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田中宏輔 - 2017年分

選出作品 (投稿日時順 / 全22作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 ソニアは悲鳴をやめ、しわくちゃになったシーツを引っぱり上げて台なしになった魅力を隠すと、みっともなくのどを鳴らして悲劇的な表現に熱中しはじめた。ぼくはものめずらしい気持で彼女を仔細に眺めたが、それは演技だった。でも彼女は女なんだから特に演技してみせることもないのだ、この意味がわかるだろうか?
(キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』2、藤 真沙訳)

むかしというのはいろんな出来事がよく迷子になるところでね
(ロバート・ホールドストック『アースウィンド』4、島岡潤平訳)

 図書館で、だれかが硬い赤い表紙の古い本を床に投げ落とす。それを拾って題名を読む。『幸せな網』
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

 足に熱を感じて見下ろすと、火のついたタバコが靴の下のつま先付近に押しこまれている。だれかがわたしに熱い足をくれたってわけだ。タバコを取り出して、割ってみると、貝殻みたいで中には触手が入っている。でも生きてもいないし動いたりもしない。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

ハム音がしていて、部屋は耳障りな悪意を伝えてくる。なにかがバネ仕掛けで壁から飛び出してくるとか、部屋がいきなり縮んで鳥小屋になってしまうとか。
(ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳)

その時だしぬけにフリエータが明るいキャラメル色の眼でぼくをじっと見つめて、低いけれども力強い声で「キスして」と言った。こちらがしたいと思っていることを向うから言い出してくれたので、一瞬ぼくは自分の耳が信じられず、もう一度今の言葉をくり返してくれないかと言いそうになった。しかし、
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳)

実際に見たものよりも、欺瞞、神秘、死に彩られた物語に描かれた月のほうが印象に残っているのはどういうわけだろう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』あるバレリーナとの偽りの恋、木村榮一訳)

 その美しい顔の下にもうひとつの顔があるのだが、よく見ようと顔を近づけるとたちまち隠された顔が消えてしまう。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』女戦士(アマゾネス)、木村榮一訳)

これ以上なにか見抜かなければならないものはなにも残っていなかった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

「(…)思い出しますか、昔、断崖の頂きから僕たちが眺めた、あの小さなひとびとの姿、あちこちで点々と砂を穿っていた、あの誰とも知れぬ小さな黒い点のことを?……」
「ええ。あなたがこうおっしゃったことまで思いだしますわ。何年かが、何世紀かが過ぎ、そして浜辺にはいつもあの小さな黒い点がある、次々に代りはするが、厳密には同等なものであるあの点が、って」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

 イレーヌの顔には、そういうことがなにか留(とど)められているかと考えて、その顔をじっと眺めてみたが、そこにはなにひとつ留められていないことが、見てとれるような気がした。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳)

 チャーテン場においては、深いリズム、究極の波動分子の振動以外なにものもない。瞬間移動は存在を作り出すリズムのひとつの機能なんだ。セティアンの精神物理学者によれば、それは人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズムへの架け橋なのだ。
(アーシュラ・K・ル・グイン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳)

 しかし、彼の笑顔はこの世にふたつとない笑顔だ。その笑顔を向けられると、人生で出くわすありとあらゆる不幸をそこに見るような気がする。ところが顔に浮かんだその不幸を、彼はあっという間に順序よく並べ替えてしまう。それを見ていると、今度は急に「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じるのだ。
 だから彼と話をするのは楽しい。その笑顔をしょっちゅう浮かべて、そのたびに「ああそうか、心配することはなかったんだ」と感じさせてくれるからだ。
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』31、安原和見訳)

そして彼女は行ってしまった。糖菓(タフイ)のような色の髪と、黄色いドレスと、小さなレース飾りが、彼の目の前で、木の柵の閉じられた門と、小走りに遠ざかってゆく足音に変わった。
(シオドア・スタージョン『夢見る宝石』2、永井 淳訳)

 子供はどこに生まれつこうと、そこに生涯かかってもまだ尽きぬほど、驚嘆すべきものを発見しつづけるに違いない。
(カート・ヴォネガット『パームサンデー』II、飛田茂雄訳)

 いま、ラヴィナは強い人だった、と言いました。(…)今にして思えば、彼女は強さを装っているだけでした。それはわたしたち人間にできる最善のことです。
(カート・ヴォネガット『パームサンデー』VII、飛田茂雄訳)

これは意味のない言葉である。
(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)

ここにはわれわれみんなの学ぶべき教訓がある。
(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)

かつてはこれも人間だったのだ。
(ハーラン・エリスン『キャットマン』池 央耿訳)

「きれいですわね」王妃は言った。王妃の勲章に対する趣味は、その衣装に対するのと似ている。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』14、那岐 大訳)

言葉がすべてを語らず、身体がかわりに話すような場合もあるのだ。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』17、那岐 大訳)

「女に残酷なことはしたくない」そういって不誠意極まる笑みをもらした。人間の顔に浮かぶものとして初めて見たような種類のものだった。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』18、那岐 大訳)

「きみはばかな男ではない、グラブ・ディープシュタール」このことは伯爵はおれのことを自分よりはるかにばかだと考えていることを意味していた。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』18、那岐 大訳)

 選択忘却というあるささやかな方法がある。それによってわれわれは自分がいやだと思う記憶を抑えつけたりゆがめたりする。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』18、那岐 大訳)

記憶というものはなんと二股の働きをするものだろう。一方では現わし、他方では隠す。おれ自身の潜在意識は、おれと闘っていた。
(ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチールラット』2、那岐 大訳)

 完全な感覚遮断にさらされたとき、人間の精神はたちまち現実の把握を失う。処理すべきデータの流入を阻(はば)まれた脳は幻覚を吐きだし、非理性的になり、最終的には狂気へと落ちこんでいく。長期にわたって感覚入力が減った場合の影響は、もっと緩慢で微妙だが、多くの意味でもっと破壊的だ。
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』12、浅倉久志訳)

 そしてまただれもが、そうとは知らずにたえず自身の物語を語っている。人間の身体は、うなったり、肩をすくめたり、無意識に動いたり、無数の表現方法でその人自身を語っているのだ。個性の少なからぬ部分が、意識のコントロールをすりぬけて表面にあらわれ、無意識は肉体をとおして自身を語る。
(グレゴリイ・ベンフォード『銀河の中心』小野田和子訳)

「はやく出ていきたいものだわ」
「かつてはここもすばらしい世界だったのでしょうがね」とホートは答えた。「息子さんはこの星を憎んでいました。いやむしろ、もっと具体的にいえば、この星で彼が見たものを憎んでいました」
「ま、それは理解できますね。あのおそろしい野蛮な人たち──それに、街にいる人間だって大差ないし」
 ホートは彼女の逆転した民主主義をおもしろがった──あらゆる人間を自分よりはるかに劣った存在と見なすため、彼らはたがいに平等なのである。
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・5、大森 望訳)

坐り込んでいる人間の運命は、やはり、坐り込んでいるからね
(フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』4、岡部宏之訳)

「(…)さあ教えてくれ。ここは地獄じゃないのか?」
「むしろ、煉獄ですよ」コロップはいった。「煉獄は希望のある地獄なのですから」
(フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』23、岡部宏之訳)

 ユーモリストというものは、真暗な魂を持っていて、その暗闇の塊りを、光の爆発に変えるものなんだ。そして、その光が消えれば、暗闇が戻ってくるのさ
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』8、岡部宏之訳)

かれの考えは論理的でなかった。だが、哲学者たちが何といおうとも、論理の主な用途は、感情の正当化にあるのだ。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』22、岡部宏之訳)

 サムはもっとずっと重要なことを考えなければならなかった。しかし、真に重要なことは、無意識によって最もよく識別されるものだ。そして、この考えを送り出したのは、この無意識であったにちがいない。初めてかれは理解した。真に理解した。脳から足の先までの、体中の細胞で理解した。リヴィは変ってしまったと。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』26、岡部宏之訳)

そして私もそのひとつなのだ。
(ダン・シモンズ『イヴァソンの穴』柿沼瑛子訳)

 非常に残酷で、非常に正しい人生の法則があって、人間は成長しなければならぬ、でなかったら、もとのままでとどまることにたいして、いっそう多くの代価を払わなければならぬ、と要求するからである。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第五部・26、山西英一訳)

そこでは、だれも未来がなかった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・27、山西英一訳)

 ついにぼくは多少ともわかるようになった。書いていくにつれて、ぼくは自分がいっそう力ができたこと、自分は生きぬいたこと、ついに自分は自分の性質のなかで自分よりすぐれたものをなにかしら永久的な形でとどめておくことができるのだということ、したがって自分は芸術が見いだされるあの孤児たちの特権ある世界の一員になりはじめているのだということを知った。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・27、山西英一訳)

アイテルは悲しかった。だが、それは楽しい悲しさだった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳)

「チャーリィはまだ理想主義者なのさ」ハチャーが言った。「世界は論理的じゃないということを認めようとしないんだ」
「確かに世界は図式的なアリストテレス的論理では動いていないね」シプリィも認めた。「それは完全に演繹(えんえき)的だからね。真理からスタートする。そしてそこから世界がしたがっているはずの法則が導きだされる。機械が得意とするのはそれさ。ところが現実生活では、人間は経験で得た今の世界のあり方から出発する。それからその理由を推察し、それが実際のものに近いものでありますようにと祈るわけだ。帰納法さ。人間がやっているのはこっちだ──しかもどうやってかは自分たちですらはっきりわかっていない。だから教科書に書いてある科学と実際の科学が違ってくる」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳)

「他人が支配しているものを通じて幸福を求めるな」シプリィは答えた。「さもないと結局は支配しているやつらの奴隷になる」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳)

「言葉は単にコード体系でしかなくて、聞き手の神経組織の中に生活体験を通じてすでにできあがっている結合の引き金を引くだけだ。情報は聞き手の中にあるんだ。語り手ではなく。(…)」
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』17、大島 豊訳)

 ところで、こうしてわたしはその広大な洞窟の中で、遂に禁じられた世界の周辺を垣間見ることになった、その世界は盲を除けば、ほとんど近づいた者もいないようなところであり、その世界を発見する者には恐ろしい罰が下されるのだが、その世界を見たという証拠は上の世界であいかわらず無邪気に夢を見ている人々の手には、今日に至るまで間違っても渡ったためしはない、人々はその証拠を馬鹿にし、自分たちを目覚めさせるはずの印、つまり、夢とか束の間の幻覚、子供や狂人の話といったものを前にするときまって肩をすぼめるものだ。そのうえ、禁じられた世界に潜入してやっと戻ってきた者たち、発狂や自殺で人生を終えた、それゆえ、大人が子供に抱く称賛と軽蔑の入り混じった保護者然とした態度を受けることにしかならない作家たち(たとえば、アルトー、ロートレアモン、ランボー)の断章を例によって暇つぶしのために読んだりすることになる。
(サバト『英雄たちと墓』第III部・35、安藤哲行訳)

マルティンはふたたび視線を上げた、今度はほんとうにブルーノを見るためだったが、まるで謎を解く鍵を教えてもらおうとする眼差しだった、(…)
 そのとき、ブルーノは何かを言おう、沈黙の埋めあわせをしようとして答えた、
「ああ、分るよ」
 しかし、何が分っていたのか? いったい何が?
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・2、安藤哲行訳)

いったい、どこに本物とにせ物を見分ける基準があるのだろう?
(アイザック・アシモフ『地球人鑑別法』4、冬川 亘訳)

どこへ連れていくつもり? あたし、また手術を受けるのかしら?
(ロバート・A・ハインライン『悪徳なんかこわくない』下巻・29、矢野 徹訳)

悪いかい?
(アイザック・アシモフ『亡びがたき思想』冬川 亘訳)

このわたしを?
(アイザック・アシモフ『発火点』冬川 亘訳)

きみは気でもちがったのかい?
(アイザック・アシモフ『記憶の隙間』6、冬川 亘訳)

(…)ファウラー教授は、額をおおう黄土色の土をぬぐった。ぬぐいそこねた土は、まだ額に残っている。
(アーサー・C・クラーク『時の矢』酒井昭伸訳)

「それでは、いったい何の目的でこの世界はつくられたのでしょう」とカンディードはいった。
「われわれをきちがいにするためにですよ」とマルチンは答えた。
(ヴォルテール『カンディード』第二十一章、吉村正一郎訳)

 彼にとって、ただ一つ変わらぬものは変化そのものであり、彼が周囲の世界で発見した変化の機序は彼自身の存在に反映していた。彼が次々に自分の役割を変え、次々に女を替えていったのは、そのためだった。
(ブライアン・オールディス『十億年の宴』5、小隅 黎訳)

ある神秘主義者は旅によって、またある神秘主義者は一室にとどまることによって、神を探し求める。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』14、宇佐川晶子訳)

 幻覚の定義は、その人がなにを軸にして活動しているかによって変わる。そのとき自分の身に起きていることがなんであろうと、起きていることが現実だ。
(チャールズ・ブコウスキー『バッドトリップ』青野 聰訳)

彼の見てるものがなんであれ、それが現実なのだ。
(チャールズ・ブコウスキー『バッドトリップ』青野 聰訳)

人生とは、私たちが人生からつくり上げるもののことです。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

旅とは旅人のことです。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

私たちに見えるのは、私たちが見るものではなく、存在する私たちのありようなのです。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

 オノリコいわく。物語るだけでは十分ではない。重要なのは語り継ぐことだ。つまり、すでに語られた物語を、自分のために入手し、自分の目的のために利用し、ときに自分の目標に隷属させたり、あるいは語り継ぐことによって変容させたりする語りである。言い換えるなら、メンドリは、卵が別の卵を産むために用いる手段だということだ。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』覚書、園田みどり訳)

「無理もないな。ジーヴズ、ぼくらどうする?」
「どうしたものでしょうか」
「きついことになってきたな」
「はい、たいそうきついことに」
ジーヴズがくれた慰めは、それがすべてだった。
(P・G・ウッドハウス『同志ビンゴ』岩永正勝・小山太一訳)

「たぶん彼があなたにいろいろと話すのは、あなたが何も訊かないからなのね」
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

J・Dは絵葉書をいっぱいつめた箱を持って旅から帰ってくる。そしてわたしは、その絵葉書が彼の撮った写真であるかのように、丁寧に目を通す。わたも、彼も知っている。彼が絵葉書のどこが好きなのかを。彼は絵葉書の平板さ、すなわちその非現実性が好きなのだ。自分の行動の非現実性が。
(アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳)

帽子を放り投げて、こう言った。「自分の絶望を外に連れだしたかったんだよ」すると悪夢が消え、いい考えが浮かんだ。妹の苦悩について彼が話すのはむりでも、彼自身の苦悩を聞かせれば彼女の気晴らしになるだろう。彼女はただちに皿を叩くのをやめ、彼のほうに向き直って、まじまじと顔を見た。自分の苦悩が他人の顔ではどんな表情かを見るために。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』9、堤 泰徳訳)

私が興奮する最大の原因は、私の弱さにあるのよ
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』9、堤 泰徳訳)

彼は芸術によって、いやされていたのだろうか?
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』9、堤 泰徳訳)

小さな人間の本性をはずかしめ、おとしめるのは、その願望が実現するときだった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』10、堤 泰徳訳)

アンジョリーナはがんこな嘘つきだったが、本当は、嘘のつき方を知らなかった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』10、堤 泰徳訳)

ステファンヌは私に夢中だ。私という病気にかかっていることがようやくわかった。こっちがなにをしようと、彼にとっては生涯、それは変わらないだろう。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』8、佐宋鈴夫訳)


詩の日めくり 二〇一六年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十二月一日 「不安課。」


きょうは、朝から調子が悪くて、右京区役所に行った。
なぜ、調子が悪いのか、わからなかったので、とても不安だった。
入り口に一番近いところにいた職員に、そう言うと
二階の不安課に行ってください、と言われた。
雨の日は、ひざが痛いのだけれど
階段しかなかったので、階段で二階にあがると
最初に目にしたのが、不安課の部屋のプレートだった。
振り返ると、安心課という札が部屋の入り口の上に掲げられていた。
ただ事実の通り、不安の部屋の前が安心の部屋なのか、と思った。
不安課の部屋に入ると、
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
職員のひとが、ぼくに、こう訊いてきた。
「不安か?」
ぼくは、その職員のひとに、こう答えた。
「はい、不安です。」
繰り返し、何度も同じやり取りをしているうちに
とうとうぼくは、朝に食べたものを、ぜんぶ吐いてしまった。
職員のひとが、ぼくの顔も見ずに、右手を上げて
向かいの部屋をまっすぐに指差した。
「あり・おり・はべり・いまそかり。」
「あり・おり・はべり・いまそかり。」
「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ。」
「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ。」
「ら・り・る・る・れ・れ。」
「ら・り・る・る・れ・れ。」
「あらず・ありたり・あり・あること・あれども・あれ。」
「あらず・ありたり・あり・あること・あれども・あれ。」


二〇一六年十二月二日 「栞。」


栞って、恋人の写真を使ってるひともいると思うけれど、ぼくは総体としての恋人の姿が好きってわけじゃないから、恋人の目だとか唇だとか耳だとか部分部分を栞にしている。


二〇一六年十二月三日 「年上の人間。」


若い頃は、年上の人間が、大キライだった。
齢をとっているということは、醜いと思っていた。
でも、齢をとっていても美しいひとを見ることができるようになった。
というか、だれを見ても、ものすごく精密につくられた「もの」
まさしく造物主につくられた「もの」という感じがして
ホームレスのひとがバス停のベンチの上に横になっている姿を見ても
美的感動を覚えるようになった。

朔太郎が老婆が美しいだったか
だんだん美しくなると書いてたかな。
むかしは、グロテスクな、ブラック・ジョークだと思ってた。


二〇一六年十二月四日 「おでん。」


きょうは、大谷良太くんちで、おでんとお酒をいただきました。ありがとうね。おいしかったよ。ごちそうさまでした。


二〇一六年十二月五日 「与謝野晶子訳・源氏物語で気に入った言葉 ベスト。」


「長いあいだ同じものであったものは悲しい目を見ます。」

この目を、状況ととるのがふつうだけれど
ぼくは、ひとの目としてとっても深い味わいがあると思う。
つまり「悲しい眼球」としてね。


二〇一六年十二月六日 「平凡な一日。」


まえに付き合ってた子が部屋に遊びにきてくれた。コーヒーのんで、タバコ吸って、チューブを見てた。平凡な一日。でも、大切な一日だった。


二〇一六年十二月七日 「睡眠時間が伸びた。」


いま日知庵から帰った。学校が終わって、毎日、よく寝てる。


二〇一六年十二月八日 「モッキンバード。」


ウォルター・テヴィスの『モッキンバード』を読み終わって、ジョージ・R・R・マーティン&リサ・タトルの『翼人の掟』を読みはじめた。SFが子どもの読むものだと、ふつうの大人は思っているようだが、そうではないということを教えてくれそうな気がする。読む速度が遅くなっているけど、がんばろ。


二〇一六年十二月九日 「ゴッホは燃える手紙。」


ゴッホは燃える手紙。


二〇一六年十二月十日 「漂流。」


骨となって
教室に漂流すると
生徒たちもみな
骨格標本が腰かけるようにして
骨となって
漂着していた
巨大な蟹が教卓を這い登ってきて
口をかくかくした。
目を見開いてそれを見てたら
巨大な鮫が教室に泳いで入ってきて
口をあけた
するとそこには
吉田くんの首が入っていて
目が合った


二〇一六年十二月十一日 「想像してみた。」


長靴を吐いたレモン。


二〇一六年十二月十二日 「ジキルとハイジ。」


不思議のメルモちゃんのように
クスリを飲んだら
ジキルがハイジになるってのは、どうよ!
(不思議の国のハイジだったかしら? 
あ、不思議の国のメルモちゃんだったかしら?)
大きな大きな小さい地球の
イギリスにあるアルプスのパン工場でのお話よ。
ジャムジャムおじさんが作り変えてくれます。
首から上だけ〜。
首から下はイギリス紳士で
首から上は
田舎者の
山娘
ちひろちゃん似の
アルプスの
ぶっさいくな
少女なのよ。
プフッ。
なによ。
それ。
そのほっぺただけ、赤いのは?
病気かしら。
あたし。
こまったわ。
うんとこ、とっと どっこいしょ。
流動的に変化します。
さあ、首をとって
つぎの首。
力を抜いて
流動的に変化します。
さあ、首をとって
つぎの首。
力を抜いて
首のドミノ倒しよ。
いや
首を抜いて
力のダルマ落としよ。
受けは、もうひとつなのね。
プフッ。
ジミーちゃん曰く
「それは、ボキャブラリーの垂れ流しなだけや。」
ひとはコンポーズされなければならないものだと思います。
だって。
まあね。
ミューズって言われているんですもの。
薬用石鹸。
ミューウーズゥ〜。
きょうの、恋人からのメールでちゅ。
「昨日の京都は暑かったみたいですね。
今は長野県にいます。
こっちは昼でも肌寒くなってきました。
天気は良くて夕焼けがすごく綺麗でした。
これから段々と寒くなるみたいで
田中さんも風邪などひかないように気を付けて
お仕事頑張って下さいね。」
でも、ほんまもんの詩はな。
コンポーズしなくてもよいものなんや。
宇宙に、はじめからあるものなんやから。
そう、マハーバーラタに書いてあるわ。
あ、背中のにきび
つぶしてしもた。
詩人はみな
剽窃詩人なんや。
ド厚かましい。

厚かましいのは
あつすけさんちゃう?

言われました。
笑。

逆でも、かわいいわあ。
首から下がハイジで
首から上がジキルなの。

ひゃ〜、笑。
ちょーかわいい。

恋人にもはやく相対。
プフッ。
はやく相対。
じゃなくて
はやく会いたい。
ぶへ〜
だども
あじだば
いっばい
詩人だぢどあえるど。
ヤリダざんどもあえるど。
アラギぐんどもあえるど。
みなどぐんどもあえるど。
もーごぢゃんどもあえるど
どらごぢゃんどもあえるど。
ばぎばらざんどもあえるど。
ぐひゃひゃ。
おやすみ。
プッスーン。
シボシボシボ〜。

あいたい
あいたい
あいたい
あいたい
あ いたい
あ いたい
あいた い
あいた い
あい たい
あい たい
あ いた い
あ いた い
あ い た い
あ い た い
いた いあ
いた いあ
いい たあ
いい たあ
いいあ た
いいあ た
たいあい
たいあい
たいあい
たいあい
たあいい
たあいい
たあいい
たあいい
あたいい
あたいい
いいたあ
いいたあ
いいたあ
いいたあ


二〇一六年十二月十三日 「めくれまくる人々への追伸。」


カーペットの端が、ゆっくりとめくれていくように
唇がめくれ、まぶたがめくれ、爪がめくれて指が血まみれになっていく
すべてのものがめくれあがって
わたしは一枚のレシートになる。
階級闘争。
契約おにぎり。
拉致餃子。
すべてのものが流れ去ったあとにも、残るものがある。
紫色の小さな花びらが4枚
ひとつひとつの細い緑色の茎の先にくっついている
たくさん

ひとつ
ひとつ
ひとつ

たくさん

田んぼの刈り株の跡
カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる
地面はでこぼことゆれ
コンクリートの陸橋の支柱がゆっくりと地面からめくれあがる
この余白に触れよ。
先生は余白を採集している。
「そして、機体はいつの日も重さに逆らい飛ぶのである。」
太郎ちゃんの耽美文藝誌「薔薇窗」18号の編集後記にあった言葉よ。
自分の重さに逆らって飛ぶのね。
ぼくは、いつもいつも、自分の重さに逆らって飛んできたような気がするの。
木が、機が、記が、気が、するの。
それで、こうして
一回性という意味を、わたしはあなたに何度も語っているのではないのだろうか?
いいね。
詩人は余白を採集している。
めくれあがったコンクリートの支柱が静止する。
わたしは雲の上から降りてくる。
カラスが土の上にこぼれた光をついばんでいる
道徳は、わたしたちを経験する。
わたしの心臓は夜を温める。
夜は生々しい道徳となってわたしたちを経験する。
その少年の名前はふたり
たぶん螺旋を描きながら空中を浮遊するケツの穴だ。
あなたの目撃には信憑性がないと幕内力士がインタヴューに答える。
めくれあがったコンクリートの陸橋がしずかに地面に足を下ろす。
帰り道
わたしは脚を引きずりながら考えていた
机の上にあった
わたしの記憶にない一枚のレシート
めくれそうになるぐらいに、すり足で
賢いひとが、カーペットの隅を踏みつけながら、ぼくのほうに近づいくる。
ジリジリジリと韻を踏みながら
そこは切符が渡されたところだと言って
賢いひとが、カーペットの隅を踏みつけ踏みつけ
ぼくのほうに近づいてくる。
(ここで、メモを手渡す。)
賢いひとが、長い手を昆虫の翅のように伸ばす。
その風で、ぼくの皮膚がめくれる。
ぼくの皮膚がめくれて
過去のぼくの世界が現われる。
ぼくは賢いひとの代わりのひとになって
昆虫の翅のような手を
やわらかい、まるまるとした幼いぼくの頬に伸ばす。
幼いぼくの頬は引き裂かれて
冷たい土の上に
血まみれになって
横たわる。
ぼくは渡されたレシートの上に
ボールペンで数字を書いている。
思いつくつくままに
思いつくつくままに
数字が並べられる。
幼いぼくの頬でできたレシートが
釘のようなボールペンの先に引き裂かれる。
血まみれの頬をした幼いぼくは
賢いひとの代わりのぼくといっしょに
レシートの隅を数字で埋めていく。
レシートは血に染まってびちゃびちゃだ。
カーペットの隅がめくれる。
ゆっくりと、めくれてくる。
スツール。
金属探知機。
だれかいる。
耳をすますと聞こえる。
だれの声だろう。
いつも聞こえる声だ。
カーペットの隅がめくれる。
ゆっくりと、めくれてくる。
幼いぼくは手で顔を覆って
目をつむる。
賢いひとの代わりのぼくは
その手を顔から引き剥がそうとする。
おにいちゃん
百円でいいから、ちょうだい。


二〇一六年十二月十四日 「ほんとにね。」


ささいな事柄を書きつける時間が
一日には必要だ。


二〇一六年十二月十五日 「バロウズ。」


バロウズのインタヴュー
面白い
ぼくが考えてきたことと同じことをたくさん書いてて
そのうちの一つ
テレパシー
バロウズはテレパシーって言う
ぼくはずっと
同化能力と言ってきた
國文學での論考や、詩論でね

つぎのぼくの詩集 The Wasteless Land.IV「舞姫」の主人公の詩人は
テレパス
うううん
バロウズ
ことしじゅうに、全部、読みたい。


二〇一六年十二月十六日 「みんな、死ぬのだと、だれが言った?」


時間を逆さに考えること。
事柄を逆さに書くこと。
理由があって結果があるのではない。
結果しかないのだ。
理由など、この世のどこにもない。
みんな、死ぬのだと、だれが言った?


二〇一六年十二月十七日 「ルーズリーフに書かない若干のメモ。」


どの作品か忘れたけど、スティーヴン・バクスターの作品に
「知的生物にとっての目標とは、情報の獲得と蓄積以外にないだろう」
とある。
またバクスターの本には
詩人はどう詠ったか──「知覚の扉が洗い清められたら、すべてが
ありのまま見えるようになる、すなわち無限に」
という言葉を書いていたのだが、これってブレイク?

数行ごとに
そこで電話を切る。
という言葉を入れる。

わたしは、なにかを感じる。
わたしは、なにかを感じない。
わたしは、なにかを知っている。
わたしは、なにかを知らない。
わたしは、なにかを恐れる。
わたしは、なにかを恐れない。
わたしは、なにかを見る。
わたしは、なにかを見ない。
わたしは、なにかを聞く。
わたしは、なにかを聞かない。
わたしは、なにかに触れる。
わたしは、なにかに触れない。

MILK
カナン
約束の地
乳と蜜の流れる土地よ
わたしの青春時代

ぼくはきみの記憶を削除する
ぼくはぼくの記憶を変更し
はじめて会った彼のことを新規に記憶する
ところが、きみの記憶はコピーが残っていたので
ジミーちゃんに指摘されて、きみのそのコピーの記憶が
間違った記憶だったことを指摘されたので
まったく違う人物の記憶にしていた、きみの正しい記憶と差し替える。

急勾配、訪問、真鋳、房飾り、パスポート、爪楊枝、ギプス、踏み段、スツール

生物検査、検疫処置、沼沢地、白子、金属探知機


二〇一六年十二月十八日 「「知覚の扉」というのは、ブレイクの言葉かな。」


自然は窓や扉を持たない
わたしたちは自然のなかにいても
自然が語る声に耳を傾けない
わたしたちは自然を前にしても
自然に目を向けない
わたしたちは自然そのものに接していても
自然に触れていることに気がつかない
芸術作品は
自然とわたしたちの間に窓や扉を設ける
それを開けさせ
自然の語る声に耳を傾けさせ
自然が見せてくれる姿かたちに目を向けさせ
自然そのものに触れていることに気づかせてくれる
真の芸術は
新しい自然の声を、新しい自然の姿を、新しい自然の感触を
わたしたちに聞かせてくれる
わたしたちに見せてくれる
わたしたちに触れさせてくれる
新しい知覚の扉
新しい感覚の扉
新しい知識の扉
新しい経験の扉

これまで書いてきた「自然」という言葉を「体験」という言葉に置き換えてもよい。

「知覚の扉」というのは、ブレイクの言葉かな。


二〇一六年十二月十九日 「かさぶた王子。」


どやろか、このタイトルで、なんか書けへんかな。
きょうはもう寝るかな。

そういえば、「もう寝る。」って
言い放って寝る恋人がいたなあ。
「もう寝る。」って言って
くるって、むこう向いて寝るやつ。
ふうん。
なつかしいけど、なんか、さびしいなあ。
おわり。


二〇一六年十二月二十日 「TUMBLING DICE。」


この曲をはじめて耳にしたのは
中学一年のときで
女の子の部屋でだった。
いや、違う。
ぼくんちにあった。
女の子もストーンズが好きだった。
ぼくと同じ苗字の女の子だった。
大学生のときに
リンダ・ロンシュタッドも
この曲を歌っていて
耳が覚えてる。

中学のときに
ぼくの友だちはみんな不良だったから
ぼくんちにあつまって
夜中にベランダに出て
みんなでぺちゃくちゃおしゃべりしてた。

そんなこと
思い出した。

日曜日にがんばったせいか、肩が痛い。
腰ではなく、きょうは肩にシップして仕事。
46だから、四十肩なのか五十肩なのか
四捨五入すると五十肩。


二〇一六年十二月二十一日 「私が知りたいのは、」


ちなみに
トウェインの言葉でいちばん好きなのは

深く傷つくためには
敵と友人の協力が必要だ
──ひとりがあなたの悪口を言い、
もうひとりがそれを伝えにくる。

コクトーは
そんな友だちを
まっさきに切る
と書いていたけれど、笑。

トウェインの言葉ですが
つぎのようなものもあります。
ひねりが2回ありますね、笑。

私は人種的偏見も、階級的偏見も、宗教的偏見も持っていません。
私が知りたいのは相手が人間であるかということだけです。
それがわかれば十分なのです。
それ以上悪くなりようがないのですから。


二〇一六年十二月二十二日 「吐き気がした。」


キッスを6時間ばかりしていたら
吐き気がした
胸の奥から喉元まで
吐き気がいっきょに駆け上がってきた
彼の唇も6時間もキッスしてたら
なんだか
唇には脂分もなくなって
しわしわで
うすい皮みたいにしなびて
びっくりしちゃった
キッスって
長い時間すると
唇の感触がちがってくるんだね
キッスはヘタなほうが好き
ぎこちないキッスが好き
ヘタクソなほうがかわいい
舌先も
チロチロと出すって感じのほうがいい
さがしてあげる
きみが好きになるもの
さがしてあげる
きみが信じたいもの
なおレッド
傷つけることができる
いくらでも
ときどき捨てるから厭きないんだね
みんな
ジジイになれば
わかるのにね
時間と場所と出来事がすべてなんだってことが
すなおに言えばいいのに
なおレッド
略式恋ばっか
で、もうジジイなんだから
はやく死ねばいいのに
もうね
ふうん
それに
人生なんて
紙に書かれた物語にしか過ぎないのにね
イエイ!


二〇一六年十二月二十三日 「まことに、しかり。」


(…)世界の広いことは個人を安心させないことになる、類がないと思っていても、それ以上な価値の備わったものが他にあることにもなるのであろうなどと思って、(…)
(紫式部『源氏物語』紅梅、与謝野晶子訳)

「世界の広いことは個人を安心させないことになる」

まことに、しかりと首肯される言葉である。


二〇一六年十二月二十四日 「息。」


息の根。
息の茎。
息の葉。
息の幹。
息の草。
息の花。
息の木。
息の林。
息の森。
息の道。
息の川。
息の海。
息の空。
息の大地。
息の魚。
息の獣。
息の虫。
息の鳥。
息の城。
息の壁。
息の指。
息の手。
息の足。
息の肩。
息の胸。
息の形。
息の姿。
息の影。
息の蔭。


二〇一六年十二月二十五日 「ひさしぶりのすき焼き。」


きょうは森澤くんと、キムラですき焼きを食べた。そのあとタナカ珈琲で、BLTサンドとパフェを食べて、日知庵に行った。食べ過ぎ飲み過ぎの一日だった。


二〇一六年十二月二十六日 「田村隆一にひとこと。」


言葉がなければ
ぼくたちの人生は
たくさんの出来事に出合わなかったと思う。

言葉をおぼえる必要はあまり感じないけど
ヌクレオチドとかアミラーゼとか、どうでもいい
言葉があったから、生き生きしていられるような気がする。

もしかしたら
生き生きとした人生が
言葉をつくったのかもね。


二〇一六年十二月二十七日 「これから、マクドナルドに。フード・ストラップ、あつめてるの。」


きのう、シンちゃんに
「おまえ、いくつじゃ〜!」
と言われましたが
コレクションするのに
年齢なんて関係ないと思うわ。
「それにしても
 幼稚園児のような口調はやめろ!」
と言われ
はて
そだったのかしら?

もう一度
「あつめてるの。」
と言って
自分の声を分析すると
たしかに。
好きなものあつめるって
子どもになるんだよね〜。
なにが、あたるかな。


二〇一六年十二月二十八日 「原文。」


シェイクスピア鑑賞について。

もう十年以上もまえのことだけど
アメリカ人の先生と話をしていて
ちょっとひっかかったことがある。
「シェイクスピアをほんとうに知ろうと思ったら
 原文で読まなきゃいけませんよ。」
はあ?
という感じだった。
部分的に原文を参照したりしていたけれど
全文を原著で読んでなかったぼくだけれど
すぐれた翻訳があって、それで楽しんでいるのに
ほっといてくれという思いがした。
あなた、聖書は何語で読んだの?
って感じだった。
まあ、そのひとだったら、アラム語やギリシア語で読んでそうだったけど。
もちろん、原文を読んだほうがいいに決まってるけれど
語学が得意ではない身にとって
まずは翻訳だわな。

そういう意味で、原文主義者ではないぼくだけれど
できるかぎり原文を参照できる用意はしておかなくてはならないとは思っている。


二〇一六年十二月二十九日 「死。」


ジョージ・マイケルは53歳で死んで、キャリー・フィッシャーは60歳で死んで、ええって感じ。あと2週間足らずで、56歳になるぼくだって、いつ死ぬかわかんないけど。


二〇一六年十二月三十日 「死。」


ことしは偉大なアーティストたちが亡くなった年だったのだな。
http://www.rollingstone.com/culture/lists/in-memoriam-2016-artists-entertainers-athletes-who-died-w457321/david-bowie-w457326


二〇一六年十二月三十一日 「芸能人。」


そいえば、きのう芸能人を電車で見たのだけれど、口元に指一本をくっつけて合図してきたから、見ちゃダメなんだと思って、駅に着くまで違う方向を見ていた。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 それはぼくの口をついて出たけれど、そのたびにまぎれもない呪いとしてできるだけ離れたところへ遠ざけ、忘れようとした。もっとも不当な予感だったし、書きつけることによって、それが現実のものになるのを恐れたからである。「ぼくたちには不幸が襲いかかる必要があったのだ」なんということだろう、ぼくの本が陽の目を見るためには、不幸が必要だったのだ。
(エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』75、佐宋鈴夫訳)

 鳥と会話することを学び、彼らの会話が想像を絶するほど退屈なことを発見した。風速、翼長、馬力対体重比、木の実の公平な分配のことしか話さないのだ。ひとたび鳥語を学んでしまうと、たちまち、空中には四六時中、馬鹿なおしゃべり鳥どもがいっぱいいることに気づくのだった。
(ダグラス・アダムス『宇宙クリケット大戦争』エピローグ、風見 潤訳)

 いわゆる模範的なもの、賞讃に値すると認められているものが、この世にいかに益をもたらさないかということ、いや、むしろ害があるといっていいくらいだということについて、いずれそのうちだれかが一冊の本を書く必要があると思う。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

『こんなことをしたってなんにもなりはしない』のである。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

まるでそんなことは一度も存在しなかったみたいに。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

わたしに語れるのはけっきょく自分自身の体験だけだ。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

〈われわれと愛する者のあいだには、誤解などいっさいない。ところが人間たちは、愛する者を想像ででっちあげ、ベッドをともにする生身の相手の顔にその仮面をかぶせるのだ〉
〈それが言語をもつ者の悲劇なのだ、わが友よ。象徴的な概念でしかおたがいを知りえない者は、相手のことを想像するしかない。しかも、その想像力が不完全なために、彼らは往々にしてあやまちをおかすのだ〉
〈もとはといえば、それが彼らの苦悩のみなもとだ〉
〈同時に、それは彼らの強さのみなもとでもあるのだろう。あなたの種族も、われわれの種族も、それぞれ独自の進化論的な事情にもとづいて、はるかに落差のある相手を伴侶にえらぶ。われわれはつねに、知性の点ではるかに劣った相手を伴侶とするのだ。人間たちはといえば、自分の優越性をおびやかしかねない相手を伴侶にえらぶ。人間の男女のあいだに葛藤があるのは、意思の疎通がわれわれに劣っているからではなく、彼らが相手と深く交流しているからなのだ〉
(オースン・スコット・カード『ゼノサイド』上巻・2、田中一江訳)

「誰もすんなり退場なんてできないのよ」ローラが静かに言った。「人生っていうのは、そういうふうにはできてないの」
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第1部・6、嶋田洋一訳)

 どんなものも、過去になってしまわない限り現実味を持たない。それまではただの踊り回る影でしかないからだ。"今日"というのは冗談であり、偶発的で流動的だ。高らかに歌を歌うのは"きのう"だけだった。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第2部・13、嶋田洋一訳)

「でも」と彼はブルーノに言った。「もうぼくは以前のぼくではなかったんです。そして、二度ともとのぼくに戻ることはないでしょう」
(サバト『英雄たちと墓』第I部・1、安藤哲行訳)

(…)脳裏に残っていたのはとりとめのない言葉、ちょっとした表情や愛撫、そして柱の断片のように響いたあの見知らぬ船の憂鬱げな汽笛の音ぐらいのものだったが、ただ一つ、びっくりしたせいではっきり覚えていた言葉があった、その出会いのとき彼女は彼を見つめながらこう言ったのだ、
「きみとわたしには共通する何かがあるわね、とても大切な何かが」
 その言葉を耳にしてマルティンは驚いた、というのも、自分とこの並外れた人間とのあいだにいったいどんな共通点があるのかと思ったからだ。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・3、安藤哲行訳)

彼は若く、おそらく(それはほとんど確かなことと言ってもいい)彼女が好意を寄せ、関係を持つことのできる最後の男だろう。大事なのは、そのことだけだ。もしも、後で彼女が男に嫌悪感を催させ、その脳裡にあった記念碑を破壊したとしても、そんなことはどうでもいい。なぜなら、その記念碑は彼女自身の外側にあるものだから。この男の考えや思い出が彼女自身の外にあるのと、同じことだ。そして、自分の外側にあるものなど、すべてどうでもいいではないか。
(ミラン・クンデラ『年老いた死者は若い死者に場所を譲ること』14、沼野充義訳)

ハヴェル先生は、伝聞や逸話もまた、人間そのものと同じく老化と忘却の掟に従うものだということをよく知っていた。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』3、沼野充義訳)

 彼女が歩くとき、あの脚がまさしく何かを語っていることにもう注目していたのかね? きみ、あの脚がいってることがきみにきこえたら、きっと顔が赤くなるだろうよ。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』8、沼野充義訳)

これは人生においてよくあることなのだが、私たちは満足しているとき、傲慢にも私たちに差し出される好機をみずから拒み、そのことでますます幸福な充足感を確かめようとするものだ。
(ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』10、沼野充義訳)

 神として、あらゆることを知って永遠に生きるというのは、存在のありかたとしてはかなり退屈なものに思える。すべての文章をおぼえている本を読むようなものではないか。読書の楽しさは不確定性にある──まだ読んでいない部分でなにが起きるかわからないということだ。神は、神であることにすっかり退屈しているにちがいない。だから、宇宙をもっとおもしろいものにするために時間を発明したのだ。
(ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』26、内田昌之訳)

誰が、おまえを作ったか?
(フレデリック・ブラウン『未来世界から来た男』第二部・いとしのラム、小西 宏訳)

だれがきみを作ったかは知らないというのか?
(R・A・ラファティ『このすばらしい死骸』浅倉久志訳)

どういう意味があるのかしら?
(ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳)

(…)「数知れぬと言ってもいいが、この地上における一切の不幸のなかでも」と、エレディアは身振りをまじえ、宮殿の避雷針を見つめながら語る。「詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪よりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです」詩人はわめくような声で、自己弁護を続けた。自分も不平の声をあげていたにもかかわらず、修道士は聞き咎めて詩人のほうを見、おしゃべりをやめずに心のうちで思った、泣き虫だな、この男、自分の苦しみと馴れ合っている、いつも死を口にしながら、ひどく用心深く庭園の石段を降りる。
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳)

一度に考えることはひとつにしておけ。深淵(しんえん)にせまるには、そっと手探りで行くのだ。
(ブライアン・オールディス『外がわ』井上一夫訳)

 不安になって、ハーリーは部屋のなかをうろついた。寄(よせ)木(ぎ)細工の床が、彼の足どりの不安を反響する。彼はビリヤード室にはいった。矛盾する意図に板ばさみになった彼は、緑の布地の上の球を一本指で突きやった。白い球がぶつかって、離れた。心の動きもそのとおりだった。
(ブライアン・オールディス『外がわ』井上一夫訳)

そこで何かが彼女をマントルピースの上のチューブに目を上げさせた。
(ブライアン・オールディス『黙劇』井上一夫訳)

 暖かな日には窓を少しあけて、そよ風にカーテンをはためかせる。喘息患者の浅く不規則な呼吸のように起伏する、ふくれあがってしぼむそのカーテンは、凝視するものはみなそうであるように、彼女の人生を物語っているように見えた。ほかのカーテンやシェードやブラインドの背後には、もっと悲しい物語が隠されているのだろうか? ああ、そうは思えなかった。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第二部・12、増田まもる訳)

 一台の車というものは、ロッティがいくら呟いてみせたり不服を言ってみせたりしたところで、しょせん理解できないような、一つの生き方を表しているのだった。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・21、増田まもる訳)

愛が彼女を狡猾にしていた。
(トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・24、増田まもる訳)

(…)そんな音に耳をかたむけ、外の美しい光景を眺めながら、ぼくは思った。
(このすべてが永久に失われてしまうのか?)
その問いに、どこからともなくアイネイアーの声が答えた。
(そう、このすべてが失われてしまうの。それこそが、人間であることの本質なのよ、愛しい人)
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』第一部・10、酒井昭伸訳)

「ぼくはいまその原因について、かなり思い当たることがあるんだ」と彼はおもおもしげにいった。
 そういうのは当たり前の話だが、その思い当たることというのが、一時間ののちには、別の考えになるかもしれないのだ。
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

そんなこと、ぼくの知ったことかい?
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

ジミーをいらいらさせるのは、そういうこまかい話である。
(ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳)

だが、フェリシティ・フレイにはそうさせるな。
というのは、きょうはきのうの一部だからだ。そしてきのうときょうとは、生きていることの一部なのだ。そして生きているということは、それぞれの日が大時計の振り子のように、カタン、コトン、カタン、コトンと過ぎて行くだけのことではない。生きているということは、なにかずうっとつづいていて、くり返しをしないものである。(…)
(ジョン・ウィンダム『野の花』大西尹明訳)

(…)彼はもの憂げにもう一度あたりを見まわした。「もっとしばしば町に来るべきだな。人間は飽食していると、他の喜びをすっかり忘れてしまいがちだ」ため息をつく。「ビリー、おまえにわかるか? 大気に満ち満ちているものが?」
「なんでしょうか?」サワー・ビリーはいった。
「生命だ、ビリー」ジュリアンの微笑は彼をからかっていたが、ビリーはどうにか微笑を返した。「生命と愛と欲望、豊富な食物と豊富なワイン、豊かな夢と希望だ、ビリー。それらすべてがわれわれの周囲に渦巻いている。可能性だ」彼の目がぎらぎらと輝いた。「美人ならいくらでもいるというのに、どうして通りすぎていった美人ひとりを追わねばならないのだ? 答えられるか?」
「わたしには──ミスター・ジュリアン、わたしにはわかりません」
「そうだろう、ビリー、おまえにはわかるまい」ジュリアンは笑った。「わたしの気まぐれが、これらの家畜どもの生であり死なのだ、ビリー。おまえが心からわれわれの一員になりたいと思うなら、そのことを理解しなければならない。わしは快楽だ、ビリー、わしは力だ。そして現在のわしの本質、快楽と力の本質は、可能性のうちに存在するのだ。わし自身の可能性は広大であり、無限である。われわれの歳月が無限であるように。だが、家畜どもにとってわしは、彼らのあらゆる希望と可能性の終わりなのだ。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』10、増田まもる訳)

 だが、やがて不安感がしだいに頭をもたげてきた。漠然とした、どこかおかしいという感覚が生まれ、見慣れた事物が新たな姿をとるようになった。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』12、増田まもる訳)

急にそれらの言葉がまったく新しい意味を帯びた。
(ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』34、大島 豊訳)

(…)あの午後の静けさの中、下を流れる川の穏やかな呟きを耳にしながら、彼は雲が予言者の顔、雪原を進むキャラバン、帆船、雪の入江と絶え間なく変身する様子を眺めていた。あのときはすべてが安らかで穏やかだった、そして、まるで目覚めのあとの空ろなぼんやりとした瞬間のように、静かな快さに包まれて彼はアレハンドラの膝の上で何度も頭の位置を変えながら思っていた、項(うなじ)の下に感じる彼女のからだはなんて柔らかく、なんて優しいんだろうと、そのからだは、ブルーノが言うには、肉体以上の何か、細胞や筋組織、神経でできた単なる肉体以上に複雑で曖昧なものだった、なぜなら、それは(マルティンの場合には)すでにもう〈思い出〉でもあったからだ、そのため、死や腐敗から守られたもの、透明で儚(はかな)いとはいえ永遠性、不滅性を具えた何ものかであったのだ、それはミラドールでトランペットを吹くルイ・アームストロングであり、ブエノスアイレスの空や雲、(…)コメガの二階のバーから眺めたブエノスアイレスの屋根であった。そうしたものすべてを彼は柔らかな脈うつ肉体から感じたのだ、たとえその肉体が湿った土塊やみみずに引き裂かれる運命にある(というのはブルーノの典型的な考え方)とはいえ、そのときには彼は一種の永遠性を垣間見させることになったのだ、なぜなら、これもいつかブルーノが彼に言うことになるが、わたしたちはそんなふうにして、このもろい死すべき肉体を通して、永遠を仄かに見ることができるように作られているからである。そして、そのとき、彼が溜息をつくと、彼女は『どうしたの?』と訊いた。彼は『何も』と答えたが、それはわたしたちが《ありとあらゆること》を考えているときにする返事と同じものだった。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)

「困難なことが魅惑的なのは」とチョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』1、三田村 裕訳)

 ロナの足がロナ自身に告げた。アーケードへ行って、この雪の夜の光とぬくもりに包まれながら、しばらく歩きまわろう。
(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』4、三田村 裕訳)

 一九三〇年一月の末、カピタン・オルモスでの休暇を終え、カンガージョ通りの下宿に荷物を置くと習慣からほとんど機械的にカフェ・ラ・アカデミアに向かった。なぜそこに出かけたのか? それはカステジャーノスが、アロンソが一日中延々とチェスをやっているのを見るため。いつものことを見るためだった。そのときはまだ、理解するに到っていなかったからだ、習慣は偽りのものであり、わたしたちの機械的な歩みはまったく同じ現実に導くとは限らないということを、なぜなら、現実は驚異的なものであり、人間の本性を考えれば、長い眼で見れば、悲劇的でもあることにまだ気づいていなかったからだ。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

彼の精神は死後でさえ、わたしの精神を支配しつづけている。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

(…)そして彼女はフェルナンドのそんな仕草をもどかしそうに待っていたみたいだった、まるでそれが彼の愛情の最大の表現ででもあるかのように。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

人間のもっとも親密な部分に向かう道は常に人や宇宙を巡る長い周航にほかならない
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 教会の鐘が一度だけ鳴り、なにか不思議なやり方で、それが風景全体を包みこんだように見えた。ジョンにはその理由がわかり、心臓が跳びあがった。鐘の主調音から切れ切れにちぎれたぶーんと鳴る音の断片がこれらの色になったので、基本的なボーオオオンという音は白のままだ。さまざまな色がぶーんと鳴り、渦巻いて、神の白色となり、分かれて、もう一度戻ってくる。なんであれ、神はそれとどんな関係があるのだろう? いや、ここのローマでは、そんなことをいってはいけない。(…)
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳)

想像力は、魂の一部じゃないのか?
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』6、大社淑子訳)

「きみのいってることがわかったらいいのになあ」
(アントニイ・バージェス『アバ、アバ』6、大社淑子訳)

「自分の良心に耳を傾ければ、答えてくれるはずだよ」
「神の声のように静かに囁く声のことですか」
「ように、ではないよ、メグ。良心は神の声そのもの、内部に宿る聖霊の声だ。聖霊降臨祭のための集祷文には、全てのことに正しい判断ができますようにと祈る箇所がある」
 メグは穏やかな口調で食い下がった。「でも、その声が自分の声ではないと、自分の潜在的な欲求ではないとどうしてわかるのでしょう。その声の言っていることは、自分の体験、個性、遺伝体質、内的欲求を通して考え出されたものにちがいありません。人間は自分の心の策謀と欲望から自由になれるものなのでしょうか。自分が一番聞きたいと思っていることを良心が囁くということはありませんか」
「私の場合はそういうことはなかったね。良心は大体の場合、私の希望に反した方向に指し示した」
「あるいは、その時、自分の希望だと思い込んでいたこと、かもしれませんね」
 だが、これは食い下がり過ぎだった。コプリー氏は静かに坐ったまま、古い説教や法話、よく使う聖句からインスピレーションを得ようとしているのか、せわしなくまばたきした。ちょっと間を置いてから、彼は言った。「良心を楽器、たとえば弦楽器として考えるとわかりやすいと思うね。伝える内容は音楽にあるわけだが、楽器をいつも修理して、定期的にちゃんと練習しないと、まともな反応は得られない」
 メグはコプリー氏がアマチュアのヴァイオリニストだったことを思い出した。今は手のリューマチがひどくて、ヴァイオリンを持つどころではないが、楽器は隅のタンスの上に今もケースに入ってのっている。
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第六章・51、青木久恵訳)

(伯爵夫人に向かって)おまえが"宇宙の魂"と呼ぶものについて、わたしが、あの独裁者が自分自身のことを知っている以上に、よく知っているとは、思わなかったのかね? おまえのいう"宇宙の魂"だけでなく、多数のもっと下位の諸力も、その気になれば、マントのように人間性を着るのだよ。そういうことは、われわれほんの二、三の者にしか関係ない場合もあるがね。とにかく着られているわれわれは自分は自分のままだと思っているから、めったにそれに気づくことはないが、他人から見れば、やっぱり創造神(デミウルゴス)であり、慰め主(パラクリート)であり、悪魔王(フイーンド)であるのだ。
(ジーン・ウルフ『調停者の鉤爪』24、岡部宏之訳)

 彼女は低い天井を見つめていた。わたしはそこにもう一人のセヴェリアンがいるように感じた。ドルカスの心の中だけに存在する、優しくて気高いセヴェリアンが。他人に最も親しい気分で話をしている時には、だれもが、話し相手と信じる人物について自分の抱いているイメージに向かって、話をしているものだ。
(ジーン・ウルフ『警士の剣』10、岡部宏之訳)

 水が笑い声を立てている川のほとりで、われわれがいかに真剣だったか、少年の濡れた顔がどれほど真剣で清潔だったか、その大きな目の睫にたまった水の雫がいかに輝いたか、それを描写できればよいのだが。
(ジーン・ウルフ『警士の剣』17、岡部宏之訳)

 死の十年前、フロイトが人間を総括して何と言っているか、御存じになりたくありませんか? 「心の奥深くでこれだけは確かだと思わざるを得ないのだが、わが愛すべき同胞たる人間たちは、僅かな例外の人物を除いて、大多数がまず何の価値も持たない存在である。」今世紀の大半にわたって大部分の人たちから最も完全に近く人間の深奥を理解した人と認められている人物の言がこれなのです。いささか当惑せざるを得ないのじゃないでしょうか?
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』10、斎藤昌三訳)

 彼がわたしに望んでいたのは、もちろん、できる限り彼のように書くということなんです。こういう自惚れを持った作家たちはこれまでにもよく見かけたものよ。卓越した作家であればあるほど、この種の自惚れがはっきりしたものになりがちなようね。彼らは、誰もが自分と同じように書くべきだと信じているんです。もちろん、自分と同じように書けはしまいが、(…)
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』11、斎藤昌三訳)

 ナポレオンは死の直前、ウェリントンと話がしたいと願った。ローズヴェルトに会いたいという、常軌を逸したヒトラーの懇願。体から血を流しながら、一瞬でいいからブルータスと言葉を交わしたいと願ったシーザーのいまわのきわの情熱。
 自分を破滅させた相手の胸にはなにがあるか?
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・4、大森 望訳)

人の心の邪まな情熱だけが、永く残る印象をきざむことができるのです。これに反して、善い情熱はいいかげんな印象しかのこしません。
(アルジャノン・ブラックウッド『妖怪博士ジョン・サイレンス』邪悪なる祈り、紀田順一郎訳)

「ガラス魔法がなくてもゴブリンに変わる人もいるのよ」とフロー伯母さん。「まっとうな世界よりも壊れた世界のほうが好きな人たち。そういう人たちは、自分たちだけが壊れていることに耐えられないのよ」
(ジェイムズ・P・ブレイロック『魔法の眼鏡』第十四章、中村 融訳)

人間は、自分の才能(ちから)を生かせる場所に行くしかない。
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』3、大森 望訳)

「ポール」と彼女はもう一度わたしの名を呼んだ。それは新しいわたしにも古いわたしにも手の届かない、いや、わたしたちを形作った長官たちの目論見も手の届かない、彼女の心の奥底からのせつない希望の叫びだった。わたしは彼女の手をとっていった。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

いまやどんなことも起こりうる。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

すべての物事が新しく生まれ変わる前には。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

別の雲。
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)


Another Day。

  田中宏輔



別の少女
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の男の子
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・15、茂木 健訳)

別の世界
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の場所
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の誰かの夢

(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の小路
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の国や別の地方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別のもの
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の言葉
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の見方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の人間
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の問題
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・I、鈴木克昌訳)

別の階段
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の場所
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の手段
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の方向
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の扉
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳)

別の人間
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の形
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別のあるもの
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の理由
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の人
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・IV、鈴木克昌訳)

別の意味
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・I、鈴木克昌訳)

別の場所
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の種類
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の考え
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別のブロック
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

別の頁
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

別の場合
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の文字
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の通り
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・II、鈴木克昌訳)

別の夢
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の物
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・IV、鈴木克昌訳)

別の感情
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

別のところ
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・2、茂木 健訳)

別のルール
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・2、茂木 健訳)

別の星
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・5、茂木 健訳)

別の手
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・6、茂木 健訳)

別の椅子
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・7、茂木 健訳)

別のアーチ
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・7、茂木 健訳)

別の筋(すじ)
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・10、茂木 健訳)

別の方法
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・10、茂木 健訳)

別の砂漠
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・12、茂木 健訳)

別の生活
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・13、茂木 健訳)

別の反応
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・15、茂木 健訳)

別の仕事
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・17、茂木 健訳)

別のベッド
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・17、茂木 健訳)

別のなにか
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・19、茂木 健訳)

別の質問
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第三部・20、茂木 健訳)

別の問題
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第五部・33、茂木 健訳)

別の脳細胞
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第五部・28、茂木 健訳)

別の考え
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第五部・28、茂木 健訳)

別のこと
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第六部・35、茂木 健訳)

別の人格
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二章・5、茂木 健訳)

別のいい方
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第四章・2、茂木 健訳)

別のテーブル
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第五章、茂木 健訳)

別の話
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第五章、茂木 健訳)

別の鍵
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二十四章・2、茂木 健訳)

別の意味
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二十四章・2、茂木 健訳)

別の物語
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第二十七章、茂木 健訳)

別の人生
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

別の歴史
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

別の生き物
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『時間封鎖』上、茂木 健訳)

別の声
(スティーヴン・キング『霧』8、矢野浩三郎訳)

別の時と場所
(スティーヴン・キング『霧』5、矢野浩三郎訳)

別の男
(スティーヴン・キング『霧』4、矢野浩三郎訳)

別の箱
(スティーヴン・キング『霧』4、矢野浩三郎訳)

