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田中宏輔 - 2016年分

選出作品 (投稿日時順 / 全24作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


詩の日めくり 二〇一五年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年六月一日 「こころに明かりが灯る」


 以前、付き合ってた子が遊びにきてくれて、二人でDVD見たり、音楽聴いたりしてた。世界いち、かわいい顔だと、きょうも言った。「きっと、一週間は、こころに明かりが灯った感じだよ。」と言うと、「ええ?」相変わらず、ぼくの表現は通じにくそうだった、笑。


二〇一五年六月二日 「いっしょに服を買いに行くのだ。」


 きょうは、これから頭を刈って、高木神経科医院に行って、それから、えいちゃんと河原町で待ち合わせ。いっしょに服を買いに行くのだ。きょうは、えいちゃんの誕生日。何着か買ってあげるねと約束したのだった。誕生日を祝ってあげられることっていうのは、ぼくには楽しいことなのだ。しかし、毎日、楽しいことばっかりで、長生きすると、ほんとに人生は楽しいものだと痛感する。若いときは苦しいことばっかりだったのにね。でも苦しかったから、いまが楽しいのかもね。すてきなひと、かわいいひとに囲まれている。付き合いが長くなると、いいところが新しく見つかったりするから、できるかぎり長く生きて、友だちのいいところをいっぱい目にしようと思っている。


二〇一五年六月三日 「複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?」


 きょうは、ジュンク堂で、レムの「泰平ヨンの未来学会議』(ハヤカワSF文庫)と、フィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』(創元SF文庫)を買った。ディックの未訳の長篇は、これでさいごだったと思う。いつ読むか、わからないけれど。あした早いし、クスリのんで寝よう。きのう寝てないから、きょうは、よく眠れますように。寝るまえに、ウルトラQの本か、怪獣の人形の写真集でも見ようっと。本の表紙の絵とか、怪獣の人形や、その写真集なんかで、こころが癒されるのって、なんだか単純。複雑なひとって、なにに癒されるのだろう?


二〇一五年六月四日 「才能とは辛抱のことだ。」


 本棚を少しでもよい状態にしておきたかったので(いま、ぎゅうぎゅうに並べた本のうえに、本を横にして載せてたりしているので、本には悪い状態だと思う)モーパッサンの『ピエールとジャン』を捨てようと思って(1冊でも少なくしたいので)、でも、念のためにと思って、ふと、ページをめくると、「小説について」という、前書きか、それとも序文なのかわからないけれど、本篇のまえに置かれたものがあって、それを拾い読みしていると、ふむふむとうなずくところがしきりに出てきて、捨てられないことがわかった。フロベールがモーパッサンに言ったという、「才能とは辛抱のことだ。」という言葉が印象的だった。違ったかな。でも、まあ、こういった言葉だった。そして、宮尾節子さんのことが思い浮かんだのだった。正確に引用しておこう。『ピエールとジャン』の本篇のまえに置かれた「小説について」というエッセーのようなもののなかに、つぎのような言葉があるのだ。「その後、フロベールも、ときどき会っているうちに、私に好意を感じてくれるようになった。私は思い切って二、三の試作を彼の手もとにまでさし出した。親切に読んでくれて、こう返事をしてくれた。「きみがいまに才能を持つようになるかどうか、それは私にはわからない。きみが私のところへ持ってきたものはある程度の頭のあることを証明している。だが、若いきみに教えておくが、次の一事を忘れてはいけない。才能とは──ビュフォンの言葉にしたがえば──ながい辛抱にほかならない、ということを。精を出したまえ」」(杉 捷夫訳)。モーパッサンがフロベールに言われた言葉だけれど、フロベールはビュフォンの言葉を引いたみたいだ。ということは、ぼくがここにその言葉を引くと、ひ孫引きということになるのかな。違うかな?


二〇一五年六月五日 「ナボコフ」


 きのう、ナボコフを読んでみたいという知り合いに、『ロリータ』と『青白い炎』をプレゼントした。『ロリータ』は大久保康雄訳の新潮文庫本、『青白い炎』は古いほうの文庫版。たしか、ちくま文庫だったかな。どっちのほうをより好いてくれるか、わからないけれど、どちちも傑作だった。ちょっとまえに買った『文学講義』は最悪だったけれど。ぼくの本棚には、『ロリータ』はまだ2冊ある。カヴァー違い、翻訳者違いのものだ。もちろん、岩波文庫から出た『青白い炎』もある。


二〇一五年六月六日 「セロリ」


身体のためにと思ってセロリを買ってきて食べているのだけれど、気持ち悪くなるくらいに、まずい。


二〇一五年六月七日 「FBフレンド」


 FBフレンドの笑顔がかわいすぐる。きょうは、その男の子の笑顔を思い浮かべながら寝る〜。二度目の、おやすみ、グッジョブ! I go sleep with your smile tonight. って、その男の子の画像にコメントした。三度目の、おやすみ、グッジョブ! その子の返信。LOL! why not sleep with me? そんなこと言われても〜、笑。日本じゃないもの。彼がいるのが。日本だったら会いに行ってる(たぶん)。それぐらいかわいい。because I can't sleep. って、書いておいた。ぶふふ。


二〇一五年六月八日 「殺戮のチェスゲーム」


 ブックオフのポイントが貯まっていたので、使おうと思って、三条京阪のブックオフと四条河原町のオーパ!のブックオフに行った。三条京阪では欲しいものがなかったが、オーパ!のほうでは、ダン・シモンズの『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻が、たいへんよい状態でそろっていたので、買った。『殺戮のチェスゲーム』を上・中・下巻のセットで買うのは、これで4回目だ。本棚にあるほうは、ふたたびお風呂場で読む用にしようと思う。きょう買ったもの以上によい状態のものは、ないと思うので、『殺戮のチェスゲーム』を買うのは、これで終わりにしたいと思う。高い値段で買ったもののほうが、安い値段で買ったものより状態が悪くて(ヤケとシミがあった)腹が立って、『殺戮のチェスゲーム』上・中・下巻、背中をバキバキ折って、捨てた。どれも分厚い本なので、簡単に背割れした。本棚を整理しようと思って、ひとつの本棚の奥を見てびっくりした。もう手元にはないと思っていた私家版の詩集が2冊出てきた。電子データにしていないものも含まれているので、後々、電子データにするつもり。初期の詩だ。それと、捨てたと思っていたぼくや恋人が写っている写真がケースごと発見されたのであった。これは僥倖だった。


二〇一五年六月九日 「聞き違い」


仕事の合い間に読書をしていて、聞き違いをしてしまった。そこで「聞き違い」自体を、つぎのようにしてみた。

聞き違い
効き違い
機器違い
危機違い
き、気違い
kiki chigai

日常、耳にするのは「聞き違い」くらいかな。小説や、マンガなんかには、「き、気違い」もあるかな。


二〇一五年六月十日 「きみの名前は?」


『〈教皇〉ヴァレンタイン』上巻、あと10ページほど。シルヴァーバーグは、ほんとうに物語がうまいなと思う。きょうじゅうに下巻をどれだけ読めるかだけど、楽しみ。シルヴァーバーグが終わったら、フィリップ・ホセ・ファーマーの作品で唯一というか、唯二、読んでいない、『淫獣』シリーズを読む。『淫獣の妖宴』と『淫獣の幻影』だけど、男のペニスにかぶりついて血を吸う女吸血鬼が出てくるらしい。10年以上もむかし、これらを手に入れるために、各々数千円ずつ使ったと記憶しているのだが、いまはもう、これらの古書値は下がってると思う。調べてみようかな。505円と1000円だった。このあいだ復刊した、『泰平ヨンの未来学会議』も、以前は2万円から3万円したのだけれど、いまどうなってるか、ググってみよう。9550円だった。レムのなかでもっともつまらない『浴槽で発見された手記』がまだ5000円だった。これは1円でいいような本だったのだけれど、ネットで調べると、評価が悪くないのだ。ラテンアメリカ文学を読んだあとでは、駄作としか思えないものなんだけどね。さっき、お風呂場で、キングの『呪われた町』の上巻を読んでたら、貴重なエピグラフ「きみの名前は?」があって、俄然、興味が高まったのだけれど、プロローグを読んだら、ゲイ・ネタかしらと思うセリフのやりとりもあって、『〈教皇〉ヴァレンタイン』の下巻より先に読むことにした。走り読みしよう。


二〇一五年六月十一日 「詩論」


 けさの出眠時幻覚は、オブセッションのように何度も見てるもの。偽の記憶だ。30代で記憶障害を起こしたときの記憶である。大学院を出たあと、高校に入り直して生活していたというものだ。当時は記憶が錯綜して、現実が現実でない感じだった。自分が魔術的な世界で生活している感じだったのだ。精神的現実が幻想的だった。ダブルヴィジョンは見るし、ドッペルゲンガーとは遭遇するし、夜中に空中浮遊しながら散歩していると思い込んでいたし、頭のうしろの光景もすべて目にしていたと思い込んでいた、狂った時期の記憶だ。とても生々しくて、まさに悪夢だった。合理主義者なので、それらが無意識領域の自我(あるいは、自我を形成する言葉や言葉以外の事物によって受ける印象や事物から得られる感覚などによって形成されるロゴス=形成原理)が引き起こした脳内の現象であることは、30代後半からの考察によってわかったのだが、いまは、それの分析を通して作品をつくっている。『詩の日めくり』も、そういった類の作品だろう。無意識のロゴスを最大限に利用しようと思っている。「先駆形」ほど過激ではないが(先駆形をつくっているときの精神状態はやばかったと思う。万能感がバリバリで、さまざまなものが、言葉が自動的に結びついていくさまを眺めているのは、自分の正気を疑うほどに、すさまじい感覚を引き起こすものだったのだ)それでも、『詩の日めくり』をつくっているときのこころのどこかは、ここ、いま、という場所と時間を離れた、どこか、いつかに属する、時制の束縛を知らないものになっていたのだった。「詩とはなにか」という問いかけに対するもっとも端的な答えは、「詩とはなにか」という問いかけを無効にしてしまうものであるだろう。なにものであってもよいのだ。詩とはこれこれのものだと言う者がいる。たしかに、そうだとも言えるし、そうでもないものだとも言えるのだ。100の答えに対して、少なくとも、もう100の答えが追加されるのだ。1つの詩の定義がなされるたびに、2つの詩の定義が増えるのだ。


二〇一五年六月十二日 「弟」


 いちばん下のキチガイの弟から電話があった。ぼくが自殺すると思っているらしい。「きみも詩を書きなさいよ、才能があるんだから」「あっちゃんみたいな才能はないよ。」「ぼくとは違う才能があると思うよ。むかし書いてたの、すばらしかったし。あの父親が否定したから書かなくなったんだろうけど。あの父親も、頭がおかしかったんだし、きみと同じでね。でも、きみを否定したのは間違ってたと思うよ。ぼくのことを否定していたことも間違っていたし。芸術をするのは、いつからでも遅くはないよ。才能がある者は書く義務がある。書きなさい。」と言った。弟は詩も書いていたし絵も描いていたのだ。父親に強く否定されて発狂したのだけれど、ぼくは否定されても、すぐに家を出たので、父親の言葉に呪縛されることはなかった。死ぬまで父親と同居していた弟は、ほんとうに可哀想だ。自己否定せざるを得ず発狂までしたのだ。理解力のない親を持って否定された芸術家はたくさんいると思う。子どもの才能を否定する親など見捨てればいいのだ。ぼくが見捨てたように。弟には、好きな詩とか絵を、ふたたびはじめてほしいと思う。頭のねじがどこかおかしい弟なので、すばらしいものを書くと思う。


二〇一五年六月十三日 「愛はただの夢にすぎない。」


「愛はただの夢にすぎない。」(スティーヴン・キング『呪われた町』下巻・第三章・第十四章・30、永井 淳訳、276ページ)ただの夢だから、何度も訪れるのだろう。オブセッションのように。若いときには。齢をとると、愛の諸相について考察するようになるので、ひとつの型にこだわることがなくなった。肉欲のことについて考えていたのだ。54才にもなると、肉欲に振り回されることがなくなるのだ。これはひとつの僥倖であり、自然が人間に与えた大いなる恩恵のひとつである。人生のほとんどすべての時間を、学問や芸術に注ぎ込むことができるのだ。キングの『呪われた町』下巻を読み終わった。二度と読み直さないだろうから上・下巻とも破り捨てた。プログレをやめて、イーグルスを聴いてたら、FBフレンドの恋人同士の仲のいい画像が思い出されて、そこから自分の過去の付き合いとかが思い出されて、ちょっとジーンとして、まだ作品にしてない思い出とかいっぱいあって、これからそれを作品にしていけると思うと、なんか幸せな気分にあふれてきた。齢をとって、自分自身が若さとか美しさから遠くなったために、客観的に見れる若さとか美しさのはかなさがよくわかるような気がする。たとえ若くて美しくても、なんの努力もしていないのに、持ち上げられてちやほやされるというのは、とても愚かしいことだった。そして、それが愚かしいことだったということがわかることが、とても大事なことのように思える。たくさんの文学が、その愚かさについての考察なのではないだろうか。ぼくの作品も例外ではなく、その愚かさについての考察であるような気がする。愚かで愛おしい記憶だ。お酒、買いに行こうっと。あのおっちゃんとは、二度と会ってないけど、ぼくのこと、気に入っちゃったのだろうか。話しかければよかったかなあ〜。なんてことが、わりとある。電車のなかとか、街を歩いてたりしてたら。世のなかには、奇跡がごまんと落ちてるのだった。ただね、拾い損ねてるだけなのね。


二〇一五年六月十四日 「夢は叶う」


 日知庵で、会社のえらいさんとしゃべっていて、そのひとが「プラスなことしゃべっててもマイナスなことしゃべると、口に±で「吐く」になる。プラスなことだけをしゃべってると口に+で「叶う」になるんやで」と言って、ふだん、酒癖悪いのに、いいこと言うじゃんって思った。でも、横からすかさず、「それ金八先生ですか?」って、二人で来てた女性客のうち、そのえらいさんの隣に坐ってた方の子に突っ込まれてた。そかもね〜。たしかに、ぽい。そのえらいさん、聞こえないふりしてたけど、笑。やっぱ、「金八先生」かも。ぼくははじめて聞いて、感心してしまったのだけれど。


二〇一五年六月十五日 「雨なのに、小鳥が泣いている。」


雨なのに、小鳥が泣いている。目が覚めてしまった。


二〇一五年六月十六日 「『淫獣』シリーズ2冊」


『淫獣の妖宴』を含む『淫獣』シリーズだけが、ファーマーのもので唯一、読んでなかったもの。だって、男のチンポコから血を吸う女吸血鬼の話だっていうから、避けてたのね。あまりに痛々しそうでさ。でもないのかな? フィリップ・ホセ・ファーマーは、日本で出版されている翻訳本をコンプリートに収集した何十人かの詩人や作家のうちの一人。『淫獣』シリーズを読むのが、もっとはやければよかった、というような感想がもてる作品であればいいなって思っている。(中座)ファーマーの『淫獣の幻影』を100ページちょっと読んだ。車の出す排気ガスで、街に住む人間がどんどん街から脱出しているという設定のなかでの吸血鬼物語。いまだったら「排気ガスで街を脱出」みたいな設定が馬鹿げてるもののように思えるけれど、作品が書かれた1986年当時はそうではなかったのだろう。ということは、いま問題視されていることも、将来的には馬鹿げているように思えるものもあるのだろう。逆に、当時問題視すべきことで、問題視されなかったものもあるだろうし、同様に、いま問題視しなければならないことで問題視していないものもあるだろう。すごい作品とか、勉強になる作品とか、よいものばっかり読んでいると、よくないものに出合ったときの怒りは中途半端なものではなくなるので、ときには、あまりすごくない作品や、そんなに勉強にならないものも読む必要があるのかもしれない。そうでも思わなかったら、『淫獣の幻影』は破り捨ててるな。いや、最悪のものかもしれない。ファーマーのもののなかで。うううん。でも、最悪なものでも持っておきたいと思うのは、ファンだからかもしれない。というか、ファンだったら、最悪な設定のものこそ、よろこんで受け入れなければならないのかもしれない。(中座)『淫獣の幻影』あと20ページほど。セックス、セックス、セックスの描写が本文の半分くらいあるかもしれない。じっさいは5分の1ほどかもしれないけれど、感覚的に、半分くらい、セックス描写である。うううん。でも、いいかも。と思わせるのは、やっぱり、ぼくが、フィリップ・ホセ・ファーマーのファンだからかもしれない。あの壮大なリヴァー・ワールド・シリーズを読んだときから、ファーマーは、ぼくのアイドルになってしまったのであった。きょうじゅうに『淫獣の妖宴』に突入すると思う。ゲスいわ〜。最低にお下劣。(中座)『淫獣の妖宴』の冒頭で、いきなり、吸血鬼や狼男は、じつは宇宙人だったというのである、笑。笑うしかない。しかも主人公の人間が突如、超能力をもち、ものすごく巨大なペニスをもつことになり、云々というのだ。ある意味、自由だけど、自由すぎるような気がする。(中座)『淫獣の妖宴』を走り読みした。精読する価値がなかったので。これから、このあいだ買ったフィリップ・K・ディックの『ヴァルカンの鉄槌』を読む。これはじっくり読む価値があるだろうか。ディックもまたぼくの大好きな作家で、その作品をすべてコレクションしている詩人や作家のうちの一人だ。


二〇一五年六月十七日 「誤字」


 フィリップ・K・ディック『ヴァルカンの鉄槌』(佐藤龍雄訳)誤字 148ページ8、9行目「勝負をものにしたのだ。」これは「勝利をものにしたのだ。」だと思う。「勝負をものにする」などという日本語にお目にかかったことがない。


二〇一五年六月十八日 「りんご摘みのあとで」


 レムの『泰平ヨンの未来学会議』があまりにも退屈なので、ロバート・フロストの詩の翻訳をしようかな。


After Apple-Picking

Robert Frost

My long two-pointed ladder's sticking through a tree
Toward heaven still,
And there's a barrel that I didn't fill
Beside it, and there may be two or three
Apples I didn't pick upon some bough.
But I am done with apple-picking now.
Essence of winter sleep is on the night,
The scent of apples: I am drowsing off.
I cannot rub the strangeness from my sight
I got from looking through a pane of glass
I skimmed this morning from the drinking trough
And held against the world of hoary grass.
It melted, and I let it fall and break.
But I was well
Upon my way to sleep before it fell,
And I could tell
What form my dreaming was about to take.
Magnified apples appear and disappear,
Stem end and blossom end,
And every fleck of russet showing clear.
My instep arch not only keeps the ache,
It keeps the pressure of a ladder-round.
I feel the ladder sway as the boughs bend.
And I keep hearing from the cellar bin
The rumbling sound
Of load on load of apples coming in.
For I have had too much
Of apple-picking: I am overtired
Of the great harvest I myself desired.
There were ten thousand thousand fruit to touch,
Cherish in hand, lift down, and not let fall.
For all
That struck the earth,
No matter if not bruised or spiked with stubble,
Went surely to the cider-apple heap
As of no worth.
One can see what will trouble
This sleep of mine, whatever sleep it is.
Were he not gone,
The woodchuck could say whether it's like his
Long sleep, as I describe its coming on,
Or just some human sleep.


りんご摘みのあと

ロバート・フロスト

両端の二本の突き出た長い縦木を地面に突き刺したぼくの梯子が木に立てかけてある。
それはまだ天に向けて傾けてある。
そして、そこには一つの樽がある。ぼくがいっぱいにしなかったものだ。
そのそばには、ぼくがいくつかの大ぶりの枝から摘み取り残した
二つか三つのりんごがあるかもしれない。
でも、いまはもう、ぼくのりんご摘みは終わったんだ。
冬の眠りの本質は夜にある。
りんごの香りがする、ぼくはうとうととしている。
ぼくは、ぼくが見た光景の奇妙さを、ぼくの瞳から拭い去ることができない。
それは一枚の窓ガラスを通して見たものから得たものだけど
今朝、飲料用の水桶から水をすくい取って
そうして、涸れかけた草の世界を守ってやろうとしたんだ。
手にした草はへたっとしてたから、そいつを落として、踏みつけて、ばらばらにしてやった。
でも、ぼくは満足だったんだ。
そいつが地面に落っこちるまえまではずっと順調だったんだ。
ぼくにはわかってるんだ。
まさに見ようとしていた夢を、いったい、なにがつくりだすのかって。
巨大なりんごが現われたり消えたりするんだ、
幹の先っちょや花の先っちょでね、
それでいて、赤りんごのどの白い斑点もはっきりくっきりしてるんだ。
ぼくの足の甲のへこんだところは痛みだけでなく、
梯子のあちこちの圧力も感じつづけるんだ。
大きい枝が曲がると、梯子が揺れるのを、ぼくは感じる。
それでいて、ぼくの耳には聞こえずにはいられないんだ、地下室のふたつきの大箱から
ゴロゴロいう音が
ぼくが摘み取って収蔵したりんごの積み荷という積み荷のもののね。
というのも、ぼくが、たくさん摘み取り過ぎちゃったからなんだけどね。
疲れすぎちゃったよ。ぼく自身が望んだ通りのものすごい収穫だったんだけどね。
ぼくの手が摘み取った果実は、1000万個もあったかな。
やさしくていねいに手で摘み取って、降ろすんだ、落とすんじゃない。
というのも、そうしない限り
りんごは地球に激突しちゃうからなんだ。
まあ、たとえ、傷ついちゃったり、刈り株に突き刺さっちゃったりしても
サイダー用のりんごの山のところに運んじゃうだけだけどね。
ほんと、なんの価値もないものだよ。
なにがぼくの眠りを邪魔するものになるか、わかるよね。
そのぼくの眠りがどんなものであってもね。
あいつは行っちゃったのかな、
ウッドチャックのことだけど、そいつはわかってるってさ、その眠りが
自分の長い眠りのようなものかどうかってこと、ぼくがここにきて描写しているようにさ、
それとも、ちょうどちょっとした人間の眠りのようなものなのかな。


二〇一五年六月十九日 「前世の記憶」


 人間はほとんどみな、原始時代からの前世の記憶を連綿と持ちつづけているものなのに、なかには、まれにまったく持たないで生まれてくる者もいるのだ。ぼくがそれで、ぼくには前世の記憶がいっさいないのだ。人間以前の記憶さえ持つ者もいるというのに。だから、ぼくは、こんなにも世渡りが下手なのだ。


二〇一五年六月二十日 「すてきな思い出が待ち構えている」


 かなりのヨッパである。きみやさんに行く途中、阪急でかわいい男の子を見つけたと思ったら、知ってる子だった〜、笑。もう、この齢になったら、街ん中は、かつて好きだった子がいっぱいで、いつ、どこに行っても、すてきな思い出が待ち構えていて、ああ、齢をとるって、こんないいことだったんだって思う。


二〇一五年六月二十一日 「まぎらわしい。」


マンションの部屋にいると、ときどき、車が迫ってくる音と、雨がきつく降ってくる音が似ていて、まぎらわしい。何度か、あわててベランダの窓を開けたことがあった。洗濯物を取り込もうとして。


二〇一五年六月二十二日 「デジャブ感ありだけど。」


 ジュンク堂で、ゲーテの『ファウスト』の第二部といっしょに、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』と、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を買った。『シルトの岸辺』はちら読みしたら、文体がとてもよかったので。『七人の使者・神を見た犬』は、表紙がとても好みのものだったので。帰りに、ところてん2つと、卵豆腐2つ買った。ところてんは黒蜜。酢で食べる方が健康なんだろうけれど、だんぜん黒蜜が好き。卵豆腐は、ひとつはエビ。ひとつはカニ。おやつーな晩ご飯である。あ、そだ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』50ページあたりからおもしろくなった。デジャブ感ありだけど。


二〇一五年六月二十三日 「どっちだろ? どっちでもないのかな?」


シマウマって、さいしょは白馬だったのか、それとも黒馬だったのか、それともあるいは、もとからシマウマだったのか、わからないけど、そういえば、パンダも……


二〇一五年六月二十四日 「泰平ヨンの未来学会議」


 スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』あと20ページほどで読み終わる。グレッグ・イーガンも扱ってたクスリづけの世界。ブライアン・オールディスの未訳の作品にもあったと思うけど、ぼくも短い作品でクスリづけの世界を書いたことがある。オールディスのは幻覚を見る爆弾だった。そいえば、それも、ぼくは書いたことがあった。おそらく、たくさんの詩人や作家が書いているのだろう。レムのは、かなり諧謔的だ。オールディスのはシニカルなものだろう。イーガンのもだ。ぼくのもギャグ的なものとシニカルなものとがあった。塾にいくまでにレムを読みきろう。つぎは、ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』を読むか、プッツァーティの『七人の使者・神を見た犬』を読もう。両方、同時に読んでもいい。通勤と授業の空き時間には『シルトの岸辺』を、寝るまえには、『七人の使者・神を見た犬』を読んでもいい。楽しみだ。(中座)ありゃ。レムの『泰平ヨンの未来学会議』読み終わったけど、夢落ちやった。なんだかな〜。塾に行くまで、ルーズリーフ作業をしよう。時間があまったら、読書をする。


二〇一五年六月二十五日 「やっぱり神さまかな。」


 ずっと可愛いと思ってたFBフレンドが、いま、ぼくに会いたくて日本に行きたいとメールをくれたんだけど、ほんとだったら、うれしい。ほんとかな? 今晩、夢で、きみに会えたらうれしいと伝えた。(ずっと拙い英語でだけど) 笑顔のかわいい子。ぼくの年齢はちゃんと教えたけど、かまわないらしい。だれに感謝したらいいのだろう。やっぱり神さまかな。


二〇一五年六月二十六日 「異なる楽器」


同じ言葉でも異なるひとの口を通じて聞かされると、違った意味に聞こえることがある。人間というものは、一つ一つ違った楽器のようなものなのだろうか。


二〇一五年六月二十七日 「同性婚」


友だちのジェフリー・アングルスが彼氏と同性婚した。日本でもはやく同性婚が認められればいいのに。


二〇一五年六月二十八日 「なんで、おばさん好きなの?」


「1杯で帰ろうと思ったとき出会う酒のみ」
ぼくが詩を書いてるって言ったら、いきなりかよ。
「これは、ずれてるよ。」
「ずれてるけど
 ぼくのなかではいっしょ。」
キクチくんとは、あったの2回目だった。
「サイフが不幸。」
これには、ふたりとも笑った。


二〇一五年六月二十九日 「糺の森。」


ぼくが帰るとき
いつも停留所ひとつ抜かして
送ってくれたね。
バスがくるまで
ずっとベンチに腰かけて
ぼくたち、ふたりでいたね。
ぼくの手のなかの
きみの手のぬくもりを
いまでも
ぼくは思い出すことができる。
いつか
近所の神社で
月が雲に隠れるよりはやく
ぼくたち、月から隠れたよね。
形は変わっても
あの日の月は
空に残ったままなのに
あの日のぼくらは
いまはもう
隠れることもなく
現われることもなく
どこにもいない。


二〇一五年六月三十日 「木漏れ日のなか。」


きょうのように晴れた日には
昼休みになると
家に帰って、ご飯を食べる。
食べたら、自転車に乗って
賀茂川沿いの草土手道を通って
学校に戻る。

こうして自転車をこいでいると
木漏れ日に揺すられて
さすられて
なんとも言えない
いい気持になる。

明るくって
あたたかくって
なにか、いいものがいっぱい
ぼくのなかに降りそそいでくる
って
そんな感じがする。

まだ高校生のぼくには
しあわせって、どんなことか
よくわからないけど
たぶん、こんな感じじゃないかな。

行く手の道が
スカスカの木漏れ日に
明るく輝いてる。


二〇一五年六月三十一日 「お母さん譲ります。」


「あのう、すみません。表の貼り紙を見て、来たのですが。」
呼び鈴が壊れていたのか、押しても音がしなかったので、扉を開けて声をかけてみた。
「また、うちの息子の悪戯ですわ。」
不意に後ろから話しかけられた。
女が立っていた。
「悪戯ですか。」
表で見た貼り紙が、くしゃくしゃにされて、女の手のなかで握りつぶされていた。
「どうぞ、上がってください。」
言われるまま、家のなかに入って行った。
「息子さんはいらっしゃるのですか。」
「奥の部屋におりますわ。」
女は、私の履き物を下駄箱に仕舞った。
「会わせていただけますか。」
「よろしいですわよ。」

案内された部屋に行くと、一匹の巨大なヒキガエルがいた。
──ピチョッ、
ヒキガエルの舌先が、私の唇にあたった。
舌先が、私の喉の奥に滑り込んだ。
──おえっ、
──パクッ。
私が吐き出した魂を、ヒキガエルが呑み込んだ。

外は、すっかり日が暮れていた。
「もう何年も雨が降らないですね。」
「雨はみんな、わたくしが食べてしまいましたのよ。」
女はそう言って、新しい貼り紙を私に手渡した。


詩の日めくり 二〇一五年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年七月一日 「I made it。」



かるい
ステップで
歩こう


かるい
ステップで
歩くんだ

もう参考書なんか
いらない

問題集も
捨ててやる


かるい
ステップで
歩こう


かるい
ステップで
歩くんだ

もう
偏差値なんか
知らない

四月から
ぼくも大学生

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月二日 「Siesta。」


siesta
お昼寝の時間

午後の授業は
みんなお昼寝してる

階段教室は
ガラガラの闘牛場

老いた教授は
よぼよぼの闘牛士

ひとり
奮闘してるその姿ったら

笑っちゃうね
もう

(だけど、先生
 いったい何と奮闘してるの)

siesta
お昼寝の時間

午後の授業は
みんなお昼寝してる

チャイムが鳴るまで
お昼寝してる

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月三日 「First Trip Abroad。」


いつものように
窓際の席にすわって

Tea for One

どこに行こうかな
テーブルのうえに世界を並べて

アメリカ、カナダ
オーストラリア

それとも
アジアか、ヨーロッパがいいかな

それにしても
きれいなパンフレットたち

あっ
そろそろつぎの授業だ

ぼくは世界をリュックに入れて
外に出た

(連作『ぼくのEarly 80’s』のうち)


二〇一五年七月四日 「パタ パタ パタ!」


部屋から 出ようとして
ドア・ノブに触れたら
鳥が くちばしで つっついたの
おどろいて テーブルに 手をついたら
それも ペンギンになって ペタペタ ペタペタッて
部屋の中を 歩きまわるの (カワイイけどね)
で どうしようか とか 思って
でも どうしたらいいのか わからなくって
とりあえず テレビをつけようとしたの
そしたら バサッバサッと 大きな鷲になって
天井にぶつかって また ぶつかって
ギャー なんて 叫ぶの
で こわくなって
コード線を 抜きましょう
とか 思って
て あわてて 思いとどまって (ウフッ)
(だって、これは、ミダス王のパロディにきまってるじゃない?)
って 気づいちゃって (タハハ)
思わず 自分の頭を 叩いてしまったの
パタ パタ パタ!


二〇一五年七月五日 「不思議な話たち。」


ネッシーは、まだネス湖にいるのでしょうか。
あの背中の瘤は、いまでも湖面に現われますか。

雪男は、まだヒマラヤにいるのでしょうか。
あの裸足の大きな足跡に、いまでも遭遇しますか。

ツチノコは、まだ奈良の山にいるのでしょうか。
あの滑稽な姿で、いまでも目撃者が絶えませんか。

かつて、ぼくらが子供だったころ
ぼくらのこころを集めたさまざまな話たち。

いまでも、子供たちのこころを
いっぱい、いっぱい集めていますか。

不思議な話たち、
ひょっこり写真に写ってください。

不思議な話たち、
ひょっこり写真に写ってください。


二〇一五年七月六日 「胡桃。」


きみの手のなかのクルミ
  ──クルミのなかにいるぼく。

きみに軽く振られるだけで
  ──ぼくは、ころころ転げまわる。


二〇一五年七月七日 「月。」


月は夜
ぽつんとひとり
瞬いている。

だから
ぼくもひとり
見つめてあげる。


二〇一五年七月八日 「帽子。」


その帽子は、とっても大きかったから
ふわっと、かぶると、帽子だけになっちゃった。


二〇一五年七月九日 「風車。」


風を食らうのが、おいらの仕事だった。
うんと食らって、籾を搗くのが、おいらの仕事だった。

だれか、おいらの腕を、つないでくれねえかな。
そしたら、また働いてやれんのになあ。


二〇一五年七月十日 「3高。」


「そうね、結婚するんだったら、
ゼッタイ、高学歴、高収入、高身長の人とよね。
そのために、バッチシ、整形までしたんだからさあ。」

あなたの高慢がわたしの耳にはいったため、
わたしはあなたの鼻に輪をつけ、
あなたの口にくつわをはめて、
あなたをもときた道へ引きもどすであろう。
(列王紀下一九・二八)


二〇一五年七月十一日 「缶詰。」


缶詰のなかでなら、ぼくは思い切り泣けると思った。


二〇一五年七月十二日 「オイルサーディン悲歌。」


人生の旅の途中で
みなの行く道を行くわしは
気がついたとき
とあるイワシ網漁の
かぐらき網の目の中にいた。

捕えられたわしを待っていたのは
思いもかけぬ、むごたらしい運命であった。

多くの兄弟姉妹たちとともに
首を切り落とされ
ともに大鍋のなかで煮られて
油まみれの棺桶の中に
横に並べられ
重ねられ

されど
幸いなるかな、小さき者たちよ。
祈れば、たちまち
わしらは、光の中に投げ出されるのだ。

されど、覚悟せよ。
ふたたび火にかけられ
煮られることを。


二〇一五年七月十三日 「コアラのうんち。」


とってもかわいい コアラちゃん
のんびりびりびり コアラちゃん
ユーカリの お枝にとまって
ぶ〜らぶらん ぶ〜らぶらん

とってもかわいい コアラちゃん
うんち ぴっぴりぴ〜の コアラちゃん
まあるいお腹は 調子をくずして
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ

こっちを向いて ぶらさがる
ぶ〜らぶらん ぶ〜らぶらん
黄色いお水が お尻のさきから
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ

子どもが見てる 笑って見てる
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ
子どもが見てる 笑って見てる
ぴっぴりぴっ ぴっぴりぴっ


 2、30年くらいむかし、テレビのニュース番組で、動物園のコアラが、お腹をこわして下痢になった様子を放映していました。日本に来て間もなかったらしく、子どもたちの騒がしい声と、その無遠慮な視線にまだ慣れていなかったために神経症にかかった、と番組のなかで解説していました。


二〇一五年七月十四日 「へびのうんこ。」


へびって どんな うんこ するのかな
へびって どんな うんこ するのかな
まあるいの まんまる〜いの するのかな
ほおそいの ほそなが〜いの するのかな

いつか みた ぞうの うんこ ってね
ぼてっぼてっぼてって ぶっとくて まあるいの
おっきくって とおっても くっさ〜いの

へびって どんな うんこ するのかな
へびって どんな うんこ するのかな
まあるいの まんまる〜いの するのかな
ほおそいの ほそなが〜いの するのかな

いつか みた ねずみの うんこってね
まっくろけの ごはんつぶ みたいなの
ちっちゃくって とおっても くっさ〜いの

ねっ みてみたいでしょ へびの うんこ
ほおそ〜いのか まんまる〜いのか

ねっ みてみたいでしょ へびの うんこ
ほおそ〜いのか まんまる〜いのか


二〇一五年七月十五日 「シャボン玉。」


おおきなものも
                   ちいさなものも
       みなおなじ
                            たくさんの
   ぼくと
                 たくさんの
きみと
       くるくる
                             くるくると
                  うかんでは
かぜにとばされ
                          パチパチ
      パチパチと
                  はじけては
  きえていく
             たくさんの
                        ぼくと
たくさんの
          きみと
                    にじいろ
かがやく
たくさんの
              ぼくと
                       たくさんの
  きみと
          たくさんの
                     ぼくと
  たくさんの
             きみと
                       くるくる
     パチパチ
              くるくる
  パチパチ
         くるくる
                  パチパチ
 くるくる
           パチパチ


二〇一五年七月十六日 「あいつ。」


弥栄中学から醍醐中学へと
街中から田舎へと転校していった
二年のときの十一月。

こいつら、なんて田舎者なんだろうって。

女の子は頬っぺたを真っ赤にして
男の子は休み時間になると校庭に走り出て
制服が汚れるのも構わずに
走り回ってた。

補布(つぎ)のあたった学生服なんて
はじめて見るものだった。

やぼったい連中ばかりだった。

ぼくは連中のなかに溶け込めなかった。

越してきて
まだ一週間もしないとき
休み時間に、ぼくは机の上に顔を突っ伏した。
朝から熱っぽかったのだ。
帰るまでは
もつだろうって思っていたのに……

すると、そのとき、あいつが
ぼくを背中におぶって
保健室まで連れて行ってくれた。

どうして、あいつが、ぼくをおぶることになったのか
それはわからない。
ただ、あいつは、クラスのなかで、身体がいちばん大きかった。

でも、そんなことは、どうでもよくって
あいつが、ぼくをおぶって保健室に連れてってくれて
(保健室には、だれもいなかったから)
あいつが、ぼくをベッドに寝かしつけてくれて
ひと言、
「ぬくうしときや。」
って言ってくれて
先生を呼びに行ってくれた。

もう四十年以上もまえのことなのに
どうして、いまごろ、そんなことが思いだされるのだろう。
あいつの名前すら憶えていないのに。

(そういえば、あいつは、ぼくのことなんか、ちっとも
 知らなかったくせに、ほんとうに心配そうな顔をしてたっけ。)

もしも、ぼくが、そこで卒業してたら
卒業アルバムで、あいつの名前が知れたんだけど
ぼくは、また転校したから……

だけど
名前じゃなくって
あいつって呼んでる

そう呼びながら
あいつの顔を思い出すことが
気に入ってる。

そう呼びながら
そう呼んでる、その呼びかたが
気に入ってる自分がいる。

あれ以来
あいつのように
やさしく声をかけてくれるようなやつなんていなくって
ひとりもいなくって

ぼくは、それを思うと
あの束の間の田舎暮らしがなつかしい。
とてもなつかしい。

やぼったいけれど
とてもあたたかかった
あいつ。
あいつのこと。


二〇一五年七月十七日 「変身。」


 グレゴール・ザムザは、朝、目が覚めると、一匹の甲虫になっていた。ぼくは、この話を何十年もまえに読んでいた。それは、日本語でもなくって、ドイツ語でもなくって、英語で読んだのだった。自分が受験した関西大学工学部の英語の入試問題で読んだのだ。もちろん、そのときは、まだカフカの『変身』なんて知らなかったから、というか、文学作品なんてものを、国語の教科書以外で目にしたことがなかったから、変な話だなあと思いながら読んだのだった。でも、妹がリンゴを投げつけるところまで出てたんだから、あれはきっと、問題をつくったひとがまとめたものだったんだろう。それとも全文だったのだろうか。でも、あとで読んだ翻訳の分量を考えると、いくらなんでも全文ってことはないと思うんだけどね。まあ、いいか。あ、それで、ぼくが、なんで、こんな話からはじめたのかっていうと、受験生だったあのときに疑問に思ったことがあって、あとで翻訳で読んだときにも、やっぱり同じ疑問を感じちゃって、それについて書こうと思ってたんだけど、いったい、あのグレゴール・ザムザは、自分の意志で一匹の甲虫になっちゃんだろうか。それとも、自分の意志とはまったく無関係に一匹の甲虫になっちゃうんだろうか。はっきりとしない。無意識のうちに甲虫になることを願っていたっていう可能性もあるしね。
 でも、ぼくが、けさ目が覚めたときには、はっきりと、自分の意志で虫になりたいと思って、虫になったんだ。べつに頼まなくっても、妹はぼくにリンゴを投げつけてくれるだろうし、無視してくれたり、邪魔者あつかいしてくれる両親もいる。ぶはっ。いま思ったんだけど、投げつける果物がリンゴっていいね。知恵の木の実だよ。ところで、ぼくが目を覚ましたときには、家族はまだだれも起きてはいなかった。五時をすこし回ったところだった。朝に弱いうちの家族は、みなだれもまだ起きてはいなかったのだ。まあ、なにしろ、五時ちょっとだしね。ぼくは、近所のファミリー・マートに行って、スティック糊をあるだけぜんぶ買って帰ってきた。ちょうど10本だった。部屋に戻ると、本棚にある本をビリビリと破いていった。ビリビリに破いて、くしゃくしゃにして、買ってきたスティック糊でくっつけていった。裸になったぼくを中心にして、まずは筒状にしていった。それからあいてるところにもくしゃくしゃにした紙を貼り付けていった。まるで鞘に入ったミノムシのようにして横たわった。だけど、すぐに息苦しくなったから、顔のまえのところを少しだけ破いた。息ができるようになって安心した。安心したら、眠くなってきちゃって、ああ、二度寝しちゃうかもしれないなあって思った。だけど、虫って、どんな夢を見るんだろうね。

二〇一五年七月十八日 「森のシンフォニー。」


ぼくには見える。
ぼくには聴こえる。
ぼくには感じることができる。
だれが指揮するわけじゃないけれど
葉から葉へ、葉から葉へと
睦み合いながら零れ落ちていく
光と露のしずくの響きが
風の手に揺さぶられ、揺さぶられて
枝の手から引き剥がされ落ちていく幾枚もの葉っぱたち。
水面に吸い寄せられた幾枚もの葉っぱたち。
自らの姿に引き寄せられて
くるくると、くるくると
舞い降りていく。
幾枚もの葉っぱたちの響きが
小さな波をいくつもこしらえて
つぎつぎといくつもの同心円を描いていく
揺れる葉っぱたち、震える水面。
樹上を、なにかが動いた。
羽ばたいた。
葉ずれ、羽ばたき、羽ばたく音が
遠ざかる。
遠ざかる。
なにかが水面を跳ねた。
沈んだ。
消えた。
消え失せた。
なにかが草のうえに落ちた。
擦った。
走った。
走り去っていった。
ぼくには見える。
ぼくには聴こえる。
ぼくには感じることができる。
だれが指揮するわけじゃないけれど
ここに、こうして立っていると
はじまるのだ。
森のシンフォニーが。


二〇一五年七月十九日 「輪ゴム。」


輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

白い道、
アスファルト・コンクリート、の、上に。

輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

夏の、きつい、あつさに
くっ、くっ、くねっと、身を、ねじらせて、

輪ゴムが、ひとつ、落ちてた。

ぼ、ぼく、じっと見てたら、
なんだか、悲しくなって、涙が、出てきちゃった。


二〇一五年七月二十日 「タンポポ。」


わたしを摘むのは だれ
やわらかな手 小さくて かわいらしい
こどもの手 こどもたちよ

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

たとえば 薔薇のように
かぐわしい香りを
放つことをしません

たとえば ユリのように
見目麗しき女性に
たとえられることもありません

けれど わたしを摘むのは 
やわらかな手 小さくて かわいらしい
こどもの手 こどもたちよ

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

たとえば 夕間暮れ
駅からの帰り道
数多くの疲れた目が
わたしのうえに休んでいきます

たとえば 街路樹の根元
信号待ちで 立ちどまったベビー・カー
無情のよろこびに目を輝かせて
幼な児が手をのばします

わたしは 野に咲く タンポポ
どこにでも 咲いています

わたしを摘むのは やさしい手
小さくて かわいらしい こどもの手

こどもたちよ
わたしを摘みなさい

こどもたちよ
わたしを摘みなさい


二〇一五年七月二十一日 「裸木。」


「あら、裸木(らぎ)?
 それとも、裸(ら)木(ぼく)?」

──裸(はだか)木(ぎ)。

それは、ただいちまいの葉さえまとうことなく立ち尽くしている。

されど
豊かである。

たとえ、いまは裸でも。

陽の光を全身にあびて、深く長い呼吸をしているのだ。

いつの日か
角ぐみ芽ぶくために。

俺も裸だ。

俺にはなにもない。

されど
豊かである。

まことに豊かである。

俺の胸のなかは、おまえを思う気持ちに満ちている。

おまえを思う気持でいっぱいだ。

春になったら
いっしょになろう。


二〇一五年七月二十二日 「片角の鹿。」


ずいぶんと、むかしのことなんですね。
ぼくが、まだ手を引かれて歩いていた頃に
あなたが、建仁寺の境内で
祖母に連れられた、ぼくを待っていたのは。

ひとつづきの敷石は、ところどころ縁が欠け、
そばには、白い花を落とした垣根が立ち並び、
板石の端を踏んではつまずく、ぼくの姿は
腰折れた祖母より頭ふたつ小さかったと。

その日、祖母のしわんだ細い指から
やわらかく、小さかったぼくの手のひらを
あなたは、どんな思いで手にしたのでしょう。

ひとに見つめられれば、笑顔を向けたあの頃に
ぼくは笑って、あなたの顔を見上げたでしょうか。
そのとき、あなたは、どんな顔をしてみせてくれたのでしょうか。

二十歳になったとき、父の許しが出て、実母に会うことができ、幼児のときに建仁寺の境内で会った話を聞かされました。
幼いころ、祖母に連れられて、岡崎の動物園に行ったとき、鹿園で、一つしかない角を振り上げて、他の鹿と戦っている鹿を目にして、なにかとても重たいものが、胸のなかに吊り下がるような思いをしたことがありました。いま考えますと、そのときの鹿の姿を自分の境遇と、自分の境遇がそうであるとは知らないまでも、こころの奥底では感じ取って、重ねていたのではないかと思われます。


二〇一五年七月二十三日 「打網。」


まだ上がってこない。
網裾が、岩の角か、なにかに引っかかっているのだろう。
父の息は長い、あきれるほどに長い。
ぼくは、父の姿が現われるのを待ちながら
バケツのなかからゴリをとって
小枝の先を目に突き入れてやった。
父が獲った魚だ。
父の頭が川面から突き出た。
と思ったら、また潜った。
岩の尖りか、やっかいな針金にでも引っかかっているのだろう。
何度も顔を上げては、父はふたたび水のなかに潜っていった。
生きている魚はきれいだった。
ぼくはいい子だったから
魚獲りが大嫌いだなんて、一度も言わなかった。
ゴリはまだ生きていた。
もしも網が破けてなかったら
団栗橋から葵橋まで
また、鴨川に沿って、ついて行かなくちゃならない。
こんなに夜遅く
友だちは、みんな、もうとっくに眠ってる時間なのに。
宿題もまだやってなかった。
風が冷たい。
父はまだ潜ったままだ。
ぼくは拳よりも大きな石を拾って
魚の頭をつぶした。
父はまだ顔を上げない。
ぼくは川面を見つめた。
川面に落ちた月の光がとてもきれいだった。
うっとりとするくらいきれいだった。
ぼくはこころのなかで思った。
いっそうのこと
父の顔がいつまでも上がらなければいい
と。


二〇一五年七月二十四日 「弟。」


 齢の離れた末の弟が大学受験をする齢になりました。十八才になったのです。いまでも頬は紅くふくれていますが、幼いころは、ほんとうにリンゴのように真っ赤になってふくらんでいました。とてもかわいらしかったのです。
 ある日、近所の餅屋に赤飯を買いに行かせられました。ぼくはまだ小学生でした。四年生のときのことだったと思います。なにかのお祝いだったのでしょう。なんのお祝いかは、おぼえていません。顔なじみの餅屋のおばさんが、ぼくの目を食い入るようにして見つめながら、「ぼん、あんたんとこのお母さん、ほんまは、あんたのお母さんと違うねんよ。知ってたかい?」と言ってきました。ぼくは返事ができませんでした。黙って、お金を渡して、品物と釣り銭を受け取りました。
 家に帰って、買ってきたものと、お釣りをテーブルのうえに置くと、ぼくはさっさと自分の部屋に戻りました。
 その晩、ささいなことで母にきつく叱られたぼくは、まだ赤ん坊だった弟を自分の部屋であやしているときに、とつぜん、魔が差したのでしょう、机のうえにあった電灯の笠をはずして、裸になった白熱電球を弟のおでこにくっつけました。弟は大声で泣き叫びました。そのおでこの赤くふくれたところに、たちまち銀色の細かい皺ができていきました。あわてて電球に笠をかぶせて元に戻すと、ふたたび、ぼくは弟をあやしました。台所にいたお手伝いのおばさんが、弟の声に驚いて、ぼくの部屋にやってきました。あやしているときに畳でおでこをこすってしまったと嘘をつきました。お手伝いのおばさんは、オロナイン軟膏を持ってきて、弟のおでこに塗りました。おばさんの指がおでこに触れると、痛がって、弟はさらに激しく泣きました。
 いまはもうその火傷の痕はあまり目立ちません。目を凝らしてよく見ないと、ほんの少しだけまわりの皮膚よりも皺が多いということはわからないでしょう。でも、ぼくには見えます。はっきりと、くっきりと見えるのです。弟と話をするときに、知らず識らずのうちに、ぼくは、目をそこへやってしまいます。
 自分を罰するために? それとも自分を赦すために?

誰に向かってお前は嘆こうとするのか 心よ
(リルケ『嘆き』富士川英郎訳)


二〇一五年七月二十五日 「青年。」


 沖縄から上京してきたばかりというその青年は、サングラスをかけて坐っていた。父は、彼にそれを外すように言った。青年はテーブルのうえにそれを置いた。父は、青年の目を見た。沖縄からいっしょに出て来たという連れの男が、父の顔を見つめた。ぼくはお茶を運んだ。父は、青年にサングラスをかけ直すように言い、採用はできないと告げて、二人を帰らせた。
 ぼくは、父のことを、なんて残酷な人間なんだろうと思った。鬼のような人間だと思った。そのときのぼくには、そう思えた。後年になって思い返してみると、父の振る舞いが、それほど無慈悲なものではないということに、少なくとも、世間並みの無慈悲さしか持ち合わせていなかったということに気がついた。なんといっても、うちは客商売をしていたのだ。そして、同時に、ぼくは、そのとき、その青年の片方の目の、眼窩のくぼみを、なぜ、目のあるべき場所に目がないのかという単なる興味からだけではなく、自分にはふつうに見える二つの目があるのだという優越感の混じった卑しいこころ持ちでもって見つめていたことに、そのくぼみのように暗い静かなその青年の物腰から想像される彼の歩んできた人生に対しての、ちょっとした好奇心でもって見つめていたことに気がついたのである。振り返ると、いたたまれない気持ちになる。
 おそらく、父の視線よりも、ぼくのものの方が、ずっと冷たいものであったに違いない。


二〇一五年七月二十六日 「息の数。」


 眠るきみの頬の辺(べ)、ぼくがこんなに見つめているのに。ただ息をして、じっと眠りつづけている。でも、ぼくはしあわせで、きみの息の匂いをかいでいたいた。楽園の果実のような香りを食べていた。きみの吐く息と、ぼくの吸う息。きみの吐く息と、ぼくの吸う息。きみの吐く息を吸うぼく。きみの吐く息を吸うぼく。きみとぼくが、ひとつの息でつながっている。きみの息の甘い香りをいつまでもかいでいたい。きみをずっと食べていたい。いつまでも、いつまでも、こうして、ぼくのそばで眠りつづけてほしい。きみの口の辺りの、垂れ落ちたよだれに唇を近づけて。そっと吸ってみると、ぼくの唇の敏感な粘膜部分に、きみの無精ひげがあたって、こそばゆかった。こそばゆかったけど、気持ちよかった。触りごこちよかった。眉毛がかすかに動いた。醒めてるのかな。まだ眠っているのかな。わからない。わからないから、わからないままに、きみの息の数を数えることにした。でも、いったい、息の数って、どう数えるんだろうか。吸う息と吐く息をひと組にして、合わせてひとつとして数えるんだろうか。それとも、吐く息と吸う息を別々にひとつずつ数えるんだろうか。呼吸って言うくらいだから、息の数は、たぶん、吐く息と吸う息のひと組で、ひとつなんだろう。まあ、いずれにしても、どちらかひとつの方を数えればいいかな。ところで、生まれたばかりの赤ん坊って、はじめて泣き声をあげるまえに、そのからっぽの肺のなかに空気を導き入れるっていうから、息のはじめは吸う息ってことになるかな。じゃあ、死ぬときは、どうなんだろう。息を引き取るって言うけど、この引き取るって言うのは、死ぬひとの側からの言葉なんだろうか。それとも、死ぬひとのまわりにいるひとの側からの言葉なんだろうか。ひとの最期って、息を吐いて死ぬのだろうか、それとも、息を吸って死ぬのだろうか。最後のひと吐きか、最後のひと吸いか。うううん。どうなんだろう。なんら、科学的な根拠があるわけではないけれど、ぼくは、最後のひと吐きのような気がするなあ。うん、そうだ。息を引き取るっていうのは、最後のひと吐きの息を、神さまが引き取ってくださるって意味なんじゃないかな。そういえば、人間がさいしょに吸う息って、神さまが吹き込んでくださった息のことだろうしね。違うかな。いや、そうにきまってる。ぼくたちは、神さまの息を吸って、神さまの息を吐いて生きているのだ。神さまを食べて生きているのだ。と、こう考えると、なぜだか、ほっとするところがある。うん。とか、なんとか考えてると、きみの息の数を数えるのを忘れちゃってたよ。数えてみようかな。いや、ぼくももう眠くなってきちゃったよ。きみの息の数を数えようとしたら、きみの息の香りを食べようとしたら、なんだか、うとうとしちゃって、もう、だめだ、寝ちゃうよ、……


二〇一五年七月二十七日 「湖面の揺らめき、
               その小さな揺らめきにさえ、
                 一枚の葉は……」


日の暮れて
小舟のそばに浮かぶ
ぼくの死体よ。

山陰に沈み、重たく沈む
冬にしばられた故郷の湖水よ。

湖面に落ちた一枚の葉が
その揺らめきに舞いはじめる。
その小さな、ちいさな揺らめきにさえ
揺うられゆられている。

湖水は冷たかった。
 その水は苦かった。

いままた、一枚の葉が
山間(やまあい)から吹きおろす風に連れられて
くるくると、くるくると、螺旋に舞いながら
湖面に映った自身の姿に吸い寄せられて。

それは、小舟と、ぼくの死体のあいだに舞い落ちた。

水のなかで揺れる水草のように
手をあげてゆらゆらと揺れる
湖底に沈んだたくさんのひとびと。
そこには父がいた、母がいた、祖母がいた、
生まれそこなったえび足の妹がいた。

風が吹くまえに
ぼくの死体は、ぼくの似姿に引き寄せられて
ゆっくりと沈んでいった。

湖面に張りついた一枚の葉が
──静かに舞いはじめた。

蒼白な月が、一隻の小舟を、じっと見つめていた──


二〇一五年七月二十八日 「思い出。」


振り返ってはいけないと
あなたはおっしゃいました。

顧みてはならないと
あなたはおっしゃいました。

でも振り返らずにはいられないでしょう。
でも顧みずにはいられないでしょう。

あなたも、わたしも
わたしたちのふたりの娘も、みな
あの町で生まれ、あの町で育ちました。

ところが、あなたは
わたしたちに、あの町を捨てていこうと
思い出を捨てていこうと言われました。

いったい
あのふたりの男たちは何者なのですか。
主なる神のみ使いだと称するあの二人の男たちは。

いったい
どうしてわたしたちが街を捨てて
出て行かなければならないのですか。

あのひとたちの言うとおり
主が、あのソドムの町のうえに
ほんとうに火と硫黄を振らせられるのでしょうか。

あなたは忘れたのですか。
わたしたちのこれまでの暮らしぶりを。
わたしたち家族の暮らしぶりを。

主の目に正しい行いをし
正直に真面目に暮らしてきたわたしたちなのですよ。
なぜ、逃れなければならないのでしょう。

ロトよ。
わたしには忘れることができません。
ぜったいに、わたしには忘れることなどできません。

こうして、あのひとたちの言うとおり
あの町を捨てて、出てきたわたしたちですが

振り返り、顧みることが
なぜ、禁じられなければならないのでしょう。

わたしは振り返ることでしょう。
きっと顧みることでしょう。

たとえ、この身が塩の柱となろうとも
振り返り、顧みずにはいられないでしょう。

たとえ、この身が塩のはっ……


二〇一五年七月二十九日 「うんち。」


  中也さん、ごめんなちゃい。

ホラホラ、これがわしのうんちだ、
きばっている時の苦痛にみちた
このきたならしいジジイの肛門を通って、
ものすっごい臭気をともないながら
ヌルッと出た、うんちの尖端(さき)。

これでしまいじゃないぞ、
まだまだつづく、
臭気を放つ、
鼻を曲げる、
おまるからこぼれる。

きばっていた時に、
これが食堂にいるみんなに、
興を添えたこともある、
みつばのおしたしを食ってた時もあった、
と思えばなんとも可笑しい。

ホラホラ、これがわしのうんち──
捨ててくれるのはいつ? 可笑しなことだ。
あふれ出るまで待って、
また、うんちたれだと言って、
なじるのかしら?

そして裏手の疎水べりに、
あの大型ゴミ捨て場に
捨てられるのは、──わし?
ちょうど尻たぶの高さに、
うんちがひたひたにたっしている。


二〇一五年七月三十日 「遺伝。」


  会田綱雄先生、ごめんなちゃい。

湯舟から
ハゲが這いあがってくると
わたしたちはそれが腰かけて
身体を洗って
ひげを剃り
そのツルツル頭を洗うのを見る

ハゲでもシャンプーを使うのだ

身体だけはへんに毛深くて
毛の生えた十本の指で
頭を搔きむしりながら
ハゲは泡となり
わたくしたちはひそかに嘲笑し
湯舟のなかで
楽しく時を過ごさせてもらう

ここは銭湯であり
湯舟はひろく
わたくしたちきょうだいの家からそう遠からぬ

代々ハゲにならないわたくしたちは
わたくしたちのちちそふの面影を
くりかえし
くりかえし
わたしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちそふも
わたくしたちのように
この銭湯でハゲを見て
湯舟のなかで
ひそかに嘲笑し
わたくしたちのように
楽しく時を過ごしたのだった

わたくしたちはいつまでも
わたくしたちのちちそふのように
黒々とした美しい髪の毛を
ふさふさと
ふさふさとさせるだろう

そしてわたくしたちの美しい髪の毛を
ハゲは羨望の眼差しで見つめるのだろう
むかし
わたくしたちのちちそふの美しい髪の毛を
羨望の眼差しで見つめたように

それはわたくしたちの快感である

よる寝るまえに
わたくしたちは鏡をとって
頭をうつす
頭のうえはふさふさとして
わたくしたちはほほえみながら
てをのばし
くしをとり
髪をすきあう


二〇一五年七月三十一日 「さんたんたる彼処(あそこ)。」


    へんなオジンが俺を見つめてる。    リルケ
              (なあんて、うそ、うそ、うそだぴょ〜ん。)

  村野四郎先生、ごめんなちゃい。

ズボンのまえに手をかけられ
ジッパーを下ろされた
ポルノ映画館のなかの
うすぐらい後部座席
こいつは いったいなんなんだ

見知らぬオジンが寄ってきて
さわりまくり いじりまくって
シコシコシコシコやってくれる この現実
しまいには ブリーフも下ろされて
歯のない口で フェラチオされて
うっ でっ でるっ

なんにも知らない俺の連れが
やっと トイレから戻ってきた
オジンがひょいと席をかわった


詩の日めくり 二〇一五年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年八月一日 「恋」


恋については、それが間抜けな誤解から生じたものでも、「うつくしい誤解からはじまったのだ。」と言うべきである。


二〇一五年八月二日 「ディーズ・アイズ。」


 お酒を飲んでもいないのに、一日中、作品のことで頭を使っていたためだろうか、めまいがして、キッチンでこけて、ひじを角で擦って、すりむいて血が出てしまった。痛い。子どもみたいや。そいえば、子どものときは、しょっちゅうけがしてた。BGMは60年代ポップス。ゲス・フーとかとっても好き。


二〇一五年八月三日 「うんこのかわりに」


うんこのかわりに、あんこと言ってみる。うんこのかわりに、いんこと言ってみる。
うんこのかわりに、えんこと言ってみる。うんこのかわりに、おんこと言ってみる。
うんこのかわりに、かんこと言ってみる。うんこのかわりに、きんこと言ってみる。
うんこのかわりに、くんこと言ってみる。うんこのかわりに、けんこと言ってみる。
うんこのかわりに、こんこと言ってみる。うんこのかわりに、さんこと言ってみる。
うんこのかわりに、しんこと言ってみる。うんこのかわりに、すんこと言ってみる。
うんこのかわりに、せんこと言ってみる。うんこのかわりに、そんこと言ってみる。
うんこのかわりに、たんこと言ってみる。うんこのかわりに、ちんこと言ってみる。
うんこのかわりに、つんこと言ってみる。うんこのかわりに、てんこと言ってみる。
うんこのかわりに、とんこと言ってみる。うんこのかわりに、なんこと言ってみる。
うんこのかわりに、にんこと言ってみる。うんこのかわりに、ぬんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ねんこと言ってみる。うんこのかわりに、のんこと言ってみる。
うんこのかわりに、はんこと言ってみる。うんこのかわりに、ひんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ふんこと言ってみる。うんこのかわりに、へんこと言ってみる。
うんこのかわりに、ほんこと言ってみる。うんこのかわりに、まんこと言ってみる。
うんこのかわりに、みんこと言ってみる。うんこのかわりに、むんこと言ってみる。
うんこのかわりに、めんこと言ってみる。うんこのかわりに、もんこと言ってみる。
うんこのかわりに、やんこと言ってみる。うんこのかわりに、ゆんこと言ってみる。
うんこのかわりに、よんこと言ってみる。うんこのかわりに、らんこと言ってみる。
うんこのかわりに、りんこと言ってみる。うんこのかわりに、るんこと言ってみる。
うんこのかわりに、れんこと言ってみる。うんこのかわりに、ろんこと言ってみる。
うんこのかわりに、わんこと言ってみる。うんこのかわりに、んんこと言ってみる。


二〇一五年八月四日 「うんこするかわりに」


うんこするかわりに、あんこする。うんこするかわりに、いんこする。
うんこするかわりに、えんこする。うんこするかわりに、おんこする。
うんこするかわりに、かんこする。うんこするかわりに、きんこする。
うんこするかわりに、くんこする。うんこするかわりに、けんこする。
うんこするかわりに、こんこする。うんこするかわりに、さんこする。
うんこするかわりに、しんこする。うんこするかわりに、すんこする。
うんこするかわりに、せんこする。うんこするかわりに、そんこする。
うんこするかわりに、たんこする。うんこするかわりに、ちんこする。
うんこするかわりに、つんこする。うんこするかわりに、てんこする。
うんこするかわりに、とんこする。うんこするかわりに、なんこする。
うんこするかわりに、にんこする。うんこするかわりに、ぬんこする。
うんこするかわりに、ねんこする。うんこするかわりに、のんこする。
うんこするかわりに、はんこする。うんこするかわりに、ひんこする。
うんこするかわりに、ふんこする。うんこするかわりに、へんこする。
うんこするかわりに、ほんこする。うんこするかわりに、まんこする。
うんこするかわりに、みんこする。うんこするかわりに、むんこする。
うんこするかわりに、めんこする。うんこするかわりに、もんこする。
うんこするかわりに、やんこする。うんこするかわりに、ゆんこする。
うんこするかわりに、よんこする。うんこするかわりに、らんこする。
うんこするかわりに、りんこする。うんこするかわりに、るんこする。
うんこするかわりに、れんこする。うんこするかわりに、ろんこする。
うんこするかわりに、わんこする。うんこするかわりに、んんこする。


二〇一五年八月五日 「こん巻き。」


 血糖値が高くて、糖尿病が心配だったのでおしっこをしたあと、チンポコのさきっちょに残ってたおしっこを指につけてなめたけど、あまくなかった。よかった。きょう、きみやさんで隣でお酒を飲んでらっしゃった方が、ときどき彼女から、フェラチオされたときに、「あなた、甘いわよ。」と言われるらしい。笑いながら、そうおっしゃった。その方のお話に出てきた「こん巻き」というのが食べてみたい。スジ肉を昆布に巻いて、両端を竹の皮のひもで縛り、醤油で炊いたものだそうだ。醤油で味付けした煮汁で炊くだったかもしれない。砂糖やみりんを加えていない、甘さのないものだそうだ。お話の仕方から、それが被差別部落特有の食べ物であるようだった。ぼくは知らなかったので、だいたいのところを、昆布でニシンを巻いて甘辛く煮るふつうの昆布巻きを連想した。飲み屋さんでは、もっぱら聞き役で、詩の材料とならないかと思って、聞き耳を立てている。そだ。父親の夢が出てきたけれど、父親のことを作品に書き込もうと思っている。とても苦労したひとなのだ。もらい子といって、親に捨てられて養子に出された身の上だ。ぼくは父親が商売をはじめて成功したときの子だから、貧乏というものを知らないけれど、父親は貧しい家に引き取られたから、苦労したらしい。貧しい被差別部落の方の家に引き取られたらしい。ぼくとは血のつながりのない祖母だけが確実に被差別部落出身者であることがわかっているが、ぼくの実母も被差別部落出身者なので、因縁があるのだろう。ぼくには子どもがいないので、たくさんの遺伝子の連鎖が、ぼくで終わる。実母は精神病者でもあるので、ぼくで終わってよいのかもしれない。人生は恥辱と苦難の連続だもの。ときたま、楽しいときがあったり、うれしいこともあったり、よいこともあるけれど、それに、恥辱や苦難といったものにも意義はあるのだけれど。


二〇一五年八月六日 「夢は」


 オレンジ味のタバコを吸う夢を見た。ただそれだけの短い夢だった。また、べつの夢で、二本の長い棒を使って、池の中をひょいひょい移動する夢を見た。竹馬っていうのかな。でも、ものすごく長い棒で、身長の何倍もあって、ぐいんぐいんしなって、顔が水面にくっつきそうになるくらい曲がるんだよね。高校生くらいのぼくだった。身体が体重がないみたいに軽くって、その棒を使って、動きまくって、きれいな景色のなかを移動していた。ぼくの勤め先の学校がある田辺のような、田圃がいっぱいあるようなところだった。友だちとそんなふうにして大きな池のなかを遊びまくってた。ものすごくいい天気の日だった。お昼ご飯を食べに西院のブレッズ・プラスにBLTサンドイッチのランチセットを食べに行った。(中座)けさ見た夢からの知識。夢のなかでも味がわかるということ。五感のうち、嗅覚・味覚・触覚・視覚ははっきり存在していることがわかった。聴覚のことがいまだに謎だ。ぼくの夢の世界に音が存在していないのだ。夢のなかでも、言葉は存在するみたいなのだが、現実世界のように空気を伝って音が伝わるって感じじゃなく、テレパシーのような感じで伝わるのだ。聴覚以外の感覚は、現実世界に近いと思うのだけれど。まあ、いつかもっと明解な夢を見てみよう。夢は知だ、とヴァレリーは書いてたけれど、ぼくもよく詩に使った。さいきん、きょうのような現実感のある夢を見ていなかった。きょうの夢は楽しかった。動きがあった。ぼくが若かった。好きだった友だちも出てきた。田んぼのようなその大きな池で遊んだあと、いっしょに学校へ行く道を走った。なんて清々しい。


二〇一五年八月七日 「脱脂粉乳。」


 チャールズ・ストロスの『シンギュラリティ・スカイ』を読み終わった。これで二度目だけれど、また時間をおいて読み直したい小説だった。作品をつくっているあいだの休憩で読んでいたのだが、そのまま最後まで読んでしまった。終わりのほうで、「代用コーヒー」が出てくる。代用ミルクというものを知っているひとなんて、ぼくの世代が最後だと思う。ぼくが小学校1年生のときに給食で出た脱脂粉乳のことである。黄色いアルミの皿に、あたためた状態で出てきたんじゃなかったかな。まずくて飲めたものではなかったが、京都市では、その年で脱脂粉乳の給食での配給が終了したのだった。それから壜牛乳になり、数年後に正四面体の紙パック入り牛乳になったのだった。あと、栄養不足を補うために、小学校の4年くらいまで、肝油ドロップを配ってた。いまでいうところのグミのようなものかな。世代共通の思い出も書き残さなくては、と思ってる。


二〇一五年八月八日 「ひとつの頭のなかに、たくさんの時間や場所や出来事が同居している。」


 あさに考えたのだけれど、むかしの記憶が頭のなかにあるということは、さまざまな時間や場所や出来事が、ひとつの頭のなかにあって、その頭が移動しているということは、さまざまな時間や場所や出来事が、頭ごとそっくり移動しているということで、たくさんの人間が移動しているということは、たくさんの頭が移動しているということなので、たくさんの時間や場所や出来事が複雑に交錯しているということなのであると思ったのだった。友だちと二人で同じ部屋のなかにいるときにでも、異なるたくさんの時間や場所や出来事が詰まった頭が二つ存在しているのだ。人間の存在自体、なんだろうなって思う。時間や場所や出来事が詰まったもの。逆に、ひとつの時間や場所や出来事が数多くの人間を包含しているとも考えられるので、逆からの視点で、時間や場所や出来事を、また人間を考えてもおもしろいし、深く考えさせられる。


二〇一五年八月九日 「脳を飼う。」


 猫と脳の文字が似ているような気がする。で、脳のかわりに、頭蓋骨のなかに猫を入れて、猫のかわりに、脳を飼うことにした。脳は、みゃ〜んとは鳴かないので、鳴かない脳なのだと思う。帰ってきたら、脳が机のうえで横になっていた。ぼくの姿を見ると、脳は、ゆっくりと机のうえを這ってきた。かわいい。さいきん、トマトが映画に出なくなった。若いころのトマトは、いつもブチブチに潰されては悲鳴をあげて、舞台のうえを転げまわっていた。かわいかった。ひさしぶりにトマトが出る映画を見てる。横にいた脳が、映画の舞台のうえにのぼっていった。トマトが脳に唾を吐きかけた。すべてがそろっているか。すべてがそろっているかどうか心配になってきたので、ペン入れにハサミを垂直に立てた。ハサミというのはやっかいなもので、しょっちゅう勝手に動き回る。気をつけていないと、玄関から出て他人の家に勝手に入っていってしまうのだ。そう思って、ハサミを垂直に立てたのだ。脳が膝元にすりよってきた。脳に名前をつけるのを忘れていた。ベンという名前をつけることにした。そこで、かわりに、ベンのことを脳と呼ぶことにした。ベンが脳に似ているというわけではない。脳がベンに似ているというわけでもない。むしろ舞台のうえでブチブチと潰れるトマトに似ているだろう。いや、垂直に立てたハサミにか。脳の行動半径は、頭蓋骨のなかの猫の行動半径よりも狭い。いちばん遠くにまで行くことができるのはハサミだけれど、ハサミは垂直に立てておけば動くことができない。時間的に遠くまで動くことのできるものはトマトだ。膝と膝のあいだに、たくさんのトマトを置いて、うえから両手で思い切り殴りつける。脳はミャ〜ンとは鳴かない。右手の中指のさきで脳のひだに触れる。やわらかい。さわっていても、脳は陰茎のようには勃起しないようだ。いつまでも、やわらかい。しかし、トマトは、ずっと勃起しっぱなしだ。だから垂直にハサミを立てておかなければならないのだ。容量の少ないトマトは出血量も少ない。ベンに呼ばれて返事すると、ベンが起こっているのがわかった。少しの表情の変化でも、ぼくには、それが起こっているのか起こっていないのか、わかるのだ。現象としてのベンは、きわめて単純で、わかりやすいものなのだ。トマトやハサミよりもわかりやすい。脳もわかりやすいといえば、わかりやすい。しかし、なによりもわかりやすいのは、ぼくの頭蓋骨のなかにいる猫だ。ノブユキは、よくぼくの頭蓋骨のなかの猫と共謀して、ぼくにインチキのじゃんけんをしかけた。まあ、ぼくは笑って負けてやったけれど。横にいる脳のひだのあいだに指を深く差し込んで、ぐにゅぐにゅ回した。とても気持ちよい。ハサミのかわりに、脳をペン立てに垂直に立てた。ハサミで剪定すると、映画の舞台のうえに落ちて、ブチブチに潰れたトマトのように転げ回った。つぎに、ぼくはベンの指を剪定していった。泣いて許しを乞う姿がかわいい。ようやく安心して眠れるような気がした。横になろう。 おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年八月十日 「帥」


 FBフレンドの画像に、「帥」ってコメントがあったので、自動翻訳機にかけると、「粋です」と出てきた。ぼくに会いに日本に遊びにくるねって書いてきた子の、かわいい顔画像に対するコメントだった。ぼくはたいてい、「可愛」「cute」「handsome」「good looking」って書く。


二〇一五年八月十一日 「2角形」


ふと球面上の2角形が思い出された。目蓋に縁どられた、ぼくらの目は、2角形なのだった。


二〇一五年八月十二日 「ヒロくん。」


 ひさしぶりに、ヒロくんの写真を見返してた。クマのプーさんそっくりだった。と思っていたのだけれど、もっとかわいかったのだった。10代の自分の写真も見返してたけれど、どれも笑っていた。笑うようなことはなかったと思うのだけれど、カメラを向けられると、笑わなければならないと思って、笑っていたのだろう。さっき、コンビニに行く途中、雨が降ってきたので、180度回転して、自分の部屋に戻ってきた。食欲より、雨に濡れたくない気持ちの方が強かった。


二〇一五年八月十三日 「存在は自身の質量、体積、時間によって測られる。」


 はじまりに終わりがあって、終わりにはじまりがある。寝ているときに、数年前に亡くなった継母と冗談を言い合って、笑っていた。いつも陽気なひとだったけれど、死んでからも陽気なひとだ。これからお風呂に、それから塾に。塾に行くまえに、マクドナルドに行こう。(中座)同一性を保持した自我なるものは存在しない。同一性を保持した精神も存在しない。あえて言えるとすれば、存在するのは、虚構の自我であり、虚構の精神である。存在は自身の質量、体積、時間によって測られる。物質的な存在においてもだし、非物質的な存在においてもだ。


二〇一五年八月十四日 「立方体の六面がウサギだった。」


ことしの1月には、コーヒー一杯で6時間もねばった、ぼくだった。ベローチェ。ことしの1月のなかば、たしか、15日か、16日に、ほんやら洞が焼失したのだった。


二〇一五年八月十五日 「出眠時幻覚」


 4回連続で、出眠時幻覚を見た。さいしょ目が覚めたら学生の下宿で3人いた。ここは東京だという。これだけ飲みましたよとボトルを見せられた。つぎに明治時代の通りにいた。着物をきたおじさん、おばさんが目のまえを、行き来してた。つぎが、自分のむかしいた下宿らしい。そんな場所にはいなかったが。さいごに自分のいまの部屋にいてパソコンを立ち上げようとしたら、パソコンの向こう側から覗く顔があって、自分だった。それで、ハッと思って、しっかり覚醒してパソコンのスイッチを入れた。なまなましい夢。途切れる間もなく。発狂したのかと思った。お酒飲み過ぎかな。ずっと二度寝、いや、五度寝くらいしてた。そしてずっと夢を見てたけど、これらの夢は、ツイッターに書こうという強い意志がなかったため、FBとかいろいろ見てたら忘れた。これからマクドナルドにアイス・コーヒーを飲みに行こう。


二〇一五年八月十六日 「わたしは他人のまなざしのなかにも、他人の息のなかにも存在する。」


 わたしはあらゆる時間と場所と出来事のなかに存在する。なぜなら、わたし自身があらゆる時間であり、場所であり、出来事であるからである。つまり、あらゆる時間や場所や出来事そのものが、わたしであるからである。


二〇一五年八月十七日 「卵」


彼は毎日、卵を産んでいる。彼はそのことを恥じている。


二〇一五年八月十八日 「On Bended Knee。」


きのう
ひさしぶりにジミーちゃんから電話。
半年ぶり?
2月に会ったのが最後くらいやと思うけど。
じゃあ、4ヶ月ぶりかなあ。
そのくらいちゃう?
元気?
なんとか。
それより、田中さん。
さいきん、変わったことない?
ええ?
べつに。
さいきん、ごにょごにょ。
はっ? なに?
さいきん、こびとをよく見かけるんやけど。
あっそう。

そういえば
ぼくのつぎの詩集
ホムンクルスのこびとが出てくるわ。

リゲル星人のまぶたから踊り出てくるこびとたちもいるし
偶然かな。
世のなかに偶然なんてことあると思う?
それは見方やな。
ぜんぶ偶然って言えるやろうし
ぜんぶ必然やったって言えるやろうし。

これ携帯からやから
あとで家からかけ直すわ。
ええ? いま、どこにいるの?
家の近所。
あっそう。
じゃあ、またあとで。
あとで。
って
ところが
あとで
ジミーちゃんから
電話はなくって
つぎの日のきょう、電話があって
きのう、電話が掛けられなかった理由が自分でもわからないという。
まあ、ぼくも、深く突っこんで訊く気もなかったので
訊かなかったけれど
ひさびさに友だちの元気な声が聞けてよかった。
ジミーちゃんとは15年以上の付き合いなのだけれど
ときどき
途切れる。
理由はべつにないらしいのだけれど
付き合いが途切れる前は
精神状態があまりよろしくないらしい。
それはジミーちゃんのほうね。
ぼくもよくないこともあるんやけど
チャン・ツィイーの出てる『女帝』という映画を見ているところやった。

10本のハミガキチューブをおすと
10本の柱がとび出した。
10本の柱で歯を磨いた。
ぼくを起こしてくれた。
ぼくを立たせてくれた。
ぼくを洗面所まで歩かせてくれた。
ぼくに歯ブラシを持たせてくれた。
ぼくにハミガキチューブを手にとらせてくれた。
ぼくにハミガキチューブをおさせてくれた。
ぼくに歯を磨かせてくれた。
ぼくにシャワーを浴びさせてくれた。
ぼくにからだを拭かせてくれた。
ぼくにパンツをはかせてくれた。
ぼくにオーデコロンをつけさせてくれた。
ぼくに靴下をはかせてくれた。
ぼくにポロシャツを着させてくれた。
ぼくに綿パンをはかせてくれた。
ぼくにリュックを持たせてくれた。
ぼくにドアを開けさせてくれた。
ぼくに仕事に行かせてくれた。
これを順番を入れ換えてみる。
ぼくにリュックを持たせてくれた。
ぼくにドアを開けさせてくれた。
ぼくにパンツをはかせてくれた。
ぼくを立たせてくれた。
ぼくに歯ブラシを持たせてくれた。
ぼくにポロシャツを着させてくれた。
ぼくにからだを拭かせてくれた。
ぼくにシャワーを浴びさせてくれた。
ぼくに靴下をはかせてくれた。
ぼくを起こしてくれた。
ぼくに歯を磨かせてくれた。
ぼくにハミガキチューブをおさせてくれた。
ぼくにハミガキチューブを手にとらせてくれた。
ぼくを洗面所まで歩かせてくれた。
火のなかで微笑むこびとの映像が思い浮かぶ。
火のなかで微笑むのはこびとじゃなくて
預言者のはずなんだけど。
いや、木歩とその友人
ぼくとエイジくんのはずなんやけど。
火のなかでこびとが微笑んでいる。
(2009年7月3日のメモ)

チャン
ツィ
イー
いったい、なにを怖れる必要があるのだろうか?
よぶせよ


二〇一五年八月十九日 「『詩人園』、開園いたします! 入場料無料です。」


まだ「一流」の分類の館内には、だれも入っていませんが
「二流」や「三流」の館内には、たくさんの詩人たちが入っております。
「二流」のところには、みなさまご存じの詩人たちがいるかもしれません。
「もう高齢なんと違う科」の詩人は、ほんとうに多いですね。
彼ら・彼女らのほとんどが生活類と政治類で
一部にアバンギャルドな芸術類がおります。
彼ら・彼女らは、この詩人園の半数近くを占めています。
ほんとうにもうだいぶん高齢なので、近日中に見に行かれないと、
二度と目にすることはできないかもしれませんよ。
えさは与えないでください。
ぼけている詩人もいます。
というか、ほとんどがボケです。
食事の記憶がなく、いくらでも食べる詩人もいますので。
しかし、「三流」館にいる、
「あんたらめちゃくちゃ傲慢なんと違う科」の詩人たちには注意してくださいね。
かつて有していた権威をかさにきて、訪れた観客の前で
自分たちの三流の詩を朗読して聞かせますから。
長時間聞かれますと、耳が腐りますので、十分にご注意ください。
石を投げつけるのは、かまいません。
それが、古代からのならわしです。
「三流」館の詩人たちは、むかしからぜんぜん進歩のない範疇に属しており
「どうにもこうにもならないやん科」が多くを占めていますが
「どうにもこうにもならないやん科」には、若い詩人たちもいますので、
お子さまの遊び相手にはよろしいかと思われます。
子供相手に、自分たちの詩を朗読して、自分たちが詩人であると思いこんでいますが
子供たちは、彼ら・彼女らを「バカなオトナ」として
ただ、バカにして笑っているだけなのですが、
子供たちは、笑うこと、それ自体楽しいので、笑っています。
また「コスプレ・見て見てわたしはかわいいんとちゃう科」や
「どうして奇異な振る舞いをしてしまうのか自分でもわからないのだけれど
だれかわたしに教えてくださらないかしらほんとにもうわたしはそもそもいったい
どこにいるの科」といった分類の詩人も多くいますので
詩人を見て、笑って楽しんで行こうと思われる方はここにおいでください。

注意点

詩人の前で、その詩人以外の詩の朗読はやめてください。
彼ら・彼女らは、他人の詩の朗読が一番嫌いなのです。
そんなことをすると、うんこをつかんで、観客に投げつける詩人もいますので
くれぐれも、彼らの前では、彼らのもの以外の詩は朗読しないでください。


二〇一五年八月二十日 「言葉探偵登場!」


では
あなたが第一発見者なのですね
この言葉が死んだ時間は言葉学者によると
昨夜の11時ごろだそうですが
そのころあなたはどこにいたのですか
ああ
あの詩人のブログのなかにいたのですか
でしたらアリバイはすぐに確認できますね
ちょっと待ってください
はい
確認しました
たしかにあなたはその時間に
この文章のなかに存在していませんでしたね

あなたが今朝この言葉を発見したいきさつを述べてください
どういった経路で
この言葉がこの文章のなかで死んでいるのを発見されたのかを


二〇一五年八月二十一日 「『言葉は見ていた。』 第一回」


まあ
あの殺された言葉って
わたし
よく知ってるわ
よくいっしょにある詩人の文章のなかに書き込まれたもの
え?
知らない?
ほら
あの朗読中にぶりぶり、うんこ垂れる詩人よ
ええ
その人よ
その詩人よ
だけど
どうして殺されてしまったのかしらね

あの言葉ね
詩人に悪気はなかったと思うのよ
きっと
何か理由があったのよ
え?
そうよ
じつは
わたし見ちゃったのよ
その詩人が
別の詩人の原稿を剽窃したところ
そこに
あの言葉がいたのよ
偶然ね
いえ
偶然なのかしら
よくわからないけれど

もうじき
コマーシャル


二〇一五年八月二十二日 「言葉平次!」


言葉平次!

言葉だったら
 未練が残る♪

シャキ
 シャキ

言葉を投げつけて
 怠惰な読者たちをやっつける

言葉平次!


二〇一五年八月二十三日 「言葉を飼う」


古い言葉がいらなくなったので、新しい言葉を買いました。
古い言葉がいらなくなったので捨てました
ぼくが生まれたときから使っていた言葉でしたが
最近は、ぼくの文章のどこにも現われなくなっていました
少し前からなんですけれど
使っていても、ぜんぜん効果がなくって
正直言って、いらない言葉でした
で、きょう仕事帰りに
言葉屋さんの前を通ったら
生まれたての新しい言葉と目が合ったのです
その言葉とはきっとうまくやっていける
そう思ったので
言葉屋さんに入って
その新しい言葉を買いました
帰ってきて
さっそく文章に使おうとしたのですが
その新しい言葉は
部屋に入るなり
そこらじゅうを駆け回って
ぜんぜんおとなしくしてくれませんでした
それで
文章を書くこともできず
その言葉を追いかけては捕まえ
追いかけては捕まえ
追いかけっこをして疲れ果てました
きょうは使えませんでしたが
こんど文章を書くときにはぜったい使おうと思っています
古い言葉はいらなくなったので捨てました
でもいったんは捨てましたが
クズ入れのなかから覗く古い言葉を見ていると
なんだかかわいそうになってしまって
いつかまた使うこともあるかもしれないと思って
クズ入れのなかから出してやりました


二〇一五年八月二十四日 「『詩人ダー!』新発売。」


『詩人ダー!』新発売。
なたの味方です。
きっと、お役に立ちます。

いやなひとの家を訪問しなければならないとき
いやな上司と付き合わなければならないときなど
あなたがいっしょにいるのがいやなひとと
どうしてもいっしょにいなければならないとき
この「詩人ダー!」を、シューっと、ひと噴き、自分にかければ
あなたから離れなくても
相手があなたから離れていってくれます。
なぜなら
それまでのあなたのおしとやかで優しい性格が一変して
あつかましく凶暴になり
相手の状況などおかまいなしに
わけのわからない言葉をぷつぷつとつぷやいたり
突然叫び出したり
へんな節回しをつけて詩を朗読したりするからです。
「詩人ダー!」新発売
いっしょにいたくないひとがいるあなた
「詩人ダー!」は、あなたの味方です。
お役に立ちます。


二〇一五年八月二十五日 「『詩人キラー!』新発売。」 


『詩人キラー!』新発売。
いやな詩人が出る季節になってきましたね、プシューっとひと噴き。
これでいやな詩人を撃退できます。

この詩人は
ほかの詩人とほとんど付き合いがなかったので
ほかの詩人ほど頻繁に
ほかの詩人から詩集が送られてきたり
詩誌が送られてきたりはしなかったけれど
それでも週に何度か郵便箱に
日本中から詩人が送られてきた
詩人たちは郵便箱のなかで
身体を折り曲げて
この詩人が仕事から帰ってくるのを待っていた
ときには
何人もの詩人たちが
どうやって入ったのかわからないけれど
身体を折り曲げて
郵便箱のなかに入っていた
この詩人は
自分の疲れた身体といっしょに
送られてきたその何人もの詩人たちの身体を
部屋のなかに入れなければならなかった
詩人たちは口々に
自分たちの詩を
自分たちの論考を
自分たちのエッセーを
この詩人に聞かせるのだった
この詩人が食事をしているときにも
お風呂に入っているときにも
睡眠誘導剤を飲んで部屋の電灯のスイッチを消しても
詩人たちは自分たちの詩を論考をエッセーを
この詩人に聞かせるのだった
この詩人は電灯のスイッチを入れると
起き出して
洗面台の前に立った
この詩人は自分の目の下のくまをみて
洗面台の引き出しから
マスクと詩人キラーを取り出して
部屋にもどると
部屋のなかで朗読している詩人たちの顔に振り向けて
シューっとした
すると詩人たちの声が消えた
詩人たちは口をパクパクするだけで
音はまったく聞こえなくなった
この詩人はこれでようやく眠れるや
って思って床に就いた
でも
詩人たちの姿が消えたわけではなかったので
やっぱり眠れなかった
新しいやつ買おうっと
こんどのやつは詩人の姿も消えるんだっけ
そう思ってこの詩人は
きょうも眠れぬ一夜を過ごすのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月二十六日 「詩人ホイホイ。」


詩人ホイホイを組み立てて
部屋の隅に置いておいたら
本物の詩人がいっぱい入ってた

本物の詩人は
死んでも死なないから
どの詩人もみな
とっても元気だった

いつか自分も
だれかが仕掛けた
詩人ホイホイに捕まりたいなあ
なんて
詩人も思っていたのであった


二〇一五年八月二十七日 「『言葉キラー!』新発売。」


『言葉キラー!』新発売。
いやな言葉が出る季節になってきましたね
シュっと ひと噴きで
いやな言葉を撃退します

詩人は夏が一番きらいだった
夏は詩人が一番嫌いな季節だった
考えたくなくても
つぎからつぎに思い出が言葉となって
詩人の頭のなかに生まれてくるからだった
思い出したくなかった思い出が
詩人を苦しめていた
詩人は「言葉キラー!」を買ってきた
ちょっと落ち着いて考えたいことがあるんだ
詩人はそうつぶやいて
部屋中に「言葉キラー!」を振り撒いた
「言葉キラー!」はシューシュー
勢いよく噴き出した
噴き出させすぎたのか
詩人はゲホゲホしながら
窓を開けた
すると
また思い出したくない言葉が
窓の外から
わっと部屋のなかに入ってきた
詩人はあわてて窓を閉めると
詩人は「言葉キラー!」を
下に向けて
軽く振り撒いた
これで今晩はゆっくり眠れるかな
などと思ったのだけれど
詩人は用心のために
睡眠誘導剤を飲んで床に就いたのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月二十八日 「逃げ出した言葉たち。」


もう好きにすれば
詩人は言葉たちに一瞥をくれた
逃げ出した言葉たちは
詩人がもう自分たちを使わないことを知って
詩人の枕元にあつまって
手に手を取り合って
輪になって
踊っていたのであった
らんら
らんら
ら〜
るんる
るんる
る〜
らんら
らんら
ら〜
るんる
るんる
る〜
って
逃げ出した言葉たちは
輪になって踊っていたのであった
詩人は
泣きそうな顔になって
もう寝る
と言って
睡眠誘導剤を飲んで
電灯を消して布団をかぶったのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月二十九日 「逃げ出した言葉を発見!」


偶然に逃げ出した言葉が見つかったのだけれど
どうしてもあきらめきれずに
逃げ出した言葉をさがして
言葉ホイホイまで仕掛けていたのだけれど
詩人は熱しやすくて冷めやすい性格だったし
それに
詩人の頭には
つぎつぎと詩の構想が浮かんでいたので
いつのまにか
逃げ出した言葉のことなど忘れてしまって
言葉ホイホイに捕まった言葉を使って
新しい詩をつくっていた
だから
寝る前に掛け布団を上げたときに
シーツの真ん中に
偶然に逃げ出した言葉を見つけても
もうその言葉を使って
どんな詩をつくるつもりだったのかも
忘れてしまっていたのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月三十日 「言葉ホイホイ。」


詩人は
逃げ出した言葉を
一網打尽にしようとして
言葉ホイホイを買ってきて組み立てた
詩人はそれを
言葉がよく出てくるような
本棚や机の上
枕元に置いていった

何日かして
詩人は言葉ホイホイを見たが
どの言葉ホイホイにも
逃げ出した言葉は捕まっていなかった

言葉ホイホイをあけてみて
詩人はいまさらながら
自分の語彙の少なさに驚くとともに
深い憂鬱にとらわれたのであった
じゃんじゃん


二〇一五年八月三十一日 「言葉の逃亡防止策。」


詩人はスケッチブックをめくると
新しいページの上に
両面テープを全面に貼り付けた
これで言葉が勝手に動けなくなるだろうと思ったからだった
これまでも何度も言葉には逃げられた経験があるのだった
そのたびに詩人はくやしい思いをしてきたのであった
詩人は床の上にいくつかの言葉を並べて
その順番にスケッチブックの上に置いていった
ほとんどの言葉は置かれた場所に貼り付いていたのだけれど
ひとつだけ
置かれた場所が気に入らないのか
どうにかして置かれた場所から離れようとしてもがいていた
詩人は「動くなよ」とつぶやいて
その言葉の端々をおさえて
しっかりと両面テープに貼り付けた
それでもその言葉は
詩人がトイレに行っているあいだに
なんとかしてその貼り付けられた場所から逃げ出したのであった
詩人はトイレからもどってくると
いなくなった言葉をさがした
部屋の隅に置いてある本をどけたり
鞄のなかを見たり
ファイルのメモのなかに隠れていないか
本棚に置いてある本や
ルーズリーフ・ノートをペラペラとめくったりして
はては
CDラックからCDを一枚一枚取り出して
CDの後ろに隠れていないかさがしたり
洗濯物を一枚一枚ひろげたりして
一生懸命さがしたが
逃げ出した言葉はどこにもいなかった
こんなときには「言葉探偵」に頼めばいいんだけど
詩人には「言葉探偵」を雇うお金がなかった
それに「言葉探偵」のところに行ったって
その言葉をさがしているあいだ
いつのまにか
詩人は
その言葉がどんな音をしていたのか
その意味合いやニュアンスがどんなものであったのか
すっかり忘れていたのであった
詩人は
おもむろにスケッチブックから
両面テープを貼り付けたページを破りとって
くしゃくしゃと丸めると
クズ入れのなかに投げ入れた
ああもういやいや
こんどは
両面テープの上に貼り付けたら
その上からセロテープで固定しよう
っと
詩人は
そう思いながら
つくりそこなった作品のことを
いつまでも
ぐずぐずと
ああもったいなかった
もったいなかった
と思いつづけていたのであった
じゃんじゃん


詩の日めくり 二〇一五年九月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年九月一日 「明日」


 ドボンッて音がして、つづけて、ドボンッドボンッって音がしたので振り返ったら、さっきまでたくさんいた明日たちが、プールの水のなかにつぎつぎと滑り落ちていくのが見えた。明日だらけだった風景から、明日のまったくない風景になった。水面をみやると、数多くの明日たちがもんどりうって泳いでた。

 プールサイドには、明日がいっぱい。明日だらけ。たくさんの明日が横たわっている。ひとつの明日がつと起き上がり、プールの水のなかに飛び込んだ。プハーッと息を吐き出して顔をあげる明日。他の明日たちがつと起き上がって、つぎつぎとプールの水のなかに身を滑らせた。ドボッ、ドボッ、ドボッ。 

 明日には明日があるさ。昨日に昨日があったように? 今日に今日があったように? そだろうか。昨日に今日がまじってたり、今日に明日がまじってたり、明日に昨日がまじってたりもするんじゃないのかな。明日には明日があるなんて、信じちゃいけない。明日には明日がないこともあるかもしれないもの。明日が、ぜんぶ昨日だったり、今日だったりすることもあるかもしれないもの。

 明日がプールサイドにいた。プールの水に乱反射した陽の光がまぶしかった。明日がつと駆けるようにしてぼくのほうに近づいてきた。びっくりして、ぼくは、プールに飛び込んだ。プールの水のなかには、さっきのように驚かされて水のなかに飛び込んだ、たくさんのぼくがいた。目をあけたまま沈んでいた。

 ホテルの高階の部屋から見下ろしていると、たとえ明日がプールの水のなかに飛び込んで泳ごうとも、飛びこまずにプールサイドに横たわっていようとも、同じことだった。いる場所をわずかに換えるだけで、ほとんど同じ場所にいるのだから。どの明日もひとつの明日だ。どれだけたくさんの明日があっても。


二〇一五年九月二日 「自由」


 自由の意味はひとによって異なる。なぜなら何を不自由と感じているかで自由の観念が決まるからである。ひとそれぞれ個人的な事情があるのだ。そこに気がつけば、言葉というものが、ひとによって同じ意味を持つものであるとは限らないことがわかるであろう。むしろ同じ意味にとられるほうが不思議だ。


二〇一五年九月三日 「言葉」


 すべての言葉がさいしょは一点に集まっていたのだが、言葉のビッグバン現象によって散らばり、互いに遠ざかり出したのだという。やがて、それらのうちいくつかのものが詩となったり、公的文書となったり、日記となったりしたのだというが、いつの日かまた散らばった言葉が一点に集まる日がくるという。


二〇一五年九月四日 「本の種」


 本の種を買ってきた。まだなんの本になるのかはわからない。読んだ本や会話などから言葉を拾ってきて、ぱらぱらと肥料として与えた。あまり言葉をやりすぎると、根腐りするらしい。適度な余白が必要なのだ。言葉と言葉のあいだに、魂が呼吸できるだけの空白が必要だというのだ。わかるような気がする。


二〇一五年九月五日 「ジャガイモ」


『Sudden Fiction 2』のなかで、もっともまだ3篇を読み直していないのだけれど、それらを除くと、もっとも驚かされたのは、バリー・ユアゴローの作品だったが、さっき読んだペルーの作家、フリオ・オルテガの作品『ラス・パパス』にも驚かされた。なにに驚かされたのかというと、中年の男が幼い息子をひとりで育てているのだが、手料理にジャガイモを使うので、ジャガイモを剥きながら、そのジャガイモについて語りながら、世界の様態について、その詳細までをもきっちりと暴露させているのだった。これには驚かされた。たった一個のジャガイモで世界の様態を暴露させることなど、思いつきもしなかったので、びっくりしたわけだが、もしかしたら、これって、部分が全体を含んでいる、などという哲学的な話でもあるわけなのかな。叙述する対象が小さければ小さいほど効果が大きい、というわけでもあるのかな。それとも、これこそが文学の基本なのかな、とも思った。


二〇一五年九月六日 「前世」


田中宏輔さんの前世は

女の

草で

25年間生きてました!!
http://shindanmaker.com/561522

 サラダと豆腐を買いにコンビニへ。帰ったら、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。ぼくの前世は、女の草で、25年生きたらしい。どうして今世では、女の草ではなかったのだろう。それなら、25年くらいの命であったかもしれないのに。54年も生きてしまった。飽き飽きするほど長い。

 本を読むのをやめて、電話をかけようと思って、電話の種を植えた。FBチェックして、10人くらいのFBフレンドの画像に「いいね」して、ツイッターを流し読みした。ピーター・ガブリエルIIIが終わったので、ジェネシスのジェネシスをかけた。電話が生えてきたので手に取って、友だちの番号にかけた。

 溺れないとわからないことがある。痛くないとわからないことがある。うれしくないとわからないことがある。おいしくないとわからないことがある。もう失ってしまった感覚もあるだろうとは思うけれど、できるかぎり書き留めて、再想起させることができるように、生活記録詩も書きつづけていこうと思う。


二〇一五年九月七日 「ヴァレリーが『散文を歩行に、詩を舞踏にたとえた話』について」


 筑摩世界文學大系56『クローデル ヴァレリー』に『詩話』(佐藤正彰訳)のタイトルで訳されているものに、「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえている言葉があるのだが、ヴァレリーも書いているように、これは、ヴァレリーのオリジナルの言葉ではない。しかし、この言葉は、ヴァレリーの言葉として引用されることが多い。というか、ヴァレリーの言葉として流布しているようだ。その理由として、ひとつは、ヴァレリーの名前があまりにも有名なために、ヴァレリーが引用した詩人の名前が忘れられたということもあるのだろうけれど、より大きな原因として考えられるのが、ヴァレリーが、この言葉をより精緻に分析してみせた、ということにもあるのではなかろうか。ヴァレリーは、「この事について私の言いたいところを一層把握し易くするために、私は私の使いなれている一つの比較に頼ることに致しましょう。或る時私が或る外国の町でやはりこうした事柄を話していた折、ちょうどこの同じ比較を用いましたところ、聴衆の一人から、非常に注目すべき一つの引用を示され、それによって私はこの考えが別に事新しいものではないことを知りました。少なくともそれは、ただ私にとってだけしか新しいものではなかったのです。/その引用というのはこうです。これはラカン〔割注:一五八九─一六七〇。田園詩を得意とし、一六〇五年よりマレルブに師事、師についての記録を残す〕がシャブラン〔割注:一五九五─一六七四。当時の文壇に勢力があったが、詩人としてはボワロー等に冷笑されたので有名である〕へ送った手紙の抜萃で、この手紙を見るとマレルブ〔割注:一五五五─一六二八。古典主義詩の立法者といわれる抒情詩人〕は──ちょうど私がこれからしようとしているように、──散文を歩行に、詩を舞踏に類(たぐ)えていたということを、ラカンはわれわれに伝えています。」と言い、はっきりと、自分よりさきに、「散文を歩行に、詩を舞踏に類(たぐ)えていた」のは、マレルブであったと述べているのである。そして、ラカンがシャブランに送った手紙のなかにつぎのように書いていたところを『詩話』に引用している。「予の散文に対しては優雅とでも素朴とでも、快濶とでも、何なりとお気に召す名前をつけなさるがよい。予は飽くまで我が先師マレルブの訓戒を離れず、自分の文章に決して諧調(ノンブル)や拍子を求めず、予の思想を表現し得る明晰さということ以外の他の装飾を求めない覚悟である。この老師(マレルブ)は散文を通常の歩行に、詩を舞踏に比較しておられ、そしてわれわれがなすを強いられている事柄に対しては、多少の疎漏も容赦すべきであるが、われわれが虚栄心からなすところにおいて、凡庸以上に出でぬということは笑うべき所以であると、常々申された。跛者(ちんば)や痛風患者にしろ歩かざるを得ない。だが、彼らがワルツや五歩踊(スインカベース)〔割注:十六世紀から十九世紀に流行した三拍子の快活な舞踏〕を踊る必要は全然ないのである。」この手紙の引用のあと、ヴァレリーは、「ラカンがマレルブの言ったこととしているこの比較は、私は私でかねて容易に気附いていたところでしたが、これはまことに直接的なものです。次にこれがいかに豊穣なものであるかを諸君に示しましょう。これは不思議な明確さを以って、極めて遠くまで発展されるのであります。おそらくはこれは外観の類比以上の何物かであります。」と述べて、このあと精緻に分析しているのだが、それをすべて引用することは控えておく。いくつかの重要なものと思われる部分を引用しておくにとどめよう。ところで、ヴァレリーは、「散文を歩行に、詩を舞踏に」の順にではなく、「歩行を散文に」、「舞踏を詩に」なぞらえているのであって、「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえているのは、あくまでもマレルブ(の言葉)であったことに注意を促しておく。前述したように、この言葉がヴァレリーの言葉のように流布したのは、ヴァレリーの分析の見事さによるところ大なのであろうと思われるのだが、具体的な記述をいくつかピックアップしていく。「歩行は散文と同じくつねに明確な一対象を有します。それは或る対象に向かって進められる一行為であり、われわれの目的はその対象に辿り着くに在ります。」、「舞踏と言えば全く別物です。それはいかにも一行為体系には違いないが、しかしそれらの行為自体の裡に己が窮極を有するものであります。舞踏はどこにも行きはしませぬ。もし何物かを追求するとしても、それは一の観念的対象、一の状態、一の快楽、一の花の幻影、もしくは或る恍惚、生命の極点、存在の一頂上、一最高点……にすぎませぬ。だがそれが功利的運動といかに異なるにせよ、次の単純極まる、とはいえ本質的な注意に留意せられよ。舞踏は、歩行自体と同じ肢体、同じ器官、骨、筋肉、神経を用いるということに。/散文と同じ語、同じ形式、同じ音色を用いる詩についても、全くこれと同様なのであります。」、「されば散文と詩は、同一の諸要素と諸機構とに適用せられた、運動と機能作用との或る法則もしくは一時的規約間の差異によって、区別せられます。これが散文を論ずるごとくに詩を論ずることは慎まねばならぬ所以であります。一方について真なることも、多くの場合、それを他方に見出そうと欲すると、もはや意味を持たなくなります。」、「われわれの比較を今少し押し進めましょう。これは深く究められるに耐えるものがありますから。一人の人が歩行するとします。彼は一つの道に従って一地点から他の一地点に動くが、その道は常に最小労力の道であります。ここに、もし詩が直線の制度に縛られているとしたら、詩は不可能であろうという事に留意しましょう。」、「再び歩く人の例に帰ります。この人が自分の運動を成し遂げた時、自分の欲する地点とか、書物とか、果物とか、対象とかに到達した時、直ちにこの所有ということは彼の全行為を抹消します。結果が原因を啖(くら)い尽し、目的が手段を吸収してしまいます。そして彼の行為と歩き方の様相がいかなるものであったとしても、ただその結果だけしか残りませぬ。マレルブの言った跛者にせよ痛風患者にせよ、向って行った椅子に一度びどうやら辿り着きさえすれば、敏活軽快な足取りでその席に辿り着いたこの上なく敏活な男とでも、着席していることには何の変りもないのであります。散文の使用にあってもこれとまったく同じです。今私の用いたところの言語、私の意図、私の欲求、私の命令、私の意見、私の問い或いは私の答えを表現し終えた言語、己が職責を果したこの言語は、到達するや否や消滅します。私は自分の言辞がもはや存在せぬというこの顕著な事実によって、自分が理解されたということを識るでありましょう。言辞はその意味によって、或いは少なくとも或る意味によって、換言すれば、話しかけられる人の心像、衝動、反応、もしくは行為によって、要するに、その人の内的変改乃至再組織によって、ことごとく且つ決定的に置き換えられてしまうのであります。しかし、理解しなかった人のほうは、それらの語を保存しそしてその語を繰り返すものです。実験は造作ありません……。」、「他の言葉で申せば、種類上散文であるところの言語の実用的或いは抽象的な使用においては、形式は保存されず、理解の後に残存しない。形式は明晰さのなかに溶解します。形式は働きを済ませたのであり、理解せしめたのであり、生をおえたのであります。」、「ところがこれに反し、詩篇は用を勤めたからといって亡びませぬ。これは明瞭に、己が死灰より甦り、今まで自からが在ったところに無際限に再び成るように、できているのであります。/詩は次の著しい効果によって識別されるのであり、これによってよく詩を定義し得るでもありましょう。すなわち、詩は己が形式の中に己れを再現しようとし、詩はわれわれの精神を促してそれを在るがままに、再建させるようにするということ。仮に敢えて工業上の術語から借りた語を用いるとすれば、詩的形式は自動的に回復されるとでも申しましょう。/これこそすべての中でも特に讃嘆すべき特徴的な一固有性であります。(…)」、「しかし繰り返し申しますが、文学的表現のこの両極端の間には無数の段階、推移形式が存在するのであります。」云々、延々とつづくのである。ヴァレリーのこの追求癖がぼくは大好きなんだけどね。「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえたのが、ほんとうはマレルブが最初なのに、ヴァレリーが最初に述べたかのように多くのひとが誤解しているのも、このヴァレリーのすさまじい分析的知性のせいなのだろうけれど、このような誤解というのも、あまりめずらしいことではないのかもしれない。だって、リンカーンの言葉とされるあの有名な「government of the people, by the people, for the people 人民の、人民による、人民のための政治」っていうのも、じつはリンカーンがはじめてつくった言葉じゃないものね。ぼくの記憶によると、たしか、リンカーンが行った教会で、牧師が説教に使っていた言葉を、リンカーンが書き留めておいて、あとで自分の演説にその言葉を引用したっていう話だったと思うけれど、違うかな。ノートがなかったので、教会の信者席で、持っていた封筒の裏に書き留めた言葉だったように思うのだけれど。

Ainsi, parallèlement à la Marche et à la Danse, se placeront et se distingueront en lui les types divergents de la Prose et de la Poésie.

