せるのか。


詩人は自分をその場所に置いて、自分自身を眺めた。まるで物でも眺めるように。


ぼくたちが認め合うことができるのは、お互いの傷口だけだ。何か普通と異なっているところ、しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの、そんなものにしか、僕たちの目は惹かれない。それぐらい、僕たちは疲弊しているのだ。


われわれの感情の中で、どれが本物か本物でないのか、そんなことは、誰にもわかりはしない。


だれと約束したわけでもなかった。この場所とも、この夜とも。けっして。


そのころ詩人はどうしていたのだろう。あとから聞いた話では、川に流れる水の音と、茂みの木々の間から聞こえるセミの鳴き声を使って、聴覚の指向性について実験をしていたのだという。どちらか一方に集中的に意識を振り向けることによって、耳に聞こえる音を自由に選択できたという。しかし、このことは、つぎのようなことを示唆してはいないだろうか? もしも、意識が感覚に強く作用するのだとしたら、逆に、聴覚や視覚といった感覚が、意識というものに強く影響するのではないか、と。そういえば、詩人は、こんな話をしてくれたことがある。早坂類という詩人と、はじめて詩人が東京駅で会ったときのことだ。彼女の姿が、突然見えなくなったのだという。いままで目の前にいた詩人の姿が、ふっと消えたのだという。しばらくあたりを見回して、彼女の姿を探していると、彼女の手が、詩人の肩をポンとたたいたのだという。「どうしたんですか?」という声に、ハッとしたのだという。詩人は、彼女のことを才能のある書き手だと思っていたのだが、才能ではなくて、感覚的なものが、感受性というものが、あまりに自分に似すぎていることに気がついて、気持ち悪くなったのだという。彼女の姿が見えなくなったのは、気持ちの方の反応が、感覚に強く反応したためであろう。詩人には、ときどき、ひとの声が聞こえないことがある。ぼくが話しかけても、返事が返ってこないことが何度もあった。すぐそばで話しかけたのだけれど。


あるものがすぐれているのが、他のあるものに支えられてのことであるのなら、その支えてくれている他のあるものをなおざりにしてはいけない。


だれのためにもならない愛。本人のためにさえ。


「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」と、普遍的な問題に対して、卑近な例を出して考える癖が、その青年にはある。ところで、なぜ、他の多くの青年は、「人間は」ではなく、「ある人間は」なのか。しかしながら、ときには、その青年も、大きな枠で構えたつもりで、些細なことがらに捕らわれることもある。それが癖によるものかどうかは、まだわからない。しかし、それには、欠点もあるが、利点もある。「なぜ、人間はヒキガエルになるのか?」、「ある人間は」ではなく。答えが違っている。答え方、ではなく。


「そして、ふいに陰茎を右の手で握り締めると、彼はいつはてることもない自慰に耽るのだった。」といった文が、文末にあるよりも、文頭にくるほうがいい。


言葉も、人も、苛まれ、苦しめられて、より豊かになる。まるで折れた骨が太くなるように。


彼女は、その手紙を書いたあと、投函するために外に出た。(これは、あくまでも文末の印象の効果のために、あとで付け加えられたものである。削除してもよい。)ポストのあるところまで、すこし距離があったので、彼女は顔の化粧を整えた。彼女は、その手紙に似ていなかった。彼女は、その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった。その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった。点や丸といったものにも、数字にも、彼女がその手紙に書いたいかなるものにも、彼女は似ていなかった。しかし、似ていないことにかけては、ポストも負けていなかった。ポストは、彼女に似ていなかった。彼女に似ていないばかりではなく、彼女の妹にも似ていなかった。しかも、四日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし、いま彼女に追いつこうとして、スカートも履かずに玄関を走り出てきた、彼女の母親にも、まったく似ていなかった。もしかしたら、スカートを履くのを忘れてなければ、少しは似ていたのかもしれないのだが、それはだれにもわからないことだった。彼女の母親は、けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである。植木鉢は、元来スカートを履かないものだからである。母親の剥き出しの下半身が、ポストのボディに色を添えた。彼女はポストから手を出すと、家に戻るために、外に出た。


ミツバチは、最初に集めた蜜ばかり集めるらしい。異なる花から蜜を集めることはしないという。


ノサックの『ルキウス・エウリヌスの遺書』のなかに、「裏切りに基づく生は生とはいえない。」(圓子修平訳)といった言葉があるが、リルケの『東洋風のきぬぎぬの歌』には、「私たちの魂は裏切りによって生きている。」(高安国世訳)という言葉がある。どちらの言葉も、ぼくには、しっくりとくる、よくわかる言葉だ。ふたりの言葉の間に、なにも矛盾はない。われわれは、「生とはいえない生」を生きているのだ。生かされているといってもよい。


あなたは削除されています。この世界には存在しません。


オセロウはイアーゴウがいなくてもデズデモウナを疑ったのではないか? さまざまな冒険が、その体験が、オセロウをして想像豊かな、極めて想像豊かな人間にしたはずである。「ハンカチの笑劇」。想像はたやすく妄想に変わる。


時間をかけて結晶化させると、不純物を取り込む割合が低くなる。わたしの思考もまた、そうであるように思われる。『みんな、きみのことが好きだった。』の最初の方に収められた「先駆形」シリーズは、これを逆手にとったものである。すばやく結晶化させると、不純物が多く混じるようになる。不純物を混入させると、たやすく結晶化する。しかし、そもそものところ、思考における不純物とは、いったい何であろうか。その不純物の重要な役割についての考察は、一考どころか、二考、三考にも価する。


詩人がほんとうに死んだのか確かめるために、霊魂図書館に行く。


ひとつの石が森となる。石は樹となり、獣となり、風となり、波となり、音となり、光となり、昼となり、夜となり、じつにさまざまなものになり、感情となり、知性となり、エトセトラ、エトセトラ。


自分の遺伝子を組み込んだ食べ物の話。カニバリズムについて述べる。聖書や伝説や寓話や史実。通貨制度の代わりに、遺伝情報を売り買いする社会。自分の遺伝子を組み込んだものがいちばんうまいと述懐する主人公。社会自体も自分自身を食べる社会になっている。人々は自分の遺伝情報を組み込んだ植物を、牛や馬や豚や魚などの動物の肉を食べ物にし、庭に埋めて花や木として観賞し、さまざまな生き物に組み込んでペットにし、エトセトラ、エトセトラ。


言葉が言葉にひきつけられるのは、たとえば、物体が質量によって他の物体に引きつけられたり、電荷によって引きつけられたり、磁力によって引きつけられたりするように、複数の要因があるのではないか? 文脈の公的な履歴と、一個人の私的な履歴。


巣に戻った鳥が、水辺の景色を思い出す。


わたしはもう変化しないのだろうか?


自然死のない社会。人々はさまざまな自殺方法を試みる。そのさまが、他人の目を惹きつける。さまざまなメディアで、珍しい自殺の方法が紹介される。旧約聖書にあるサムソンの例を出す。仏陀やキリストの最期が自殺ではないかと、主人公の青年が考える。キケロなどの偉人たちの自殺や自殺としか見えない殉教者たちの死に様について短く述べる。主人公の青年は、もっとも苦痛の強い死を考える。生きたまま弱い火であぶる。まっさらな紙で切り傷をつけていく。エトセトラ、エトセトラ。たっぷりと時間をかけて。


あらゆることが人を変える。あらゆるものを人が変える。その変化から免れることはできない。その変化を免れさせることはできない。好むにもかかわらず、好まざるにもかかわらず。


田中の「共有する場の理論」について。
……それゆえ、事物を知ることが、あるいは、他者を知ることが、自己を知ることになるのである。この「共有する場の理論」は、ヴァレリーやホフマンスタールが述べている自我についての見解よりも優れたところがあるのではないか。少なくとも、その理論はより単純であり、適用範囲もはなはだ広いものである。それになによりも、破綻と思える箇所がまったく見当たらない。いまのところ、ではあるが。


「答えはいつだって簡単なほどいいものなのだ。」
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)


愛によって形成されたものは、愛がなくなれば、なくなってしまうものだ。
なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。


そう言うと、彼は自分の言葉の後ろに隠れた。隠れたつもりになった。


神さまが遅れてやってきた。神さまは腕時計に目をやると、ぼくにあやまった。ぼくは、神さまに、どうってことないよと言った。神さまはニコリと笑うと、ぼくの腕をとって歩き出した。街の景色が、いつもより目に美しく見えた。まるで映画のようだった。突然、神さまは歩みを止め、ぼくを突き飛ばした。まるで、ぼくの身体を狙って走ってきたような、減速もせずにカーブを曲がろうとした乗用車の前に。


ゼロベクトルの定義。テキストによって、つぎの三つに分かれる。向きは任意。向きは考えない。向きを持たない。大きさがゼロであることでは、どれもみな一致しているのだが、向きについては、テキストそれぞれで、著者によって、ゼロベクトルの捉え方が異なることがわかる。任意とするのが、もっとも妥当であると思われる。


まるで覚悟を決めた人身御供のように、わたしは、その場に身を沈めたのであった。


ああ、またしても、ぼくのパンツの中は、ヒキガエルでいっぱいだ。しかも、「死んだひきがえるだ。」(ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種堅訳)彼はボスコで待っていた。


死んだあと、どうするか。動かさなくてはならない。ひとりひとり別の力で。ひとりひとり別の方法で。人間以外のもろもろのものも、動かさなくてはならない。ひとつひとつ別の力で。ひとつひとつ別の方法で。いっしょにではなく、ひとつひとつ別々に。とりわけ両親の死体が問題である。死んだあとも、動かさなくてはならない。そいつは、何度も死んで、すっかり重くなった死体だが。


そのような愛に、だれが耐えることができようか。ひとかけらの欺瞞もなしに。


「同類の人に会うといつも慰められます」
(エリカ・ジョング『あなた自身の生を救うには』柳瀬尚紀訳)


ぼくは彼を楽しんだ。彼もまた憐れむべき人間だった。


人間はなぜ快楽を求めるのだろう? それ自体が快楽だからだ。この場合、目的と手段が一致している。


言葉を耳にしたり、目にしたりして感じることは、たとえば、焼肉を目のまえにして感じることに近いかもしれない。匂い、見た目、音、記憶との連関、エトセトラ、エトセトラ。言葉の意味がもたらすもの。言葉に意味をもたらせるもの。


丸まって眠っている夢を見た。地中に埋められた死体のように。たくさんの死体が、ぼくの死体と平行に眠っている。ぼくの頭のどこかが、それらの死体と同調しているような気がした。夢ではなかったかもしれない。眠る前に目をつむって考えていたことかもしれない。友だちから電話があった。話をしている間に、友だちもいっしょに土の中にずぶずぶと沈んでいくような気がした。横になって電話をしていたからかもしれない。友達の部屋は5階だから、ぼくよりたくさん沈まなければならなかった。


彼は、わたしを愛していると言った。わたしはうれしかった。どんなにひどい裏切られ方をするかと、思いをめぐらせて。


木の葉が風に吹き寄せられる。風がとまる。木の葉が重なり合っている。風を自我に、木の葉を概念に置き換えてみる。風によって木の葉が吹き寄せられるが、木の葉の形と数によって、風の吹き方も影響されるのではないか。すくなくとも、木の葉をめぐる風、木の葉のすぐそばの風は。風車は風によって動く。風車の運動によって、新たな風が起こる。わたしは、わたしの手のひらの上で、一枚の木の葉が、葉軸を独楽の芯のようにしてクルクル回っているのを見つめている。そのうち、こころの目の見るものが変わる。一枚の木の葉の上で、わたしの手のひらが、クルクルと回っている。


彼のぬくもりが、まだそのベンチの上に残っているかもしれない。
彼がそこに坐っていたのは、もう何年も前のことだけれど。


すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは、だれだったろうか? たしかに、音楽には、他の芸術が持たない、純粋性や透明性といったものがある。しかし、ただひとつ、わたしが音楽について不満なのは、音楽は反省的ではないということだ。じっさい、どんなにすばらしい音楽でも、ぜんぜん反省的ではない。他の芸術には、わたしたちに、わたしたちの内面を見るように仕向ける作用がある。しかし、それにしても、音楽というものは、それがどんなにすぐれたものであっても、ちっとも反省させてくれないものである。


見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と、オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく、見事な牛。


あなたがこの世界から削除されていることを知るのは、いったい、どういう気分がしますか?


考える対象ではなく、考え方に問題がある。愛する対象ではなく、愛し方そのものに問題があるのだ。


文字を読むと、そのとき魂のなかで何かが形成されるということ。
文字にもなく、魂のなかにもなかったものが。ん?
ほんとうに?


埃や塵を核として水蒸気が凝集して水滴となるように、つまらないことどもが、つぎつぎと話の中心となって口をついて出てくる。「まるで唾となって吐き出されるって感じですけど。」とは、青年の返答。


薬によって頻繁に精神融合したために、青年は自分が詩人が考えるように考えているのではないかと思う。詩人が言っていた概念形成の話を思い出す。薬の効果について考える。薬の記憶に対する効果について考える。副作用について考える。副作用については、個人差が激しく、いったいどんな副作用があるのか、予測することができなかった。青年は、自分が変わってしまったことに気づく。


詩人が、青年のことを、もうひとりのわたしと呼んでいたことを述懐する。


「生のわれ甕は作り直せるが、燒いたのはだめ。」
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)


青年は、詩人と出会って、自分が大きく変わったことに思いをはせ、これからは、これからの自分は、変わる可能性が少ないかもしれない、と思った。そう考えることは、青年を不安にしたが、自分が変わる可能性が低いと思うとなぜ不安になるのかは、青年にはよくわからなかった。


愛だけが示すことのできる何か。作用し変形をもたらすことのできるもの、エトセトラ、エトセトラ。


あれは確かに死んでしまった。
(シェイクスピア『あらし』第二幕・第一場、福田恒存訳)


あるものを愛するとき、それが人であっても、物であってもいいのだが、いったい、わたしのなにが、どの部分が、それを愛するというのだろうか?


どんな言葉が、どのようなものをもたらすか、そんなことは、だれにもわからない。


すぐに働く力もあるが、そうでない力もある。そうでない力の中には、ある限界を超えると、とたんに働きはじめるものもある。ロゴスという言葉を「形成力」という意味に解すると、このように時間がたってから、後から働く力について、多分に有益な考察ができるような気がする。


風が埃を巻き上げながら、わたしの足元に吹き寄せる。埃は汗を吸って、わたしの腕や足にべったりとまとわりつく。手でぬぐうと、油じみた黒いしみとなる。まるで黒いインクでなでつけたみたいだ。言葉も埃のように、わたしに吹き寄せてくる。言葉は、わたしの自我を吸って、わたしの精神にぴったりと貼りつく。わたしはそれを指先でこねくり回す。油じみた黒いしみ。


彼は、ぼくのことを、なにかつまらない物でも捨てるかのように捨てた。捨てても惜しくないおもちゃか何かのように。でも、ぼくはおもちゃじゃなかった。それとも、おもちゃだったんだろうか?


詩人がなぜ過去の偉大な、詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのかいぶかしむ人がいるが、そんなことは当たり前で、卑小な人間に学べることは卑小な人間について学べることだけだからである。偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているからである。


裏切りによってのみ、彼は彼自身となる。それが彼の本性だったからだ。人間を人間たらしめるもの、その人をその人たらしめるもの、いわゆる、特質とか特性とかいわれるものであるが、そういったものは、いったい何によって明らかにされるのだろうか?


ふと思いつくこと。忘れていたことが突然思い出されること。赤ん坊が六ヶ月を過ぎたころに言葉を口にすること。これらはすべて、概念が結びつくことが意識の原初であり、意識が概念を結びつける以前に、結びついた概念が意識を形成することを示唆している。ヴァレリーが自我というものを、意識のコアとしてではなく、概念のバインダーとして捉えていたが、まさしく、語そのものに結びつこうとする性向があると考えた方が妥当であると思われる。ロゴスという言葉を、言葉という意味ではなく、形成力という意味に使っていたギリシア人たちの直観力には驚かされる。語は、それ自体、意味を持つものではあるが、同時にまた他の語に意味をもたらせるものでもある。双方向的に影響し合っているのである。鷲田清一の『ひとはなぜ服を着るか』に、「本質的に顔は関係のなかにあるのであって、けっしてそれだけで自足している存在ではない」とあるが、「顔」を「語」あるいは、「人間」として読み替えることができる。


ミツバチが持ち帰る蜜。ミツバチが作る蜜蝋でできた蜂の巣。自我と概念。自我と言葉。


どのような記憶も変化してしまうものだが、この記憶だけは、この記憶こそは、あまたある記憶のなかで、唯一絶対に変わらないでいて欲しいと彼が願った、ただひとつの記憶だった。


遠いところにあるものが、ある場所では、たいへん近くにある。ひとつのものが、同時にたくさんの場所に存在しており、たくさんの場所が、同時にただひとつのものを占有している。


現実によって翻弄される人間。撓め歪められた人間存在。フィリップ・K・ディック。さまざまなレヴェルの現実が、彼を苦しめた。だが、彼も現実に一矢を報いたかもしれない。彼が現実を撓め歪めたとも考えられるからである。カフカ。彼もまた、現実に手を加えた人物である。現実を創り出していく者たち。


愛が、それらの事物や事象に、存在することを許している。愛によって、それらの事物や事象は存在している。つまり、愛が、それらの事物や事象に、存在を付与しているのである。


予知とか予感とかいったものは、ただ単に、さまざまな事柄が繋がり合っているのを感じ取るだけである。時間の隔たりや距離のあるなしには、関係などないからである。意識が現在という時間に、いまそこにいるという場所に縛り付けられてはいないからである。潜在意識も同様である。時間的な隔たりも、空間的な距たりも、概念が結びつく際には、無関係なのである。意味概念の隔たりを類似性と取ることもできるが、そうすると、余計に、概念が結びつく際には、隔たりなど関係ないことがわかる。類似していたって、類似していなくったって、結びつくのだから。類似していてもしていなくても結びつくというのは、プラトンの言葉にあったような気がするけど、まあ、ここで、プラトンの言葉をあえてぼくの言葉に結びつけなくってもいいだろう。


光は闇と交わりを持たない。光は光とのみ交わりを持つ。


われわれが言語を解放することは、言語がわれわれを解放することに等しい。


言語が結びつくことが意識となる。幼児の気分が変わりやすいのは、結びつく言語がそのまま思考となることの証左ではないだろうか? 癖になるには、それが癖になるまで繰り返される必要がある。人には思考傾向とでも呼べるものがあるが、それはそう思考するに至るまで何度も頻繁にそう思考したためではないだろうか? 概念の受容頻度とでもいうものが、思考傾向に大きく関与していると思われる。概念の受容頻度。


彼の内部から暗闇が染み出してきた。彼はすっかり夜となって現われた。


愛とは動詞である。


彼は自分がやめたくなったらやめるのだ。たとえどんなに熱心に激しくしていた愛撫でも。


死に意味があるとしたら、それは生に意味があるときだけだ。


死によって、その生に意味が与えられることもある。


目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手に触れることのできるもの、こころに感じられるもの、頭で考えられるもの、そういったものだけで世界ができているとしたら、それはとても貧しいものなのではないか? もしもそうなら、世界はいまあるものとまったく異なるもの、貧しいものとなるに違いない。じっさいは豊かである。思考できる対象しか存在しているわけではないということ、言葉にできないものがあるということ。そういったものがあるということが、わたしたちの思考を豊かにしているのではないだろうか? 思考できるもの、言葉にできるものだけしか、私たちの魂のなかには存在していないとしたら、とても貧しい思考しか存在しないはずである。しかし、わたしたちは知っている。いくらでも豊かな思考が存在していることを。


こんなに醜い、こんなに愚かな行為から、こんなに惨めな気持ちから、わたしは、愛がどんなに尊いものであるか、どれほど得がたいものであるのかを知るのであった。なぜ、わたしは、もっとも遠いものから、もっとも離れたところからしか近づくことができないのだろうか?