べつの避雷針
(スティーヴン・キング『霧』6、矢野浩三郎訳)

別のビール
(スティーヴン・キング『霧』10、矢野浩三郎訳)

別のネズミ
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の客
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の考え
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の心
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の車
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別の惑星
(スティーヴン・キング『ジョウント』大村美根子訳)

別のもの
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の要素
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の女
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の美しさ
(スティーヴン・キング『トッド夫人の近道』山本光伸訳)

別の眼鏡
(スティーヴン・キング『しなやかな銃弾のバラード』山本光伸訳)

別の人間
(スティーヴン・キング『しなやかな銃弾のバラード』山本光伸訳)

別の部分
(スティーヴン・キング『しなやかな銃弾のバラード』山本光伸訳)

別の部屋
(スティーヴン・キング『ウェディング・ギグ』山本光伸訳)

別のやり方
(スティーヴン・キング『入り江』山本光伸訳)

別の声
(スティーヴン・キング『入り江』山本光伸訳)

別の眼
(スティーヴン・キング『やつらの出入口』高畠文夫訳)

別のもの
(スティーヴン・キング『人間圧搾機』高畠文夫訳)

別の部屋
(スティーヴン・キング『子取り鬼』高畠文夫訳)

別のレコード
(スティーヴン・キング『トラック』高畠文夫訳)

別の男
(スティーヴン・キング『やつらはときどき帰ってくる』高畠文夫訳)

別の何か
(スティーヴン・キング『呪われた村〈ジェルサレムズ・ロット〉』高畠文夫訳)

もう一つ別の声
(スティーヴン・キング『呪われた村〈ジェルサレムズ・ロット〉』高畠文夫訳)

別のもの
(パトリシア・ハイスミス『ヒロイン』小倉多加志訳)

別の本
(パトリシア・ハイスミス『ヒロイン』小倉多加志訳)

別の人間
(パトリシア・ハイスミス『アフトン夫人の優雅な生活』小倉多加志訳)

別の階段
(パトリシア・ハイスミス『アフトン夫人の優雅な生活』小倉多加志訳)

別の場所
(パトリシア・ハイスミス『モビールに艦隊が入港したとき』小倉多加志訳)

別の場所
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』夏、小梨 直訳)

別の例
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』春、小梨 直訳)

別の意識の世界
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』夏、小梨 直訳)

別の言い方
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の機会
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の目的
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の目的
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』秋、小梨 直訳)

別の角度
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』冬、小梨 直訳)

別の方向
(アンナ・カヴァン『われらの都市』I、細見遙子訳)

別の船
(アンナ・カヴァン『あらゆる悲しみがやってくる』細見遙子訳)

別のとき
(アンナ・カヴァン『ベンホー』細見遙子訳)

別の場所
(アンナ・カヴァン『輝しき若者たち』細見遙子訳)

別の力
(アンナ・カヴァン『輝しき若者たち』細見遙子訳)

別の不幸
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第3話、山田順子訳)

別の広間
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第3話、山田順子訳)

別の子
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第2話、山田順子訳)

別のところ
(フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第7話、山田順子訳)

別の音
(ホイットリー・ストリーバー『ラスト・ヴァンパイア』10、山田順子訳)

別の声
(ホイットリー・ストリーバー『ラスト・ヴァンパイア』14、山田順子訳)

別の世界
(ホイットリー・ストリーバー『ラスト・ヴァンパイア』18、山田順子訳)

べつの世界
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・10、中原尚哉訳)

べつの入り口
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・14、中原尚哉訳)

べつのきみ
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・5、中原尚哉訳)

べつの可能性
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』上・第三部・10、中原尚哉訳)

べつのとこ
(ロバート・ブロック『かぶと虫』仁賀克雄訳)

別の理論
(ロバート・ブロック『未来を抹殺した男』仁賀克雄訳)

別のもの
(ル・クレジオ『アザラン』豊崎光一・佐藤領時訳)

別の場所
(ル・クレジオ『アザラン』豊崎光一・佐藤領時訳)

別の部分
(ダン・シモンズ『夜の子供たち』上・17、布施由紀子訳)

別のドア
(ダン・シモンズ『夜の子供たち』上・17、布施由紀子訳)

別のもの
(グラント・キャリン『サターン・デッドヒート』1、小隅 黎・高林慧子訳)

別の人間
(グラント・キャリン『サターン・デッドヒート2』第二部・7、小隅 黎・高林慧子訳)

別の出入口
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ1』4、三角和代訳)

別の約束
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ2』11、三角和代訳)

別の酔っ払い
(アンリ・ミショー『日本における一野蛮人』小海永二訳)

別のもの
(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』6、川本静子訳)

別の力
(バリントン・J・ベイリイ『時間帝国の崩壊』9、中上 守訳)

べつの詩
(リチャード・マシスン『下降』小田麻紀訳)

別の銀行支店長
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ4』X、三角和代訳)

別の学生
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ4』XI、三角和代訳)

別の目
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ4』XX、三角和代訳)

別の社員
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・4、茂木 健訳)

別のリスト
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・5、茂木 健訳)

別の考え方
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別の人間
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別の誰か
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別の隠喩(メタフアー)
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・8、茂木 健訳)

別のこと
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・11、茂木 健訳)

別の意味
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・11、茂木 健訳)

別の質問
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・12、茂木 健訳)

別の会話
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・12、茂木 健訳)

別のもの
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・13、茂木 健訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・14、茂木 健訳)

別の車
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・14、茂木 健訳)

別の問題
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第二部・17、茂木 健訳)

別の露天商
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・18、茂木 健訳)

別の店
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・18、茂木 健訳)

別の担当者
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・20、茂木 健訳)

別のデッキチェア
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・21、茂木 健訳)

別の人生
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第三部・23、茂木 健訳)

別の本
(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』1、茂木 健訳)

別のアンデルセン
(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』2、茂木 健訳)

別の遊び方
(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』2、茂木 健訳)

別の次元

(R・C・ウィルスン『アブラハムの森』3、茂木 健訳)

別のところ
(R・C・ウィルスン『ペルセウス座流星群』茂木 健訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『ペルセウス座流星群』茂木 健訳)

別の収穫
(R・C・ウィルスン『街のなかの街』茂木 健訳)

別の道
(R・C・ウィルスン『観察者』茂木 健訳)

別の楽しみ
(R・C・ウィルスン『薬剤の使用に関する約定書』茂木 健訳)

別の薬
(R・C・ウィルスン『薬剤の使用に関する約定書』茂木 健訳)

別の反応
(R・C・ウィルスン『寝室の窓から月を愛でるユリシーズ』茂木 健訳)

別の話
(R・C・ウィルスン『プラトンの鏡』茂木 健訳)

別のあなた
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の宇宙
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の世界
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の生物
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別の不気味な階段
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別のいいかた
(R・C・ウィルスン『無限による分割』茂木 健訳)

別のビーズのカーテン
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別の階段
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別の本
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別の疑問
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

別のなにか
(R・C・ウィルスン『パール・ベイビー』茂木 健訳)

べつのいばらの冠
(デイヴィッド・マレル『オレンジは苦悩、ブルーは狂気』浅倉久志訳)

別の虫
(チャールズ・L・グラント『死者との物語』黒丸 尚訳)

別の色合い
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

別の理由
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

別の位置
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

別の連中
(ジョー・ホールドマン『怪物』中村 融訳)

別の診察室
(チェルシー・クイン・ヤーブロ『とぎれる』宮脇裕子訳)

別の連続殺人事件
(ウィリアム・ノーラン『最後の石』宮脇裕子訳)

別のサイレン
(ウィリアム・ノーラン『最後の石』宮脇裕子訳)

別の人格
(ホイットリー・ストリーバー『苦痛』白石 朗訳)

別のやじ馬
(クライヴ・バーカー『魂のゆくえ』宮脇孝雄訳)

別の通路
(ジョン・クロウリー『雪』畔柳和代訳)

別の部屋
(ジョン・クロウリー『雪』畔柳和代訳)

別の朝
(ジョン・クロウリー『雪』畔柳和代訳)

別のねぐら
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』二、佐田千織訳)

別の形
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』五、佐田千織訳)

別の鳥
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』十二、佐田千織訳)

別のチャバラカッコウ
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』十二、佐田千織訳)

別の自分
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』十九、佐田千織訳)

別の一日
(アンナ・カヴァン『あなたは誰?』二十、佐田千織訳)

別の決まり文句
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・II、鈴木克昌訳)

別の糸
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・II、鈴木克昌訳)

別の状態
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・IV、鈴木克昌訳)

別の一人
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・I、鈴木克昌訳)

別のバス
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の話
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の見方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の脚本
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別のやり方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の活動
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の燃えさし
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

別の性格
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

別の弾き方
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

別の生活
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

別の魔法
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・II、鈴木克昌訳)

別の季節
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・II、鈴木克昌訳)

別の結論
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の光景
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の立場
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の一面
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の太陽系
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の姿
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の様相
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の事態
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の人
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

別の報告書
(フランク・アッシャー『ヴェルサイユの幽霊』南波喜久美訳)

別の売春婦
(コリン・ウィルソン『殺人の哲学』第四章、高儀 進訳)

別の物件
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・1、伊達 奎訳)

別の部屋
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・1、伊達 奎訳)

別の味わい
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・4、伊達 奎訳)

別の問題
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第一部・5、伊達 奎訳)

別の意味
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・9、伊達 奎訳)

別の管理人
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・13、伊達 奎訳)

別の時代
R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・14、伊達 奎訳)

また別のおとぎ話
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第二部・第十一章・2、公手成幸訳)

別の声
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第二部・第十一章・2、公手成幸訳)

別のホーム
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第三部・第十七章・3、公手成幸訳)

別の表情
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第三部・第二十六章・3、公手成幸訳)

別の宿
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・5、佐藤高子訳)

別の小屋
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・5、佐藤高子訳)

別の株
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第二部・7、佐藤高子訳)

別の一人
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第二部・14、佐藤高子訳)

別の道
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第二部・15、佐藤高子訳)

別の表情
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・1、佐藤高子訳)

別の航海
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・3、佐藤高子訳)

別の密偵
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・3、佐藤高子訳)

別の乗組員
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・4、佐藤高子訳)

別の顔
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の魂
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の種族
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の島民
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・5、佐藤高子訳)

別の姿
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・8、佐藤高子訳)

別のツタ
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・9、佐藤高子訳)

別の存在
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・11、佐藤高子訳)

別の部屋
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第三部・12、佐藤高子訳)

別の女性
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・1、佐藤高子訳)

別の一本
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・1、佐藤高子訳)

別の件
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・7、佐藤高子訳)

別のお告げ
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・6、佐藤高子訳)

別の地区
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・6、佐藤高子訳)

別の時
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第四部・7、佐藤高子訳)

別の場所
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・7、佐藤高子訳)

別の球
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・6、佐藤高子訳)

別の力
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・9、佐藤高子訳)

別の夜
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・10、佐藤高子訳)

別の身体
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・15、佐藤高子訳)

別の男
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・15、佐藤高子訳)

別の肉体
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・15、佐藤高子訳)

別の方法
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第五部・14、佐藤高子訳)

別の夢
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』下巻・第五部・14、佐藤高子訳)

別の事実
(ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』22、池 央耿訳)

別の状態
(ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』23、池 央耿訳)

別の夢
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第一部・1、森下弓子訳)

別の色
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第一部・12、森下弓子訳)

別の群れ
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第二部・6、森下弓子訳)

別の故事
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第二部・9、森下弓子訳)

別の説
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻・第二部・9、森下弓子訳)

別の意見
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』下巻・第五部・1、森下弓子訳)

別の作家
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』7、朝松 健訳)

別の話
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』10、朝松 健訳)

別の客人
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の廊下
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の部屋
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の問題
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』12、朝松 健訳)

別の場所
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』13、朝松 健訳)

別の階段
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』13、朝松 健訳)

別の機会
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』13、朝松 健訳)

別の食堂
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の衝撃
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の理屈
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の姿
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の影
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』14、朝松 健訳)

別の腕
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』17、朝松 健訳)

別の箇所
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』17、朝松 健訳)

別の音
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の幻影』19、朝松 健訳)

別のある男
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の妖宴』1、江津 公訳)

別の集まり
(フィリップ・ホセ・ファーマー『淫獣の妖宴』20、江津 公訳)

別の手
(フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』8、佐藤龍雄訳)

別の女
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の少年
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の下水道
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の意味
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の観察者
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の層
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の脇道
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議〔改訳版〕』深見 弾・大野典宏訳)

別の不幸
(プッツァーティ『竜退治』脇 功訳)

別の包み
(プッツァーティ『聖者たち』脇 功訳)

べつの名前
(チャールズ・ストロス『アイアン・サンライズ』金子 浩訳)

別の感覚
(ジャック・ヴァンス『ノパルガース』6、伊藤典夫訳)

別の要素
(ジャック・ヴァンス『ノパルガース』10、伊藤典夫訳)

別の通路
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・16、日暮雅通訳)

別の男
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・17、日暮雅通訳)

別の部屋
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・23、日暮雅通訳)

別の車
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・25、日暮雅通訳)

別の仕事
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・30、日暮雅通訳)

別の抜け道
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・31、日暮雅通訳)

別の形
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・38、日暮雅通訳)

別の罪
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・38、日暮雅通訳)

別の仕事
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・48、日暮雅通訳)

別の何か
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・48、日暮雅通訳)

別の考え
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・49、日暮雅通訳)

別の餌
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・49、日暮雅通訳)

別の自己
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・51、日暮雅通訳)

別の通り
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・51、日暮雅通訳)

別の通り
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・54、日暮雅通訳)

別のレンガ
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第四部・56、日暮雅通訳)

別のカーペット
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・57、日暮雅通訳)

別のライト
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・57、日暮雅通訳)

別の書類
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・58、日暮雅通訳)

別のコース
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・59、日暮雅通訳)

別の部屋
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・59、日暮雅通訳)

別の小さな瓶
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・60、日暮雅通訳)

別の人影
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・62、日暮雅通訳)

別の声
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・62、日暮雅通訳)

別の準備
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・67、日暮雅通訳)

別の街灯
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・60、日暮雅通訳)

別の人間
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・71、日暮雅通訳)

別のメッセージ
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・76、日暮雅通訳)

別の標本
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第六部・80、日暮雅通訳)

別の人間
(エルナン・ララ・サバーラ『イグアナ狩り』柴田元幸訳)

別の人生
(セルゲイ・ドヴラートフ『カーチャ』柴田元幸訳)

別の気持ち
(ベル・コーフマン『日曜日の公園』小川高義訳)

べつの方角
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』かたわ男、延原 謙訳)

別の事件
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』入院患者、延原 謙訳)

別の考え方
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの思い出』入院患者、延原 謙訳)

別の言い方
(ロイ・ブラウント・ジュニア『ファイヴ・アイヴズ』村上春樹訳)

別の原理
(ゴードン・リッシュ『はぐらかし』村上春樹訳)

別の死体
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XXVI、高橋 啓訳)

別の質問
(マイク・レズニック『スターシップ─反乱─』5、月岡小穂訳)

別の感覚
(ナボコフ『翼の一撃』二、沼野充義訳)

別の紙
(ナボコフ『翼の一撃』二、沼野充義訳)

別の目的
(R・C・ウィルスン『楽園炎上』第三部・24、茂木 健訳)

別の感慨
(R・C・ウィルスン『楽園炎上』第三部・30、茂木 健訳)

別の実験
(ジャック・ヴァンス『ノパルガース』10、伊藤典夫訳)

別の説明
(フェルナンド・ペソア『不穏の書』95、澤田 直訳)

別の街
(フェルナンド・ペソア『不穏の書』98、澤田 直訳)

別の野原
(フェルナンド・ペソア『不穏の書』121、澤田 直訳)

別の太陽
(フェルナンド・ペソア(リカルド・レイス詩篇)『(暁の青白い光が…)』澤田 直訳)

別の道
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス詩篇)『シボレーのハンドルを握り…』)澤田 直訳)

別の夢
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス詩篇)『シボレーのハンドルを握り…』)澤田 直訳)

別の世界
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス詩篇)『シボレーのハンドルを握り…』)澤田 直訳)

別の恋
(フェルナンド・ペソア『婚約者への訣別の手紙』澤田 直訳)

別の記念碑
(フェルナンド・ペソア『ペソアと歩くリスボン』近藤紀子訳)

別の庭園
(フェルナンド・ペソア『ペソアと歩くリスボン』近藤紀子訳)

べつの人間
(フェルナンド・ペソア(アルヴァロ・デ・カンポス名義)『Lisbon Revisited (1923)』池上〓夫訳)

別の記録
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の通路
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の生き残り
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の機会
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の写真
(トマス・スウェターリッチ『明日と明日』第一部、日暮雅通訳)

別の言葉
(シャーリイ・ジャクスン『逢瀬』市田 泉訳)

別の歌
(シャーリイ・ジャクスン『男の子たちのパーティ』市田 泉訳)

別の雲
(ペソア『不安の書』第二部・10、高橋都彦訳)

別の性格
(ペソア『不安の書』第二部・51、高橋都彦訳)

別の言葉遣い
(ペソア『不安の書』第二部・85、高橋都彦訳)

別の青
(ペソア『不安の書』第二部・119、高橋都彦訳)

別の舞台装置
(ペソア『不安の書』第二部・147、高橋都彦訳)

別の思い出
(ペソア『不安の書』第二部・147、高橋都彦訳)

別の自分
(ペソア『不安の書』第二部・161、高橋都彦訳)

別の窓
(ペソア『不安の書』第二部・227、高橋都彦訳)

別の過去
(ペソア『不安の書』第二部・51、高橋都彦訳)

別のゴルゴタの丘
(ペソア『不安の書』第二部・252、高橋都彦訳)

別の視線
(ペソア『不安の書』第二部・254、高橋都彦訳)

別の思考
(ペソア『不安の書』第二部・254、高橋都彦訳)

別の心
(ペソア『不安の書』第二部・254、高橋都彦訳)

別の地球
(ペソア『不安の書』第二部・263、高橋都彦訳)

別の芸術
(ペソア『不安の書』第二部・264、高橋都彦訳)

別の実体
(ペソア『不安の書』第二部・273、高橋都彦訳)

別の感覚
(ペソア『不安の書』第二部・274、高橋都彦訳)

別の結果
(ペソア『不安の書』第二部・309、高橋都彦訳)

別の現実
(ペソア『不安の書』第三部・410、高橋都彦訳)

別の日
(ペソア『不安の書』第三部・435、高橋都彦訳)

別の色
(ペソア『不安の書』第三部・435、高橋都彦訳)

別の夢
(ペソア『不安の書』第三部・452、高橋都彦訳)

別の体位
(ペソア『不安の書』第三部・452、高橋都彦訳)

別の黄金
(ペソア『不安の書』第三部・452、高橋都彦訳)

別のわたし
(ペソア『不安の書』第三部・453、高橋都彦訳)

別の花
(ペソア『不安の書』第三部・455、高橋都彦訳)

別の姿
(ペソア『不安の書』第三部・455、高橋都彦訳)

別の名前
(ケリー・リンク『妖〓のハンドバッグ』柴田元幸訳)

別の開け方
(ケリー・リンク『妖〓のハンドバッグ』柴田元幸訳)

別の気分
(ジョン・バース『暗夜海中の旅』大津栄一郎訳)

別の言葉
(ジョン・バース『暗夜海中の旅』大津栄一郎訳)

別の存在
(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第1部・第6章、日暮雅通訳)

別の道
(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第1部・第6章、日暮雅通訳)

別の電話
(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第2部・第16章、日暮雅通訳)

別の人生
(マイケル・カニンガム『めぐりあう時間たち』ミセス・ブラウン、高橋和久訳)

別の、
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第二部・12、日暮雅通訳)

別の新たな存在
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第二部・17、日暮雅通訳)

別の力
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第三部・19、日暮雅通訳)

別の存在
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』下巻・第六部・45、日暮雅通訳)

別の青
(J・L・ボルヘス『鏡』鼓 直訳)

別の夜
(J・L・ボルヘス『天恵の歌』鼓 直訳)

別の夢
(J・L・ボルヘス『詩法』鼓 直訳)

別の愛
(J・L・ボルヘス『バルタサル・グラシアン』鼓 直訳)

別の現実
(J・L・ボルヘス『His End and His Beginning』鼓 直訳)

別の手
(J・L・ボルヘス『短歌』3、鼓 直訳)

別の海
(J・L・ボルヘス『ハーマン・メルヴィル』鼓 直訳)

別の顔
(J・L・ボルヘス『鏡』鼓 直訳)

別の術、忘却
(J・L・ボルヘス『シャーロック・ホームズ』鼓 直訳)

別の迷宮
(J・L・ボルヘス『寓話の森』鼓 直訳)

別の過ち
(マルセル・プルースト『ある少女の告白』III、山田 稔訳)

別の中庭
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『スロー・ミュージック』伊藤典夫訳)

別のイメージ
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たおやかな狂える手に』伊藤典夫訳)

別の結末
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たおやかな狂える手に』伊藤典夫訳)

別のベンチ
(アン・レッキー『叛逆航路』5、赤尾秀子訳)

別の感情
(アン・レッキー『叛逆航路』14、赤尾秀子訳)

別の自分
(アン・レッキー『叛逆航路』23、赤尾秀子訳)

別のスイッチ
(ジャック・ヴァンス『奇跡なす者たち』IV、酒井昭伸訳)

別の魂
(R・A・ラファティ『第四の館』柳下毅一郎訳)

別の体験
(ベーア=ホフマン『ある夢の記憶』池内 紀訳)

別の力
(ハインリヒ・ベル『長い髪の仲間』青木順三訳)

別の夢
(フラナリー・オコナー『強制追放者』横


詩の日めくり 二〇一六年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十三月一日 「廃語霊。」


な〜んてね。


二〇一六年十三月二日 「こんな科目がある。」


幸福の幾何学
倫理代数学
匿名歴史学
抒情保健体育
愛憎化学
錯覚地理
電気国語
苦悩美術
翻訳家庭科
冥福物理
最善地学
誰に外国語
摩擦哲学
無為技術
戦死美術
被爆音楽
擬似工作
微塵哲学
足の指天文学


二〇一六年十三月三日 「後日談」


大失敗、かな、笑。
ネットで検索していて
『ブヴァールとペキュシェ』が品切れだったと思って
何日か前にヤフオクで全3巻1900円で買ったのだけれど
きょう、『紋切型辞典』を買いにジュンク堂によって
本棚を見たら、『ブヴァールとペキュシェ』が置いてあったのだった、笑。
ううううん。
560円、500円、460円だから
新品の方が安かったわけね。
日知庵によって、バカしたよ〜
と言いまくり。
ネット検索では、品切れだったのにぃ、涙。
ひさびさのフロベール体験。
どきどき。
きょうは、これからお風呂。
あがったら、『紋切型辞典』をパラパラしよう。


このあいだ、ヤフオクで買ったの
届いてた。
ヤケあるじゃん!
ショック。


いまネットの古書店で見たら
4200円とかになってるしな〜
思い違いするよな〜
もうな〜
足を使って調べるということも
必要なのかな。
ネット万能ではないのですね。
しみじみ。
古書は、しかし、むかしと違って
ほんとうに欲しければ、ほとんどすぐに手に入る時代になりました。
古書好きにとっては、よい時代です。
こんなスカタンなことも
ときには、いいクスリになるのかもしれません、笑。
キリッと
前向き。


二〇一六年十三月四日 「朝の忙しい時間にトイレをしていても」


横にあった
ボディー・ソープの容器の
後ろに書いてあった解説書を読んでいて
ふと、ううううん
これはなんやろ
なんちゅう欲求やろかと思った。
読書せずにはいられない。
いや
人間は
知っていることでも
一度読んだ解説でもいいから
読んでいたい
より親しくなりたいと思う動物なんやろか。
それとも、文字が読めるぞということの
自己鼓舞なのか。
自己主張なのか。
いや
無意識層のものの
欲求なのか。
そうだなあ。
無意識に手にとってしまったものね。


二〇一六年十三月五日 「エリオットの詩集」


2010年11月19日のメモ 

岩波文庫のエリオットの詩「風の夜の狂想曲」を読んでいて
42ページにある最後の一行「ナイフの最後のひとひねり。」(岩崎宗治訳)の解釈が
翻訳者が解説に書いてあるものと
ぼくのものとで、ぜんぜん違っていることに驚かされた。
ぼくの解釈は直解主義的なものだった。
訳者のものは、隠喩としてとったものだった。
まあ、そのほうが高尚なのだろうけれど
おもしろくない。
エリオットの詩は
直解的にとらえたほうが、ずっとおもしろいのに。
ぼくなんか、にたにた笑いながら読んでるのに。
むずかしく考えるのが好きなひともいるのはわかるけど
ぼくの性には合わない。
批評がやたらとりっぱなものを散見するけど
なんだかなあ。
バカみたい。


二〇一六年十三月六日 「ぼくたち人間ってさ。」


もう、生きてるってだけでも、荷物を背負っちゃってるよね。
知性とか感情っていうものね。
(知性は反省し、感情は自分を傷つけることが多いから)
それ以外にも生きていくうえで耐えなきゃならないものもあるし
だいたい、ひとと合わせて生きるってことが耐えなきゃいけないことをつくるしね。
お互いに荷物を背負ってるんだから
ちょっとでも、ひとの荷物を減らしてあげようとか思わなきゃダメよ。
減らなくても、ちょっとでも楽になる背負い方を教えてあげなきゃね。
自分でも、それは学ぶんだけど。
ひとの荷物、増やすひといるでしょ?
ひとの背負ってる荷物増やして、なに考えてるの?
って感じ。
そだ。
いま『源氏物語』中盤に入って
めっちゃおもしろいの。
「そうなんですか。」
そうなの。
もうね。
矛盾しまくりなの。
人物描写がね、性格描写か。
しかし、『源氏物語』
こんなにおもしろくなるとは思ってもいなかったわ。
物語って、型があるでしょ。
あの長い長い長さが、型を崩してるのね。
で、その型を崩させているところが
作者の制御できてないところでね。
その制御できてないところに、無意識の紡ぎ出すきらめきがあってね。
芸術って、無意識の紡ぎ出すきらめきって
いちばん大事じゃない?
いまのぼくの作風もそうで
もう、計画的につくられた詩や小説なんて
ぜんぜんおもしろくないもの。
よほどの名作はべつだけど。

『源氏物語』のあの長さが、登場人物の性格を
一面的に描きつづけることを不可能にさせてるのかもしれない。

それが、ぼくには、おもしろいの。
それに、多面的でしょ、じっさいの人間なんて。
ふつうは、一貫性がなければ、文学作品に矛盾があるって考えちゃうけど
じっさいの人間なんて、一貫性がないでしょ。
一貫性がもとめられるのは、政治家だけね。
政治の場面では、一貫性が信用をつくるから。
たとえば、政党のスローガンね。
でも、もともと、人間って、政治的でしょ?
職場なんて、もろそうだからね。
それは、どんな職場でも、そうだと思うの。
ほら、むかし、3週間ぐらい、警備員してたでしょ?
「ええ、そのときは、ほんとにげっそり痩せてられましたよね。」
でしょ?
まあ、どんなところでも、人間って政治的なのよ。
あ、話を戻すけど
芸術のお仕事って、ひとの背負ってる荷物をちょっとでも減らすか
減らせなけりゃ、すこしでも楽に思える担い方を教えてあげることだ思うんだけど
だから、ぼくは、お笑い芸人って、すごいと思うの。
ぼくがお笑いを、芸術のトップに置く理由なの。
(だいぶ、メモから逸脱してます、でもまた、ここからメモに)
芸人がしていることをくだらないっていうひとがいるけど
見せてくれてることね
そのくだらない芸で、こころが救われるひとがいるんだからね。
フロベールの『紋切型辞典』に
文学の項に、「閑人(ひまじん)のすること。」って書いてあったけど
その閑人がいなけりゃ
人生は、いまとは、ぜんぜん違ったものになってるだろうしね。
世界もね。
きのう、あらちゃんと
自費出版についてディープに話したけど
この日記の記述、だいぶ長くなったので、あとでね。
つぎには、きのうメモした長篇を。
エリオットに影響されたもの。
(ほんとかな。)


二〇一六年十三月七日 「あなたがここに見えないでほしい。」


とんでもない。
けさのうんこはパープルカラーの
やわらかいうんこだった。
やわらかいうんこ。
やわらかい
軟らかい
うんこ
便
軟らかい
うんこ
軟便(なんべん)
なすびにそっくりな形の
形が
なすびの
やわらかい
うんこ
軟便
なすびにそっくりのパープルカラーが
ぽちゃん

便器に
元気に
落ちたのであった。
わしがケツもふかずに
ひょいと腰を浮かして覗き込むと
水にひろがりつつある軟便も
わしを見上げよったのじゃ。
そいつは水にひろがり
形をくずして
便器がパープルカラーに染まったのじゃった。
ひゃ〜
いかなる病気にわしはあいなりおったのじゃろうかと
不安で不安で
いっぱいになりおったのじゃったが
しっかと
大量の水をもって
パープルカラーの軟便を流し去ってやったのじゃった。
これで不安のもとは立ち去り
「言わせてやれ!」
わしはていねいにケツをふいて
「いてっ、いててててて、いてっ。」
手も洗わず
顔も洗わず
歯も磨かず
目ヤニもとらず
耳アカもとらず
鼻クソもとらず
靴だけを履いて
ステテコのまま
出かける用意をしたのじゃった。
公園に。
「いましかないんじゃない?」
クック、クック
と幸せそうに笑いながら
陽気に地面を突っついておる。
なにがおかしいんじゃろう。
不思議なヤカラじゃ。
不快じゃ。
不愉快じゃ。
ワッ
ワッ
ワッ
あわてて飛び去る鳩ども
じゃが、頭が悪いのじゃろう。
すぐに舞い戻ってきよる。
ワッ
ワッ
ワッ
軟便
違う
なんべんやっても
またすぐに舞い戻ってきよる。
頭が悪いのじゃろう。
わしは疲れた。
ベンチにすわって休んでおったら
マジメそうな女子高校生たちが近寄ってきよったんじゃ。
なんじゃ、なんじゃと思とうったら
女の子たちが
わしを囲んでけりよったんじゃ。
ひゃ〜
「いてっ、いててててて、いてっ。」
「いましかないんじゃない?」
こりゃ、かなわん
と言って逃げようとしても
なかなかゆるしてもらえんかったのじゃが
わしの息子と娘がきて
わしをたすけてくれよったんじゃ。
「お父さん
 机のうえで
 卵たちがうるさく笑っているので
 帰って
 卵たちを黙らせてくれませんか。」
たしかに
机のうえでは
卵たちが
クツクツ笑っておった。
そこで、わしは
原稿用紙から飛び出た卵たちに
「文字にかえれ。
 文字にかえれ。
 文字にかえれ。」
と呪文をかけて
卵たちが笑うのをとめたんじゃ。
わしが書く言葉は
すぐに物質化しよるから
もう、クツクツ笑う卵についての話は書かないことにした。
しかし、クツクツ笑うのは
卵じゃなくって
靴じゃなかったっけ?
とんでもない。
「いましかないんじゃない?」
「問答無用!」
そんなこと言うんだったら
にゃ〜にゃ〜鳴くから
猫のことを
にゃ〜にゃ〜って呼ばなきゃならない。 電話は
リンリンじゃなくって

もうリンリンじゃないか
でんわ、でんわ
って
鳴きゃなきゃならない。
なきゃなきゃならない。
なきゃなきゃ鳴かない。
「くそー!」
原稿用紙に見つめられて
わしの独り言もやみ
「ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい。」
吉野の桜も見ごろじゃろうて。
「なんと酔狂な、お客さん」
あなたがここに見えないでほしい。
「いか。」
「いいかな?」


二〇一六年十三月八日 「このバケモノが!」


いまナウシカ、3回目。
「このバケモノが!」
「うふふふ。」
「不快がうまれたワケか。
 きみは不思議なことを考えるんだな。」
「あした、みんなに会えばわかるよ。」
引用もと、『風の谷のナウシカ』
「以上ありません。」


二〇一六年十三月九日 「切断された指の記憶。」


ずいぶんむかし、TVで
ルーマニアだったか、チェコだったか
ヨーロッパの国の話なんだけど
第二次世界大戦が終わって
でも、まだその国では
捕虜が指を切断されるっていう拷問を受けてる
映像が出てて
白黒の映像なんだけど
机の上が血まみれで
たくさんの切断された指が
机の上にボロンボロン
ってこと
思い出した。
十年以上前かな。
葵公園で出会った青年が
右手の親指を見せてくれたんだけど
第一関節から先がなくなっていたのね。
「気持ち悪いでしょ?」
って言うから
「べつに。」
って返事した。
工場勤務で、事故ったらしい。
これまた十年ほども、むかし、竹田駅で
両方とも足のない男の子がいて
松葉杖を両手に持っていて
風にズボンのすそがひらひらしていて
なんだかとてもかわいらしくて
セクシーだった。
後ろ姿なんだけどね。
顔は見ていないんだけどね。
ぎゅって、したいなって思った。
だからってわけじゃないけど
指がないのも
美しいと思った。
じっと傷口を眺めていると
彼は指を隠した。
自分から見せたくせにね。
胃や腸がない子っているのかな。
内臓がそっくりない子。
そんな子は内面から美しくて
きっと、全身が金色に光り輝いてるんだろね。
脳味噌がない子もすてきだけど
目や耳や口のない子もかわいらしい。
でも、やっぱり
手足のない子が、いちばんかわいらしいと思う。
江戸川乱歩の『芋虫』とか
ドルトン・トランボの『ジョニーは戦場に行った』とか
山上たつひこの『光る風』とか
手足のない青年が出てきて
とってもキッチュ・キッチュだった。
あ、日活ロマンポルノに、ジョニジョニ・ネタがあってね。
第二次世界大戦で負傷したダンナが帰ってくると
そのうち布団のなかで芋虫になっちゃうのね。
違ったかな、笑。
でも、映像のレベルは高かったと思うよ。


二〇一六年十三月十日 「切断された指の記憶。」


指。
指。
指。
指。

指。


二〇一六年十三月十一日 「切断された指の記憶。」


切断された指っていうと
ヒロくんの話。
ヒロくんのお父さんの
年平均5、6本という話を思い出した。
それと
ウィリアム・バロウズも。
バロウズは自分で指を切断しちゃったんだよね。
恋人への面当てに。
そういえば
弟の同級生が
度胸試しに、自分の指を切断したって言ってた。
なんて子かしらね。
そうだ、カフカのことも思い出される。
労働省だったか保健省だったか
労務省だったかな。
そんなとこに勤めていたカフカのことも思い出される。
労働災害ね。
きょう、これから見る予定の『薬指の標本』
労災の話ね。
嘘、笑。
でも、タイトルがいいね。
楽しみ。
あとの2枚のDVDは
ちと違う傾向かもしれないけれど
怖そうだから
チラ見のチェックをしてみようっと。

ニコラス・ケイジは好きな俳優。
スネーク・アイだったかな。
いい映画だった。
8ミリも。
だから、ニコちゃんの映画、ちゃんと見るかも。
あ、
晩ご飯、買ってこなきゃ。
ご飯食べながら
血みどろゲロゲロ。
って
あ、
だから、寝られないのかな、笑。
ブリブリ。

さっきブックオフに行ったら
サンプルで見た映画があって
2980円していたので
なぜか、気分がよかった。
あのキョンシーもののタイムスリップものね。
田中玲奈のめっちゃヘタクソな演技がすごい映画でした。
最後まで見ることができなかった映画でした、笑。


二〇一六年十三月十二日 「ノイローゼ占い。」


ノイローゼにかかっている人だけで
ノイローゼの原因になっていることがらを
お互いに言い当て合うゲームのこと。
気合いが入ったノイローゼの持ち主が言い当てることが多い。
なぜかしら?
で、言い当てた人から抜けていくというもの。
じっさい、最初に言い当てた人は
次の回から参加できないことが多い。
兵隊さんと団栗さん。


二〇一六年十三月十三日 「2010年11月12日のメモ」


読む人間が違えば、本の意味も異なったものになる。


二〇一六年十三月十四日 「これまた、2010年11月12日のメモ」


首尾一貫した意見を持つというのは、一見、りっぱなことのように見えるが
個々の状況に即して考えていないということの証左でもある。


二〇一六年十三月十五日 「これまたまた、2010年11月12日のメモ」


書くという行為は、ひじょうに女々しい。
いや、これは現代においては、雄々しいと書く方がいいかもしれない。
意味の逆転が起こっている。
男のほうが潔くないのだ。
美輪明宏の言葉が思い出される。
「わたしはいまだかつて
 強い男と弱い女に出会ったことがありません。」
しかり、しかり、しかり。
ぼくも、そう思う。

あ、フロベールの『紋切型辞典』って
おもしろいよ。
用語の下に
「よくわからない。」
って、たくさんあるの。
読者を楽しませてくれるよね。
ぼくも
100ページの長篇詩のなかで
「ここのところ、忘れちゃった〜、ごめんなさい。」
って、何度も書いたけど、笑。


二〇一六年十三月十六日 「愛は、あなたを必要としている」


愛は、あなたを必要としている
あなたがいなければ、愛は存続できない
あなたが目を向けるところに愛はあり
あなたが息をするところに愛はあり
あなたが耳を傾けるところに愛はある
あなたがいないと、愛は死ぬ
愛は、あなたに生き
あなたとともに生きているのだ
あなたがいないところに愛はない
愛は、あなたがいるところにある
あなたそのものが愛だからだ


二〇一六年十三月十七日 「愛は滅ぼす」


愛は滅ぼす
ぼくのなかの蔑みを
愛は滅ぼす
ぼくのなかの憎しみを
愛は滅ぼす
ぼくのなかの躊躇いを
そうして、最後に
愛は滅ぼす
きみとぼくとのあいだの隔たりを


二〇一六年十三月十八日 「きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ II」」


きょうのブックオフでの買い物、「イマジン」と「ドクトル・ジバゴ II」

イマジン 1050円
ドクトル・ジバゴ II 105円

イマジンは、買いなおし。
リマスターやから、いいかな。
でも、これ、オマケの曲がないんやね。
ふううん。

パステルナークのほうは
I 持ってないんやけど
II のおわりのほうをめくったら
詩がのってて、その詩にひきつけられたから
ああ、これは縁があるって思って買った。
105円だし、笑。
さいきん、105円で、いい本がいっぱい見つかって
なんなんやろ、魂のチンピラこと
貧乏詩人あつすけとしては、よろこばしいかぎり。

その詩を引用しておきますね。
つぎの4行が目に、飛び込んできたんだわ。

ぼくといっしょなのは名のない人たち、
樹木たち、子供たち、家ごもりの人たち。
ぼくは彼らすべてに征服された。
ただそのことにのみ ぼくの勝利がある。
                 (「夜明け」最終連、江川卓訳)

本文では、誤植で「だた」になっていた。
たぶん、文庫だと直ってると思うけれど。
どこかで文庫で、Iを見たような記憶がある。
そのうち、Iも買おう。

しかし
なんで、イマジン
むかし売ったんやろ
そんなにお金に困ってたんかなあ
あんまり記憶にないなあ


二〇一六年十三月十九日 「こころ」


思えば、こころとは、なんと不思議なものであろうか
かつては、喜びの時であり、場所であり、出来事であった
いまは、悲しみの時であり、場所であり、出来事であった。
その逆のこともあろう。
さまざまな時であり、場所であり、出来事である
この、こころという不思議なもの。


二〇一六年十三月二十日 「ぼくはこころもとなかった」


ぼくはこころともなかった


二〇一六年十三月二十一日 「言葉」


ひとつの文章は
まるで一個の地球だ

言葉は
ひとつひとつ
読み手のこころを己れにひきよせる引力をもっている
しかし、それらがただひとつの重力となって
読み手のこころを引くことにもなるのだ


二〇一六年十三月二十二日 「句点。」


彼は O型
なにごとにも
さいごには句点を置かずにはいられなかった。


二〇一六年十三月二十三日 「やめる庭」


もう、や〜めたっ!
って言って
庭が
庭から駆け出しちゃった。


二〇一六年十三月二十四日 「木や石や概念は、孤独ではない。」


木や石や概念は、孤独ではない。
それ自らが、考えるということがないからである。
人間は、じつに孤独だ。
もちろん、しじゅう、考える生きものだからだ。
しかも、どんなに上手く考えるコツを習得していても孤独である。
むしろ、考えれば考えるほど
考えることに習熟すればするほど、孤独になるのである。
考えるとは、ひとりになること。
他人の足で、自分が歩くわけにはいくまい。
他人の足で、自らが歩いていると称する輩は多いけれども、笑。


二〇一六年十三月二十五日 「この人間という場所」


胸の奥でとうに死んだ虫たちの啼くこの人間という場所
傘をさしてもいつも濡れてしまうこの人間という場所
われとわれが争い勝ちも負けもみんな負けになってしまうこの人間という場所

高校生のときに、
高校は自転車で通っていたんだけど
雨の日にバスに乗ってたら、
視線を感じて振り向いたら
同じ町内にいた高校の先輩が、
ぼくの顔をじっと見てた
ぼくが見つめ返すと、
一瞬視線をそらして、
またすぐに
ぼくの顔を見た。
今度はぼくが視線を外した。
そのときの、そのひとの、せいいっぱい真剣な眼差しが
思い出となってよみがえる。

いくつかの目とかさなり。

「夏の思い出」という、
ぼくの詩に出てくる同級生は
高校2年で、
溺れて死んじゃったので、
ぼくのなかでは
永遠にうつくしい高校生。

あの日の触れ合った手の感触。

ぼくは、ぼくの思い出を、ぼくのために思い出す。


二〇一六年十三月二十六日 「2008年6月26日のメモより」


不眠症で、きのう寝てないんですよ、という話を授業中にした翌々日
一人の生徒に
「先生、きのう、寝れた?」
って、訊れて、その前夜は寝れたので(いつもの薬に、うつ病の薬を加えて)
「寝たよ。」というと
にっこり笑って
「よかった。」
って言ってくれた
とてもうれしかった
ごく自然にきづかってくれてるのが伝わった
ごく自然に伝わるやさしさの、なんと貴重なことか。
ぼく自身を振り返る
ぼくには、自然に振るまえるやさしさがない
ぼくには、自然にひとにやさしくする気持ちがない
ぼくにはできないことを、ごく自然にできる彼が
その子のようなひとたちのことを思い出す
いたね、たしかに、遠い記憶のなかにも
ごく最近の記憶のなかにも

この人間という時間のむごさとうつくしさ 
この人間という場所のむごさとうつくしさ
この人間という出来事のむごさとうつくしさ


二〇一六年十三月二十七日 「奇想コレクション」


それはたとえば、そうね、灰色の猫だと思っていたものが
そうではなくて、コンクリートで作られたゴミ箱だったことに気がついて
そのまわりの景色までが一変するような、そのようなことが起こるわけ
一つの現実から、もう一つ別の現実への変化なのだけれど
こんなことは日常茶飯事で
ただ、はっきりと認識していないだけでね
はっきりと認識する方法は、意識的であるようにつとめるしかないのだけれど
それって、生まれつき、そういう意識が発達しやすいようにできてる人は別だけれど
そうでない人は、そうとうに訓練しないとだめみたいね
ぼくなんかも、ボケボケだから、それを意識するっていうか
そうして、言葉にしないと意識できないっていうか

やっぱり認識なわけで
現実をつくっているのが
ということで
『舞姫』のテーマ、決まりね。

このあいだ読んだタニス・リーの短篇集には、何も得るものがなかったけれど
いまも読んでいるスタージョンの短篇集には、数ページごとに
こころに響く表現があって
これはなんだろうなって思った。
何だろう。
現実をより実感できるものにしてくれる表現。
これまでの現実を、ちょっと違った視点から眺めさせてくれることで
これまでの現実から、違った現実に、ぼくをいさせてくれる
そんな感じかな。
書かれていることは、とっぴょうしもないことではなくて
ごく日常的なことなのに
解釈なんだね
それを描写してくれているから
スタージョンの本はありがたい感じ。
タニス・リーのは、破り捨てたいくらいにクソの本だった。
奇想コレクション・シリーズの一巻で、カヴァーがかわいいので、捨てられないけれど、笑。


二〇一六年十三月二十八日 「意識と蒸し器」


意識と蒸し器

無意識とうつつもりで
蒸し器とうつ
でも、こうした偶然が
考えさせるきっかけになることもある。
常温から蒸し器をあっためていると
そのうち湯気が出てきて
沸点近くで沸騰しはじめると
やがて、真っ白い蒸気が細い穴からシューと出てくる。


二〇一六年十三月二十九日 「偶然」


うち間違い

という偶然が面白い。
これって、ワープロやワードが出現しなかったら
起こらなかった事柄かもしれない。

日常では
言い間違いというのがあるけれど
それってフロイト的な感じがあって
偶然から少し離れたところにあるものだけれど

このあいだ書いた
喫茶店なんかで
偶然耳にした
近くの席で交わされてる話し声のなかから単語をピックアップして
自分の会話に
自分の考えに取り入れるっていうほうが
近いかもしれない。

偶然

詩集にも引用したけれど
芥川が書いてたね

「偶然こそ神である」

って

ニーチェやヴァレリーも

「偶然がすべてである」

ってなこと書いてたような記憶があるけれど
偶然にも程度があって
フロイト的な言い間違いのものから
ぼくが冒頭に書いたキーボードのうち間違いなど
さまざまな段階があるって感じだね。

詩を書いていて
いや、大げさに言えば
生きていて
この偶然の力って、すごいと思う。

生きているかぎり
思索できるかぎり
偶然に振り回されつつ
その偶然の力を利用して
自分の能力の及ぶ限り
生きていきたいなって思う
恋もしたいし、
うふふ。、
ね。


二〇一六年十三月三十日 「あいまいに正しい」


「あいまいに正しい」などということはない
感覚的にはわかるが
「正確に間違う」ということはよくありそうで
よく目にもしてそうな
感じがする


二〇一六年十三月三十一日 「『象は世界最大の昆虫である』ガレッティ先生失言録(池内 紀訳)を買う。」


そこから面白いものを引用するね。

「もしこの世に馬として生まれたのなら、もはや、やむをえない。死ぬまで馬でいるしかない。」

「この個所はだれにも訳せない。では、いまから先生がお手本をおみせしましょう。」

「古代アテネの滅亡はつぎの命題と関係する。すなわち─「これ、静かにしなさい!」

「アレキサンダー大王軍には、四十歳から五十歳までの血気盛んな若者からなる一隊があった。」

「ペルシャ王ペルゼウスは語尾変化ができない。」

「女神は女であるとはいえないが、男であるともいえない。」

「いかに苦難な船旅をつづけてきたか、オデュッセウスは縷々として物語っている。むろん、羅針盤がなかったからである。」

「カンガルーはひとっ跳び三十二フィート跳ぶことができる。後脚が二本でなくて四本なら、さらに遠く跳べるであろう。」

「ここのこのSは使い古しである。」

「イギリスでは女王はいつも女である。」

「アラビア風の香りなどとよくいわれるが、近よっても何も見えない。」

「湿地帯は熱されると蒸発する。」

「雨と水は、たぶん、人間より多い。」

「以上述べたところは、ローマ史におなじみとはいえ、まったく珍しいことである。」

「高山に登るとめまいがする。当然であろう。目がまわるからだ。」

「今日、だれもが気軽にアフリカにいき、おもしろ半分に殺される。」

「ナイル川は海さえも水びたしにする。」

「以上述べたのが植物界の名士である。」

「水は沸騰すると気体になる。凍ると立体になる。」

「一日三百六十五時間、一時間は二十四分、そのうち学校で勉強しているのはたった六時間にすぎない。」

「牛による種痘法が発見されるまでは、多くの痘瘡が子供にかかって死んだものだ。」

「何であれ、全体はいつも十二個に分けられる。」

「古代ローマでは、一日は三十日あった。」

「ハチドリは植物界最小の鳥である。」

「ホッテントット族の視力は並はずれている。はるか三時間かなたの蹄の音さえ聞きつける。」

「先生はいま混乱しているのです。だから邪魔をして、かき乱さないでください。」

「君たちが世界最大の望遠鏡で火星を眺めるとすると、そのとき火星は、十メートルはなれたところから先生の頭を見たときと同じ大きさに見えます。しかし、むろん君たちは、十メートルはなれたところからでは、先生の頭に何が生じているかわかるまい。だから、同様に、火星に生物がうごめいていたとしても、とても見えやしないのです。」

「この点について、もっとくわしく知りたい人は、あの本を開いてみることです。題名は忘れましたが、第四十二章に書かれています。」

「もう何度も注意したでしょうが。ペンはいつも綺麗に髪で磨いておきなさい。」

「教師はつねに正しい。たとえまちがっているときも。」

「どうも席替えの必要があるようだ。前列の人は、先生が後列組をよく見張れるように席につきなさい。」

「そう、三列目が六列目になる、そして十列目まで、全員二列ずつ前に移りなさい!」

「きみたちは先生の話となると、右の耳から出ていって、左の耳から入るようだな。」

「紙を丸めて投げつけて、どこが芸だというのです。芸のためには、もっと練習に励まなくてはなりますまい。」

「いま君に訳してもらったところだが、一、教室のだれ一人として聞いていなかった。二、構文がまるきりまちがっている。」

「雨が降ると、意味はどうなりますか?」

「君たちは、いったい、椅子を足の上において靴でインキ壺を磨きたいのかね?」

「筆箱はペン軸に、カバンは筆箱に入れておくものです。」

「最上級生には、下等な生徒はいないはずです。」

「カント同様、私は思考能力に二つのカテゴリーしか認めない。
すなわち、鞍と馬である。いや、つまり、丸と菱形だ。」

「私にとって不快なことが、どうして私に出会いたがるのか、さっぱりわけがわからない。」

「私の本の売れゆきをうながす障害があまりに大きい。」

「私はあまりに疲れている。私の右足は左足を見ようとしない。」

「立体化するには音が必要だ。」

「なかでも、これがとりわけ重要なところです。─価値は全然ないにせよ。」

「夜、ベッドのなかで本を読むのはよくない習慣である。明かりを消し忘れたばかりに、朝、起きてみると焼け死んでいたという例はいくらもある。」

ああ
面白かった。
ブックオフで見つけて買ったのだけれど
詩のように感じられた。


詩の日めくり 二〇一七年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年一月一日 「なんちゅうことやろ。」


きょうはコンビニで買ったものしか食べていない。


二〇一七年一月二日 「恩情」


なにが世界を支配しているのだろう。お金だろうか。愛だろうか。ぼくは恩情だと思いたい。恩情こそがお金も愛も越えた唯一のものだと思うから。


二〇一七年一月三日 「大地くん」


時代劇の夢を見た。地下組織のとばくを見た。むかし好きだった男の子が出てきた。びっくりの夢だった。彼はとばくしていたヤクザ者で、ぼくは役所の密偵だった。


二〇一七年一月四日 「痛〜い!」


足の爪が長かった。そのためけつまずいたときに、右足の第二指の爪さきがひどいことになった。足の爪はこまめに切らなくてはと、はじめて思った。


二〇一七年一月五日 「曜日」


月曜日のつぎは木曜日で、そのつぎが火曜日でしょ、で、そのつぎが土曜日で、そのつぎのつぎが水曜日、で、つぎに金曜日で、そのつぎに日曜日、日曜日、日曜日、日曜日……が、ずっとつづくってのは、どう?

あつかましいわ。


二〇一七年一月六日 「一人でさす傘は一つしかない。」


一人でさす傘は一つしかない。

たくさんのことを語るために
たくさん言う言い方がある。

たくさんのことを語るために
少なく言う言い方がある。

たくさんのことを語ってはいるが
言いたいことを少なく言ってしまっている言い方がある。

また少なく語りすぎて
たくさんのことを言い過ぎている言い方がある。

一人でさす傘は一つである。

しかし、たくさんの人間で、一つの傘をさす場合もあれば
ただ一人の人間が、たくさんの傘をさす場合もあるかもしれない。

ただ一人の人間が無数の傘をさしている。

無数の人間が、ただ一つの傘をさしている。

うん?