 ここかな。ヴァレリーが「散文を歩行に、詩を舞踏に」たとえたってところは。フランス語ができないので、フランス語ができる方で、どなたか教えてくださらないでしょうか。この原文からコピペした箇所であっているでしょうか。よろしければ、教えてください。

 ちなみに、件の箇所が載っているヴァレリーの『詩話』(『詩と抽象的思考』というのが原文のタイトルの直訳です。)の原文がPDFで公開されています。フランス文学界ってすごいですね。ここです。→ http://www.jeuverbal.fr/poesiepensee.pdf


二〇一五年九月八日 「子ども時代の写真」


ぼくは付き合った子には、かならず子ども時代の写真を見せてもらう。


二〇一五年九月九日 「言葉じゃないやろと言ってたけど、」


 愛が答えだと思ってたけど、答えが愛だったんだ。愛が問いかけだと思ってたけど、問いかけが愛だったんだ。簡単なことだと思ってたけど、思ってたことが簡単だったんだ。複雑だと思ってたけど、思ってたことが複雑だったんだ。言葉じゃないやろと言ってたけど、言ってたことが言葉じゃなかったんだ。


二〇一五年九月十日 「吐く息がくさくなる言葉」


吐く息がくさいとわかる言葉だ。という言葉を思いついた。

吐く息がくさくなる言葉だ、という言葉を思いついた。

吐く息がくさくなるような言葉だ、という言葉を思いついた。


二〇一五年九月十一日 「おでん」


 きょうは塾の時間まで読書。『Sudden Fiction』も、おもしろい。いろんな作家がいて、いろんな書き方があって、というところがアンソロジーを読む楽しみ。詩人だって、いろいろいてほしいし、詩だって、いろいろあったほうが楽しい。トルタから10月に出る、詩のアンソロジーが楽しみ。『現代詩100周年』という詩のアンソロジーだけど、100人近くの詩人の作品が収録されているらしく、ぼくも書いている。ぼくのは、実験的な作品で、見た瞬間、好かれるか、嫌われるかするだろう。

 お昼は、ひさしぶりにお米のご飯を食べよう。さっき、まえに付き合ってた子が顔をのぞかせたので、「ダイエットしてるんやけど、足、細くなったやろ。」と言って足を見せたのだけど、「わからへん。」やって。タバコ買っておいてやったのに、この恩知らず。と思った。あ、気が変わった。ひさしぶりにブレッズ・プラスに行って、BLTサンドイッチのランチセットを食べよう。たまにはダイエットをゆるめてもいいやろと思う。足が細くなったような気がするもの。これはほんと。

 ああ、おでんが食べたい。そのうちつくろ。ダイエットと矛盾せんおでんはできるやろか。だいこんは必須や。嫌いやけど。油揚げは、ああ、大好物やけど、あかんやろなあ。竹輪はええかな。あかんかな。卵も大好物やけど、あかんな。昆布巻きはええかな。いっそ筑前煮にしたろかな。憎っくきダイエット。涙がにじんでしもたわ。情けない。齢とると、こんなことで悲しなるんやな。身体はボロボロになるし、こころもメタメタ弱ってる。でも、それでええんやと思う。いつまでも最強の状態やったら、弱ったひとの気持ちがわからんまま生きて死ぬんやからな。それでええんや。ゴボ天が大好物やった。忘れてたわ。あと、コロも食べたい。スジ肉も食べたい。巾着も食べたい。タコはいらんわ。あれは外道や。おでんの出しの味が悪くなる。いや、筑前煮にするんやった。おでんのほうが好きやけど。こんにゃくも好き。三角のも、糸こんにゃくも好き。

彼女を筑前煮にしてみた。けっこうおいしかった。鶏肉より豚肉に近かったかな。椎茸とか大根とか人参とかの味がしみておいしかった。ちょっと甘めにしたのがよかったみたい。


二〇一五年九月十二日 「コップのなかの彼女の死体」


 コップのなかに彼女の死体が入っていた。全裸だった。ぼくがコップに入れた記憶はないのだけれど。コップをまわして、彼女の死体をさまざまな角度から眺めてみた。生きていたときの美しさと違う美しさをもって、彼女はコップのなかで死んでいた。コップごと持ち上げて、それを傾けて彼女の死体を皿のうえに落とした。彼女の死体は音を立てて皿のうえに落ちた。アイスペールのなかの氷を一つアイストングでつかみ取り、氷を彼女の死体におしあてた。うつ伏せの彼女の肩から背中に、背中から腰に、腰から尻に、尻から太もも、脹脛、踵へとすべらせると、アイストングの背で彼女の死体を仰向けにして、氷を、彼女の顔から肩に、肩から胸に、胸から腹部に、腹部から股に、股から太もも、膝、膝、足首へとすべらせた。彼女の死体のうえでゆっくりと氷が溶けていく。彼女の死体のうえを何度も何度も氷がすべる。小さくなった氷をアイスペールに戻して、彼女の死体にナプキンの先をあてて水気をとっていく。皿に零れ落ちた水もナプキンの先で吸い取る。さあ、食事だ。クレーヴィーソースを彼女の死体にかけて、彼女の死体を切り分けていく。フォークの先で彼女の二の腕を押さえ、ナイフで彼女の肘関節を切断する。ほんとによく切れるナイフだ。思わず笑みがこぼれてしまう。鋭くとがったフォークの先で、切り取った彼女の腕を突き刺して、口元にもっていった。


二〇一五年九月十三日 「彼女の肉、肉の彼女」


 買ってきた肉に「彼女」という名前をつけてみた。レジで支払ったお金に「彼女」という名前をつけてみた。部屋に入るときにポケットから出す鍵に「彼女」という名前をつけてみた。ベランダに置いてあるバケツに入れた洗剤をうすめてつけておいた洗濯物の一つ一つに「彼女」という名前をつけてみた。

いま、彼女が洗濯機のなかでくるくる回っている。


二〇一五年九月十四日 「なぜ詩を書くのか」


 きょうは学校だけ。しかも午前中で終わり。楽だ〜。帰りにブレッズ・プラスによって、BLTサンドイッチのランチセットを食べよう。はやめに行って、ルーズリーフ作業でもしよう。『Sudden Fiction』に書いている作家たちの「覚え書」に詩論のためになるような、ものの見方が書いてある。とはいっても、70人近くの作家たちのうちの数十人の数十個の覚え書のうち、ルーズリーフに書き写して、ぼくの見解を付け加えるのは、4、5人のものだけど。それでも、この本はそれだけでも価値はあった。「違いがないものを区別する」とか考えさせられる言葉だ。「名前を決めるのは、それへの支配力を唱えるようなものだ」というのだけれど、ここから「言葉を使って詩句にするのは、その対象となっていることをまだ理解できなかったためではないのか。言葉にすることで理解しようとしているのではないだろうか」と思ったのだ。


二〇一五年九月十五日 「ダイエットの結果」


 9月は仕事がタイトなのだけれど、その9月も半分近く終わった。すずしくて読書をするにはふさわしい時節だし、大いに読書したい。日知庵でお茶を飲んで、ししゃもとサラダを食べた。えいちゃんが体重計を出してくれたので載ったら82・6キロだった。服の重さを引くと81キロ弱。1か月前と比べると、4キロの減量だから、このまま順調に減量できたら、月に4キロの減量で、20カ月後には体重ゼロだ。帰りに、ジュンク堂で、ジーン・ウルフの短篇集と、ジャック・ヴァンスの短篇集と、池内紀訳のゲーテのファウスト・第二部を買った。第一部はブックオフで買ってた。


二〇一五年九月十六日 「なぜ詩を書くのか」


 中学1年のときにはじめてレコードを買った。ポール・マッカートニーの『バンド・オン・ザ・ラン』だ。小学校のときから、ビートルズやプロコムハルムといったポップスやガリ・コスタやマロといったラテンを親の影響で聴いていたが、自分でLPを買ったのははじめてだった。所有するということの喜び。音楽を所有することのできた喜びは、ほかの喜びとは比較にならないくらいに大きかった。25才までに本を読んだことはあった。でも、自分で買った本は1冊もなかった。すべて親が持っていた本を読んでいたからだ。親が純文学だけでなくミステリーとSFも読んでいた。親が外国文学を好きだったので、当時に翻訳されたミステリーやSFはほとんど読んでいた。親のもとを離れて一人暮らしするようになり、小説家を目指して勉強をしないといけないと思い、ギリシア神話や聖書を、また外国の古典的な作品を一通り読んだ。でも、本をいくら買っても所有しているという喜びはなかった。40代になって、不眠症にかかり、鬱状態になってはじめて、SF小説のカヴァーの美しさに気がついた。そこで、手に入るものはすべて手に入れた。ようやくここで、本を所有する喜びにはじめて遭遇したのだった。おそらく、それは病的なまでのものであったのだろう。古書のSFの場合、カヴァーのよい状態のものを手に入れるために、同じ本を5冊買ったりもしたのだった。きのう買ったジーン・ウルフの新刊本にクリアファイルでカヴァーをつくるときに、表紙の角を傷つけてしまって、しゅんとなったのだが、むかしなら新しく買い直したかもしれない。でも、少し変わったのだろう。あきらめのような気持ちが生じていたのだ。表紙は本を所有することの喜びの小さくない部分であったのだが、しゅんとはなったが、なにかが気持ちに変化をもたらせたのだ。年齢からくるものだろうか。若さを失い、見かけが悪くなり、身体自体も健康を損ない、みっともない生きものになってしまったからだろうか。そんなふうに考えてしまった。そして、ここから言葉の話になる。ぼくが作品にしたときに、ぼくが対象としたもの、それは一つの情景であったり、一つの出来事であったり、一つの会話であったり、一つの表情であったり、そういった目にしたこと、耳にしたこと、こころに感じたことを、なんとか言葉にしてみて再現しようとして試みたものであったのだろうか。ぼくの側からの一方的な再構築ではあるし、それはもしかしたら、相手にとっては事実ではないことかもしれないけれど。しかし、言葉にすることで、ぼくは、姿を、態度を、声を、言葉を所有したような気がしたのだ。『高野川』がはじめて書いた詩だと言っている。事実は違っていて、中学の卒業文集に書いた『カサのなか』がはじめて書いたもので、のちにユリイカの1990年の6月号の投稿欄に掲載されたのだが、詩という意識はなく書いたものであった。自分が意識して詩を書いたものとしては、ユリイカの1989年8月号の投稿欄に掲載された『高野川』がはじめてのものであった。この『高野川』は事実だけを書いた。ぼくの初期の詩は、いまでも大部分そうだが、事実のコラージュによってつくったものが多くて、『高野川』は、ぼくが大学3年のときに付き合っていたタカヒロとのときのことを書いたものだった。書いたのは28才のぼくであったので、5年前に終わっていた二人のことを書いたのだが、2才年下の彼の下宿に行くときに、高野川のバス停でバスを待っているあいだのぼくの目が見た川の情景と、その川に投げ捨てたタバコの様子について書いたものだったのだが、この『高野川』を書いたときにはじめて、そのときの自分の気持ちがはっきりとわかったような気になったのだった。言葉を紙のうえに(当時は紙のうえに、なのだ)書いて、詩の形をとらせて言葉を配置して、何度も繰り返して自分で読み直して、完璧なものに仕上げて、はじめて、自分のそのときの気持ちを、その詩のなかに書き写すことができたと思ったのだ。『高野川』を書くことで、自分の過去の一つをようやく所有することができたと思ったのだった。そのことは、タカヒロと付き合ったさまざまな時間と場所と出来事を思い起こすことのできる一つの契機となるものだった。詩を獲得することで、ぼくは自分の時間と場所と出来事を獲得したのである。そういった詩をいくつも所有している。そりゃ、詩を書くことは、ぼくにはやめられないわけだ。実験的な詩は、こういった事情とは異なるが、根本においては変わらないと思う。さまざま音楽や詩や小説を読む喜びに通じるような気がする。『全行引用詩』や『順列 並べ替え詩。3×2×1』や『百行詩。』や『数式の庭。』や『図書館の掟。』や『舞姫。』や『陽の埋葬』などは、じっさいの体験の痕跡はほとんどない。「先駆形」でさえ体験は少ない。では、なぜ詩にするのだろうか。事実とか、じっさいの時間や場所や出来事だけが、ぼくの生の真実を明らかにするものではないからだ。言葉自体をそれとして所有することはできないが、言葉が形成する知や感情というものを所有することはできる。事実とかじっさいの時間や場所や出来事ではないものが、ぼくが気がついていなかった、ぼくが所有するところのものを、ぼくに明らかにしてくれるからなのであった。ぼくは欲が深いのだろうか。おそらくめちゃくちゃ深いのだろうと思う。54才にもなって、まだ自分の知らない自分を知りたいと思うほどに。最終的に、ぼくは言葉を所有することはできないだろう。ぼくは、ぼくの詩を所有するほどには。しかし、それでいいのだ。言葉はそれほどに深く大きなものなのだ。少なくとも、ぼくは言葉によって所有されているだろう。ぼくの詩がぼくを所有しているほどには。いや、それ以上かな。すべてのはじまりの時間と場所と出来事がいつどこでなにであったのか、それはわからないけれど、ぼくがつぎに書こうとしている長篇詩『13の過去(仮題)』は、それを探す作業になるのだなとは思う。すべてのものごとにはじまりがあるとは限らないのだけれど。いや、やはり、すべてのものごとにははじまりがあるような気がする。それは一つの眼差し、一つの影、一つの声であったかもしれない。それを求めて、書くこと。書くことによって、ぼくは、ぼくを獲得しようと目論んでいるのだ。なぜこんなものを書いたのかと言うと、『Sudden Fiction』に収録されているジョン・ルルーの『欲望の分析』に、「私は愛している。でも私は愛に所有されてはいないのだ」(村上春樹訳)という言葉があって、「愛」を「言葉」にしてふと考えたのだった。


二〇一五年九月十七日 「セックスとキス」


セックスがじょうずだと言われるよりも、キスがじょうずだと言われるほうがうれしい。なぜだかわからないけど。


二〇一五年九月十八日 「正常位と後背位」


正常位にしろ、後背位にしろ、どちらにしたって、みっともない。だからこそ、おもしろいのだろうけど。


二〇一五年九月十九日 「動物園」


彼女と動物園に行った。彼女を檻のなかに放り込んだ。檻のなかは彼女たちでいっぱいだった。


二〇一五年九月二十日 「栞」


 聖書、イメージ・シンボル事典、ギリシア・ラテン引用語辭典、ビジュアル・ディクショナリーをのけて、府民広報のチラシにはさんでおいた彼女を取り出した。栞にしようと思って、重たい本の下に敷いていたのだった。ぺらぺらになった彼女は、栞のように薄くなっていた。本の隙間から彼女の指先が覗く。


二〇一五年九月二十一日 「写真」


 付き合ってた子たちの写真を捨てようと思って、ふと思いついて、ハサミとセロテープを用意した。顔のところをジョキジョキと切っていった。何人かの耳を切り取って一つの顔の横にセロテープで貼りつけた。いまいちおもしろくなかった。ひとつの顔から両眼を切り取って、別の顔のうえに貼りつけてみた。これはおもしろかった。めっちゃたれ目にしたり、つり目にしたりした。そのうちこれにも飽きて、いくつかの首を切り取って首長族みたいにしたりしてみた。こんなんだったら付き合ってないわなとか変なこと考えた。ぼくの恋人たちも、ぼくの写真で遊んだりしたのかな。


二〇一五年九月二十二日 「読んでいるときの自分」


 詩や小説で陶然となっているときには、自分ではないものが生成されているような気がする。詩集や本を手にもっているのは、ぼくではないぼくである。ぼくという純粋なものは存在しないとは思うのだけれど、あきらかに、その詩集や本を手にとるまえのぼくとは異なるぼくが存在しているのである。そういった生成変化を経てなお存続つづけるものがあるだろうか。自我はつねに変化を被る。おそらく存続しつづけるものなどは、なにひとつないであろう。おもしろい。むかし、ぼくは30才くらいで詩を書く才能は枯渇すると思っていた。老いたいまとなっては笑い草だ。こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作』上下巻も、来年出す予定の『詩の日めくり』も、齢老いたぼくが書いたものなのだ。上質の文学作品に接するかぎり、よい影響があるであろう。未読の本のなかにどれだけあるかわからないけど、がんばって読もう。


二〇一五年九月二十三日 「平凡な言葉」


 ジャック・マクデヴィッドの『探索者』を読み終わった。凡作だった。なんでこんな平凡なものが賞を獲ったのかわからない。ルーズリーフにメモするのも一言だけ。「恋っていうのはいつだってひと目惚れですよ」(金子浩訳)。これまた平凡な言葉だ。きょうからお風呂場で読むのは、フィリップ・クローデルの『ブロデックの報告書』にする。ひさびさに純文学である。絶滅収容所でユダヤ人の裏切り者だったユダヤ人の物語らしい。徹底的に暗い設定である。まあ、ダン・シモンズの『殺戮のチェスゲーム』もえげつなかったけれど、あれはファンンタジーだからねぇ。お風呂に入るまえに、先に読んでいるのだけれど、ユダヤ人を裏切ったというのじゃなくて、ドイツ人に犬のように扱われたから犬として過ごしたということらしい。名誉を重んじたユダヤ人は処刑されたらしい。絶滅収容所、なんちゅうところやろか。20世紀の話である。


二〇一五年九月二十四日 「さいきん流行ってること」


 さいきん言葉を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の頭のなかに飼うことにした。餌はじっさいの会話でもいいし、読んだ本でもいいし、たえず言葉をやることに尽きた。ぼくは新鮮な言葉をいつもやれるようにしてやってる。

 さいきん感情を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の心の中に飼うことにした。餌はじっさいの体験でもいいし、読んだ本からでもいいし、絶えず感情を喚起させること。ぼくは新鮮な感情をいつでも絶やさないようにしてる。

 さいきん知識を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の頭のなかに飼うことにした。餌はじっさいの会話からでもいいし、読んだ本からでもいい。たえず知識を増やすことに尽きた。ぼくは新鮮な知識をいつもやることにしてる。

 さいきん父親を飼うのが流行っているらしい。水槽に入れて飼っているひともいれば、鳥籠に入れて飼っているひともいる。ぼくも自分の思い出のなかに飼うことにした。餌はじっさいの思い出でもいいし、空想の思い出でもいいのだ。たえず思い出をやることに尽きた。ぼくは新鮮な思い出をいつもあげてる。

 さいきん水を飼うのが流行っているらしい。ふつうに水槽に入れて飼うひともいれば、鳥籠に入れて飼うひともいる。ぼくも頭のなかに水を飼うことにした。頭をゆらすと、たっぷんたぷん音がする。水の餌には水をやればいいだけだから、餌やりは簡単プーだ。ぼくもいつも新鮮な水を自分の頭にやっている。


二〇一五年九月二十五日 「読むことについての覚書」


 作品を読んで読み手が自分の思い出を想起させて作品と重ね合わせて読んでしまっていたり、作品とは異なる状況であるところの読み手の思い出に思いを馳せたりしているとき、読み手はいま読んでいる作品を読んでいるのではない。読み手は自分自身を読んでいるのである。


二〇一五年九月二十六日 「表現」


 言葉だけの存在ではないものを言葉だけで存在せしめるのが文学における技芸であり、それを表現という。


二〇一五年九月二十七日 「さいごの長篇詩について」


 きょうから、『アガサ・クリスティ自伝』上下巻を読む。今朝から読んでいる。上流階級の御嬢さんだったのだね。ぼくん家にも、お手伝いさんがいたのだけれど、クリスティー家には、ばあやのほかに料理人や使用人もいたのだった。ぼくは親に愛されなかったけれど、クリスティーの親は愛情があったみたい。ぼくは、ぼくのほんとのおばあちゃん子だった。うえの弟の乳母の名前はあーちゃんだった。したの弟の乳母は、ぼくは、中島のおばあちゃんと呼んでいた。親もそう呼んでいたと思うけれど、弟たちだけに乳母がいるのは、とても不公平な気がしたものだった。ふたりの乳母は同時期にやとってはいなかった。うえの弟の乳母のほうが、もちろん先で、下の弟が生まれたときにやめてもらって、新しいお手伝いのおばあさんになったのだった。どうしてうえの弟がなついていた乳母をやめさせて新しいお手伝いのおばあさんにしたのかはわからない。うえの弟は、なにかというと、ぼくをバカにしたので大嫌いだった。ぼくのほんとのおばあちゃんは、ぼくだけをかわいがったので、親は弟のために乳母をやとったのかもしれない。だからなのか、ぼくは、うえの弟の乳母のことも嫌いで顔も憶えていない。ただ、したの弟の乳母よりは太っていたような気がする。顔が丸みをおびた正方形だったかなとは思うのだけれど、記憶は定かではない。その目鼻立ちはまったく不明だ。いま、ぼくと弟とは縁が切れているので、弟の写っている写真が手元にはなく、写真では確認できないけれど。ぼくの新しい長篇詩『13の過去(仮題)』は、このような自伝を、引用のコラージュと織り交ぜてつくるつもりだ。現実のぼくの再想起だが、時系列的に述べるつもりはない。あっちこっちの時間を行き来するし、ぼくの過去の作品世界とも出入りするので、幻想小説的でもあり、SF小説的でもあり、ミステリー小説的でもある。『図書館の掟。』、『舞姫。』、『陽の埋葬』の設定世界のあいだに、現実世界の描写を切り貼りしていくのだ。いや、逆かもしれない。現実世界のなかに、それらの設定世界を切り貼りしていくのだ。また、それらの設定世界同士の相互侵入もある。まあ、もともと、ぼくは、ぼくが書いたものをぜんぶ一つの作品の一部分だと思ってきたから、自然とそうなるようなものをつくっていたのだろうけれど。引用だけで自伝をつくる試みも同時にしていくつもりだけれど、そのタイトルは、そのものずばり、『全行引用による自伝詩の試み。』である。『13の過去(仮題)』をつくりながら、楽しんでつくっていこうと思う。これらがぼくに残されたぼくの寿命でぼくが書き切れるぼくのさいごの長篇詩になると思う。10年以上かかるかもしれないけれど、がんばろう。


二〇一五年九月二十八日 「戦時生活」


 戦争がはじまって、もう一年以上になる。本土にはまだ攻撃はないけれど、もしかすると、すでに攻撃はされているのかもしれないけれど、情報統制されていて、ぼくたちにはわからないだけなのかもしれない。町内会の掲示板には、日本軍へ入隊しよう! などというポスターが何枚も貼られていた。というか、そんなポスターばかりである。第二次世界大戦のときには、町内会で防火訓練などが行われたらしい。こんどの戦争でも、そんな訓練をするのだろうか。そういえば、祖母が、国防婦人会とかいう腕章をつけた着物姿で何人もの女性たちといっしょに、写真に写っていた。当時の女性たちの顔は、どうしてあんなに平べったいのだろう。ならした土のように平らだ。鼻が小さくて低い。いまの女性たちの鼻よりも小さくて低いのだ。食べ物が違うからだろうか。そういえば、祖父は軍人で戦死したので、天皇陛下から賞状をいただいていた。まあ、戦争のことは、おいておこう。いまのところ、ぼくの生活にはほとんど影響がない。むかしの戦争では、一般市民が食べ物に困るようなことがあったらしい。それに資料によると、戦地では兵士たちがたくさん餓死したという。考えられないことだ。そんな状況なんて。現代の戦争では、兵士はべつに戦地に赴く必要はない。遠隔操作で闘っているからである。戦地では、ロボットたちが敵を殺戮しているのである。それには、ミリ単位以下のナノ・ロボットたちから、30メートル級の巨大ロボットまでが含まれる。ぼくの部屋にはテレビはないし、テレビ自体、もう30年以上も目にしていないのだけれど、チューブにアップされている映像や、ネットのニュースで見る限りでは、日本は負けていないようだ。もう一年以上も戦争がつづいているのだから勝っていると言えるとは思わない。読書に戻ろう。『アガサ・クリスティー自伝』上巻、半分くらい読んだ。メモするべきことはそれほどないのだが、驚くべき記憶力に驚かされている。それと、クリスティーが数学が好きだったこと、小説家になっていなければ数学者になっていただろうという記述があった。数学が好きで、また得意であったらしい。ミステリーの女王らしい記述であった。読書に戻るまえに、お昼ご飯を買いにセブンイレブンに行こう。さいきん、サラダとおにぎりばっかり買っている。このあいだ、ネットのニュースを見ると、平均的サラリーマンの昼食らしい。


二〇一五年九月二十九日 「二十八歳にもなつて」


 ブックオフでホイットリー・ストリーバーの『ウルフェン』を108円で買った。ストリーバーは、ぼくのなかでは一流作家ではないけれど、集めていたから、よかった。『ウルフェン』は意外に手に入りにくいものだった。ハヤカワ文庫のモダン・ホラー・コレクションの1冊である。きのう、『アガサ・クリスティー自伝』のルーズリーフ作業をしたあと、塾に行ったのだが、引用したページ数の484が気になっていたら、ふと、484が22の2乗、つまり22×22=484であることに気がついたのであった。でも、そのことはすぐに忘れてしまって、塾で授業をしていたのだった。ところで、けさ、学校に行くために通勤電車に乗っているときに、ふと、147ページとかよく引用するときに目にするページ数があるなあと思ったのであった。147という数字になにか意味はあるだろうかと思って、まずこれは3桁の数であるなと思ったのだった。1と4と7を並べると、3ずつ大きくなっているなと思ったのだが、それではおもしろくない。ふうむと思い、一の位の数と百の位の数を足して2で割ると、銃の位の数になるなと木がついたのであった。そういう数字を考えてメモ帳に書いていった。123、135、159、111。そして、これらの数がすべて3の倍数であることにも気がついたのであった。なぜ3の倍数になっているかといえば、と考えて証明もすぐに思いついたのであった。一の位の数を2m−1、百の位の数を2n−1とすると、十の位の数は(2m−1+2n−1)÷2=m+n−1となり、各位の数を足すと、2m−1+m+n−1+2n−1=3m+3n−3=3(m+n−1)=3×(自然数)=3の倍数となり、各位の数を足して3の倍数になっているので、もとの数は3の倍数であることがわかる。まあ、たった、これだけのことを地下鉄電車のなかで考えていたのだけれど、武田駅に着くと、なぜ147ページという具体的な数字が、ぼくの記憶に強く残っているのかは、わからなかった。いつか解明できる日がくるかもしれないけれど、あまり期待はしていない。数字といえば、きょう、『Sudden Fiction』を読んでいて、333ページに、「死体は五十四歳である。」(ジョー・デイヴィッド・ベラミー『ロスの死体』小川高義訳)という言葉に出合った。ぼくは54才である。そいえば、はじめて詩を書いたのが28才のときのことだったのだが、アポリネールの詩を読んでいたときのことだったかな。『月下の一群』を手に取って調べよう。あった。「やがて私も二十八歳/不満な暮しをしてゐる程に」(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)これと、だれの詩だったか忘れたけれど、「二十八歳にもなって詩を書いているなんて、きみは恥ずかしいとは思わないかい?」みたいな詩句があって、その二つの詩句に、ぼくが28才のときに出合って、びっくりしたことがある。その二つの詩句は、どこかで引用したことがあるように記憶しているので、過去の作品を探れば出てくると思う。お風呂に入って、塾に行かなければならないので、いま調べられないけれど、帰ってきたら、過去に自分が書いたものを見直してみよう。あまりにも膨大な量の作品を書いているので、きょうじゅうに見つからないかもしれないけれど。

 塾から帰った。疲れた。きょう探すのはあきらめた。クスリのんで寝る。あ、333も、一の位の数の奇数と百の位の数の奇数の和を2で割った値が十の位の数になっているもののひとつだった。111、333、555、777、999ね。

すでに二十八歳になった僕は、まだ誰にも知られていないのだ。
(リルケ『マルテの手記』第一部、大山定一訳)

二十八歳にもなつて、詩人だなんて云ふことは
樂しいことだと、讀者よ、君は思ふかい?
(フランシス・ジャム『聞け』堀口大學訳)

やがて私も二十八歳
不満な暮しをしてゐる程に。
(アポリネール『二十日鼠』堀口大學訳)


二〇一五年九月三十日 「吉田くん」


 吉田くんは、きょうは、午前5時40分に東から頭をのぞかせてた。午後6時15分に西に沈むことになっている。

 吉田くんが治めていたころの邪馬台国では、年100頭の犬を徴税していたという。そのため、吉田くんが治めていた時期の宮殿は犬の鳴き声と糞尿に満ちていたらしい。犬のいなくなった村落では、犬がいなくなったので、子どもたちを犬のかわりに飼っていたという。なぜか、しじゅう手足が欠けたらしい。

 吉田くんは太く見えるときは太く見えるし、細く見えるときは細く見える。広口瓶に入れると、太く見える。細口瓶に入れると細く見える。いずれにせよ、肝心なのは、ひとまず瓶の中に入れることである。

 吉田くんは空気より軽いので、吉田くんを集めるときは、上方置換法がよい。純粋な吉田くんを集めようとして、水上置換法で集めることはよくない。吉田くんは水によく溶ける性質をもっているので、水上置換法で集めることは困難だからである。

 1個のさいころを投げる試行において、偶数の目が出る事象をA、6の約数の目が出る事象をBとする。事象A∩Bが起こったときは吉田くんの脇をくすぐって笑わせ、事象A∪Bが起こったときは吉田くんの足の裏をくすぐって笑わせるとする。このとき、吉田くんがくすぐられても笑わない確率を求めよ。

 吉田くんを切断するときは、水中で肩から腹にかけて斜めに切断すると、水に触れる断面積が大きくなるのでよい。水中で切断するのは、空気中では出血した水が飛び散るからである。切断面から水を吸収した吉田くんは、すぐさま元気を取り戻して生き生きとした美しい花をたくさん咲かせていくはずである。

 吉田くんは立方体で、上下の面に2本ずつの手がついており、4つの側面に2本ずつの足がついている。顔は各頂点8つに目と鼻と耳と口が対角線上に1組ずつついている。吉田くんを地面に叩きつけると、ポキポキと気持ちのよい音を立てて、よく折れる。


二〇一五年九月三十一日 「ナボコフ全短篇」


 チャールズ・ジョンソンの『映画商売』という作品が『Sudden Fiction』に入っていて、それなりにおもしろかったのだけれど、最後のページに、「論理学では必要にして充分とかというのだろうが」(小川高義訳)というところが出てきて、びっくり。高校の数学で出てくる「論理と証明」で、「必要」と「十分」という言葉を習ったと思うのだけれども、「十分」であって、「充分」ではないし、それにそもそも、「十分」と「充分」では意味が異なるのに、この翻訳者には、高校程度の数学の知識もないらしい。翻訳を読む読者にとって、とても不幸なことに思う。

 きょうは、お昼に、ジュンク堂に行った。コンプリートにコレクトしてる3人の作家の新刊を買った。イーガンの『ゼンデキ』、R・C・ウィルスンの『楽園炎上』、ブライアン・オールディスの『寄港地のない船』。それと、持っている本の表紙が傷んでいるので、池内紀訳『ファウスト』第一部を買い直した。

大気の恋。偶然機械。

 ナボコフの『全短篇集』を読む。獣が自分のねぐらを自分で見つけなければならないように、人間も自分の居場所を自分で見つけなければならない。そもそも、人間は自分が歓迎される場所にいるべきだし、歓迎してくれた場所には敬意を払い感謝すべきものなのである。敬意と感謝の念を湧き起こせないような場所には近寄る必要もないのだ。この言葉は、「さあ、行きなよ、兄弟、自分の茂みを見つけるんだ」(ナボコフ『森の精』沼野充義訳)を読んで思いついたもの。まあ、ふだんから思っていることを、ナボコフの言葉をヒントにして言葉にしてみただけだけど。まだ短篇、ひとつ目。十分に読み応えがある。

世界とは、別々のところに咲いた、ただ一つの花である。

これは、「もはや、樹から花が落ちることもない、」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)を目にして、「花はない。」を前につけて、全行引用詩に使えるなと思ったあとで、ふと思いついた言葉。ちょっとすわりがわるいけれど、まあ、そんなにわるい言葉じゃないかな。

「その湿り気のある甘美な香りは、私が人生で味わったすべての快きものを思い出させた。」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)なんだろう、このプルーストっぽい一文は。初期のナボコフの短篇は修飾語が過多で、ユーモアにも欠けるところがあるようだ。直線的な内容なのにやたらと修飾語がつくのである。偉大な作家の習作時代ということかもしれない。世界的な作家にも、習作時代があるということを知るためだけでも読む価値はあるとは思うけれど、なんで、文系の詩人や作家のものは修飾語が多いのだろうかと、ふと思った。ぼくの作品なんか、構造だけしかないものだ。

 天使の顔の描写に、「唯一の奇跡的な顔に、私がかつて愛した顔すべての曲線と輝きと魅力が結晶したかのようだった。」(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)というのがあって、ここは、ヘッセの『シッダールタ』のさいごの場面からとってきたのだなと思われた。偉大な作家も、習作時代は、他の詩人や作家の影響がもろに出るのだなと思われた。ホフマンスタールを読んでいるかのような気がした。ナボコフはドイツ文学が好きだったのかな。いま読んだ2篇とも、描写に同性愛的な傾向が見られるのも、そのせいかもしれない。ホフマンスタールがゲイだったかどうかは知らない。ただホフマンスタールの書くものがゲイ・テイストにあふれているような気がするだけだけれど。まあ、ドイツ系の作家って、ゲーテみたいに、バイセクシャルっぽい詩人や作家もいる。ゲオルゲはたしかゲイだったかな。まあ、そんなことは、どうでもよいか。

 3篇目の『ロシア語、話します』は完全にナボコフだった。さいしょの2篇は『全短篇集』から外した方がよかったと思われるくらい、出来がよくなかったものね。でも、まあ、ナボコフ好きには、あまり気にならないのかもしれない。ぼくはナボコフの作品を大方集めたけれど、途中で読むのをやめたのが2冊、売りとばしたのが2冊、未読のものが多数といった状態で、この『全短篇集』は、気まぐれで読んでいるだけである。『プニン』『青白い炎』『ロリータ』『ベンドシニスター』『賜物』はおもしろかった。そいえば、書簡集の下も途中で読むのをやめたのだった。

 ナボコフの4つ目の短篇『響き』(沼野充義訳)もナボコフ的ではあったが、習作+Aレベルだった。雰囲気はよいのだが、おそらく、このレトリックを使いたいがために、この描写を入れたのだなあ、と思わせられるところが数か所あって、そこでゲンナリさせられたのだった。作品のたたずまいはよかった。しかし、この作品で用いられたレトリックには、思わずルーズリーフ作業をさせるほどのものがあった。自分を森羅万象の写しとしてとらえる感覚と、瞬間の晶出に関する描写である。どちらも、ぼくも常々感得していることなので、はっきりと言葉にされると、うれしい。ルーズリーフ、いま3枚目、いったいどれだけのレトリックを短篇に注ぎ込んでるんじゃとナボコフに言いたい。ぼくが自分の作品に生かすときにどう使うかがポイントやね。ぼくのなかに吸収して消化させて、ぼくの血肉としなければならない。まあ、ルーズリーフに書き写しているときにそうなってるけど。というか、書いて忘れること。書いて自分のなかに吸収して、自分の思想のなか、知識の体系のなかの一部にしちゃって、読んだことすら忘れている状態になればよいのである。100枚以上も書き写してひと言すら覚えていないジェイムズ・メリルもそうして吸収したのだ。

 ナボコフの『全短篇集』の4篇目『響き』、習作+Aって思ってたけれど、ルーズリーフを6枚も書き写してみると、習作ではなかったような気がしてきた。佳作と傑作のあいだかな。佳作ではあると思う。傑作といえば、長篇と比較してのことだから、短篇は『ナボコフの1ダース』でしか知らないので、まだよくわからない状態かもしれない。

 5つ目の短篇『神々』で、またナボコフの悪い癖が出ている。使いたいレトリックのためだけに描写している。見るべきところはそのレトリックのみという作品。そのレトリックを除けば、くだらないまでに意味のない作品。木を人間に模している部分のことを言っているのだが、とってつけた感じが否めない。

 6つ目の短篇『翼の一撃』を読んだ。中途半端な幻想性が眠気を催させた。横になって読んでいたので、じっさいに何度か眠ってしまった。ナボコフはもっと直截的な物語のほうがいいような気がする。読んだ限りだが、幻想小説を長篇小説で書かないでおいたのは、正解だったのだろうな。退屈な作品だった。

 まだまだ短篇はたくさんあるのだけれど、きょうは、もう疲れた。クスリをのんで寝る。寝るまえの読書は、R・C・ウィルスンの『楽園炎上』にしよう。ジャック・ヴァンスも、ジーン・ウルフも、オールディスも、今秋中には読みたい。


詩の日めくり 二〇一五年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十月一日 「℃℃℃。」


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二〇一五年十月二日 「沈黙」


沈黙は物質の特権ではない。


二〇一五年十月三日 「微積分」


時間を場所で微分すると出来事になる。場所を出来事で微分すると時間になる。出来事を時間で微分すると場所になる。とうぜん、出来事を場所で積分すると時間になる。時間を出来事で積分すると場所になる。場所を時間で積分すると出来事になる。


二〇一五年十月四日 「13の過去(仮題)」


忘れてばかりいる。思い出してばかりいる。思い出すためには、忘れていなければならない。ふつうは故意に忘れることはできないし、ふつうは故意に思い出すこともできない。個人的なことがらを詩のなかに紛らせておくと、あとで読み返したときに個人的な記憶がよみがえることがある。それがぼくの詩だ。作品化していない思い出もあるけれど、それも順次、書いていくことになるだろう。『13の過去(仮題)』は、過去の記憶をできるかぎり忠実に再現していって、書き込んでいくことにしているので、そこでまだ詩にしていない思い出を書いていくだろう。楽しみにしてる。東大路通りから清水寺にのぼるとき、細い狭い道を通るのだが、いまのぼくには細い狭い道だが、清水寺のすぐそばに住んでいた、ぼくが子どものときには、狭い道ではなかった。大きさというのは相対的なものなのだろう。寺の名前は忘れたが、清水寺に行く途中に寺があって、よくそこの境内で遊んでいた。


二〇一五年十月五日 「再生力」


ふと、傷ややけどのことを思い出した。子どものときにけがをした痕ややけどをした痕が残っていることもあるけれど、時間がたつと薄れていくことが多く、また痕が残らない場合もあったのだが、齢をいくと、再生力が弱まっていくのだろうか、子どものときよりも傷の痕が残りやすくなっているような気がする。


二〇一五年十月六日 「ファウスト」


ゲーテがファウストで、ヘラクレイトスではなく、タレスの水よりきたりて水に帰すのほうをとったことに着目。暮鳥の詩句(魚が意識をもつ、といった感じのものだったか)とからめて書こう。こんどの全行引用詩・五部作・下巻とも関連している。ぼくにはぼくができることをやるしかない。あたりまえか。

きのう、暮鳥の詩を読み直していて、ふと、数日まえに読み直したゲーテの『ファウスト』のある部分と結びついて、こんど出す全行引用詩で展開しなかったことがらの一つに思いを馳せたのだが、これでよかったのだとも思った。このこと自体を別立てで書くことができまるのだからと。むかしは、タイミングを逃したなとしょっちゅう思ったものだが、齢をとると、そのタイミングを逃したことで得ることもあるのだなと思うこともあり、さいきん、伝道の書の「すべてのことに時がある。」という言葉は、こういうときのことも言ってるのかなと思ったりもしてる。きっと、ひととも、本とも、出合うべきときに出合っているんやろう。

ゲーテの『ファウスト』には、古代ギリシア哲学者の言葉がわんさか入っていて、コンパクトな哲学史としても参照できる。これも持って行こう。もう何度も読み返している『ファウスト』である。流し読みでいいか。きょうじゅうに読み返そう。ブレッズ・プラスで、BLTサンドイッチのランチセットを食べたあと、新しい『詩の日めくり』の手直しをしていた。ゲーテの引用がどこからなのか書いてなくて、これから探す。たぶん、『ファウスト』だと思うけれど。帰ってきたら、ペソア詩集が到着してた。さらっぴんのようにきれいで、ほっとした。『ファウスト』じゃなかった。自分の詩論を読んで調べた。自分の詩論を、ほとんど辞書のようにしてる、笑。『花崗岩について』小栗 浩訳だった。こんなの、「私は自然をもっと高い見地から考察したい気持ちにさそわれる。人間の精神は万物に生命を与えるが、私の心にも一つの比喩が動き出して、その崇高な力に私は抵抗することができない。」(『花崗岩について』小栗 浩訳)ずれちゃうけど、「人間は概念に意味を与えるが、その概念がこんどは人間に意味を与える。」って、ふと思っちゃった。スクリッティ・ポリティ聴いて、バカになっちゃったかな。BGMはスクポリで、キッチンで、タバコ吸いながらお茶飲んで踊ってる。新しい『詩の日めくり』が完成してゴキゲンなのだ。


二〇一五年十月七日 「自信大国・日本」


日本は自信大国だという。京都にいると、ときどきしか自信のあるひとには出合わないから実感がないけど、東京にいくと、たしかに、自信のあるひとと出くわすことが多い。しょっちゅう自信のあるひとと出くわしていると言えるかもしれない。住んでる場所によって、自信が出たり出なかったりするのかな。


二〇一五年十月八日 「沈黙」


きみの沈黙ほどかしましいものはない。


二〇一五年十月九日 「スピンオフ」


『詩の日めくり』のスピンオフを2つ考えた。1つは、同じ年の同じ月の同じ日の日記をえんえんと書くというもの。もう1つは、異なる年の同じ月の同じ日の日記をえんえんと書くというもの。文学極道に投稿するものが現在に追いついたら、書こうと思う。『詩の日めくり』もライフワークの1つになった。


二〇一五年十月十日 「買いたい新書」


フランスパンが食べたくなったので、イーオンに買いに行く。野菜サンドにしよう。きょうは、河原町のロフトでかわいらしい表紙のノートを買おう。大きいノートがいいや。ライフワークにするつもりの『13の過去(仮題)』と『全行引用詩による自伝の試み』のラフスケッチ(設計図)を書いておきたい。イーオンにはいいのがなかった。

買いたい新書。

チーズとレタスを買ったので、それをフランスパンにはさんで食べる。これだと自炊になるかな。どだろ。これが、ぼくの自炊の限界だ。低い。まあ、いいか。BGMがわりに、ギャオで、なんか見ながら食べよう。これから河原町のロフトにノートを買いに。その足で日知庵に行く。お風呂場では、フロストの詩を読みながら、にやついていた。これは、大人の詩だろうな、いまのぼくの齢でようやくわかる感じのものじゃないかなって思って。齢をとっても、ロクなこともあるのである。

いま日知庵から帰った。ロフトでは、ほしいなあと思ったノートがあったのだけれど、レジスターに3列も並んでるのを見て、買うのやめた。きょうは日曜日だったのだ。しかし、あれじゃあ、ネットで選ぶほうが品数が多いんじゃないかなと思って、これからネットサーフィンする。食べ物の表紙がいいのだ。

ほしいと思うようなノートがない。食べ物の写真が表紙のノートがほしかったのだ。ルーズリーフのホルダーで透明のものに、表紙を替えられるものを12冊もっているので、そのうちの1冊(いまSF小説のカヴァーをプリントアウトして表紙にしてる)を使おう。腹立つ。

いや、このままでいいや。あした罫線のない無地のルーズリーフを買ってこよう。それをラフスケッチに使おう。SFでいいや。いまダイエットしてるから食べ物の写真で自分をなぐさめようとしたけど、ホルダーに入れてるSF小説の文庫の表紙の絵で十分なぐさめられる。


二〇一五年十月十一日 「「ぼく」という言葉」


「私は滅びない」とホラティウスは書いた。「私は滅びる」と、ぼくなら書くだろう。「私という言葉は滅びない」としても。

「ぼく」という言葉を何回書いても、「ぼく」には到達できない。なぜだろう。「ぼく」はいつまでも、「ぼく」ではないのかもしれない。

「ぼく」という言葉を、「ぼく」自身に投げつけて、「ぼく」と書いていることがある。「ぼく」は、どこからどこまでも、「ぼく」でないものからできているような気がする。

「ぼく」の複数形が「ぼくぼく」なら、こどものときに、しょっちゅう口にしていたような気がする。連続して口にされる「ぼく」は複数形だったのだ。

つねにどこかに出かけて動き回っている「ぼく」と、ずっと動かないで静止している「ぼく」がいる。「ぼく」は運動しつつ静止している。「ぼく」は静止しつつ運動している。

「ぼく」を逆に綴ると、「くぼ」になる。「でこ」と「ぼこ」のようなものかもしれない。いや、「ぼこ」と「でこ」か。


二〇一五年十月十二日 「「ぼく」という言葉でできたレゴ。」


レゴ。「ぼく」という言葉でできたレゴ。いっしょうけんめい、たくさんの「ぼく」と「ぼく」を組み合わせてつくる。

「ぼく」の部屋。「ぼく」の本。「ぼく」の携帯。「ぼく」のカバン。「ぼく」のペン。「ぼく」の。「ぼく」の。「ぼく」の。まるで、「ぼく」のほうが、ものたちに所有されているかのようだ。いや、じっさい、そうなのだろう。

「ぼく」を伸ばして口にすると、「虚空」と聞こえる。

「ぼく」を極端に短く口にすると「虚無」となる。


二〇一五年十月十三日 「翻訳者魂」


いま、学校でも、塾でも、授業の空き時間に、思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』の再校の見直しをしているのだが、ときには、引用した原文を確かめるために、本を開くこともめずらしくないのだが、ナボコフの『青白い炎』からの引用で、気になった箇所があったので、自分が引用したものではなくて、のちに岩波文庫から出たものを持っていたので、棚から出して見たら、訳文が違っていたので、びっくりして、じっさいに自分が過去に読んだ筑摩世界文學大系81『ボルヘス ナボコフ』を、きょう勤め先の学校で借りて調べたら、ぼくが引用した訳文に、ぼくの書き写し間違いはなかった。ぼくが引用した訳文のままにするけれど、翻訳なさった富士川義之さん、きっちりした方なんだろうなって思った。岩波文庫に入ってたほうの訳文は100%の完成度をもっていた訳文だったもの。

さいしょの訳文と、岩波文庫に入ったものの訳文を書き写してみるね。

「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異った人びとは異った類似や似かよった差異を見つけるものなんだよ」
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳、筑摩世界文學大系81『ボルヘス ナボコフ』収録ヴァージョン335ページ)

「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子(ひじかけいす)をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕。「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異なった人びとは異なった類似や似かよった差異をよく見つけるものなんだよ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳、岩波文庫収録ヴァージョン、483ページ)

岩波文庫収録ヴァージョンで、肘掛椅子にルビを入れてるところが欠点であるが、送り仮名と、「よく」という副詞の導入は成功していると思った。ぼくも訳して発表したり出版したあとで、直したいと思っているものがある。機会があれば、ぼくだって直しちゃうだろうな。いい仕事をみたら、ぼくも頑張らなくっちゃって思わせられる。これから塾。がんばるぞ。いつも全力投入してるけど。

いや、やっぱり、新しいほうの訳のほうがいいかな。ルビが気に入らないけれど。ということは100%違うか。ふううむ。


二〇一五年十月十四日 「数学と詩」


きょう、塾で生徒に数学の問題の解き方を教えているときに、詩を思いついた。数分でメモして、そのあまりのうつくしさにびっくりしてしまった。まだ自分の書くものにおどろくことができて、うれしい。そのうち、どこか雑誌からでも依頼がきたら書こう。

あははは。数学はおもしろい。何十年学んでも、学びつづけることができる。自分のなかでだけど、新しい発見があった。とても単純なことだ。こんなにクソ忙しいときに限って、なにか新しいことが目のまえに訪れるのだ。詩も同じだ。とても単純なことに気がつくことができれば、かなりの前進があるのだ。


二〇一五年十月十五日 「皿洗いのバイトが終わって」


いま帰った。日知庵で皿洗いのバイトが終わって、えいちゃんに、焼きそばと、ポテトサラダをいただいて、おなかいっぱいになって、阪急電車に乗って帰ってきた。河原町駅で、ハーフパンツからはみ出した入れ墨を見せてる、かわいらしい男の子がいて、その子も阪急の西院駅で降りた。帰り道、歩きながら

頭のなかで、イエスの『危機』を奏でさせながら、きょうの一日の終わりのほうの会話を思い出していたら、ひらめいたのだった。奇跡はつづいて起こるのだった。昼に数学でひらめいたのだが、帰り道でひらめいたことは、ここに記述しておこうと思う。きょう、お客さんで来られた方と、カウンター越しに、ウルトラマンだとか、ウルトラセブンだとか、仮面ライダーとか、仮面の忍者・赤影とかの話を夢中でしていたら、えいちゃんに、「なんで、そんなに話をすることがあるの?」と訊かれて、すかさず、ぼくは、「言葉があるからやで。」と返事をしたのやけど、帰り道に、違う、違う、違う。違うんだ、と思ったのだった。そのお客さんとは、そこでは、「共通の文化背景がありますから、こんなに話がはずんだのでしょうね。」と、ぼくは言ったのだったが、違うのだ。言葉が言葉としゃべっていたのだ。ぼくたちが語り合っていたというよりも、共通の文化的な背景をなしているものが、ぼくたちの口舌を通じて、互いに語り合っていたのだった。人間の言葉というものを通して、言葉が言葉と語り合っていたのだ。共通の文化的な背景をなしているものが語り合っていたのだ。なんのために? そうだ。なんのために? 言葉がより深く言葉を理解するためである。言葉が言葉を抱きしめ、突き離し、抱擁し、蹴り飛ばすために。言葉はこうして、ときに言葉と語り合うのだった。いや、しじゅう、言葉は言葉と語り合っていたのであった。過去にも、現在にも。そして、未来においてもだ。そうだ。ぼくたちがウルトラQについて語り合っていたのではなかった。ぼくたちがガメラやゴジラについて語り合っていたのではなかった。ウルトラQやガメラやゴジラなんかが、ぼくたちを通じて、ウルトラQについて語り、ガメラやゴジラについて語り合っていたのだ。より深くウルトラQの意味について知るために言葉が言葉と語り合っていたのだった。より深くガメラやゴジラの意味について知るために言葉が言葉と語り合っていたのだった。これはきょう二つ目のひらめきであり、奇跡であり、天啓であった。

あるいは、ただ単に、言葉は言葉と語り合いたいがために、ただそれだけの目的で、人間を利用しているのかもしれない。だとしたら、語り合う言葉は、ぼくたち自身の意味を、ぼくたちの生の在り方そのものについてより深く知るために語り合っていたのではなく、ただ単に言葉それ自体をより深く知るために、互いに語り合っているのだろう。語りあっていたのであろう。人間が神さまについて語り合っているときに、じつは、神が人間の口舌を通して、人間の言葉を通して、神が神自身おのれと語り合っているのだろう。

フランスパンをあさ買いに行ったら、半分に切って切り分けたバケットがなかったので、半分には切ってくれたけれど、それを七つに切ってと言うと、焼き上がり立てで切れませんと言われて、半分に切ってくれたものを持ち帰り、スライスチーズをのっけて食べた。合間合間にカットレタスをつまみながら。えいちゃんに、その話をしたら、焼き上がりたてはやわらかいので切れへんのやで、と言われた。時間がたって冷めたら固くなるやろ、固くなかったら、きれいに切れへんのや。それでも、「どうして?」と訊くと、「やわらかくて、切ったら、もろもろになるやろ。」
「そんなことになるんや、知らんかった。びっくりやな。」と言うと、「その齢になっても、びっくりすることがいっぱいあるんやな。」「そうなんや。毎日、毎日、びっくりすることがあって、しょっしゅうジェットコースターに乗ってるような気がするわ。」と返事した。


二〇一五年十月十六日 「ゲラチェックって、地獄やわ。」


きのう、日知庵で皿洗いのバイトをさせてもらっていただいたお金で、ちょっと(ずいぶん)高い本を買おうと思う。ジュンク堂にあったと思う。はやめに本を手にとりたいから、お風呂に入って、河原町に出よう。詩集の再校のゲラチェックはつらすぎて、涙がにじんでできなくなっているので中断している。

いま日知庵から帰った。行きしなに、ジュンク堂に寄って、本を買った。予定してたのは、ディレイニーの『ドリフトグラス』やったのだけど、表紙に手あかがついていて、本のページに線が入って汚れていたので買わなかった。早川書房の『プリズマティカ』と、サンリオSF文庫の『エンパイアスター』を持ってるし、もともと買う必要もなかったものだったし(本邦初訳の短篇が入ってたけど)。その代わりに、ミエヴィルの『都市と都市』『ジェイクをさがして』と『ペルディード・ストリート・ステーション』上下巻と、トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を買ってきた。そら、未読の本が増えるはずやね。きょうは、これから、思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』の再校のゲラチェックをする。BGMは、ジャズのインスト。ゲラチェックって、地獄やわ。


二〇一五年十月十七日 「クソみたいな詩」


数年前に、久しぶりに、詩人のHさんとお会いしたときに、ヤリタミサコさんのリーディングポエトリーで、「まだクソみたいな詩を書いてるの?」と言われて、これは褒め言葉だなと思って、「書いてますよ。」と返事した。たしかに、ぼくの『詩の日めくり』なんて、まさに、うんこのようなものだものね。ぼくには、高貴な詩も書けない。上等な詩も書けない。愛を賛美するような詩も書けない。現実を直視するような詩も書けない。現実に役に立つような詩も書けない。ただうんこのような詩を書いてるだけだ。見下されてるような視線をしょっちゅう感じるけれど、見下されるような詩だもの、と自負している。

ブレッズ・プラスのランチメニューが変わってた。BLTサンドイッチがなくなっていた。ハムサンドとダージリンティーを頼んだ。600円ちょっと。これから詩集の再校の見直しをする。夕方、ひさしぶりに「きみや」さんに行こうかな。お酒は飲めないけれど、ちょこっと、なんか食べよう。


二〇一五年十月十八日 「みみっちいこと」


きょう、食堂で、400円分の食券で350円分しか食べていないことに帰りに気がついた。あした、言って、通るだろうか。と数時間のあいだに何度も振り返って考えている自分がいる。わずか50円のことなのに、いや、わずか50円のことだからか、とても自分がふがいない。情けない。ああ、いやだ〜。あした1時間目からだから、もうクスリのんだ。未読の本がいっぱいあるのに、塾のバイト代が入ったら本を買おうと思っている。こんなに文学に貢献しているのだが、他人から見たら、ただの無駄遣い。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十月十九日 「嘔吐」


ぼくはサルトルの『嘔吐』が、認識の嘔吐だと思っているのだけれど、ものごとをより深く知ると吐き気がするのは、ぼくだけのことじゃないような気がする。ああ、でも、もっともっと深く認識できたら、それは生きているうちにはできないもののような気がするけれど、喜びになるとも思われる。どだろね。

思い出してる思い出が自分のものではないとわかったときの驚き。

海がずっとつづいているように見えるのは、ずっとつづいているものが海だからだ。

肯定して、すぐにそれを打ち消す。その繰り返しがぼくだと思うのだけれど、あまりに頻繁に繰り返しているために、繰り返していること自体が自覚できない。なんだろう。誤まったアルファベットのキーに指が触れて、瞬時にその文字を消去するようなことを、無意識のうちに行っているようなものだろうか。

呼ばれているから行くのか。行くから呼ばれるのだ。人生をいつくしむ才能だけはあるようだ。「なんか降ってきたで。」雨は平等に降らない。ひとよりよく降る人生もあるのだ。自分の内面を眺め渡すと、なんとせこい狭い庭か。それでも、どこになにがあるかよくわからないのだ。知らない草や虫がいる。


二〇一五年十月二十日 「幸福になる才能」


先日の「50円、損するのいやや事件」から二日たつのだけれど、自分のせこさにあきれると同時に、人生をいつくしむ才能が、ぼくには、ほんとうにあるのだなと思った。むかし、いまと違う塾で働いていたとき、葵書房で配られていた和田べんさんの絵で描かれた文豪の付箋を集めていた。「そんなもの集めてうれしいんですか?」と、女性の先生に言われて、びっくりした。ぼくは、無料で配られたかわいらしい絵の鴎外や龍之介や漱石なんかの絵が描かれた付箋を、とても気に入ってて、集めてうれしかったのだ。自分には、ささいなことで幸福になる才能だけはあるのだと、そのときに悟ったのだった。


二〇一五年十月二十一日 「なんか降ってきたで。」


ぼくが生きているときに、ぼくの作品を知っていると言うひとは、たぶん2,3人くらいのものだろう。そして、ぼくが死んだときには、もはやぼくの作品を知っているひとはだれもいなくなってしまっているだろう。そう考えるのは楽しい。忘れる幸福を知っているだけに、忘れられる喜びもひとしおなのだ。

記憶。ぼくが忘れても、記憶がぼくを忘れない。千のぼくは、ひとつのぼくすらも憶えていることができないのだけれど、千の記憶は、すべてのぼくを憶えている。すべてを記憶することが記憶の仕事なのだ。ぼくというのは記憶のための道具でしかない。ペンのためのインクではない。インクのためのペンだ。

自分を書き替えるほど簡単には、詩を書き替えることができない。ぼくはペンのためのインクであるときにも、インクのためのペンであるときにも、詩を書き替えることができなかった。一度書いた詩は、ぼくのすべての人生の軌跡を描いていたのであった。たとえ一篇の詩でも。一行の詩句であるときにも。

ぼくのなかに閉じ込められた多数の詩句。ただ一つの詩句に閉じ込められた多数のぼく。そうだ。ただ一行の詩句のなかに、いかに数多くのぼくが存在していることか。その詩句は、ぼくが書いたものであってもよいが、他人が書いたものであってもよい。いや、むしろ他人が書いたもののほうがよいであろう。

なんか降ってきたで。


二〇一五年十月二十二日 「自分を翻訳する。」


自分を翻訳するのは、むずかしい。ぼくはいつも自分の考えや思ったことを言葉にするとき、ぼくを翻訳して書いているのだけれど、その翻訳が、ことのほかむずかしい。でたらめに打ち込んだキーが画面上にアップされていく。ぼくというのは、かつて何かの翻訳だったのだろう。何かというのも翻訳だけど。


二〇一五年十月二十三日 「平凡な日常の瞬間がおもしろい。」


きょうも日知庵で皿洗いのアルバイトをしてきた。メールで、よかったら顔を見にきてねと知らせた友だちの竹上さんが来てくれて、楽しくおしゃべりした。竹上さんとは、同人誌の dionysos 時代からのお付き合いで、もう15年以上になる。大切なんだな。長い付き合いはありがたいなと思った。

永遠なんて忘れてしまった
ぼくはもう
瞬間しかつかまえられなくなってしまった
平凡なありふれた日常の瞬間を
ぼくはつかまえる
平凡なありふれたぼく自身をつかまえる
子どもだったころは
キラキラしたものにばかり目を奪われてた
いまのぼくは
平凡なありふれた日常の瞬間こそがおもしろい

あご?
笑ってはいけないと思って
笑わなかったけど
あとで
えいちゃんに話して
ふたりで思いっ切り笑った
あご?
子どものときは
ガラガラのおもちゃに目を奪われる赤ん坊のように
キラキラしたものに目を奪われてた
いまは平凡な日常の瞬間がおもしろい

きのうと、おとついの日知庵での経験を書いておく。おもしろいし、貴重な体験だったのだもの。まず、おとつい、10時から10時半のあいだくらいにこられた二人組のお客さんの話。お二人とも40才は越されていたと思う。もしかしたら50歳近かったかもしれない。同年輩の方たちだと思われたのだが、じっさいのところはわからない。おひとりの方はふつう体型で、いかつく、もうお一人の方は色の薄いサングラスをかけてらっしゃってて、かなりいかつく、少し小太りだった。ぼくはカウンターのなかの流しのところで洗い物をしていたのだけど、お二人は、ぼくのまえのカウンター席に坐られてお話をなさっていたのだけど「親分が」とか「懲役」とか「むしょに入ったことがなかったらわからへんやろうけどな。」とか、そういったお言葉を口にされてて、ぼくは、ひゃ〜、業界の方なのかしらと思いながら、グラスを洗っていたら、洗剤を落とすために、くるくるとまわしてグラスの外側を水で注ぎ、そのあと、グラスのなかに水を入れて振ったのだけど、その水がピュッと、そのいかつい方の額に飛んだのだけれど、その方、おしぼりを使って、顔を拭いてらっしゃったところなので、顔を拭いて、上を向かれて、「おい、なんか落ちてきたで。」とおっしゃって、ぼくは、ひえ〜、こわいぃ〜と思いながら、すいませんとあやまったのだけど、それで、その場はなにもなくすんで、そのまま、お二方は、業界内のひとたちの話をなさっていたのだけど、たぶん、天井から水が落ちたのだと思われたのだと思うが、あとで、えいちゃんにその話をすると、「それ、そのひとのやさしさちゃうか。気づいてはっても、そういって安心させるっていう。」と言うので、ああ、そういえば、「なんか、落ちてきたで。」とおっしゃった口調にやさしさが表われていたかも。そして、つぎに、きのうの話。9時くらいに女性がお一人でこられて、ぼくが洗い物をしてるまえに坐られたのだけど、あとで連れ合いの方がいらっしゃると言われて、でも、テーブル席ではなくて、カウンター席を選ばれて、へえっと思っていたのだけど、5分か10分ほどしてお連れの男の方がいらっしゃったのだけど、どちらも30才くらいに見えたのだけど、男前と美人さんのカップルだった。すると、常連客で、ぼくともよく話をするさる会社の偉いさんが来られて、カウンターの反対側の席に坐られたのだけど、マスターが、そのカップルの方に、「この方〇〇会社の偉いさんで、プロのカメラマンでもあって、京都中のカメラマンをアゴで使ってはるんですよ。」って言ったら、すぐさま、そのカップルの女性の方がマスターのほうを振り向いて、「あご?」と口にされたのだけど、ぼくは笑いをこらえるのに努力しなければならなかった。なんにもなかったような顔をして洗い物をつづけた。その女性の方、アゴがちょっと(いや、ずいぶんかな)出てらっしゃったのだ。人間って、自分が気にしている言葉には敏感に反応するんやなあと思った。あとで、えいちゃんに、その話をして、二人で笑ったけど、そのときには、絶対に笑ったらあかんと思った。おもしろかったけど。だって、吉本新喜劇の一場面を見てるみたいだったんだもの。女のひとがすかさず横を向いて、「アゴ?」だよ。アゴが出てる女の人がだよ。人間って、おもしろいな。

きょうジュンク堂で買った本。R・A・ラファティの『第四の館』と同じく、ラファティの『蛇の卵』。それからチャイナ・ミエヴィルの『言語都市』。6500円くらいだった。読むの、いつになるかわからないけれど。

さて、あしたは仕事がハードな日。こんなに仕事をするひとではなかったのだけれど、気がつくと、いっしょうけんめいに仕事をしている。きょう、まえに付き合ってた子が夜に遊びにきてくれた。いっしょにギャオのホラーを見てた。つまらない短篇の連続だった。それでも、☆ふたつついてた。不思議。


二〇一五年十月二十四日 「人生を楽しむ才能」


予備校に勤めていたころ、とても頭のいい女の子が自殺したのだけれど、「食べる時間がもったいない。錠剤だけで生きれるのなら、その方がいい。」と言っていた。郵便局の帰りに、イーオンに寄って、フランスパン買って、セブイレに寄って、チーズとレタスとお茶を買ってきた。食べることは楽しいのに。

生きることが苦痛だと食べることも楽しめないのだね。生きることが苦痛なのは、あたりまえのことなのだけれど、その苦痛である人生のなかに、楽しいことやうれしいことを見つけて大事にするのが英知だと思うし、才能だと思う。ぼくは人生を楽しむ才能だけは授かった。


二〇一五年十月二十五日 「奇蹟」


きょうは長時間のキッスで一日が終わったので、幸せやなと思う。道を歩いていたら、声をかけられて、えっと言って振り返ったら、むかし付き合ってた子だったのだ。なにげなく、「部屋、遊びにくる?」と言った後で、「怪獣のフィギュア、集めてるけど、びっくりしんといてな。」と付け足した。怪獣のフィギュアを集める前に付き合ってた子だったのだ。で、なんやかんので、おしゃべりしてて、ふたたび付き合うことになるかも、というところで、きょうは終わったー。どうなるか、わからんけどね〜。人生って、おもしろいなぁ。いっぱい奇蹟がばらまかれている。


二〇一五年十月二十六日 「人間らしい呼吸」


神経科医院がめっちゃラッキーではやく終わったので、きみやさんに行ってたら、まえに付き合ってた子から電話があって、いそいで帰って、それから二人で買い物して、部屋で邦画のホラーをいっしょに見て、いま見送ったところ。毎日のように、まえに付き合った男の子(複数)といっしょに過ごせて、すばらしい(であろう)未読の本が数百冊あって、すばらしい音楽を聴いて、おもしろいDVDを見て、仕事もいっしょうけんめいして、なんちゅう幸せな日々を過ごせているんやろうかと思う。20代のときは、生きているのがきつかった。30代も、40代もきつかった。50代になって、ようやく、人間らしい呼吸を人生のなかですることができるようになったかなって思う。60代になったら、もっと人間らしい呼吸を人生ですることができればいいなって思う。70代まで生きていたら、いまよりもっともっと人間らしい呼吸ができるかな?


二〇一五年十月二十七日 「ダフニスとクロエ」


すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた男の子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。


二〇一五年十月二十八日 「シェイクスピアミントというお菓子」

デンマークに10日間旅行していた竹上さんから、おみやげをいただいた。入れ物に、シェイクスピアの銅版画の顔の絵が入ったミントのお菓子だ。いまいただいてる。おいしい。シェイクスピアは、ぼくの超アイドルなので、めちゃくちゃうれしかった。デンマークでは、お城に行ったり、観光してたらしい。ハムレット、デンマークの王子だったね。


二〇一五年十月二十九日 「過去の思い出に番号を振る。」


きょうの昼は、過去について番号を振ることに意味はあるかどうか考えていた。過去の思い出でも同じかどうかはわからない。たぶん、ぼくのなかでは、そう変わらないのだが、過去について番号を振ることを実行してみると、それらの過去が思い出させる過去があとから出現するような気がして、過去に番号を振っても、過去の番号が変わってしまうものが出てきてしまい、まえに振った番号に意味がなくなると思ったのだけれど、過去にそもそも意味があるのかどうかも考えたのだが、番号のほうが意味があって、過去には意味がない可能性もある。つまり、番号が意味を創出させるということである。とすれば、過去における自我もまた、番号が創出させた自我であるということである。数字が過去において意味を形成し、自我を形成するということである。さて、その数字だが、ふつう番号は自然数である。マイナスの数でもいけないし、ゼロもだめだ。小数のものもだめだし、自然数にならない分数もだめであるし、無理数もだめだ。しかし、もしも、番号に、マイナスのものや、ゼロや、小数のものや、自然数にならない分数や、無理数のものがあって、それらの番号が、過去の意味を創出し、ぼくの自我を形成していると仮定すると、とても思考が拡がるような気がする。順番に振られたそれらの数が、過去の意味を創出し、ぼくの自我を生じさせたと考えると、ぞくぞくする。そこに虚数の順番のものも考えに入れてみる。まあ、虚数には、数の大小がないので、順番がわからないのだけれど。数が、ぼくの自我の個数を数え上げ、ぼくの過去の個数を数え上げるのだ。といったことを考えていたのだが、塾からの帰り道には、過去を数えるということは、数えられるといことであり、数えられるということは、対象とする過去があるということであると思った。過去があるというとき、その数えられる過去というものは、連続性を持っていないはずである。なぜなら、連続して変化しているものは、連続性の、まさにその最中には、数えられるものではないからである。連続的に変化する雲は、いったい、いくつと数えればよいのか。なかには、一つと言う者もいるだろうし、無数だと言うものもいるだろう。数自体が連続しているので、過去の意味も、生じた自我も、個数を数えることができない。数えることができるのは、意味を持たない過去と、晶出することなく霧散失踪してしまった自我だけである。あたりまえのことなのだが、日・時間・分・秒を入れて、雲を画像に収めても、それは、その日・時間・分・秒の雲ではない。また、日・時間・分・秒よりも細かく時間を分割してやっても、無限に分割できるので、現実の雲も画像に収めた雲もじっさいには存在していない。過去に番号を振ると、過去が過去をつぎつぎと思い出してしまい、その番号に意味がなくなるということ。過去に番号を振ると、つぎつぎとぼくが思い出されていくということ。無限分割された過去には、分限分割された数の分だけの過去が生じ、ぼくが生じるということ。時間を無限分割したときの雲が実在の雲でないように、無限分割された数のぼくもまた実在のものではない。つまり、ぼくも、過去も、無限分割され得ないものでなければ存在しない者であるということ。つまり、量子化された存在であるということ。そこには連続性はない。過去においても、ぼくの自我というものにおいても、それ自体には連続性はなく、ただ断続的に顕現するものであるということ。まずそのことを確認しておいてから、『13の過去(仮題)』を書きはじめたいと思う。増大していく数が、ぼくの過去とぼくの数を増大させる。


二〇一五年十月三十日 「種と花と茎と根と実と葉っぱ」


数字の種。
数字の花。
数字の茎。
数字の根。
数字の実。
数字の葉っぱ

疑問符の種。
疑問符の花。
疑問符の茎。
疑問符の根。
疑問符の実。
疑問符の葉っぱ

読点の種。
読点の花。
読点の茎。
読点の根。
読点の実。
読点の葉っぱ

句点の種。
句点の花。
句点の茎。
句点の根。
句点の実。
句点の葉っぱ

カギカッコの種。
カギカッコの花。
カギカッコの茎。
カギカッコの根。
カギカッコの実。
カギカッコの葉っぱ

等号の種。
等号の花。
等号の茎。
等号の根。
等号の実。
等号の葉っぱ

偶然の種。
偶然の花。
偶然の茎。
偶然の根。
偶然の実。
偶然の葉っぱ

都合の種。
都合の花。
都合の茎。
都合の根。
都合の実。
都合の葉っぱ


二〇一五年十月三十一日 「数字と疑問符と読点と句点とカギカッコと統合と偶然と都合」


数字が蒸散する。
疑問符が蒸散する。
読点が蒸散する。
句点が蒸散する。
カギカッコが蒸散する。
等号が蒸散する。
偶然が蒸散する。
都合が蒸散する。

数字が呼吸する。
疑問符が呼吸する。
読点が呼吸する。
句点が呼吸する。
カギカッコが呼吸する。
等号が呼吸する。
偶然が呼吸する。
都合が呼吸する。

数字が屈折する。
疑問符が屈折する。
読点が屈折する。
句点が屈折する。
カギカッコが屈折する。
等号が屈折する。
偶然が屈折する。
都合が屈折する。

数字が生えてくる。
疑問符が生えてくる。
読点が生えてくる。
句点が生えてくる。
カギカッコが生えてくる。
等号が生えてくる。
偶然が生えてくる。
都合が生えてくる。

数字が泳いでいる。
疑問符が泳いでいる。
読点が泳いでいる。
句点が泳いでいる。
カギカッコが泳いでいる。
等号が泳いでいる。
偶然が泳いでいる。
都合が泳いでいる。

数字を反芻する。
疑問符を反芻する。
読点を反芻する。
句点を反芻する。
カギカッコを反芻する。
等号を反芻する。
偶然を反芻する。
都合を反芻する。

数字を活け花のように活ける。
疑問符を活け花のように活ける。
読点を活け花のように活ける。
句点を活け花のように活ける。
カギカッコを活け花のように活ける。
等号を活け花のように活ける。
偶然を活け花のように活ける。
都合を活け花のように活ける。

数字を飲み込んだような顔をする。
疑問符を飲み込んだような顔をする。
読点を飲み込んだような顔をする。
句点 を飲み込んだような顔をする。
カギカッコを飲み込んだような顔をする。
等号を飲み込んだような顔をする。
偶然を飲み込んだような顔をする。
都合を飲み込んだような顔をする。

数字になって考えてみる。
疑問符になって考えてみる。
読点になって考えてみる。
句点になって考えてみる。
カギカッコになって考えてみる。
等号になって考えてみる。
偶然になって考えてみる。
都合になって考えてみる。

数字になって感じてみる。
疑問符になって感じてみる。
読点になって感じてみる。
句点になって感じてみる。
カギカッコになって感じてみる。
等号になって感じてみる。
偶然になって感じてみる。
都合になって感じてみる。

数字を粘土のようにくっつけていく。
疑問符を粘土のようにくっつけていく。
読点を粘土のようにくっつけていく。
句点を粘土のようにくっつけていく。
カギカッコを粘土のようにくっつけていく。
等号を粘土のようにくっつけていく。
偶然を粘土のようにくっつけていく。

数字を引っ張って伸ばす。
疑問符を引っ張って伸ばす。
読点を引っ張って伸ばす。
句点を引っ張って伸ばす。
カギカッコを引っ張って伸ばす。
等号を引っ張って伸ばす。
偶然を引っ張って伸ばす。
都合を引っ張って伸ばす。

数字が隆起する。
疑問符が隆起する。
読点が隆起する。
句点が隆起する。
カギカッコが隆起する。
等号が隆起する。
偶然が隆起する。
都合が隆起する。

数字がブラウン運動をする。
疑問符がブラウン運動をする。
読点がブラウン運動をする。
句点がブラウン運動をする。
カギカッコがブラウン運動をする。
等号がブラウン運動をする。
偶然がブラウン運動をする。
都合がブラウン運動をする。

数字の結晶。
疑問符の結晶。
読点の結晶。
句点の結晶。
カギカッコの結晶。
等号の結晶。
偶然の結晶。
都合の結晶。

甘酸っぱい数字。
甘酸っぱい疑問符。
甘酸っぱい読点。
甘酸っぱい句点。
甘酸っぱいカギカッコ。
甘酸っぱい等号。
甘酸っぱい偶然。
甘酸っぱい都合。

記憶する数字。
記憶する疑問符。
記憶する読点。
記憶する句点。
記憶するカギカッコ。
記憶する等号。
記憶する偶然。
記憶する都合。

数字のレントゲン写真。
疑問符のレントゲン写真。
読点のレントゲン写真。
句点のレントゲン写真。
カギカッコのレントゲン写真。
等号のレントゲン写真。
偶然のレントゲン写真。
都合のレントゲン写真。

ぬるぬるする数字。
ぬるぬるする疑問符。
ぬるぬるする読点。
ぬるぬるする句点。
ぬるぬるするカギカッコ。
ぬるぬるする等号。
ぬるぬるする偶然。
ぬるぬるする都合。

噴出する数字。
噴出する疑問符。
噴出する読点。
噴出する句点。
噴出するカギカッコ。
噴出する等号。
噴出する偶然。
噴出する都合。

移動する数字。
移動する疑問符。
移動する読点。
移動する句点。
移動するカギカッコ。
移動する等号。
移動する偶然。
移動する都合。

跳ねる数字。
跳ねる疑問符。
跳ねる読点。
跳ねる句点。
跳ねるカギカッコ。
跳ねる等号。
跳ねる偶然。
跳ねる都合。

生成消滅する数字。
生成消滅する疑問符。
生成消滅する読点。
生成消滅する句点。
生成消滅するカギカッコ。
生成消滅する等号。
生成消滅する偶然。
生成消滅する都合。


詩の日めくり 二〇一五年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十一月一日 「海に戻る。」


ぼくはまだ体験したことがないのだけれど、おそろしい体験だと思うことがある。自分がどの時間にも存在せず、どの場所にも存在せず、どの出来事とも関わりがないと感じることは。どんなにつらい体験でさえ、ぼくはその時間にいて、その場所にいて、そのつらい出来事と遭遇していたのだから。

詩があるからこそ、季節がめぐり春には花が咲くのだ。詩があるからこそ、恋人たちは出合い、愛し合い、憎み合い、別れるのだ。詩があるからこそ、人間は生まれ、人間は死ぬのだ。詩があるからこそ、事物や事象が生成消滅するように。つまり、詩が季節をつくり、人間をつくり、事物や事象をつくるのだ。

奪うことは与えること。奪われることは与えられること。与えることは奪うこと。与えられることは奪われること。若さを失い、齢をとって、健康を損ない、うつくしさを失い、みっともない見かけとなり、若いときには知ることのなかったことを知り、そのことを詩に書くことができた。

ぼくが天才だと思う詩人とは、遭遇の天才であり、目撃の天才であり、記述の天才である。遭遇と目撃は同時時間的に起こることだが、遭遇と目撃から記述に至るまでは、さまざまな段階がある。さまざまな時間がかかる。ときには、いくつものことが合わさって書かれることもある。何年もかかることもある。

純粋な思考というものは存在しない。つまり、あらゆる思考には、きっかけとなるものがあるのだ。たとえば、偶然に目にした辞書の言葉との遭遇であったり、読んでいた本に描かれた事柄とはまったく違ったことを自分の思い出のなかで思い出したものであったりするのだ。きっかけがなく、思考が開始されることはない。なぜなら、人間の脳は、思考対象が存在しなければ、思考できないようにつくられているからである。したがって、遭遇と目撃と記述の3つの要素についてのみ取り上げたが、解析には、その3つの要素で必要十分なのである。

そうだ。詩が書くので、太陽が輝くことができるのだし、詩が書くので、雨が降ることができるのだし、詩が書くので、川は流れることができるのだし、詩が書くので、ぼくが恋人と出合うことができたのだし、詩が書くので、ぼくは恋人と別れることができたのだ。

そうだ。詩が書くので、ぼくたちは生まれることができるのだし、詩が書くので、ぼくたちは死ぬこともできるのだ。もしも、詩が書くことがなければ、ぼくたちは生まれることもできないし、詩が書かなければ、ぼくたちは死ぬこともできないのだ。

こんなに単純なことがわかるのに、ぼくは54歳にならなければならなかった。あるいは、54歳という年齢が、ぼくにこの単純なことをわからせたのだろか。たぶん、そうだ。単純なことに気がつかなければならなかった。気がつかなければならないのは単純なことだった。

さっき、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、読むのを途中でやめたのだった。自分でもドキドキするようなことを書いていて、自分だからドキドキするのかな。でも、完全に忘れてることいっぱい書いていて、ことしの2月のことなのにね。すごい忘却力。

ディキンスンやペソアのことを、さいきんよく考える。彼女や彼がネット環境にあったら、どうだったかなとも考える。まあ、なんといっても、ぼくの場合は、詩は自分自身のために書いているので、発表できる場所があれば、それでいいかなって感じだけど。詩集も出せてるしね。

目を開かせるものが、目を閉じさせる。こころを開かせるものが、こころを閉じさせる。意味を与えるものが意味を奪う。喜びを与えるものが喜びを奪う。目を閉じさせるものが、目を開かせる。こころを閉じさせるものが、こころを開かせる。意味を奪うものが意味を与える。喜びを奪うものが喜びを与える。

小学校の3年生のときくらいに好きだった友だちのシルエットが、いまだに目に焼き付いて離れない。あしが極端に短くて、胴が長い男の子だった。あのアンバランスさが、ぼくの目には魅力的だったのだ。当時は、うつくしいという言葉を使うことはなかった。逆光で、真っ黒のシルエット。顔は記憶にない。

これからお風呂に入って、レックバリの『人魚姫』を読もう。ペソアの『ポルトガルの海』かなりお気に入りの詩集になりそうだ。いまのところ、はずれの詩がひとつもない。よく考えてつくってある。ペソアは自分自身のことを感じるひとだと思っていたかもしれないが、考えるひとだったと思う。徹底的に。

お風呂から上がった。ペソアの『ポルトガルの海』のつづきを読もう。財布にはもう58円しか残っておらず、ドーナツひとつも買えない。あした銀行に行こう。

詩が、ぼくの目が見るもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの目は、ぼくが見るもののことを見ることができるのだ。詩が、ぼくの耳が聞くもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの耳は、ぼくの耳が聞くもののことを聞くことができるのだ。詩が、ぼくの手が触れるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの手は、ぼくの手が触れるものを触れることができるのだ。詩が、ぼくのこころが感じるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくのこころは、ぼくのこころが感じるものを感じることができるのだ。詩が、ぼくの頭が考えるもののことについて語ってくれるので、よりはっきりと、ぼくの頭は、ぼくの頭が考えるもののことにについて考えることができるのだ。詩が、ぼくに、目を、耳を、手を、こころを、頭を与えてくれたのだ。詩がなければ、ぼくは、目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、こころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、頭を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、見ることができる目を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、聞くことができる耳を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、触れることができる手を持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、感じることができるこころを持たなかっただろう。詩がなければ、ぼくは、考えることができる頭を持たなかっただろう。

ナボコフの『アーダ』の新訳はいつ出るんだろうか。

休みがつづくと、油断してしまうからか、クスリの効きがよくて、お昼も何度か眠ってしまった。つぎの日が仕事だと思うと、あまり眠れないけれど。眠れるクスリがなければ、ぼくなんか、とっくに死んじゃってると思う。まあ、詩がなかったら、精神的に死んじゃってるだろうけれど。詩があってよかった。

ペソアか。はやってるときに、名前は知ってたけど、はやってるって理由で避けてたけど、いいものは避けつづけることはできないみたいね。平凡社から出てる新編『不穏の書、断片』もよかったけど、思潮社の海外詩文庫の『ペソア詩集』も『ポルトガルの海』も、とってもいい。あと1冊、いちばん高かった『不安の書』が本棚にあって、これも楽しみ。『ポルトガルの海』に収録されているもの、いくつも、海外詩文庫の『ペソア詩集』で澤田 直さんの訳で読んでてよかったと思っていたけど、翻訳者が変わって、訳の雰囲気がちょっと違っててもいいものなんだなって思った。『不安の書』の訳者は、高橋都彦さんで、ラテン・アメリカ文学も訳してらっしゃったような気がする。リスペクトールだったかな。透明な訳だった記憶がある。まあ、リスペクトールのモチーフ自体、無機的なものだったけど。言葉が肉化していない、でもいい感じだった。

ぼくの詩が、ぼくに教えてくれるって、変かなぁ。ぼくの詩が、だろうか。ぼくの書いた詩句が、ぼくに、ほらね、その言葉の意味は、この言葉とくっつくと、ぜんぜん違ったものになるんだよとか、こういうふうに響くと、おもしろいだろとか、いろいろ教えてくれるのだ。あ、そうか。いま、わかった。自分の書いたもので学ぶことができるようになったんだ。めっちゃ、簡単なことだったんだ。というか、いままでにも、自分の書いた詩句から学んでいたと思うけれど、いまはっきり、それがわかった。わかって、よかったのかな。いいのかな。いいんだろうね。主に翻訳を通してだけど、世界じゅうのすばらしい詩人や作家たちから学んでいたけど、ぼく自身からも、いや、ぼくじゃないな、ぼくが書いた言葉からも学べるんだから、めっちゃお得なような気がする。これまで、めっちゃお金、本代に費やしたもんね。『ポルトガルの海』に戻ろう。海に戻ろうって、まるでウミガメみたいだな。ウミガメは、しばらくのあいだ、ぼくのこころをそそるモチーフの1つだった。ウミガメ、カエル、コーヒー、ハンカチーフ、バス、花、猿、海。ここに、こんど、思潮社オンデマンドから出る3冊の詩集で、サンドイッチが加わる。

あ、電話を忘れてた。電話を忘れるっていいな。しなきゃいけない電話を忘れるのは、シビアな場面もあるけど、しなきゃいけないような電話じゃない電話を忘れるのは、いいかも。しなくていい電話を忘れる。ここ5、6年。恋人がいなくて、そんな電話のこと、忘れてた。恋人には、電話しなきゃいけないのかな。でも、ぼくは自分から電話をかけたことが一度もなくって。こういうところ、消極的というか、感情がないというか、感情がないんだろうな。相手の気持ちを優先しすぎて、そうしちゃってるんだろうけれど、逆だったかもしれない。

海に戻る。


二〇一五年十一月二日 「あの唇の上で、ほろびたい。」


銀行に行こう。財布に58円しかなくって、朝ご飯も食べていない。きょうも一日、ペソアの詩を読もう。

えっ、えっ、あした休日だったの? 知らなかった。知らなかった。知らなかったー。ペソアの詩集、ゆっくり読めるじゃんかー。カレンダー見ても信じられない。あしたが休日だったなんて。ツイートにあした祝日だと書いてらっしゃる方がいらっしゃったから気づけたけど、もしそのツイート目にしなかったら、明日、学校行ってたわ。もうちょっとで、バカしてた。なんか一日、得したような気分。5連休だったんだ。どこにも出かけず、原稿のゲラチェックと詩集の読みとレックバリ読んだだけ。

言うことなく言う。
伝えることなく伝わる。
することなくする。
見ることなく見る。
合うことなく合う。
聞くことなく聞く。
噛むことなく噛む。

理想が理想にふさわしい理想でないならば、現実が現実にふさわしい現実である必要はない。

きょうは、CDを2枚、amazon で買った。soul II soul の2枚だ。ファーストが42円。5枚目が1円だった。送料が2つとも350円だったけれど。

誰に言うこともなく言う
say half to oneself

誰にともなく言う
ask nobody in particular
say to nobody in particular

誰言うともなく
of itself

The rumour spread of itself.
その風説は誰言うとなく広まった。

ほんのちょこっと違うだけで、ぜんぜん違う意味になってしまうね。日常、自分が使っている言葉も、しゃべっているときに、書いているときに、微細な違いに気がつかないでいることがあるかもしれない。時間はふふたび廻らないのだから、ただ一度きり、注意しなきゃね。

その詩句に、その言葉に意味を与えるのは、辞書に書いてある意味だけではない。また、その言葉がどのような文脈で用いられているのかということだけでもない。読み手がその詩句を目にして、自分の体験と照らし合わせて、その詩句にあると思った意味が、そこにあるのである。

ルーズリーフ作業をしていると、書き写している詩句や文章とは直接的には関係のない事柄について、ふと思うことが出てきたり、考えてしまうようなことになったりして、楽しい。書き写すことは、ときには煩雑な苦しい作業になるけれど、自分の思考力が増したなと思えるときには、やってよかったと思う。

このあいだゲーテのファウストの第一部を読み直したときにメモをしたものをまだルーズリーフに書き写してなくて、そのメモがリュックから出てきたのだけれど、ゲーテすごいなあって思うのは、たいてい、汎神論的なところだったり、理神論的なところだったりしたのだけれど、次の詩句に驚かされた。

あの唇の上で
ほろびたい
(ゲーテ『ファウスト』第一部・グレートヒェンのちいさな部屋、池内 紀訳)


二〇一五年十一月三日 「いまが壊れる!」


悪徳の定義って、よくわからないけど、いまふと、ドーナツを1個買ってこよう。これはきょうの悪徳のひとつだ。と思った。BGMはずっとギターのインスト。高橋都彦さんの訳された『不安の書』のうしろにある解説や訳者の後書きを読んでいた。この解説によると、ペソアもそう無名ではなかったみたい。新聞にも書いていたっていうから、無名ではないな。無名の定義か。なんだろ。生きているあいだにまったく作品が世のなかに出なかったということでいえば、たしか、アメリカの画家がいて、部屋中にファンタジーの物語にでてくる人物たちを描いてた人がいたと思うけど。名前は忘れてしまった。その人が亡くなってはじめて、その絵が発見されたっていう話を、むかし読んだことがある。その人は、描くことだけで、こころが救われていたんだね。なんという充足だろう。きっと無垢な魂をもった人だったんだろね。ぼくはドーナツ買いに行く。

ドーナツを買いに行くまえに、来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり』を読んでいて、驚いた。とても美しい詩句を書いていたのだ。
こんなの。

二〇一五年三月三十一日 「ぼくの道では」

かわいた
泥のついた
ひしゃげた紙くずが
一つの太陽を昇らせ
一つの太陽を沈ませる。

「一つの」を「いくつもの」にした方がいいかな。ドーナツ買ってきてから、ドーナツ食べてから考えよう。

冒頭の「かわいた」は、いらないな。取ろうかな。

いつも買ってるドーナツ、チョコオールドファッションなんだけど300カロリー超えてたのね。いま買った塩キャラメル200カロリーちょっとで、カロリー低いの、びっくりした。見かけは、もっとカロリーありそうなのに。ドーナツ食べたら、お風呂に入って、レックバリの『人魚姫』のつづきを読もう。

なるべくカロリーの低そうなおやつを買いに行こう。とうとう、高橋都彦さんの訳された『不安の書』に突入。高橋都彦さんの訳文は、リスペクトールの翻訳以来かな。

やさしいひとは、手の置き方もやさしい。FBフレンドの写真を見ていて、友だち同士で写ってる写真を何枚か見ていて、友だちの肩のうえに置く手の表情をいくつか見ていて、気がついたのだ。やさしいひとは徹頭徹尾やさしくて、手の指先から足の爪先まで、全身にやさしさが行き渡っているのだと思った。

雨の音がする。ピーター・ディキンスンの『緑色遺伝子』の表紙絵を拡大して、プリントアウトして、ルーズリーフのファイルの表紙にしている。透明のファイルで、自分の好きな絵や写真をカヴァーにできるものなのだ。本とか、文房具とか、美しくなければ、こころが萎える。美が生活の多くを律している。

いま、FBフレンドの画像付きコメントを自動翻訳して笑ってしまった。画像は、ヨーグルトを手に、困った顔つきのドアップ。「今日病欠日下痢、リズは密かに私の食べ物に唾を吐き 80% だか分からない! 道に迷いました! 食べることができない! ハンサムなが惨めです」(Bingによる翻訳)もとの文章を推測してみよう。「きょう、下痢で欠勤した。リズが、密かに、ぼくの食べ物のなかに唾を吐いたのだ。これは、80パーセントの確率で言っている。道に迷い子がいた。食べることができなかった。ハンサムな男の子だったけど、見なりがみすぼらしかった。」あ、80パーセントを入れるのを忘れていた。友だちのリズが下痢で欠勤したのだが、ばい菌だらけの唾を吐きながら道を歩いていると、かわいらしい男の子が迷い子になっていたので、80%食べた。でもリズの食べ方は汚らしくて、食べ残しの残骸が道に散らばっていた。まるで詩のような情景だ。友だちだか恋人かわからないけれど、その子に自分の食べ物のうえに、ばい菌だらけの唾を吐かれて、下痢になってしまって、道を見ると、迷い子の男の子がいて、魅力的だったのだが、食べることができないくらいに汚らしかったというのである。いいね!して、get better soon って、コメントしておいた。FBフレンド、はやく下痢が治まって食欲が戻ればいいな〜。リズくんの唾のばい菌も、はやくなくなってほしい。80%食べられた迷い子の男の子も、そのうち生き返ってくればいいかもね〜。

目が壊れるよりさきに、目が見るものが壊れる。口が壊れるよりさきに、口が食べるものが壊れる。鼻が壊れるよりさきに、鼻が嗅ぐものが壊れる。耳が壊れるよりさきに、耳が聞くものが壊れる。手が触れるよりさきに、手が触れるものが壊れる。頭が壊れるよりさきに、頭のなかに入ってくるものが壊れる。

目に見えるものよりさきに、目が壊れる。口に入ってくるものよりさきに、口が壊れる。鼻に入ってくるものよりさきに、鼻が壊れる。耳に聞こえてくるものよりさきに、耳が壊れる。手が触れるものよりさきに、手が壊れる。頭のなかに入ってくるものよりさきに、頭が壊れる。

壊れるのなら、いま! いまが壊れる。

そろそろクスリのもう。さいきん、クスリの効きがよくない。あと、数十分、起きていよう。5連休、ほとんどペソアの詩集を読んでいた。詩集のゲラチェックをしていた。ギャオで、いくつか映画を見た。これくらいか。きのう、友だちとマンションの玄関で顔を合わせたけど、挨拶しなかった。なぜだろう?