Sweet Thing。

  田中宏輔


 いつか、詩人は、わたしに、森 鴎外の『舞姫』のパスティーシュを書きたいと言っていた。


 愛がわたしを知るとき、わたしははじめて、愛が何たるものかを、知ることになるのであろう。言葉の指し示すものが、わたしを知るとき、わたしははじめて、その言葉の指し示すもののほんとうの意味を知ることになるのであろう。あるいは、わたしが愛でいっぱいになるとき、わたしは愛そのものになるともいえるし、愛がわたしでいっぱいになるとき、愛がわたしそのものになるといってもよいであろう。わたしが言葉の指し示すものでいっぱいになれば、その言葉の指し示すものそのものになったり、その言葉の指し示すものがわたしでいっぱいになれば、わたしそのものになったりするように。


ひとつの場がひとつの時間に
(R・A・ラファティ『草の日々、藁の日々』2、浅倉久志訳)


われわれにとって自分の感じていることのみが存在しているので
(プルースト『一九一五年末ごろのプルーストによる小説続篇の解明』、鈴木道彦訳)


匂い同士は知りあいではない。
(ヴァレリー『残肴集(アナレクタ)』一〇〇、寺田 透訳)


認識は存在そのものとはなんの関係もないのだ。
(ロレンス『エドガー・アラン・ポオ』羽矢謙一訳)


わたしは、わたしの新しい顔を見た。
(シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年五月二十六日、関 義訳)


私は私自身を集めねばならんのだ
(フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』14、汀 一弘訳)


自分を取り戻す。
(ロバート・シルヴァーバーグ『旅』4、岡部宏之訳)


自分で自分の巣を作らねばならぬ。
(エマソン『運命』酒本雅之訳)


変身は偽りではない……
(リルケ『月日が逝くと……』高安国世訳)


 ある感覚が ── 略 ── 刺激を受けたのとは異なる感覚器官の感覚に即座に翻訳される場合、それを共感覚というんです。たとえば──音の刺激が同時にはっきりした色感を引き起こすとか、色が味覚を引き起こすとか、光が聴覚を引き起こすといった具合です。味覚、嗅覚、痛覚、圧覚、温覚、その他もろもろの感覚で混乱や短絡があり得るんです。
(アルフレッド・ベスター『ごきげん目盛り』中村 融訳)


複合感覚は人間には非常によく見られるものなんだそうです──一般に考えられているよりも、ずっと多いんですって。たとえば、音を匂いとして感じる人とか、色で味を感じる人とか
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)


 共感覚とか、複合感覚とかと呼ばれるものがある。言葉は、つねにそういった感覚を誘発させてきたのではないだろうか? 詩人のつくったすべての引用のコラージュがそうだとはいえないのだが、詩人のすぐれた引用のコラージュを読んでいると、ふと、そんなことを感じたのであるが、詩人自身も、自分のコラージュのなかには、すぐれたものもあって、そのすぐれたものの特徴に、共感覚、あるいは、複合感覚からもたらされた諸感覚器官の混交を誘発するところがあると言っていた。事物・時間・空間・状況、状態、そういったものが、つぎつぎと結びつき、変質し、混交していくのである。詩は、詩の言葉は、その結びつきと変質、あるいは混交という二つの運動を開始する、一種のスイッチのようなものであるのかもしれない、と。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


 これは、詩人の詩「反射光」の一部、終わりの方の部分であるが、共感覚、あるいは、複合感覚と呼ばれるものの一例である。しかし、詩人が所有していた自身の詩集のこの詩が書かれてあるページには、ルーズリーフの一枚を半分にして切ったものにメモ書きして、つぎに書き写した文章が挟んであった。


 あの湖面の輝きは、たしかに音を発していた。こころで、はじめピチピチ、プチプチとつぶやいていたら、じっさいにあとになって、まるで湖面の上で光が蒸発しているように見えて、その音がピチピチ、プチプチと聞こえてきたのだが、詩にするとき、へんな常識を働かせて、光だから、チカチカでないとおかしいと思い、詩集では、そう書いたのであるが、正直に、ここに書いたように、ピチピチ、プチプチと書けばよかったと思っている。まあ、しかし、チカチカというきらめきも、じっさい目にしたのだから、正しくなくもないのだけれど、それは、光が蒸発していく音よりも、光自体のきらめきに重点を置いたということになるので、推敲の結果ともいえるのだが、それにしても悔やまれる。なぜ、常識を働かせてしまったのだろう、と。将来、発表し直すことがあれば、ぜひ第一番目に書き直しておきたいところである。


「反射光」は、じっさいに、四回、詩人の詩集に収録されたのであるが、どれもが完全なものではなかったようだ。たとえば、第一詩集である『Pastiche』(花神社・一九九三年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと弾け飛んでいた。まるでストロボライトの煌めきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


『みんな、きみのことが好きだった。』(開扇堂・二〇〇一年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。
 
 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと弾け飛んでいた。まるでストロボライトの煌めきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 
 湖面で蒸発する光の中に。


『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド・二〇一四年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。チカチカと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・二〇一六年)では、


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでスポットライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。

湖面で蒸発する光の中に


となっている。再度、書き込むが、ここは、詩人のメモにあるように、詩人は、つぎのように書き直したいと思っていたのだろう。


 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくはきみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは目を瞬かせた。振り向くと、湖面に銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみを抱いて飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光の中に。


 ところで、詩人には、ほかにもやり遺したことがいっぱいあったようだ。まだまだ発掘していくことになるメモや遺稿の山々から、いったいどのような鉱石が採掘されるのか、たいへん楽しみである。これからも、言葉の切子面のように、詩人の『マールボロ。』という作品をいろいろな角度から眺めて、その魅力について語っていくつもりである。


 しかして、そうして、けっきょく、詩人の願いは果たされなかったのだった。最終決定版の「反射光」が収録されるはずの五冊目の詩集が出なかったのである。さいごに、その最終決定版の「反射光」をつぎに書き留めておこう。




反射光


 幾つものブイが並び浮かんだ沖合、幾つものカラフルなパラソルが立ち並んだ岸辺。その中間に、畳二枚ほどの広さの休憩台がある。金属パイプの支柱に、木でできた幾枚もの細長い板を張って造られた空間。その空間の端に、ぼくは腰かけていた。岸辺の方に目をやりながら、ぼくは、ぼくの足をぶらぶらと遊ばせていた。
 まるで光の帯のように見える、うっすらと引きのばされた白い雲。でも、そんな雲さえ、八月になったばかりの空は、すばやく隅に追いやろうとしていた。
 
きみは、ぼくの傍らで、浮き輪を枕にして、うつ伏せに寝そべっていた。陽に灼けたきみの背。穂膨(ほばら)んだ小麦のように陽に灼けたきみの肌。痛くなるぐらいに強烈な日差し。オイルに塗れ光ったきみの肌。汗の玉が繋がり合い、光の滴となって流れ落ちていった。眩しかった。目をつむっても、その輝きは増すばかり。ぼくの目を離さなかった。短く刈り上げたきみの髪。きみのうなじ。一段と陽に灼き焦げたきみのうなじ。オイルに塗れ光ったきみのうなじ。光の滴。陽に照り輝いて。きみの身体。きみの肩。きみの背。きみの腰。光の滴。みんな、陽に照り輝いて。トランクス。きみの腕。きみの脚。きみの太腿。きみの脹ら脛。光の滴。みんな、みんな、陽に照り輝いて。
 ただ、手のひらと、足裏だけが白かった。
 
おもむろに腰をひねって、ぼくはきみの背中にキッスした。すると、きみは跳ね起きて、ぼくの身体を休憩台の上から突き落とした。なまぬるい水。ぼくは湖面に滑り落ちた。すりむいた腕、きみに向けて、わざと怒った顔をして見せた。きみは口をあけて笑った。その分厚い唇から、白い歯列をこぼしながら、笑っていた。
 きみの衣装は裸だった。

 口のなかに残ったオイルの味。きみの汗が入り混じったオイルの味。鳶色の波間を浮き漂う水藻の塊。ぼくは、そいつを引っつかんで、きみの胸に投げつけた。目をむいて、払いのけるきみ。その仕返しに、浮き輪を投げ返すきみ。きみの投げた浮き輪は、ぼくの頭を飛び越えて湖面に落ちた。きみは、無蓋の笑顔で、ぼくを見下ろした。ひと泳ぎ。湖面に踊る浮き輪、腕に引っかけて、ぼくは休憩台に戻った。ぼくは、きみのいるところに戻った。

 ぼくは、きみの身体を抱きしめた。胸を離すと、きみは眩しげに目を瞬かせた。振り向くと、湖面に無数の銀色の光が弾け飛んでいた。ピチピチと音を立てて弾け飛んでいた。まるでストロボライトのきらめきのように弾け飛んでいた。ぼくは、きみの身体を抱いて、湖面に飛び込んだ。
 湖面で蒸発する光のなかに。




 そういえば、詩人は、詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録していた、中国人青年が出てくる「陽の埋葬」の一作に脱字が一か所あったことも悔いていた。いつか、新しく出す詩集に完全版を収録したいと書いていた。しかし、その願いも果たされなかったのだった。つぎに、その「陽の埋葬」の完全版を書き留めて、本稿を書き終えることにしよう。この論考で、詩人の果されなかった二つの願いが果たされたことになる。二つの詩の完全版を収録したことは、筆者には、ひじょうに意味のあることであると思われる。