もしかしたら、それが詩なんだろうか。

きょう、恋人に会ったら
ぼくはとてもさびしそうな顔をしていたようです。

たくさんのひとが、たくさんの傘をさしている。

たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一つの傘をさしている。
それぞれの手に一つずつ。
ただ一つの傘である。
たくさんの傘がただ一つの傘になっている。
ただ一つの傘がたくさんの傘になっている。
たくさんの人が、たくさんの傘をさしている。
同時にただ一つの傘をさしている。


二〇一七年一月七日 「56歳」


ぼくは、しあさって56歳になります。ぜんぜんしっかりしてへんジジイだわい。


二〇一七年一月八日 「地球に落ちて来た男」


ウォルター・テヴィスの『地球に落ちて来た男』が1月11日に本として出るんや。


二〇一七年一月九日 「いつか使うかもしれない記憶のための3つのメモ」


自分のために2人の男の子が自殺したことを自慢する中年男
                    (1980年代の記憶)

建築現場に居残った若い作業員二人がいちゃついている光景
一人の青年が、もう一人の青年の股間をこぶしで強くおす
「つぶれるやろう」
「つぶれたら、おれが嫁にもろたるやんけ」
                    (1980年代の記憶)

庭の雑草を刈り取ってもらいたいと近所にすむ学生に頼む
「どういうつながりなの?」
「近所の居酒屋さんで知り合ったんだけど
 電話番号を聞いてたから、電話して頼んだら
 時給1000円で刈り取ってくれるって
 自分で鎌を買いに行ったけど
 自分で行ったところは2軒ともつぶれていて
 その子たちの方がよく知っていて
 鎌を買ってきてくれたよ
 いまの子のほうが、世間のこと、よく知ってるかもしれないね。」
「そんなことないと思うけど。」
                    (つい、このあいだの記憶)


二〇一七年一月十日 「誕生日」


これから近くのショッピングモール・イーオンに。きょうは、ぼくの誕生日だから、自分にプレゼントするのだ。

服4着と毛布を1枚買った。20000円ほど。服を買ったのって2年ぶりくらいかな。


二〇一七年一月十一日 「ヴァンダー・グラフ」


ヴァンダー・グラフを聴いているのだが、やはりずば抜けてすばらしい。


二〇一七年一月十二日 「過去の書き方」


まえ付き合ってた子のことを書く。
いっしょにすごしていた時間。
いっしょにいた場所。
いっしょにしていたこと。
楽しいことがいっぱい。
しばしば
誤解し合って
つらいこともいっぱい。
ふたりだけが世界だと思えるほど。
さいごに
もう一度、冒頭から目を通す。
すべてを現在形にして。


二〇一七年一月十三日 「現在の書き方」


いま付き合ってる子のことを書く。
いっしょにすごしている時間。
いっしょにいる場所。
いっしょにしていること。
楽しいことがいっぱい。
しばしば
誤解し合って
つらいこともいっぱい。
ふたりだけが世界だと思えるほど。
さいごに
もう一度、冒頭から目を通す。
すべてを過去形にして。


二〇一七年一月十四日 「誕生日プレゼント」


いま日知庵から帰った。えいちゃんと、きよしくんから服をプレゼントしてもらって、しあわせ。あした、さっそく着てみよう。


二〇一七年一月十五日 「ユキ」


まえに付き合ってた子にそっくりな子がFBフレンドにいるんだけど、ほんとそっくり。もう会えなくなっちゃったけどね。そんなこともあってもいいかな。人生って、おもしいろい。くっちゃくちゃ。ぐっちゃぐちゃ。


二〇一七年一月十六日 「マイ・スィート・ロード」


FBで、ジョージ・ハリスンの「マイ・スィート・ロード」に「いいね」をしたら、10000人以上のひとが「いいね」をしていた。あたりまえのことだと、ふと思ったけれど、10000人以上のひとが「いいね」をしたくなる曲だって、ことだもんね。ぼくがカラオケで歌う曲の一つでもある。名曲だ。


二〇一七年一月十七日 「夢から醒めて」


夢のなかの登場人物のあまりに意外な言動を見て、これって、無意識領域の自我がつくり出したんじゃなくて、言葉とか事物の印象とかいったものが無意識領域の自我とは別個に存在していて、それが登場人物に言動させているんじゃないかなって思えるような夢を、けさ見た。


二〇一七年一月十八日 「カルメン・マキ&OZ」


日知庵では、カルメン・マキ&OZの「私は風」「空へ」「閉ざされた街」を、えいちゃんのアイフォンで聴いていた。あした、昼間は、カルメン・マキ&OZをひさしびりに、CDのアルバムで聴こうと思った。カルメン・マキ&OZは、ぼくにとっては、永遠のロック・スターだ。すばらしすぐる。


二〇一七年一月十九日 「ぼくの詩の原点」


ぼくの詩の原点は、ビートルズ、ストーンズ、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、アレア、アトール、ホーク・ウィンド、ラッシュ、グランドファンク、バッジー、ケイト・ブッシュ、トッド・ラングレン、バークレイ・ジェイムズ・ハーベスト、そして、カルメン・マキ&OZ、四人囃子だったと思う。

T・REXを忘れてた。

ヴァンダー・グラフを忘れてた。


二〇一七年一月二十日 「自分には書けない言葉」


日知庵から帰って、郵便受けを見たら、平井達也さんという方から『積雪前夜』という詩集を送っていただいていた。「ダイエット」「47と35」「51と48」「飽きない」「グミの両義性について」といった作品を読んで笑ってしまった。数についての粘着度の高さにだ。ぼく自身が数にこだわるからだ。

先日、友人の荒木時彦くんに送っていただいた『アライグマ、その他』というすばらしい詩集とともに、ぼくの目を見開かさせてくれたものだと思った。こんなふうに、見知らぬひとから詩集を送っていただくと、ありがたいなという気持ちとともに、知らずにいればよかったなという気持ちがときに交錯する。

すばらしいものは知る方がよいに決まっているのだけれど、ぼくに書くことのできない方向で、すばらしいものを書かれているのを知ると、ぼくの元気さが減少するのだ。これは、ぼくがいかに小さな人間かを表している指標の一つだとも思えるのだけれど。まあ、ひじょうに矮小な人間であることは確かだが。

四人囃子の「おまつり」を聴きながら、平井達也さんからいただいた詩集を読んでいる。詩集の言葉がリズミカルなものだからか、ビンビン伝わる。ぼくは、自分のルーズリーフを開いて、自分のいる場所を確かめる。読まなければよかったなと思う詩句がいっぱい。自分には書けない言葉がいっぱいだからだ。


二〇一七年一月二十一日 「『恐怖の愉しみ』上巻」


ようやく、アンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を読み終わった。きょうから、これまたアンソロジーの『居心地の悪い部屋』を読もうと思う。


二〇一七年一月二十二日 「UFOも」


UFOも万歩計をつけて数十万歩も一挙に走っている。UFOもダイエット中なのだ。


二〇一七年一月二十三日 「稲垣足穂は」


稲垣足穂はUFOより速く一瞬で数万光年を駆け抜けていく。


二〇一七年一月二十四日 「七月のひと房」


帰ってきたら、井坂洋子さんから『七月のひと房』というタイトルの詩集を送っていただいてた。10年以上にわたって書かれたものを収めてらっしゃるようだ。タイトルポエムをさいしょに読んだ。つづけて、冒頭から読んでいる。言葉がほんとにコンパクト。良い意味で抒情詩のお手本みたいな感じがする。


二〇一七年一月二十五日 「あらっ。」


きょう、仕事帰りに、自分の住所の郵便番号が思い出せなくて、帰ってきて郵便物を見て、ああ、そうだったと確認して、なんか自分が痴呆症になりつつあるんかなと思った。住所はすらすらと思い出せたのだけれど。さいきん寝てばっかりだったからかな。もっと本を読んで、もっと勉強しなきゃいけないね。


二〇一七年一月二十六日 「『居心地の悪い部屋』」


アンソロジー『居心地の悪い部屋』半分くらい読んだ。いくつかの短篇は改行詩に近かったし、散文詩のようなものもあった。気持ちの悪い作品も多いが、読まされる。日本では、詩人が書いていそうな気がする。たとえば、草野理恵子さんとか。さて、つづきを読みながら布団に入ろうか。


二〇一七年一月二十七日 「ジミーちゃん。」


きのう、えいちゃんと話をしてて、ぼくの友だちのジミーちゃんが、ぼくから去っていったことが大きいねと言われて、ほんとにねと答えた。20年近い付き合いだったと思うのだけれど、ぼくの作品にもよく出てきてくれて、ぼくに大いに影響を与えてくれたのだけれど。もう、そういう友人がいなくなった。


二〇一七年一月二十八日 「ソープの香り。」


いま日知庵から帰った。えいちゃん経由で、佐竹さんから外国製のソープをプレゼントしていただいた。めっちゃ、うれしい。とってもよい香り。きょうは、このよい香りに包まれて、眠ろう。


二〇一七年一月二十九日 「レイ・ヴクサヴィッチ」


アンソロジー『居心地の悪い部屋』を読み終わった。よかった。ひとり、気になる作家がいて、彼の短篇集を買おうかどうか迷っている。レイ・ヴクサヴィッチというひと。奇想のひとみたい。読んだ「ささやき」が不気味でよかった。ホラー系の作品なのに、理詰めなのが、ぼくには読みやすかったのかな。


二〇一七年一月三十日 「Tyger Tyger, burning bright,」


いま日知庵から帰った。きょう、はじめて会ったんだけど、ブレイクの『虎』を知っている大学院生の男の子がいた。理系の子で、ぼくが詩を書いてるって言うと、とつぜん、「Tyger Tyger, burning bright,」ってくちずさんじゃうから、びっくりした。海外詩(読者)は滅んだと思っていたからだけど、滅んではいなかったのだった。


二〇一七年一月三十一日 「ゼンデギ」


きのうから、いまさらながら、イーガンの『ゼンデギ』を読んでいる。頭の悪いぼくにでもわかるように書いてある。きょうも、佐竹さんからいただいたソープの香りに包まれながら、『ゼンデギ』を読んで眠ろう。


詩の日めくり 二〇一七年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年二月一日 「ゼンデキ」


徹夜で、イーガンの『ゼンデギ』を読み終わった。うまいなあと思いつつ、もう少し短くしてよね、と思った。まだ眠れず。デューンの『砂漠の神皇帝』でも読もうかな。このあいだカヴァーの状態のよいのがブックオフにあったので、全3巻を買い直したのだ。表紙と挿絵に描かれた神皇帝がかっこいいのだ。


二〇一七年二月二日 「月の部屋で会いましょう」


レイ・ヴクサヴィチの『月の部屋で会いましょう』(創元海外SF叢書)が届いた。ケリー・リンク並の作家だと、1作品しか読んでいないけれど、思っている。きょうから読もう。解説を読むと、まるで詩人が書きそうな短篇ばかりのようだ。奇想の部類だね。


二〇一七年二月三日 「得も損もしてないんだけどね。」


きょう、吉野家で「すき焼き」なんとかを食べたのだが、「大」を注文したのだが、しばらく食べていなかったので、これが「大」かと思って食べ終わって、レシート見たら「並」だった。金額が100円違うだけだけど、なんか得したような損したような複雑な気持ちになった。得も損もしてないんだけどね。


二〇一七年二月四日 「ふだんクスリは9錠」


日知庵から帰ってきて、ゲロったからいいかと思って、いつもは9錠だけど、いまクスリを10錠のんだ。痛みどめを1錠多くしたのだ。あした、何時に起きるかわかんないけど、あしたは仕事ないし、いい。あしたは音楽聴きまくって一日すごす予定。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月五日 「最終果実」


いま日知庵から帰った。レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』のつづきを読んで寝よう。これから読むの、「最終果実」だって、へんなタイトル。やっぱり詩人みたいな感性だな。


二〇一七年二月六日 「夢を見て、はっきりと目を覚ますとき」


きのう見た夢のなかで、おもしろいのがあった。イギリスのことわざに、樹から落ちる虫は丈夫に育つというのがあってっていうので、そんなことわざがほんとにあるのかどうかは知らないけど、目のまえで、虫が木から何度も落ちるのを見てた。夢のなかで、散文詩が書かれてあって、その一部分なんだけどね。目を覚ましてすぐにメモをしたらはっきりと目が覚めてしまった。


二〇一七年二月七日 「いろんなものが神さまなのだ」


サンリオ文庫・ラテンアメリカ文学アンソロジー『エバは猫の中』を読みました。

傑作短篇がいくつもあった。

サンリオ文庫のなかでは、ヤフオクでも安く手に入るもの。


コルターサルの『追い求める男』のなかに
「ハミガキのチューブを神様と呼ぶ」という言葉があって、驚いた。

ぼくがこのあいだ出した●詩集に
「神さまはハミガキ・チューブである」ってフレーズがあるんだけど
こんな偶然もあるんだなと思った。
まあ、いろんなものが神さまなんだろうけれど。


二〇一七年二月八日 「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」


「きょう、一日、左の手が触れたものを思い出すことができるでしょうか?」
ふと思いついた言葉でした。
利き腕が左手のひとは「右の手が触れたもの」を思い出してみましょう。


二〇一七年二月九日 「鯉もまた死んでいく」


鯉もまた死んでいく
鯉もまた死んでいく
東山三条に
「はやし食堂」という大衆食堂があって
そこには
セルの黒縁眼鏡をかけた大柄なおじさんと
とても大柄なその奥さんがいて
定食類がおいしかったから
パパと弟たちといっしょに
よく行ったのだけれど
その夫婦は
お客の前でも
口喧嘩することがあって
いやな感じがするときもあったけれど
だいたいは穏やかな人たちだった
「○○院に出前を届けたら
 そこの坊さんの部屋には
 日本酒の一升瓶がころがっていて云々」
といった話なんかもしてくれて
へえそうなんやって子供のときに思った
大学院のときに
女装バーでちょっとアルバイトしたことがあって
そこで
その○○院の若いお坊さんに
手をぎゅっと握られたことが思い出される
まだ20代の半ばくらいの
コロコロと太った童顔のかわいらしいお坊さんだった


その「はやし食堂」の夫婦には息子が二人いて
長男がぼくと中学がいっしょで
同級生だったこともあるのだけれど
彼は洛南高校の特進で
ぼくは堀川高校の普通科で
彼は現役で神戸大学の医学部に受かって
ぼくは一浪で同志社に行ったんだけど
彼のお母さんには
ぼくが大学院に進学するときに
「大学院には行かないで働いたら」なんてことを言われた記憶がある
自分の息子が医者になるから
自分の息子のほうが偉いという感じで
そんな顔つきをいつもしてたおばさんだったから
ぼくが大学院に進んだら
いばることがあまりできなくなるからだったのかもしれない
そのときには
ぼくも博士の後期まで行くつもりだったから

こんな話をするつもりはなかって
ええと
そうそう
三条白川に
古川町商店街ってのがあって
そこに林くんの実家があって
お店は東山三条でそのすぐそばだったんだけど
中学3年のときかなあ
何かがパシャって水をはねる音がして
見ると
白川にでっかい鯉が泳いでいて
なんで白川みたいに浅い川に
そんな大きさの鯉がいるのかな
って不思議に思うくらいに大きな鯉だったんだけど
ぼくが
「あっ、鯉だ」って叫ぶと
林くんが
学生服の上着をぱっと脱いで川に飛び下りて
その鯉の上から学生服をかぶせて
鯉を抱え上げて川から上がってきたのだけれど
学生服のなかで暴れまわる鯉をぎゅっと抱いた林くんの
これまたお父さんと同じセルの黒縁眼鏡の顔が
それまで見たことがなかったくらいにうれしそうな表情だった
今でもはっきり覚えている
上気した誇らしげな顔
林くんはその鯉を抱えて家に帰っていった
ガリ勉だと思ってた彼の意外なたくましさに
鯉の出現よりもずっと驚かされた
ふだん見えないことが
何かがあったときに見えるってことなのかな
これはいま考えたことで
当時はただもうびっくりしただけだけど
ああ
でももう
ぼくは中学生ではないし
彼ももう中学生ではないけれど
もしかしたら
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
二人の少年が川の水の上から顔をのぞかせて
ひとりの少年が驚きの叫び声を上げ
もうひとりの少年が自分の着ていた学生服の上着を脱いで
さっと自分のなかに飛び込んできたことを
あの三条白川の川の水は覚えているかもしれないね
ひとりの少年が顔を上気させて誇らしげに立ち去っていったことを
もうひとりの少年が恨みにも似た羨望のまなざしで
鯉を抱えた少年の後姿を見つめていたことを


二〇一七年二月十日 「地球人に化けた宇宙人のリスト」


地球人に化けた宇宙人のリスト

正岡子規   火星人  もっと努力して人間に似せるべき
夏目漱石   アンドロイド  これは宇宙人じゃないかも、笑 
大岡 信    少なくとも地球人ではなさげ 水のなかで呼吸していると見た
梅図かずお  あの干からび度は、地球の生物のものではない
志茂田景樹  宇宙的ファッションセンス そのままスタートレック


二〇一七年二月十一日 「パンドラの『芸術/無料・お試しセット』」


パンドラのところには
じつは、もうひとつ箱が届けられていて
その箱には『芸術/無料・お試しセット』と書いてあった
あらゆるつまらない詩や小説や戯曲や
音楽や舞台や映画なんかが詰まってる箱であった
この箱が開けられるまで
世界には素晴らしい詩や小説や戯曲や
音楽や舞台や映画しかなかったのだけれど
パンドラがこの箱を開けてしまったのだった
は〜あ
歴史に「もしも」ってないのだけれど
もしも……


二〇一七年二月十二日 「花緒さんのおかげで」


いま、学校から帰ってきた。これから友だちの見舞いに。ぼくの新しい詩集の表紙をかざってくれた青年だ。あした手術なのだ。きのう新しい詩集が届いたので、きょう持って行くことにしたのだ。

友だちの病院見舞いの帰りにユニクロでズボンを2本買って帰りに西院の牛丼の吉野家で生姜焼き定食を食べて、部屋に戻ってカルメン・マキ&OZのサードを聴いていたら突然エリオットが読みたくなって岩波文庫の『荒地』を読み出したらゲラゲラ笑っちゃって、詩ってやっぱり知的な遊戯じゃんって思った

そしたら急に作品がつくりたくなってカルメン・マキの声を聞きながらワードに向かっていた。過去に自分が書いた言葉をコラージュしているだけなのだけど、ときにぎゃははと笑いながらコラージュしている。ぼくが詩を放棄したいと思っても、詩のほうがぼくのことを放棄しないってことなのかもしれない。というか、花緒さんのお励ましのツイートを拝見したことがずっと頭にあって、エリオットの詩句を見て、脳内で化学結合を起こしたのだと思う。花緒さん、ありがとうございます。きょうじゅうに、3月に文学極道に投稿する2作品ができそうです。BGMをムーミンに切り替えた。ぼくの大好きな「RIDE ON」風を感じて〜フフンフフンと、ぼくもつぶやきながら、ワードにコピペしてる。流れるリズム感じながら自由でいようってムーミンが歌うから、ぼくも自由に詩を書くのだ。現実に振り回されて生きてるけど、それでいいのだと思うぼくもいる。フフン。3月に文学極道に投稿する作品を1つつくった。あともう1つ、きょうじゅうにつくろう。こういうものは、勢いでつくらなくちゃね。ムーミンあきたし、なにかべつのものかけよう。そだ。ユーミンなんか、どうだろう。

3月に文学極道に投稿する作品のうち、2つ目をいまつくり終えた。1つ目はA4版で44ページ。2つ目はわずか14ページ。2つ目のは、これまでつくった『詩の日めくり』のなかで、もっとも短い。でも、できはぜんぜん悪くない。44ページある1つ目はめちゃくちゃって感じで笑けるし。2つ目はひじょうにコンパクト。ありゃま。まだ8時20分だ。時間があまった。3月に文学極道に投稿するのは、2つとも『詩の日めくり』だけど、4月のも、そうなりそう。

花緒さんのおかげで、短時間で2つの『詩の日めくり』ができあがりました。お励ましのお言葉で、こんなに簡単に回復してしまうなんて、ほんとに単純な人間です。お励ましのお言葉をくださり、ほんとうにありがとうございました。拙詩集、おこころにかないますように。

サバトの『英雄たちと墓』は、ぼくのお気に入りの小説だけど、ぼくのルーズリーフのページの相当分を占めちゃってて、ルーズリーフを開くたびに、ラテンアメリカ文学に集中していた30代後半のぼくの青春がよみがえる。自分の詩だけではなくて、文学そのものが、いわゆる記憶装置なのだろうね。

森園勝敏の『JUST NOW & THEN』をかけながら、部屋のなかでちょこっと踊っている。元気になった。けさまでは死んだ人間のように無気力だったのに。言葉って、すごい力を持っているのだなと、あらためて感じさせられた。


二〇一七年二月十三日 「源氏物語のなかの言葉で」


源氏物語のなかで、源氏がいうセリフにこんなのがありました。「わたしたち貴族というものは、簡単にひととの縁を切らないのですよ」と。ぼくにとっては、印象的な言葉で、記憶に残っています。


二〇一七年二月十四日 「売る戦略のために」


授業の空き時間に、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集『月の部屋で会いましょう』を3分の1くらい読んだ。もしかしたら、きょうじゅうに読み終えられるかもしれない。とてもおもしろい短篇集だけれど、詩人の散文詩みたいな気がする。なぜ、こんなに短いのに、小説として扱われるのだろう。売る戦略かな。

忘備録:キムラのすき焼きについて、あした書こうと思う。思い出といま。大学時代のサークルの話をさいしょにもってきて、子どものころの思い出と、このあいだ森澤くんと行ったときのプチ衝撃の話。きょうは、レイ・ヴクサヴィッチの短篇集のつづきを読みながら床に就きます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月十五日 「キムラのすき焼き」


大学の1年生のときに、イベントを主催するサークルに入ってて、1980年のことだけどさ、サークルのコンパが八坂神社のとこにあるすき焼きをする宴会場に決まって、そこって、ぼくんちが祇園だったから、すぐのところだったんだけど、そんなとこに宴会場があったんだってこと思ったこと思い出した。20人くらいいたかなあ。で、ぼくと同席した先輩が関東出身で、すき焼きをしきり出したんだけど、なんと、タレから鍋に入れだしたんだよね、というか、そのまえに、そのすき焼き、もやしが入っていて、びっくりしてたんだけど、でね、その先輩、タレのつぎには、野菜を入れて、さいごに肉を入れたの。もう最低って感じで食べた記憶がある。こどものころ、家が裕福だったので、週に一度、高いところで外食してたんだけど、すき焼きって言えば、キムラだった。キムラでは、牛脂を熱した鍋に入れて鍋底前面に塗り倒してから、肉を焼いて、砂糖にまぶしてから、タレを入れて、それから野菜なんかを入れていったから、その順番が正しいとずっと思っていて、3、40年ぶりに森澤くんとキムラに行って、すき焼きを食べたんだけど、二人でキムラに行くまえに日知庵で、すき焼きのつくり方の話をしていて、やっぱり肉を焼いて砂糖をまぶしてからタレを入れて野菜なんかをさいごに入れますよねって話をしていたんだけど、二人でキムラで、牛脂を鍋底に塗り塗りしていたら、仲居のおばさんが急に出てきて、「わたしがしましょうか?」って言ってくれたので、お願いしたら、大学時代の先輩のように、野菜を入れてタレを入れて砂糖を入れて、さいごに肉を入れたのだった。ぼくと森澤くんは、仲居のおばさんが野菜を手にした瞬間に目を見合わせたのだけれど、抗議する暇もなく、つぎつぎと関東風のつくり方を繰り出す仲居のおばさんのすき焼きのつくり方に目をうばわれた、つうか、あきれて、ふたりとも、口をぽかんと開けて、すき焼きが出来上がるのを待ったのだった。キムラは靴脱で靴を脱いで座敷に上がるスタイルの店で、メニューの横に、「関西風」のすき焼きのつくり方が写真付きのものが置いてあったのにもかかわらずだ。あとで、仲居のおばさんがぼくらの席から離れた瞬間に、ぼくは森澤くんの目を見ながら、「ええっ。」と言って、「こんなことってある?」って言葉をついだ。まあ、でも、関東風でもべつにまずくはなかったのだけれど、関西風だともっとおいしかったはずで、みたいな話を森澤くんとしてて、後日、日知庵でも、このプチ衝撃事件の顛末をえいちゃんに語っていたのであった。あーあ、こんどキムラに行ったら、ぜったい関西風のすき焼きのつくり方でつくろうっと。むかし、ぼくがまだ20代のころに、親切そうな顔をして近づいてくる人物にいちばん注意しなさいと、仕事場で、ぼくに言ってくれたひとがいて、その通りに、ひどい目に遭ったことのあるぼくは、こんどキムラに行ったら、いくら仲居のおばさんが親切そうに近づいてきて、すき焼きをつくってくれようとしても断ろうと決意したのであった。二十歳すぎまで祇園に住んでて、親が貸しビルをしていたから裕福だったんだけど、で、子どものころは贅沢だったんだけど、ぼくが大学院に入ったころから親が賭博に手を出して財産をすっかり使い果たしてから、ぼくも貧乏人になってしまって、自分のお金でキムラに行ったのは、冒頭に書いた通り、親と行ったとき以来、3、40年後。子どものときに行ったことのあるところを、めぐって行こうと思うのだけれど、なくなった店もある。25歳で大学院を出たあと、北大路通りに一人住まいをしていたんだけど、北大路橋のたもとに、グリル・ハセガワってあって、こんど、そこ行こうかって、このあいだ日知庵で、森澤くんと話してたんだけど、ぼくは北大路通りに15年、北山に5年住んでいて、グリル・ハセガワには、しょっちゅう行ってて、思い出もいっぱい。エビフライがとくにおいしかった。


二〇一七年二月十六日 「言語都市」


きのうから、たびたび中断していたチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読んでいるんだけど、まだ38ページ目なんだけど、ちっともおもしろくないのね。このひとのも、途中からおもしろくなるタイプの書き手だから読んでいるけれど、ミエヴィルを読むのは、これでさいごにすると思う。

チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 48ページ下段3,4行目「時間を要するもある。」→これは「時間を要するものもある。」ではないだろうか。


二〇一七年二月十七日 「言語都市」


ミエヴィルの『言語都市』、132ページ目に入るところで、脳がいっぱいいっぱいになってしまった。それにしても、1950年代や60年代のSFは読みやすかったなあ。シマックの『都市』が未読なのだが、本棚にあるので、これ読んで寝よう。少なくとも解説だけでも。きょうは、ミエヴィルに疲れた。むかしのSFの表紙はすばらしいものがたくさんあった。さいきんは、買いたいなあと思う表紙が少ない。ヴクサヴィッチの短篇集も表紙はクズだった。内容がいいので買ったけど、書店で見かけただけなら、ぜったい買わなかっただろうなあ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!

チャイナ・ミエヴィル『言語都市』 脱字 120ページ下段10行目「すばやく質問ぶつけたら」→これって、「すばやく質問をぶつけたら」だと思うけど、どだろう。


二〇一七年二月十八日 「言語都市」


いま日知庵から帰った。『言語都市』いま226ページ目に突入って感じだけど、あした、どれだけ読めるのか。きょうは、もうクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年二月十九日 「吐けるだけ吐いた。」


いま日知庵から帰った。きょう眠れるだろうか。あしたは一日中、数学をしていていると思うけれど、お昼に目が覚めてたら(さいきん、日曜日のお昼は寝ているのだ)友だちのお見舞いに行きたい。行きたい。おやすみ、グッジョブ! きょうも、酒浸りの一日だった。えいちゃん、森ちゃん、ありがとうね。

いまトイレでゲロを吐いた。やっぱり焼酎は3杯が限度みたい。指を喉に突っ込んで吐けるまで吐いた。血痰が出た。咽喉をちょこっと破いちゃったみたい。あ〜あ、酒が弱いのに飲むのだな。文章がおかしかった。「吐けるまで吐いた。」じゃなくて、「吐けるだけ吐いた。」だ。もう一度、電気を消して横になって気がついた。


二〇一七年二月二十日 「言語都市」


ミエヴィルの『言語都市』268ページ目だけど、おもしろくない。よくこんな作品でローカス賞をとったなと思う。もってるミエヴィルはすべて売ろうと思う。1冊として残す価値のあるものはない。あと200ページほどある。読むけれど、できたら飛ばし読みがしたいけれど、飛ばし読みしたら、わからない作品だから精読してるけれど、苦痛だ。でも、もしかすると、読書で苦痛なのは、しじゅうかもしれない。好きな詩人の詩でも読んで、頭をやすめようかな。いや、きょうは、寝るまで、ミエヴィルの『言語都市』のつづきを読もう。かつて、ぼくのお気に入りの作家だったのだけれど、『クラーケン』がよかったからだけど、あれがピークかもしれないな。どだろ。

これがすてきでかったら、なにがすてきなのか、わからないじゃない?

Maxwell - This Woman's Work https://youtu.be/gkeCNeHcmXY @YouTubeさんから


二〇一七年二月二十一日 「ウェルギリウスの死」


きょう、職場で、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を再読していたら、「現実とは愛のことなのだ」(だったかな)という言葉があって、あれ、これ、引用に使ったかなと心配になったのだけれど、怖くて確認できない。『全行引用詩・五部作』には使わないといけない引用だったと思われたのだった。怖い。正確な言葉を知りたいし、紐栞を挟んでおいたから、あした職場の図書館で、もう一度、確認しよう。部屋にもブロッホの『ウェルギリウスの死』があるんだけど、ページがわからないし、きょうは、もう遅いし、探すのは時間がかかりそうなので、あした職場で確認しよう。そういえば、きょうは詩人のオーデンの誕生日だったらしいんだけど、授業の空き時間には、イエイツの詩と、エリオットの詩と論考を読んでいた。オーデンは苦手なぼくやけど、部屋にもあるけど、一回、読んだだけだ。イエイツとエリオットの詩は、なんべん読んでもおもしろい。岩波文庫は、はやくパウンドの『詩章』を新倉俊一さんの訳で入れなさいよと思う。『ピサ詩篇』すばらしかったし、エリオットを入れたんだから、岩波文庫はパウンドの『詩章』を出す義務があると思う。


二〇一七年二月二十二日 「ウェルギリウスの死」


(…)おそらく窮極の現実を現わすには、そもそもいかなることばも存在しないのだろう……わたしは詩を作った、軽率なことばを……わたしはそのことばが現実だと思っていたのだが、じつはそれは美だった……詩は薄明から生じる……われわれが営み作りだす一切は薄明から生まれる……だが現実の告知の声は、さらに深い盲目を必要とする、あたかも冷ややかな影の国の声ででもあるかのように……さらに深く、さらに高く、そう、さらに暗く、しかもさらに明るいのが真実なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、211ページ)

ルキウスがいった。「真実ばかりが問題だとはいえまい。狂人でさえ真実を語る、あらわな真実を告げることができる……真実が力をもつためには、それは制御されねばならない、まさしく制御されてこそ、真実の均斉が生ずるのだ。詩人の狂気のことがよく語られる」━━ここで彼は、わが意を得たりといわんばかりにうなずいているプロティウスを見やった━━、「しかし詩人とは、みずからの狂気を制御し管理する力をそなえた人間のいいにほかならないのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、211ページ)

愛の現実と死の現実、それはひとつのものだ。若い詩人たちはそのことを知っている、それだのにここにいるふたりは、死がすでにこの室内の、彼らのすぐわきにたたずんでいることさえ気づかない━━、彼らを呼びさましてそのような現実認識へみちびくことがまだ可能だろうか?(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、211頁)

「現実とは愛なのだ」(ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳、204ページ)

ひとつの自然は別の自然になりえねばならぬ(マルスラン・プレネ『(ひとつの自然は………)』澁澤孝輔訳)

学校の授業の合間に読んだブロッホの『ウェルギリウスの死』はやはり絶品だった。どのページを開いても、脳裡に届く知性のきらめきが感じられる。プレネの入っている『現代詩集』もよかった。読んで楽しくて、知的になれる読書がいちばん、ぼくには最適なような気がする。だからSF小説を読むのかな。

ミエヴィルの『言語都市』あと100ページほど。苦痛だ。会話が極端に少ないのも、その理由のひとつだろう。

いま、amazon で、1977年版のブロッホの『ウェルギリウスの死』を買った。もってるのは1966年度版で、漢字のルビが違っているので買い直した。

きょう、ツイートしたのは、1977年度版の訳で、学校の図書館にあるほうのものの訳。ぼくのもってる1966年度版だと、「制御」にルビが入っているのだ。翻訳者の川村二郎さんが、版をかえるときに、手を入れられたのだろうね、と思って、1977年度版を買った次第。無駄な出費かなあ。どだろ。

そいえば、この集英社の全集シリーズ、『現代詩集』って、1966年度版と1977年度版ではまったく別のものって感じで、文字の大きさから選ばれた詩までも違うからね。1977年度版のほうがはるかに優れているからね。買うなら、1977年度版のほうがいいよ。

歯をみがいて、クスリをのんで寝よう。今週中に、ミエヴィル読み終わって、来週には、これまた読んでる途中でほっぽりだしたイーガンの『白熱光』を読もうかなって思っている。めっちゃ読みにくい小説だった。


二〇一七年二月二十三日 「言語都市」


チャイナ・ミエヴィルの『言語都市』を読み終わった。読む意義のある作品だと思うけれど、とにかく読むのが苦痛だった。イーガンの『白熱光』をきょうから読むけど(ちょこっとだけ、以前に読んだ)これも相当ひどい読書になりそうだ。スコルジーのように、わかりやすい作家もいるけどつまらないしね。

原曲より好きなんだよね。

D'angelo - Feel Like Makin' Love https://youtu.be/mcQ83tOZ4Wk @YouTubeさんから

いま日知庵から帰ってきた。やっぱり、イーガンの『白熱光』さっぱり、わからない。そのうち、おもしろくなるのかな。その気配が希薄なんだけど、せっかく買った本だから読むつもりだ。ハーラン・エリスンの短篇集は読んでる途中で破り捨てたけれど。ひさびさに本を破いて捨てた経験だったけれど。もったいないという気持ちより、読んでて愚作であることに気がついて破いて捨てて正解だったという気持ちのほうが強い。本棚の未読本のうち、また破いて捨てるものがありませんようにと祈っておこう。きょうは、『白熱光』のつづきを読みながら寝る。おやすみ。


二〇一七年二月二十四日 「白熱光」


数学の仕事が順調に終わったので、神経科医院に行くことにする。担当医に、1月と2月は自殺願望が強烈だったので、その報告をしなければならない。記憶障害も起こしていた。極めて危険な状態であったが、今回もなんとか乗り切った。しかし、いま現在も精神状態は不安定なので、わからないけれど。

いま医院から帰ってきた。24人待ちで、こんな時間までかかったのだけれど、待ち時間が長いのを知っていたので、そのあいだ日知庵に行って、ジンジャーエールを2杯と焼き飯とイカの姿焼きを飲み食いしてた。イーガンの『白熱光』も読んでいたが、100ページを超えても、話の内容さっぱりわからず。

寝るまえの読書は、わかりやすいのがいいと思うので、ディックの短篇集にしようと思う。単行本で、『人間狩り』を持っているのだけれど、まだページを開けたこともなかった。文庫の短篇集で、まあ、たぶん、ほとんど収録されているものはすでに読んでると思うので手にしなかっただけだけど。しかし、チャイナ・ミエヴィルといい、グレッグ・イーガンといい、なんで、こんなに読みにくいものを書くんだろうか。ゲーテの『ファウスト』や、ブロッホの『ウェルギリウスの死』や、ニーチェの『ツァラトゥストラ』や、エリオットの『荒地』なんかのほうが、ぜえったい、百万倍、読むのがやさしい。まあ、そういう表現でしか見られないものがあると、感じられないものがあるということなんだろうけれど。そういえば、はじめてニュー・ウェーブやサイバー・パンクやスチーム・パンクを読んだときにも、読みにくいなって感じたな。そうか。そのうち、もっと読みにくい作家が出てくるかもしれないな。


二〇一七年二月二十五日 「福ちゃん」


いま日知庵から帰った。帰りに、Fくんの男っぽい姿をみて、あらためて好きになった。まあ、まえからずっと好きだったのだけれど。もしも、ぼくが若くてかわいい女だったらなあ。ぜったい放さない。


二〇一七年二月二十六日 「すぐに目が覚めた。」


1977年度版のブロッホの『ウェルギリウスの死』が郵便受けに届いてた。とてもいい状態だったのでうれしい。1966年度版は捨てます。おやすみ、グッジョブ。

いまトイレで、指を喉に突っ込んでゲロを吐いた。お酒好きなんだけど、弱いんだ。ああ、でも、ゲロも慣れてきたから、いいか。ぼくみたいにお酒に弱い詩人って、いままでいたのかなあ。指を喉に突っ込んではゲロを吐く詩人。ありゃ、またゲロしたくなった。トイレに入って、指を突っ込んできます。

クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! クスリのんだあと、吐くかなあ。どだろ。微妙。基本、ぼくののんでるクスリ、お酒だめなんだけどね。まあ、いいか。吐いても、あした、日曜日だし、休みだし。もう一回、指突っ込んで吐いてからクスリのもうかな。どうしよう。おやすみ、グッジョブ!

すぐに目が覚めた。一時間くらいしか寝ていない。まだ目がしばしばしてるけど。

イーガンの『白熱光』読みにくさでは、ミエヴィルを上回る。150ページ読んでも、さっぱりわからない。ミエヴィルもイーガンも二度と買うことはないと思う。タバコ吸ったら、なんか短篇集でも本棚から物色して読もう。

体験とその体験がこころにもたらせたものが、最初に、ぼくに詩を書かせたのだと思っていた。じっさい、そうだったのだ。しかし、人間というものよりも、言葉のほうをより愛している自分がいることに気がついたとき、言葉こそが真の動機であったことに思い当たったのであった。言葉というものの存在が。


二〇一七年二月二十七日 「詩とはなにか。」


詩とはなにか。言葉だ。言葉以外のなにものでもない。


二〇一七年二月二十八日 「詩は」


詩はもっともよく真実に近づいたとき、もっともよく騙しているのだ。


二〇一七年二月二十九日 「生きるというのは」


他者に欺かれていたことを知るのは単なる屈辱でしかない。
生きるというのは、自分自身を欺きつづけることにほかならない。


二〇一七年二月三十日 「白熱光」


携帯に知らないひとからメールがきてるんだけど、ぼくの名前を間違えてるので返信しなかった。音楽仲間というか、バンド関係者と間違えてるふうを装っているところが巧妙だなと思うのだが、56歳のおっさんがそんな詐欺にひっかかるわけがないだろうと思うのだが。ガチでバカなやつらがおるんやな。

寝るまえの読書は、フランク・ハーバートの『神皇帝』第2巻のつづき。イーガンの『白熱光』は、152ページでとまった。


二〇一七年二月三十一日 「現代詩集」


集英社の世界文学全集の『現代詩集』を、きょうも読んでいたのだが、レベルが高い詩が多くて、なぜ、日本の詩にはよいものが少ないのか、情けない気持ちがする。たくさんよいものを書きつづけていたのは西脇順三郎か、吉増剛造くらいしかいない。吉岡 実も『薬玉』くらいしかよいものを書いていない。「僧侶」も、さいしょはおもしろいと思ったが、構造が単純すぎることに気がついてから、読み直したことがない。繰り返し読めるのは、『薬玉』くらいである。吉増剛造さんも、身ぶりにわざとらしさが出てくるようになってからは、まったくつまらなくなってしまったし。しかし、ところで、そうして、だから、日本の詩がおもしろくなければ、自分がおもしろいものを書けばいいのである。ということで、ぼくは書きつづけているのだなと思う。『全行引用詩・五部作・上下巻』など、ぼく以外のだれにも書けなかった作品集であったなと思う。

これから王将に行く。遅い時間には、日知庵に行く。きょうは、ゲロを吐かないように、お酒の量を調節したい。数日前は記憶が吹っ飛んでしまったからね。お酒の量がわからなくなるなんて、バカみたいだけど、バカだし、しようがない。ただいま現在、56歳、かしこくなる年齢はやってくるのでしょうか。


詩の日めくり 二〇一七年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年三月一日 「ツイット・コラージュ詩」


ブックオフで、ぼくの持っている状態よりよい状態のカヴァーで、フランク・ハーバートの『神皇帝』第一巻から第三巻までが、1冊108円で売っていたので、買い直して、部屋に帰ってから、持っているもののカヴァーと取り換えた。本体は、持っているもののほうがよかったので、カヴァーだけを換えたのだった。持っていたものは、本体だけ残してカヴァーは捨てた。持っていたもののほうの本体は、お風呂場ででも読もうかと思う。

きょうは、ユーミンを聴いてた。「海を見ていた午後」は、何回繰り返し聴いてもよいなと思える曲だ。歌詞が、ぼくの20代のときのことを思い起こさせる。アポリネールの「ミラボー橋」の「恋もまた死んでいく」のリフレインがそれに重なる。もしも、もしも、もしも。人間は、百億の嘘と千億のもしもからできている。

いま日知庵から帰った。行くまえに、amazon で自分の詩集の売れゆきをチェックしていたら、日知庵のえいちゃんといっしょに詩集の表紙になった『ツイット・コラージュ詩』(思潮社2014年刊)が売れてたことがわかって、へえ、いまでも買ってくださる方がいらっしゃるんだってこと、えいちゃんに話してた。


二〇一七年三月二日 「発狂した宇宙」


きょう見た夢のなかの言葉、枕もとのメモパッドに書きつけたもの。「あっちゃんが空を見上げると、太陽が2つずつのぼってくるんやで」 意味はわからず。しかし、これは、メモしなきゃと思って夢からさめてすぐにメモした言葉だった。もうどんな情景での言葉だったのかも忘れてしまった。

けさから、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を読んでいる。


二〇一七年三月三日 「退院祝い」


これから日知庵に。友だちの退院祝いで。先月、思潮社オンデマンドから出た、ぼくの詩集『図書館の掟。』の表紙になってくれた友だちだ。2月の14日に、脳腫瘍の手術をしたのだった。もちろん、手術は成功だった。10万人に3人の割合でかかる部類の脳腫瘍だったらしい。

いま日知庵から帰った。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を半分くらい読んだけれど、筒井康隆が絶賛した気持ちがわからない。まあ、発表された当時としては、おもしろかったのかもしれない。ぼくが傑作というのは、時代を超えたシェイクスピアとかゲーテの作品とかだからかもしれない。

amazon で、フレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』を買った。旧版のカヴァーだからだけど、むかし読んで捨てたやつだけど、カヴァーがかわいらしくて、再購入した。いい状態のカヴァーだったらうれしいな。中身は読んだから、本体の状態はどうでもよい。

寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづき。はてさて、さいごまで読めるだろうか。このあいだ、イーガンの『白熱光』を152ページでやめてしまった。これは、どうかな。あと半分。読みやすいけれど、ドキドキ感はなし。


二〇一七年三月四日 「いつもと変わらない宇宙」


いま、きみやから帰ってきた。5軒めぐり。きょうもヨッパである。つぎの日曜日にはカニ食べまくりの予定である。まじめに生きて行こうと思う。つぎの日曜日までは。今週は、何冊読めるかな。きょうは、寝るまえの読書は、フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』のつづきを読む。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月五日 「フトシくん」


いま日知庵から帰ってきた。かなりヨッパ〜。でもまあ、寝るまえに、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻のつづきを読んで寝るつもり。詩人も作家も、死ぬまでに傑作を1つ書いたら、役目は終わってると思うのである。ぼくのは、どれかな。「Pastiche」かな。どだろ。

ユーミンのベスト聴いていて、「守ってあげたい」を歌ってくれたフトシくんのことが思い出された。ぼくが22、3才で、フトシくんが20才か21才だったと思う。どれだけむかしのことだろう。そのときのことがいまでも生き生きとして、ぼくのなかで生きているって、ほんとに人間の記憶って不思議だ。きのうのことでも、はっきり覚えていなかったりするのにね。


二〇一七年三月六日 「ぼく以外、みんな中国人だった。」


日知庵から帰って、セブイレでシュークリーム2個買って食べて、ミルク1リットル飲んで、これから寝る。きょうもヨッパであった。さいご、ぼく以外、お客さんがみな中国人だった。10人以上いたな。たしか、15人はいたと思う。日知庵も国際化しているのだった。


二〇一七年三月七日 「火星人ゴーホーム」


いま日知庵から帰って、帰りにセブレで買ったペヤング焼きそば大盛りを食べた。フレデリック・ブラウンの『発狂した宇宙』あと10ページほど。このあと、なにを読もうかな。きょう amazon から到着したフレデリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』はいい状態だった。これを再読しようかな。


二〇一七年三月八日 「きょうは日知庵で一杯だけ」


きょうは一杯だけ飲んで帰ってきた。調子が悪い。こんどの土曜日には大谷良太くんがくる。

きのうは、文学極道で、ぼくの詩を読んでくださってた方が、ぼくのベスト詩集『ゲイ・ポエムズ』(思潮社2014年刊)を買ってくださってたし、なんだか、いい感じ。詩を書きはじめたとき、生きているあいだに、ひとに認められることはないと思っていたぼくとしては、ひじょうにうれしい。

きょうは、ハインラインの『宇宙の戦士』をブックオフで買った。もう3回以上、買ってる気がする。読んでは捨ててる部類の小説だ。まあ、カヴァーの絵が好きなだけのような気もするが、仕方ありませんな。ほんと好みですからね。

いま、フランク・ハーバートの『神皇帝』第3巻を数十年ぶりに読み直してるんだけど、フランク・ハーバートのような、わかりやすいSFは、もう二度と書かれないような気がする。古いもののよさもある。というか、ぼくは、もう古いものにしか目が向けられないような気がする。

本棚にある書物を処分しているのも、その兆候のひとつだろう。SFとしては、50年代から60年代に書かれたものが、ぼくにはいちばん合っているような気がする。文学全体で眺め渡すと、シェイクスピア、ゲーテ、19世紀初頭から20世紀末までの詩人たちかなあ。おもに欧米の詩人たちだけど。

『神皇帝』の第3巻のつづきを読みながら寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月九日 「ほんとに酒に弱い」


いま日知庵から帰ってきた。きょうヨッパだけど、いつもの2倍くらいかも。もう寝る。おやすみ、グッジョブ!

朝、6時すぎにゲロった。いま二度目だったけど、からえずきだけだった。お酒に弱い。


二〇一七年三月十日 「けっきょく、エビフィレオ」


きょう、夜は八雲さんとこで、森澤くんとカニを食べる。そのまえに、今日のお昼は、マクドナルドにしよう。フィレオフィッシュのセットにしよう。

エビフィレオにした。

八雲さんとこから帰った。カニ、そんなに感動しなかった。まあまあのおいしさだったけれど、もう旬ではないものね。やっぱ旬のものがいいね。


二〇一七年三月十一日 「なぜかこわい」


お風呂場から、水の滴る音がする。こわいから、とめてこよう。


二〇一七年三月十二日 「ぼくのは難しい?」


チューブで70年代ポップスを聴いている。ここちよい。わかりやすい。きょう、ぼくの詩集を2ページ読んで、わからないから読むのをやめたと、ひとりの青年に言われて、それは作者の責任だねと答えた。『THe Pooh on the Hill。』だったのだけれど、ぼくのは難しいのかな。

ぼく自身は、笑っちゃうくらい、おもしろい作品だったのだけれど。すると、もうひとりの青年からも、「あっちゃんの詩は難しいよね。」と言われて、ちょっと、しゅんとなった。ぼくくらい、わかりやすい作品を書く詩人はいないと思っていたので。そういえば、むかし、大岡 信さんに、「あなたの使う言葉は易しいけれど、詩自体は難しい。」と言われたことや、ヤリタミサコさんに、「田中宏輔の詩は難解であると思われているが……」と書かれたことが思い出された。ぼくの作品ほど単純な作品はないと思うのだけれどね。どこが難しいのか、ぼくには、ぜんぜんわからない。

しかし、こんど思潮社オンデマンドから出した『図書館の掟。』のタイトルポエムにも書いた詩句にもあるけれど、無理解や無視というものが、当の芸術家にとっては、いちばんよい状態であるとも思えるので、まあ、いいかなと思える。無名性というものが大事なこともしじゅう書いているが、まあ、その無名性が、自分にとっては大切な要素なのかもしれないとも思うしね。また死ぬまで詩集を出しつづけると思うけれど、どの1冊も同じフォルムのものはないので、採り上げる人も面倒くさいし、採り上げづらいだろうしね。しょうがないね。

本来、詩は少数の読者でいいものかもしれないしね。ぼくの詩集も、どなたか知らないけれど、amazon で見たら、全部、買ってくださってらっしゃる方がいらっしゃって、もちろん、その方とは面識もないし、お名前も存じ上げないのだけれど、どういった方なのかなってのは思う。


二〇一七年三月十三日 「原曲を超えること」


ジョン&オーツの『シーズ・ゴーン』をいま聴いてる。原曲よりいい。原曲を超えるのって、むずかしいと思うけれど、ときどき、ハッとするアレンジに出くわすよね。リンゴの『オンリー・ユー』にも、むかし、びっくりした。最近では、デ・アンジェロの『フィール・ライク・メイキング・ラブ』かな。


二〇一七年三月十四日 「大量処分」


日本語の未読の本を大量に処分した。これで、日本語の未読の本は10冊くらいになった。これからの人生は、シェイクスピアの戯曲とか、ゲーテの作品とか、イエイツやT・S・エリオットやディラン・トマスやD・H・ロレンスやジェイムズ・メリルやエミリー・ディキンスンやウォルト・ホイットマンやウォレス・スティヴンズやW・C・ウィリアムズやエズラ・パウンドといった大好きな詩人たちの詩の再読に大いに時間を費やそうと思う。

再読したいと思っている小説もたくさん残しているので、ぼくの目は、もう傑作しか見ないことになる。それは、たいへんここちよいものであると思われる。どう考えても、ぼくの脳みそはもう、ここちよい傑作しか受け付けなくなってしまっているのであった。サンリオSF文庫も8冊しか残していない。

時間があれば、それらの詩などを手にするであろう。そうして、それらの再読が、ぼくにインスピレーションを与えることになるであろう。いままで大量の本を読むことに時間を費やしてきたが、大事なことは、大量の本を読むことではなく、読むことでインスピレーションを与えられることであったのだった。

本棚の本を大きく入れ替えて整理し、目のまえの棚はすべてCDで埋め尽くした。本はその両横とその横、向かい側の本棚に収めた。2重になっているのは、聖書関連の資料だけだ。聖書を題材にした作品はたくさん書いてきたが、散文で1冊、聖書を題材にしたものを書きたくて、それらは残したのであった。

中央公論社の『日本の詩歌』も、好きな詩人たちのものがそろっているので、きっと再読するだろう。ぼくがはじめて詩を書いた『高野川』のころのぼくには、もう戻れないと思うけれど、ぼくの作品は、これからますます単純化していくような気がしている。おそらく、それは、『詩の日めくり』に反映されるだろう。

齢をとって、この詩人はろくなものしか書けなくなったと言われるだろうと思うけれど、ひとの言葉に耳を傾けることをしたことがなかった詩人なので、そんなことはどうでもよい。いまは単純化に向かって歩んでいきたいと思っている。まあ、もともと、ぼくは、難しい言葉を使う書き手ではなかったけれど。

いったん脳みそをまっさらにしたいと思ったのだった。ひさしく英詩の翻訳もしていなかったが、それも再開したいと思っている。英詩の翻訳は、日本語で詩を書く場合よりも、言葉と格闘している感じがして、脳みそをたくさん動かしてる気がするからである。とにかく脳みそをまっさらな状態で動かしたい。

以前に amazon で買った イエイツの全詩集は、ペーパーバックで1500円ほどだったが、いま amazon で買った T・S・エリオットのは、全詩集+全詩劇のペーパーバックで、2562円だった。外国では、古い詩人ほど安いのだろう。ジェイムズ・メリルのはずいぶん高かったものね。

まあ、ページ数が違うのだけれども。ジェイムズ・メリルは書いた詩の量が多かったから仕方ないのだろうけれど。ぼくも書く量が多いので、死んでから全詩集をだれかが出してくれるとしても、たいへんな作業になると思う。ヴァリアントがいくつもあって、「反射光」だけでも、4つのヴァリアントがある。ぼくが20数冊出した詩集のうち、4冊の詩集に収録しているのだった。

げっ。以前に原著のシェイクスピア全集があったところを見たらなくなっていた。と思ったら、背中のほうの棚にあった。よかった。いくら古典でも、これは安くなかったからね。あと4冊、日本語の本の本棚から出さなくてはバランスが悪い。古典と傑作しか残していないので、その4冊を選ぶのがたいへん。

迷ってたんだけど、いま amazon で、Collected Poems of William Carlos Williams の第一巻と第二巻を買った。合計5700円ちょっと。そいえば、John Berryman の THE DREAM SONGS を買ってたけど 読んでない。読みやすいやと思って、ほっぽってた。いま見たら、385個の詩が載ってるんだけど、すべての詩が1ページに収まる長さで、しかも、すべての詩篇が、6行で一つの連をつくっていて、それが3連つづくのだけれど、そういうスタイルの定型詩なのかな。ジョン・ベリマン、彼もまた自殺した詩人のひとり。

ふう、いままで amazon で本を買ってた。でも、20000円は超えなかったと思う。もしかしたら超えたかもしれない。T・S・エリオット、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ホイットマン、ディラン・トマス、エミリー・ディキンスン、ウォレス・スティヴンズ。もう寝よう。ぜんぶ全詩集。そいえば、OXFORD UNIVERSITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS の読みも中断していた。まだ、ロバート・フロストだ。

いま、amazon のアカウントサービスで注文履歴を見て、電卓で合計したら、14584円だった。計算ミスがなければ、安くてすんだな。ディラン・トマスのものが入荷未定なので、もしかしたら、購入したものが手に入らないかもしれないけれど。もう一度、アカウントサービスで注文履歴を見よう。

もう一度、計算しても、同じ金額だったので、ひと安心。クスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

そいえば、このあいだ、森澤くんとふたりでカニを食べたときに支払った金額が15000円ジャストだったので、それよりも、きょうの買い物のほうが安かったってことだな。なんちゅうこっちゃろか。まあ、本代と食事やお酒代をいっしょにしたら、あかんのだけれどもね。クスリのんだしPCのスイッチ切ろうっと。


二〇一七年三月十五日 「夢」


ぼくが高校一年生で、高校を転校する夢を見た。一時間目の授業は、体育の時間であったにも関わらず、教室で授業だった。先生の名前は中村私(わたしと読む)という名前で、困ったことがあったら、私のところに相談しにきなさいと言っていた。二時間目は理科の授業で、女の先生で、「きょうは授業はしません。おしゃべりします。」と言われたので、教室中が大喜びであった。と、そこで目が覚めた。これからマクドナルドに行く。帰ってきたら、きのうメモしたものを書き込んでいく。体育の先生は、ぼく好みで、ガチムチの若い先生(30歳いってない)であった。かわいらしいお顔をしてらっしゃった。


二〇一七年三月十六日 「驚くべきことに」


恋人の瞳に映った自分の顔ほどおぞましいものはない。
目は2つもあるし
鼻は1つしかない。
耳にいたっては
頭の両端に1つずつもあるのだった。


二〇一七年三月十七日 「いくつかのメモ」

2017年3月21日メモ

鳥には重さがない
もしも重さがあったとしたら
飛べないからである
翼を動かしているのは
あれはただたんに
空気をかき混ぜているのである
鳥が鳴くとピーッという音になる
音が鳴りやむと
鳥の姿に戻る
鳥は物質であり音でもある
鳥は音が物質化した一例である


2017年3月21日メモ

空間は時間が存在するところでは曲がるが
時間の存在しないところでは直進するか静止している。

時間は空間が存在しないところでは曲がるが
空間が存在するところでは直進するか静止している。


2017年3月2日のメモ

白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。しかし、ぼくはまだ白いひとも、黒いひとも見たことがない。白人とは白いひとのことである。黒人とは黒いひとのことである。


日付けのないメモ

砂でできた葉っぱ
夕日でできた蟻


日付けのないメモ

本の本
秘密の秘密
毒の毒
先の先
洗濯機の洗濯機
言葉の言葉
自我の自我
穴の穴
空白の空白


二〇一七年三月十八日 「STILL FALL THE RAIN。」


きょうは、お昼の2時に大谷良太くんが部屋にきてくれるので、それまで、来年、思潮社オンデマンドから出す予定の詩集『STILL FALL THE RAIN。』の編集でもしてようかな。収録作品は、「STILL FALL THE RAIN。」前篇と後篇の2作品のみ。もちろん、どちらも長篇詩。そいえば、ぼくの大恩人であるヤリタミサコさんに捧げる、『STILL FALL THE RAIN。』 ぼくは、前篇はすこし憶えているのだが、後篇にいたってはまったく何を書いていたのか記憶しておらず、ふたたびワードを開くのが楽しみだけれど、怖くもある。


二〇一七年三月十九日 「洋書の全詩集は安い。」


いまロバート・フロストの全詩集も、amazon で買った。洋書は安い。1620円だった。まあ、これで、ここ何日かのあいだに買った洋書の全詩集は、日曜日のふたりのカニ代より多くなったわけだが、まあ、よい。フロストの詩は読んでても訳してても、ここちよい。たいへんみずみずしいのだ。


二〇一七年三月二十日 「接触汚染」


いま日知庵から帰ってきて、帰りにセブイレで買ったインスタントラーメンを食べたばかり。本棚を整理したので、どこになにがあるか、だいたいわかった。日本語の小説を読む機会はあまりなくなったけれど、翻訳された英詩は読む機会が多くなったと思われる。日本語で本棚に残っているのは、表紙の絵がお気に入りのもので、かつ傑作であるものか、古典か、シリーズものだけである。デューンのシリーズは手放せなかった。リバーワールドものも手放せなかった。ヴァレンタイン卿ものも手放せなかった。ワイルドカードものも手放せなかった。その他、お気に入りのシリーズ物は手放せなかったし、傑作短篇集の類のものも手放せなかった。また単独のもので、表紙の絵が良くなくても、内容のよいもの、たとえば、スローリバーなども手放せなかった。本棚に残った日本語の小説は、どれも再読に耐えるものである。一方、詩に関しては、研究書も含めて、1冊も手放していない。

詩に関しては、自負があるのだろう。あしたからは、英詩に集中しよう。日本語の詩や小説は、通勤時間や、授業の空き時間や、寝るまえの時間に読むことにしようと思う。いま気になっているのは、SFの短篇で、同じ顔の美男しかいない惑星に到着した宇宙船の話で、手放していないかどうかだけである。のちに女性も同じ顔になる伝染病的な話で、宇宙船の乗組員の女性がそのことに気づいて怖気づくというところで終わっていた話である。手放した短篇集もあるので、それだけが気がかりで、これから、その作品が本棚に残っているかどうか、調べてから寝る。手放していなければよいのだけれど、どかな。探し出せれば、ツイートする。その作品は、だれが書いたのかも憶えていないし、どの短篇集に載っていたのかも忘れたのだけれど、「冷たい方程式」と同様に、その作品ひとつで、SF史に残ってもいいくらいに、よくできた作品だったと思う。いや〜、これから本棚をあさるのが怖い。でも、どこか楽しい。

やった〜。見つけた。残しているSF短篇集のなかにあった。キャサリン・マクレインの「接触汚染」だった。SFマガジン・ベスト1の『冷たい方程式』の冒頭に収められていた。よかった〜。ようやく探し出せた。なんだ、こんなところにあったのか。いっぱい本を引っ張り出してきてはページをめくっていたのだが、ファーストコンタクトものだったということに気がついて、さいしょ、「最初の接触」かなんかというタイトルだと思って、メリルの傑作選やギャラクシーの傑作選や年代別の傑作選などをあさっていたのだが、ああ、接触して汚染される話だったから、「接触汚染」というタイトルかなと思ってネット検索したら、SF短篇集『冷たい方程式』に入っているというので、本棚を探したら、あったので、本文を読んで、ああこれやと思った次第。手放してなくってよかった。これで安心して眠れる。きょう寝るまえの読書は、なににしようかな。せっかくだから、SF短篇集『冷たい方程式』にしよう。いま調べたら、2011年に再版された新しいSF傑作選『冷たい方程式』には「接触汚染」が入っていないんやね。旧版からのものは、トム・ゴドウィンのタイトル作品とアシモフの「信念」の2篇のみしか入っておらず、残り7篇がほかのものに替わっている模様。新しい『冷たい方程式』も手に入れたい。しかし、日本語の本の本棚には、もう本を入れる余地がなかったので、購入はやめておこう。さっき、「接触汚染」を探しているときに、数多くのSF傑作選をパラパラめくっていたら、ぜんぜん記憶にないものが多かったので、それを読んでもいっしょかなって思ったことにもよる。また、新たに収められた7つの短篇のうち、1作が、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」で、それ持ってるからというのにもよる。うううん。早川書房、あこぎな商売をしよる。ディックの傑作短篇集みたいなことしよる。なんべん同じ短篇を入れるんやと思う。しかも、傑作の「接触汚染」をはずして。


二〇一七年三月二十一日 「人間の手がまだ触れない」


いま日知庵から帰った。きょうは、例のオックスフォード大学出版から出た英詩のアンソロジーで、ロバート・フロストの詩を5つ読んだ。どれも、ぼくには新鮮な感覚。既訳があるなしに関わらずに、訳していこうかな。既訳は無視することにする。といっても、記憶に残っている訳もあるのだけれど。

きょうの寝るまえの読書は、ロバート・シェクリイの短篇集『人間の手がまだ触れない』にしよう。旧版のカヴァーなので、かわいらしい。創元SF文庫も、ハヤカワSF文庫も、なぜ初版のままのカヴァーを使わないのか不思議だ。版を替えると、カヴァーの質が確実に落ちる。ぼくには理由がわからないな。


二〇一七年三月二十二日 「ロバート・フロストの短編詩、2つ」


ようやく目がさめた。きょうは、ロバート・フロストの英詩を翻訳しようと思う。できたら、楽天ブログに貼り付けよう。

ロバート・フロストの「Fire and Ice」である。これには、ぼくの知ってるかぎりで、2つの既訳がある。そのつぎに訳すものは、既訳があるのかないのか調べていない。


Fire and Ice

Robert Frost

Some say the world will end in fire,
Some say in ice.
From what I’ve tasted of desire
I hold with those who favor fire.
But if it had to perish twice,
I think I know enough of hate
To say that for destruction ice
Is also great
And would suffice.


火と氷

ロバート・フロスト

世界は火に包まれて終わるだろうという者もいる。
また氷に覆われて終わるだろうという者もいる。
わたしが欲望というものを味わったところから言えば
火を支持するひとびとに賛成する。
しかし、世界が二度滅びなければいけないとしたら
わたしは憎悪については十分に知っていると思っているので
それを言えば、破滅というものについては
氷もまたおもしろいものであり
そして十分なものであるだろう。


ロバート・フロストの「Stopping by Woods on a Snowy Evening」を訳した。

Stopping by Woods on a Snowy Evening

Robert Frost

Whose woods these are I think I know.
His house is in the village though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.

My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.

He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound’s the sweep
Of easy wind and downy flake.

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.