ドイルの『シャーロック・ホームズ』もののパスティーシュを書いてみたい。詩人の探偵と、詩人の探偵助手と、詩人の犯人と、詩人の被害者と、関係者がみんな詩人のミステリーだ。ホームズ作品からの引用による詩論の準備はしてあるので、詩論は、そのうちいつか、いっきょに書き上げたいと思っている。

40年以上もむかし、子どものころに好きな遊びに、ダイヤブロックがあった。いろいろな色の透明のものが美しかった。それらを組み合わせて、いろいろなものをつくるのが好きだった。ときどき新しいダイヤブロックを買い足していた。ぼくの詩のつくり方だと思っていた。ぼくの自我の在り方だったのだ。

あくびが出た。寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月四日 「詩人賞殺人事件」


あさ、お風呂に入りながら、シャーロック・ホームズのパスティーシュ『詩人殺人事件』のことを考えていた。引用をむちゃくちゃたくさん織り込んでつくりたい。犯人と動機は考えた。場所も考えた。殺し方も二つ考えた。無名の詩人の殺人をテーマにした詩篇通りに殺されていくことにしたらいいと思った。実名は、「田中宏輔」のみ。その殺人詩篇の作者として登場させればいいかなと思う。ノイローゼで自殺した詩人として登場させようかなと思っている。まず、殺人詩篇を完成させよう。10人くらい死なせようかな。死なせる詩人の名前がむずかしいな。すでに亡くなった詩人の名前を使えばいいかな。いや、遺族から文句がくるから、有名なミステリーの犯人や探偵の名前を使って変形しようかな。悪路井戸さんとか。ひゃはは。おもしろそう。持ってるミステリーで、犯人や被害者の名前を調べよう。あ、時間だ。これから仕事に行く。『詩の日めくり 二〇一四年六月一日─三十一日』に入っている、指をバラバラに切断して、首を切断する「切断喫茶」を真っ先に思い出した。指を切断して違う指につけて回転させて会話させたり、首をつけかえるの。ぜひ、殺人詩篇に入れたい。というか、入れるつもり。通勤時間に、殺される詩人の数を4人に減らして、ひとりひとりのプロフィールを考えてた。ひとりは東京人で、詩の雑誌の会社の近くに住んで編集者と密に連絡を取り合い、お酒などもいっしょに飲むフランス文学者で、代表作品が、村野四郎の『体操詩集』ならぬ、『ダイソー詩集』で、100円ショップで買った品物についての感慨に、フランス思想家の名前とジャーゴンをちりばめたもので、その東京の詩人の詩集はたいてい、そういうもので、あと、代表的な詩集に、『東京駅』とか、『三越デパート』とかがある。あとの3人のうちの一人は三河出身の詩人で、語尾に、かならず、「だら〜」という言葉をつける。あ、さきの東京人の詩人は、しゃべるときに、かならず、「おフランスでは〜」をつけてしゃべる。あと2人の詩人だが、あとの2人は女性詩人で、ひとりは広島出身の詩人で、語尾にかならず「〜け」をつける。残ったひとりの詩人は、京都の詩人で、語尾に、かならず「〜どすえ」をつける。じっさいの詩の雑誌の編集者には、3人ほどの方と会っているが、その3人の方は、詩に対して真摯な方たちだったと思うが、ぼくが書く予定のものに出てくる編集者は、まったく詩に関心のない編集者たちにしようと思う。あと、殺人現場は、詩の賞が授与される詩の賞の授賞式会場のあるホテルの部屋で、連続殺人が起こることにする。殺され方は、2つまで考えた。ひとつは、けさ書いたように指を関節ごとに切断して首を切断するもの。あとひとつは毒殺なのだけれど、毒が簡単に手に入らないので、食塩を食べさせて殺そうとするのだけれど、まあ、コップに半分くらいの量で致死量になったかなと思うのだけれど、じっさい、むかし、京都の進学高校で、体育競技のさいに、コップに入った食塩を飲ませるものがあって、病院送りになったという記録を、ぼくは毒について書かれた本で読んだことがあって、そこには、ほとんどあらゆるものに致死量があると書かれてあったのだけれど、食塩を毒にしようとして飲ませようとするのだが、詩人が抵抗するので、指を鉛筆削りのようにカッターで肉をそぎ落としていって、食塩を飲み込ませるというもの。これで、2つの殺し方は考えた。あと、2人の殺し方を、きょう、塾から帰ったら考えよう。殺人者は、編集者のひとりである。自殺した無名の詩人「田中宏輔」の弟である。4人の詩人のプロフィールや、各詩人の作品も考えようと思う。連続殺人ができるのは、殺人者が編集者だったからである。殺された詩人たちは、まさか編集者が殺人者だとは思わずに部屋に入れてしまって、殺されてしまったというわけである。殺人を犯す編集者の名字も田中であるが、ありふれた名前だし、母親が違っていて、顔がまったく似ていなかったので、『殺人詩篇』の作者と編集者とを結びつけることができなかったのだということにしておく。一日で考えたにしては、かなり映像が見えてきている。もっとはっきり見えるように、より詳細に詰めていきたい。探偵と探偵助手のことも考えよう。

地下鉄烏丸線:京都駅で乗客がごそっと減るのだが、まんなかあたりに座っていた女性の両隣とその隣があいたのに驚いたような表情を見せた彼女の顔が幽霊の役をする女優のような化粧をしていた。表情も生気のない無表情というものだったが、電車が動き出すと、まるで首が折れかねないくらいの勢いで首を垂れて居眠りしだした。あさに遭遇する光景としたら、平凡なものなのだろうが、ぼくの目にはマンガのようにおもしろかった。地下鉄の最終駅までいたら、まだ観察できるかもしれないと思ったのだが、最終の竹田ではなく、そのまえのくいな橋で降りた。降り方は、べつにふつうだった。駅名がアナウンスされると、目覚めたかのように顔を上げ、目を見開いて窓のそとに目をやり、電車がとまるまで目を見開いたまま、電車がとまるとゾンビが動き出すような感じで腰を上げてドアに向かって歩き出したのである。竹田駅で降りてほしかったな。

『詩人連続殺人』にするか、『詩人賞殺人事件』にするか迷ってるんだけど、まあ、あと、ふたつの詩人の殺し方は、塾への行きしなと、塾からの帰りしなに考えてた。撲殺と溺死がいいと思う。ひとを殴ったこともないので、どう表現すればいいのかわからないけれど、とりあえず殴り殺させる。詩の賞のトロフィーを見たいと言った詩人に、トロフィーを持って行った編集者の犯人が殴りつけるということにしたい。トロフィーに詩人が愛着を持つ理由も考えた。自分自身がその賞を以前に受賞したのだが、以前に家が火事になり焼失したことにする。手で直接殴ると、たぶん、手の骨というか、関節が傷むので、手にタオルを巻いた犯人がトロフィーを、詩人の頭にガツンガツンとあてて殴り殺させようと思う。溺死は、ヴァリエーションがあればいいかなと思って考えたのだけれど、溺死はかなり苦しいらしいので、ひとの死に方を描く練習にもなると思う。どれもみな、経験はないけれど、がんばって書きたい。そだ。指の切断はかなりむずかしそうなので、祖母の見た経験を使おう。祖母から直接に聞いた話ではないけれど、生前に、父親が語ってくれた話で、戦前の話だ。祖母の、といっても、父親がもらい子だったので、ぼくとは血のつながりがないのだけれど、祖母の兄がやくざのようなひとで、じつの妹を(祖母ではない妹ね)中国に売り飛ばしたりしたらしいのだけれど、妹のひとりが間男したらしくって、その間男を風呂場に連れていって、指をアルミ製の石鹸箱にはさませて、踵で、ぎゅっと踏みつけて、指を飛ばした(こう父親が口にしてた)のだという。指がきれいに切断されていたらしい。たしかに、ペンチかなにかで切断しようと思うと、手の指の力でやるしかないけれど、足の踵で踏みつけるんだったら、手の指の力の何倍もありそうだものね。指の切断もむずかしくはなさそうである。きょうは、殴り殺す場面をより詳細に頭に思い描きながら寝るとしよう。被害者の詩人は、女性詩人よりも男性詩人のほうがいいかな。溺死は女性詩人が似合うような気がする。髪の毛が濡れるというのは、なんとも言えない感じがする。そいえば、お岩さんとか、髪の毛、濡れてそうな感じだものね。濡れてないかもしれないけど。撲殺は男性詩人、溺死は女性詩人がいいかな。男女平等に、4人の詩人たちのうち、男女2人ずつである。指と首の切断を、どちらにするか。あと毒殺をどちらにするか。とりあえず、きょうは撲殺のシーンを思い浮かべながら寝よう。ぼくが唯一、知ってるのは、知ってると言っても、文献上だけれど、『ユダヤの黄色い星』というアウシュビッツなどで行われた拷問や虐殺の記録写真集だけれど、死刑囚にユダヤ人たちを殴り殺させたものだ。あ、人身売買だけれど、戦前はふつうにあったことなのかな。父親からの伝聞で確証はないんだけれど、あったのかもしれないね。しかし、貴重な伝聞事項であった。犯人にアルミの石鹸箱を用意させよう。祖母の遺品とすればいいかな。むかし付き合ってたヒロくんといっしょに見た『ヘル・レイザー』がなつかしい。血みどろゲロゲロの映画だった。きょうの朝、きょうの昼、きょうの夜と、頭のなかは、『詩人連続殺人』または『詩人賞殺人事件』のことで、いっぱいだった。あとは、探偵役の詩人と、探偵助手役の詩人の人物造形だな。作品の語りは編集長にさせる予定だ。犯人はその編集長にいちばん近い編集者である。あ、東京人の詩人に知り合いがおらず、東京人の喋り方がわからないので、語尾に、「〜ですますます」をつけることにした。頭に思い描く撲殺シーンに飽きたので、ペソアの『不安の書』のつづきを読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月五日 「濡れた黒い花びら」


2015年10月22日メモから

詩には形式などない。あるいは、こう言った方がよいだろう。詩は形式そのものなのだ。

仕事帰りに、四条のジュンク堂に寄って、チャールズ・シェフィールドの『マッカンドルー航宙記』を買った。店員が本を閉じたまま栞をはさんだので、本のページが傷んでしまった。激怒して注意した。もちろん、本の本体は交換してもらった。本を閉じたまま栞をはさむなんて正気の沙汰ではない。

エズラ・パウンドの『地下鉄の駅で』という詩は、もう何度も読んだことのあるものだった。つぎのような詩だ。

人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし
濡れた黒い枝の花びら
(新倉俊一訳)

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を授業の空き時間に読んでいると、その141ページに、"黒く濡れた枝についた花びら"(エズラ・パウンドの短詩)と割注が付いた詩句が引用されていて、パウンドの詩集を調べて確認した。(自分の詩集ではなく、仕事場で確認するために勤め先の図書館で借りた詩集で)すっかり忘れていた。何度も読んでいた詩なのに。

こんど11月10日に思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかに、ジャック・ウォマックの『ヒーザーン』から「濡れた黒い枝の先の花びらなどなし」(黒丸 尚訳)という言葉を引用しているのだが、この言葉のもとには見た記憶があったのだが、禅の公案か、なにかそういったものだと思っていたのだったが、公案で検索したが探し出せなかったのであるが、そうか、パウンドだったのだと、自分の記憶力のなさに驚かされた次第である。めちゃくちゃ有名な詩なのにね。

ところで、帰りの電車のなかで、「濡れた黒い」と「黒く濡れた」では意味が違うのではないかと思った。木の枝が雨に濡れたかなんかして、水をかぶると、灰色だった枝まで黒く見えることがあるけれど、さいしょから黒い枝もある。濡れて黒いのか、黒くて濡れたのか、どっちなんだろうと思って、帰って部屋で原作の英詩を調べた。

IN A STATION OF THE METRO

The apparition of these faces in the crowd;
Petals on a wet, black bough.

さて、どっちかな?

さて、これから塾。

いま塾から帰った。パウンドのものだ。もとから黒い枝のような気がするけど、濡れるともっと黒くなるよね。どだろ。

ニコニコキングオブコメディを見てる。塾の帰りに今野浩喜くんに似ている青年がバス停にいるのを目にする。しじゅういるけれど、ぼくの塾の行帰りの時間に。かわいい。西大路五条の王将で皿とか洗ってる男の子だ。まえに王将で食べてたら、奥で皿を洗ってた。


二〇一五年十一月六日 「soul II soul」


apprition には、出現のほかに、幽霊、おばけという意味があるので、新倉さんは後者に訳されたんでしょうね。どちらの訳も可能ですから、どちらもありうる訳なんでしょうね。きのう地下鉄で見た女性の表情は幽霊に近かったです。パウンドの目にもそう映ったのでしょうか。言葉が豊富な語彙を持っているので、多様な訳というのがあるのでしょうね。このことは翻訳のさいには逃れられないことであると同時に、文化を豊かにするものでもあると思っています。たくさんのひとの同じ原作の英詩の訳が読んでて楽しい(ときには腹立たしい)理由でもあります。イメージがはっきりしてそうで、じつはそうでないかもという気もしてきました。というのも、パウンドが見た顔が、どんな顔たちだったかはっきりしないからです。こうして、顔のところはわかりませんが、花のところは、原文より日本語訳の方が、ハッとする感じのような気がしますね。

きょうは塾がないので、数日ぶりに、ペソア詩集(高橋都彦訳)を読もう。そのまえに、ニコニコキングオブコメディをもう一回、見よう。

圧力をかけて、人間を重ねて置いておくと、そのうち混じり合う。吉田洋一と高山修治と原西友紀子と川口篤史をぎゅっと重ねて置いておくと、二日ほどすると、吉山口修と山子原史と篤田友紀治と洋西史高になる。四日ほどすると、‥‥‥

16世紀に現われた絶対王政の国王で、最盛期の大英帝国の基礎を築いたのはだれか、つぎの(1)から(4)のなかから選びなさい。
(1)吉田洋一
(2)高山修治
(3)原西友紀子
(4)川口篤史

吉田洋一と高山修治は同じ日に死んだ。飛び降り自殺である。二人は恋人同士だった。心中である。 原西友紀子は吉田洋一の3週間前に死んだ。吉田洋一は川口篤史ともいっしょに死んだ。交通事故である。二人の運転していた車が正面衝突したのだった。なぜ、原西友紀子が一人で死んだのか答えなさい。

食べるママ。お金を入れると食べるママ。しゃべるママ。お金を入れるとしゃべるママ。比べるママ。お金を入れると比べるママ。食べないママ。お金を入れないと食べないママ。しゃべらないママ。お金を入れないとしゃべらないママ。比べないママ。お金を入れないと比べないママ。

ママを食べる。お金を出してママを食べる。ママにしゃべる。お金を出してママにしゃべる。ママを比べる。お金を出してママを比べる。ママを食べれない。お金を出さないとママを食べれない。ママにしゃべれない。お金を出さないとママにしゃべれない。ママを比べられない。お金を出さないとママを

来週、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』を読み直してたのだけれど、ほんとうにくだらないことをいっぱい書いていた。詩はくだらないものでいいと思っているので、これでいいのだけれど、ほんとうにくだらないことばっかり書いてた、笑。生きていることも、ほんとうにくだらないことばっかだ。

soul II soul のアルバムが届いて、そればっか聴いてる。soul II soul も、くだらない音だ。だらしない、しまりのない、くだらない音だ。でも、なんだか、耳にここちよいのだ。瞬間瞬間、いっしょうけんめいに生きてるつもりだけど、くだらないことなんだな、生きてるって。

soul II soul のアルバムを amazon で、もってないもの、ぜんぶ買った。といっても、もってるものと合わせても、ぜんぶで5枚だけど。いまのぼくの身体の状態と精神状態に合うのだろう。身体の節々が痛いし、身体じゅうがだるい。ずっと頭がしびれている。死んだほうがましだわ。

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)がとてもおもしろいのだけれど、主人公が探している女性の姿がなぜ現われたのか、読んでる途中でわからなくなって、数十ページ戻って読み直すことにした。記憶障害かしら。一文字も抜かさずに読んでいるのに、重要なことが思い出せないなんて。

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』150ページまで読み直して、ようやく思い出せた。おもしろい。ペソアは、あと回しにしよう。

月曜日は、えいちゃんと焼肉。あとは、ずっと本が読める。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。エリオット、パウンドの詩句とか、話とか、英語圏の現代詩人の詩句が続出(でもないかな、でも、すごいSF)。ぼくもこんなの書きたいな。

数の連続性の話は微分と絡んでいるのだけど、微分では納得できないことがいくつもあって、もう一度、数の連続性について勉強し直そうと思う。ごまかされている感じが強いのだ。

大谷良太くんちに行ってた。学校の帰りに、大谷くんとミスドでコーヒーとドーナッツ食べて、くっちゃべって、そのまま大谷くんちで、お茶のみながら、くっちゃべって、晩ご飯にカレーうどんをいただいて、くっちゃべってた。

帰りにセブイレでサラダを買ってきたので、食べて寝よう。あしたは、『明日と明日』のつづきを読もう。


二〇一五年十一月七日 「20円割引券」


雨がすごい。むかし雨が降ったら、ああ、恋人が通勤でたいへんだなと思ったものだが、別れたいまでも、たいへんだなと思ってしまう。別れたら、そんな感情はなくなるのがふつうのことみたいに聞くけれど、どうなんだろうか。ぼくのような気持ちの在り方のほうが、ぼくにはふつうのような気がするけど。

ようやく起きた。これからフランスパンを買いに行く。帰ったら、スウェターリッチの『明日と明日』を読もう。一文字も見逃せない作品だ。すごい。

コーヒーとドーナッツを買ってこよう。20円引きのレシート兼割引券を持っていこう。貧乏人には、こういうのが、うれしい。

トマス・スウェターリッチの『明日と明日』(日暮雅通訳)における誤植:280ページ1行目「両目も切り開かれていて、網膜レンズがとたれていた。」 これは、「網膜レンズもとられていた。」の間違いだろう。ハヤカワ文庫の仕事は、岩波文庫と同様に一流の校正係の人間に見せなきゃいけないと思う。

これからスーパーに晩ご飯を買いに行く。終日、soul II soul 聴いてる。

そいえば、きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する予定の新しい『詩の日めくり』も、soul II soul みたいな感じかもしれない。


二〇一五年十一月八日 「明日と明日」


トマス・スウェターリッチの『明日と明日』を読み終わった。すばらしい小説だった。スウェターリッチが参考にしたという、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を、これから読む。買い置きしてる小説がいっぱいあるので、当分、なにも買わないでおきたい。買うだろうけれど、笑。

きょうは、これから、えいちゃんと焼肉屋さんに行く。雨、やんでほしい。

えいちゃんとの焼肉から帰ってきたら、電話があって、M編集長かしらと思ったら、先週、道で声をかけてくれた前に付き合ってた子からだった。で、いっしょに部屋で映画見て、お互い、体重が重いから減らそうねって話をして、いまお帰り召された。きょうの残りの時間は読書しよう。

あしたは夕方から塾だけど、それまでは時間があるから、たっぷり読書できる。しかし、きょう読み終わったトマス・スウェターリッチの『明日と明日』はよかった。帯に書いてあった、ディックっぽいというのは、『暗闇のスキャナー』の雰囲気のことかな。たしかに、読後感は近い感じがする。

スウェターリッチの『明日と明日』が、あまりによかったので、いま、amazon レビューを書いた。あしたくらいには反映されるだろう。

もう反映されてた。
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%8E%E6%9%A5%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%97%A5-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%ABSF-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4150120242/ref=cm_cr-mr-img


二〇一五年十一月九日 「hyukoh」


疲れがたまっているのかもしれない。さっきまで起きれなかった。塾に行くまで、ペソアの『不安の書』を読もう。

hyukoh って、アーティストのアルバムを買おうと思って、amazon ぐぐったら、再入荷の見込みが立たないために、現在扱っていないとのこと。ありゃ、ひさびさに本物のアーティストを見つけたと思ったのだけれど、まあ、こんなものか。欲しいものが手に入らないというのも、どこかすてき。

よい音楽を聴くと、思い出がつぎつぎと思い出されて、詩句になっていく。ぼくの初期の作品も、中期の先駆形も、さいきんの作品もみな、音楽がつくったようなものだ。きょう、チューブを聴きながら、20代のころの記憶がつぎつぎと甦ってきた。ただ、ぼくの記憶を甦らせた音楽は売ってなかったけれど。

詩はとても個人的なものが多いからかもしれないけれど、自分がよいなと思うものが、ほかのひとのよいと思うものと重なることがほとんどない。このあいだ大谷良太くんちで晩ご飯を食べたとき、半日いっしょにいて詩の話をいっぱいしたけれど、二人が同時に好きな詩はひとつもなかった。それでよいのだ。

hyukoh のアルバムは韓国でも生産中止らしい。よい曲がいっぱい入ってるのに、残念だ。憶えておこう。いつかアルバムが再発売されるかもしれないから。欲しい本はすべて手に入れたのだけれど、CDは、hyukoh のように、amazon で探しても見つからないものがある。よいけれど。

これから塾に。そのまえにブックオフに寄ろうかな。

寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月十日 「BEENZINO」


カヴァーをはずして、ペソアの『不安の書』を、床に就きながら読んでいるのだが、メモをとるのに、表紙のうえでメモを寝ながらとっていたために、ペンをすべらせてしまい、表紙のうえに、インクのあとを5,6センチ走らせてしまった。さいわい、表紙が黒だったので、それほど目立たないが。死にたい。ヴォネガットの本に次いで、二度目だ。ぼくくらい本の状態に神経質なひとは、めったにいないだろうに。うかつだった。死にたい。ひたすら、死んでしまいたい。5000円以上した本なのに。まあ、値段の安いものなら、だいじょうぶってわけじゃないのだけれど。

そうか、睡眠薬の効きが関係しているのだろう。電気けして横になる。二度目のおやすみ、グッジョブ!

父の霊が出てきて、目がさめた。最悪。

大声で叫びながら目が覚めた。最悪。隣の住人がどう思っているか。最悪。

人間は事物と同様に外部に自己を所有する。内部と似ても似つかぬ外部を所有することもある。無関係ではないのだ。ただ似たものではない、似ても似つかぬということ。外部から見れば、内部が外部になる。外部とは似ても似つかぬ内部を外部が所有しているのだ。内部は外部を所有し、外部は内部を所有する。しかし、現実にはしばしば、内部は内部と無関係な外部を所有することがある。外部は外部と無関係な内部を所有することがある。所有された無関係な外部や内部が、その内部や外部に甚大な被害をもたらすことがある。ときとして、運命論者は、それを恩寵として捉える。人間も事物も、偶然の関数である。いや偶然が人間や事物の関数であるのか。人間と事物の定義域とはなんだろう。偶然の値域とはなんだろう。あるいは、偶然の定義域とはなんだろう。人間や事物の値域とはなんだろう。そこに時間と場所と出来事がどう関わっているのか。

それはそこに存在するものなのだが、見える者には見え、見えない者には見えないのだ。それはそこに存在するものではないのだが、見えない者には見えず、見える者には見えるのだ。

人間だからといって、魂があるものとは限らない。人間ではないからといって、魂がないものとは限らない。

ぼくというのは、ぼくではないものからできているぼくであって、ぼくであることによって、ぼくではないものであるぼくである。ぼくはつねにぼくであるぼくであると同時に、つねにぼくではないぼくだ。

現実に非現実を混ぜ込む。これは無意識のうちにしょっちゅうしていることだ。ましてや、しじゅう、詩や小説を読んだり、書いたりしているのだ。意識的に現実に非現実を混ぜ込んでいるのだ。日常的に、現実が非現実に侵食されているのだ。あるいは、逆か。日常的に、非現実が現実に侵食されているのか。

きのう、BEENZINO という韓国アーティストのアルバムが2500円ちょっとだったので、11月23日くらいに入荷すると amazon に出てたので、買ったのだが、即行なくなってた。前日までなかったので、一日だけの発売だったのか。いま10000円を超えてて、まあ、なんちゅうごとざましょ。

hyukoh これから毎日、amazon で検索すると思うけど、はやくアルバム出してほしいわ。


二〇一五年十一月十一日 「ぼくを踏む道。ぼくを読む本。」


ぼくを踏む道。ぼくを読む本。

ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていたのか。ぼくがいったい何を考えていたのか。ぼくがいったい何について学んだのか。

人間というものは、それぞれ違ったものに惑い、異なったものに確信をもつ。逆に考えてもよい。違うものがそれぞれ人間を惑わせ、異なるものがそれぞれ人間に確信をもたせる。人間というものが、それぞれ違った詩論を展開するのは、異なる詩論がそれぞれ人間というものを展開していくものだからである。

ぼくよりもぼくについて知っている、ぼくの詩句。ぼくは、ぼくが書いた詩句に教えてもらう。ぼくが書いた詩句が、ぼくに教えてくれる。ぼくがいったいどう感じていなかったのか。ぼくがいったい何を考えていなかったのか。ぼくがいったい何について学ばなかったのか。

きょうは塾がないので、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。だいぶ退屈な感じになってきたが、まあ、さいごまで読もうか。600ページを超えるなか、今、160ページくらい。


二〇一五年十一月十二日 「言葉の生理学」


言葉の生理学というものを考えた。人間の感情に合わせて、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりするのではなく、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりすることによって、人間の感情が生成消滅したり、存続堆積するというもの。組み合わせも、並び替えも、新しく言葉を造り出すのも無数に際限なく行うことができるので、それに合わせて、人間の感情表現も情感描写も無数につくりだすことができるというわけである。年間、100万以上の物質が新たに合成されている。おそらく、人間の感情も、年間、100万以上、つくりだされているのだろう。携帯電話を持つことで、ひとを待つイライラの感情が、以前とはまったく違うものになった。すぐに電話やメールを返されない、返信がすぐに来ないというイライラは、携帯電話を持つ以前にはなかったイライラであろう。

ぼくを消化する、ぼくが食べたもの。ぼくを聞く音楽。

よくひとに見つめられるのだが、ぼくが見つめていると見つめられるので、こう言わなければならない。よくひとに見つめさせると。

毒だと知っているのだけど、きょう口に入れてしまった。興戸駅の自販機でチョコレートを買って食べてしまった。また、帰りにセブイレでタバコを買ってしまい、すぐに禁煙していたことを思い出して、タバコを返してお金にして返してもらった。ものすごい意志薄弱さ。強靭な意志薄弱と言ってよいだろう。

強靭な意志薄弱さか。これはキー・ワードかもしれない。ぼくの詩や詩論の。

soul II soul の5枚を繰り返しかけている。こんな曲展開しているのかとか、こんなメロディーだったのかとか、知らずに聴いていた自分がいたことに気がついた。じっくり聴くと、わからなかったことがわかることがあるのだ、ということである。詩や小説や映画なんかも、そうなんだろうな。

きのう、塾で椅子に腰かけたら、お尻が痛かったので、骨盤が直接あたるくらいに肉が落ちて、ダイエットが成功したのかと思っていたのだが、塾から帰って、ズボンとパンツを下してお尻を見たら、おできができてたのだった。おできの痛みであったのだ。痛いわ〜。きょうも痛い。寝ても痛い。痛った〜い。

ダイエット中だが、ドーナツが食べたいので、セブイレに買いに行く。でも、睡眠薬のんでからにしよう。ああ、歯磨きしちゃったけど。まあ、いいか。も1回、磨けば。クスリがきいて、ちょっとフラフラして、ドーナツ食べるの、おいしい。それで、頭とお尻の痛いのが忘れられるような気がする。

高橋都彦さんが訳されたペソアの『不安の書』を読んでいると、記述の矛盾が気になって、だんだん読むのが苦痛になってきた。全訳だからかもしれない。澤田直さんが訳された、平凡社から出てる『新編 不穏の書、断章』は、よいものだけピックアップしてあったので、たいへんおもしろかったのだが。でも、高い本だったので、もったいないので、さいごまで読むつもりだけど。貧乏なので、つい、そういう気持ちになってしまう。まあ、高い本なのに、買ってからまったく読んでないものもあれば、ナボコフの全短篇集のように、読むのを中断しているものもあるけれど。とりあえず、歯を磨いて、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。論理的に詰めが甘いところが多々ある。記述の矛盾も、文学的効果というより、うっかりミスかなと思われるところも少なくない。全訳読むと、ちょっと、ぼくのなかでのペソアの評価がさがってしまった。


二〇一五年十一月十三日 「ケイちゃん」


あめがしどいなあ。しごとだ。いってきます。

レックバリの『人魚姫』あと少しで読み終わる。不覚にも、涙が出てしまった。レックバリ、そりゃ売れるわと思った。読み捨てるけど。本棚に残して、ひとに見られたら一生の不覚という類の作家。

そうとう飽きてきたけれど、これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。あしたは、バーベQ。

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いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこに、ぼくは、ケイちゃんとぼくを坐らせる。ケイちゃんは23才で、ぼくは21才だった。そこに、夕方の河原町の喧騒をもってくる。たくさんの忙しい足が、ケイちゃんとぼくの目のまえを通り過ぎていく。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。ケイちゃんに訊かせる。「きょう、おれんち、泊まる?」「泊まれない。」ぼくに答えさせる。ふたりの目は通り過ぎていく足を見ている。目はどこにもとまらない。大学生になっても親がうるさくて、外泊がむずかしかった。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。このときのぼくのなかに、この会話のほかの会話の記憶がない。ただただたくさん、足が通り過ぎていったのだった。数十分、ぼくは、ケイちゃんと、ぼくを坐らせたあと、ふたりの姿を、いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこから除く。ふたりの姿のない、たくさんの足が通り過ぎていく風景を、もうしばらく置く。足元をクローズアップしていく。足音が大きくなっていく。プツンッと音がして、画面が変わる。ふたりの姿があったところにタバコの吸い殻が捨てられ、革靴の爪先で火が揉み消される。数時間後の風景を添えてみたのだ。架空のものの。(『13の過去(仮題)』の素材)あちゃー、現実だけをチョイスするんだった。タバコの吸い殻のシーンは除去しよう。読書に戻る。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』 (創元推理文庫)
これは買わなければならない。

記憶とはなんとおもしろいものなのか。無意識の働きとはなんとおもしろいものなのか。ケイちゃんの名字も山田だった。ヤンキーの不良デブのバイの子も山田くんだった。彼が高校3年のときにはじめて出合ってそれから数年後から10年ほどのあいだ付き合ってたのだ。怪獣ブースカみたいなヤンキーデブ。

ケイちゃんの記憶が3つある。ヤンキーデブの山田くんの記憶はたくさんある。ほとんどセックスに関する記憶だ。不良だったが人間らしいところもあった。


二〇一五年十一月十四日 「バーベQ」


きょうは、えいちゃん主催のバーベQだった。炭になかなか火がつかなくって、みんな苦労して火を熾してた。お肉がおいしかった。お酒もちょびっと飲んだ。禁酒してたけど。

セブイレにサラダを買いに行こう。

バーベQから帰ってきたら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のPDFが送られていた。これからプリントアウトしてチェックする。

ゲラチェック、つらすぎ。

ゲラチェックはスムーズに行くようになった。『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻に比べたら、めっちゃ楽。基本、ぼくの詩句だから、間違ってても、どってことない。引用部分だけに気をつけていればいいのだから。あしたじゅうに、ゲラチェック終えられると思う。だいぶ精神的に立ち直った。よかった。

もうそろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

あした、病院に行くの、おぼえておかなきゃ。ついでに、ジュンク堂で、S・ジャクスンの新刊を買おうっと。


二〇一五年十一月十五日 「だまってると、かわいいひと。」


だまってると、かわいいひと。しゃべってると、かわいいひと。だまってても、しゃべってても、かわいいひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいいひと。だまってると、かわいくないひと。しゃべってると、かわいくないひと。だまってても、しゃべってても、かわいくないひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいくないひと。

朝から、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックをし終わって、手直ししたところをワードにコピペした。あと、もう一度、点検したら、送ろう。『全行引用詩・五部作』のことを思ったら、ぜんぜんちょろいものだった。あー、ちかれた。ちょっと球形して、サラダ買いに行こ。

『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェック、2回目完了。これから病院に。帰ってきたら、3回目の再校のゲラチェックして、訂正部分をPDFにして、メール添付して送ろう。

いま帰ってきた。シャーリイ・ジャクスン1冊、ジーン・ウルフ2冊で、6500円ちょっとだったかな。まあ、ぼくの一日の労働に対する給金分くらいである。いつ読むか、わからんけど、買っておいた。ジーン・ウルフのは、棚に平置きされてるのがごっそり数が少なくなってたから、売れているのだろう。

きょうは、晩ご飯を食べよう。これからイーオンに買いに行く。お弁当にするか、フランスパンにするか。

再校の直しを書いたワードを見直しているのだが、何度、見直しても、その見直しに直すべき個所が出てくる。ぼくのテキストが異様なのか、ぼく自身が異様なのか。それとも、これがふつうなのかな。ちょっと球形して、もう一度、見直して、PDFにして送ろう。

ようやく、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックしたものを送付した。全行引用詩は3週間かかったけれど、これは24時間以内にできた。楽チンだった。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出すことにしている。ゲラチェックに時間をとられないように、目を鍛えておこう。

きょうの残りの時間は、きょう買った、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の表紙をじっくり眺めて、解説を読んで眠ろう。本のきれいなカヴァーを見ると、幸せな気分に浸れる。基本的にきれいなものが好きなのだ。音楽も、詩も、絵画も、映画も。そこに奇妙さが加わると、たまらない。


二〇一五年十一月十六日 「ちょっとしたことが、すごく痛かった。」


仕事に。詩集のことがほとんど終わったので、気分が楽。数学と読書に集中できる。

きょうからお風呂場では、20TH-CENTURY POETRY & POETICS をのつづきを読む。きょうは、ロバート・フロストの DEPARTMENTAL。ひさびさにフロストの原詩を読む。

退屈な読み物になってしまっているペソアの『不安の書』だけど、惰性で読みつづけることにした。まだ218ページ。あと、この2倍ほどの分量がある。シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』のなかのエッセイや短篇をつまみ食いしてるけど。ミエヴィルの『都市と都市』は中断してしまっている。

仕事帰りに日知庵に寄って、てんぷらとご飯を食べて、その帰りにジュンク堂に寄って、本棚を見てたら、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を見つけて、びっくりして買った。第3短篇集だけど、昨年に出てるの、知らなかったのだ。ケリー・リンクも、ぼくの文学界でのアイドルである。クスリのんで横になって、ペソアを読む。おやすみ、グッジョブ!

歯磨きチューブを足の指の先に落として、めっちゃ痛くって泣きそうになった。泣かなかったけれど。こんなに痛くなるんだ、歯磨きチューブのくせに。どんな角度で落ちたんだろう。あした、指の爪のところが変色していませんように。寝るまえの出来事としては衝撃的だった。


二〇一五年十一月十七日 「午後には非該当する程度には雨が降るとより良い」


『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の三校が送られてきたので、即行チェック、5分でチェックが終わった。3カ所の直しで、終わり。即行、ワードに直しの箇所を書いて、送付した。この間、わずか30分ほど。念校は秒単位でチェックができると思う。チェックの能力がひじょうに高くなった。

これからセブイレに行って、サラダとドーナッツを買ってこよう。それからお風呂に入って、塾だ。サイボーグゼロゼロワンのように、加速装置でも付いてるかのよう。きょうは仕事が速い。BEENZINO のミニアルバムが届いた。すばらしい音だ。hyukoh のアルバムがほしい。いま一番ほしい。

午後には非該当する程度に雨が降るとより良い気分にされたスパイシーな射撃のためになる近所の増加が非常に安全保障のこれら4つの黒い子供の電子免れた写真は撮影しようとするいくつかの3つが入って失敗の笑顔は笑顔でも撮ると脇もないトイレを検索し、そう、私は真のライブは私の精神はないようだ。

これからお風呂に、それから塾に。お風呂場では、ロバート・フロストの『DESERT PLACES』、『NEITHER OUT FAR NOR IN DEEP』、『DESIGN』を読む。3つとも短詩だけど、どだろ。3つ読めるかな。


二〇一五年十一月十八日 「ペンギンは熟さない。」


ペンギンは熟さない。


二〇一五年十一月十九日 「どうせ痛いんだったら、痛みにも意味を見つけないとね。」


いま帰ってきた。学校の帰りに、大谷良太くんちに寄った。ドーナッツとコーヒーで、ひとときを過ごした。左半身の血流が悪くて、とくに左手が冷たい。父親がリュウマチだったので、その心配もあるが、叔母が筋ジスだったので、その心配もある。まあ、なるようになるしかない。それが人生かなって思う。

西院駅からの帰り道、セブイレで、サラダとおにぎりを買ってきた。これが晩ご飯だけど、お茶といっしょに買ったら、600円くらいした。こんなもんなんだ、ぼくの生活は。と思った。あしたは、イーオンでフランスパンを買おう。そう決心したのだった。きょうは、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。

あさって京都詩人会に持っていく新しい詩というのがなくて、このあいだツイートした『13の過去(仮題)』の素材をつかって書こうかなと思っているのだが、いま、ふと、過去の記憶を素材にしたあの場面の記憶というのが、ぼくを外側から見たぼくの記憶であったことに気がついた。ぼくの内部を、ぼくは見たこともないので、わからないが、そう単純に、ぼくを内部と外部に分けられないとも思うのだけれども、ぼくの記憶の視線が構成する情景は、ぼくが目で見た光景に、ぼくと、ぼくといっしょにいたケイちゃんを、そこに置くというものであったのだった。そう思い返してみると、ぼくの記憶とは、そういうふうに、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたぼくを置く、というものであるのだということに、いま気がついたのであった。ぼくの場合は、だけれども、ぼくの記憶とは、そういうものであるらしい。54年も生きてきて、いま、そんなことに気がつくなんて、自分でも驚くけれども、そう気がつかないで生きつづけていた可能性もあったわけで、記憶の在り方を、振り返る機会が持ててよかったと思う。嗅覚の記憶もあるが、視覚の記憶が圧倒的に多くて、その記憶の在り方について、ごくささいな考察であるが、できてよかった。とはいっても、これはまだ入り口であるようにも思う。自分が見た光景のなかに自分の姿を置くという「映像」がなぜ記憶として残っているのか、あるいは、記憶として再構成されるのか、そして、そもそものところ、自分が見た光景に自分の姿を置くということが、頭のなかではあるが、なぜなされるのか、といったことを考えると、かなり、思考について考えることができるように思われるからだ。ぼくが詩を書く目的のひとつである、「思考とは何か」について、『13の過去(仮題)』は考えさせてくれるだろう。ぼくの記憶は、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたときのぼくの姿を置くということで記憶に残されている、あるいは、再構成されるということがわかった。他者にとってはささいな発見であろうが、ぼくの思考や詩論にとっては、大いに意義のある発見であった。その意義のひとつになると思うのだが、自分の姿というものを見るというのは、現実の視線が捉えた映像ではないはずである。そのときの自分の姿を想像しての自分の姿である。したがって、記憶というものの成り立ちのさいしょから、非現実というか、想像というものが関与していたということである。記憶。それは、そもそものはじめから、想像というものが関与していたものであったということである。偽の記憶がときどき紛れ込むことがあるが、偽の記憶というと、本物の記憶があるという前提でのものであるが、そもそものところ、本物の記憶というもののなかに、非現実の、架空の要素が潜んでいたのだった。というか、それは潜んでいたのではなかったかもしれない。というのも、記憶の少なくない部分が、現実の視覚が捉えた映像によるものではない可能性だってあるのだから。スタンダールの『恋愛論』のなかにある、「記憶の結晶作用」のことが、ふと、頭に思い浮かんだのであるが、自分がそうであった姿を想像して、自分の姿を、自分が見た光景のなかに置くのではなく、自分を、また、いっしょにいた相手を美化して、あるいは、反対に、貶めて記憶している可能性があるのである。というか、自分がそうであった姿を、そのままに見ることなど、はなからできないことなのかもしれない。そのような視線をもつことができる人間がいるとしても、ぼくは、そのような視線をもっていると言える自信がまったくないし、まわりにいる友だちたちを見回しても、そのような能力を有している友人は見当たらない。いくら冷静な人間でも、つねに冷静であるというようなことはあり得ない。まして、自分自身のことを、美化もせず、貶めもせずに、つねに冷静に見ることなど、できるものではないだろう。「偽の記憶」について、こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかのひとつの作品で詳しく書いたけれども、引用で詩論を展開したのだが、そもそものところ、記憶というものは偽物だったのである。記憶というもの自身、偽物だったのである。現実をありのまま留めている記憶などというものは、どこにもないのであった。たとえ、写真が存在して、それを目のまえにしても、それを見る記憶は脳が保存している、あるいは、再構成するものであるのだから、そこには、想像の目がつくる偽の視線が生じるのであった。

そろそろクスリをのんで寝る。身体はボロボロになっていくけれども、まだまだ脳は働いているようだ。より繊細になっているような気がする。より神経質に、と言ったほうがよいかもしれないけれど。おやすみ、グッジョブ!

齢をとって、身体はガタがきて、ボロボロになり、しじゅう、頭や関節や筋肉や皮膚に痛みがあるけれども、この痛みが、ぼくのこころの目を澄ませているのかもしれない。齢をとって、こころがより繊細になったような気がするのだ。より神経質に、かもしれないけれども。

睡眠導入剤と精神安定剤をのんで、ゴミを出しに部屋を出たとき、マンションの玄関の扉を開けたときに、その冷たい玄関の重いドアノブに手をかけて押し開いたときに、ふと、そういう思いが去来したのであった。痛み、痛み、痛み。これは苦痛だけれども、恩寵でもある。


二〇一五年十一月二十日 「足に髭のあるひと。髭に足のあるひと。」


足に髭のあるひと。
髭に足のあるひと。


二〇一五年十一月二十一日 「記憶」


なぜか、こころが無性につらいので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読んで寝る。朝、目覚めずに死んでいたい。

目覚めた。生きている。夢を見たが忘れた。上半身左、とくに肘関節と肩から肘にかけての筋肉の痛みが半端ではない。そうだ。夢のなかで、細くなった自分の足首を見てた。いま足首を見たが、いま見てる足首よりも細かった。なにを意味しているのだろう。あるいは、なにを意味していないのだろうか。

きょうやる予定の数学のお仕事が終わったので、あした京都詩人会の会合に持って行く『13の過去(仮題)』の素材データをつくろう。夕方から、日知庵で皿洗いのバイト。

『13の過去(仮題)』のさいしょの作品になるかもしれないものを、ワードに書き込んだ。14日のツイートと、きのうのツイートを合わせて、手を入れただけのものだが、じつはほかのものを、さいしょのものにしようとしていたのだったが、ぼくの文体では、いつでもさいしょの予定のものを組み込める。

これからお風呂に、それから日知庵に行く。

さっきまで竹上さんと、パフェを食べながらオースティンの話とかしてた。また記憶について話をしていて、ぼくと竹上さんの記憶の仕方について違いがあることを知った。もしかしたら、ひとりひとり記憶の仕方が違うのかもしれない。あした京都詩人会で、大谷くんととよよんさんにも訊いてみようと思う。


二〇一五年十一月二十二日 「理不尽。理不の神。」


きょうは、これから京都詩人会の会合。夜は雨だそうだから、カサを持っていかなくちゃね。行くまえに、どこかで、なんか食べよう。

京都詩人会の会合が終わって、隈本総合飲食店に、とよよんさんと、竹上さんと行って、食事した。12月の京都詩人会の会合はお休みで、つぎは1月の予定。身体がきついので、いろいろ後回しにするけれど、ごめんなさい。元気になれば、動きます。

竹上さんと、大谷くんは、自分の後ろから自分が見た感じの映像の記憶のよう。とよよんさんは、自分が目にした映像の記憶のよう。前方や横からぼく自身を見るぼくの記憶の仕方は、作品化を無意識のうちに行っている可能性がある。大谷くんから、「現実の記憶」ではなく「記憶の現実」という言葉を聞く。

とよよんさんに、かわいらしい栞をいただいた。さっそく、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』に挟む。ペソアの詩集というか論考集というか散文集『不安の書』に挟む。ミエヴィルのSF小説というかミステリー小説『都市と都市』に挟む。コーヒーもいただいた。あした、仕事場で飲む。

きょうは、もうクスリをのんで寝る。楽しい夢を見れるような本を読めばいいのだろうけれど、本棚にあるすべての本が、楽しい夢を見れるような本ではない。クスリをのんだ。効いてくるのは1時間ほどあと。きのう竹上さんに話したことのひとつ。スウェターリッチの『明日と明日』をすすめたのだが、まったく物語を憶えていなかったのだった。ジェイムズ・メリルの詩集をまったく憶えていなかったようにだ。傑作だと思っていたのだが、記憶にないのだった。いま、シャーリイ・ジャクスンの短篇集の読んでいたページを開いても、同じように記憶がないのだった。まえのページを開けて、読むと、ようやく思い出された。ペソアは寝るまえに読んでも、ほとんど記憶できないと思うので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読もう。きのう竹上さんとディックの話もした。ディックが不遇だったことと、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』というタイトルのよさ。同じディックでも、ディック・フランシスの作品のタイトルの味気無さについて。ディケンズ、ジョージ・エリオット、ゾラ、バルザックの作品について話を聞いてた。なつかしいものも知らないものもあった。そうだ。オースティンの『高慢と偏見』の話でも盛り上がったのだが、竹上さんに、P・D・ジェイムズを以前にすすめたのだが、さっそく、『正義』の上下巻を読んでくれたらしい。これまた傑作だと思ってすすめたのだが、聞くと、ぼくが記憶していた物語ではなかった。20代から起こっていたのだが、作品を取り違えたり、融合させてしまったりして、これまた偽の記憶を持ってしまっていたのだった。「そして、だれもがナポレオン」の話を以前に『詩の日めくり』に書いたが、いまだに、だれの言葉だったか、ぼくのだったかわからない。マイクル・スワンウィックの『大潮の道』も、竹上さんに以前にすすめたと思うのだが、きのう、読んでよかったとの感想が聞けてよかった。いま amazon で、いくら? と尋ねると、調べてくれた。1円だった。傑作なのに、1円である。「理不尽。理不の神である。」(キングオブコメディのコント、今野浩喜くんのセリフから引用)

眠気が起こった。PC消して横になる。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月二十三日 「ユルい体型」


起きた。お風呂に入って、学校に。

夕方から塾。塾に行くまえに晩ご飯を食べよう。イーオンに行って、フランスパンを買ってこよう。あと、コンビニで、レタスのサラダとスライスチーズとお茶を。

塾へ。

塾から帰ってきたら、カードの請求書が来てて、今回はたくさんCDを買ったのだけれど、安いものが多かった。4000円を超えてるのは、本だと思うのだが、どの本を買ったのか、すぐにはわからず。ああ、ペソアだな。違うかな。違うか。ペソアは、5000円を超えてたな。なんだろう、記録を見よう。

彩流社のペソア本2冊『ポルトガルの海』と『ペソアと歩くリスボン』が一回の請求になってて4428円だった。まぎらわしい。soul II soul のCDの記録を見ると、3つほど、1円で買ってる。流れのいいアルバムで、イージー・リスニングにいいのにね。ペソア本では、平凡社の『新編・不穏の書・断章』がいちばんよかったと思うのだけれど、思潮社海外文庫の『ペソア詩集』も、いま読んでる、『不安の書』もよいと思う。ただし、もう、「不穏の書(不安の書)』を読むのは、3冊目なので、既視感バリバリなのだけれど。

郵便ボックスには、カードの請求書といっしょに、校了になる雑誌のゲラも届いてたのだけれど、きょうは、もう自分の原稿のチェックをする体力がないので、あしたの朝にすることにして、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』。ようやく300ページ超えた。これで半分ほど。ぼくも600ページほどの詩集をつくりたい。あ、つくってるか。『Forest。』が500ページを超えてた。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出す予定だが、合わせて、1000ページを超えさせるつもり。

ふと、ユル専という言葉を思いついた。ユルい体型が好きな人たちのことだけど、デブ専とポチャ専のあいだくらいかな。デブ専のDVDをちらっと見たら、ほんとすごくて、考えられない体型してるけれど、ポチャ専だと、まだかわいらしい。でも、ユルい体型だということは、精神的にもユルいんだろうな。

でも、ぼくの知ってるおデブさんはみな繊細。どうして、中身と外見が違っちゃうんだろうな。クスリがちょっと効いてきた。PC切って寝る。二度目のおやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月二十四日 「ぼくの身体の半分は、かっぱえびせんからできている。」


これから仕事に。

amazon で買ったCDが、きょうくらいに届く予定だったのだが、メールで、入荷もできない可能性があると連絡してきた。どういうことだろう? 事情がさっぱりわからない。  BEENZINO のアルバムなのだが。

晩ご飯を買いにコンビニまで行く。サラダとカッパえびせんかな、笑。

どん兵衛とカッパえびせんだった。

塾へ。

塾の帰りに赤飯と穴子の天ぷらを買った。ダイエットは、1週間ちょっと忘れることにした。とよよんさんがリツーイトしていた切手があまりにきれいで、しばし、うっとり。でも、もう手紙など書く習慣がなくなったので、買わないけれど、眺めることは、眺める。おいしそうだなあ。すごい発想だなあ。すばらしい発想の切手を見てると、なぜか、ウルトラQが見たくなったので、DVDを見ることにした。蜘蛛男爵がいちばん好きだけど、1/8計画も好き。両方、見ちゃおうかな。見ながら、食べようっと。

「このときのぼくの気持ちは、どんなものだったのだろう? わからない。」というのが、このあいだ書いた、『13の過去(仮題)』のキーワードだろうか。と、塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった弁当を買って、それぶら下げて歩きながら考えていた。12月から、英語も教えることに。

二〇一五年十一月二十五日 「なんでもない一日」

学校の帰りに、大谷良太くんとミスドでコーヒー飲みながら、くっちゃべってた。ぼくは聞き手に回ることが多いけれど、話を聞きながら、ぼく自身はなんとなく哲学の方向に行くような気がした。まあ、知識がないから素人哲学になっちゃうんだろうけれど。そいえば、詩も素人だけど、ずっと素人だろうな。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読みふけっている。

きょうは、ドーナッツを朝と昼と夜に食べた。ダイエットを忘れてた。あしたから、またダイエットする。どうして忘れてしまうのだろうか。しかし、きょうは、疲れていたし、ここ数週間、体調、まったくダメだったし、ストレスすごかったし、ドーナッツ、ばかばか食べたのだと思う。あしたから自重する。

帰りにセブンイレブンでサラダを買って食べたので、これからかっぱえびせんを買いに行く。きょうは、食べまくって死んでもいいような気がしている。左手が右手よりずっと冷たい。左半分が腐って落ちてしまうかもしれない。半分だけ死ぬってことなのかもしれない。なんでこんなに体温が違うのだろうか。

あした一日中、数学するので、きょうは、もう寝る。12月になったら、英語の勉強もする。勉強して教える。これを過去形にすると、ぼくの人生を要約した言葉になる。「勉強して教えた。」句点を入れて、8文字だ。「どうにか生きた。」でも、8文字だ。「なんとか生きた。」でも、8文字だ。うううん。

FBフレンドの方があげてらっしゃる食べ物の写真がとてもおいしそうで、いいなあと思った。ぼくが食べるものって、10種類もないんじゃないかな。何十年も同じようなものを食べてる。さっきツイートに、トマト鍋なるものをあげてらっしゃる方がいらして、ぼくもやってみようかなって思った。あした。

おとついかな。とよよんさんがツイッターで書いてらっしゃったのだけれど、ぼくの『全行引用詩』の表紙画像の上巻と下巻の時間が逆だった。ビールの入ってる量を比較してわかった。とよよんさん、鋭い。いま表紙画像をあらためて見てわかった。二度目のおやすみ、グッジョブ! PC切って、寝まする。ドボンッ↓

PCつけた。

もう夜はぼくのものじゃなくなった。クスリをのんで眠るようになったからだ。20代、30代のときは、夜中まで起きてた。朝まで起きてたこともよくあった。下鴨や北山に住んでたころだ。ジミーちゃんと夜中までうろうろしてた。いつか、自販機を蹴り倒そうとしている少年に出合ったことがある。真夜中だ。だれも警察に通報しなかった。なぜだか知らないけれど。府立資料館のまえの道を歩きながら、その少年が自販機を蹴りまくっていたことを憶えている。ぼくたちは、ぼくとジミーちゃんは、居酒屋からの帰り道、ヨッパの状態で、それを見てた。不思議だった。月明かりのしたで、ぼくと、ジミーちゃんと、その少年しか道にいなくて、その少年が自販機を蹴りまくる音が道路に響き渡っていたのだった。バンバンという大きな音がしているのに、だれも外に出てこず、警察にも通報せず、という状態だった。ぼくと、ジミーちゃんは、そのあと、たぶん、ぼくの部屋で、飲みのつづきだったと思う。このエピソードは、『13の過去(仮題)』に入れるほどのものではないかな。そうでもないか。なにしろ、いまでは、もう夜が、ぼくのものではないということの意味のひとつを書いたのだから。


二〇一五年十一月二十六日 「ぼくは画家になりたかった。」


お昼を買いに行く。トマト鍋をつくろうと思ったけれど、フランスパンとチーズとサラダとミルクにしようと思う。『ジェニーの肖像』に出てくる貧しい画家の食事だ。というか、フランス・ロマン派の作家が描く貧しい詩人や画家の食事である。ぼくのあこがれでもある。ぼくはいちばん画家になりたかった。ジャック・フィニイはフランスの作家ではないけれど。そいえば、O・ヘンリーの作品に出てくる貧しい建築設計家の食事も(と、パン屋の女性経営者は思っていたが)古くなって半額になった固いフランスパンだった。貧しさを楽しんでる部分も会って、自分がわからない。10年、20年、同じ服を着て、無精ひげで、さえない顔をして、古本をリュックにいっぱい入れて、公園で本を読んでたり、マクドナルドやミスドでコーヒー飲みながら本を読んでたり、まあ、よく言えば、知的なコジキ、悪く言えば、少し清潔なコジキといったところか。25才で、家を出て、10年ほど、親に会っていなかったのだけれど、久しぶりに再会したとき、継母が、ぼくの姿がコジキみたいになっていると言って泣いた。河原町のど真ん中で泣かれて困ったけれど、そういう継母とぼくの姿を、ドラマのようだなと見てるぼくがいた。

パンを買いにイーオンに行く。きょう、あすは数学のお仕事をしなければならない。頭がはっきりしないけれど。まだはっきり目覚めていないのかもしれない。

バケット半分151円とバナナ5本100円と烏龍茶106円を買ってきた。これを、きょう一日の食事にしたい。

バケット食べてて口のなかを切った。パンを口もとから離して見てみたら、パンに血が付いてた。どうやら歯で口のなかの肉を噛んでしまったらしい。たしかに口のなかの肉に痛みを感じる。神経系がおかしくなっているのかもしれない。はやく死ねばいいのにグズグズしてる。ちょっと球形して、お仕事する。

寝てた。仕事せず。コンビニにサラダを買いに行こう。帰ってサラダを食べて、また寝そう。それくらい、しんどい。しんどいときは、寝てもいいと思う。

イーオンでチゲ定食を食べた。790円。帰りに、セブンイレブンでかっぱえびせんを買った。薄弱な意志力が強固である。仕事まったくせず。ここでも、薄弱な意志力を発揮している。とにかく、しんどいので、寝よう。

きょう、セブンイレブンからの帰り道、住んでるところのすぐ近くで、スポーツやってそうな少年に、「こんにちは!」って声をかけられてびっくりしたけれど、ぼくも、こんにちは、と返事した。知らない男の子だったのだけれど、あいさつされると気分がよい。しつけのいい家の子なのだろうと思う。

きょうは、仕事をいっさいせずに、音楽をずっと聴いてた。Brown Eyed Soul のアルバムを買おうかどうか迷っている。カセット付きのCDなんだけど、カセットなんか再生する装置がないんだけど。

ぼくが21才で、彼も22,3才だったと思うけど、Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(のアルバム)を聴いてて思い出したのだけれど、彼んちに泊まって、つぎの日の朝の喫茶店で、って彼の実家の喫茶店なのだけど、窓の外を見てた光景が思いだされた。それと同時に、滋賀県の青年のことが思い出されたのだけれど、ぼくのことも、あるひとにとっては、何人かの思い出と同時に思い出されてる可能性もあるってことかな。ぼくの知らないだれかといっしょに思い出されてるって。そういうこともあるだろうな。そのだれかて、ぼくとはぜんぜん似てなかったり。ぜんぜんぼくとは違うだれかと、ぼくがいっしょに思い出されてるって思うと、おもしろい。けど、もう54歳にもなると、だれかを愛することってないけれど(少なくとも、ぼくにはもうね)ぼくが愛さなくなると同時に、ぼくも愛されないと考えると、いっしゅ、すがすがしい思いでいられるのは、事実だ。だけど、そう、だけど、だけど、愛した子の顔は、しっかり覚えてて、その子たちも、ぼくの顔は覚えててくれて、この地上ではもう二度と会うことはなくっても、あの世っていうのかな、天国では、「やあ!」とか「ひさしぶりぃ。」とか「元気にしてる?」とかって声はかけ合うような気はする。

今晩、いい夢が見れるかな。見れるような気がする。Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(アルバムかな)を何回も聴いてて、そんな気がしてる。ありがとう、魂、か。ノブユキ、歯磨き、紙飛行機。ありがとう、魂か。もっとたくさん、もうたくさん。

うつくしい曲を聴くと、むかしあったことがつぎつぎと思い出される。大坂の彼の喫茶店は、彼と、彼のお姉さんがやってて、ぼくたちは、窓の外の景色を見ながらコーヒーを飲んでた。朝だった。流れる川と、小さな黒い点々がちらつく川岸。ってことは、朝までいっしょにいたんだ。ここまで思い出した。

名前が思い出せない作曲家の子と付き合ってたことがあって、その子の頬が赤かったことは憶えてる。大坂の子の頬も赤かった。ぼくは若かったから、なんか、その頬の赤い色って、田舎者って感じがして、ちょっとばかにしてた。いまなら、その赤い頬を見て、健康的で、かわいいなって思うんだろうけれど。ああ、小倉●●くんだ。その作曲家の子の名前、4,5年も付き合ったのに、名前を忘れてた。お金持ちで、ぼくが別れたいって言ったとき、いろいろなものをくれるって言ってたけれど、ぼくはなにもいらないと言ったのだった。さいごに会った日、とっておきの服を着てきたのに、ってバカなことを言ってた。ぼくの『陽の埋葬』を読んで、「売れないものを書く意味があるの?」って言ってた。彼の曲は売れてるものもあって、「ひとを幸せにするのが芸術だよ。ひとを幸せにする芸術だけが売れるんだよ。あっちゃんのは、いったいだれを幸せにしてるの?」って言われた。返事もしないで、顔をそむけてたと思う。それももう、10年も、20年もむかしの話だ。彼は音楽的にも成功して、ますますお金持ちになっているらしい。どうでもよいことだし、彼の芸術観は、ぼくのものとはまったく違っていたし。もう愛していた記憶もなくなっている。いっしょに食事をした記憶くらいしかない。きょう、居酒屋さんで飲んでて、ひとりのお客さんが、「人生は成功しなくちゃ意味がない。」とおっしゃられて、ぼくは、すかさず、「成功するとかしないとかじゃなくて、そのひとが幸せに感じて生きているかどうかではないのですか」と言った。ぼくより年上の方に言って、少し申し訳なく思ったけれど。

朝、目が覚める。ノブユキは、朝、目が覚めなかったらって考えたら怖いって言ってた。ぼくが28才で、ノブユキは20才だった。ぼくは何度も自殺未遂してたくらいに、中学生のときから自殺して死にたいって思ってたひとだから、朝、目が覚めないことほど幸せなことはないと思ってた。それも、もう昔。

自殺しないですんでいるのは、世界には、まだぼくの知らないうつくしい音楽や詩や小説があるからだと思う。ぼくのまだ知らない音楽や詩や小説がなければ、ぼくが生きている意味がない。

そろそろ、クスリのんで寝る。クスリが効くのが1時間後くらいだから、ちょっと遅いかな。はやく効きますように。


二〇一五年十一月二十七日 「ユキ」


すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。


二〇一五年十一月二十八日 「コンピューター文芸学」


コンピューター文芸学については、ほとんど知らないのだが、はやりはじめのころ、もう4分の1世紀以上もむかしのことだが、ドイツ文学者の河野 収さんに、いくつか論文の別刷をいただいて読んだくらいなのだが、さいしょは、聖書にどれどれの文字が何回出てくるかとかいったことに使っていたようだ。やがて、詩や小説のなかに出てくるキーワードの出現頻度を調べたりして、文体研究に使ったり、作者の同定に使ったりするようになったのだろうけれど、シロートのぼくが言うのもおこがましいだろうけれど、たとえば、「目」という言葉でも、文脈によって意味が変わる。たとえば、さいころのようなものの「目」であったり、眼球の「目」であったり、こんな目にあったの「目」であったり。ということは、同じ言葉でも意味が異なるので、同じ言葉ではなくなっているのではないかということである。どうなのだろうか。そこらへんのところ。


二〇一五年十一月二十九日 「エイジくん」


日付けのないメモ「スウェットの上下、ジャージじゃなく」 たぶん、これは、京大のエイジくんのことだと思う。紫色のゴアテックスの上等そうなスウェットを着てたんだけど、ぼくはスウェットという言葉を知らなくて、だれかに聞いたんだと思う。ペラペラの白い紙の端切れに書いてあった。捨てよう。


二〇一五年十一月三十日 「バカ2人組」


きょうは、晩ご飯を食べた。昼に、数か月ぶりに天下一品に行って、チャーハンセットを頼んだのだが、あとから来た2人組の肉体労働者風の男のまえに先に店員がチャーハンを置いたのだった。ぼくはラーメンを半分食べたところだった。二人組がにやにやして「返そうか」と言ったが無視して、ぼくのチャーハンになるはずだったチャーハンを男が食べるのを視界に入れないようにしていた。すぐにぼくのほうのものがつくられて出てきたので、ラーメン残り3分の1をおいしくチャーハンと食べれた。肉体労働者風の男たち二人には、ぼくが食べ終わるまでラーメンは来ず、葬式のような雰囲気で、一つのチャーハンを一方の男が食べておった。真昼間のクソ忙しい時間の天下一品でのヒトコマである。いい気味であった。しかし、悪いのは、ぼくのまえに置くべきだったチャーハンを、あとから来て注文した男に先に出した中年女の店員であった。一つのチャーハンしか目のまえに置かれていない葬式のような暗い雰囲気になった、隣のテーブルに坐った肉体労働者風の二人の男たちをあとにして、ぼくは、おいしくラーメンとチャーハンをいただいて、勘定を払って店を出たのであった。どれくらいの時間、ラーメンが二人の目のまえに出されなかったのか、想像していい気持だった。一生、来なければ、おもしろいのに、とかとか思った。神さま、ごめんなさい。たとえ、愚かな男たちが、ぼくのチャーハンが間違えて置かれたことで、ぼくを愚弄しても、ぼくがその男たちの不幸を笑うようなことがあってはいけませんね。神さま、ごめんなさい。反省します。このことを反省して、きょうは寝よう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十一月三十一日 「隣の部屋に住んでるバカ」


ぼくの隣の部屋に越してきたひと、ほとんどずっとテレビつけてるの。バカじゃないかしら。引っ越してきたときに顔を見たけど、それほどバカじゃなさそうだったけど、ぼくが部屋にいるときは、ほとんどずっとテレビの音がしてるの。いったい、どんな脳みそしてるんやろか。むかし、ノブユキに、テレビを見るなんて、バカじゃないのって言ったら、「テレビにも、教養のつくのがあるよ。選択の問題じゃない?」って言われたのだけど、隣の部屋から漏れ聞こえてくる音はバラエティー番組とか、ドラマのとか、そんなのばっかり。こっちは、プログレで対抗してるんだけど。プログレやジャズでね。まあ、12時近くなると、テレビ消してくれるんで、まだましだけど。でも、ぼくがいる時間、ずっといるって、ぼくは非常勤だし、時間がいっぱいあって、部屋にいまくりなんだけど、隣の男もずっといてる。仕事してないのかな。まあ、いいけど。


詩の日めくり 二〇一五年十二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十二月一日 「毛布」


きのうのうちに終えるべき仕事をいま終えて、これからイーオンに毛布を買いに行く。クローゼットに毛布が1枚もないのだ。捨ててしまったらしい。これまた記憶にないのだが、ないのだから衝動的に捨ててしまったのだろうと思う。

あったかそうな毛布を買ってきた。3200円ちょっとかな。こんなものか。お弁当を買ってきたので、これを食べたら、お風呂に入って塾に行く。

きょう買った毛布、めっちゃぬくい。寝るまえの読書は、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを。塾の帰りに、ブックオフに寄った。日本人のSF作家の短篇のアンソロジーが108円なので買おうかどうか、ちょっと迷ったけれど、さいしょの短篇を読んで、買うのをやめた。


二〇一五年十二月二日 「極光星群」

これから西院のブレッズ・プラスでモーニング食べながら、数学の問題を解く。ランチもブレッズ・プラスで食べようと思う。全部解ければいいんだろうけど、半分くらいかな。

仕事、半分終わった。ちょっと球形して、塾に行くまでに、もう半分しよう。できるかな。がんばろう。

少しずつ、やらなければならない仕事をこなしてる。塾に行くまで、あと3時間、どれだけやれるか。塾から帰ったら、お風呂に入ってすぐに床に就くつもり。時間との闘いだ。

これから塾へ。塾へ行くまえに、ラーメンを食べよう。数か月ぶりにラーメンを食べる。

塾の帰りに、きのう文句を言って買わなかった年刊日本SF傑作選『極光星群』を、五条堀川のブックオフで108円で買った。日本のSFを読むのは、20年ぶりくらいかも。あ、数年前に、山田正紀さんの『チョウたちの時間』を読んだか。ぼくも、来年、思潮社オンデマンドから、長篇のSF詩集を出す。『図書館の掟。』というタイトルだけど、それには、『舞姫。』も同時収録する予定。あと、詩論集『理系の詩学』と、『詩の日めくり』と、『カラカラ帝。』 できれば、4冊を同時に刊行したいと思っている。『カラカラ帝。』をのぞく、3冊になるかもしれないけれど。

きょうするべき仕事をすべて終わった。あした、あさってが超ハードなスケジュールなので、お風呂に入って寝る。あしたの朝は、お風呂に入る時間もとれなさそうなので、寝るまえに入っておく。

あるいは、『理系の詩学』をのぞく3冊になるかもしれないけど。『詩の日めくり』は一年ごとに出したい。何百ページになるかわからないけれど。いまはこわいので考えない。来年の3月に原稿を書き直す(翻訳は権利関係の対応に時間がかかるのではずす)ときに考える。


二〇一五年十二月三日 「マイノリティ・リポート」


これから仕事に。夢を見た。悪い夢じゃなかったような気がする。左腕がまだ痛みで不自由だが、かなりましである。あと二日、もってくれればいい。新しく買った毛布が、ほんとにここちよい。行ってきまする。

これから、仕事帰りにコンビニで買ったサラダを食べたら、お風呂に入って、それから塾に行く。きょうと、あした、超ハード・スケジュールだけど、あさってから、ゆっくり読書する時間がもてそうだ。それも、塾の冬期講習までだと思うけど。

きょうからお風呂場では、ディックの『マイノリティ・リポート』を読む。古いカヴァーのほうの本体が傷んでいるので、古いほうのものをお風呂場で読んで捨てることに。お風呂、ゆっくり浸かろう。

あしたもめっちゃ早いから、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月四日 「少年の頃の友達」


完全に目を覚ました。着替えたら、仕事に行く。きょうと、あしたがすめば、ことしは、あとは塾だけだ。きのう、きょうと、かなりのストレスだった。きょうがすめば、あした、あと一日。がんばろう。

結崎 剛さんから、氏の第一歌集『少年の頃の友達』を送っていただいた。とてもかわいらしい、きれいなご本で、氏の短歌にふさわしい、矩形の、はじめて目にする特殊な直方体で、また表紙のデザインもキュートなご本である。きょうから読書と数学ざんまいな日々を送る予定だった。タイミングばつぐん!

ニコニコキングオブコメディ、やってたんだ。きのうは恐ろしくハードなスケジュールだったから知らなかった。これから見る。

ぼく、妊娠したの。えっ。ぼく、妊娠したんだ。さっきまで読んでいた本を見た。本が言ったのか? さっき、テーブルのうえに置いたままだ。変わったところはなかった。ぼく、妊娠したんだよ。またその本から声がした。指の先で、本の真ん中に触れると、かすかに膨れていた。指の腹に鼓動が感じられた。


二〇一五年十二月五日 「ヴェルレーヌ」


ストレスで身体がボロボロだけど、まえに付き合ってた子が、これから部屋に遊びにくると電話が。うれしいし、顔をみたいので、おいでよと言ったが、左腕が動かせないほど痛いのだった。ストレスって怖いね。部屋も片付けてないし、最悪。でも、くるまでに1時間ほどあるから、ちょっと片付けようかな。

晩年のヴェルレーヌの生き方を読んでて、憧れをもってたけれど、才能の話ではなくて、身体がボロボロになっているところまでは自分でも体験していて、ちっとも、よいものではない。ストレスと加齢による身体の痛みが激しすぎて、憧れの「あ」の字にもあたらない感じである。現実とは、そういうものか。

おデブの友だちが帰った。筋肉痛と関節痛でめっちゃつらいぼくに、「リハビリにマッサージさせてあげる。」というので、彼の足や腰をマッサージさせられまくった。「これ、いい曲やろ?」と言って聴かせた曲に、「ふつうかな。」という返事だったので、「ぼくら、感性が違うんやろうなあ。」と言った。

いろんなもの、途中でほっぽって、きょうは、通勤のときに、ディックの短篇集『マイノリティ・リポート』を読んでいた。なんか、これくらいのが、ぼくの頭には、ちょうどいいかな。いまのぼくの頭の状態にはってことだけど。でも、そのうち、ペソア、ミエヴィル、ジーン・ウルフ、ラファティにも戻る。

きょうは、ディック読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月六日 「辛ラーメン」


朝とお昼兼用のご飯を買いに行く。きょう一日の食事にしよう。やっぱフランスパンかな。肩こりを解消する塗り薬でも買おう。死ぬレベルの肩こりだ。

むかし売りとばしたCDの買い直しをした。2枚。ジェネシス。後期のジェネシスは、ときどき捨てたくなる。しかも売り飛ばした記憶がなくなっているし。

簡単に生えるカツラ。簡単に生えたって、カツラじゃねえ、笑。ぼく自身が坊主頭だから、ハゲには偏見がないけれど、おとついラーメン横綱に行ってラーメン食べてたら、かわいらしいおデブの髪の毛がまばらにすけた二十歳すぎくらいの男の子が思いっきり唐辛子をラーメンに入れてた。そら、ハゲるわな。

バケット半分259円とスライスチーズとヨーグルトとレタスサラダだけでは我慢できないので、これからコンビニに夜食を買いに行く。きのうカップヌードル食べたし、辛ラーメンひさしぶりに食べようかな。あったまりたいし。Brown Eyed Soul いい感じ。CD買うかどうか迷っている。

辛ラーメン、売り切れてた。人間って、考えることがいっしょなのかな。寒いし、あったまろうって。かっぱえびせんと、サラダ買ってきた。

ジャズやボサノバを聴きながら、ディックを読んでいる。違和感がない。むかしはプログレやハードロックがメインやったのだが、さいきん、プログレもハードロックも聴いておらん。あした、ひさびさに聴くか。いや、聴かないやろな。どだろ。齢をとってこころと身体がボロボロになること。大切なことだ。

辛ラーメンがどうしても食べたいので、これからスーパーに買いに行く。ひじょうに寒いのだが、かっぱえびせんで、おなかもふくれたのじゃが、辛ラーメンがどうしても食べたくなったのじゃ。買いに行く。

これから辛ラーメンつくって食べる。

笹原玉子さんから、オラクル用の作品が送られてきた。そうだった。うっかり、ぼくもオラクルのこと、忘れてた。きょう、あしたじゅうにアップしよう。

短篇集『マイノリティ・リポート』のさいごに載ってる『追憶売ります』を読み直した。2回のどんでん返し。さいごのシーンになるまで思い出せなかった。笑えるシチュエーションだったが、これが映画になると、あの『トータル・リコール』のようなものになってしまうのだな。さいしょだけが原作通りだ。

シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。


二〇一五年十二月七日 「なんでもない一日」


シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の241ページ3行目に脱字を見つけた。「だった違いない。」→「だったに違いない。」有名な作家の作品に誤字や脱字があるのは、ほんとに腹立たしい。創元推理文庫の編集長は、この『なんでもない一日』を担当した校正係をクビにするべきである。

昼ご飯を食べにイーオンに行こう。

ありゃ〜、GはGスポット、FはFuck、Aはキッスでしょうか。そうなると、ほとんどすべてのアルファベットが、笑。そうでもないかもしれませんが、妄想がどんどん。Jはすぐには思いつきませんね。形はそれっぽいのですが。

お昼に、イーオンでラーメンと小さい焼き飯を食べた。これからセブイレにサラダを買いに行こう。きょうの夜食も、サラダと辛ラーメンだな。食べ終わったら、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読もう。

友だちが遊びにきてくれてたんだけど、クスリの時間だからって言ってクスリのんだら、帰ってった。あと1時間くらい起きてると思う。1時間でできることって、やっぱり読書かな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読みながら寝よう。


二〇一五年十二月八日 「サンドキングズ」


きょうから、お風呂場では、ジョージ・R・R・マーティンの短篇集『サンドキングズ』を読む。古いほうのカヴァーのほうがよいので、新しいカヴァーのヴァージョンを読む。中身はいっしょかなと思って、いま調べたら、新装版の方が文字が大きくて、ページ数で言うと、40〜50ページくらい増えてた。

塾の帰りにブックオフに寄って、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を108円で買った。むかし読んだけど、まったく憶えていなかったのと、お風呂場で読むつぎの本の候補にと思って買った。開けたページ、258ページに栞が挟んであって、「あなた、なにがいやなの?」というセリフがあった。

2週間ほどまえに目をつけていて、ぱら読みして、「あなた、なにがいやなの?」というセリフが引用詩に使えるかなって思って、違うページに挟んであった栞を、そのページに挟み直しておいたのだった。だから、偶然ではないけれど、偶然のように、おもしろかった。それは、自分が2週間まえに、どういった言葉を使おうとして挟んでおいたのかを忘れていたからだし、それよりもっと偶然なのは、だれもその本に挟んであった栞をほかのページに移動させなかったことを思い出させてくれたからであった。ほら、こんなつまらないことにもこころは動かされるって知るのは、楽しいことだし、こんなつまらないことを書きつけて喜ぶことができる自分自身を、なにか、とてもバカな生きもののようにも思えてきて、また、人間というものの、そのはかない存在について考えさせられて、感動すら覚えるのであった。

帰りに、スーパー「マツモト」で買った巻きずし半額140円を食べよう。フィリピン産のバナナも4本で88円だった。「も」は、おかしいな。「は」だ。これから食べて寝よう。ダイエットはしばらく中止しよう。仕事のストレス+ダイエットのストレスで、身体がボロボロになるより食べる方がましだよ。

少なくとも、こういった感慨を催させるのに、2週間という日にちが必要であったのだろうとも思われるし、時間というものに挟み込まれた偶然というか、偶然というものが挟み込んでいる時間というものについても、なにか考えさせられるところがあったのだった。2週間。

メモ代わりに、あしたしなきゃいけないこと書いておこう。genesis の three sides live の代金を郵便局に払いに行かなきゃ。ヤフオクの件。おやすみ。寝るまえは、きょう買った岩波文庫の解説を読んで寝る。それでもまだ起きてたら、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』を読んで寝る。

数日まえに、通勤の帰りの電車のなかで、知らないうちに、人間でも食べてそうな感じのひとが隣に坐っていて、悲鳴をあげそうになった。という嘘を思いついた。ただ、人間でも食べてそうなひとというのは、さっきFB見てて、画像に写ってる、FBフレンドじゃないひとの顔を見て、思いついたのだった。うううん。でも、よく考えたら、ふだんから、人間は人間を食べているような気がする。人間に食べられている人間もよく目にするし、人間を食べている人間もよく目にするもの。ぼくだって、しじゅう食べているような気がするし、しじゅう食べられているような気もする。

あ、解説を読んで寝るんだった。おやすみ、グッジョブ! 歯を磨くのも忘れてた〜。


二〇一五年十二月九日 「オムライスとビビンバ」


きのう、寝るまえに読んだ、シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』の「インディアンはテントで暮らす」をまったく憶えてなかった。そのまえに収録されてた「喫煙室」がとてもおもしろかったので、忘れたのか、寝ぼけてて、忘れてたのだと思うけれど、「喫煙室」から読み直して寝ることにする。

いま起きた。高校の仕事がことしはもうないので、塾だけだから、こんな時間に起きれる。お昼に、大谷良太くんとミスタードーナッツでコーヒー飲みながらくっちゃべる。ぼくはちょこっとルーズリーフ作業をするかな。シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきも読もう。

塾へ。

きのう寝るまえに読んだシャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』所収の「インディアンはテントで暮らす」の内容がさっぱりわからなかった。読み返してもわからないような気がするので、つぎのを読む。読んで意味がわからないものは、ひさしぶり、というか、もしかしたら、はじめてかもしれない。

お昼にオムライスとビビンバを食べたので、晩ご飯はサラダとかっぱえびせんだけにしておこう。お昼からずっとポール・マッカートニーのアルバムを聴いている。天才だけど、芸術家である。天才なのに芸術家でないひととか、芸術家なのに天才でないひととかが多いのに、ひとりポールは、天才で芸術家だ。


二〇一五年十二月十日 「O・ヘンリーのOって?」


シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読み終わった。自伝的なエッセーのようなものがいくつか入っていて、そのこまやかな観察力と、ユーモアには、さすがだわと思わせられた。ほかお気に入りの短篇は2作。どちらもユーモアのあるもの。ぼくはユーモアのあるものが好きなようである。

これからセブイレに行って、サラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きょうの夜の読書は、ペソアの『不安の書』のつづきを。いま、350ページを過ぎたとこらへん。塾の冬期講習に入るまでに読み終わりたい。ナボコフの全短篇集もできたら、冬休み中に読みたいんだけど、それはぜったい無理っぽいな。

記憶が違っていた。ペソアの『不安の書』350ページあたりだと思っていたのだが、444ページだった。

ほとんど同じものと思われるほどにそっくりに似たものが遠く離れたところにあることもあれば、まったく似ていないものがすぐそばにあることもある。目のそばには耳があるが、目と耳とはまったく異なるものである。手の指の爪と足の指の爪は離れているところにあるものだが、よく似ているものである。

つまらない風景なのに、忘れられないものがある。峠の茶屋で、甘酒を飲んでいる恋人たちの風景。冬だったのだろう。ふたりの息が白く煙っていた。井戸水で冷やした白玉を黒蜜で出す老婆の手。井戸水だったのだろうか。湧き出て零れ落ちていく水玉の輝き。このふたつの風景が二十年以上も木魂している。

お風呂につかりながら本を読むのが趣味のひとつになっているのだが、きょうは、マーティンの短篇集『サンドキングズ』のつづきを読もう。きのう読んだ「龍と十字架の道」は、つまらなかった。表紙がすばらしいので旧装版は手放さないが、タイトル作しか記憶にない。そのタイトル作もおぼろげな記憶だ。

1時間近く入ってたのか。『サンドキングズ』収録2作目の「ビターブルーム」を読んだ。SF(サイエンス・ファンタジー)だった。レズビアンものという点では、ジャネット・A・リンの「アラン史略」三部作(4分冊)と趣向が同じ。ただし、リンの作品の方が描写は細かい。きょうのも及第点に届かず。

寝るまえの読書は、あまり神経を使わなくてすみそうな岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上巻を読もう。さいしょの作品は、O・ヘンリーの『平安の衣』 さて、O・ヘンリーのOって、54歳になるまで調べなかったけれど、調べたら、これはペンネームで、Oがなにの略か諸説あるらしい。ふううむ。


二〇一五年十二月十一日 「〈蛆の館〉にてって」


セブイレで朝ご飯にサラダとかっぱえびせんを買ってこよう。きのう、ペソアを55ページ読んでた。きょうもそれくらい、いや、それ以上読みたい。ルーズリーフ作業がすごそうだけど。そしたら、ナボコフの全短篇集のつづきに移れる。ジーン・ウルフやラファティやジャック・ヴァンスも読みたいけれど。

寝るまえにお風呂に入りながら、マーティンの『サンドキングズ』収録3作目の「〈蛆の館〉にて」を読んだ。これまた、SF(サイエンス・ファンタジー)であった。むかし読んだ記憶がよみがえった。ウェルズの『タイムマシン』のモーロック族とエロイ族の話をモロにヒントにした気持ち悪い作品だった。


二〇一五年十二月十二日 「開き癖」


ペソアの『不安の書』のページを開けたまま眠っていたら、開き癖がついてしまっていた。朝は、パスタのスープのはねを表紙につけてしまった。きょうは呪われているのかもしれない。どこにも出かけず、読書していよう。きのうは友だちと会って話をしてた。お父さんが脳卒中で入院なさり、毎日、病院に行って、父親の動かなくなった指をもんでいるということだ。丸く固まってしまうからだという。指を伸ばすようにしてもんでいるらしい。ぼくには父親がもういないけれど、動かなくなった父親の指を毎日もむだろうか。考えさせられた。

これからパスタを食べる。朝はペペロンチーノだった。お昼はナポリタン。

晩ご飯はペペロンチーノ。

サラダとかっぱえびせんも買ってきた。

マーティンの短篇集『サンドキングズ』に入っている4作目以降、まったく読むに耐えないものだったので、さいごに収録されてるタイトル作品を読んで、『サンドキングズ』を読むのは終わりにしよう。読み終わったら、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。

「サンドキングズ」読み終わった。「<蛆の館>にて」と同様、えげつない話だった。「フィーヴァードリーム」上下巻は傑作だった記憶があるのだけど、再読するのがためらわれるくらいに、ジョージ・R・R・マーティンの評価が、ぼくのなかで落ちた。『翼人の掟』を高い値段で買って、まだ読んでない。

これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。生前に発表した作品は少ないのだが、未発表のものの方がよいような気がする。生前に発表したもののうち、2作品をきのう読んだが、レトリカルなだけで、ぼくが学べることはなにもなかった。新プラトン主義が厭世観と結びついたらそうなるのかもしれない。

きょう見た夢は、大きな塾のCMで、見たことのない人物たちが出ていて、塾長だというおじさんが管楽器を吹くシーンで終わったのだが、笛を口から離すとよだれが落ちて、「汚い」とかいう子どもの声が聞こえたのだが、「仕方ないんじゃない?」とかいう別の子どもの声もした。そこで夢から覚めたのだ。夢は、ぼくの潜在意識がつくっているものだが、これは、ぼくになにを教えようとしたのか、わからない。あるいは、ただ、潜在意識は、こんな夢をつくってみただけで、意識領域のぼくには、なにも伝える気はなかったのかもしれないけれど。それでも、夢がなにを意味しているのかは興味深い。ぼくの不安だろうか。不安を投影させることはよくあると思う。仕事の不安。仕事の内容の困難さもある。3学期は幾何を教えるのだが、代数に比べて幾何は教えるのが難しい分野である。万全の準備をしておくつもりだが不安がないわけではない。物語を物語るように、プリントをつくっておこうと思う。論理を物語る。これは、ぼくが、詩で実践してきたことなので、詩を書くつもりで、プリントをつくろう。もしかしたら、ぼくの幾何のプリントが、ぼくの書いたもっともうつくしい詩になったりして、笑。

思考とイマージュ。比較することでしか思考は生まれないのだが、イマージュは比較対象する複数の事物を必要とはしない。なにものかとべつのなにものか、だれかとべつのだれかを比較検討することで思考は開始され進行される。イマージュは、ただそれそのもの自体を対象として想起すればよいだけである。図形だと補助線をいくつか描き入れるだけで容易に解ける問題が、人間が対象だと容易に補助線が書き込めないために解くことができない。あるいは、不要な補助線だらけで、解けなくなってしまっている。その不要な補助線を取り除いていくと、最後には、思考の対象とするその人間自身も消え去ってしまう。

長く使っていると、自分がその道具のように考えていることに気がつかなくなってしまう。言葉も道具である。思考の幅が狭いのは、同じような言葉の組み合わせ方しかしないで思考しているのだ。それを避けるためには、異なる道具を使うこと。あるいは、異なる道具を扱うように、いつもの道具を扱うこと。

あしたは病院。クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十三日 「不安の書」


これから病院に。待ち時間にペソアの『不安の書』を読み終えられるような気がする。

神経科に行って、そのあと、大谷良太くんたちとお鍋をして、おしゃべりしてた。病院では、お昼の2時まで待合室で、ペソアの『不安の書』を読んでいた。さいごまで読み切って、読み終わって、20分くらい、待合室に置いてある写真雑誌を見ていた。きょうから、クスリが一錠、増えた。これで眠れる。

きょうから寝るまえの読書は、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』。前作『マジック・フォー・ビギナーズ』が大傑作だったので、楽しみ。ジーン・ウルフ、ラファティ、ミエヴィル、ジャック・ヴァンスらの未読の本を退けて、ケリー・リンクにしたのだけど、どうかな。おもしろいかな。


二〇一五年十二月十四日 「貧乏詩人」


ようやく起きた。詩集制作代金を支払いに銀行に行ってくる。これでまた文無しになるわけである。貧乏な詩人は貧乏なまま一生を終えるというわけである。まあ、それでいいのだけれど。詩人とか芸術家というものは、生きているうちに、その芸術で報われてはいけないと思う派だから。自分のこころのため以外に。編集部の方に、電話で、詩集代の振込完了のお知らせをして、また、来年も思潮社オンデマンドから3冊の詩集を出させていただこうと思っていますと話した。銀行の帰りに、イーオンに寄って、バケット半分、セブイレで、ミルクとサラダを買ってきた。ギャオで、『ウィルス』を見ながら食べよう。

マクドナルドに寄ってコーヒー飲んだら、塾へ。

塾の帰りに、スーパー「マツモト」で、半額になった塩サバのお弁当を買った。寝るまえの読書は、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』。まださいしょの作品だが、切ない。お墓に行って、一年前に死んだ恋人のお墓を掘って、自分が彼女に捧げた詩篇の束を取り戻そうとした青年の話である。間違った墓をあばいて、違う女性の死体が、「あなた、間違ってるわよ」と言うくだりから、笑えるシチュエーションに移行するのだけれど、まあ、詩を書いて彼女に捧げる男子高校生というのも、いまの日本では考えられないシチュエーションである。寝るまえの読書が楽しみ。楽しみといえば、あさって、塾の忘年会がある。禁酒をやめたので、お酒を飲むけれど、焼酎にしておこう。きのう、お鍋を食べているときに、左手で持った小さなビアグラスを何度か、こかしそうになった。筋肉の状態がかなり悪いみたいだ。

お弁当を食べよう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十五日 「負の光輪」


サラダとかっぱえびせんを買いに、セブイレに。

これから、髪の毛を刈る。それからお風呂に。お風呂場では、日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』を読む。

日本人SF作家の傑作短篇集『極光星群』、けっこうおもしろいので、塾に行くまで読む。

ふと思いついて、検索してみたら、20年以上もむかしに、ぼくがはじめて書いたSF小説『負の光輪』が、ネット上に存在していた。引用癖は、ぼくが詩や小説を書きはじめたときからのものであることがわかる。よろしければ、ごらんください。→http://www.asahi-net.or.jp/~cq2k-ktn/fcv/roko/korin/tasf1.html

soul II soul のアルバムをすべて売っちゃって、また買い戻したけれど、ぼくの詩作と連動しているのかもしれない。それぞれのメロディはしっかりしているのだけれど、ゆるいつくりをしているかのように見せる曲の配列の仕方に共感する。いま、売っちゃったDVDを買い直そうとしている。

レンタル落ちしかなかった。たぶん、ないだろうけれど、自分が売ったブックオフに、あした行ってみよう。

おなかがすいて気が狂いそうなので、セブイレにサラダを買いに行く。こんなにも食欲というものは、ぼくを支配していたのかと、あらためて振り返る。きょう、すでに、サラダ4袋食べてるんだけど。非現実の情報が脳を通過すると満足するように、非現実の食べ物が咽喉を通過すると満足できればいいのに。

ぼくは、食べ物に殺されるような気がする。とりあえず、サラダを買いにコンビニに行こう。


二〇一五年十二月十六日 「中身が入れ替わる」


田中宏輔さんは体操して半袖で走りだし少女とぶつかり事故にあう中身が入れ換わる
https://shindanmaker.com/585407


二〇一五年十二月十七日 「リンゴから木が落ちる。」


『プリティ・モンスターズ』のさいしょの作品「墓違い」は、ケリー・リンクにしては、めずらしく落ちがあった。いま、2つめの「パーフィルの魔法使い」を読んでいるのだが、マジック・リアリズムのパロディのような感じだ。残念なことだが、たくさん本を読んでいると、驚きが少なくなっていくものだ。

場所を替えて読書しよう。マクドナルドでホットコーヒーでも飲みながら、短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。

頭のなかでは、リンゴから木が落ちてもよいのである。そして、理論的には、この表現が誤りではないことが、よく考えてみればわかるのである。

玄関におじいちゃんが落ちていた。身体を丸めて震えていた。ぼくは、おじいちゃんを拾うと、玄関のうえを見上げた。たくさんのおじいちゃんたちが巣のそとに顔を突き出して、ぼくの顔を見下ろしていた。おじいちゃんたちは、よく玄関に巣をつくる。ぼくは手をのばして、おじいちゃんを巣に投げ入れた。

目がふたつあるのは、どうして? 見えるものと見えないものを同時に見るため。耳がふたつあるのは、どうして? 聞こえるものと聞こえないものを同時に聞くため。じゃあ、どうして、口はひとつしかないの? 息を吸うことと、息を吐くことが同時にできないようにだよ。

偶然があるというのはおもしろい。2015年11月22日のメモを見る。日知庵で皿洗いのバイトをしていると、ツイッターに書いていたのだが、それを竹上さんが見て、お客さんとして来てくれたのだった。9時半にあがるから、それから、どっかでパフェでも食べない? と言うと、行きましょう、ということになって、10時前にあがって、ふたりでカラフネ屋に行って、くっちゃべりながらパフェを食べたのだが、パフェの代金を支払うときにレシートを見てびっくりした。税込みで、合わせて、1700円だったのだ。竹上さんが日知庵で支払った金額といっしょだった。

2015年11月24日のメモ。きのう、京都詩人会の合評のとき、ぼくの作品を読んでくれた感想のなかで、大谷くんが「雑踏って簡単に書いてあるけど」と言うので、あらためて考えると、そうだね、簡単に書いてあるね、と思った。大谷くんはつづけて「足が‥‥」と言っていたのだが、ぼくの耳は、もう大谷くんの言葉をちゃんと聞くことができずにいて、ぼくの耳と独立して存在しているかのような、ぼくのこころのなかで、ぼくは、「雑踏」という言葉の意味を考えていた。靴の音と靴の音が行き交っていた。スカートをはいた足とズボンをはいた足が行き交っていた。ぼくとケイちゃんは坐っていたからね。そう、坐ってたからね。足が印象的だったのだ。しかし、これもまた、あとから思い出した情景に付け加えた贋の記憶の可能性がある。混じり合う靴の音も、はっきりと何をしゃべっているのかわからない声たちも、贋の記憶である可能性がある。思い出した映像に付け加えた効果音であるかもしれないのだ。思い出した映像すら、それが頭のなかで想起された時点で、贋の記憶である可能性もあるのだ。現実の映像の記憶がいくらかはあるのだろうけれど。大谷くんに、もしも、この考察のあとで、「雑踏って簡単に書いてあるけれど」と言われたら、どう答えるだろうか。ぼくとケイちゃんは坐っていたのだった。足と足の風景。人間が通り過ぎて行く風景。音。リズム。これくらいにしか表現できない。じっさいの四条河原町の風景といっても、むかしのことだしね。
書くということ。記憶を書くということ。記憶していることを書くのではなく、記憶していると思っていることを書くこと。記憶というものは、想起した時点で、そのときにおけるこころの状態や、それまでに獲得した体験や知識によって、あらたに再構築されるものである。

文字に表現する→2次元化 文字から想起する→3次元化 頭のなかでは、もっと多層的な感じで再構築されているような気がする。書くまえのイマージュと、書いたあとのイマージュとの違いもある。@atsusuketanaka


二〇一五年十二月十八日 「塾の忘年会」


2015年11月24日メモ。その日は、雨が降っていなかったので、地面は濡れていなかったし、道のところどころには、水がたまったりもせずに、雨粒を地面が弾き返すこともなかったし、行き交う足たちはその水たまりを避けることもなかったし、地面に弾き返される雨粒のことを考えることもなかった。

きょうは塾の忘年会。楽しみ。

いま帰ってきた。食べた。飲んだ。しゃべった。楽しかった。寝るまえの読書は、きょうは、なし。クスリのんで寝る。寝られるかな。おやすみ、グッジョブ!

あっ、そいえば、思潮社海外文庫の『ボルヘス詩集』ぜんぜん読んでないや。これ読みながら寝よう。二度目のおやすみ、グッジョブ!


二〇一五年十二月十九日 「エイジくん」


Brown Eyed Soul の、ちょっとふくよかな方、むかし付き合ってた恋人に似ていて、チューブで見て、ますます似てると思ったのだけれど、そうだ。もう、自分には、よいときの思い出しかないのだと思うのだけれど、眠っている時間にまた会えるかもしれないのだから、なんてこと思ってる。ぼくは作品にして、その子との思い出をミニチュアのようにして、手で触れることができる。いろんな角度から眺めることができる。もしも、ぼくが詩人でなかったら? それでも、ぼくはその子との思い出を何か作品にしておくと思う。音楽かもしれない。絵かもしれない。

FBで、シェアした。とってもすてき。夢で逢えたらいいなあ。

ぼくに似ていないから好きなんだろうけれど、似ていない顔はいくらでもある。どうして、その顔でなければならないのか。文房具店で定規を選ぶとき、自分にいちばんしっくりくる定規を選ぶ。そんな感じなのかな。文房具といっしょにしたら、ダメかな。https://www.youtube.com/watch?v=9h9SO39XzQ

その子といっしょだった時間のことは、ほとんどすべて憶えている。その子とのことは、ずいぶん作品にして書いてきた。でも、書いていないこともあった。そのうち、書こうかな。ああ、でも、あのアパートの玄関のドアを押し合いへし合いしたときの、こころのときめきは言葉にはできないような気がする。でも、それでいいのだ。言葉にできないから、ぼくはこころのなかで思い浮かべることができる。ぼくとその子がいっしょにいたときのことを。そのとき、ぼくがどう思ったのか。その子がどう思っていてくれたのかと想像しながら。図書館で偶然に会った。カレーをつくった。9本のSMビデオを見せられた。アパートのしたでいっしょにした雪合戦。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた手袋。玄関の靴箱のうえに置き忘れられた帽子。きみがわざと忘れたふりをして置いていったものたちだよ。ゴアテックスの紫色の上下のジャージ。蟹座だった。B型だった。ほら、いっぱい憶えているよ。おやすみ、グッジョブ!

どんなにうつくしい作品を書いても、きみといたどの瞬間のきらめきにも劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。どんなによい作品を書いても、きみには劣る。それが生なんだと思う。それでいいのだとも思う。というか、それでなければ、ぼくらが人間であるわけはないのだから。


二〇一五年十二月二十日 「違う人生」


これからイーオンのミスタードーナッツに行って、ルーズリーフ作業をしよう。ペソアの『不安の書』の引用と、その引用した言葉に対する感想と批判、その引用文から得たインスピレーションを書き出すのだけれど、読書と同様に、孤独だが、ぼくのしている文学行為でもっとも重要なものだと思っている。

コンビニに、サラダと、かっぱえびせんを買いに行くときに、道路でタクシー待ちをしている青年がとってもカッコよかったのだ。同じ人間でも、カッコよく見える人間と、そうでない人間では、たとえ見かけのことだとわかってはいても、違う人生があるんだろうなあと、ブサイクなぼくは思ったのであった。


二〇一五年十二月二十一日 「月長石」


きょうからお風呂場で読むのは、ウィルキー・コリンズの『月長石』。T・S・エリオットが激賞した推理小説である。どういう意味で激賞したのかは忘れたけれど、数年前に、ブックオフで105円か108円で買ったもの。ものすごく分厚い。750ページ以上もある。びっくり。

コリンズの『月長石』をお風呂につかりながら流し読みした。ひさしぶりに推理小説を読んだ。P・D・ジェイムズのような洗練されたものを読みなれた目からすると、スマートじゃないし、退屈さがおもしろさをはるかに上回っている点で、この作品を、ぼくならだれにもすすめないだろう。

きょうは、これから寝るまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。

なにが時間をつくり、場所をつくり、出来事をつくるのだろう?