陽の埋葬


 高校の嘱託講師から予備校の非常勤講師になってしばらくすると、下鴨から北山に引っ越した。家賃が五万七千円から二万六千円になった。ユニット・バスの代わりに、トイレと風呂が共同になった。コの字型の二階建ての木造建築で、築二十年のオンボロ・アパートである。北山大橋の袂で、しかも、ぼくの部屋は入り口に一番近い部屋だったので、数十秒で賀茂川の河川敷に行くことができた。だから、北山の河川敷を歩いてそのまま下って、発展場の葵公園まで行くことが多かった。その夜は、しかし、仕事から帰って、ふと居眠りしてしまって、気がつくと、夜中の二時になっていた。そんな時間だったのだが、つぎの日が土曜日で、仕事が休みだったので、タクシーに乗って河原町まで行くことにした。千円をすこし超えるくらいの距離だった。四条通りの一つ手前の大通りの新京極通りでタクシーを降りると、交差点を渡って一筋目を下がって西に向かって歩く。数十メートルほど歩けば、八千代館という、昼の十二時から朝の五時までやっている、オールナイトのポルノ映画館がある。食われノンケと呼ばれる若い子たちが、気持ちのいいことをしてもらいにきている発展場だった。ぼくのように二十代で、そういう食われノンケの子を引っかけにきている者は、ほかにはほとんどいなかった。狩猟にたとえると、いわば狩りをするほうの側の人間は、四十代の後半から六十代くらいまでの年配のゲイが多く、なかには、女装した中年の者もいたが、たいていは、サラリーマン風のゲイが多かった。狩られるほうの側は、学生風や、肉体労働者風など、さまざまな風体の者たちがいた。生真面目そうな学生や、髪の毛を染めて、鉢巻をした作業着姿の若い子もいた。
 入口から入ってすぐのところにある扉を開いてなかに入った。映画館に入っても、外の暗さと変わらないので、昼に入ったときとは違って、目が慣れるのに時間がかかるということはなかった。一階の座席の後ろに、よく見かけるブルーの大きなポリバケツのゴミ箱と、ガムテープを貼って傷んだ箇所をつくろってある白いビニール張りのソファーが一つ置いてあるのだが、そのソファーの上に、横になって寝ている振りをしている男がいた。もしかすると、ほんとうに眠っていたのかもしれないが。三十代半ばくらいのサラリーマンだろうか、スーツ姿であった。その男のスラックスの股間部分は、まるで陰茎が硬く勃起しているかのように思わせる盛り上がり方をしていた。男の膝から下は、ソファーの端からはみ出していて、脚が膝のところで、くの字型に折れ曲がっていた。顔を覗き込んだが、ぼくのタイプではなかった。カマキリを太らせたような顔だった。緑色の顔をしていた。ぼくは、ポリバケツのゴミ箱とソファーに対して正三角形を形成するような位置に立って、最後部の座席の後ろから一階席すべてを眺め渡した。この空間自体を、「ハコ」と呼び、「ハコ」のなかで、性的な交渉をすることを「ハコ遊び」と称する連中もいる。「発展場」を英語で、cruising spotsというが、hot spots ともいう。hot には、「暑い」という意味と、「熱い」という意味があるが、どちらも、それほど適切ではないように思われる。むしろ、濡れたところ、べちゃべちゃとしたところ、ぬるぬるとしたところということで、wet spots とか、あるいは、ぺちゃぺちゃとか、ちゅぱちゅぱとかいった音を立てるところとして、damp spots とかと呼ぶほうがいいだろう。しかし、damperには、たしかに、「濡らす人」という意味があって、そこのところはぴったりなのだけれど、「元気を落とさせる人」とか、「希望・熱意・興味などを幻滅させる人」とかいった意味もあるので、発展場に食われにきている男の子や男に対して、陰茎を萎えさせるという意味にもなるから、スラングとしては、あまり適していないかもしれない。オーラル・セックス、いわゆるフェラチオ、もしくは、尺八と呼ばれる口と舌を駆使する性技があるが、ときには、喉の奥にまで勃起した陰茎を呑み込んで、意思では自在にならない間歇的な喉の筋肉の麻痺的な締め付けでヴァギナ的な感触を味合わせる「ディープ・スロート」という、有名なポルノ映画のタイトルにもなった性技もあるが、虫歯のために歯の端っこが欠けてとがっていたり、ただ単にへたくそで、勃起した陰茎に、しかも、それが仮性包茎であったりして亀頭が敏感なものなのに、それに歯の先をあてたりする連中がいて、たしかに、勃起した陰茎を萎えさせる者もいるのだが、ぼくは、自分のものが仮性包茎で、勃起してもようやく亀頭の先の三分の一くらいが露出するようなチンポコで、とても敏感に感じるほうなので、相手のチンポコを口にくわえるときには、とても気をつけている。
 タイプはいなかった。女装が二人いた。三つのブロックに別れた座席群のうち、スクリーンに向かって左側のブロックの最後部の左端の座席に一人と、真ん中のブロックの前のほうに一人。左側の左端にいた、まるでプロレスラーのような巨体の女装は、六十代くらいの小柄な老人と小声で話をしていた。もう性行為は終わったのだろうか。金額はわからないが、その巨体の女装は、お金をもらって、フェラチオをするらしい。直接、本人から聞いた話である。真ん中のブロックの前のほうにいた女装もまた、自分の隣の席に男を坐らせていた。先に坐っていた男の隣の席に、あとから坐りに行ったのか、それとも、後ろに立っていたその男に声をかけて、いっしょに坐ったのだろう。もしかすると、顔なじみの客なのかもしれない。しかし、スクリーンのほうに顔を向けているその客の顔はわからなかった。彼女はとても小柄で、まだ若くて、きれいだった。ノンケの男からすれば、女の子と見まがうくらいであろう。彼女は、わざわざ大阪から、お金を稼ぎにきているという。例の左側のブロックに坐っていたプロレスラーのような巨体の女装から聞いた話である。小柄なほうの女装の彼女は、隣に坐っている若そうな男のその耳元で話をしていたが、やがて、その男の股間に顔を埋めた。ぼくのいた場所からは、彼女が背を丸めて、彼女の座席の背もたれに姿が見えなくなったことから、そう想像しただけなのだが、そうであるに違いなかった。その若そうな男は、後ろから見ただけなので、正面側の顔はわからなかったが、彼がぼく好みの短髪で、若そうで、いかにもがっしりとした体つきをしていたことは、スクリーンの明かりからなぞることができる彼の頭の形や、垣間見える横顔の一部や、首とか肩とか上腕部とかいったものの輪郭や質感などから想像できた。ほかに五人の観客がいたが、どれも中年か老人で、ぼくがいけるような男の子はいなかった。二階にも座席があったので、二階にも行ったが、若い子は一人しかいなかった。ひょろっとした体型の、カマキリのような顔をした男の子だった。顔も緑色だった。ほかにいた五、六人の男たちも、またみんな年老いたカマキリのような顔をしていたので、ぼくは、げんなりとした気分になって、もう一度一階に下りて、真ん中のブロックの真ん中のほうに坐った。そこからだと、かすかだが、先ほどから前でやっていた女装と若そうな男とのやりとりを見ることができたからだ。ときおり、スクリーンが明るくなって、若そうな男が、頭を肯かせているのがわかった。女装の彼女の声は、映画の音に比べるとずいぶんと小さなものなのに、耳を澄ますと、はっきりと聞こえてきた。人間の生の声は、機械から聞こえてくる人間の録音した声と混じっていても、けっして混じることなどないのかもしれない。どんなにかすかな音量の声であっても、ぼくには、それが人間の生の声なのか、録音された声なのか、はっきりと聞き分けることができた。むしろ、かすかであればあるほど、よく聞き分けることができるように思われる。山羊座の耳は地獄耳だと、占星術か何かの本で読んだことがある。「気持ちいい?」と、女装の彼女は尋ねていたのだ。男は訊かれるたびに肯いていた。これ自体、プレイの一部なのだと思う。ぼくもまた、彼女と同じように、くわえたチンポコを口のなかに入れたまま、相手の股間に埋めた自分の顔を上げて、快感に酔いしれたその男の子の恍惚とした表情を見上げながら、おもむろにチンポコから口を放して、「気持ちいい?」と訊くことがあるからだ。ほとんどの男の子は「いい……」と返事をしてくれる。肯くことしかしてくれない者もいるが、たいていの子は返事をしてくれて、それまで声を出さなかった者でも、あえぎ声を出しはじめるのだった。その声は、もちろん、ぼくをもあえがせるものだった。その男の子があえぎ声を出すたびに、ぼくにも、その男の子が亀頭で味わう快感が、その男の子が彼の敏感な亀頭の先で味わう快感の波が打ち寄せるのだった。
 短髪の彼が、突然硬直したように背もたれに身体をあずけた。いくところなのだろう。男は、小刻みに身体を震わせた。しばらくすると、女装の彼女が顔を上げた。すると、音を立てて、乱暴に扉を押し開ける音がした。ぼくは振り返った。
 沈黙が、いつでも跳びかかる機会を狙って、会話のなかに身を潜めているように、記憶の断片もまた、突然、目のなかに飛び込んでいく機会を待っていたのだ。その記憶の断片とは、ぼくの記憶のなかにあった、京大生のエイジくんのものだった。扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、エイジくんの記憶を想起させるほどにたくましい体格の、髪を金髪に染めた短髪の青年だった。二十歳くらいだろうか。ぼくは立ち上がって、最後部の座席のすぐ後ろに立った。その青年のすぐ前に。その青年の視線は、入ってきたときからまっすぐにただスクリーンにだけ向けられていたのだが、ふと思いついたかのように、くるっと横を振り向いてトイレに行くと、ちょうど小便をしたくらいの時間が経ったころに出てきた。すぐに追いかけなくてよかったと思った。出てきた青年は、最初から坐る場所を決めていたかのように、すっと、真ん中のブロックにある中央の座席に坐った。端から三番目で、それは、食われノンケの子がよく坐る位置にあった。端から一つあけて坐る者は、ほぼ確実に食われノンケであったが、端から二つあけて坐る食われノンケの子も多い。その青年は、紺色のスウェットに身を包んで坐っていた。そういえば、エイジくんも、以前にぼくが住んでいた下鴨の部屋に、スウェット姿でよく訪ねてきてくれた。エイジくんのスウェットはよく目立つ紫色のもので、それがまたとてもよく似合っていたのだけれど。一つあけて、ぼくは、青年の横に坐った。青年は、まっすぐスクリーンに顔を向けて、ぼくがそばに坐ったことに気がつかない振りをしていた。傷ついた自我の一部がひとりでに治ることもあるだろう。傷ついた自分の感情の一部が知らないうちに癒されることもあるだろう。しかし、その青年の横顔を見ていると、傷ついた自我の一部や、傷ついた自分の感情の一部が、すみやかに癒されていくのを感じた。そして、胸のなかで自分の心臓が踊り出したかのように激しく鼓動していくのがわかった。ぼくは、自分が坐っていた座席の座部が音を立てないように手で押さえながら、腰を浮かせて、彼の隣の席にゆっくりと移動していった。彼はそれでもまだスクリーンに見入っている振りをしていた。見ると、彼の股間は、その形がわかるくらいに膨らんでいた。ぼくは、自分の左手を、彼の股間に、とてもゆっくりと、そうっと伸ばしていった。中指と人差し指の先が彼の股間に達した。そこは、すでに完全に勃起していた。やわらかい布地を通して、触れているのか触れていないのかわからない程度に、わざとかすかに触れながら、まるで、ふつうに触れると壊れてしまうのではないかというふうに、やさしくなでていくと、勃起したチンポコはさらに硬く硬くなって、ギンギンに勃起していった。青年の顔を見ると、ちょっと困ったような顔をして、ぼくの目を見つめ返してきた。ぼくは、彼のチンポコをパンツのなかから出して、自分の口に含んだ。硬くて太いチンポコだった。巨根と言ってもいいだろう。ぼくは、その巨大なチンポコの先をくわえながら、舌を動かして、鈴口とその周辺をなめまわした。すると、その青年が、「ホテルに行こう。おれがホテル代を出すから。」と言った。そんなふうに、若い子のほうからホテルに行こうなどと誘われるのは、ぼくにははじめてのことだった。しかも、若い子のほうが、ホテル代を出すというのだ。びっくりした。その子は自分のチンポコをしまうと、ぼくの手を引っ張って、座席をさっと立った。彼は手をすぐに離したけれど、ぼくにも立つように目でうながして、扉のほうに向かった。ぼくは、その後ろに着いて行く格好で、彼の後を追った。
 彼は、自分の車を映画館のすぐそばに止めていた。車のことには詳しくないので、ぼくにはその車の名前はわからなかったけれど、それが外車であることくらいはわかった。車は、東山三条を東に進んで左折し、平安神宮のほうに向かってすぐにまた左折した。彼は、「デミアン」という名前のラブホテルの地下の駐車場に車を止めた。車のなかで、彼は自分が中国人であることや、いま二十四才であるとか、中学を出てすぐ水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をして、金があるから、ホテル代の心配はしなくていいとか、長いあいだ付き合っている女もいて、その彼女とは同棲もしているのだけれど、その彼女以外にも、女がいるとかといった話をした。月に一度くらい男とやりたくなるらしい。初体験は、十六歳のときだという。白バイにスピード違反で捕まったときに、その白バイに乗っていた警官に、「チンコをいじられた」という。チンポコではなくて、チンコという言い方がかわいいと思った。しかし、顔を見ると、あまりいい思い出ではなさそうだったので、ぼくのほうからは何も訊くようなことはしなかった。初体験については、彼のほうも、それ以上のことは語らなかった。いまにして思えば、彼がしたような体験は、自分がしたことのなかったものなので、もっと具体的に聞いておけばよかったなと思われる。
「このあいだ、大阪の梅田にあるSMクラブに行ったんやけど、おれって、女に対してはSなんやけど、男に対してはMになるんや。そやから、女のときは、おれが責めるほうで、男のときは、おれのほうが責められたいねん。」二人でシャワーを浴びながら、キスをした。キスをしながら、ぼくは、彼の身体を抱きしめて、右手の指先を彼の尻の穴のほうにすべらせた。中指と人差し指の内側の爪のないほうで、穴のまわりを触って、ゆっくりと二本の指を挿入していった。
「おれ、後ろは、半年ぐらいしてへんねん。」すこし顔をしかめて、ぼくの目を見つめる彼。ぼくは、指を抜いて、彼の目を見つめ返した。「痛い?」シャワーの湯しぶきが、風呂場の電灯できらきらと輝いていた。「ちょっと。」と言って、彼は笑った。「痛くないようにするよ。」と言って、彼を安心させるために、ぼくも自分の顔に笑みを浮べた。
 ベッドに仰向けに横たわった彼の両足首を持ち上げて、脚を開かせ、尻の穴がはっきりと見えるように、尻の下に枕を入れて、ぼくは彼の尻の穴をなめまわした。穴を刺激するために、舌の先を穴のなかに入れたり、穴の周辺のあたりを、その粘膜と皮膚の合いの子のようなやわらかい部分を、唇にはさんだり吸ったりして、彼がアナルセックスをしたくなるように、そういう気分になるように刺激しようとして、わざと、ぺちゃぺちゃとか、ちゅっちゅっとか、派手に音を立てながら愛撫した。そうして、じゅうぶんにやわらかくなった尻の穴にクリームを塗ると、勃起したぼくのチンポコをあてがった。痛くないように、かなりゆっくりと入れていった。彼は最初に大きく息を吸って、ぼくのチンポコが彼の尻の穴のなかに入っていくあいだ、その息をじっととめていたようだった。ぼくが彼の足首から手を離して、彼の脇に手をやって腰を動かしはじめると、彼は溜めていた息を一気に吐き出した。それが彼の最初のあえぎ声を導き出した。途中で、バックからもやりたくなった。いったん、チンポコを抜いて、彼を犬のように四つんばいの姿勢にさせて、もう一度入れ直した。チンポコは、つるっとすべるようにして、スムーズに入った。彼は、ぼくの腰の動きに合わせて、頭を振りながら大きな声であえいだ。がっしりとした体格で、盛り上がった尻たぶに、ぼくの腰があたって、濡れた肌と肌がぶつかる、ぴたぴたという音が淫らに聞こえた。「なかに出してもいい?」と、ぼくが訊くと、彼はうんうんと肯いた。ぼくは、彼の引き締まった尻の穴のなかに射精した。
 彼は、北山にあるぼくのアパートの前まで車で送ってくれた。オンボロ・アパートに住んでいることが知られて恥ずかしいという思いが、彼に、また会ってくれるか、と言うことをためらわせた。本来は女が好きで、月に一度くらい男とやりたくなるという彼の言葉もまた、ぼくの気持ちをためらわせた。なにしろ、月に一度だけなのだ。
 人間は自分のことを知ってもらいたい生き物なのだと思った。初対面の相手に、自分が中国人で、自分が小学生のときに家族といっしょに日本に来て、兄弟姉妹が六人もいて、自分は長男で、中学校を出たら働かなくてはいけなくて、それで、学歴がなくても働ける水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をしているということや、自分は女が好きで、いっしょに暮している女がいても、ほかにも女をつくって浮気をしているということや、それでも、月に一度くらいは男と寝たくなって、ああいったポルノ映画館に行って、男にやられるなんてことを、はじめて出会った人間に話したりなどするのだから。自分がいったいどういった人間で、自分がほかの人間とどう違っているのかを、はじめて出会ったぼくに話したりなどするのだから。
 車から降りて、別れのあいさつをした。アパートの前で、道路を振り返った。彼はすぐには車を出さずに、ぼくが自分の部屋に戻るまで車をとめていた。できた相手に、車で送ってもらうことは何度もあったけれど、彼のように、ぼくが部屋に入るまで見送ってくれるような子は一人もいなかった。また会えるかなと、口にすればよかったなと思った。
 一ヵ月後に、千本中立売にあるポルノ映画館の千本日活に行った。昼間だったので、入ってすぐにはわからなかったけれど、しばらく後ろに立って目が慣れていくのを待っていると、体格のいい、ぼくのタイプっぽい青年が一人いた。知っているゲイのおじさんが、ぼくの横に来て、「あの子、チンポ、くわえてくれるわよ。ホモよ。」と言った。チンポコとは違って、また、チンコとも違って、チンポという言い方は、なんだかすこし、下品な感じがすると思った。彼の体格は、おじさんの好みではなかったので、彼がぼくの好みであることを知っていて、その彼のことを教えてくれたつもりだったのだ。おじさんは、ジャニーズ系のちゃらちゃらとした、顔のきれいな、すっとした体型の男の子がタイプだった。ぼくとは、好みのタイプがまったく違っていた。だから、ごく気軽に、ぼくのほうに話しかけてきたのだろうけれど。ぼくは、彼が二つあけて坐っている座席のほうに近づいた。彼は紺色のニットの帽子をかぶっていた。横から顔をのぞくと、このあいだ八千代館で出会った髪を金髪に染めた短髪の青年だった。「また会ったね。」と、ぼくが話しかけると、彼はにっこりと笑って肯いた。ぼくは彼の股間をまさぐった。その大きさと硬さを、ぼくの手が覚えていた。ぼくは腰をかがめて彼のチンポコをしゃぶった。彼はなかなかいかなかった。いくら時間をかけてもいきそうになかった。「いかへんかもしれへん。ごめんな。おれ、いまストレスで、頭にハゲができてんねん。」そう言って、ニットの帽子を脱いだ。髪は、相変わらずきれいに刈りそろえられた金髪だったけれど、そこには、たしかに、十円硬貨よりすこし大きめの大きさの円形のハゲができていた。「おれが勤めてた風俗店がつぶれてしもうてん。それでいま仕事してなくて、ストレスになってんねん。」彼が着ている服は、別に安物ではなさそうだったけれど、言葉というものは不思議なもので、そんな言葉を聞くと、彼が着ていた服が、急に安物に見えはじめたのだ。坐っているのが彼だとわかったときには、ぼくは腰を落ち着けて、彼といろいろしゃべろうかなと思ったのだけれど、彼の話を聞いて、仕事をしていないという状況にある彼に、万一、たかられでもしたら嫌だなと思って、彼の太ももの上に置いていた手で、彼の膝頭を、二度ほど軽くたたくと、立ち上がって、彼のそばから離れたのだった。彼は不思議そうな顔をして、ぼくの顔を見ていたが、ぼくの表情のなかにある、そういったぼくの気持ちを知ったのだろう。一瞬困惑したような表情になっていたけれど、すぐに残念そうな顔になり、その顔はまたすぐに険しい目つきのものに変化した。一瞬のことだった。その一瞬に、すべてが変わってしまった。ぼくは、その変化した彼の顔を見て、しまったなと思った。彼は、ぼくにたかるつもりなんて、ぜんぜんなかったのだ。その一瞬の表情の変化が真実を物語っていた。彼がそんな男ではなかったことに気がついて、ぼくは後悔した。でも、もう遅かった。彼はすっくと立ち上がると、ぼくが座席から離れた方向とは逆の方向から座席を離れて、映画館のなかからさっさと出て行った。
 ぼくは彼の後を追うこともできなくて、入り口と反対側の、廊下の奥にあるトイレに小便をしに向かった。


Your Song。

  田中宏輔



当然のことながら、言葉は、場所を換えるだけで、異なる意味を持つ。筆者の詩句を引用する。


ひとりがぼくを孤独にするのか、
ひとりが孤独をぼくにするのか、
孤独がぼくをひとりにするのか、
孤独がひとりをぼくにするのか、
ぼくがひとりを孤独にするのか、
ぼくが孤独をひとりにするのか、

3かける2かける1で、6通りのフレーズができる。
(『千切レタ耳ヲ拾エ。』)

 これは、ただ言葉の置かれる場所を取り換えただけの単純な試みなのだが、このような単純な操作で、これまで知らなかったことを知ることができた。「ひとりがぼくを孤独にする」のも、「ぼくがひとりを孤独にする」のも、ありきたりの表現であり、目につくところは何もない。しかし、「孤独がぼくをひとりにする」とか、「孤独がひとりをぼくにする」とかいった表現には、これまで筆者が知っていたものとは異なるところがあるような気がしたのである。この詩句を書いた時点でも、それは、はっきりとは説明できないものだったのだが、少なくとも、これは、「孤独」という言葉に対する印象として、筆者にとっては目新しい感覚であることだけはわかっていた。ときとして、言葉といったものが、わたしたちについて、わたしたち自身が知らなかったことを知っていたりもするのだが、これは、言葉にとっても、同じことなのかもしれない。言葉が知らなかったことを、わたしたちが教えるということがあるのだから。それとも、これは、同じことを言っているのだろうか。わからない。わかることといえば、このような単純な操作で手に入れた、この「はっきりとは説明できないもの」が、筆者に、新しい感覚を一つもたらしてくれたということだけだ。「ぼくが語りそしてぼくが知らぬそのことがぼくを解放する。」(ジャック・デュパン『蘚苔類』3、多田智満子訳)といった言葉があるが、まさに、このことを指して言っている言葉のような気がする。ただし、その新しい感覚というものは、その詩句を書いた時点では、筆者にはまだ明らかなものではなく、ただ漠としたものに過ぎなかったのだけれど。しかし、いずれ、そのうちに、言葉と、「わたしたちのそれぞれの世界がわたしたちを解放し」(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』2、澤崎順之助訳)、言葉には、その言葉自身が知らなかった意味を筆者が教え、筆者には、筆者が知らなかった筆者自身のことを、その言葉が教えてくれることになるだろうとは思っていたのである。そして、じっさいに、以前には言い表わせなかった、あの「孤独」という言葉がもたらしてくれた、新しい感覚を、新しい意味を、ようやく、ある程度だが、言葉にして言い表わすことができるようになったのである。「Sat In Your Lap°II」のなかで、展開している言葉のなかに。そして、これはまた、いま、筆者自身が考えているところの詩学らしきものの根幹をなすものとさえなっていると思われるものなのである。

 
先生の『額のエスキース』という詩の中に、「女性の中に眠っている/孤独な少年はめざめるのだ」といった詩句がありますが、先生が、ひとやものをじっと見つめられるときには、先生の中にいる少年が目を覚ますのでしょう。そして、その少年が、先生の目を通して、ひとやものをじっと見つめるのだと思います。
やがて、その少年の身体は、少年自身の目に映った、さまざまなものに生まれ変わっていきます。


と、「現代詩手帖」の二〇〇三年・二月号(「大岡信」特集号)に、筆者は、書いたのだが、もちろん、この「少年」は、魂の比喩であり、「孤独」という言葉は、「Sat In Your Lap°II」で考察した意味を持っている。「孤独な魂が、わたしの魂をだれかの魂と取り換える」といった言葉を、「國文學」の二〇〇二年・六月号に掲載された原稿に、筆者は書きつけた。「なるほどこの結論をひき出したのは、わたしだ。だが、いまはこの結論がわたしをひいていくのだ。」(『ツァラトゥストラ』第二部、手〓富雄訳)といったニーチェの言葉があるが、よく実感できる言葉である。「自分では気づいていなかったことも書くとか、自分ではないものになるとか」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』追記と余談、山田九朗訳)、「発見してはじめて、自分がなにを探していたのか、わかる」(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』丘沢静也訳)といったことが、ほんとうにあるのである。
   とはいっても、「孤独がひとりをぼくにする」という言葉の意味は、まだ完全に了解されてはいない。似た意味は手に入れた気がするのだが、似てはいても、同じではない。似ているものは同じものではなく、同じものではないかぎり違いがあり、また、その違いが、わたしに考える機会を与え、わたしをまとめあげ、さらに、わたしを、わたし自身にしていくのであろう。言葉は、意味を与えられたとたんに、その意味を逸脱しようとする。そして、それこそが、言葉といったものに生命があるということの証左となるものである。
 