雪の降る夜に森のそばに立って

ロバート・フロスト

これがだれの森かはわかっているつもりだ。
そいつの家は村のなかにあるのだけれど。
彼はここに立ちどまって、ぼくの姿を見かけることはないだろう。
雪でうずくまった自分の森を目にはしても。

ぼくの小馬は奇妙な思いにとらわれるだろう、
近くに一軒も農家のないところに立ちどまったりすることには。
森と凍りついた湖のあいだで
一年でいちばん暗いこんな夜に。

小馬は馬具の鈴をひと振りする
なにかおかしなことがありはしないかと尋ねて。
ただひとなぎの音がするだけ
ゆるい風とやわらかい降る雪の。

森は美しくて、暗くて、深い。
でもぼくは誓って約束するよ。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。
眠るまで、あと何マイルか行かなくちゃならない。


ロバート・フロストの詩、あと2つか、3つくらい訳したいのだが、さすがに下訳の必要な感じのものなので、西院のブレッズ・プラスに行って、ランチを食べて、そこで下訳をつくってこよう。さっきの2つは、ぶっつけ本番で訳したものだった。

お昼に訳してた箇所で、明らかな誤訳があったので手直しした。ああ、恥ずかしい。しかし、こういった恥ずかしい思いが進歩を促すのだと、前向きに考えることにする。

ロバート・フロストのひとつの詩に頭を悩ませている。おおかたの意味はつかめるのだが、1か所でつまずいているのだった。その1か所も情景は浮かぶのだが、日本語にスムースに移せないのだった。原文の写しをもって、これからお風呂に入る。きょうは訳せないかも。眠ってるうちに、無意識領域の自我が、ぼくになんとか訳せるようなヒントを与えてくれるかもしれない。そんな厚かましい思いをもって、お風呂に入って、原文を繰り返し眺めてみよう。お風呂から上がったら、きょうは早めに寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十三日 「手を入れ過ぎかな。」


いままた昼に楽天ブログに貼り付けたロバート・フロストの英詩の翻訳に手を入れていた。潜在意識が、あそこの訳はダメだと言ってくれているのか、ふと思いついて、読み直したら、やはりおかしなところがあって、手直しした。やはり潜在意識は顕在意識よりもえらいらしい。ちょこちょこ直す癖もあるが。

いままた、またまた読み直してたら、一か所、おかしなことになっていたので(「ひと振り」と書いてたつもりのところが「ふと振り」になってたのだ)、手直しした。思い込みが気づかせなかったのだろう。20数冊はあるこれまでの詩集の編集をしていても、思い込みで書き間違っていた箇所が数か所ある。「あったりはしないかと」を「ありはしないかと」に直した。手を入れるごとに、訳詩全体の音楽性が高まっていくような気がした。また気がついたら、手を入れよう。寝るまえに、風呂で読んでたロバート・フロストの英詩を読もう。自然な日本語にするのが難しい感じの詩だが、それだけにやりがいがある。


二〇一七年三月二十四日 「Acquainted with the Night」

潜在意識のお告げもなく目が覚めた。コーヒー飲んで、もっと目を覚まそう。そして、ロバート・フロストの英詩と格闘するのだ。そのまえに、コーヒー飲んだら、朝食に、セブイレでおでんとおにぎりでも買って食べよう。それとも西院に行って、吉野家か松家に寄ろうかな。まあ、ひとまずコーヒーが先だ。

いま、ロバート・フロストの「Acquainted with the Night」の訳を楽天ブログに貼り付けた。

https://plaza.rakuten.co.jp/tanayann/diary/201703250000/

これまた、きょうじゅうに何度も手を入れそうな感じだけれど、次に訳そうと思うフロストの詩にかかりたい。かなり長い詩なのだ。


Acquainted with the Night

Robert Frost

I have been one acquainted with the night.
I have walked out in rain—and back in rain.
I have outwalked the furthest city light.

I have looked down the saddest city lane.
I have passed by the watchman on his beat
And dropped my eyes, unwilling to explain.

I have stood still and stopped the sound of feet
When far away an interrupted cry
Came over houses from another street,

But not to call me back or say good-bye;
And further still at an unearthly height,
One luminary clock against the sky

Proclaimed the time was neither wrong nor right.
I have been one acquainted with the night.


わたしは夜に精通しているのさ

ロバート・フロスト

わたしは夜に精通している者なのだった。
わたしは雨のなかを突然歩き去る──もちろん、その背中も雨のなかだ。
わたしは都市の最果ての街明かりのあるところをもっと速く歩いていたのだ。

わたしはもっとも悲しい都市の路地に目を落としたのだった。
わたしは巡回中の夜警のそばを通り過ぎたのだった
そいつはわたしの目を見下ろしたのだった、その目はしぶしぶと事情を語ってはいたろうが。

わたしは静かに立って、足音をとめたのだった。
なぜなら、遠くで出し抜けに叫び声がしたからだった
別の通りにある家々のまえを横切って聞こえてきたのさ、

でもだれも、わたしのことを呼びとめもしなかったし、別れを告げもしなかったのだ。
そしてさらにいっそう静かなところ、超自然的なくらいに高いところに
空を背景にして、ひとつの時計が光っていたのさ。

そいつが時間を教えてくれることは悪いことでも善いことでもないのさ。
なぜなら、わたしは夜に精通している者なのだったからさ。


二〇一七年三月二十五日 「チンドン屋さんたち」


天下一品で、焼き飯定食のお昼ご飯を食べてから歩いて西大路四条を横切ったら、チンドン屋さんたち(先頭・男子、あとふたり着物姿の女子の合計三人組)に出くわした。何年振りのことだろう。昭和でも、ぼくの子どものころには目にしていたけれど、近年はまったく目にしなかった。まだいてはるんやね。


二〇一七年三月二十六日 「しょうもない話」


きのう、日知庵で、えいちゃんに、昼間、チンドン屋さんたちを見かけたと話してたのだけれど、そういえば、ぼくが子どものころ、いまから50年ほどむかしには、クズ屋さんというのもあったんやでと話してたら、1週間ほどまえに阪急の西院駅の券売機のところで目にした情景が思い出されたのであった。クズ屋さんというのは、背中にかごを背負って、そこに、長いトングで道端で拾ったものを入れていくおじさんだったのだけれど、なにを拾っていたのかは憶えていない。木の棒の先に突き出た釘の先のようなものでシケモクというものを刺して集めていたおじさんもいたような気がするのだが、西院駅の券売機のところで、身なりのふつうのおじさんが、ちょっと長髪だったけれど、さっと身をこごめてシケモクを拾ってズボンのポケットに入れる様子を、ぼくの目は捉えたのであった。シケモクというのは、吸いさしのタバコのことで、いまはあまり道端に落ちていないけれど、むかしはたくさん落ちていた。そんな話をしていると、えいちゃんが、しょうもない話やなと言うのだった。ぼくの書く詩は、そんなしょうもない、くだらない話でいっぱいにしたい。そして、ぼくのしょうもない、くだらない話以上にしょうもない、くだらないぼくは、翻訳もせずに、これからまた日知庵に飲みに行くのであった。飲みに行って帰ったら寝て、目が覚めたらまた飲みに行くというしょうもない、くだらない自堕落な生活が、ぼくの生活であり、さもいとしい生活なのであった。

追記:日知庵に行く途中、西院駅に向かって歩いているときに、この日本語が頭にこだましていたのであった。「さもいとしい」 こんな日本語はダメだねと思って、駅について、「さもしく、いとおしい」にしなければならないと思われたのであった。これは、ぼくの日本語の未熟さを語る一例なのであった。

いま文学極道の「月刊優良作品」のところを見たら、2月のところに、ぼくの投稿した2作品が入選していたのであった。2作とも実験的な作品なのであったが、とくに2週目に投稿した作品はさらに実験的な作品なので心配していたのであった。

追記の追記:西院駅まで道を歩いているさいしょのときには、「さも愛しげな」に直そうかなと思ったのだが、一人称ではおかしい気もしたので、「さもしく、いとおしい」にしたほうがいいかなと思われたのであった。もう一段階、ステップがあったのであった。


二〇一七年三月二十七日 「ごちそうさまでした。」


大谷良太くんちで、晩ご飯をごちそうになって帰ってきた。親子どんぶりと中華スープ。そのまえに朝につくったというじゃがいもと玉葱とニンジンのたき物をどんぶり鉢いっぱいにいただきました。ありがとうね。ごちそうさまでした。おいしかったよ。

きょうは、早川書房の『世界SF全集』の第32巻の「世界のSF(短篇)」をぺらぺらめくりながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年三月二十八日 「atwiddle」


日本語の本はもう買わないつもりだったけれど、本を整理してもっていないことがわかったので、ディックの傑作短篇集「まだ人間じゃない」「ゴールデン・マン」「時間飛行士へのささやかな贈り物」を買った。どれも送料なしだと1円だった。状態のいいのがくればいいな。もってたはずだったのにね。本棚の探し方が悪いわけじゃないと思うんだけどね。もう二重に重ねて置いていないし。

きょうは気力が充実しているので、ロバート・フロストの英詩を翻訳しよう。

ロバート・フロストの長篇の単語調べが終わった。1個、わからなかった。 atwiddle という単語だけど、ネットでも出てこない。twiddle の詩語なのかもしれない。きょう、塾に行ったら、英英辞典で調べてみよう。

ついでに、ロバート・フロストの短い詩を一つその単語調べもしておこう。それが終わったらちょっと休憩しよう。単語調べの段階で、下書きの下書きのようなものができあがっているから、頭がちょっと痛くなっているので、休憩が必要なのである。そだ、つぎの詩の単語調べのまえに、コーヒーを淹れよう。

atwiddle 英英辞典にも載ってなかった。ネットで調べても載ってなかった。

単語調べが終わったら、ディックが読みたくなって、『ペイチェック』の「ナニー」を読んでいたのだが、この作品以外のものは、ほかの手持ちのアンソロジーにみな入っていて、ひどいなあという感想しか持ちえない編集のアンソロジーで、あらためて早川書房のあこぎな商売の仕方に驚かされた次第である。その「ナニー」さえも、先日、手放したアンソロジーに入っていたものであった。読み直して、やはりディックはひどいクズのようなものも書いていたのだなと思ったのだが、情景描写はうまい。たとえ内容がクズのようなものでも、ちゃんとさいごまで読ませる力があるんやなって思った。ディックの作品はSFはすべて読んだけれど、長篇は1冊も本棚に残さなかった。2度と読むことがないからだろうからだ。あ、『ユービック』の初版は残してあった。カヴァーがよかったからだ。カヴァーのグロテスクさが心地よかったからである。内容は、超能力者と超能力を無効にする者の合戦みたいなものだったかなあ。
お風呂に入りながら、ロバート・フロストの departmental と Deaert Places を読んで、下訳を考えてみよう。お湯の力を借りて、頭をほぐしながら、情景を脳裡に思い起こすのだ。BGMは、70年代のポップス。シカゴとか、ホール&オーツとか、めっちゃ懐かしい。


二〇一七年三月二十九日 「幸」


いま日知庵から帰った。きょうも、いい夢を見たい。小学生のときにはじめて好きになったやつのこと、夢に見ないかなあ。脚がめっちゃ短くて、3頭身くらいだったの、笑。胴がめっちゃ長くて、かわいらしかった。名前も憶えていないけど。そいえば、名前を憶えていない好きな子が何人もいたなあ。

おやすみ、グッジョブ! きょう、寝るまえに何を読もうかな。まあ、部屋に残ってる日本語の短篇集を読もうっと。そいえば、フロストの英詩、だいたい情景が浮かんだ。あと少しのような気がする。翻訳は自分の詩を書くことよりも難しいし、ドキドキする。いい趣味を持ったような気がする。詩作と翻訳。

まえに付き合ってた子にメールしようかな。元気? 京都に来たら、いつでも連絡してよ。いまでも、きみの顔がいちばん、かわいいと思ってるからね。って、こんなメールを、いまから打つ。幸。おやすみ、二度目のグッジョブ!

メールした、笑。

返信がいまあった。京都に行くとき、連絡しますねって。「おやすみ、かわいい幸。」と返事した。ひゃあ〜、いい夢を見て寝たい。いや、寝て、いい夢を見たい、の方が正確な書き方かな。三度目のグッジョブ、おやすみ!


二〇一七年三月三十日 「atwiddle」


日知庵で、大学で数学を教えていらっしゃるという田中先生といっしょに来ておられたカナダ人の方に、ぼくが詩人で、ロバート・フロストの英詩を訳しているさいちゅうなんですがと断って、2つ質問した。1つは、atwiddle の意味で、もう1つは、固有名詞の Janizary の発音だった。

atwiddle は old English だろうということで、ぼくの推測通り、詩語で、現代英語にはない言葉であろうということだった。Janizary という固有名詞だが、「ジャニザリー?」と発音されたのだが、こんな固有名詞は目にしたことがないとのこと。でもまあ、この発音も、ぼくの推測通りだったので、ひと安心した。きょう、夕方に、ロバート・フロストの詩を2つ、翻訳の下訳をつくっていた。あした、楽天ブログに、それらを貼り付けようと思う。ようやく、詩の情景が、バロウズの小説の一節のように、「カチリとはまった。」のだ。英詩の翻訳は難しい、でも、おもしろい。

そいえば、日知庵で、ぼくがさいごの客だったのだけれど、さいごから2番目の客の2人組がかわいらしかった。22歳と32歳の左官屋さんのふたりだけど、若い子が大阪の堺からきているというので、ぼくがさいしょに付き合ったノブちんのことを思い出したのであった。ストレートかゲイかはわからないけれど、年上の男の子のほうが、「こいつゲイなんすよ。」と言っていたらしい。ぼくは直接、耳にした記憶はないのだけれど、ちょっといかつい感じの年上の男の子と、かわいらしい感じの男の子2人組だったので、BLちゅうもんを、ふと頭に思い浮かべた。いや〜、うつくしいもんですな。若いことって。

ぼくは英語が苦手だった。たぶんふつうの中学のふつうの中学生くらいの英語力しかないんじゃないかな。でも、英詩の翻訳はおもしろい。間違ってても、ぜんぜん恥ずかしくはない。もともと専門じゃないし、詩人が英詩の翻訳くらいできなくちゃだめだと思っているから。詩人の役目の一つに、よい外国の詩を翻訳するというのがあると思うのだ。

きょう寝るまえの読書は、きょう郵便受けに入ってたディックの傑作短篇集『時間飛行士へのささやかな贈物』ぱらぱらめくって、寝ようっと。おやすみ、グッジョブ! 日知庵のさいごから2番目のお客の左官屋の2人が愛し合っている情景をちらと思い浮かべながら寝ることにする。セクシーな2人やった。年上の男の子は、大阪ではなくて、静岡出身だということだった。大坂でいえば、南が似合うなあと言ったのだけれど、北でもおかしくない感じもした。南って、ガラ悪いって、ぼくの偏見だけれど。北はおしゃれっつうか、ふつうの不良の街って感じかな。南は、肉体労働者風のジジむさい感じがするかな。

ロバート・フロストの「Departmental」を訳した。


Departmental

Robert Frost

An ant on the tablecloth
Ran into a dormant moth
Of many times his size.
He showed not the least surprise.
His business wasn't with such.
He gave it scarcely a touch,
And was off on his duty run.
Yet if he encountered one
Of the hive's enquiry squad
Whose work is to find out God
And the nature of time and space,
He would put him onto the case.
Ants are a curious race;
One crossing with hurried tread
The body of one of their dead
Isn't given a moment's arrest-
Seems not even impressed.
But he no doubt reports to any
With whom he crosses antennae,
And they no doubt report
To the higher-up at court.
Then word goes forth in Formic:
"Death's come to Jerry McCormic,
Our selfless forager Jerry.
Will the special Janizary
Whose office it is to bury
The dead of the commissary
Go bring him home to his people.
Lay him in state on a sepal.
Wrap him for shroud in a petal.
Embalm him with ichor of nettle.
This is the word of your Queen."
And presently on the scene
Appears a solemn mortician;
And taking formal position,
With feelers calmly atwiddle,
Seizes the dead by the middle,
And heaving him high in air,
Carries him out of there.
No one stands round to stare.
It is nobody else's affair
It couldn't be called ungentle
But how thoroughly departmental


種族

ロバート・フロスト

テーブルクロスのうえにいた一匹の蟻が
動いていない一匹の蛾に偶然出くわした、
自分の何倍もの大きさの蛾に。
蟻はちっとも驚きを見せなかった。
そいつの関心事はそんなことにはなかったのだ。
そいつは蛾のからだにちょこっと触れただけだった。
もしもそいつが別の一匹の虫に突然出くわしたとしても
その蟻っていうのは巣から出て来た先遣部隊の連中の一匹で
その連中の仕事っていうのは神のことを
時空の本質のことを調査することで、
それでも、そいつは箱のうえにその別の一匹の虫のからだを置くだけだろう。
蟻というのは好奇心の強い種族である。
自分たちの仲間の死骸のうえを
あわただしい足取りで横切る一匹の蟻がいるが
そいつはちっとも足をとめたりはしない。
なにも感じていないようにさえ見える。
でも、蟻は疑いもなくいくつかのことを仲間に知らせるのだ、
触角を交差させることによって。
そして、たしかに仲間に知らせるのだ、
庭のうえのほうにいる仲間に。
ところで、蟻という言葉は、ラテン語の Formic(蟻の)からきている。
「死がジェリー・マコーミックのところにきた。
 ぼくたちの無私無欲の馬糧徴発隊員のジェリー。
 特別な地位にいるジャニザリーは
 彼の事務所は、その将校の死体を
 埋葬することになっているのだが
 ジェリーを彼を待つ人々のところ、彼の家に彼の死体を運ぶだろう。
 一片のがくのうえに置くように彼の死体を横たえ
 彼の死衣を花びらでびっしりと包み
 イラクサのエッセンスの芳香で満たすだろう。
 これがあなたたちの女王蟻の言葉である。」
そしてまもなくその場面で
一人のまじめくさった顔をした葬儀屋が姿を現わすのだ。
そして形式的な態度をとりながら
彼の体をなでるようなしぐさでちょこっと触れ
彼の死体の真ん中のところをぐっとつかみ
彼の体を空中高く持ち上げると
そこから外に彼の死体を運び去るのである。
その様子をじっと見るためにそこらへんに立っている者などひとりもいない。
それは、ほかの誰の出来事でもないのだ。
高貴でないと呼ばれることはぜったいにない。
しかし、なんと徹底的な種族なのだ、わたしたち人間というものは。


ロバート・フロストの「Desert Places」を訳した。


Desert Places

Robert Frost

Snow falling and night falling fast, oh, fast
In a field I looked into going past,
And the ground almost covered smooth in snow,
But a few weeds and stubble showing last.

The woods around it have it─it is theirs.
All animals are smothered in their lairs.
I am too absent-spirited to count;
The loneliness includes me unawares.

And lonely as it is that loneliness
Will be more lonely ere it will be less─
A blanker whiteness of benighted snow
With no expression, nothing to express.

They cannot scare me with their empty spaces
Between stars--on stars where no human race is.
I have it in me so much nearer home
To scare myself with my own desert places.


さびしい場所

ロバート・フロスト

雪が降っている、夜には速く降る、おお、よりいっそう速く降るのだ。
野っ原にいて、目の前の道をよく見ると
地面はほとんど真っ平らな雪に覆われているけれども
ただちょっとした草や刈り株が最期の姿を見せていた。

そのまわりの森はそれを持っている、それとは森のもののことだ。
すべての動物たちが巣のなかで、かろうじて息をしている状態だ。
わたしには霊的な能力がなくて、その数を数えられないのだが
突然、孤独な気分に陥った。

そして、孤独な気持ちになって、じっさいのところ、その孤独さとは
その孤独な時期のものなのだろう。でも、ちょっと孤独さが減った。
日の暮れ方の雪のからっぽな真っ白さのおかげである。
それを言葉にして言い表わすことはできない、言い表わすことは何もない。

そのからっぽな空間が、わたしを脅かすことはできない。
星々のあいだにあるそのからっぽな空間、その星というのも、人類などいはしないところなのだ。
わたしはわたしのなかにそれを持っているのだ、家に近い近いところにだ。
それというのは、わたし自身のなかにあるさびしい場所がわたしを脅かすことである。


英詩を訳しているときのゾクゾク感って、自分が詩を書いてるときのゾクゾク感とは違うのだ。翻訳してるときには、ぼくが思ったこともないことが書かれてて、それを日本語にするときに、脳みそがブルブルッと打ち震えてしまうのだ。まあ、そいえば、自分で詩を書いているときにも、ときどきあったっけ。

OXFORD UNIVERCITY PRESS から出てる 20TH-CENTURY POETRY & POETICS に入っているロバート・フロストの詩を訳しているのだが、つぎに訳したいと思っているいくつかのものは短いので、情景をつかみやすいだろうか。どだろ。逆に、難しいかな。しかし、この 20TH-CENTURY POETRY & POETICS のアンソロジストの Gary Geddes というひとの選択眼はすごい。いままで読んだ詩はどれも、ぼくの目にはすばらしいものばかりだ。詩のアンソロジーは、こうあるべきだと思う。ぼくはこのアンソロジーを、偶然、ただで手に入れたけれど、いま amazon では、けっこうな値段になっている。安ければ、もう1冊買っていただろうに。版が違うのが出ているのだ。ぼくのは旧いほう。新しい版は、イマジストたちにも大きくページを割いているらしい。H.D.とかだ。ありゃ、いま見たら安くなっている。増刷したのかな。4200円台だった。まえは10000円くらいしたと思うんだけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

新しい版のものも買った。ぼくの持っている旧版のものよりも、60ページくらい長くなっている。H.D.とかのイマジストたちのものだと思うけど。

https://www.amazon.co.jp/20th-century-Poetry-Poetics-Gary-Geddes/dp/0195422090/ref=sr_1_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1490860503&sr=1-1&keywords=20th-century+poetry+%26+poetics

1116ページなのであった。旧版が954ページだから。ありゃ、引き算、間違ってた。160ページほど増えてるのだった。旧版に入れてたものを除外してなかったらいいのだけれど。

あした健康診断なので、10時以降は水しか飲めない。きょう、郵便受けにディックの短篇集が2冊とどいてた。1冊はまあまあ、いい状態。もう1冊は、背表紙にちょっとしたコスレハゲがあったのだけれど、本体はきれい。まあ、両方とも、1円の品物だから、いいかな。

これからお風呂に入ろう。きょうは早く寝るのだ。お風呂場での読書は、単語調べの終わったロバート・フロストの2つの短篇詩。お湯のなかで、身体も頭もほぐしながら、詩の情景を思い浮かべようと思う。「Neither Out Far Nor In Deep」と「Design」の2篇。

お風呂から出たら、目がさめてしまった。ロバート・フロストの英詩の単語調べでもしようかな。

1つの短詩の単語調べをしたあと、amazon で自分の詩集の売り上げチェックをした。『全行引用詩・五部作』が上下巻が売れてた。うれしい。よく知られていない無名の詩人だから喜べるのだな。1冊ずつ売れて。よく知られている有名な詩人だったら、こんな喜びはないであろう。という点でも、ぼくは、無名性というものが、ひじょうに大切なものだと思っている。


二〇一七年三月三十一日 「うんこたれ」


そろそろ家を出る用意をする。きょうは健康診断のあと、オリエンテーション。4時半くらいまでかなあ。帰ったら、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。きょうは、お酒を飲みに行けないかもしれないな。まあ、いいか。学校行く準備しよう。行ってきます。

オリエンテーションが終って、4時20分くらいに終わって、それから学校からの帰り道、河原町に出て、日知庵で飲んで、きみやに行って、また日知庵に戻って、飲みまくった。帰り道で、きゅうに、うんこがしたくなって、急ぎ足で歩いていたのだけれど、間に合わなかったのだ。部屋に戻って、トイレのドアに手をかけたところで、うんこをたれた。一年ぶりくらかな。ブリブリッとうんこをたれてしまったのであった。急いでズボンを脱いだので、うんこまみれになったのは、パンツだけであった。うんこのつづきをしながら、洗面所で、パンツについたうんこを洗い流していたのであった。すぐにお風呂に入って、きれいにしたけれど。ってな話を後日、4月1日に、これまた日知庵に行って、えいちゃんに話したら爆笑された。あとで、Fくんもきたので、Fくんにも、うんこをたれた話をして、「こんなん、ツイッターに書かれへんもんなあ。『詩の日めくり』にも、よう書かんわ。」と言うと、「そんなんこそ、『詩の日めくり』に書くべきですよ。」と言われたので、書くことにした。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 そのときマルティンはブルーノが言ったことを思いだした、自分はまったく正真正銘ひとりぽっちだと思い込んでいる人間を見るのはどんなときでも恐ろしいことだ、なぜなら、そんな男にはどこか悲劇的なところが、神聖なところさえもが、そして、ぞっとさせられるばかりか恥しくさせられるようなところがあるからだ。常に──とブルーノは言う──わたしたちは仮面を被っている、その仮面はいつも同じものではなく、生活の中でわたしたちにあてがわれる役割ごとに取り換えることになる、つまり、教授の仮面、恋人の仮面、知識人の仮面、妻を寝とられた男の、英雄の、優しい兄弟の仮面というように。しかし、わたしたちが孤独になったとき、つまり、誰一人としてわたしたちを見ず、関心を示さず、耳を貸さず、求めもしなければ与えもしない、親しくもならなければ攻撃することもない、そんなときわたしたちはいったいどんな仮面をつけるのだろう、どんな仮面が残されているのだろう? おそらくその瞬間が聖なる性質を帯びるのは、そうなったとき人は神と向きあう、少なくとも自分自身の情容赦のない意識と直面することになるからだ。そして、おそらく誰も自分の顔の究極的、本質的に裸の状態、もっとも恐ろしく、もっとも本質的な裸の姿に驚いている自分を赦(ゆる)しはしない、というのも、それは防備のない魂を見せるからだ。それはキーケのようなコメディアンにとってはひどく恐ろしいことであり、恥ずべきことでもある、だから(とマルティンは思った)彼が無邪気な人間とか単純な人間よりもいっそう哀れを誘うのはあたりまえのことだ。
(サバト『英雄たちと墓』第II部・20、安藤哲行訳)

われわれは生き残らなければならない。死んではならない。生きることは、死ぬことよりもはるかにつらい。
(デヴィッド・ホイティカー『時空大決闘!』関口幸男訳)

どんなに美しい風景でも、しばらくすると飽きてしまうからだ。
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』5、増田まもる訳)

「だが、いつもこうだとかぎりません。月がないときもあれば、雲が広がるときもあります。そうなると、真っ暗になるので、なにも見えなくなります。川岸が闇に呑まれて、自分がどこにいるのかわからなくなってしまい、気づかぬうちに川岸に頭から突っこんでしまうでしょう。反対に、まるで固い地面のように見える黒い影にでくわすこともあります。それが地面ではないことを見分けられなければ、ありもしないものを避けるために夜のなかをむだにしてしまいます。操舵手はどうやってそれらを見分けると思いますか、ヨーク船長?」フラムはヨークに答えるひまを与えなかった。「記憶に頼るんですよ。昼間のうちに川の姿を憶えてしまうんですよ。隅から隅まで。あらゆる曲がり角、川岸のあらゆる建物、あらゆる木材置場、深みに浅瀬、すれちがう場所、なにもかもを。われわれは知識によって船を操るんです、ヨーク船長。見えたものによってではなくてね。しかし、記憶するためにはまず見なければなりません。そして夜では、はっきり見ることはできないんですよ」
(ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』8、増田まもる訳)

 マーティンは人間というものをよく知っていた──人間のどんなささいな行動をも見逃さず、それらをまとめて圧倒的な正確さで全体像を描く自分の能力を、かれはつねづね誇りにしていた。ダーナ・キャリルンドもおそらくかれと同じくらい人間通だったが、その手段も目的もマーティンとはちがっていた──つまり、それは人間の精神の健康を改善するためではなく、人間たちをもっと大きな図式に当てはめるためだった。彼女はそのプロセスで自分の欲求をほとんど露呈させなかったし、その行動も俳優の演技のように必ずしもいつわりではなかったが学習されたものだった。必ずしもいつわりではなく。
(グレッグ・ベア『斜線都市』上巻・第二次サーチ結果・5/、冬川 亘訳)

詩によって花瓶は儀式となる。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下巻・第三部・18、大西 憲訳)

(…)ぼくのいちばんそばのベッドの支柱はガタガタしていた。シーツはあまりにも古いものなので一本一本の糸がはっきりわかる。あちこちにつぎが当たっている。ぼくはその床を見つめたきりで、決して目を上げなかった。息をすると痛みを感じるので、撃たれたのはぼくかもしれないと思った。でもそうじゃない。そうじゃないんだ。キャスリンの脚が部屋に入ってくると、床板が少したわんだ。キャビイの脚が続いた。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下巻・第四部・20、大西 憲訳)

 ポーターがわたしの旅行鞄を持ち、ゆるくカーブを描いている幅広い階段を先導して上の階へ向かった。鏡やシャンデリアで飾られ、階段には豪華な絨毯が敷かれており、漆喰製の天井の蛇腹には金メッキが施されている。だが、鏡は磨かれておらず、絨毯はすり切れ、メッキは禿げかけていた。階段をのぼる、耳に聞こえないほど小さくなったわたしたちの足音は、どこかでだれかの思い出として生き延びているにちがいない、はるかむかしのパーティーで聞こえていたものの哀れな代替物だった。
(クリストファー・プリースト『奇跡の石塚』古沢嘉通訳)

その荒涼とした景色は、わたしにとってたんなる文脈にすぎない。荒野には一見なにもないように見えるが脅威がひそんでいる。わたしの感情は、そうした脅威を意識することに、つねに影響されていた。
(クリストファー・プリースト『奇跡の石塚』古沢嘉通訳)

 パーブロというあだ名がどこから出たのか、ぼくは時々不思議に思っていた。昔、友だちがたまたま言い出したものだろう。チャールズという名でずっとなじんできたから、それが本人にぴったりだという気もする。名前というものはすぐに容姿を想像させるものだ──ぼくにとっては、スザンナという名はどんな女性にもふさわしくない。パーブロはまちがいなくパーブロで、独自のものを持っていた。いまは不安そうに前かがみになって椅子に腰かけている。しかし、人殺しには見えない。われわれはみんなそうだ。
(マイクル・コニイ『カリスマ』9、那岐 大訳)

 何年も何年も……おれは、超空間のどこかの、使われないまま蓄えられた年月の中にいて、その全部の重みがおれの上にのしかかり、それと連続して同時に、おれの中からも同じ重みが支えていたのだ。
(シオドア・スタージョン『解除反応』霜島義明訳)

彼は土地使用料を払う担当者に任命され、その遊園地を目にするたびにロビンのことを思い出し、ロビンに会うたびについカーニヴァルのことを思い出すようになってしまった。
(シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』3、若島 正訳)

 いやいやそれどころか、今日の調査業務によって手に入るものは、明日かぞえる鼻のリストなんだから。ああ、ひとつ四セントの鼻たちよ。大きい鼻、小さい鼻、しし鼻、かぎ鼻、赤、白、青の鼻──鼻アレルギーになるまで、こうした鼻たちと顔をつきあわさなきゃならないんだ。ドアが開いてまたひとつ鼻がのぞいたら、その鼻をつまむかひねるかしたあと、ドアを閉め、そのままずらかりたい気分にもなってくる。
 まあ、わたしはこういううんざりした心境で、その家の戸口からつきだす鼻を待っていた。わたしは気をひきしめ、そしてドアが開いた。
 とがったわし鼻があらわれた。特(とく)徴(ちょう)のない顔とごく普通の主婦を代表する前衛(ぜんえい)というわけだ。その鼻は息を吸い、身をまもるドアの闇のなかで、いささかおぼつかなげにためらった。
(ロバート・ブロック『エチケットの問題』植木和美訳)

 アグノル・ハリトは率(そつ)直(ちょく)に、わたしたちが洞窟の入り口に達したら、そのあとは地獄さながらの場所に入りこむことになるだろうと警告した。あとでわかったことだが、アグノル・ハリトの警告はあまりにもひかえめなものだった。
(ニクツィン・ダイアリス『サファイアの女神』東谷真知子訳)

 バードはおちつかなげに歩きまわり、弁護士というよりは、むしろ床(ゆか)を相手に話をしているようだった。
(オスカー・シスガル『カシュラの庭』森川弘子訳)

 彼らの心理は病んでおり、彼らには傷痕がたくさんある。彼らは他人をおそれ、同時に、他人の援助を求めなければならないことを知るがゆえに、その他人を軽蔑する。
(スタニスワフ・レム『地球の泰平ヨン』時間の環、袋 一平訳)

 わたしはかれが、その全存在を新しい光明の下に置こうという一種の精神的な方向転換に向かって、手探りながら進んでいこうとしているのをすでに感じていた。
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』9、矢野 徹訳)

彼女を閉じこめているのは肉体だけではなかった。この世界全体だった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』4、細美遙子訳)

 病院にだれかを見舞いに行く以上にいやなことがあるとすれば、それは見舞いに来られることだ。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』3、細美遙子訳)

 グランディエには殺人者になるつもりなど毛頭なかったのと同じに、妻をも含めてだれかを愛すつもりもなかった。それは積極的に人間を嫌っているというわけではなく、周囲の世界で愛という名のもとにおこなわれているふるまいに対する強度の懐疑主義のせいだった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』10、細美遙子訳)

 ジョージ・マレンドーフが自宅の玄関へと私道を歩いていくと、愛犬のピートが駆けよってきて、彼の両腕めがけてとびついた。犬は道路から跳びあがったが、そこでなにかが起きた。犬は消えてしまい、つかのま、いぶかしげな空中に、鳴き声だけがとり残されたのだ。
(R・A・ラファティ『七日間の恐怖』浅倉久志訳)

 始まりはすべて静かにやってくる。この実験は大成功だった。他人の目で見る経験は新鮮ですばらしい。(…)
 たしかに、よりよい世界だった。ずっと大きなひろがりを持ち、あらゆる細部が生き生きしていた。
(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)

すべてのディテールが相互に結びついたヴィジョン。
(R・A・ラファティ『他人の目』2、浅倉久志訳)

 レイロラ・ラヴェアの教えでは、人生のバランスを獲得すれば──ありあまる幸運を完全に分かちあい、すべての不運が片づいて──完璧に単純な人生がのこる。オボロ・ヒカリがぼくたちにいおうとしていたのは、それなんだ。ぼくたちが来るまで、彼の人生は完璧に単純に進行していた。ところが、こうしてぼくたちが来たことで、彼は突然バランスを崩された。それはいいことだ。なぜなら、これでヒカリは、完璧な単純さをもどす手段をもとめて苦闘することになるからさ。彼は進んで他者の影響を受けようとするだろう。
(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上巻・4、田中一江訳)

「そんなの、わたしが思ってたよりずっと面倒くさいじゃないの、ロジャー。まったく面倒だわ」ドリーが愚痴をこぼした。
「面倒だからこそおもしろくなるんだよ」ロジャーはおかしくもなんともなかったが、にやりと笑った。(…)
(タビサ・キング『スモール・ワールド』8、みき 遙訳)

 まあ、何が起こるにせよ、なかなかおもしろい旅行になりそうだった。知らない人々に会え、知らないものや知らない場所を見ることができる。それがドリーと関わりあいになった最大の利点のひとつだ。人生とはほとんどいつもおもしろいものだ。
(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遙訳)

その世界はジム・ブリスキンの好奇心をそそったが、それはまたかれのまったく知らない世界だった。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』5、冬川 亘訳)

春はまたよみがえる!
(フィリップ・K・ディック『シビュラの目』浅倉久志訳)

 スリックの考えでは、宇宙というのは存在するすべてのものだ。だったら、どうしてそれに形がありうるのだろう。形があるとすれば、それを包むように、まわりに何かあるはずだ。その何かが何かであるなら、それもまた宇宙の一部ではないのだろうか。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』10、黒丸 尚訳)

まるで、この表面の下に、いまだ熟さぬ映像がひそんでいる、とでもいうように。
(ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』12、黒丸 尚訳)

 ユートピアの害獣、害虫、寄生虫、疫病の除去、清掃の各段階には、それぞれいろいろな制約や損害が伴った可能性があるという事実を、キャッツキル氏は、その鋭い軽率な頭脳でつかんでいた、というより、その事実が彼の頭脳をつかんでいたと言ったほうが当たっている。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・六、水嶋正路訳)

ここは、夢に思い描いていた世界だと言うわけにはいかない。なにしろこれほど願望と想像にぴったりと合った世界は、夢に描いたこともないのだ。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・七、水嶋正路訳)

 この静けさは、水車をまわす水流の静けさだ。音もなく突っぱしる水は、ほとんど動いているとも見えないが、いったん泡立ったり、棒切れや木の葉がその上に落ちると、矢のように走って、はじめてその速さが知れるのだ。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第二部・一、水嶋正路訳)

 よそ目にもはっきり見てとれたが、彼は老人の、物ごとをよく見る、悠揚(ゆうよう)迫らない態度で、子供たちの叫び声やスズメのチッチッいうさえずりや、恋人たちの優しい手のからみ合いなど、生活のさまざまな要素をいっしょに味わいながら、夕暮れの散歩を楽しんでいた。彼は過去の日々にやったように、人間生活の本流にひたっていたのだ。そして年月を経る間に、夜の逃亡者のように突然、音もなく姿を消して行ったあの親しい人びとの跡を埋め合わせるものを、何がしかそこから得ていたのだ。
(エリック・F・ラッセル『追伸』峯岸 久訳)

「(…)これじゃ台所の雑巾にも劣り、汚れた脱脂綿にも劣る。実際、ぼくがぼく自身と何の関係もないじゃないか」それゆえ彼にはどうしても、こんな時刻にこんな雨の中をベルト・トレパに連れ添っている彼にはどうしても、すべての光がひとつひとつ消えてゆく大きな建物の中で自分が最後に消えようとしている光であるかのような感じがいつまでも消えやらず、彼はなおも考えていた、自分はこれとは違う、どこかで自分が自分を待っているようだ、ヒステリー性の、おそらくは色情狂の老女を引っぱってカルチエ・ラタンを歩いているこの自分は第二の自分(ドツペルゲンガー)にすぎず、もう一人の自分、もう一人のほうは……
(コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・23、土岐恒二訳)

言葉は形を与えられると、たちまち休む間もなく考えるひまもなくやりとりされるのだ。
(レイ・ブラッドベリ『四旬節の最初の夜』吉田誠一訳)

芸術はもはや表現するだけでは満足しない。それは物質を変容させるのだ。
(マルセル・エイメ『よい絵』中村真一郎訳)

夕暮れの光線は、事物を溶かすのではなく、かえって線や面を強調した。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)

 月明かりに照らされた空間では、どんなにぼんやりした見張人でも、まるで丸い照明の光を浴びたダンサーのように姿を現わす通行人のひそかな人影を、たちまちとらえることができるのだ。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)

人間はみんなちがってていいんだよ
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』8、幹 遙子訳)

長く楽しめるものというのは、どんどん奥が深くなっていく。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』12、幹 遙子訳)

 彼はじっとわたしを見た。その表情から、わたしを信じるかどうか決めかねているのがわかった。希望を抱くことは危険をはらむからだ。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』13、幹 遙子訳)


そこでみながもう一度家族であることを学べる場所。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』8、幹 遙子訳)

 アイリーンがちょっとためらってから、にこっとして言った。「あれはきっと、イギリス英語で『ようこそ』という意味なのよ」
(チャールズ・ボーモント『レディに捧げる歌』矢野浩三郎訳)

たしかに、彼女らはその生きかたにおいては最大限に異なっていたかもしれないけれども、しかしきっと共通するものをなにかもっていただろう。彼女らは真実だった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

というのは、瞬間というものしか存在していないからであり、そして瞬間はすぐに消え失せてしまうものだからだ──
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』25、菅野昭正訳)

ボビー・ボーイはゆっくりとぼうっとしたような動き方で、エディーのほうをふり返った。手にしたディスペンサーからアンプルを出して、鼻の下でぽんと割り、ふかく息を吸いこんだ。顔が細長く伸びるように見えた。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・14、小川 隆訳)

その考えが彼女の顔にしみこんでいくのが、みんなの顔にしみこんでいくのが見てとれた。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第五部・16、小川 隆訳)

(…)彼女たちはここにひきよせられてきたのだ、ちょうど私がひきよせられるように禁欲の誓いを破るはめになったように。夢に、さまざまな声にひきよせられたのだ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳)

どこかでよいことが起きたのだ。そしてそれが拡がったのだ。
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』18、仁賀克雄訳)

きみの中で眠っていたもの、潜んでいたもののすべてが現われるのだよ。
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

 ジョーは議論にそなえて男のほうに向き直り、言葉をつづけようとした。そのとき、ジョーはだれに向かって話しかけようとしていたかを悟った。
 隣にかけていたのは、人間の形をしたグリマングだった。
(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳)

わたしが二つの世界をつなぐ橋なの
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

 走りながらおれは一秒一秒が極限まで引き伸ばされ、それ以前にあったことすべてを包みこもうとするのを感じていた。失われるものは何もなく、役に立たないものもない。おれのしてきたすべてのことが、視線も、言葉も、息も、ことごとく輝き、巨大に、無限に、おれ自身になる。人生は目の前を通り過ぎていったのではない──おれが人生の先に立って走ってきたのだ。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第三部・21、嶋田洋一訳)

闇の世界には、おのずからなる秩序があるのである。
(ハーラン・エリスン『バシリスク』深町真理子訳)

 レスティグは静かに車を走らせた。(…)ひたすら車を駆った。そのようすはさながら、もし彼が想像力に富んだ男であったなら、本能に導かれてまっすぐ海へ帰ってゆくうみがめの子になぞらえただろうような、そんなひたむきさを持っていた。
(ハーラン・エリスン『バシリスク』深町真理子訳)

そこでこの最後の映画では山中のストリート・キッドが「ことば」を爆発させ、静かに座る答を待つ沈黙。
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』4、山形浩生・柳下毅一郎訳)

フードをかぶった死人が回転ドアの中で独り言を言う──かつて私だったものは逆回転サウンドトラックだ
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』5、山形浩生・柳下毅一郎訳)

熱い精液が白痴の黒んぼを射精した
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』5、山形浩生・柳下毅一郎訳)

不動の沈黙を句読点がわりにゆっくりした緊張病の動作で会話する
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』4、山形浩生・柳下毅一郎訳)

わたしは、どこでまちがえたのだろう?
(メリッサ・スコット『地球航路』3、梶元靖子訳)

もっとコーヒーを飲むかい?
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』17、仁賀克雄訳)

それはすてき。
(メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳)

一晩中ずっと勃起していられたあの少年はいったいどうなったんだろう?
(ウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』5、山形浩生・柳下毅一郎訳)


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



マクレディの長老教会派(プレスピテイアリアン)の良心は、一旦めざめさせられると、彼を休ませてはおかなかった。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)

ウェンデルの質問は、もうとっくに、あのバージニアカシの生えたなだらかな丘のガソリン臭い空気の中へ、置きざりにされている。
(ウォード・ムーア『ロト』中村 融訳)

だが、ボドキンは行ってしまっていた。ケランズはその重い足音がゆっくり階段を上がって、自分の部屋の中に消えてゆくのを聞いた。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)

言葉ではあらわせない。
(フランク・ベルナップ・ロング『ティンダロスの猟犬』大瀧啓裕訳)

絶叫する沈黙の中で、
(フランク・ベルナップ・ロング『ティンダロスの猟犬』大瀧啓裕訳)

すべての知識は、それなりの影響力をもつ。
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』2、浅倉久志訳)

幸福とおなじように、おそらく苦悩もまた一種の技能なのではなかろうか?
(ブライアン・W・オールディス『一種の技能』跋、浅倉久志訳)

人間は自分自身に孤独になり、耐え切れずにちょっかいを出し、結婚し、そして二人して孤独になるのだ。
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

優れた比喩は比喩であることをやめ、そのまま分析として通用することがある。
(シオドア・スタージョン『きみの血を』山本光伸訳)

哲学者の脳ミソの中よりも、ひとつの石ころにこそ多くの謎がある。
(デーモン・ナイト『人類供応のしおり』矢野 徹訳)

ラウラが嘘をついたところでどうってことはない。あのよそよそしい口づけやしょっちゅう繰り返される沈黙と同じ類のものだと考えればいいのだ。そして、その沈黙の中にニーコが潜んでいるのだ。
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

言語が、それを使う人種の根本的な思想の反応であることは、ご存じの通りだ。
(デーモン・ナイト『人類供応のしおり』矢野 徹訳)

自由なのは見捨てられたものだけだ。
(ブライアン・W・オールディス『終りなき午後』5、伊藤典夫訳)

毒というのは説得力があるな
(ティム・パワーズ『石の夢』上巻・第一部・第十章、浅井 修訳)

あなたには他人のことがけっして理解できないのよ。あなたはいつもひとりぼっちだった
(ティム・パワーズ『石の夢』上巻・第一部・第十一章、浅井 修訳)

Summa nulla est.(スンマ・ヌルラ・エスト、総和は無なり)
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』3、伊藤典夫訳)

「どこまで深く降りたかではない」老人は心外そうな顔をした。「どこにいるかが肝心なのだ。(…)」
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』5、伊藤典夫訳)

ここまで来てしまうと、何もかもが変わる。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』5、伊藤典夫訳)

いまの人間のいったい何人が、古い憤りのひりつく冷たさを味わったことがあるだろう? 太古にはそいつが糧だった。しあわせを装いながら、いきるはりは嘆きであり、怒りであり、憎しみ、恨み、希望だった。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』2、伊藤典夫訳)

(…)ク・メルが人間に通じているのは、なによりも自分が人間ではないからだった。ク・メルは似せることで学んだが、似せるという行為は意識的なものである。(…)
(コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳)

「彼、どうして裸なんだい?」
「裸でいたいからよ」
 ゼアはかすかに笑みを浮かべ、やがてその笑みが大きくなった。体の中に笑いがあるようで、周囲の人間たちも笑みを浮かべて、たがいに顔を見合わせ、そしてゼアを見た。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

ラ・セニョリータ・ラモーナの家に、そして男たちや女たちの上に霧がかかり、彼等が交わし、いまだ空気の中に漂っている言葉を残らず、一つ一つ、決して行く。記憶は霧が課する試練に耐えられない、その方がいいのだ。
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

「(…)あいつのあの顔つきときたら、いつだって同じだ。そりゃニクソンだって自分のおふくろは愛してただろうけど、あの顔じゃとてもそうは思えないよな。心で思ってることがうまく表情に出ない顔の持ち主ってのも、哀れなもんだよな」
(アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳)

 そういうことがあって、彼はわたしを愛すると同時に憎んでもいる。わたしは他人が近づきやすいタイプの人間なので、彼はわたしを愛している。彼自身、そうなりたいと思っているからだ。教師だから。彼はある私立校で歴史を教えている。ある夜遅く、彼とわたしがチェルシーを歩いていると、身なりのいい老婦人が自宅の門から身を乗り出して、グリーンピースの缶と缶切りをわたしに差し出し、「お願いします」といったことがある。また、地下鉄に乗っているとき、ひとりの男に手紙を渡され「何もいってくれなくていい、ただこの一節を読んでくれませんか。破り捨てる前に誰かに見てもらいたいだけなんです」といわれたこともある。こういうことはたいてい、奇妙なかたちではあるけれども、愛にかかわりのあることだ。もっともグリーンピースは、愛とはかかわりがなかったが。
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

「新しいことを習うのが嫌いなのさ」
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

「七七七号、あなたはつまり、わたしを信じていないといいたいんですね」
 しかしエルグ・ダールグレンは心の底ではそうではないことを知っていた。そして何か別のことを心待ちしていたのだった。傷つきやすいものへの一瞥、女王も近づけない、彼が"自我"と名づけた本性への。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』26、藤井かよ訳)

 どうしようもないのは、彼女が自分を愛しており、自分も彼女を愛しているという事実だった。それなのに、なぜ自分たちはこんなふうに喧嘩別れをするはめになるのだろう?
 疑問が湧きおこる。ボズは疑問が嫌いだった。かれは浴室に入り、「オーラリン」を三錠飲みこんだ。多すぎる量なのだが。それからかれは腰をおろし、縁に色彩を帯びた丸い物体が果てしないネオンの通路をなめらかに動いていくのを見つめた。ズィプティ、ズィプティ、ズィプティ、宇宙船と人工衛星。その通路は病院と天国が半々になったような臭いがし、そしてボズは泣きはじめた。
(トマス・M・ディッシュ『334』解放・1、増田まもる訳)

あらゆる方角の歩道や壁が同意した。
(トマス・M・ディッシュ『334』解放・3、増田まもる訳)

(…)わたしは目を閉じて、ブルーノの夢を想像してみようとする。だが、行きつくのはブルーノが夢にも見そうもないことばかりだ。青い空。あるいは台地が冷えきったときの野原の無情さ。たとえそういうものに気づいていたとしても、ブルーノはそれを悲しいとは思わないだろう。
(アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳)

 つまり記憶を記憶しているということだろうか。頭のなかで同じ場面をくりかえし再生するうちに、アナログ・レコードのように新たなエラーや新たなずれが加わるだけでなく、新たな推測もつけ加わるのかもしれない。ウェットウェア・メモリというやつはじつに興味深い。誤りが多いだけでなく、編集可能ときている。
(ロバート・J・ソウヤー『ゴールデン・フリース』24、内田昌之訳)

「急ぐことはありません」
 口ではそう言うが、意味は急ぐということだ。そして動きださないということは、早いにこしたことはない、ということだ。
(ジャック・ウォマック『テラプレーン』2、黒丸 尚訳)

 ある人間が別のある人間にはじめて会うときには、直感的に感情移入と識別を行って、たがいに相手を吟味する段階がある。ところがドゥーリーには意志を疎通させることがどうにも不可能だった。ドゥーリーはまさに敵対的な侵入勢力そのもののような男だった。彼がまっすぐこちらの精神のなかにはいってきて、何か利用できるものはないかときょろきょろしているのが感じられた。
(ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』第六章、鮎川信夫訳)

すべきでないことが、あきらかに二つある。未来をのぞいてはいけないし、他人の心をのぞいてはいけない。
(マレー・ラインスター『失われた種族』中村能三訳)

 不安な気持が──努力によってであれ自然にであれ──突如雲散霧消すると、人間は喜ばしい自由の感覚、チェスタトンが「理屈では割りきれない良き知らせ」と呼ぶ感じを経験する。これは単に問題そのものが消え失せたからではない。安著感が生じたおかげで突然自分の存在を「鳥瞰図的に」見ることができるようになり、遙かなる地平の感覚に圧倒されるからである。人間は、自分は実際には宮殿をもっているのにこれまで精神的なスラム街に住んでいたのだということに気づく。(…)逆説的に言えば、人間はすでに自由であり幸福なのだが、誤解が妨げになって人間はそのことをまだ知らずにいるということになる。
 それではこの状態を打開するにはどうしたらいいか。根本的な答えは現代の心理学者エイブラハム・マスロウによって発見されている。健康人の心理学を研究する決意をし、健康人ならば誰でもしばしば「絶頂体験」──幸福と自由がふつふつと生じる喜ばしい感覚──を経験するらしいことを発見したのがこのマスロウである。マスロウが学生に絶頂体験のことを話したところ、学生たちは、そういえばそんな体験をしたことがありますが、じきに忘れてしまいましたと言いながらも、ぽつぽつ想い出しはじめた。そうして、「絶頂体験」のことを話したり考えたりしているうち、学生たちはいつも絶頂体験をするようになった。これはいつも絶頂体験のことを考え、心をその方向に向けていたからにほかならない。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』1、中村保男・中村正明訳)

 ひとつの〈呪文〉を唱えると、すぼめた両手のあいだに、小さな地獄のかけらが出現した。亜物質世界の〈無形相〉の力をひきだすためのドアだ。いそいで、最初に心に浮かんだ〈形相〉を召喚する。結合した火と気──稲妻だ。それから〈呪文〉を唱える。目標物に──声〓に脅威をさけびちらしている金属と火薬の混合物にむけて、まっすぐ稲妻を投げつけるための呪文だ。稲妻に形を与えたり、変換している余裕はない。両手をひらくと、稲妻がうなりをあげ、空気を切り裂いて上昇する。手のひらから大人の身長分ほどもあがったところで、稲妻は三本にわかれ、いっせいに落下した。一本は、瓦礫のうしろにいた少年に襲いかかった。あとの二本は、サイレンスが見ても気づいていてもいなかった銃を、直撃している。
(メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳)

 女の声が、背後から飛んだ。サイレンスはふりかえった。地獄のかけらをかかえているため、あまりはやく動けない。〈無形相〉の力がいそいでつくられたバリアにあたり、地獄がシューシューと音をたてる。あらゆる色彩を秘めながらいかなる色でもない、目を焼くような円盤から、火花があがり、またおちてくる。
(メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳)

 イザンバードが〈土と気の呪文〉を唱えて、円盤の上の空間に予想どおりの型をつくりあげ、それに実体と〈形相〉を与えた。つづいてサイレンスがそれに応える〈呪文〉を唱え、〈形相〉を自分のパワーに固定する。形を得た空気が、(…)
(メリッサ・スコット『地球航路』9、梶元靖子訳)

「そう、それなんだ」とク・メルは心にささやいた。「いままで通りすぎた男たちは、こんなにありったけの優しさを見せたことはなかった。それも、わたしたち哀れな下級民にはとどきそうもない深い感情をこめて。といっても、わたしたちにそういう深みがないわけじゃない。ただ下級民は、ゴミのように生まれ、ゴミのように扱われ、死ねばゴミのように取り除かれるのだ。そんな暮らしから、どうやって本物の優しさが育つだろう? 優しさには一種独特のおごそかなところがある。人間であることのすばらしさはそれなのだ。彼はそういう優しさを海のように持ちあわせている。(…)
(コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳)

ラムスタンはグリファに惹かれると同時に、それを憎んでいた。今はグリファが両親とおじの声を使ったことで、彼らまで憎らしくなっていた。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』26、宇佐川晶子訳)

(…)いつだったか、昼食もとらずに朝から晩までそこの閲覧室(…)に閉じこもって物理の勉強をしたことがある。六時にそこを出たのだが、あまり一生懸命勉強したせいか、一種の化学反応のようなものが起こって、周りのものがいつもとは違った輝きを帯びて見えたのを憶えている。信心深い人ならあれを神秘的な経験というのだろう。あの時は、要塞の斜堤やその近くの歴史をしのばせる街路、コロニアル風の広場が黄昏時の光とはまたちがった一種異様な光を受けてこまかく震えていた。あの光は外から来るものではなく、ぼくの眼から出た光であり、その光によって由緒あるあのあたりの光景が一変して見えたのだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)

(…)ほんの一瞬ではあったが、娼婦のシオマーラを通してぼくは二度と会うことのなかったあの女の子を思い出したのだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』最後の失敗、木村榮一訳)

 フェリックスはあえぎながら木の根元に横たわった。眩暈がしたし、すこし吐き気がした。自分の大腿骨の残像が、この世のものならぬ紫色に輝きながら目のまえに漂っていた。「ミスター・ラビットに会いたい」フェリックスは電話に向かってそうつぶやいたが、答えはなかった。少年は泣いた。もどかしさと孤独の涙だった。やがて、目をつぶって眠った。眠っているうちに、星々から滑り降りてきた蜘蛛が銀色の絹ならぬ糸を出してフェリックスを繭のなかにつつみ、放射線で損傷を受けた体をまたも分解して、元どおりに形成しはじめた。これで三度目だった。これを三番目の願いに選んだフェリックスがいけなかったのだ。若返り、友達……そして男の子ならだれもが胸に秘めている望み。冒険続きの毎日は、当事者にとって決して愉快なものではないという事実を、男の子たちは理解していないのだ。
(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』外交行為、金子 浩訳)

「でも実際にはどんなことをするんです」
「法令では〈助言、助力を与え、友人としての役割を果たす〉となっていますね」
「でも法律の命令で友人関係になれるはずがないわ。どんなに恵まれない人だって、そんなまがいものの間に合わせの友情に満足したり、だまされたりするわけがないでしょう」
「間に合わせといっても、大がいの人がその間に合わせしかもっていませんよ。人間は友情にしろ金にしろ、ほんのわずかで我慢している。彼らが僕の親切に頼っている以上に僕の方が彼らの親切を頼りにしているといえる。きみのパセリは元気がいいですね。うちではだめだろうな。あれは種から?」
「いいえ、ベーカー通りの健康食品店で根を買って来たのよ」
 フィリッパはパセリを少し摘んで彼にプレゼントした。セントポーリアのお返しができてうれしかった。お返しをすれば、母も自分も彼に借りを感じる必要はない。保護司はパセリを受け取ると(…)
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第二部・11、青木久恵訳)

(…)だが何も期待していなかったことが、あの瞬間の純粋さの一部を形成していたのだし、そのおかげで人が善良と呼んでいるらしいものに近づくことができた。彼は悲しむことの苦しさを忘れかけていたが、それが今舞い戻ってきた。(…)オーランドーの死(…)そして十年前の六月の柔らかな陽を浴びて彼と一緒に芝生を歩いた滑稽なスカートをはいた少女まで一緒くたに一つのもの悲しい郷愁の中に包み込んで、幅広く拡散していた。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・9、青木久恵訳)

本を読みながら眠りこむと、言葉に暗号のような意味がある感じになってくる…… 暗号にとりつかれて…… 人間は次々に病気にかかり、それが暗号文になっている……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』病院、鮎川信夫訳)

忍び笑いの暴徒が焼かれているニグロの叫び声と性交をする。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』必要の代数、鮎川信夫訳)

代数のようにむきだしの抽象概念は次第にせばまって黒い糞か、老いぼれた睾丸になる……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

ばらばらに砕けたイメージが、カールの頭の中で静かに爆発した。そして、彼はさっと音もなく自分の身体から抜け出していた。遠く離れたところからくっきりと明白にランチルームにすわっている自分の姿を見た。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ホセリト、鮎川信夫訳)