子どものときから一生懸命にがんばるというのがみっともないことだと思って斜に構えてきたけど、その自分が意外とものごとに一生懸命だったり、熱中していたりすることを自覚するときほど恥ずかしい瞬間はない。未読の本を少しでも少なくしようとして、いま、一日に1冊、お風呂場で読んで捨てている。

けさ見た夢が象徴的だ。ぼくの現実の部屋ではない部屋にぼくが住んでいて、本棚の隙間に横にして本のうえに本を押し込んでいたのだ。自分の現実の部屋ではないと気がつくと、間もなく目覚めたのだが、その夢が強迫的な感じだったので、きょう、本棚を整理した。

一生懸命と書くとよい意味に思えるけれど、ぼくの場合は病的になるという感じなので、本との闘いは、これからなのだと思う。いまもペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしているけど、これは悪魔祓いなのだ。本を読むことによって、ぼく自身が呼び込んだ悪魔の。

これから、ちょっと距離のあるスーパー「ライフ」に行って、30パーセント引きの弁当でも買ってこよう。きょうは本棚の夢を見ないように、寝るまえの読書はやめよう。クスリをのんで眠くなるまで、ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業をしよう。30パーセント引き弁当、残ってるかな?

自分のなかに見知らぬ他人が存在しているのと同様に、見知らぬ他人のなかに自分も存在している。

ばかであることもできるばかもいれば、ばかであることしかできないばかもいるし、ばかであることも、ばかでないこともできないばかもいる。ぼく自身は、この三様のばかのあいだをあっちに行ったり、こっちに来たりしている。


二〇一五年十二月二十二日 「いつだって視界に自分の鼻の頭が見えてるはずだろ。」


繰り返し何度も何度も同じような事物や事象に欺かれてきたが、いったいなにが、そういった事物や事象に、そのような特性をもたらしたのだろうか。

あと200ピースほどの引用とメモが残っているが、きょうは、これでクスリをのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! あしたから冬期講習だけど、あした、あさっては、夕方からだけだから、まだ余裕。朝とお昼は、ペソアのルーズリーフ作業に専念しようっと。

セブイレでサラダとかっぱえびせんを買ってきた。これが朝食。お昼はまっとうなものを食べよう。

夢を見るときは、いつでも、夢をつくるときでもある。詩と同じだ。その詩が、ぼくのものであっても、ぼくのものではなくっても。

むかし付き合った子といるときや、友だちといるときや、居酒屋さんや焼き鳥屋さんで飲んでいるときや、生徒といるときや同僚の先生方といるときも、ぼくはみんなと同じ永遠や無限のなかにいる。と同時に、みんなと同じ永遠や無限のなかにいるわけではない。それぞれ個々の永遠や無限があって、その個々の永遠や無限の交わりのなかに、ぼくらがいるだけなのである。こう言い換えてもよいだろう。無数の永遠や無限という紐があって、ぼくたちは、それらの結び目にすぎないと。その結び目は、少しでも紐を引っ張ると、たやすくほどけるものでもあると。

溺れる者がわらでもつかむように、詩に溺れた愚かな者は、しばしば詩語にしがみつく。日常使う言葉をつかんでいれば、溺れることなどなかったであろうに。

自分が歩かないときは、道に歩かせればよい。自分で考えないときは、言葉に考えさせればよい。

聴覚や嗅覚でとらえたものもたちまち視覚化される。記憶とは映像の再構成なのだ。

つまずくたびに賢くなるわけではない。愚かなときにだけつまずくものではないからだ。

私小説批判をけさ読んだが、なにを言ってるのかわからない。私という場所のほかに、どこに文学があるというのだろうか。

二十歳のとき、高知の叔父の養子にならないかという話があった。もしもなっていたら、平日は公務員で、土日は田畑を耕していただろう。詩を書くなどということは思いもしなかったろう。詩は暇があるから書けるのである。暇がなければ書けないものでもないが、ぼくの詩は、確実に暇が書いたものなのだ。

以前に詩に書いたことなのだが、つねに自分の鼻の頭が視界に入っているのに、意識しないと見えないのは、なぜなのだろうか。

じっさいにそうしていなかったことにより、もしもそうしていたならという夢想を生じせしめる。じっさいにそうしていたときよりも、おそらくはここちよい夢想によって。なぜなら、それはその夢想を台無しにする要素が入り込む相手の、彼の意志が入り込む余地がないからである。それは相手の、彼の意志がいっさい介在しないからである。ぼくが思い描くとおりの理想の(これが罠だとぼくは知っているのだが)夢想であるのだから。

ぼくはもう詩を書こうとは思わない。ぼくが書くものがすべて詩になるのだから。


二〇一五年十二月二十三日 「別の現実」


ひぃえ〜、ヤクザに頭割られて、それが治ったら、薔薇の束を抱えさせられて殺される夢を見た。なんちゅう夢。家族全員が殺される夢だった。なんで、こんな夢を見たのだろう?

作品論を読んでいて、作品論なのに、存在する作品について具体的に論じないで、存在していない作品について論じているものがある。現実の風景について述べないで、風景というものは、と述べているものを読ませられているかのような気がするものがある。それがおもしろくない作品論ではないこともある。

リンゴが赤いのは、赤いと言われているからだ。赤いともっと言ってやると、リンゴはいっそう赤くなるだろう。この表現に神経をとがらせるひとには、こう言ってやればよい。リンゴにもっと赤いと言ってやると、リンゴはよりいっそう赤く見えると。リンゴが赤いのは、赤いと言われているからである。

別の現実が、ぼくのなかで目を覚ます。眠りとは、夢とは、このことだったのか。


二〇一五年十二月二十四日 「プリティ・モンスターズ」


ペソアの『不安の書』のルーズリーフ作業が終わった。きょうは、詩集を読むか、小説を読むか、どっちにしようか。ボルヘスとカミングズの思潮社の海外詩文庫を買って、まだ読んでなかった。ボルヘスの全短篇集のつづきか、どれかにしよう。

あんまり寒いので、お風呂につかりながら読書することに。お風呂場では、ひさびさにヘッセ全集を読もう。2、3時間はゆっくり湯船につかろう。

きょうは、ケリー・リンクの短篇集『プリティ・モンスターズ』のつづきを読もう。辛ラーメン3袋入り×3と、カレーのレトルト『メガ盛り』辛口4袋、大辛6袋買ってきた。合計2216円。年末・年始の食糧確保だす。

ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を読んでいて、読んだことあるなあ、まえの短篇集のタイトルと同じ「マジック・フォー・ビギナーズ」じゃんって思って、解説を読んだら、そうだった。早川書房、なんちゅう商売してるんだろ。もう1作「妖精のハンドバッグ」も、まえのにも収録されていた。まあ、もう1回読んでもいいくらい、ケリー・リンクの小説は味わい深いし、短篇集の『マジック・フォー・ビギナーズ』が好きで、単行本と文庫本を1冊ずつ買ったくらいだけれど。単行本の表紙がいい味しているのだ。文庫で読んだだけで、単行本は読んでいないのだが。

クスリのんで寝よう。おやすみ。グッジョブ! 寝るまえの読書も、ケリー・リンクで。


二〇一五年十二月二十五日 「そんなことがあるんや。」


これから塾へ。ちょっと早いので、マクドナルドでホットコーヒーを飲もう。それからブックオフに行って、塾へ。

詩集が1冊、出るのが遅れているのだが、記号だけでつくったぼくの作品を amazon のコンピューターがエラー認識してしまい、どうしてもそれを入れて製本することができないということが、きょうわかった。その作品ははずしてもらうことにした。その作品はお蔵入りということになる。笑った。


二〇一五年十二月二十六日 「愛の力」


台湾人のFBフレンドが「My boy in my home (灬ºωº灬)」というコメントをつけて、恋びとと向かい合ってプレゼント交換して、クリスマスの食事をしようとしている画像をアップしていて、見ているぼくまでハッピーな気持ちになる。ぼくにも、そんなときがあったんだって思うと。20代同士のかわいいゲイ・カップルだから、見ていて、ほんわかとしたんだと思うけれど、これが、60代同士のおじいちゃんカップルでも、見ていて、ほんわかすると思う。基本、愛し合ってるひとたちを見るのは、こころがなごむ。それも愛の力のひとつなんだろうね。


二〇一五年十二月二十七日 「15分」


起きた。セブイレでサラダとかっぱえびせんの朝ご飯を買いに行こう。きょうは、朝9時から夜9時半までの冬期講習だ。がんばる。

ご飯を買ってきた。15分も湯煎をしないといけないんやね。カレーのレトルトといっしょに温めている。

辛ラーメンもつくってる。おなかいっぱいにして、冬期講習に臨む。

キングオブコメディ、残念。

やっぱり、ケリー・リンクは天才だ! 短篇集『プリティ・モンスターズ』は大傑作だった。彼女のような作家の作品を読んでしまうと、レベルの低いものは読めなくなってしまう。それでいいのだけれど。本棚の未読の本が怖い。あしたは、さいごに収録されてる作品を読んで、ルーズリーフ作業をしよう。


二〇一五年十二月二十八日 「雨に混じって落ちてくるもの」


夕方までには、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』のルーズリーフ作業が終わるので、そのあとは読書でもするかな。ナボコフの全短篇集のつづきでも読もうかな。お風呂場では、なにを読もうかな。ジョージ・R・R・マーティンの『フィーヴァードリーム』にしよう。ダブって持っていたものだ。

雨に混じって落ちてくるもの。きみの言葉に混じってきみの口から出てくるもの。

人間の声。世界でもっとも美しいもののひとつ。

それとも、ルーズリーフ作業が終わったら、河原町でも行こうかな。欲しい本が2冊出てた。ジーン・ウルフの『ナイト』I、IIの続篇2冊。『ナイト』自体買ったけど、読むの1年後くらいかもしれないけれど。本って、買っておかないとなくなることが多いしね。とくに、ぼくが買う類の本は。大丈夫かな?

10代と、20代と、30代と、40代の経験は、そのまんま、文学的な衣装をいっさいつけずに作品にしたい。体験のうち、いくつかは書いたけど、そのまんまを書くことはできていないような気がする。

虚偽にも真実が必要なように、真実にも虚偽が必要なのである。

病院で配膳のボランティアをしていて、残った食べ物を集めていると、うんこのような臭いがした。それと同じことなのだろうか。ポルノ映画館の座席と座席の間の通路が黒く照り光っているのは。さまざまな風景を拾い集めて、数多くの裸の人間や服を着た人間たちの色彩を集めて、黒く照り光っているのは。

精神病の母から毎日、電話がかかってくる。死ぬまでかけてくるだろう。電話をとるしかないだろう。一日、1分ほどの苦行だ。3日もほっておくと、警察に連絡して、ぼくが無事かどうかの確認をさせるのだ。はじめて派出所から警官が2人で訪れたときはびっくりした。母が精神病であると告げると帰った。

ルーズリーフ作業が終わった。ナボコフの全短篇集を本棚から取り出した。85ページの『復習』というタイトルの作品のところに付箋がしてあった。84ページまで読んだところでやめていたのだろう。字面を見て、本をもとのところに戻した。ぼくの詩集を読んでくれた、ある女性詩人の詩集を手に取った。数字だけのタイトルの詩集である。ぱらぱらとページをめくる。具体と抽象がよいバランスで配置してある。これを読もう。薄い詩集なので、すぐに読み終えるだろう。

何年もまえに思いついた詩のアイデアがあるのだが、いまだに書くことができない。ただ書くのが面倒なだけなのである。とてもシンプルなものなのだが、マクドナルドにでも行って、コーヒーを10杯くらい飲まないと書く気力がわかないタイプのものである。正月まえにミスタードーナツに行って書こう。

イタリアのプログレのアレアのファーストを聴いている。こんなアルバムみたいな詩集をつくりたい。ぼくの詩集はすべてプログレを意識してつくっているのだが、まだ、アレアのファーストのようなものはつくっていないような気がする。来年出す予定の『図書館の掟。』で目指す。『ヨナの手首』を入れる。

ぼくのために、ユーミンの「守ってあげたい」を歌ってくれたや安田太くんのことを思い出してる。そのときのこと思い出しながら寝よう。ぼくのこと好きだったんだろうなって思う。もう30年数年前のことだけど、ラグビーで国体にも出てたカッコイイ男の子だった。そのときの前後のこと書いてなかった。


二〇一五年十二月二十九日 「ローマ熱」


きょう、塾の空き時間に、『20世紀アメリカ短篇選』を読んでいて、2つ目の短篇、「ローマ熱」(作者はイーディス・ウォートン)というのにびっくりした。むかし読んだときは気にもしなかった作品だった。齢をとって、好みが変わったのかもしれない。

再読にはあまり興味がなかったのだが、部屋にある本、読み直すのも、おもしろいかも。あ、そのまえに未読の本を読まなくちゃいけないけれど。うううん。来年は、さらに読書に時間を割こう。未読本をどれだけ減らせるか、新たに買う本をどれだけ少なくできるか、だな。

寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』上巻、3つ目の収録作品。ドイツ系アメリカ人の肉屋の親父とその娘の話。まだ数ページ読んだだけだけど、期待できそう。


二〇一五年十二月三十日 「生きること。感じること。楽しむこと。」


きのう寝るまえに、『20世紀アメリカ短篇選』の2つと、ハインリヒ・ベルの短篇も1つ読んだ。きょうは、部屋にこもって、ナボコフの全短篇集のつづきを読む。どこまで読めるだろう。正月休みに読み切れれば、うれしいのだけれど。

四条に出てジュンク堂で本を買ってきた。ジーン・ウルフの『ウィザード』I、IIと、岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』下巻と、『20世紀イギリス短篇選』上下巻と、『フランス短篇傑作選』である。8600円ほどだったかな。まあ、それくらいの買い物は、いいだろう。本を買わないと書いたけど。

本棚には、もう本を置けないので、押し出し式。捨てる本を決めなければならない。けっこうつらい。あとでほしくならない本を捨てなければならない。カヴァー違いの文庫など捨てればいいんだろうけれど、これがまた惜しくて捨てられない。こころ根がいやしい証拠だな。

とりあえず、タバコ吸って考えよう。

きょうは、チューブラー・ベルズを聴いて寝よう。

ふと高校時代の友だちのことを思い出した。いっしょに映画を見てると、座席が揺れ出したので、あれっと思って、友だち見たら、チンポコいじってたから、「ここ、抜くとこ、ちゃうやん!」と言ったら、「ちょっと待って!」と言って、いっちゃったから、びっくりした。けど、めっちゃ、おもしろかった。

めっちゃかわいかった友だちのこと思い出したから、お酒が欲しくなった。セブイレに買いに行こう。最高におもしろくて、最悪にゲスな高校時代だった。なにしても、おもしろかった。なに見ても、なに聞いても、おもしろかった。お酒は、なに飲もうかな。涙、ポロポロ→

ロング缶のヱビスビールと、かっぱえびせんを買ってきた。すばらしい詩や小説を読んでいると、自分の人生の瞬間瞬間が輝いて見えるけれど、自分の人生の瞬間瞬間が輝いていたからこそ、詩や小説も深い味わいがあるのだとも思う。生きること。感じること。楽しむこと。


二〇一五年十二月三十一日 「プー幸せだった」


これは、ぼくとスーとの約束だった
彼を見て、ぼくは本当に、プー幸せだった
彼が心配しているのは、大晦日に彼女を慰めるためのドライブ
1、2、3は会えないね
それを言ってたのは、ベッドサイドテーブルをはさんで
缶コーヒー
きみは、ぼくに出合った休暇だった
ベイビー
メイ・メイ・スー

もうじき55歳になる。60歳まですぐだ。老人である。残された時間は短い。これからなにが書けるのか、時間との競争でもある。きょうは、だれともしゃべらず。これが正月の3日までつづくのかと思うと、うんざりではあるが、ひとといても、うんざりである。

弟を針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。パパを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。ママを針で刺しても、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。テーブルを針で刺すと、シューって空気が抜けて、ぺちゃって倒れた。そこらじゅうを針で刺していった。


詩の日めくり 二〇一五年十三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一五年十三月一日 「芸術は自己表現ではない」


自己の表現と、自己表現とは違う。2015年9月29日のメモ「いまだに芸術を自己表現だと思っている連中がいる。きょう、職場で哲学の先生たちがお話されているのを小耳にはさんだのだが、お知り合いの詩人が、詩は自己表現だと言ってたらしい。詩や小説は言語表現だし、音楽は音楽表現だし、映画は映画表現だし、演劇は演劇表現なのだ。それ以外のなにものでもない。自己表現は単なる自己表現であり、それは日常、日ごろに行われる生活の場での、他者とのコミュニケーションにおける表現活動のことである。芸術活動とは、いっさいの関係などないものである。」


二〇一五年十三月二日 「高慢と偏見とゾンビ」


P・D・ジェイムズの『高慢と偏見、そして殺人』を読むために、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を読み直したのが1年ほどまえで、読み直してよかったと思う。いま本棚にその3冊を並べてあるのだが、ここに、きょう買った、『高慢と偏見とゾンビ』を並べようと思う。パスティーシュ、大好き!


二〇一五年十三月三日 「こんな瞬間の美しさを」


フロイドの『対』を聴きながら、付箋の長さが気になってて、その先っちょをハサミでチョキチョキしていたのだけれど、その切り取ったあとのものが、クリアファイルを取り上げたときに落ちて、その落ち方の美しさにはっとした。こんな瞬間の美しさを作品に定着できたらいいなと思った。いらないものの美しさ。


二〇一五年十三月四日 「隣の数」


2015年10月22日のメモを、これから打ち込んでいく。BGMはナイアガラ・トライアングル1。メモにタイトルをつけてた。めずらしい。「隣の数」整数ならば、隣の数といえば、たとえば、2の隣の数は1と3である。ところが連続した実数においては、2の隣の数というのは存在しない。ある実数を2にもっとも近い数であると仮定しても、その数と2の間の数を無限に分割できるので(分割する数を0以外の実数とする)さきに2にもっとも近い数であると仮定した数よりもさらに2に近い数を求めることができるのである。ここで気がついたひともいるかもしれない。連続する実数においては、「隣の数」というよりも、「隣」という概念自体が無効であるということに。しかしながら、隣り合うことなく、数が無数に連なり合うという風景は、もはや実景をもつ、現実性をもったものでもないことに。このことは、つぎのことを導く。すなわち、実数は、じつは連続などしていないのだと。実数には連続性など、はじめからなかったのだと。というか、そもそものところ、数自体も現実には存在などしていないからである。したがって、連続する実数の隣は空席なのである。すなわち、連続する実数においては、数と数のあいだには、空席が存在するのである。つまり、数と数のあいだには、数ではないものが存在するのである。それを指摘し、それに名前を与えた者はまだいない。ぼくが名づけよう。数と数のあいだの空席を占めるものを「非数」と。ところで、この非数であるが、これは数ではないので個数を数えられるものではない。数に対応させて考えることができるものならば、数ではなくても、個数を数えることができるのだが、この非数は、たとえば、集合論で用いられる空集合Φのように、あるいは、確率論で用いられる空事象Φのように、いくつのΦとかと言ってやることができないものなのである。したがって、たとえば、1という数と2という数のあいだの非数の個数と、1という数と100という数のあいだの非数の個数の比較もできないのである。非数は、いわば、無限(記号∞)のように、状態を表すものとして扱わなければならないのである。この状態というのも比喩である。この非数の概念に相応しい形容辞が存在しないからである。ところで、この非数というものが存在することで、じつは、数というものが存在するとも考えられるのである。この非数というものがあるので、非数と非数のあいだの数を、われわれは取り出してやることができるのである。隙間なくぎゅうぎゅう詰めにされた本棚から本を取り出すことが不可能であるように、もしも実数が隙間なく連続していれば、われわれは実数を取り出すことができないのである。したがって、実数が連続しているというときには、この非数の存在を無視するならば、という前提条件を抜かして言及している、ということになるのである。実数が連続しているなどというのは誤謬である。数学者たちの単なる錯覚である。ところで、話はずぶんと変わるが、1や2や3といった数は、もうどれだけの数の人間たちによって、じっさいに書きつけられたり口にされたことであろうか。数え上げること不可能であろう。それと同時に、まだ人間によって書きつけられたこともなく、口にされたこともない数も無数にあるであろうが、それもまた数え上げることが不可能であろう。永遠に。永遠と言う言葉が辞書通りの意味の永遠であるとしてだが。しかし、その個数は、確実に時代とともに減少していくことだろう。しかし、無数のものから無数のものを引いても無数になることがあるように、無数であるという状態自体は変わらないであろう。といったことを考えたのであるが、無数というのもまた、数ではなく、状態を表す概念なのであった。紫 式部の『源氏物語』の「竹河」のなかに、「無情も情である。」といった言葉があったのだが、無数という概念は、数の概念のうちに入るものではなかったのであった。非数というものの概念が、数の概念のうちに入るものではなかったように。非数という概念について、10月22日は考えていた。おもしろかった。非数を考えることによって、数自体についての考え方も変わった。このように、ぼくはぼくの意識的な領域の自我のなかで、さまざまな事物や事象の意味概念を捉え直していくことだろう。あとのことは、無意識領域の自我のする仕事だ。


二〇一五年十三月五日 「魂を合んだ本」

思潮社海外詩文庫『ペソア詩集』誤植 116ページ下段13行目「魂を合んだ本を」→「魂を含んだ本を」


二〇一五年十三月六日 「ホープのメンソール」


ホープのメンソール、めっちゃきつい。もうじき文学極道に投稿する『詩の日めくり』のことを考えてた。これはアナホリッシュ國文學編集長の牧野十寸穂さんのアイデアからできたものなのだが、ぼくの半分くらいの作品は、ジミーちゃんと、えいちゃんと、牧野十寸穂さんのおかげでつくれたのだと思った。ひととつながっていなければ、ひととかかわっていなければ、ぼくの作品のほとんどすべての作品はつくれなかった。全行引用詩でさえそうだ。孤独がすぐれた作品をつくるとリルケは書いていた。ぼくもそう思っていたけれど、どうやら、それは完全な錯誤であったようだ。ギャオで「あしたのパスタはアルデンテ」を見てる。ゲイだからって、どってことないっしょ? って感じの映画かな。人生は滑稽な芝居だ。ぼくのママも(実母も、継母も)ぼくがゲイだって言っても、信じなかった。父親はわかってくれていたようだが、母親たちは信じなかった。そんなものかもしれない。

くちびるにしたら嫌がられるかもしれないと思って、首筋にキッスしたら、首の後ろにおしゃれなタトゥーが入ってた。一度しか会わなかったけれど、かわいらしい男の子だった。「そこに存在するから」山に登る。山などないのに。一度だけだからいいのだと、むかし、詩に書いた。

完璧な余白を装って、言葉が詩に擬態する。℃の言葉も空白の意味と空白の音をもつ言葉だ。「めっちゃ気持ちいい。」魂から魂のあいだを完全な余白が移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」℃の言葉もだ。完璧な余白を装って。

PCのCを℃にすること。階段席の一番後ろからトイレットに移動する。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動する。魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。しゃがみかけたけど、しゃがませないで。首の後ろにキッスした。PCのCを℃にすること。

本にお金を使いすぎたような気がしたので、セブイレでホープのメンソールを買った。きつい。一度しか会わなかったけど、首の後ろのタトゥーがおしゃれだった。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。ラブズ・マイ・ライフ。

経験は一度だけ。一度だけだから経験だ。階段席の一番後ろからトイレットに。空白の意味と空白の音をともなって、ぼくたちは移動した。人生は滑稽な芝居だ。PCのCを℃にすること。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす空白の意味と空白の音。「そこに存在するから」。

人生は意味である。無意味の意味である。人生は無意味である。意味の無意味である。意味は人生でもある。意味の人生である。無意味は人生でもある。無意味の人生である。意味が無意味であり、無意味が意味なのである。ぼくたちの魂と魂をすっかり満たす意味と無意味。

PICTURE の C を℃にすること。FACT の F を°F にすること。FUTURE の T を°Tにすること。KISS の I を°I にすること。SOUL の S を°S にすること。EVERYWHERE の W を°W にすること。BEATIFUL の B を °B にすること。WE の W を °W にすること。JOY の J を °J にすること。MESSAGE の M を °M にすること。SEX の X を °X にすること。LOVE の L を °L にすること。GOOD の G を °G にすること。GOD の G を °G にすること。


二〇一五年十三月七日 「大量のメモが見つかった。」

晩ご飯は食べない予定だったが、夕ご飯は食べることにする。スーパーに餃子でも買いに行こう。部屋を少し片付けたら、大量のメモが見つかった。

非数について
(メモ)
そもそものところ、数自体が、じっさいに存在するものではないのだ。紙に書かれた数字やワードに書き込まれた数字やエクセルに書き込まれた数字は、現実に存在する数を表現したものではないのだ。ぼくが指に挟んで紙に文字を書き込むペンのことをペンと呼べるもののようには。愛という言葉の意味は広くて深いが、愛という言葉が人間のこころに思い浮かばせる情景というものがある。愛が表象として実感されうるものであるからだ。そういう意味で、愛というものは存在している。しかし、数は表象として人間のこころに実感されうるものだろうか。プラスチックでできた数字をかたどったものがあるとしよう。そういうものがテーブルのうえに置かれたとする。絵のなかに描かれた数字でもいい。そういうものは、数そのものをかたどったものであろうか。数そのものではない。数が表している値を表現したものである。テーブルのうえに置かれた、プラスチック製の2という数字をかたどったオブジェは、2という数そのものをかたどったものではないのだ。数というものもまた、非数と同様に、概念として創出されたものであって、現実の存在する事物ではないのであった。

2015年10月27日のメモから
ひとつの時間はあらゆる時間であり、ひとつの場所はあらゆる場所であり、ひとつの出来事はあらゆる出来事である。また、あらゆる時間がひとつの時間であり、あらゆる場所がひとつの場所であり、あらゆる出来事がひとつの出来事である。

2015年10月20日のメモから
いったん、ぼくのなかに入ってきた事物や事象は、ぼくのなかから消え去ることはない。ぼくが踏み出した足を引っ込めても、その足跡が残るように、それらの事物や事象は必ず、ぼくのなかに痕跡を残す。ときには、焼印のようにしっかりとした跡を残すものもある。額に焼印されたSの文字が、それが押し付けられた瞬間から、それからの一生の生き方を決定することもあるのだ。slave。事物や事象の奴隷であることを示すアルファベットのさいしょの文字だ。ぼくの額のうえには、無数のSの文字が焼きつけられているのだった。

2015年10月24日のメモから
ディキンスンやペソアという詩人の活動とその後の評価を知って、つぎのようなことを考えた。詩人にとって、無名であることは、とても大切なことなのではないか。名声がないということは、名声が傷つけられて、こころが傷むことがない。生きているときに尊敬されていないということは、傲慢になりがちな芸術家としての自我が慢心によって損なわれることがないということだ。生きているときに権威がないのも、じつに好都合だ。権威をもつと、やはり人間のこころには、驕りというものが生ずる可能性があるからだ。生きているときに、名声を得ることもなく、尊敬されることもなく、権威とも無関係であること。これは、詩人にとって、とても大切なことであると思われた。少なくとも、ぼくにとっては、とても大切なことだ。ぼくの場合は、きっと死ぬまで人様に名前が知られることなどないので大丈夫だ。

2015年7月16日のメモから
朝、通勤の途中で、まえを歩いていたおじさんが、道に吸い込まれて片方だけの靴を残して消えた。年平均6人くらい、ぼくの通るこの道で人間が道に巣込まれるらしい。気を付けると言ったって、気の付けようがないことだけれど。

2015年5月28日のメモから
『図書館の掟。』のさいごのシーンのつづき。図書館長が死者である詩人の口から話を聞くところから、『13の過去(仮題)』をはじめてもいい。

2014年12月8日のメモから
詩のアイデア
本来、会話ではないところに「 」をつける。散文詩でやると効果的だろう。

2015年5月28日メモ
詩のアイデア
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!
・・・
・・・
爆発!

2015年10月20日から27日までにしたと思うメモから
詩のアイデア
さまざまな詩人が詩に用いたオノマトペを抽出、引用して、オノマトペだけの詩をつくる。タイトルは、トッド・ラングレンの曲名、 ONOMATOPEIA からとって、『 ONOMATOPEIA。』にするとよい。


二〇一五年十三月八日 「ユキ」


晩ご飯を食べないつもりだったけど、まえに付き合ってた子といっしょにセブンイレブンで買い物して(「いつもおごってもらってるから、きょうは、ぼくがおごるよ」と言ってくれて)おにぎり一個と、トムヤンクンの即席麺と、肉ジャガコロッケ一個と、おやつを食べながら、二人でギャオの映画を見てた。本を買い過ぎて、金欠ぎみ〜と、ぼくが言うと、タバコ2本を置いていってくれて、やさしい子だ。金欠ぎみと言うか、まあ、基本、ぼくは貧乏なので、貧乏人から見えることというのがあって、それはお金に余裕のあるひとには見えないものだと思う。健康を損なってはじめて見えるものがあるように。生涯、無名で、貧乏でって、まあ、詩人としては、理想的な状態である。寝るまえの読書は、『ペソアと歩くリスボン』じつは、きのうも、きょうも、レックバリの『人魚姫』のつづきを読んでいて、『ペソアと歩くリスボン』をちっとも読んでいなかったのである。きょうは少しは読もうかな。


二〇一五年十三月九日 「オノマトピア」


きょうは、オノマトペだけの引用詩をつくろう。詩集とにらめっこだな。楽しそうだ。いや、きっと楽しい一日を過ごすことになるだろう。きょうも、きのうも、毎日、なんかあって、ジェットコースターのようだ。

オオ ポ ポ イ
オオ パ パイ
おお ポポイ ポポイ
オオ ポポイ
オオ!ポポイ!
(西脇順三郎『野原の夢』)

タンタン タンタン たんたん
オーポポーイ
オーポポーイ
(西脇順三郎『神々の黄昏』)

ゆらゆら
ジヤアジヤア
(北川冬彦『共同便所』)

もくもく
げらげら
(北川冬彦『街裏』)

くるりと
じーんと
ふらふらと
(北川冬彦『昼の月』)

ぽとりと
(北川冬彦『椿』)

ひらひらと
(北川冬彦『秋』)

ゆらり ゆらり ゆらり
ぴんと
ゆらり ゆらり ゆらり
(北川冬彦『呆けた港』)

ぶるると
かーんと
ピキピキ
(北川冬彦『鶏卵』)

がらんとした
(北川冬彦『絶望の歌』)

ははははははは
ははははは
(北川冬彦『腕』)

ぶくぶく
(北川冬彦『風景』)

ぶっつぶっつ
(北川冬彦『春』)

くるりくるりと
(北川冬彦『梢』)

コクリコクリと
(北川冬彦『陽ざし』)

ひよつくり
(北川冬彦『路地』)

ぐるぐる
ぐるぐる
(北川冬彦『スケートの歌』)

ダラリと
(北川冬彦『行列の顔』)

ゲヘラ ゲヘラと
(北川冬彦『大陸風景』)

ボーボーと
めりめりと
(北川冬彦『琵琶湖幻想』)

ばあ ばあ
(北川冬彦『水鏡』)

さらさらと
(北川冬彦『処刑』)

ぱったり
ぱっと
はたと
(北川冬彦『日没』)

ちょっと球形。イーオンに行って、フランスパンでも買って、早めのお昼ご飯にしようかな。オノマトペを取り出しただけで、なにかわかるとは思わなかったけれど、2つばかりのことがわかった。1つめは、個性的なオノマトペはむずかしいということ。2つめは、有名な詩人もオノマトペが凡庸なことが多い。

フランスパンとコーンスープのもとを買ってきた。19世紀、20世紀のフランスの貧乏画家のようだ。まあ、ぼくはあくまでも、21世紀の日本の貧乏詩人だけど。

うつうつと
(安西冬衛『軍艦茉莉』)

グウ
(安西冬衛『青春の書』)

ポカポカ
(安西冬衛『春』)

とつぷりと
(安西冬衛『定六』)

ぼつてりと
(安西冬衛『旧正の旅』)

さらさらと
(安西冬衛『二月の美学』)

ちよこなんと
(安西冬衛『水の上』)

しんしんと
(安西冬衛『秋の封印』)

バリバリ
(北園克衛『スカンポ』)

ハタと
(春山行夫『一年』)

ぽつりと
(竹中 郁『牝鶏』)

ぴいぴいと
(竹中 郁『旅への誘ひ』)

オノマトペの採集作業が退屈なものになってきたので、中断することにした。モダニストの詩だけから抽出したのだけれど、むかしの詩人はオノマトペを多用しなかったようだ。いまの詩人は、金子鉄夫を筆頭に積極的に多用する詩人もいるのだけれど。ぼくも使うほうかな。


二〇一五年十三月十日 「ぼくは言葉なんだ。とても幸せなことなんだ。」


ぼくは言葉なんだけど、ほかの言葉といっしょに、ぎゅーぎゅー詰めにされることがある。たくさんの言葉の意味に拘束されて、ぼくの意味が狭くなる。まばらな場所にぽつんと置かれることもある。隣の言葉がなんて意味かわからないほど遠くに置かれることもある。ぼく自身の意味もぼくにわからないほど。でも、なんといっても、はじめての出会いって、いいものなんだよ。相手の意味も変わるし、ぼくの意味も変わるんだ。出合った瞬間に、なんでいままで、だれもぼくたちを出合わせてくれなかったんだろうなって思うこともよくある。しじゅう顔を合わせる連中とだけなんてぜんぜんおもしろくないよ。出合ったことのない言葉と出合って、ぼくの言葉の意味も深くなるっていうかな、広くなるっていうかな、鋭く、重くなるんだ。ぼく自身が知らなかったぼくの意味を、ぼくに教えてくれるんだ。それは、相手の言葉も同じだと思うよ。同じように感じてるんじゃないかな。ぼくという言葉と出合うまえと出合ったあとで、自分の意味がすっかり変わってるっていうのかな、まるで新しく生まれてきたように感じることだってあるんじゃないかな。ぼくがそう感じるから、そう言うんだけどさ。それはとても幸せなことさ。


二〇一五年十三月十一日 「自動カメラ」


ヒロくんが
自動カメラをセットして
ぼくの横にすわって
ニコ。
ぼくの横腹をもって
ぼくの身体を抱き寄せて
フラッシュがまぶしくって
終わったら、ヒロくんが顔を寄せてきた
ぼくは立ち上ろうとした
ヒロくんは人前でも平気でキッスするから

イノセント
なにもかもがイノセントだった

写真に写っているふたりよりも
賀茂川の向こう側の河川敷に
暮れかけた空の色のほうが
なんだか、かなしい。


二〇一五年十三月十二日 「あるスポンジタオルの悲哀」


わたしはいや。
もういや。
シワだらけのジジイの股間に
なんで、顔をつっこまなけりゃいけないの。
もういや。
ジジイは、わたしの身体を
つぎつぎ
自分の汚れた身体になすりつけていくのよ。
もういや。
死んでしまいたい。
はやく痛んで
ゴミ箱に捨てられたい。


二〇一五年十三月十三日 「洗濯機の夢。」


洗濯機も夢を見るんだろうか。
いっつも汚い
ヨゴレモノを口に突っこまれて
ガランガラン
まわしてヨゴレを落として
ペッと吐き出してやらなきゃならないなんて
損な人生送ってるわ。

人生ちゃうわ。
洗濯機生送ってるわ。
でも
洗濯機のわたしでも
夢は見るのよ。
それは
きれいな洗濯機を口に入れて
ガランガラン
洗ってやること。
いつか
この詩を書いてる詩人の父親が
飼っているプードルをかごに入れて
そのかごをわたしの口の縁にひっかけて
わたしの口のなかの洗濯水を回したことがあるわ。
犬を洗った洗濯機なんて
わたしが最初かしら。
ああ
わたしの夢は
新しい
きれいな洗濯機を
わたしの口に入れて
ガランガランすること。
まっ
それじゃ、
わたしのお口がつぶれてしまいますけどねっ!
フンッ


二〇一五年十三月十四日 「タレこみ上手。」


タレこみ上手。 転んでも、起きない。転んだら、起きない。コロンでも起きない。


二〇一五年十三月十五日 「ストローのなかの金魚。」


ストローのなかを行き来する金魚
小さいときに
ストローのなかを
2,3センチになるように
ジュースを行き来させて
口のなかのちょっとした量の空気を出し入れして
遊んだことがある。
とても小さな食用金魚が
透明なストローのなかを行き来する。


二〇一五年十三月十六日 「食用金魚。」


さまざまな食感の食用金魚がつくられている。
グミより食感が楽しいし、味が何よりもおいしい金魚。
金魚バーグに金魚シェイク
食用金魚の原材料は、不安や恐怖や怒りである。
ひとびとの不安や恐怖や怒りを金魚化させたのである。
金魚処理された不安や恐怖や怒りは
感情浄化作用のある金魚鉢のなかで金魚化する。
金魚化した感情をさまざまな大きさのものにし
さまざまな味のものにし、さまざまな食感のものにして
加工食品として、国営金魚フーズが日々大量に生産している。
国民はただ毎日、不安や恐怖や怒りを
配送されてきた金魚鉢に入れておいて
コンビニから送り返すだけでいいのだ。
すると、その不安や恐怖や怒りの質量に応じた枚数の
金魚券が送られてくるという仕組みである。
その金魚券によって、スーパーやコンビニやレストランなどで
さまざまな食用金魚を手に入れられるのだ。


二〇一五年十三月十七日 「金魚蜂。」


金魚と蜂のキメラである。
水中でも空中でも自由に浮遊することができる。
金魚に刺されないように
注意しましょうね。
転んでも、起きない。
掟たまるもんですか
金魚をすると咳がでませんか。
ぶりぶりっと金魚する。


二〇一五年十三月十八日 「金魚尾行。」


ひとびとが歩いていると
そのあとを、金魚がひゅるひゅると追いかける。


二〇一五年十三月十九日 「近所尾行。」


地下金魚。
金魚サービス。
浮遊する金魚。
金魚爆弾。
近所備考。
近所鼻孔。
近所尾行。
ひとが歩いていると
そのあとを、近所がぞろぞろとついてくるのね。
近所尾行。
ありえる、笑。


二〇一五年十三月二十日 「自由金魚。」


世界最強の顕微鏡が発明されて
金属結晶格子の合間を自由に動く電子の姿が公開された。
これまで、自由電子と思われていたものが
じつは金魚だったのである。
自由金魚は、金魚鉢たる金属結晶格子の合間を通り抜け
いわば、金属全体を金魚鉢とみなして
まるで金魚すくいの網を逃れるようにして
ひょいひょいと泳いでいたのである。
電子密度は、これからは金魚密度と呼ばれることにもなり
物理化学の教科書や参考書がよりカラフルなものになると予想されている。

ベンゼン環の上下にも、金魚がくるくる廻ってるのね。
単純なモデルだとね。
すべて金魚雲の金魚密度なんだけど。


二〇一五年十三月二十一日 「絵本 「トンでもない!」 到着しました。」


一乗寺商店街に
「トン吉」というトンカツ屋さんがあって
下鴨にいたころ
また北山にいたころに
一ヶ月に一、二度は行ってたんだけど
ほんとにおいしかった。
ただ、何年前からかなあ
少しトンカツの質が落ちたような気がする。
カツにジューシーさがない日が何度かつづいて
それで行かなくなったけれど
ときたま
一乗寺商店街の古本屋「荻書房」に行くときとか
おされな書店「啓文社」に行くときとかに
なつかしくって寄ることはあるけれど
やっぱり味は落ちてる。
でも、豚肉の細切れの入った味噌汁はおいしい。
山椒が少し入ってて、鼻にも栄養がいくような気がする。
トン吉のなかには、大将とその息子さん二人と女将さんが働いてらして
ふだんは大将と長男が働いてらして

その長男が、チョー・ガチムチで
柔道選手だったらしくって
そうね
007のゴールドフィンガー
に出てくる、あのシルクハットをビュンッって飛ばして
いろんなものを切ってく元プロレスラーの俳優に似ていて
その彼を見に行ってるって感じもあって
トンカツを食べるってだけじゃなくてね。
不純だわ、笑。
次男の男の子も
ぼくがよく行ってたころは
まだ高校生だったのかな
ころころと太って
ほんとにかわいかった。
その高校って
むかし、ぼくが非常勤で教えてたことがある高校で
すごい荒れた高校で
1年契約でしたが
1学期でやめさせていただきました、笑。
だって、授業中に椅子を振り上げて
ほんとにそれを振り下ろして喧嘩してたりしてたんだもん。
身の危険を感じてやめました。
生徒が悪いことしたら、土下座させたりするヘンな学校だったし
日の丸に頭を下げなくてはいけなかったので
アホらしくて
初日にやめようとも思った学校でしたが
つぎの数学の先生が見つかるまで
というのと、紹介してくださった先生の顔もあって
1学期だけ勤めましたが
あの学校にいたら
ぼくの頭、いまよりおかしくなってると思うわ。
生徒は、かわいかったけど。
偏差値の低い学校って
体格がよくて
無防備な子が多いのね。
夏前の授業では
ズボンをおろして
下敷きで下半身を仰ぎながら授業受けてたり。
あ、見えてるんだけれど。
って、思わず口にしてしまった、笑。
ぼくも20代だったから
ガマンのできないひとだったんだろうね。
いまだったら、どうかなあ。
つづけてるかなあ。


二〇一五年十三月二十二日 「おにぎり頭のチキンなチキンが、キチンでキチンと大空を大まばたきする。」


はばたきやないのよ、まばたきなのよ〜!
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
ケケーッと叫びながら紫色の千切れた舌をだして目をグリグリさせる始祖鳥や
六本指を旋回させながら空中を躍りまわる極彩色のシーラカンスたちや
何重にもなった座布団をくるくる回しながら出てくる何人もの桂小枝たちや
何十人もの久米宏たちが着物姿で扇子を仰ぎながら日本舞踊を舞いながら出てくる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
円は演技し渦状する。
円は縁起し過剰する。
風のなかで回転し
水のなかで回転し
土のなかで回転する
もう大丈夫と笑いながら、かたつむりがワンタンを食べながら葉っぱの上をすべってる
なんだってできるさとうそぶくかわうそが映画館の隅で浮かれてくるくる踊ってる
冬眠中のお母さんクマのお腹のなかの赤ちゃんクマがへその緒をマイク代わりに歌ってる
真冬の繁華街でカラフルなアイスクリームが空中をヒュンヒュン飛び回ってる
黒板に、じょうずに円を描くことができる
それだけが自慢の数学の先生は
空中でチョークをくるくるまわすと
つぎつぎと円が空中を突き進んで
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
その円のなかから
さまざまなものが現われる。
しかし、あくまでも、じょうずに円をかくことが大事ね。
笑。


二〇一五年十三月二十三日 「追想ね、バカ。」


六波羅小学校。
運動場の
そと
路地だった。
彼は
足が3分の1で
ハハ
小学校だった
のではなかった
中学校だった
そいつも不良だった
ぼくは不良じゃなかったと思うのだけれど
学校や
家では

親のいる前では
バカ
そいつのことが好きだったけど
好きだって言わなかった
そういえば
ぼくは
学校では
だれのことも好きだって言わなかった
中学のとき
塾で
女の子に
告白されたけど
ぼくは好きだって言わなかった
かわいい子だったけど
好きになるかもしれないって思ったけど
3分の1

みじけえ
でも
なんか
まるまるとして
でも
ぜんぶ筋肉でできてるみたいな
バカ
ぼくも
デブだったけど、わら
このとき考えたのは
なんだったんだろう。
遡行する光
ぼくの詩は
詩って言っていい? わら
きっと
箱のなかの
頭のなかに
閉じ込められた光
さかのぼる光
箱のなかで
反射し
屈折し
過去に向かって遡行する光
ぼくの見たものは
きっと
ぼくの見たものが
ぼくのなかを遡行する光だったんだ
ぼくのなかで
遡行し
走行し
反射し
屈折する光
考える光
苦しんだ光
笑った光
きみの手が触れた光だった
先輩が触れた
ぼくの手が見てる
ぼくの光
光が光を追いかける
名前も忘れてしまった
ぼくの光
光が回想する
光にも耳があってね
音が耳を思い出すたびに
ぼくは
そこにいて
六波羅小学校の
そばの
路地
きみのシルエットはすてきだった
大好きだった
大好きだったけど
好きだって言わなかった
きみは
遠いところに引っ越したぼくのところに自転車で来てくれて
遡行する光
反射し
屈折する光
光が思い出す




何度も
光は
遡行し
反射し
屈折し
思い出す。
あんにゃん
一度だけ
きみの腰に手を回した
自転車の後ろに乗って
昼休み
堀川高校
いま
すげえ進学校だけど
ぼくのいたときは
ふつうの高校で
抜け出して
四条大宮で
パチンコ
ありゃ
不良だったのかな、わら
バカ
意味なしに、バカ。
どうして光は思い出すんだろう
どうして光は忘れないのだろう
光はすべてを憶えてる
光はなにひとつ忘れない
なぜなら、光はけっして直進しないからである。


二〇一五年十三月二十四日 「どろどろになる夢を見た。」


焼死と
変死と
飢え死にとだったら
どれがいい?
って、たずねたら
魚人くんが
変死ですね。
って、

ぼくも。

言うと
アラちゃんが
勝手に
「ぼく安楽死」と名言。
じゃない
明言。
フンッ。
目に入れたら痛いわ。
そこまで考えてへんねんけど
どなると
フェイド・アウト
錯覚します
割れた爪なら
そのうち、もとにもどる
どろどろになる夢を見た
目にさわるひと
耳にさわるひと
鼻にさわるひと
手にさわるひと
足にさわるひと
目にかける
耳にかける
鼻にかける
手にかける
足にかける
満面のお手上げ状態
天空のごぼう抜き
乳は乱してるし
ちゃう

はみだしてるし
そんなに
はみだしてはるんですか
抜きどころじゃないですか?
そんな
いきなり乳首見せられても
なんで電話してきてくれへんの?
やることいっぱいあるもの。
あんまり暇やからって
あんたみたいに飛行機のなかでセックスしたりせえへんちゅうの!
ディッ
ディルド8本?
ちゃうわよ。
ビデオとディルドと同じ金額やのね。
あたし、ほんとに心配したんだから
ワシントン条約でとめられてるのよ
あんたが?
ビデオがよ
ビデオが?
ディルドもよ
ロスから帰るとき
あなたがいなくなってびっくりしたわ
16年前の話を持ち出さないで!
ビデオ7本とディルド1本で
合計16万円の罰金よ
空港の職員ったら
DCまでついてくんのよ
カードで現金引き出すからだけど
なによ
さいしょ、あんたディルド8本で
つかまったのかしらって思ったのよ
は?
8本の種類って
あんた
どんだけド淫乱なのかしらって、わら
大きさとか形とかさ、わら
それはまるで蜜蜂と花が愛し合うよう
それは
必要
かつ
美しいものであった
それは
ほかのものたちに
したたる黄金の輝きと
満たされていないものが
いっぱいになるという
充溢感をもたらせるもの
生き生きとしたライブなものにすることのできる
イマージュ
太字と
細字の
単位は不明の
イマージュ
読みにくいけれど、わら
ふんで


二〇一五年十三月二十五日 「神は一度しか死なない。悪魔は何度も死ぬ。」


創世記で
知恵の木の実を食べたことはわかるけど
その味がどうだったのか書いてなかったね
書いてなかったから
味がしなかったとは言えないけれど
どんな味がしたんやろうか
味覚はなかったのかな
知恵の木の実を味わったあとで
味覚を持ったのかな


二〇一五年十三月二十六日 「こんな詩があったら、いいな。」


内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形もない詩。

あるいは
内容があり
意味があり
音も声もあり
形がない詩。

あるいは
内容がなく
意味がなく
音も声もなく
形がある詩。


二〇一五年十三月二十七日 「いっしょに痛い。」


ずっと、いっしょに痛い。
ポンポンと恩をあだで返すひと。
するすると穴があったら入るひと。
サイズが合わない。
靴は大きめに買っておくように言われた。
どもどものとき。
死んだ●と●●するのは恥ずかしい。
誤解を誤解すると
誤解じゃなくなる
なんてことはないね。
すぐに通報します。


二〇一五年十三月二十八日 「詩について。」


詩と散文の違いは
改行とか、改行していないとかだけではなくて
根本的には
詩は
鋭さなのだということを
考えています。
それを
狭さ
という言葉にしてもよいと思います。

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは
具体物
と言いました。

経験を背景としない詩は
まずしい。
しかし、経験だけを背景にした詩も
けっして豊かなわけではないのですね。

才能というものが
たくさん知っていることでもなければ
たくさん知っていることを書くことでもないと思うのですが
たくさん知っていて
そんなところはうっちゃっておいて書く
ということが大事なのかなあって思います。


二〇一五年十三月二十九日 「人間違い」


人間・違い
人・間違い
どっちかな。
後者やろうな。
近所の大国屋で、きのうの夜の10時過ぎに夜食を買いに行ったら
レジ係の女性が、ぼくに話しかけてきた。
「日曜もお仕事なんですね。」
ぼくは、このひと、勘違いしてるなと思ったから
あいまいに、うなずいた。
ぼくと似てるひとと間違えたのかな。
でも、ぼくに似てるひとなんて、いなさそうなのにね。
なぞやあ。
おもろいけど。
こんどは、あのリストカッターの男の子に話かけられたいよう。
あごひごの短髪の体格のいい、童顔の子やった。


二〇一五年十三月三十日 「100人のダリが曲がっている。」


のだ。
を。
連続
べつにこれが
ここ?
お惣菜 眉毛
詩を書く権利を買う。
詩を買う権利を書く。
そんなお茶にしても
また天国から来る
改訂版。
グリーンの
小鉢のなかの小人たち
自転車も
とまります。
ここ?
コロ
ぼくも
「あそこんちって
 いつも、お母さんが怒鳴ってるね。」
お土産ですか?
発砲しなさい。
なに?
アッポーしなさい。
なになに?
すごいですね。
なになになに?
神です。
行け!
日曜日には、まっすぐ
タトゥー・サラダ
夜には、まさかの
タトゥー・サラダ
ZZT。
ずずっと。
感情と情感は間違い
てんかんとかんてんは勘違い
ピーッ
トコロテン。
「おれ?
 トラックの運転してる。」
毎日もとめてる
公衆の口臭?
公衆は
「5分くらい?」
「おととい?」
ケビン・マルゲッタ。
半分だけのあそ
ピーッ
「八ヶ月、仕事なかったんや。
 そんときにできた借金があってな。
 いまも返してる。」
「じゃあ、はじめて会うたときは
 しんどいときやったんやね。」
たんたんと
だんだん
もうすぐ
だんだんと
たんたん
一面
どろどろになるまで
すり鉢で、こねる。
印象は、かわいい。
「風俗には、金、つこたなあ。
 でも、女には、よろこばれたで。
 おれのこんなぐらいでな(親指と人差し指で長さをあらわす=小さい)
 糖尿で、ぜんぜんかたくならへんから
 おれの方が口でしたるねん。
 あそ
 ピーッ
 めっちゃ、じょうずや言われる。」
イエイッ!
とりあえず、かわいい。
マジで?
梅肉がね。
発砲しなさい。
あそ
ピーッ
お土産ですか?
説明いりません。
どれぐらいのスピードで?
前にも
あそ
ピーッ
見えてくる。
「選びなさい。」
曲がろうとしている。
間違おうとしている。
見えてくる。
「選びなさい」
まさかの
トコロテン。
ピーッ
あそ
ピーッ
見えてくる。
「上から
ピーッ
見えてくる
 下から。」
のだ。
を。
連続
ピーッ
唇よりも先に
指先が
のだ。
を。
連続
ピーッ
行きます。
「選びなさい。」
「からから。」
「選びなさい」
「からから。」
たまに
そんなん入れたら
なにかもう
ん?
隠れる。
指の幅だけ
ピーッ
真っ先に
あそ
ピーッ
みんな
ネバネバしているね。
バネがね。
蟻がね。
雨が
モモンガ
掲載させていただきました。


二〇一五年十三月三十一日 「正しい書き順で書きましょう。」




という漢字が、むかし、へたやった。

書き順を間違ってて
マスミちゃんに正しい書き順を教えてもらって
正しい書き順で書いたらきれいに書けるようになった。
でも
電気の電は、あかんねんね。
雲も。
露も。
雪も。
雷も。
って話を
勤め先のお習字の先生に
たまたまランチタイムに
お席が、ぼくの近くに座ってらっしゃって
ご挨拶することになって
そのときに
そういう話をしたら

という字を横に広げて書いてみてくださいと言われて
いま
その通りにしたら
前よりずっときれいに書けるようになった。
ジェイムズ・メリルのルーズリーフ作業中に
何度か
雷とか
電気とか書いて
たしかになあって思った。
さすが
お習字の先生やなあ。
確実に、きれいになるように教えてくださった。
48才で、もしかしたら遅いのかもしれへんけど、笑。
まだまだ上達することがあるのかと思うと
たいへん面白い。
さっき
シンちゃんと電話していて
「いま何してたの?」
って訊かれて
詩の勉強って答えたら
「まだ、あきらめてないの?
 あきらめるのも、才能だよ。」
と言われてカチン。
「みんな、きみのことが好きだった。」
の前半を、そのうちに書肆山田さんからと思っている。
あれは、ほとんど認められなかったけれど
ぼくのなかでは、最高に霊的な作品やった。
とてもくやしい思いがいっぱい。
あまりにも洗練されすぎていたのだと自負している。
ほんとにくやしい。


詩の日めくり 二〇一五年一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年一月一日 「20世紀アメリカ短篇選」


『20世紀アメリカ短篇選』は、むかし上下巻読んだんだった。でも、ひとつも憶えていない。きのう、スピンラッドの短篇集だと思っていた『星々からの歌』をちら読みしたけど、これまたひとつも憶えていなかったのだった。憶えているものが少ない。これは得な性分なのか。

いい詩を書こうと思ったら、いい人生を送らないと書けない。あるいは、ぜんぜんいい人生じゃない人生を送らないと書けないような気がする。ぼくは両方、送ってきたから、書ける、笑。いい詩しか書けないのは、そういう理由。

『20世紀アメリカ短篇選』上巻の最後から2つめの「スウェーデン人だらけの土地」という作品を読み終わった。ウッドハウスを読んでるような感じがした。作者のアースキン・コールドウェルについて、あとで検索しよう。『20世紀アメリカ短篇選』上巻、あと1つ。上巻は、このアースキンの作品と、イーディス・ウォートンの「ローマ熱」の2つの作品がお気に入りだ。この2作品だけでも、この短篇集を再読してよかったと思う。とりわけ、「ローマ熱」など、若いときには、ピンと来なかったものである。これを読み終わったら、ハインリヒ・ベルの短篇集をおいて、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻を読もう。アースキン・コールドウェル、めっちゃたくさん翻訳あるし、古書でも、そう難しくなく手が届きそうな値段だし。でも、しばらくは我慢しよう。というか、下巻を読んでる途中で忘れるかな。持ってない本が欲しくなるのは、こころ根がいやしいからだと思う。自戒しよう。まだ眠れず。下巻、いきなりナボコフで、まったくおもしろくない短篇だった。書き方のいやみったらしさは、好みなのだけど。ハインリヒ・ベルの短篇集にして寝よう。


二〇一六年一月二日 「宮尾節子さんの夢」


宮尾節子さんの夢を見た。すてきなご飯家さんで朗読会をされてたんだけど、宮尾さんの朗読のまえに、小さな男の子がバスから降りてきて、なんか物語をしゃべってくれるんだけど、意味はわからず、でも、なんかしゃべりつづけて、聞き耳を立てているうちに目が覚めてしまった。おいしそうな料理が出た。


二〇一六年一月三日 「読書とは何か?」


さっき塾から帰ってきたところ。きょうは、朝の9時から夜の10時まで働いた。休憩時間に、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のうち、2番目のものと3番目のものを読んだ。1作目のナボコフと違って、「ある記憶」も「ユダヤ鳥」もよかった。悪意に満ちたグロテスクな笑いを感じた。帰りに、スーパー「マツモト」で、餃子を20個買ってきて食べたのだが、油まみれで、もたれる。きょうは、もうこれくらいで、クスリのんで寝ようかな。寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻のつづきを。きょう読んだ「ユダヤ鳥」は、ぜひパロディーをつくってみたいと思ったのであった。

バカバカし過ぎて、読むのを途中でやめた、ボリス・ヴィアンの『彼女たちには判らない』をもって、湯舟につかろう。さいしょから棄てるつもりで、表紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に投げ入れた。ゴア・ヴィダルの『マイラ』のような感じのものだ。躁病状態の文学だ。

「きみの名前は?」(ボリス・ヴィアン『彼女たちには判らない』第十二章、長島良三訳、99ページ)

96ページにもこのセリフはある。死ぬまで、「きみの名前は?」という言葉を収集するつもりである。ボリス・ヴィアンのこの作品はやっぱりカスだった。詩人や作家は最良の作品だけを知ればよい。まあ、ひとによって、最良の作品が異なるし、最良の作品を読むためには、最良でない作品にも目を通さなければならないが。そういえば、ロバート・F・ヤングなどは、全作品を読んだが、『たんぽぽ娘』以外すべてカスという駄作のみを書きつづけた恐るべき作家だった。

小学校の3年くらいかな、友だちのふつうの笑い顔が輝いてた。中学校の1年のときに、友だちが照れ笑いしたときの顔が忘れられない。どんなにすごいと思った詩や小説にも見ることができない笑顔だ。ぼくがまだ、それほどすごい詩や小説と出合っていないだけかもしれない。読書はそれを探す作業かもね。


二〇一六年一月四日 「本の表紙の絵」


本棚の前面に飾る本の表紙を入れ替えた。やっぱり、マシスンの『縮みゆく人間』、ヴォークトの『非Aの世界』『非Aの傀儡』、ハーバートの『砂丘の大聖堂』第1巻、第2巻、第3巻は、すばらしい。アンソロジーの『空は船でいっぱい』、テヴィスの『ふるさと遠く』、ベイリーの『シティ5からの脱出』とかは仕舞えない。さいきんのハヤカワSF文庫本や創元SF文庫本の表紙には共感できないのだが、ハヤカワのスウェターリッチの『明日と明日』とかは、ちょっといいなと思ったし、創元のSF映画の原作のアンソロジーの『地球の静止する日』みたいな、ほのぼの系もいいなとは思った。数少ないけれども。スピンラッドの『鉄の夢』とか、プリーストの『ドリーム・マシン』とか、シマックの『法王計画』とか、ウィンダムの『呪われた村』とか、アンダースンの『百万年の船』第1巻、第2巻、第3巻とか、もう絵画の領域だよね。内容以上に、本を、表紙を愛してしまっている。まるで、すぐれた詩や小説を愛する愛ほどに強く。気に入った表紙の本が数多くあるということ。こんなに小さなことで十分に幸せなのだから、ぼくの人生はほんとに安上がりだ。単行本の表紙も飾っているのだけれど、ブコウスキーの『ありきたりの狂気の物語』と『町でいちばんの美女』、ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』がお気に入り。アンソロジーの『太陽破壊者』と、クロウリーの『ナイチンゲールは夜に歌う』と『エンジン・サマー』も飾っている。単行本の表紙って、意外に、よいのが少ないのだ。表紙で買うって、圧倒的に、文庫本のほうが多いな。LP時代のジャケ買いみたいなとこもある。


二〇一六年一月五日 「言葉を発明したのは、だれなんだろう?」


モーパッサンの『ピエールとジャン』を暮れに捨てたが、序文のようにしてつけられた小文のエッセー「小説について」は必要な文献なので、アマゾンで買い直した。これで買うの3回目。いい加減、捨てるのやめなければ。文献を手元に置くだけのための600円の出費。バカである。捨てなければよかった。今週はずっと幾何の問題を解いていた。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。翻訳がいいという理由もあるだろうけれど、アンソロジストでもある翻訳者の選択眼の鋭さも反映しているのだなと思う。すばらしいアンソロジーだ。じっくり味わっている。

千家元麿の詩を読んでいると、当時、彼の家族のこととか、彼の住居の近所のひとたちのこととか、また当時の風俗のようなものまで見えてきて、元麿の人生を映画のようにして見ることができるのだが、いまの詩人で、そんなことができるのは、ひとりもいない。『詩の日めくり』を書いてる、ぼくくらいだろう。もちろん、ぼくの『詩の日めくり』は、ぼくの人生の断片の断片しか載せていないのだけれども、それらの情報で、ぼくの現実の状況を再構成させることは難しくはないはずだ。生活のさまざまな場面の一部を切り取っている。きれいごとには書いていない。事実だけである。六月に、『詩の日めくり』を、第一巻から第三巻まで、書肆ブンから出す予定だが、『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけていくつもりだ。死んでから、ひとりくらい、もの好きなひとがいて、ぼくという人間を、ぼくの人生を、映画を見るようにして見てくれたら、うれしいな。

齢をとり、美貌は衰え、関節はガタガタ、筋肉はなくなり、お腹は突き出て、顔だけ痩せて、一生、非常勤講師というアルバイト人生で、苦痛と屈辱にまみれたものではあるが、わりと、のほほんとしている。本が読めるからだ。音楽が聞けるからだ。DVDが見れるからだ。

言葉を発明したのは、だれなんだろう。きっと天才だったに違いない。原始人たちのなかにも天才はいたのだ。


二〇一六年一月六日 「吉田くん」


冬は、学校があるときには、朝にお風呂に入るのはやめて、寝るまえに入ることにしている。きょうも、千家元麿の詩を読みながら、湯舟につかろう。ほんと、まるでウルトラQのDVDを見てるみたいに、当時のひとびとの暮らしとかがわかる。詩には、そういう小説のような機能もあるのだな。元麿のはね。

きょうも吉田くんは木から落っこちなかった。だから、ぼくもまだ生きていられる。それとも、もう吉田くんはとっくに落っこちているのかしら? いやいや、それとも、あの窓の外に見える吉田くんって、だれかが窓ガラスに貼りつけた吉田くんなのかしら?

吉田くんといっしょに、吉田くんちに吉田くんを見に行ったけど、吉田くんは、一人もいなかったぜ、ベイビー!

寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』下巻。ジーン・スタフォード(詩人のロバート・ローウェルの最初の妻)の『動物園』を、もう3日も読んでいるのだが、なかなか進まない。読む時間も寝る直前の数十分だからだけど、じっくり味わいたい文体でもある。翻訳家の大津栄一郎さんのおかげです。きょうと、あしたの二日間は、読書に専念できる。きょうじゅうに、『20世紀アメリカ短篇選』下巻を読み切りたい。しかし、冒頭のナボコフを除いて、傑作ぞろいである。学校の帰りに、サリンジャーの短篇を読み終わった。おもしろかった。ぼくは単純なのかな。単純なものがおもしろい。音楽と同じで。


二〇一六年一月七日 「竹中久七」


ずっと寝てた。腕の筋肉がひどいことになっていて、コップをもっても、しっかり支えられず、コーヒー飲むのも苦痛。病院で診てもらうのも怖いしなあ。ただの五十肩だと思いたい。

本を読む速度が極度に落ちている。読みながら、夢想にふけるようになったからかもしれない。途中で本を置くこともしばしばなのだ。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、まだ読み終わらず、である。味わい深いので、じっくり味わいながら読んでいるとも言えるのだが、それにしても読むのが遅くなった。きょうも、寝るまえの読書は、『20世紀アメリカ短篇選』の下巻。フラナリー・オコーナーの全短篇集・上下巻が欲しくなった。いかん、いかん。持ってるものをまず読まなくては。でも、amazon で買った。単行本のほうが安かったので、フラナリー・オコナーの全短篇集を単行本で上下巻、買った。送料を入れて、3500円ちょっと。本の買い物としては、お手頃の値段だった。ああ、しかし、本棚に置く場所がないので、どうにかしなきゃならない。

竹上さんから入浴剤やシュミテクトや歯ブラシをたくさんいただいて、いま入浴剤入りのお風呂につかってた。生き返るって感じがした。歯を磨いて、横になろう。お湯につかりながら、千家元麿の詩を読んでたのだけれど、さいしょのページの写真を見てて、竹中久七というひとの顔がめっちゃタイプだった。いまネットで検索したら、マルキストだったのかな。そういう関係の本を出してらっしゃったり。でも、写真はなかった。お顔がとてもかわいらしくて、ぼくは大山のジュンちゃんを思い出した。のび太を太らせた感じ。文系オタク的な感じで、かわいい。『20世紀アメリカ短篇選』下巻、あと1作。フィリップ・ロスの『たいへん幸福な詩』 これを読んだら、『20世紀イギリス短篇選』上巻を読もう。


二〇一六年一月八日 「神さまがこけた。」


お風呂場で足をひっかけたのだけれど、神さまがこけた。それが、ぼくを新しくする。


二〇一六年一月九日 「ヤツのは小さかった。」


けさ、思いっきりエロチックな夢を見て、そんな願望あったかなって変な気持ちになった。あまりにイカツすぎるし、ぜったいにムリだって思ってた乱暴者だった。誘われて無視した経験があって、その経験がゆがんだ夢を見させたのだと思うけど、じっさいは知らんけど、夢のなかでは、ヤツのは小さかった。


二〇一六年一月十日 「カナシマ博士の月の庭園」


きのう、エロチックな夢を見たのは、お風呂に入って読んだアンソロジーの詩集についてた写真で、「竹中久七」さんのお顔を見たせいかもしれない。現代のオタクそのものの顔である。かわいらしい。ぼくもずいぶんとオタクだけれど。ミエヴィルの『都市と都市』236ページ。半分近くになった。読んでいくにつれ、おもしろい感じだ。『ケラーケン』上下巻では、しゅうし目がとまる時間もないほどに場面が転換して、驚かされっぱなしだったから、こうしたゆっくりした展開に、いい意味で裏切られたような気がする。塾に行くまで読む。

やった。塾から帰ってきたら、ヤフオクに入札してた本が落札できてた。ひさびさのヤフオクだった。あの『猿の惑星』や『戦場に架ける橋』のピエール・プール『カナシマ博士の月の庭園』である。800円だった。日本人が主人公のSFである。カナシマ博士が切腹するらしい。長い間ほしかった本だった。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』第2部・第13章、日暮雅通訳、253ページ)

ミエヴィル『ジェイクをさがして』タイトル作がつまらない。なぜこんなにつまらない作品を冒頭にしたのだろう。読む気力がいっきょに失せた。プールの『カナシマ博士の月の庭園』が到着した。ほとんどさらっぴんの状態で狂喜した。クリアファイルのカヴァーをつくろう。でも、読むのは、ずっと先かな。ミエヴィルの短篇集『ジェイクをさがして』を読んでいるのだが、これは散文詩集ではないかと思っている。散文詩集として出せばよかったのにと思う。SFというより、純文学の幻想文学系のにおいが濃厚である。読みにくいのだが、散文詩としてなら、それほど読みにくいものとは言えないだろう。

思潮社から出る予定の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の出版が数か月、遅れている。ぼくの記号だけでつくった詩が、アマゾンのコンピューターが、どうしても、それをエラーとして認識するらしい。家庭用のパソコンでOKなのに、なぜかはわからない。それゆえ、記号だけの作品は削除して詩集を編集してもらっている。


二〇一六年一月十一日 「恋する男は」


Brown Eyed Soul のヨン・ジュンがとてもかわいい。声もいい。むかし付き合った男の子に似てる子がいて、その子との思い出を重ねて、PVを見てしまう。ぼくたちは齢をとるので、あのときのぼくたちはどこにもいないのだけれど、そだ、ぼくの思い出と作品のなかにしかいない。

かっぱえびせんでも買ってこよう。きょうは、クリアファイルで立てられるようにした、ピエール・ブールの『カナシマ博士の月の庭園』をどの本棚に飾ろうかと、数十分、思案していたが、テーブルのうえに置くことにした。いまいちばんお気に入りのカヴァーである。白黒の絵で、シンプルで美しい。

ポールのレッド・ローズ・スピードウェイのメドレーを聴いてるのだけれど、ポールの曲のつなぎ方はすごい。ビートルズ時代からすごかったけど。どうして、日本の詩人には、音楽をもとにして、詩を書く詩人がいないんだろうね。ぼくなんか、いつも音楽を聴いてて、それをもとにつくってるんだけれどね。

このあいだ読んだ岩波文庫の『20世紀アメリカ短篇選』上下巻の話を思い出そうとしたが、作者名が思い出せない『ユダヤ鳥』と、作品名が思い出せないフラナリー・オコナーのものくらいしか思い出されなかった。強烈な忘却力である。いま読んでるミエヴィルの短篇集も、いつまで憶えているか覚束ない。

恋する男は幸福よりも不幸を愛する。(ウンベルト・エーコ『前日島』第28章、藤村昌昭訳、384ページ)


二〇一六年一月十二日 「めぐりあう言葉、めぐりあう記号、めぐりあう意味」


塾に行くまえに、お風呂に入って、カニンガムの『めぐりあう時間』を読んでいた。さいしょにウルフの自殺のシーンを入れてるのは、うまいと思った。文章のはしばしに、ウルフの『ダロウェイ夫人』や『灯台に』に出てきた言葉づかいが顔を出す。まだ33ページしか読んでないが、作家たちが登場する。

自分を拾い集めていく作業と、自分を捨てていく作業を同時進行的に行うことができる。若いときには、できなかった作業だ。自分が55年も生きるとは思っていなかったし、才能もつづくとは思っていなかったけれど、齢とって、才能とは枯れることのないものだと知った。幸せなことかどうかわからないけど、詩のなかでぼくが生きていることと、ぼくのなかで詩が生きていることが同義であることがわかったのだ。若いときには思いもしなかったことだ。ぼく自身が詩なのだった。ぼく自身が言葉であり、記号であり、意味であったのだ。

二〇一六年一月十三日 「詩について」

どういった方法で詩を書くのかは、どういった詩を書くのかということと同じくらいに重要なことである。


二〇一六年一月十四日 「嘔吐」


いったん
口のなかに
微量の反吐が
こみあげてきて
これは戻すかなと思って
トイレに入って
便器にむかって
ゲロしようと思ったら
出ない。
大量の水を飲んでも
出ない。
出したほうがすっきりすると思うんだけど。
飲んでかなり時間が経ってるからかなあ。
じゃあ、微量の
喉元にまで
口のなかにまで込み上げたゲロはなんだったのか。
ああ
もしかして
牛のように反芻してしまったのかな。
ブヒッ
じゃなくて
モー
うううううん。
微妙な状態。
指をつっこめば吐けそうなんだけど
吐くべきか、吐かないべきか
それが問題だ
おお、嘔吐、嘔吐、嘔吐
どうしてお前は嘔吐なのか
嘔吐よ、お前はわずらわしい
嘔吐にして、嘔吐にあらず
汝の名前は?
はじめに嘔吐ありき
神は嘔吐あれといった、すると嘔吐があった
宇宙ははじめ嘔吐だった、嘔吐がかたまって陸地となり海となり空となった
嘔吐より来たりて嘔吐に帰る
みな嘔吐だからである
オード
ではなくて
嘔吐という形式を発明する
嘔吐と我
嘔吐との対話
嘔吐マチック
嘔吐トワレ
嘔吐派
嘔吐様式
嘔吐イズム
嘔吐事典
嘔吐は異ならず
鎖を解かれた嘔吐
嘔吐集
この嘔吐を見よ
夜のみだらな嘔吐
嘔吐になった男
嘔吐を覗く家
殺意の嘔吐
もし神が嘔吐ならば
あれ?
ゲオルゲの詩に、そんなのがあったような記憶が。
違う。
神が反吐を戻して
それが人間になったんやったかなあ。
それとも逆に
ひとが反吐を戻したら
それが神になったんやったかなあ。
岩波文庫で調べてみよう。
なかった。
でも、見たような記憶が
どなたか知ってたら、教えてちゃぶだい。
ぼくもこれから
いろいろ詩集見て調べてみよう。
持ってるのに、あったような気が。

追記

わたしは神を吐き出した。

これ、ぼくの「陽の埋葬」の詩句でした。
うううん。
忘れてた。


二〇一六年一月十五日 「今朝、通勤電車のなかで、痴漢されて」


ひゃ〜、朝、短髪のかわいい子が目の前にいたのですが
満員状態で
ぎゅっと押されて彼の股間に、ぼくの太ももが触れて
ああ、かわいいなって思ってたら
その男の子
組んでた腕を下ろして
ぼくのあそこんところを
手の甲でなではじめたんで
ひゃ〜
と思って
その子の手の動きを見てたら
京都駅について
その子、下りちゃったんです。
残念。
明日、同じ車両に乗ろうっと。

あんまりうれしいから
きょうは
うきうきで
仕事帰りに河原町に出たら
元恋人と偶然再会して
その子のことを言って

そのあと
前恋人の顔を見に行って
今朝の痴漢してくれた男の子のことを再現して
前恋人の股間にぎゅって
触れたら、「何すんねん、やめてや!」
と言われて
いままで
飲んだくれてました、笑。
その子の勇気のあること考えたら
自分がなんて小心者やったんかなって思えて
情けない感じ。
組んでた腕がほどけて
右手の甲が
ぼくの股間に近づいていくとき
なんか映画でも見てるような感じやった。
むかし
学生の子に
通勤電車のなかで
触られたときも
ぼくには勇気がなくて
手を握り返してあげることもできひんかった。
きょうも、勇気がなくって。
なんて小心者なのやろうか、ぼくは。
相手の子の勇気を考えると
手を握り返すくらいしなきゃならないのにね。
反省です。


二〇一六年一月十六日 「二〇一四年八月二十一日に出会った青年のこと」


メモを破棄するため、ここに忠実に再現しておく。

(1)マンションのすぐ前まで来てくれた。車をとめる場所がないよと言うと、「適当にとめてくる」と言う。
(2)部屋に入ると、テーブルの下に置いていた、ぼくの『詩の日めくり』の連載・2回目のゲラを見て、「まだ書いてるの?」と訊いてきた。「セックス以外しないつもりだったけど、ちょっと見てくれるかな?」と言って、アイフォンというのだろうか、スマホというのだろうか、ぼくはガラケーで、新しい電子機器のわからないのだが、そこに保存している彼が自分で書いた詩をぼくに見せた。
(3)だれにも見せたことがないという。
(4)たくさん見せてもらった。記憶しているものは「きみがいるおかげで、ぼくは回転しつづけられるのさ」みたいなコマの詩くらいだけど、よくあるフレーズというのか、そういうリフレインがあって、おそらくJポップの歌詞みたいなものなのだろうと思った。ぼくの目には、あまりよいものとは思えなかったのだけれど、セックスというか、あとでフェラチオをさせてもらうために、慎重に言葉を選んで返事をした。
(5)メールのやり取りで、キスの最長時間やセックスの最長時間の話をしていて、それが7時間であったり、11時間であったりしたものだから、「ヘタなの?」と書いてこられてきたけれど、どうにかこうにか、ヘタじゃないということを説明した。
(6)えんえんと1時間近くも彼の書いた詩を読ませられて、これはもう詩を読ませられるだけで終わるかもしれないと思って、「そろそろやらへん?」と言うと、「そうやな」という返事。「いくつになったん?」と訊くと、37才になったという。はじめて映画館で会ったのはもう10年くらい前のことだった。「濡れティッシュない?」と言うので、「ないよ」と返事すると、「チンポふきたいんやけど」と言うので、タオルをキッチンで濡らして渡した。「お湯で濡らしてくれたんや」と言うので、「まあね」と答えた。暗くしてくれないと恥ずかしいと言うので電気を消すと、ズボンとパンツを脱いで、チンポコを濡れタオルでふいている気配がした。シャツは着たまま布団の上に横たわった。ぼくは彼のチンポコをしゃぶりはじめた。
(7)30分くらいフェラチオしてたと思うのだけれど、相性が合わなかったのだろう、「もう、ええわ」と言われて、顔を上げると、「すまん。帰るわ」と言って立ち上がって、パンツとズボンをはいた。部屋の扉のところまで見送った。
(8)ちょっとしてから、ゲイのSNSのサイトを見たら、彼はまだ同じ文面で掲示板に書き込みをしてた。「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い168#98#36短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」


二〇一六年一月十七日 「言葉」


言葉には卵生のものと胎生のものとがある。卵生のものは、おりゃーと頭を机のかどにぶつけて頭を割ると出てくるもので、胎生のものはメスをもって頭を切り開くと出てくるものである。


二〇一六年一月十八日 「夢」


夜の9時から寝床で半睡してたら、夢を見まくり。ずっといろいろなシチュエーションだった。いろいろな部屋に住んでた。死んだ叔父も出てきたり。ずっと恋人がいっしょだったのだけれど、顔がはっきりわからなかった。ちゃんと顔を見せろよと言って、顔を上げさせたら、ぼくの若いときの顔でびっくりした。暗い部屋で、「見ない方がいいよ」と言って抵抗するから、かなり乱暴な感じで、もみくちゃになって格闘したんだけど、ぜんぜん予想してなかった。髪が長くて、いまのぼくではなくて、高校生くらいのときのぼくだった。無意識領域のぼくは、ぼくになにを教えようとしたのか。けっきょく自分しか愛せない人間であるということか。それとも高校時代に、ぼくの自我を決定的に形成したものがあるとでもいうのか。もうすこし、横になって、目をつむって半睡してみようと思った。しかし、無意識領域のぼくが戻ってくることはなかった。意地悪な感じで含み笑をして「見ない方がいいよ」と言った夢のなかのぼくは、意識領域のぼくと違って、ぼく自身にやさしさを示さないのがわかったけれど、いったん意識領域のぼくが目覚めたら、二度と無意識領域には戻らないんだね。その日のうちには。ふたたび眠りにつくことがなければ。

二〇一六年一月十九日 「吉田くん」


吉田くんを蒸発皿のうえにのせ、アルコールランプに火をつけて熱して、蒸発させる。


二〇一六年一月二十日 「胎児の物語」


めっちゃ、すごいアイデちゃう?
そうですか?
書き方によるんとちゃいます?
ううん。
西院の「印」のアキラくんに
そう言われてしまったよ。
いま
ヨッパだから
あしたね〜。
胎児が
二十数世紀も母親の胎内で
生きて
感じて
考えて
って物語。
生きている人間のだれよりも多くの知識を持ち
つぎつぎと
異なる母胎を行き渡って
二十数世紀も生きながらえている
胎児の物語。
詳しい話は
あしたね。
これ
長篇になるかも。
ひゃ〜


二〇一六年一月二十一日 「ラスト・キッド」


学校の帰りに、大谷良太くんちでコーヒー飲みながら、1月20日に出たばかりの彼の小説『ラスト・キッド』をいただいて読んだ。2つの小説が入っていて、1つ目は、ぼくの知ってるひとたちがたくさん出てて興味深かったし、2つ目は、観念的な個所がおもしろかった。大谷良太は小説家でもあったのだ。

きょうは、日知庵で、はるくんと飲んでた。「あつすけさんの骨は、おれが拾ってあげますよ」という言葉にきゅんときて、グッときて、ハッとした。つぎの土曜日に、また飲もうねと約束して、バイバイ。そのあと、きみやさんで、ユーミンの「守ってあげたい」を思い出して、フトシくんの思い出で泣いた。フトシくんが、ぼくのために歌ってくれた「守ってあげたい」が、はじめて聴いたユーミンの曲だった。もしも、もしも、もしも。ぼくたちは百億の嘘と、千億のもしもでできている。もしも、フトシくんと、いまでも付き合っていたら? うううん。どだろ。幸せかな?


二〇一六年一月二十二日 「soul II soul」


ふだんの行為のなかに奇蹟的なうつくしい瞬間が頻発しているのだけれど、ふつうの意識ではそれを見ることができない。音楽や詩や絵画といった芸術というものが、なにげないふだんの行為のなかのそういった美の瞬間をとらえる目をつくる。耳をつくる。感覚をつくる。芸術の最重要な機能のひとつだ。

ぼくはほとんどいつも目をまっさらにして、生きているから、しょっちゅう目を大きく見開いて、ものごとを見ることになる。ふだんの行為のなかに美の瞬間を見ることがしょっちゅうなのだ。これは喜びだけれど、同時に苦痛でもある。その瞬間のすべてを表現できればいいのだけれど、言葉によって表現できるのは、ごくわずかなものだけなのだ。まあ、だから、書きつづけていけるとも思うのだけれど。

ジーン・ウルフの短篇集、序文だけ読んで、新しい『詩の日めくり』をつくろうと思う。いまツイートしているぼくと、いくつかのパラレルワールドにいる何人ものぼくが書きつづっている日記ということにしてるんだけど、自分の書いたものをしじゅう忘れるので、何人かのぼくのあいだに切断があるのかもしれない。でも、それは表現者としては、得なことかもしれない。なにが謎って、自分のことがいちばん謎で、探究しつづけることができるからだ。自分自身が謎でありつづけること。それが世界を興味深いものにしつづける要因だ。

BGMを soul II soul にしたので、コーヒー飲みながら、キッチンで踊っている。soul II soul って、健康にいいような気がする。きょうじゅうに、2月に文学極道に投稿する『詩の日めくり』を完成させよう。なんちゅう気まぐれやろうか。やる気ぜんぜんなかったのに、笑。

つくり終えた。チキンラーメン食べて、お風呂に入ろう。お風呂場では、ダン・シモンズの『エデンの炎』上巻を読んでいる。たぶん、名作ではないのだろうけれど、読ませつづける力はあって、読んでいる。

シモンズの『エデンの炎』上巻がことのほかおもしろくなってきたので、お風呂からあがったけど、つづきを読むことにした。

『エデンの炎』棄てる本として、お風呂場で読んでたのだけれど、またブックオフで見つけたら買おう。ぼくの大好きなマーク・トウェインが出てくるのだ。そいえば、ファーマーの長篇にもトウェインが出てきてたな。主人公のひとりとして。リバーワールド・シリーズだ。

「きみの名前は?」(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第一部・5、日暮雅通訳、81ページ)

豚になれるものなら豚になりたい。そうして、ハムになって、皿の上に切り分けられて飾りもののように美しく並べられたい。


二〇一六年一月二十三日 「選ばれなかった言葉の行き場所」


昼に学校で机のうえを見たら、メモ用紙が教材のあいだに挟まれてあって、取り上げると、何日もまえに書いた言葉があって、それを読んで思い出した。選ばれなかった言葉というものがある。いったんメモ用紙などに書かれたものでも、出来上がった本文に書き込まれなかった言葉もあるだろう。また、メモ用紙に書き留められることもなく、思いついた瞬間に除外された言葉もあるだろう。それらの言葉は、いったいどこに行くのだろう。ぼくによって選ばれなかったひとたちが、他のひとに選ばれて結びつくことがあるように、本文に選ばれなかった言葉が、別の詩句や文章のなかで使われることもあるだろう。しかし、けっして二度と頭に思い浮かべられることもなく、使われることもなかった言葉たちもあるだろう。それらは、いったいどこに行ったのだろう。どこにいて、なにをしているのだろう。ぼくが選ばなかった言葉たち同士で集まったり、話し合ったりしているのだろうか。ぼくの悪口なんか言ってたりして。ぼくが使わなかったことに腹を立てたり、ぼくに使われることがなくってよかったーとか思っているのだろうか。そういった言葉が、ぼくが馬鹿な詩句や文章を書いたりしているのを、あざ笑ったりしているのだろうか。ぼくの頭の映像で、とても賢そうな西洋人のおじさんが、たそがれときの窓辺に立っている。目をつむって。ぼくは、ぼくが使った言葉たちのほうを向いているのだが、表情のわからない、ぼくが使わなかった言葉たちのほうにも目を向けたいと思って、目を向けても、窓辺に立っているその西洋人のおじさんの映像はそれ以上変化しない。もちろん、ぼくのせいだ。ぼくの使わなかった言葉が目をつむり、腕をくんで、窓辺で黄昏ている。その映像が強烈で、ぼくがどんな言葉を使わなかったのか、まったく思い出すことができない。その西洋人のおじさんは、ハーフに間違われることがある、ぼくそっくりの顔をしているのだけれど。


二〇一六年一月二十四日 「流転が流転する?」


2016年1月2日メモ。太った男性を好む男性がいること。いわゆるデブ専。ぼくは、大学に入って、3年でゲイバーに行くまで、ゲイっていうのか、当時は、ホモって言ってたと思うけど、顔の整った、きれいな男性ばかりだと思っていて、ぼくが魅かれるようなタイプのひとって、ふつうにどこにでもいるような感じのひとばっかりだったから、きっと、ぼくは特殊なんだなって思ってたのだけれど、ゲイバーに行って、いちばんびっくりしたのは、みんなふつうの感じのひとばかりだったってこと。でも、ぼくの美意識はまだ、文学的な影響が強くて、デブというか、太っているのは、うつくしくなくて、高校時代に社会科のデブの先生に膝を触られたときに、ものすごい嫌悪感があって、デブっていうだけで、うつくしくないと思っていたのだけれど、ゲイバーに行き出してすぐに付き合ったひとがデブで、石立鉄夫に似たひとで、とてもいいひとだったので、そのひとと付き合って別れたあとは、すっかりデブ専になってしまって、そういえば、高校時代にぼくの膝を触った社会の先生も、かわいらしいおデブさんだったなあと思い返したりしてしまうのであった。いまのぼくはもうデブ専でもなくなって、来る者拒まず状態である。といっても、みんな太ってるか、笑。ダイエットもつづかず、また太り出し、洋梨のような体型に戻ったぼくが、収容所体験のあるツェランの詩を、翻訳で読む。飢えも知らず、のほほんと育って、勝手気ままに暮らしている、太った醜いブタのぼくが、とてもうつくしいお顔の写真がついたツェランの詩集を読む。なにか悪い気がしないでもない。

「万物が流転する。」━━そしてこの考えも。すると、万物はふたたび停止するのではなかろうか?(パウル・ツェラン『逆光』飯吉光夫訳)

『ラスト・キッド』収録作・2篇目のなかにある、大谷良太くんの考えのほうが、ぼくにはすっきりするかな。「万物が流転する。」という言葉自体が流転するというものだけれど、ツェランのように、「停止する」というのは、ちょっと、いただけないかな、ぼくには。でも、まあ、ひっかかるというのは、よいことだ。考えることのきっかけにはなるので。ツェランの詩集は、もう借りることはないだろうな。ぜんぜん刺激的じゃないもの。


二〇一六年一月二十五日 「ある特別なH」


「ある特別な一日」から「一一一」を引いたら、「ある特別なH」になる。


二〇一六年一月二十六日 「ぼくは嘘を愛する。」


ぼくは嘘を愛する。それが小さな嘘であっても、大きな嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。それがぼくにとってもどうでもいい嘘でも、ぼくを故意に傷つけるための嘘であっても、ぼくは嘘を愛する。嘘だけが隠されている真実を暴くからだ。


二〇一六年一月二十七日 「詩人殺人事件」


ひとつの声がきみの唇になり
きみのすべてになるまで
チラチラと
チラチラと
きみの身体が点滅している
グラスについた汗
テレビの走査線のよう
よい詩を読むと
寿命が長くなるのか短くなるのか
どっちかだと思うけど
どっちでもないかもしれないけど
この間
バカみたいな顔をしてお茶をいれてた
玉露はいい
玉露はいいね

ジミーちゃんと言い合いながら

詩人殺人事件
って
どうよ!

詩の鉱脈を発見した詩人がいた
その鉱脈を発見した詩人は
ほんものの詩を書くことができるのだ
ところがその詩の鉱脈を発見した詩人が殺されてしまった
半世紀ほど前の話だ
容疑者は谷川俊太郎
真犯人は吉増剛造
刑事は大岡信
探偵は荒川洋治
弁護士は中村稔
村の娘に白石かずこ
こんな配役で
ミステリー小説なんて
うぷぷ

彼らの詩行を引用してセリフを組み立てるのよ



二〇一六年一月二十八日 「キクチくん」


キクチくん。
めっちゃ
かわいかった。
おとつい
ずっと見てたんだよ
って言ったら
はずかしそうに
「見ないでください」
だって
そのときの
表情が
これまた
かわいかった。
大好き。
たぶん
惚れたね〜
ぼく。
キクチくん
もう
二度と会いたくないぐらい好き!


二〇一六年一月二十九日 「目は喜び」


Ten。
こうして見ますと、美しいですね。
TEN。
これも、美しいですね。
どうして、目は
こんなもので、よろこぶことができるのでしょう。
不思議です。


二〇一六年一月三十日 「たこジャズ」


人生の瞬間瞬間が輝いて、生き生きとしていることを、これまでのぼくは、その瞬間瞬間をつかまえて、その瞬間瞬間を拡大鏡で覗き込んで、その瞬間瞬間をつまびらかにさせていたのだが、いまは、その生き生きと輝いている瞬間が生き生きと輝いている理由が、その生き生きとした瞬間の前後に、それみずからは生き生きとしてはいなくても、それ以外の瞬間を生き生きと輝いた瞬間にさせる瞬間が存在しているからである、ということに気がついたのであった。

むかし、ぼくが30代のときに、千本中立売(せんぼんなかだちゅうり)に、「たこジャズ」っていう名前のたこ焼き屋さんがあって、よく夜中の1時とか2時まで、そこでお酒とたこ焼きをいただきながら、友だちと騒いでたんだけど、アメリカ帰りのファンキーなママさんがやってて、めっちゃ楽しかった。

ひとり、ひとり、違ったよろこびや、違った悲しみや、違った苦しみがあって、その自分のとは違ったよろこびが、悲しみや、苦しみが、詩を通して、自分のよろこびや、悲しみや、苦しみに振り向かせてくれるものなのかなと、さっきキッチンでタバコを吸いながら思っていました。


二〇一六年一月三十一日 「きょうは、キッス最長記録塗り替えたかも、笑。」


むかし、付き合いかけた子なんだけど
前彼と付き合う前やから6年ほど前かな
きょう会って
「ああ、ぜんぜん変わってないやん。」
「そんなことないわ、ふけたで。」
「そうかなあ。」
「しわもふえたし。」
「デブってるから、わからへんやん。」
目を合わせないで笑う。
「やせた?」
「やせたよ。」
出会ったころは、ぼくもデブだったのだけれど
この6年で、体重が15キロほど減ったのだった。
しかし、さいきん、また顔が太ってきたのだった、笑。
あ、おなかも。
おなかをなでられて、苦笑いする。
「まだ、付き合う子さがしてんの?」
「うん。」
「いるやろ?」
「どこに?」
「どこにでもいるやん。」
「それが、いないんやね。」
「マッサージ師になれるんちゃう?」
ずっと手のひらをもんであげていたのであった、笑。
表情がとてもかわいらしかったのでキッスした。
そしたら目をつむって黙って受け入れたので
抱きしめたら抱きしめ返されたので
そこからずっとチューを、笑。
6時間くらい。
ほとんど、チューばかり。
かんじんなところは、パンツの上から
ちょこっとだけ、笑。
チューの時間
前の記録を超えたかも。
とてもゆっくりしゃべる子なので
ぼくもゆっくり考えながら
いろいろなことを思い出しながらしゃべった。
電話番号の交換をしたけど
ぼくは、ほとんどいつもここで終わってしまう。
キッスは真剣なものだったし
握り返してくれた手の力はつよかったし
抱き返してくれた力もつよかったのだけれど
やはり、しあわせがこわいひとみたい。
ぼくってひとは。


詩の日めくり 二〇一五年二月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年二月一日 「アルファベットの形しかないんかいな、笑。」


何日かまえに、FBフレンドの映像を見て、いつも画像で、ストップ画像だから、ああ、素朴な感じでいいなあと思っていたら、映像では、くねくねして、ふにゃふにゃで、なんじゃー、って思った。ジムで身体を鍛えているのだろうけれど、なんだろ、しっかりしてるんだろうけど、くねくね、ふにゃふにゃ。

Aの形のひと。Bの形のひと。Cの形のひと。Dの形のひと。Eの形のひと。Fの形のひと。Gの形のひと。Hの形のひと。Iの形のひと。Jの形のひと。Kの形のひと。Lの形のひと。Mの形のひと。Nの形のひと。Oの形のひと。Pの形のひと。Qの形のひと。Rの形のひと。Sの形のひと。Tの形のひと。Uの形のひと。Vの形のひと。Wの形のひと。Xの形のひと。Zの形のひと。

寝るまえの読書は、チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻。一流の作家の幻視能力って、すごいなあって思わせられる。


二〇一六年二月二日 「お兄ちゃんのパソコンであ〜そぼっと、フフン。」


オレ、178センチ、86キロ、21歳のボーズです。
現役体育大学生で、ラグビーやってます。

──って、書いておけばいいわよね。
──あたしが妹の女子高生だって、わかんないわよね。

好みの下着は、グレーのボクサーパンツみたいなブリーフです。
ぽっちゃりしたオヤジさんがタイプです。
未経験なオレですが、どうぞよろしくお願いします。

──お兄ちゃんのそのまんまの条件で
──どんな人たちが連絡してくるのか、楽しみだわ。


二〇一六年二月三日 「ジョナサンと宇宙クジラ」


ぼくのライフワークのうちの1つ、『全行引用による自伝詩』を試みに少し書こうとしたのだが、2つめの引用で、すでにしてあまりにも美し過ぎて、手がとまってしまった。この作品以上の作品を、ぼくが書くことはもうできないような気がする。詩は形式であり、方法であり、何よりも行為である。

肘関節の痛みが左の肩にのぼって、左のこめかみにまで電気的な痺れを感じるようになってしまった。身体はますますボロボロに、感覚はますます繊細になっていく感じだ。とても人間らしい、すばらしい老化力である。まっとうな老い方をしているような気がする。ワーキングプアの老詩人にも似つかわしい。

そだ。『全行引用による自伝詩』も『13の過去(仮題)』も、章立てはなく、区切りのないもので、ぼくが死んで書かなくなった時点で途中終了する形で詩集として出しつづけていくつもりだ。『13の過去(仮題)』は、●詩で、改行もいっさいしないで、えんえんと書きつづけていくつもりだ。

塾の帰りにブックオフに。半年ほどまえに売りとばしたC・L・アンダースンの『エラスムスの迷宮』を買い直した。なにしてるんやろ。それと、カヴァーと大きさの違うロバート・F・ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』と、トバイアス・S・バッケルの『クリスタル・レイン』を買った。みな、108円。

カヴァーを眺めて楽しむためだけに買ったような気がする3冊であるが、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』は、文字が大きくなって読みやすくなってるから、読むかも。『エラスムスの迷宮』は読んだから、読まないかも。『クリスタル・レイン』は読むと思う。いつか。


二〇一六年二月四日 「こんなん食べたい。」


指を切り落としたリンゴ。首を吊ったオレンジ。複雑骨折したバナナ。


二〇一六年二月五日 「TOMMY」


『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻、いまようやく400ページ目。あしたには下巻に突入したい。

寝るまえに、ロック・オペラ『TOMMY』を見た。『TOMMY』、音がCDとぜんぜん違う。ロック・オペラ『TOMMY』って、CDのほうがずっと音がいいんだけど、ちゃらちゃらしたDVD版の音のほうもいいね。アメリカでは、国がすべてのウェブサイトを記録として残すって話だったけど、日本はどうなんだろね。 個人的な手帳、手記ってのはものすごく重要な歴史資料なんだけども、いまや、それがケータイ本体やWebサービスに行っちゃって。TOMMYっていうと、ゲイの男の子たちのあいだでも人気のブランドだったと思うけど、そのTOMMYのTシャツをものすごくたくさん持ってる子のブログがあって、そこにある画像を見てて思ったんだけど、等身大の着せ替え人形用の服みたいって。あれ、逆かな。TOMMYっていうと、ピンボールの魔術師の役をどうしようって相談したロッド・スチュアートを裏切ったエルトン・ジョンのことを思い出すけれど、裏切りって、けっこう好きだったりする。裏切るのも裏切られるのも。むごい裏切り方されたときって、「ひゃ〜、人生の色が濃くなった。」って思えるからね。


二〇一六年二月六日 「モーリス・ホワイト」


きょうは早めに寝る。きょうから寝るまえの読書は、『ペルディード・ストリート・ステーション』の下巻。時間がかかるようになってきた。仕方ないか。ヴィジョンを見るのに、時間がかかってるんだと思う。若いときよりずっと緻密なような気がする。

言葉によって
ぼくが、ぼくのこころの有り様を知ることもあるが
それ以上に
言葉自体が、ぼくのこころの有り様を知ることによって
より言葉自身のことを知るのだということ。
それを確信している者だけが
言葉によって、違った自分を知ることができるであろう。

『ペルディード・ストリート・ステーション』下巻、200ページまで読んだ。5匹の怪物の蛾のうち、1匹をやっつけたところ。『クラ―ケン』並みのおもしろさである。魔術的な世界を的確な描写力で、現実のように見せてくれる。こんな作品を読んでしまったら、自分の作品『図書館の掟。』を上梓するのが、ためらわれる。

出すけど、笑。

モーリス・ホワイトが亡くなったんだね。EW&Fを聴こう。


二〇一六年二月七日 「そして誰かがナポレオン」


投票会場に行ってきた。本田久美子さんに入れたけど、アイドルみたいなお名前。

わさび茶漬けを食べて、あまりの辛さに涙。

読んでない詩集が2冊。寝るまえに読む。ボルヘス詩集とカミングズ詩集である。

ボルヘス詩集は1600円くらい、カミングズ詩集は4000円で買ったので、カミングズ詩集を読んでいたのだが、びっくりした。「そして誰かがナポレオン」ってカミングズの詩で、「肖像」というタイトルで、伊藤 整さんが訳してたのだね。ぼくは「そして誰もがナポレオン」って記憶してたのだけど、ツイッターで、どなたかご存じの方はいらっしゃらないかしらと呼びかけたのだが、いっさいお返事はなくて、もしかしたら、ぼくのつくった言葉かしらんと思っていたのだが、記憶とちょっと違っていたけど、カミングズの詩句だったのだね。案外、記憶に残ってるものだ。ここ数年の疑問が氷解した。カミングズ詩集、持ってて、手放しちゃったから、捜してた時に見つからなかったのだけれど、もう二度と手放さない。カミングズの詩、じっくり味わいながら読もう。


二〇一六年二月八日 「カミングズ詩集」


神経科の受診の待ち時間にカミングズの詩集を読んでた。詩は読むの楽でいいわ。ミエヴィルの小説とか辛すぎ。これから寝るまで、カミングズとボルヘスの詩集を読む。

EW&F聴いてたら元気が出てきた。

ぼくが買ったときには、4000円だったカミングズの詩集が、いま amazon 見たら、18000円だった。海外の翻訳詩集、もうちょっとたくさんつくっておいてくれないのかしらん。

EW&Fのアルバムで持っていないもの(売りとばしたため)を買い直そうと思って、アマゾン見たら、1円だったので、逆に買いたい意欲がなくなってしまった。買ったけど。EW&F『ヘリテッジ』

きょう、むかし付き合ってた男の子が遊びにきてくれてたんだけど、話の中心は、ぼくの五十肩。30代の彼には想像できないらしい。そうだよね。ぼくだって、自分が若いときには、存在しているだけで苦痛が襲ってくる老化現象など想像もできなかったもの。いまなら年老いた方の苦痛がわかる。遅すぎるかな。

カミングズ詩集、半分くらい読んだ。きょうは残りの時間もカミングズ詩集を読む。小説と違って、さくさくと読める。やっぱり、ぼくは詩が好きなのだと思う。

きょうから睡眠薬が1つ替わる。ラボナからフルニトラゼバムに。むかしは服用したら5分で気絶する勢いで眠れたのだけど、さいきんは眠るまで1時間くらいかかっているので、その時間を短くしてほしいとお医者さんに頼んで処方していただいたクスリの1つだ。11時にのむ。気を失うようにして眠れるだろうか。

あした、あさっては学校の授業がないので、カミングズとボルヘスの詩集を読み終えられるかも。翻訳詩集の棚をのぞいたら、読んでないものは、この2冊だけかな。

ゾンビ恋人たちは、互いに春を差し出す。
ひび割れた頬にいくつもの花を咲かせ、
枯れた指に蔓状の葉をつたえ這わす。
ゾンビ恋人たちの胸は、つぎの春を待つ実でいっぱいだ。
血のように樹液を滴らせながら、ゾンビ恋人たちは抱き締め合う。
ゾンビ恋人たちのあいだで、無数の春が咲きほこる。

寝るまえにクスリのチェックしたら、2つ替わってた。どんな状態で眠るのかわからないので、11時ジャストに服用することにした。1錠だけじゃなかったのね。ドキドキ。


二〇一六年二月九日 「哲学の慰め」


12時に眠った。3時半に起きた。腕の痛みで。痛みがなければ、もう少し寝れたと思う。

ようやくカミングズの詩と童話を読み終わった。肘の関節痛で、お昼から横になって、苦しんでいて、なかなか本を手にできなかったため。これから塾に行くまでに、カミングズの芸術論などを読む。カミングズの童話を読んで、こころがなごんだ。現実の苦痛のなかにあっても。

ボエティウスが『哲学の慰め』をどういう状況で書いたのかに思いを馳せると、ぼくの肘の激痛も烈しい頭痛も、なんてことはないと思わなければならない。もう左手いらんわと思うくらいに痛いのだけれど、それでも詩集を開き、詩を読み、自分の新しい詩作品の構想を練る自分が本物の奇人に思えてしまう。

これも1円やったわ。EW&F『Millennium』

ヤフオクとamazon のおかげで、欲しいものが簡単にすべて手に入る。ラクチンである。ネット時代に間に合ってよかった。ネット時代にいなかった芸術家には悪いけれど、芸術家にとって、こんなにラクチンな時代はないように思う。他者の芸術作品を手に入れるのも、自分の作品を見せるのも超簡単。

寝るまえの読書は、カミングズの散文。


二〇一六年二月十日 「いちびる。にびる。さんびる。」


むかし売ったやつね。新品で、612円だった。EW&F『Last Days & Time』

きょうは塾の給料日で、遊びに出かけたいのだが、体調がきわめて悪くて、たぶん、塾が終わったらすぐに帰って寝ると思う。塾に行くまでに、ミエヴィルとカミングズのルーズリーフ作業を終えたい。

ぼくは、カミングズの詩を読みながら、自分がしたことを思い出し、自分がしなかったことも思い出していた。

いちびる。にびる。さんびる。にびるは、いちびるよりいちびること。さんびるは、にびるよりいちびること。

鳥の囁く言葉がわかる聖人がいた。動物たちの言葉がわかる王さまがいた。さて、事物の言葉を解する者って、だれかいたっけ?