「一つ一つの語はその形態ないし、諧調のなかに語の起源の持つ魅力や語の過去の偉大さをとどめており、われわれの想像力と感受性に対して少なくとも厳格な意味作用の力と同じくらい強大な喚起の力を及ぼすものであ」(プルースト『晦渋性を駁す』鈴木道彦訳)り、また、「言葉は(‥‥‥)個人個人の記憶なり閲歴なりをあからさまに、人それぞれのイメージを呼び起こすものである。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』山田九朗訳)。しかし、「芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す」(ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)ことができるのである。しかし、じっさいに、そうできるために、芸術家は、つねにこころがけなければならないのである。「et parvis sua vis./小さきものにもそれ自身の力あり。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)、「地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。」(アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)。「偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。」(ヴァレリー『邪念その他』S、清水徹訳)、「聡明さとはすべてを使用することだ。」(同前)。「あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)、「すべての対象が美の契機を孕んでいる」(保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)。「普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる」(ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)。「すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか」(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)。たしかにそうである。ときには失敗するとしても、「われわれはつねに、まったく好便にも、失敗作をもっとも美しいものに近づく一段階として考えることができる」(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)のだから。
  
「verte omnes tete in facies./あらゆる姿に汝を變へよ。あらゆる方法を試みよ。」(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)より、ウェルギリウスの言葉)。「私はこれまで かつては一度は少年であり 少女であった、/薮であり 鳥であり 海に浮び出る物言わぬ魚であった‥‥‥」(エンペドクレス『自然について』一一七、藤沢令夫訳)。「自分が過去に多くのものであり、多くの場所にいたために、いま一つのものになることが出来るし──また、一つのものに到達することも出来るのだ」(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも良い本を書くのか・反時代的考察・3、西尾幹二訳)。「「我あり」は「多あり」の結果である。」(ヴァレリー『邪念その他』J、佐々木明訳)、「自分以外の何かへの変身」(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)、「変身は偽りではない」(リルケ『明日が逝くと……』高安国世訳)。「私の魂は木となり、/動物となり、雲のもつれとなる。」(ヘッセ『折り折り』高橋健二訳)のである。


The Great Gig In The Sky。 

  田中宏輔



vanitas vanitatum.
空虚の空虚。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

そこにあるものは空虚。
(ロジャー・ゼラズニイ『いまこそ力は来たりて』浅倉久志訳)

詩人はひとつの空虚。
(ギョールゴス・セフェリス『アシネーの王』高松雄一訳)

子供の心に似た空虚な世界。
(コードウェイナー・スミス『酔いどれ船』宇野利泰訳) 

詩は優雅で空虚な欺瞞だった。
(ルーシャス・シェパード『緑の瞳』4、友枝康子訳)

詩だって?
(ロジャー・ゼラズニイ『心はつめたい墓場』浅倉久志訳) 

詩人?
(アルフレッド・ベスター『消失トリック』伊藤典夫訳) 

詩人がいた。
(J・P・ホーガン『マルチプレックス・マン』下・第四三章、小隅 黎訳) 

彼は死んだ。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・15、中田耕治訳) 

彼の心は一つの混沌だった。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・13、安藤哲行訳) 

何かが動いた。
(フィリップ・K・ディック『おもちゃの戦争』仁賀克雄訳) 

またウサギかな?
(ジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネットハザード』上・5、関口幸男訳) 

黒ずんだ影が人の形となって現われた。
(フィリップ・K・ディック『死の迷宮』12、飯田隆昭訳) 

誰だ?
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳) 

ひとりの人間が森を歩いていた
(ローベルト・ヴァルザー『風景』川村二郎訳) 

お前なのか
(ヨシフ・ブロツキー『ジョン・ダンにささげる悲歌』川村二郎訳) 

なぜここへ来た?
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた』伊藤典夫訳) 

なぜこんなところにいる?
(グレッグ・イーガン『ボーダー・ガード』山岸 真訳) 

誰がお前をつくったか
(ブレイク『仔羊』土居光知訳) 

網膜にはひとつの森全体がゆるやかに写って動いている
(オディッセアス・エリティス『検死解剖』出淵 博訳) 

あれはわたしだ。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳) 

わたしなのだ
(『ブラッドストリート夫人賛歌』49、澤崎順之助訳) 

そんなはずはない。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興行、木村榮一訳) 

わたしは頭がおかしい。
(ダン・シモンズ『フラッシュバック』嶋田洋一訳) 

わたしが狂ってるって?
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

死んだのはこのわたしだ
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳) 

この私自身なのだ。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 

いったい、なぜわたしはここにいるんだ?
(ロジャー・ゼラズニイ『キャメロット最後の守護者』浅倉久志訳) 

わたしはいったいだれなのだろう。
(リルケ『愛に生きる女』生野幸吉訳) 

詩作なんかはすべきでない
(ホラティウス『書簡詩』第一巻・一八、鈴木一郎訳) 

それは虚無のための虚無だ、
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』14、菅野昭正訳) 

ここがどこなのかわかってくると、いろんなことが思い出される……。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳) 

詩集の中のどこかだ
(R・A・ラファティ『寿限無、寿限無』浅倉久志訳)   

nimirum hic ego sum.
確かに私は此處に在り。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

自分の作り出すものであって初めて見えもする。
(エマソン『霊の法則』酒本雅之訳) 

引用でしょ?
(コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳) 

あなたは引用がお得意だから。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳) 

nullam rem e nihilo gigni divinitus unquam.
いかなる物も無から奇蹟的に曾て生じたることなし。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

これらはことばである
(オクタビオ・パス『白』鼓 直訳) 

虚無のなかに確固たる存在がある
(アーシュラ・K・ル・グィン『アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』からの抜粋』安野 玲訳) 

じっと凝視するならば、
(コルターサル『石蹴り遊び』こちら側から・41、土岐恒二訳) 

すべてが現実になる。
(フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『クエーカー砲』1、井上一夫訳) 

いったん形作られたものは、それ自体で独立して存在しはじめる。
(フィリップ・K・ディック『名曲永久保存法』仁賀克雄訳) 

樹木は本物、動物たちもすべてが本物だった。
(ジョン・ヴァーリイ『汝、コンピューターの夢』冬川 亘訳) 

あらゆるものが現実だ。
(フィリップ・K・ディック『ユービック:スクリーンプレイ』34、浅倉久志訳) 

この世界では、あらゆる言葉が
(アラン・ライトマン『アインシュタインの夢』一九〇五年五月三日、浅倉久志訳) 

現実だ。
(スティーヴン・バクスター『真空ダイヤグラム』第七部、岡田靖史訳) 

ここにいるのか彼方にいるのか、空中にいるのか
(アンドレ・デュ・ブーシュ『白いモーター』2、小島俊明訳)  

虚空の中の虚無でさえ動くことができるということを、理解できるだろうか?
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳) 

世界という世界が豊饒な虚空の中に形作られるのだ。
(R・A・ラファティ『空(スカイ)』大野万紀訳) 

unde derivatur.
そこより生ず。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

私は死んでしまった。それでもまだ生きている。
(フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』10、汀 一弘訳) 

わたしのいるこここそ現実だった。
(サバト『英雄たちと墓』第III部・35、安藤哲行訳) 

森全体が目覚めている
(フィリップ・ホセ・ファーマー『奇妙な関係』父・7、大瀧啓裕訳) 

だからこそ、わたしはここにいるのだ。
(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳) 

この土地では、死はもはや支配権を持っていないのだった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』11、三田村 裕訳) 

無とはなんなのだろうか?
(ジョン・ヴァーリイ『ウィザード』下・27、小野田和子訳) 

nihil ex nihilo.
無からは無。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

sic animus per se non quit sine corpore et ipso esse homine, illius quasi quod vas esse videtur.
かくて靈魂は肉體及び人そのものなしに獨立して存在すること能はず。肉體は靈魂の一種の壺のやうに思はる。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』) 

どこへ出るの、この扉は?
(マルグリット・デュラス『北の愛人』清水 徹訳) 

ドアを見たら、開けるがよい。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳) 

どこでもいい ここでさえなければ!
(ロバート・ロウエル『日曜の朝はやく目がさめて』金関寿夫訳) 

ハンカチいるか
(ロバート・ブロック『ノーク博士の謎の島』大瀧啓裕訳) 

ハンカチだ。もちろん、ハンカチがいる。
(エドモンド・ハミルトン『虚空の遺産』11、安田 均訳) 

このハンカチを使えよ、さあ
(ジョン・ベリマン『76 ヘンリーの告白』澤崎順之助訳) 

彼は自分が死んだことを知った。
(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・15、中田耕治訳) 

わたしは発見されたのだ。
(ブライアン・W・オールディス『爆発星雲の伝説』8、浅倉久志訳) 

記憶はそこで途切れ、
(ブロッホ『夢遊の人々』第三部・七六、菊盛英夫訳) 

わたしは目覚める
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』49、澤崎順之助訳)  


ごめんね。ハイル・ヒットラー!

  田中宏輔



幸せかい?
(ヘミングウェイ『エデンの園』第二部・7、沼澤洽治訳)

彼はなにげなくたずねた。
(サキ『七番目の若鶏』中村能三訳)

あと十分ある。
(アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡2』第II部・20、厚木 淳訳)

なにかぼくにできることがあるかい?
(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』I、木村榮一訳)

彼女は
(創世記四・一)

詩句を書いた。
(ハインツ・ピオンテク『詩作の実際』高本研一訳)

しばしばバスに乗ってその海へ行った。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

魂の風景が
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

思い出させる
(エゼキエル書二一・二三)

言葉でできている
(ボルヘス『砂の本』ウンドル、篠田一士訳)

海だった。
(ジュマーク・ハイウォーター『アンパオ』第二章、金原瑞人訳)

どの日にも、どの時間にも、どの分秒にも、それぞれの思いがあった。
(ユーゴー『死刑囚最後の日』一、豊島与志雄訳)

ああ、海が見たい。
(リルケ『マルテの手記』大山定一訳)

いつかまた海を見にゆきたい。
(ノサック『弟』3、中野孝次訳、句点加筆)

どう?
(レイモンド・カーヴァー『ナイト・スクール』村上春樹訳)

うん?
(スタインベック『二十日鼠と人間』三、杉木 喬訳)

ああ、
(ジョン・ダン『遺贈』篠田綾子訳)

いい詩だよ、
(ミュリエル・スパーク『マンデルバウム・ゲイト』第I部・4、小野寺 健訳)

それはもう
(マリア・ルイサ・ボンバル『樹』土岐恒二訳)

きみは
(ロベール・メルル『イルカの日』三輪秀彦訳)

引用が
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

得意だから。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

でも、
(フロベール『ボヴァリー夫人』第三部・八、杉 捷夫訳)

これは剽(ひょう)窃(せつ)だよ。
(ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』2、井上 勇訳)

引用!
(ボルヘス『砂の本』疲れた男のユートピア、篠田一士訳、感嘆符加筆)

まあ、
(サルトル『悪魔と神』第一幕・第二場・第四景、生島遼一訳)

どっちでもいいが、
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

きみの引用しているその
(ディクスン・カー『絞首台の謎』7、井上一夫訳)

海は
(ゴットフリート・ベン『詩の問題性』内藤道雄訳)

どこにあるんだい?
(ホセ・ドノソ『ブルジョア社会』I、木村榮一訳)

お黙り、ノータリン。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』2、野谷文昭訳)

ヒトラーはひどく気を悪くした。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』あるバレリーナとの偽りの恋、木村榮一訳、句点加筆)

彼は拳銃を抜きだし、発射した。
(ボルヘス『砂の本』アベリーノ・アレドンド、篠田一士訳)

ああ、
(ラリイ・ニーヴン『太陽系辺境空域』小隅 黎訳)

でも、ぼくは
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第二の歌、栗田 勇訳)

いったいなんのために、こんなことを書きつけるんだろう?
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

相変らず海の思い出か。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

たしかに
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

海だったのだ。
(モーパッサン『女の一生』十三、宮原 信訳)

ごめんね。ハイル・ヒットラー!
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)


ヨナ、の手、首、

  田中宏輔



め、めず、ら、しく、

朝、早、く、は、やく、

目、目が、覚め、ま、した、そ、それ

、で、港、に、まで、出て、散、歩、する、こ、とに、

した、の、です、靄、が、かった、海、の

、朝、に、(うみ、の、あ、さに)老、婆、が、ひと、り

岸、辺に、たた、ずんで、おり、ま、した、

息、子が、時化(しけ)、に、呑、呑ま、れてしま、った、の、よと、

、と、いう、の、です、

岸、辺、に、打ち、寄せた、水(み)、屑(くず)、のな、なか、から、木、き

、の、切れ、端、を、ひろ、って(ひろい、あつ、めて)

(まい、あさ)家、に、持ち、帰、る、のだ、と、いう、の、です、

たと、え、一片、の、榾(ほだ)、木(ぎ)に、さえ、なら、なく、とも、そそ、それ、が、そ、れ

が、息、子、を、乗せ、た、船、の、一、部、だっ、たか、も、しれ、ない

から、と、老、婆は、両、の、手に、汐(しお)、木(ぎ)を、いっ、ぱい、

いっ、ぱい、持ち、帰っ、て、ゆ、ゆき、ま、した

、海面、に、巨(おお)、きな、魚、の、頭、が、浮か、び、上が、り、ま、した、

鯱(しゃち)、に、似た、巨大、な、さか、な、で、した、

口、の、なか、から、人間、の、てて、手、首、が、のぞ、い、て、て、いま、した、

左、手、首、で、した、

引っ張る、と(ひっ、ぱる

と)スコッ、と、抜、抜け、ま、した

、た、で、ぼ、ぼく、は、そ、それ、を、持、持ち、帰、る、こと、に、しま、した、

窓、辺、に(レー、スの)カー、テン、を、引い、て、

土、を、捨て、た、鉢、の、なか、に、

入、入れ、て、おく、こと、に、しま、した、

左、手、首、は

、陽、陽に、すっかり、温、もり(ぬく、もっ)

て、て、まる、で、生き、生きて、いる、る、手、手首、の、よう(そう)

ほん、とう、に、まる、で、生き、て、いる

手、首、の、よう

蝋、細、工の、よう、だっ、た、冷、たい、手、手く、びが、

ぼ、ぼく、の、手、手の、よう、に、に、手、手の、色、を、して、

手の、形、が、色、が(そ、その)指、の、ふく、らみ、ぐあ、い、まで、が、あ、ああ、

あ、そ、その(そう)そっくり、だっ、た、ぼ、ぼぼ、ぼく、は、あ、あ、あ、

ああ、ぼぼ、ぼく、は、ああ、あ、ああ、ぼ、ぼく、の、左、手に

、ひ、左、手、手く、びを、もって、

か、か、剃(かみ)、刀(そり)、の、刃(は、を)を

あ、あて、ると(あてる、と)ゆゆ、ゆっ、くり、と

、刃、刃を(は、を)を、食い、いっ、込ま、せて、ゆっ、ゆき、まっ、した、、、


カタコラン教の発生とその発展

  田中宏輔



 コリコリの農家の子として生まれたカタコランは、
九才の時に神の声を耳にし、全知全能の神カタコリの
前ではみな平等であると説いた。布教は、カタコラン
の生誕地コリコリではじめられ、農家で働く年寄りを
中心に行なわれた。そして、信者の年齢層が下がるに
つれて、コリコリからカチカチへ、カチカチからキン
キンへと布教地をのばしていった。こうして、次々と
信者の数が増加していった背景には、カタコランの説
いた教え*が非常に簡単明瞭であったことと、祈祷の際
に唱えられる言葉*が極めて簡潔であったことによる。
 やがて、カタコランは、カタ大陸を統一し、カタコ
ラン教*の国を打ち建てた。その後、カタコランの後継
者により、カタからコシ、フクラハギの三大陸にまた
がる大帝国がつくられた。これをカタコラン帝国という。



 * カタコランの説いた教えというのは、要するに、神カタコリの
  前では、みんなが平等であり、人間の存在がカタコリによって
  実感されうるものというもの。
 * それは、次のような言葉である。「カタコーリ、コーリコリ。カ
  タコーリャ、コーリャコリャ。ハー、コーリコリィノコーリャコ
  リャ。」日本語に翻訳すると「ああ、これはこれ。ああ、それは
  それ。はあ、これはそれったらこれはそれ。」となる。
 * その教えをまとめたのが「カタコーラン」である。

参考文献=ニュースタディ問題集・歴史上


読点。

  田中宏輔



読点でできた蛙


なのか
蛙でできた読点なのか
文章のなかで
勝手に
あっちこっち
跳び廻る





読点でできたお酒


ヨッパになればなるほど
言葉が、途切れ途切れになっていく
完全によっちゃうと
言葉が読点だけになってしまう





アインシュタイン読点


アインシュタインの言葉をもじって
文章で格闘しているひとたちが
みんな感服するような作品が書かれてしまったら
あとはもう棍棒のかわりに
読点を手にもって
殴り合いをするしかない
っちゅうたりしてね。





あなたが打つ読点に感じるの。


あなたが打つ読点
とてもすてき
すこし多いかなって思うのだけれど
そのすこしってところがまた、微妙チックで
感じるの
あなたの読点が
ぷつぷつと刺すの
そうして
まるで竹輪のように
筒抜けるの
わたし
オマルの
キューティー・ハニーたん
どこぞ〜
どこぞ、行ってもうたん?