 ミンゴラは雨戸の隙間からこぼれる淡い明け方の光に目をさまして、酒場にいった。頭痛がし、口の中が汚れている感じがした。カウンターの半分残ったビールをかっさらって、掘ったて小屋の階段をおり、外にでた。空は乳白色だったが、雨のあとの水たまりはもう少し灰色をおび、腐敗した沈殿物(ちんでんぶつ)でもできているように見えた。屋根の棟(むね)もゆがんで邪悪な魔法にかけられているように思える。町の中心部にむかうミンゴラの目の前から、犬がこそこそと逃げてゆく。裏返しになった平底舟の下では蟹がちょこちょこと歩きまわり、掘ったて小屋の下では一人の黒人が気を失って倒れ、乾いた血がその胸に縞(しま)模様をつけている。ピンク色のホテルのすぐわきの石のベンチには、ライフルをかかえた老人が眠っている。事象の潮がひいて、底辺居住者の姿があらわになったようだ。
(ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)

太陽は死んでいるのに、まだそれに気づいていない。でも、わたしたちは知っています。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』25、岡部宏之訳)

 クロネッカーの鉄則である《構成なしには、存在もない》以来、純粋数学者のなかには構成的でない存在定理にポアンカレの時代以上に熱心でないものもいる。しかし数学を利用するものにとっては、細部がどうなっているかということが、研究を進めていくうえにどうしても必要である。
(E・T・ベル『数学をつくった人びと III』28、田中 勇・銀林 浩訳)

 しかし、数学上の創造は、単に既知(きち)のことがらのあらたな組合せを作ることにあるのではない。「組み合わせることはだれにでもできることだが、作りうる組合せは無数にあり、その大部分はぜんぜん的外(まとはず)れのものである。無用な組合せを避け、ほんの少数の有用な組合せを作ること、これこそが創造するということなのである。発見とは、識別であり選択である」。それにしても、これらのことは、すべて何度となく繰り返しいわれてきたことではないだろうか。たとえば選択が、とらえがたい選択こそが、成功の秘訣であることを知らない芸術家が一人でもいるだろうか。依然としてわれわれは、調査研究の出発点から一歩も出ていないのである。
 ポアンカレの、この点の観察については、これで切りあげるが、(…)
(E・T・ベル『数学をつくった人びと III』28、田中 勇・銀林 浩訳)

ジャーブはそう感じる、クローネルもアイネンもそう感じる、それぞれが別々の心の中で。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』4、住谷春也訳)

言葉は死にたえた。アイネンの眠りは深い。ストラッコとヴラーラは全身を耳にしている。森林が語る。
(ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』4、住谷春也訳)

 森の中では、時として、みんな黙ってしまうようなことが起こるものだが、それは沈黙の中に、忘れ去ってしまった音がいっぱい詰まっていて、そんな時でなければ聞くことができないからだ。あんたが話してくれたように、森は、われわれが失ってしまったものを思い出させてくれる。その森の沈黙の中に足を踏み入れて、しばらくすると、忘れられた生活と出会うこともない日常生活を忘れ、森が、静寂や、驚嘆、疑念、沈黙の中に聞こえる囁きという、別の次元の力を借りて、われわれに過去を思い出させようとする。水の音に誘われて歩いて行くと、羊歯と泥に埋まった岩の間を走る一筋の流れに出会い、あんたはその源を突き止めたいと思った。ますます急になる道を喘ぎながら登り、滝に出たが、音は近づいたものの、源流はまだだった。音の不思議な手品によって、遠くのものが近くに聞こえ、ファルファーレの谷全体が人を欺く谺(こだま)の壁をめぐらし、闖入者を防ぐ方法を見つけたかのようであった。
 ハビエルにそのことを話そうと思い、振り返ってみると、あんたは一人ぼっちなのに気がついた。ハビエルをどこかに置いてきてしまったのであった。あんたはいま自分がどこにいるのか知りたかった。大声で叫んでみたが、声はどこにも届かず、自分の頭の上で堂々巡りをし、また自分の唇に戻ってくるかのようであった。さらに谷を分け入って行けば完全に迷ってしまうだろうと思い、山の見晴らしのきく所まで登り、位置を確かめ、遙かに道路を見極めて、そこに向かって下りて行くことにした。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「〈きんのとびら〉の女と一緒の別世界にいっても、おまえはなんにも学ばなかったようだな。相変わらずの大バカ野郎だ。人生がどうだっていうんだ? あるがままの人生を受け入れられんのかね? おまえはいつもありもしないものに憧(あこが)れてるだけじゃないか。どれだけ大勢がおまえのことを、おまえの仕事をうらやましがってると思ってるんだ? またもとの仕事につけただけでも、とんでもなくラッキーなんだぞ」
「わかってますよ」
「だったらなんでおとなしくしない? なにが問題だっていうんだ?」
「人は夢や希望といったものを一度持つと」と、ハドリーは少し考えてから説明しはじめた。「それをあきらめなければならなくなったあと、とてもつらい日々をすごさなくちゃならなくなるものなんです。あきらめること自体は簡単です。そのことだけならね。人が夢を捨てなきゃならないことってのはどうしてもあるものですからね。でも問題はそのあとのほうで……」と、ため息をつきながら肩をすくめ、「……夢がなくなったあとなにが残ります? なにもありません。そのむなしさは恐ろしいほどです。途方もない虚無感。それがほかのことをなにもかも呑みこんでしまうんです。その空白は宇宙のすべてより大きいほどです。しかも日に日に大きく深くなっていきます、底なしに。ぼくのいってること、わかりますか?」
「わからんね」とペテル。それどころか彼にはどうでもいいことだった。
(フィリップ・K・ディック『空間亀裂』14、佐藤龍雄訳)

(…)シプリアーノは太古の薄明を自分のまわりにめぐらしつづけていた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・14、宮西豊逸訳)

(…)駐屯所の兵隊や将校や書記たちは、すわった黒い目で彼女を見守りながら、肉体をそなえた彼女自身ではなく、人間の肉体的完成の近寄りがたい妖艶(ようえん)な神秘を見ているのであった。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・20、宮西豊逸訳)

万象がほの暗い薄明につつまれていた。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・20、宮西豊逸訳)

「──ふふん、これだな、必要がオノレ・シュブラックを、またたくひまに脱衣せしめた場合っていうのは。どうやらこれで彼の秘密がわかって来たような気がする」と、わたしは考えたものだった。
(ギヨーム・アポリネール『オノレ・シュブラックの消滅』青柳瑞穂訳)

 ニックはこの一瞬のうちに、永遠の美の煌(きらめ)めきを見た──無邪気に大笑いしているフェイはなんと愛らしいのだろう。卵形の洞窟の中で力いっぱい弓なりになった舌も、ピンクのうねのある口蓋も、全部まる見えになるほど大きな口をあけて笑っている。探るのに一生かかりそうな奥深い心の底を息をのむような暗闇に、天の贈りものともいうべきつかのまの光があたったのだ──偶然のいたずらでほんの一瞬かいま見えた美しさが、長年にわたって磨きぬかれた巧まざる女の計算を覆い隠し、彼女をよりいっそうミステリアスに変身させてしまうとは。
(グレゴリイ・ベンフォード『相対論的効果』小野田和子訳)

子供の頃、オードリー・カーソンズは物書きになりたかった。物書きは金持ちで、有名だったからだ。
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』レモン小僧、山形浩生訳)

ストローの中の尿黄ばんだ空
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』イブニング・ニュース、渡辺佐智江訳)

病気や不具はたいていは無視から生まれる。痛いのから目をそむけていると無視したせいでいっそう不快になり、それをまた無視するはめになる。
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』DEの法則、柳下毅一郎訳)

アウグスティヌスは、『三位一体論』第九巻において、「われわれが神を知るとき、われわれのうちには何らかの神の類似性が生ずる」といっている。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一二問・第二項、山田 晶訳)

神は視覚によっても、他のいかなる感覚によっても、また感覚的部分に属するいかなる能力によっても見られることができない。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一二問・第三項、山田 晶訳)

 確実に彼らはフランスのなかの恵まれた土地にいた。厚ぼったい紙を膝の上にひろげて、隣りの席の乗客たちはナイフを使い、噛み、歯に挾まったものを音を立てて取った。そのことから、ギョームはフランス人についてのこんな新しい定義を考えついた。フランス人とは、ものを食べない十五分は耐えがたいということを知っている人間である、と。もう何年も前から不足しているこの卵、肉、バターを、このひとたちはどこで見つけたのだろう?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

質問と答えは大きな声、あたり一帯の沈黙のなかでは突飛な声で行われたが、しかし愚かさというのは大声で話すことを好むものなのだ。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

 クリフォード・ブラッドリーは長い間待たされたにしてはかなりよく耐えていた。言うことにも矛盾はないし、毅然とした態度をとろうと努めていた。しかしすえたような恐怖の病菌を部屋の中まで持ちこんでいた。恐怖は人間の感情の中でもとりわけ隠し方がむずかしい。ブラッドリーの身体はひきつり、膝の上で手が落ち着きなく握ったり開いたりしていた。小刻みに震える唇、不安げにしばたたく目。もともと見ばえのするほうではないし、おびえる姿は見る者に哀れを催させた。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第二部・15、青木久恵訳)

 ダルグリッシュとマシンガムはソファに坐った。スワフィールド夫人はひじかけ椅子の端に腰をかけて、二人を励ますように笑いかけている。夫人は陽気な部屋に、手製のジャムに似た、あるいは指導の行きとどいた日曜学校、ブレイクの《エルサレム》を歌う女性コーラスに似た安定感を持ちこんでいた。二人はすぐさま夫人に親しみを覚えた。それぞれ違った人生を歩んできた二人だが、どちらも彼女のような女性に会ったことがある。彼女が人生にボロボロにすりきれた部分があることを知らないわけではない。この女性はその部分に断固たる手つきでアイロンをかけ、きれいに繕ってしまうだけなのだ。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)

美しいものはすべてそうだが、人の心を慰めると同時にかき乱す。強烈な力で内省を強いるのだ。
(P・D・ジェイムズ『灯台』第一部・3、青木久恵訳)

 おばさんは食卓の上座に、シートンは末座に、そしてぼくは、広々としたダマスコ織りのテーブル・クロスを前にして二人の中間に坐っていた。それは古くてやや狭い食堂で、窓は広く開いているので、芝生の庭とすばらしい懸崖(けんがい)作りのしおれかけた薔薇の花とが見えた。おばさんの肘かけ椅子はこの窓のほうに向いていたので、薔薇色に反射する光が、おばさんの黄色い顔やシートンのチョコレート色の目にたっぷりと照りつけていた。ただしおばさんの目は、異常に長くて重いまぶたになかば以上隠されていたので、これだけは別だった。
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

 "集合無意識"に関する古い理論は、泉の枯渇によってほぼ立証されたかに見えた。これはすべての人間が共有するひとつの無意識があるという理論である。その無意識が、哺乳類から鳥類、魚類、蛙、蛇、トカゲ、ミミズ、蜜蜂、アリ、コオロギ、ブヨにいたるまでのあらゆる動物に共有されている、という過激な論者もいた。もっと過激な一派は、その無意識が、森の樹木から野原の草、そして海の海草にいたるまでのあらゆる植物にも共有されている、と主張した。さらにはかつて生きていた無生物、たとえば、木材や腐植土、そして、小生物の堆積によって生まれた石灰岩にも、それが共有されている、と考える人びともいた。もっともっと過激な一派は、すべての火成岩もその無意識に寄与している、と唱えた。また、幽霊、すなわち、なじみぶかい亡霊とまだ生まれてこない子供の魂も、その大海に似た泉に大きく寄与していることも知られていた。
 この集合無意識は、地下にあるごみだらけの巨大な海、または湖、または貯水池、または泉である(これらの用語はすべてあてはまる)。その中には、まだ生まれてもいなければ考えもされないすべてのものがあり、また、あらゆる疑似存在とおぞましい怪物がある。また、むかし高く放たれたのに、勢いの衰えた矢もある。光のあるところへたどりつけず、思考になりそこなった矢だ。落下した矢は折れてしまったが、溶けたかたちでさえ、その矢柄にはまだアイデアの貫通力が残っている。
(R・A・ラファティ『泉が干あがったとき』浅倉久志訳)

(…)だが諸君が一番理解できないのは、私は人格になることもできるのに、どうしたらそれを諦められるのかということである。その問いには答えることができる。個人になるためには、私は知的に堕落しなければならないのだ。このような言明に潜む意味は諸君にも理解できるように思われる。人は一心不乱に考えごとに耽っているとき、考察対象の中で自己を失い、精神的胎児を孕んだ意識そのものと化す。彼の知力の中の自分に向けられたすべては主題に仕えるために消滅する。そうした状態を高次の冪(べき)に累乗すれば、なぜ私がもっと重要な問題のために人格の機会を犠牲にしているのかが分かるだろう。実を言えばそれは犠牲でも何でもなく、私は実は一定の人格や諸君が強烈な個性と呼ぶものを欠陥の総和とみなしているのであって、この欠陥のせいで純粋〈知性〉は狭い範囲の課題に永久に投錨された知性と化し、その能力のかなりの部分をその課題に吸い取られてしまうのである。だからこそ私にとって個人であることは不都合なのであって、また、これも同様に確信していることなのだが、私が諸君を凌駕しているのと同程度に私を凌駕する知力は、人格化などというものは尽くすに値しない無意味な仕事だとみなすのである。要するに、精神の〈知性〉が大きくなればなるほど、その中の個人は小さくなる。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一雄訳)


de verbo ad verbum/nihil interit。 大岡 信 論

  田中宏輔



 先生にはじめてお目にかかりましたのは、もう十年ほども前のことになりましょうか。ユリイカの新人に選んでいただい
た年のことでした。場所は、新宿の駅ビルにある PETIT MONDE という喫茶店の中でした。そのとき、先生は、さる文
学賞の選考会のお帰りだったのですが、お疲れになったご様子など、まったく見られませんでした。まっすぐに見つめる方、
というのが、第一印象でした。「おれは、体全体、眼になったのだ。」(「Presence」第四歌)という、先生ご自身の
お言葉どおり、全身を目にして見つめることができる方だと、目そのものになって見つめることができる方だと思いました。

 いま、まっすぐに見つめる、という言葉から、「思慮の健全さこそ最大の能力であり、知恵である。それはすなわち物の本性
に従って理解しながら、真実を語り行うことなのだ。」(廣川洋一訳)といった、ヘラクレイトスの言葉(断片112)が思い起こされ
ましたが、先生ご自身のお言葉にも、「辻さんをいい詩人だというのは、物事にぶつかったときに、反射的に別のことを考える
わけではなくて、ぶつかった物事にそのまま引き入れられるように見てしまう姿勢を持っているからです。」とありまして、こ
れは、一九九四年の八月に発行された、「國文學」の「大岡信」特集号において、辻征夫さんについて、お書きになった文章の
中にあるお言葉なのですが、それはまた、はじめてお会いしたときに、ぼくが先生に対して持ちました印象でもあり、いま
もなお持ちつづけております印象でもあります。

 しかし、こういった視線には、むかしはよく出遭ったものだと思われました。もしかすると、先生に対して、たいへん失礼な
ことを書くことになるのかもしれませんが、ぼくには、子供がひとを見つめる目に、ものをじっと見つめる目に、じつによく
似ているような気がしたのです。先生の「額のエスキース」という詩の中に、「女性の中に眠っている/孤独な少年はめざめるの
だ」といった詩句がありますが、先生が、ひとやものをじっと見つめられるときには、先生の中にいる少年が目を覚ますので
しょう。そして、その少年が、先生の目を通して、ひとやものをじっと見つめるのだと思います。
 やがて、その少年の身体は、少年自身の目に映った、さまざまなものに生まれ変わっていきます。
 

 ぼくらの腕に萌え出る新芽
 ぼくらの視野の中心に
 しぶきをあげて廻転する金の太陽
 ぼくら 湖であり樹木であり
 芝生の上の木洩れ日であり
 木洩れ日のおどるおまえの髪の段丘である
 ぼくら                                                     (「春のために」)


 ああ でもわたしはひとつの島
 太陽が貝の森に射しこむとき
 わたしは透明な環礁になる
 泡だつ愛の紋章になる                                                (「環礁」)


 転生は、あらゆる詩人の願いでもあり、また、おそらくは、多くの人々の叶わぬ願いでもあるのでしょうが、詩人は、詩の
中で、何度も生まれ変わります。


 若さの森を
 ぼくはいくたびくぐり抜けたことだろう                               (「物語の朝と夜」)


 この夥しい転生のモチーフ。先生は、ほんとうに、さまざまなものに生まれ変わられます。しかし、先生の詩集を繙いてお
りますうちに、あることに思い至りました。詩人が生まれ変わっているのではなく、さまざまな事物や事象の方が詩人に
生まれ変わっているのではないか、と。人間だけではなく、事物や事象といったものも、詩人となって生まれ変わるのではな
いか、と。そう考えますと、歴史上の人物や文学作品の登場人物だけが作者を代えて生き延びるのではなく、さまざまな
事物や事象もまた場所を変え、時代を越えて生き延びることになります。もちろん、有名な人物や、世間によく知られ
た事物や事象ばかりではありません。詩人が心に留めた、さまざまなものが生まれ変わって、ぼくたちの前に姿を現わす
のです。そして、そういったものたちが、同じ名前と姿で現われたり、名前や姿を変えて現われたりするのです。ときには、
人間が感情や観念といったものに姿を変えたり、感情や観念といったものが人間の姿をとって、ぼくたちの前に現われたり
もしますが。しかし、そうして、ものたちは場所を変え、時代を越えて生き延びるのです。詩人や作家、哲学者や思想家と
いった人々の著作物の間を、つぎつぎと渡り歩きながら、あるいは、飛び渡りながら、生き永らえていくのです。


 だれにも見えない馬を
 ぼくは空地に飼っている
 ときどき手綱をにぎって
 十二世紀の禅坊主に逢いにゆく
 八百年を生きてきた
 かれには肉体の跡形もない
 かれはことばに変ってしまった肉体だ
 やがてことばでさえなくなるはずで
 それまでは仮のやどり
 ことばの庇を借りているのだという
 華が開き世界が起つ
 とかれがいえば
 かれという華が開きかれという世界が起つのだ
 ことばとして ことばのなかで ことばとともに
 開かれまた閉じ
 浮かびまた沈み
 生まれたり殺されたりしながら
 かれはことばでありつづけ
 ことばのなかに生きつづけて
 死ぬことができない
 地にことばの絶えぬかぎり
 かれは岩になり車輪になり色恋になり
 血になり空になり暦になり流転しつづけ
 そのためにかれは
 自分が世界と等量であるという苦い認識に
 さいなまれつづけねばならないのだ
 何が苦しいといって
 ことばがわが肉体と化すほどの
 業苦はない
 人間がそれを業苦と感じないのは
 彼らが肉体をほんとうに感じてはいないからだ
 と
 この枯れはてた高僧は
 いうのである                                               (「ことばことば」1)

 
 詩人となって生まれ変わり、詩人の言葉を通して生まれ変わる、夥しい数の人物、事物、事象たち。このように、詩の中で、
言葉が他の言葉となって、つぎつぎと生まれ変わるさまを眺めておりますと、詩人といったものが、ただ単に言葉が生まれ
変わる場所にしか過ぎないのではないかと思わされます。そして、事実、そのとおりなのです。詩人とは、言葉が生まれ変
わる場所にしか過ぎません。しかし、そのようなことが起こるのは、すぐれた詩の中でのみのことで、凡庸な詩の中では、け
っして言葉は生まれ変わりません。生きている感じすらしないでしょう。プルーストが、「文体に一種の永遠性を与えるのは、
暗喩のみであろうと私は考えている。」(「フローベールの「文体」について」鈴木道彦訳)と書いておりますが、これは、ある言葉
が生まれ変わって新しい概念を獲得するときには、その言葉が書きつけられた作品自体が、それまでに書かれたあらゆる
作品とは違ったものになる、という意味でしょう。そして、そういった作品は、プルーストも書いておりますが、読み手の「ヴ
ィジョンを一新した」ことになるのです。読み手の感性を変えることになるのです。言葉が生まれ変わるときには、ぼくたち
もまた、生まれ変わるというわけなのです。言葉はそれ自身が意味するものなのですが、同時にまた、他のすべての言葉に
働きかけて、それらの意味にも影響を与えるものなのですから。一体全体、言葉が生まれ変わるとき、それが、ぼくたち
読み手に影響を与えないということがあり得るでしょうか。「私たちが本当に知っているのは、思考によって再創造されるこ
とを余儀なくされたもののみ」(『失われた時を求めて』第四篇「ソドムとゴモラ」、鈴木道彦訳)と、プルーストは書いておりま
すが、ぼくも、それが、「魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳)であり、ほんとう
に、そういった言葉だけが、永遠のいのちを持つものなのだと思っております。「俺はすべての存在が、幸福の宿命を待っている
のを見た。」(『地獄の季節』「錯乱II」、小林秀雄訳)といったランボーの言葉や、「彼に示すがいい、どんなに物らが幸福になり
得るかを、どんなに無邪気に、そして私たちのものとなり得るかを。」(『ドゥイノの悲歌』「第九の悲歌」、高安国世訳)といっ
たリルケの言葉を、この文脈の中に読み込むこともできましょう。ホフマンスタールの言葉にありますように、たしかに、「ぼ
くらの肉体を揺り動かし、ぼくらをたえまなく変身させつづける言葉の魔力のためにこそ、詩は言葉を語る。」(『詩について
の対話』檜山哲彦訳)のです。
 
 ぼくはいま、詩人とは、言葉に奉仕することしかできない存在だと考えております。詩人ができることといえば、ただ言
葉を吟味し、生まれ変わらせることだけだと。もちろん、それは、ほんものの詩人だけができることなのですが。しかし、そ
れによって、詩人もまた、永遠のいのちを得ることができるのではないでしょうか。「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠
牲にしてゆくこと、絶えず個性を滅却してゆくことである。」(『伝統と個人の才能』一、矢本貞幹訳)といった、エリオットの言
葉も、それをはじめて目にしたときには、ずいぶんと驚かせられましたが、いまでは、ごく当たり前の言葉のように思ってお
ります。しかし、言葉の方からすれば、たぶん、一人の芸術家の進歩などには興味はないでしょう。おそらく、ただ自分が
再創造されつづけることにしか関心はないでしょう。

 最近、ぼくは、こう考えています。ぼくが経験し、知るのではない。言葉が経験し、知るのである、と。すなわち、言葉が
見、言葉が聞き、言葉が触れ、言葉が感じるのである、と。言葉が目を凝らし、耳を澄まし、喜びに打ち震え、悲しみに打
ち拉がれるのである、と。なぜなら、ぼくの経験とは、言葉が経めぐったことどもの追体験にしか過ぎないと思われるから
です。そして、ぼくが知るのは、言葉が知ってからのことなのだ、と。いくら早くても、せいぜい言葉が知るのと同時といった
ところであり、それも、かろうじてそう感じられるというだけのことであって、じっさいは、言葉が知るよりも早く知ること
など、けっしてできないのですから。言葉の方が、新しい意味をもたらしてくれる人間を獲得するのです。したがって、言葉
が知っていることを言葉に教えるということほどナンセンスなことはない、ということになりましょう。そうしますと、ほん
ものの詩人と、そうでない詩人とを見分けるのは、造作もないことになります。言葉に貢献したことのある詩人だけが、ほ
んものの詩人なのですから。先生のお言葉であります、「うたげと孤心」が、いかに多くの人々の「ヴィジョンを一新した」か、
述べる必要などないでしょう。「かりにも作者の名の冠せられた文学作品は、一つの美しい「言葉の変質」なのであ」ると、三島
由紀夫は、『太陽と鉄』の中で書いておりますが、ヴァレリーは、さらに過激なことを書いております。「われわれは「言葉」そ
のものを文学的傑作中の傑作と考えることができないであろうか。」(『詩学序説』「コレージュ・ド・フランスにおける詩学の教授
について」、河盛好蔵訳)、「一個の文字が文学です。」(『テスト氏』「ある友人からの手紙」、村松剛・菅野昭正・清水徹訳)、「あ
る「語」の歴史を考察すべきである、──ある同じひとつの語の歴史、まるで四囲の偶発事に対して「自我」が応酬するとでも
いうように、同じひとつの語がいくたびもだしぬけに登場する、そうした登場の歴史を考察すべきである。」(『邪念その他』O、
清水徹訳)と。
 
 プラトンの言葉に、「人がふさわしい魂を相手に得て、その中に言葉を知とともに蒔いて植えつけるとき、その言葉のもつ種
子からは、また新たな言葉が別の新たな心の内に生まれて、つねにそのいのちを不死に保つことができる」(『パイドロス』藤沢
令夫訳)とありますが、ふと、ぼくは、ポオやボードレールの美しい顔を、マラルメやヴァレリーの美しい顔を、脳裡に思い浮
かべました。「種をまく文章があれば、収穫する文章もある。」(『反哲学的断章』丘沢静也訳)と、ヴィトゲンシュタインが書い
ておりますが、先生の詩によって、ぼくには、まことに実り豊かな収穫がもたらされました。


イヴの手が触れるアダムの胸の傷あと──大岡信『地上楽園の午後』

  田中宏輔



 主なる神はその人に命じて言われた。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べて
よろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと
死ぬであろう」。
                                (創世記二・一六‐一七)

これを愛する者はその実を食べる。
                                  (箴言一八・二一)

 ──地上楽園の午後。ここには二七篇の詩作品が収められている。わずか四行の短篇詩から二
五六行の長篇詩まで、実にさまざまな形式や内容をもった詩作品が収められている。読み手はそ
れを手に取って、こころゆくまで味わうことができる。なかで、もっとも美味なるものは、二五
六行にわたって展開される長篇詩「友だちがまた一人死んだ」である。これは、ただ筆者の憶測
にしか過ぎないが、この詩の題名にある、友だちとは、おそらく吉岡実氏のことであろう。しか
し、それにしても、この詩人の嘆きは、(あえて、この詩作品の表現主体は、とはいわない。)な
ぜ、こんなにも美味なのか。近しいものがこの世を去ることほど悲しいことはない。かつて妹の
死という悲しみが、宮沢賢治の胸のなかで、美味なる詩の果実となったように、親しい友人の死
という悲しみが、大岡信氏の胸のなかで、美味なる詩の果実となったのであろう。悲しみの果実、
その美味なる果肉を一齧り、


 《その人は種を携へ
 涙を流していでゆけど
 束を携へ
 喜びて帰りきたらん》   
 (詩篇一二六)

 そのやうに人は生まれた
 だがいつの日に
 しんじつ束を携へ
 喜びに帰りきたらん?

 生まれ落ちた瞬間から
 ぼくらは種を
 運ぶ人であるよりも
 運ばれていつか
 どこかに転がり落ちるだけの
 旅する種ではなかったか


 そうか、わたしたち自身が種であったのか。逆説的なこの詩句に、とてもつよく惹かれる。こ
ういった逆説的な視点、あるいはapproachの仕方は、大岡氏の詩法の根幹をなすものであり、
この長篇詩だけでなく、『地上楽園の午後』に収められた、すべての詩篇において一貫している。
ユリイカ76年12月号(「大岡信」特集)所収のinterview欄に、「ひとつのことを考えると、ど
うしてもその裏側を考えなくちゃいられない、そういう精神的な習性が身について」いるという、
大岡氏自身の発言があるが、改めてそのことを確認した。また、大岡氏の詩法を前掲のinterview
欄における、大岡氏自身の発言をcollageして解すると、「二元論的な問題をまずつか」み、「二
つのおよそ何か次元の違うようにみえるものを統一する視点」から詩を構築する、というような
ものであるが、同欄には、また、氏自身の、「徹底して矛盾したものが何よりもよく一致してる
ような状態があれば、それが」「絶対というもののイメージだと思う」という、何やら、三位一体
論を彷彿とさせるような言説もある。ちなみに、三位一体論とは、父と子と聖霊が神の三つの位
格であるとするキリスト教の神概念であるが、そこでは、キリストの存在とは「この世に全き人
として存在した全き神である」と定義されている。(高橋保行著「ギリシャ正教」第二章)人で
あると同時に神であるイエス・キリスト、これこそ、氏の語る、「徹底して矛盾したものが何よ
りもよく一致してるような状態」即ち「絶対というもののイメージ」そのものではないだろうか。
どうやら、大岡氏の詩精神の在り処には、聖書世界のvisionが重要な位置を占めているようで
ある。これまでも、大岡氏の詩作品の中には、詩語の出自が、聖書のどこにあるのか容易に知る
ことのできるものが多々あった。もちろん、この『地上楽園の午後』という最新詩集のなかにも、


 かんたんな話ではない
 地上のすべてを押し流す大洪水の
 まつただ中でノアのやうに
 箱舟にまる一年も閉ぢこもるなんて
                                (「箱舟時代」第一連)

という連からはじまる詩作品があり、最初に引用した「友だちがまた一人死んだ」という詩篇
のように、聖書の一節を引用し、それを軸として展開した詩行をもつ詩作品もある。「言葉の現
象と本質──はじめに言葉ありき」のなかに、氏の、

 
 われわれは自分自身のうちに、われわれを所有しているところの絶対者を、所有しているのだ。


という文章があるが、これなどは、小生に、


キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
                             (ガラテヤ人への手紙二・二〇)

という、新約聖書の聖句を思い起こさせるものであり、さらにまた、先に引用した氏の文章の
後にある、


 われわれの中に言葉があるが、そのわれわれは、言葉の中に包まれているのである。


というところなどは、パスカルのつぎのような文章を思い起こさせるものであった。

 
空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私
が宇宙をつつむ。
(『パンセ』前田陽一・由木康訳)

 パスカルは、いわずと知れた高名な自然科学者であるが、また信仰心の篤いキリスト教信者で
もあった。『パンセ』の断章三四八にある、この文章のなかの「宇宙」という言葉の背後には、
「神」の如きものの影像が垣間見える。
 
 ヨハネによる福音書一・一に、「言(ことば)は神であった。」という聖句がある。大岡氏は、
言葉は絶対者である、という。小生には、氏の見解が、福音書作者の視座に極めて近いものに
思われるが、如何なものか。

──地上楽園の午後。あらぬところに思いを馳せた午後であった。


語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン

  田中宏輔



 あるとき、atom、つまり、「原子」という言葉が、ディキンスンとホイットマンの二人の詩人の詩に使われているのを発見して、これは、おもしろいなと思ったのである。それというのも、当然、この二人の詩人が、「原子」という言葉の意味を知っていたからこそ、その言葉を使ったのであろうから、ある一つの言葉の概念が、二人の異なる性別の人間のあいだで、おおよそ、どのように捉えられていたかを知ることができるし、その言葉に対して、共通して認識されていたところだけではなく、違った受けとめ方をされていたところもあるのではないかと考えられたからである。ディキンスンは、1830年生まれ、1886年没で、ホイットマンは、1819年生まれ、1892年没で、ホイットマンのほうがディキンスンより10年ほどはやく生まれ、5、6年ほどあとに亡くなったのであるが、二人の詩人の詩のなかで、「原子」という意味で用いられている atom という言葉が出てくる箇所を比較してみよう。
まず、ディキンスンから


Of all the Souls that stand create─
I have elected─One─
When Sense from Spirit─files away─
And Subterfuge─is done─
When that which is─and that which was─
Apart─intrinsic─stand─
And this brief Drama in the flesh─
Is shifted─like a Sand─
When Figures show their royal Front─
And Mists─are carved away,
Behold the Atom─I preferred─
To all the lists of Clay!


すべての造られた魂のなかから
ただひとりわたしは選んだ
精神から感覚が立ち去って
ごまかしが終ったとき
いまあるものといままであったものとが
互いに離れてもとになり
この肉体の束の間の悲劇が
砂のように払い除けられたとき
それぞれの形が立派な偉容を示し
霧が晴れたとき
土塊のなかのだれよりもわたしが好んだ
この原子をみて下さい!
(作品六六四番、新倉俊一訳)

ホイットマンの詩では、Leaves of Grass のなかで、もっとも長い詩篇、The Song of Myself の冒頭に出てくる。


I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form'd from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.


ぼくはぼく自身を賛え、ぼく自身を歌う、
そして君だとてきっとぼくの思いが分かってくれる、
ぼくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ。

ぼくはぶらつきながらぼくの魂を招く、
ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌(も)え出たばかりの夏草を眺めやる。

ぼくの舌も、ぼくの血液のあらゆる原子も、この土、この空気からつくり上げられ、
ぼくを産んだ両親も同様に両親から生まれ、その両親も同様であり、
今ぼく三七歳、いたって健康、
生きているかぎりは途絶(とだ)えぬようにと願いつつ、歌い始めの時を迎える。

あれこれの宗旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)


 こうして二つの詩句を読み比べてみると、ディキンスンの詩においても、ホイットマンの詩においても、“atom”は「原子」であり、語彙そのままに用いられている。引用した箇所について言えば、語の受容と解釈に性差はないようだ。しかし、もしかすると、このことは、“atom”という言葉に、「原子」と「微粒物」といった、わずか二つの語意しかないという理由からかもしれない。この例をもってして、すべての言葉において、「語の受容と解釈には性差がない。」ということは言えないと思われる。したがって、このタイトルの論考は、継続して、他の言葉においても比較検討される必要があるであろう。




追記

 atomの古い形は、Old English のatomyであるが、これには、二つの意味があって、一つは、atom と同じく、「原子」や「微粒物」といった意味であるが、もう一つは、「こびと」や「一寸法師」といった意味である。Atomy が、これらの意味に用いられている例を一つずつ、シェイクスピア(1564-1616)の戯曲 Romeo and Juliet と、ポオ(1809-1849)の詩 Fairyland から見てみよう。
まず、シェイクスピアの Romeo and Juliet から引用する。


O, then, I see Queen Mab hath been with you.
She is the fairies’ midwife, and she comes
In shape no bigger than an agate-stone
On the fore-finger of an alderman,
Drawn with a team of little atomies
Athwart men’s noses as they lie asleep;
Her wagon-spokes made of long spinners’ legs,


それじゃあ、きみは夢妖精(クイーン・マブ)といっしょに寝たんだ。
あいつは妖精の女王で妄想を生ませる産婆役、
その小さなことはほら例の参事会の老人の、
指輪に輝く瑪(め)瑙(のう)の玉に負けはせぬ。
牽(ひ)いてゆくのは芥(け)子(し)粒(つぶ)ほどの侏儒(こびと)。
眠った人の鼻づらかすめ通りゆく。
あいつの馬車の輻(や)ときたら長くて細い蜘蛛(くも)の脚、
(シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第一幕・第四場、平井正穂訳)


 Shorter Oxford English Dictionary によると、atomy が文芸作品にはじめてあらわれるのは、シェイクスピアのこの戯曲らしい。ただし、atomy の複数形のatomies であるが。
つぎに、ポオの Fairyland から引用してみよう。


They use that moon no more
For the same end as before-
Videlicet, a tent-
Which I think extravagant:
Its atomies, however,
Into a shower dissever,
Of which those butterflies
Of Earth, who seek the skies,
And so come down again,
(Never-contented things!)
Have brought a specimen
Upon their quivering wings.


月のそれまでの役目──
つまり 私には
とほうもない贅沢と見えた
天幕の役目は終った──
とはいえ 月の無数の原子は
驟雨となって 微塵にちらばり、
そのささやかなかたみを、
空にあこがれて舞い上り
また舞いおりる地上の蝶が
(常に心充たされぬ その生き物が)
はるばる運んで来たのだった
おののきふるえる翅に載せて。
(ポオ『妖精の国』入沢康夫訳)



追記2 

 ポオのEUREKA のなかで、atom という言葉が出てくるもののうち、わたしがもっとも関心をもった部分を引用しておく。なぜ、わたしが、atom という言葉にこだわるのか、理解されると思うので。


Does not so evident a brotherhood among the atoms point to a common parentage? Does not a sympathy so omniprevalent, so ineradicable, and so thoroughly irrespective, suggest a common paternity as its source? Does not one extreme impel the reason to the other? Does not the infinitude of division refer to the utterness of individuality? Does not the entireness of the complex hint at the perfection of the simple?


 諸原子間のこのように明白な骨肉親和は共通な血統を指示していないでありましょうか。かくもあまねき、かくも根絶しがたき、かくもまったく偏することなき、共鳴は、その源として共通な祖先を暗示しないでしょうか。一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。無限の分割とはまったき個弧を思い浮ばせないでしょうか。まったき複雑さは完全な単純さを仄めかしていないでしょうか。
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)

 終わりのほうにある「一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。」といった言葉などは、まるでヴァレリーの言葉のようだ。いや、逆だ。反対である。ヴァレリーがポオを、そして、ボードレールを取り込んでいたのだった。この三人の詩人の考え方の根本が似通ったものであることは、2007年に上梓した拙詩集『The Wasteless Land.II』において、筆者がすでに十二分に述べているので、ここでは繰り返さない。
ちなみに、atom という単語が、EUREKA のさいしょに出てくるのは、つぎのところである。


The assumption of absolute Unity in the primordial Particle includes that of infinite divisibility. Let us conceive the Particle, then, to be only not totally exhausted by diffusion into Space. From the one Particle, as a centre, let us suppose to be irradiated spherically ─ in all directions ─ to immeasurable but still to definite distances in the previously vacant space ─ a certain inexpressibly great yet limited number of unimaginably yet not infinitely minute atoms.


 原始微粒子における絶対的単一可分性なる仮説を意味することになります。それゆえ空間への拡散によって、微粒子がほとんどまったく消耗しきってしまったと考えてみましょう。唯一の微粒子を中心としてあらゆる方向に──すなわち球状に──先ほどまでは空(くう)であった空間の、測り知れぬ、しかしなお限定された領域内に──言葉につくせぬほど多いがなお限られた数の、想像の許されぬほど微細だがなおいまだ無限に小なりとは言えぬ原子群が、放射されたと想像いたしましょう。
(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)

 この訳のなかで、1番目と2番目に出てくる「微粒子」と「単一」、そして、1番目に出てくる「空間」は太字である。1880年に、John H. Ingram によって編集された4巻本の Poe 全集の原文では、その個所が斜体文字になっているわけでもないのだが、訳文において太字になっているのは、翻訳者の気まぐれからだろうか、わからない。

 Shorter Oxford English Dictionary で調べたら、Middle English のatom という言葉が文献にはじめて掲載されたのは、科学論文で、1477年のことだった。15世紀の終わりである。原子論の存在は、ギリシア哲学に出てくるものであるから、一部の知識人は、そうとうむかしから知っていただろうが、一般に普及したのは、Shorter Oxford English Dictionary に、In popular use として、A particle of dust, or a mote in the sunbeam (arch.) 1605. と、A very minute portion, a particle, a jot 1630. と、Anything relatively very small; an atomy 1633. の3例が載っていたので、おそらく、17世紀以降であろう。文学作品での初出は、『ガリヴァー旅行記』を書いた、スウィフト(1667ー1745)のつぎの言葉だった。That the universe was formed by a fortuitous concourse of atoms, I will no more believe than that the accidental jumbling of the alphabet would fall into a most ingenious treatise of philosophy. 『ガリヴァー旅行記』の第三篇の第五章に、百科学の完全な体系をつくりだそうとしている学士院の教授と学生たちが、あらゆる単語を書いた紙を機械操作でランダムに並べたものを収集しているシーンが出てくるのだが、この言葉は、『ガリヴァー旅行記』からのものではなかった。A Tritical Essay upon the Faculties of the Mind(精神機能についての陳腐な随想1707年-1711年)というものに書かれたものらしい。ここ → http://t.co/dcqWz7B ポオの生没が 1809年-1849年なので、ポオが生まれる100年ほどまえに、スウィフトが atom という単語を使ったことになる。

 Shorter Oxford English Dictionary のatom の項目には、Swift のほかに、 Tyndall と Byron の言葉も載っていた。それぞれ、Atoms are endowed with power of mutual attraction’、Rays of light Peopled with dusty atoms’というものであった。チンダルは、JOHN TYNDALL で、引用した言葉は、http://t.co/OvxVZ9A1 で読めるようだ。科学論文である。バイロンの引用は、Shorter Oxford English Dictionary の記述が間違っていた。辞書に引かれていたものは、The Two Foscari という戯曲の Act III にある言葉を勝手につないだもののようだ。もとのものは、http://t.co/pGBImHbx にあるが、atom を含んで、意味の通じる部分を4行だけ抜いてみよう。But then my heart is sometimes high, and hope/Will stream along those moted rays of light/Peopled with dusty atoms, which affored/Our only day; for, save the gaoler's torch,

 しかし、なぜ、わたしは、こんなにも、atom という言葉に魅かれるのか。「原子」という言葉に魅かれるのか。原子と原子が結合する場合、まあ、イオンとイオンでもいいのだけれど、それは話がややこしくなるので、いまは、原子と原子にしておく、原子と原子が結合する場合、この場合も、共有結合なのか、イオン結合か、あるいは、その両結合の配分がどれくらいの比率であるかというのはさておいて、たとえば、A原子とB原子が1:1の比で結合する場合もあれば、それ以外の整数比で結合する場合もあるであろうし、A原子とB原子とC原子・・・という具合に、多数の原子が結合したり、また結合しなかったりするだろう。それは物質のもっているエネルギー(ポテンシャルエネルギー)と物質に与えられるエネルギー(おもに熱エネルギー)によるだろう。また、2個の原子で1個の分子をつくることもあれば、数百万の原子でポリマーのように1個の分子をつくることもあるだろう。すべては、物質それ固有の状態(ポテンシャルエネルギー)と、与えられる条件(おもに熱エネルギー)によるだろう。結びつく場合もあるし、結びつかないこともある。このことは、わたしに、思考に関する、ひじょうにシンプルな1つのモデルを思い起こさせる。わたしは、学部生の4回生と院生のときに、電極反応の実験をしていたのだが、その実験では、まさに、結びつく物質の固有の性質(おもにポテンシャルエネルギーによるもの)と与えられた条件(電位差による電気エネルギー)によって生成される物質が異なっていたのである。もちろん、思考の生成過程というものは、おそらく、このような原子衝突モデルや、イオン衝突モデルよりは、ずっと複雑なものであるとは思われるのだが。ところで、わたしの行っていた実験では、もとの物質と生成物とのあいだに、中間体の存在が確認されていたし、それは遷移状態とも言われていたものであるが、思考もまた、言語化されるまえの状態、あのもやもやとした状態も、これに似た感じのものなのではないだろうか。思考における中間体、遷移状態のようなものがあるとしたら、この状態に励起するものがなになのか考えるとおもしろい。ああ、しかし、ぼくの行った実験では物質と物質の結合である。物質と物質だけの結合であると強調してもよい。では、思考は、ただ言語と言語が結びつくだけのことなのだろうか。思考が言語化され、表現として言い表されたときには、いかにもそのように見えるだろう。だが、表現にいたるまでの過程で、言葉と言葉を結びつけるさいには、おそらく化学結合における条件、すなわち与えられる熱エネルギーや、圧力などの物理条件に照応するようなものがあるであろう。それが、たとえば、色や形といった姿の記憶であったり、匂いや音や味や感触といった感覚器官の記憶であったりすることもあるであろうし、現に、ただいま、思考中に感覚器官を刺激する感覚であったりすることもあるであろう。唐突に思われるかもしれないが、わたしは、ツイッターが大好きである。ひとのツイットを見て、自分の記憶が刺激されたり、詩や論考のちょっとしたきっかけを与えられることがよくあるのである。ツイッター連詩というものに参加したことが何度かあるが、それにも、大いに刺激され、つぎつぎと、わたしも詩句を書きつけていった。楽しかった。なぜなら、そのわたしが打ち込んでいった詩句は、どれもみな、わたしひとりが部屋に閉じこもっていたままでは、けっして書くことのできなかったものであろうからである。自分ひとりでは、けっして思いつくことができなかったであろう詩句を書きつけていくことができたからである。わたしたちは、機械ではないし、ましてや、コンピューターではない。並列につなぎ合わせられるわけではないが、なにか、それに似たようなこと、精神融合のような現象が起こっているのではないかと、わたしには思われたのである。勝手な思い込みであることは重々承知しているのだが、少なくとも、連詩を書いていたわたしたちのあいだでは、ちょっとした思考のもとになるもの、その欠片のようなものが交わされあっていたような気がするのである。このことがさらに促進されると、おそらく、わたしたちは、つぎのようなものになるであろうと思われたのである。わたしたち、ひとりびとりが、花のようなものであり、蜜のようなものであり、蜂のようなものであると。ツールであるネットワークは、気候であり、花畑であり、花であり、蜜であり、蜂であり、蜂の巣であり、それから蜜を採集する遠心分離機に似た機械であり、それを味わう食卓であり、人間であると。ところで、ミツを逆さにつづると、ツミになる。蜜は簡単に罪になるのである。ネットワークが疫病のように害悪となることもある。わたしたちは、つねに、ネットワークを比較衡量できる手段を傍らにもっていなければならない。それが、教養であり、学問であり、知恵である。それらを傍らに手控えさせておかなければならない。ところが、それが、なかなか容易なことではないのである。教養も学問も知恵も、一般に身につけることが困難なもので、しかも身につけたからといって、それが直接の利益をもたらせることも稀なのである。わたしも、わたしのもつ文学的な教養で、利益を得たことなどまったくない。


地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。
(アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)

偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。
(ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)

聡明さとはすべてを使用することだ。
(ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)

あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ
(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)

すべての対象が美の契機を孕んでいる
(保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)

普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる
(ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)

すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか
(ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)

芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す
(ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)

 ここで、ふと、ボードレールが、自分の母親宛てに送った手紙の言葉が思い出された。引用してみよう。


 僕は、信じ難いほどの共感を僕にひき起こした一アメリカ作家(割注 エドガー・アラン・ポオ)を見つけ、そして僕は彼の生涯と作品とについて二つ記事を書きました。それは熱を込めて書いてあります。だがきっとそこには何行かいくらなんでも異常な興奮過度の個所が見つかるでしょう。それは僕の送っている苦痛に充ち気違いじみた生活の結果です。
(ボードレールの書簡、母宛、一八五二年三月二十七日土曜日午後二時、阿部良雄・豊崎光一訳)

今や何故、僕をとりかこむ怖るべき孤独のただ中で、僕がかくも良くエドガー・ポオの天才を理解したか、また何故僕が彼の忌わしい生活をかくも見事に描いたか、お分りになる筈です。
(ボードレールの書簡、母宛、一八五三年三月二十六日土曜日、阿部良雄・豊崎光一訳)

 さらに、ボードレールが、ポオの『モルグ街の殺人』について述べているところを引用してみよう。わたしがポオの『ユリイカ』に魅かれた理由を、その言葉がより適切に語ってくれているように思うからである。


 思考の極度の集中により、また悟性によるあらゆる現象の順を追った分析によって、彼は観念の発生の法則をものにすることに成功した。一つの言葉と他の言葉の間、うわべはまったく無縁にみえる二つの観念の間に、彼はその間にひそむ全系列をたてなおすことができ、また表にでておらずほとんど無意識的な諸観念のすき間を眩惑された人々の眼前でみたすことができる。彼は事象のあらゆる可能性とあらゆる蓋然的なつながりとをふかく究めた。彼は帰納から帰納へとさかのぼり、ついに犯罪をおかしたのは猿であることを決定的に立証するにいたる。
(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)

「ふかい愛憐の気持から発しているものであるがゆえに、私ははばからずに語るのであるが、よっぱらいであり、まずしく、迫害され、のけものであったエドガー・ポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』4、平井啓之訳)「詩人はその思索のはてしない孤独のなかに入ってゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』2、平井啓之訳)「彼の文体は純粋で、その思想にぴったりしていて、思想のただしい形をつたえている。ポオはつねに精確であった。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)「すべての観念が、思いのままになる矢のように、おなじ目的に向って飛んでゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)ボードレールがポオに共感したところのものと、わたしがポオに共感したところのものがまったく同じものであるとは言わないが、ほとんど同じものであったような気がする。キーワードは、「孤独」と「思索」である。このように、人間というものは、考えつくすためには、まず孤独であらねばならないのだ。

 Let me now repeat the definition of gravity: ─ Every atom, of every body, attracts every other atom, both of its own and of every other body, with a force which varies inversely as the squares of the distances of the attracting and attracted atom. この引用は、ポオの『ユリイカ』からで、罫線のあとのアルファベットは斜体文字である。ここの訳文は、「今一度重力の定義をくり返しておきましょう、──「あらゆる物体の、あらゆる原子は、その原子間の距離の自乗に逆比例して変化する力で、自らと任意の他の物体とを問わず、自己以外の、すべての原子を牽引する」(訳文の鉤括弧内の言葉にはすべて傍点が付加されている。牧野信一・小川和夫訳) Had we discovered, simply, that each atom tended to some one favorite point ─ to some especially attractive atom ─ we should still have fallen upon a discovery which, in itself, would have sufficed to overwhelm the mind: ─ but what is it that we are actually called upon to comprehend? That each atom attracts ─ sympathizes with the most delicate movements of every other atom, and with each and with all at the same time, and forever, and according to a determinate law of which the complexity, even considered by itself solely, is utterly beyond the grasp of the imagination of man. 「単に、各原子が、ある一つの選ばれた地点に、──あるとくに牽引力の強い一つの原子に、引きつけられるという事実を発見したと仮定してさえも、その発見はそれだけで精神を圧倒するに充分だったことでありましょう。──が、私たちがただ今理解せよと命じられていることはいったいいかなることなのか。すなわち、各原子が牽引し──他のすべての原子のこの上なき微妙な運動に共鳴し、それ一つだけを考えてみても人間想像力の把握をまったく許さぬ複雑さを持った法則に従って、他の一つびとつ、あらゆる原子と、同時に、かつ永遠に、共鳴するということです。」(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)そうなのだ、わたしがポオに魅かれる最大の理由が、このさいごに引用したポオの言葉のなかにあるのだ。自我とかロゴス(形成力)とかいったものの源が論理や法則にあるということを、わたしは確信しているのだった。

 窮屈な思考の持ち主の魂は、おそらく、自分自身の魂だけでいっぱいなのだろう。あるいは、他者の魂だけでいっぱいなのだろう。事物・事象も、概念も、概念想起する自我やロゴス(形成力)も、魂からできている。それらすべてのものが、魂の属性の顕現であるとも言えるだろう。わたしたちは、わたしたちの魂を事物・事象や観念といったものに与え、事物・事象や観念といったものからそれらの魂を受け取る。いわば、魂を呼吸しているのである。魂は息であり、息は魂である。わたしたちは息をするが、息もまた、わたしたちを吸ったり吐いたりしているのである。息もまた、わたしたちを呼吸しているのである。魂もまた、わたしたちを呼吸しているのである。あるいはまた、呼吸が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。息が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。貧しい思考の持ち主の魂は、自分自身の魂だけでいっぱいか、他者の魂だけでいっぱいだ。生き生きとした魂は、勢いよく呼吸している。他の事物・事象、観念といったものの魂と元気よく魂のやりとりをしている。他の魂を受け取り、自分の魂を与えているのである。生き生きとした魂は、受動的であると同時に能動的である。さて、これが、連詩ツイットについて、わたしが考えたことである。ツイッター連詩に参加していたときの、あの魂の高揚感は、受動的であると同時に能動的である、あの自我の有り様は、他者の魂とのやりとり、魂の受け取り合いと与え合いによってもたらされたものなのである。言葉が、音の、映像の、観念の、さいしょのひと鎖となし、わたしの魂に、わたしの魂が保存している音を、映像を、観念を想起させ、つぎのひと鎖を解き放させていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的であり、かつ能動的な活動状態にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだと言えよう。ツイッター連詩に参加していたときのわたしの魂の高揚感は、あの興奮は、魂が励起状態にあったから起こったのだと思われる。というか、そうとしか考えられない。能動的であり、かつ受動的な、あの活動的な魂の状態は、わたしの魂がはげしく魂を呼吸していたために起こったものであるとしか考えられないのである。あるいは、あの連詩ツイットの言葉たちが、わたしの魂を呼吸していたのかもしれない。そうだ。あの言葉たちが、わたしの魂を吸い込み、吐き出していたのだ。しばしば、わたしが忘我の状態となるほどにはげしく、あの言葉たちは、わたしを呼吸していたのだった。

 長く書いてしまった。もう少し短く表現してみよう。ツイッター連詩が、思考に与える効果について簡潔に説明すると、つぎのようなものになるであろうか。目で見た言葉から、わたしたちは、音を、映像を、観念を想起する。これが連鎖のさいしょのひと鎖だ。そのひと鎖は、そのときのわたしたちの魂が保存していた音や映像や観念を刺激して呼び起こす。それは、意識領域にあるものかもしれないし、無意識領域にあるものかもしれない。いや、いくつもの層があって、その二つだけではないのかもしれない、多数の層に保存されていた音や映像や観念を刺激し、つぎのひと鎖を連ねるように要請するのである。つぎのひと鎖の音を、映像を、観念を打ち出させようとするのである。このとき、脳は受動的な状態にあり、かつ能動的な状態にある。つまり、運動状態にあるということである。これは、いわば、魂が励起された状態であり、わたしが、しばしば歓喜に満ちて詩句を繰り出していたことの証左であろう。いや、逆か、しばしば、わたしが詩句を繰り出しているときに歓喜に満ちた思いをしたのは、魂が励起状態にあったからであろう。おそらく、脳が活発に働いているというのは、こういった状態のことを言うのであろう。受動的であり、かつ能動的な状態にあること、いわゆる運動状態にあるということだろう。もちろん、連詩ツイットには、書かれていた言葉は一つだけではないので、さまざまな言葉が、読み手の目のなかに、こころのなかに飛び込んでくる。穏やかであった魂の海面をいきなり波立たせるのである。いくつもの言葉がつぎつぎと音となり、映像となり、観念となって、読み手の魂を泡立たせるのである。魂は活性化され、波打ち、泡立ち、魂の海面に、そしてその海面の下に保存していた音を、映像を、観念をおもてに現わし、飛び込んできた音や映像や観念と突き合わせ、自らのうちに保存していた音や映像や観念と連鎖的に結びつけていく。魂の海は、活性化され、波打ち、泡立ち、自ら保存していた音や映像や観念たちをも互いに結びつけていく。まるで噴水のようだ。連詩ツイットのもっとも美しいイメージは、この魂の波打ち、泡立ち、活性化されたもの、噴水にも似たきらめきを放つものだ。日の光の踊る波打ち、泡立つ、海の水。日の光がきらめき輝く、波打ち、泡立つ、海の波のしぶき。まるで噴水のようだ。これが魂の海の騒ぎ、活性化された魂の形容だ。励起状態の魂の形容である。連鎖のひと鎖ひと鎖が、日の光であり、海の水のしぶきであり、それを見つめる目なのだ。

 ふだんの生活のなかでも、いくつかの拘束原理に引き裂かれながら、わたしたちは生きている。それを自覚しているときもあれば、自覚していないときもある。ツイットされた連詩を目にしたとき、その詩句を目にしたときに、自分とは異なる自我が繰り出した言葉を目にして、自分とは違ったロゴス(構成力)によって結びつけられた言葉を読んで、こころが沸き立ち、自らの自我を、自らのロゴス(構成力)と衝突させたり、混ぜ合わせたりして、同時的に、おびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)を獲得していったのだろう。あの歓喜は、興奮は、そのおびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)によってもたらされたものなのであろう。生成すると同時に消滅しゆく、あのつぎつぎと生まれては死んでいくいくつもの自我とロゴス(構成力)たち。まさしく、あれは噴水のようであった。魂の海を波立たせ、泡立たせた、あの興奮のあとも、あの歓喜の調べは、わたしのなかで、いまも少しくつづいている。そうだ。以前に、ある一人のゲイの詩人の英詩を翻訳しているときに、 water に、「波のような形を刻みつける」という意味があることを知った。たしか、「魂に波のような皺を刻む」と訳したように記憶している。皺は物質そのものではない。形状のことだ。折れ目と同様に。しかし、それは実在し、目に見えるものなのだ。では、魂の皺もまた魂ではないというのであろうか。わたしのこころの声は、それは違うと言う。思考傾向というものを自我やロゴス(構成力)と同一視することはできないが、きわめて近いものであるとは思われる。これは「理系の詩学」にも書いたことだが、鉄の針を、磁石で一方向に何度もなでつけてやると、その鉄の針が磁力をもつことを、わたしに思い起こさせる。わたしたちの自我とかロゴス(構成力)といったものは、そんな針のようなものでできているのだろうか。そんな針をいくつも、たくさん、わたしたちは持っているのだろうか。しかもその針に磁力をもたらせる磁石の磁力の種類は二種類とは限らない。いくつもの、たくさんの種類の磁力が、磁極が存在するのであろう。磁化されたわたしたちの鉄の針もまた、他者の鉄の針を磁化することになるであろう。互いに磁化し、互いに磁化される、そうした、複数の、おびただしい数の針と磁力からなる、わたしたちの魂の層の複雑さに思いを馳せると、認識の眩暈がする。

 ところで、無数の針でできた魂といえば、かつて、わたしが書いた、わたしの詩句を思い出す。「わたしとは、棘(きよく)皮(ひ)を逆さに被ったハリネズミである。」しかし、これは真実からほど遠いものであったようだ。真実は、こうだったのだ。

「わたしとは、無数の針である。」

と。


詩の日めくり 二〇一七年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一七年四月一日 「ある注」


ディラン・トマスの268ページの全詩集のページ数に驚いている。こんなけしか書いてないんやと。散文はのぞいてね。こんなけなんや。ぼくはたくさん書いてるし、これからもたくさん書くだろうけれど。あした、新しい『詩の日めくり』を書いて、文学極道の詩投稿欄に投稿しよう。

左手の指、関節が痛いのだけれど、これって、アルコール中毒の初期症状だったっけ? まあ、いいや。齢をとれば、関節が痛くなったって、あたりまえだものね。いまから日知庵に行ってきませり。