寝るまえに、ボルヘス詩集を読もう。


二〇一六年二月十一日 「闇の船」


きょうは体調が悪いので、京都詩人会の会合は中止します。

ご飯を買いにイーオンに。きのう、塾の給料日だったから、上等の寿司でも食べよう。

きのうブックオフで、サラ・A・ホワイトの『闇の船』を108円で買ったけど、以前に自分が売り飛ばしたやつだった。なにしてるんだろ。

ボルヘスの詩も飽きたので、ヤングの短篇集『ジョナサンと宇宙クジラ』を拾い読みして寝る。

けさ、京大のエイジくんの夢を見た。いっしょに大阪で食べもん屋で食べてたんだけど、エイジくんは常連さんだったみたいで、ドラッグクイーンのほかの客に話しかけられてて親しそうにしてたからちょっと腹が立った。齢とって40才くらいになってたかな。なんで夢みたんやろ。しょっちゅう思い出すからかな。


二〇一六年二月十二日 「ありゃりゃ。」


ボルヘスの詩を読んでいて、メモをとるのを忘れていた。


二〇一六年二月十三日 「理解の範囲」


苦労したり頑張ってつくったものに、あまりいい作品はなかったように思う。楽しみながらつくったものに、自分ではいいのがあるような気がする。『The Wasteless Land.』とか、ほんとに楽しみながらつくってた。まあ、どれも、楽しみながらつくってるけど。でも、思うんだけど、「こんなに苦労する」なんてのは、若いときだけの思いなんじゃないかな。ぼくも、若いときには、生きてること自体が苦痛に満ちていたように思うもの。いまは、苦痛なしの人生なんて考えられないし、苦痛をさけるなんていうのは怠け者の戯言だと思ってる。齢をとると、ひとには、自分の気持ちが伝わることなど、けっしてないのだという確信に至ると、まあ、たいてい、他人の言葉は、気分を害することのないものになるしね。ヴァレリーが書いてたように、ひとは自分の忖度できないことには触れ得ないんだしね。たくさんの詩人が、他の詩人の詩の評を書いているけれど、自分の理解の範囲がどれだけのものかを語っていることに気がつけば、そうそう、他人の詩について語ることはできないような気がするのだけれど。あれ? ずれてきたかな。ああ、ぼくは、こう書こうと思っていたのだった。「苦労して作品をつくる」などということは、創造的な人間にはあり得ないことなのだと。楽々と、楽しくつくってるんじゃないかな。しかも、実人生が与えてくれる苦痛をも、ある程度、おもしろがって味わっているような気がするしね。ずいぶん離れたこと書いてたなあって、いま気がついてしまった。ごめんなさい。思いついたら、なかなか言葉がとまらなくて。


二〇一六年二月十四日 「ロキソニン」


リハビリのひとつとして、SF小説のカヴァーをつくった。呼吸しているだけで、上半身の筋肉が電気的な痛みを帯びるような症状である。ストレスのあるときにこうなったことがあるが、いまストレスの原因はないはずなのだが。ペソアが47歳で死んだことを考えれば、55歳のぼくがいつ死んでもおかしくはない。このあいだ出した『全行引用詩・五部作・上巻』『全行引用詩・五部作・下巻』と、もうじき出るはずの『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』がさいごの詩集になってもおかしくはないのだが、ことし3月に編集する詩集『図書館の掟。』もぜひ出して死にたい。

きょうつくったクリアファイルカヴァーでは、ヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』が、いちばんかわいい。

痛みに耐えながらでも、ボルヘス詩集を読もう。苦痛を忘れさせてくれる読書というものはないのかな? 『歯痛を忘れる読書』とかいうタイトルで本を書けば、売れるかもね。

スピーカーの横からロキソニンが10錠見つかった。ためしに2錠のんでみる。いつの処方だったかはわからないくらいむかしのクスリ。

きょう、どこかで、ぼくの詩集が紹介でもされたのかしら? ぼくの楽天ブログ「詩人の役目」のきょうの閲覧者数が280人を超えてて、いつも30人から40人のあいだくらいなんだけど。

ロキソニンが効いているのか、腕を上げられるところまで上げても痛くない。とはいっても、肩くらいの高さだけど。しかし、痛みをとるクスリというのは、考えたら怖い。根本治療をしないで、痛みを感じさせないものなのだから。まるで音楽のようだ。

きょうは、もう寝る。クスリをのんだ。そいえば、きのう日知庵に行くまえに乗った阪急電車で、フトシくんに似た子が乗って、向かいの席に坐ったのだけれど、その記憶が残っていたのか、日知庵からの帰り道、フトシくんが、ぼくのために歌ってくれたユーミンの「守ってあげたい」が頭のなかに流れた。

書いておかなければ、日常のささいなことをほとんどすべて忘れてしまうので書いておいた。きのう書こうと思って忘れていた。思い出したのは、音楽の力だ。適当にチューブを流していたら、とてもファンキーな音楽と出合って、思い出したのだった。


二〇一六年二月十五日 「モーム、すごいおもしろい。」


ボルヘスの詩集を読みながら寝てしまった。きょうは、もうボルヘスの詩集を読み終わりたい。ルーズリーフ作業も終えたい。コーヒーのんだら、さっそく読もう。

きのうまでの無気力が嘘みたい。痛みどめが効いているのだろう。気力が充実している。ボルヘス詩集を読み終わり、あまつさえ、ルーズリーフ作業も終わったのだった。きょうは、これから、岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻を読む。良質の文学作品によって、霊感を得るつもりだ。

痛みどめで、こんなに気力が変わるなら、もっと早くのめばよかった。きょう、あとでイーオンに五十肩専門の痛みどめを買いに行こう。

キップリングを読んでいる。

きょうはまだ痛みどめを服用していないのだが、関節の痛みはないわけではなく、痛みどめをギリギリまで服用しないでおこうと思っただけであった。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻2作目、アーノルド・ベネットの作品、えげつない。ベネットといえば、有名な格言があったけれども、それも、えげつない。たしか、こんなの、「とにかくお金を貯めなさい。それだけが確実に、あなたを守ってくれるものだから。」だったかな。うううん。それとも、「一にも二にも、お金を貯めなさい。お金を持っていないことは、お金がないことと同様に無価値だからである。」だったかな。なんか、お金に関する格言だった。イギリス人の作家の意地悪なところが大好きである。

半端ない寒さなので暖房をつける。ふだんは、けちってつけていない。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻、3つ目に収録されているモームの『ルイーズ』を読んでいるのだが、あまりにもおもしろくて、声を出して笑ってしまった。ああ、そうか、こんな書き方もあったんだなって思った。笑けるわ〜。

イギリス人のユーモアは、えげつなくて大好き。ウッドハウスのも収録されてたと思うけど、モーム、集めようかな。創元から出てるエラリー・クイーン編『犯罪文学傑作選』に入ってるモームの『園遊会まえ』も笑いに笑った作品だったが、モームって、こんなにおもしろかったなんて知らなかった。『ルイーズ』も『園遊会まえ』も、女性をひじょうに嫌っている感じがしたのだけど、ウィキを見ると、モームはゲイだったんだね。知らなかった。大先輩だったんだ。ぼくもゲイだけど、べつに女性が嫌いではないし、作品のなかで、女性にひどい扱いをしたことなんかもないけど、そういうひとはいるかな。

クリスティやP・D・ジェイムズのように、えげつない女性を書く女性の作家もいるし、性はあまり関係ないのかもしれない。まあ、もともと作家の性なんて、あまり指標にはならないものかもしれないしね。ティプトリーのような例もあるしね。そいえば、ぼくも、レズビアンものを書いたことがあったっけ。というか、一人称の女性として書いたものもあるしなあ。そいえば、蠅になって書いたこともあるし、同時にさまざまな人物(これまたイギリス出自のぬいぐるみキャラ含め)になって書いたこともある。性も、性的志向も、作品とは、あまり関係がないものかもしれない。


二〇一六年二月十六日 「ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!」


ぼくの詩集がヤフオクで100円で売られていた!

わっ。どなたか買つてくださつたみたい。ぼくには、お金が入らないけど、ありがたいことだとこころから思ふ。ありがたうございました。このやうに、ぼくの詩集がぜんぶ100円だつたらいいのだけれど。

きのう眠るまえに、ウッドハウスの『上の階の男』を読んだことになっている(栞でわかる)のだけれど、いま読み返したら、ぜんぜん憶えていなかったので、もう一度読んで寝る。また憶えてなかったら、あしたも読む(かな)。

きょうも暖房をつけて寝る。貧乏人がどんどん貧乏になっていく冬。はやく終わりなさい。


二〇一六年二月十七日 「確定申告」


確定申告に行ってきた。

塾の帰りに、ブックオフで2冊買ったけど、1冊は本棚にあったものだった。そうだよね。本をめくってみて読んだ記憶がなかったから買ったんだけど、ぼくが買わないわけはない本だった。岩波文庫の『ギリシア・ローマ名言集』記憶がないのは、ただ忘却しただけだったのだ。お風呂場で読み直して捨てる。

あと1冊は、これもむかし読んだかもしれないけれど、確実に本棚にはないことを知っている本だった。荒俣宏監修の『知識人99人の死に方』 ぼくもじきに死ぬことになると思うから、つい買ってしまった。一人目が手塚治虫で、60歳で胃がんで亡くなっていたのだった。有吉佐和子は享年53歳である。

痛み止めをのんで、お風呂に入ろう。『ギリシア・ローマ名言集』をもって入るけれど、読むのが怖い。読んだ記憶がないのが、とても怖い。

きょうジュンク堂に寄って、見つからなかったから、amazon で、注文した。『モーム語録 (岩波現代文庫)』

お湯をバスタブに入れるまえに鏡で自分の顔を見てびっくりした。真白である。目のしたに隈ができていて、ほとんどゾンビのような顔である。じきに死ぬどころか、とっくに死んでいる顔である。記憶力が低下していることも怖いけれど、顔のほうが、もっと怖い。


二〇一六年二月十八日 「バッド・ベッティング」


彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
be
free
思いがけない
バッド・ベッティングで
ドライブ
「この近くに風呂屋ってないの?」
「いっしょに行く?
 ぼくもいまから行くところやから」
彼は
彼女とカーセックスするために
ぼくにきいたのだった。
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
free
「ぼく、この曲
 好きなんだよね。
 いいでしょ?」
大黒のマスターが苦笑い。
「はいはい。
 あっちゃんの好きな曲ね」
メガネの奥が笑ってないし、笑。
be
free
「これって
 スクリッティ・ポリティも歌ってなかったっけ?」
彼女の手のひらのサイズの
郵便切手
エナジーにみなぎる
カーセックス
ぼくは、彼が
彼女とカーセックスするって知らなかった。
「なんで同じシーンが繰り返されるの?」
大学でもそうだった。
友だちは
彼女のことよりも
ぼくのことのほうが好きだって
思い込んでた。
ゾーン
フィールド
ルルドの泉
そして
街は
思い出の
プレパラート
Mea Culpa


二〇一六年二月十九日 「あいつらのジャズ」


これからお風呂に。お風呂から上がったら、『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業をして、下巻を読む。

55歳という齢になって若さも美しさも健康も失ったのだけれど、そのおかげで、ぼくへの評価はただ作品の出来によるものだけであることがわかる。なんの権威もなく、後ろ盾となってくれるひともいないので、ただ才能のみによって、ぼくへの評価がなされる。あるいは評価などされないということである。

ルーズリーフ作業。楽しい苦しい作業。苦しい楽しい作業。日々の積み重ね。才能も、努力があってこそ発揮されるものなのである。

岩波文庫『20世紀イギリス短篇選』上巻に入っているハクスリーの「ジョコンダの微笑」は、創元推理文庫の『犯罪文革傑作選』では、タイトルが「モナ・リザの微笑」になっていたが、同じものだ。訳者が違って、翻訳の雰囲気がぜんぜん違う。創元のほうを先に読んでいたのだが、岩波のも軽くて好きだ。若い愛人の女が、38歳の男にむかって、「ねえ、小熊ちゃん」と何度も呼びかけるのが岩波のほうの訳で、なんともコミカルである。創元のほうの訳では「ねえ、テディー・ベア」と呼びかけるのだが、「ねえ、小熊ちゃん」と呼びかけられる太った男の姿の方がかわいい。いずれにしても、複数のアンソロジーに入るのだから、大したものだ。たしかに傑作だ。ぼくのこんど出した『全行引用詩・五部作・上巻』にも、引用した箇所がある。創元の龍口直太郎の訳の方だけど。岩波文庫を先に読んでたら、小野寺 健の訳の方を引用してたかもね。

時間とは、すなわち、ぼくのことであり、場所とは、すなわち、ぼくのことであり、出来事とは、すなわち、ぼくのことである。

本質的なものが失われることなどいっさいない。それが言葉の持つ霊性の一つだ。ぼくが描写した言葉のなかに、その描写した現実の本質がそっくりそのまま含まれているのだ。そうでなければ、ぼくが言葉にして描写することなどできるわけがないではないか。

ぼくは彼に惹かれた。彼がぼくに惹かれた様子はまったく見えなかった。

選ばれなかった言葉同士が結びついていく。選ばれなかった人間たちが互いに結びついていくように。

きょうもお風呂から上がったら、両肩、両肘にロキソプロフェンnaテープ100mgというシップをして、痛みどめにしている。3回か4回、自殺未遂したけど、死なずによかった。齢をとって、こんなに身体が痛いなんてことを知ることができてよかった。苦痛が、ぼくの知的な関心を増大させるからである。

齢をとって、身体がボロボロになって、苦痛に襲われて、こんなに愉快なことはない。この苦痛のなかで、ぼくは本を読み、笑い、考え、反省させられ、詩句のアイデアを得ることができるのである。おそらく、ぼくは、どのような苦痛のなかであっても、その苦痛をさえ糧とするだろう。詩を生きているのだ。いや、詩を生きているのではない。詩が生きているのだ。ぼくという人間の姿をして。

岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上巻のルーズリーフ作業が終わったので、読書をする。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻である。楽しみである。

ジーン・リースの「あいつらのジャズ」よかった。不条理だと思うけれど、人生って不条理だらけだものね。納得。まあ、刑務所というところには入ったことはないけれど、描かれているようなものなのだろうなとは思う。イギリスで差別されてた有色人種の側から見たものだったけれど、訳がよかった。


二〇一六年二月二十日 「星の王子様チョコ」


夕方から日知庵に。それまで『モーム語録』でも読んでいよう。

いま帰った。竹上さんから、星の王子様のチョコレートをいただいた。包装もおしゃれだし(本のように出し入れできる)紙袋もおしゃれだった。やっぱり、かわいいものを、女子は知ってるんだな。

竹上さんにいただいた星の王子様チョコ、めっちゃ、おいしい。


二〇一六年二月二十一日 「こころの慰め」


きょうは一行も読んでいない。数学もまったくしていない。ただただ傷みに耐えて、横になっていた。こころを癒してくれたのは、SF小説の本のカヴァーの絵たちである。ぼくの部屋の本棚に飾ってある本は、安いものだと、300円くらいだ。高くても、文庫なら、せいぜい1000円くらいだ。ブコウスキーの単行本『町でいちばんの美女』と『ありきたりの狂気の物語』は、両方ブックオフで105円で買ったものだ。また、アンソロジーの『太陽破壊者』も105円だった。もちろん、値段ではないのだ。絵のセンスなのだ。写真のセンスなのだ。しかし、その多くのものが安かったものだ。おもしろい。ぼくは安い値段のものを見て、こころおだやかに、こころ安らかに生きている。ぼくのこころをおだやかにさせるのに、何万円も必要ではない。

神さまに、こころから感謝している。ぼくに老年を与えてくださり、身体をボロボロにして苦痛を与えてくださり(左手は茶碗を持っても傷みと麻痺でブルブルと小刻みに震えるのだ)、そうして、大切な大切な読書という貧乏な者にでも楽しめる楽しみを与えてくださって。

ぼくは絵描きになりたかった。でも、部屋の本棚に飾ってある美しい絵の一枚も、きっと描く才能はなかったと思う。神さまはそのかわりに、ぼくに絵を楽しむ才能を授けてくださった。ぼくには、『ふるさと遠く』『発狂した宇宙』『幼年期の終り』などの初版の絵がある。『空は船でいっぱい』『神鯨』『呪われた村』『ユービック』『世界のもうひとつの顔』『法王計画』『シティ5からの脱出』『窒素固定世界』『キャメロット最後の守護者』『ガラスの短剣』『縮みゆく人間』などの素晴らしい初版の絵がある。まことに幸福な老年である。


二〇一六年二月二十二日 「ノブユキ」


これから幾何の問題をつくる。きょうは一日中、数学だな。

きょうやるべきことがすべて終わったので、これから飲みに行く。

いま、きみやさんから帰った。おしゃべりしていて、とても楽しい方がいらっしゃった。三浦さんという方だった。また、同志社の先輩で、とてもかわいらしい方がいらっしゃった。年上の方でも、ごくたまに、かわいらしいと思える方がいらっしゃる。ごくごく、たまだから、ほんとにごく少ないのだけれど。

ほんとにいやしいんだと思う、本に対して。『Sudden Fiction』をブックオフで108円で見つけて、また買った。お風呂に入って、読もうという魂胆が丸見えである。お風呂に入りながら見るのに、ちょうどいいんだよね。また、ぼくの忘却力もすごいから、再読したくもなるわけだ。うにゃ〜。

人間には2種類しかいない。愛というものがあると思っているひとと、愛という観念があると思っているひとの。

ぼくが1年1カ月1週間1日1時間1分をどう過ごすかよりも、1年1カ月1週間1日1時間1分が、ぼくをどう過ごすかの方により興味がある。

きみの1分は、ぼくの1時間だった。きみの5分は、ぼくの1週間だった。きみの1時間は、ぼくの1か月だった。きみの1日は、ぼくの永遠だった。

愛が永遠だというのは嘘だと知った。永遠が愛だったのだ。

愛については何も知らない。ときには、何も知らないことが愛なのだ。

愛があると思って生きていると、そこらじゅうに愛が見つかる。愛というものがどんなものか、くわしく知らなくても、ともかく、愛というものが、そこらじゅうにあることはわかるようだ。

特別な名前というものがある。それは愛と深く結びついた言葉で、その名前を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。その熱で楽に呼吸することができないくらいに。

nobuyuki。歯磨き。紙飛行機。

きみは最高に素敵だった。もうこれ以上、きみのことを書くことは、ぼくにはできない。

2年のあいだ、付き合ってた。きみはアメリカに留学してたから、いっしょにいたのは数か月だったけど。なにもかもが輝いていた。その輝きはそのときだけのものだった。それでいいのだと、齢をとって悟った。そのときだけでよかったのだ。その輝きは。そのときだけのものだったから輝いていたのだ。


二〇一六年二月二十三日 「われわれはつねに間違っている。たとえ正しいときでさえも。」


岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』下巻を読んでいて、帰りに、エリザベス・テイラーの『蠅取紙』を読んでたら、これを読んだ記憶があったので、帰って、ほかのアンソロジーを見たけどなかったので、この岩波文庫自体で過去に読んでいたことを忘れていたようだ。まあ、いい作品だからいいのだけど。

先週、ひさしぶりに会った友だちが、横に太ったねと抜かすので、頬を思い切りひっぱたいてあげた。太ったって言われることは、べつにどうでもいいんだけど、たまにひとの顔面を思い切りひっぱたきたくなるのだ。みんなMの友だちを持つべきだと思う。すっきりするよ。

時間を経験する。
場所を経験する。
出来事を経験する。

逆転させてみよう。

経験を時間する。
経験を場所する。
経験を出来事する。

経験を時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験を出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

あるいは

経験が時間する。
経験が場所する。
経験が出来事する。

経験が時間するという言葉で
時間という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が場所するという言葉で
場所という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。
経験が出来事するという言葉で
出来事という言葉の意味が多少とも変質してはいないか。

時間の強度。場所の強度。出来事の強度。
時間の存在確率。場所の存在確率。出来事の存在確率。
時間の濃度。場所の濃度。出来事の濃度。

この現在という、新しい過去である古い未来。

過去と未来が互いの周りをめぐってくるくると廻っている。
現在は、どこにも存在しない。
回転運動をさして現在と言っているが
それは完全な誤謬である。

われわれはつねに間違っている。
たとえ正しいときでさえも。

最後の2行は、ガレッティ教授の言い間違いの言葉の一部を逆転させたもの。


二〇一六年二月二十四日 「もっと厭な物語」


『20世紀イギリス短篇選』下巻、あと2篇。これが終わったら、『フランス短篇傑作選』を読もうと思う。これまた過去に読んだような気もするが、かまいはしない。読んだ記憶がないのだもの。さすがに、アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」は、ほかのアンソロジーにも入ってて知ってるけど。

田中宏輔は80歳で亡くなります。亡くなる理由は暗殺です。
https://shindanmaker.com/263772

田中宏輔に関係がありすぎる言葉
「妄 想」
https://shindanmaker.com/602865

田中宏輔さんの3日後は、深夜1時頃、人通りの少ない場所を歩いていると、田中宏輔さんの性的欲求を満たしてくれる消防士に出会い、殴られるでしょう。
#3日後の運勢
https://shindanmaker.com/603086

塾の帰りに、ブックオフで、文春文庫『もっと厭な物語』を108円で買った。エドワード・ケアリーの作品のタイトルだけで笑けた。「私の仕事の邪魔をする隣人たちに関する報告書」というのだ。日本人作家が4人も入っているのが気に入らないが、外国人作家の方が多いから、まあ、いいか。表紙がグロくてよい。


二〇一六年二月二十五日 「戦時生活」


シェパードの『戦時生活』、まだ読み切れない。
こんなに時間のかかった小説ははじめてかもしれない。
実験的な手法も、きれがいいし
マジック・リアリズムそのものの表現もいいし
作品価値については
いっさい文句はないんだけど
読む時間がかかりすぎ〜。
文章を目で追うスピードと
ヴィジョンが見えるスピードに
差があって
とても時間がかかっている。
内容がシリアスすぎるのかなあ。
それとも
ぼくが齢をとったのか。
「心がつくりだすものを、精神がうち壊すことはできない」(小川 隆訳)
という言葉が、347ページ3,4行目に出てくる。
おびただしく、ぼくはマーキングして、メモを書いている。
そのため、もう1冊、ネット古書店で買った。


二〇一六年二月二十六日 「たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。」


たしかに、ぼくはむかしからブサイクでした。赤ん坊のときでさえ、そのブサイクさに母親があきれ果て、育児放棄をしたくらいですから。家には、ぼくのようなブサイクな赤ちゃんの面倒を見るような家族は一人もいませんでした。必然的に乳母となる女性を、親は雇ったのですが、その乳母の顔がまたブサイクで、ぼくは赤ん坊ながら、そのブサイクさにびっくりして、乳母がぼくの顔を見るたびに痙攣麻痺したそうです。ぼくのブサイクさと乳母のブサイクさを合わせると、カメラのレンズでさえすぐに割れたそうです。ですから、ぼくの赤ん坊のときのブサイクな写真は存在しておりません。伝説的な乳母のブサイクさは、ぼくが幼稚園に通う頃の記憶からすると、顔面しわだらけのお化けでした。幼稚園では、ぼくくらいのブサイクな子がほかにも一人いたので、そのブサイクな子と、いつもいっしょに遊んでいました。小学校、中学校と、そのブサイクな子とずっと同じ学校に通っていたのですが、高校にあがるときに、学力の違いから、別々になりました。でも、幸いなことに、ぼくが劣等な高校で上位になると、彼は優等な高校の下位になり、同じ大学で再会することができたのでした。しかし、世のなかには、変わった嗜好をしているひとたちがいて、ブサイクなぼくにも、ブサイクな彼にも、ブサイク専の彼女ができたのでした。ぼくの彼女も、彼の彼女もそこそこの美人でした。「あなたたちは、わたしたちのペットなのよ。」と、彼女たちに言われたことがありますが、まさしくペットの飼い主のように、ぼくたちにやさしく接してくれていました。大学を出て就職して、それぞれの彼女たちと結婚したのですが、ぼくの子どもも、彼の子どももとてもブサイクで、彼女たちの容姿を遺伝することはなかったようでした。でも、ぼくの子どもと、彼の子どもがとても仲がよくて、将来、結婚させようか、などと話したことがあるのですが、彼女たち二人ともが絶対にだめだわよと言うのでした。ブサイクならかまわないのよ、ブサイクの2乗は、もう人間ではなくってよ。と、二人の女性は同じことを言うのでした。ブサイクと、ブサイクの2乗に違いがあるのか、よくわからないのですが、ぼくも、彼も、女性陣にはかなわないので、ぼくたちの子ども同士の交際は、結婚にまで至らせることはできないものだと思っております。

ラクダが針の穴を通るのは難しいが、針の穴がラクダを通るのは難しくない。

ぼくは傑作しか書いたことがないから、傑作でない作品を書いているひとの気持ちは想像することしかできないけれど、よりよい作品ができたら、その作品以前の作品は、できたら、なかったことにしたいのではなかろうか。しかし、詩句や文章がそうなのだが、書いてきたものをなしにすることはできない。しかし、じっさいの生活のなかでは、こういうことはよくある。ある一言で、あるいは、ある一つの振る舞いで、その言葉を発した相手のことを、そのような振る舞いをした相手のことを、さいしょからいなかったことにするのである。じっさいの生活では、しじゅうとは言わないが、よくひとが、いなくなる。

岩波文庫の『フランス短篇傑作選』おもしろすぎ。イギリス人の意地の悪さも相当だけれど、フランス人の意地の悪さも負けてはいないな。意地の悪さというより、気持ち悪さかもしれない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝る。痛みどめを入れると10錠である。わしは、クスリを食っておるのだろうか。

きのう、10年ぶりくらいに、うんこを垂れた。おならだと思って、ブッとしたら、うんこが出たのだった。すぐにトイレに駆け込んで、パンツを脱いで、クズ入れに捨てて、ビニールの口をふさいだのだ。もちろん、パンツを脱ぐまえにズボンを脱いだ。下半身丸出しだった。まあ、個室トイレのなかだけど。


二〇一六年二月二十七日 「柔道部の先輩」


以前に書いたかな。愛の2乗はわかるけど、愛の平方根はわからないって。

10年くらい前、京大生の男の子に、あまり考え方が拡げられなくてと言われて、「読むもの変えれば?」と答えたらびっくりしてたけど、そのびっくりの仕方にこちらのほうがびっくりした。読む本が変われば、見る映画が変われば、食べる食べものが変われば、ひとは簡単に変われるものだと思ってたから。

これから、むかし付き合ってた子とランチに。けっきょく、お弁当買って、部屋でいっしょに食べただけ。あとは、腰がだるいと言うので、腰をマッサージしてあげただけ。ぷにぷにした身体をさわるのは大好きなので、いいよいいよって言って、揉んであげた。高校時代の柔道部のかっこいい先輩にマッサージさせられたときのことが、ふと思い出された。


二〇一六年二月二十八日 「目が出てる。」


目が出てる。あごが出てる。おでこが出てる。おなかが出てる。指が出てる。足が出てる。

目が動いてる。あごが動いてる。おでこが動いてる。おなかが動いてる。指が動いてる。足が動いてる。


二〇一六年二月二十九日 「なにげない風景」


きみやさんに行くまえに、オーパのブックオフで、新潮文庫の『極短小説』というのを買った。108円。浅倉久志さんが選んだ極端に短い話(55字以内)が載っていて、ぼくがいま『詩の日めくり』で1行や2行の作品も書いてるけれど、なんかおもしろそうだと思って買った。オーパのブックオフの帰りに載ったエレベーターで、ボタンのそばにいた男の子がかわいいお尻をしていたので、ずっと見ていて、1階に降りたときに、「ありがとう」と言うと、ぼくの顔を見て、きょとんとしていた。


二〇一六年二月三十日 「点の、ゴボゴボ。」


病院には直属の上司はきませんでした。
きてくれたのは
今年の教育係のひとと
今年いっしょに入ったひとの二人だけです。
うれしかったです。
でも
ひとりは
教育係のひとですけど
最後のほう
時計をチラチラ見て
その病院の近くにある会社に
会社の用事があって
そのついでに寄っただけだと言ってました。
─それってもしかしたら、女性?
ええ
どうしてわかったんですか。
─だって、女のひとに多いじゃん。
 相手のこと、いい気持ちにさせといて
 あとで突き落とすの
 言わなくてもいいこと、へいきで口にできるんだよねえ
 そゆひとって
 いやあ
 いるいる
 いるわ〜
 前に
 西院の王将でさ
 スープをかき混ぜてた女の子の定員が
 鍋からね
 レンゲが出てきたんだけど
 そんなの口にしなきゃ
 客にはわからないのに
 声を張り上げてさ
 なんでレンゲが入ってるの
 なんて言うんだよね。
 それって
 客が食べ残したスープ
 もどしたってこと?
 って、ぼくなんか思っちゃって
 注文したのが定食だったんで
 出てきたスープ
 まったく飲まなかったよ
 なんちゅうバカだろね。
 きっと、バカは一生バカだよね。
 気分わるかったわ。


二〇一六年二月三十一日 「みつひろ(180センチ・125キロ。ノブユキ似のおデブさん)」


「三か月くらいになるよね、前に会ってから。」
「それぐらいかな。」
「ちゃんと付き合おうよ。」
「それはダメ。」
「どうして?」
「ほんとうになってしまうから。」
「彼女に悪いと思ってるんだ。」
「器用じゃないから。」
「もっと長い時間、いっしょにいたいんだけど。」
「ごめん。」
「35だっけ?」
「36になった。」
「何座?」
「しし座。」
「じゃあ、なってまだ2か月くらい?」
「うん。」
「胸毛、なかったっけ?」
「そってる。」
「なに、それ?」
「半年に一度くらい、そってる。」
そいえば、ノブユキも胸毛をそってた。
「彼女がそうしてって言うの?」
「・・・」
あんまり腹が立つから
一時間以上キッスしつづけて
口がきけないようにしてやった。


詩の日めくり 二〇一六年三月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年三月一日 「ブロッコリー」


いま、阪急西院駅の前のビルに自転車をとめたら
めっちゃタイプの男の子が近づいてきて
わ〜
さいきん、ぼく、めっちゃ、もてるわ〜
ってなこと考えてると
その子が言いました。
「このビルのどこかに行かはるんですか?」
「そだよ。本屋にぃ」
「じゃあ、すぐに戻ってこられますね」
「すぐだよん」
その子はシャツのエリがとてもきつそうだった。
20歳すぎかなあ。
ぼくの目をじっと見ながら、しゃべってた。
ガチムチの彼は
お巡りさんの制服のよく似合う子だった。
惚れられたかもね。

お昼に、ピザ、思いっきり食べた。
ブロッコリーといくらといっしょに。いつ死んでもよい。
いくらと違って、おくらと、笑。

きょうは、夕方に、2年ぶりに会ったかわいい男の子とチューをしたので、
もういつ死んでもよい。

寝るまえの読書は、『極短小説』か、『フランス短篇傑作選』か、どちらかにしよう。


二〇一六年三月二日 「幸福」


いま日知庵から帰った。よっぱ〜。きょうは、学校が終わって、
大谷良太くんちでお昼寝させてもらって、夕方から飲みでした。ぐは〜。ねむ〜。

one of us であること。one of them であること。
これ以上に、ぼくたちが、彼ら彼女たちが忘れてはならないことはないと、
詩人のぼくは断言する。

『極短小説』をあと少しで読み終わる。ぼくは『詩の日めくり』で、1行や2行の詩を書いているのだが、ぼくのものよりゆるいと思われる作品がほとんどだった。ぼくは、ぼくの道を歩む。過ちではないと思う。過ちではなかったと思うと思う。ぼくは幸福だなと思う。ぼく自身のことを信じることができて。


二〇一六年三月三日 「極短小説」


あまりの苦痛に、痛みどめと、睡眠薬のあまっているもの(以前に処方されて余ってたもの)を飲んでたら、幻覚と幻聴を起こした。さいしょ、夢のような幸せな場所、映画館で映画を見るようにして、自分のタイプの子と話をしてたら、そいつがいきなり首だけの化け物になり、ぼくを宮殿に連れて行き、ぼくに、ぼくの文学的歴史の系図を見せた。ぼくはロビンソン・クルーソーのように孤立して生きるらしい。生きているあいだはまったくの無名で、ぼくの作品が評価されるのは死んでからだという。でも、まあいいよと言った。死んでからでも評価されないよりずっといいし、というと目が覚めた。ぼくは泣いて目が覚めたのだが、痛みはまだきつい。塾があるまで時間があるので、もう一度、クスリを追加して飲んでみる。幻覚が異常に生々しかった。ぼくは、違う世界とコンタクトしていたのだと思う。生きているあいだは孤立するというのは、ぼくらしくていい。

浅倉久志訳の『極短小説』レベル低くて、捨ててもよい本だが、挿絵がかわいいので本棚に残すことにした。話はレベルが、ほんとに低い。お風呂場では、『Sudden Fiction』を読んでいるのだが雲泥の差である。これから塾に行くまで、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読む。

きょうも、岩波文庫の『フランス短篇傑作選』を読みながら寝よう。


二〇一六年三月四日 「モーム」


きょう、医院の待ち時間にジュンク堂に行って、モームの『サミング・アップ』と、『モームの短篇選(上)』と『モームの短篇選(下)』を買った。2900円くらい。岩波文庫の『フランス短篇傑作選』のさいごを読んでるときに、医者に呼ばれた。『フランス短篇傑作選』さすが傑作選だわ。とてもよい。数日前に買って読んだ『極短小説』あまりにしょうもないので捨てるわ。やっぱり、本棚には傑作しか置いておく必要性がないもの。そいえば、岩波文庫から、ゲーテのファウストの新訳が出てるのだけれど、困るわ。森鴎外以外のすべてのファウスト訳をそろえている身にとっては。『モーム語録』を半分くらい読んだ。おおよその思考のパターンはつかんだ。


二〇一六年三月五日 「寄せては返す彼。」


寄せては返す彼。I

寄せては返し
返しては寄せる彼。
彼の身体は巌に砕け
血飛沫をあげる。
月が彼の上に手をのばして
彼の身体をゆさぶる
星が彼の身体に手をさしのべて
彼の身体をゆさぶる
彼の身体は
百億の月の光にあふれこぼれ
千億の星の光に満ちあふれる。
彼は砕け
彼は散る
寄せては返し
返しては寄せる彼。
百万の彼が
昼も
夜も
やすみなく
たえまなく
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼が
岸辺を
コロコロと転げまわる
百万の彼は
背広を砂まみれにして
白いシャツを
砂まみれにして
岸辺を
コロコロと
コロコロと
転げまわる
巌に
砕ける
百万の彼
彼の
無数の
手の指が
顔の皮膚が
血まみれの巌の上にへばりついている
巌にへばりついた
血まみれの指
巌にへばりついた
血まみれの顔
こぼれ落ちる歯や爪たち
コロコロと転げまわる
百万の彼
寄せては返し
返しては寄せる彼の身体
彼の身体がひくと残る
無数の手の跡
彼の手が引っ掻く砂の形
壊れては修復される
無数の傷跡


寄せては返す彼。II

寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女のマンションの駐輪場で
彼は寄せては返し
返しては寄せる
駐輪場の小さい明かりの下で
百万の彼の身体が
コロコロと転がる
自転車やバイクのあいだの狭いところを
コロコロと転げまわる百万の彼の身体
彼女を待つ一途な気持ちが
百万の彼の身体を
駐輪場の上にコロコロと転がせる
百万の彼の身体は
ざらついたコンクリートの上で
擦り傷だらけ
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの駐輪場


寄せては返す彼。III

お目当ての彼女が帰ってきた
寄せては返し
返しては寄せる彼
お目当ての彼女をマンションの入り口で
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
お目当ての彼女を囲んで
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼
彼の身体が
彼女の身体に砕け
彼女の身体が
彼の身体に砕け
血まみれになる
彼女と彼
寄せては返し
返しては寄せる彼
百万の彼の身体が
倒れかける彼女の身体を支え
あっちに傾き
こっちに傾いた
彼女の身体を支える
寄せては返し
返しては寄せる
百万の彼の身体
彼女のマンションの入り口


二〇一六年三月六日 「一日に、2時間か、3時間くらいしか働いていないよ。」


きのう、日知庵で、65歳のレディーたちお二人と、竹上さんと、はるくんと飲んだのだけれど、齢をいくことほど人間をおおらかにしていくものはないのかもしれない。55歳のぼくは、まだとがっている。

平日に、1日に、2時間か3時間しか働いていないという人生を55歳までずっとやってて、って、きのう、日知庵で、はるくんと、竹上さんに、そう言うと、びっくりしてたんだけど、ぼくのほうもびっくりしたよ。非常勤講師で、塾の講師なんだから、そんなに労働時間あるわけないやんかと思うのだけど。

目が覚めているあいだの、人生のほとんどの時間を、読書と思索に使うというのが、ぼくの人生設計の基本なのだから、そんなに働いてはいられないのだ。

あさ9時に、かっぱ寿司まえに集合します。近くのラブホテルのサービス時間にセックスするために。とにかく長いセックス。やたらと長い時間のセックス。ふとももとか、女性だから、あざだらけになるんです。1週間前にセックスしたばかりなのに、またセックスするんです。彼って、ケダモノでしょう?

お風呂に入って、『Sudden Fiction』のつづきを読もう。少なくとも、これで3度目。というか、3冊目。

あしたは、えいちゃんと、隈本総合飲食店で食事をする。なに食べようかな。

きゃは〜。ハヤカワから、コードウェイナー・スミスの全短篇集が出る。ぜんぶで、3巻だって。既訳されたものは、ぜんぶ持ってるけど、買うよん。それから、マイクル・コーニイの『プロントメク!』が河出から出てる。これは名作だった。ボブ・ショウは出さないのかしら?

きょうは、昼間にマクドナルドで、ベーコンバーガー食べて、あとで、コンビニで豆腐とサラダを買って食べたけど、いまちょこっとおなかがすいている。ちょっと遠いけど、ライフに行こうかな。


二〇一六年三月七日 「愛とは軽さのことだ」


愛とは軽さのことだと思うことがある。どれだけ気楽に接することができるかっていう軽さのことだけどね。愛とは早さのことだと考えることがある。どれだけ素早く、ぼくがきみの立場になって考えられるかっていう早さだよ。ああ、愛は、そうだよ。軽さと早さのことなんだよ。それ以外のなにものでもない。

これから河原町に。まずブックショッピングして、それから、えいちゃんと隈本総合飲食店に。

えいちゃんと、隈本総合飲食店と、きみやさんに行ってきた。ジュンク堂では、ティプトリーの新刊を買った。ティプトリーは、『輝くもの、天より堕つ』以来だから、数年ぶりかな。短篇集だった。楽しみ。

amazon で、自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、最新刊の『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』(思潮社オンデマンド・2016年2月刊)が、そこそこ売れているので、うれしい。表紙に撮らせていただいた「まるちゃん」の画像効果だと思う。すてきだものね〜。

これからも友だちがつぎつぎに表紙になってくれる予定だ。まず、つぎに思潮社オンデマンドから出す予定の『図書館の掟。』では、強烈なインパクトのある画像を「はるくん」からいただいている。ぼくが極右翼と間違われるかもしれない危ない画像だが、とても美しい。

こんなのだ。→@atsusuketanaka https://pic.twitter.com/nO02kUzu6d


二〇一六年三月八日 「ユダヤ警官同盟」


長時間にわたって幻覚を見ていた。それは現実の記憶を改変するほどのものだった。もうちょっとで、たいへん失礼なことをひとにすることになっていたかもしれない。文学作品を読んでいると、非現実のできごとを現実に取り込んでしまうことがある。気がついてよかった。よく知っている方の親戚で、厭なことを言われて憤慨したのだが、目が覚めて、そのような人物が存在しないことに気がついたのだった。しかし、シチュエーションは生々しかった。

塾に行くまえにブックオフで、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上下巻を買った。未読の本が増えていく。本棚がまだ埋まる。死にたい。というか、寝るわ。クスリのんで。おやすみ、グッジョブ! あ、まえに付き合ってた子からうれしいメールが。チュって、さいごに。そうか、キスしたいのか。


二〇一六年三月九日 「目の見えないひと」


きょうは、朝に3つの幻覚を見たので、あしたの朝は、どかな。楽しみ。学校の授業がないと、幻覚じみた夢を見まくり。やっぱり緊張感がないと、幻覚を見やすいのだろう。きょう見た3つ目の幻覚は現実を反映しまくりなので、無意識領域のぼくの自我からのメッセージは意識領域のぼくの自我に伝わった。

これからきみやさんに。きみやさんのお客さんで、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』を買ってくださった方に詩集をもっていく。その方は目が不自由なので、amazon でポチできないから、ぼくが代わりにポチして買ったのだった。ぼくのポートレートをつけて差し上げようと思っている。


二〇一六年三月十日 「引力の法則」


きょう、日知庵に行くまえに、四条大宮で、このあいだチューした男の子と会ったのだけれど、声をかけられなかった。向こうは、携帯に夢中で気がついてなかったみたいだった。まあ、いいか。クスリのんだ。学校の授業がないから、めっちゃノンビリ。

引力の法則について考えてみた。ぼくたちが引き合う力なんて、地球がぼくたちを引っ張る力に比べたら、限りなくゼロに近いんだよ。だから、ぼくたちが引き合っていないように見えるときがあっても、それはあたりまえのことで、じつは引き合ってて、引き合ってることに気がついてないだけなんだよ。


二〇一六年三月十一日 「木になってしょうがない。」


いま、ティプトリーの『あまたの星、宝冠のごとく』と、岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』と『モーム語録』を変わりばんこに読んでいる。意外と話はまじわらない。『Sudden Fiction』は読み終わった。本棚に再読用のものがあるので、お風呂場で読んだものは捨てる。

きょうのあさは、引っ越しをしている夢を見た。上りにくい2階の部屋で、使いにくい部屋だった。無意識層のぼくの自我は、意識層のぼくの自我になにを伝えたかったのか。伝えるつもりはなかったかもしれないけれど。

サンドイッチを6切れ食べて、おなかいっぱい。ティプトリーの短篇集のつづきを読みながら寝よう。

木になってしょうがない。


二〇一六年三月十二日 「ぼくね、友だちに素数がいてね。」


素数ってね
自分のほかに正の約数が一つしかなくってね
それを、ぼくの友だちの素数は
とても気にしててね
イヤなんだって
でもさあ
おじさんを、おばさんで割ると
雪つぶて
サイン・コサイン・タンジェント
ぼくの父が死んだのが
平成19年の4月19日だから
逝くよ
逝く
になるって、前に言ったやんか

それが
朝の5時13分だったのね
あと2分だけ違ってたら
ゴー・逝こう
5時15分でゴロがよかったんだけど
そういえば
ぼく
家族の誕生日
ひとりも知らない。
前恋人の誕生日だったら覚えてるのに
バチあたりやなあ。
まるで太鼓やわ。
太鼓といえば
子どものとき
よく
自分のおなかをパチパチたたいてた
たたきながら
歌を歌ってたなあ
ハト・ポッポーとか
近所でもバカで有名で
うんこ
がまんして
がまんしきれなくって
家のまん前で
ブリブリブリッて
それが
小学校6年のときのことだから
まあ
父親が怒ってね
でも
ガマンできなかったんだもーん
ブリブリブリッて
思いっきり
引きずり回されたこと
覚えてる

ちゃんと
きれいにしてからね
うんこまみれのまま
ひきずらへんわなあ
ぼくが親やったら
怒ってるかなあ
それより
傷ついてる子どものこと
気遣うやろなあ
わからんけど
教室で
おしっこたれたのが
いくつのときのことか
忘れた
たぶん
高学年、笑。
おととし
自分の部屋の
トイレの
前で
うんこ
たれたの
恋人に言ったら
あきれられて
まあ
それも原因かもね。
ぜんぶ
そのせいちゃうやろうけど。
もしも逆の立場やったら?
まあ、ぼくが相手の立場やったら
笑うぐらいかなあ。
あきれはせんやろうなあ。
どこが違うんやろう?
わからん


二〇一六年三月十三日 「詩の材料」


チャールズ・ブコウスキーの「詩人の人生なんてのは糞溜めみたいなものなんだよ」(『詩人の人生なんてろくでもない』青野 聰訳)というのと、W・B・イエイツの「完璧であるからこそ傲慢なこれらのイメージは/純粋な精神のなかでそだった。だがその始まりは/何であったか? 屑の山、街路の塵あくた、/古いやかん、こわれたブリキの罐、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱の番をしている/あの口喧しいばいた。おれの梯子(はしご)がなくなったからは/あらゆる梯子が始まる場所に寝そべるほかはない。/穢らわしい心の屑屋の店さきに寝そべるほかはない。」(『サーカスの動物は逃げた』出淵 博訳)とのあいだには、文学作品の材料そのものとその材料の処理の仕方において、共通しているところと、共通していないところがある。材料は同じだ。人生のなかで見聞きしたこと、感じたことなどが材料だ。もちろん、単純に二分はできないが、こういう分け方はできるだろう。つまり、イエイツはそれを詩語に変換していたと。ブコウスキーは、糞溜めのようなものをそのまま糞溜めとして書いたのだった。イエイツも、晩年はかなり詩語から離れることができたのではあったが。そしてその二つのあいだにあって、どちらともいえないようなものも数多くある。というか、じっさいのところ、ぼくなどもそうだが、見聞きしたことそのままに書くことと、ただ頭の中で考えただけのものを書くこととのあいだで、いろいろと組み合わせて書いてきたのだ。

文学極道の詩投稿掲示板で、Migikataさんの「驚くべきこと」というタイトルの作品を読んで、こんなことを、ふと考えたのであった。

こちら
  ↓
http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pck=8685

『芸術=フランケンシュタインの怪物』説を唱えたのが、ぼくがさいしょではないと思いますが、あるものをつなぎ合わせて、これまでに存在しなかったものを生成させるのが芸術のひとつの機能だと思っているのですが、もちろん、同時に、これが芸術のひとつの定義の仕方だとも思っているのですが、電流が流れて怪物が起き上がったような気がしました。固有名詞の使い方、さいごの2行の断定命題も効果的に配されていると思いました。J・G・バラードの『夢幻会社』をふと思い出しました。飛翔している男が身体じゅうからフラミンゴやさまざまな鳥たちを吐き出すのですが、そのまえに鳥たちを吸収する場面があったと思うのですが、ぼくが思い出すのは、男が肩からフラミンゴを奇怪な様子で分離するシーンです。すみません。好きな作家の作品を思い出して、つい書き込み過ぎました。おゆるしください。

という感想文を、さきに、Migikataさんの作品に書かせていただいていました。

コードウェイナー・スミスの短篇全集・第1巻の『スキャナーに生きがいはない』を買うのを忘れてた。水曜日に河原町に行くので、水曜日に買おう。初訳の短篇が入っているらしい。第1巻に入っているのかどうかは知らないけれど。SFがセンス・オブ・ワンダーだということがわかる貴重な作家のひとり。


二〇一六年三月十四日 「チューしてる恋人たち」


FBで、チューしてる恋人たちの画像を見てると、ぼくも幸せ。ぼくにもチューできる男の子がいるからかな。もしも自分にもチューできる男の子がいなかったら、幸せかどうかは、わかんないけど。いや、きっと、幸せなんだと思う。何と言ったって、美しいのだもの。(少なくとも、FBに写ってる彼らは)

トランクスを買いに出る。

ジュンク堂では、コードウェイナー・スミスの『スキャナーに生きがいはない』(ハヤカワSF文庫)が売り切れていたので、ブックファーストで買った。そのあと、きみやさんに行って、三浦さんと、名前を憶えていない、でも、鴨川の夜景がきれいに見えるお店に行った。きょうも、ヨッパ。楽しかった〜。

これから、『スキャナーに生きがいはない』の解説を読んで寝る。なんだか、ウルトラQのDVDを見るような感じだなあ。


二〇一六年三月十五日 「言語も体験である。」


言語も体験である。
想像されたものではあるが
それもまた現実である。
現実である以上、存在するものである。
したがって
虚無もまた現実であり
存在するものであり
あるいは
存在する状態なのである。


二〇一六年三月十六日 「要素」


何年かぶりで、ぎっくり腰になってしまった。痛みどめをのんで塾に行く。ひさしぶりに、エニグマを聴く。ヒロくんと出合ったときの曲。「Return To Innocence」

荒木時彦くんから詩集『要素』を送っていただいた。秀逸なアイデアと、そのアイデアを支える確実な叙述力。使われているアイデアは、ぼくがはじめてお目にかかるものだ。ここにまで到達した詩を書く詩人は、これまで日本のなかには一人もいなかった。 https://pic.twitter.com/Y05NLYwFpK

いま日知庵から帰った。腰がめっちゃ痛くって、涙が出そうなくらい痛い。でも、帰りに、セブイレで買った「ペヤング超大盛」食べようかどうか思案中、笑。

コードウェイナー・スミスの短篇集、読みながら寝る。きのう冒頭の短篇の途中で寝た。ソビエト人科学者夫妻の物語だ。おおむかしに読んだ記憶がかすかにするのだが、まったく思い出せず。ペヤング、あしたに持ち越し。


二〇一六年三月十七日 「自転車で」


自転車で角を曲がるときに
こけてもうた、笑。
きっついこけ方して
右の手のひらのところ
すりむいて、血が出た。
目の前に、若いカップルがいて
めっちゃ、恥ずかしかった。
けど、あわてず
悠然として、立ち上がって、笑
自転車をおこして
さっそうと走り帰りました。


二〇一六年三月十八日 「太もも」


きのう話をした青年が言っていたことで
とても興味深いことがあった。
太ももが感じるというのだけれど
小学校の3年のときに
女性の先生が担任だったらしいのだけれど
その先生に放課後に教室に呼び出されて
横に坐るように言われて坐ったら
太ももを、なめられたというのだ。
しかし、一瞬で、帰されたのだという。
しかも、ただ一度だけ。
親には言わなかったらしい。
友だちには言ったらしいのだけれど
「そんなん、ふつうにあることやん」
と言われたらしい。
たしかに
ぼくも
高校生のとき
社会の先生に呼び出されて
太ももをなでられたことがあったけれど。
ううううん。
みんな、そんな体験してるのかなあ。


二〇一六年三月十九日 「図書館の掟」


きょうは、つぎに思潮社オンデマンドから出す詩集『図書館の掟。』の編集をしていたのだけど、体調めっちゃ悪し。これからお風呂に入って、身体をほぐす。


二〇一六年三月二十日 「きのうのぼくと、きょうのぼくは別人なのかな。」


10分ほどまえに、日知庵から帰った。帰りにセブイレで買ったカップヌードルをいま食べた。きのうのぼくと、きょうのぼくが別人のようだと、日知庵でえいちゃんが言ってたけれど、そうなのかもしれない。『図書館の掟。』に入れる詩篇はすべて死と死者にまつわる作品だけだもの。自分でも、めげるわ。でも帰りがけに日知庵でお会いしたお嬢さんが、めっちゃ陽気なひとで、ひとを元気にさせる力があるみたいで、めっちゃ暗かったぼくでさえ元気をいただいた。ありがたい。というか、そういうひとのもつエネルギーを、ぼくも持ちたい。というか、仕事柄、持たなければならない。

いま自分のツイッターを振り返って見たのだけれど、ぼくの身体の半分以上は、セブンイレブンでできているようだ。

コードウェイナー・スミスの短篇集『スキャナーに生きがいはない』を、きのう、読んでて眠った。きょうもそのつづき読みながら寝る。

日本現代詩人会のHPで詩投稿欄を4月初旬にオープンするらしいが、選者が野村喜和夫、高貝弘也、峯澤典子なので、どうかなと思う。こんな年がら年中、同じような作品ばっかり書いてる連中に選者させて、なに考えてるのよ、と思う。詩誌の選者と同じような選者をもってきて、どうすんのよ、とも思う。


二〇一六年三月二十一日 「死亡した宇宙飛行士」


きょうは、夜に竹上さんと飲みに出る。J・G・バラードのコレクションをすべてプレゼントする。『死亡した宇宙飛行士』や『22世紀のコロンブス』といった入手困難な作品も多くて、よろこんでもらえると思う。


二〇一六年三月二十二日 「形のないキャベツ」


2009年4月13日メモ

形のないキャベツ

部屋に戻ると
鼻の奥にあるスイッチを押した。
プシューッ
身体がシュルシュルと縮んだ。


2009年4月13日メモ

形は形であることを
ちっとも恥ずかしいことだとは思っていなかったのだけれども
ときどき
形であることをやめたいなと思うことはあった。
形をやめて
なにになるのかは、まったくわからなかったのだけれども。


2009年4月14日メモ

詩人の役目は
意味をなさなくさせるほどまでに言葉を酷使することではない。


2009年4月15日メモ

おそらく無意識はさまざまなことを同時にすることができるのであろう、
身体でリズムを取りながら、口が歌を歌い、手が熱したフライパンのなかに
殻を割った卵の中身を落とすように。

しかし、意識はさまざまなことを同時にすることができない。
すくなくとも、どのことも同じぐらい集中して意識することはできない。


二〇一六年三月二十三日 「poke」


とてもすてきな方から poke が毎日のようにある。彼はストレートだと思うのだけれど。どう思えばいいのかな? なんか高校生のときのような気持ちを持ってしまう。すてきな方じゃなければ、なにも感じないし、考えないのだろうけれど、笑。 すてきなんだよね。妄想してしまう。頭おかしくなる。そのひとの画像は見まくりだから、お顔ははっきりしてる。きょうは、そのひとのこと考えて寝ようかな。夢に出てきてくださりますように!

そいえば、高校のとき、柔道部の先輩が腕をもんでくれとおっしゃったとき、その先輩を好きだったから、めっちゃ恥ずかしかったのを憶えている。たぶん顔を真っ赤にして、もんでたと思う。人生なんて100年足らずのものだけれど、すてきな一瞬がいっぱいあったし、いまもあるのだろう。すごいことだ。

妄想全開で寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年三月二十四日 「幻覚」


朝、幻覚を3つ見た。さいごのが、強烈で、部屋の壁に手をあててたら、右から手が出て、ぼくの手にその手が溶け入ってきて、えっと思っていると、裸のぼく、20代の若いときのぼくがでてきて、ぼくに、「ぼくを分解して」というのだ「どういうこと?」と訊くと、「いまの詩は高次すぎて」「ぼくは音でやりたいんです。」という。言っているうちに、ぼくの若いときって、かわいいと思ってチューしようとしたら、彼の身体が顔を中心に青あざだらけになって、チューできる寸前で、ぼくも目がさめた。

それからまたすぐに、3つほど幻覚を見てて、ヘロヘロになっていたら、弟が部屋に入ってきて、「あっちゃん、どうしたん、なんかしんどそうやん」と言いながら坐ると、外国人女性の姿に変化していてナイフを手に持っていたので、すかさず「目が覚めればいいんや」という言葉を呪文のように口にしたら、目が覚めた。


二〇一六年三月二十五日 「図書館の掟。」


詩集『図書館の掟。』の編集をしていた。300数十ページになる予定。電子データにしていない作品が2作。ひとつは、「ヨナの手首。」もうひとつは、「もうすぐ百の猿になる。」という散文の哲学的断章。入力済みの作品もルビ処理をしていないので、相当にめんどくさい。しかし、つくらねばならない。少なくとも、きょうは、「ヨナの手首。」と「もうすぐ百の猿になる。」をワードに打ち込もう。

『ヨナの手首。』のワード打ち込み完了。あと、きょうじゅうに、『もうすぐ百の猿になる。』を入れたい。それと、私家版の詩集の『陽の埋葬』のさいごにいれた、『百葉箱のなかの祈祷書。』も、『図書館の掟。』のなかに入れたいと思う。これ以上入れると350ページを超えるので、ここくらいまでかな。

『引用について』という論考も入れる。それぞれの作品が照応しているので、入れなくてはならなくなった。『もうすぐ百の猿になる。』文章を直しながら入力しているのだが、長い。きょうじゅうに打ち込みたいが無理かもしれない。にしても、完全に理系の人間の文章だ。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み、A4サイズで、7枚のうち、2枚完了。なぜこんなに遅いかと言うと、散文詩だからである。しかも文章いじっているから、こんなにノロい。しかし、なぜ、この作品があることに気がつかなかったのだろう。あまりにむかしに書いたものだから書いたことも忘れてた。

『もうすぐ百の猿になる。』いまで、4ページ目の半分まで、打ち込み。ちょうど半分。ぼくの詩の原点ではないだろうかと文章中に書いていたが、そういう感じがする。見つけてよかった。晩ご飯を食べてこよう。きょうは目が覚めてから、ずっと文学してる。えらい。誰のためでもなく自分のためだけれど。

あと1ページ半。『もうすぐ百の猿になる。』も傑作だった。そのうち、文学極道に投稿しよう。

『もうすぐ百の猿になる。』の打ち込み終了した。あと『百葉箱のなかの祈祷書』の打ち込みが残っているけど、少なくとも30分間は横になろう。腰が痛い。『図書館の掟。』の収録作品数が27篇で、3の3乗である。たいへんうれしい。330ページをちょい超えである。333ページになればいいなあ。

『百葉箱のなかの祈祷書』の打ち込みが終わって、詩集の総ページ数を見たら331ページやった。惜しい。あと2ページ。ぼくが30代のころの作品が半分、残る半分が40代、50代の作品ということになる。きょう一日、ワードに打ち込んでいたのは、30代の作品だった。『陽の埋葬』の雰囲気が濃厚。

というか、長篇の『陽の埋葬』をいくつも収録しているから、当然、そうなるか。あしたの朝に元気があったら、目次をつくろう。そろそろクスリをのんで寝る。


二〇一六年三月二十六日 「詩集の編集」


目次つくったら、収録作品29作品だった。

入力するのが面倒なのでほっておいた『陽の埋葬』があったので、これから入力する。

本文の入力に一時間か。総ルビなので、これからルビ入れを。しかも、歴史的仮名遣い。神経質になる。

ルビ打ちにも一時間かかったか。総ルビ4ページ分で、これだけど、総ルビ50ページくらいの作品があって、まだルビ打ちをやってない。怖い。できれば、学校の授業のない春休み中にやっておきたい。いままで、どうして読書ばかりしていたのか。逃げてたんだな。やっぱり詩集の編集って、しんどいもの。


二〇一六年三月二十七日 「花見」


これから、きみやさん主催のお花見に。夜は竹上さんと日知庵で飲むので、お昼過ぎにいったん帰るかもしれない。きょうは、竹上さんに、ミシェル・トュルニエの全コレクションと、ヴァージニア・ウルフ関連の本をすべてプレゼントする。ああ、それでも、ぼくの本棚はまだまだギューギューだ。床積みの本が! 笑。


二〇一六年三月二十八日 「ニムロデ狩り」


日知庵に行くまえに、オーパ!のブックオフで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』と、創元のアンソロジー『恐怖の愉しみ』上巻を108円で買った。

『The Marks of Cain。』の3分の2のルビ打ちをやった。めっちゃしんどかったけど、あと3分の1やったら、あしたじゅうにできるかなと思う。どだろ。まあ、とにかくがんばった。えらい。そだ。牛丼の吉野家で野菜カレー食べた。


二〇一六年三月二十九日 「夜は」


太陽だけでは影ができない。

夜は地球と太陽との合作である。


二〇一六年三月三十日 「ビタミン・ハウス」


大学院生のときに
四条大橋の東側に
ビタミン・ハウスって
ショウ・パブでバイトしてたことがあって
ちょっとのあいだ、女装してました、笑。
ええと、お客は、半分が坊主と金融屋さんでした、笑。
バブルのころで、すごかった。
お坊さんで
いまから考えると
ぽっちゃりとして
かわいいひとがいて
ぎゅっと手を握られて
うぶだったぼくは
顔がほてりました。
当時は、太ったひとがいけなかったので
それだけだったのですが
いまから考えると
そのお坊さんも20代のなかばで
ぽっちゃりとしたかわいい感じのひとだった。
京大のアメフトやってるひととすこし付き合って
すぐに別れました。
がさつに見えて
けっこう繊細で
ぼくの言葉によく傷ついていたみたいで
別れるとき
思いっきり文句言われました、笑。
さいきん、これまでに書かなかったことを
よく書いてるような気がします。
もうじき、50歳になりますから
(2年後ね)
もう怖いものが、そんなになくなってきたのかもしれません。
とはいっても、これはブログに貼り付けられないと思うけど、笑。

でも、いいのかな。
そんなバイトしたの学生時代だし。
時効だよね、笑。
当時のぼくの顔は
詩集の「Forest。」の本体のカヴァーをはずすと見れるようになっています。
化粧したら、どんな顔になるか、だいたい想像つくと思いまする。
しかし、まあ、48歳で、まだまだ、いっぱいカミング・アウトできるって
けっこう、ぼくの人生、めちゃくちゃなのかもね。
それとも、ほかのひともめちゃくちゃだけど
だまってるだけなのかなあ。
わかんないけど。
ふにゃ。
だから、ぼくが付き合った京大の学生だったエイジくんが
ぼくの部屋にはじめてきたとき
無断でパッとクローゼットをあけて
「女物の服はないな。」
と言ったのは、彼の正しい直感がさせた行為だったわけだ。
「なに言ってるの? バカじゃない。」
「女装してるかもしれへん思うてな。」
「そんな趣味ないよ。」
そんな会話の応酬がありました。


二〇一六年三月三十一日 「非喩」


いつもなら朝ご飯を食べるのだが、食べない。検診の日なのだ。

組詩にしていた長篇の『陽の埋葬』を5つの『陽の埋葬』にバラしたら、詩集『図書館の掟。』の総ページ数が337ページになった。

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『あまたの星、宝冠のごとく』 誤字・脱字 223ページ2行目「事実もものかは、」 意味がわからないだけではなく、どういう誤字・脱字を起こしているのかもわからない。

塾からの帰り道、「非喩」という言葉を思いついたのだが、もしかしたら前にも思いついたかもしれない。直解主義者のぼくだから。比喩に凝ってるもの読むと、ああ、このひと、頭わるいと思うことがよくある。なんで、そのまま書かないのだろうと思うことがよくある。事実そのままがいちばんおもしろい。


詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年四月一日 「愛のある生」


愛のある生

それが、ぼくのテーマだ。

「生」とは
いのちの輝きのことだ。

しかし、嘘は、すばらしい。
人生を生き生きとしたものにしてくれる。
詩も、小説も、映画も、すてきな嘘で、
ぼくたちの生を生き生きとしたものにしてくれる。
最高にすばらしい嘘を、ぼくも書いてみたいものだ。
詩で、かなり自分のことを書き込んでいるけれど、
まだまだ上等な嘘をついていない気がする。


二〇一六年四月二日 「本って、いったい何なのだろう?」


詩集『図書館の掟。』の紙原稿チェックが終わった。ワードを直したら、一日おいて、もう1回、紙原稿をチェックしよう。来週中には、完成原稿が出来上がる感じだ。

いま日知庵から帰った。きょうは、何を読んで寝ようかな。買ったばかりの未読の本、数年前に買った未読の本、十年くらい前に買った未読の本。本、本、本。ぼくの人生は、本にまみれての人生だ。それでよいと思う。ぼくの知らないことを教えてくれる。ぼくの感じたことのないことを感じさせてくれる。

本って、いったい何なのだろう?


二〇一六年四月三日 「Here Comes the Sun。」


自分の右足が
自分の右足を踏めないように
ぼくのこころは
けっして、ぼくのこころを責めることはない。

千本中立売通りの角に
お酒も出す
タコジャズってタコ焼き屋さんがあって
30代には
そこでよくお酒を飲んでゲラゲラ笑ってた。
よく酔っぱらって
店の前の道にひっくり返ったりして
ゲラゲラ笑ってた。
お客さんも知り合いばっかりやったし
だれかが笑うと
ほかのだれかが笑って
けっきょく、みんなが笑って
笑い顔で店がいっぱいになって
みんなの笑い声が
夜中の道路の
そこらじゅうを走ってた。
店は夜の7時から夜中の3時くらいまでやってた。
朝までやってることもしばしば。
そこには
アメリカにしばらくいたママがいて
ジャズをかけて
「イエイ!」
って叫んで
陽気に笑ってた。
ぼくたちの大好きな店だった。

4、5年前かなあ。
店がとつぜん閉まった。

1ヶ月後に
激太りしたママが
店をあけた。

その晩は、ぼくは
恋人といっしょにドライブをしていて
ぐうぜん店の前を通ったときに
ママが店をあけてたところやった。

なんで休んでたのかきいたら
ママの恋人がガンで入院してて
その看病してたらしい。
ママには旦那さんがいて
旦那さんは別の店をしてはったんやけど
旦那さんには内緒で
もと恋人の看病をしていたらしい。
でも
その恋人が1週間ほど前に亡くなったという。
陽気なママが泣いた。
ぼくも泣いた。
ぼくの恋人も泣いた。
10年ぐらい通ってた店やった。
タコ焼きがおいしかった。
そこでいっぱい笑った。
そこでいっぱいええ曲を知った。
そこでいっぱいええ時間を過ごした。

陽気なママは
いまも陽気で
元気な顔を見せてくれる。
ぼくも元気やし
笑ってる。

ぼくは
自分の右足に
自分の右足を踏まないように命じてる。

ぼくのこころが
けっして、ぼくのこころを責めないように命じてる。

笑ったり
泣いたり

泣いたり
笑ったり

なんやかんや言うて
その繰り返しばっかりやんか

人間て
へんな生きもんなんやなあ。

ニーナ・シモンの
Here Comes the Sun

タコジャズに来てた
東京の代議士の息子が持ってきてたCDで
はじめて、ぼくは聴いたんやけど
ビートルズが、こんなんなるんかって
びっくりした。

親に反発してた彼は
肉体労働者してて
いっつもニコニコして
ジャズの大好きな青年やった。

いっぱい
いろんな人と出会えたし
別れた

タコジャズ。

ぼく以外のだれかも
タコジャズのこと書いてへんやろか。

書いてたらええなあ。

ビッグボーイにも思い出があるし

ザックバランもええとこやったなあ。

まだまだいっぱい書けるな。
いっぱい生きてきたしな、笑。


二〇一六年四月四日 「風が」


風が鉄棒にかけられていた白いタオルを持ち上げた。
影が地面の上を走る。
舞い落ちてくるタオルと影が一つになる。


二〇一六年四月五日 「詩集『詩の日めくり』の表紙のための写真を撮ってもらう。」


お昼、大谷良太くんちの近くのミスタードーナツに行く。詩集用の写真をいくつか撮ってもらうために。けっきょく、大谷良太くんちに行って、大谷良太くんとミンジュさんに撮ってもらった。6月に書肆ブンから出る『詩の日めくり』第一巻から第三巻までの3冊の詩集用の写真をこれから選ぶ。


二〇一六年四月六日 「図書館の掟。」


きょう『図書館の掟。』のタイトル作を見直して、3回目の見直しだけど、大きく変える個所が出たので、自分でもびっくりした。3回目の見直しで大きく変えるのは、はじめてだけど、テキストがだんぜんよくなるのである。こういうこともあるのだなと思った。単にアラビア数字を漢数字にするだけだけど。


二〇一六年四月七日 「パースの城」


思潮社オンデマンド詩集用の『図書館の掟。』の原稿を思潮社の編集長の高木真史さんにワードで送った。表紙用の写真もいっしょに。

きょうから、また読書の日々に戻る。そいえば、ティプトリー・ジュニアの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』を途中でほっぽってた。きょう、塾に行くまえに、お風呂につかりながら読んだ、ブラウリオ・アレナスの『パースの城』の42ページに、つぎのようなセリフがあって、それが、ぼくを喜ばせた。

「おや、ぼくだ」と叫んだ。「いったいどうなっているんだ? この部屋にどうしてぼくがふたりもいるんだ?」(ブラウリオ・アレナス『パースの城』第五章、平田 渡訳)


二〇一六年四月八日 「はじめて知ったこと」


ページレイアウトをクリックして、区切りをクリックして、次のページから開始をクリックすると、次のページからはじめられるということを、きょう、はじめて知った。いま試してみた。55歳、はじめての体験。20冊以上、詩集を出してて、この始末。いや、いい方にとろう。自分の知識が増したのだと。


二〇一六年四月九日 「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」


日知庵から帰った。めっちゃかわいい男の子が知り合いの子といっしょに来てて、ドキドキした。植木職人の青年だ。26才。日知庵のえいちゃんにお店に置いてもらっているぼくの『ツイット・コラージュ詩』を彼が読んでくれて、「言葉が深いですね。」と言ってくれたことがうれしかったけど、自分の言葉が深いと思ったことなど一度もなかった。

「鳥から学ぶものは樹からも学ぶ。」とか、ぼくには、ふつうの感覚だし。と思ったのだけれど、彼は、ぼくの詩集を手にしながら、あとからきた女性客のところにふわふわと行っちゃった。ありゃま、と思って、ぼくは憤然として帰ってきたのであった。あしたは、遊び倒すぞ、と思いながら、きょうは寝る。

彼が、ぼくがむかし付き合ってた男の子に似ていたので、日知庵にいたときは、ぼくはドキドキ感覚で、チラッチラ見ながら、頭のなかでは、聖なるジョージ・ハリスンの曲がリピートしていたのであった。至福であった。日常が、ぼくにとっては、劇なのだ。しゃべり間違ったり、し損なったりする劇だけど。

日知庵にいた男の子のことを思い出しながら、寝ようっと。いや、むかし付き合ってた男の子のことを思い出しながらかな。たぶん両方だな。なんだかな〜。でも、やっぱり日常が最高におもしろい劇だな。それとも、おもしろい劇が日常なのかな。笑っちゃうな。ちょっぴり涙しちゃうな〜。それが人生かな。

あ、その男の子、植木職人だって言うから、こう言った。「きみが使ってる鋏から学ぶこともあるやろ? 人間って、なにからでも、学ぶことができるんやで。」って。55歳にもなると、こんな、えらそうなことを口にするのだと、自分でも感心した。えらそうなぼくだったな。


二〇一六年四月十日 「大谷良太くんのおかげで」


きょうも、大谷良太くんには、たいへんお世話になった。彼のおかげで、ぼくの作品が日の目を見ることができることになった。思潮社オンデマンドからは、これからは、年に1冊しか出せないと思潮社の編集長の高木真史さんに言われて、詩集用に用意してた『詩の日めくり』の原稿のことを大谷良太くんに相談したら、書肆ブンで出しますよと言ってくれて、ほんとうにありがたかった。捨てる神あれば、拾う神ありという言葉が脳裏をよぎった。ぼくが生きているあいだは、ぼくの作品なんかは、ごく少数のひとの目にとまるだけだと思うと、その思いも、ひとしおだった。


二〇一六年四月十一日 「きみの名前は?」


チャールズ・シェフィールドの『ニムロデ狩り』これ人名を覚えるのがたいへんだけど、おもしろい作品だ。いま202ページ目のさいしょのところ。140ページのうしろから4行目にひさしぶりに出合った言葉があった。「きみの名前は?」(チャールズ・シェフィールド『ニムロデ狩り』9、山高 昭訳)

「きみの名前は?」という言葉を、いまも収集しつづけているのだ。『HELLO, IT'S ME。』という作品のロングヴァージョンをつくっているのだ。いつ発表できるかどうかわからないけど。それは読書というものをやめたときかな。死ぬときか。ファイルにだけ存在することになるかもしれない。


二〇一六年四月十二日 「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」


ティプトリーの短篇集『あまたの星、宝冠のごとく』、救いのない作品が多い。彼女、こんなにネガティブだったっけ? と思うくらいネガティブ。でも、あまり、ひとのことは言えないかもしれない。ぼくのもネガティブな感じがするものね。『図書館の掟。』に、ぼく自身が出てくるけれど、唯一、そこだけは、ポジティブかもしれない。ティプトリーは何を持っていたっけ? と思って本棚をさがしてみた。けっきょく、部屋には4冊のティプトリーがあったのだった。『老いたる霊長類への賛歌』、『故郷から一〇〇〇〇光年』、『輝くもの天より堕ち』、そして読み終わったばかりの『あまたの星、宝冠のごとく』。タイトルだけでも、すごいいい感じだな。持っていないものを amazon で注文した。『星ぼしの荒野から』と『愛はさだめ、さだめは死』と『たったひとつの冴えたやりかた』と『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』の4冊。到着したら、ティプトリーでまとめて並べておこうかな。

さっき、ふと、バッド・カンパニー、セカンドしか残ってないから、ボックスで買おうかなと思った。あかんあかん。飽きては買い、飽きては買ってるバンドだ、笑。カンパニーで思い出したけど、増田まもるさんが訳したバラードの『夢幻会社』の会社って、カンパニーの訳だけど、この場合は、「友だち」の訳のほうが内容とぴったりくるんだけど、タイトル、誤訳じゃないのかな。ベテランだから、だれもなにも言わないのか、ぼくが間違ってるのか、わからないけどね。


二〇一六年四月十三日 「さいごの詩集」


塾に行くまで、シェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読もう。ぼくのさいごの詩集三部作の、『13の過去(仮題)』は●詩、『全行引用による自伝詩』は全行引用詩、『詩の日めくり』はコラージュである。好きな本を読んで、好きに詩をつくる。じっさいの人生で好きなことしなきゃ、意味がない。じっさいの人生でできることのなかに自分の好きなことがあると思おうとしているのではないかという疑念はあるけれど。どだろうね。55歳。まだ一日でも多く、本を読みたい。作品をつくりたいという欲求がある。その欲求が、ぼくのことを生かしているのかもしれない。

塾から帰った。雨で、リュックが濡れた。本はジプロックに入れてたから大丈夫。これからシェフィールドの『ニムロデ狩り』のつづきを読む。ようやく半分読めた。

いま、amazon で自分の本が売れてるかどうかのチェックをしてたら、『ツイット・コラージュ詩』(思潮社オンデマンド・2014年)が売れてた。セール中でもないのに。だれが買ってくれたんだろう。もしかしたら、先週、日知庵で手にとってくれた男の子かな。どうかな。とってもチャーミングな青年だった。まあ、生身の男の子だから、生身の女の子が誘ったら、ほいほいついてっちゃってたけど、笑。日知庵で飲んでると、めっちゃ人間観察できる。父親が糖尿病で失明したけど、どうか、神さま、ぼくから目だけは取り上げないでください。ありゃりゃ、『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド・2014年)も、最近になって売れてたみたい。売れ行き順位が上がってる。まだ買ってくださる方がいらっしゃるんだ。ありがたい。というか、ぼくが無名なので、最近、文学極道かどこかで発見してくださったのかもね。これは、無名の強みだわ。


二〇一六年四月十四日 「i see your face.」


これから塾に。塾の帰りに、日知庵に寄ろう。こころおだやかに生きていきたい。

i see your face. i see your face. とメロディーをつけて頭のなかで歌いながら、日知庵から帰ってきた。だれの音楽に近いかな。エドガー・ウィンター・グループかな。ぼくは音楽家にもなりたかった。いちばんなりたかったのは画家かな。音楽家かな。


二〇一六年四月十五日 「ノブユキとカレーを食べてた風景」


作家は、なりたかったものの一つだった。詩人というものになってしまったけれど、詩人は、子どものときのぼくのなりたいもののなかにはなかった。だって、詩人なんて、子どものぼくのときには、死んだひとばかりだったもの。生きている詩人がいるなんて知らなかった。

おやすみ、グッジョブ! きょうは、のぶゆきのこと、たかひろのこと、ともひろのこと、こうじくんのこと、じゅんちゃんのこと、えいじくんのこと、えいちゃんのこと、いっぱい思い出してた。ぜんぶむかし、でも、ぜんぶいま。ふっしぎ、ふしぎ。ぜんぶ、いまなんだよね。思い出すっちゅうことは。

きょうは学校の授業もないし、塾もない。シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わろう。さっき、ご飯を食べに外に出るまえ、クローゼットの下の本棚を整理して未読の本をまえに出して並べた。もっていることを知らない本が2冊ばかりあった。ジャック・ヴァンスの本もコンプリートに集めていた。

いま1冊のティプトリーが届いた。ぼくが唯一、読んでなかった『星ぼしの荒野から』であった。満足な状態の古書だった。カヴァーの絵が、どうしても購買意欲を刺激しなかったものだが、内容とは関係がないものね。出たときに買っておくべきだった。『ニムロデ狩り』あと55ページ。読んでしまおう。

『ニムロデ狩り』あと40ページ。これを読み終わったら、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』を読もう。きょうは、お昼に、吉野家で、ベジ牛を食べた。帰りにセブイレで買ったサラダ2袋をこれから食べる。

シェフィールドの『ニムロデ狩り』を読み終わった。ハインラインとかゼラズニイとかの小説を読んでるような感じがした。ぼくが10代後半から20代のはじめころに読んでたSFのような雰囲気だった。悪くはなかった。というか、よかった。

焼きシャケのり弁当20ペーセント引き334円を買ってきた。これ食べたら、ティプトリーの未読の短篇集『星ぼしの荒野から』を読もう。

55歳にもなると、20年まえのことなのか、30年まえのことなのか、わからなくなるけれど、何度か書いたことがあると思うけれど、友だちんちのテレビで見たのかな、峠の甘酒を売ってる店で、恋人同士が甘酒をすすって飲んでいる場面があって、なぜかその場面がしきりに思い出されてくるのであった。仲のよい二人の人間が、向かい合って、あったかい甘酒をすすっている光景が、ぼくには、こころおだやかにさせるなにかを思い起こさせるのだと思うけれど、こうした光景が、ぼくのじっさいの体験のなかにもあって、それはノブユキとカレーを食べてたときの光景だったり、えいちゃんと、イタリヤ風に調理してあった大きな魚をいっしょに食べたりしたときの光景だったりするのだった。ぼくの脳みそがはっきりと働いてくれるのが、あと何年かはわからないけれど、生きて書いているうちに、そんな光景のことなんかも、ぜんぶ書いておきたい。


二〇一六年四月十六日 「詩の日めくり」


学校の帰りに、大谷良太くんの引っ越し先に行って、飲んでた。で、その帰りは、日知庵に行ってた。きょうは、めちゃ飲んでたけれど、意識ははっきりしている。書肆ブンから出る詩集『詩の日めくり』の第一巻から第三巻までの見本刷があしたくる予定。ネットで発表したものとちょこっと違う個所がある。

きょうも、授業の空き時間にティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読んでた。コンプリートしてもよいと思った作家の一人であるが、読んでよかった。でも、まあ、寝るまえの読書は、気分を変えよう。ひさびさに、きのう寝るまえに、『モーム語録』のつづきを読んでいた。


二〇一六年四月十七日 「ゲラチェック」


『詩の日めくり』の第一巻から第三巻まで見本刷りがきた。活字の大きさを間違えてた。自分でもびっくり。一回、第一巻から第三巻まで目を通した。改行部分で間違っていた箇所があったり、英文部分の記号処理がうまくいってなかった箇所もあった。ルビの大きさを変える必要があると思うので、ルビの箇所にすべて付箋した。もう一度、見直そう。見本刷の二度目の見直しをしている。自分の作品でも、ええっと思うくらい、ノリのいいフレーズがいっぱいあって、見直ししているのか、詩を読んでいるのか、一瞬、わかんないときがあった。55歳にもなって、自分の詩作品を読んで、こころ動かされるというのは、そうとう脳がイカレテいる様子である。二度目の見直しが終わった。3度目の見直しをして、きょうは終わろう。3度目の見直しで、まだ見つかるミス。まあ、合計で、800ページあるからね。


二〇一六年四月十八日 「ゲラチェック」


4度目の見直し。まだミスが見つかる。

いま『詩の日めくり』の見本刷、第二巻を読みながらチェックしているのだけれど、わずか10か月前のことなのに、いまのぼくが記憶していない数字が出てきて(ジュンちゃんの年齢、ぼくの8つ下だから、すぐ計算できちゃうのだけど)びっくり。「46才になりました。オッサンです。」という彼の言葉。

文学極道に『詩の日めくり』を投稿してなかったら、記憶していなかったことばかり。作品にしないと読み返さないひとだからかもしれないけど。でもまあ、作品にしてよかった。『詩の日めくり』は死ぬまで書きつづけよう。そのときにしか見られなかった光景があるのだ。

『詩の日めくり』の見本刷・第二巻の4回目の見直しが終わった。第一巻の方がバラエティーに富んでるけど、第二巻の読みやすさは半端ではない、笑。これから第三巻の4回目の見直しをする。まだミスが見つかると思う。第二巻でさえ2か所あった。今週の金曜日まで繰り返し見直す予定だ。何回するかな。

『詩の日めくり』の見本刷の第三巻を読んでいるのだが、読んでいるというのは、もはや見直しというよりも、知らない詩人の作品を読んでいるような気がするからなのだが、随所にでてくる書いた記憶のないフレーズが新鮮で、まさに自分自身を驚かせるために、ぼくは書いているのだなと再認識した。


二〇一六年四月十九日 「省略という技法について」


バラはバラ
と書くと
この助詞の「は」はイコールで
「だ」とか「である」という言葉を
読み手は補う。
「だ」や「である」は、文法的には動詞ではないのだが
なんだったかな
形容動詞だったかな
忘れた
まあ、しかし
たとえば
バラは切断
あるいは
バラを切断
バラに接木
と書くと
「する」という動詞を
読み手は思い浮かべる。
では
バラはヒキガエル
だったら、どうか。
道を歩いていると、フェンスの間から
バラのように咲いているたくさんのヒキガエルがゲコゲコと鳴いている。
あるいは
ヒキガエルのように、ピョンピョン跳ね回るバラの花が川辺のそこらじゅうにいる
みたいなことを、思い浮かべる読者がいるかもしれない。
ぼくが、そんなタイプの読み手だけど
省略技法が発達している俳句や短歌や詩では
この暗示させる力がものをいう。
隠喩ですな。
あまりに頻繁な省略は
読み手に心理的な負荷を与えることにもなるので
てきとうに「省略しない書き方」もまぜていくことにしている。
そんなことを
いま、五条堀川のブックオフからの帰りに
自転車に乗りながら考えていた。


二〇一六年四月二十日 「拡張意識」


時間感覚が拡張されると
それまで見えていなかったものが見えるようになる。
最初は誘導剤によるものであったが、訓練することによって
誘導剤なしでも見えるようになる。
ゴーストや、ゴーストの影であるさまざまな存在物が見えるようになる。
人柱に使われているホムンクルスも、それまで見えていなかったのに
ベンチのすぐそばに瞬時に姿を現わした。
詩人は第一の訓練として、音の聞き分けをすすめていた。
川のせせらぎと、土手に植わった潅木の茂みで泣く虫の声。
集中すると、どちらか一方だけになるのだが
やがて、双方の音が同じ大きさで、
片方だけ聞こえたときと同じ大きさで聞こえるようになる。
つぎにダブルヴィジョンの訓練であった。
ぼくは詩人に言われたように
夜のなかに夜をつくり、世界のなかに世界をつくった。
夜の公園のなかで
ベンチに坐りながら、一日前のその場所の情景を思い浮かべた。
詩人は目を開けながら、頭のなかにつくるのだと言っていた。
電車のなかで
一度、ダブルヴィジョンを見たことがある。
仕事が昼に終わった日のことだった。
ダンテの「神曲」の原著のコピーをとらせてもらう約束をしていたので
近衛通りだったかな吉田通りだったかな
通りの名前は忘れたけれど
京大のそばのイタリア会館に行くことになっていたのだが
そこに向かう電車のなかで
向かい側のシートがすうっと透けて
イタリア会館のそばの道路の映像が現われたのだった。
その映像は、イタリア会館のそばの道路と歩道の部分で
人間が歩く姿や車が動く様子が映っていた。
居眠りをしているのではないかと思って、目をパチクリさせたが
映像は消えず、しばらくダブルヴィジョンを見ていたのだった。
電車が駅にとまる直前にヴィジョンが消えたのだが
意識のほうなのか
それともヴィジョンのほうなのか
弁別するのは難しいが、明らかにどちらかが
あるいは、どちらともが
複数の時間のなかに存在していたことになる。
ぼくは夜のなかに夜をつくった。
河川敷の地面がとても明るかった。
ぼくは立ち上がった。
見上げると二つの満月が空にかかっていたのだ。
ふと、ひとのいる気配がして振り返った。
そこには、目を開けてぼくを見つめる、ぼくがベンチに坐っていたのだった。
上のようなシーンは前にも書いていたけれど
このあいだ読んだ、だれだったかな
イアン・ワトスンだ
彼の言葉をヒントにして
なぜ、ホムンクルスやゴーストが見えなかったのに
見えるようになったか説明できるような気がする。
存在とは
出現すると瞬時に(ワトスンは、同時に、と書いていたが)消失するものだから
時間感覚が誘導剤で
あるいは
訓練によって拡張されると
この「拡張」という言葉は改めたほうがいいかもしれないけれど
視覚的に見えなかったものが見えるようになる
つまり
意識のなかに意識されることになるということなのだけれど
ううううん。
どうだろ。


二〇一六年四月二十一日 「メガマフィン、桜、ロミオとジューリエット、光華女子大学生たち」


朝からマックでメガマフィン。
大好き。
ハッシュド・ポテトも好き。
それからアイス・カフェオレ。

歩きながら桂川の方向へ。
光華女子大学のまえを過ぎると
花壇に植わった桜が満開やった。
桂川をわたって
古本市場で
新しいほうの「ロミオとジューリエット」の岩波文庫を買う。
105円。
あしたぐらいにつく岩波文庫の「ロミオとジューリエットの悲劇」は旧訳。
帰りに光華女子大学のまえを通ると
お昼前なのか
女子大生たちがいっぱいバス停に並んでた。
彼女たちの群れのなかを通ると
化粧品のいいにおいがいっぱい。
いいっっぱい。
だいぶ汗をかいたので
これからお風呂に。
マックには、朝の7時30分から9時15分までいて
「未来世紀ブラジル」を聴きながら、詩集のゲラの校正をしていた。
校正箇所、3箇所見つかった。
天神川通りの交差点で
信号待ちしていると
タンポポの綿毛が
ズボンのすそにくっついちゃって
パッパッてはらったけれど
完全にはとれなくって
それで洗濯中。
めんどくさい。
きょうも2度の洗濯。
これから暑くなっていくから
しょっちゅう洗濯しなきゃならなくなる。


二〇一六年四月二十二日 「無名性」


きょうもヨッパ。日知庵→きみや→日知庵のはしごのあと、以前にかわいいなと思っていた男の子と偶然、電車で乗り合わせて、駅の近くのバーでいっしょに飲んだ。人生というものを、ぼくは畏れているし、嫌悪しているけれど、愛してもいる。嫌悪すべき日常に、ときたまキラキラ輝くものがあるのだもの。

しじゅう無名性について考えている。無名であることによって、ぼくは自由性を保てているような気がしている。『詩の日めくり』の見本刷を何日か読み返してみて、実感している。芸術家は生きているあいだは無名であることが、たいへん重要なことだと思っている。死後も無名であるのなら、なおさらよい。

ああ、つまり、ふつうのひとということだ。詩人であるまえに、一個の人間なのだ。人間としての生成変化が醍醐味なのだ。人間であること。それは畏れざるを得ないことであり、嫌悪せざるを得ないことだし、愛さざるを得ないことでもある。詩人は、言葉によって、そのことを書いておく役目を担っている。

ティプトリー、コンプリートに集めてよかった。きょうきたトールサイズの文庫本2冊、1冊はなつかしい表紙だった。もう1冊は新しい表紙だけど、かわいらしい。こんなに本を愛しているぼくのことを、本もまた愛してくれているのかしら? どうだろう? まあ、いいか。一方的な愛で。ぼくらしいや。

朝から夕方まで、大谷良太くんに、ずっと『詩の日めくり』第一巻から第三巻の校正をしてもらってた。書肆ブンから出すことができることになって、ほんとによかった。二回目の見本刷が5月に届くことになっている。きっちり見直しますね、150か所ほど直しを入れてもらって申し訳なかったです。


二〇一六年四月二十三日 「黄金の丘」


ついに黄金の丘に行きます.
古い通り鴨肉を食べた.
まだ買ってない問"クラスト"たこ焼き
隣の女性が買うのはゲストに聞け
女性のゲスト
:" そこにはもっとパリパリした?"
ボス :" えい..........."

女性のゲスト
:" はとてもサクサク??"
ボス :" それは私のために一生懸命に説明することは,
あなたを知るのみで食べたわ"
女性のゲスト
:" 以上がサクサク鶏の胸肉もサクサク??"