忘れられない一言とか


とかとかあるけど
忘れられない読点とか
忘れられない句点ってのもあるのかしら?
一瞬の沈黙が
その沈黙の表情が
記憶に刻みつけられはしても
読点や句点に表情はないものね〜
ええ、ええ
ほんとですとも
そんなに臭いのかしら?
それを渡すって





マルはいや


マルはいや
ぜったい、いや〜
ああ
すっきりした







ぼくは知っている


ぼくは知っている
あなたが
そこに読点を打ったり、取り外したりしているのを
あなたは、何度も読点を打ったり、取り外したりしている
いったい、そこが
あなたにとって、どんな意味を持つ場所なのかは知らないけれど





読点の山


それは
けっきょく使われなかった読点の山だった
それじゃ、針山だっちゅうの。
句点の山より大きいけどね〜





無数の巨大な手が


地面に
読点をずぶずぶと突き刺す
みたいな感じぃ
H鋼材みたいな読点を







読点ポール


だじゃれね、笑。





やわらかい読点


おすと
ぐにゅっとまがって
句点になるの





ぼくは愚かだった。


読点にも、ひとつひとつ表情があったのだ。
違った場所に置かれた読点には、その置かれた場所での表情があったのだ。
わたしたちが同じ顔でも、時と場所に応じて違った表情をするように。
ちょっとした役者なのだ。
いや、ずいぶんと役者なのだ。
読点は。





どぼどぼと読点を吐き出す女のように


派遣の読点だからって
なめんじゃないわよ。
きっちり読点の役目は果たしてるわよ。
正社員と同じだけ働いてるわよ。
保障はないけど
だからって手は抜かないわよ。





読点


読点は言葉を縫い付けていく
雨が地面にひとを縫い付けていくように





ちまたに読点が降るように


雨も、ちまたに降っている。
螺旋階段が欲しいから螺旋階段を3階までつけたパパ。
桂の叔父さんちにはプールがあるからといって
庭に小型のプールのような巨大な水槽をつくらせたパパ。
小学生のときのことだった。
ぼくはママを屋上から突き落として殺してやろうと思ったことがある。
小学生なら疑われることはないからと思ったのだった。
あのとき突き落としていたら、どうなっていたかなと考えることがある。
しばしば思い出しては、頭のなかで突き落としている。





派手な読点と、地味な読点


ときどき
ぼくが打つ読点は派手なこともあり
地味なこともある。
やさしい読点もあれば
きびしい読点もあるし
寒い読点も
熱い読点も
甘い読点も
辛い読点も
渇いた読点も
濡れた読点もある。
気体の読点や
液体や固体の読点もある。





宇宙中にあるすべての読点を集めても


コップ一個を満たすこともできないと言われている。





草野心平じゃあるまいし


人民たちが句点や読点に飢えていると耳にした王女は
疑問符や感嘆符やその他の記号で十分じゃないの
と言ったという。
その顔には幼な子のような笑みを浮かべ
その手のなかでは句点や読点をもてあそびながら。





リルケの遺作『ミュンヘンにて』を読んで


亡くなってから小部数出版されたというのだけれど読点
まるでトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』や
『ヴェニスに死す』を読んでいるような気がした句点
ただし読点マンの作品に出てくる主人公たちは立派な芸術家で読点
リルケの作品に出てくる主人公は詩を書きはするけれども読点詩人と
言うには実績のない主人公で読点詩集も出してはいなかったのだけれども句点
リルケ23歳のときの作品だったらしい句点
ぼくが23歳の時には読点ほんとうに稚拙な文章しかかけなかった句点
比較するのは不遜だけれども読点笑句点





量子状態の読点


一字あけ

読点






読点の時制


読点自体に
過去形や現在形や未来形や
現在完了形や過去完了形がある
と考えてしまった。
一度考えてしまったことは
なかなか頭から去らない。
肯定や否定や疑問
付加疑問とか感嘆とかも、笑。





言葉じゃないのよ


大事なのは、句点や読点といった記号なの。
言葉じゃないのよ。
句点と読点といった記号に目を凝らすのよ。
それに言葉以上の意味を持たせてあるんですからね。
当然よ。
きょうは、インスタント・ラーメン3個食べたわ。
5個で178円だったわ。
吐きそうよ。
シンちゃんがスコッチ・ウィスキーを持ってきてくれたから
ひとりで飲んでたわ。
すぐに帰ったから。
ぜんぶ飲んだわ。
3分の1くらいしか残ってない飲みかけのボトルだったから。
吐きそうよ。
航海してるわー。
after here


に目を凝らすのよ〜。





もしも、一生使える読点の数が決まっていたら


もしも一生使える読点の数が決まっているとしたら
と、ふと思いついたのだけれど
言葉だってそうだけど
一生使える数や量は決まってるんだよね。
ひとによって、その数や量が違うだけでね。





読点とコンマ、句点とピリオド


なんか似てる。
ヨーロッパ言語は、だいたいコンマとピリオドなのかしら?
アフリカとか、アジアとかは、どんな記号なのかしら?
スペイン語にはクエスチョン・マークを逆さまにしたものもあったけれど
韓国語は、読点や句点なのかしら?
それとも、コンマやピリオドかしら?
中国語は、どうだったかしら?
ああ、ぼくって、知らないことだらけだわ。
このまえ、滋賀に住んでる、ノブちんをひとまわりデブにしたような
ヒロユキの口のなかに
指を入れた。
身体を文章にたとえれば
指は読点のようなものかもしれない。
ヒロユキの口のなかで
ぼくの読点があたたかった。
ヒロユキは、ぼくの読点を
目をつむって、ペロペロなめていた。

口に指を入れたら
日になるのね。
二本入れたら
目ね、笑。
日本は
入れたことないけど。





言葉退治


おじいさんは山で言葉狩りを
おばあさんは川で言葉すくいにきていたら
川の上流から読点や句点がたくさん流れてきました。
おばあさんは流れる読点や句点を見て
自分の身体を流れ去った読点や句点のことを思い出しました。
おじいさんが山から帰ると
おばあさんは持ち帰った読点や句点を、おじいさんに見せました。
読点や句点は、おじいさんの手のなかでケラケラ笑いました。
ほんとうにかわいらしい読点や句点でした。
やがて、読点や句点は大きく育ち・・・





読点と句点を重ねると、空集合φになるのね。


桃太郎が海で
句点たちにいじめられている読点をたすけました。
ただそれだけで、読点は、なんもお礼をしませんでした。
まあ、それで、女たちは
人生において、やたらと読点や句点を使いたがるのね。
まっさらだわ。





20センチの読点


いまゲイのサイトを見てたら
(ゲイの売専の店のHPね。)
「デ、デカイ!
 デカすぎるのでは?
 絶叫モンです!
 入れるテクに句があることと
 より快楽的なエロキャラのため
 つながりたい人にオススメです!」
22歳
176センチ
70キロ
アスリート体型の
ゆうじくんのって20センチもあるから
とかとかいうので
20センチの読点は
まあ、看板とかでだったら見たことあるけど
太い読点を瞼の上にのっけてるひといるよね。
20センチの読点だと、壁にそって流れ落ちる雨粒のように
無数の眼球が流れ落ちる。
すると
眼球が見る街の景色は
するすると天にむかって上昇していく。
20センチの読点か
やっぱり大きすぎるわ。
ぼくにはムリ。
「基本的に
 ぬいぐるみ? 犬?」タイプです!
とのこと。

テクに句が

テクニックね。
すまそ。
えっ?
そうね、そうだよね。
20キロの読点のほうがおもしろそうだよね。
でも、どっちにしろ
ぼくにはムリだけど、笑。


Mr. Bojangles。

  田中宏輔



「世界にはただ一冊の書物しかない。」というマラルメの言葉を
どの書物に目を通しても、「読み手はただ自分自身をそこに見出す
ことしかできない。」ととると、わたしたちは無数の書物となった
無数の自分自身と出会うことになる。
しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもある。
したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないことになる。
細部を見る目は貧しい。
ありふれた事物が希有なものとなる。
交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。
見慣れたものが見慣れぬものとなる。
それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。
もう愛を求める必要などなくなってしまった。
なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。
愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならない。
眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く。
夜になっても、太陽がなくなるわけではない。
流れる水が川の形を変える。
浮かび漂う雲が空に形を与える。
わたし自身が、わたしの一部のなかで生まれる。
それでも、まだ一度も光に照らされたことのない闇がある。
ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない。
ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇。
ぼくの知らないぼくがいる。
わたしでないものが、紛れ込んでいるからであろうか?
語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする。
言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する。
輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める。
蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる。
花の種類によって、集められた蜜の味が異なる。
たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく。


ケルンのよかマンボウ。あるいは 神は 徘徊する 金魚の群れ。

  田中宏輔



きのう、ジミーちゃんと電話で話してて
たれる
もらす
しみる
こく
はく
さらす
といった
普通の言葉でも
なんだかいやな印象の言葉があるねって。
そんな言葉をぶつぶつと
つぶやきながら
本屋のなかをうろうろする。
ってのは、どうよ! 笑。
ぼくの金魚鉢になってくれる?
虫たちはもうそろそろ手足を伸ばして
うごめきはじめているころだろう。
不幸は一人ではやってこないというが
なにものも、ひとりではやってこない。
なにごとも、ただそれだけではやってこないのである。
絵に描いたような絵。
わたしの神は一本の歯ブラシである。
わたしの使っている歯ブラシが神であった。
神は歯ブラシのすみずみまで神であった。
主婦、荒野をさ迷う。
きのう見た光景をゲーゲー吐き戻してしまった。
暴れまわる母が、一頭の牛に牽かれてやってきた。
兄は、口に出して考える癖があった。
口から、コップやコーヒーや
スプーンやミルクや
文庫本やフロイトや
カーネル・サンダースの人形や英和辞典を
ゲロゲロ吐き出して考えていた。
壁は多面体だった。
一つ一つ、すべての壁面に印をつけていくと、
天井と床も入れて、二十四面あった。
二十四面のそれぞれの壁に耳をくっつけて
それぞれの部屋の音を聞くと
二十四面のそれぞれの部屋の音が聞こえてきた。
5かける5は25だった。
ぼくの正義のヤリは、ふるえていた。
どうして、ぼくのパパやママは、働かなくちゃならないの?
子供たちの素朴な疑問に、ノーベル賞受賞者たちが答える。
という文庫本があった。
友だちのジミーちゃんは、こういった。
悪だからである。
たしかに、楽園を追放されることにたることをしたのだから。
やっぱり、ぼくの友だちだ。
すんばらしい。
エレベーターが
スコスコッと、前後左右上下、
斜め、横、縦、縦、横、斜め、横、にすばやく移動する。
わたしの記憶もまた
スコスコッと、前後左右上下、
斜め、横、縦、縦、横、斜め、横、にすばやく移動する。
ぼくの金魚鉢になってくれる?
草原の上の
ビチグソ。
しかもクリスチャン。笑。
それでいいのかもね。
そだね。
行けなさそうな顔をしてる。
道路の上の赤い円錐がジャマだ。
百の赤い円錐。
スイ。
神は文字の上にいるのではない。
文字と文字の間なのね。
印刷された文字と文字の間って
紙のことなのね。
一ミリの厚さにも満たない薄い薄い紙のこと。
神は紙だから
って。
神さまは、前と後ろを文字文字に呪縛されて
ぎゅうぎゅう
もうもう
牛さん、飴さん、たいへん
ぼく。
携帯で神に信号を発する。
携帯を神に向けてはっしん。
って
ぎゃって
投げつけてやる。
ぼくは、頭をどんどん壁にぶつけて
神さまは、頭が痛いって
ぼくは、頭から知を流しつづける。
血だ
友だちのフリをする。
あのとき
看護婦は、ぼくのことを殴った
じゃなく
しばいた。
ぼくの病室は、全身で泣いて
ぼくの涙が悔しくて
スリッパを口にくわえて
びゅんびゅん泣いていた。
ああ、神さまは、ぼくがほんとうに悲しんでいるのを見て
夕方になると
金魚の群れが空にいっぱい泳いでた。
神さまは、ぼくの肩を抱いて
ぼくをあやしてくれた。
ぼくは全身を硬直させて
スリッパで床を叩いて
看護婦が、ぼくの腕に
ぼくの血中金魚度が低いから
ぼくに金魚注射した。
金魚は、自我をもって
ぼくの血液の中を泳ぎ回る。
ていうか、それって
自我注射?
自我注釈。
自我んだ。
違った。
ウガンダ。
どのページも
ぼくの自我にまみれて、ぐっちょり
ちょりちょり
チョチョリ、チョリ。
あ、そういえば
店長の激しい音楽。
マリゲ。
マルゴ。
まるぐんぐ。
マルス。
マルズ。
まるずんず。
ひさげ。
ひさご。
ひざずんずっ。
びいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
あるいは 神は 徘徊する 金魚の群れ。
きょうは休日だというのに
一日中、病室にいた。
病室の窓を見上げてたら
空の端に
昼間なのに、月が出ていた。
きょとんとしたぼくの息が
病室の隣のひとを
ペラペラとめくっては
どのページに神が潜んでいるのか
探した。
思考は腫瘍である。
わたしの脳髄ができることの一つに
他者の思考の刷り込みがある。
まあ、テレパシーのようなものであるが
そのとき、わたしの頭に痛みがある。
皮膚に走る電気的な痛みともつながっているようである。
頭が痛くなると同時に、肘から肩にかけて
ビリビリ、ビリビリ