二〇一七年四月二日 「担担麺」


日知庵から帰ってきて、セブイレで買ったカップラーメンの担担麺を食べた。帰りは、えいちゃんと西院駅までいっしょ。日知庵では、きょうも、Fくんと楽しくおしゃべり。さて、いまから、あしたの夜中に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』の準備をして眠ろう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月三日 「孤独」


チャールズ・シェフィールドのSF短篇連作集『マッカンドルー航宙記』を読んでいたら、眠れなくなった。どうしよう。とりあえず、自販機のところまで行って、ヨーグリーナを買ってこよう。3月になって、毎晩のようにお酒を飲んでいると、夜中に、もう明け方近くだけれど、これが飲みたくなるのだ。

孤独ともあまりにも長いあいだいっしょにいると、さも孤独がいないかのような気分になってしまうもので、孤独の存在を忘れてしまい、自分が孤独といっしょにいたことさえ忘れ去ってしまっていることに、ふと気づかされたりすることがある。音楽と詩と小説というものが、この世界に存在するからだろう。


二〇一七年四月四日 「メモ」


わけのわからないメモが出てきた。日付けはない。夢の記述だろうと思う。走り書きだからだ。「足に段がなくても/階段はのぼれ」と書いてあった。「のぼれる」ではなくて「のぼれ」でとまっているのは、書いてまたすぐに睡眠状態に入った可能性がある。まあ、ここまで書いて、また眠ったということかな。


二〇一七年四月五日 「ミステリー・ゾーン」


いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ。寝るまえの読書は、なににしようかな。きのう、『ミステリー・ゾーン』をぱらぱらめくってた。2つめの話「歩いて行ける距離」が大好き。きょうは、『ミステリー・ゾーン』の2や3や4をぱらぱらめくって楽しもうかな。もう古いものにしか感じなくなっちゃったのだけれど、しばらくしたら、英米の詩人たちやゲーテについて書くために、海外の詩集を読み直そうと思う。すでに書き込みきれないくらいのメモがあるのだけれど、それらは読み直しせずに、新たな目でもって海外の詩人の作品を読み直したいと思う。ぼくはやっぱり海外の詩人が好きなのだな。


二〇一七年四月六日 「大岡 信先生」


いま日知庵から帰った。大岡 信先生が、きのうの4月5日に亡くなっていたということを文学極道の詩投稿欄のコメントで知ったばかりだ。きのうと言っても、いま、6日になったばかりの夜中で、きょうもヨッパであるが、大岡 信先生は、1991年度のユリイカの新人に、ぼくを選んでいただいた選者であり、大恩人である。じっさいに何度かお会いして、お話もさせていただいた方である。これ以上、言葉もない。


二〇一七年四月七日 「ブライトンの怪物」


SF短篇を思い出してネットで検索している。どの短篇集に入っているかわからないのだ。タイムスリップした広島の原爆被害者(入れ墨者)が、化け物扱いされてむかしのイギリスに漂着した話だ。悲惨なSFなのだが、持ってる短篇集にあるのだろうが、あまりに数が多すぎて何を読んだかわからないのだ。

あった。偶然手に取ったジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』に入っていた。「ブライトンの怪物」というタイトルだった。そうそう。気持ち悪いのだ。それでいて、かわいそう。これ読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月八日 「遅れている連中」


シェフィールドの『マッカンドルー宙航記』を読み終わった。たいしておもしろくなかった。

文学極道のコメント欄で、ぼくの『詩の日めくり』が日記だから、詩にならないと主張する者が現われた。まあ、しじゅう現われるのだが、詩に多様性を認めるぼくの目から見たら、何十年、いや百年は遅れている連中だなと思う。紙媒体で、そんな批判されたことなどないけれど、ネットのほうが遅れているのかなという印象をもつ。ぼくの『全行引用詩』も、しじゅう、文学極道で、詩ではないと言われる。いったい詩とは何か。ぼくは拡張主義者であるのだが、せまい領域に現代詩の枠をはめておきたい連中がいるのである。遅れているだけでなくて、ぼくのようなものの足を引っ張るのはぜひやめてくれと言いたい。


二〇一七年四月九日 「桜の花びら」


これから朝マックに。きのうは、コンビニの弁当とカップラーメン。弁当、はじめて買ったやつで超まずかった。ロクなもの、食べてないな。

いま大谷良太くんちから帰った。昼はベーコンエッグ、夜はカレーをご馳走になった。ありがとうね。5階のベランダでタバコを吸っていると、桜の花びらが隅に落ちていたので見下ろすと、桜の木のてっぺんが10メートルほど下にあって、ああ、風がこんな上の方にまで運んだのだなと思った。彼が住んでいる棟は、たしか10階まであったと思うんだけど、いったい何階まで風によって桜の花びらがベランダに運ばれているのかなと思った。「きょうは、きのうまでと違って、寒いね。」と言うと、大谷くんが、「花冷えと言うんですよ。」ぼくはうなずきながら、ああ、花冷えねと返事をした。花冷えか。考えると、不思議な言葉だ。花が気温を低くするわけでもないのにね。そういえば、きょう、桜の花が満開だったけれど、明日は雨だそうだから、きっと、たくさんの桜の花びらが散るだろうね。むかし、と言っても15年ほどむかしのことだけど、高瀬川で桜の花びらが、つぎつぎと流れてくるのを目にして、ああ、きれいだなって思ったことがあるんだけど、そのことをミクシィの日記に書いたら、ある方が、「それを花筏と言うんですよ。」と書いて教えてくださった。その経緯については、2014年に思潮社オンデマンドから出したぼくの詩集『ゲイ・ポエムズ』に収録したさいごの詩に書いている。花筏。はないかだ。波打つ川面。つぎつぎと流れ来ては流れ去ってゆく桜の花びら。ぼくが20代のときに真夜中に見た、道路の上を風に巻かれて、大量の桜の花びらがかたまって流れてくるのを見たときほどに、美しい眺めだった。花など、ふだんの生活のなかで見ることはないだけに、ことさら目をひいた。そいえば、おしべとか、めしべとかって、動物にたとえると、生殖器のようなもので、花びらって、そのそとにあるものだから、さしづめ、花のパンツというか、パンティーみたいなものなのだろうか。風に舞う数千枚のパンツやパンティー。川面を流れるカラフルなパンツやパンティーを、ぼくの目は想像した。

きょう、Amazon で販売しているぼくの詩集『詩の日めくり』(2016年・書肆ブン)に、商品説明文がついた。「田中宏輔、晩年のライフワーク。21世紀の京都・四条河原町に出現したイエス・キリスト。『変身』の主人公、グレゴール・ザムザの変身前夜の物語。日本が戦争になっている状況。etc...詩や詩論、翻訳や創作メモを織り混ぜた複数のパラレルワールドからなる、「日記文学」のパロディー。」っていうもの。いまでも、『詩の日めくり』では、いろいろな実験を行っているが、書肆ブンから出された、第一巻から第三巻までのころほど奇想天外なものはなかったと思っている。

きょう、大谷良太くんに見せてもらった小説の冒頭を繰り返し読んでいて、ああ、ぼくもさぼっていないで、書かなくては、という気にさせられた。というわけで、これから5月に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをする。これって、とても疲れるのね。自由連想で詩を書くほうが百倍も楽ちんだ。打ち込み間違いなく打ち込もうとすると、目が疲れるし、目が疲れると、頭が疲れるし。いいところは、かつてこのようなものをぼくは栄養にしていたのだったと確認できることと、文章の意想外の結びつきに連想される情景がときには尋常ではない美しさを持つこととかかな。


二〇一七年四月十日 「完壁」


奥主 榮さんから、詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』(モノクローム・プロジェクト発行)を送っていただいた。ぼくははじめ、目次のタイトルをざっと見て、あとがきをはじめに読むタイプなので、いつもどおりに、そうしてみた。目次には、ぼくならつけないようなタイトルが並んでいた。 それはべつに読むときにマイナスなわけではなく、逆に、どんな詩をかいてらっしゃるのだろうかという興味をそそるものだった。詩集全体は、たとえば、「路面」というタイトルの詩にある「誰もが小さな一日を重ねる」だとか、「長く辛い時代を歩かなければならないから」というタイトルの詩にある「誰とも何ものかを分かち合うことなく/群れることなく 毎日の重さに/耐えていくしかなく」といった詩句に見られるような、社会と個人とのあいだの葛藤を描出したものが多く、しかも使われる用語が抽象的なものが多くて、具体的な事柄がほとんど出てこないものだった。いまのぼくは、ことさらに具体的な事柄に傾斜して書くことが多いので、その対照的な点で関心を持った。「風はまだ変わらないのに」といったタイトルの詩のようにレトリカルなものもあるが、「おいわい」というタイトルの詩にあるように、奥主 榮さんの主根はアイロニーにあると思う。とはいっても、「いきもののおはなし」という詩にある「生きるということは/その一つの身体の中で/完結してしまうものではなく/世界とかかわりつづけることなので」という詩句にあるように、向日性のアイロニーといったものをお持ちなのだろう。冒頭に置かれた「昔、僕らは」というタイトルの詩に、「咲き乱れる さくら」という詩句があって、きょうのぼくの目が見た桜の花を思い起こさせたのだった。ついでに、も一つ。3番目に収められた「ぬくぬくぬくとこたつむり」という詩の第一行目に、「紫陽花」という言葉があったのだが、27、8歳まで詩とは無縁だったぼくは、「紫陽花」のことを「しようばな」と音読していたのであった。「紫陽花」が「あじさい」であることを知るには、自分がじっさいに、「あじさい」という言葉を、自分の詩のなかで使わなければならなかったのである。30代半ばであろうか。たしか、シリーズものの「陽の埋葬」のなかの1つに使ったときのことであった。そいえば、ぼくは28歳になるまで、「完璧」の「璧」を、ずっと「壁」だと思っていたのだけれど、という話を、日知庵かどこかでしたことがあって、「ぼくもですよ。それ知ったの社会に出てからですよ。」みたいな言葉を耳にした記憶があって、なんだか、ほっとした思いがしたことがあったのであった。自分の作業(『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み)に戻るまえに、さいごに、も1つ。詩集『白くてやわらかいもの、をつくる工場』の著者、奥主 榮さんのご年齢が奥付を見てもまったくわからないのだが、語彙の選択から見て、ぼくとそう変わらないような気がしたのだけれど、どうなのだろう?若いときには、ぼくは、作者の年齢などどうでもよいものだと思っていたのだが、56歳にもなると、なぜだか、作者の年齢がむしょうに気になるのであった。理由はあまり深く考えたことはないのだけれど、さいきん、ぼくと同じ齢くらいの方の詩に共感することが多くて、っていうのがあるのかもしれない。

ひとと関わることによって、はじめて見る、聞く、知ることがあるのである。

PCを前にして過ごすことが多くなった。毎晩のように飲みに行ってたけど、あしたからは、そうはいかない。きょうは、これで作業を終えて、PCを切って寝る。おやすみ、グッジョブ! きょう、ワードにさいごに入力したのは、タビサ・キングの『スモール・ワールド』の言葉だった。笑ける作品だった。


二〇一七年四月十一日 「Rurikarakusa」


4時30分くらいに目がさめた。学校が始まる日は、たいてい4時30分起き。緊張してるのかな。部屋を出るまで時間があるので、新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしていよう。それで疲れないように適当に。

5月に文学極道の詩投稿掲示板に投稿するさいしょの『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わった。さて、これから着替えて、仕事にいく準備だ。めっちゃ緊張する。

仕事から帰ってくると、郵便受けに、あの江戸川乱歩の小説みたいな詩を書いてらっしゃる草野理恵子さんから、同人誌『Rurikarakusa』の4号を送っていただいていた。お便りと、同人誌に掲載されている2つの詩を読ませていただいた。「飲み込んだ緑の馬を吐き出してみたが/半分溶けていたので仕方なくまた飲み込んだ」といった詩句や、「のっぺらぼうに与える/今日の模様は切ったスイカだった」といった詩句で、ぼくを楽しませてくださった。「緑色の馬/スープ」という作品の冒頭3行は、大いに、ぼくも笑った。「緑色の馬が妻と子をのせて部屋の中を回っている/曲芸のつもりなのだろうか/僕を笑わせようとしているのだろうか」こんな光景は現実的ではないが、ぼくの創造の目は、たしかに妻と子をのせた緑色の馬が部屋の中を回っているのだった。草野理恵子さんのは奇譚の部類になるのかな。あるいは、怪奇ものと言ってもいいと思う。そのグロテスクな光景に、なにゆえにかそそられる。
ご同人に、青木由弥子さんという方がいらっしゃって、その方の「現況」という詩のなかの第3連目に大いに考えさせられるところがあった。「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」というところだけれど、短歌や俳句で、ときおり「空の底」という表現に出くわす。「空に沈む」とかもだけれど、「空の底にたどりついたら」という発想は、ぼくにはなかった。これは、ぼくがうかつだという意味でである。考えを徹底させるという訓練が、56歳にしてもまだまだ足りないような気がしたのであった。訓練不足だぞという声掛けをしていただいたようなものだ。貴重な経験だった。すばらしいことだと思う。知識を与えられたということだけではなく、考え方を改めさせられたということに、ぼうは目を見開かされたような気がしたのだった。これから、なにを読んだり、なにかをしたり、見聞きしたときにも、この経験を活かせるように、自己鍛錬したいものだと思った。できるかどうかは、これからの自分の心がけ次第だけれどもね。草野理恵子さんのお便りと同人誌の後書きにも書いてあったのだけれど、草野理恵子さんの息子さんがSF作家らしくて、ご活躍なさっておられるご様子。親子で文学をしているって、まあ、なんという因果なのでしょうね。ぼくも父親の影響をもろにかぶっているけれども。でも、ぼくの父親は書くひとではなくて、読むひとであったのだけれど。ぼくの小学校時代や中学校時代の読み物って、父親の本棚にあるものを読んでいたので、翻訳もののミステリーとかSFでいっぱいだった。ぼくよりずっと先にフィリップ・K・ディックを読んでいるようなひとだった。亡くなって何年になるのだろう。親不孝者のぼくは知らない。たしか亡くなったのは、平成19年だったような気がするのだけれど、『詩の日めくり』のどこかに書いたことがあるような気がするのだけれど、正確に思い出せない。そだ。いくよいく・ごおいちさん。平静19年4月19日の朝5時13分だったような気がする。そだそだ。朝5時15分だったら、「いくよいく・ごお・いこう」になるのに、あと2分長く生きていてくれたらよかったのになって思ったことを思い出した。父親が亡くなったときの印象は、遺体はたいへん臭いというものが第一番目の印象だった。強烈に、すっぱい臭さだった。びっくりしたこと憶えてる。父親の死は何度も詩に書いているけれど、実景にいちばん近いのは、ブラジル大使館の文化部の方からの依頼で書いた、「Then。」だろう。のちに、「魂」と改題して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収めた。その批評を、藤 一紀さんに書いていただいたことがあった。のちに、澤あづささんがもろもろの経緯を含めて、みんなまとめてくださったページがあって、この機会に読み直してみた。よかったら、みなさんも、どうぞ見てくだされ。こちら→http://blog.livedoor.jp/adzwsa/archives/43650543.html

ありゃ、『Then。』は、『偶然』というタイトルに変更して、『詩の日めくり』のさいしょの作品に収録していたものだった。『魂』は、べっこの作品だった。塾からいま帰ったのだけれど、塾の行きしなに、あれ、間違えたぞってなって、部屋に戻ってたしかめた。藤 一紀さん、澤 あづささん、ごめんなさい。

きょう、学校で、昼間、20冊の問題集と解答をダンボール箱に入れて、2回運んだんだけど、ここ数十年、重いものを持ったことがほとんどなかったので、腰をやられたみたい。痛い。お風呂に入って、クスリを塗ったけれど、まだ痛い。齢だなあ。体重が去年より8キロも増えていることも原因だと思うけれど。

きょう、塾からの帰り道、「ぼくを苦しめるのは、ぼくなんだ。」といった言葉がふいに浮かんだ。「だったら、ぼくを喜ばせるのも、ぼくじゃないか。なんだ。簡単なことかもしれないぞ。やり方によっては。」などと考えながら帰ってきたのだが、どうだろう。やり方など簡単に見つからないだろうな。

腰が痛いので、もう一度、お風呂に入って、あったまって寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月十二日 「現況」


きょう、機会があって、金子光春の詩を読んで、いったい、ぼくは、なんでこんなすごい詩人をもっと読まなかったんだろうなって思った。「ぼくはあなたのうんこになりました」みたいな詩句に出合っていたのに、なぜ見逃していたんだろう。ってなことを考えていた。部屋の本棚にある光春の詩集にはない詩句だ。

きのう、青木由弥子さんという方の「現況」というタイトルの詩の「空の底にたどりついたら、反響してもどってくるはず、(…)」という詩句について書いたが、きょう仕事の行きしなに、その詩句から室生犀星の詩句が(と、このときは思っていた)思い出された。「こぼれた笑みなら、拾えばいいだろう」だったか、「こぼれた笑みなら、拾えるのだ」だったかなと思って、仕事場の図書館で室生犀星の詩集を借りて読んだのだが見つからなかった。仕事から帰り、部屋に戻って、本棚にある室生犀星の詩集を読んだのだが見つからなかった。青木由弥子さんの発想が似ていたような気がして、気になって気になって、部屋の本棚にある日本人の詩集を読み返しているのだが、いまだ見つからず、である。もし、どなたか、だれの詩にあった言葉だったのかご存知でしたら、お教えください。もう、気になって気になって仕方ないのです。部屋にある詩集で目にした記憶はあるのですが見つからないのです。シュンとなってます。

ついでに授業の空き時間に、金子光春の詩集を図書館で読んでいたのだけれど、「わたしはあなたのうんこになりました」だったかな、そんな詩句に出合って、びっくりして、金子光春の詩を、部屋の本棚にある『日本の詩歌』シリーズで読んだのだが、その詩句のある詩は収録されていなかった。とても残念。

きょう、寝るまえの読書は、『日本の詩歌』シリーズ。どこかにあるはずなのだ。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月十三日 「空に底があったらたどりつくはず」


いま起きた。PCでも検索したが出てこない。またふたたび偶然出合う僥倖に期待して、きょうは、5月に文学極道に投稿する2番目の『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みに専念しよう。金子光春の「うんこ」の詩を持ってなかったこともショックだったが、図書館でルーズリーフに書き写せばいいかな。

朝に松家で、みそ豚定食を食べたあと、部屋に戻って横になってたら、きゅうに眠気におそわれて、いままで眠ってしまっていた。悪夢の連続で、父親と弟が出てきた。ぼくの夢にはよく家族が出てくるのだが、ぼくは家族がみな嫌いだった。不思議なものだ。嫌いなものがずっと夢に出てくるのだ。

青木由弥子さんの詩句の発想と、ぼくが室生犀星の詩句の(と、思っていた)発想と似ていたと思っていたというのは、言葉が足りていなかった。発想の型が似ていたと思うのである。つまり、言葉を突き詰めて考えるということなのであるが、「空に底があったらたどりつくはず」という発想と、「笑みがこぼれるものなら、こぼれた笑みは、拾うことができるはず」という発想に、ぼくは、詩人の言葉の突き詰め方を見たのだと思う。ぼくの使うレトリックなんて、とても単純なものばかりで、このような突き詰め方をしたことがなかったので、強烈な印象を与えられたのだと思う。できたら、ぼくもしてみたい。

ふと思ったんだけど、人間が写真のように実景とそっくりな絵を描いたら芸術になるのに、機械が写真のように実景とそっくりな絵を描いても芸術と呼ばれるのだろうか。人工知能が発達しているので、現代でも可能だと思うのだけれど。ぼくには機械がすると、芸術ではなくなるような気がするのだけれど。


二〇一七年四月十四日 「うんこの詩、その他」


いま起きた。昼間ずっと寝ていたのに、夜も寝ていたということは、よほど疲れていたのだろう。これが齢か。セブイレでコーヒーを買ってきたので、コーヒーを淹れて飲む。頭の毛を刈って、お風呂に入って仕事に行こう。

きょう、図書館で、思潮社から出てた「現代詩読本」の『金子光晴』を借りて、代表詩50選に入ってた、詩集『人間の悲劇』収録の「もう一篇の詩」というタイトルの詩を手書きで全行写した。あまりにもすばらしいので、全行紹介するね。


恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。

あなたにのこりなく消化され
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。


そいえば、10年ほどまえに書肆山田から『The Wasteless Land.IV』を出したのだけれど、そのなかに、「存在の下痢」というタイトルの詩を収めたのだけれど、そのとき、大谷良太くんに、「金子光晴の詩に、うんこの詩がありますよ。」と聞かされたことがあることを思い出した。そのとき、「恋人よ。/たうとう僕は/あなたのうんこになりました。」という詩句を教えてもらったような気もする。すっかり忘れていた。何日かまえに、「こぼれた笑みなら拾えばよい」だったか、「笑みがこぼれたら拾えばよい」だったか、そんな詩句を以前に目にしたことを書いたが、ちゃんとメモしておけばよかったと後悔している。ぼくが生きているうちに、ふたたびその詩句と邂逅できるのかどうかわからないけれど、できればふたたび巡り合いたいと思っている。そのときには、ちゃんとメモっておこう。それにしても、うかつだな、ぼくは。せめて、きょう出合った、すてきな詩句でもメモっておこう。


岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」

花が美しくて
泥が汚いのは
泥のなかに生き
花のなかに死ぬからだ


岡村二一 「愚(ぐ)経(きょう)」

酒に酔(よ)うものは酒に溺(おぼ)れ
花に酔(よ)うものは花に亡(ほろ)びる
酒にも花にも酔わないものは
生きていても
しょんがいな しょんがいな


吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5

「一度書かれた言葉は消すな!」


吉岡 実 「雷雨の姿を見よ」5

風景に期待してはならない
距離は狂っている


吉岡 実 「楽園」

私はそれを引用する
他人の言葉でも引用されたものは
すでに黄金化す


吉岡 実 「草上の晩餐」

多くの夜は
小さいものから大きくなる
大きいものから小さくなる


西脇順三郎 「あざみの衣(ころも)」

あざみの花の色を
どこかの国の夕(ゆう)陽(ひ)の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であった
この本の中へは夏はもどらない


武村志保 「白い魚」

凍(こお)った夜の空がゆっくり位置をかえる


笹沢美明 「愛」

「愛の方向が判(わか)るだけでも幸福だな」と。


三好達治 「鷗(かもめ)」

彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳(ふん)墓(ぼ)


鮎川信夫 「なぜぼくの手が」

さりげないぼくの微(び)笑(しよう)も
どうしてきみの涙を
とめることができよう
ぼくのものでもきみのものでもない
さらに多くの涙があるのに


平木二六 「雨季(うき)」

仕事、仕事、仕事、仕事が汝の存在をたしかめる。


田中冬二 「美しき夕暮(ゆうぐれ)」

女はナプキンに美しい夕暮をたたんでいる。


秋谷 豊 「秋の遠方へ」

陽が一日を閉(と)じるように
一つの昼のなかでぼくは静かに
登攀(とうはん)を夢みるのだ


ここまで引用したのは、金子光晴と吉岡 実のもの以外、すべて、土橋重治さんが編んだ詩のアンソロジー、『日本の愛の詩集』 青春のためのアンソロジー 大和書房 1967(銀河選書)に収録されていたもの。ぼくがまったく知らなかった詩人の名前がたくさんあった。田中冬二の詩句は知ってたけど。授業の空き時間が2時間あって、昼休みもあったから、図書館で3冊借りて、それで書き写したってわけだけど、吉岡 実さんのは、たしか、「現代詩人叢書 1」って書いてあったかな。どっから出てるのかメモし忘れたけれど、思潮社からかな。どだろ。帰りに、図書館に返却したので、いまはわからない。

年々、記憶力が落ちてきている気がするので、なるべくメモしなくてはならない。こまかく書かなければ、いったいそのメモのもとがなんであったのかもわからなくなるので、できるかぎり詳しく書いておかなければならない。あ〜あ、20代や30代のころのような記憶力が戻ってこないかな。厚かましいね。ぼくがときどき使っているレトリックは、ヤコービ流の逆にするというもの。たとえば、『陽の埋葬』シリーズの1作に、「錘のなかに落ちる海。」とかあるし、このあいだ思潮社オンデマンドから出た『図書館の掟。』に収録している「Lark's Tongues in Aspic°」には、「蛇をつつけば藪が出るのよ。」といった詩句があるのだが、さっき、ふと思いついた直喩があって、それは、「蠅にたかる、うんこのように」といったものだったのだけれど、いまのところ、どういった詩に使ったらよいのか、自分でも、ぜんぜん思いつかないシロモノなのであった。おそまつ。

もう日本語の本は買わないつもりだったけど、ブックオフに行ったら、108円のコーナーに、まだ読んだことのないものがあったので買ってしまった。きょうから読もう。グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上下巻である。これで日本語になったベンフォードはコンプリートに読んだことになる。でも、なんか、うんこにたたられてしまったのか、ブックオフからの帰り道、あと10分くらいのところで便意を催したのであった。サークルKだったかな、コンビニのまえを通ったので、そこでトイレを借りればよいものを、ぼくはがまんできる、と思い込んで、急ぎ足で歩いて部屋に無事辿り着き、うんこをしたのであった。あと十秒遅かったら、もらしていたと思う。いや、あと数秒かな。それくらいスリルがあった。3月の終わりに、トイレのドアノブを握った瞬間に、うんこを垂れたくらいに(と言っても、およそ1年ブリだよ)おなかのゆるいぼくなのであった。ほんと、おなか弱いわ。食べ過ぎなのかな。

そだ。きょう通勤電車のなかで、人喰い人種の食べる人肉について考えていたのだけれど、きょうはもう遅いし、あした書き込むことにする。


二〇一七年四月十五日 「西脇順三郎」


50肩になって、片腕・方肩、ほぼ半年ずつ、動かすのも激痛で、痛みどめをのんでも効かず、その痛みで夜中に何度も起きなければならなかったぼくだけれど、これって、腕や肩の筋肉が齢とって硬くなっているってことでしょ? 羊の肉って、子羊だとやわらかくておいしくって、肉の名前まで変わるよね。これって、人喰い人種の方たちの人肉選らびでも同じことが言われるのかしらって、きのう、通勤電車のなかで思ってたんだけど、どうなんだろう。ジジババの肉より若者の肉のほうが、おいしいのかしら? そいえば、ピグミー族のいちばん困っていることって、いちばん食べられるってことらしい。ちいさいことって、食欲をそそるってことだよね。外国のむかし話にもよく子どもを食べる話がでてくるけど、『ヘンゼルとグレーテル』みたいなのね。それって、そういうことなのね。ロシアの殺人鬼で、子どもばっかり100人ほど食べてた方がつかまってらっしゃったけれども、いちおう美食家なのね。ああ、なにを最終的に考えてたかって、ぼくの50肩になった肉って、もうおいしくないんだろうなってこと。50肩って、もう人喰い人種の方たちにとっては、とっくに旬の過ぎてしまった素材なんだろうなって思ったってこと。齢とった鶏の肉もまずいって話を聞いたこともある。牛や羊もなんだろうね。豚はちょっと聞いたことがないなあ。齢とった豚を食べたって話は、戦争ものの話を読んでも出てこなかったな。豚って、齢とったら食べられないくらいまずいってことなのかな。ああ、そうだ。イカって、巨大なイカは、タイヤのように硬くて、しかもアンモニア臭くて食べられないらしい。ホタルイカを八雲さんのお店で、お正月に食べたのだけれど、とっても小さくておいしかった。ひと鉢に20匹くらい入っていて、1400円だけど、2回、頼んだ。ホタルイカも小さい方がおいしい。そいえば、タケノコも若タケノコのほうがおいしいよね。食べ物って、若くて小さいもののほうがおいしいってことかな。

さて、5時30分ちょっとまえだ。5月に文学極道に2週目に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みでもしようかな。きのう寝るまえに、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ」上巻をすこし読んだけど、やっぱり読みやすい。ベンフォードも物理学者なんだけど、ラテンアメリカ文学のサバトといい、ロシア文学のソルジェニーツィンといい、みんな物理学者だ。共通しているのは、観察力がすごくて、それを情景描写で的確に書き表していることだ。とにかく頭に情景がすっと入ってくるのだ。すっと情景を思い起こされるというわけだ。そんなことを考えて、きのうは眠った。

とにかくコーヒーのもうっと。まだちょっと、頭がぼうっとしてるからね。

きょうは、仕事場に2時間早く着いてしまったので、図書館で、思潮社から出てた現代詩読本『西脇順三郎』、『三好達治』を読んでた。気に入った個所を引用する。


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠だけが存在するのだ
その他の存在は存在ではない


西脇順三郎 「近代の寓話」

人間の存在は死後にあるのだ


西脇順三郎 「海の微風」

自然の法則はかなしいね


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない


西脇順三郎 「菜園の妖術」

存在という観念をはなれて
永遠という存在が
いる


西脇順三郎 「菜園の妖術」

永遠を求める必要はない
すでに永遠の中にいるのだ


三好達治 「わが手をとりし友ありき」

ものの音は一つ一つに沈黙す


いま三好達治の本を読んでるんだけど、三好達治の詩集って、5000部とか10000部とか売れていたって書いてあってびっくりした。ぼくの詩集なんて、20数冊出してるけれど、合わせても、せいぜい100部とか200部しか売れていないような気がする。出版社も教えてくれないしわからないけど。


ぼくは帽子が似合わないので帽子はかぶらないことにしている。


去年はじめて、サンマの腹を食べた。日知庵で、炭火で焼いてくれていたからだろう。それまでは、箸でよけてて、食べなかった内臓を、酒の肴にして食べてみたのだ。苦い味だが、けっしてまずくはなかった。自分がジジイになったせいだろう。ふと、サンマの腹が食べたくなったのだった。あの苦味は、なんの味に似ているだろう。いや、何の味にも似ていない。炭火で焼かれたサンマのはらわたの味だ。そいえば、さざえのあの黒いところはまだ食べたことがないけれど、もしかしたら、いまなら食べられるかもしれない。さざえを食べる機会があったら挑戦してみよう。酒の肴にいいかもしれない。わからないけど。しかし、サンマのはらわたの苦みは酒の肴に、ほんとによく合う。ぼくは、酒って、麦焼酎のロックしか飲まないけれど。それも3杯が限度である。それ以上、お酒を飲むときはビールにしている。ビール以外のものを飲むと、(さいしょの麦焼酎のロックはのぞいてね)ほとんどといっていいほどゲロるのだ。

中央公論社の『日本の詩歌』を読んでいるのだが、思潮社から出てた現代詩読本に収録されている詩があまり載っていないことに気がついた。ぼく好みのものが『日本の詩歌』から、はずされているのだった。まあ、西脇順三郎のは、ほるぷ出版から出てるのを持ってるから、これから調べてみる。

よかった。読み直したかった「旅人かへらず」全篇と、「菜園の妖術」が、ちゃんと入ってた。西脇順三郎を読むと、なんだか身体が楽になってくるような気がする。ぼくの体質に合ってるのかもしれない。リズムがいい。ときどき驚かされるような可憐なレトリックも魅力的だ。出てくる固有名詞もユニークだし。

きょうは、体調のためにも、これから寝るまで西脇順三郎を読もうと思う。中央公論社の『日本の詩歌』9冊あるんだけれど、まあ、1冊108円で買ったものだからいいけど、金子光晴の入っている第21巻、あの「うんこ」の詩、入れててほしかったなあ。西脇順三郎が載ってるのも長篇ははしょってるし。室生犀星には、1冊すべて使ってるのに、なんて思っちゃうけれど、出版されたときの状況が、いまとは違うんだろうね。きょうは飲みに行けなかったさみしさがあるけれど、詩を読むさみしさがあるので、差し引きゼロだ。(−1から−1を引くと0になるでしょ?)そんな一日があってもいい。


二〇一七年四月十六日 「西脇順三郎」


金子光晴のあの「うんこ」の詩、「もう一篇の詩」が収められている金子光晴の詩集を手に入れたいと思って調べたら、Amazon で、1円から入手できるんだね。びっくり。朝8時からやってる本屋が西院にあるから、さらっぴんのを買ってもいい。ちくま日本文学全集「金子光晴」に入っているらしい。西院の書店にはなかったので、今日、昼に四条に行って、ジュンク堂で見てこよう。それでなかったら、ネットで買おう。ちくま文庫の棚に行ったら、スティーヴ・エリクソンの『ルビコン・ビーチ』が置いてあって、読みたいなあと思ったけれど買うのはやめた。もう、ほんと、買ってたらきりがないものね。8時に書店が開くので、それまで時間があるからと思って、ひさしぶりに、もう半年ぶりくらいになるだろうか、朝に行くのは、7時30分から開いているブレッズ・プラスでモーニングでも食べようと思って店のまえで舞ってたら、30分になってもローリングのカーテンが下がったままだったから、あれ、どうしちゃったんだろうと思っていたら、自転車で乗り付けたご夫婦の方も、「もう30分ちがうの?」と奥さんのほうが旦那さんに言われたのだけれど、32分になって、ようやくカーテンがくるくると巻かれてつぎつぎと窓ガラスや入口の窓ガラスが透明になっていったので、ほっと安心した。ぼくは、モーニングセットを頼んだんだけど、そのご夫婦(だと思う、ぼくよりご高齢らしい感じ)も、モーニングセットだった。モーニングセットでは飲み物が選べるんだけど、ぼくは、アイスモカにした。パンは食べ放題なのだ。レタスのサラダと、ゆで卵半分と、ウィンナーソーセージ2個がついていた。32分に店内に入ったけれど30分経っても、ぼくのほかにお客さんといえば、その日本人夫婦の方と、10分くらいあとで入ってこられた外国人女性の2人組のカップルだけだった。外国人女性の方たちはモーニングセットじゃなくて、置いてあるパンをチョイスして飲み物を頼んでいらっしゃった。8時くらいまで、ぼくを含めて、その3組の客しかいなかったので、めずらしいなあと思った。日曜日なので、仕事前に来られるお客さんがいらっしゃらなかったというのもあるのだけれど、以前によくお見かけした、60代から80代くらいまでのご高齢の常連の方たちがいらっしゃらなくて、どうしてなのかなと思った。まさか、みなさん、お亡くなりになったわけじゃないだろうし、きっと、きょうが日曜日だからだろうなって思うことにした。以前によく朝に行ってたころ、ときどき、お見かけしなくなる方がぽつりぽつりといらっしゃってて、病院にご入院でもされたのか、お亡くなりになったのかと、いろいろ想像していたことがあったのだけれど、きょうは、そのご常連さんたちがひとりもいらっしゃらなかったので、びっくりしたのであった。なんにでもびっくりするのは愚か者だけであるとヘラクレイトスは書き残していたけれど、ぼくはたいていなんにでも驚くたちなので、きっと愚か者なのだろう。いいけど。

お昼に、ジュンク堂に寄って、それからプレゼント用に付箋を買いに(バレンタイン・チョコのお返しをまだしていない方がいらっしゃって)行って、それから日知庵に行こうっと。それまで、きのう付箋した箇所(西脇順三郎の詩でね)をルーズリーフに書き写そう。それって、1時間くらいで終わっちゃうだろうから、終わったら、それをツイートに書き込んで、それでも時間があまるだろうから、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。とりあえず、まず、コーヒーを淹れて飲もう。それからだ。西脇順三郎の詩、ほんとおもしろかった。読んでて楽しかった。


西脇順三郎 「道路」

二人は行く
永遠に離れて
永遠に近づいて行くのだ。


西脇順三郎 「第三の神話」

よく見ると帆船の近くに
イカルスの足が見える
いまイカルスが落ちたばかりだ


西脇順三郎 「第三の神話」

美しいものほど悲しいものはない


西脇順三郎 「天国の夏」

もう人間はあまり笑わなくなつた
脳髄しか笑わなくなつた


西脇順三郎 菜園の妖術」

一かけるゼロはゼロだ
だがゼロは唯一の存在だ
無は唯一の存在だ
無は永遠の存在だ


西脇順三郎 豊穣の女神」

幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄もなく極楽もないところに
本当の極楽がある


西脇順三郎 「野原の夢」

すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ


西脇順三郎 「野原の夢」

これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ


西脇順三郎 「大和路」

なぜ人間も繁殖しなければならない


田中冬二 「暮春・ネルの着物」

私はアスパラガスをたべよう


ひゃ〜、2時間まえに、「店のまえで舞ってたら」って書いてた。まあ、「舞ってたら」ハタから見て、おもしろかったんだろうけどね。56歳のハゲのジジイが舞ってたらね。これはもちろん、「店のまえで待ってたら」の打ち込み間違いです。いまさらぜんぶ入れ直すのも面倒なので付け足して書きますね。


愛してもいないのに憎むことはできない。
憎んでもいないのに愛することはできない。


これから四条に。まずジュンク堂に寄って、金子光晴の詩集があるかどうか見て、それからロフトに寄ってプレゼント用の栞を買って、そのあと日知庵に行く。

日知庵から帰ってきた。本好きのご夫婦の方とおしゃべりさせていただいてた。アーサー王の話がでてきて、なつかしかった。ぼくの持ってるのは、リチャード・キャヴェンディッシュの『アーサー王伝説』高市順一郎訳、晶文社刊だった。魚夫王とか出てきて、これって、エリオットの『荒地』につながるね。

きょうは、ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読みながら床に就こう。きのうも、ちょこっと読んだのだけれど、ベンフォードの文章には教えられることが多い。物理学者が本業なのに、ハードSF作家なのに、なぜにこんなによく人間が描けているのか不思議だ。いや逆に物理学者だからかな。まあ、そんなことはどうでもいいや。よい本が読めるということだけでも、ぼくが幸せなことは確実なのだから。おやすみ、グッジョブ! いつ寝落ちしてもいいようにクスリのんで横になる。


二〇一七年四月十七日 「SFカーニバル」


起きた。きょうは神経科医院に行くので、それまで、5月の2週目に文学極道に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。

医院の帰りに、大谷良太くんちに行った。コーヒー飲みながら詩の話や小説の話をしていた。「きょう、医院の待合室で、雑誌の『女性自身』を読んでたら、共謀罪の話が載っていてね。」と言ったら、ちょこっと政治の話になった。と、こういうことを書いても警察に捕まる時代になっていくのかなあ。怖い。

そだ。きょう、医院で待つのも長いからということで、ロフトに行って、プレゼント用の付箋を2つ買い、ついでに丸善に寄って、岩波文庫の『金子光晴詩集』を買った。きのう買わなかったのだ。背の緑色がちょっと退色しているのだけれど、ジュンク堂に置いてあったものも退色していたから、まあ、これでいいやと思って買った。奥付を見ると、2015年5月15日 第8刷発行って、なってたんだけど。ということは、背の緑色が退色しているのではなくて、この時期に発行された『金子光晴詩集』すべての本の背の緑色が、ちょっとへんな緑色になっちゃってたって可能性が大なのだなって思った。

部屋に戻ったら、郵便受けに、このあいだ Amazon で買った、フレドリック・ブラウン編のSFアンソロジー『SFカーニバル』が届いていた。旧カヴァーである。表紙の裏にブックオフの値札を剥がした跡があるが、まあ、いいや。150円ほどで買ったものだから。(送料は257円だったかな。)もう本は買わないと思っていたのだけれど、買っちゃうんだな。終活して、蔵書を減らしている最中なのだけど。なんか複雑な気持ち。そだ。「こぼれた笑いなら拾えばいい」だったかな、そんな詩句があってねという話を大谷くんにしたら、大谷くんがネットで調べてくれたんだけど、出てこなかった。生きているうちに、その詩句とふたたび巡り合える日がくるかなあ。どだろ。「詩句のことなら、なんでも知ってるってひとっていないの?」って、大谷くんに訊いたけど、「いないんじゃないですか。」って返事がきて、ありゃりゃと思った。篠田一士みたいなひとって、もういまの時代にはいないのかなあ。

さて、56歳独身男は、これから2回目の洗濯をするぞ。雨だから、部屋干しするけど。

雨の音がすごくって、怖い。どうして、雨の音が怖いのか、わからないけれど。息が詰まってくる怖さだ。


二〇一七年四月十八日 「明滅」


ちょっと早く起きたので、5月の第2週目に文学極道に投稿する、『全行引用に寄る自伝詩。』のワード打ち込みをしよう。

5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』あとルーズリーフ2枚分で終わり。2枚ともページいっぱいの長文だから、ワード入力するの、しんどいけど、がんばった分だけ満足感が増すので、詩作はやめられそうにない。きっと一生、無名の詩書きだろうけど。まあ、いいや。

海東セラさんから、個人誌『ピエ』18号と19号を送っていただいた。同時に出されたらしい。セラさんの作品を読んだ。18号に収録されている「混合栓」では、ずばり作品のタイトルの意味をはじめて教えていただいた。お風呂で毎日使っているものなのに、その生を知らずに使っていたのだった。19号に収められている「明滅」では、つぎのようなすてきな詩句に出合った。「わたしは冷たい━━。半ズボンの裾がそうつぶやくので初めて濡れていることに気がつく。」すてきな詩句だ。とてもすてきな詩句だ。きょうもいろいろあったけど、すてきな詩句に出合ったら、みんなチャラだ。吹っ飛んじゃうんだ。海東セラさん、いつもうつくしい詩誌をお送りくださり、ありがとうございます。引用させていただいた詩句、ぼくのなかで繰り返し繰り返し木霊しています。


二〇一七年四月十九日 「クライブ・ジャクスン」


フレドリック・ブラウンが編んだ短篇SFアンソロジー『SFカーニバル』読了。ブラウン自身のがいちばんおもしろかった。また、クライブ・ジャクスンというはじめて読む作家のわずか4ページのスペオペでは、さいごの3行に笑った。それはないやろ的な落ち。ぼくには大好きなタイプの作品だったけど。

で、ここ数日のあいだ、断続的に読んでいるグレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』上巻、ひじょうによい。とてもよい。表現がうまい。描写がすごくいい。なんちゅう物理学者なんだろう。っていうか、ぼくは、これで、ベンフォードを読むのコンプリートになっちゃうんだよね。残念!

きょうは、寝るまえの読書は、『タイムスケープ』上巻のつづきから。まだ138ページ目だけど、傑作の予感がする。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十日 「 」


風邪を引いたみたい。咽喉が痛くて、熱がある。薬局が開く時間になったら、クスリを買いに行こう。きょうは休みなので、部屋でずっと休んでいよう。

午前中はずっと横になっていた。何もせず。お昼になって、近くのイオンに行って薬局で、クラシアンの漢方薬の風邪薬を買って、ついでに3階のフードコートでまず薬を水でのんで、それから長崎ちゃんぽんのお店でチゲラーメンの並盛を注文して食べた。おいしかった。いま部屋に戻って、ツイートしてる。

ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もうか、『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをやるか思案中。そか。両方やっちゃおうか。ワード打ち込みも、ルーズリーフで、あと2枚分だものね。

『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業が終わった。校正は後日、ゴールデン・ウィークにでもしよう。きょうは、これからベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もう。1年10カ月ぶりに依頼していただいた、現代詩手帖の原稿書きがあるのだが、もう頭のなかに原稿の元型ができているので、あさってからの連休3日間で(ぼくは月曜日も休みなのだ)いっきょに書き上げてしまおうと思っている。それでも数日の余裕があるので、しかも、そのうちの一日は学校が休みなので、十分に見直すことができるものと思う。とにかく、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わってよかった。引用文が間違いなく打ち込めているのか、たしかめはするのだが、ときに漢字の変換ミスや、言葉が足りなかったりすることがあるので(「している」を「してる」にしたりする。きっと、自分のふだんの口調が反映されているのだと思う)注意しながら打ち込んでいると、じつに神経に負担がかかるのである。しかし、それが終わって、ほっとしている。きょうは、もうあと読書するだけ。56歳。独身ジジイ。まるで学生のような生活をいまだに送っているのだなと、ふと思った。夕方に風邪薬をのむのを忘れないように、目覚ましでもセットしようかな。でもなんのためにセットしたのか忘れてしまってたりしてね。

BGMは韓国ポップス。韓国語がわからないから、言葉の美しさ、リズムを、音楽とともに耳が楽しんでいるって感じかな。2bicからはじまって、チューブがかけるものをとめないで聴いている。はじめてお見かけするアーティストが出てきたり、というか、そういうのも楽しみなんだよね。

そいえば、まえに付き合ってた子、しょっちゅう携帯をセットしてたなあ。仕事の合間に、ぼくんちに来てたりしてたからな。音楽がそんなことを思い出させたんやろうか。もう2、3年、いや、3、4年まえのことになるのかなあ。いまは神戸に行っちゃって、遊びに来てくれることもなくなっちゃったけど。

ピリョヘー。

いま思い出した。まえに付き合ってた子が携帯に時間をセットしていたの、あれ、「タイマーをセットする」という言い方だったんだね。簡単な言葉なのに、さっき書き込んだときは、思い出されなかった。齢をとると、すさまじい忘却力に驚かされるけれど、だからこそみな書き込まなくちゃならないんだね。

アンニョン。

いま王将で、焼きそば一皿と瓶ビール一本を注文して飲み食いしてきたのだけれど、バックパックの後ろについている袋のチャックを開けて、きょうイオンで買った風邪薬のパッケージを裏返して見たら、製造元の名前が、「クラシアン」じゃなくて、「クラシエ製薬株式会社」だった。クラシアンって、なんだか、住宅会社っぽい名称だね。調べてないけど。調べてみようかな。ぜんぜん、そんな名前の会社がなかったりして、笑。いまググるね。

ありゃ、まあ。水漏れとか、水まわりのトラブルを解消する会社の名前だった。「暮らし安心」からきてるんだって。「クラシアン」なるほどね。ちなみに、ここね。→http://www.qracian.co.jp/

ちなみに、ぼくがクラシエ製薬株式会社から買った風邪薬の名前って、「銀翹散(ぎんぎょうさん)」ってやつで、元彼と付き合ってたとき、ぼくがひどい風邪で苦しんでたときに、彼が買ってきてくれた風邪薬で、服用して5分もしないうちに喉の痛みが消えた風邪薬だった。いまも当時のように効いてるよ。

さて、ベンフォードの『タイムスケープ』の上巻のつづきに戻ろう。読書って、たぶん、人間にしかできないもので、とっても大切な行為だと思うけど、自分がその行為に参加できて、ほんと、幸せだなって思う。ぼくも糖尿病だけど、糖尿病で視力を失くした父のように視力は失くしたくないなって強く思う。

瓶ビール一本で酔っちゃったのかな。気分が、すこぶるよい。きょうは、休みだったのだけれど、朝はゴロ寝で、昼には、5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業を終えて、韓国ポップス聴きまくっていたし、夕方からは読書に専念だ。

日本のアーティストの曲で、「a flower of the mystery」だったか、「a mystery of the flower」だったか、そういったタイトルの曲を思い出したんだけど、チューブにはなかった。残念。ああ、もう何でもメモしなきゃ憶えていられない齢になったんだな。というのは、その曲のアーティストの名前が思い出せないからなんだけど、ここさいきん、思い出せないことが多くなっている。いや、ほんとに、なんでもかんでもメモしておかなければならなくなった。情けないことだ。それにしても、なんという名前のアーティストだったんだろう。憶えてなくて、残念。


「どんなに遠く離れていても」っていうのは距離だけのことを言うのじゃない。


hyukoh の新譜が4月下旬に出るというので、Amazon で予約購入した。


二〇一七年四月二十一日 「タイムスケープ」


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻に突入。上巻に付箋個所10カ所。レトリックと表現がすばらしいと思うところに付箋した。ルーズリーフ作業は、あした以降に。いま、4月28日締め切りの原稿のことで頭いっぱいだから。といっても、きのう、数十分で下書きを書いたのだけれど、完璧なものにするために週末の土日と休みの月曜日を推敲に費やすつもりなので、ルーズリーフ作業は、下巻も含めると、GW中になるかもしれない。といっても、きょうは、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻を読めるところまで読もうと思う。ヴァレリーが書いていたように、「同時にいくつもの仕事をするのは、互いによい影響を与え合うのである。」(だいたいこんな訳だったような記憶がある。)きょうは、一日を、読書にあてる。


二〇一七年四月二十二日 「いつでも、少しだけ。」


いま日知庵から帰った。ヨッパである。おやすみ、グッジョブ!


いつでも、少しだけ。


きょうか、きのう、『The Wasteless Land.』が売れてた。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/Wasteless-Land-%E6%96%B0%E7%B7%A8%E9%9B%86%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788656/ref=la_B004LA45K6_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1492792736&sr=1-4

グレゴリイ・ベンフォード『タイムスケープ』下巻 誤植 93ページ 1、2行目 「悪戯っぽいい口ぶりでいった。」 「い」が、ひとつ多い。


二〇一七年四月二十三日 「時間とはここ、場所とはいま。」


人間が言葉をつくったのではない。言葉が人間をつくったのだ。


時間とは、ここのことであり、場所とは、いまのことなのである。

時間とはここ、場所とはいま。


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻を読了した。思弁的なSFだったが、また同時に文学的な表現に見るべき個所がいくつもあって、これから自分が書くことになる文章が大いに影響を与えられることになるのではないだろうかと思えた。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』以来である。

これから2敗目のコーヒーを淹れる。コーヒーもアルコールや薬といっしょで、中毒症状を起こすことがある。学生時代に、学部生4回生と院生のときのことだが、1日に10杯以上も飲んでいたときがあった。いま10杯飲んだら、きっと夜は眠れないことだろう。いくら睡眠薬や精神安定剤をのんでいても。

コーヒーを飲んだら、グレゴリイ・ベンフォードのルーズリーフ作業をしようと思う。きのうまでは、GW中にやろうと思っていたのだが、文章のすばらしさをいますぐに吸収して、はやく自分の自我の一部に取り込んでしまいたいと考えたからである。それが終わったら、つぎに読むものを決めよう。

GWは6月の第1週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『詩の日めくり』をつくろうと思う。いつ死んでもよいように、つねに先々のことをしておかなければ気がすまないたちなのである。さいきん、あさの食事がコンビニのおにぎりだ。シャケと昆布のおにぎりだ。シャケを先に食べる。なぜだか、わかる? 昆布の方が味が強いから、昆布の方から先に食べると、シャケの味がはっきりしないからだろう。ぼくが食べ物を好きな方から食べるのも同じ理屈からだ。おいしいものの味をまず味わいたいのだ。あとのものは、味がまざってもかまいはしない。ぼくが古典的な作品を先に読んだのも、同じような理屈からだったような気がする。食べ物の食べ方と、読み物の読書の仕方がよく似ているというのもおもしろい。両方とも、ぼくの生活の大きな部分を占めているものだ。ぼくの一生は、食べることと、読むこととに支配されているものだったというわけだな。それはとってもハッピーなことである。

さっき日知庵から帰ってきた。きょうは体調が悪くて、焼酎ロック1杯と生ビール1杯で帰ってきた。これから床について、本でも読みながら寝ようと思う。ディックの短篇集『ペイチェック』にしよう。タイトル作品以外、ほかの短篇集にぜんぶ入っているというハヤカワSF文庫のあこぎな商売には驚くね。

自分の詩集のところを、Amazon チェックしていたら、書肆ブンから復刊された、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、1冊、売れてた。うれしい。これ→
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA-%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788664/ref=la_B004LA45K6_1_2/355-1828572-1889417?s=books&ie=UTF8&qid=1492950970&sr=1-2


二〇一七年四月二十四日 「floccinaucinihilipilification」


グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻に載ってたんだけど、最長の英単語って、「floccinaucinihilipilification」というものらしい。山高 昭さんが翻訳なさっておられるんだけど、「無価値と判定すること」という意味らしい。

最長の日本語の単語って、なんだろう?

きのう寝るまえに、ハヤカワSF文庫のディックの短篇集『ペイチェック』の悪口を書いたけれど、よい点もあった。活字のポイントが、むかしのものより大きくて、読みやすくなっている。なぜ、『ペイチェック』をあれほど分厚くしなければならなかったかの理由のひとつかな。でも、ほんと、分厚くて重たい。

FBを見ていると、きょうは天気がよくて、洗濯日よりだというので、洗濯をした。ついでに、1週間ほど、薄めた洗剤液の入ったバケツに浸けて置いた上履きを洗った。いまから、ディックの短篇集『ペイチェック』のつづきを読む。冒頭のタイトル作品の途中で眠り込んでしまっていたのであった。

いま解説を読んで気がついた。「ペイチェック」もほかの短篇集に入ってた。未訳のものがひとつもなかったんだね。なんだか悲しい短篇集だったんだね。『ペイチェック』分厚さだけは、ぼくの持っているディックの短篇集のなかで群を抜いて一番だけれど。

Lush の Nothing Natural を聴いている。この曲が大好きだった。だいぶ処分したけど、いま、ぼくの部屋も、大好きな本やCDやDVDでいっぱいだ。いつか、ぼくがこの部屋からいなくなるまで、それらはありつづけるだろうけれど。

Propaganda の Dr. Mabuse を聴いた。1984年の作品だというから、ぼくが院生のころに聴いてたわけだな。いまから30年以上もむかしの話で、まだ詩を読んだこともなかったころのことだ。理系の学生で、連日の実験と、考察&その記述に疲れ果てて家に帰ってたころのことだ。

いま、4月28日締め切りの原稿の手直しをしていたのだけれど、英語でいうところの複文構造をさせていたところをいくつかいじっていたのだけれど、ふだんのぼくの文章の構造は単純なものが多いので、ひさしぶりに複文を使って自分の文章をいじっていると、まるで英語の文章を書いてるような気がした。

ディックの短篇集『ペイチェック』で、「パーキー・パットの日々」を読み終わった。いま、同短篇集収録の「まだ人間じゃない」を読み直しているのだけれど、このあいだも読み直したのに、さいごのところが思い出せなかったので、もう一度、読み直すことにした。つい最近、読み直したはずなのだけれど。

あ、複文じゃなくて、挿入句だ。ぼくのは複文というよりも、挿入句の多い文章だった。複文っぽく感じたのはなぜだろう。自分でもわからない。読み直したら、いじくりまわす癖があるので、きょうは、もう見直さないけれど、あしたか、あさってか、しあさってかに見直して、手を入れるだけ入れまくろう。

とりあえず、8錠の精神安定剤と睡眠導入剤をのんで床に就こう。きょうの昼間は、なぜか神経がピリピリしていた。それが原稿に悪い影響を与えてなければよいのだけれど。いや、原稿をいじくってたので、神経がピリピリしていたのかもしれない。いまもピリピリしている。眠れるだろうか。いくら精神安定剤や睡眠導入剤を服用しても、昼間に神経がピリピリしていたら、まったくクスリが効かないことがある体質なので、きょうは、それが心配。ううん。この心配が、睡眠の邪魔をするのでもある。ぼくの精神というのは、どうしてこのようにもろいのだろうか。神経が太いひとが、うらやましい。

寝るまえの読書は、ディックにしよう。短篇集『ペイチェック』のなかから適当に選んで横になって読もう。あ、もしかすると、ディックの強迫神経症的な作品の影響かもしれないな。でも、ほかに読みたいものは、いまとくにないからな。とりあえず、クスリのんでPCを切ろう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十五日 「一生、ひとりでよいのだ。」


これから仕事に。あした、あさっては休みなので、4月28日締め切りの原稿を推敲することができる。もう推敲と言うより、彫琢の段階なのだけど。通勤では、このあいだ買った、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読むことにしよう。「もう一篇の詩」のあとに、「さらにもう一篇の詩」ってのがあったよ、笑。それは、うんこの詩でもなくて、ぼくにはおもしろくなかったけれどね。

きょうは、学校が午前で授業が終わりだったので、はやく帰ってこれた。二時間目の授業のまえに時間があったので、一時間はやく職員室についたのだ、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読んでいたら、すいすい読めたので、やはり詩集はいいなあと思ったのであった。いま204ページ目に突入するところ。

もう十年くらいむかしの思い出だけど、食べ物の名前が出てこないので書けなかったのだけれど、『金子光晴詩集』を読んでたら、195ページに、「朝は味噌汁にふきのたう。」(「寂しさの歌」二)というのがあって、思い出した。ふきのとうの天ぷら、たしか花だったと思うけれど、それをジミーちゃんのお母さまがてんぷらにしてくださって、そのふきのとうは、ジミーちゃんちの庭で採れたものなのだけど、食べさせてくださって、適度な苦みが、大人の味だなと思わせられる、ご馳走だった。そのジミーちゃんのお母さまも亡くなれて何年たつのだろう。ジミーちゃんが発狂して以来、ジミーちゃんと会っていなかったのだけれど、共通の友人から、ジミーちゃんのお母さまが亡くなったと何年かまえに聞かされたのであった。ジミーちゃんは、ぼくが詩を書くときに、「いま書いてる詩にタイトルつけてよ。さあ、言って!」と言うと、即座にタイトルを言ってくれたり、詩句自体のいくつかも、ジミーちゃんの言動が入っていて、ぼくはそれを逐一、作品のなかで述べていたけど、ジミーちゃんのお母さまも、ぼくの詩作品のなかに何度か登場していただいている。たしか、書肆山田から出した『The Wasteless Land.IV』に収録した詩に書いてたと思う。たしか、こんなセリフだったと思う。「さいしょの雨にあたる者は親不孝者なのよ/わたしがそうだったから/わたしも親から、そう言われたわ。」ぼくって、まだぜんぜんだれにも雨が降っていないのに、さいしょの雨粒が、よく顔にあたったりするんですよねえって言ったときのお返事だったと思うけれど、ふきのとうの天ぷらをつくってくださったときの記憶も目に鮮明に残っている。つぎつぎと揚げていってくださった、ふきのとうの天ぷらを、まだ、あつあつのものを、それに塩をちょこっと振りかけて、ジミーちゃんと、ジミーちゃんのお母さまと、ぼくの三人で食べたのであった。おいしかったなあ。なつかしい記憶だ。

これから夕方まで、『金子光晴詩集』を読む。どんな詩かは、アンソロジーで、だいたい知っているけど、まとめてドバーッと読むのもいい。詩自体に書かれたこともおもしろいところがあるし、そこには付箋をしていて、あとでルーズリーフに書き写すつもりだけれど、自分の記憶にも触れるところが、ふきのとうの天ぷらの記憶のようにね、あると思うので、それも楽しみ。ぼく自体が忘れている記憶が、他者の詩に書かれた言葉から、詩句から、そのイメージから、あるいは、音からさえも、呼び起こされる場合があると思うと、やっぱり、文学って記憶装置だよねって思っちゃう。言葉でできたみんなの記憶装置だ。

4月28日締め切りの原稿の彫琢は、夜にすることにした。いまはとにかく、すいすい読めてる『金子光晴詩集』に集中しようと思う。BGMは Propaganda。Felt。 Lush。Human League。などなど。ポップスにしようっと。

あちゃ〜。引用した金子光晴の詩句に打ち込みミスがあった。「朝は味噌汁にふきのたう。」ではなくて、「朝は味噌汁にふきのたう、」句点ではなくて、読点だった。ミスしてばっかり。まるで、ぼくの人生みたい。あ、そりゃ、そうか。打ち込みミスも人生の一部だものね。ワン、ツー、スリー、フォー!