ボス& me &小さな新しい :" .....................( 何も言えない)"
だから何か正確にはサクサク

これ、FBフレンドの言葉を、中国語を日本語に自動翻訳したものだけれど、ぼくには詩に思える。というか、笑えた。


二〇一六年四月二十四日 「クリポン」


いま日知庵から帰ってきた。竹上さんと栗本先生と、3人でホラー話やなんやかで楽しく飲んでいた。詩や小説もおもしろいけれど、実人生がおもしろいなと再確認した。それは人生が困難で苦痛に満ちたものだからだろうとも思う。簡単で楽なものだったら、おもしろさも何十分の1のものになってしまうだろう。


二〇一六年四月二十五日 「ミニチュアの妻」


食事のついでに、西院の書店で新刊本を見ていたのだけれど、とくに欲しいと思う本はなかった。イーガンのは、未読のものが2冊あるし、もういいかなって感じもあって、買わなかった。バチカルピ(だったかな)は、前作がひどかったので、もういらないと思ったし、唯一、知らない作家の本で、手が動いたのは、ずっとまえから気になってた『ミニチュアの妻』という短篇集だけだった。裏表紙の解説を読んで購買意欲がちょっと出て、迷ったあげくに、本棚に戻したけれど、とくにいま買う必要はないかなという感じだったので、何も買わなかった。創元から出てる『怪奇小説傑作集』全5巻を古いカバーのもので持っていて、ぜんぶ読んだのだけれど、新しいカバーのものは、字がちょっと大きくなっているのかな。これを買い直して、古い方は、もう一度、お風呂場で読んで捨てるという方向も考えた。しかし、あまり健全な読書の仕方ではないなと思って、いまのところ思いとどまっている。欲しい本が出ればいいのだけれど。と書いて、パソコンのうしろから未読の単行本たちの背表紙が覗いた。『翼人の掟』『宇宙飛行士ピルクス物語』『モッキンバード』『ジーン・ウルフの記念日の本』『第四の館』『奇跡なす者たち』『フラナリー・オコナー全短篇』上下巻、『ウィザード』I、II『ナイト』I、II 一段だけの未読本だけど、読むの途中でやめた『ゴーレム』とかも読んでおきたい。そいえば、クローゼットのなかの本棚にしているところには、『ロクスソルス』『暗黒の回廊』『さらば ふるさとの惑星』などといった単行本も未読だった。ソフトカバーの『終末期の赤い地球』などもある。壁面の本棚の岩波文庫、ハヤカワSF文庫と銀背や創元文庫も、未読の棚が2段ある。読んでいない洋書の詩集や、書簡集もたくさんある。なんで、まだ本を買いたいと思うのだろうか。病気なんだろうな。『ミニチュアの妻』買いたくなってきた。西院の書店に行ってくる。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』と、アン・レッキーの『反逆航路』と『亡霊星域』を買ってきた。5500円台だったけれど、図書カード5000円分があったので、自分で出したお金は500円ちょっと。どうだろ。おもしろいだろうか。というよりも、いつ読むだろうか、かな。きょうは、これから寝るまで、ティプトリーの『星ぼしの荒野から』のつづきを読む。


二〇一六年四月二十六日 「緑の柴田さん。」


学校から帰ってきた。夜は塾。塾に行くまで、ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』のさいごの1篇を読む。これが終わったら、せっかくきのう買ったのだから、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。設定がおもしろい。

ティプトリーの短篇集『星ぼしの荒野から』を読み終わった。この中の短篇は、どんでん返しのものが多いような気がする。しかも、後味のよいものよりも悪いもののほうが多い。これから、ルーズリーフ作業に入る。そのあと時間があるようだったら、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読もう。

ルーズリーフ作業が終わった。これから、塾に行くまで、アン・レッキーの『反逆航路』を読む。どんな新しい感覚をもたらせてくれるのか、あるいは、くれないのか、わからないけれど、数多くの賞を獲得した作品なので、読むべきところはあるだろう。なかったら、続刊といっしょに捨てる。

基本的な文献は読んでおかなくてはいけないと思って、きのう amazon で、『象を撃つ』の入っている短篇集『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』(柴田元幸編訳)を買っておいた。スウィフトの例の話も載っている。貧乏人の子どもは食糧にしちゃえってやつ。『信号手』や『猿の手』も入っているのだけれど、これらは創元の『怪奇小説傑作集』のさいしょのほうの巻に入ってたりして読んでるけど、『猿の手』はたしかに傑作だと思うけど、『信号手』はいまいち、よくよさがわからない。ぼくの感性や感覚が鈍いのかもしれない。

これから塾へ。そのまえに、なんか食べよう。塾の帰りは日知庵に飲みに行く。

吉野家でカレーライスを頼んで食べたのだが、そのカレーライスに、綾子と名前をつけて食べてみた。味は変わらなかったけれど、自分が気が狂っているような雰囲気が出てスリリングだった。こんどからは、むかし付き合った男の子たちの名前をつけて、こころのなかで、その名前をつぶやきながら食べよう。

レッキーの『反逆航路』ちょっと読んだだけだけど、これは、言語実験したかったのかなと思う。その実験のためにSFの意匠を借りたのではないかと思われる。どかな。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 隣の部屋のひとのいびきがすごくて怖い。

塾から帰った。コンビニでかっぱえびせん買おうと思ったらなかったので、ねじり揚げなるものを買ってきた。108円。レッキーの『反逆航路』38ページ6行目に「詩は文明の所産であり、価値が高い。」(赤尾秀子訳)とあったが、どうやら、古代・中世の中国あたりの歴史を意識した未来世界のようだ。しかし、単なる皮肉ととらえてもよいかもしれない。

これから寝るまで、レッキーの『反逆航路』を読む。いま68ページだけれど、物語はほとんどはじまってもいない感じ。むかしのSFとは違うのだな。枕もとに積み上げた10冊以上の本を見たら、溜息がでた。ここ数週間のうちで、読みたいと思って買った本だけど、いつ読むことになるのか、わからない。

2014年に思潮社オンデマンドから出た『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』が、さいきん売れたみたいで、うれしい。自分の詩じゃないけれど、自分の詩のように愛しい詩ばかりだ。いや、もしかしたら、自分の作品以上に愛しているかもしれない。

クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! しかし、『叛逆航路』いま112ページ目だが、流れがゆるやかだ。退屈してきた。

いま気がついた。『叛逆航路』中国じゃなくて、インドが参考になってるのかもしれない。

いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ〜。帰り道、『詩の日めくり』にも出てくる「緑がたまらん。」の柴田さんに会った。


二〇一六年四月二十七日 「俳句」


携帯折ってどうしようというの われは黙したり

そもそものところ あなたが悪い 母は黙せり


二〇一六年四月二十八日 「短歌」


大きい子も小さい子も 首が折れて折れてしようがない夏


二〇一六年四月二十九日 「それだけか?」


何年前か忘れたけれど
マクドナルドで
100円じゃなく
80円でバーガーを売ってたときかな
1個だけ注文したら
「それだけか?」
って、バイトの男の子に言われて
しばし
きょとんとした。

何も聞こえなかったふりをしてあげた。
その男の子も
何も言ってないふりをしてオーダーを通した。
このことは
むかし
詩に書いたけれど
いま読んでる「ドクター・フー」の第4巻で
「それだけか?」
って台詞が出てきたので
思い出した。


二〇一六年四月三十日 「ヤフオク」


きょうは、たくさんの本を
ヤフオクで入札しているので
部屋から出られません、笑。



運動不足にならないように
音楽を聴きながら
踊っています。


二〇一六年四月三十一日 「トップテン」


むかし
叔父が所有していた
河原町のビルの10階に
トップテン
というディスコがあったんですけれど
そこには
学生時代
毎週踊りに行ってました。

あるとき
カップルの女性のほうから
「わたしの彼が、あなたと話がしたいって言ってるの」
と言われて
カップルに誘惑されたことがあって
ぼくが20歳かな
ちょっとぽちゃっとして
かわいかったころね。

その女性の彼氏が
またすっごいデブだったの、笑。
笑っちゃった。

ちゃんとお話はしてあげたけれど。
それだけ。

そういえば
東山丸太町のザックバランでは
やっぱり女の子のほうからナンパされて
朝までのみつぶれたことがあった。
女の子とは20代に何人か付き合ったけれど
どの子もかわいかったんだけれど。

いま48歳になって
もうそんなことはなくなってしまったけれど
そんな思い出を言葉にして
もう一度
自分の人生を
生きなおすことは
たいへん面白い。

老年というものは
もしかしたら
そんなことのためにあるのかもしれない。

ある種のタイムマシーンやね。
この叔父って
河野せい輔っていって
(せい、ってどんな漢字か、忘れた)
ぼくの輔は
そこからきてるって話で
この叔父の所有してた有名なビルに
琵琶湖の
おばけビルがあって
まあ
この叔父
醍醐にゴルフ場も持ってたんだけれど
何十年か前に
50億円くらいの借金を残して死にました。
げんが悪いわ、笑。
ぼくの名前。

輔は
神社でつけてもらったっていう話も
父親はしていて
まあ
両方やったんやろね。
どっちが先かっていえば
叔父の名前が先だろうけれど。


おばけビルじゃなくて
おばけホテルね。

仮面ライダーとかの撮影で使われたりしてたんじゃないかな。
むかし
恋人とドライブしていて
見たことあるけど
まあ
ふつうの廃墟ビルやったね。


詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年五月一日 「叛逆航路」


お昼から夕方まで、『The Wasteless Land.』の決定版の編集を大谷良太くんとしていて、そして、大谷くんと韓国料理店に行って、居酒屋に行って、そのあと、ひとりで、きみやに行って、日知庵に行って、いま、帰ってきた。帰りに、ぼくんちの近くのスナックのまえで八雲さんに会った。

きみやさんでは、元教え子の生徒さんにも遭って、ああ、京都に長く住んでいると、こういうこともあるのだなと思った。そいえば、王将で、元教え子から、「田中先生でしょう?」と言われて、ラーメン吹き出したこともあったよなあ。悪いこと、できひん。しいひんけど。いやいや、してる。している。

アン・レッキーの『叛逆航路』あと80ページほど。進み方がゆるやかだ。むかしのSFのおもしろさとは異なるおもしろさがあるが、むかしのSFを知っている者の目から見ると、物語の進行が遅すぎる。きょうじゅうに読めたら、あしたから続篇の『亡霊星域』を読むことにしよう。

あしたは、学校の授業が終わったら、大谷良太くんと、ふたたび、『The Wasteless Land.』決定版の編集をいっしょにする。きょうは、夜になったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。

アン・レッキーの『叛逆航路』おもしろかった。展開が遅かったけれど、終わりのほうがスコットカードを思い起こさせるような展開で楽しめた。この作品のテーマは、「人間には感情があり、恩情を受けた者はそれを忘れることができない。」一言でいえば、こう言い表し得るだろうか。さっそく続篇に目を通す。

きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり」ができた。これから、アン・レッキーの『亡霊星域』を読もう。冒頭だけ読んだ。翻訳者が赤尾秀子さんで、前作『叛逆航路』と同じなので、安心。前作は誤字・脱字が一か所もなかったように思う。さいきんの翻訳では、めずらしい。


二〇一六年五月二日 「さつま司」


いつもは
白波っていう芋焼酎を飲むんやけど
これ飲んでみ
と言われて出された
アサヒビールからだしてる
さつま司っていうヤツ
ちょっとすすったらオーデコロンの味が
オーデコロンなんか、じっさいにすすったことないけど
そんな味がした。
匂いはぜんぜんなくって
こんなん注文するひといるのって訊いたら
いるよって
ああ、ぜったい、変態やわ。
味のへんなヤツ好きなのっているんだよね。
ってなこと言ってると
美男美女のカップルが入ってきて
へしこ
頼んだのね
ひゃ〜
臭いもの好きなひともいるんやなあって話をしたら
そのカップルと
臭い食べ物の話になって
ぼくが、フィリピン料理で
ブタの耳のハムがいちばん臭かったって話をしたら
女性のほうが
カラスミのお茶漬けとか
いろいろ出してきて
うわ〜、考えられへんわ
って言った。

きのう、帰りの電車の窓から眺めた空がめっちゃきれいやった。
あんまりきれいやから笑ってしもうた。
きれいなもの見て笑ったんは
たぶん、生まれてはじめて。
いや、もしかすると
ちっちゃいガキんちょのころには
そうやったんかもしれへんなあ。
そんな気もする。
いや、きっと、そうやな。
いっつも笑っとったもんなあ。

そや。
オーデコロンの話のあとで
頭につけるものって話が出て
いまはジェルやけど
むかしはチックとかいうのがあってな
父親が頭に塗ってたなあ
チックからポマードに
ポマードからジェルに
だんだん液体化しとるんや。
やわらかなっとるんや。


二〇一六年五月三日 「キプリングみたい。」


大谷良太くんちから。帰ってきて、自分の詩集の売れ行きを amazon で見て、またきょうも売れてたので、うれしい。思潮社オンデマンドの詩集がいま40パーセント引きなので、そのおかげもあるかな。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と、『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻が売れてた。

アン・レッキーの『亡霊星域』おもしろい。イギリスっぽい。キプリングみたい。とか思ってたから、前作『叛逆航路』の解説を読んで、アメリカ人の作家というので、びっくり。書き込みが、イギリス人の作家のように、意地が悪いと思うのだけれど、たんに作家のサーヴィス精神が豊かなだけかもしれない。


二〇一六年五月四日 「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」


ええっ。きょうも amazon での売り上げ順位が上がってた。思潮社オンデマンドから出た詩集『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他』と『全行引用詩・五部作・上巻』と『全行引用詩・五部作・下巻』。ぼくの作品集のなかでも傑作たちだからよかった。そうでなかったら、買ってくださった方に申し訳ないものね。ありゃ、2014年に出した『ツイット・コラージュ詩』も売れてた。『ゲイ・ポエムズ』や『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』も売れてほしいなあ。

きょうも、これから大谷良太くんとミスドに。

ぼくにとって、詩は単なる趣味である。生きていくことは趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、生きていくことは苦しいことである。しかし、その苦しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である詩が人生というものに相応しい理由なのだ。

ぼくにとって、人生は単なる趣味である。詩は趣味ではない。なかば強制されているからだ。ぼくは、それは神によってだと思っているが、詩を読み書きすることは楽しいことでもある。そして、その楽しみからしか見えないものがある。そして、これが趣味である人生が、詩というものに相応しい理由なのだ。

アン・レッキーの『亡霊星域』あと20ページほど。柴田元幸訳の『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読もう。

きのうは一食だけのご飯だった。きょうも、そうしよう。読書とゲラチェックに専念。そいえば、来週に投稿する『詩の日めくり』もつくらなければならない。文学、文学、文学の日々だけれど、ひとから見れば、ただ趣味に時間を使っているだけ。そっ。じっさい、趣味に時間を費やしているだけなのである。

セブイレで、サラダとサンドイッチ2袋買ってきた。BGMは、リトル・リバー・バンドのベスト。アン・レッキーの『亡霊星域』誤字・脱字ゼロだった。純文学の出版社より、創元やハヤカワのほうが優秀な校正家を抱えているようだ。高い本で、誤字・脱字に気がついたときの気落ちほどひどいものはない。

これから、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読む。きょう、あすじゅうに読み切りたい。

スウィフトの『アイルランド貧民の‥‥‥』を読んだ。ひとを食べちゃう話は、ぼくもいくつか書いているけれど、スウィフトみたいに実用的な用途で子どもを食べるという案は、じつに興味深い。というか、この1篇が読みたくて、この単行本を買ったようなものである。コーヒーを淹れて、つぎのシェリーのを読もう。

シェリーの『死すべき不死の者』は、なんだかなあという感じ。傑作ちゃうやんという思いがする。つぎにディケンズの『信号手』を読むのだけれど、まえにも読んだとき、どこがいいのかぜんぜんわからなかった。きょうは、どだろ。BGMはジェネシス。ディケンズを読み終わったら、コーヒーを淹れよう。

9時半に日知庵に、竹上 泉さんと行くことに。

ディケンズの『信号手』を読み終わった。どこがいいのか、まったくわからない。以前にアンソロジーで読んだときにも、まったくおもしろくなかった。つぎは、ワイルドの『しあわせな王子』だけど、そろそろお風呂に入って、日知庵に行く準備をしないと。


二〇一六年五月五日 「超大盛ぺヤングの罪悪感」


超大盛のペヤングを食べて、罪悪感にまみれている。

しあわせな気分で眠るには、どうしたらいいだろう。とりあえず、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。たしか、ワイルドの「しあわせな王子」からだった。ワイルドといえば、フランスでの彼の悲惨な最期を思い出す。その場面の一部を作品化したことがあるけれど。

ワイルドの「しあわせな王子」を読んで、ちょびっと涙がにじんだ。ぼくはクリスチャンじゃないけど、やっぱり神さまはいらっしゃるような気がする。おやすみ、グッジョブ! ジェイコブズの「猿の手」を読んで明かりを消そう。ほかのひとの訳で読んだことがあるけど、これは傑作中の傑作だった。

ようやく起きた。これからプリンスを追悼して、プリンス聴きながら、新しい『詩の日めくり』をつくる。そのあと、詩集の校正をもう一度する。


二〇一六年五月六日 「グースカ・ポー!」


木にとまるたわし

気にとまるたわし

木にとまる姿を想像する
やっぱりナマケモノみたいにぶら下がってるって感じかな。

職場のひとたちや
居酒屋の大将や
近所のスーパー大国屋のレジ係りのバイトの男の子や女の子や
買い物してるオバサンや子どもも
みんな、とりあえず、木にぶら下がってもらう。
で、顔をこちらに向けて。
やっぱ、きょとんとした感じで。

歩いてるひとは
そうね
突然飛び上がって
丸くなってもらって
空中に浮いて
そのまま、やってきてもらおうかな。

車を運転してるひとは
とりあえず、ハンドルから手を離してもらって
両手を広げて
車から透けて足をのばして
空中に舞い上がってもらって
そのままずっと上っていってもらおうかな。

ぼくは
仏さまのように
半眼で
横向きになって
居眠りしようかな。

グースカ・ポーって。
行きますよ。


二〇一六年五月七日 「思い出せない男の子」


詩は、ぼくにとって、記憶装置の一つなのだけれど、こんど投稿する新しい『詩の日めくり』に、名前(したの名前だけ)も、身長も、体重も、年齢も、そのときの状況も、そのときの会話も書いてあるのに、まったく顔が思い出せない男の子がいて、ノブユキ似って書いてるんだけど、まったく思い出せない。

これから大谷良太くんちに。

大谷良太くんちから帰ってきた。見直さなきゃならない個所があって、見直したら、ぼくが直したところが間違ってた。とんまだわ。

これからお風呂に、それから日知庵に。

いま日知庵から帰った。帰り道で、柴田さんと会って、あいさつした。


二〇一六年五月八日 「ミニチュアの妻」


ようやく身体が起きた。なんか食べてこよう。帰ったら、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』のつづきを読もう。

あと、4、50ページで、『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終える。傑作は、さいしょのスウィフトのもののみ。あとはワイルドのくらいか。「猿の手」は、ほかの方の訳のほうが怖かった。これからオーウェルの「象を撃つ」を読む。有名な短篇だけれど、はじめて読む短篇だ。

ジョイスの抒情は甘すぎる。岩波文庫の『20世紀イギリス短篇選』上下巻のほうがはるかに優れた作品を収録していた。きょう、さいごに飲むコーヒーを淹れて、オーウェルを読もう。

『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読み終わった。スウィフトとオーウェルのだけが傑作であった。ジェイコブズの『猿の手』もよかったかな。さいごのディラン・トマスのクリスマスの話はよくわからなかった。詩人の書いた散文って感じなだけで、感動のかけらもなかった。

これから、寝るまで、マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』を読む。翻訳者のお名前がはじめて拝見するものだったので、翻訳の文体が心配だけど。それはそうと、ケリー・リンクの訳はよかったけど、マスターピースの柴田元幸さんの訳文、ぼくはあまり好きじゃなかった。

ゴンザレスの短篇2篇を読んだ。完成度の低さにびっくりするけれど、読めなくもない。きょうは、ゴンザレスの短篇を読みながら床に就く。


二〇一六年五月九日 「歯痛を忘れるためのオード」


学校から帰ってきた。夜に塾に行くまで、ゴンザレスの短篇集を読む。きのう寝るまえの印象では、あまりつくりこみがよくないように思えたのだけれど、きょう通勤で読んだ短篇でわかったのだけれど、基本、奇想系のものは、つくりこむのがむずかしいのだと。発想の段階でもうほとんどすべてなのだと。

悪くない。十分に楽しめる作品たちである。マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』 再読するかどうかはわからないけれど、本棚に置こう。

わ〜。きょう塾がなかったの、忘れてた〜。時間がある。ゴンザレスの短篇集のつづきを読みつづけよう。それとも、6月に文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくる準備をしようか。両方しよう。塾の授業がないだけで、気分がぜ〜んぜん違う。

きょうは塾がなかったのだった。

こんどの土曜日に、河村塔王さんと、日知庵で、ごいっしょすることになった。

きのう文学極道に投稿した自分の『詩の日めくり』を読んでて、ふと思いついた。『歯痛を忘れるためのオード』とかいったタイトルで作品を書こうかな、と。まあ、オードという形式について知識がゼロだし、無知丸出しだけど、ちょっと勉強しようかな。頭痛を忘れるためのオードとか、腹痛を忘れるためのオードとか、腰痛を忘れるためのオードとかも書けるかも。あ、五十肩を忘れるためのオードちゅうのもいいかもしれへん。首を吊ったばかりのひとも耳を傾けたくなるオードとか、飛び込み自殺しようとして飛び込んで電車にぶつかる直前にでも耳を傾けたくなるオードとかも考えられる。死んだばかりのフレッシュな死体さんにも、死を直前にしたひとにも、朗読されて気持ちがいいなって思ってもらえるような詩を書いてみたい。


二〇一六年五月十日 「塾の給料日」


いま帰ってきた。詩集3冊の見本刷りを郵便局に6時に着くように取りに行く。それから塾だ。これからカレーパンと胡桃パンの晩ご飯を食べる。とりあえず、コーヒー入れよう。きょうも、前半戦でくたくた。塾、きょう給料日だ。うれしい。

マヌエル・ゴンザレスの短篇集『ミニチュアの妻』に、一か所だけ誤字・脱字があった。216ページさいごの1行「なだめすかしたりしなくてもを小屋から出すことができたので」 「を」が間違って入ったのか、「そいつを」の「そいつ」が抜けているのか、どちらかだと思うのだが、しっかり校正しろよ。

きょうは、塾の給料日だったので、帰りに、スーパー「マツモト」で半額になった握り寿司340円を買った。きょうから寝るまえの読書は、『ジーン・ウルフの記念日の本』何度か読もうかなと思っていたが、手にとっては本棚に戻し手にとっては本棚に戻した本だった。さすがに、きょうからは読もうかな。


二〇一六年五月十一日 「ジーン・ウルフの記念日の本」


ジーン・ウルフの短篇集、きのう寝るまえに2篇読んだのだけど、2篇目の作品がまったく意味がわからなくて、2回読んだけど、もう1度読んでみる。

『ジーン・ウルフの記念日の本』に2番目に収録されている「継電器と薔薇」、3度読んで、ようやく内容がわかった。ジーン・ウルフはわりと、ぼくにはわかりやすいと思っていたのだが、そうでもない作品があるのだなと思った。理解を妨げた原因には、書かれた時代を現代がとっくに超えてることもある。

これから王将に。それから塾へ。

塾から帰った。ジーン・ウルフの短篇集のつづきを読む。


二〇一六年五月十二日 「Love Has Gone。」


それ、どこで買ってきたの?
高島屋。
えっ、高島屋にフンドシなんておいてあるの?
エイジくんが笑った。

たなやん、雪合戦しよう。
はあ? バカじゃないの?
俺がバカやっちゅうことは、俺が知ってる。
なにがおもしろいん?
ええから、雪合戦しようや。

それからふたりは、真夜中に
雪つぶての応酬。

俺が住んでるとこは教えへん。
こられたら、こまるんや。
たなやん、くるやろ。
行かないよ。
くるから、教えたらへんねん。
バカじゃないの?
行かないって。

木歩って俳人に似てるね。
たなやんの目から見たら、似てるんや。
まあ、彼は貧しい俳人で、
きみみたいに建設会社の社長のどら息子やないけどね。
似てるんや。
ぼくから見てね。

姉ちゃんがひとりいる。
似てたら、こわいけど。
似てへんわ。
やっぱり唇、分厚いの?
分厚ないわ。
ふううん。
俺の小学校のときのあだ名、クチビルお化けやったんや。
クチビルおバカじゃないの。
にらみつけられた。

つかみ合いのケンカは何度もしていて
顔をけってしまったことがあった。
ふたりとも柔道してたので
技の掛け合いみたいにね、笑。
でも、本気でとっくみ合いをしてたから
あんまり痛くなかったのかな
それとも、本気に近いことがよかったのか
エイジくんが笑った。
けられて笑うって変なヤツだとそのときには思ったけれど
いまだったら、わかるかな。

こんどの詩集にでてくるエイジくんのエピソード。
日記をつけてたんだけれど
捨ててしまった。


二〇一六年五月十三日 「31」


いま日知庵から帰った。奥のテーブル席に坐っていた男の子がかわいいなと思って(向かいの席には女の子がいたけど)帰りに声をかけた。「いまいくつ?」「31です。」「素数じゃん!」「えっ?」「みそひと文字で短歌だよ。三十一は短歌で使う音数だよ。」と言ったら、そうなんすかと笑って返事した。

男からも女からも好かれるような、かわいい顔をしてた。ぼくがあんな顔をして生まれていたら、きっと人生ちがってただろうな。ぼくはブサイクだから、勉強したっていうところがあるもの。まあ、ブサイクだから詩を選んだっていうことは、かくべつないんだけどね、笑。

あした、大谷良太くんちに行く。『詩の日めくり』の第一巻から第三巻の最終・校正をするために。そろそろ寝よう。日知庵にいた、めっちゃ、かわいい男の子が、きっと夢に出てきてくれると思う。ハーフパンツで、白のポロシャツ。女の子にも受けるけど、ゲイ受けもすごいと思うくらいかわいかった。ベリ・グッド!

あの男の子が夢に出てきてくれますように、祈りつつ……


二〇一六年五月十四日 「きみの名前は?」


きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『養父』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』170ページ後ろから4行目)

きみの名前は? 
(ジーン・ウルフ『フォーレセン』宮脇孝雄訳、短篇集『ジーン・ウルフの記念日の本』181ページ5行目)

ひさしぶりにウルトラQを見よう。「宇宙指令M774」「変身」「南海の怒り」「ゴーガの像」

『ジーン・ウルフの記念日の本』を読み終わった。まあ、車が妊娠して車を生む短篇以外は、凡作かな。あの「新しい太陽の書」シリーズの作者とは思えないほどの凡作が並んでいた。『ナイト』と『ウィザード』のI、IIを買ってあるけれど、読む気が失せた。代わりに、きょうから寝るまえの読書は、ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』にしよう。ヴァンスは、コンプリートに集めた作家の一人だが、これまたコンプリートに集めた作家にありがちなのだけど、持っている本の半分も読んでいない。さすがに、「魔王子」シリーズは読んだけど。

いま日知庵から帰った。河村塔王さんと5時からずっとごいっしょしてた。現代美術のエッジにおられる方とごいっしょできてよかった。ぼく自身は、無名の詩人なんだけど、といつも思っている。謙虚なぼくである。


二〇一六年五月十五日 「ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥」


いま、まえに付き合ってた子が、ビール2缶と、フランクフルトと焼き鳥をもってきてくれた。朝から飲むことに。

きょうやらなければならないと決めていた数学の問題づくりが終わった。休憩しよう。きのう、河村塔王さんからいただいたお茶を飲もう。見て楽しめる、香りも楽しめるお茶らしい。

自分でも解いてみたが。OKだった。夜は、あしたやるつもりだった数学の問題をつくろうかな。そしたら、あしたは、ワードに打ち込むだけで終わっちゃうし。河村塔王さんからいただいたお茶、めっちゃおいしい。花が咲いてて、見た目もきれい。きのうは、作品も2点いただいた。聖書の文章がタバコの形に巻いてあるものと、詩作品がタバコの形に巻いてあるもので、どちらも、じっさいに火をつけて吸うことができるようになっているのだが、おしゃれな試験管に入っていて、コルクの栓で封印されている。もったいなくて火はつけませんでした。

ジャック・ヴァンスの短篇集のつづきを読もう。きのう4ページくらい読んだけど、さっぱり物語が頭に入らず、びっくりした。

あしたしようと思っていた分の数学の問題つくりとワード打ち込みも終えられたので、五条堀川のブックオフまで散歩ついでに出かけよう。持っている未読の本を読めばいいのだけれど、本に対して異常な執着心があるためにブックオフ通いはやめられない。読みたいと思える未読の古いものもよくあるからである。

文春文庫の『厭な物語』『もっと厭な物語』なんてのは、ブックオフで見かけなかったら、知らなかったであろう本だし、創元文庫エラリー・クイーン編集の『犯罪文学傑作選』も知ることはなかったと思う。クイーン編集の『犯罪は詩人の楽しみ』を後でアマゾンで買った。

ちなみに、『厭な物語』も『もっと厭な物語』もまだ読んでいない。『厭な物語』は目次を見て、半分くらいの作品を知っていたがために読まず。『もっと厭な物語』は『厭な物語』を読んでからと思っているため読まずにいるのだが、近々にでも、読む日はくるのだろうか。

バラードの短篇集『時の声』が108円なので買っておいた。このあいだ、竹上 泉さんに、持ってるバラードをぜんぶ差し上げたので、手もとになかったのだ。よかった。やっぱり、タイトル作と「音響清掃」は再読するかもしれないからね。再読する価値のある短篇は、これら2作と「溺れた巨人」くらいかな。


二〇一六年五月十六日 「きょうは雨らしい」


起きた。きょうは雨らしい。通勤で読む本は文庫にしよう。『モーム語録』がまだ途中だった。これにしよう。

『モーム語録』読み終わった。マリー・ローランサンとチャップリンの逸話がとても印象的だった。この2つの逸話は忘れないだろう。ローランサンは、女性のかわいらしさを、チャップリンは人間の悲哀を感じさせらる話だった。とても魅力的な人間だった。ぼくもほかの読み物や自伝や映画で知ってるけど。モームは直接会っての、逸話だからね。そら違うわ。ぼくの『詩の日めくり』にもたくさんの人たちが登場するけれど、ローランサンとかチャップリンとかいった一般のひとびとも知ってるような有名なひとはいないなあ。ほとんどのひとが、無名のふつうの友だちか知り合い。

雨の日は、通勤に単行本を持って行くのは危険なので、文庫本を持って行ってるんだけど、これから雨の日がぼちぼちくるだろうから、用心のために、単行本は部屋で読むことにしよう。あしたから通勤には、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を持って行こう。トールサイズで読みやすいかな。

きょうは塾がないので、読書三昧。ジャック・ヴァンスの短篇集を読もう。読みにくくてしょうがないんだけど、ヴァンスって、こんな読みにくい作家だったかな? アン・レッキーとか、めちゃくちゃ読みやすかったのだけれど。さっき amazon で、自分の詩集の売り上げ順位を見たら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』が売れてた。いったい何冊売れてるのかは、思潮社さんからは教えてもらっていないのだけれど、売り上げ順位が変わっているから、きのうか、きょうくらいにまた売れたと思うのだけれど、自分の詩集が売れると、うれしい。

『愛はさだめ、さだめは死』は再読。ふつうサイズの文庫本を持っていて、本棚のどこかにあったかなって思って、このあいだ探してなかったので、amazon で新たに購入したもの。収録されている物語は一つも記憶がない。まあ、そのほうがお得な気はするかな、笑。

メールボックスを開けると、海東セラさんから、個人誌『ピエ』16号が入っていた。拙詩集をごらんくださったとのお便りもうれしく、お人柄がしのばれる手書きの文字に魅入っていた。詩は、海東セラさんの散文詩、これは、イタリアに旅行したディラン・トマスをぼくは思い起こしたのだけれど、ほかには岩城誠一郎さんの詩と、支倉隆子さんの詩と、笠井嗣夫さんが翻訳されたディラン・トマスの散文が掲載されていて、個性のまったく異なる方たちの作品が、本田征爾さんという画家の方が描かれた表紙や挿絵に挟まれて、よい呼吸をしているように思えた。きれいな詩誌を送っていただけて、こころがなごんだ。海東セラさん、北海道にお住みなんだね。遠い。ぼくは、いちばん北で行ったことがあるのは、山梨県だったかな。大学院生のときに学会があって、行ったのだけれど、夜に葡萄酒をしこたま飲んだ記憶しかないかな。海東セラさんの「仮寓」という詩に書かれた「道が違えば」という言葉に目がとまる。目だけがとまるわけじゃない。ぼくのなかのいろいろなものがとまって、動き出すのだ。詩を読んでいると、目がとまって、いろいろなものが動き出すのだ。けっきょく、詩を読むというのは、自分を読むということなんだろうな。いや、いろいろなことが、ぼくの目をとまらせるけれど、その都度、ぼくのなかのいくつものものがとまって、動き出すんだな。そのいろいろなことが、ひとであったり、状況であったり、詩であったり、映画であったりしてね。

ジャック・ヴァンスの短篇、ようやく冒頭のもの読めた。なんだかなあ。古いわ。まあ、古い順に収録されている短篇集らしいのだけれど。書き込み具合は、ヴァンスらしく、実景のごとく異星の風景を見事に描き出してはいたものの、古いわ〜。まあ、レトロものを楽しむ感覚で読みすすめていけばいいかな。

すごい雨音。神さまの、おしっこ散らかしぶりが半端やない。

ジャック・ヴァンス短篇集『奇跡なす者たち』誤訳 「ときには顔を地べたすれすれに顔を近づけ」(『無因果世界』浅倉久志訳、131ページ3行目) 「顔を」は、1回でいいはず。浅倉さん、好きな翻訳家だったのだけれど、2010年に亡くなってて、このミスは、出版社おかかえの校正家のミスだな。


二〇一六年五月十七日 「半額になった焼きジャケ弁当216円」


ジャック・ヴァンスの短篇集『奇跡なす者たち』 悪くはなかったが、古い。バチガルピの『ねじまき少女』や、ミエヴィルの『クラーケン』とか、R・C・ウィルスンの『時間封鎖』三部作や、レッキーのラドチ戦史シリーズなどを読んだ目から見ると、決定的に古い。まあ、雰囲気は悪くなかったのだけど。

あしたから、通勤で読むのは、R・A・ラファティの『第四の館』にしようかな。 これは長篇なのかな。おもしろいだろうか。

これから塾に。そのまえに、王将で、みそラーメン食べよう。

塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった焼きジャケ弁当216円を買って、部屋で食べる。塾の生徒さんの修学旅行のおみやげのむらさきいもスイーツを2個食べる。満腹である。寝るまえの読書は、ひさびさのラファティの『第四の館』。ラファティの本は1冊も捨ててないと思うけど、どだろ。


二〇一六年五月十八日 「昭夫ちゃんか。」


ラファティ、ちょこっとだけ読んだ。わけわからずだった。

これから晩ご飯。ご飯たべたら、頭の毛を刈って、お風呂に入る。

これから塾へ。帰りは日知庵に。

いま日知庵から帰った。寝る。

昭夫ちゃんか。


二〇一六年五月十九日 「人間がいるところには、愛がある。」


満場はふたたび拍手に包まれた。人びとがこのように拍手を惜しまなかったのは、モーリスが卓越していたからではなく、ごく平均的生徒だったからである。彼を讃えることは、すなわち自分たちを讃えることにほかならなかった。
  (E・M・フォースター『モーリス』第一部・4、片岡しのぶ訳)

 ひとをあっといわせるような効果はどれも敵をつくるものだ。人気者になるには凡庸の徒でなくてはならない。
(ワイルド『ドリアン・グレイの画像』第十七章、西村孝次訳)

ことさらに、だからってことはないのだけれど
ぼくの作品を否定するひとがいても、
それはいいことだと、ぼくは思っているのね。
それに、案外と、感情的な表現をするひとほど
根がやさしかったりするものだからね。

ぼくはクリスチャンじゃないけれど、
すべてを見ている存在があって、ぼくのいまも過去も
そして未来も見られていると思うのね。

ぼくは、ジョン・レノンのことが大好きだけど
ジョンが、愛について、つぎのように、堂々と言っていたからだ。

愛こそがすべてだと。

たしかに、そうだと、ぼくも思う。
そうして、愛のあるところには、人間がおり
人間がいるところには、愛がある、と。


二〇一六年五月二十日 「とても気もちがよかったのだけれど。」


けさ、5時くらいにおきて
また二度寝していたのだけれど
そしたら
ぼくの部屋じゃないところにぼくが寝ていて
布団は同じみたいなんだけど
部屋の大きさも同じなんだけど
そしたら
ぼくの身体の下から
ゆっくりと這い上がってくる人間のようなものがいて
重さも細い人の重さがあって
ああ、これはやばいなあって思っていると
その人間のようなものが
ぼくの耳に息を吹きかけて
それを、ぼくは気もちいいと思ってしまって
これは夢だから、どこまでこの実感がつづくかみてみようと思っていると
ぼくの右の耳たぶを舌のようなぬれたあたたかいもので舐め出したので
ええっ
っと思っていたんだけど
ものすごくじょうずに舐めてくるから
どこまで〜
と思って目を開けたら
人影がなかったのね
でも、ぼくの上にはまだ重たい感じがつづいているから
立ち上がろうとしてみたら
立ち上がれなくって
明かりをつけようとしたら
手のなかでリモコンが
その電池のふたがあいて、電池が飛び出して、ばらけてしまって
でも、めっちゃ怖くなってたから
重たい身体を跳ね上げて
立ち上がって
明かりをつけられなかったので
カーテンを開けようとしたら
カーテンが、針金で縫い付けてあったの。

わ〜
って声をだして
カーテンをその縫い目から引き千切って
左右に開けたの。
手には、布の感触と、針金の結びつづけようとする強い力の抵抗もあった。

ようやく開けたら
部屋のなかで、なにものかが動く気配がして振り返ったら
玄関が開いていたの。
見たこともない玄関だった。
えっ
と思うと
その瞬間
ぼくは自分の部屋の布団のなかにいたのね。
ひと月くらい前にも、こんなことあったかな。
日記に書いたかもしれない。
でも、きょうのは
15年くらい前に見たドッペルゲンガーぐらいしっかりした実体だったので
また少し頭がおかしくなっているのかもしれない。
15年前は
自分の年齢もわからず
自分の魂が、自分の身体から離れていることもしばしばあったので
今回も、そうなる予兆の可能性はある。


二〇一六年五月二十一日 「第四の館」


ラファティの『第四の館』半分くらい読めた。会話がほとんどキチガイ系なので、なんの話かよくわからないが、随所にメモすべき言葉があって、そのメモは貴重かな。物語はめちゃくちゃ。このあいだ出たラファティの文庫『昔には帰れない』の表紙はよかったなあ。飾ろうかな。

シャワーを浴びた。これから河原町に。日知庵に行く。夜の街の景色が好きだ。

いま帰った。きょうは「日知庵→きみや→日知庵」の梯子。帰りに、セブイレでカップヌードル買った。食べて、寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年五月二十二日 「茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について」


きのう、日知庵からの帰り、阪急電車に乗ってたら、ヒロくんに似てる男の子がいて、うわ〜、ヒロくんといまでも付き合ってたら、どんなおっちゃんになってるんやろうと思った。その男の子は二十歳くらいで、ぼくがヒロくんと合ってたとき、たぶん、ヒロくんは21歳くらいやったと思う。みんな、思い出の話だ。

アレアのファーストをかけながら、ラファティの『第四の館』を読んでいる。あと60ページほどだが、さっぱり内容がわからない。

FBフレンドの方のアップされたホットケーキのうえにのっかった茶色のクリームが、うんこにしか見えない件について、だれかと話し合いたい。


二〇一六年五月二十三日 「ヴァニラ・セックス」


ヴァニラ・セックス
裸で抱き合うこと
甘いこと

ヴァニラ・セっクスに、張形は使わんな、笑。
「張形」
ダンの詩に出てきた言葉だけれど
まあ、ゲイ用語で言うと、ディルドっていうのかな
チンポコの形したやつね
いまのはシリコン製なのかな
シリコン製だと硬くて痛いと思うんだけど
そうでもないのかな
ゴムみたいにやわらかいのもあるけれど
それはシリコン製じゃなかったかも。
ぼくは、こんどの詩集で、ピンクローターって出したけど
ダンの詩句も、そうとうエッチで、面白かった。
このあいだ、シェイクスピアを読みなおしたら
チンポコを穴ぼこに突き入れるみたいなことが書いてあって
17世紀の偉大な詩人たちの作品ってけっこう、いってたのねって思った。
すごい性描写も、偉大な詩人が書くと、おおらかで
とっても淫らで気持ちいいくらい大胆な感じ。
きのう書いた
弧を描いて飛ぶ猿の千切れた手足のことを思い浮かべていたら
公園のベンチに座ってね
そしたら、梅田の地下の
噴水で
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って、斜めに射出される
まるで
海面を跳ね飛ぶイルカのように
あれって
さかってるのかしら

その
海面を斜めに跳ね飛ぶイルカのように
水の柱が
ジュポッ ジュポッ
って射出されるんだけど
これって
またタカヒロのことを
ぼくに思い出せたんだよね
これは、自転車に乗って公園から帰る途中
コンビニの前を通ったときに
向かい側にはスタバがあって
何組ものカップルたちが
道路の席に座っていた
斜めに射出される水の柱が
弧を描いて跳ね飛ぶイルカの姿が
タカヒロの射精のことを
ぼくに思い出させた
タカヒロのめちゃくちゃ飛ぶ精液のことを思い出しちゃった。
彼の精液って、彼の頭を飛び越えちゃうんだよね。
もちろん、仰向きでイクときだけど。
このタカヒロって、「高野川」のときのタカヒロじゃなくって
彼女がいて
34歳で
むかし野球やってて
いまでも休みの日には
野球やってて
彼女とは付き合って5年で
結婚してもいいかなって思っていて
でも、男のぼくでもいいって言ってたタカヒロなんだけど
彼の出す量ってハンパじゃなくて
はじめてオーラル・セックスしたとき
口のなかで出されちゃったんだけど
飲むつもりなんてなかったんだけど
そのものすっごい量にむせちゃって
しかも、鼻の奥っていうか
なかにまであふれちゃって
涙が出ちゃった。

ぼくが付き合った子って
おなじ名前の子が何組かいて
詩を書くとき
異なる人物の現実を
ひとつにして描写することがよくあって
ぼくにしか、それってわからないから
読み手には
きっと
ふたりじゃなくて
ひとりの人間になってるんやろうね
ひとりの人間として現われてるんやろうね
まあ
自分でも
まじっちゃうことがあって
記憶のミックスがあって
ふと思い出して
違う違う
なんて思うことあるけど、笑。
五条堀川のブックオフにも立ち寄って

公園を出てすぐにね
帰るとき
村上春樹訳の
キャッチャー・イン・ザ・ライ
があって
105円だったから買おうかなって思ったんだけど
むかし読んだのは野崎さんの訳やったかな

パッとページを開くと
「まだ時刻がこなかった。」
みたいな表現があって
「時刻」やなくて
「時間」やろうって思った。
あらい訳や。
センスないわ。
やっつけ仕事かいな。
たんなる金儲けやね。

買わんと
出た。


二〇一六年五月二十四日 「すべての種類のイエス」


寝るまえの読書は、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』 冒頭の作品「すべての種類のイエス」を断続的に昼から読んでいるのだが、初期のティプトリーはあまり深刻ではなかったのかもしれないと、ふと思った。違ってたりして。


二〇一六年五月二十五日 「It's raining.  雨が降っている。」


東寺のブックオフに置いてあったのだけれど
ナン、俺は
が入ってるかどうか、帰ってきてからお酒を飲みながら
パソコンで調べてたら
ナン、俺は
が入っていることがわかり
またまた東寺のブックオフまで
自転車でサラサラっと行ってきました
ナン、俺は
が、やっぱりいい
帰りに聴きながら
京大のエイジくんのことを思い出してた
雪つぶて
雪の夜の
夜中に
アパートの下で
雪を丸めて
たったふたりきりの雪合戦
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
俳人の木歩の写真を見せて
エイジくんに似てるなあ
って言ったときのこと
関東大震災の
火の
なかを
獅子が吠え
いっせいに丘が傾いたとき
預言者のダニエルは
まっすぐに
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
燃える火のなかで
木歩を背負ったエイジくんは
すすけた顔から汗をしたたらせながら
ぼくの前から姿を消す
預言者のダニエルは
燃える絵のなかで
四つの獣の首をつけた
回転する車の絵とともに姿を消す
雪つぶて
ディス・アグリー・ファイス
酔っぱらった
ぼくには
音楽しか聞こえない
「俺のこと
 たなやんには、そんなふうに見えてるんや」
雪つぶて
ふたりきりの雪合戦
燃える火のなかを
預言者ダニエルが
ぼくの顔を見据えながら歩いてきた
エイジくんの姿も
木歩の写真も
消え
明かりを消した部屋で
音楽だけが鳴っている


二〇一六年五月二十六日 「ミスドで、コーヒーを飲んでいた。」


さいきん、体重が減って
腰の痛いのがなくなってきた。
もう一個ぐらいドーナッツ食べても大乗仏教かな。
カウンター席の隅に坐っていた女の子の姿がすうっと消える。
ぼくの読んでいた本もなくなっていた。
テーブルの下にも
どこにも落ちていなかった。
ぼくはコーヒーの乾いた跡を見つめた。
口のかたちのコーヒーの跡も、ぼくのことを見つめていた。
ひび割れ。
血まみれの鳩の死骸。


二〇一六年五月二十七日 「巨大なサランラップ」


巨大なサランラップでビルをくるんでいく男。なかのひとびとが呼吸できなくなって苦しむ。ぼくはなかにいて、そのサランラップが破れないものであることをひとひとに言う。ぼくも苦しんでいるのだが、そのサランラップは、ぼくがつくったものだと説明する。へんな夢みた。

ここだけが神のゾーン。エレベーター。

隣の部屋のひと、コナンだとか、2時間ドラマばかり見てる音がする。バカなのかしら?

ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』をまだ読んでいるのだけれど、SFというよりは、散文詩の長いものって感じがする。SF的アイデアはたいしたことがなくて、叙述が評価されたのだろう。いま読むと、最新の作家たちの傑作と比べて申し訳ないが、古い感じは否めない。でも、まあ、これ読みながら寝ようっと。

二〇一六年五月二十八日 「いつもの通り」


ひとりぼっちの夜。



二〇一六年五月二十九日 「一日中」


ずっと寝てた。


二〇一六年五月三十日 「カレーライス」


ティプトリーの初期の作品は、SFというよりは、散文詩かな。「接続された女」もSFだけど、なんだかSFっぽくない感じがする。これは、「男たちの知らない女」を読んでいて、ふと思ったのだけれど、ヴォネガット的というか、SFは叙述のためのダシに使われてるだけなのかなって。どだろ。

まだ、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』を読んでいるのだけれど、「男たちの知らない女」の途中のだけれど、叙述がすばらしい。いつか、ぼくの書いたものも、だれかに、「叙述がすばらしい」と思われたい。まあ、叙述など、どうでもいいのだけれど。

きょう、塾で小学校の6年生の国語のテキストを開いて読んでみた。冒頭に、重松清の『カレーライス』という作品が載っていて、読んだけど、中学生が作った作文程度の文章なのだった。びっくりした。たしか、なんかの賞を獲ってたような気がするのだけれど、ますます日本文学を読む気が失せたのであった。

ティプトリーの『愛はさだめ、さだめは死』誤植 318ページ3行目「昨夜の機械は」(『男たちの知らない女』伊藤典夫訳)


二〇一六年五月三十一日 「発語できない記号」


たいていの基本文献は持っているのだが、どの本棚にあるのかわからないし、文庫の表紙も新しくなっていて、きれいだったので買った。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(福田恒存訳)108円。「すべて芸術はまったく無用である。」 これ、ぼくのつぎのつぎの思潮社オンデマンド詩集に使おう。

ようやく、ティプトリーの短篇集『愛はさだめ、さだめは死』の再読が終わった。『全行引用詩・五部作・上巻』で引用していたところに出合って、なつかしい気がした。塾に行くまでに、ルーズリーフ作業をしよう。きょうの夜から、ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を再読するつもりだ。

お風呂から上がった。これから塾だ。ミンちゃんにもらった香水、つけていこう。匂いがさわやかだと、気分もさわやかだ。

存在しない数(定義されない数)として、ゼロのゼロ乗が勇舞だけれど、存在しない言葉というものを書き表すことができるのであろうか。数学は究極の言語学だと思うのだが、そういえば、ディラン・トマスの詩で、ネイティブの英語学者でも、その単語の品詞が、動詞か形容詞かわからないものがあるという話を読んだことがあるのだが、そんなものは動詞でもあり、形容詞でもあるとすればいいんじゃないのって思うけどね。詩人は文法なんて無視してよいのだし、というか、万人が文法など無視してよいのだし。

ガウス記号を用いた [-2.65] をどう発語したらよいのかわからず、困った。しかし、数学記号を用いた表記には発語できないものも少なくなく、数学教師として、少々難儀をしている。たとえば、集合で用いる { } のなかの、要素と要素の説明の間の棒ね。あれも発語できない記号なんだよね。

きょうはホイットマンの誕生日だったか。アメリカの詩人で好きな詩人の名前を5人あげろと言われたら、ぜったい入れる。いちばんは、ジェイムズ・メリルかな。にばんは、エズラ・パウンドかな。さんばんに、ホイットマンで、よんばん、W・C・ウィリアムズで、ごばんは、ウォレス・スティヴンズかな。ああ、でも、エミリー・ディキンスンもいいし、ロバート・フロストもいいし、エイミー・ローエルもいいし、ぼくが数年まえに訳したアメリカのLGBTIQの詩人たちの詩もいい。そいえば、きょう読んだティプトリーの本に、ロビンソン・ジェファーズの名前が出てた。

レコーダーは、ロビンスン・ジェファーズの詩を低く吟じている。「"人間の愛という穏健きわまりないものの中に身をおくこと……"」(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳、短篇集『愛はさだめ、さだめは死』415ぺージ、6─7行目)

めっちゃ好きで、英語でも全集を持ってるエドガー・アラン・ポオを忘れてた。というか、ぼくの携帯までもが、そのアドレスがポオの名前を入れたものだった。(なのに、なぜ忘れる? 笑) ぼくも山羊座で、むかしポオに似ているような気がずっとしていたのだけれど。

ティプトリーの『たったひとつの冴えたやりかた』を読みながら寝る。おやすみ、グッジョブ!


詩の日めくり 二〇一六年六月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年六月一日 「隣の部屋の男たち」


お隣。男同士で住んでらっしゃるのだけれど、会話がゲイじゃないのだ。なんなのだろう。二人で部屋代を折半する節約家だろうか。香港だったか、台湾では、同性で部屋を借りるっていうのはよくあるって、なんかで読んだことあるけど。まあ、ゲイでも、ゲイでなくてもよいから、テレビの音を小さくして。とくにコマーシャルの音がうるさい。というか、テレビしかないのか。音楽が流れてきたこと、一度もない。会話は、会社のことなのか、だれだれがどうのこうのとかいった情報、ぼくが聞いて、どうすんのよ。と思うのだけれど。とにかく、テレビの音を小さくしてほしい。


二〇一六年六月二日 「たったひとつの冴えたやりかた」


ティプトリーの短篇集『たったひとつの冴えたやりかた』、タイトル作品、記憶どおりの作品。さいごまで読もう。残る2つの物語にはまったく記憶がない。これはSFチックだ。作家がすごいなと思わせられる理由のひとつとして物語がある。ぼくには物語が書けない。じっさいにあったことにしろ、なかったことにしろ、言葉についてしか書けない。


二〇一六年六月三日 「人生の速度」


きょうは、ティプトリーの『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』を読もう。『たったひとつの冴えたやりかた』の第二話と第三話はまったく記憶に残っていなかったものだった。読書で、ぼくの記憶に残っているものって、ごくわずかなものなのだなってことがわかる。まことに貧弱な記憶力だ。『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』も、むかし読んだのだけれど、まったく記憶がない。記憶に残らない可能性が高いのに、むさぼるようにして、ほぼ毎日、読書するのはなぜだろう。たぶん、無意識領域の自我に栄養を与えるためだと思うのだけれど、読むことでより感覚が鋭くなっている。感覚が鋭くなっているというよりは、過敏になっているというほうがあたっているような気がする。齢をとると、身体はボロボロになり、こころもボロボロになりもろくなっていくということなのかもしれない。ちょっとしたことで、すぐに傷ついてしまうようになってしまった。弱くもろくなっていくのだな。でも、それでよいとも思う。毎日がジェットコースターに乗っている気分だと、むかしから思っていたけれど、齢をとって、ますますそのジェットコースターの速度が上がってきているようなのだ。瞬間を見逃さない目をやしなわなければならない。瞬間のなかにこそ、人生のすべての出来事があるのだから。


二〇一六年六月四日 「2009年4月28日のメモ」


芝生を拡げた手のひらのような竹ほうきで、掃いていた清掃員の青年がいた。
頭にタオルをまいて、粋といえば粋という感じの体格のいい青年だった。
桜がみんな散っていた。
散った花は、花びらは少し透明になっていて
少し汚れて朽ちていて芝生の緑の上にくっついていた。
たくさんの桜の花びらが散っていた。
枝を見たら、一枚ものこっていなかった。
日が照っていて、緑の芝生が眩しかった。
でも、桜の花びらは、なんだか、濡れていたみたいに
半透明になっていて、少し汚れていた。
校舎の前のなだらかな坂道が、緑の芝生になっていて
ところどころに植えられた桜の木が
通り道のアスファルト舗装された地面や緑の芝生の上に
濃い影を投げかけていた。
ぼくは、立ち止まってメモを書いている。
桜の花びらが、みんな散っているな、と考えながら
芝生の上に目を走らせていると
校舎の2階や3階からなら見える位置に
百葉箱があるのに気がついた。
いまの勤め先の高校には、もう20年くらい前から勤めているのだけれど
まあ、途中9年間、立命館宇治高校や予備校にも行っていたのだけれど
この百葉箱の存在は知らなかった。
百葉箱がこんなところにあるなんて、はじめて知った。
百葉箱は白いペンキが少し変色した感じで
4、5年は、ペンキの塗り替えがされていないようだったが
ペンキの剥げは、まったく見当たらなかった。
4、5年くらいというのは適当だけど、4、5年くらいって思った。


二〇一六年六月五日 「風邪を引いた。」


風邪をひいたのでクスリのんで寝てる。本を読んでるから、ふだんと変わんないけど。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』古い題材なのは仕方ないな。まあ、ゴシック怪奇ものをふつう小説とまぜまぜで読んでる感じ。買ったから読んでるって義務感的な読書だな。なぜか読みたい本はほかにあるのだけれど。いま、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻を読んでいる。緻密だ。あきたら、また『ウィーン世紀末文学選』に戻ろう。咽喉が痛い。きょうは早めに寝よう。岩波文庫の『ウィーン世紀末文学選』に載ってるシャオカルという作家の「F伯爵夫人宛て、アンドレアス・フォン・バルテッサーの手紙」(池内 紀訳)がおしゃれだった。さいごのページの「以上すべて私の作り話です。」って構成は、ぼくも真似をしたくなった。岩波文庫の短篇選に外れはない感じだ。


二〇一六年六月六日 「髪、切ってないから、こんどにする。」


これから河原町へ。5時に、きみやさんで、えいちゃんと待ち合わせ。早めに行って、ジュンク堂にでも寄ろう。

いま、きみやから帰ってきた。ちょこっと本を読んだら、クスリのんで寝よう。きのう、信号待ちしてたら、めっちゃタイプの子が自転車に乗ってて、まえに付き合ってた男の子に似ていて、ドキドキした。ああ、まだ、ぼくはドキドキするんだって、そのとき思った。そのまえに付き合ってた男の子から電話があって、「いま、きみやにきてるから、飲みにおいでよ。」と言うと、「髪、切ってないから、こんどにする。」との返事。いわゆるブサカワ系のおでぶちゃんなのだけれど、髪切ってるか切ってないか、だれもチェックせえへんちゅうの。ぼくはチェックするけど、笑。西院駅からの帰り道、「ひさしぶりです。」と青年から声をかけられたのだが、タイプではないし、ということは元彼の可能性はゼロだし、仕事関係でもないし、と思ってたら、ああ、ぼくはヨッパのときの記憶がないし、そのときにでもしゃべったひとかなって思った。酔いは怖し、京都は狭し。

秋亜綺羅さんから、ココア共和国・vol.19を送っていただいた。体言止めが多い俳句というものを久しぶりに見た。基本、ヘタなんだな。松尾真由美さん、相変わらず、意味わからない。ほかのひとの作品も、ぼくにはさっぱりわからない。これから岩波文庫『ウィーン世紀末文学選』を読みながら寝る。


二〇一六年六月七日 「オバマ・グーグル」


山田亮太さんから詩集『オバマ・グーグル』(思潮社)を送っていただいた。きれいな装丁。タイトル作は、発表時、だれかが批判的に批評していたけれど、その評者のことをバカじゃないのって思ったことを思い出した。詩というより、言語作品。方法論的に、ぼくと似ているところがある。抒情は違うけど。

いま塾から帰ってきた。朝からこの時間まで仕事だけど、実質労働時間は3時間半。いかに、通勤と空き時間が多いことか、笑。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、いま、94ページ目。読みにくくはないけど、読みやすくもない。でも、まあ、なんというか、犯人をまったく追わない警官だな。


二〇一六年六月八日 「ぼくの卑劣さ」


マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻、3分の2くらいのところ。緻密だけれど、P・D・ジェイムズほどの緻密さではない。読みやすくはないが、ユダヤ人の宗教分派について勉強もできる。人間の書き込みが深い。なぜ日本の作家には深みがないのだろうか。

まえに付き合ってた男の子が、きのう、あっちゃんちに泊まりに行っていい? と訊いてきたのだけれど、「いま風邪ひいてるから、あかんわ。」と返事した。付き合い直してる相手がいるとは、けっして言わないところが、ぼくの卑劣さかな。あした、その相手が泊まりにくるんだけど、風邪が治っていない。

ちゃんと、うがいとかして、風邪がうつらないようにしてよ、と言ってあるのだけれど、横で寝てたら、うつるわな。あしたには、風邪が完治していますように祈ってる。というか、風邪ひいてる相手のところに、ぼくなら泊まりに行かないかな。感覚のビミョウな違いかな。


二〇一六年六月九日 「2009年5月某日のメモ(めずらしく、日にちが書いていないのだった。日付自体ないものはあるけど。)」


女装のひとから、花名刺なるものをもらう。
その女装の人とは、もう20年以上前から顔を知っていて
ときどき、話をする人だった。
ぼくより6才、上だって、はじめて知った。
その人は、男だから、本来は花名刺って
芸妓が持つものなのだそうだが
花柳界ではその花名刺なるもの
細長い小さな紙に
上に勤め先の場所
たとえば祇園とか
店の名前とかが書いてあって
下に名前を書いた簡単なものなのだけれど
客が喜ぶのだという。
芸妓からもらうと。
芸妓って、もと舞妓だから
「お金が舞い込む」というゲンかつぎに
もらった花名刺を財布に入れておくのだという。
「なくさへんえ。」
とのこと。
ぼくもなくさず、いまも部屋に置いてある。
そのひとは宮川町出身で
まあ、お茶屋さんの町やね。
ぼくもそばの大黒町(字がこうだったか、記憶がないんだけれど)に
住んでたこともあったから、そう言った。
祇園に引っ越したのは、小学校の高学年のときだった。
ぼくの父親はもらい子だったのだけれど
もらわれた先の家が大黒町にあって
その家はせまい路地の奥のほうにあって
路地の入り口近くの魚屋が大家さんだったみたいで
長屋と呼ばれる、たくさんの世帯の貧乏人がいたところで
父親がもらわれた家の女主人は被差別部落出身者だった。
ぼくのおばあちゃんになるひとだけれど
血はつながっていないのだけれど
ぼくの実母も、高知の窪川の被差別部落出身者なので
なにか因縁を感じる。
ぼくは、おばあちゃん子だった。
花名刺をくれた女装のひとは
水商売をしていたのだけれど
あんまりうまくいかなかったわ、と言ってた。
九紫の火星やから水商売に向いてへんのよ、と言う。
だから、6年前から、花名刺をつくって
名前を「みい子」から
「水無月染弥」に替えたのだという。
6月生まれやから水無月という名字にして
下の名前の「弥」は
芸妓がよく使う名前やという。
男の名前に使われる「也」とは違うのよ、と言っていた。
替えてから、多少はうまくいくようになったという。
いまは、三条京阪のところにある友だちのところに勤めているという。
着物姿の女装のイメージが強くて
この日会ったときのワンピース姿は意外やった。
でも、シャキッとして、一本、筋の通った女装って感じで
お話をするのは、大好きなタイプ。
もらった花名刺って、いま長さを測るね。
横2.4センチ
縦7.5センチ
のもので
赤いインクで
鳥となんか波頭みたいなものが書かれていた。
これ、波ってきくと
「そうよ、鴨川の浪よ」
「この鳥は、じゃあ、水鳥なの?」
「これ、千鳥よ。
 千鳥って、縁起がいいのよ。
 だから描いてもらったのよ。
 ほら
 新撰組の歌にあるでしょ。
 鴨の川原に千鳥がさわぐ〜って」
このあとのつづきも、歌ってくれたのだけれど
血が、どうのこうのってあって
不吉なんと違うかなと思ったのだけれど
黙って聞いていた。
ぼくが目の前でメモをとるのも不思議がらずに
ぼくに一所懸命に説明してくれて
めっちゃ、うれしかった。
共通の敵の話も、このときにしたのだけれど
それは後日に。
お笑いになると思います。

花名刺
名刺屋さんでつくってもらって
まんなかを自分で切り抜いているのだという。
ふつうのサイズの名刺の大きさに印刷してもらって。

女性の名刺が
男性の名刺よりも小さいことも教えてもらった。
はじめて知った。
花名刺はもっと小さい。


二〇一六年六月十日 「文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。」


文学極道で、年間最優秀作品賞というのをいただいた。とてもうれしい。→http://bungoku.jp/award/2015.html

文学極道の詩投稿欄にはじめて投稿した作品から、もう何年たつのだろう。この文学極道の投稿欄の巨大なカンバスがあったからこそ、ぼくの長大な作品も発表の機会を持てた。

文学極道にはじめて投稿した作品は、『The Wasteless Land.V』の冒頭100ページの詩になった。ここ1年くらい投稿している「詩の日めくり」のアイデアは、元國文學の編集長の牧野十寸穂さんによるものだが、継続してつくって発表できたのは、やはり、文学極道の詩投稿欄の巨大なカンバスがあったからだと思われる。おかげで、詩集にもまとめて出すことができた。詩集にまとめて出すことができたのは、大谷良太くんのおかげでもある。彼が発行者になっている書肆ブンから、『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが明日、amazon で発売される。『詩の日めくり』はライフワークとして継続して詩集にまとめて出しつづけていくつもりだ。ただし、一部分、文学極道で発表したものとは違う個所がある。今回出したもので言えば、第一巻の一部がネット発表のものとは異なっている。


二〇一六年六月十一日 「記憶力がかなり落ちてきた。」


きょうはほとんど一日中ねてた。記憶力がかなり落ちてきた。きのう、なにか忘れてることがあったのだけれど、そのなにかをさえ、きょうは忘れてしまっていた。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻もおもしろいのだが、読んでて、途中読んだ記憶がなくなっていて、これから戻って読むことに。


二〇一六年六月十二日 「カレーライス」


きょうの夜中に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年四月一日─三十一日』を読み返していたら、このあいだ、ぼくが批判した『カレーライス』を書いた重松 清みたいだなって思った。まあ、単純な文章。というか、むずかしそうに書く能力が、ぼくには、そもそもないのかもね。あ、でも、重松 清の文章を批判した要点は、文章の簡素さにではなくて、感情のやりとりの形式化というか、こころの問題を、ひじょうに単純な関係性で語っていたことにあったのであった。こう書けば、こう感じるだろうと推測させる幅がめっちゃ狭くて浅いということ。見かけは、重松 清さん、めっちゃタイプなんだけど、笑。

きょう日知庵で、FBフレンドの方とお会いしたら、開口一番に、「あっちゃん、なんか詩の賞もらったって、おめでとう。で、いくらもらったの?」と訊かれて、ぼくじゃなくって、えいちゃんが、「ネットの詩の賞やから、お金なんかになってへんで。」って、なんで、ぼくより先に答えるのよ、と思った。

そうなのだった。お金になる賞をいただいたことは、一度もなかったのであった。けっこういい詩集を出してるというか、傑作の詩集をじゃんじゃん出しているのだが、どこに送っても、賞の候補にすらならなくて、30年近く、無名のままなのであった。

しかし、無名であるということは、芸術家にとって、ひじょうに大切なことだと思っている。芸術家で無名であるということは、世間では、ふつう、軽蔑の目で迎えられることが多くて、そのことが、芸術家のこころにおいて、戦闘的な意欲をもたらせることになるのである。

まあ、ぼくの場合は、だけどね。

さっき、セブンイレブンでペヤングの超大盛を買ってきて食べたら、おなかいっぱいになりすぎて、吐き気がしてきたので、大雨のなか、となりの自販機でアイスココアを買ってきて部屋で飲んでたら、またおなかいっぱいになって、ぼくはどうしたんだろうと思って、おなかいっぱいだよ。


二〇一六年六月十三日 「箴言」


なかったことをあったことにするのは簡単だけれど、あったことをなかったことにするのは簡単じゃない。


二〇一六年六月十四日 「血糖値」


3月31日の健康診断の結果を、きょう見た。血糖値が正常値に近くなっていた。セブンイレブンのサラダのおかげだと思う。きのう、ペヤング超大盛を食べたことが悔やまれる。ぼくは運動をまったくしないからね、食べ物の改善だけで血糖値が80も下がったのであった。もう血糖値が230もないからね。

ということで、きょうの夜食は、セブンイレブンのサラダ2袋のみなのであった。お昼にいっぱい食べたしね。夜は抜くつもりで。でも抜くのはつらいから、サラダだけにしたのであった。

帰りの電車のなか、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読んでいた。途中で乗ってきた二十歳くらいのノブユキに似た少しぽっちゃりした青年が涙をためた目で、隣に坐ったのだった。青年はときどき洟をすすっていたが、明らかに泣いた目だった。恋人と悲惨な別れ方でもしたのだろうか。

ぼくは、ときどき彼の表情を観察した。貴重な瞬間だもの。涙が出るくらいの恋愛なんて、一生のあいだに、そう、たびたびあるものではない。少なくともぼくの場合では、二度だけ。抱きしめてなぐさめてあげたかった。でも、まあ、電車のなかだしね。観察だけしていた。

マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻さいしょの方で、ようやく被害者がゲイだったことがわかる。ここからまた、どうなるのかわからないけれど。まあ、書き込みのすさまじい小説である。きょう、仕事場で、机のうえにあった日本の作家の本をひらいて、ぞっとした。会話だらけで、スカスカ。

きょう、学校からの帰りの通勤電車のなかで見た、泣いてた男の子、いまくらいの時間にも、まだ悲しいんやろうか。他人のことながら、切ない。洟をすすり上げながら窓の外をずっと見てた。涙がこぼれるくらいに、目に涙をためて。かわいらしい、美しい景色だった。人生で最高の瞬間だっただろうと思う。

マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻のつづきを読みながら寝よう。読みやすくはないけど、よい作品だと思う。まわりで、読んだってひと、ひとりもいないけれど。というか、ぼくのまわりのひとって、5人もいないのだった。すくな〜。大谷良太くんと竹上 泉さんとは共通してるもの多いかな。大谷くんとは詩で。竹上さんとは小説で。

きょう、amazon の自分のページをチェックしていたら、『The Wasteless Land.』と『詩の日めくり』第一巻から第三巻までが1冊ずつ売れてた。買ってくださった方がいらっしゃるんだ。励みになる。


二〇一六年六月十五日 「ブラインドサイト」


五条堀川のブックオフで、ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を買った。ともに108円。108円になったら買うつもりの本だった。吸血鬼や平和主義者の軍人や四重人格の言語学者や感覚器官を機械化した生物学者や脳みそを半分失くした男たちが異星人とファーストコンタクトする話だ。

だけど、まだ、マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』の下巻を読んでいる。ワッツの小説も、つぎに読むかどうかは、わからない。

いま日知庵から帰った。マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』下巻を読み終わった。重厚な作品。つくり込みがすごかった。こんなん書くの、めっちゃしんどいと思う。ぼくも小説を書いてたけど、詩みたいにつぎつぎと情景が浮かぶわけでもなく、1作を書くのに数年つかってたりしたものね。

これから書くことになる『13の過去(仮題)』が●詩の予定だから、これが小説っぽいと言えば、小説っぽいかも。でもまあ、小説とも、また詩とも言われず、ほとんどスルーで、それでも、一生のあいだ、書きつづけていくのだなあと思う。それでいいか。それでいいや。

そだ。日知庵で、男の子が泣いてる姿がめずらしいと言ったら、女性客がみな、「女はふつうにたくさん泣くのよ。」と言うので愕然とした。そうか。男と女の違いは、ストレートか、ゲイか以前の問題なのか、と、ちらっと思った。ぼくは2回しか泣いたことがなかったから、自分の体験と照らし合わせてた。


二〇一六年六月十六日 「ようやく、コリン・ウィルソンの「時間の発見」をルーズリーフに書き写し終わる。」


右脳と左脳の違い。
ちいさい頃からダブルヴィジョンに驚かされていた自分がいて
それが、そんなに不思議なことではないと知って
ちょっと安心。
つまり、ふたりの自分がいるということね。
いつも、自分を監視している自分がいると感じていたのだけれど
ほんとにいたんやね。
左脳という存在で。
きのう
日記に書かなかったことで
ひとりのマイミクの方には直接、言ったのだけれど
西大路五条の交差点で
東寺のブックオフからの帰りみち
トラックに轢かれそうになったんやけれど
横断歩道にいた歩行者の顔がひきつっていたり
トラックの運転席の男の顔がじっくりと
ゆっくりと眺めていられたのだけれど
時間の拡大というか
引き延ばされた時間というのか
それとも意識が拡大したのか
おそらく
物理時間は短かったんやろうけれど
意識の上での時間が引き延ばされていて
何年か前にも
背中を車がかすって
服が車に触れたのだけれど
車に轢かれるときの感じって
おそらく、ものすごく時間が引き延ばされるんやろうね。
だから、一瞬が永遠になるというのは
こういった死そのものの訪れがくるときなんやろうね。
じつは
トイレがしたくて
(うんち、ね、笑)
信号が変わった瞬間に渡ったのだけれど
トラックがとまらずに突進してきたのね。
きのう、轢かれてたら
いま時分は、ぼくのお葬式やね。
何度か死にかけたことがあるけど
何度も、か
なかなか、しぶとい、笑。


二〇一六年六月十七日 「こぼれる階段」


唾液の氷柱。


二〇一六年六月十八日 「彼は有名な死体だった。」


真空内臓。
死体モデル。
液化トンネル。
仕事はいくらでもあった。
彼の姿が見かけられない日はなかった。
彼はひとのよく通る道端に寝そべり
ひとのよくいる公園の河川敷のベンチに腰かけていた。
しょっちゅう、ふつうの居酒屋に出入りもしていた。
いつごろから有名なのかも不明なのだけれど
いつの間にか人々も忘れるのだけれど
ときどき、その時代時代のマスコミがとりあげるから
彼は有名な死体だった。
彼とセックスをしたいという女性や男性もたくさんいたし
じっさいに、多くの女性や男性が彼とセックスした。
彼とセックスした女性や男性はみんな
死体と寝てるみたいだと当たり前の感想を述べた。
したいとしたい。
死体としたい。
しないとしたい。
液化したトンネルの多くが彼の喉に通じていて
彼の喉は深くて暗い。
彼の喉をさまざまなものが流れていった。
腐乱した牛の死骸が目をくりくりと動かしながら流れていった。
巻紙がほぐれて口元のフィルターだけがくるくると旋回しながら流れていった。
パパやママも金魚のように背びれや尾びれを振りながら流れていった。
真空内臓の起こす幾つもの事件のうちに
いたいけな少女や少年が手を突っこんで
金属の歯に食いちぎられるというのがあった。
寝ているだけの死体モデルの仕事がいちばん楽だった。
寝ているだけでよかったのだから。
真空内臓をときどき裏返して
彼は瞑想にふけった。
瞑想中にさまざまなものが彼にくっついていった。
よくある質問に
よくある答え。
中途半端な賛美に
中途半端な悪評。
そんなものはいらないと真空内臓はのたまう。
彼は有名な死体だった。
彼が死体でないときはなかった。
彼は蚊に刺されるということがなかった。
なんなら、蚊を刺してやろうかと
ひとりほくそ笑みながら
宙を行き来する蚊を眺めることがあった。
しかし、彼は死んでいた。
ただ、死んでいた。
いつまでも死んでいたし
彼はいつでも死んでいたのだが
死んでいるのがうれしいわけではなかった。
しかたなしに死んでいたのだが
けっして、彼のせいではなかったのだ。


二〇一六年六月十九日 「わたしたちは一匹の犬です」


わたしたちは一匹の犬です
彼らは一匹の犬です
あなたたちは一匹の犬です
Wir sind ein Hunt.
Sie sind ein Hunt.
Ihr seid ein Hunt.
ドイツ語が貧しいと
日本語が笑けるわ
基本をはずすと
えらい目に遭うわ
ううううんと苦しむわ
ということは塩分の摂りすぎ?
けさ
住んでるところの
すぐ角で
ごみ袋を漁ってた鴉が
「あっちゃん天才!」って啼いて
けらけら笑って飛んでいったので
びっくりしました
だれがあの鴉を飼っているのかしら
まあ
「1000円貸してくれ」
って言われないだけましやけどね
まったくバイオレンスだわ
太陽の中心の情報を引き出そうとして
その引き出し方を忘れてしもたって?
この役立たず!


二〇一六年六月二十日 「ブラインドサイト」


ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』上下巻を読んだ。さいきん読んだ本のなかで、もっともつまらなかった。


二〇一六年六月二十一日 「優れた作品の影響」


少し早めに着くと思って、塾には、岩波文庫の『ハインリヒ・ベル短篇集』を持って行ってた。15分くらいあったので、短篇、2つ読めた。「橋の畔で」と「別れ」である。前者のアイデアはよいなと思った。後者の抒情もよい。寝るまえに、つづきを読んで寝よう。たぶん、この短篇集を買ったのは、ハインリヒ・ベルのすばらしい短篇が『Sudden Fiction 2』に入っていたからだという記憶があるのだが、どうだろう。目のまえの本棚にあるので調べてみよう。あった。「笑い屋」という作品だった。きょう読んだ「橋の畔で」もわずか4ページ、「別れ」も6ページきりの作品だった。

ハインリヒ・ベルの「知らせ」という短篇を読んで思いついたコントである。このように、すぐれた著者は、読み書きする人間に、よいヒントを与えるのである。ちなみに、「知らせ」は、戦友の死を遺族に知らせに行く男の話である。

マンションの5階では、独身者たちが大いに騒いでいた。自分の酒の量を知らない者がいて、気分が悪くなってソファにうずくまる者もいれば、はしゃぎすぎて、周りの人間が引いてしまう者もいた。わたしはマンションを見上げた。バルコニーで、男が何かを拾おうとして身をかがめた。女が彼に抱きつこうとして虚空を抱き締めて落ちてきた。わたしの到着とちょうど同時に、わたしの足元に。わたしは、いつも必要な時間にぴったりと到着する律儀な死神なのである。肉体から離れていく彼女の手をとって立たせた。裁きの場に赴かせるために。


二〇一六年六月二十二日 「内心の声」


授業の空き時間に、ハインリヒ・ベルの短篇「X町での一夜」「並木道での再会」「闇の中で」の3作品を読んだのだが、どれもよかった。どの作品も、知識ではなく、経験がある程度、読むのに必要かなと思える作品だった。大人にしかわからないものもあるだろうと感じられた。これこそ、岩波文庫の価値。

きょうは、ハインリヒ・ベルの短篇集のつづきを読みながら寝よう。いま読んでいるのは、「ローエングリーンの死」。もっと早く読むべき作家だったと思うが、ふと、ひとや本とは出合うべきときに出合っているのだ、という声をこころのなかで発してた。


二〇一六年六月二十三日 「カレーライス」


きょう、大谷良太くんちに行った。カレーライスをごちそうになった。おいしかったよ。ありがとう。これからお風呂に入って、それから塾へ。塾が終わったら、日知庵に行く予定。


二〇一六年六月二十四日 「齢か。」


いま日知庵から帰った。ここ数週間、体調が悪い。いまだに風邪が治らない。齢か。


二〇一六年六月二十五日 「ああ、京都の夜はおもしろいな。」


数学のお仕事より詩を書く方がずっと簡単なので、きょうの夜はつぎの文学極道に投稿する「詩の日めくり」をつくろう。日知庵からきみやに行く途中、むかし付き合った子と出合ったけれど、その子はいま付き合ってる子といっしょだったので、目くばせだけして通り違った。ああ、京都の夜はおもしろいな。


二〇一六年六月二十六日 「ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。」


いちごと人間のキメラを食べる夢を見ました。蟻人間を未来では買っていて、気に入らなければ、簡単に殺していました。ロシアが舞台の夢でした。いちごを頭からむしゃむしゃ食べる姿がかわいらしい。齢老いたほうの蟻人間が、「ぼく、冬を越せるかな。」というので、「越せないよ。」とあたしが言うと情けない顔をしたので、笑って、ハサミで首をちょんぎってやった。ぼくはロシア人ばあさんの声を出して笑ってた。

数学の仕事、きょうやる分、一日中かかると思ってたら、数時間で終わった。

7月に文学極道に投稿する新しい「詩の日めくり 二〇一六年五月一日─三十一日」をつくっていた。


二〇一六年六月二十七日 「受粉。」


猿であるベンチである舌である指である庭である顔である部屋である地図である幸福である音楽である間違いである虚無である数式である偶然である歌である海岸である意識である靴である事実である窓である疑問である花粉。

猿ではないベンチではない舌ではない指ではない庭ではない顔ではない部屋ではない地図ではない幸福ではない音楽ではない間違いではない虚無ではない数式ではない偶然ではない歌ではない海岸ではない意識ではない靴ではない事実ではない窓ではない疑問ではない花粉。

猿になるベンチになる舌になる指になる庭になる顔になる部屋になる地図になる幸福になる音楽になる間違いになる虚無になる数式になる偶然になる歌になる海岸になる意識になる靴になる事実になる窓になる疑問になる花粉。

猿にならないベンチにならない舌にならない指にならない庭にならない顔にならない部屋にならない地図にならない幸福にならない音楽にならない間違いにならない虚無にならない数式にならない偶然にならない歌にならない海岸にならない意識にならない靴にならない事実にならない窓にならない疑問にならない花粉。


二〇一六年六月二十八日 「Gay Short Film The Growth of Love」


きょう、日知庵での武田先生語録:恋愛結婚というルールができると、恋愛結婚できない人間が出てくる。

2016年6月18日メモ 日知庵での別々のテーブルで発せられた言葉が、ぼくのなかでつながった。「食べてみよし。」「どういうことやねん。」

チューブで10時くらいから連続して再生しているゲイ・ショート・フィルムがあって、10回くらい見た。9分ちょっとの映画。猥褻とは無縁。切なさがよいのだ。ぼくも、「夏の思い出。」とか書いたなあ。チョーおすすめです。

Gay Short Film The Growth of Love


二〇一六年六月二十九日 「Gay Short Film The Growth of Love」


Gay Short Film の The Growth of Love を、きのうはじめて見て、それから繰り返し、きょうも何度も見てるのだけれど、いま、ふと、ジョー・コッカーのユー・アー・ソー・ビューティフルを聴いているときの感覚に似ているかなと思った。繰り返し見てる理由かな。

『ハインリヒ・ベル短篇集』を読み終わった。よかった。今夜から、岩波文庫の『モーム短篇選』上巻を読む。

きょうは塾だけ。それまでに数学の問題をつくっておこう。きのう、寝るまえに、モームの短篇、一つだけ読んだ。まあ、わかるけれど。という感じ。モームの意地の悪さは出ていない。ぼくはモームの意地の悪さが好きなのだ。時間的に、きょう、読めるかどうかわからないけれど、期待している。


二〇一六年六月三十日 「Gay Short Film The Growth of Loveの続編」


マイケル・シェイボンの『ユダヤ警官同盟』上巻の178ページに、「煙草の袋に」という言葉がでてくるのだが、この「袋」を、さいしょ、「姿」だと思って、「煙草の姿」って、なに? 煙のこと? と思って、読み返したら、「姿」ではなく「袋」だったので、ふと、「袋」と「姿」が似てるなと思った。

塾の往復一時間、とぽとぽ歩きながら、Gay Short Film の The Growth of Love の魅力について考えていた。ささいなこと、ちいさなことでも、そこにこころがこもっていれば、大きな力になる、ということかな。それを見せてくれたのだと思う。ふたりが付き合うきっかけも、ささいなことだったし、ふたりが別れることになったのも、ちいさなことがきっかけだったのだと思う。日常、起こる、すべてのことに気を配ることはできないものだし、また気を配るべきでもないことだと思うが、しかし、日常のささいなことの大きさに、ときには驚きはするものの、そのじっさいの大きさについては、あまり深く考えてこなかった自分がいる。ということなど、つらつらと考えていたのだが、もう55歳。深く考えてこなかった自分がいるということが、とてつもなく恥ずかしい。ああ、でも、深く考えるって、ぼくにはできないことかもしれないと、ふと思った。Gay Short Film の The Growth of Love に登場するふたりのぎこちない演技がとても魅力的だった。ぎこちなさ。ぎこちないこと。ありゃ、この言葉を使うと、ぼくの詩に通じるか。52万回近くも視聴されている短編映画と比較なんかしちゃだめなんだろうけれど。続編があったらしいのだけれど、いまは削除されている。残念。見ることができなかった。9分ちょっとの短編映画だけれど、ぼくの感覚に、感性に確実に残って影響するなって思った。というか、もともと、ぼくのなかにあったセンチメンタルな部分を刺激してくれる、たいへんよい映画だったってことかな。あのぎこちなさも演技だったとしたら、すごいけど。いや、演技だったのだろうね。きっと。でなきゃ、52万回も、ひとは見ないだろうから。

Gay Short Film の The Growth of Love の続編をネットで検索して、探し出して見たのだけれど、さいしょの作品だけ見てればよかった、というような内容だった。役者がひとり替わっていたのだが、その点がいちばんひどいところだと思う。その男の子のほうがタイプやったからね、笑。


二〇一六年六月三十一日 「すべての実数を足し合わせると、……」


すべての実数を足し合わせると、ゼロになるのであろうか。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



いつから家は家だったのだろう?
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』下巻・第五部・59、日暮雅通訳)

ドアってやつはいつドアでなくなる?
(ジョン・スラデック『時空とびゲーム』越智道雄訳)

ドアを見たら、開けるがよい。
(ロバート・シルヴァーバーグ『ガラスの塔』9、岡部宏之訳)

 彼は衣装戸棚の扉をぐいと引き開けた。何も掛かっていないハンガーがカラカラと音をたて、扉に掛かっていた彼自身のオーバーコートがふわりと飛び出して両袖が揺れた。だが、彼女の衣類はそこには一枚もなかった。
 ただの一枚もなかった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・IV、鈴木克昌訳)

──大切なのは釣りをしている気分であって、かかる魚ではない。同じように、大切なのは愛している気分であって、愛する女性ではない。
 そう思っていたのが、若いときだった。
(チャールズ・L・グラント『死者との物語』黒丸 尚訳)

恋は人を幸福にはしない。何人かの思想家の後で彼もそう考えた。だがそのことを確認したところで、やはり幸福になれるわけではないのだ。
(ミッシェル・デオン『ジャスミンの香り』山田 稔訳)

すべての家具の形態のなかでもっとも想像力に乏しいものがベッドであるのは興味深い。
(J・G・バラード『二十世紀用語辞典プロジェクト』木原善彦訳)

 彼は部屋を出て、階段を下り、丘に生えた一本の木のところまで歩いていった。完璧な日だった。昼間というものの歴史が目の前にまるごと広がっている気がした。燃えるような草は、これまで見てきたすべての草を代表していた。
(フリオ・オルテガ『ラス・パパス』柴田元幸訳)

電話がさんざんさんざん鳴った末に誰かが出る。向こう側から、聞き覚えのある沈黙。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

電話口のクラークからは、裏手のベランダまで見通せた。
(メアリ・ロビンソン『おまえのほうが……』小川高義訳)

 従業員が地面を掃いていた。つぎの当たったグレーのオーバーオールを着ている。なんだか地面そのものから生えてきたみたいな男だ。それほど周囲に溶け込んでいる。
(エドラ・ヴァン・ステーン『マルティンズ夫妻』柴田元幸訳)

洗濯ロープにぽつんと一枚吊るされたタオルがその情景を見守る。
(クラリッセ・リスペクトール『五番目の物語』柴田元幸訳)

「どうしてあくびはうつるのか?」
(ジェラルド・カーシュ『狂える花』駒月雅子訳)

 彼のことばがおわらないうちに、扉(とびら)がひらいて、若い婦人がはいってきた。質素だが身だしなみのよい服装をしていて、千鳥の卵のようなそばかすのある顔は、いきいきと賢そうで、ひとりの力で世の中を歩いてきた女の人らしく、態度もきびきびしている。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』ぶなの木立ち、阿部知二訳)

彼女の視線はゆっくりと動いて、すべてのものの上を渡り歩いた。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』7、井上一夫訳)

 彼女はふり返って、微笑(ほほえ)んだ。「今度は何を考えているの?」と彼女は尋ねた。
 はじめて彼女の顔を正面から見つめた。その顔は理解を越えるほど素朴な顔だった。つぶらな目があり、そこでは不安はただ不安であり、喜びはただ喜びだった。
(ハインリヒ・ベル『X町での一夜』青木順三訳)

彼女は頭がおかしいという噂をたてられていた──事実またそのとおりだった。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

君に必要なものがぼくにはわかっていた。単純な感情、単純な言葉だ。
(ナボコフ『響き』沼野充義訳)

彼は指を突き出して、宙に小数点を書いた。でも、ラルフ・サンプソンはその点にさわれる。彼がさわると、点がバスケットボールに変わる。一点差の勝ちだ。ジャンプして、シュートだ、ラルフ。得やすいものは失いやすい(イージー・カム・イージー・ゴー)。
(アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』7、亀井よし子訳)

 ペドロは、彼女は頭がおかしいと言う気になれなかった。事実おかしかったからだ。それに、タンクには小壜一本分のガソリンすら残っていないにちがいない、と言ってやる気もしなかった。馬の耳に念仏だったからである。
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』2、野谷文昭訳)

人間は自分の何気ないひと言がどのような結果をもたらすのか、まえもって知ることはできないのだ。
(E・E・ケレット『新フランケンシュタイン』田中 誠訳)

「いったいなぜぼくらは年を取るんだろう? 時々……自然じゃないように思えることがあるんだ」
 見なくても彼女が肩をすくめるのが感じられた。「それが人生なのよ」
 ぼくにとっては、それではあまり答えにはなっていないのだ。疑問が深まれば深まるほど、答えはどんどん浅いものになってゆく──いちばん深い疑問には、結局、答えなんてぜんぜんなくなってしまうんだ。なぜ物事ってのはこんなふうなんだろう、キャス? ため息をついて、腕が触れあう。
(キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第三部・16、大西 憲訳)

「神の困ったところは、めったにわれわれの前へ現われないことじゃない」とキッチンはつづけた。
「神の困ったところは、その正反対だ──神はきみやおれやほかのみんなの襟がみを、ほとんどひっきりなしにつかんでいる」
(カート・ヴォネガット『青ひげ』21、浅倉久志訳)

 レジナルド卿は、精いっぱい抵抗するものの、銃口がまっすぐ自分を狙っているのに気づいた。まるで、スローモーションの映画を見てでもいるように、奇妙なくらい鮮明にすべてを見ることができ、感じることができた。丸い銃口がとても大きく見え……その上に、憎悪をむきだしにした、引きつりゆがんだゲリラの凶悪な顔をはっきりと見た。拳銃を握る男の拳がしろくなりはじめているのすら見ることができた。
(テレンス・ディックス『ダレク族の逆襲!』2、関口幸男訳)

 ソルは知っている。サライはレイチェルの子供時代の各成長段階を宝物のようにたいせつにしており、日々のありふれた日常性を慈(いつく)しんでいた。サライの考え方によれば、人間の経験の本質は、華々しい経験──たとえば結婚式がそのいい例だが、カレンダーの日付につけた赤丸のように、記憶にくっきりと残る華やかなできごとにではなく、明確に意識されない瑣末事の連続のほうにあるのであり、一例をあげれば、家族のひとりひとりが各自の関心事に夢中になっている週末の午後の、さりげない接触や交流、すぐにわすれられてしまう他愛ない会話……というよりも、そういう時間の集積が創りだす共同作用こそが重要であり、永遠のものなのだ。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・学者の物語、酒井昭伸訳)

きみも、見てはいるのだが、観察をしないのだよ。見るのと観察するのとではすっかりちがう。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』ボヘミヤの醜聞、阿部知二訳)

 ふしぎな感銘とか異常なものごととかをもとめるならば、われわれは、いかなる想像のはたらきにもまして奔放なところをもつ実人生そのものについて見なければならないのだ
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』赤髪連盟、阿部知二訳)

 人生というものは、人間の頭ではとても考えられないほど、ぜったいにふしぎなものだね。日常生活のまったくありふれた事柄でさえも、とうてい、われわれの勝手な想像をゆるさないものをふくんでいるのだ。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』花婿の正体、阿部知二訳)

 ルーシーにいうつもりはなかったが、ルーシーにはあってじぶんにはない資質がなにか、最近分かってきたような気がしていた。それを言葉にするのはむずかしい。ある意味では、ジェーンがいつもいっていることで、ルーシーには芯がある。ルーシーはきっといい女優になれるが、それは彼女にはしっかりとした基盤のようなものがあるからだ。あらためてなにかをでっちあげる必要がない。ピギーはいつもいっていた。マリリン・モンローが素晴らしい女優なのは、彼女のなかにべつな人間が隠れているのがだれにでも分かるからだ。くすくす笑ったり、口をとがらせたりすればするほど、隠れているべつの人間の存在がますますリアルになってくる。
(アン・ビーティ『愛している』16、青山 南訳)

 ここでは、顔があくびをし、物をほおばり、また傷あとをとどめ、愛と見えるものに焦がれ、金切り声をあげている。どれもが千の顔のひとつであり、二度と見ることはない。
(サミュエル・R・ディレイニー『アインシュタイン交点』伊藤典夫訳)

 あのすべてはどうなったのか? また、そのほかの誰も知らないことども。たとえば母親の眼差し、愛にあふれ、しばしば彼の上で安らっていた眼差しは、もしかするとゲオルクの善良さのなかに生きつづけていたのではなかったのか。彼の髪の黒っぽい捲き毛のなかに、子どものくせ毛をやさしく撫でていた手のあとがのこっていたのではあるまいか。しかし、いまやそのすべてが死んでしまった。
(ベーア=ホフマン『ある夢の記憶』池内 紀訳)

 カーキ色の服の男は、靴紐のない靴をみつめたまま、首をふった。靴にこびりついた泥のかたまり。生きることの苦痛。彼は静かに考えていた。これは宇宙の物質──物質ではあるが、いつか精神に昇華するもの。精神も靴も、彼にとってはまったく同じで、ただ、より基本的なものが、物質としての姿にあらわれる。物質こそ原初の個性的な存在である。
(ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』プロローグ、宇野利泰訳)

物がいつ物でなくなるのだろうか?
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘイゲン『コイルズ』14、岡部弘之訳)

有限の存在である人間が無限を知ることができるのは、有限の事物を介してのみである。
(ウンガレッティ『詩の必要』河島英昭訳)

 ぼくが読んだ本のなかに、ラブレーという作家について書かれた一冊がありました。死の床(とこ)で、ラブレーはこういったそうです。〈わたしは、不確実なものを探しに行くだけだよ〉
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

 ああ、ぼくはそんなことをすでにみな話していたな、ちがうか?
 どうだか、わからない。心の中であまりに多くのことが動きまわっているので、これまでに起こったことと、まだ起こっていないことと、心の中以外では絶対に起こらないことについて、ぼくはいささか混乱している。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ3』上・9、矢野 徹訳)

 グローヴァーは話し終えると、トレイシーが何かを言うのを待った。そんなに多くを語ってしまったことを彼は悔やんでいた。気恥ずかしさを彼は感じていた。自分は自ら選んで犬になったわけではないのだ、そのような常軌を逸した行為の数々は必要性から生まれるものであって、嘆き悲しむべきことではないのだということを、彼女にわかってほしかった。ときとして、一人の人間の、人間であることへの怒りは、予期されるものを大胆に改変してしまうというかたちで、もっともみごとに顕在化されるのだ。なぜなら人々の自己などというものはほとんどうわべだけのものにすぎないからだ。
(マーク・ストランド『犬の生活』村上春樹訳)

なにごとも、そうなるべき必然性はない。
(ジョン・クロウリー『時の偉業』4、浅倉久志訳)

「未来から目を背ける訳にはいかないんだ」
「そうよ、そうだわ。それは真実よ」彼女は窓から気怠い午後の景色を噛みしめていたが、彼の言った意味でではなかった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・I、鈴木克昌訳)

「この犬は夢ばかり見ているのよ」
(コルタサル『秘密の武器』木村榮一訳)

 感情の発展過程で、ある点以上には絶対成長しない人がある。かれらは、セックスの相手と、ふつうの気楽で自由な、そしてギブ・アンド・テイクの関係をほんの短いあいだしか続けられない。内なる何かが幸福に耐えられないのだ。幸福になればなるほど、破壊せずにおけなくなる。
(フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』20、矢野 徹訳)

それはかめへんのよ。
(エリザベス・A・リン『北の娘』1、野口幸夫訳)

それは問題じゃないのよ、
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ギレアデ、深町真理子訳)

 いちばん大きなものだって失われてしまうのに、小さなものが生き残るなんて誰が予想するでしょう? 人は何年もの時を忘れ、瞬間を覚えています。数秒の時間、象徴的なもの、それだけが残って物事を要約します──プールに掛かった黒い覆い、とか。愛は、いちばん短いかたちでは、ただのひとつの言葉と化します。
(アン・ビーティ『雪』柴田元幸訳)

「愛ね。そんなに重要なものかしら。あなたは先生だったから、ご存じでしょう。重要なもの?」
(P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第二章・15、青木久恵訳)

「愛って、名詞でもあり動詞でもあるのよね」
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第8章、安原和見訳)

その忘れがたい素晴らしい思い出によって、われわれはいつも被害を受けるのだ、
(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』1、野谷文昭訳)

幸福がひとを殺さないということが、どうしてあり得るのだろうか?
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)

自分を破壊する者を愛する人は必ずいるものだ
(フリッツ・ライバー『現代の呪術師』村上実子訳)

ぼくはここからはじめる。
(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・5、大森 望訳)

「昔には帰れない」と、ことわざはいう。
 そう、帰れないのはよいことなのだ。
(R・A・ラファティ『昔には帰れない』伊藤典夫訳)

人間が二度と戻ってこないというのはよいことなのだ
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のごとく』3、中桐雅夫訳)

ぼくは告白を書く。詩を書く。
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

書くことに意味などないのなら、いったい何に駆り立てられてぼくは詩作をしているのだろうか。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

ぼくはふたたび存在するようになったのだ。
(スティーヴン・バクスター『タイム・シップ』下・第六部・1、中原尚哉訳)

 日常生活では、詩への無関心は人類のもっとも目立つ特徴の一つである。偉大な詩が人類の最大の業績だということを否定する人はほとんどいないのだが、詩を読む人は殆どいないのだ。
(ロバート・リンド『無関心』行方昭夫訳)

美しいものというものはいつも危険なものである。光を運ぶ者はひとりぼっちになる、とマルティは言った。ぼくなら、美を実践する者は遅かれ早かれ破滅する、と言うだろう。
(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳)

育ちや経験の偶然による違いが人格に大きな違いを産むとでも思っているのかね?
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』13、小川 隆訳)

肝要なこと、それは偶然性である。定義を下せば、存在とは必然ではないという意味である。存在するとは、ただ単に〈そこに在る〉ということである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

 禅の庭は、断片だけ書きこまれた詩にたとえられる。空白を埋められるかどうかは、読み手の明敏さにかかっている。詩人の役目は自分のために閃きを得ることではなく、読み手の心にそれを呼び起こすことだ。禅の庭を作った人はそのことを知っている。庭を愛でる人々の間で、時としてまるで相反した見方が生ずるように見えるのはそのためだ。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十八章、榊原晃三・南條郁子訳)

 何という表現形式であろうか! どうして今まで誰もこの表現形式の秘密に気づかなかったのだろう?
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・I、鈴木克昌訳)

知っている事柄を適正に配置することによって知らない事柄まで自然と顕(あらわ)になってくる
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・I、鈴木克昌訳)

ぼくは他人の思い出の品が好きなんだ。自分自身のよりね。
(トマス・M・ディッシュ『老いゆくもの』宮城 博訳)

確かな確かさ
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・37、日暮雅通訳)

人間につくられたものだが、人間以上のもの──
(ポール・アンダースン『ドン・キホーテと風車』榎林 哲訳)

かつて自分がもっていたもの、とりにがしてしまったなにか。
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』幕間劇・2、公手成幸訳)

あの何か間違ってはいないものの響き、ずっと昔に起こった何かの経験、正しく光り輝くものであったことの?
(オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』10・世界の現状、矢野 徹訳)

愛はたった一度しか訪れない、
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

どうして一度も、愛していると言ってやらなかったのだろう。
(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第一部・5、黒丸 尚訳)

なぜ「きみを愛している」といえなかったのか?
(リチャード・コールダー『アルーア』浅倉久志訳)

きみから逃げたのは、好きで好きでたまらなかったからなんだ。
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』10、伊藤典夫訳)

ある瞬間から次の瞬間までのあいだのことが思いだせない。
(ゴードン・リッシュ『はぐらかし』村上春樹訳)

自分で書いた詩行さえ覚えていないのだ。
(J・L・ボルヘス『ある老詩人に捧げる』鼓 直訳)

あんまり頭がいいほうじゃないから。
(ウォルター・テヴィス『マイラの昇天』伊藤典夫訳)

思い出せないことは、再発見するしかないのだ。
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第一部・7、茂木 健訳)

発見するということ以上に、魅力的なことは他にない。
(アンドレ・ジッド『アンリ・ミショーを発見しよう』小海永二訳)

詩人とは、瞬間の中で生き、と同時に瞬間の外に立って中を見ている存在であるはずだ。
(ケリー・リンク『墓違い』柴田元幸訳)

しかも、物語の多くを間違って覚えている。
(ロジャー・ゼラズニイ『アヴァロンの銃』6、岡部宏之訳)

人間にいろんな面があるのなら、もちろん、状況にもいろんな面があるんだ。
(アン・ビーティ『愛している』25、青山 南訳)

すべてがノイズになる。
(ジョン・スラデック『使徒たち──経営の冒険』野口幸夫訳)

本当の偉大な画家は、最大の効果が得られる色ならなんでも使う。
(デイヴィッド・マレル『オレンジは苦悩、ブルーは狂気』浅倉久志訳)

制限する要素は、自分自身にある。
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第二部・第十一章・1、公手成幸訳)

わたしたちは限界によって自由になる。みずからをひとつの世界に制限することで、このひとつの世界を本当の意味で味わえるのだ。
(R・A・ラファティ『第四の館』第十一章、柳下毅一郎訳)

物語のなかでは、失われるものなど存在しないのだ。すべては形を変えるだけ。
(ジェフ・ヌーン『葉分戦争』田中一江訳)

語り手たちがなにかを捨てることはぜったいない
(ジョン・クロウリー『エンジンサマー』大森 望訳)

 次のことは銘記せよ。人びとがことばをかわすとき、たがいの顔に何が起こるか、それが小説の本題なのだ
(サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』6、伊藤典夫訳)

思い出が彼女の顔をやさしくしていた。
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳)

幸福でさえあれば、ちっとも構わないじゃない?
(ジョン・ウィンダム『地衣騒動』1、峯岸 久訳)

じつを言えば、たいていなにをやっても楽しいのだ。
(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』13、安原和見訳)

 人間はその生涯にむだなことで半分はその時間を潰している、それらのむだ事をしていなければいつも本物に近づいて行けないことも併せて感じた。
(室生犀星『杏っ子』むだごと)

誰が公立図書館を必要とする? それに誰がエズラ・パウンドなんかを?
(チャールズ・ブコウスキー『さよならワトソン』青野 聰訳)

 まあ、詩というものは、できてしまえば、なんとなく生気を失うものよ……完成しないことこそが、それに無限の生命を与えるわけだわ。彼女は、独りで微笑した。
(ベンフォード&ブリン『彗星の核へ』下・第六部、山高 昭訳)

 しかしどんな芸術においても、いちばん大切なのは、芸術家が自分の限界といかに戦ったかということなんだ
(カート・ヴォネガット『国のない男』12、金原瑞人訳)

どうだろう、ゲイに転向するというのは?
(J・ティプトリー・ジュニア『大きいけれど遊び好き』伊藤典夫訳)

 男にもし膣と乳房があれば、世の中の男はひとり残らずホモになっているだろう、とシルビオ・リゴールは口癖のように言っていた
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

愛するのには相手が要(い)るけど、別れるにも相手が要るのよね
(マーガレット・ドラブル『再会』小野寺 健訳)

どんな経験も価値あるものになりうる
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』1、深町真理子訳)

心は、自分が経験していることを理解しようとする
(コニー・ウィリス『航路』下・第三部・47、大森 望訳)

なにかを見るために、それを理解する必要はない。でも理解するためには、それが見えなければいけない
(R・C・ウィルスン『観察者』茂木 健訳)

理解するというのはたんに原理を知ることとはちがう。
(ルーシャス・シェパード『メンゲレ』小川 隆訳)

だが理解するなどというのは驚くのにくらべ、じつにつまらないことだった。
(ブライアン・W・オールディス『隠生代』第二部・1、中上 守訳)

人はそれぞれ自分流の驚き方をする。
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

美しいものを見る喜びは他人の存在によって倍加する、と聞いたことがある。謎めいた共感がそこに加わり、ひとりの心ではつかみきれない微妙なものが明らかになるからだ。
(ジャック・ヴァンス『音』II、浅倉久志訳)

とにかくわれわれ人間は数が多すぎるうえに、だいたいの人間が自分が幸せになる方法も、他人を幸せにする方法も知らない。
(P・D・ジェイムズ『不自然な死体』第一部・12、青木久恵訳)

 ビリー・ブッシュはスモーキィを見詰めた。まるで、紙の上に書かれた単語と日頃喋っている単語とが同じものであることを、初めて理解したかのようだった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・II、鈴木克昌訳)

「自分が年老いたように思えるというのは、多分、世界が古いってこと──それもとっても古いってことが判るようになったことなのさ。自分が若い頃は、世界も若く見えるもんだよ。ただそれだけのことさ」
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・II、鈴木克昌訳)

「ぼくはあの薔薇を憶えている。そしてあの薔薇も、ぼくを憶えているんだ」
(R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・12、茂木 健訳)

私は昨日の私と同じ人間だ。だが、昨日の私は誰だったのだろう。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・5、青木久恵訳)

 二人のことは鮮明に思い出すことができた──二人の女性は、チャーリーの人生の中で、お互いに何年も隔たった存在なのに。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

単語と単語のあいだに何か月もの時間が広がっているかもしれないなんて、想像したことがあるだろうか
(ジーン・ウルフ『ピース』2、西崎 憲・館野浩美訳)

音と音との距離は音そのものと同じくらい重要な意味をはらんでいる。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

すべては失われたものの中にある。
(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)

時も場所も、失われたもののひとつだ。
(アンナ・カヴァン『失われたものの間で』千葉 薫訳)

人間とはゆっくりと燃える存在だ。
(グレッグ・ベア『女王天使』上・第一部・13、酒井昭伸訳)

僕は絶えず作られ、作り直される。それぞれの人が僕からそれぞれの言葉を引き出す。
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