きゅうは、とてつもなく痛い。
いままでは、頭の横のところ
右側の方だけだったのに
きょうは、頭の後ろから頭の頂にかけて
すっかり痛みに
痛みそのものになっているのだ。
さあ、首を折り曲げて
これから金魚注射をしますからね。
あなたの血中金魚濃度が低くて
さあ、はやく首を折り曲げて
はやくしないと、あなたの血管が金魚不足でひからびていきますよ。
あさ、パパ注射したばかりじゃないか。
きのうは、ママ注射したし
ぐれてやる。
はぐれてやる。
かくれてやる。
おがくれる。
あがくれる。
いがくれる。
うがくれる。
えがくれる。
街は金魚に暮れている。
つねに神は徘徊する、わたしの死んだ指たちの間で。
もくもくと読書する姿が見える。
そのときにもまた
ぼくの死んだ指の間で、神が徘徊しているのだ。
ぼくは、もくもくと読書している。
図書館で
ぼくは、ひとりで読書する少年だったのだ。
四年生ぐらいだったかな。
ぼくは
なんで地球が自転するのかわからない
って本に書かれてあるのにびっくりして
本にもわからないことがあるのだと
不思議に思って
その本が置いてあったところを見ると
書棚と書棚の間から
死んだパパそっくりの神さまが
ぼくの方を見てるのに気がついた。
すると
ぼくの身体は硬直して
ぼくは気を失っていた。
ぼくが気を失っていたあいだも
ぼくの死んだ指の間を神は徘徊していた。
地球がなんで自転しているのかって
それからも不思議に思っていたのだけれど
だれもわからないのか
ぼくが、この話をしても
神さまが、ぼくの指の間から
ぼくのことを見張っている。
ぼくの死んだ指は神さまに濡れて
血まみれだった。
憎しみの宴が
ぼくの頭のなかで催されている。
きょうは、一晩中かもしれない。
額が割れて
死んだ金魚たちがあふれ出てきそうだ。
頭が痛い。
割れて、死んだパパやママがあふれ出てくるのだ。
ぼくは、プリン。
ぼくの星の運命は
百万光年の
光に隠されている。
光に隠されている。
いいフレーズだな。
影で日向ぼく。
ぼっこじゃなくて
ぼくがいいかな。
日向ぼく。
で、
影で日向ぼっこ。
ぼっこって
でも、なんだろ。
ぼくの脳髄は 百のぼくである。
じゃなく、
ぼっこ。
じゃなく、
ぼこ。
リンゴも赤いし、金魚も赤いわ。
リンゴでできた金魚。
金魚でできたリンゴ。
金ゴとリン魚。
リンゴの切断面が
金魚の直線になっている。
死んでね、ぼくの指たち。
ルイルイ♪
楽しげに浮かび漂う、ぼくの死んだ指たち
神の指は、血まみれの幸運に浸り
ぼくの頭のなかの金魚を回す。
トラベル
フンガー
血まみれの指が
ぼくを作り直す。
治してね。
血まみれのプールに
静かに
ゴーゴーと
泳ぎ回る  
死んだぼくの金魚たち。
ぼくの頭のなかをぐるぐるまわる
倒壊したパパの死体や
崩れ落ちたママの死体たち。
なかよく踊りまちょ。
神は、死んだパパやママの廃墟を徘徊する。
リスン・トゥー・ザ・ミュージック!
ぼくの廃墟のなかで、死んだパパやママが手に手をとって踊る。
手のしびれが、金魚の指のはじまりになるまで。
その間も、ずっと、ママは、金魚をぼくの頭のなかでかき回している。
重たい頭は、ぼくの金魚がパクパク、パクパク死んでいる。
指が動きにくいのは
自我が、パクパクしているからだぞ。
ああ、たくさんのパクパクしている、ぼくの自我たち。
人差し指の先にも自我がある。
自我をひとに向けてはいけないと、ママは言った。
さあ、みんな、この自我にとまれ!
ギコギコ、ギーギー
ギコギコ、ギーギー
ね、ママ。
ぼくのママ、出てきちゃ、ダメ。
さっき
鳥が現実感を失う
とメモして
すると
ぼくは、アニメのサザエさんの書割の
塀の横を歩いていた。
問いを待つ答え。
問いかけられもしないのに
答えがぽつんと
たたずんでいる。
はじめに解答ありき。
解答は、問いあれ、と言った。
すると、問いがあった。
ぶさいくオニオン。
ヒロくんの定食は
焼肉だった。
チゲだっておいしいよ。
キムチだっておいしいよ。
かわりばんこの
声だ。
ぼくは
ヒロくんの声になって
坐ってる。
十年
むかしの
ゴハン屋さんで。
この腕の
縛り痕。
父親たちの死骸を分け合う、ぼくのたくさんの指たち。
ああ
こんなにも
こんなにも
ぼくは、ぼくに満ちあふれて。
戦線今日今日。
戦線今日今日。
あの根、ぬの根
カンポの
木の
根。
名前を彫っている。
生まれ変わったら
何になりたい?
うううん、
べつに。
花の精でもいいし
産卵する蛾でもいいよ。
あ、
べつに
産卵しない蛾でも。
大衆浴場。
湯船から
指を突き出し
ヘイ
カモン!
詩人の伝記が好き。
詩人の詩より好きかも。
詩人の出発もいいけど
詩人のおしまいの方がいいかな。
不幸には
とりわけ
耳を澄ますのだ。
ぼくのなかの
声が。
ああ、
聞こえないではないか。
そんなに遠く離れていては。
ぼくのなかの
声が
耳を済ます。
耳を澄ます。
じりじりと
耳を澄ます。
ぼくのなかの
声が
耳を済ます。
耳が沈黙してるのは
ぼくの声が離れているからか。
ああ、
聞こえないではないか。
そんなに遠く離れていては。
もう詩を書く人間は、ぼく一人だけだ、と。笑。
ぼくの口の中は、たくさんの母親たちでいっぱいだ。
抜いても、抜いても生えてくる
ぼくの母親たち。
ぼくは黄ばんだパンツの
筋道にそって歩く
その夜
黄ばんだパンツは
捨てられた。
若いミイラが
包帯を貸してくれるっていって
自分の包帯をくるくる
くるくる
はずしていった。
若竹刈り。
たけのこかい!
木の芽がうまい。
ほんまやな。
せつないな。
ボンドでくっつくけた
クソババアたち
ビルの屋上から
数珠つなぎの
だいぶ
だいぶ
死んだわ。
おだぶつさん!
合唱。
あ、
合掌。
だす。
バナナの花がきれいだったね。
きれいだったね。
ふわふわになる
喜んで走り回ってた
棺のなかに入ったおばあちゃんを
なんで、だれも写真にとらなかったんだろう?
おばあちゃんは、とってもきれいだったのに。
生きてるときより、ずっときれいだったよ。
ぼくのおばあちゃんの手をひっぱって
ぼくのおばあちゃんを棺のなかに入れたのは
ぼくだった。
ばいばい
って、してみたかったから。
いつも、おばあちゃんに
ばいばいって
してたけど、
ほんとのばいばいがしたかったんだ。
ふわふわになる
おばあちゃん。
二段か、三段。
土間の上にこぼれた
おかゆの湯気が
ぼくの唇の先に
触れる。
光の数珠が、ああ、おいちかったねえ。まいまいつぶれ!
ウサギおいしい。カマボコ姫。チュッ
歯科医は
思い切り力を込めて
ぼくの口の中の
母親をひっこぬいた。
父親は
ペンチで砕いてから、ひっこぬいた。
咳をすると
ぼくじゃないと思うんだけど
咳の音が
ぼくの顔の前でした。
咳の音は
実感をもって
ぼくの顔の前でしたんだけど
ぼくのじゃない
ただしい死体の運び方
あるいは
妊婦のための
新しい拷問方法。
かつて
チベットでは
夫を裏切った妻たちを拷問して殺したという。
まあ、インドでは
生きたままフライパンで焼いたっていうから
そんなに珍しいことではないのかもしれないけれど。
こうして、ぼくがクーラーのかかった部屋で
友だちがくれたチーズケーキをほおばりながら
音楽を聴きながら
ふにふに書いてる時間に
指を切断されたり
腹を裂かれて
腸を引きずり出されたりして
拷問されて苦しんでる人もいるんだろうけど。
かわいそうだけど
知らないひとのことだから
知らない。
前にNHKの番組で
指が机の上にぽろぽろ
ぽろぽろ
血まみれの指が
指人形。
ぼくの右の人差し指はピーターで
ぼくの左手の人差し指は狼だった。
ソルト
そーると
ソウルの街を
電車で移動。
おまえは東大をすべって
ドロップアウトして
そのまま何年も遊びたおして
ソウルの町を電車で移動。
耳で聴いているのは
ずっと
ジャズ。
ただしい死体の運び方。
あるいは
郵便で死体を送りつける方法について
学習する。
切手で払うのも大きい。
小さい。
デカメロン。
ただしく死体と添い寝する方法。
このほうが、お前にふさわしい。
おいしいチーズケーキだった。
きょう、いちばんの感動だった。
河原町の街角から
老婆たちが
ぴょんぴょん跳ねながらこちらに向かってくる。
お好みのヴァージョンだ。
神は疲れきった身体を持ち上げて
ぼくに手を伸ばした。
ぼくは、その手を振り払うと、神の胸をドンと突いてこういった。
立ち上がれって言われるまで、立ち上がったらダメじゃん。
神さまは、ぼくの手に突かれて、よろよろと
そのまま疲れきった身体を座席にうずめて
のたり、くたり。
か。
標準的なタイプではあった。
座席のシートと比較して
とくべつおいしそうでも、まずそうでもなかった。
ただ、しょっぱい。
やっぱり。
でっぱり。
でずっぱり。
神の顔にも蛆蝿が
老婆たちの卵を産みつける。
老婆たちは、少女となって卵から孵り
雛たちは
クツクツと笑うリンゴだ。
どんな医学百科事典にも載っていないことだけど。
植物事典には載ってる。
気がする。
か。
おいしい。しょっぱい。
か。
ぼくの顔面をゲートにして
たくさんの少女と老婆が出入りする。
ぼくの顔面の引き攣りだ。
キキ、
金魚!
アロハ
おえっ
老婆はすぐに少女になってしまって
口のなかは、死んだ少女たちでいっぱいになって
ぼくは、少女たちの声で
ヒトリデ、ピーチク・パーチク。
最初の話はスラッグスの這い跡で
夜の濡れた顔だった。
そういえば、円山公園の公衆トイレで首を吊って死んだ男と
御所の公衆トイレで首を吊って死んだ男が同一人物だという話は
ほんとうだった。
男は二度も死ねたのだ。
ぼくの身体の節々が痛いのは、なかなかなくならない。
こんど病院に行くけど
呪術の本も買ってこよう。
いやなヤツに痛みをうつす呪術が、たしかにあったはずだ。
ぴりぴり。
ぴかーって、
光線銃で狙い撃ち!
一リットルの冷水を寝る前に飲んだら
ゲリになっちゃった。
ぐわんと。
横になって寝ていても、少女の死体たちが
ぼくの口のなかで、ピーチク・パーチク。
ぴりぴり。
ぴかーっと。
たしか、首を吊った犬の苦しむ顔だった。
紫色の舌を口のなかからポタポタたれ落として
白い泡はぶくぶくと
徒然草。
小さいものはかわいらしいと書いてあった。
小さな少女の死はかわいらしい。
ってこと?
ぼくの口のなかの死体たちが、ピー地区・パー地区。
ふふ。
大きな棺に入った大きな死体もかわいらしい。
筆箱くらいの大きさの少女たちの死体がびっしり
ぼくの口のなかに生えそろっているのだ。
ようやく、ぼくにもわかってきたのだ。
ぼくのことが。
今晩も、寝る前に冷水を1リットル。
けっ。
あらまほしっ、きっ
ケルンのよかマンボウ。
ふと思いついたんだけど
帽子のしたで
顔が回転している方が面白い。
頭じゃなくて
正面の顔が
だよん。
アイスクリーム片手にね。
アイスクリームは
やっぱり
じょっぱり
しょうが焼き。
春先に食べた王将のしょうが焼き定食は
おいちかった。
ぼく、マールボロウでしょう?
話の途中で邪魔すんなよ。
ぼく、マールボロウだから
デジカメのまえで
思わずポーズきめちゃった。
クリアクリーン。
歯磨きの仕方が悪くって
死刑!
ガキデカのマンガは、いまなかなか見つからない。
わかんない。
井伊直弼。
って、スペリング、これでいい?
って。
てて。
いてて。
てて。
ぼく、井伊直弼
ちゃうねん
あつすけだよん。
って。
鋼(はがね)の月は
ぎいらぎら。
リトル・セントバーナード
ショウ
人生は
演劇以上に演劇だ。
って
べつに
言ってるか、どうかなんて
言わない。
ちいいいいいい
てるけどね。
ケッ。
プフッ。
ケルンのよかマンボウ。
ぼーくの
ちぃーって

けー
天空のはげ頭
(
ナチス・ドイツ鉄かぶと製の
はげカツラが、くるくると回転する。
頭皮にこすれて、血まみれギャーだった。
ふにふに。
空飛ぶ円盤だ!
このあいだ、サインを見た。
登場人物は、みんな霊媒だった。
十年前に賀茂川のほとりで
無数の円盤が空をおおうようにして飛んでるのを
友だちと眺めたことがあった。
友だちは、とても怖がっていたけど
ぼくは、怖くなかった。
友だちは、ぼくに
円盤見て、びっくりせいへんの?
って言ってたけど。
ぼくは、
こんど、ふたりで飲みに行きましょうね
って言われたほうが
びっくりだった。
いやっ
いやいや、
やっぱり、暴れまわる大きな牛を牽いてやってくる
一頭の母親の方が怖ろしいかな。笑。
どうしてるんだろう。
ぼくの口のなかには、母親たちの死んだ声がつまってるっていうのに
ぼくの耳のなかでは、その青年の声が叫びつづけてるんだ。
だから、インテリはいやなんやって
カッチョイイ、あの男の子の声が
ああ、これは違う声か。
違う声もうれしい。
ぼくの瞼の引き攣りは
ヒヒ
うつしてあげるね。
神経ぴりぴり。
血まみれ
ゲー

うつしてあげるね。

しゅてるん。
知ってるん?
ユダヤの黄色い星。
麻酔なしの生体解剖だって。
写真だったけど
思い出しただけで
ピリピリ
ケラケラ
ケセラセラー。
あい・うぉん・ちゅー
あらまほしぃ、きいいいいいい
ぼくの詩を読んで死ねます。
か。
ぼくの詩を読んで死ねます。
か。
ひねもす、のたりくたり。
ぼくの詩を読んで死ねます。
か。
ひねもすいすい
水兵さんが根っこ買って
寝ッ転がって
ぐでんぐでん。
中心軸から、およそ文庫本3冊程度ぶんの幅で
拡張しています。
か。
ホルモンのバランスだと思う。
か。
まだ睡眠薬が効かない。
か。
相変らず役に立たない神さまは
電車の
なかで
ひねもす、のたりくたり。
か。
ぼくは、疲れきった手を
吊革のわっかに通して
くたくたの神を
見下ろしていた。
か。
おろもい。
か。
飽きた。
か。
腰が痛くなって
言いたくなって
神は
あっくんの手を
わっかからはずして
レールの上に置きました。
キュルルルルルルって
手首の上を
電車が通りすぎていくと
わっかのなかから
無数の歓声が上がりました。
か。
日が変わり
気が変わり
神は
新しいろうそくを
あっくんの頭の上に置いて
火をつけました。
か。
なんべん死ぬねん!
か。
なんべんもだっち。
(ひつこい轍。)
銃の沈黙は
違った
十の沈黙は
うるさいか。
とか。
沈黙の三乗は
沈黙とは単位が違うから
もう沈黙じゃないんじゃないか。
とか、
なんとか、かんとか
ヤリタさんと
荒木くんと
くっちゃべり。
ぐっちゃべり。
ええ
ええ
それなら
ドン・タコス。
おいちかったね。
いや、タコスは食べなかった。
タコライス食べたね。
おいちかったね。
ハイシーン。
だっけ。
おいちかった。
サーモンも
おいちかった。
火の説教。
痩せた手のなかの
コーヒーカップは
劫火。
生のサーモンもカルパッチオ!
みゃぐろかなって言って
ドン・タコス。
ぱりぱりの
ジャコ・サラダは
ぐんばつだった。笑。
40過ぎたおっさんは
ぐしょぐしょだった。
いや、くしゃくしゃかな。
これから
ささやかな
葬儀がある。
目のひきつり。
だんだん。
欲しいものは手に入れた。
押し殺した悲鳴と
残忍な悦び。
庭に植えた少女たちが
つぎつぎと死んでいく。
除草剤をまいた
痩せた手のなかの
あたたかいコーヒーカップは
順番が違うっちぃっぃいいいいいい!
あっくんの頭の上のろうそくが燃えている。
死んだ魚のように
顔面の筋肉は硬直して
無数の蛆蝿が
卵を産みつけていく。
膿をひねり出すようにして
あっくんは卵を産んだ。
大統領夫人が突然マイクを向けられて
こけた。
こけたら、財布が出てきた。
財布は、マイケルの顔に当たって
砕けた。
マイケルの顔が、笑。
笑えよ。
ブフッ。
あっくんの頭の上で燃えているろうそくの火は
しょっぱい。
そろそろ眠る頃だ。
睡眠薬を飲んで寝る。
噛み砕け!
顔面に産みつけられた
蛆蝿たちの卵を孵す。
あっくんの頭の上で燃えているろうそくの火は
しょっぱい。
(ひつっこい、しょっぱさだ。笑。)
前の職場で親しかったドイツ語の先生は
バーテンダーをしていたことがあると言ってた。
バーテンダーは、昼間は
玉突きのバイトをしていた
青年がいた。
ぼくが下鴨にいたころだ。
といっても、ぼくが26、7才のころだ。
九州から来たという
青年は二十歳だった。
こんど、ふたりっきりで飲みましょうねって言われて
顔面から微笑みが這い出してきて
ぽろぽろとこぼれ堕ちていった。
まるで
蛆蝿の糞のように。
笑えよ。

とうもろこし頭の
彼は
ぼくのなかで
一つの声となって
迸り出ちゃったってこと。
詩ね。
へへ、
死ね!

乾燥した
お母さんが
出てきたところで
とめる。
釘抜きなんて
生まれて
まだ十回も使ったことがないな。
ぼくの部屋は二階で
お母さんは
縮んで
釘のように
階段の一段一段
すべての踏み段に突き刺さっていたから
釘抜きで抜く。
ぜんぶ抜く。
可能性の問題ではない。
現実の厚さは
薄さは、と言ってもよいが
ぼろぼろになった
筆の勢いだ。
美しい直線が
わたしの顔面を貫くようになでていく。
滅んでもいい。
あらゆる大きさの直線でできた
コヒ。
塑形は
でき
バケツで
頭から血を流した
話を書こうと思うんだけど
実話だから
話っていっても
ただ
バケツって
言われたから
バケツをほっただけなんだけど
手がすべって
パパは頭から血を流した。
うううん。
なんで
蟹、われと戯れて。
ひさびさに
鞍馬口のオフによる。
ジュール・ベルヌ・コレクションの
海底二万哩があった。
きれいな絵。
500円。
だけど、背が少し破けてるので、惜しみながらも
買わず。
ブヒッ。
そのかわり
河出書房の日本文学全集3冊買った。
1冊105円。
重たかった。
河出新刊ニュースがすごい。
もう何十年も前の女優の
若いころの写真がすごい。
これがほしくて買ったとも言える。笑。
でも、何冊持ってるんだろう。
全集の詩のアンソロジー。
このあいだの連休は
詩を書くつもりだったけど、書けなかった。
蟹と戯れる
啄木
ではなく
ぼく
でもなく
ママ。

思ふ。
ママは
蟹の
巨大なハサミにまたがって
ビッビー
シャキシャキッと
おいしいご飯だよ。
ったく、ぼく。
カンニングの竹山みたいな
怒鳴り声で
帰り道
信号を待ってると
いや、信号が近づいてくるわけじゃなく
信号が変わる
じゃなく
信号の色が
じゃなく
電灯のつく場所がかわるのを待ってたんだけど
信号機が
カンカンなってた
きのうのこと
じゃなくて
きょうのこと
ね。
啄木が
ぼくの死体と戯れる。
さわさわとざらつく
たくさんのぼくの死体を
啄木が
波のように
足の甲に
さわっていくのだ。
啄木は
ぼくの死後硬直で
カンカンになった
カンカン鳴ってたのは
きのうの夜更けだ。
二倍の大きさにふくらんだ
ぼくの腐乱死体だ。
だから行った。
波のように
啄木の足元に
ゴロンゴロン横たわる
ぼくの死体たち。
蟹、われと戯れる。
いたく、静かな
いけにえの食卓。
ぽくぽく。
ったく、ぼく。

啄木。
ふがあ
まことに
人生は
一行の
ボードレールである。
ぼくの腕 目をつむるきみの重たさよ
狒狒、非存在たることに気づく、わっしゃあなあ。
木歩のことは以前に
書いたことがある。
木歩の写真を見ると思い出す。
関東大震災の日に
えいじくんが
火炎のなかで、教授に怒鳴られて
ぼくの部屋で
雪合戦。
手袋わざと忘れて。
もう来いひんからな。
ストレンジネス。
バタンッ!
大鴉がくるりと振り向き
アッチャキチャキー
愛するものたちの間でもっともよく見られる衝動に
愛するものを滅ぼしたいという気持ちがある。
関東大震災の日に
えいじくんが
ぼくと雪合戦。
ヘッセなら
存在の秘密というだろう。
2001年1月10日の日記から抜粋。
夜、ヤリタさんから電話。
靴下のこと。
わたしの地方では、たんたんていうの思い出したの。
靴下をプレゼントしたときには気づかなかったのだけれど。
とのこと。
客観的偶然ですね。