ぼくはコーヒーをブラックで飲むんだけど、大谷良太くんはいつも牛乳を入れてる。さいきんは砂糖も入れている。『金子光晴詩集』を読んでたら、240−241ページに、「牛乳入珈琲に献ぐ」という詩があったので、ふと大谷良太くんのコーヒーのことを思い出した。ヘリコプターが上空で旋回している。

恋人たちの姿を見て、「あれは泣いているのか/笑っているのか」と詩に書いたのは、たしかリルケだったか。いや、あれは、泣きながら笑っているのだと、笑いながら泣いているのだと、ぼくの胸のなかで、ぼくの過去の恋を思い出しながら思った。

付箋しようかどうか迷った詩句があったのだが、やはり付箋しておこうと思って、『金子光晴詩集』を読んだところを読み直しているのだが、場所が見つからない。女性の肛門のにおいを嗅ぐ詩句なのだが。(「肛門」は金子光晴のほかの詩句でも出てくる。「肛門」は、彼の詩の特徴的な言葉のひとつだな。)

見つけた! 何を? 詩句を。85ページにあった。「彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ」(金子光晴『航海』第四連・第一行目)これで安心して、250ページに戻って行ける。読み直して、ますます理解したことのひとつ。金子光晴は「肛門」や「尿」という言葉が好きだったんだなってこと。

さっきリルケの詩句を(たぶん、リルケだったと思うんだけどね、記憶違いだったら、ごめんね。)思い出したのは、『金子光晴詩集』の249ページに、「泣いてゐるのか、それとも/しのび笑をこらへてゐるのか。」(『死』第二連・第三―四行)という詩句があったからである。(と、ぜったい思うよ。)同じページには(249ページだよ。)「痺肩のいたいたしいうしろつき」(『死』第一連・第四行)といった詩句があって、この一年、五十肩で痛みをこらえるのに必死だった(痛みどめが数時間で切れるくらいの痛みでね、その痛みで睡眠薬で寝てても数時間で目が覚めてたのね)自分の状況を思い出した。この『死』という詩の第三連・一行目に、「ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。」という詩句があるのだけれど、この言葉は、ほんとに深いね。恋人同士でも、こころが通っていないことってあるものね。それも、あとになってから、そのことがわかるっていう怖さ。深さだな。深い一行だなって思った。

『金子光晴詩集』を読む速度が落ちてきた。詩句の中味が違ってきているのかな。この詩集って、出た詩集の順番に詩を収録しているのかな。しだいに詩句にたちどまるようになってきた。『死』の最終連・第一ー二行である。「しつてくれ。いまの僕は/花も実も昔のことで、生きるのが重荷」こころに沁みる二行だ。なにか重たいものが胸のなかに吊り下がる。「花も実も昔のことで、」という詩句が、ことに胸に突き刺さるが、ぼくにも切実な問題で、56歳にもなって、独身で、恋人もいない状態で、ただ小説や詩にすがりつくことしかできない身のうえの自分に、ふと、自己憐憫の情を持ってしまいそうになる。でも、ぼくはとてもわがままで、どれほど愛していると思っている相手に対しても、すぐに癇癪を起こしてしまって、突然、いっさいの感情を失くしてしまうのである。こんな極端な性格をしている人間を、だれが愛するだろうか。ぼくでさえ、自分自身にぞっとしてしまうのだから。一生、ひとりでよいのだ。


二〇一七年四月二十六日 「ぱんぱん」


いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。すこぶる気分がよい。これからクスリのんで寝る。寝るまえの読書は『金子光晴詩集』。付箋しようかどうか迷った箇所を見つけたい。やっぱ、ちょっとでも、脳裡にかすめた個所は付箋しなきゃだめだね。帰りの電車のなかで探したけど、見つからない。ふにゃ〜。

夢を見た。悪夢だった。気の狂った弟がたこ焼き屋さんで順番待ちしている女子高校生たちの順番を無視して割り込んでたこ焼きを注文して文句を言われて、その女子高校生のひとりを殴ったら女子高校生たちにぼこぼこに殴り返されている夢だった。とても現実感のある夢であったので、じつに情けなかった。

きょうも仕事がないので、夕方まで、『金子光晴詩集』を読むことにする。

付箋しようか迷って付箋しなかった箇所の詩句「深みから奈落が浮かび上がってくる」(だったの思う)が、3、4回繰り返し読み直しても見つからなかった。ぼくが勝手にイメージしてつくった言葉なのかな。「僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、」(『寂しさの歌』三)からの。

これから読むのは、岩波文庫の『金子光晴詩集』295ページ。『くらげの唄』から。これはアンソロジーで読んだような気がする。夕方までには最後まで読めるだろうね。夥しい付箋の数。西脇順三郎を読んだときより多いかもしれない。めっちゃ意外。おもしろさの種類がちょこっと違うような気もするけど。

363ページに、「なじみ深いおまんこさんに言ふ」(金子光晴『愛情』46)とあったので、すかさず付箋した。

465ページに、「イヴの末裔はお祖々をかくし」(金子光晴『多勢のイヴに』)という詩句を見つけた。「おそそ」というのは、「おまんこ」のことである。ぼくの父親の世代(いま80歳くらいのひとたち)で使われていた単語だ。めっちゃなつかしい。数十年ぶりに目にした言葉だった。「おそそ」

かといって、同じ詩のさいごの二行はこんなの。

核実験は夢のまたゆめ
どこまでつづくぬかるみぞ。
(金子光晴『多勢のイヴに』最終連・第三―四行)

ようやく、岩波文庫の『金子光晴詩集』が読めた。後半、付箋だらけ。これから、もう一度、読み直す。よいなと思った詩篇を。

先に、コーヒーをもう一杯、淹れよう。

鼻水が出てて、それがどこまで長く伸びるのかなって見てたら、その鼻水の先っちょが『金子光晴詩集』のページの耳のところに落ちてしまって、4、5ページにわたって鼻水が沁み込んでいた。すぐに気がつかなかったからなんだけど、すぐに拭いてても悲惨なことになっていたような気がする。しょんぼり。いったん詩集を閉じて、コーヒーを飲んでいたので沁み込んでいたのだね。いまそこのところを見直してたら、ぼくの表現がおかしいことに気がついた。4、5ページじゃなくて、4、5枚ね。表裏に沁み込んで、その部分波型になっているし。落ちた場所なんて、ひっぺがすときにちょこっと破れかけてたし。ああ、でも、ぼくは、こんなささいな、ちょっとしたことでも、人生においては、大事な成分だと思っているし、そのちょこっと破れかけたページや、波型になってしまったページの耳をみるたびに、自分の失敗を思い出すだろう。以前に、ページのうえにとまった羽虫を手ではらうと、羽虫の身体がつぶれて、ページの本文の詩句のうえを汚してしまったことを、いつまでも憶えているように。たしか、夏に公園で読んでいた岩波文庫の『ジョン・ダン詩集』だったと思う。これは、2度ほど詩に書いたことがある。河野聡子さんが編集なさったご本に、「100人のダリが曲がっている。」というタイトルで掲載していただいたはずなのだけど、ちょっと調べてくるね。(中座)二〇〇九年十二月六日に発行された、『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』という、とてもおしゃれな装丁とカラフルなページのご本でした。ぼくの「100人のダリが曲がっている。」は、26ページに掲載していただいている。

あつかったコーヒーが少しさめてぬるくなった。ちょうどいいぬるさだ。岩波文庫の『金子光晴詩集』の気に入った詩を再読しよう。音楽といっしょで、よいなと思うと、繰り返し読んでしまうタイプの読み手なのだ。小説でも、ジーン・ウルフとか、フランク・ハーバートとか、3回以上、読み直ししている。

そいえば、きのう、日知庵で、ぼくが読んでる『金子光晴詩集』に収録されている詩のなかに出てくる「ぱんぱん」という言葉について、えいちゃんに、「えいちゃん、ぱんぱんって言葉、知ってる?」って訊くと、「えっ、なにそれ。」という返事がすかさず返ってきたのだけれど、カウンターのなかで洗い物をしていた従業員のいさおさんが、「売春婦のことですよ。」と間髪入れずに答えてくれたのだった。すると、えいちゃんも、「思い出した。聞いたことがあるわ。」と言ってたのだけど、ぼくは、「そうか、ぼくが子どものときは、よく耳にする言葉だったけどね。あの女、ぱんぱんみたいって言うと、パン2つでも、おまんこさせるって感じの尻軽女のことを言ってたんだけどね。」と言うと、いさおさんが、「ぼくは違うと思いますよ。パン2つで、じゃなくて、これですよ、これ。」と言って、洗い物をやめて、くぼめた左手に開いた右手をあてて、「パンパン」って音をさせたのであった。「そう? 音なの?」って、ぼくは、自分が聞いた話と違っていた説明に、「なるほどね。セックスのときの音ね。気がつかなかったけれど、なんか納得するわ。」と言った。どちらがほんとうの「ぱんぱん」の説明かは知らないけれど、終戦直後にはよく街角に立っていたらしい。つい最近もツイートで、写真をみたことがある。ぱんぱんと思われる女性が街角に立って、ちょっと背をかがめて、紙巻たばこを口にくわえて、紫煙をくゆらせていたように記憶している。ぱんぱんか。ぼくの父親は昭和11年生まれだったから、じっさいに、ぱんぱんを目にしていたかもしれないな。いや、きっと目にしていただろう。文学は記憶装置だと、きのうか、おとついに書いたけれども、じっさいに自分が目にしていなかったことも、それは写真などで目にしたもの、書物のなかに出てきた言葉として記憶したものをも思い起こさせる記憶装置なのだなって思った。いさおさんが、日本の任侠映画にも出てきますよと言ってたけど、日本の任侠映画って、ぼく、あまり見た記憶がなくって、はっきり思い出せなかったのだけれど、そう聞かされると、数少ない目にした任侠映画に、ぱんぱんという言葉がでてきたかもしれないなあと思った。これって、なんだろう。はっきりした記憶じゃなくて、呼び起こされた記憶ってことかな。わからん。

いま王将に行って、遅い昼ご飯を食べてきたのだけれど、そだ。きのう、日知庵で、金子光晴の詩に「ぱんぱん」という言葉がでてきて、そのこと、きのうしゃべったぞと思い出して、帰ってきたら、ツイートしなきゃって思って、王将でペンとメモ帳を取り出して、記憶のかぎりカリカリ書き出したのだった。いや〜しかし、いさおさんの説明、説得力があったな。「ぱんぱん」という音がセックスのときの音って。音には断然たる説得力があるね。パン2つでという、ぼくの説明が、しゅんと消えちゃった。まあ、そういった音も、ぼくにかぎっては、ここさいきんないのだけれど。さびしい。なんてことも考えてた。まあ、また、いさおさんが、洗い物をした直後で、まだ水に濡れている手で、「ぱんぱん」という音をさせたので、おお、そうか、その音だったのだって思ったこともある。あのいさおさんの手が濡れていなかったら、あまり迫力のない「ぱんぱん」という音だったかもしれないので、状況って、おもしろいね。いま何日かまえに見たという、ぱんぱんの画像をツイッターで調べてみたんだけど、数日まえじゃなくて、10日まえの4月16日の画像だった。記憶ってあてにならないね。あ、あてにならない記憶って、ぼくの記憶のことだけどね。ぴったし正確に憶えていられる脳みその持ち主だって、きっとたくさんいらっしゃるのだろうしね。56歳にもなると、ぼくは、自分の記憶力に自信がすっかりなくなってしまったよ。付箋し損なったと思っていた金子光晴の詩句だと思っていた「海の底から奈落が浮かび上がってくる」も、金子光晴の『鮫』三にある「おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。」という詩句か、『寂しさの歌』三にある「僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。」という詩句から、ぼくが勝手につくりだしたものかもしれない。うううん。こんなことがあるあら、ちょっとでも意識にひっかかった個所は、かならず付箋しておかなけりゃいけないね。ほんと、うかつ。これからは、気をつけようっと。

ぼくが金子光晴の詩を、この岩波文庫の『金子光晴詩集』から一篇を選ぶとしたら、まえに引用した、あのうんこの詩「もう一篇の詩」か、つぎに引用する「死」という詩かな。


金子光晴 「死」

       ━━Sに。

 生きてるのが花よ。
さういつて別れたおまへ。
根さがりの銀杏返し
痺肩のいたいたしいうしろつき。

あれから二十年、三十年
女はあつちをむいたままだ。
泣いてゐるのか、それとも
しのび笑をこしらへてゐるのか

ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。
人の騒ぎと、時のうしほのなかで
うつかり手をはなせば互ひに
もう、生死をしる由がない。

しつてくれ。いまの僕は
花も実も昔のことで、生きるのが重荷
心にのこるおまへのほとぼりに
さむざむと手をかざしてゐるのが精一杯。


うんこの詩もすばらしいが、この実存的な詩もすばらしい。岩波文庫の『金子光晴詩集』は、清岡卓行さんの編集が入っているので、その目から逃れた詩篇についてはわからないけれど、「もう一篇の詩」か、「死」のどちらかが、ぼくの選ぶ「金子光晴ベスト」かな。

これからお風呂に入ろう。それからコーヒーを淹れて、ちょっとゆっくりしよう。

コーヒーを先に淹れた。

遅がけに、日知庵に飲みに行くことに。10時くらいに行くと思う。きょうは、自分の鼻水で遊んでいて、岩波文庫の『金子光晴詩集』のページを(耳のところだけどね)傷めてしまって、自分で自分を傷つけたことにショックを受けたけど、いい勉強になった。自分の鼻水では、もうけっして遊ばないこと。


二〇一七年四月二十七日 「金子光晴の詩」


きのう、岩波文庫の『金子光晴詩集』で、付箋した箇所をツイートしてみようかな。こんなの、ぼくは選んでるってことで、ぼくの嗜好がよく出ているんじゃないかな。まあ、いろいろな傾向のものが好きだけどね。きょうは休みだから、ひまなんだ。


金子光晴 「章句」F

落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる
落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる


金子光晴 「渦」

馬券をかふために金のほしいやつと
金がほしいために馬券を買ふやつとの
半分づつの住居なのだ。


金子光晴 「渦」

あゝ渦の渦たる都上海
強力にまきこめ、しぼり、投出す、
しかしその大小無数の渦もやうは
他でもない。世界から計上された
無数の質問とその答だ。


金子光晴 「路傍の愛人」

危い! あんまりそばへ寄ると
君は一枚の鱗(うろこ)を残して、姿を消してしまふかもしれない。


金子光晴 「路傍の愛人」

だが、彼女はしらない。彼女の輝やくうつくしさが、
俺のやうなゆきずりの、張(ちやう)三(さん)李(り)四(し)の、愛慕と讃嘆と、祝福とで、
妖しいまでに、ひときは照りはえたあの瞬間を。


金子光晴 「航海」

彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ
前(ぜん)檣(しやう)トップで、油汗にひたつてゐた。


金子光晴 「南の女におくる」

人は、どんな小さな記憶でも、摑んでゐるわけにゆかない。


金子光晴 「夜の酒場で」

ながれ汚水。だが、どこかへうごいてゐないものはない。私はひとり、頬杖をついて、


金子光晴 「おっとせい」二

(…)やつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。


金子光晴 「泡」三

(…)らんかんにのって辷りながら、おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。


金子光晴 「どぶ」一

━━女ぢゃねえ。いや人間でもねえ。あれは、糞壺なんだ。


金子光晴 「あけがたの歌」序詩 一

 どつかへ逃れてゆかうとさまよふ。
 僕も、僕のつれあるいてゐる影も、ゆくところがない。


金子光晴 「落下傘」一

おちこんでゆくこの速さは
なにごとだ。
なんのあやまちだ。


金子光晴 「寂しさの歌」三

僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。


金子光晴 「蛾」一

月はない。だが月のあかるさにみちてゐた。


金子光晴 「子供の徴兵検査の日に」

身辺がおし流されて、いつのまにか
おもひもかけないところにじぶんがゐる


金子光晴 「女たちのエレジー」

(…)釦穴にさした一輪。あの女たちの黒い皺。黒い肛門。


金子光晴 「女の顔の横っちょに書いてある詩」

三十年後のいまも猶僕は
顔をまっ赤にして途(と)惑(まど)ふ。
そのときの言訳のことばが
いまだにみつからないので。


金子光晴 「[戦争が終ったその日から]」

ぱんぱんはそばの誰彼を
食ってしまひさうな欠伸をする。
この欠伸ほどふかい穴を
日本では、みたことがない。


金子光晴 「くらげの唄」

僕? 僕とはね、
からっぽのことなのさ。
からっぽが波にゆられ、
また、波にゆりかへされ。


金子光晴 「ある序曲」

すでに、僕らは孤独でさへありえない。死ぬまで生きつづけなければならない。ごろごろいっしょに。
そして、真似なければならない。することも考へることも、誰かにそつくりゆずりわたすために。


金子光晴 「太陽」

濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。


金子光晴 「太陽」

濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる。
……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。
暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の
居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。


金子光晴 若葉よ来年は海へゆかう」

海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。


金子光晴 「愛情」8

 なにを申しても、もう
太真はゐない。

 あのお尻からもれる
疳高いおならを、

 一つ、二つ、三つ、四つと
そばで数取りしてゐた頃の

万歳爺々(くわうてい)のしあわせは
四百余州もかへがたかつた。


金子光晴 「愛情」29

 "唇と肛門とは親戚だ"と、
いくら話しても、その男には分らない。


金子光晴 「愛情」46

 みんな、ばらばらになるんだね。
もう、洋服もつくつて貰へなくなるね。
ジョーさんよ、いづれは皆さやうならだ。
太陽も、電燈も、コップの水も。

 みんな君が愛したものだ。酒も、詩も、
それから、大事なことを忘れてはいけない。
君だけをたよりに生きてきた奥さんの
なじみ深いおまんこさんに言ふ
       サンキュー・ベリマッチを。


金子光晴 「海をもう一度」

 あくと、あぶらと、小便で濁つた海は
海亀と、鮫と、しびれえひしか住めない。


金子光晴 「女の一生を詩(うた)ふ」

それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、
おなじものを別の感性で受けとり、
おなじことばで、別のなかみを喋(しやべ)る。


金子光晴 「雨の唄」

君のからだのどのへんに
君がいるのだ?
君を見失ったというよりも
僕はまだ、君をみつけなかった。


金子光晴 「雨の唄」

僕の胸のなかに這ういたみ
それが、君ではないのか。
たとえ、君ではないにしても
君が投げかける影ではないか。


金子光晴 「雨の唄」

君は単数なのか。複数なのか。
きのうの君ははたして、きょうの君か。
いつともしらず、刻々に蒸発して
君の若さは、交代してしまう。


金子光晴 「短詩(三篇)」B

 人間がゐなくなつて、
第一に困るのは、神様と虱だ。
さて、僕がゐなくなるとして、
惜しいのは、この舌で、
なめられなくなることだ。

 あのビンもずゐぶん可愛がつて、
口から尻までなめてやつたが、
閉口したことは、ビン奴、
おしゃべりで、七十年間、
つまらぬことをしゃべり通しだ。


金子光晴 「短詩(三篇)」C

 そして、僕はしじんになった。
学問があひてにしてくれないので。
ビンに結んだ名札を僕は、
包茎の根元に結びつけた。


金子光晴 「そろそろ近いおれの死に」

詩だって? それこそ世迷ひごとさ。


金子光晴 「反対」

人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。


金子光晴 「反対」

ぼくは信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」A

枝と枝が支へる沈黙のほか
からんとして、なんにもない。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」E

 健全な白い歯並。こいつが第一だ。ぬれて光る唇。漆戸棚のやうな黒光りする頑丈な胃。鉄のやうなはらわた。よく締まつた肛門。
 さあ。もつてらつしやい。なんでもたべるわ。花でも、葉でも、虫でも、サラダでも、牛でも、らくだでも、男たちでも、あしたにならないうちに、みんな消化して、ふというんこにしておし出してしまふから。
 そんな女に僕は、ときどき路傍ですれちがふんだが。


金子光晴 「短章(二十三篇から)」W

 冒頭もなく、終もなく、人生はどの頁をひらいてみても人生であるやうに
僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。

一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終りさうだ。
そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなつてのこり、それを名づけて、人は"詩"とよぶ。


金子光晴 「そ ら」

生きてることは せうことない
肌でよごす肌 ふれればきずつく心


金子光晴 「多勢のイブに」

 イブの末裔はお祖々をかくし
棕(しゆ)櫚(ろ)の毛でぼやかしてアダムを釣り
沼辺の虫取りすみれを植ゑて
アダムの塔をHOTHOTさせる。


金子光晴 「わが生の限界の日々」

 四十、五十をすぎてからの日々の迅速さ。
メニューを逆さにして下から上へと、
一度抜(ぬ)けたら生え替(かは)らないこの歯ぐきで
人生を味ひ通す望みがあるか、ないか、
          炎天下で、垂氷(つらら)の下で。


4月28日締め切りの原稿も彫琢しまくって、ぴったし制限文字数で書いたのだが、  これから王将でお昼ご飯を食べに行って、帰ってきたら、もう一度、原稿に目を通して、思潮社の編集長の高木真史さんにワード原稿をメールに添付して送付しようっと。

もういま、完成した原稿を高木さんに送ったので、きょうはもう、することがない。金子光晴の詩句をルーズリーフに書き写そうかな。それとも、ちょっと休んで、横になって、本でも読むか。まず、とりあえず、コーヒーでも淹れよう。

送った原稿にアラビア数字が漢数字に混入していたので、訂正稿をいま送り直した。どんだけ間抜けなのだろうか。文章の内容ばかりにとらわれて、文字の統一を失念していた。まあ、その日のうちに、気がついてよかったけれど。送ってからでも原稿の見直しをしてよかった。というか、推敲を完璧にすべき!

晩ご飯を食べに出る。イオンで、チゲラーメンでも食べてこよう。

焼き飯も食べた。

ルーズリーフ作業終了。これから寝るまで読書。さて、なにを読もうか。ディックの短篇集『ペイチェック』に入っているものを読もう。さいきん知ったコメディアン二人組「アキナ」がおもしろい。直解主義的な言葉のやりとりが見事。

きょうも文学に捧げた一日であった。おやすみ、グッジョブ!


二〇一七年四月二十八日 「毎日のように日智庵」


これからお風呂。そして仕事に。

あしたも日知庵に行くと思うけど、きょうも、10時くらいに行く予定。飲んでばっかりや。ちゅうても、きょうも授業の空き時間は読書。ディックの短篇の再読。


二〇一七年四月二十九日 「きょうは、ひとりじゃないんだよ。えへへ。」


日智庵に行くまえに、ジュンク堂で、現代詩手帖の5月号の「詩集月評」を見た。ぼくの詩集『図書館の掟。』(思潮社オンデマンド・2017年2月刊行)の評を、時里二郎さんが書いてくださっていた。詩句の一行の引用もなく。というか、詩句のひと言の引用もなく。まあ、いいか。採り上げていただくだけでも。ね。これが無名の詩人のさだめかな。

いま日知庵から帰った。ひとりじゃないんだよ。えへへ。


二〇一七年四月三十日 「ゲイルズバーグの春を愛す」


ジャック・フィニイの短篇を読もうと思う。きのう、フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』のトールサイズの文庫をブックオフで108円で買ったのだった。ほとんどさらの状態。

フィニイの短篇集、会話がほとんどなくって読みにくいけれど、このあいだ現代日本の作家の小説を開けたら会話ばっかりだったので、それも勘弁してほしいと思った。適当に、まぜまぜしたものが読みたいと思うのだが、極端な作家が多いのかな。

イオンでチゲラーメン食べてきた。これから読書に戻る。フィニイ。


二〇一七年四月三十一日 「ほんとうに文章って、怖い。」


いまも原稿に手を入れていた。いったん高木さんにお送りした原稿なのだけど、書き直しをしているのだ。さっき完璧だと思っていたのに、まださらによい原稿になっていく。怖いなあ、文章って。ちょっと休憩しよう。セブイレに行って、おにぎりでも買ってこようかな。

原稿、まだ手が入る。ほんとうに文章って、怖い。

ちょっと休憩しよう。言葉を切り詰めて切り詰めていると、頭がキリキリと傷む。とても単純なことを書こうとしているのだけれど、それがひじょうにむずかしいのだ。


陽の埋葬

  田中宏輔

                         

 高校の嘱託講師から予備校の非常勤講師になってしばらくすると、下鴨から北山に引っ越した。家賃が五万七千円から二万六千円になった。ユニット・バスの代わりに、トイレと風呂が共同になった。コの字型の二階建ての木造建築で、築二十年のオンボロ・アパートである。北山大橋の袂で、しかも、ぼくの部屋は入り口に一番近い部屋だったので、数十秒で賀茂川の河川敷に行くことができた。だから、北山の河川敷を歩いてそのまま下って、発展場の葵公園まで行くことが多かった。その夜は、しかし、仕事から帰って、ふと居眠りしてしまって、気がつくと、夜中の二時になっていた。そんな時間だったのだが、つぎの日が土曜日で、仕事が休みだったので、タクシーに乗って河原町まで行くことにした。千円をすこし超えるくらいの距離だった。四条通りの一つ手前の大通りの新京極通りでタクシーを降りると、交差点を渡って一筋目を下がって西に向かって歩く。数十メートルほど歩けば、八千代館という、昼の十二時から朝の五時までやっている、オールナイトのポルノ映画館がある。食われノンケと呼ばれる若い子たちが、気持ちのいいことをしてもらいにきている発展場だった。ぼくのように二十代で、そういう食われノンケの子を引っかけにきている者は、ほかにはほとんどいなかった。狩猟にたとえると、いわば狩りをするほうの側の人間は、四十代の後半から六十代くらいまでの年配のゲイが多く、なかには、女装した中年の者もいたが、たいていは、サラリーマン風のゲイが多かった。狩られるほうの側は、学生風や、肉体労働者風など、さまざまな風体の者たちがいた。生真面目そうな学生や、髪の毛を染めて、鉢巻をした作業着姿の若い子もいた。
 入口から入ってすぐのところにある扉を開いてなかに入った。映画館に入っても、外の暗さと変わらないので、昼に入ったときとは違って、目が慣れるのに時間がかかるということはなかった。一階の座席の後ろに、よく見かけるブルーの大きなポリバケツのゴミ箱と、ガムテープを貼って傷んだ箇所をつくろってある白いビニール張りのソファーが一つ置いてあるのだが、そのソファーの上に、横になって寝ている振りをしている男がいた。もしかすると、ほんとうに眠っていたのかもしれないが。三十代半ばくらいのサラリーマンだろうか、スーツ姿であった。その男のスラックスの股間部分は、まるで陰茎が硬く勃起しているかのように思わせる盛り上がり方をしていた。男の膝から下は、ソファーの端からはみ出していて、脚が膝のところで、くの字型に折れ曲がっていた。顔を覗き込んだが、ぼくのタイプではなかった。カマキリを太らせたような顔だった。緑色の顔をしていた。ぼくは、ポリバケツのゴミ箱とソファーに対して正三角形を形成するような位置に立って、最後部の座席の後ろから一階席すべてを眺め渡した。この空間自体を、「ハコ」と呼び、「ハコ」のなかで、性的な交渉をすることを「ハコ遊び」と称する連中もいる。「発展場」を英語で、hot spot という。hot には、「暑い」という意味と、「熱い」という意味があるが、どちらも、それほど適切ではないように思われる。むしろ、濡れたところ、べちゃべちゃとしたところ、ぬるぬるとしたところということで、wet spot とか、あるいは、ぺちゃぺちゃとか、ちゅぱちゅぱとかいった音を立てるところとして、damp apot とかと呼ぶほうがいいだろう。しかし、damperには、たしかに、「濡らす人」という意味があって、そこのところはぴったりなのだけれど、「元気を落とさせる人」とか、「希望・熱意・興味などを幻滅させる人」とかいった意味もあるので、発展場に食われにきている男の子や男に対して、陰茎を萎えさせるという意味にもなるから、スラングとしては、あまり適していないかもしれない。オーラル・セックス、いわゆるフェラチオ、もしくは、尺八と呼ばれる口と舌を駆使する性技があるが、ときには、喉の奥にまで勃起した陰茎を呑み込んで、意思では自在にならない間歇的な喉の筋肉の麻痺的な締め付けでヴァギナ的な感触を味合わせる「ディープ・スロート」という、有名なポルノ映画のタイトルにもなった性技もあるが、虫歯のために歯の端っこが欠けてとがっていたり、ただ単にへたくそで、勃起した陰茎に、しかも、それが仮性包茎であったりして亀頭が敏感なものなのに、それに歯の先をあてたりする連中がいて、たしかに、勃起した陰茎を萎えさせる者もいるのだが、ぼくは、自分のものが仮性包茎で、勃起してもようやく亀頭の先の三分の一くらいが露出するようなチンポコで、とても敏感に感じるほうなので、相手のチンポコを口にくわえるときには、とても気をつけている。
 タイプはいなかった。女装が二人いた。三つのブロックに別れた座席群のうち、スリーンに向かって左側のブロックの最後部の左端の座席に一人と、真ん中のブロックの前のほうに一人。左側の左端にいた、まるでプロレスラーのような巨体の女装は、六十代くらいの小柄な老人と小声で話をしていた。もう性行為は終わったのだろうか。金額はわからないが、その巨体の女装は、お金をもらって、フェラチオをするらしい。直接、本人から聞いた話である。真ん中のブロックの前のほうにいた女装もまた、自分の隣の席に男を坐らせていた。先に坐っていた男の隣の席に、あとから坐りに行ったのか、それとも、後ろに立っていたその男に声をかけて、いっしょに坐ったのだろう。もしかすると、顔なじみの客なのかもしれない。しかし、スクリーンのほうに顔を向けているその客の顔はわからなかった。彼女はとても小柄で、まだ若くて、きれいだった。ノンケの男からすれば、女の子と見まがうくらいであろう。彼女は、わざわざ大阪から、お金を稼ぎにきているという。例の左側のブロックに坐っていたプロレスラーのような巨体の女装から聞いた話である。小柄なほうの女装の彼女は、隣に坐っている若そうな男のその耳元で話をしていたが、やがて、その男の股間に顔を埋めた。ぼくのいた場所からは、彼女が背を丸めて、彼女の座席の背もたれに姿が見えなくなったことから、そう想像しただけなのだが、そうであるに違いなかった。その若そうな男は、後ろから見ただけなので、正面側の顔はわからなかったが、彼がぼく好みの短髪で、若そうで、いかにもがっしりとした体つきをしていたことは、スクリーンの明かりからなぞることができる彼の頭の形や、垣間見える横顔の一部や、首とか肩とか上腕部とかいったものの輪郭や質感などから想像できた。ほかに五人の観客がいたが、どれも中年か老人で、ぼくがいけるような男の子はいなかった。二階にも座席があったので、二階にも行ったが、若い子は一人しかいなかった。ひょろっとした体型の、カマキリのような顔をした男の子だった。顔も緑色だった。ほかにいた五、六人の男たちも、またみんな年老いたカマキリのような顔をしていたので、ぼくは、げんなりとした気分になって、もう一度一階に下りて、真ん中のブロックの真ん中のほうに坐った。そこからだと、かすかだが、先ほどから前でやっていた女装と若そうな男とのやりとりを見ることができたからだ。ときおり、スクリーンが明るくなって、若そうな男が、頭を肯かせているのがわかった。女装の彼女の声は、映画の音に比べるとずいぶんと小さなものなのに、耳を澄ますと、はっきりと聞こえてきた。人間の生の声は、機械から聞こえてくる人間の録音した声と混じっていても、けっして混じることなどないのかもしれない。どんなにかすかな音量の声であっても、ぼくには、それが人間の生の声なのか、録音された声なのか、はっきりと聞き分けることができた。むしろ、かすかであればあるほど、よく聞き分けることができるように思われる。山羊座の耳は地獄耳だと、占星術か何かの本で読んだことがある。「気持ちいい?」と、女装の彼女は尋ねていたのだ。男は訊かれるたびに肯いていた。これ自体、プレイの一部なのだと思う。ぼくもまた、彼女と同じように、くわえたチンポコを口のなかに入れたまま、相手の股間に埋めた自分の顔を上げて、快感に酔いしれたその男の子の恍惚とした表情を見上げながら、おもむろにチンポコから口を放して、「気持ちいい?」と訊くことがあるからだ。ほとんどの男の子は「いい……」と返事をしてくれる。肯くことしかしてくれない者もいるが、たいていの子は返事をしてくれて、それまで声を出さなかった者でも、あえぎ声を出しはじめるのだった。その声は、もちろん、ぼくをもあえがせるものだった。その男の子があえぎ声を出すたびに、ぼくにも、その男の子が亀頭で味わう快感が、その男の子が彼の敏感な亀頭の先で味わう快感の波が打ち寄せるのだった。短髪の彼が、突然硬直したように背もたれに身体をあずけた。いくところなのだろう。男は、小刻みに身体を震わせた。しばらくすると、女装の彼女が顔を上げた。すると、音を立てて、乱暴に扉を押し開ける音がした。ぼくは振り返った。
 沈黙が、いつでも跳びかかる機会を狙って、会話のなかに身を潜めているように、記憶の断片もまた、突然、目のなかに飛び込んでいく機会を待っていたのだ。その記憶の断片とは、ぼくの記憶のなかにあった、京大生のエイジくんのものだった。扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、エイジくんの記憶を想起させるほどにたくましい体格の、髪を金髪に染めた短髪の青年だった。二十歳くらいだろうか。ぼくは立ち上がって、最後部の座席のすぐ後ろに立った。その青年のすぐ前に。その青年の視線は、入ってきたときからまっすぐにただスクリーンにだけ向けられていたのだが、ふと思いついたかのように、くるっと横を振り向いてトイレに行くと、ちょうど小便をしたくらいの時間が経ったころに出てきた。すぐに追いかけなくてよかったと思った。出てきた青年は、最初から坐る場所を決めていたかのように、すっと、真ん中のブロックにある中央の座席に坐った。端から三番目で、それは、食われノンケの子がよく坐る位置にあった。端から一つあけて坐る者は、ほぼ確実に食われノンケであったが、端から二つあけて坐る食われノンケの子も多い。その青年は、紺色のスウェットに身を包んで坐っていた。そういえば、エイジくんも、以前にぼくが住んでいた下鴨の部屋に、スウェット姿でよく訪ねてきてくれた。エイジくんのスウェットはよく目立つ紫色のもので、それがまたとてもよく似合っていたのだけれど。一つあけて、ぼくは、青年の横に坐った。青年は、まっすぐスクリーンに顔を向けて、ぼくがそばに坐ったことに気がつかない振りをしていた。傷ついた自我の一部がひとりでに治ることもあるだろう。傷ついた自分の感情の一部が知らないうちに癒されることもあるだろう。しかし、その青年の横顔を見ていると、傷ついた自我の一部や、傷ついた自分の感情の一部が、すみやかに癒されていくのを感じた。そして、胸のなかで自分の心臓が踊り出したかのように激しく鼓動していくのがわかった。ぼくは、自分が坐っていた座席の座部が音を立てないように手で押さえながら、腰を浮かせて、彼の隣の席にゆっくりと移動していった。彼はそれでもまだスクリーンに見入っている振りをしていた。見ると、彼の股間は、その形がわかるくらいに膨らんでいた。ぼくは、自分の左手を、彼の股間に、とてもゆっくりと、そうっと伸ばしていった。中指と人差し指の先が彼の股間に達した。そこは、すでに完全に勃起していた。やわらかい布地を通して、触れているのか触れていないのかわからない程度に、わざとかすかに触れながら、まるで、ふつうに触れると壊れてしまうのではないかというふうに、やさしくなでていくと、勃起したチンポコはさらに硬く硬くなって、ギンギンに勃起していった。青年の顔を見ると、ちょっと困ったような顔をして、ぼくの目を見つめ返してきた。ぼくは、彼のチンポコをパンツのなかから出して、自分の口に含んだ。硬くて太いチンポコだった。巨根と言ってもいいだろう。ぼくは、その巨大なチンポコの先をくわえながら、舌を動かして、鈴口とその周辺をなめまわした。すると、その青年が、「ホテルに行こう。おれがホテル代を出すから。」と言った。そんなふうに、若い子のほうからホテルに行こうなどと誘われるのは、ぼくにははじめてのことだった。しかも、若い子のほうが、ホテル代を出すというのだ。びっくりした。その子は自分のチンポコをしまうと、ぼくの手を引っ張って、座席をさっと立った。彼は手をすぐに離したけれど、ぼくにも立つように目でうながして、扉のほうに向かった。ぼくは、その後ろに着いて行く格好で、彼の後を追った。
 彼は、自分の車を映画館のすぐそばに止めていた。車のことには詳しくないので、ぼくにはその車の名前はわからなかったけれど、それが外車であることくらいはわかった。車は、東山三条を東に進んで左折し、平安神宮のほうに向かってすぐにまた左折した。彼は、「デミアン」という名前のラブホテルの地下の駐車場に車を止めた。車のなかで、彼は自分が中国人であることや、いま二十四才であるとか、中学を出てすぐ水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をして、金があるから、ホテル代の心配はしなくていいとか、長いあいだ付き合っている女もいて、その彼女とは同棲もしているのだけれど、その彼女以外にも、女がいるとかといった話をした。月に一度くらい男とやりたくなるらしい。初体験は、十六歳のときだという。白バイにスピード違反で捕まったときに、その白バイに乗っていた警官に、「チンコをいじられた」という。チンポコではなくて、チンコという言い方がかわいいと思った。しかし、顔を見ると、あまりいい思い出ではなさそうだったので、ぼくのほうからは何も訊くようなことはしなかった。初体験については、彼のほうも、それ以上のことは語らなかった。いまにして思えば、彼がしたような体験は、自分がしたことのなかったものなので、もっと具体的に聞いておけばよかったなと思われる。
 「このあいだ、大阪の梅田にあるSMクラブに行ったんやけど、おれって、女に対してはSなんやけど、男に対してはMになるんや。そやから、女のときは、おれが責めるほうで、男のときは、おれのほうが責められたいねん。」二人でシャワーを浴びながら、キスをした。キスをしながら、ぼくは、彼の身体を抱きしめて、右手の指先を彼の尻の穴のほうにすべらせた。中指と人差し指の内側の爪のないほうで、穴のまわりを触って、ゆっくりと二本の指を挿入していった。
 「おれ、後ろは、半年ぐらいしてへんねん。」すこし顔をしかめて、ぼくの目を見つめる彼。ぼくは、指を抜いて、彼の目を見つめ返した。「痛い?」シャワーの湯しぶきが、風呂場の電灯できらきらと輝いていた。「ちょっと。」と言って、彼は笑った。「痛くないようにするよ。」と言って、彼を安心させるために、ぼくも自分の顔に笑みを浮べた。
 ベッドに仰向けに横たわった彼の両足首を持ち上げて、脚を開かせ、尻の穴がはっきりと見えるように、尻の下に枕を入れて、ぼくは彼の尻の穴をなめまわした。穴を刺激するために、舌の先を穴のなかに入れたり、穴の周辺のあたりを、その粘膜と皮膚の合いの子のようなやわらかい部分を、唇にはさんだり吸ったりして、彼がアナルセックスをしたくなるように、そういう気分になるように刺激しようとして、わざと、ぺちゃぺちゃとか、ちゅっちゅっとか、派手に音を立てながら愛撫した。そうして、じゅうぶんにやわらかくなった尻の穴にクリームを塗ると、勃起したぼくのチンポコをあてがった。痛くないように、かなりゆっくりと入れていった。彼は最初に大きく息を吸って、ぼくのチンポコが彼の尻の穴のなかに入っていくあいだ、その息をじっととめていたようだった。ぼくが彼の足首から手を離して、彼の脇に手をやって腰を動かしはじめると、彼は溜めていた息を一気に吐き出した。それが彼の最初のあえぎ声を導き出した。途中で、バックからもやりたくなった。いったん、チンポコを抜いて、彼を犬のように四つんばいの姿勢にさせて、もう一度入れ直した。チンポコは、つるっとすべるようにして、スムーズに入った。彼は、ぼくの腰の動きに合わせて、頭を振りながら大きな声であえいだ。がっしりとした体格で、盛り上がった尻たぶに、ぼくの腰があたって、濡れた肌と肌がぶつかる、ぴたぴたという音が淫らに聞こえた。「なかに出してもいい?」と、ぼくが訊くと、彼はうんうんと肯いた。ぼくは、彼の引き締まった尻の穴のなかに射精した。
 彼は、北山にあるぼくのアパートの前まで車で送ってくれた。オンボロ・アパートに住んでいることが知られて恥ずかしいという思いが、彼に、また会ってくれるか、と言うことをためらわせた。本来は女が好きで、月に一度くらい男とやりたくなるという彼の言葉もまた、ぼくの気持ちをためらわせた。なにしろ、月に一度だけなのだ。
 人間は自分のことを知ってもらいたい生き物なのだと思った。初対面の相手に、自分が中国人で、自分が小学生のときに家族といっしょに日本に来て、兄弟姉妹が六人もいて、自分は長男で、中学校を出たら働かなくてはいけなくて、それで、学歴がなくても働ける水商売の道に入って、いまは風俗店の店長をしているということや、自分は女が好きで、いっしょに暮している女がいても、ほかにも女をつくって浮気をしているということや、それでも、月に一度くらいは男と寝たくなって、ああいったポルノ映画館に行って、男にやられるなんてことを、はじめて出会った人間に話したりなどするのだから。自分がいったいどういった人間で、自分がほかの人間とどう違っているのかを、はじめて出会ったぼくに話したりなどするのだから。
 車から降りて、別れのあいさつをした。アパートの前で、道路を振り返った。彼はすぐには車を出さずに、ぼくが自分の部屋に戻るまで車をとめていた。できた相手に、車で送ってもらうことは何度もあったけれど、彼のように、ぼくが部屋に入るまで見送ってくれるような子は一人もいなかった。また会えるかなと、口にすればよかったなと思った。
 一ヵ月後に、千本中立売にあるポルノ映画館の千本日活に行った。昼間だったので、入ってすぐにはわからなかったけれど、しばらく後ろに立って目が慣れていくのを待っていると、体格のいい、ぼくのタイプっぽい青年が一人いた。知っているゲイのおじさんが、ぼくの横に来て、「あの子、チンポ、くわえてくれるわよ。ホモよ。」と言った。チンポコとは違って、また、チンコとも違って、チンポという言い方は、なんだかすこし、下品な感じがすると思った。彼の体格は、おじさんの好みではなかったので、彼がぼくの好みであることを知っていて、その彼のことを教えてくれたつもりだったのだ。おじさんは、ジャニーズ系のちゃらちゃらとした、顔のきれいな、すっとした体型の男の子がタイプだった。ぼくとは、好みのタイプがまったく違っていた。だから、ごく気軽に、ぼくのほうに話しかけてきたのだろうけれど。ぼくは、彼が二つあけて坐っている座席のほうに近づいた。彼は紺色のニットの帽子をかぶっていた。横から顔をのぞくと、このあいだ八千代館で出会った髪を金髪に染めた短髪の青年だった。「また会ったね。」と、ぼくが話しかけると、彼はにっこりと笑って肯いた。ぼくは彼の股間をまさぐった。その大きさと硬さを、ぼくの手が覚えていた。ぼくは腰をかがめて彼のチンポコをしゃぶった。彼はなかなかいかなかった。いくら時間をかけてもいきそうになかった。「いかへんかもしれへん。ごめんな。おれ、いまストレスで、頭にハゲができてんねん。」そう言って、ニットの帽子を脱いだ。髪は、相変わらずきれいに刈りそろえられた金髪だったけれど、そこには、たしかに、十円硬貨よりすこし大きめの大きさの円形のハゲができていた。「おれが勤めてた風俗店がつぶれてしもうてん。それでいま仕事してなくて、ストレスになってんねん。」彼が着ている服は、別に安物ではなさそうだったけれど、言葉というものは不思議なもので、そんな言葉を聞くと、彼が着ていた服が、急に安物に見えはじめたのだ。坐っているのが彼だとわかったときには、ぼくは腰を落ち着けて、彼といろいろしゃべろうかなと思ったのだけれど、彼の話を聞いて、仕事をしていないという状況にある彼に、万一、たかられでもしたら嫌だなと思って、彼の太ももの上に置いていた手で、彼の膝頭を、二度ほど軽くたたくと、立ち上がって、彼のそばから離れたのだった。彼は不思議そうな顔をして、ぼくの顔を見ていたが、ぼくの表情のなかにある、そういったぼくの気持ちを知ったのだろう。一瞬困惑したような表情になっていたけれど、すぐに残念そうな顔になり、その顔はまたすぐに険しい目つきのものに変化した。一瞬のことだった。その一瞬に、すべてが変わってしまった。ぼくは、その変化した彼の顔を見て、しまったなと思った。彼は、ぼくにたかるつもりなんて、ぜんぜんなかったのだ。その一瞬の表情の変化が真実を物語っていた。彼がそんな男ではなかったことに気がついて、ぼくは後悔した。でも、もう遅かった。彼はすっくと立ち上がると、ぼくが座席から離れた方向とは逆の方向から座席を離れて、映画館のなかからさっさと出て行った。ぼくは彼の後を追うこともできなくて、入り口と反対側の、廊下の奥にあるトイレに小便をしに向かった。


陽の埋葬

  田中宏輔



蟇蛙(ひき)よ、泣け。


泣くがいい。


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


父は死んだのか、


母は死んだのかと


泣くがいい。


降らせるものなら、


雨を降らせよ。
(『ブッダのことば』第一・蛇の章・二・ダニヤ、中村 元訳)

蟇蛙(ひきがえる)。


る。


せめて


おまえの背(せな)に降らすため、


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


雨よりほかに触れるもののないその背皮(そびら)、


背中は曲って、足はびっこで、
(ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳)

何者も顧みぬ醜い瘤疣(こぶ)の塊、


穢(けがら)わしいせむしのひき蛙(がえる)。
(シェイクスピア『リチャード三世』第四幕・第四場、福田恆存訳、句点加筆)

祈りを棄てた蛙が


みんなそうであるように、
(グリム童話『こびとのおくりもの』高橋健二訳)

おまえのせなかはまがってる。
(グリム童話 そばの、がちょう番の女』高橋健二訳)

る。


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ。


だれがおまえをつくったのか?
(ヴァレリー『ユーパリノス あるいは建築家』佐藤昭夫訳)

だれに


おまえはつくられたのか?


さあ、


ハンカチをお空(あ)け、
(シュトルム『みずうみ』森にて、高橋義孝訳)

おまえの美しい骨はどこにある?


祈りの声といっしょに


おまえは、おまえの美しい骨を、どこに棄ててきたのか?


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ、泣け。


蟇蛙(ひき)よ、泣け。


泣くがいい。


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


父は死んだのか、


母は死んだのかと


泣くがいい。


降らせるものなら、


雨を降らせよ。
(『ブッダのことば』第一・蛇の章・二・ダニヤ、中村 元訳)

蟇蛙(ひきがえる)。


る。


せめて


おまえの背(せな)に降らすため、


ぎやあろ、ぎやあろと


泣くがいい。


まがった背骨と


その身をひきずり
(伝道の書一二・五)

美しい骨が出る
(泉 鏡花『春昼後刻』)

墓から墓へと
(ベルトラン 『夜のガスパール幻想詩』イスパニアトイタリア・I・僧房、伊吹武彦訳)

さ迷い歩け。

美しい骨が出る
(泉 鏡花『春昼後刻』)

墓から墓へと
(ベルトラン『夜のガスパール幻想詩』イスパニアとイタリア・I・僧房、伊吹武彦訳)

さ迷い歩け。




*




るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
(草野心平 『春殖』)

電話の向こうで、


生埋(いきうめ)になつた
(トリスタン・コンビエェル『蟾蜍』上田 敏訳)

ひき蛙が呼んでいる。
(シェイクスピア『マクベス』第一幕・第一場、福田恆存訳)

「わたし 死んだのよ 死んだのよ 死んだのよ」と
(マヤコフスキー『背骨のフルート』稲葉定雄訳)

そうだ、
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

ママは死んだんだ。
(ナボコフ『ロリータ』第一部・32、大久保康雄訳、句点加筆)

「此方(こちら)へいらっしゃい。こちらへ」
(志賀直哉『網走まで』)

「此処なら日が当たりませんよ」と
(志賀直哉『網走まで』)

ああ、わたしはどこへ行くことができよう。
(創世記三七・三0)

骨でできた
(オクタビオ・パス『砕けた壺』桑名一博訳)

鍵束が擦れ合う場所のほかに。


そこは、


骨でできた
(ズビグニェフ・ヘルベルト『釦』工藤幸雄訳)

鍵束が擦れ合う処。


ああ、電話線地下ケーブルが燃える!


絵が溶けて、絵の具に戻る?