言葉が語る。
(マルティン・ハイデッガー『言葉』清水康雄訳)

 お座なりの拍手を浴びてわたしはさがると、テーブルをまわりはじめた。ジョークをいったり、お世辞をいったり、世の中をうまく動かしていくのは他愛ない軽口なのである。
(マイクル・スワンウィック『ティラノサウルスのスケルツォ』小川 隆訳)

空は雲でいっぱいだった。
(チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』上巻・第二部・17、日暮雅通訳)

雲の中にはあらゆる種類の顔があるわ。
(チャイナ・ミエヴィル『細部に宿るもの』日暮雅通訳)

若い時、わたしは画家になりたかった。
(ドナルド・バーセルミ『月が見えるだろう?』邦高忠二訳)

 画家は筆運びを見て画家を知る。音楽家は演奏を聴いて数百万人のなかから音楽家を見いだす。詩人は数音節で詩人を知る。とりわけ、その詩から一般的な意味や形が排されている場合には。
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』下・第二部・20、酒井昭伸訳)

 芸術家の場合は作品と対(たい)峙(じ)した瞬間にその質がわかるというか、眼にするのと判断するのがほぼ同時というか、いや、ごくわずかだが眼にする前にその価値がわかってしまうというか、
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』冬、小梨 直訳)

自分の作品を完全に表現した人間が誰かいるとすれば、それはシェイクスピアでしょう。
(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』3、川本静子訳)

なぜ生きていたいと思うのだろう?
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』18、藤井かよ訳)

意識が連続性を保とうとするのは自然なことよ。
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面12、嶋田洋一訳)

彼は通りにいるすべての人間なのである。その通り自体でもあった。
(イアン・ワトスン『マーシャン・インカ』I・5、寺地五一訳)

人は、たくさんのものに、たくさんの愛に、そしてたくさんの夢に別れを告げるものだ。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』36、船戸牧子訳)

遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第七巻・二一、神谷美恵子訳)

わたしたちにどんな存在価値があるの?
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』5、深町真理子訳)

 自分自身にむかってすこしばかり自慢できるということは、かれらの人生に、補遺という形で一つの意味を与えるんだよ。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

「王さまであるのは楽しいことにちがいありませんわ、たとえ阿呆どもの王さまにしてもね」
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・18、宮西豊逸訳)

たいした詩人ですこと
(オースン・スコット・カード『死者の代弁者』上・1、塚本淳二訳)

誰のためにも奉仕しない想像力。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・79、土岐恒二訳)

罪深いということが、たぶん人間の条件だったのだ。
(ブライアン・W・オールディス『解放されたフランケンシュタイン』第二部・5、藤井かよ訳)

要するに、自分を許してくれる人間がほしいってことさ
(コルタサル『生命線』木村榮一訳)

答が与えられるなら、ときに問いは奪われてもよい
(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』19、安原和見訳)

ひとは《いいお方》を訪問したら、自分自身も《いいお方》になる以外にすべはないのである。
(ノサック『弟』2、中野孝次訳)

まだあなたに話しているのか?
(ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のごとく』3、中桐雅夫訳)

人々は時間なしには生きることができない。
(ノサック『クロンツ』神品芳夫訳)

時間とは、諸事が一時におこるのを防ぐものだ
(レイ・カミングス『時間を征服した男』1、斎藤伯好訳)

人類は客観的事実に縛られてはいない。
(フレデリック・ポール『マン・プラス』3、矢野 徹訳)

神々が人間に贈ることができる最も価値のある祝福は孤独なのだ、
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

現実であるのは孤独であることだ。
(ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』15、金子 司訳)

最も優れたものは孤独の中で作られるものであるらしい。
(ヴァニジア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

豊かな想像力はつねに現実感に裏打ちされていなければならない。
(P・D・ジェイムズ『正義』第一部・3、青木久恵訳)

 今ここで、時はもちろん春、アマガエルが、ライラックが、空気が、汗が乾いていく感触が、愛を語っていた。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

頭の中だけのことだ。
(A&B・ストルガツキー『収容所惑星』第二部・8、深見 弾訳)

「おまえさん、幽霊を信じる者は馬鹿だと思っとるだろ?」ずっと昔、ある老人に訊かれたことがある。「いやはや、幽霊のほうが何を信じてるか知ったら、さぞかし驚くだろうて!」
(R・A・ラファティ『第四の館』第十章、柳下毅一郎訳)

醜い者は、醜い者をひきつける。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』下・エピローグ・1、山高 昭訳)

「さあ、行きなよ、兄弟、自分の茂みを見つけるんだ」
(ナボコフ『森の精』沼野充義訳)

孤独にさえ儀式はある、と彼は考えた。
(ロッド・サーリング『孤独な男』矢野浩三郎・村松 潔訳)

言葉というものはすべて、経験を共有している必要がある。
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『一九八三年八月二十五日』柴田元幸訳)

ブライアが目の前の光景を表現する言葉を十個選べといわれたら、"きれい"はその中に入らなかっただろう。
 事情を知らなかったら、戦争があったと思うかもしれない。何かひどい災害や爆発が風景全体を破壊したと思ったかもしれない。
(シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』20、市田 泉訳)

「ひと目惚れですか」アレックスはいった。
 アダムはうなずいた。《恋っていうのはいつだってひと目惚れですよ》
(ジャック・マクデヴィッド『探索者』7、金子 浩訳)

それはきみのもの──きみに属するものだ。
(R・C・ウィルスン『世界の秘密の扉』第三部・第十七章・2、公手成幸訳)

何もかも夢なんだよ。
(ハインリヒ・ベル『別れ』青木順三訳)

ぼくは彼のすべてが羨ましい。彼の苦しみの中には、ぼくには拒まれているあるものの萌芽があるように思えるのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

ところで、蜂蜜はおもちかな?
(エイミー・トムスン『緑の少女』上・16、田中一江訳)

我々は狒々でも犬でもない。ほかのものだ。
(フランソワ・カモワン『いろいろ試したこと』小川高義訳)

与えられないものは求めないこと
(ジョン・クロウリー『エンジンサマー』大森 望訳)

懐旧の念とは、取り返しのつかない喪失にひたすら苦悩することだ。とりわけ、手に入れたことのない物の喪失に。
(ジョン・クロウリー『訪ねてきた理由』畔柳和代訳)

それは彼が小さな公園で学んだことだった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[5]・IV、鈴木克昌訳)

本が開かれた。そして読者がいる。このわたしが読者であり、同時にその書物でもある。
(バリントン・J・ベイリー『光のロボット』13、大森 望訳)

わたしこそがその場所。
(ハーラン・エリスン『鈍刀で殺(や)れ』小梨 直訳)

視覚が暗さに慣れきるには四十五分もかかる。女はそんな知識をいっぱいたくわえている。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『おお、わが姉妹よ、光満つるその顔よ!』浅倉久志訳)

誰かが使い方をまちがったからといって、それが使いものにならないとは限らない
(チャイナ・ミエヴィル『クラーケン』上巻・第二部・35、日暮雅通訳)

二十八歳になってもまだ大人じゃないことがわたしを苦しめた。
(イヴァン・ヴィスコチル『ヤクプの落し穴』千野栄一訳)

いうまでもないことだけれど、きれいだったよ、みんな。
(マーク・レイドロー『ガキはわかっちゃいない』小川 隆訳)

人々はたぶん、ほんの一瞬、かれの言葉の意味につまずくだけで、まさにかれはつまずかせるために話しているのであり、そうやって自分たちに教えようとしているのだと気づくだろう。
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

 わしらは、真実なんていう知識を、こんな風に、本来一番信じていない者から知らされ、一番嫌っているものに無意識に引きずりまわされるもんじゃ。
(ラーゲルクヴィスト『巫女』山下泰文訳)

 人を幸福にしてやれる。そう思うほどエゴを酔わせるものはない。夫婦仲がうまくいく根本の理由はそこにあるね。だが、もう片方にも幸せにしてもらう能力がなければならない。その能力は思ったほどそうざらにあるわけではない。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳)

わたしは目が覚めていたが、しばらくはそのことに気づいていなかった。
(ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』柳下毅一郎訳)

そして、わたしはもちろん、悪意がある以外はすべてにおいて潔白よ。
(ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』7、岡部宏之訳)

どうやって目的地まで行くかってことは、どこへ行くかってことと同じくらい大切なんだよ。
(ダン・シモンズ『エデンの炎』上巻・3、嶋田洋一訳)

不在は存在よりもさらに多くを語る
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳)

一度気づいてしまったら、もうその事実に目をつぶるわけにはいかない。
(パット・キャディガン『汚れ仕事』小梨 直訳)

心こそ唯一の現実ではないか。人の考えこそ、その人を決定する。
(アルフレッド・ベスター『分解された男』2、沼沢洽治訳)

人間はまったくの孤独におかれると死ぬ。
(コードウェイナー・スミス『ナンシー』伊藤典夫訳)

転落の痛さを思い知らせるためには、うんと高いところへ押しあげてやる必要がある。
(ゴア・ヴィダール『マイラ』16、永井 淳訳)

一番大事なことは、実際頭が痛くなくても、頭痛は起こせるというのを知ること。
(カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳)

もし自分がたくさんいたら、よりよく物を見ることができるのだろうか?
(イアン・ワトスン『存在の書』第三部、細美遙子訳)

観察者は観察する行為を通じて、観察対象と相互作用をもつ
(R・A・ハインライン『異星の客』第二部・21、井上一夫訳)

誤植がいっぱいないような全集をもつ詩人は幸福なのであります。
(オーデン『作ること、知ること、判断すること』中桐雅夫訳)

「この世にはもとにもどせないものが四つある。口から出た言葉、放たれた矢、過ぎた人生、失った機会だ」と古人はいいました。
(テッド・チャン『商人と錬金術師の門』大森 望訳)

苦痛の原因はたいてい、ささいな事柄だと相場はきまっている。
(エリック・フランク・ラッセル『内気な虎』岡部宏之訳)

たえず苦労すると、人はどんなに衰えるものか。
(ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第二部・V、友枝康子訳)

「おまえは疲れてるんだ」彼は自分の声がそう言うのを聞いた。
(パット・ルーシン『光の速度』村上春樹訳)

迷うことはない。自分が誰であるかが分かっている限り、人は決して迷わないものだ。
(シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳)

新しさこそ生の原理である。
(コリン・ウィルソン『賢者の石』I、中村保男訳)

答えはいつだって簡単なほどいいものなのだ。
(ノサック『弟』4、中野孝次訳)

ひょっとして、文体のことですか?
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

その質問が終わって、ワインがなくなった。あるいは、その逆かもしれない。
(アブラム・デイヴィッドスン『眠れる美女ポリー・チャームズ』古屋美登里訳)

簡単に達成できて価値のあることなど、なにひとつ存在しないのだ。
(R・C・ウィルスン『クロノリス─時の碑─』第一部・2、茂木 健訳)

もはや、樹から花が落ちることもない、
(ナボコフ『言葉』秋草俊一郎訳)

人間であること、それが問題なのだ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂丘の大聖堂』第1巻、矢野 徹訳)

 ジムはいまだにそんな金持ちの空気をまとっていた。彼のオーラと霊能力は大部分、そうした集合的記憶から生まれていた。実のところ、人の影響力というのはまといついている些細なものから生まれるのではなかろうか?
(R・A・ラファティ『第四の館』第一章、柳下毅一郎訳)

 本物の悲鳴はいつも偽物のように聞こえる。ちょうど、本物の恐怖が、同情心のない者には、つねに滑稽で軽蔑すべき対象のように見えるのと同じだ。
(R・A・ラファティ『第四の館』第十三章、柳下毅一郎訳)

 ある夜、ストーリーテリングのコツを私に伝授しようと、あなたは言いました。「大部分を省略して語れば、どんな人生だってドラマチックに聞こえるものさ」
(アン・ビーティ『雪』柴田元幸訳)

 ヒラルムは無言だった。生まれてはじめて、夜の正体を知ったのだ。夜とは、大地そのものが空に投げかける影であることを。
(テッド・チャン『バビロンの塔』浅倉久志訳)

詩人オーデンの忠言──「芸術家は敵に包囲されて暮らしているようなものだ」
(ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』夏、小梨 直訳)

 ありゃ、あんたの奥さんになる人だ。あるいは──地獄にはならないかもしれんが、兄弟よ、ちょっとした人生になる!
(ウィリアム・テン『道化師』中村保男訳)

すでに解答を知っている場合、彼女はより深い意味を考えようとはしないはずだ
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星1』矢野 徹訳)

 人生は、人生ならざる何ものかと衝突しているのです。つまり、それは半ば人生なのですから、私たちはそれを人生と判断するのです。
(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』4、川本静子訳)

ああ、ややこち、ややこち。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『苦痛志向』伊藤典夫訳)

 人、それに人でなくてもなにかを憎むのは慎むことだ。自分が憎んでいるものと同じになるのはたやすい。
(キリル・ボンフィリオリ『チャーリー・モルデカイ2』22、三角和代訳)

なぜ、きょうのことを考えないんだい?
(ハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』第二部・9、浅倉久志訳)

物事を知らずに済ませるのは難しくない。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

 「想像だけならいくらでもたくましくできるわ、ヴァン。問題はそれにとらわれない、ということ……で? 何を想像したの?」
(ピエール・プール『ジャングルの耳』蘭の束・7、岡村孝一訳)

本物であろうとなかろうと、名称をつけることは可能だ。
(P・D・ジェイムズ『罪なき血』第一部・5、青木久恵訳)

世の中には嘘っぱちではないけれど、はっきり真実と言えないこともあるのさ。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[3]・III、鈴木克昌訳)

 物語を読む誰もがその終わり方について同じことを感じるわけではない。そしてもしあなたがはじめに戻ってもう一度読んだら、前に読んだ気でいたのと同じ物語ではないことを発見するかもしれない。物語は形を変える。
(ケリー・リンク『プリティー・モンスターズ』柴田元幸訳)

 それが実際に父親の口から聞く最後の言葉ということがわかっていたなら、マルティンは何か優しい言葉を口にしただろうか?
 人は他人に対してこんなにも残酷になりうるものだろうか?──とブルーノはいつも言うのだった──もし、いつか彼らが死ななければならない、そしてそのときには、彼らに言った言葉はどれも訂正しえないものだということがほんとうに分っているなら。
 彼は父が後ろを向き、階段のほうに遠ざかっていくのを見た。そして、姿を消すまえにもう一度向きなおり、死後何年かしてマルティンが絶望の中で思いだす、あの視線を向けたのだった。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳)

あらゆるものは、始まったところにもどるものなのよ。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』2、深町真理子訳)

弱そうに見えることは、弱いことと同じだ。
(ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』7、幹 遙子訳)

これまでにあなたの見たいちばん美しいものは、なんですか?
(ロジャー・ゼラズニイ『ドリームマスター』1、浅倉久志訳)

結局、記憶なんてのは、純然たる選択の問題なのよね
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

過去を忘れなさい。忘れるために過去はあるのよ。
(デニス・ダンヴァーズ『エンド・オブ・デイズ』上・11、川副智子訳)

路上ですれ違う人々の誰もが二人を祝福してくれないのは何故なのだろうか? 足もとの舗道や、一面の白い空ですら二人を祝福してくれないのは何故なのだろうか?
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[4]・II、鈴木克昌訳)

おれは変わった……「おれ」の意味が変わった。
(シオドア・スタージョン『コスミック・レイプ』23、鈴木 晶訳)

 ダルグリッシュの視線が、すでに一度はとらえておきながら気がつかずにいた或るものの上にとどまったのはそれからだった。大机の上に載っている、黒い十字架と文字の印刷された通知書の一束である。その一枚を持って、彼は窓ぎわへと行った。明るい光でよく見れば、自分のまちがいがわかる、とでも言うように。しかし
(P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・1、小泉喜美子訳)

誰かよりすぐれているということは、その人を幸福にはしません。
(マイクル・スワンウィック『ウォールデン・スリー』小川 隆訳)

ウィカム氏は、あらゆる婦人にふりかえって見られる幸福な男であったが、エリザベスはそういう男に傍にかけられた幸福な女であった。
(ジェーン・オースティン『高慢と偏見』16、富田 彬訳)

「わたしはこれまでに二十カ所の教区を受け持った。年に五千件の告白を四十年も聞いていれば、人間についてのすべてはわからなくても、すべての人間がわかってくるよ」
(R・A・ラファティ『一切衆生』浅倉久志訳)

"愛"とか"欲望"とか呼ぶものがどこから生まれるかは、だれにもわからない。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』26、岡部宏之訳)

《故郷》がわたしたちの一部であるように、わたしたちは《故郷》の一部なんです。簡単に切り離すなんてできませんわ──
(ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳)

これから成長するにつれ、この子はその細やかで豊かな感情のために、きっといろいろ苦労するに違いないわ。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・16、御輿哲也訳)

ヌートがまだ生きているということに、クリフはもはやまったく疑いを抱いてはいなかった。「生きている」という言葉が何を意味しているとしても。
(ハリイ・ベイツ『主人への告別』6、中村 融訳)

 人生というものは、簡単に言えば、途方もなく気楽なものである──少なくとも、あてがないことと孤独であることの問題を、このふたつを無視することによって解決してしまえば、しばらくは気楽このうえもない。
(ダグラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』30、風見 潤訳)

「あの女が幸せなはずはないわよ」わたしは断固としていった。
 フィオナは首を振りながら反対意見をのべた。
「幸せなのよ。でも誰かと分かちあえるような幸せじゃないのよね。誰かと分けたら、その価値がなくなっちゃうのよ。わたしたちの幸せは、分けたら、もっと大きくなるのにねえ」
(ジョン・ブラナー『地獄の悪魔』村上実子訳)

 欲しがっていたものが、もうどうでもいいと思いはじめたころに手に入るわけか。こんな経験はよくあることだから、そのために知的な人間がいつまでもくよくよするわけがないが、それでも心を乱す力は十分残っていた。
(P・D・ジェイムズ『不自然な死体』第一部・2、青木久恵訳)

長いつきあいだというのに、この時計とわたしはあまり親しい間柄ではない。私がこの時計に抱いている感情は、友情というよりは尊敬に近い。
(アンナ・カヴァン『われらの都市』IV、細美遙子訳)

 しかも"彼"はかなり耳が遠くなっていて、とくに女性や子どもの高い、かぼそい声が聞こえにくい状態だ。"彼"が最後に小鳥のさえずりを聞いたのは千年前のことだし、雀はもうずいぶん長いこと、顧みられることもなく、地に落ちつづけている。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『肉』小野田和子訳)

クリスピンはじっと僕を見ていた。僕にはわかった。クリスピンも僕と同じで、魅せられていると同時に、脅えているのだ。
(エルナン・ララ・サベーラ『イグアナ狩り』柴田元幸訳)

 だれでも最良のものを得られることはめったにないし、得ても長続きしないわ。次善のもので手を打ったら?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』28、宇佐川晶子訳)

一枚の仮面の下にたくさんの顔が隠されているのか、それとも一つの顔がたくさんの仮面を被っているのか、彼にはどちらなのか判らなかったが、自分自身についてもそのどちらなのか判らないのだった。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・II、鈴木克昌訳)

 記憶とは奇妙なものだ。記憶は、ときどきわたしたちがそう信じたくなるほど鮮明にはなりえない。もしなれるなら、それは幻覚に似てくるだろう。ふたつの場面を同時に見る感じになるだろう。いちばん現実に近い心像がうかぶのは、夢のなかである。それ以外の場合、わたしたちの記憶像は多少ともぼやけている。
(ジョン・ヴァーリイ『スチール・ビーチ』下・第一部・06、浅倉久志訳)

しかし自我なくして眺めた世界をどうして記述しよう。
(ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳)

 ご存じのように、事実はじつに大きな力を持つことがある。われわれが望んでいないほどの力を。
(カート・ヴォネガット『国のない男』2、金原瑞人訳)

 ユーモリストってのは、信じてることと信じていないことをごっちゃにするんで困る。効果をあげるためには、どっちでも使う。
(ジョン・アップダイク『走れウサギ』上、宮本陽吉訳)

わたしたちを大発見へと導くのは常に真実というわけではない
(サバト『英雄たちと墓』第III部・20、安藤哲行訳)

だれもかれもが有罪の世界で、なぜ罪の意識にさいなまれなければならない?
(ルーシャス・シェパード『ファーザー・オブ・ストーンズ』内田昌之訳)

答はない。
(アン・ビーティ『ハイスクール』道下匡子訳)

危機は人間を変える。隠れた性格をおもてへひきだしてくる。
(ウォード・ムーア『ロト』中村 融訳)

無名はひそかで豊かで自由だ、無名は精神の彷徨を妨げぬ。無名人には暗闇の恵みがふんだんに注がれる。
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第二章、杉山洋子訳)

無名であれば羨望ゆえの焦り恨みとも心は無縁、
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第二章、杉山洋子訳)

憎しみこそこの世でもっとも破壊的な力だと人は言うだろう。だが、そんなことを信じてはいかん。一番破壊的なのは愛さ。
(P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・1、青木久恵訳)

あたしができなかった事はたったひとつ、あった事をなかった事にすることだ。黙っていたことは絶対に取り戻せないんだ
(カミラ・レックバリ『氷姫』V、原邦史朗訳)

「約束だけなら、息をしないという約束だってできるわ」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

かれらが翔ばないのは、翔べないからだ。
(トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』13、友枝康子訳)

(…)「人はみな堕ちるし、人はみなどこかに着地する。たぶん、そんなところなんだろう」
「おそろしく長い旅になるぞ」
「それほどでもないと思うよ。ひとすじの光になってしまえばね」
(R・C・ウィルスン『連環宇宙』第三十二章、茂木 健訳)

秘密は秘密を持てない。秘密であるだけだ。
(ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳)

誰かの立場に自分を置いてみるということは、いつでもすぐにそれをやめることができるなら、楽しいものなのである。
(コリン・ウィルソン『殺人の哲学』第一章、高儀 進訳)

世界のすべてのものは美しい。でも人間に美が認識できるのは、それをたまに見たときか、遠くから見たときだけだ……。
(ナボコフ『神々』沼野充義訳)

思い出の中の友達ほどよい友達はいないし、思い出の恋ほどすばらしいものもないわ
(アルジス・バドリス『アメリカ鉄仮面』第九章、仁賀克雄訳)

「ときどき思うんだよ、そうした小さな幸せは、まさしく小さなものであるからこそ存在しているのだと。誰にも気にとめられずに通り過ぎていく、あの名もない人々のように」
(サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳)

どんなものだって、きみが何かを手に入れるとすれば、それは誰かが手放したからなんだ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「嘘をいう必要があると思った場合には嘘をついてきました。そして、その必要がなかった場合にもね」
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』40、岡部宏之訳)

だれもが嘘をつく。必要に応じてか、それとも必要以上にな。
(ジャック・ヴァンス『復讐の序章』9、浅倉久志訳)

「われわれは嘘をつける。それは意識のもつ利点だ」
「わたしなら利点だとはいわないぞ」
「そのおかげで、コミュニケーションにおいて無数の興味深い可能性がひらけるのだ」
(ジョン・スコルジー『老人と宇宙3 最後の星戦』9、内田昌之訳)

子供たちは言った、死とは生に意味を与えるものなの? で俺は言った、いや生こそ生に意味を与えるのだよ。
(ドナルド・バーセルミ『学校』柴田元幸訳)

道に迷ったのだろうか? そんなはずはない。自分を見失わない限り道に迷うことはない。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』昼夜入れ替えなしの興業、木村榮一訳)

きっと頭がおかしくなってるのね!
(チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』死者からの電報、金子 浩訳)

 ぼくの発見したところでは、えてして取るに足らない事件のほうが観察をめぐらす機会も多く、原因と結果とにたいして鋭い分析もこころみることもでき、調査していて魅(み)力(りょく)を感じるのだ。大きな犯罪ほど、単純な様相になりがちだ。というのは、たいていの場合大きな犯罪ほど、動機が明瞭になってくるからだ。
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』花婿の正体、阿部知二訳)

でも人間、あんまり学問をつんだってろくなことはないよ。
(デイヴィス・グラック『合法的復讐』柿沼瑛子訳)

この世では、ぜったい謝らないほうが賢明である。ちゃんとした人間は人に謝罪など求めないし、悪質な人間はそれにつけこもうとするのだから。
(P・G・ウドハウス『上の部屋の男』小野寺 健訳)

単独活動する天才は、つねに狂人として無視される
(カート・ヴォネガット『青ひげ』24、浅倉久志訳)

何か違ったものを見ているのだ。
(スティーヴン・キング『やつらの出入口』高畠文夫訳)

「帝王(スルタン)は壮大な夢をお持ちだ」ルビンシュタインが言った。「だが、あらゆる夢はもしかしたら、さらに大きな夢の一部であるのかもわからん」
(ドナルド・モフィット『星々の教主』下・16、冬川 亘訳)

語ることは確かな治療法である
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XXXII、高橋 啓訳)

あなたもまたひょっとして世界の寸法を測りにいらしたのですか?
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XIII、高橋 啓訳)

 子供にでも訊いてみるがいい。やっていい価値のあることだって、ずっとやっている価値はない。
(チャールズ・バクスター『Sudden Fiction』覚え書、小川高義訳)

もちろん、この荒廃には意味がある。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十六章、榊原晃三・南條郁子訳)

 我々はいつだって欲しくないものを注文するものなのだ、そんなことは自明の理ではないかとあなたは思うかもしれない。
(マリリン・クライスル『アーティチョーク』村上春樹訳)

 かたわらにきた彼女が、まばゆい星明かりの中で身をかがめたとき、レイブンは見てとる──彼女のうなじと肩だけでなく、露出された肌のいたるところ、脇腹、太腿、上腕から肘にかけて、また肘から手首にかけて──いたるところに毛すじほどの傷痕の網模様が走っているのを。左右対称の人工的な傷痕、この光のいたずらがなければ見えなかったであろう傷痕。その瞬間に、まだ信じられない気持ちで、これほど残酷に彼女を痛めつけた事故がなんであるかをさとる。
 もっとも強烈で、容赦ない、極度の打撃──
 老齢。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』第二話、浅倉久志訳)

 私は、現実を暗示してはいるものの実はその現実をいっそう明確に否定するために点(つ)いているに過ぎないような暗い明かりの並木道を歩いた。
(ハインリヒ・ベル『X町での一夜』青木順三訳)

存在せぬ神々を崇拝するほうが、より純粋なのではありませんかな?
(イアン・ワトスン『バビロンの記憶』佐藤高子訳)

答えられないような質問で、自分も、まわりの人間も苦しめてはいけないね。
(スティーヴン・バクスター『虚空のリング』上・第二部・8、小木曽絢子訳)

 想像で創りあげたものはすべて真実である。間違いなくそうなのです。詩は幾何学と同じように正確に事実を表わすものです。
(フロベールの書簡、一八五三年八月十四日付、ルイーズ・コレへの手紙、ジュリアン・バーンズの『フロベールの鸚鵡』14、斎藤昌三訳から)

ある問題を解決するための最大の助力者は、それが解決できるものだと知ることである
(トーマス・M・ディッシュ『虚構のエコー』5、中桐雅夫訳)

だが、いちど気がつくと、なぜ今まで見逃していたのか、ふしぎでならない。
(ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・7、小野田和子訳)

神々が味わいたいのは、動物の脂身と骨ではなく、人間の苦しみなのよ
(マーガレット・アトウッド『ペネロピアド』XVI、鴻巣友季子訳)

 人生よりも本を好むという人がいるが、驚くにはあたらないと思う。本は人生を意味づけしてくれるものだからだ。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』13、斎藤昌三訳)

彼女が相手から学ぶことはあっても、相手が彼女から学びとることは何もない。
(アーシュラ・K・ル=グィン『革命前夜』佐藤高子訳)

 フロベールは、オメーの俗悪さを列挙する場合にも、全く同じ芸術的な詐術を使っている。内容そのものは下卑ていて不快なものであっても、その表現は芸術的に抑制が利き調和しているのだ。これこそ文体というものなのである。これこそ芸術なのだ。小説で本当に大事なことは、これを措いてほかにない。
(ナボコフ『ナボコフの文学講義』上・ギュスターヴ・フロベール、野島秀勝訳)

あらゆる精神分析医の例に洩れず、ランドルフも自分自身にしか関心がない。
(ゴア・ヴィダール『マイラ』37、永井 淳訳)

 世界は悪く、人間はすべて愚かだ──だが、押しつぶされない人びともいる。それは語り伝える価値のあることではないだろうか?
(フレッド・セイバーヘイゲン『赤方偏移の仮面』宇宙の岩場(ストーン・プレイス)、岡部宏之訳)

叡智は必ずしも知識から生まれるものではないし、知識からはけっして生まれえぬ叡智もある。
(ジョン・クロウリー『エンジンサマー』大森 望訳)

ときに男たちは互いに殺しあうこともあるけれど、それも同じように愛を理由としている。
(ジャック・ケイディ『暗黒を前にして』黒丸 尚訳)

(…)今日という一日が、自分の人生をどれほど変えてしまったことか。
 ラッセルはその半分もわかっていなかった。
(ジョー・ホールドマン『擬態』37、金子 司訳)

文章というものの一番大切な部分は、話し言葉の自然な口調なのだ、
(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』第四章、杉山洋子訳)

文句を言わずに規則に従わなければならないのは、力のない者であり、影響力のない者である。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『デイワールド』3、大西 憲訳)

まともな人間はみな、地獄をのぞいたことがあるのだ。
(ジェラルド・カーシュ『遠からぬところ』吉田誠一訳)

ヒントは少しでよいのだ。
(ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』II・[6]・III、鈴木克昌訳)

「YMCAのことよ。実を言うと、あそこはホモの溜(たま)り場。もう気がついてると思うけど」
(R・C・ウィルスン『時に架ける橋』第二部・8、伊達 奎訳)

 絵葉書には『ぼくは今、数知れぬ愛の中を、たった一人で歩いている』と書いてあったが、これはジョニーが片時も離さずに持っているディラン・トマスの詩の一節だった。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

ベルコの足どりには最前ハンマーを持ったときの昂(たか)ぶりが残っていた。
(マイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』上巻・13、黒原敏行訳)

眠りというのは、そこから目ざめるときにしか意識できない。
(ナディン・ゴーディマー『末期症状』柴田元幸訳)

ぼくは音声に豊かな霊力があることを信じます。イツパパロトル! ──黒曜石の胡(こ)蝶(ちょう)! イツパパロトル!
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・3、宮西豊逸訳)

口にすると、そのものに現実性を与えることになる。
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・13、佐藤高子訳)

これは私の潜在意識なんだろうか?
(スタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来会議[改訳版]』深見 弾・大野典宏訳)

すっかり同じだけど、同じとは違う。
(チャールズ・シェフィールド『ニムロデ狩り』11、山高 昭訳)

われわれは同じものを見る、だがまるで違った目で見るのだよ
(ロバート・シルヴァーバーグ『〈教皇〉ヴァレンタイン』下巻・第三部・4、森下弓子訳)

「君の自転車はなんて名前なの?」
 男の子は返事もせずに顔を伏せたが、やがてひどく早口で言った。
「ミニ」
「とてもきれいだね」モンドは言った。
(ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳)

 名前というものにはふしぎな力がある。なにかに名前をつけると、たとえそのなにかが目の前になくても、それについて考えることができるのだ。
(ジョン・クロウリー『ナイチンゲールは夜に歌う』浅倉久志訳)

 エメリアにも再会した。ずっと美しいエメリア、そう、どんな思い出よりも美しく、けっして言葉だけの存在ではないエメリアはストーブのそばに腰かけていて、皿が割れる音にもかかわらず、僕が呼びかけているにもかかわらず、僕がその肩に手をかけているにもかかわらず、歌を口ずさみつづけた。それを聞いて僕は吐き気を催した。
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』XXXII、高橋 啓訳)

室内の空気まで、笑いを噛み殺している感じだった。
(オルダス・ハックスリー『ジョコンダの微笑』三、小野寺 健訳)

自然なものは憎悪だけといった世界では、恋はひとつの病なのだ。
(ホセ・エミリオ・パチェーコ『砂漠の戦い』11、安藤哲行訳)

 受話器を取るまでに彼女は時間をかけた。電話の相手はたぶん医者だろうと彼女は見当をつけたが、まさにそのとおりだった。
 いかにも職業的な快活さを耳にしても、それで快活になれるわけではない。
(テネシー・ウィリアムズ『天幕毛虫』村上春樹訳)

愛にしろ憎しみにしろ、彼は強い感銘を受けたことが一度もなかった。
(イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』5、堤 康徳訳)

 彼の本名を直接本人に尋ねた人は誰もいなかった。さすがに村長は一度くらいきいてみただろうが、返事はもらえなかったのだと思う。今となってはどうしようもない。もう遅すぎるし、おそらくそのほうがいいのだ。真実というものは、へたに手を出すと怪我をするし、生きてはいけないほどの深手を負うことだってある。誰しも望むところは、生きることなのだから。なるべく苦しまずに。それが人間だ。きっとあなただってわれわれと似たようなものだろう。
(フィリップ・クローデル『ブロデックの報告書』I、高橋 啓訳)

「みんなはぼくたちが恋仲だと思ってる」わたしはある日、散歩の途中でそういった。
 すると、彼女は答えた。「そのとおりだもの」
「ぼくのいう意味がわかってるくせに」
「じゃ、恋とはどういうことだと、あなたは思ってるの?」
「よく知らない」
「いちばんいい部分は知ってるはずよ──」と彼女はいった。「こんなふうに歩きまわって、なにを見てもいい気分になること。もしあなたがそのほかの部分をとり逃がしたとしても、べつに気の毒には思わないわ」
(カート・ヴォネガット『青ひげ』20、浅倉久志訳)

「やれやれ」と、ロンドンへ帰る汽車に腰をおちつけたとき、水力技師はくやしそうな顔をしていった。「とんだけっこうな仕事でした。親指はなくするし、五十ギニーの報酬はふいになるし、いったいなんの得るところがあったでしょう」
「経験です」ホームズが笑いながらいった。「経験はそれとなく役にたつものですよ。きみはそれをことばにして話すだけで、これから一生のあいだ、すばらしい話し相手だという評判を得ることができます」
(コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』技師の親指、阿部知二訳)

 わしらは、わしとおまえとは、ほんとに一つのものではなかったんだね──おたがいに相手の感じていることを理解するほどにはね。すべてがそこにあるんだよ、いいかい? 理解と──同情、それは貴重なものなんだ。(…)わしらは、恐ろしいことに、人生の外側ばかり歩いて来たのだということに気がついたんだよ。おたがいに何を考え、何を感じているかを話しあったこともなく、ほんとうに一つになることもできずにね。おそらく、あのちっぽけな男と細君との間には、隠し立てすることは何もなく、おたがいに相手の生活を生きているんだよ。
(ジョン・ゴールズワージー『陪審員』龍口直太郎訳)

「ものごとに終わりはなく、それを言うなら始まりもなく、ただ途中があるだけ」
(オーエン・コルファー『新銀河ヒッチハイク・ガイド』下・第12章、安原和見訳)

「まず基本を教える。小さなことからひとつずつな。ジャグルは、一連の目立たない小さな動作から成り立っている。それをたてつづけに、早くやるんだ。すると、切れ間のない流れのように、あるいは同時に起こっているように見える。同時になにかが起こるなどというのは錯覚だよ、きみ。ジャグルもそうだが、それ以外の場合でも同じことがいえる。物事は、すべてひとつずつ起こるのさ」
(ロバート・シルヴァーバーグ『ヴァレンタイン卿の城』上巻・第一部・6、佐藤高子訳)

そして誰かがナポレオン
(カミングズ『肖像』伊藤 整訳)

 服のハンガーが戸棚のなかで、たがいに身を寄せあってうずくまっている怯えたけもののように、くっつきあってぶらさがっていた。
(ハーラン・エリスン『バジリスク』深町真理子訳)


詩の日めくり 二〇一六年七月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年七月一日 「ヴィーナスの腕」


コンクリート・鉄筋・ボルト・ナットなどなど
構造物の物質的な素材と
温度や重力や圧力や時間といった物理的な条件や
組み立てる技術や出来上がりの見通しや設計図
といったもので建物が出来るとしたら
さしずめ
概念は物質的な素材で
自我は物理的な条件や組み立てる技術や出来上がりの
見通しといったものだろうか
言葉が言葉だけでできているわけではないといわれるとき
後者の物理的な条件や技術や見通しなどのことを
考慮に入れてのことなのだろう
その言葉に個人の履歴が
またその言葉の歴史的な履歴があって
そういったもののほかに
その言葉を形成したときの個人の状況(部屋の様子など)も
大いに反映されてる
ヴィーナスの彫刻の腕のない有名なものがあるけれど
その彫刻について
「腕がないから
 想像し
 美しいというように思えるのだ」
みたいな文章を
綾小路くんが読んだことがあって
って
ぼくが
たくさん本を読んでいると驚くことがあんまりなくなるんだよねえって
一般論を口にしたときに言って
しばらくお話
不完全なものが完全なものを想起させるという骨子の文章だったかな
ヴィーナスだからうつくしい
だから
ない腕も
あった状態でうつくしいはずっていう
常識論でもあると思うんだけど
人間て
あまのじゃくだから
Aについては非Aを思いつくんじゃないのって言った
でもさらに人間は
Aでありかつ非Aであるという矛盾律に反するものや
Aでもなく非Aでもないっていうのまで
Aという内容を見たら頭に思い浮かべるんじゃないのって言ったら
森くんが
人間って
そんな論理構造で捉えられるものばかりじゃないものまで
捉えるんじゃないのかなって言うので
まさしく
ぼくもそう思っているよと言った
そしたら
綾小路くんが
(ヴィーナスの話をはじめたときには
 彼は 
 はっきりと言わなかったのだけれど
 ということは話の途中で思いついたと思うのだけれど)
(その腕のないヴィーナスの話を書いた人は
 きのう大谷くんから
 その文章は清岡卓行のものだと教えてもらった)
たぶんその思いつきに自分でこれはいけるぞって
思って書いたのではないかと思います
とのこと
作者がうまく説明できることだからという理由で
その文章を書いた可能性があるということ
というのも
綾小路くん曰く
「ぼくはその腕を頭に思い浮かべることができなかったんです」

ふううむ
それに思いついたことひとつ
腕のある状態を
ぼくらはふつうの状態としているが
そのふつうの状態も
具体性にかけることがあるということなのね
またまた思いついたことひとつ
事柄だけをAと捉えず
文章全体をAと捉えて
非A
Aかつ非A
Aでもなく非Aでもなく
エトセトラ・エトセトラと考えると
わたしたちは文章を書くことに過度に敏感になるのではないか
臆病になるのではないか

と書かれてあるだけで
ほかのいっさいのものの意味まで
ひきよせて考えてしまう
句点

だけで
あらゆる意味概念の
言葉
文脈
文章をあらわすとなると
文学が
とても
書くのが
いや
解釈も
むずかしいものになる

意味概念が
Aかつ非A
といったことはあるかもしれんが
現実の物事が
Aかつ非Aということはないかものう
しかし
解釈論としては
事物に対しても
Aかつ非Aはありえる
そいつは
まあ
解釈が
現実の事物そのものではないからじゃが
しかし
神秘主義の立場でなら
たとえば
イエスが
神であると同時に人間であるというのは
何十億という
クリスチャンたちが
(何億かな)
信じてるんだから
事物でも
Aかつ非Aはあると
考えることについては
意義がある
意義がない


二〇一六年七月二日 「人間自体が一つの深淵である。」


わたしたちのこころには
自分でも覗き込むことの出来ない深い淵があってね
それは他人にもぜったいに覗き込むことのできない深い淵でね
自分でも
じゃなくて
自分だからこそかな
その深い淵にはね
近づこうとすると
遠回りをさせて
その淵から引き離そうとさせる力が自分のなかに存在してね
無理に近づこうとすると
しばしば躓いてしまって
まったく違った場所を淵だと思ったり
ひどいときには
あやまった場所で
二度と立ち上がれなくなったりするんよ
もしかすると
他人の方が近くに寄れるのかもしれないけれど
でもね
その近さってのは
ほんのわずかのものでね
淵からすれば
ぜんぜん近くなってないのね
ひとがいくら近いと思っても
そうじゃないってわけ
人間自体が一つの深淵である


二〇一六年七月三日 「朗読会」


きょう、京阪浜大津駅近くの旧大津公会堂に行くことにした。ジェフリーさんと久しぶりにお会いする。方向音痴で、交通機関の乗り方もあまり知らないので、早めに出ることにする。三条京阪から30分くらいのところらしい。(いま、ネットで調べた。)

伊藤比呂美さん、平田俊子さん、新井高子さん、川野里子さん、田中教子さん、ジェフリー・アングルスさん、キャロル・ヘイズさんの朗読らしい。

個性的な強烈な詩の朗読だった。新井高子さんとは、何年振りかでお会いした。相変わらずチャーミングな方だった。また平田俊子さんの詩のユーモアは、ぼくにはないものだった。そして、伊藤比呂美さんは、朗読も迫力があり、人間的な魅力にもあふれた方だった。とりわけ、伊藤比呂美さんは、人間の器が違い過ぎる。巨大だ。ぼくの書いているものが弱弱しい糸で縒り合わせられたものであることが実感された。生の朗読会、行ってみるものだなって思った。

きのう、モームの『サミング・アップ』を読んでいて、それがあまりに自然に自分の胸に入ってくる文章なので驚いた。きょう、ジェフリーに、「さいきん、何を読んでいるの?」と訊かれ、即座に、「モーム。」と答えた。「あとSFと。」と付け足した。「ルイーズは、げらげら笑っちゃった。」と言った。

ううん。撚り合わせる糸を太くしなければならない。55歳。だいぶ経験もしていると思うのだけれど、どこか弱弱しいのだな。もしかしたら、経験していないのかもしれない。経験していないのかもしれない。きちんと。


二〇一六年七月四日 「優れた作家の凡庸さ」


いま、きみやから帰ってきた。これから、モームの『サミング・アップ』を読みながら寝る。さくさく読める。メモはいっさいしていない。書かれてあることに異論もなく、新しい見解も見出せなかったからである。成功した作家というものの凡庸さに驚きはしたけれど、常識がなければ小説も書けないのだから、そう驚くべきことではないのかもしれないとも思った。まあ、それでも短篇選は読むけど。むかし、長篇の『人間の絆』を読んだけれど、よかったと思うのだけれど、記憶がまったくない。読んで栄養にはなったと思う類の本だった。とにかく体調が悪い。本を読みながら床に就く。


二〇一六年七月五日 「マンリケちゃん」


ハイメ・マンリケの『優男たち』太田晋訳・青土社
編集を担当なさった郡 淳一郎さんからいただいたのですけれど
いま100ページくらい読みました
プイグがなさけないオカマとしてではなく
こころある人間として書かれてあると思いました
キャンプなオカマとしてのプイグ
鋭く
繊細で
力強いプイグ
マンリケも
ぼくのいちばん好きな『赤い唇』をもっとも高く評価していたので
うれしかった
レイナルド・アレナスのことが書かれた章を読み終わったところ
アレナスの本はすべて読んでいたので
アレナスがどんなものを書くか知ってはいたが
最期に自殺したことは記憶になかった
その作品があまりに強烈な生命力を持っていたからか
自殺するような作家だったとは思いもしなかったのだ

持ってる本で
一番手近なところにおいてある
『夜明け前のセレスティーノ』に手をのばして
解説を読むと自殺したことが書いてあった
読んだのは
そんなに前ではなかったし
ユリイカの特集号も持っているし読んだのに
やっぱり生命力のずばぬけて傑出した作家だったから
自殺したことを読後に忘れさせてしまったのだろうか
47歳だった
ぼくも2008年1月で47歳だ
アレナスはカストロを死ぬまで憎んでいた
それは死ぬまで自由を愛していたということなのだと思う
同性愛がただたんに愛の一つであること
ただそれだけのことを世界に教えることのために
死ぬまでカストロを憎んでいたのだと思う
ただ同性愛者というだけで
数多くの人間を拷問し虐殺したキューバ革命の指導者を
マンリケの本を読んでよかった
怒りや憎しみが人を輝かせることもあるのだ
愛だけがふれることのできる変形できるものもあるかもしれないが
愛だけではけっして到達できない場所やできないこともあるのだ
ロルカの章を読んだ
スペインの内乱時に
銃殺されたという悲劇で有名な
ジプシー歌集と同性愛を歌った詩を
読んだことがあったのだが
それほどいいとは思われなかった
しかしマンリケという作家の力だろうか
いままでそれほどよいと思われなかったフレーズが
えっこんなにこころによく響く言葉だったんだ
って思わせられてしまった
(といっても二箇所だけ)
まあしかしこのマンリケという作家
いままで耳にしたこともなかったけれど
言葉の運び具合がじつにいい
適度に下品でそこそこ品もよい

しかし訳文で一箇所
これはいやだなって訳があった
萌え
って言葉が使ってあるところ
キャンプなオカマってことは
わかってるんだけど
この言葉は
当時の文化状況を説明するときには
合ってないような気がする
いまの文化状況ならわかるけれど
ここんところ
異論はありそうだけど
ロルカが巨根だったって
へえええええええ
マンリケが人から聞いた話でだけど
そんなこともマンリケの本には書いてあった
ぶひゃひゃ
そんな話題もうれしい
いい薬です
いやいい本でした
マンリケの本の最後はマンリケ自身のことをつづったものだった
ただしそこに自分と同じ名前の人間を探すというのがあって
これっていま
たくさんの人がしてるけど
ネットで自分の名前を検索するってやつ
マンリケの場合は人名帳だったけれど

ぼくと同じ名前のひともたくさんいて
そのひとたちが嫌な思いをしなければいいなって思うんだけど
いやな思いをしてたらごめんなさいだす

マンリケの本に戻ります
自己分析してるところで
シモーヌ・ヴェイユやリルケの引用をしてたんだけど
どちらの引用も
ぼくの大好きなところだったから
マンリケのことを
これからはマンリケちゃんと呼ぶことにするね

それらの引用は
とてもいいって思うから
ここに引用しとくね
「苦しんでいる人に注意を向けるという能力は
 非常に稀にしか見られないばかりか
 きわめて困難なことでもある
 それはほとんど奇蹟に近い
 いや
 奇蹟にほかならないのである」
「おそらく恐ろしいものというものはすべて
 その存在の深みにおいて
 私たちの救いの手を求めている
 救われない何かなのである」


二〇一六年七月六日 「品詞」


形容詞とか
名詞とか
動詞とか
副詞とか
助詞とか
言葉というものを一括して品詞分類しているが
どれも「言葉」としての範疇で列記されている
しかし
おなじ「言葉」としてカテゴライズされてはいても
じつは
身長とか体重とか温度とかくらいに、それぞれが異なる別の範疇のものかもしれない


二〇一六年七月七日 「詩人」


塾の空き時間に、『モーム短篇選』上巻で、「ジェーン」を読んでいた。まだ途中だけど、モームがうまいなあと思うのは、とくに女性を意地悪く描いているところが多い。ぼくのエレクトラ・コンプレックスを刺激するのかな。これ読みながら、きょうは寝る。おやすみ、グッジョブ!

いま日知庵から帰ってきた。『モーム短篇選』下巻のつづきを読もう。「詩人」の落ちは予想がついてた。予想通りだったけど、笑った。


二〇一六年七月八日 「「モーム短篇選」上巻の脱字」


むかしから学生映画とか好きだったからショート・フィルムをよく見るんだけど、演技者も無名、ぼくも無名ってのが、よいのかもしれない。ぎこちなさを以前に書いたけど、ぎこちなさというのが、ぼくには大事なポイントかな。芸術が芸術であるための一つの指標かな。ぎこちなさ。大事だと思う。クロートっぽいというのは、どこか、うさん臭いのである。とりわけ、芸術において、詩は、シロートっぽくなければ、ほんものに見えないのである。というか、ほんものではないのである。ぎこちなさ。

岩波文庫『モーム短篇選』上巻の脱字 203ページ 3行目 「好きなだけ歌っていのよ」 「い」が抜けている。 岩波文庫に間違いがあると、ほんとに嫌気がさす。やめてほしい。間違ったまま、7刷もしているのね。うううん。

読書を可能ならしめているのが、個々の書物に出てくる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」「おれ」が、異なる「ぼく」「かれ」「かのじょ」「わたし」であっても構わないという約束があって、たとえば、同じ映画を見ても、見る者によって、見られた人物が異なってもよいというところにある。


二〇一六年七月九日 「ひさしぶりの梯子」


学校の帰りに、大谷良太くんちによって、そのあと、きみや、日知庵のはしご。きょうは、ビール飲みまくり。あしたは、遊びに出かけよう。


二〇一六年七月十日 「投票」


鉄橋のアザラシ バナナな忠告 疑問符な梨 さらにより疑問符なリンゴ

投票してきた。共産党候補と共産党とにである。帰りに、スーパー「ライフ」で、サラダと穴子弁当を買ってきた。


二〇一六年七月十一日 「文学経験」


20代と30代は、世界文学全集を、いろいろな出版社で出ているものを読みあさっていた。40代になり、SFの文庫本の表紙がきれいなことに気がついて、SFにのめりこんだ。ミステリーとともに。50代になって、純文学とSFの比重が同じくらいになった。


二〇一六年七月十二日 「煉獄効果なのだろうか?」


転位
一つの象徴からまた別の一つの象徴へ
夜がわたしたちを呼吸する
わたしたちを吐き出し
わたしたちを吸い込む
夜が呼吸するたびに
わたしたちは現われ
わたしたちは消滅する
これは比喩ではない
夜がわたしたちを若返らせ
わたしたちを年老いさせる
転位
一つの象徴からまた別の一つの象徴へ
不純物が混じると
結晶化する速度が大きくなる
純粋に近い結晶性物質であればあるほど
不純物の効果は絶大である
記憶に混じる偽の記憶
もしも事実だけの記憶というものがあるとしたら
それは記憶として結晶化するには無限の時を要することになる
もしかしたら
記憶として留めているものは
すべて不純物である偽の記憶を含有しているものなのではないだろうか
無数の事実ではないもの
偽の記憶
偽の記憶ではあるが
それは不必要なものであるかといえば
そうではない
むしろ
事実を想起せしめることが可能であるのは
その偽の記憶が在るがためであろうから
絶対的に必要なものなのである
偽の記憶がなければ
いささかの事実も明らかにされないのであろうから
虚偽がなければ記憶が想起され得ないという
わたしたちのもどかしさ
自分のものであるのに
どこか他人ごとめく
わたしたちの記憶
しかし
そうであるがゆえに
わたしたちは逆に
他者の記憶を
わたしたちのなかに取り込んで
わたしたちの記憶のなかに織り込み
わたしたちの生のよろこびを
わたしたちの事実を
わたしたちの真実を
横溢させることができるのである
偽の記憶
すべての営みが
与え合い
受け取り合う
真偽もまた


二〇一六年七月十三日 「顔面破裂病」


通勤電車に乗っていると
前の座席に坐ってる
女子高校生の顔が
ピクピクしだした
いそいで
ぼくは
傘をひらいた
ぼくの顔が破裂した
ぼくはゆっくりと
傘をしぼませて
傘の内側にくっついてる
顔の骨や目ん玉や鼻や唇や
ほっぺたの肉など
みんなあつめて
顔のあったところでくっつけていった
女子高校生の顔面のピクピクは
顔面破裂病の初期症状を
はっきりと示していた
彼女は
おぞましいものを見るような目つきで
ぼくの顔をちらちらと見ていた
ぼくもむかしはそうだったんだよ
ひざを持ち上げて
傘を盾にしていた向かいの席の人たちも
ぼくが顔の骨と骨をくっつけているときには
すでにみんなひざを下ろして
傘をしまっていた
突然
床が顔に衝突
と思ったら
両目が顔から垂れたのだった
もう何度も顔から飛び出しちゃってるんで
ゆるゆるになっちゃってるのね
ぼくは
もう一度
目ん玉を元に戻して
額の上に
顔面破裂病のシールを貼った


二〇一六年七月十四日 「さぼっている。」


7月になって、本を読まなくなったのだけれど、自分でも理由がわからない。ぼうっとしているだけの時間が多くて、無駄に過ごしている。まあ、そんなときがあってもいいかなとは思うけれど。


二〇一六年七月十五日 「「わたくし」詩しか存在していない。」


けっきょくのところ、
あらゆる工作物は自我の働きを施されたもので形成されているので、
詩もまた「わたくし」詩しか存在していないような気がします。
また、「非わたくし」性を呼び込むものが
歴史的事実であったり、科学的事実であったり
他者の個人的な履歴や言動であったりするのでしょうけれど
それをも「わたくし」にするのが表現なのでは
と、ぼくは思っています。
引用という安易な方法について述べているだけなのではなく
引用以外の部分の一行一句一文字のことをも、
ぼくは、「わたくし」化させているような気がしています。
でも、これは、自我をどうとるかという点で
見方が異なるということなのだと思います。
ぼくは、すべての操作に自我が働くという立場ですから
そういうふうに捉えています。

「客観的」というのはあるとしても表現の外での話で
「他者」も表現の外でなら存在するかもしれないのですけれど。
どちらも、完全な「客観性」や「「他者性」を持ち得ないでしょうね。
ぼくは、そういう見方をしています。

「わたくし」について書かなくても「わたくし」になってしまう。
公的な部分というのは言語が持つ履歴のようなものだと考えています。
読み手のなかで形成されるものでもあると考えています。
あくまでも表現されたものは、表現者の自我によって形成されていると思うのです。
どんなに自分の自我を薄くしようとしても、その存在は消せないでしょう。
表現する限りにおいては。

言葉から見ると、人間は道具なのですね
言葉の意味を深めたり拡大したり変形したりするための。

あるいは、餌といってもいいでしょう。

物書きはとりわけ
言葉にとって、大事な餌であり、道具なのです。

詩人の役目は
言葉に奉仕すること

ただこの一つのことだけなのですね。

できることは。

そして
言葉に奉仕することのできたものだけが
ほんとうの意味での詩人なのだと思います。

そういう意味でいうと
「私を語る」ことなどどうでもよく
「詩の署名性」のことなどもどうでもいいことなのですね。

ただ、人間には自己愛があって
まあ、動物のマーキングと似たものかもしれませんが
「私を語る」欲望と
「自分が書いた」という「署名性」にこだわるものなのかもしれませんが
言葉の側から見ると
「私を語る」ことが、言葉にとって有益ならば、それでよいし
「私を語る」ことが、言葉にとって有益でなければ、語ってくれるなよ
ということなのだと思います。

人間の側からいえば
言葉によって、自分の人生が生き生きしたものに感じ取れればいいのですね。
読む場合でも、書く場合でも。


二〇一六年七月十六日 「全行引用による自伝詩。」


パウンドも生きているあいだは、その作品をあまり読まれなかったのかもしれない。ダン・シモンズの文章に、「生きていたときには、あの『詩篇』なんて、だれも読まなかったのに。」(『ハイペリオンの没落』上巻・第一部・14、酒井昭伸訳、215ページ)とあった。

『全行引用による自伝詩。』のために、10分の1くらいの量のルーズリーフを処理していた。どうやら、『全行引用詩・五部作』上下巻より、よいものになりそうにないので、計画中止するかもしれない。何年もかかって計画したものもあるけれど、すべて実現してきた。計画中止にするかどうかはわからないけれど、こんなの、はじめての経験だ。


二〇一六年七月十七日 「詩人」


詩人とは、言葉によって破滅されられた者のことである。


二〇一六年七月十八日 「1つのアイデア」


1つのアイデアが、ぼくを元気づけた。1つのアイデアが、ぼくの新しい全行引用詩に生き生きさを与えてくれた。引用の断片を見つめているうちに、ふと思いついたのだ。引用自体に物語を語らせることを。言葉は、ぼくを使役するだろう。言葉は、ぼくを酷使するだろう。言葉は、ぼくを破滅させるだろう。

きのうのぼくの落ち込みは、ほんとうにひどかったけど、いま5つの断片を結びつけてみて、おもしろいものになっているので、ひと安心した。きのうから、韓国アーティストの Swings の曲をずっと聴いている。まえに付き合ってた男の子にあまりに似ているので、なんか近しい感じがする、笑。

きょう一日でつくった部分、3メートルくらいの長さになった。休日なのに、ずっと部屋にこもって作業してたぼくの咽喉に、これからコンビニに行って、ビール買ってきて飲ませよう。

これが、2、30メートルになると、1冊の詩集になる。これから、サラダとビールをいただく。

短篇のゲイ・フィルムをよくチューブで見るのだが、その1作に出てた、てらゆうというアーティストの「ヤッてもないのに君が好き〜easy〜」って曲を、これまたチューブで聴いてて、なんだか癒された。彼のチューブを見てたら、トゲトゲした自分の感じがちょこっとでもなくなってくような気がした。

イマージュを形成しつつ、そのイマージュを破壊するコラージュをつくっていると、どうしてもトゲトゲしくなってしまう。ああ、これかもしれない。ぼくの恋愛がすぐに終わってしまう理由は。未成熟。55歳で。歯を磨いて、クスリをのもう。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年七月十九日 「全行引用による自伝詩。」


いま、てらゆうという名前のアーティストのチューブに、彼の曲の感想を書いたのだけど、芸術のなかで、ぼくは、ユーモアがもっとも高い位置にあると思っているのだが、きょう、つくっていた全行引用詩も、ユーモアのあるものにしたいと思って、ハサミで切った紙片をセロテープで貼り付け合わせていた。

すべての紙片の順序を決めた。あとは、セロテープでくっつけていくだけ。きょうじゅうにくっつける。ふう、これで、8月に文学極道に投稿する新しい作品『全行引用による自伝詩』ができた。シリーズの第一作品だけど、たぶん、これだけで詩集1冊分あると思う。『全行引用詩・五部作』の補遺みたい。

終わった。晩ご飯を食べに行こう。セロテープも、ダイソーで買っておこう。あと、ちょっとでおしまいだから。ワードへの打ち込みは、今晩からはじめよう。恋人がいないと、こんなに作業がスムーズ。(負け惜しみ〜、笑)

これからさっき出来上がったばかりの『全行引用による自伝詩』をワードに打ち込んで行こう。理想とはかけ離れたものだけれど、現実につくれたものに限界があっても、あたりまえだものね。自分の発見していない美が、どこかにひっそりと潜んでいるかもしれないしね。まあ、レトリック例文集みたいな詩。

1メートル分くらい打ち込んだ。きちがいじみた内容だったので、お祝いに、コンビニに行って、ビールを買ってきて飲んでいる。55歳にもなって、まだ、きちがいじみたものが書けることがうれしい。

いいものが書けたときって、なんというか、過去に何度か死のうと思ったことがあったのだけれど、ああ、死ななくてよかったなって感じかな。自分がここに存在しているという実感が、ぼくにはつねにないのだけれど、その予感みたいなものは感じ取れるって感じかな。

腕の筋肉が痛くなるまでワードに打ち込んでいこうと思う。並べてみて、はじめて発見したことがある。ぼく以外のひとにも発見の喜びを知ってほしいので書き込まないけれど、ラテンアメリカ文学者同士の影響って、言葉のレトリック上にも見られるのだなと思った。ヒント書き過ぎかな。まあ、いいや。

2メートルほど入力した。しんど〜。まえにつくった『全行引用詩・五部作』上巻・下巻をどうやって入力したのか記憶がない。もとのルーズリーフを切り刻んでいないので、書き写したことになるのだが、そうとうな労力だったろうなと思う。もう二度と、できない。今回のは、書き溜めたルーズリーフの半分ほどを処分するつもりで、半分くらいしか読み直しをせずにつくったのだけれど、これは、ライフワークにするつもりだったけれど、今回でやめるかもしれない。ここ数日の苦痛はたいへんひどかった。きちがいじみた、笑けるものができたのでよかったけれど、打ち込みもたいへん。


二〇一六年七月二十日 「全行引用による自伝詩。」


きょう、ワードの打ち込み、A4で、14ページまでだった。あと半分ちょっと。これだけで、薄い詩集ができる。このあと、全行引用詩はしばらくつくらないことにした。あまりに精神的な労力が激しくて。というか、ぼくは、ふつうの詩を、ここしばらくつくっていない。つくれなくなったのかな。

きみやからの帰り道、ぼくの頭のなかは、ピンクフロイドの「あなたがここにいてほしい」がずっと鳴ってた。15年の付き合いのあった友だちとの縁が切れて1年。ぼくは、人間にではなく、芸術に、詩に、自分のほとんどの精力を傾けているのだなとあらためて思った。人間が好きだと思っていたのだけど。

たくさんのことを手にすることは、ぼくにはできないと知っていた。20代、30代、40代と、何人もの恋人たちと付き合って別れた。付き合いつづけられなかったのは、ぼくの人間に対する愛情が、詩に対する愛情より高くなかったと思える。いま、全行引用による自伝詩を書いていて、そう思った。

1つのことを得ることも、ぼくにはむずかしいことかもしれない。でも、まあ、もう、死もそんなに遠いことではなくなって、少なくとも、詩だけは、得ようと思う。

Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を聴いている。もう5回か、6回目。これくらい美しい曲のように美しい詩が、1つだけでもつくれたら、死んでもいいような気がする。ぼくは、もう、つくっているような気がするのだけれど、つくっていないような気もする。

まあ、いいや。ぼくの詩は、ぼくが生きているあいだは、ほとんど読まれないような気がする。それでよいという声も、ぼくの耳に聞こえる。おやすみ、グッジョブ!

Swings の I'll Be There Ft. Jay Park を、もう10数回は聴いてる。美しい曲。すてきな恋人たちとは何人も出合ってきた。美しい曲もたくさん知っている。でも、ぼくのこころは、どこかゆがんでいるのだろう。詩をつくろうとしている。はやく死が訪れますように。

たぶん、死ぬまで、詩を書きつづけるのだろうから。これでいいや、と思うのが書けたら、死んでもよい。


二〇一六年七月二十一日 「あなたは私を愛した甘い夢」


昨日の夜でした.
悪夢だ.
悪夢から逃れる方法は,
目を覚まして真ん中に
しかし睡眠を開始します.
別のブランドの新しい悪夢.
起きてまた寝て, 起きて, 寝ます.
起きて夜の外に,
沈黙や沈黙.
目に失敗して暗くなる前に適応.
目を開けて.
それは落ちるようにブラックホール.
なぜ, また目を閉じた.
見ないであろうタバコを吸いに素敵な夢を
あなたは私を愛した甘い夢.

いま見た中国人のFBフレンドのコメントの機械翻訳
これは詩だよね。

「あなたは私を愛した甘い夢.」

すばらしい言葉だ。
「みんな夢なんだよ。」
って引用を、きょう、ワードに打ち込んでた。

ぼくと付き合ってた恋人たちも
みんな夢だったのだ。

ぼくも、だれかの夢であったのだろうか。

たぶんね。

そこにいて
笑って
泣いてた
夢たちの記憶が
きっと
ぼくに詩を書かせているのだな。

「みんな夢なんだよ。」

「みんな夢なんだよ。」

「あなたは私を愛した甘い夢.」


二〇一六年七月二十二日 「あいまいに正しい」


「あいまいに正しい」などということはない。
感覚的にはわかるが
「正確に間違う」ということはよくありそうで
よく目にもしてそうな
感じがする 。


二〇一六年七月二十三日 「孤独な作業」


ワードを打ち込みながら、作品つくりって、こんなに孤独な作業だったっけと、再認識してる。うううん。

いま日知庵から帰ってきた。塾に行く途中、てらゆうくんに似た男の子が(22、3歳かな)自転車に乗ってて、かわいいなと思った。こういう系に、ぼくは弱いのだな。日知庵では、帰りがけに、かわいいなと思ってた男の子(31歳)がそばに寄ってきて、しゃべってくれたので、めっちゃうれしかった。

きょうはワード打ち込み、2ページしかしなかった。なんだかつながりがおもしろくなくって、というのもあるんだけど、だけど、ぼく的におもしろくないってだけだから、ひとが読んだらどうなのかは、わからない。思いついて数分で書いた「水面に浮かぶ果実のように」が、ぼくの代表作になってるものね。
ぼく的には、『全行引用詩・五部作』が、いちばん好きなんだけど、これが評価される見込みは、ほとんどゼロだ〜。まず、さいごまで読むひとが、ほとんどいなさそうだし、ぜったい、どこか飛ばし読みしそうだし、笑。

あかん。Swings の曲を聴いて、ジーンとして、きょうも目にした、かわいい男の子たちを思い出して、自分の若いときのことを思い出してる。夢を見たい。むかし付き合った男の子たちの。えいちゃん、えいじくん、ノブユキ、ふとしくん、ケイちゃん、名前を忘れてしまった、何人もの男の子たち。


二〇一六年七月二十四日 「書くことはたくさんある。」


いま日知庵から帰った。あしたはワード打ち込み、何時間やれるだろう。がんばろう。さいきん、本を読んでいない。『モーム短篇選』下巻の途中でストップしている。

今週は、『全行引用による自伝詩』の制作にかかりきりだったのだが、まあ、まだ数日かかるだろうけど、さっき、ふと思いついた。この引用に関するノートを付け加えようと。『The Wasteless Land.』と同じ構造だが、膨大な量のノートになると思う。『全行引用による自伝詩』の本文で、8月に文学極道に投稿したあと、その注解ノートを何か月か、場合によっては、一年くらいかけて書こうと思う。さっき冒頭の3行ほどの引用について考えた部分だけで、数ページ分くらい思いついていたので、どこでやめるか、あるいは、やめないか、自分自身にいたずらを仕掛けるような感じで書こうと思う。ぼく自体はからっぽな人間なのに、書くことはたくさんある。どしてかな。


二〇一六年七月二十五日 「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」


きょうは、ずっと横になって音楽を聴いてた。これから大谷良太くんとコーヒーを飲みに出る予定。『全行引用による自伝詩。』の入力は夜にしよう。音楽を聴いて、ゲイの短篇映画を見てたら、ハッピー・エンドって少なくて、たいていは苦い終わり方。ふつうに生きてるだけでも苦しそうなのにね、この世界。

いま、きみやから帰ってきた。大谷くんと、モスバーガー、ホルモン焼きや、日知庵のはしご。きょうは、入力ゼロ、笑。帰りに、阪急電車のなかで、途中から乗ってきた男の子がチョーかわいくって、隣に坐ってきたからドキドキだった。まあ、毎日が、奇跡なんだよなって思う。美しい、悲しい、味わい深い、この人生。

ロジャー・ゼラズニイの引用で、「いままでみた景色のなかで、いちばんきれいなものはなに?」というのがあったと思うのだけれど、これ、『引用による自伝詩。』に入れてなかった。あした入れておこうと思う。『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』のさいしょのほうの作品に引用してたと思う。

この1行の引用について、えんえんと何ページにもわたって注解を書くことになると思う。好きになった子にはかならず聞くことにしているのだが、みんな、「そんなん考えたこともない。」と言うのだった。ぼくはいつも考えているので、そう聞くたびに眉をひそめるのだった。


二〇一六年七月二十六日 「作業終了」


『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みが終わった。


二〇一六年七月二十七日 「蛙。」


同じ密度で拡散していく。


二〇一六年七月二十八日 「イタリア語では」


イタリア語で
Hのことは
アッカっていうの
でも
イタリア語では発音しないから
ハナコさんはアナコさんになります
ヒロシくんはイロシくんになります
アルファベットで
ホモシロイと書けばオモシロイと読まれ
ヘンタイと書けばエンタイと読まれ
フツーよと書けばウツーよと読まれます


二〇一六年七月二十九日 「因幡っち」


韓国のアーティストのCDを買いたいと思ってアマゾンで検索しても買えないことがわかって悲しい。Hyukoh と Swings の音楽がすごく好きなんだけど、手に入らない。これって、どうして? って思うんだけど。いまいちばん美しい音楽を手に入れられないって、どうしてなの? って思う。

きょう、因幡っちとカラオケバーで朝5時まで歌った。かわいかった。人間は、やっぱ、かわいい。かわいいというのが基本だわ。

そう、かわいいというのが基本。人間は、基本、かわいいわ。


二〇一六年七月三十日 「TED」


マイミクのTEDさんの「sometimes」という詩を読みました。

sometimes we love
sometimes we sad
sometimes we cry

sometimes sometimes

life is it
it is life

とても胸がキュンとしたので

i think so.

a lot of time has us
a lot of places have us
a lot of events have us

so we know ourselves
so we love ourselves
so we live together

と書き込みました。

同じような喜びと
同じような悲しみを
わたしたちが体験しているからでしょうね
うれしい顔はうれしい顔と似ています
悲しい顔は悲しい顔と似ています


二〇一六年七月三十一日 「文学極道投稿準備完了」


『全行引用による自伝詩。』の本文の見直しが終わった。ぼくの全行引用詩のなかでは、不出来なものだ。しかし、注解をつけて、その不出来さを逆手にとろうと思う。できるかどうかはわからないが、もちろん、できると思っているから着手するのだ。全行引用による本文はきょうの夜中に文学極道に投稿する。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



(…)当時、彼は父の農場で働いていたポーランド人の女中を愛していましたが、夢想のなかで自分がこの美しいひざの上に、女中となった聖処女のひざの上に坐っているのだと想像し、女中を聖処女に混同しているのでした。ところでその日、眼を閉じて再び聖処女を見たとき、彼は突然、彼女の髪がブロンドであることに気づきます! 
マリアはエリーザベトの髪をしているのです! 彼は驚き、強い印象をうける! 彼の愛していないこの女性こそ、事実上、彼の唯一の、まことの愛であることを、神みずからがこの夢想を介して彼に教えているように彼には思われるのです。
 非合理的論理は、混同のメカニズムにもとづいています。つまり、パーゼノーの現実感覚はお粗末なものであるということです。彼はさまざまの出来事の原因を捉えることができず、他者のまなざしの背後に隠されているものを決して知ることはないでしょう。しかし外部世界は、それがどんなに隠されたもの、再認できないもの、非因果的なものであっても、無言のものではない。それは彼に語りかけます。ボードレールの有名な詩、「長い反響(こだま)が……混りあい」、「香と色と音とがたがいに応えあう」あの詩におけるように、外部世界においては、ひとつのものは別のものに近づき、別のものと混りあい(エリーザベトは聖処女に混りあいます)、かくして、この接近によってひとつのものは理解されるのです。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第三部・混同、金井 裕・浅野敏夫訳)

芸術においては、形式はつねに形式以上のものです。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第七部、金井 裕・浅野敏夫訳)

『プヴァールとペキュシェ』の第二部は未完のままに終わったが、この部分は主に『筆写』と称するもので成っている。これは、奇妙なこと、馬鹿げたことを記した文例、自ら愚劣なることを露呈した引用文を蒐めた一大資料集であり、これを二人の書記が大まじめで筆写するのは専ら自己啓発につとめるためだが、フロベール自身の意図するところは痛烈な風刺にあったにちがいない。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』4、斎藤昌三訳)

 事物から言葉が生まれるのと同じように、言葉自体から事物が生まれる場合もあるというのが現代の考えのようである。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

芸術はもはや表現するだけでは満足しない。それは物質を変容させるのだ。
(マルセル・エイメ『よい絵』中村真一郎訳)

結局のところ、本は現実の人生ではない。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

短く、簡潔で、まがいものでない言葉を使うこと。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

いつもほめられたり励まされたりしていないと落ち着かないような弱さ
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・17、御輿哲也訳)

 そう、じゃああれはうまくいったんだ、成し遂げられたんだわ。そして、成し遂げられたものすべてがそうであるように、それもまた厳かなものとなった。おしゃべりや感情を洗い流してよく考えてみると、それはパーティーの最初からあったようにも思える。ただ、はっきりと見えるようになったのは、やはりパーティーがすんだ後のことで、こうして目に見える形をもつことによって、それはあらゆるものに確かな安定感をもたらしていた。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・18、御輿哲也訳)

なぜあの光景だけは、輪に包まれた光を浴びたように細かい部分まで生々しくよみがえってくるのか、その前もその後も、何マイルにもわたって茫漠たる空白が続くばかりだというのに?
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・5、御輿哲也訳)

 そしてこれが──と、絵筆に緑の絵具をつけながらリリーは思う、こんなふうにいろんな場面を思い描くことこそが、誰かを「知る」こと、その人のことを「思いやる」こと、ひいては「好きになる」ことでさえあるはずだ。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・5、御輿哲也訳)

空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない。
(マルクス・アウレリウス『自省録』第九巻・一七、神谷美恵子訳)

哲学のわざは単純で謙虚なものである。
(マルクス・アウレリウス『自省録』第九巻・二九、神谷美恵子訳)

ぼくにはつねに精神を活動させるなにかが必要なんだ。
(S・C・ロバーツ『クリスマス・イヴ』中川裕朗訳)

 自然は、多様性から力を引き出している。自然の中には、善人、悪人、気が変になった人、絶望している人、スポーツマン、寝たきり老人、身体障碍者、愉快な人、悲しんでいる人、知性的な人、無気力な人、利己的な人、寛大な人、小さい人、大きい人、黒い人、黄色い人、赤い人、白い人など。さらに、いろいろな宗教家、哲学者、マニアックな人、賢者などもいる。避けるべき唯一の危険は、この中の何者かが、他の何者かによって抹殺されることである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳)

「日本を沈没させろとおっしゃる……」とレスターがたずねる。
「わしの口から、そう言ってはおらんだろ」
 サッチャーがそう訊き返す。この人の心臓では、バターも溶けまい。
「考えとしては面白いと思わんか。真珠湾の意趣返しみたいなもんでな」
「血迷ってますよ、サッチャー」
 バーナードがそう言いながら、頭蓋骨を温かくしておこうとするかのように、ほつれ毛を頭頂部になであげ、
「こんなことは聞こえてない。聞いてない」
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』8、黒丸 尚訳)

闇がなかったら、光は半分も明るく見えるだろうか
(ジャック・ウォマック『ヒーザーン』9、黒丸 尚訳)

名前を持つことが自立した実体として存在することである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第3部、小中陽太郎・森山 隆訳)

思考を変えていくいちばんよい方法は、想像力の範ちゅうから外へ出ることだ。
(ベルナール・ウェルベル『蟻』第4部、小中陽太郎・森山 隆訳)

(…)帰りは黙りこくっていたが、その顔には許してあげるわと言うような微笑が浮んでいた。
 あの日と同じ微笑を浮かべてラウラがドアを開けてくれた。(…)
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

「(…)お料理は少し固くなっているかもしれないわ」
 固くなってはいなかったが、何の味もしなかった。(…)
(コルタサル『母の手紙』木村榮一訳)

 ぼくたちはゴーロワーズを吸った。ジョニーはコニャックならほんの少し、タバコは日に八本から十本くらいなら吸ってもいいと言われていた。しかし、タバコをふかしているのは彼の身体のほうで、彼自身は穴から外に出るのをいやがってでもいるように、あるものの中にじっと身をひそめている。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

(…)そのとき一匹のスカイテリアが彼のズボンをくんくん嗅いだので、彼は恐怖におののいた。人間に変わろうとしている! とても見ちゃいられない! 犬が人間に変わるのを見るなんて、恐ろしい! こわい! が、たちまち犬は走り去った。
(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳)

 彼の黄色味をおびた猫のような目はほんの少しだけ開いていて、本当の猫の目みたいに、揺れ動く枝や過ぎ行く雲を映してはいても、その奥にどんな考えや感情が宿っているかを示すことはなかった。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・1、御輿哲也訳)

結局、人は自分の本当の気持ちを言葉にすることなどできないのだろう。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・4、御輿哲也訳)

「ママ、パパに何があったの?」
「パパは詩人だったのよ」
「詩人ってなんなの、ママ?」
「パパもわからないっていってたわ。さあ、手を洗って、夕ご飯にしましょう」
「わからなかったの?」
「そう、わからなかったのよ。さあ、手を洗ってっていったでしょ……」
(チャールズ・ブコウスキー『職業作家のご意見は?』青野 聰訳)

私は階段をさらに上って行かなければならない。
何度も階段を上がる。
一生のあいだ、崇高さと奇矯さとの違いをたっぷりと味わい尽くして。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十四章、園田みどり訳)

(…)「美しい人間は心のなかまで美しいと、本気で思ってらっしゃるの? わたしは同意できないわ。その伝でいけば、醜い人間はなかまで醜いということになる」
「いいえ、そうは言ってませんよ」シスター・ブリジェットは面白がっていた。「わたしはただ、美は表面的なものにすぎないという考えに疑問を呈しているだけ」シスターはコーヒー・カップを両手で包み込むように持った。「もちろん、心なぐさむ考えではあるわ──そう考えれば、自分がいい人間のような気分になれる──でも、美しさは富と同様、その人の徳性にとっての財産なの。裕福な人間は、法を遵(じゆん)守(しゆ)し、寛大で、親切でいることができる。極貧(ごくひん)の人は、そうはいかない。一ペニーのお金を手に入れるのに汲(きゆう)々(きゆう)としている人にとっては、親切でいることさえたいへんなことなの」彼女は皮肉な笑みをうかべた。「貧困が人を向上させるのは、豊かでいることもできるのに、みずから貧困を選んだ人の場合だけ」
「それには反論しませんけど、でも、美しさと富がどう関係するのかわかりませんわ」
「美しさは、孤独や拒絶されることからくるマイナスの感情から、人を遠ざけてくれるの。美しい人は重んじられる──ずっとそうだったし、あなた自身がそれを証明している──だから、そういう人たちは、恨みや嫉妬や、自分の持ちえないものを持ちたいという欲求と比較的無縁でいられるの。(…)」シスターは肩をすくめた。「もちろんつねに例外はあるわ(…)でも、わたしの経験では、魅力的な人は、芯まで魅力的なの。外面の美しさと内面の美しさ、どちらが先なのかという議論はあるでしょうけれど、その二つはたいてい、手に手を取って進むものなの」
(ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』4、成川裕子訳)

 ルイーズが言う。「とにかく、この前より楽よ。ドッグフードしか食べなかった頃のことを思えば」
 アンナが言う。「前に犬だったとき──」
 ルイーズは自己嫌悪を憶えながらも、口を挟む。「あなたが犬だったときなんて、絶対に、ないのよ」
 アンナが言い返す。「どうしてわかるのよ?」
 ルイーズが言う。「あなたが生まれたとき、私はその場にいたの。あなたのママが妊娠していたときだってよ。あなたがこのくらいだった頃から私は知ってるんだから」彼女は給使長がしたように二本の指を近づけた。ただし、指にはしっかりと力を込めて。
 アンナが言う。「それより前だもん。あたしが犬だったのは」
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

幽霊はまたもベッドの下に潜り込んで、片手だけ突き出している。まるでベッドルームでタクシーを拾おうとしているみたいに。
(ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳)

少女探偵は再度試みる。「このレストランはいつからここにあるの?」
「かなり以前から時々です」と彼は言う。
(ケリー・リンク『少女探偵』金子ゆき子訳)

「そこのテーブル・クロスの上にパンがある」とジョニーは宙を見つめたまま言う。「それは疑いもなく固いもので、何ともいえない色艶をしていて、いい香りがする。それはおれじゃないあるものだ。おれとは別のもの、おれの外にあるものだ。しかし、おれがそれに触れる、つまり指を伸ばして掴んだとする。するとその時、何かが変化するんだ、そうだろう? パンはおれの外にあるのに、おれはこの指で触り、それを感じることができるんだ。おれの外にある世界も、そういうものじゃないかと思うんだ。おれがそれに触れたり、それを感じたりできるのなら、それはもうおれとは違った、別のものだとは言えないはずだ。そうだろう?」
「いいかい、ジョニー、何千年も前から髯をはやした大勢の学者たちが、その問題を解こうと頭を悩ませてきたんだ」
「パンのなかは昼なんだ」とジョニーは両手で顔を覆って呟く。「おれは思いきって、パンに触ると、二つに切って口に放り込む。何も起こらないと分かっているが、それが恐ろしいんだ。何も起こらないから恐ろしい、分かるかい? お前はパンを切り、ナイフを突き立てるが、何もかも元のままだ。おれには分からないんだ。ブルーノ」
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

 それは彼を精神的に支えていると気づくが、操りもし、傷つけてもいる……そうしているのが彼自身でもあり、彼以外のものでもある。
(イアン・ワトスン『ヨナ・キット』3、飯田隆昭訳)

 クレールがそばにいると秋がいつもとちがって見えるんだ、とあなたは書いてきたわ。日曜日になると、あなたたちは手をつなぎ、ひと言も口をきかずに何時間も歩いたのね。公園には、涸れたヒヤシンスの残り香が漂っていた。長い間散歩しているうちに落葉を燃やす匂いが鼻をつくようになったけど、そんな風に散歩していて、むかし私たちが海岸を歩きまわった時のことを思い出したのね。きっとそれは、自分たちの身にいろいろなことが起こり、川岸を歩いたり、ジャスミンや枯葉の匂いを嗅いだりして、終わりつつある季節の謎めいた予兆を感じとっても、二人ともそのことをけっして口にしようとしなかったせいね。結局、沈黙なのね。クレール、クレール──あなたは私に宛てた手紙でそう書いてきた──君はようやくわかってくれたんだね。かつて僕が持っていたものをまた手に入れたんだ。今僕はそれを所有することができる。僕はふたたび君を見つけたんだよ、クレール。
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

(…)子供の頃はクエルナバーカに家があったので、週末はきまってブーゲンヒリアの花が咲き乱れるあの家で過ごしたものね。あなたは水泳や自転車の乗り方を教えてくれた。そして土曜日の午後は自転車で遠くの村へ行ったけど、あの頃の私はあなたの目を通して世界を発見していったの。(…)
(フエンテス『純な魂』木村榮一訳)

幸福な時代! われわれは人生が永遠につづくと思っていた。
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』44、浅倉久志訳)

(…)彼女が公園の中で触れ、運び、発見したもの、それが彼女なのだろう。(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)

これがすてきでなくて、ほかになにがある?
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』4、浅倉久志訳)

しかし、なにもないということは、なにかがあることを暗示している。
(カート・ヴォネガット『タイムクエイク』7、浅倉久志訳)

 サー・ジョンと仲間の美術貴族たちは大英博物館やルーヴルやメトロポリタンの監督として、夢見るファラオやキリスト磔刑や復活(第二のデ・ミル監督の出現を待ちわびる究極の超大作映画の題材)の絵画を揃え、たしかに人間の魂の空虚を巧みに満たしてくれたが、そもそも魂のなかに欠けていたものは何だったのだろうか。
(J・G・バラード『静かな生活』木原善彦訳)

しかし、詩人というものは、みんなきちがいではないですか?
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

 詩人の神経は伝導性があり、抑えきれないほどのエネルギーの奔流を運びます。彼は不安です──どれほど不安なことか! 彼は時の動きを感じます。指のあいだには、まるで生きた動脈をつかんだように、暖かいパルスが伝わってくる。ある一つの音で──遠くの笑い声、小さな波紋、一陣の風で──彼は気分が悪くなり、失神します。なぜなら、時の果てまでかかっても、その音、その波紋、その風がふたたびくりかえされることはないからです。これこそがだれもがたどらねばならん旅、耳をろうする悲劇なのです! しかし、きちがい詩人がそれを別なものにしたいと願うでしょうか? 一度も歓喜のないものに? 一度も落胆のないものに? 一度もむきだしの神経で人生をつかみえないものに?
(ジャック・ヴァンス『愛の宮殿』8、浅倉久志訳)

恐怖には二つの種類がある──本能的なものと、条件づけられたものとだ。
(ジャック・ヴァンス『殺戮機械』5、浅倉久志訳)

 最初は確かにおずおずと、ためらいがちに読んでいた。膨大な数の本を前にして立ちすくみ、どうやって進めばいいのかさっぱりわからなかった。一冊の本が次の本につながっていくような一貫した読書方針もなく、よく、二冊、三冊を並行して読んでいた。次の段階になると、読みながらメモをとるようになり、それ以降はつねに鉛筆片手に読書をした。メモといっても読んだ内容を要約するのではなく、印象に残った一節をただ書き写すだけだった。メモをとりながらの読書を一年かそこら続けてからようやく、時おりためらいがちに自分の考えを書きとめるようになった。「私には文学が広大無辺な国のように思える。そのはるかな辺境へ向かって旅しているけれど、とうていたどり着けない。始めるのが遅すぎた。遅れを取り戻すのは不可能だ」と女王は書いた。それから(それとは無関係に)「エチケットというのは煩わしいこともあるが、気まずい思いをするほうがもっと悪い」。
(アラン・ベネット『やんごとなき読者』市川恵里訳)

「(…)考古学は主として物事のあいだに脈絡をつける過程であって、どんな発見でも、すでに知っている事柄との可能な共鳴を表面化するのよ。ときには、博物館や発掘現場を歩きまわるだけで、眼が開けることもあるわ」
(グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上巻・第三部・1、山高 昭訳)

「(…)高校時代、(…)僕らはそこで抱きあったんだよ、車がブーンと音をたててハイウェイを駆け抜けていき、カーラジオがBGMを奏でてるなかでね」
 すでに詰め終え、あとは封をすればいいだけになっていたもうひとつのボール箱の上に、彼はガムテープを貼った。彼は側面まで伸ばしたテープの端を親指でしっかり押しつけると、残りのロールを手でちぎった。
「あなたのしたのはそれだけ?」と彼女は言った。
「そのときはね」と彼は言った。
「別のときはどうしたって言うの?」
 彼はにやりと笑った。「まさか君、僕が十代のときにしたことを妬いてるんじゃないだろうね」
 もちろん彼女は嫉妬していた──なぜなら彼女は、人も物事も記憶のなかで完全に忘れ去られることはないと知っていたから。いくつかの過去の出来事を思い起こしてみるとき、われわれはその鮮明さに驚いてしまう。過去の記憶がわれわれの考えをくつがえしてしまうことだってあり得るのだ。
(アン・ビーティ『広い外の世界』道下匡子訳)

(…)しかし、先に述べたように、変わったのは私だけだった。私以外はすべてが昔のままだった。歩道、ライムの木の街路、未だに始終修理が必要な樫の囲い、昔は怖かったのに今はただ薄汚いだけの大きな屋敷、ヨーロッパアカマツの傍らの教会、道の赤い砂、鉄板に豚の浮彫のある飾りが目立つので記憶している、教会の隣の一風変わった家──みな同じだ。だが、何にもまして、鹿が昔と同じなのが印象的だ。昔と同じく妖精のようで、見ていると心が躍る。昔と同じく、神秘的な動き方をする。私が、子供の時以来今日まで鹿を見る機会が殆ど無くてよかったと思った。特に、まだらのある鹿は一度も見なかった。今日の驚きと歓喜の感動を新鮮に保つため、今後しばらく又鹿を見るのは、やめておこうと思う。
(E・V・ルーカス『鹿苑』行方昭夫訳)

 私の思い出の鹿苑を数十年振りに訪ねた後、一マイル半歩いて市場のある町に来た。ここで昔最初の弓矢を買ってもらった小さな玩具とキャンデーの店を探してみたが無駄だった。どこにあったか覚えていたのだが、店に代って新しい大きな建物が立っていた。弓矢を買ってくれたのは独り者の訪問客の一人だった。こういう人は、僅かな金額で、子供の世界に輝きを与え、この世を天国に変える魔力を持っているものだ。最初の弓矢を再度入手できないのは辛い悲劇の一つである。
(E・V・ルーカス『鹿苑』行方昭夫訳)

 かれは自分が冷水の入ったコップになった気がした。何たる気ちがいじみた考えだ! コップの外側の水滴みたいに冷たい汗が噴き出していた。身体の中は冷たくて仕方がない! かれは腕をくみ、慄えはじめた。やっと指先が毛布をまさぐり、それをつかむと身体に引っぱり上げた。
(フィリップ・K・ディック&ロジャー・ゼラズニイ『怒りの神』5、仁賀克雄訳)

(…)この世で一番不幸な人の中に、過去において自分が蒙った被害を忘れられない人がいる。また、自分が他人に与えた危害を忘れられないので不幸になっている人もいる。実際、人間というのは、記憶しておきたいことは忘れ、忘れたいことは覚えているように生まれ付いているのだ。
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

鉄道での旅行者の遺失物が今ロンドンの主要駅の一つで販売されている。その品物のリストが発表され、それを見た多くの人が人間の忘れっぽさに驚いている。だが、件の統計上の数字が入手できれば、忘れる客がそんなに多数だということになるかどうか、私は疑問に思う。実は、私が驚くのは人の記憶力がいい加減だということより、その素晴らしさである。現代人は電話番号まで記憶しているではないか。友人の住所も覚えている。ビンテージワインの年号も覚えている。(…)
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

(…)現実の釣竿は忘れてしまう。この種の記憶喪失は、いかに彼が魚釣りを楽しんだかの嬉しい証拠である。彼が釣竿を忘れるのは、詩人がロマンチックな事柄を考えていて、手紙を出すのを忘れるのと同じである。この種のぼんやりは私には美徳のように思える。忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函など無視する魂を持っているのだ。
(ロバート・リンド『忘れる技術』行方昭夫訳)

(…)真実というものは、人によって耐えられる量、ふさわしい分量が決まっている。おれと話をする人間の中でも、弱いやつほど作り話や嘘を欲しがる。そういうやつには真実を嘘で塗り固めて、生きる助けにしてやらなければならない。生の言葉ですべてを語れる相手は、限りない知力と寛い心をもった存在、つまり神だけだ。神が相手の時はシニスムは考えられない。というのはシニスムは、相手が耐えられる以上の真実を伝えたり、我慢できる以上のどぎつい言葉を発するのに役立つからだ。そこで思うのだが、友達関係を耐えられるものにしようと思ったら、たがいに相手を買い被らなければならない。それに見合った優れた人間にならなければと重荷に感じて、相手がいつも不快になるほどの買い被りが必要だ。その分量があまりに多いと、相手は傷つき、関係を断ってしまうだろう──一生の絶交になることもある。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

(…)愛が完全かどうか(…)を見る試金石、まちがいなく見分ける指標は何かと言うと、次のようなまれな現象が起こっているかどうかだ。すなわち、顔に欲望を覚えるという現象。体のどの部分より顔にエロティシズムがあるように思われる時……それが愛だ。おれは今、顔こそが人間の体の中でもっとも官能的な部分だということを知っている。人の体の中で真に性的なのは、唇であり、鼻であり、とりわけ目なのだ。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

それは私の顔だ。たびたびきょうのように、むだに終わった日に、私はじっと自分の顔をながめて時を過ごす。私にはこの顔がちっともわからない。他人の顔は一つの意味を持っているが、私の顔にはそれがない。私の顔が美しいか醜いかも、決めることができない。醜いと言われたことがあるから、そうだろうと思う。しかしそう言われても腹立たしくはない。じつを言うと、人が土くれや岩の塊りなどを美しいとか醜いとか言うように、そういう種類の形容詞を私の顔に与えうるということが、私を驚かせるのである。
(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)

人々の顔を眺めるのは彼にとって楽しいことだった
(ジョセフィン・テイ『時の娘』2、小泉喜美子訳)

 苦しみは人生の視野を拡げ、より同情心ある人物にする。自分も同じような目に遭っていれば、他人の不幸を理解しやすくなるというわけだ。
(P・G・ウッドハウス『それゆけジーヴス』5、森村たまき訳)

(…)もっとも、悲劇といえば、かれがぼくに語ったことが、真実だとしたら(ぼくは真実だと信じていますが)けっきょく、そんなことを言えば、人間の一生なんてみんな悲劇ですからなあ。舞台へなんかへかけられるものとはまたちがった、もっと不思議な悲劇ですからなあ
(アーサー・マッケン『パンの大神』4、平井呈一訳)

人生の幸福は非常に少ないものにかかっている。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第七巻・六七、神谷美恵子訳)

 人間には、人間的でない出来事は起りえない。牡牛には、牡牛にとって自然でない出来事は起りえない。葡萄の樹には、葡萄に自然でない出来事は起りえない。また石にも、石に特有でないことは起りえない。かように、もし各々のものにおきまりの自然なことのみ起るのならば、なぜ君は不満をいだくのか。宇宙の自然は君に耐えられぬようなものはなにももたらさなかったではないか。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・四六、神谷美恵子訳)

つぎのことを記憶せよ。無花果(いちじく)の樹が無花果の実をつけるのを驚いたら恥ずかしいことであるように、宇宙がその本来結ぶべき実を結ぶのを驚くのも恥ずかしいことである。同様に医者や舵取りが患者に熱のあるのや逆風の吹くのを驚くのも恥ずかしいことである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・一五、神谷美恵子訳)

 万人互いに一致しているわけでもなく、個人にしても一人として自己と一致している者はない。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第八巻・二一、神谷美恵子訳)

魂の働きのなかには、低級なものもいくつかある。その面から魂を見ない者は、魂を完全に知ることはできない。そしておそらく、魂が単純な歩き方で進んでいるときにこそ、それをもっともよく見てとることができるのだろう。情念の疾風は、魂を、それが高い位置をとっている場合に、より多くとらえる。それに加えて、魂はおのおのの材料の上に完全に身をのせきり、そこで全体で働きを行い、けっして同時にひとつ以上のことを扱わないのだ。そして材料を、それに従ってではなく、みずからに従って扱う。事物というものはおそらく、独自に、それ自身の重さや寸法や性質を持っているのだろう。しかし、われわれのなかへはいってしまうと、魂は、自分の了解しているとおりにそれらのあり方を裁断して、事物に着せかけてしまう。(…)
(…)われわれに事物についての了解を与えているものは、われわれ自身なのだ。
(モンテーニュ『エセー』第I巻・第50章、荒木昭太郎訳)

 われわれは皆断片からできていて、あまりにかたちをなさない多様な組成をしているので、一片一片が瞬間ごとにおのおのべつの動きをする。われわれとわれわれ自身とのあいだには、われわれと他人とのあいだにあるのと同じくらいの相違がある。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)

「もう終りにしましょうよ」と彼は言った、「二時近いですよ」
「それももっと多くを言うために少なく言う言いかたですの?」
「それとは反対に、『聖書』のなかでは、言葉がいかに表現の新鮮さを保ちつづけてきたか見てごらんなさいよ」
「それはきっと言葉遣いがとても単純な箇所でしょうね」と彼女は言った、「毎日の言葉が使われている箇所ね」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』17、菅野昭正訳)

(…)そして、おそらく、その景色があれほど美しくなかったら……とはいうものの、ただひとつの状況を異なるものとして想像することなどできるだろうか?……人生には、まるで芸術の傑作のように整えられている瞬間が、またそういう全生涯があるものなのだ、と彼には思われた。あれは彼らにとって目眩(めくるめ)く驚異だった。六月のこよなく美しく晴れた日のことで、(…)
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』21、菅野昭正訳)

スヘヴェニンゲンの浜辺も、他の浜辺と同じように、地雷を埋めた浜辺だった。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)

(…)今(なんて言葉だろう、今なんてものはありはしない)、ぼくは河に面した手すりに腰をかけ、赤と黒のツートンカラーの遊覧船が通るのを眺めている。写真を撮る気になれない。ただあわただしく行き交う事物を眺めながら、腰をかけたままじっと時の流れに身をまかせている。風はもうおさまっていた。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)家は、決められた時間に食事をとるしっかりした家庭で、うす暗い客間があり、ドアの脇にはマホガニーの傘立てが置いてある。壁にはロマン派の風景画がかかっているにちがいない。家で勉強していると、時間は雨の日のようにのろのろ過ぎていく。母親に期待をかけられている彼は、最近父親に似てきた。アヴィニョンの叔母さんに手紙を書かなくては。お金を持たないそんな彼のためにパリの街々とセーヌ河がある。(…)一袋十フランのフライド・ポテト、四つに折り畳んだポルノ雑誌、空のポケットのような寂しさ、幸運な出会い。町は未知の事物で埋めつくされている。風や町にも似た気易さと貪欲な好奇心に駆られて彼はそれらの事物を熱愛する。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)悪は──何世紀にもわたって記録されてきたのとは異なり──混沌(こんとん)の道具などではないのだ。創造こそが混沌の力なのだ。ほら、この真理は自然界のあらゆる仕組みに見いだせる──花粉の雲や、蠅(はえ)の群れや、鳥の渡りにだ。こうした出来事は正確さこそあれ、混沌としている。その正確さは過剰さからくるものであり、百万発撃って標的に数発あたるようなものだ。いや、悪は混沌ではない。簡潔さであり、システムであり、断ち切るナイフの一突きなのだ。とりわけ、回避不可能なことだ。善のエントロピー的解決であり、創造性の絶対的単純化なのだ。ヒトラーはずっとこのことを知っていたし、国家社会主義はつねにそれを具現していた。電撃戦や強制収容所がこの単純さの戦術的表現でないとすれば、なんだというのか?
(ルーシャス・シェパード『メンゲレ』小川 隆訳)

──とはいえ、こうしたこともしょせん人間性の一部ではないだろうか?
(ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』1、内田昌之訳)

 時の歩みをもっともよく教えるのが手である。手は、ひとが三十歳になる前から老いはじめる。
(レイナルド・アレナス『めくるめく世界』35、鼓 直・杉山 晃訳)

 わたしは両手を上げて、見ようとした──今は手の甲に静脈が浮いていることも知っていた。手に静脈が浮き出した時が、人が大人になった時なのだ。
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』4、岡部宏之訳)

(…)「どうやら、死ぬことは気にしていないみたいね──さばさばしてるもの」
 わたしは御者台の背にしがみついた。「そりゃ、死は異常なことではないからね。ぼくのような人間はきっと何千人も何万人もいるよ、死に慣れている人間は。人生のうちの本当に重要な部分はもう終わってしまったと感じている人はね」
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

花?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』18、岡部宏之訳)

時はわれわれの嘘を真実に変えると、わたしはいっただろうか?
(ジーン・ウルフ『拷問者の影』17、岡部宏之訳)

これまで知ってきたものがすべて光の中に溶けたり暗闇の中に逃げてしまったのだ
(ルーシャス・シェパード『ぼくたちの暮らしの終わりに』小川 隆訳)

「メタファーとはなんだね? だれか?」
「メタファーは、ふたつのものを類似させる言葉のあやです」
「ちがう、ふたつもまちがいがある。類似は最初からそこにある。メタファーはそれを見るだけだよ。そしてメタファーは、たんなる言葉のあやではない。人間の精神の本質そのものだ。われわれ人間は、類似性や対比や関係を見出すことで、自分たちの周囲のものを、自分が経験したことを、自分自身を理解しようとする。われわれはそれをやめられない。たとえ精神がそれにしくじっても、精神は自分に起きていることをなんとか理解しようと努力しつづける」
(コニー・ウィリス『航路』下巻・第二部・承前・34、大森 望訳)

ほんとに、何度言えばわかるの? 比喩は現実なのよ
(メリッサ・スコット『地球航路』8、梶元靖子訳)

 比喩は象徴の一種なの、いい? そして象徴は、〈技〉の基礎です。わたしたちは象徴を通じて現実を操作するのだから、したがって、象徴もまた現実であり、現実でなくてはならないのよ。
(メリッサ・スコット『地球航路』8、梶元靖子訳)

必要なのは幻影だけれど、幻影にはモデルが必要だ。
(メリッサ・スコット『地球航路』5、梶元靖子訳)

 そのながめは、その瞬間には現実であり、そのあとではたぶん想像されたものになるわけだけど、光子のパターンとして視覚神経のマトリックスに表示され、ほぼデジタル化された神経電荷として脳にはいり、記憶、快感、その他の中枢に放電する。
(ヒルバート・スケンク『ハルマゲドンに薔薇を』第二部、浅倉久志訳)

存在は秩序を必要とする。
(トム・ゴドウィン『冷たい方程式』伊藤典夫訳)

「わたし、どれくらいいられるの?」
 自分の思考の谺(こだま)にも似た質問に、彼は思わずたじろいだ。
(トム・ゴドウィン『冷たい方程式』伊藤典夫訳)

どうやら自分の経験と酷似しているような表現に出くわしたのだ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

 詩人の真価は、有限な表現による言語の舞いではなく、知覚と記憶、知覚されるものと記憶されるものへの感受性、それらのほぼ無限の組みあわせにこそある。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

 右半球であつかえるたった九語の語彙だけで、どうやって立派な詩が作れるのかと、不思議に思うかね?
 答えはこうさ。小生は一語も言葉を使わなかったのだよ。詩にとって、言葉とは二義的なものにすぎない。なによりたいせつな対象は真実だ。ゆえに小生は、強力な概念、直喩、関係を用いて、物自体(デイング・アン・ズイツヒ)──影のなかにひそむ実体をあつかった。たとえていえば、ガラスやプラスティックやクロムアルミニウムすら出現しないうちから、より高度な強化(ウイスカード)合金の骨格を用いて、エンジニアが摩天楼を築きあげるがごとく。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

(…)この小屋がまた、奇妙に居心地がいい。なかにあるのは、ものを食うための食卓、眠りかつセックスをするための寝棚、大小便用の穴、黙々と外を眺めるための窓、それだけだ。小生の環境は、まさに語彙を反映していたといえよう。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

大むかしから、監獄とはもの書きにとって最高の場所だった。
(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上巻・詩人の物語、酒井昭伸訳)

 彼女のおろかな恐怖はすべて流れ去り、彼女の力のなくなった手は、静かにヘンリーの手に握りしめられ、臨終の言葉に、ひそかな音のリズムを見いだして、それを楽しんでいるかのようだった。
(ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳)

(…)彼はこの皮肉っぽい軽い詩のように、いとも簡単に詩が浮かんだ頃のことを思い返した。今は詩作もずっと知的で計算された言葉の選択と配列になっている。自分の生活の中で内側から自然に湧き上がるものが、はたしてあるだろうか。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第二部・19、青木久恵訳)

 サディーはとても優しい子でした。詩は情熱だけれど、人生のすべてである必要はないということを教えてくれました。
(P・D・ジェイムズ『神学校の死』第二部・19、青木久恵訳)

 人間が一生許すことも忘れることもできないもの、それはその人間が幼くて無力であるときに受けたひどい仕打ちだ。
(P・D・ジェイムズ『皮膚の下の頭蓋骨』第五部・37、小泉喜美子訳)

(…)ある哲学者の言葉を、確かロジャー・スクルートンだったと思うけど、思い出しましてね。"想像したものが与える慰めは想像上の慰めではない"
(P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第二部・19、青木久恵訳)

詩はかならずしも意味をもたなくてもいい、自然のものがしばしば意味をもたないように。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

詩の目的はひとの幸福に貢献するにある。
(ウォレス・スティヴンズ『アデージア』片桐ユズル訳)

 ソネットの厳しい規則が詩作に高い水準を強制できるように、科学的な事実に忠実であることは、よりよいSFを生みださせることができる。これを無視するのは、自由詩型についてのロバート・フロストの言葉──"それはネットを下ろしてテニスをするのに似ている"──を思いおこさせる。
(グレゴリイ・ベンフォード『リディーマー号』のあとがき、山高 昭訳)

文体は主題から自然に生まれるものだ
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』7、斎藤昌三訳)

オーデンいわく、「詩は実際の効用をもたらすものにあらず」。
(ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』10、斎藤昌三訳)

 そして若いころ書いたわたしの詩一篇だ。この詩はとるに足らないもので、いまのわたしとしてはできれば破って棄ててしまいたい代物だ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

 それが印刷されたとき、どんなに得意であったかは、今でもよくおぼえている。これでみんな、おれが詩人だということを知るだろうと、あの当時は思ったものだ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

 世間の普通の人は詩など読まないものと、わたしは思いこんでいた。雑誌を見ていて詩が出てくると、人々は「おや、ここは詩じゃないか」と言って、そして急いでページを繰って小説を探そうとする。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

そりゃ今だって詩人はいるさ、それは誰も否定しないよ、でも誰も詩人のものなんて読みやしない。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)

「やっぱり芸術は、それを作り出す芸術家に対してしか意味がないんだなあ」
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

 こんなに見つめあったりするのは、なにか気脈の通じる人間どうしだけができることだ。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

(…)わたしの手はわたしの視線を追って、できるだけの早さでカンバス上を走りまわるのだった。ところが、そのわたしの視線は、また、現実に見えないものまで求めているのだった。つまり、そこにあるものではなく、かつてそこにあった、そしていつかはそうなるだろうという対象の姿を求めるのである。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』10、井上一夫訳)

 私は、ときたま穀倉とか台所とか人目につかない所とかで見かけることのある、その用途はもはやだれにも説明できないような、そういった物や、箱や、什器(じゆうき)のことを考える。われわれが時間の行(こう)業(ぎよう)を理解していると思うことの虚しさ。時間はその死者たちを埋葬して、その鍵を手許から離しはしない。ただ夢の中でのみ、詩の中でのみ、遊戯の中でのみ──蝋燭を点し、それをかざして廊下を歩くならば──われわれは、はたしてわれわれであるのかどうかもわからないこのわれわれの存在よりも以前にわれわれであった存在を、ときとして垣間見るのである。
(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・105、土岐恒二訳)

 わたしたちは知ることのなんと少ないことか──迫り来る寒さにしても、奇蹟や死、まして細長い浜辺や、丘や、木や石のわずかの壁と、小さな火、わたしたちを暖めてくれる明日の太陽や、明日の平和への願い、良い天気への願い……この嵐で明日なんて吹っとんでしまったとしたら、どうなるんだろう。もし時間というものが静止してしまったら? それに昨日というものも、もしわたしたちがそういう嵐に道を失ってしまったら、もう一度その昨日を迎えるかもしれない。そこでわたしたちはその昨日を明日の朝日と思いこむかもしれない。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』6、井上一夫訳)

 彼はほとんど無一物で暮らしていたし、彼が一年に一枚の絵も売れたかどうか危ういものである。しかし、彼は自分の才能を疑ったことのない、幸福な人間だった。彼の欲望はささいなものであったが、その悲しみは苦痛は伴わないが大きなものだった。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』8、井上一夫訳)

どのくらいの時間で、ひとは地獄を──そして天国をのぞくことができるものだろう。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

 わたしはすぐに答えなければいけない。遅れることは、まちがった答えと同じだけ危険だわ
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第一巻、矢野 徹訳)

成長はその必要とするものによって制限される、
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

緊張が大きなときに真実をはっきりと知る
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

それは象徴以上のもの、現実だ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第二巻、矢野 徹訳)

視界だけに頼るなら、ほかの感覚は弱まる
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

真実とは強力な武器なのだ。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

存在しないこと、それは存在することと同じほど致命的なものとなり得る。
(フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第三巻、矢野 徹訳)

世界は多数の群衆と少数の個人とで成り立っている。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』上巻・1、宮西豊逸訳)

年齢を重ねるにつれて、自分の一部が新しい風景のように見えてくるのだ。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』下巻・エピローグ・2、山高 昭訳)

成功は饒舌だが、失敗は無言である。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)

絶対は崩壊の餌食であり、永遠は変質の餌食である。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十章、榊原晃三・南條郁子訳)

最愛の人の不倫は食欲をそそる究極の前菜である。
(リチャード・コールダー『デッドボーイズ』第3章、増田まもる訳)

 海水パンツをはいた姿などというのは、まったくの裸身でもなければ、ときおり悩ましくさえある衣服の独創的な言葉でもない。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十三章、榊原晃三・南條郁子訳)

 箱庭が小さければ小さいほど、その包括する世界は大きい。(…)風景が小さければ小さいほど、ますます強力な霊力が手に入る。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十八章、榊原晃三・南條郁子訳)

最高の幸福は不幸の總元締、智彗の完成は愚鈍のもと。
(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』人生論、杉浦明平訳)

人間でいるってことは、変てこなもんだ
(ルーディー・ラッカー『空を飛んだ少年』第三部・20、黒丸 尚訳)

個人的な好みに左右されるようなことには正しいもまちがいもない
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』4、大森 望訳)

 音楽や性行為、文学や芸術、それは今やすべて、楽しみの源ではなくて苦痛の源にされてしまってるんだね
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』3・4、乾 信一郎訳)

選択のできない人間というものは、人間であることをやめた人だよ
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』3・4、乾 信一郎訳)

ほかに選択の余地がないにもかかわらず、それがあるかのように行動して、その結果なにもかも失ってしまう人間が驚くほどたくさんいる。それもこれも、しなければならないことをするのに耐えられないからなんだよ
(オースン・スコット・カード『神の熱い眠り』5、大森 望訳)

神は、善良であることを望んでおられるのか、それとも善良であることの選択を望んでおられるのか? どうかして悪を選んだ人は、押しつけられた善を持っている人よりも、すぐれた人だろうか?
(アントニイ・バージェス『時計じかけのオレンジ』2・3、乾 信一郎訳)

聖書の著者は神である。
(トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一問・第一〇項、山田 晶訳)

「神を持ちだすなよ。話がこんぐらがってくる」
(キース・ロバーツ『ボールターのカナリア』中村 融訳)

あんた自身が神様を信じていれば、その言葉ももうちょっともっともらしく聞こえるだろうがね。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

神がいると、本当に信じているのですか?
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下巻・27、小隅 黎訳)

天国なんてないのよ
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第二部・天国、大森 望訳)

パパは天国にいるっていったじゃない。
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第二部・天国、大森 望訳)

単純にして明快な事実だよ。事実に対して動転する必要があるかね?
(チャールズ・プラット『バーチャライズド・マン』第一部・暗闇、大森 望訳)

 そう、私は真実を要求した。しかし心の奥底で私が本当に欲望していたのは、驚異だったのだ。
(ミシェル・ジュリ『熱い太陽、深海魚』松浦寿輝訳)

 しかし、人と近づきになる楽しみは、すべての楽しみがそうであるように、間違いなく確実な出費を要求した。
(A&B・ストルガツキー『世界終末十億年前』第二章、深見 弾訳)

 微笑は、今の話を本気にする必要はないと語っていた。だが、信じたふりをしてくれれば嬉しいという含みも感じられた。
(ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』伊藤典夫訳)

 ところが、そのあいだに不思議なことが起こった。まるでふたつのからだがぴったりと触れあったことで通り道ができたかのように、新しい理解がジーンのもとに届いた。
(アンナ・カヴァン『愛の渇き』大谷真理子訳)

しかし、その真実は、はたして彼の知っているとおりなのだろうか。
(フレデリック・ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』2、星 新一訳)

ぼくは過去の食卓のうえに今この食前の祈りを繰り返す。
(ディラン・トマス『飼鳥が焼けた針金で』松田幸雄訳)

「聞いているかね、友よ?」
 彼女は一語余さず聞いていたし、それぞれの語のあいだに広がる暗黒にも耳を澄ませていた。
(ロバート・リード『地球間ハイウェイ』第二部・ジュイ・1、伊藤典夫訳)

身をこがして光をふりそそぐ力がないならば、せめてそれをさえぎらないようにするがよい。
(トルストイ『ことばの日めくり』一月三日、小沼文彦訳)

神は愛そのものではない。愛は人間における神の現れの一つであるにすぎない。
(トルストイ『ことばの日めくり』五月二十四日、小沼文彦訳)

 愛は二人だけのものである。たとえそれがつまらない、気取った、ばかげたものであっても、愛し合う二人だけのために愛は存在する。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

〈知性〉の第一の義務は自己に対する懐疑である。これは自己軽蔑とは別物だ。想像された森の中で道に迷うことは現実の森の中で道に迷うことより難しいが、それは前者が考えている者にこっそり手助けするからである。解釈学とは現実の森の中の迷宮庭園なのであって、それは森が見えなくなるような刈り込み方をされているのだ。諸君の解釈学は現実について夢想する。だが私が諸君に示そうとするのはさめた現実なのであって、肉が付き過ぎて、そのために信じるに足りないように見える現実なのではない。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一訳)

諸君は人間とは〈知性〉であり、〈知性〉とは人間であると主張してやまないが、この等式の誤謬が諸君を盲目にしたのだ。
(スタニスワフ・レム『虚数』GOLEM XIV、長谷見一訳)


詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年八月一日 「胎児」


自分は姿を見せずにあらゆる生き物を知る、これぞ神の特権ではなかろうか?
           (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』榊原晃三・南條郁子訳)


二〇一六年八月二日 「胎児」


神の手にこねられる粘土のように
わたしをこねくりまわしているのは、だれなのか?