ぼく。
いま考えると
客観的偶然ではなかったけれど、
たんたん。
ね。
ぼくのちっぽけな思い出だな。
ちっぽけなぼくの思い出、ね。
笑。
金魚が残らず金魚だなんて
だれが言った!
原文に当たれ
I loved the picture.
べるで・ぐるってん
世界は一枚の絵だけ残して滅んだ。
どのような言葉を耳にしても
目にしても
詩であるように感じるのは
ぼくのこころが、そう聞こえる
そう見える準備をしているからだ。
それは、どんな言葉の背景にも
その言葉が連想させる
さまざまな情景を
たくさん、もうたくさん
ぼくのこころが重ね合わせるからだ。
詩とはなにか?
そういったさまざまな情景を
(目に見えるものだけではない)
重ね合わそうとするこころの働きだ。
部長!
笑。
笑えよ。
人生は一行の
ボードレールにしか過ぎない。
笑。
笑えよ。
そうだったら、すごいことだと思う。
笑。
仲のよい姉妹たちが
金魚の花火を見上げている。
夜空に浮かび上がる
光り輝く、真っ赤な金魚たち。
金魚が回転すると冷たくなるというのはほんとうだ。
どの金魚も
空集合。
Φ。
2002年1月14日の日記から抜粋。
(ああ、てっちゃんのことね。)
いままで見た景色で、いちばんきれいだと思ったのはなに?
カナダで見たオーロラ。
カナダでも見れるの?
うん。北欧でも見れるけど。
どれぐらい?
40分くらいつづくけど
20分くらいしか見られへん。
どうして?
寒くて。
寒くて?
冷下30度以下なんやで。
ギョギー、目が凍っっちゃうんじゃない?
それはないけど。
海なら、どこ?
パラオ。
うううん、だけど、沖縄の海がいちばんきれいやったかな。
まことに
人生は
一行のボードレールである。
快楽から引き出せるのは快楽だけだ。
苦痛からは、あらゆるものが引き出せる。笑えよ。
この世から、わたしがいなくなることを考えるのは、
それほど困難なことでも怖ろしいことでもないのだけれど
なぜ、わたしの愛するひとが、
この世からいなくなることを考えると、怖ろしいのか。
しゃべる新聞がある。
手から放そうとすると
「まだまだあるのよ、記事が。」
という。
キキ
金魚!
悲しみをたたえた瞳を持って牛たちが歩みくる。
それは本来、ぼくの悲しみだった。
できたら、ぼくは新しい悲しい気持ちになりたかった。
夕暮れがなにをもたらすか?
仮面をつける。
悲しみをたたえた瞳を持って牛たちが歩みくる。
それは言葉のなかにないのだから
言葉と言葉のあいだにあるものだから
から
か。
わが傷はこれと言いし蟻 蟻をひく
Soul-Barで
Juniorの
Mama Used Said
はやりの金魚をつけて、お出かけする。
あるいは、はやりの金魚となって、お出かけする。
石には奇形はない。
記憶のすべてとは?
記憶とは、想起されるものだけ?
想起されないものは?
一生の間、想起されずに
でも、それが他の記憶に棹さして
想起せしめることもあるかもしれない。
どこかに書いたことがあるけど
いつか想起されるかもしれないというのは
いつまでも想起されないこととは違うのかな?
習慣的な思考に、とはすでに単なる想起にしかすぎない。
金魚のために
ぼくは、ぼくのフリをやめる。
矢メール。
とがらした鉛筆を喉に突きつけて
両頬で締め付ける。
ぼくだけの愛のために。
ストラップは干し首。
ぼくの恋人の金魚のために
夜毎本を手にして
人間狩りに出かける。
声が
そんなこととは、とうてい思え!
夜毎、レイモンド・ラブロックは
壁にかかった
恋人の金魚に
声が
知っている。
きのう、フランク・シナトラのことを思い出していた。
新しい詩が書けそうだ、ということ。
うれしいかなしい。
金魚、調子ぶっこいて、バビロン。
タスマニアの少年のペニスは、ユリの花のようだったと
金魚、調子ぶっこいて、バビロン。
枯山水の金魚が浮遊する。
いたるところ
金魚接続で
いっぴきぴー。
と、
いたるところ
金魚接続で
にっぴきぴー。
と、
いたるところ
金魚接続で
さんぴきぴー。
と、
ス、来る。
と、ラン、座ぁ。
匹ぃー。
XXX
二rtgh89rtygんv98yんvy89g絵ウhg9ウ8fgyh8rtgyr8h地hj地jh地jfvgtdfctwdフェygr7ウ4h地5j地54ウy854ウ7ryg6ydsgfれjんf4klmgl;5、yhp6jl^77kじぇ^yjhw9thjg78れtygf348yrtcvth54ウtyんv5746yんv3574ytんc−498つcvん498tんv498yんt374y37tyん948yんrt6x74rv23c47ty579h8695m9rつbヴァ有為ftyb67くぇ4r2345vjちょjkdypjkl:h;lj、帆印b湯fttrゑytfでtfryt3フェty3れ76t83ウrgj9pyh汁9kjtyj彫る8yg76r54cw46w6tv876g643エgbhdゲう7h9pm8位0−『mygbfy5れうhhんg日htgyん;ぃm:drs6ゑs364s3s34cty日おじjklj不khjkcmヴィfhfgtwfdtwfれswyツェdぎぃウェってqqsnzkajxsaoudha78絵rゑ絵bkqwjでyrg3絵rgj家f本rbfgcぬ4いthbwやえあfxkうぇrjみうryんxqw
ざ、が抜けてるわ。金魚、訂正する。
性格に言えば、提供する。
時計の針で串刺しの干し首に
なまで鯛焼き。
目ゾット・ふい。
赤い色が好きだわ。
と、金魚が逝った。
ぼくも好きだよ。
とジャムジャムが答えた。
あなたはもっと金魚だわ、
と金魚が逝った。
きみだって、だいたい金魚だよ、
とジャムジャムが答えた。
ふたりは、ぜんぜん金魚だった。
大分県の宿屋の大づくりの顔の主人が振り返って逝った。
も一度死んでごらん。
ああ、やっぱりパロディはいいね。
書いてて、気持ちいいね。
打っててかな。
注射は打ったことないけど。
あ、打たれたことあるけど。
病院で。
暴れる金魚にブスっと。
あのひとの頬は、とてもきれいな金魚だった。
聖書には、割れたざくろのように美しいという表現があるけど
あのひとの身体は
割れた金魚のように美しいとは
言え。
まるまると太った金魚が、わたしを産む。
ブリブリブリッと。
まるまると太った金魚が、わたしを産む。
ブリブリブリッと。
オーティス・レディングが、ザ・ドッグ・オブ・ザ・ベイを
ぼくのために歌ってくれていたとき
ぼくの金魚もいっしょに聞きほれていた。
ニャーニャー闇ってる。
ひどい闇だ。
新しい詩は、形がすばらしい。
ぼくはきのう
おとついかもしれない。
最近、記憶がぐちゃぐちゃで
きのうと、おとついが
ぼくのなかでは、そうとう金魚で
出かかってる。
つまずいて
喉の奥から
携帯を吐き出す。
突然鳴り出すぼくの喉。
無痛の音楽が
ぼくの携帯から流れ出す。
無痛の友だちや恋人たちの声が
ぼくの喉から流れ出す。
ポン!
こんなん出ましたけど。
ジョニー・デイルの右手に握られた
単行本は、十分に狂気だった。
狂気ね。
凶器じゃないのかしらん? 笑。
まるまると太った金魚が、わたしを産んでいく。
ブリブリブリッと。
まるまると太った金魚が、わたしを産んでいく。
ブリブリブリッと。
そこらじゅうで
金魚、日にちを間違える。
もう一度。
ね。
moumou と sousou の
金魚。
moumou と sousou の
金魚。
金魚が、ぼくを救うことについて
父子のコンタクトは、了解。
これらのミスは、重大事件に間違い。
バッカじゃないの?
わかった。
歴史のいっぱい詰まった金魚が禁止される。
金魚大統領はたいへんだ。
もう砂漠を冒険することもできやしない。
してないけど。笑。
冒険は、金魚になった
広大な砂漠だった。
モニターしてね。笑。
こういうと、二千年もの永きにわたって繁栄してきた
わが金魚テイク・オフの
過去へのロッテリア。
金魚学派のパパ・ドミヌスは
ぼくに、そうっと教えてくれた。
金魚大統領の棺の
肛門の
栓をひねって
酔うと、
ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
冷たい涼しい。
金魚のような
墓地。
ぼくの
moumou と sousou の
金魚たち。
いつのまにか、複製。
なんということもなく
ぼくを吐き出す
金魚の黄色いワイシャツの汚れについて
おぼろげながら
思い出されてきた。
二十分かそこらしたら
扇風機が、金魚のぼくを産む。
びぃよるん、
ぱっぱっと。
ぼくを有無。
ふむ。
ムム。
ぷちぷちと
ぼくに生まれ変わった黄色いワイシャツの汚れが
砂漠をかついで
魔法瓶と会談の約束をする。
階段は、意識を失った幽霊でいっぱいだ。
ぼくの指は、死んだ
金魚の群れだ。
ビニール製の針金細工の金魚が
ぼくの喉の奥で窒息する。
苦しみはない。
金魚は
鳴かないから。
金魚のいっぱい詰まった扇風機。
金魚でできた金属の橋梁。
冷たい涼しい。
の 
デス。 
ぼくの部屋の艶かしい
金魚のフリをする扇風機。
あたりにきませんか?
冷たい涼しい。

デス。
ぼくの部屋に吹く艶かしい
金魚のフリをする扇風機。
あたりにきませんか?
キキ
あたりにきませんか?
キキ
金魚は
車で走っていると
車が走っていると
突然、金魚のフリをする扇風機。
あたりにきませんか?
キキ
あたりにきませんか?
キキ
金魚迷惑。
金魚イヤ〜ン。
キキ
金魚迷惑。
金魚イヤ〜ン。
扇風機、突然、憂鬱な金魚のフリをする。
あたりにきませんか?
キキ
あたりにきませんか?
キキ
金魚は
車で走って
車は走って
あたりにいきませんか?
金魚のような
墓地の
冷たい涼しい
車に。
キキ
金魚。
キキ
金魚。
キキ
キィイイイイイイイイイイイイイイイイイ
ツルンッ。 
よしこちゃん
こんな名前の知り合いは、いいひんかった。
そやけど、よしこちゃん。
キキ
金魚。
しおりの
かわりに
金魚をはさむ。
よしこちゃんは
ごはんのかわりに
金魚をコピーする。
キキ
金魚。
よしこちゃん。
晩ご飯のかわりに
キキ
きのうも、ヘンな癖がでた。
金魚の隣でグースカ寝ていると
ぼくの瞼の隙を見つけて
ぼくのコピーが金魚のフリをして
扇風機は、墓地の冷たい涼しい
金魚にあたりにきませんか?
きのうは金魚の癖がでた。
石の上に
扇風機を抱いて寝ていると
グースカピー
ぼくの寝言が
金魚をコピーする。
吐き出される金魚たち。
憂鬱な夜明けは、ぼくの金魚のコピーでいっぱいだ。
はみ出した金魚を本にはさんで
よしこちゃん。
ぼくを扇風機で
金魚をコピーする。
スルスルー。
ピー、コッ。
スルスルー。
ピー、コッ。
スルスルー。
いひひ。笑。
ぼくは金魚でコピーする。
真っ赤に染まった
ぼくの白目を。
金魚のコピーが
ぼくの寝ている墓地の
あいだをスルスルー
と。
扇風機、よしこちゃん。
おいたっ!
チチ
タタ
無傷なぼくは
金魚ちゃん。
チチ
マエストロ。
金魚は置きなさい。
電話にプチチ
おいたは、あかん。
フチ。
魔法瓶を抱えて
金魚が砂漠を冒険する。
そんな話を書くことにする。
ぼくは二十年くらい数学をおしえてきて
けっきょく、数について、あまりにも無恥な自分がいるのに
飽きた。
秋田。
あ、きた。
背もたれも金魚。
キッチンも金魚。
憂鬱な金魚でできたカーペット。
ぼくをコピーする金魚たち。
ぼくはカーペットの上に、つぎつぎと吐き出される。
まるで
金魚すくいの名人のようだ。
見せたいものもないけれど
まるで金魚すくいの名人みたいだ。
二世帯住宅じゃないけれど
お父さんじゃない。
ぼくのよしこちゃんは
良妻賢母で
にきびをつぶしては
金魚をひねり出す。
じゃなくて
金魚をひねる。
知らん。
メタ金魚というものを考える。
メタ金魚は言語革命を推進する。。
スルスルー
っと。
メタ金魚が、魔法瓶を抱えて砂漠を
冒涜するのをやめる。
ぼくのことは
金魚にして。
悩み多き青年金魚たち。
フランク・シナトラは
自分の別荘のひとつに
その別荘の部屋のひとつに
金魚の剥製をいっぱい。
ぼくの憂鬱な金魚は
ぼくのコピーを吐き出して
ぼくをカーペットの上に
たくさん
ぴちゃん、ぴちゃん。
ぴちゃん、ぴちゃん。
て、
キキ。
金魚。
扇風機といっしょに
車に飛び込む。
フリをする。
キキ
金魚
ぴちゃん。
ぴちゃん。
ププ。
ああ
結ばれる
幸せな
憂鬱な
金魚たち。
ぼくは、だんだん金魚になる。
なっていくぼくがうれしい。
しっ、
死ねぇっ!
ピッ
moumou と sousou の
金魚。
moumou と sousou の
金魚。
金魚が、ぼくを救うことについて
父子のコンタクトは、了解。
これらのミスは、重大事件に間違い。
バッカじゃないの?
わかった。
歴史のいっぱい詰まった金魚が禁止される。
金魚大統領はたいへんだ。
もう砂漠を冒険することもできやしない。
してないけど。笑。
冒険は、金魚になった
広大な砂漠だった。
モニターしてね。笑。
こういうと、二千年もの永きにわたって繁栄してきた
わが金魚テイク・オフの
過去へのロッテリア。
金魚学派のパパ・ドミヌスは
ぼくに、そうっと教えてくれた。
金魚大統領の棺の
肛門の
栓をひねって
酔うと、
ぼくは金魚に生まれ変わった扇風機になる。
冷たい涼しい。
金魚のような
墓地。
ぼくの
moumou と sousou の
金魚たち。
いつのまにか、複製。
なんということもなく
金魚大統領と面会の約束をする。
当地の慣習として
それは論議の的になること間違い。
笑。
FUxx You
これは
ふうう よう
と読んでね。
笑。
当地の慣習として
眼帯をした金魚の幽霊が
創造と現実は大違いか?
想像と堅実は大違いか?
sousou
意識不明の幽霊が
金魚の扇風機を
手でまわす。
四つ足の金魚が、ぼくのカーペットの上に
無数の足をのばす。
カーペットは、ときどき、ぼくのフリをして
金魚を口から吐き出す。
ぷつん、ぷつん、と。
ぼくの白目は真っ赤になって
からから鳴かなかった。
金魚に鳴いてみよと
よしこちゃんがさびしそうにつぶやいた。
完全密封の立方体金魚は
無音で回転している。
とってもきれいな
憂鬱。
完全ヒップなぼくの扇風機は
金魚の羽の顧問だ。
カモン!
ぼくは、冷蔵庫に、お父さんの金魚を隠してる。
金魚のお父さんかな。
どっちでも、おなじだけど。笑。
ときどき、墓地になる
金魚
じゃなかった
ぼくの喉の地下室には
フランク・シナトラ。
目や耳も
呼吸している。
息と同じように
目や
耳も
呼吸している。
呼吸しているから
窒息することもある。
目や耳も、呼吸している。
白木みのる
ってあだ名の先生がいた。
ぼくと一番仲のよかった友だちがいた研究室の先生だったけど
とっても高い声で
キキ、キキ
って鳴く
白木みのるに似た先生だった。
ある日、その先生の助手が
(こちらは顔の大きなフランケンシュタインって感じね。)
学生実験の準備で、何か不手際をしたらしくって
その先生に、ものすごいケンマクでしかられてたんだって
「キキ、キミ、その出来そこないの頭を
 壁にぶち当てて、反省しなさい。」
って言われて。
で、
その助手もヘンな人で
言われたとおりに
その出来そこないの頭を
ゴツン、ゴツン
って、何度も壁にぶちあてて
「ボボ、ボク、反省します。
 反省します。」
って言ってたんだって。
友だちにそう聞いて
理系の人間って、ほんとにイビツなんだなって
思った。
プフッ。。
田中さんといると、いつも軽い頭痛がする、と言われたことがある。
ウの目、タカの目。
方法序説のように長々とした前戯。
サラダバー食べすぎてゲロゲロ。
言葉。
言葉は、自我とわたしを結ぶ唯一の媒体である。
言葉がそのような媒体であるのは
言葉自体が自我でもなく
わたしでもないからであるが
媒体という言葉をほかの言葉にして
言葉は自我であると同時にわたしであるからだと
思っているわたしがいる。
理解を超えるものはない。
いつも理解が及ばないだけだ。
お母さんを吐き出す。
お父さんを吐き出す
うっと、とつぜんえずく。
内臓を吐き出して
太陽の光にあてる。
そうやって浜辺で寝そべるぼく

イメージ。
たくさんの窓。
たくさんの窓にぶら下がる
たくさんのぼく

抜け殻。
ぼくの姿をしたさなぎ。
紺のスーツ姿で、ぼうっと突っ立っているぼく。
ぼくのさなぎの背中が割れる。
スーツ姿のぼくが
ぼくのスーツ姿のさなぎから
ぬーっと出てくる。
死んだまま。
つぎつぎと
アドルニーエン。
アドルノする。
難解にするという意味のドイツ語
だという。
調べてないけど、橋本くんに教えてもらった。
2002年2月20日のメモは
愛撫とは繰り返すことだ。
アドルニーエン。
アドルノする。
難解にするという意味のドイツ語
だという。
調べてないけど、橋本くんに教えてもらった。