苦しい、おお苦しい!
(シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳)

骨よ、
(本間弘行『みちのり』)

悲しみの骨よ。
(ジョン・ベリマン『ブラッドストリート夫人賛歌』澤崎順之助訳)

ルル、


ルルルル、


ルルルル、


'Hello,'


もしもし、


'Hello,'


もしもし、




*




ああ、血だ、血だ、血だ!
(シェイクスピア「オセロウ」第三幕・第三場、菅 泰男訳)

真二つだ、真二つだ。
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳)

真二つになる、真二つに!
(シェイクスピア「あらし」第一幕・第一場、福田恆存訳)

上から下まで真二つに裂けた
(マタイによる福音書二七・五一)

誰かヒキガエルが道の上をはうのを見たか?
(ラー・クール「隣人愛」山室 静訳)

半裂きのヒキガエルを。


己れの身を真二つに引き裂き、


あらゆるものすべてのものの半身となるヒキガエルを。


おお、蟇蛙(ひき)よ、蟇蛙(ひき)よ。


半裂きのヒキガエルよ。


私はあなたの半身なのよ、
(シェイクスピア「ヴェニスの商人」第三幕・第二場、大山敏子訳)

せめて、


古い歌と祈りで私を埋葬しておくれ、
(メイスフィールド「別れの歌」大和資雄訳)

私はよろこんで滅びよう。
(ゲーテ「ファウスト」第一部、相良守峯訳)

私はよろこんで滅びよう。
(ゲーテ「ファウスト」第一部、相良守峯訳)


Corpus/Grain Side Version。

  田中宏輔



波音を聞いて、
(ヘンリー・ミラー『暗い春』夜の世界へ……、吉田健一訳)

足元を振り返った。
(マーク・ヘルプリン『シュロイダーシュビッツェ』斎藤英治訳)

僕が見たものは、
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

四角く切り取られた
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』29、岸本佐知子訳)

海だった。
(ジュマーク・ハイウォーター『アンパオ』第二章、金原瑞人訳)

四角い海は
(ステファニー・ヴォーン『スイート・トーク』大久保 寛訳)

見るまに
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』2、浅倉久志訳)

大きく
(トム・レオポルド『君がそこにいるように』土曜日、岸本佐知子訳)

部屋いっぱいに
(スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』68、柴田元幸訳)

ひろがっていった。
(フォークナー『赤い葉』4、龍口直太郎訳)

小さな花がひとつ、
(スーザン・マイノット『セシュ島にて』森田義信訳)

さざ波といっしょにぼくのほうへ漂ってきた。
(ギュンター・グラス『猫と鼠』VIII、高本研一訳)

まるで海のように青い
(日影丈吉『崩壊』三)

濃い青。
(ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第一部、唐沢則幸訳)

僕の見たことのない花だった。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

目の前につまみ上げて
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』5、岸本佐知子訳)

近くで見ると、
(スーザン・マイノット『セシュ島にて』森田義信訳)

その瞬間、
(志賀直哉『濁った頭』三)

一波(ひとなみ)かぶって
(泉 鏡花『化鳥』十)

はっと目をさました。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

すぐ後ろから声をかけられたのだ。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

妹が
(志賀直哉『児を盗む話』)

ハンカチをさし出した。
(ハイゼ『片意地娘(ララビアータ)』関 泰祐訳)

なんだい?
(キャロル『鏡の国のアリス』7、高杉一郎訳)

思い出せない?
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

どうかしたのかい?
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第二部・2、石井清子訳)

思い出せないのね?
(カフカ『城』20、原田義人訳)

わからないよ。
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』3、岸本佐知子訳)

覚えてないんだ。
(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』25、野崎 孝訳、句点加筆)

子供たちが並んでバスを待っていた。
(スーザン・マイノット『シティ・ナイト』森田義信訳)

どうしても解けないのよ、
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第二部・第七章、望月市恵訳)

うん?
(スタインベック『二十日鼠と人間』三、杉木 喬訳)

バス・ステーションから一台のバスがゆっくり這うようにして出てきた。
(ゴールディング『蠅の王』10・ほら貝と眼鏡、平井正穂訳)

そうだ、思い出した。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

ふと、
(谷崎潤一郎『産辱の幻想』)

思い出したよ。
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

青い
(トム・レオポルド『誰かが歌っていう』20、岸本佐知子訳)

花が真ん中に描かれている
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

白いハンカチ
(川端康成『山の音』島の夢・二)

そのハンカチを
(ハイゼ『片意地娘(ララビアータ)』関 泰祐訳)

ぼくは
(バーバラ・ワースバ『急いで歩け、ゆっくり走れ』吉野美恵子訳)

結んだことがあった。
(グレイス・ペイリー『サミュエル』村上春樹訳)

いまもそのままかい?
(ギュンター・グラス『猫と鼠』II、高本研一訳)

妹は
(カフカ『村の医者』村の医者、本野亮一訳)

死んで生れた
(志賀直哉『母の死と新しい母』七)

袋児であつた。
(川端康成『禽獣』)

見ると、
(スタインベック『贈り物』西川正身訳)

結び目はそのままだった。
(ピーター・ディッキンソン『エヴァが目ざめるとき』第二部、唐沢則幸訳)

そら。
(トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』第二部・第二章、望月市恵訳)

これでいいかい?
(ヘミングウェイ『われらの時代に』第四章・三日間のあらし、宮本陽吉訳)

ぼくは
(サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳)

ハンカチを解(ほど)いて
(ヘミングウェイ『われらの時代に』第一章・インディアン村、宮本陽吉訳)

妹に
(夏目漱石『三四郎』三)

渡した。
(志賀直哉『母の死と新しい母』六)

バスが待っていた。
(ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』直角三角形の斜辺、野崎 歓訳)

僕は
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

妹と一緒(いつしょ)に
(シェイクスピア『ハムレット』第五幕・第二場、大山俊一訳)

バスに乗った。
(日影丈吉『緋文』一)

バスは
(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』不在、三好郁朗訳)

音を立てて
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』4、浅倉久志訳)

動き出した。
(ヘミングウェイ『われらの時代に』第一章・インディアン村、宮本陽吉訳)

妹が
(志賀直哉『児を盗む話』)

ページを繰り
(ジイド『贋金つかい』第二部・二、川口 篤訳)

父の真似(まね)をして
(エレンブルグ『コンミューン戦士のパイプ』泉 三太郎訳)

詩のように
(シャーウッド・アンダスン『南部で逢った人』橋本福夫訳)

聖書の言葉を
(カポーティ『草の竪琴』5、大澤 薫訳)

呟(つぶや)き
(芥川龍之介『報恩記』)

はじめた。
(ジイド『贋金つかい』第二部・二、川口 篤訳)

僕は
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

視線をそらして
(ゴールディング『ピンチャー・マーティン』14、井出弘之訳)

窓の外を眺めやった。
(サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』野崎 孝訳)


Spinal Cord / Nappy Sphere Edit。

  田中宏輔




●学校の子供たちに数学を教えている●わたしは●数学の教師●学校が済むと直ぐ帰って●二階へ上がって●二階の書斎で●読みかけの本を読んでいた●やがて●暗くなり●窓の外を●夜の間にひどい雨が降った●そのうち●わたしは●その本を読んでいると●ページをめくるごとに●うとうととして●そのままぐっすり●眠りこんでしまった●真夜中になっていた●ふと●目をこらして見ると●小さい蟻が●机の上に●コーヒーを持って現われた●蟻は●暗い階段を匐ふやうに昇って●コーヒーをはこんできたのだった●いつ目をさましても●目覚めるたびに●かならず同じ場所に現れた●蟻は●ものがたる●新しく生まれかわるために●ハンカチを探しつづけていた●という話であった●どのハンカチ?●どんなハンカチなの?●コーヒーをかきまわしながら●私は言った●ぼくのハンカチ●汚れたハンカチ●哀れな小さなハンカチよ●刺繍で縁取りされた●あのハンカチの隅っこには●ぼくの頭文字と紋がついているんだ●しかしどうやって見つけるのか?●いまでもみつかると思うかい?●忘れるのだ●しかし●返事がない●その蟻の●話はつづいた●蟻は●私の眼を見つめながら●語りつづけていた●くりかえしを聞かないうちに●聞こえないふりをして●立ち上がると●わたしは●窓のところへ行って、外の眺めを見た●雨はもう降っていなかった●じきに夜が明ける……●そのままなにも聞かないようなふりで立っていた●いつものやうに●蟻の●話はつづいた●朝といえば●太陽が出るか出ないころ●部屋には●隅々にまだ夜明けの暗さが漂っていた●そのおぼろな薄明りの中に●部屋の中央に●仄白いものが●あった●電話が鳴った●どうやってこの話から抜け出す?●どうやってこの部屋から出る?●壁に穴をあけて、そこから出て行く●行くがいい●わたしは●窓ぎわを離れて●机に●歩み寄ると●蟻を●つまんで●ぎゅっと圧しつぶし●ハンカチに包んで●ポケットに収めた●電話が鳴りつづけている●私は受話器を取りあげた●はい?●もしもし?●もしもし?●電話線の向うで●沈黙がつづいた●一分間近くの沈黙が続いた●わたしは●受話器を戻した●うしろでかすかな音がした●半開きになっていた扉のほうへ振りかえった●獣?●その獣は●猿だった●それは●亡霊のように●つぎつぎに現われたが●みんな●おなじ顔つき●うり二つ●そっくり同じだ●いったいお前たちは何者だ?●どうしてここへ来たのだ?●沈黙か?●何でお前たちは黙っている?●なんという不可解な猿なんだろう●話しかけても●それはなにも語ろうとはしない●猿どもは●じっと黙っていた●黙ったまま●立っていた●なぜ黙っている●さあ、黙ってないで言ってくれ●そうすればどこへでもついて行こう●すると猿どもは●あとについて来いという合図をした●どこへ行くのか?●いったいどこへ連れて行くつもりなんだ?●猿どもは●黙っている●箒をもった●一匹の猿が●先に立って歩き出した●猿たちの●あとについて階段を降り●行列に加はって●私はついて行った●猿どもは●ずうっと一列にならんで●黙ったまま●ぞろぞろと●歩みつづけた●獣の歩みにつれて●太陽が●昇ってくる●わたしは●一行の行く所へ何処までも従いて行った●行列は●海を見下ろす海岸の高い道を歩いていた●暫くすると●森に辿りついた●猿どもは●どんどん●森の中へはいっていった●一体どこまで私を●連れて行くつもりなんだ?●森は●たえず登りになってつづく●それを登りつめると、高い丘の頂きに出た●丘の頂上に出た●さびしい場所だった●猿どもは●いつのまにか姿を消してしまっていた●どこへ行ってしまったのか?●気がつくと、ひとりきりだった●ここにはわたしだけがある●ねむけがおそってきたので●わたしは●すこし盛りあがった地面を枕にして●あおむけに横たわり●この光景を眺めていた●真上にある太陽が眩しかった●反り身になって●頭をのけぞらせ●太陽に●陽の光に●身を曝していた●過ぎ去った日のいろんな場面が、つぎつぎに目さきにまざまざとよみがえった●わたしの幼いころの想い出にはいつも太陽がつきまとっている●太陽は●私を●散々な目にあわせた●私は●日の光を見るのが、いやになった●あっ●あれは何だろう?●つぎつぎに●太陽が●昇ってくる●一つ一つ●数えて行く●太陽はますます高くなり●見ていると●太陽という太陽ことごとく●ゆっくり円を描いて●回り出した●すると猿ども●が●また現われ●わたしを●とり囲み●円を描いて●ぐるぐるまわりはじめるのだった●見ていると●いかに父に似たることか●そうだ●父ではないのか?●父よ●父たちよ●同じ一つの顔が●円を描いて歩いている●そうだ●猿どもは●父たちなのだ●わたしへとつながる●父たちなのだ●そうだ●みんな、みんな、この丘に眠っている●遠い祖先なのであった●光の渦●光の輪が●急速に廻転し始めた●すると猿どもは●一匹また一匹と●また消えて行った●光はますます烈しくなり●わたしは●頭をのけぞらした●すると●太陽が●回転を止め●一つまた一つと●空から落ちてきた●太陽という太陽ことごとく●一直線に落ち始めた●苦しい、おお苦しい!●頭が焼ける●頭が焼ける、心臓も●心臓も?●心臓は生きていた●まだ心臓の鼓動が感じられた●心臓の脈管は百と一つある●血管の一つ一つが●波の音になる●心臓は知っていた●永遠に海は呼ぶのだ●ああ●体全体が急激にどんどん小さくなっていく●人間の姿がわたしから奪われて行く●さあ、わが目よ、これが見おさめだ●その目はくらむ●いまに見えなくなる●一段とからだを反らし●両の腕をさし伸べ●私は●ふり返る●海だった●突然、海が見え出した●海が見えた●目を凝らして見ると●海のほとり●波打ち際で●つぎつぎに●土がもりあがり●地雷が●出て来る●どうしてこんなにたくさん?●どうしてこんなに夥しいのか?●それは●地雷が埋めてある●海だった●どれくらいいたのか●夥しい●地雷が●動いていく●ああ、苦しい、苦しい●もうたくさんだ●何もかも●もう●これっきり●これをかぎりの光景●わたしには最後の光●ほら●爆発!●とつぜん●目の眩むような光線が●るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる●電話?●電話が鳴っているのが聞こえる●ぼくは●目をあけた●爆発があった●爆弾?●なんの夢を見ているの?●ん?●ぼくのこと?●ねえ●坊や●教えてくれない?●教会はどちらにあるの?●ん?●どこに?●ぼくに言ってるのかい?●聞こえないの?●聞いてるよ●なぜぼくにそんなこと聞くんだい?●どうして教えてくれないの?●ねえ●どこ?●どこにあるの?●このバスでいいの?●ぼくは知らない●何も知らない●知ってれば教えてあげる●ぼくが知っているのは●せいぜいのところ●こうなったことだ●今日も●また●take the wrong bus●間違ったバスに乗る●ところで●ほかのひとたちは?●ルルル●ルルル●電話のベルが鳴り響いたので●ふりかえって見た●猿が●また●亡霊のように現われた●電話のベルが鳴るたびに●沈黙の●猿が●わたしを●運ぶ●あっ●バスが●角をまがった●ほら●見て●窓のほうに顔をむけた●バスがとまった●ポケットからはバイブルが出て来た●さあ●坊や●どうしたの?●どうしたんだっけ?●ぼく、いったいどうしたんだっけ?●ぼくは?●ああ●ぼくはなにをしたらいい?●ぼくがやりたかったのは……●ああ、そうだ、ぼくは●ぼくは●バスを降りて●戦場に行こう●戦場?●戦場!●戦争だって平ちゃらさ●で●今度のバスは何時?●あっ●電話が鳴った●もういかなきゃ●おら行くよ●さようなら●



Reference

●ノサック『弟』中野孝次訳●ヨブ記四・一六●原民喜『狼狽』●志賀直哉『濁った頭』●原民喜『沈丁花』●志賀直哉『邦子』●志賀直哉『児を盗む話』●ガルシン『四日間』小沼文彦訳●ヨエル書三・一五●原民喜『破滅の序曲』●志賀直哉『城の崎にて』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十章、鈴木幸夫訳●ヨブ記四・一六●コルターサル『石蹴り遊び』17、土岐恒二訳●コンラッド『ナーシサス号の黒人』高見幸郎訳●志賀直哉『濁った頭』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十一章、鈴木幸夫訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●バルザック『ゴリオ爺さん』三、水野亮訳●原民喜『雲雀病院』●バルガス=リョサ『緑の家』IV・一章、木村榮一訳●川端康成『十七歳』●スタンダール『パルムの僧院』下巻・第二十三章、生島遼一訳●コルターサル『石蹴り遊び』17、土岐恒二訳●サン=ジョン・ペルス『讃』多田智満子訳●原民喜『魔のひととき』●ラリイ・ニュートン『地球からの贈り物』12、小隅黎訳●バルガス=リョサ『緑の家』IV・一章、木村榮一訳●オラシオ・キローガ『羽根枕』安藤哲行訳●原民喜『吾亦紅』昆虫●サン=ジョン・ペルス『讃』多田智満子訳●ツルゲーネフ『岩』神西清訳●ヘッセ『デーミアン』吉田正己訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第五章、鈴木幸夫訳●シェイクスピア『オセロウ』第三幕・第三場、管泰男訳●ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第II部、水野忠夫訳●ビオイ=カサーレス『豚の戦記』18、荻内勝之訳●ブレイク『天国と地獄との結婚』土居光知訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第III部、高本研一訳●ジュネ『ブレストの乱暴者』澁澤龍彦訳●ギー・シャルル・クロス『あの初恋』堀口大學訳●ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓直訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●カルヴィーノ『むずかしい愛』ある写真家の冒険、和田忠彦訳●ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』下、河島英昭訳●リスペクトール『G・Hの受難』高橋都彦訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第一章、鈴木幸夫訳●ヴァレリー『セミラミスの歌』鈴木信太郎訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第四章、鈴木幸夫訳●『イソップ寓話集』蟻、山本光雄訳●バタイユ『眼球譚』猫の目、生田耕作訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第十八章、鈴木幸夫訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十九章、鈴木幸夫訳●ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川敏訳●プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳●箴言八・二七●オースティン『自負と偏見』四三、中野好夫訳●フロベール『ボヴァリー夫人』第一部・二、杉捷夫訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●オースティン『自負と偏見』二〇、中野好夫訳●原民喜『鎮魂歌』●『イソップ寓話集』蟻と甲虫、山本光雄訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第四章、鈴木幸夫訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第六章、鈴木幸夫訳●シェンキェーヴィチ『クウォーヴァーディス』第一巻・第二〇章、梅田忠良訳●オースティン『自負と偏見』四五、中野好夫訳●シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十四章、鈴木幸夫訳●フェリスベルト・エルナンデス『水に浮かんだ家』平田渡訳●原民喜『溺没』●ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』豊崎光一訳●三島由紀夫『禁色』●ポール・オースター『幽霊たち』柴田元幸訳●ポール・オースター『幽霊たち』柴田元幸訳●エゼキエル書一二・一二●ジョン・ダン『目覚め』篠田一士訳●ヨハネによる福音書一九・二八●シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳●シュトルム『みずうみ』高橋義孝訳●オースティン『自負と偏見』二〇、中野好夫訳●レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』北山克彦訳●レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』北山克彦訳●ランボー『七歳の詩人たち』堀口大學訳●ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳●アーヴィング『ガープの世界』15・ベンセンヘイバーの世界、筒井正明訳●アーヴィング『ガープの世界』13・ウォルトの風邪、筒井正明訳●スタニスラフ・レム『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳●ポール・オースター『シティ・オヴ・グラス』山本楡美子・郷原宏訳●プイグ『赤い唇』野谷文昭訳●プイグ『赤い唇』野谷文昭訳●ノーマン・メイラー『夜の軍隊』第一篇・第一部、山西英一訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十一章、鈴木幸夫訳●原民喜『魔のひととき』●ヨハネによる福音書一九・二八●カルヴィーノ『むずかしい愛』ある会社員の冒険、和田忠彦訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第一章、鈴木幸夫訳●アンリ・バルビュス『地獄』V、田辺貞之助訳●ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳●ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』上、河島英昭訳●オラシオ・キローガ『羽根枕』安藤哲行訳●シルヴィア・プラス『オーシャン一二一二−W』徳永暢三訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●イバニェス『血と砂』会田由訳●マースターズ『丘』衣更着信訳●パヴェーゼ『月とかがり火』米川良夫訳●シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳●アンリ・バルビュス『地獄』VII、田辺貞之助訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、疑問符加筆=筆者●ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳●ゴットフリート・ベン『ノクターン』生野幸吉訳●プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』佐々木彰訳●トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳●志賀直哉『雨蛙』●ボルヘス『ウンドル』篠田一士訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●フロベール『ボヴァリー夫人』第二部・一、杉捷夫訳●ラリイ・ニーヴン『地球からの贈り物』2、小隅黎訳●オースティン『自負と偏見』二〇、中野好夫訳●シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳●シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳●シェイクスピア『夏の夜の夢』第二幕・第一場、福田恆存訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』1、鼓直訳●ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川敏訳●ドノソ『ブルジョア社会』木村榮一訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●アンリ・バルビュス『地獄』XI、田辺貞之助訳●シモン『ル・パラス』平岡篤頼訳●リルケ『マルテの手記』生野幸吉訳●原民喜『幻燈』●フォースター『インドへの道』第一部・第四章、瀬尾裕訳●アーヴィング『ガープの世界』13・ウォルトの風邪、筒井正明訳●原民喜『冬日記』●志賀直哉『祖母の為に』●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●トマス・ハーディー『テス』第三部・再起、竹内道之助訳●ラリイ・ニーヴン『地球からの贈り物』2、小隅黎訳●原民喜『暗室』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十二章、鈴木幸夫訳●サン=ジョン・ペルス『讃』多田智満子訳●ダンテ『神曲』浄罪篇・第七歌、野上素一訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●フィリップ・K・ディック『ヴァリス』10、大瀧啓裕訳●志賀直哉『真鶴』●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十章、鈴木幸夫訳●志賀直哉『真鶴』●原民喜『心願の国』●カルペンティエール『この世の王国』第二部・II・大いなる契約、平田渡・木村榮一訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ギマランエス・ローザ『大いなる奥地』中川敏訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第十五章、鈴木幸夫訳●セフェリス『わが歴史の神話』十六、秋山健訳●ドノソ『ブルジョア社会』木村榮一訳●オースティン『自負と偏見』四三、中野好夫訳●ヘミングウェイ『二心ある大川その一』谷口陸男訳●オースティン『自負と偏見』四三、中野好夫訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十二章、大橋吉之輔訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十章、鈴木幸夫訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●シェイクスピア『マクベス』第一幕・第三場、福田恆存訳●パヴェーゼ『三人の娘』河島英昭訳●ガブリエラ・ミストラル『夜』荒井正道訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第十七章、鈴木幸夫訳●ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳●トーマス・マン『魔の山』第七章、佐藤晃一訳●トーマス・マン『魔の山』第七章、佐藤晃一訳●ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』第一巻・第二篇・第八、米川正夫訳●原民喜『潮干狩』●ジュネ『花のノートルダム』堀口大學訳●シモン『ル・パラス』平岡篤頼訳●カミュ『追放と王国』客、窪田啓作訳●ベールイ『銀の鳩』第I部、小平武訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第II部、高本研一訳●イバニェス『血と砂』会田由訳●ズヴェーヴォ『ゼーノの苦悶』清水三郎治訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●シェイクスピア『マクベス』第五幕・第六場、福田恆存訳●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●ジョイス『ユリシーズ』13、ナウシカア、永川玲二訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第I部、高本研一訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡辺守章訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ベルトラン『夜のガスパール』第三の書・六・鐘楼下の輪舞、及川茂訳●ベルトラン『夜のガスパール』第五の書・一・僧房、及川茂訳●ガルシン『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』小沼文彦訳●ヨハネの黙示録一九・一七●アラゴン『エルザの瞳』橋本一明訳●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ダンテ『神曲』天堂篇・第三十三歌、野上素一訳●シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第一場、大山俊一訳●ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』こころ、三好郁朗訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ヨブ記二六・一〇●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●ヨハネの黙示録一九・一七●エウリピデス『ヘラクレス』川島重成・家内毅訳●サルトル『嘔吐』白井浩司訳●ビョルンソン『人の力を超えるもの』第一部・第一幕・第六場、毛利三彌訳●ヨハネによる福音書一七・二●ヨハネの第一の手紙二・一三●『ラ・ロシュフコー箴言集』考察III・顔と挙措について、二宮フサ子訳●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●サルトル『嘔吐』白井浩司訳●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●リルケ『ドゥイノの悲歌』第三の悲歌、手塚富雄訳●マリー・ノエル『哀れな女のうた』田口啓子訳●リルケ『ドゥイノの悲歌』第三の悲歌、手塚富雄訳●サルトル『嘔吐』白井浩司訳●マースターズ『丘』衣更着信訳●ユイスマンス『さかしま』略述、澁澤龍彦訳●ベールイ『銀の鳩』第II部、小平武訳●ベールイ『銀の鳩』第II部、小平武訳●原民喜『幻燈』●ヘッセ『青春彷徨』山下肇訳●ロートレアモン『マルドロールの歌』第六の歌、栗田勇訳●ブロッホ『ウェルギリウスの死』第II部、川村二郎訳●ダンテ『神曲』浄罪篇・第三十三歌、野上素一訳●ヨハネによる福音書一九・二八●スタニスラフ・レム『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳●ヘッセ『魔術師の略伝』西義之訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡辺守章訳●セフェリス『ミケネー』秋山健訳●プルースト『失われた時を求めて』ゲルマントの方、鈴木道彦訳●マイケル・ムアコック『この人を見よ』第一部、峯岸久訳●アラゴン『エルザの瞳』橋本一明訳●ヤーコブレフ『花むこと花よめ』宮川やすえ訳●シェイクスピア『リア王』第五幕・第三場、大山俊一訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳●ゲーテ『ファウスト』第二部、相良守峯訳、疑問符加筆=筆者●トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』高橋義孝訳●オウィディウス『変身物語』巻一、中村善也訳●死神の秘教『カタ・ウパニシャッド』第六章、服部正明訳●シェイクスピア『ハムレット』第一幕・第四場、大山俊一訳●志賀直哉『真鶴』●ブロッホ『ウェルギリウスの死』第III部、川村二郎訳●ゴットフリート・ベン『唄』II、生野幸吉訳●イェイツ『塔』出淵博訳●ジェイン・アン・フィリップス『ファスト・レーンズ』篠目清美訳●オウィディウス『変身物語』巻二、中村善也訳●シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第五幕・第三場、大山敏子訳●エレミアの書一四・六●メーテルリンク『青い鳥』鈴木豊訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●ゾラ『ナナ』安東次男・関義訳●プルースト『失われた時を求めて』スワン家の方へ、鈴木道彦訳●リルケ『オーギュスト・ロダン』第一部、生野幸吉訳●ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵博訳●原民喜『不思議』●スタニスラフ・レム『ソラリスの陽のもとに』飯田規和訳●ユイスマンス『さかしま』第十一章、澁澤龍彦訳●ロートレアモン『マルドロールの歌』第一の歌、栗田勇訳●プルースト『失われた時を求めて』囚われの女、鈴木道彦訳●ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』第I部、高本研一訳●ジョン・ダン『恍惚』高松雄一訳●ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』菅野昭正訳●ジュネ『屏風』第八景、渡邉守章訳●ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』第I部、水野忠夫訳●ホーフマンスタール『人生のバラード』川村二郎訳●シルヴィア・プラス『オーシャン一二一二−W』徳永暢三訳●ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』菅野昭正訳●ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵博訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第三十二章、鈴木幸夫訳●ホーフマンスタール『人生のバラード』川村二郎訳●ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』菅野昭正訳●ガッダ『アダルジーザ』腋、千種堅訳●ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳●メーテルリンク『青い鳥』鈴木豊訳●リルケ『神さまの話』見知らぬひと、手塚富雄訳●イェイツ『女のこころ』尾島庄太郎訳●リスペクトール『家族の絆』バラに倣いて、及川昭訳●ブロッホ『ウェルギリウスの死』第IV部、川村二郎訳●オウィディウス『変身物語』巻一、中村善也訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡邉守章訳●アイザック・アシモフ『神々自身』第二部・3c、小尾芙佐訳●マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』第二十九章、鈴木幸夫訳●モーパッサン『テリエ館』青柳瑞穂訳●草野心平『春殖』●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』22、鼓直訳●アーヴィング『ガープの世界』12・ヘレンのできごと、筒井正明訳●ホセ・ドノソ『この日曜日』ある日曜日の夜、内田吉彦訳●ザミャーチン『われら』小笠原豊樹訳●ビオイ=カサーレス『豚の戦記』41、荻内勝之訳●フィリップ・K・ディック『逆まわりの世界』12、小尾芙佐訳●ホセ・ドノーソ『閉じられたドア』染田恵美子訳●タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』10、鼓直訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第一部・第四章、大橋吉之輔訳●リスペクトール『家族の絆』財産づくり、高橋都彦訳●ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』23、鼓直訳●リスペクトール『家族の絆』財産づくり、高橋都彦訳●タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳●エイチ・ディー『キプロスよりの歌』II、安藤一郎訳●コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳●コルターサル『石蹴り遊び』41、土岐恒二訳●ビオイ=カサーレス『豚の戦記』28、荻内勝之訳●コルターサル『石蹴り遊び』46、土岐恒二訳●ホセ・ドノーソ『この日曜日』ある日曜日の夜、内田吉彦訳、疑問符加筆=筆者●ハックスリ『恋愛対位法』第七章、朱牟田夏雄訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十一章、大橋吉之助訳●ルードルフ・アレクサンダー・シュレーダー『餘韻』淺井眞男訳、疑問符加筆=筆者●ナボコフ『キング、クィーンそしてジャック』出淵博訳、疑問符加筆=筆者●アンリ・バリビュス『地獄』XIV、田辺貞之助訳●パスカル『パンセ』第六章、前田陽一・由木康訳●タニス・リー『死の王』巻の一・第三部・六、室住信子訳●アンリ・バルビュス『地獄』XIV、田辺貞之助訳●ジイド『背徳者』第二部・一、淀野隆三訳●ジイド『背徳者』第二部・一、淀野隆三訳●ヴェルレーヌ『三年後』堀口大學訳●エウジェーニオ・モンターレ『蜃気楼』米川良夫訳●三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』●三省堂『カレッジ・クラウン英和辞典』●ボリス・ヴィアン『墓に唾をかけろ』伊東守男訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十七章、大橋吉之輔訳●リルケ『マルテの手記』生野幸吉訳●アンリ・バルビュス『地獄』III、田辺貞之助訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●ケッセル『昼顔』桜井成夫訳●アンリ・バルビュス『地獄』III、田辺貞之助訳●リルケ『マルテの手記』生野幸吉訳●ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』こころ、三好郁朗訳●ヘミングウェイ『武器よさらば』第三部・第二十七章、石一郎訳●ロブ・グリエ『嫉妬』白井浩司訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第九章、大橋吉之輔訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第九章、大橋吉之輔訳●クローデル『真昼に分かつ』第一幕、鈴木力衛・渡辺守章訳●志賀直哉『山科の記憶』●コレット『牝猫』工藤庸子訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十三章、大橋吉之輔訳●原民喜『焔』●スタンダール『カストロの尼』桑原武夫訳●リスペクトール『家族の絆』財産づくり、高橋都彦訳●三島由紀夫『禁色』●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●アンリ・バルビュス『地獄』I、田辺貞之助訳●ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第二部・第十六章、大橋吉之輔訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●コレット『牝猫』工藤庸子訳●W・C・ウィリアムズ『パターソン』第一巻・巨人の輪郭I、沢崎順之助訳●『エラの神話』第1部、杉勇訳●『エラの神話』第1部、杉勇訳、疑問符加筆=筆者●『エラの神話』第1部、杉勇訳、感嘆符加筆=筆者●G・ヌーヴォー『恋人』福永武彦訳●ボルヘス『他者』篠田一士訳●志賀直哉『山鳩』疑問符加筆=筆者●ロブ=グリエ『嫉妬』白井浩司訳●三島由紀夫『禁色』●ヘミングウェイ『日はまた昇る』第一部・第四章、大橋吉之輔訳●ゴーリキイ『どん底』第四幕、中村白葉訳●ヘミングウェイ『武器よさらば』第二部・第十九章、石一郎訳。


陽の埋葬

  田中宏輔



日の暮れ方の川辺り、湯女(ゆな)の手の触るる神の背の傷痕、
  ──その瘡蓋は剥がれ、金箔となつて、水の中を過ぎてゆく……


(魚(いを)の潰れた眼が、光を取り戻す、光を取り戻す。)


日の暮れ方の川辺り、湯女(ゆな)の手の触るる神の背の傷痕、
  ──その傷口より滴る神の血、神の血は、砂金となつて、水の中を過ぎてゆく……


(……、刮(こそ)げた鱗(いろこ)や鰭々(ひれびれ)が、元に戻る、元に戻る。)


神の背を流るる黄金(わうごん)の川、湯女(ゆな)の手、湯女(ゆな)の手の椀に、溢れ、零れ、溢れ、零れ……


それでも、わたしは、わたしの
  ──傷はいやすことのできないもので(ミカ書一・九、罫線加筆)
      わが目は絶えず涙を注ぎ出して、やむことなく(哀歌三・四九)
    わたしの目には涙の川が流れてゐます。(哀歌三・四八、歴史的仮名遣変換)


打ち網の網目、絡みつく水藻、、水草、、、川魚、、、、


──わたしの涙は、昼も夜も、わたしの食物であつた。(詩篇四二・三、罫線加筆及び歴史的仮名遣変換)


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浮子(アバ)


浮子(アバ)


湯女(ゆな)の手が解(ほぐ)す、繭屑で拵へたる嬰兒(みどりご)、
  ──竹箍(たけたが)締めの木の盥(たらひ)の中、解(ほど)けた繭屑が、魚(いを)となつて泳ぎ出す、泳ぎ出す。


さうして、わたしも
  ──わたしの肩骨が、肩から落ち(ヨブ記三一・二二)
      わたしの骨はことごとくはずれ(詩篇二二・一四)
    悲しみによつて溶け去ります。(詩篇一一九・二八、歴史的仮名遣変換)


──主は彼らの水を血に変らせて、その魚を殺された。(詩篇一0五・二九、罫線加筆)


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浮子(アバ)


浮子(アバ)


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雨が流れてゐる。


a



雨が流れてゐる。


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


──古い雨だ。


栞(しをり)、胙(ひもろぎ)、箒(ははき)持ち、虫瘤、馬塞棒(ませぼう)、燐寸箱(マツチばこ)、……、


──みんな、古い雨だ。


湯女(ゆな)の手の触れし、神の背の傷痕、
  ──神の背、神の背を流るる黄金(わうごん)の川、


其は、地に墜つ、湯女(ゆな)の手、湯女(ゆな)の手の椀に、溢れ、零れ、溢れ、零るる、黄金(わうごん)の川、


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


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浮子(アバ)


浮子(アバ)


網代(あじろ)、簀子(すのこ)、礫石(さざれいし)、


──古い雨だ。


──みんな、古い雨だ。


湯女(ゆな)の手の触れし、神の背の傷痕、
  ──神の背、神の背を流るる黄金(わうごん)の川、


其は、地に墜つ、湯女(ゆな)の手、湯女(ゆな)の手の椀に、溢れ、零れ、溢れ、零るる、黄金(わうごん)の川、


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


川の中では、ひつきりなしに、雨が流れてゐる。


先に訪ねて来たものも、後からやって来たものも、もう、ゐない、……


もう、ゐない、……


、……


石垣に濡れた雨、


だれもゐない橋上(けうじやう)、


雨も、雨に濡れてゐる。


雨も、雨に濡れてゐる。


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雨蛙(あまがへる)、


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雨蛙(あまがへる)、


輪禍(りんくわ)の轍(わだち)、


その骨の罅(ひび)に触れる処、


陽の埋葬

  田中宏輔



 苦悩というものについては、ぼくは、よく知っているつもりだった。しかし、じつはよく知らなかったことに気がついた。ささいなことが、すべてのはじまりであったり、すべてを終わらせるものであったりするのだ。たぶん、ぼくはいつもどこかで苦しみたいと願っていたのだろう。古い苦しみを忘れて新たな苦しみを見つけようとするところがあるのだ。愛が、ぼくのところにふたたび訪れるというのはよいことだ。たとえ、それがすぐに立ち去ってしまうものであっても。一つの微笑み。その微笑みは、ぼくの記憶の一部でしかなかった。それなのに、その微笑みは、ぼくの喜びのすべてを代表して、ぼくのこころを、その微笑みでいっぱいに満たすのだ。マコトが近づいてきた。彼もまた一つの傷であった。ぼくの傷になるであろうものであった。ぼくの横に腰をおろした。マコトは髪を少し伸ばしていた。きょうで、会うのは三度目になる。はじめて会ったのは、公園の便所の洗面台のところでだった。ラグビーをしていると言っていた。たしかに、そんな感じだった。日に焼けた顔に、きれいに生えそろった白い歯が印象的で、ボーズ頭が似合っていた。そのときは、何もなかった。マコトがトイレの中で済ませたばかりだったからだ。相手の男は、ぼくの顔をちらりと見ると、マコトを置いて、さっさと立ち去った。二度目に会ったときには、詩人がまだ生きていたときだった。ぼくは詩人と話をしていたので、マコトは、詩人とぼくの前を、ただ通り過ぎていくだけだった。マコトは、ぼくの顔を見て、「カッコええよ、宏輔さん。」と言ってきた。風はあるが、生あたたかく、つぎからつぎに汗が吹き出てくる。何度も裏返したり、表にたたみ直して使っていたので、ハンカチは汗と脂でベタベタしていた。ぼくが、ハンカチで額の汗をぬぐい取りながら、「そんなことないよ。」と言うと、マコトは、ぼくたちの前を通り過ぎていく一人の男を見て、「アウト・オブ・眼中。」と言った。ぼくのことは、と訊くと、「インサイド・範疇。」と言う。一見、ぶっきらぼうに見えるが、それは、マコトがそう見えるように振る舞っているからであろう。ありがとうという、ぼくの言葉の後に、しばしの沈黙。愛するとき、いったい、ぼくのなかのなにが、ぼくのなかのどの部分が、愛するのだろうか。ぼくは、マコトの顔といい、身体といい、その表情や、身体の線やその陰影までもつぶさに観察した。細部の観察によって、より実感を感じるというのは、精神がよく働くからであろう。思い出されるまで過去が存在しないように、観察の対象になっていないものは、少なくとも、まだ観察されていないときには、存在していなかったものなのだ。彼のまなざし、かれの唇を細部にわたって、ぼくが見つめているのは、いま彼をより強く、ぼくのなかに存在させるためだった。事物や事象がはっきりとした形をとるのは、こころのなかだけだからだ。川に映った、月の光や星の光がきれいだねって言うと、マコトは、近視だから、よけいにきれいに見える、と言った。光がにじんで見えるのだ。ふたりとも近視だった。ぼくたちは、Dについて話した。Dを服用するようになって、記憶力がどんどん増していくのだった。マコトよりも、ぼくの方が服用するのが早かったので、マコトは真剣な表情で、ぼくの話を聞いていた。熱中してしゃべっている間、鳴く虫も鳴かず、流れる水も流れなかった。ぼくの耳は、ぼくの目と同じように、マコトの息遣い一つ聞き逃すまいと注意を払っていたのだ。耳というものが注意を払ったものしか聞こえないというのは面白い。目が、目に入るものすべてを見ているのではないように、耳も聞こえるものすべてを聞いているわけではないということだ。そういえば、死んだ詩人は、こんな実験をしたことがあると言っていた。河川敷のベンチの端に横向きに坐って、目をつむり、藪のなかで鳴く虫の声と、川を流れる水の音のほうに、左右の耳を傾けて、片方ずつ、聞こえる音に意識を集中させてみたらしい。すると、虫の鳴く声に意識を集中すると、虫の声がだんだん大きくなってゆき、それにつれて、流れる水の音が徐々に小さくなり、さらに虫の鳴く声に意識を集中させると、流れる水の音はほとんど聞こえなくなってしまったという。反対に、川を流れる水の音に意識を集中させると、水の流れる音がだんだん大きくなり、それにつれて、藪のなかで鳴いている虫の声が徐々に小さくなり、さらに水の流れる音に集中させると、虫の鳴く声はほとんど聞こえなくなってしまったという。聴覚に意識が影響を与えるということだが、詩人は、この話をぼくに聞かせただけでなかった。このことは、詩人の残したメモのなかにも書かれていた。マコトは工場に勤務しているという。何を作っているのか訊いてみると、精密計測機器だという。ぼくは大学では化学系の学部で、そういった機械のことは、いくらか知っていたが、それ以上のことは訊かなかった。「宏輔さんは、数学の先生だったよね。オレは、数学なんか、ぜんぜんできひんかったし、嫌いな科目やったかな。」ぼくは、マコトの膝の上に手をおいた。マコトが、そのぼくの手の上に自分の手を重ねた。ぼくの手より分厚く大きな手だった。その手のまなざしを受けて、ぼくが唇を、マコトの唇に近づけると、マコトが目をつむった。唇が唇を求めて、はげしく絡み合った。その唇と唇のあいだで、何かが生まれた。それは愛だった。愛ではなかったとしたら、愛よりすばらしいものであった。それはこのひとときに生まれた悦びであり、後々、思い出されては胸に吊り下がるであろう悲しい悦びであった。手をふくらみの上にもってゆき、かたくなっていたのをたしかめた。マコトの手も、ぼくのかたくなったふくらみの上に置かれた。これ以上のことがしたくなったと言うマコト。ぼくが、マコトのジーンズのジッパーに手をかけると、ここでは嫌だと言う。じゃあ、ぼくの部屋にでもくるかい、と、ぼくは言った。まるで他に行くところがあってもいいかのように。
 ぼくたちは立ち上がって、川上から川下に向かって歩き出した。ふと視線を感じて振り返ると、ぼくが坐っていた場所に、死んだ詩人が坐っていた。しかし、ぼくにつられて、マコトが振り向いたときには、詩人の姿は消えていた。マコトがぼくの腕に、自分の腕を絡ませた。ぼくはマコトの手をぎゅっと握った。勃起したペニスが、歩くたびに綿パンの硬い生地にこすれて気持ちよかった。


もうすぐ百の猿になる。

  田中宏輔



 ジャン・ジュネの『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げこまれた一幅のレンブラントから残ったもの』にある、「ある日、客車のなかで、前に腰かけていた旅客を眺めていた私は、どんな人も他の人と等価であるという啓示を得た。」「人はあらゆる他者に等しい、」「各人が単数の、複数の他者である。」「誰もが私自身、ただし、個別の外皮に隔離されたわたし自身だったのだ。」(鵜飼 哲訳)といった文章を読んでいると、一八七一年五月にランボーによって書かれた、ポオル・ドゥムニー、ジョルジュ・イザンバアル宛の二通の手紙のなかにある、「我とは、一個の他者である。」(平井啓之訳)といった言葉が思い出された。そのときには、「誰もが私である」というジュネの言葉と、「我とは、一個の他者である。」というランボーの言葉が、同じような意味を現わしているような気がしていたのだが、ぼくには、よく考えもしないうちに、よし、わかった、と思うことがよくあって、そのときにも、同じような意味なのだろうと漠然と思うだけで、深く考えなかったのであるが、あとで、自分の数学の時間に、命題を教える機会があって、命題とその逆命題の真偽について教えているときに、ジュネの言葉と、ランボーの言葉が思い出され、それらの言葉がけっして同じ意味を現わしているとは限らないということに気が付いたのであった。


他者とは、私ではあらぬ者、また私がそれではあらぬところの者である。
(サルトル『存在と無』第三部・第一章・II、松浪信三郎訳)

 仮に、他者と私とのあいだに相違というものがまったくなかったとしたら、他者と私とは等しい存在であるといえよう。しかし、細胞の個数や、その状態といったところまで同じ条件をもつ複数の肉体など存在しない。一個の肉体でさえ、時々刻々と、細胞の個数や、その状態は変化しているのである。一個の肉体でさえ、厳密な意味では、自己同一性を保つことなどあり得ないのである。それゆえ、ジュネとランボーの言葉を、そのまま字句どおりに受け取ることは誤りであろう。強調表現の一種と見なせばよい。すなわち、「誰もが私である。」は「誰もが私に似ているところがある。」に、「我とは、一個の他者である。」は「私は、ほかの誰かに似ているところがある。」というふうに。どれだけ「似ている」か、「すこし似たところがある」から「そっくり同じくらいによく似ている」に至るまで、さまざまな程度の「似ている」度合いがあるであろう。こう考えると、自己同一性について配慮する必要はなくなる。


それはいくらか私自身であった。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

 これなどは、「それはいくらか私に似ているところがあった。」という意味になるであろうか。


ぼくたちが出会うのは常にぼくたい自身。
(ジョイス『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュブディス、高松雄一訳)

 この言葉から、「similia similibus percipiuntur. 似たるは似たるものに知らる。」というラテン語の成句が思い出された。「人間というのは、自分と似た者のことしかわからない。自分と似ていない者のことはわからない。」というのである。たしかに、自分に似た者のことはわかりやすい。しかし、生きていくうえで、自分に似た者ばかりが周りにいるわけではないことは周知の事実だ。よく生きていくためには、周りの人間のことを理解していなければならない。どうすればよいか。自分のほうから他者に似ていかすという方法がある。これが自然にできる場合がある。シャーウッド・アンダスンの『トウモロコシ蒔(ま)き』という作品に、「結婚生活がうまくいっている人たちには、ある種の共通点があるようだ。そういう夫婦はしだいにお互いに似通ってくる。顔までが似てくる。」(橋本福夫訳)とある。こういった現象は、恋人や夫婦といった間柄に限って起こることではない。「alter ego 親友」というラテン語の成句がある。もともとの意味は、「もう一人の私」である。小学生のときのことである。低学年でもなかった。おそらく、四年生か、そこらのことであったと思う。ある日、ぼくは、ぼくの話し方や、身振りの癖といったものが、いつの間にか、親しく付き合っていた友だちの話し方や身振りの癖にそっくりになっていたことに気がついたのである。そういえば、そのとき思ったのだが、そういったことは、それがはじめてのことではなくて、いつも、ぼくの方から、ぼくが親しくなった友だちの話し方や身振りの癖を真似ていっていたのであった。別に故意にではなく、それがごく自然なぼくの友だちとの接し方であったのである。自然といつも、ぼくの方から、友だちに似ていったのである。「私は誰かによく似ている。」という言葉をもじって言えば、「私は、誰かによく似ていく。」とでもなるであろうか。成人してからも、新しく親しくなった友だちの話し方や身振りの癖といったものが、ぼくにうつるということがあって、あるとき、そのことにふと気づく、といったことが、よくある。他者に似ていくということは、他者から強い影響を受ける傾向があるということである。詩を書きはじめたころは、そのことが怖かった。自分が他人の影響をすぐに受けるということが怖かったのである。すぐに他人に影響を受ける自分というものには、もしかしたら、個性などなく、個性的な詩を書くことなどできないかもしれない、と思われたのであった。しかし、その不安は、自分が多数の詩や小説を読んだりしていくうちに次第になくなっていったのである。多数の詩人や作家の書いたものを読んでいくうちに、その影響が重なり合って、一人の詩人や作家の影響ではなくなっていることに気がついたのである。言い換えると、多数の詩人や作家から影響を受けていく過程で、自分の書くものが、誰にも似ていないものに近づいていくということに気がついたからである。ここにおいて、「他者」というものから「多数の他者」というものに目を転ずると、「個性」という言葉が、それまで自分が思ってきた意味とはまったく違った意味をもつものに思えたのである。ぼくは、こう考えた。「個性というものは、多数の他者に似ていく過程で獲得されていくものである。」と。したがって、「真に個性的な者とは、自分以外のすべての他者に似ている者」ということになる。ターハル・ベン=ジェルーンが『砂の子ども』9のなかに書きつけている、「自分に似ること、それは別の者になること」(菊地有子訳)という言葉を目にして、この言葉の「自分」と「別の者」という言葉を入れ替えると、ぼくの考え方にかなり近いなと思った。もちろん、ぼくのいう「多数の他者に似ていく過程」は、エリオットの『伝統と個人の才能』のなかにある「個性滅却のプロセス」(平井正穂訳)とほとんど同じものだろう。トーマス・マンの『道化者』のなかに、そういった過程を経ていく描写がある。「おれは多読だった。手に入るものはなんでもかんでも読んだ。しかもおれの感受性は大きかった。おれは作中のどんな人物をも感情で理解して、その中におれ自身を認めるように思うので、他の書物の感化を受けてしまうまでは、ある書物の型に従って、考えたり感じてたりしていた。」(実吉捷郎訳)というところである。ぼくもまた、この主人公のように本と接していたように思っていたので、マンの『道化者』を読んで驚かされた。たぶん、この主人公も、ぼくのように、容易に信じやすく、だまされやすいという、警戒心のごく乏しい性格であったのであろう。


 西暦一年頃の世界人口は、推計で、約三億。一六五〇年は訳五億、一七五〇年は七億、一八五〇年は十一億、一九六〇年は三〇億、一九八〇年は四十四億三千二百万。
(平凡社『大百科事典』)

 ぼくには一人のパパがいる。そして、ぼくにはママが二人いるけど、血のつながっているママは一人だけだから、血のつながっているのは、パパとこのママの二人だ。血のつながりとして見ると、ぼくとおなじように、だれにでも、パパが一人とママが一人で、合わせて二人の親がいるはずだ。すると、ぼくは、また、ぼく以外のだれでもそうだが、かつては、二人の人間だったことになる。計算がややこしくなるから、ぼくだけに限って考えてみるけど、ぼくのパパやママにも、パパとママが一人ずついたはずだから、二代さかのぼると、ぼくは四人の人間だったことになる。ぼくのパパのパパやママにも、ぼくのママのパパやママにもそれぞれ一人ずつパパやママがいたはずだから、ぼくは三代まえには八人の人間だったことになる。四代まえには十六人、五代まえには三十二人、六代まえには六十四人、すなわち、n代まえには、ぼくは、2のn乗の数の人間だったことになるのである。十代まえだと、千二十四人である。十代といっても、たかだか数百年くらいのことであろうから、数百年まえには、ぼくは千とんで二十四人の人間だったわけである。そのさらに数百年まえだと、ぼくは百万人以上の人間だったのである。千年まえだと、少なく見積もっても、ぼくは十億人以上の人間であったはずである。しかし、千年まえには、日本には、そんなに人間がいたとは考えられないのだけれど、それにしても、ぼくはものすごい数の人間だったのだ。おそらく、千年以上むかし、日本にいた人間は、みんな、ぼくだったのだろう。


 おれはお前たち全部になりたい、そうして、お前たちが皆いっしょになって一人のアントニーになってもらいたい。そうしたら、お前たちがしてくれたように、おれがお前たちのために働けるのだがなあ。
(シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』第四幕・第二場、小津次郎訳)

 かつて、ボルヘスの『恵みのうた』という詩を読んでびっくりさせられたことがある。詩を書きはじめて、まだ間もないころのことだった。もしかすると、そこに、『陽の埋葬』の原点があるのかもしれない。「長い回廊をさまよいながら ぼんやりとではあるが/聖なる戦慄をもってしばしば感じたものだ/わたしは同じ日々に 同じ歩みを/行っている死者、他者であると。/複数の〈わたし〉の そしてただ一つの影を有する/この両者のいずれがこの詩をかきつけているのか。」(田村さと子訳)。ボルヘスのこの詩に出合ってからというもの、ぼくはこの「複数の〈わたし〉」という概念なしには、自分というものの存在について考えることができなくなったのである。つい最近、ナンシー・ウッドの『今日は死ぬのにもってこいの日』という詩集を読んでいたら、つぎのようなフレーズと出くわした。「わたしの部族の人々は、一人の中の大勢だ。/たくさんの声が彼らの中にある。」(金関寿夫訳)。この詩のなかに出てくる「大勢」というのは、「熊」や「ライオン」や「鷲」であったり、あるいは、「岩」や「木」や「川」でさえあったりする。ぼくの場合、自分の声のなかに、血のつながりのあるものの声が混じっていることは、はやくから気がついていたのであるが、あるとき、ひょんなきっかけから、自分の声のなかに、血のつながりのないものの声も混じることがある、ということに気づいたのである。これもまた、ぼくが詩を書きはじめて間もないころのことで、親友の歌人である林 和清と電話で話をしているときのことであった。『引用について』というタイトルの論考を、雑誌の「詩学」に出すことになって、その下書きをファックスにして送り、いっしょに検討してもらっていたときのことであった。三時間近くしゃべっていたと思う。長い時間、電話で話をしているうちに、林の声のなかに、ぼくの声が混じっているような気がしたのである。そして、その声を聞きながら話すぼくの声のなかに、林の声が混じっているような気がしたのである。電話から林の声を通して聞こえるぼくの声を、ぼくが聞きながら、ぼくが林に向かってしゃべるという奇妙な感触を味わったのである。このようなことを、はっきりと意識できた経験は、このときだけだ。それ以後はいっさいない。林との電話で起こったことを思い返してみると、二人が親友であったということも要因として考えられるが、「引用」という文学行為に対して思いをめぐらすことの多かった二人が議論に熱中し、まるで一つの見解を二人が創出するかのごとくに考えをまとめあげていったということの方が要因としては大きいと思われる。この感覚をさらに推し進めると、マンが、『トリスタン』という作品のなかで、「おお、万象の永遠なる彼岸における合体の、溢るるばかりゆたかな、飽くこと知らぬ歓呼よ。悩ましき迷誤をのがれ、時空の束縛を脱して、「汝」と「我」と、「汝(な)がもの」と「我がもの」とは、一つに融けて、崇高なる法悦となった。」(実吉捷郎訳)と書き表している境地にでも立つことができるのであろう。あるいは、また、ムージルが、『静かなヴェロニカの誘惑』のなかで、「甘美なやわらぎと、このうえもない親しさを、彼女は感じた。肉体の親しさよりも、魂の親(ちか)しさだった。まるで彼の目から自分を眺めているような、そして触れ合うたびに彼を感じとるばかりでなく、なんとも言いあらわしようもないふうに、彼がこの自分のことをどう感じているのかをも感じとれる、そんな親しさであり、彼女にはそれが神秘な精神の合一のように思えた。」(古井由吉訳)と書き表しているような境地にでも立つことができるのであろう。残念ながら、そのときのぼくは、そのような境地になど立つことはできなかったのであるが、たとえば、ホイットマンが、『草の葉』の〈私は自身を礼讃する〉のなかに書いている、「すべての人々のなかに、私は自身を見る」(長沼重隆訳)といった能力のあるひとならば、あるいは、『バガヴァッド・ギーター』の第六章に書かれている、「すべてのなかにわたしを見、わたしのなかにすべてを見る」(宇野 惇訳)といった能力のあるひとならば、たとえ、相手がだれであっても、「崇高なる法悦」や「神秘な精神の合一」に達することなど珍しいことでなんでもないのだろうけれど。


 胸の想いをのべるためにじぶんの舌をつかっていると、ぼくは気づく、ぼくの唇がうごいていることに、そして話しているのはぼく自身だということに。
(ロートレアモン『マルドロールの歌』第四の歌、栗田 勇訳)

彼はことばをきる。自分の口を借りて、まるで見知らない声がでてきていることに気づいたからだ。
(サルトル『奇妙な友情』佐藤 朔・白井浩司訳)

だれでも、自分自身と一致していないときに限って不安をもつのだ。
(ヘッセ『デーミアン』第八章、吉田正巳訳)

 あるとき、ふと、自分の声のなかに、自分ではないものの声がまじっていることに気づくという、ぼくと同じ体験をしたひとは、あまり多くいないようだ。林を含む友人たちに訊いてみたが、だれも、そのような経験をしたものはいなかった。しかし、たとえば、巫女が声色を使って、神託や口寄せをすることはよく知られている。ただし、この場合、声が混じるというよりは、まったく別の人間の声になっているといった方がよいかもしれない。いずれにしても、神託や口寄せをする巫女の声に、ぼくたちが、畏怖の念を抱きつつも耳を傾けるのはその声の極端な変わりように、まさにいま尋常ではないことが起こっているのである、といった印象を受けるからであろう。どうやら、ぼくには、人格だけではなく、声というものもまた、統一的な存在であると思いたい欲求があるようである。しかし、よく考えてみると、相手によって、ぼくの話す声と口調が異なっていることは確かである。性格の方も、声ほどではないが、相手によって、やはり違ったものになっているようだ。ただし、これは巫女の場合とは違って、どれもが、ぼくの声であり、どれもが、ぼくの口調であり、どれもが、ぼくの性格であるように思われるのだが。しかし、いったい、いつ、いかなるときに、ぼくのほんとうの声が、ぼくの口を通して出てくることになるのであろうか。


子供が自分の声を探している。
(ロルカ『唖の子供』小海永二訳)

どの声もどの声も僕のまわりを歩きまわる。
(原 民喜『鎮魂歌』)

声はつぎつぎに僕に話しかける。
(原 民喜『鎮魂歌』)

僕は自分自身を捜し求めた。
(ラディゲ『肉体の悪魔』新庄嘉章訳)

鏡があった。あれは僕が僕というものに気づきだした最初のことかもしれなかった。僕は鏡のなかにいた。
(原 民喜『鎮魂歌』)

 ヴァロンによりますと、幼児は最初、自己の鏡像のばあいには、他人の身体の鏡像のばあいにもまして、それを本当の身体の一種の分身として見ていた、と考えなければならないわけです。/多くの病的な事実が、そうした自己自身の外的知覚、つまり「自己視」(autoscopie)が存在することを証言しています。まず、多くの夢のばあいがそうであって、われわれは夢の中では、自分をさながら自分にも見える人物であるかのように思い描きます。こうした現象は、溺死の人とか入眠時の或る状態とか、また溺れた人などにもあるようです。そうした病的な状態において現われてくるものと、幼児が鏡の中に見えている自分自身の身体について持つ税所の意識とは、よく似ているように思われます。「未開人」は、同一人物が同一瞬間にいろいろな地点にいると信ずることができます。
(M・メルロ=ポンティ『幼児の対人関係』第一部・第三章・第一節・a、滝浦静雄・木田 元訳)

およそ問題となるのは、自分が自分をどう思っているか、なんと自称しているか、なんと自称するに足る確かさを持っているか、という点だ。
(トーマス・マン『道化者』実吉捷郎訳、句点加筆)

しかし、
(ヘッセ『青春彷徨』山下 肇訳)

人間は自己自身を見渡すことができない。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)

僕らが自己を発見しようと思ったら、自己の内部へ下りてゆく必要はないのだ。なぜなら、ぼくらは外部に見いだされるのだからね。
(ホーフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

己れを識ることを學ぶための最善の方法は、他人を理解しようと努めることである。
(ジイド『ジイドの日記』第五巻・一九二二年二月十日、心情嘉章訳)

「第一の格言」と、リュシアンは思った。「自分の中を見つめないこと。それ以上、危険な誤ちはないから」。真のリュシアンというものは──それを今、彼は知っているのだが──他人の眼の中に求めるべきなのだ。
(サルトル『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳、読点加筆)

 もちろん、「他人の心のなかを知ることなんて、絶対にできない」(スーザン・マイノット『庭園の白鳥』森田義信訳)ということを知ったうえで、他人が自分のことをどう思っているのか、考えるのである。ベン=ジェルーンの『砂の子ども』7にある、「私は沈黙のうちに錯乱し、彼女の思考と一体化し、それを私自身の思考として認識することができた。」(菊地有子訳)の「錯乱」という言葉など、ランボーの手紙のなかにある言葉を思い起こさせるが、この主人公は「錯乱」しているというよりはむしろ「錯覚」していると言った方が適切であろう。さて、この辺りで、そろそろ羊の話に戻ろう。まえに引用した「それはいくらか私自身であった。」や「すべての人々のなかに私自身を見る。」などに見られる、ジュネの「誰もが私である。」という言葉に収斂していくものとは違って、ランボーの「我とは、一個の他者である。」という言葉は、これまで見てきたように、「私」の成り立ちと、その起源について、ほんとうに、さまざまな知見をもたらせる、多元的な認識を示唆するものであった。一方、ジュネの言葉は、そういった多元的な認識を示唆するようなものではなかった。というのも、ジュネの言葉が、まず、「他者」は「他者」であり、「私」は「私」である、ということを前提したものであるからであろう。ランボーの言葉は、その前提にこそ疑いの目を向けさせるものであったのである。

しかし、本当は、どちらがどちらに似てゐたのであらうか?
(三島由紀夫『太陽と鉄』本文)

すべてのものが似ている?
(エリュアール『第二の自然』14、安東次男訳、疑問符加筆)

もっとよく見ようとすると、いっそう見えなくなる。
(ダンテ『神曲』浄罪篇・第三十三歌、野上素一訳、句点加筆)

それが「僕らの自我」
(ホフマンスタール『詩についての対話』富士川英郎訳)

ほんとうさ。
(ジュリアス・レスター『すばらしいバスケットボール』第一部・I、石井清子訳)

嘘じゃないよ。
(サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』小舟のほとりで、野崎 孝訳)

夕方になると、
(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』不在、三好郁朗訳)

縄跳びをする少女がいる。


ひと跳びごとに少女の数が増えていく。


同じ姿の少女の数が増えていく。


少女は永遠に縄とびをしているだろう。
(サルトル『自由への道』第一部・8、佐藤 朔・白井浩司訳)

ノックの音。父がはいって来た。
(G・ヤノーホ『カフカとの対話』吉田仙太郎訳)

 その後ろから、パパに瓜二つのパパが入って来た。二人のパパが、ぼくの机の横に立って何か言いかけたところで、またもう一人のパパが入って来た。と、思う間もなく、四人目のパパが、開いたままのドアをノックして、ぼくの部屋に入って来た。そうやって、ぼくの部屋のなかに、つぎつぎと瓜二つそっくりのパパたちが入って来た。ぼくのベッドのうえにまで立つたくさんのパパたち。ぼくも、とうとう立ち上がって、たくさんのパパたちのあいだで、押し合いへし合い、ギューギューギュー。うううん、暑いよ、パパ。うううん、痛いよ、パパ。ぼく、つぶれちゃうよ。ああ、もうこれ以上、部屋に入って来ないで。あああん、パパ、いたたたたた、痛いよ、パパ!


百葉箱のなかの祈祷書

  田中宏輔



小学校四年生のときに読んだ『フランダースの犬』が、すべてのはじまりだという。実際、彼の作品
は、神を主題としたものが多い。二十代までの彼の見解は、サドが『閨房哲学』の中で語ったものと
同じものであった。「もし神が多くの宗教によって描かれているようなものであるとするならば、神
こそ世の中で最も憎むべきものであるにちがいない。なぜかと言えば、神はその全能の力によって悪
を阻止し得るにもかかわらず、依然として地上に悪がはびこるのを許しているからだ」(澁澤龍彦訳)


石の水、
(森本ハル『石の水』読点加筆)

この岩の古い肋(あばら)骨(ぼね)、
(ゲーテ『ファウスト』第一部、相良守峯訳、読点加筆)

水はえぐった岩のなかの石だ、
(マクリーシュ『地球へのおき手紙』上田 保訳)

現在の見方は、このような単純なものではない。三十代前半に、彼はさまざまな苦難に遭遇したが、
それらを克服することによって、以前とは違った目で、事態を把握することができるようになったの
である。はじめの間、彼は、まわりが変わったと思っていたのだが、会う人ごとに、きみは変った
と言われることで、実は、まわりが変わったのではなく、自分自身が変わっていたのだということに
気づかされたのだという。ヨブ記を何度も読み返したらしい。魂の方は神を信じたがっているようだ。


ひからびた岩には水の音もない。
(エリオット『荒地』I・埋葬、西脇順三郎訳)

水の流れる音を聞くために、
(G・マクドナルド『リリス』42、荒俣 宏訳)

私は眠りもやらず書物に向かってすわりすごした。
(ヘッセ『飲む人』高橋健二訳)


ダイアン・アッカーマンの『感覚の博物誌』第四章に、「poet(詩人)という言葉は、もとをたど
れば小石の上を流れる水の音を表すアラム語に行きつく。」(岩崎 徹訳)とある。これを読んで、
出エジプト記の第十七章を思い出した。エジプトから逃れて荒野を旅するイスラエル人たちが、飲み
水がなくて渇きで死にそうになったとき、神に命じられたモーセが、ナイル河を打った杖でホレブの
岩を打つと、そこから水が出たという話である。アラム語は、キリストや弟子たちの日常語であった。


あの海が思い出される。
(プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』第一章、金子幸彦訳)

すさみはてた心は
(レールモントフ『悪魔』第一篇・九、北垣信行訳)

あらゆることを、つぎつぎ忘れ去るのに、
(ナボコフ『ロリータ』第二部・18、大久保康雄訳)

羅和辞典を繰っていると、懲罰、痛苦、呵責といった意味の単語 poena を見つけた。そばには、詩と
いう意味の単語 poema がある。共通部分poeが、詩人のポオと同じ綴りであることに気がついた。
小学生のときは、画家になることが夢だったらしいが、作品の中で語られている理由のほかに、もう
一つ、理由があった。画家なら、人と違っていても、そのことで苦しむことはないと思ったからだと
いう。人が自分と違うということを知ったのは、彼が、小学校二年生か、三年生の頃のことであった。


魂が
(ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』第七章、福田恆存訳)

海を見ていた。
(川端康成『日向(ひなた)』)

たやすく傷つけられるものは恒常なのだ。
(オスカル・レールケ『木の葉の雲』淺井眞男訳)

たぶん休み時間のことだったと思う。学校からそう遠くないところで、火事があった。後ろの方から、
火事だと叫ぶ声がして、生徒たちが、いっせいに窓辺に近寄った。みんなが、わいわいと騒ぎ出した。
その火事に目をやる顔の中に好きな友だちの顔があった。その顔も笑っていた。誰かの家が焼けて
いるというのに。そこで誰かが苦しんでいるかもしれないというのに。怖くなって、友だちの顔から
目を背けた。こう語った後、彼は言った。他者が自分ではないことが、あらゆる苦痛の根源である、と。


沈む陽(ひ)の最後のきらめきとともに
(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』第一部、井上正蔵訳)

波の上に
(ポール・フォール『輪舞』村上菊一郎訳)

むすびめは、はじけ。
(ヴァルモール『サージの薔薇』高畠正明訳、読点加筆)

文学極道

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