陽の埋葬

  田中宏輔



 蜜蜂は、わたしの手の甲を突き刺した。わたしは指先で、その蜜蜂をつまみ上げた。毒針ごと蜜蜂の内臓が、手の甲のうえで、のたくりまわっている。やがて、煙をあげて、その毒針と内臓が、わたしの手の甲から、わたしのなかに侵入していった。黒人の青年がその様子をまじまじと見つめていた。「それですか?」「そうだ。おまえの連れてきた娘は、覚悟ができているのか?」白人の娘がうなずいた。まだ二十歳くらいだろう。「エクトプラズムの侵入には苦痛が伴う。そのうえ、ほとんど全身を変化させるとすると、そうとうの苦痛じゃ。あまりの苦痛に死ぬかもしれん。それでもよいのじゃな。」「ええ、覚悟はできています。」女はそう言うと、黒人青年の手を強く握った。「では、さっそく施術にとりかかろう。」わたしは二人を施術室に案内した。「夏じゃった。わしは祖父の手に引かれて、屋敷の裏にある畑にまで行ったのじゃ。祖父が、隅に置かれた蜂の巣を指差した。すると、どうじゃろう。まるで蜜が沸騰しているかのように、黄金色の蜂蜜が吹きこぼれておったのじゃ。」老術師は左手の甲を顔のまえに差し上げた。「蜜蜂というものはな。同じ花の蜜しか集めてこんのじゃ。一度味わった花の蜜だけを、その短い一生のあいだに集めるのじゃ。祖父は、わしと同じくらいの齢の童子をさらってきたのじゃな。蜂の巣のそばの樹の根元に幼児が横たわっておったのじゃ。わしの畑の蜜蜂たちは、生きている人間から蜜を集めておったのじゃ。エクトプラズムという蜜を。わしの畑の蜜蜂たちは、人間の命という花から、魂にもひとしいエクトプラズムという蜜を集めておったのじゃ。」老術師の左手の甲を蜜蜂が刺した。老術師は痛みに顔をゆがめた。「苦痛が、わしを神と合一させるのじゃ。」老術師の左手の甲に、蜜蜂の姿がずぶずぶと沈んでいった。「詩人ならば、苦痛こそ神であると言ったであろうな。」老術師が奥の部屋の扉を開けると、蜜蜂たちのぶんぶんとうなる羽音がひときわ大きくなった。「あやつの信奉しておるあの切腹大臣の三島由紀夫は、日本の魂を売りおったのじゃ、おぬしら外国人にな。」老術師はその皺だらけの醜い顔をさらにゆがめて皮肉な笑みを浮かべた。「そして、おぬしら外国人によって名誉を汚されるというわけじゃ。」黒人青年は握っていた手に力を入れた。白人女性も同じくらいの強さでその手を握り返した。「もはやアメリカは、日本の属国ではないのだ。たとえ先の大戦で、アメリカが日本に負けたといっても、それは半世紀以上もまえのこと。とっくに、アメリカは、日本から独立しているべきだったのだ。」老術師は声を出して笑った。「いやいや、そんなことは、どうでもよい。わしはあの三島由紀夫と、あの詩人の一族が名誉を失うところが見たいのじゃ。ただ、それだけじゃ。」老術師が、蜜蜂の巣のほうに、その細い腕を上げると、蜜蜂たちが螺旋を描きながら巣のなかから舞い出てきた。白人女性が叫び声を上げようとした瞬間に、無数の蜜蜂たちが、吸い込まれるようにして、その口のなかにつぎつぎと舞い降りていった。女性の身体は激痛に痙攣麻痺して、後ろに倒れかけたが、黒人青年の太い腕が彼女の身体を支えた。白人女性の白い皮膚のしたを、蜜蜂たちがうごめいている。うねうねと蜜蜂たちがうごめいている。白人女性の血管のなかを、蜜蜂たちが這いすすむ。するすると蜜蜂たちが這いすすむ。蜜蜂たちは、女性の命の花から、魂を齧りとってエクトプラズムの蜜として集めていた。「あすには、変性が完了しておるじゃろう。」黒人青年は疑問に思っていたことを尋ねた。「あなたがわれわれに手を貸したことがわかってはまずいのではないか。」老術師が遠くを見るような目つきで言った。「死は恥よりもよいものなのじゃ。」黒人青年にはその言葉の意味するところのものがわからなかった。

 わたくしが、この物質を発見したいきさつについて、かいつまんでお話しいたします。わたくしは、同志社大学の、いまは理工学部となっておりますが、わたくしが学生のころは、工学部だったのですが、その工学部の工業化学科を卒業したあと、研究者になるために、大学院に進学して、さらに研究をつづけていたのですが、博士課程の途中で、ノイローゼにかかり、自殺未遂をしたあと、博士課程の後期に進学せず、前期修了だけで、工業試験所に就職したのですが、このときの自殺未遂については、雑誌にエッセイとして発表してありますので、詳しく知りたい方は、さきほど配布していただいた資料に掲載されておりますので、後ほどお読みください、すみません、わたくしの話はよく横道にそれる傾向があるようです。工業試験所では、わたくしは、レアメタルを3次元焼着させた電極(スリー・ディメンショナル・アノード)を用いて、高電位で、インク溶液を電気分解していたのですが、あるとき、偶然から、まったく同じ詩が書かれているページを溶解した溶液なのに、異なる本から抽出した異なるインクから、同じ物質が電極の表面に付着していることに気がついたのです。レーザー・ラマン・スペクトル解析やガスクロマトグラフィーによって、その物質の組成をつきとめることは、みなさんご存じのとおり、可能ではありましたが、その構造解析にいたっては、いまだに解明されてはおりません。その解明が、わたくしの一生の仕事になると、いまでも信じ、研究をつづけておりますが、さて、この物質、わたくしが、「詩歌体」と命名した物質ですが、これは、同じ詩や短歌や俳句、あるいは、哲学書やエッセイにおいても、異なる本に書かれてあれば、抽出される量が、インクの種類や量の違いよりも、その文字の書体やページの余白といったもののほうにより大きく依存していることがわかったのですが、このことが、この物質、「詩歌体」の構造解析の難しさをも語っているのですが、通常の物質ではなくて、わたくしたち科学者と異なる歴史と体系をもつ「術師」と呼ばれる公認の呪術の技術者集団によってつくり出されるエクトプラズム系の物質であること、そのことだけは、わかったのですが、高電位の電気分解、しかも、レアメタルの3次元電極でのみ発見されたことは、わたくしの幸運であり、僥倖でありました。いまも務めております工業試験所で、このたび、わたくしは、あるひとりの術師と協力して、この「詩歌体」の構造解析に取り組むこととなりました。術師は、本名を明かさないのが世のつねでありますので、性別くらいは発表してもよろしいでしょうか、彼の協力のもとで、このたび、この財団、「全日本詩歌協会」の助成金により、わたくしの研究がすすめられることは、まことによろこばしい限りであり、かならずや、「詩歌体」の構造を解明できるものと思っております。(ここで、横から紙が渡される。)本名でなければ、術師の名前を明かしてもいいそうです。わたくしに協力してくださる術者のお名前は、みなさんもよくご存じの、あの「詩人」です。リゲル星人と精神融合できる数少ない術師のお一人です。わたくしは、まだ一度しかお目にかかっておりませんが、このあいだ、切腹大臣の三島由紀夫さんが活躍なさった、アメリカ独立戦線のテロリストの逮捕事件で、リゲル星人の通訳をなさっていた方です。それでは、「全日本詩歌協会」のみなさまのますますのご発展と、わたくしの研究の成功をお祈りして、この講演を終えることにします。ご清聴くださいまして、ありがとうございました。しばし、沈黙の時間を共有いたしましょう。(会場の隅にいた、協会の術師たちが結界をほどきはじめる。)

「「葉緑体」が、気孔から取り入れた空気中の二酸化炭素と、地中から根が吸い上げた水とから、日光を使って、酸素とでんぷんをつくり出すように、「詩歌体」は、言葉のなかから非個人的な自我ともいうべき非個人的なロゴス(形成力)と、その言葉を書きつけた作者の個人的自我ともいうべき個人的なロゴス(形成力)を、読み手の個人的な自我と非個人的な自我と合わせて、その言葉が新しい意味概念とロゴスを形成し、獲得すると思っているのですが、どうでしょう?」こう言うと、詩人は、つぎのように答えた。「そうかもしれませんが、「葉緑体」そのものは、作用して働いているあいだ、遷移状態にあるわけですが、作用が終わり、働きを終えると、もとの状態に戻ります。」そして尋ねてきた。「「詩歌体」もそうなのですか?」わたくしは詩人の目を見つめながら言った。「わたくしは、「詩歌体」の作用や働きについても、まだ確信しているわけではないのです。自らが変化することなく他を変化せしめるだけの存在なのか、そうではないのか、まだわかりません。ただ、「詩歌体」というものが、語自体のもつ非個人的なロゴス(形成力)と、語を使う者によって付与される個人的なロゴス(形成力)を結びつけ、新しいロゴスを生成するということだけがわかっています。ところで、」と言って、わたくしは、顔をかしげて、わたくしの机のうえに置かれた1冊の詩集に目を落としている詩人に向かって、話をつづけた。「その点を明らかにすることができるのかどうか、絶対的な確信を抱いているわけではないのですが、あなたが仮の名前の「田中宏輔」名義で出されている、この引用だけでつくられた詩集ですが、これを実験に使わせていただこうと思っているのですよ。」そう言うと詩人は、目をあげて、わたくしの目を見つめた。「あなたは、一つ間違っています。実験についての方針は、あなたが決めることですから、その目的も方法も、あなたの思われるようになさればよいでしょう。わたしは協力できることは、できる限り協力しましょう。間違いとはただ一つ、ささいなことですが、見逃せません。「田中宏輔」というのは、わたしの仮の名前ではありません。わたしが、アイデアを拝借した一人の青年の名前です。彼は彼の30代の終わりに自殺して亡くなりましたが、詩集を出していたのは、わたしではなく彼なのですよ。」わたくしは、手にしていた詩集を机のうえに置いた。詩人はそれを見て、ふたたび話しはじめた。「おもしろい青年でしたよ。わたしがリゲル星人とともに訪れた12のすべてのパラレル・ワールドで、残念なことに、彼は30代の終わりに自殺していましたが、まあ、もともと12のパラレル・ワールドは、お互いにほとんど区別がつかないくらいに似通っていますから、不思議なことではないのですが、残念なことでした。ところで、その詩集は、彼が上梓したさいごの詩集でしたね。できる限り、その詩集を集めて実験に使われるとよろしいでしょう。」そう言うと、詩人は腰を上げて、外套に袖を通すと、ひとこと挨拶して、わたくしの部屋を出て行った。わたくしは、机のうえに置いた詩集を取り上げると、ぱらぱらとページをめくっていった。すべての詩篇が引用だけでつくられているのであった。ロゴス、ロゴス、ロゴス。非個人的なロゴスと、個人的なロゴス。意識的領域におけるロゴスと、無意識的領域におけるロゴス。すべては、この語形成力、ロゴスによるものなのだろう。わたくしも帰り支度をするために椅子を引いて立ち上がった。


陽の埋葬

  田中宏輔



Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

tuum est.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

お前の授かりものだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

mel
蜂蜜
(研究社『羅和辞典』)

accipe hoc.
これを受けよ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

蜂窩(ほうか)から取りたての金色の蜜だ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

tuum est.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

tuo nomine
汝のために
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

dabam.
私は與へたり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。
(マルコによる福音書一・一一)

わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
(エレミヤ書三一・三)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言三・一)

聞け、よく聞け、
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

もし、汝、その父をかつて愛していたならばーー
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

手を伸ばし
(マタイによる福音書一二・一三)

しっかと爪(つめ)を立て
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

わたしを引き裂いて
(哀歌三・一一)

唇に吸うのだ。
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

蜜はたっぷりある。


est,est,est.
ある、ある、ある。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

というのも、
(プルースト『失われた時を求めて』見出された時、鈴木道彦訳)

わたしの血管には蜜が流れていて、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

ad imis unguibus usque ad summum verticem
兩足の爪の先より頭の天邊まで
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

脈管の中にみなぎり流れ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

体のすみずみまで
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

ex pleno
満ち溢れて
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

あぶくを立てながら血管をめぐる。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部、手塚富雄訳)

ぐるぐる回っている。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

ああ、この空隙!
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

この空隙はすっかり満たされるのだ、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

誰が私を造ったのか。
(アウグスティヌス『告白』第七巻・第三章、渡辺義雄訳)

hoc est corpus meum.
これは私の身體なり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

あらゆるぎざぎざした岩の狭間(はざま)から
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう。
(詩篇八一・一六)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

ubi mel,ibi apes.
蜜のあるところ、そこに蜜蜂あり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

わが胸の蜜窩(みつぶさ)には、無数の蜜蜂どもがうごめいている。


これはわたしの生き物たちだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳、句点加筆)

胸の奥ふかく
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

心臓の奥の奥まで
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

わが胸は、蜜蜂たちの棲処(すみか)となっているのだ。


Bienenbeute
蜜蜂の巣
(相良守峯編『独和辞典』博友社)

恐ろしい姿だ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

けれども心臓は鼓動している。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第四の歌、栗田 勇訳)

わたしの心臓は喉(のど)までも鼓動してくる。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部、手塚富雄訳)

わたしが蜜に欠くことがないように、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

休みなく活動する
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

apis
蜂、蜜蜂
(研究社『羅和辞典』)

わがむねの、満(み)つるまで、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

行きつ戻りつして、
(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳)

この胸に積みかさね、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あっちこっちと動いている。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、句点加筆)

ぐるぐる動きまわってる。
(ジョイス『ユリシーズ』6・ハーデス、永川玲二訳)

心臓のひだを暖めてる。
(ジョイス『ユリシーズ』6・ハーデス、永川玲二訳)

でなかったら、どうして鼓動していることだろう。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第四の歌、栗田 勇訳)

心臓の脈管は百と一つある。
(『ウパニシャッドーー死神の秘儀』第六章、服部正明訳)

aorta
大動脈
(研究社『羅和辞典』)

arteriola
小動脈
(研究社『羅和辞典』)

この体の血管の一つ一つ
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第四場、大山俊一訳)

わたしの洞窟(どうくつ)に通じている
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

あらゆる血管の中を
(シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第五場、大山俊一訳)

Und immer eins dem andern nach,
あとから、あとから、一匹ずつ通ってゆく。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

おお、わたしの古いなじみの心臓よ、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

わたしの洞窟は広く、深く、多くの隅(すみ)をもっている。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

あちこちの裂目(さけめ)から
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

飛び去る
(ナホム書三・一六)

わたしの生き物たち。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部、手塚富雄訳、句点加筆)

口々に
(シェイクスピア『ハムレット』第四幕・第五場、大山俊一訳)

蜜をしたたらせ、
(箴言五・三)

百千の群なして
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

大きな群れとなってここに帰ってくる。
(エレミヤ書三一・八)

たしかに、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

恐ろしい姿だ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

だが、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

恐れることはない。
(マタイによる福音書二八・一〇)

おまえの父だ!
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

まさしくわたしなのだ。
(ルカによる福音書二四・三九)

なぜこわがるのか、
(マタイによる福音書八・二六)

this is my body,
これはわたしのからだである。
(マタイによる福音書二六・二六)

手をのばしてわたしのわきにさし入れなさい。
(ヨハネによる福音書二〇・二七)

さあ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

あなたの指をここにつけて、
(ヨハネによる福音書二〇・二七)

心ゆくばかりさしこむのだ。
(アドルフ・ヒトラー『わが闘争』第二章、平野一郎訳)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

胸の奥ふかく
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

心臓の奥の奥
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

私の最も深い所よりもっと深い所に、
(アウグスティヌス『告白』第三巻・第六章、渡辺義雄訳)

いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる
(マルコによる福音書三・二九)

一人の女がいる。


ごらんなさい。これはあなたの母です。
(ヨハネによる福音書一九・二七)

今もなお、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

わたしの内に宿っている罪である。
(ローマ人への手紙七・二〇)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言二四・一三)

思い出すがよい。
(ルカによる福音書一六・二五)

かつて、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

一人の女がこの世に罪をもたらした。
(ジョイス『ユリシーズ』7・アイオロス、高松雄一訳)

culpa

(研究社『羅和辞典』)

culpa

(研究社『羅和辞典』)

culpa

(研究社『羅和辞典』)

罪の数々はよりどりみどり、
(シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第一場、大山俊一訳)

ibi
そこに
(研究社『羅和辞典』)

hic
ここに
(研究社『羅和辞典』)

ubicumque
至る所に
(研究社『羅和辞典』)

est,est,est.
あり、あり、あり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言二四・一三)

accipe hoc.
これを受けよ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

罪の増すところには恵みもいや増す。
(ローマ人への手紙五・二〇)

tuo nomine
汝のために
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

わが胸の蜜蜂は、


これを集め、
(ハバクク書一・一五)

これを蜜に変える。


これをみな蜜に変える。


これをみな、ことごとく蜜に変える。


costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、
(箴言二四・一三)

思い出すがよい。
(ルカによる福音書一六・二五)

かつて、
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第二部、井上正蔵訳)

一人の男が、蜂の巣のしたたりに手を差しのべた。


腕を差しのべた。
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

いったい誰なのか。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

汝の父である。


おまえの父である。


わたしは蜜を愛する。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

わたしは手を差しのべた。


わたしは蜜を愛する。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

わたしは手を差しのべた。


わたしは蜜を愛する。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

わたしは手を差しのべた。


ああ、誰かこれをまのあたりにして、
(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)

欲しないものがあろうか。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

子よ、
(創世記二七・八)

子よ、
(創世記二七・八)

similis patris
父に似たる
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

わが子よ、
(箴言一・一〇)

proles sequitur sortem peternam.
子は父の運命に随ふ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

逃れるすべはないのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、読点加筆)

proles sequitur sortem peternam.
子は父の運命に随ふ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

逃れるすべはないのだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、読点加筆)

Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

est tuum.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

totum in eo est.
全體(すべて)がそれにあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』ルビ加筆)

costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

わたしの洞窟は広く、深く、多くの隅(すみ)をもっている。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四・最終部、手塚富雄訳)

胸の奥ふかく
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

心臓の奥の奥
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

私の最も深い所よりもっと深い所に、
(アウグスティヌス『告白』第三巻・第六章、渡辺義雄訳)

いくつもの脈管がある。


どれも、神の園に通じる道である。


わが胸の蜜蜂は、


これより蜜を携え、


これより蜜を持ちかえることのできる


唯一の生き物である。


costa
肋骨(ろつこつ)
(研究社『羅和辞典』ルビ加筆)

この岩の古い肋骨(あばらぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

suspice et despice.
上を見よ、下を見よ。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

塊(かたま)りが動いて澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

濁(にご)ってはまた澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

澄(す)んでくる。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

る。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

tuum est.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

dabam.
私は與へたり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

お前の授かりものだ。
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


Mmmmm.


Whip!


子よ、
(創世記二七・八)

わが子よ、蜜を食べよ、
(箴言二四・一三)

est tuum.
それは汝のものなり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

totum in eo est.
全體(すべて)がそれにあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』ルビ加筆)

さあ、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

唇に吸うのだ。
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

恐れることはない。
(マタイによる福音書二八・一〇)

わたしの最上の蜜、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

わたしの最上の蜜、
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部、手塚富雄訳)

versatur mihi labris primoribus.
それは私の唇の尖端にあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

versatur mihi labris primoribus.
それは私の唇の尖端にあり。
(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)

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