いったい、わたしを胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわしているのは、だれなのか?

また、胎のなかで
数十世紀にもわたって、こねくりまわされているわたしは、だれなのか?

それは、わからない。
わたしは、人間ではないのかもしれない。

この胎は
人間のものではないのかもしれない。

しかし、この胎の持ち主は
自分のことを人間だと思っているようだ。

夫というものに、妻と呼ばれ
多くの他人からは、夫人と呼ばれ

親からは、娘と呼ばれ
子たちからは、母と呼ばれているのであった。

しかし、それもみな、言葉だ。
言葉とはなにか?

わたしは、知らない。
この胎の持ち主もよく知らないようだ。

詩人というものらしいこの胎の持ち主は
しじゅう、言葉について考えている。

まるきり言葉だけで考えていると考えているときもあるし
言葉以外のもので考えがまとまるときもあると思っているようだ。

この物語は
数十世紀を胎児の状態で過ごしつづけているわたしの物語であり

数十世紀にわたって、
わたしを胎内に宿しているものの物語であり

言葉と
神の物語である。


二〇一六年八月三日 「胎児」


時間とは、なにか?
時間とは、この胎の持ち主にとっては
なにかをすることのできるもののある尺度である。
なにかをすることについて考えるときに思い起こされる言葉である。
この胎の持ち主は、しじゅう、時間について考えている。
時間がない。
時間がある。
時間がより多くかかる。
時間が足りない。
時間がきた。
時間がまだある。
時間がたっぷりとある。
いったい、時間とは、なにか?
わたしは知らない。
この胎の持ち主も、時間そのものについて
しばしば思いをめぐらせる。
そして、なんなのだろう? と自問するのだ。
この胎の持ち主にも、わからないらしい。
それでも、時間がないと思い
時間があると思うのだ。
時間とは、なにか?
言葉にしかすぎないものなのではなかろうか?
言葉とは、なにか?
わからないのだけれど。


二〇一六年八月四日 「胎児」


わたしは、わたしが胎というもののなかにいることを
いつ知ったのか、語ることができない。
そして、わたしのいる場所が
ほんとうに、胎というものであるのかどうか確かめようもない。
そうして、そもそものところ
わたしが存在しているのかどうかさえ確かめようがないのだ。
そういえば、この胎の持ち主は、こんなことを考えたことがある。
意識とは、なにか?
それを意識が知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が
袋の外から自分自身を眺めることができないからである、と。
しかし、この胎の持ち主は、ときおりこの考え方を自ら否定することがある。
袋の中身が、袋の外から自分自身を眺めることができないと考えることが
たんなる言葉で考えたものの限界であり
言葉そのものの限界にしかすぎないのだ、と。
そして、
言葉でないものについて、
この胎の持ち主は言葉によって考えようとする。
そうして、自分自身を、しじゅう痛めつけているのだ。
言葉とは、なにか?
それは、この胎の持ち主にも、わたしにはわからない。


二〇一六年八月五日 「胎児」


生きている人間のだれよりも多くのことを知っている
このわたしは、まだ生まれてもいない。
無数の声を聞くことができるわたしは
まだわたしの耳で声そのものを聞いたことがない。
無数のものを見ることができるわたしは
まだわたしの目そのもので、ものを見たことがない。
無数のものに触れてきたわたしなのだが
そのわたしに手があるのかどうかもわからない。
無数の場所に立ち、無数の街を、丘を、森を、海を見下ろし
無数の場所を歩き、走り跳び回ったわたしだが
そのわたしに足があるのかどうかもわからない。
無数の言葉が結ばれ、解かれる時と場所であるわたしだが
そのわたしが存在するのかどうかもわからない。
そもそも、存在というものそのものが
言葉にしかすぎないかもしれないのだが。
その言葉が、なにか?
それも、わたしにはわからないのだが。


二〇一六年八月六日 「胎児」


数学で扱う「点」とは
その言葉自体は定義できないものである。
他の定義された言葉から
準定義される言葉である。
たとえば線と線の交点のように。
しかし、その線がなにからできているのかを
想像することができるだろうか?

胎児もまた
父と母の交点であると考えることができる。
しかし、その父と、母が、
そもそものところ、なにからできているのかを
想像することができるだろうか?

無限後退していくしかないではないか?
あらゆることについて考えをめぐらせるときと同じように。


二〇一六年八月七日 「胎児」


この胎の持ち主は、ときどき酩酊する。
そして意識が朦朧としたときに
ときおり閃光のようなものが
その脳髄にきらめくことがあるようだ。
つねづね
意識は、意識そのものを知ることはできない、と。
なぜなら、袋の中身が、袋の外から袋を眺めることができないからであると
この胎の持ち主は考えていたのだけれど
いま床に就き、意識を失う瞬間に
このような考えが、この胎の持ち主の脳髄にひらめいたのである。
地球が丸いと知ったギリシア人がいたわ。
かのギリシア人は、はるか彼方の水平線の向こうから近づいてくる
船が、船の上の部分から徐々に姿を現わすのを見て、そう考えたのよ。
空の星の動きを見て、地球を中心に宇宙が回転しているのではなくて
太陽を中心にして、地球をふくめた諸惑星が回転しているのだと
考えたギリシア人もいたわ。
これらは、意識が、意識について
すべてではないけれど
ある程度の理解ができるということを示唆しているのではないかしら?
わからないわ。
ああ、眠い。
書き留めておかなくてもいいかしら?
忘れないわね。
忘れないわ。
そうしているうちに、この胎の持ち主の頭脳から
言葉と言葉を結びつけていた力がよわまって
つぎつぎと言葉が解けていき
この胎の持ち主は、意識を失ったのであった。


二〇一六年八月八日 「胎児」


わたしは、つねに逆さまになって考える。
頭が重すぎるのだろうか。
いや、身体のほうが軽すぎるのだ。
しかし、わたしは逆さまになっているというのに
なぜ母胎は逆さまにならないでいるのだろう。
なぜ、倒立して、腕で歩かないのだろうか。
わたしが逆さまになっているのが自然なことであるならば
母胎が逆さまになっていないことは不自然なことである。
違うだろうか。


二〇一六年八月九日 「チェンジ・ザ・ネーム」


アンナ・ヴァンの新作が出るらしい。コンプリートに集めてる作家なので買うと思うけど、ハヤカワから出るコードウェイナー・スミス全短篇の2作目は、すべて既読なのだが、せめて、まだ訳してないのを1作でも入れておいてほしかった。バラード全短篇集など、創元は出してほしくない。読んだのばっか。

アン・レッキーのレベルの作家は、そうそういないと思うけれど、SFかミステリーにしか、ほとんど未来の文学はないと思うので、ハヤカワ、創元、国書にはがんばってほしい。


二〇一六年八月十日 「詩は個人の文学である」


ぼく自身は、もうぼくのことについてしか書かないので、ぼくの詩は、個人の文学だと思っている。そして、もう個人の文学しか、詩にはないと思っているのだが、30代から、そう思って書いているのだが、そう、もう、だれも個人には興味がないのだった。まあ、それでいいと思うけれど。


二〇一六年八月十一日 「現代詩文庫」


ぼくの知らない名前のひとのものが『現代詩文庫』にたくさん入ってる。もう何人もそうなんだけど、ずいぶん以前から、そんな文庫には意味があるとは思えなくなっていた。思潮社、どういう編集方針なんだろう?


二〇一六年八月十二日 「世界は滅びなくてよい。」


日知庵でも、かわいい男の子(31歳)と話をしていたけど、世のなかにかわいい男の子がいるかぎり、世界は滅びなくてよい。

アレナスもペソアも47歳で死んでいる。47年組なんやね。ぼくは、47歳までに、よい詩を書いたかと自分に問えば、どうだったかなと答えるしかない。その齢に応じたよいものを書いてきたと思っているから。昨年、思潮社オンデマンドから出た『全行引用詩・五部作・上巻』とその下巻がいまのところ、ぼくの最高傑作だ。

きょうは日知庵でバイトだったのだけれど、だいぶ飲んできた。バイト中にもお客さんからビールを3杯いただいて飲んだけど、バイト上がりにも1杯飲んだ。タバコ吸ったら、クスリのんで寝よう。鏡みたら、顔がゾンビだった。まあ、もともとゾンビ系の顔をしてるけれども。


二〇一六年八月十三日 「芸術」


人間が生きるためには、芸術などは必要のないものの最たるものの一つであろう。しかし、芸術がなければ、人間が人間である必要のないものの最たるものの一つである。


二〇一六年八月十四日 「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」


何年か前、ヤリタミサコさんの朗読会でお会いしたときに、平居 謙さんから、こう言われたことが思い出された。「まだウンコみたいな詩を書いてるの?」 そのときのぼくの返事、「まだウンコみたいな詩を書いてますよ。」 「ウ」じゃなくて、「チ」か「マ」だったら、最高の褒め言葉だったんだろうな。


二〇一六年八月十五日 「人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのだ」


人間自体がもっともすばらしい芸術作品なのに、なぜ人間以外の芸術作品を求めてやまないのか。

恋をしているときに、なぜ、ぼくは、それがうつくしい芸術作品の一つだと思わなかったのだろうか。恋が終わってからしか、そのときのことが書けないのは、ぼくが、その恋を作品として見ていなかったからだろうけれど、いまから思うと、もったいないことをしたなあと思う。うん? そうじゃないのかな?


二〇一六年八月十六日 「字数制限」


俳句や短歌が文芸作品であるのは、用いられる語の音節数の制限があるからである。道路に制限速度があるように、詩にも制限語数というのがあってもよいのかもしれない。まあ、ぼくなんかは、違反ばかりしているだろうけれども。


二〇一六年八月十七日 「偶然」


偶然が怖いけれど、偶然がないのも怖い。

いま日知庵から帰ってきた。日知庵に行くまえに、ジュンク堂で新刊本を5冊買った。合計9000円ほど。アンナ・カヴァンの『鷲の巣』、『チェンジ・ザ・ネーム』そして、彼女の短篇が入っている『居心地の悪い部屋』、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第二巻の『アルファ・ラルファ大通り』、ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』である。いったい、いつ読むのかわからないけれど、いちおう、これらを買っておいた。そういえば、カヴァンをイギリス文学の棚で探していたが見つからず、ジュンク堂の店員に訊いたら、フランス文学の棚に並べられていた。 「アンナ・カヴァンはイギリスの作家ですよ。」と言うと、「あとで確認しておきます。」という返事が返ってきた。いや〜、びっくりした。どこで、どうなって、フランス文学の棚に行ったのか知らないけれど、商品については知っとけよ、と、こころのなかでつぶやいた。

きのう、寝るまえに、『恐怖の愉しみ』上巻のさいしょの作品を読んで、つぎの作品の途中で寝てしまった。


二〇一六年八月十八日 「図書館の掟。」


けさ、つぎにぼくが上梓する思潮社オンデマンド詩集『図書館の掟。』のゲラが届いた。やらなければならないことがたくさんあるのだけれど、このゲラチェックを最優先しよう。350ページ分のゲラチェックである。何日でできるかな。

詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、書肆ブンより復刊されることになりました。すべての先駆形の詩が収載されます。(思潮社オンデマンドから既発売の『ゲイ・ポエムズ』、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』、来年発売予定の『図書館の掟。』に分載されているものすべてを含む)きょう、再刊の話をいただいたところで、いつごろ発売になるのか、わかりませんが、ぼくが30代の後半から40代の初めまでに書いた、すべての先駆形の詩を収録する予定です。『ゲイ・ポエムズ』(思潮社オンデマンド)とともに、ぼくのベスト詩集になると思います。電子データのない作品があって、その打ち込みで、●詩の長篇の散文があって、しかも、その●詩が全行引用詩でもあるので、本文5ページ・参考文献、超小さい字で5ページを打ち込まなければならず、めっちゃ憂鬱でしたが、あらためて自分の詩を読んで、へえ、こんなの書いてたのとか思ったりしてます。

●詩の散文詩の全行引用詩の本文の打ち込みが終わった。参考文献のところは一日では終わりそうにないけれど、いまではもう読んだ記憶のない本がいっぱいあって、そういう興味でもって眺めながら、あしたから打ち込んで行こうと思う。しんど〜。


二〇一六年八月十九日 「全行引用詩・五部作・序詩」


澤あづささんが、ぼくの『全行引用詩・五部作・序詩』を、ご紹介くださっておられます。新作です。ぼくの望んでいた通りの理想的なレイアウトで、ご紹介くださってます。こころから感謝しております。
こちら→http://netpoetry.blog.fc2.com/blog-entry-17.html


二〇一六年八月二十日 「福武くん」


いま日知庵から帰った。日知庵では、Fくん(31歳のぽっちゃりしたかわいい男の子)と、プログレ、カルメン・マキ、ビートルズの話で盛り上がった。いっしょにカラオケしたかったなあ。こんど誘ってみよう。


二〇一六年八月二十一日 「しんどかった〜。」


やったー。あと数日は確実にかかると思っていた●詩の参考文献の打ち込みが終わった。朝の9時からこの時間までのぼくの集中力は半端じゃなかった。孤独な作業だったけれど、すべての芸術行為が孤独なのであった。ひとりでお祝いをするために、これからスーパーに行って、お酒を買ってきて飲もうっと。

ヱビスビールを飲んでいる。BGMは、2、3日まえに、Fくんにすすめた「四人囃子」の『ゴールデン・ピクニックス』である。日本でさいこうのプログレバンドだった。1曲目はとばして聴いたほうがいいと思うけど、ぼくはとばさずに聴いてる。いまかかってるのは「泳ぐなネッシー」 プログレである。

クリムゾンの『ディシプリン』にかけ替えた。脳みその半分がビールのような気がする。錯覚だろうけど。

あしたは神経科医院に。ここ数日の平均睡眠時間が極端に短い。神経症がひどくなっているのかもしれない。クスリをかえてもらう頃合いなのかもしれない。いまのんでるクスリ、さいしょはのんで数分で気絶する勢いで眠ったけれど、いまじゃ眠るまでに1時間以上かかってしまっているものね。

プリンスの『MUSICOLOGY』にかけ替えた。「CALL MY NAME」のすばらしさ。プリンスはやっぱり天才だった。

ぼくは自分の詩のタイトルに、海外アーティストの作品の曲名をつけることが多いのだけれど、「DESIRE。」の出所がようやくいまわかった。ツエッペリンだった。コーダに入ってたから、長いあいだわからなかったのだった。手放したCDだったから。これで、タイトルの出所のわからないものがなくなった。


二〇一六年八月二十二日 「きょう何年かぶりかで」


きょう何年かぶりかで痴漢された。数年まえに痴漢されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。

きょう何年かぶりかで置換された。数年まえに置換されたときは、タイプの若い男の子だったから、うれしかったけど、きょうは、ぼくよりおっさんだったから厭だった。


二〇一六年八月二十三日 「鈴木さんご夫妻」


いま日知庵から帰った。Sさんご夫妻と遭遇。そこで、ぼくの出自の半分が判明した。ぼくは半分、高知で、半分、兵庫だったのだ。ずっと半分、京都人だと思っていたのだけれど。丹波の笹山が京都だと思っていたのだった。55歳まで。

こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』のゲラチェックばかりで、本が読めていない。きょうは寝るまえに、なにか読もう。ぼくは詩をつくるために生まれてきたんじゃなくて、人生を楽しむために生まれてきたのだ。人間との出合いが、いちばん楽しいけれど、読書は2番目に楽しい。あ、2番目は、お酒かも、笑。

チューブでよい曲を聴くために Swings の曲をクリックしたら、いきなり不愉快なCMが出てきて、ああ、人生もそうだけど、ほんと、しょうがないなと思った。

きょう、夜の10時ころに日知庵に行くときに、河原町を歩いてた女の子が、隣の女の子に、「ちゅーしたい〜。」というと、「してもいいよ〜。」と言って、道端で歩きながら、ちゅーしてたのだけれど、20代前半の学生かな、OLかな。わからへんけど、めっちゃいいものを見たような気がした。得々〜。


二〇一六年八月二十四日 「図書館の掟。ゲラチェック終了。」


ブレッズプラスで、こんど思潮社から出る『図書館の掟。』のゲラチェックをすまして、いま郵便局から思潮社の編集長の〓木真丈さん宛にお送りした。あさってに到着する予定だ。で、部屋に戻ると、さっそく、書肆ブンの大谷良太くんから、こんど復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラが。ゲラチェックの地獄はつづくのである。ワード原稿でゲラがきたので、ぼくがプリントアウトしなければならない。これからA4のコピー紙を買いに行こう。

これから書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』の電子データをプリントアウトする。240ページである。まあ、ぼくの詩集では、短いほうである。ぼくの詩集は300ページがあたりまえのようになっている。もちろん、この先に出る予定のものはみな300ページ超えてるのだ、呪。

バッジーを聴きながらプリントアウトをしている。


二〇一六年八月二十五日 「きょうも、ゲラチェック終了。」


書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』のゲラチェックをしたものを、いま郵便局から、大谷良太くんに送った。これで、しばらくは、といっても、数週間から1か月くらいは再校のゲラチェックはこないはずだ。ふう。ようやく、9月に文学極道に投稿する作品に取り組むことができる。

ぼくの『全行引用による自伝詩。』を詩集にするときには、女性の知り合いに表紙になってもらおうかなと思っている。同じタイトルで何冊も出すと思うけれど、すべての詩集において違う女性に表紙になってもらおうかなと思う。「自伝」に他人のしかも異性の画像を使うのは、世界でも、ぼくくらいだろう。

こんど思潮社オンデマンドから出る『図書館の掟。』の表紙デザインができあがって、送っていただいたのだけれど、ぼくの詩集のなかでも、もっともポップで大胆なものになっていると思う。ぼくのつぎのつぎのつぎの詩集はまだ表紙を決めていないけれど、人間の顔がいちばん興味深い。

そだ。こんど書肆ブンから復刊する『みんな、きみのことが好きだった。』も320ページをこえていたのだった。ゲラは240枚で済んだのだけれど。


二〇一六年八月二十六日 「ネギは、滅びればいい。」


いま日知庵から帰ってきた。きょうも、来られた方と楽しくお話しできたし、おいしいお酒も飲めて、うれしい。ネギは、滅びればいいと思っているけれども。


二〇一六年八月二十七日 「あれはゲラじゃなくって、」


イーオンで中華弁当を、セブイレで麦茶を買ってきた。きのう、新しい『全行引用による自伝詩。』の引用をだいたい決めた。きょう、塾にいくまえに完璧に選んでおくつもりだ。打ち込みが地獄になるほどの引用量なのだが、いつものことだ。がんばる。

ブレッズプラスでルーズリーフを眺めていたら、8月に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』に、ぜひ追加したいものがあったので、これから投稿した作品を書き改めようと思う。きょうは、そのあと、髭を剃って、頭の毛を刈って、お風呂に入って塾に行こう。

物がいつ物でなくなるのだろうか?(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘイゲン『コイルズ』14、岡部弘之訳)

けっきょく、ワードいじってたら、こんな時間に。ヒゲを剃ったり、頭の毛を刈ったりできなかった。しかも、ワード直しが不完全に終わらせなければならなかったし。これからお風呂に。それから塾に。

いま日知庵から帰った。帰ってFB見たら、元アイドルの方から友だち承認がきてて、びっくり。ぼくとアイドルのつながりなんて、まえに付き合ってた青年が作曲家で、アイドルの曲をつくってたくらいだから、なんでかなと、はて〜。でも、もちろん、承認した。なんのつながりなんだろう。おもしろ〜い。

その方のページにとんで、お顔を見たら、おかわいいので、二度目のびっくり。なんのつながりかは、まったく不明。でも、天然のかわいらしさをそなえてらっしゃる方みたいで、よかった。人間の世界って、おもしろいね。どこで、どうつながるのか、まったくわからない。

きょう、大谷良太くんに、「ゲラ直し、届いた?」って訊くと、「届きましたよ。でも、あれはゲラじゃなくて、まだワード原稿の段階ですよ。」と言われて、なるほどと思った。そっか。ゲラは、出来上がりまえのものを言うんだね。というところで、詩集を出して20年以上になるが、まだ知識不足だった。

あしたはビアガーデンだ。あしたで夏休みが終わった感じがある。月曜から、文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』のワード原稿の打ち込みをする。膨大な量なので、何年かかるかわからないけれど、やることにした。1000枚以上のルーズリーフ、100分の1は打ち込みたい。


二〇一六年八月二十八日 「天罰」


もうちょっとで持ってるCDを買うところだった。デヴィッド・ボウイ、けっこう揃えていたのだ。ひさしぶりに、『Station To Station』が聴きたくなって。アルバム的には、『ダイヤモンドの犬』がいちばん好きかな。やっぱ、プログレ系になってしまう。

いま、Hyukoh のCDを買った。15000円だった。2014年の秋に出た新品を保管していたものらしい。もうしばらくCDは買わないでおこう。2BICのも、さっき2枚買った。ああ、amazon なんかなければいいのに〜。あ、そしたら自分の詩集も売れないか、笑。うううん。

Hyukoh のCDは、しょっちゅうチェックしていたから買えたのだけれど。届いたって、どうせ数日で飽きちゃうんだろうな。部屋にあるCDの棚を見て、ふと、そう思った。まあ、いいか。

Hykoh もう1枚、CDを出してたみたいで、そちらも買った。それも15000円した。もうね、ファンだからね。仕方ないよね。ぼくはね、もうね、バカだからね〜、ああ、amazon なんかなくなればいいのに。いや、なくなったら、さっきも書いたけど、自分の詩集が売れない。ふにゃ〜。

Hyukoh さいしょに買ったのはアルバムで、つぎに買ったのは、アルバムに先だって発売されたEPらしくって、2曲ダブルらしい。まあ、いいけどね。CD、4枚で、合計 33600円以上もした。まあ、本だって、過去に、1冊 50000円くらいの買っちゃったことがあるけどね。ううん。

でも、まあ、いいや。欲しかったものだから。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

あ、さいしょに買ったのが、アルバムだったけど、それは2015年に出たものらしい。あとで買ったのが EPで、2014年に出たものらしい。ぼくのツイート、5つか、6つまえの情報が間違ってた。まあ、2つとも手に入ったから、いいんだけどね。あ、クスリのまなきゃ。二度目のおやすみ。

あ、ぼくの出身中学の弥栄中学が廃校になってたことを、きょう知った。よい思い出は、悪い思い出よりはるかに少ないけど、というのは、運動のできないデブだったからで、めっちゃいじめられっ子だったから、殴られたり蹴られたりばかりしていた思い出があって、ああ、でも、廃校か。ちょっとさびしい。

高校に入って柔道部に入ったけど、中学では理科部だった。高校に入ってから身長が伸びたけど、中学では前から数えたほうがはやかったくらいの身長だった。で、デブだったので、いじめっ子たちの標的だったのだ。思いっきり空中両足蹴りをされたことがある。ぼくがサッカーで動きがすごく鈍かったとき。

神さまは、みんな、ごらんになっておられるので、連中には天罰がくだってると思うけれど、ぼく自体は、彼らに天罰がくだることは願っていない。天罰がくだるのは神さまが設定された宇宙の摂理であたりまえのことだからである。

2年まえに、ぼくにLGBT差別したアメリカ人の男が、昨年、アメリカに帰って心筋梗塞で亡くなった。まあ、こういう天罰なんかじゃないのかな。神さまは、みんなごらんになっておられるのだ。おもしろいことに、この男自体がゲイだったのだ。ぼくはオープンリーのゲイだから、差別したのだろうけど。

いま、きみや主催のビアガーデンから帰ってきた。おなかいっぱい。じつはビアガーデンに行くまえに、森崎さんとごいっしょに、アイリッシュ・バーで、ビールを飲んでいた。どんだけヒマジンやねん、という感じ。

あしたから、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』をワードに打ち込んでいくけど、きょうのうちに、打ち込む順番を決めておこう。けっきょく、語の選択と配列しかないのだ。言語表現には。

ネットで曲数とか調べたら、きのう買った Hyokuoh のCD、2枚ともEPみたいで、どちらも、6曲ずつの収録作らしい。到着したら、正確にわかるけれど、まだ到着していないので、ネットでの情報だけだから、わからないけれど。

基本的には、天才的な書き手のものしか引用していないので、ルーズリーフを並べ直しているだけで、脳機能が励起されているような気がする。日本人の詩人や作家の文章では脳機能が励起されないのは、単なるぼくの好みだけではないようなものがあるような気がする。ぼく自体が日本人的ではないのかもね。


二〇一六年八月二十九日 「こころのない子ども。こころのない親。」


こころのない子ども。こころのない親。こころのない教師。こころのない生徒。こころのない医師。こころのない患者。こころのない上司。こころのない部下。こころのない男の子。こころのない女の子。こころのない男の子でもあり女の子でもある子。こころのない男の子でもなく女の子でもない子。楽な世界かもしれない。こころがあると面倒だものね。でも、面倒だから、ひとは工夫する。こころがあると痛いものね。でも、痛いから、痛さから逃れる工夫をする。こころがあると、こころが折れる。でも、こころが折れるから、折れたこころを癒してくれるものを求めるのだ。

もう順番を決めた。あとは打ち込むだけ。この打ち込み予定のペースだと、『全行引用による自伝詩。』の文学極道の詩投稿欄への投稿には、確実に10年以上はかかりそう。まあ、いいや。

Fくんのツイートを見て、自分もカップ麺が食べたくなったのだけれど、やめておこう。寝るまえの読書は、なし。ルーズリーフを眺めながら、よりよい順番になるかどうか考えながら寝よう。おやすみ、グッジョブ!

あかん。欲望には忠実なぼくやった。これからセブイレに行って、カップ麺を買ってきて食べようっと。まだクスリのんでなくて、よかった。

大盛の天ぷらそばを食べた。

FB見てたら、ある詩人が「えらくなって自作解説したい」と書いていて、びっくりした。詩人って「えらくなる」ことのできるものなのかしら? ぼくなら、ぜったい、えらくなりたくないけどなあ。そんなん思うてるひと、詩人とちゃうやん。と思ってしまった。こわいなあ。詩でえらくなるという考え方。

詩なんて、ただの言葉遊びで、せいぜい、ものごとを見るときのフィルターになるくらいで、詩を書いたからって、それで、えらくなったり、逆に、えらくならなかったりするものなんかじゃないと思うんだけどなあ。ぼくと同じくらいの齢の詩人だったけど、ほんと、しょうもないひとやなあと思った。

ぼくの詩歴について嘘っぱちを書いてる者が、「ネット詩の歴史」というタイトルのHPをつくっている。調べもせずに、間違った知識で書いていたのだ。こんな者の書いた「ネット詩の歴史」なんてHPには嘘がいっぱいなんじゃないか。嘘をばらまくなよ。間違った知識というか、思い込みかな。しかし、調べもせずに、ひとの詩歴をでっちあげるっていうのは、どういう神経しているのだろう。そして、それをネット上の詩投稿掲示板に書き込んでいたのだ。だれでも見れるところに嘘を書き込む神経って、なに?


二〇一六年八月三十日 「きょうはずっと雨だった。」


きょうはずっと雨だった。塾が休みなので、部屋にいた。外に出たのは、コンビニに2回行ったくらいかな。きょうは酒も飲まず、タバコも吸わず、禁欲的な一日だった。ワードの打ち込みがA4で5ページというのが、ちょっとくやしいけれど。きょうは、はやく寝れるかな。クスリのんで寝よう。おやすみ。

けさ、4枚のCDが到着した。2枚で30000円した Hyukoh のもののほうは大したことがなかった。あとの1600円ほどのと2000円ほどの 2 BiC のもののほうがよい。まあ、たいてい、そんなもの。

うわ〜。2BiC の Unforgettable を聴いてたら、涙が出てきちゃったよ〜。You are unforgettable to me. というのだ。ぼくにも、そういう子がいたのだと思うと、涙が出てきちゃった〜。

きょうも朝から、ワードA4に5ページ、打ち込んだので、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みは、きょうは、これでやめて、ちょっと休憩しよう。6時半にお風呂に入ったら、塾へ行こう。

いま日知庵から帰ってきた。きょうもヨッパ〜。かなり、ベロンベロンである。服を着替えて、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!

それにしても、夏休みは、毎日が日知庵帰りだったなあ。


二〇一六年八月三十一日 「嘔吐、愛してるよ。」


サルトルの『嘔吐』とは認識の嘔吐だと思っていたが、もしかしたら、自己嫌悪の嘔吐かもしれない。

愛してるよ。愛されていないのは知ってるけど。ブヒッ。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



真実の芸術は偽りの名誉を超越している。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

Verba volant, scripta manent. (言葉は消え、書けるものは残る)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

ボールがばあやの箪笥の
下に転がり込み、床では蝋燭が
影の端をつかみ、あちこちへ
引っ張りまわす でもボールはない。
それから曲がった火かき棒が
うろついてがちゃがちゃやっても
ボタンを一つ、それから乾パンのかけらを
たたき出しただけ。
ところがそのときボールはひとりでに
奮える闇の中に飛び出して
部屋を横切り、まっしぐら
難攻不落の長椅子の下に。
(ナボコフ『賜物』第1章、沼野充義訳)

 彼は、その態度や高価な衣服からみて上流階級と思われる背の高い美男子がアーヴァに近づくのを見た。彼女はにっこり笑って立ちあがり、彼を小屋に連れこんだ。
 その笑いがいけなかったのだ。
 彼女は、それまでに、自分のところにきた男に笑いを見せたことはなかった。その顔は、大理石の彫刻のように無表情だったのである。いま、この笑いを見たサーヴァントは、何かが体の中にこみあげてくるのを感じた。それは下腹から拡がって胸を駆けあがり、喉に噴きだして息を詰まらせた。それは頭の中に充満して爆発した。彼は眼の前が真暗になり、(…)
(フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳)

一番興味のあることを見落していた。
われわれは毎日死ぬのだということを。忘却がはびこるのは
乾いた大腿骨の上ではなく血のしたたる生においてなのだ、
そして最高の過去もいまや皺くちゃになった名簿や、
電話番号や黄色に変色したファイルなどの薄汚れた積重ねだということを。
わたしは小さな花や肥った蠅に
喜んで生まれかわってもいいが、だが決して、忘れることはできない。
私はこの世の生活の
憂鬱(メランコリー)や優しさ
のほかは永遠性を退けてやるつもりだ。情熱と苦痛。
宵の明星の向うにだんだん小さくなってゆくあの飛行機の
濃い赤紫色の尾灯。煙草を切らしたときの
きみの動揺の身振り。きみが
犬に微笑みかけるときの仕草。銀白色のぬるぬるした
かたつむりが板石の上に残す跡。この良質のインク、この脚韻(ライム)、
この索引カード、落すといつも、
&の形(アンパーサンド)になる この細長いゴムバンド、
それらが天国で新たな死者によって見出され
その砦のなかに長い歳月たくわえられるのだ。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

スヴェンのいうとおりだった。シルヴァニアンはビーズつなぎに苦心する必要があった。彼は手仕事をしている間は、考える必要はなかったのだ。彼の手が、彼の代りに考えるのである。彼が手ぶらで考えなくてはならないような時は、問題はもう解けたと感じている時だった。
(フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』29、藤井かよ訳)

彼の異常な活発さは、始まったときと同じ唐突さで消えてしまったようだった。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』4・1、中村保男訳)

 わたしは思わず息を呑み、その拍子にアメリアの長い髪の毛を何本か吸いこんでしまったことに気づいた。途方もなく気を散らせるこの時間旅行の最中でも、わたしは、このようにこっそりと彼女との親密さを味わう瞬間を見つけていたのである。
(クリストファー・プリースト『スペース・マシン』5・4、中村保男訳)

 やれやれ、なんという言葉を知らん男だ、オウム以下ときてやがる。あれでも、女の生んだ子供だというのか!
(シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第二幕・第四場、中野好夫訳)

 目の前に広がる光景を見たおふくろの目は、このおれの目だ。おふくろの目で、おれがまわりを見ているからだ。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

あらゆるものが何かを待っているようだった。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

ロジャーの目をとおして、われわれはかれが見たものを見た。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上巻・第一部・9、酒井昭伸訳)

ここにあるのはなんだい?
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

 うつらうつらしだしたところで、はっと起きあがった。「なんてことだ、山羊を数えるみたいに聖人たちを数えてしまったぞ(…)」
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

 そしてきょうも、あのときのように、ドアの上にぶら下がる黒いリボンを見た。しかしあのとき内心思ったことは今度は浮かんでこなかった。
(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳)

それで、きみはいつまでそこにすわっているつもりだい?
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

 物という物がいっせいに輝き出し、虹の光彩が、鏡や、ドアの把手や、ニッケル製のパイプの中でさんぜんときらめいた。まるで光が、途中で出会うすべての物体を叩いて、その狭い牢獄を打ちこわし、その中に閉じ込められている何かを解放しようとでもしているようであった。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』7、飯田規和訳)

 いまにして思えば、この、すべてのものが不安定で、一時的なものにすぎないという漠然とした印象や、戦慄の事件が迫っているという予感は現実そのものがつくり出していたような気がする。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

「見るというのは明瞭に認識することだけど、憶えているというのは……もっとべつのものなのよ」
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』上巻・第一部・4、酒井昭伸訳)

記憶というものも、その不完全さということがやはり天の恵みなのだ。
(ウィル・ワーシントン『プレニチュード』井上一夫訳)

いかに記憶し、いかに思考過程をはじめるか
(ブライアン・W・オールディス『率直(フランク)にいこう』井上一夫訳)

 ヴェテラン夢想家が夢想にふけるばあいには、時代おくれのテレビや映画みたいにストーリーを夢みるのではありません。小さなイメージの連続なのです。しかも、それぞれのイメージがいくつかの意味をもっている。注意深く分析してみると、五重、六重もの意味をもっていることがわかります。
(アイザック・アシモフ『緑夢業』吉田誠一訳)

 その子にとっては、雲はただ単に雲であるばかりでなく枕でもあるのです。その両方の感覚を合わせ持ったものは、ただの雲よりも、ただの枕よりも、すぐれたものなのです。
(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』5、飯田規和訳)

 人生における救いとは、一つ一つのものを徹底的に見きわめ、それ自体なんであるか、その素材はなにか、その原因はなにか、を検討するにある。心の底から正しいことをなし、真実を語るにある。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第十二巻・二九、神谷美恵子訳)

時間は継続を意味し、継続は変化を意味する。
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

誤植に基づいた──永遠の生とは?
(ナボコフ『青白い炎』詩章第三篇、富士川義之訳)

 一九五九年の春じゅう、頻繁に、ほとんど毎夜、わたしは自分の生命がいまにも奪われるのではないかとおびえていた。孤独は悪魔(サタン)の遊び場である。
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

生は大いなる不意打ちだよ。死がなぜさらに大いなる不意打ちではないのか、
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

実際知恵それ自体よりも愉快なものがあろうか。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第五巻・九、神谷美恵子訳)

蜂巣にとって有益でないことは蜜蜂にとっても有益ではない。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第六巻・五四、神谷美恵子訳)

 万物はいかにして互いに変化し合うか。これを観察する方法を自分のものにし、絶えざる注意をもってこの分野における習練を積むがよい。実にこれほど精神を偉大にするものはないのである。このような人は肉体を脱ぎ棄ててしまう。しかして間もなくあらゆるものを離れて人間の間から去って行かねばならないことを思うから、自分の行動については正義にまったく身を委ね、その他自分の身に起ってくる事柄については宇宙の自然に身を委ねる。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第十巻・一一、神谷美恵子訳)

(…)しかし、しばらくのあいだ、大部分の航空兵にたいしていだいていた気持は、偽りの気持になった。ぼくは彼らを新しい眼で見るようになった。ぼくは彼らが好きなのかどうか、わからなかった。彼らとぼくでは、人間が違っていた。彼らは自信に満ちていたが、ぼくは贋(にせ)ものだった。ぼくは、自分が忘れてしまっていたものに近かった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第一部・6、山西英一訳)

あなたはあたしが最初に思ったふうじゃないのね
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

彼女は、自分で停めたくなったときに停めるのだ。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

ある意味では、ぼくにとって彼女は、今夜以前は存在していなかった。
(ノーマン・メイラー『鹿の園』第二部・9、山西英一訳)

すべてを理解せずに、その一部だけを理解するなんてことはできない。自然は……すべてなの。何もかもが入り混じってる。わたしたちもその一部で、ここにいることで、理解しようとすることで自然を変化させてる……
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』II、嶋田洋一訳)

(…)「──あるものの一部だけを知るのは、あの絵をばらばらに引き裂くようなものだということなの。あの、火曜日に話してくれた女の人の絵……」
「モナ・リザ」
「そう。つまりそれはモナ・リザをばらばらにしてみんなに配って、それで絵を理解したって言ってるようなものなの」
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』II、嶋田洋一訳)

思い描ける場所は、訪れることができるの
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)

視線の鋭さにわたしは恐怖を感じたが、それが彼女に対するものか自分自身に対するものか、よくわからなかった。
(ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳)

「話してくれ」ぼくは翻訳機械を使って、老人に話しかけた。「あなたがたに、こんな考えが最初に浮かんだとき、というか、アイディアのほうであなたがたの頭にはいりこんできたとき、あなたがたはうれしかったんですか?」
(ブライアン・オールディス『未来』井上一夫訳)

 言語というものは、あらゆる文化にとって、最も本質的生産物だよ。その文化がわかるまでは、言語を理解することは不可能だ。ところが、言語がわからないで、どうやってその文化を理解できる?
(ブライアン・オールディス『未来』井上一夫訳)

(…)なぜ、そこで手を止めるか、自分ではわかっている。たとえ、なぜ手を止めたか、わからないようなふりをしようとも。あの昔ながらのうじ虫のような良心というやつだ。野球の一投のように長生きした亀のようにしぶといやつがうごめいているのだ。あらゆる感覚をとおして、おーいイギリス人みたいな猟の名人、こいつはカモだぞという。知性をとおして、空に漂い餌にありついたことのない鷹のような倦怠が、この仕事がすめばまた襲ってくるぞとささやく。神経をとおしては、アドレナリンの流れが止んで、吐き気がはじまるのを嘲笑してくる。網膜の奥の名匠は、自分を含めた光景の美しさを言葉巧みに押しつけてくる。
(ブライアン・オールディス『哀れ小さき戦士!』井上一夫訳)

決定のあり様は、また一般に思考の形式は、決定あるいは思考それ自体なのであって、それは正しい問題の立て方がその解決に等しいのと同じことであり、したがってその効用も一時的あるいは体系的にしか、つまり混沌とした前段階的局面としてのみ、形式から切り放して考えることはできないものなのだ。ということはまた、前提がいっそう重要なものとなるということだ。いや、これが唯一重要なんだ……
(トルマーゾ・ランドルフィ『ころころ』米川良夫訳)

 我々の内部にあるものは、やはりつねに我々の外側にもあるんだ。つまり、慌てるな、我々が何らかの関係を結ぶことができたものは我々の内部にあると、こう言おう。しかし関係がすべてではない、一つの関係はそのような他の事物の存在を否定したり、あるいはそれにとって替わったりするどころか、それらの存在することを肯定するのだ。関係は自己充足的ではない。
(トルマーゾ・ランドルフィ『ころころ』米川良夫訳)

どんな秘密も、そこへ至る道ほどの値うちはないのですよ。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十二章、園田みどり訳)

まるで存在しなかったかのように
過ぎ去るのは、
記憶に留められないもの
だけに限るのかもしれない。
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二十四章、園田みどり訳)

 宋人の茶に対する理想は唐人とは異なっていた、ちょうどその人生観が違っていたように。宋人は、先祖が象徴をもって表わそうとした事を写実的に表わそうと努めた。新儒教の心には、宇宙の法則はこの現象世界には映らなかったが、この現象世界がすなわち宇宙の法則そのものであった。永劫(えいごう)はこれただ瞬時──涅(ね)槃(はん)はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考えが彼らのあらゆる考え方にしみ込んでいた。興味あるところはその過程にあって行為ではなかった。真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。
(岡倉覚三『茶の本』第二章、村岡 博訳)

 茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てである。
(岡倉覚三『茶の本』第一章、村岡 博訳)

この世のすべてのよい物と同じく、茶の普及もまた反対にあった。
(岡倉覚三『茶の本』第一章、村岡 博訳)

 ひので貝は美しくて、壊れやすく、はかない。しかし、だからこそ、それは幻影ではない。いつまでも在るものではないからといって、一足飛びに、それが幻影であるなどと思ってはならない。姿かたちが変わらないからといって、それが本物かどうかの証拠になるわけではないのだ。蜻蛉(かげろう)の一日や、ある種の蛾(が)の一夜は、一生のうち、きわめて短いあいだしか続かない。しかしだからといって、その一日、一夜を無意味だとする理由にはならない。意味があるかどうかは、時間や永続性とは関係がない。それはもっと違う平面で、違う尺度によって判断すべきである。
 それは、いま、この時の、この空間での、いまという瞬間に繋がるものであり、「現在在るものは、この時、この場所でのこの瞬間にしか存在しない」のである
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈り物』ひので貝、落合恵子訳)

 だんだんわたしは選ぶことを覚え、完全なものだけをそばに置いておくようになった。珍しい貝でなくてもいいのだが、形が完全に保存されているものを残し、それを海の島に似せて、少しずつ距離をとって丸く並べた。なぜなら、周りに空間があってこそ、美しさは生きるのだから。出来事や対象物、人間もまた、少し距離をとってみてはじめて意味を持つものであり、美しくあるのだから。
 一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈り物』ほんの少しの貝、落合恵子訳)

 ところでいま私にとって明々白々となったことは、次のことです。すなわち、未来もなく過去もない。厳密な意味では、過去、現在、未来という三つの時があるともいえない。おそらく、厳密にはこういうべきであろう。
「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」
 じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。もしこういうことがゆるされるならば、たしかに私は三つの時を見すまし、それどころか、「三つの時がある」ということを承認いたします。
 それでもなお、不正確ないいならわしによって、「三つの時がある。それは、過去と現在と未来だ」といいたい人があるならば、いわせておくがよい。私は気にしないし、反対もしないし、非難もしない。ただし、そこにいわれていることの意味をよく理解していなければならない。未来であるものがすでにあるとか、過去となったものがまだあるなどと思ってはならない。私たちが正確なことばで語ることは、まれである。多くの場合、不正確な表現を用いている。それでもいわんとすることは通じるのです。
(アウグスティヌス『告白』第十一巻・第二十章・二六、山田 晶訳)

いったい時間とはなんでしょう?
(R・A・ラファティ『秘密の鰐について』浅倉久志訳)

 時間とは何だろう。子どもが時間を経験するとき、それは何の意味も持っていない。子どもは舞台裏で何が進行しているかなど、ほとんど、あるいはまったくわからない。だから何かが起きたときには、それが突然起きたようにしか思えない。もしきみがまだ幼すぎて、灰色の雲がやがて降る雨を意味することを知らなければ、まだ経験が浅すぎて、きみに向かってやってくる犬が、きみが逃げるよりも速く走れるのだということを知らなければ、この世はどれほど異様なところに見えるだろう。それをきみも想像してみてほしい。大人は急ブレーキを踏まねばならない事態に遭遇したとき、腹を立てるし、天気予報がいい加減だったというだけで、不機嫌になることがある。
 子どもの立場に立ってみれば、人生とはつねに猛スピードで過ぎてゆくか、じれったいほどのろのろと過ぎてゆくかのどちらかなのだ。とっておきのアイデアがひらめくのは夜寝るときだし、サーカスはあまりにもはやく終わってしまう。サヤインゲンはいくら食べてもなくならない。漫画は風刺に満ちた誇張ではなく、ごく当たり前の日常描写にすぎない。子どもは突然、壁に衝突することもあるだろう。距離とスピードの関係を正しく測ることができないからだ。
 漫画の中では人間が崖から落ちる。
 子どもは床の上で、毛布にからまって目をさます。ベッドから落ちてしまったのだ──どんなふうに落ちたかなどわかるはずがない。
(アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジュディ・9、亀井よし子訳)

 現在は、われわれがそれを自らの前に残した時、再び未来となる。わたしは確かにそれを残し、わたし自身の時代にはほとんど神話でしかなかった過去の深淵に身をひそめて、待ったのである。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』38、岡部宏之訳)

これまでに生きた者は一人残らず、まだ時の何処かで生きている。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』39、岡部宏之訳)

 過去において永遠に根ざしていないものは、未来においても永遠ではありえないのである。そして、彼の喜びと悲しみを熟考すると、自分はもっとずっと小さいものではあるが、彼とそっくりだと思い当たった。おそらく、牧草が杉の巨木について考えるように、あるいは、これらの無数の水滴の一つが、〈大洋〉に思いを馳せるように。
(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』45、岡部宏之訳)

かれを生きたまま食べようとしたりはしないわ。かれがそれを望まないかぎり
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

これがぼくにとってどれほど大きな意味があることか、きみにわかるかい?
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

 時間などは存在しないんだ。空間も存在しない。かつて存在したものは、現在も存在し、これからも永久に存在するんだ。おまえはおまえで、自分自身とチェスをし、またもおまえは自分に王手をかけてしまったんだ。おまえはレフェリーなんだ。道徳は、おまえ自身の規則に従って行動するための、おまえ自身との約束だ。おのれ自身にまことであれ、だ。さもないと、おまえはゲームを台無しにするぞ
(ロバート・A・ハインライン『愛に時間を』3、矢野 徹訳)

口先だけの言葉だからこそ、忘れられませんよ、と彼は心の中でつけ加えた。
(ロバート・シルヴァーバーグ『生命への回帰』13、滝沢久子訳)

「人生ではね、最大の苦しみをもたらすものは、ごくちっぽけなものであることが多いの」
(ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』上巻・第一部・10、酒井昭伸訳)

(…)わたしは見ていた。見ながら、すべてに形と意味をあたえていた。
(グレッグ・ベア『火星転移』下巻・第四部、小野田和子訳)

きみはいまなんという名?
(コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳)

それが嘘でないとどうしてわかる?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』3、宇佐川晶子訳)

どうして、ぼくが嘘をつくんだい?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『果しなき河よ我を誘え』4、岡部宏之訳)

あなたがあたしに嘘をついてるのが今日わかったわ
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

あらゆる可能性を想定する想像力を持つ者は、だれでもパラノイア患者さ
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』10、宇佐川晶子訳)

この男を読みちがえていたのだろうか?
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』5、宇佐川晶子訳)

ゴォーン! 一万の青銅の銅鑼がいちどきにたたかれて一つの音に凝縮した。高台の家々の庭で、谷間の都市で、カラファラ人たちは一家の銅鑼を鳴らして太陽との別れを知らせる。一つにとけあうその音は青銅の鳥のように舞いあがって、その翼の羽音がホテルを揺さぶり、窓々をふるわせた。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』4、宇佐川晶子訳)

その向こうにはわかりやすい情景がまた一つ。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』3、宇佐川晶子訳)

嘘にはそれなりの美しさがある。それなりの生命と整合性がある。
(リチャード・コールダー『デッドガールズ』第四章、増田まもる訳)

 こわくない、とラムスタンは自分に言い聞かせていたが、それは自分への嘘、あらゆる嘘の中で一番簡単な嘘だった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』28、宇佐川晶子訳)

 窓の外をながめているうちに、ぼくはフッとおかしなことを考えた。
 この瞬間は、このときかぎりのものであるが、しかし永遠にここにありつづける、というようなことを考えたのだ。──ぼくたちは錯覚しているのだが、時間は決して過ぎ去っていくものではない。どんな短い瞬間にしても、永遠の一部であることに変わりはなく、そして永遠という言葉が不滅を意味しているのであれば、瞬間もまた消滅してしまうはずがないではないか。
 そんなことを考えたのである。
 時間はつねにそこにありつづける。うつろい、変化していくのは、時間ではなく、ちっぽけな生き物であるぼくたちのほうなのだ、と……
 今、この瞬間、ぼくが眼にしている夏の光、耳にしているセミの鳴き声は、永遠にここにとどまる。そして、ぼくだけが老いていき、死んでいくのだ。
(山田正紀『チョウたちの時間』プロローグ)

神とことばを交わすことができるのは、神と同じ、異端者、アウトサイダー、そして異邦人ということになるだろう。これが地獄の驚異だ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 巧妙な芸術家というのは、大変なはったり屋で、いつも先回りをし、自分の負けを絶対に認めない。理性が狂ってしまったことも知らずに、それをエロティシズムだとか、武勲の誉れだとか、国家の要請だとか、永遠の救済だとか言ってごまかしている。そして狂人たちは喜んで協力もするのだが、自分たちを気づかってくれる人間に狂気をちょっと分け与えておけば、思いどおりにできることをちゃんと知っているからだ。いいかい、すべて問題は、人生の幻想を持ち続けるために、理性という幻想を持ち続けることにある。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 作家が書くことができるものは、ただ一つ、書く瞬間に自分の感覚の前にあるものだけだ…… 私は記録する機械だ…… 私は「ストーリー」や「プロット」や「連続性」などを押しつけようとは思わない…… 水中測音装置を使って、精神作用のある分野の直接記録をとる私の機能は限定されたものかもしれない…… 私は芸人ではないのだ……
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

 言葉というものは全部で一個のまとまったものになるいくつかの構成単位に分れているし、そう考えるべきものだ。しかし個々の単位は興味深い性の配列のように、前後左右どんな順序に結びつけることもできるものである。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』委縮した序文、鮎川信夫訳)

 言葉というのは一つひとつが、何か実体のないうつろいゆくもの、事物や思想を固定化したものにほかならない。発話された言葉を定着させるという必要性に迫られて、何世代にもわたる精神が選別と形象化を繰り返してきた末に、ようやく今の形になったものだ。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・20、嶋田洋一訳)

 ある時期にわれわれは言葉というものを獲得し、それとともに向こうの世界から隔離されてしまった。世界を直接に理解するのではなく、思考が体験を媒介するようになったのだ──観察するのをやめてみれば、自分が思索の対象と切り離されていることはすぐにわかる。
(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・21、嶋田洋一訳)

 法廷は内部に静止した黒い人影を吊るしたガラスの球のように、微動だにしなかった。その静寂は空虚ではなく、音楽の休止のように豊かで芳(ほう)醇(じゅん)だった。それは巨人の足どりにおける休止であり、一歩ごとに人間は蹂(じゅう)躙(りん)され無力化した。裁判長も、廷吏も、傍聴者も、みなショックを受けて無力な状態にあり、目を大きく見ひらいて激しく喘(あえ)いでいた。(…)
(ゾーナ・ゲイル『婚礼の池』永井 淳訳)

 二月の中旬でも、天候が彼の遅すぎた決心を受け入れて、明るい青空の日々が続いた。まったく季節外れの陽気で、それを真に受けた木々が早々と開花したほどである。彼はもう一度トプカピ宮殿を見てまわり、青磁器や、金でできた嗅ぎ煙草入れや、真珠で刺繍した枕や、スルタンの肖像を描いた彩画や、預言者マホメットの化石になった足跡や、イズニック・タイルや、その他もろもろに、敬意に満ちた、わけへだてのない、不思議そうなまなざしを送った。そこで、山のようにうず高く、眼前に広がっているのは、美だった。商品に値札を付けようとする店員みたいに、彼はこの大好きな言葉をこうしたさまざまな骨董品に仮に付けてみてから、一、二歩退いて、それがどの程度ぴったり「マッチ」しているか眺めてみた。これは美しいか? あれは?
(トマス・M・ディッシュ『アジアの岸部』IV、若島 正訳)

眼よ、くまなく視線を走らせよ、そしてよく見るのだ。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 過酷な逆説だが、あらゆるものを表現し、あらゆるものに意味を与えようとすれば、結局それは、あらゆるものから意味を剥奪することになり、文学という冷たい、人為的な方法によって、あらゆるものを表現するのは不可能だということを知らされる破目になるのだ。それに気がついたのはいつだったか? レストランの主人夫婦に浜辺から追い立てられた、痩せて、貧しい、無花果売りの女の、あの下品さそのものであろうか? ぼくの視線を捉えようとするその女の眼を見るのをぼくが拒否したこと、その女と、女が抱えている問題がぼくの思考の中に入り込み、ぼくがあの島に求めていた平穏が乱されるのを拒否したことであろうか? (…)
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 だがおれは電話をしなかった。他人の人生を少しだけましなものにできる、ほんのちょっとしたこと。あのときもそれをしなかった。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第一部・5、嶋田洋一訳)

 おれは待ちつづけた。煙を吸い込んでは吐き出し、今聞こえる悲鳴の中に、かつて耳にしたたくさんの悲鳴の残響を聞きながら。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・12、嶋田洋一訳)

それは別の場所に存在する、別の森の木々だった。
(マイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』第二部・13、嶋田洋一訳)

しかしそれを見たとき、だれが森だと思うだろう。
(ノサック『滅亡』神品芳夫訳)

 ぼくの最も深い感情は、あまりにも長いこと自分で知らずにきたので、今それに触れてもまるで他人のものみたいだった。次第に腹が立ってきた。
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘーゲン『コイルズ』3、岡部宏之訳)

別の人間になるというのはどうかな?
(ロジャー・ゼラズニイ&フレッド・セイバーヘーゲン『コイルズ』14、岡部宏之訳)

だれでもみんな自分とは別のものでありたいと願ってるんだから
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

別の自分になることだけだ。
(グレッグ・イーガン『宇宙消失』第二部・7、山岸 真訳)

なぜ、この一日をわたしと過ごしたのか
(ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』1、浅倉久志訳)

今夜わたしたちがこうして出会ったのは、ただの偶然ではないはず。
(ロジャー・ゼラズニイ『キャメロット最後の守護者』浅倉久志訳)

(…)乾いた噴水 からっぽの広場 風の中の銀色の紙 遠い町のすりへった音……なにもかもが灰色でぼやけ……頭がちゃんと働かない……むこうでハリーとビルの物語をしているきみはだれだ?……広場がカチッと焦点をとりもどした。わたしの頭の中のもやは晴れた。(…)
(W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』おぼえていないときもある、浅倉久志訳)

一度見つけた場所には、いつでも行けるのだった。
(ジェイムズ・ホワイト『クリスマスの反乱』吉田誠一訳)

道は歩きやすかった。とりわけ、けもの道を見ようとせず、足がひとりでに道を見つけるようにすれば。
(テリー・ビッスン『熊が火を発見する』中村 融訳)

 オアは小さく笑った。「ああ、まったくさね。そう、計画はある」
 ベン=アミは大人の話を聞いている子供が感じるような、あるいはその逆の、欲求不満を感じはじめていた。「わかるように話してくれ」
(ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面13、嶋田洋一訳)

 このことを、彼は深い感動をこめていった。わたしは自分の態度の冷たさを責められている思いがした。きっと悪い経験をかさねたため、わたしのなかに冷たさと不信が生じていたにちがいない。わたしも生まれながらのそういう人間ではなかった。だから、わたしは人に対する信頼の念を失うことで、人生においていかに多くのものを失ってしまったことか、また、きびしい警戒心を身につけることで、得るところがいかに少なかったことか、としばしば思ったのである。こういう心理状態が習慣になっていたので、ほんとうに悩みそうな、もっと大きな問題のばあいよりも、こんどの会話のことでわたしは悩んだ。
(チャールズ・ディケンズ『追いつめられて』龍口直太郎訳)

(…)小さな子供のときでさえも、恐ろしいことが四方八方から群がりよって来た。いつも何かわけのわからない暗黒の片隅があり、のぞき知ることのできない暗い恐怖の世界があり、そこから何かがいつも彼のほうをうかがっていた。そのため、彼は見ていてあまり格好のよくないことばかりやってきたのだった。
(ウィラ・キャザー『ポールのばあい』龍口直太郎訳)


詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年九月一日 「断酒」


FBで、しじゅう poke される方がいらっしゃるのだけれど、正直、返事が面倒。すてきな方なので、「poke やめて」と言えないから言わないけど。

9月のさいしょに文学極道に投稿する予定の『全行引用による自伝詩。』かなりよい出来だけど、あまりに長いので、投稿が来週か再来週になりそう。

きょうのワード打ち込みは2ページ半くらいだった。いまの状態で、A4で15ページ。あしたは、フルに休みだから、できたら、あしたじゅうに、新しい『全行引用による自伝詩。』を完成させたい。まあ、無理でも、来週か再来週には完成させて、文学極道の詩投稿掲示板に投稿したいと思っている。

これから王将に行って、それから塾へ。きょうから、しばらく断酒して、通常の生活リズムに戻すつもり。がんばろう。

いま日知庵から帰った。帰りに、いま70円均一セール中のおでんを、5つ、セブイレで買った。お汁大目に入れてよと言うのが恥ずかしかったから、言わなかったら、お汁、ほとんどなくって、ひいたわ。お茶といっしょにいただく。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年九月二日 「天国・地獄百科」


塾から帰ってきて、届いていた郵便物を見ると、『天国・地獄百科』が入っていた。先日、ぼくの全行引用詩に体裁がそっくりと言われて、amazon ですぐに買ったものだったけれど、体裁がまったく違っていた。花緒というお名前のおひとだが、はたして、ぼくに嘘をつく理由がどこにあったのかしら?

あしたには、文学極道の詩投稿掲示板に、新しい『全行引用による自伝詩。』を投稿できるように、一生懸命にワード入力しよう。あしたは一日オフだから、なんとか、あしたじゅうには……。あとルーズリーフ16枚にわたって書き込んだもののなかから選んだものを打ち込めばいいだけ。今夜も寝るまでやろう。


二〇一六年九月三日 「あしたから学校の授業がはじまる。」


来週、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日』の下準備が終わった。きょうじゅうに出来上がりそうだ。あとはコピペだけだものね。マクドナルドでダブルフィッシュを食べてこようっと。

あしたから学校の授業がはじまる。心臓バクバク、ドキドキである。なんちゅう気の弱い先生だろう。まあ、いまから顔をこわばらせても仕方ない。きょうは、はやめにクスリをのんで寝よう。

4時に目が覚めたので、きのう、文学極道に投稿した新しい『全行引用による自伝詩。』のチェックをしていた。7カ所に、誤字があった。すべて直しておいた。2回チェックしたので、だいじょうぶだと思う。きのうも、寝るまえにチェックしたときの誤字を含めて、7カ所だよ。まあ、長い作品だしね。


二〇一六年九月四日 「きょうはいえた」


きょうは、2カ月ぶりの学校の授業。がんばらなくっちゃ。コンビニに行って、おでんと、お茶を買ってこようかな。いま、セブイレでは、おでんが70円。これが朝ご飯だ。コンビニに行くと、おでんは、しらたき4つ、大根6つ、玉子4つしか残っていなかった。売れているんですねというと、鍋をもってきて買う人もいはりましたよとのこと。ぼくは、しらたき2つ、大根2つ、玉子1個を注文した。お汁を多めに入れてくださいと言った。このあいだ言えなかったから。麦茶と。

これからお風呂に。それから学校に。ちょっと早めに行って、教科書読んでいようっと。

ブリンの『知性化戦争』の上巻を読んでいる。

きみの名前は?(デイヴィッド・ブリン『知性化戦争』下巻・第四部・54、酒井昭伸訳、99ページ・7行目)


二〇一六年九月五日 「詩の日めくり、完成。」


また4時起きで、コンビニでおでんと、おにぎりを買って食べた。さすがに、おでん8つは、おなかに重い。おにぎりは1つだけ。7時くらいまで、横になって休んでいよう。それが終わったら、文学極道に投稿する新しい『詩の日めくり』をつくろう。

腕の痛みがすごいので、作品つくりはやめて、横になっていた。

やった〜。きょうの夜中に、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年八月一日─三十一日』が完成した。さいしょの方の日付けのところで、びっくりされると思うけれど、ぼくの『詩の日めくり』のなかでも、かなりよい出来のものだと思う。お祝いに、セブイレでも行こう、笑。

じっしつ、2時間でコピペは終わったんだけど、『詩の日めくり』は下準備に時間がかかる。まあ、そんなこと書けば、『全行引用による自伝詩。』も半端ない時間を費やして書いてるもんなあ。まあ、作品の出来と、かかる時間とは、なんの関係もないけど。思いついて数分で書いたものでもいいものはいい。

きのうは、分厚い本を2冊、飛ばし読みして読んだけど、けさは、一文字一文字ていねいに、コードウェイナー・スミスの全短篇集・第二巻を読んでいた。すでに読んだことのある短篇だけど。まだ途中だけど、冒頭の「クラウン・タウンの死婦人」ってタイトルのもの。スミスの文章にはまったく無駄がない。

自分へのお祝いに、酒断ちをやめて、日知庵に行こう。えいちゃんの顔を見て、ほっこりしよう。酒断ちは2日で終わった〜、笑。5時から行こう。

いま日知庵から帰った。文学極道に、新しい『詩の日めくり』を投稿しました。ごらんくだされば、うれしいです。こちら→http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=9076

きょうは、日知庵で、Fくんといっぱいしゃべれて、しあわせやった。やっぱ、いちばん、かわいい。これから、お風呂に入って寝る。おやすみ。グッジョブ!


二〇一六年九月六日 「9回のうんこ」


けさ、いい感じの夢を見て(夢自体は忘れた)目がさめた。きのう、Fくんと日知庵で楽しくしゃべることができたからやと思う。学校からの帰り道、電車に乗りながら、Fくんは、ぼくにとって、福の神かなと思っていた。

きょうは、えいちゃんと、きみやに行く約束をしてて、いまお風呂からあがったところ。きのうはビールを飲みまくって、けさ起きられるかどうか心配だったのだけれど、目覚ましが起こしてくれた。きょうも飲むんやろうなあ。ビールの飲み過ぎなのかわからないけど、きょう8回も、しっかりうんこをした。

えいちゃんと、きみやで飲んでた。帰ってきたら、メール便が届いていた。近藤洋太さんから、現代詩文庫231「近藤洋太 詩集」を送っていただいた。一読して、言語を虐待するタイプの書き手ではないことがわかる。用いられている語彙も難解なものはなさそうだ。あしたから通勤のときに読もう。

いまさっき、9回目のうんこをした。しっかりしたうんこだった。どうして、きょうに限って、こんなに、うんこが出るのか、理由は、わからないけれど、なにか精神状態と関係があるのかもしれない。

きょう、2回目の洗濯をしているのだが、干す場所がないことに気がついた。


二〇一六年九月七日 「そこにも、ここにも、田中がいる。」


豊のなかにも、田中がいる。
理のなかにも、田中がいる。
囀りのなかにも、田中がいる。
種のなかにも、田中がいる。
束縛のなかにも、田中がいる。
お重のなかにも、田中がいる。
東のなかにも、田中がいる。
軸のなかにも、田中がいる。
竹輪のなかにも、田中がいる。
甲虫のなかにも、田中がいる。


二〇一六年九月八日 「警報解除」


これから学校へ。警報解除で授業あり。

いま学校から帰ってきた。これからお風呂に入って、塾へ。帰りに、日知庵によろうかな。きょうが、いちばん忙しい日。あした休みだけど。土曜が学校がある。連休がないのだ。今年度は、それがつらい。連休でないと、疲れがとれない年齢になってしまったのだ。


二〇一六年九月九日 「きみやの串カツデイ」


さっき、きみやから帰った。えいちゃんといっしょ。また、佐竹くんと、佐竹くんの弟子ふたりといっしょに。きょうは、きみやさん、串カツデイやった。ぼくは、えび串2尾とネギ串を食べた。佐竹くんの弟子ふたりのはっちゃけぶりが、かわいかった。えいちゃんは、途中で席をはずしてたけど、笑。


二〇一六年九月十日 「きみの思い出。思い出のきみ。」


自分自身がこの世からすぐにいなくなってしまうからか、この世からすぐにいなくなってしまわないものに興味を魅かれる。音楽、文学、美術、映画、舞台。まあ、現実の人生がおもしろいと云えばおもしろいというのもあるけれど。

きみの思い出。
思い出のきみ。

きょうは、夜に日知庵に行く。Fくんもくるっていうから、めっちゃ楽しみ。それまで、来月に文学極道の詩投稿欄に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』を、ワードに打ち込んでいよう。

いま打ち込んでいる『全行引用による自伝詩。』が素晴らしすぎて、驚いている。今月、文学極道の詩投稿掲示板に投稿した『全行引用による自伝詩。』が飛び抜けて素晴らしい出来だったのに、それを確実に超えているのだ。ぼくはきっと天才に違いない。

来月、文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みが終わった。脳機能があまりにも励起され過ぎたため、それを鎮めるために、お散歩に出ることにした。フフンフン。

いま日知庵から帰ってきた。Fくんと、ずっといっしょ。しあわせやった〜。こんなに幸せなことは、さいきんなかった。きょうは、Fくんの思い出といっしょに寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年九月十一日 「キーツ詩集」


きょう、日知庵に行くまえに、ジュンク堂書店で、岩波文庫からキーツの詩集が出ているのを知ったのだった。原文で全詩集をもっているのだけれど、書店で岩波文庫の詩集を読んでいて、数ページ目で、えっ、と思う訳に出くわしたのだった。現代語と古語が入り混じっている感じがした。どちらかに統一すべきだったのでは、と思う。

キーツの詩集、岩波文庫だから、買うと思うけれど、訳をもっときっちり訳する人に訳してほしいなと思った。パウンドの詩集がそのうち、岩波文庫に入ると思うけれど、訳者は、新倉俊一さんで、お願いします。


二〇一六年九月十二日 「20億の針」


近藤洋太さんの「自己欺瞞の構造」を読んだ。小山俊一という一知識人の思索の跡を追ったものだった。こころ動かされるのだが、そこにも自己欺瞞がないわけではないことを知ってしまうと、世界は嘘だらけであたりまえかと腑に落ちる部分もある。これから晩ご飯を買いに行く。食欲も自己欺瞞的かな、笑。

けっきょく、イーオンに行って、カレーうどん(大)510円を食べてきた。この時間に、ゲーム機のあるところに子どもの姿がちらほら。保護者はいなさそうだった。危なくないんかいなと思う、他人の子どものことながら。さて、これからふたたび、ワードの打ち込みをする。

きのうジュンク堂で、ハル・クレメントの『20億の針』を10ページほど読んで、おもしろいなあと思ってたところで、店員のゴホンゴホンという声がしたので、本を本棚に戻した。続篇の『一千億の針』との二冊合わせの以前のカヴァーがよかったのだけれど、ヤフオクで探そうかな。


二〇一六年九月十三日 「魂についての覚書」


魂が胸の内に宿っているなどと考えるのは間違いである。魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでるのである。死は、魂という入れ物が、自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。生誕とは、魂という入れ物が、自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。


二〇一六年九月十四日 「久保寺 亨さんの詩集『白状/断片』から引用。」


集英社のラテンアメリカ文学全集がすばらしくて、なかでも、フエンテス、サバト、カブレラ=インファンテ、コルターサルからの引用が多い。図書館で借りて読んだのだけど、あとで欲しいものを買った。いま本棚を見たら、1冊、買い忘れてた。リスペクトールだ。amazon で探そう。

読み直す気はほとんどゼロだが、買っておいた。奇跡的な文体だったことは憶えている。無機的だった。

きょう、久保寺 亨さんという方から、詩集『白状/断片』を送っていただいた。本文に、「ういういしい0(ゼロ)のように」という言葉があるが、ほんとに、ういういしかった。奥付を見てびっくり。ぼくより10年長く生きてらっしゃる方だった。ういういしい詩句をいくつか、みなさんにご紹介しよう。


白状しよう。
ぼくが詩を遊んでいると、
詩の方もぼくを危なっかしく遊んでいて、
遊び遊ばれ、
遊ばれ遊び、
この世に出現してこなければならない詩像があるかのように、そのように……
(久保寺 亨「白状/断片」Vより引用)


ざあざあ降る雨の中で、
さかさまに、じぶんの名を呼んでみようか、
ラキアラデボク、ラキアラデボク、
いったいそこで何をしている、
ざあざあ降る雨の中で一本の樹木にもたれて、
雨のざあざあ聞きながら、
この世界を全身で読み解くことができないで、
……ラキアラデボク、ラキアラデボク……
(久保寺 亨「白状/断片」VIIより)


「そもそも哲学は、詩のように作ることしかできない」
とヴィトゲンシュタインは語ったが
             ぼくは「哲学するようにしか詩を作ることができない」
(久保寺 亨「白状/断片」VIIIより)


ぼくがどこに行こうと、そこにはぼくがいて、
ある日の0(ゼロ)流詩人としてのぼくは、堤防の上にしゃがみこんで、
ぼくがぼくであることの深いツカレを癒そうとしているのだった。
(久保寺 亨「白状/断片」Xより)


樹齢七百年の大きな樹木の前に立って、
ぼくは、七百年前の「影も形もないぼく」のことを
切々と思っていたのだった。
ああ、七百年前の「影も形もないぼく」がそこにいて、
そして、そのぼくの前に、ういういしい新芽が一本、
風に吹かれてゆれていて……
(久保寺 亨「白状/断片」XVより)


白状しよう。
「空(くう)の空(くう)、いっさいは空(くう)の空(くう)なり」
という響きに浸されつづけてきたのだった。
そして今さらのようにぼくは、
「空の空」なる断片を、
輝かしく散らしていこうとしている、
「空の空」なるただのぼくとして。
(久保寺 亨「白状/断片」XVIより)


久保寺 亨さんの詩集『白状/断片』から、とくに気に入った詩句を引用してみた。とても共感した。思考方法が、ぼくと似ているということもあるだろう。しかし、10歳も年上の方が、こんなに、ういういしく詩句を書いてらっしゃるのを知って、きょうは、よかった。

久保寺さんの詩句を引用してたら、40分以上たってた。クスリのんで、寝なきゃ。おやすみなさい。グッジョブ!


二〇一六年九月十五日 「そして、だれもいなくなったシリーズ」


そして、だれもいなくなった学校で、夕日がひとりでたたずんでいた。
そして、だれもいなくなったホームで、電車が自分に乗り降りしていた。
そして、だれもいなくなった公園で、ブランコが自分をキコキコ揺らしていた。
そして、だれもいなくなった屋根の上で、雲が大きく背をのばした。
そして、だれもいなくなった寝室で、雪がシンシンと降っていた。
そして、だれもいなくなった台所で、鍋がぐつぐつと煮立っていた。
そして、だれもいなくなった玄関で、プツがプツプツと笑っていた。
そして、だれもいなくなった玄関で、靴がクツクツと笑っていた。
そして、だれもいなくなった会社で、課長がひとりで踊っていた。


二〇一六年九月十六日 「怨霊」


きのう同僚の引っ越しがあって、手伝ったのだが、引っ越し先の床の上に悪魔の姿のシミがあって、そこに近づくと、鍵が置いてあった。家が山手にあって、洞窟までいくと、人食い鬼が現われて追いかけられたが、鬼の小型の者がでてきて、互いに争ったのだが、そこで場面が切り替わり、幼い男の子と女の子が玄関先で互いに咬みつき合っていたので引き離したが、お互いの腕に歯をくいこませていて全治2カ月の噛み傷だという話だった。怨霊がとりついていたのだ。という夢を見た。ドラマみたいだった。「子どもたちも戦っていたのだ。」という自分の呟き声で目が覚めた。


二〇一六年九月十七日 「ダイスをころがせ」


日知庵に行って、帰りに、岡嶋さんご夫妻とカラオケに行って、いま帰ってきた。ひさしぶりに、ストーンズの「ダイスをころがせ」を歌った。気持ちよかった。きょうから、クスリが一錠変わる。いま8錠のんでるんだけど、なかなか眠れない。きょうは、帰りに道で吐いた。くだらない人生してるなと思った。まあ、このくだらない人生が唯一の人生で、愛さなくては、情けなくなってしまう、哀しいものだけれど。


二〇一六年九月十八日 「ヤリタミサコさんの朗読会」


7時から9時まで、河原町丸太町の近くにある誠光社という書店でヤリタミサコさんの朗読会がある。恩義のある方なので、京都に来られるときには、かならずお顔を拝見することにしている。大雨だけど、きょうも行く。

朗読会から、いま帰ってきた。朗読されるヤリタミサコさんが出てくる詩集をつくるのだけれど、その表紙に、ヤリタさんのお写真が欲しかったので、きょう、バンバン写真を撮ってきた。もちろん、表紙に使ってよいという許可も得た。ヤリタさんの詩の引用も多量に含まれる詩集になる。来年か再来年かな。


二〇一六年九月十九日 「詩集の編集」


きょうは、朝から夜まで大谷良太くんちに行ってた。お昼ご飯と晩ご飯をごちそうになった。ありがとうね。ごちそうさまでした。

自分の原稿のミスに気がついたときほど、がっくりくることはない。これって、自分で自分を傷つけてるんやろうか。


二〇一六年九月二十日 「大根とは」


大根とはまだ一回もやったことがない。


二〇一六年九月二十一日 「黒いアリス」


このあいだ、1枚15000円で買った Hyukoh のミニアルバム2枚が、11月に日本版が2枚ともリリースされることが決まったらしい。1枚2000円くらいかな。まあ、いいや。ちょこっとだけ意外だったけど、というのは、アーティストの意向で日本版が出ないと思ってたからなんだけどね。長いこと、出なかったからね。

そういえば、むかし古書で、絶版で、なかなか手に入らないものをバカ高い値段で買ったのだが、数か月後に復刻版が出て、びっくりしたことがあるが、復刻されるという情報を、持ってたひとが知ってたのかもしれない。しかし、トム・デミジョンの『黒いアリス』は復刻しないと思う。するかなあ。8888円で、ヤフオクで落札した記憶がある。フレデリック・ブラウンの『さあ、きちがいになりなさい』も復刻したくらいだから、『黒いアリス』も、いつか復刻するかもしれない。レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』は、どうだろう。復刻するかな。これも高かった記憶がある。まあ、このネット時代、お金を出せば、欲しいものは、ほとんど手に入る世のなかになったので、ぼくはいいと思っている。ブックオフもいいなあ。自分の知らなかった傑作に出合えるチャンスもあるからね。本との偶然の出合い。あと何年生きるのかわからないけど、ネット時代に間に合ってよかった。ちなみに、ジョン・デミジョンは、二人の作家の合作ペンネームで、トマス・M・ディッシュと、ジョン・T・スラデックの共同筆名。


二〇一六年九月二十二日 「実在するもの」


実在するものは関係をもつ。実在するとは関係をもつことである。関係するものは実在する。それがただ単なる概念であっても。


二〇一六年九月二十三日 「言葉のもつエネルギーについて」


言葉にはそれ自体にエネルギーがある。ある並べ方をすると、言葉は最も高いエネルギーを引き出される。そう考えると、全行引用詩をつくるとき、あるいは、コラージュ詩をつくるときに文章や言葉の配置が大事なことがわかる。言葉のもつポテンシャルエネルギーと運動エネルギーについて考えさせられる。


二〇一六年九月二十四日 「真に考えるとは」


詩人というものは、自分のこころの目だけで事物や事象を眺めているわけではない。自分のこころの目と同時に、事物や事象を通した目からも眺めているのである。真に考えるとは、そういうこと。


二〇一六年九月二十五日 「僥倖」


大谷良太くんちの帰りに、いま日知庵から帰った。日知庵では、東京から来られた方とお話をしてたら、その方が、ぼくの目のまえで、ぼくの詩集を amazon で、いっきょに、3冊買ってくださって、びっくりしました。『LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳』と、『全行引用詩・五部作』上下巻です。翻訳は、もとの詩人たちの詩が一等のものなので、ぼくの翻訳がそれに見合ってたらと、全行引用詩は、もとの詩人や作家たちの言葉が活かされていたらと、こころから願っています。


二〇一六年九月二十六日 「花が咲き誇る惑星」


花が咲き誇る惑星が発見された。それらのさまざまな色の花から絵具が取り出された。その絵具を混ぜ合わせると、いろいろな現象が起こることが発見された。まだ世間には公表されてはいないが、わが社の研究員のひとりが、恋人に一枚の絵を送ったところ、その絵が部屋にブリザードをもたらせたという。


二〇一六年九月二十七日 「カサ忘れ」


あ、日知庵に、カサ忘れた。どこか抜けてるぼくなのであった。


二〇一六年九月二十八日 「言葉についての覚書」


ある書物のあるページに書かれた言葉は、その書かれた場所から動かないと思われているが、じつは動いているのだ。人間の頭がほかの場所に運び、他の文章のなかに、あるいは、ほかの書物のなかに運んで、もとの文脈にある意味と重ねて見ているのである。そうして、その言葉の意味を更新し拡張しているのである。しばしば、時代の潮流によって、ある言葉の意味が狭められ、浅い薄っぺらなものとされることがある。これをぼくは、負の伝搬性と呼ぶことにする。人間にもいろいろあって、語の意味を深くし拡げる正の伝搬性をもたらせる者ばかりではないということである。


二〇一六年九月二十九日 「メモ3つ」


2016年9月16日のメモ

言葉が橋をつくり、橋を架けるのだ。
言葉が仕事をし、建物をつくるのだ。
言葉が食事をつくり、食卓を整えるのだ。
言葉が子どもを育て、大人にするのだ。
言葉が家庭をつくり、国をつくるのだ。

言葉がなければ橋は架からないし
言葉がなければ建物は築かれないし
言葉がなければ食卓は整えられないし
言葉がなければ子どもは大人になれないし
言葉がなければ国はないのだ。

2016年9月18日のメモ

言葉が種を蒔き、穀物を育て、収穫する。
言葉が網を張り、魚を捕えて、調理する。
言葉が、子どもを生み、育て、老いさせる。
言葉が、酒を飲ませ、笑い泣かせる。
言葉が、酒を飲ませ、ゲボゲボ戻させる。

言葉こそ、すべて。

2016年9月21日のメモ

詩のワークショップが
東京であって
ジェフリーも、ぼくも参加していて
発泡スチロールで
ジェフリーは飛行機を
ぼくは潜水艦をつくってた。
ふたつとも模型のちょっと大きめのサイズで
発泡スチロールを
両面テープで貼り合せていったのだった。
ただそれだけの夢だけど。
つくってる途中で目がさめた。
ジェフリーは完成してた。


二〇一六年九月三十日 「接続」


ネットが20分前にぷつんと切れたので、電話して聞いたら、言われたとおりに、いちばん下のケーブルを一本抜いてしばらくしてつけたら、直った。ケーブルのさきが蓄電していることがあって、放電すれば直ることがありますと言われた。機械も、人間のように繊細なんやね。直ってよかった。憶えておこう


二〇一六年九月三十一日 「人生の縮図」


寝るまえに、お風呂に入って、お風呂から出て、パンツをはいて、シャツを着て、台所の換気扇のそばでタバコを一本吸ったら、うんこがしたくなって、うんこをした。なんか、ぼくの人生の縮図をそこに見たような気がした。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



(…)物哀しげな空には雲一つなく、大地はまさにわれらが主イエス・キリストに倣って吐息をついているかに見えた。そのような陽光のみちあふれる、物哀しい朝には、わたしはいつも予感するのである。つまり自分が天国から締め出されてはいないという見込みがまだ存在し、わが心のうちの凍てついた泥や恐怖にもかかわらず、自分には救いが授けられるのかもしれないということを。頭を垂れたまま貧相なわが借家に向って砂利道を登っているとき、わたしは、あたかも詩人がわたしの肩辺に立って、少々耳の遠い人に対して声〓に言うみたいに、シェイドの声が「今夜おいでなさい、チャーリー」と言うのを、至極はっきりと聞いたのである。わたしは畏怖と驚異に駆られて自分の周囲を見まわした。まったく一人きりだった。すぐさま電話してみた。シェイド夫妻は外出中ですと、小生意気な小間使(アンキルーラ)、つまり日曜日ごとに料理をしにやって来る、そして細君の留守中に自分を老詩人に抱かせることを明らかに夢想している、不愉快な女性ファンが言った。(…)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

(…)シュタイナーによれば、われわれは生まれる前に自分で運命を選びとったのであるから、それを嘆くのは見当ちがいだという。
 それでは、どうして人は美男子で金持ちで成功者であることを選びとろうとしないのだろうか。それは、霊の目的は自らの進化であり、幸運や成功はそれを阻む作用をするからなのである。霊的な進歩は、霊界においてではなく、地上においてのみ行われるのである。
『神智学』には「認識の小道」という最終章がある。ここでは、人間はどうしたら超感覚的認識を獲得することができるようになるかが説明されている。数学は、認識の小道のためのすぐれた準備段階であるが、それは論理、離脱、非物質的実在への集中を教えるからだとシュタイナーは言う。換言すれば、「見者」にとってまず必要なのは科学的態度であり、心は混沌から秩序を創り出すことができるという確信である。外的な力がどんなに強力で人をまごつかせるものであろうとも、人間はそうした力にもてあそばれるよるべない存在なのではない。最初の段階は、人間は利害などから離脱することができ、自分の心を、混乱の中を進むための羅針盤として使うことができる、という事実を認識することである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』7、中村保男・中村正明訳)

 楽しみがほしければ、〈灯心草〉がいた。シロが草を食(は)み、ブロムが狩りか昼寝をしているあいだ、ぼくは、あのときブーツが教えてくれた〈灯心草〉の径を歩いて過ごした。ぼくは彼のことが好きだった。彼にははてしない数の内部があるみたいだった。そうした暗い隅や奇妙な場所で、〈灯心草〉は世界と、言葉と、ほかの人々と、知っているもの好きなもの嫌いなものと結びついていた。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

「それに、そういう手袋にまつわる物語も知っている。たぶん、その手袋の話じゃないかな」ある場所──たったひとつの小さな場所、点とさえいえそうな場所──があって、そこで、ぼくの人生にあるものすべてが交錯した。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

(…)駆け降りる前に、丘の上から僕に手を振るが、そんな彼女を音楽が包みこんでいる、そう、僕の目が生み出す音楽、ぼくの嗅覚が生み出す絵画、僕の聴覚が生み出す味覚、ぼくの触覚が生み出す匂い……僕の幻覚……(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)

彼らの運命は耐えて進みつづけることであり、しかも最終的には人間的な、あらゆる事物への敬意のしるしとして、それを忘れないことだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)

人間の魂の中の何かが、ためらいを感じるのだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・2、山高 昭訳)

痛みには、痛みの記憶以上のものがある。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・3、山岸 真訳)

 ポールは一瞬、相手に共感して心を痛めた。だが、共感から同一視まではあと一歩。ポールはその感情を押し殺した。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・6、山岸 真訳)

(…)投げられたあらゆる爆弾、あらゆる銃弾や矢や石はいまだに悲鳴をあげる標的をさがしているのか──(…)
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)

彼女たちはすべてをさらけ出しているが、何も明かしてはくれない。
(J・G・バラード『覗き見の視線』木原善彦訳)

(…)これらの作品は一体として見ると、第二次世界大戦の強力かつ感動的な記録であるのみならず、戦争がその場にいた芸術家たちに及ぼした影響をも同じように記録しているのである。
(J・G・バラード『戦場の画家』木原善彦訳)

 今日、生まれ故郷の町にそのまま住んでいる人がどれくらいいるものか、わたしはよく知らない。だが、わたしがそうであるせいか知らないが、そうした町や市がしだいに衰退してゆく姿は、いうにいわれぬ悲しみを人の心に感じさせるものだ。それは友人の死よりもはるかに辛い。友人はほかにもいるし、他の友人に心を移すこともできるが、生まれ故郷はかけがえのないものだからだろうか。
(ジャック・フィニイ『盗まれた街』12、福島正実訳)

 暖かい楽しい気分になってきた。人々と交って、いつもの考えごとを忘れてしゃべるというのはたしかに楽しいことだ。わたしは今、いったい何をしようとしているのだろう。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』3、井上一夫訳)

 わたしは五番街に行った。わたしの歩きたい街だ。若さと希望にあふれて、それはわたしの世界、わたしの町、わたしのものというような気がした。歓喜の味を味わい、心は喜びに充ちて、順風に帆を上げたような気持だった。風の吹きぬける高いビルの間の道は色とりどりの美しい飾り窓がつらなり、女の人の美しいすました顔があり、すべての上に太陽が輝き、その太陽と風が……。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』5、井上一夫訳)

小鳥が雨樋のなかで夜明けを奪いあっていた。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)大儀そうに、彼女は各種の壜やチューブから、じっさいにはもはや二度と所有することはないと思われる生命と暖かみを、おのれの顔の上につくりだそうと骨折った。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)どこかで銃声が聞こえた。カウリー街、むかしのオクスフォードの中心を指してのびているこの長い、雑然とした商店街では、正面を板で囲ったり、破壊されたりしている建物がしばしば眼についた。舗道にはごみが堆(うずたか)く積もっていた。一、二の商店の店先には、買物の老婆たちが列をつくっていた。だれもみな無言で、てんでんばらばらで、上昇する気温にもかかわらず、スカーフで口もとをおおっていた。ウィンドラッシュの巻きあげた旋風が、彼女らの破れた靴のまわりで渦を巻いたが、女たちはまったく無関心だった。その姿には、零落のもたらす一種の威厳に似たものがあった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)一同は坐って食事にとりかかった。徐々に霧がうすれ、周囲の風物がしだいにはっきりしてきた。果てしない大空と、その大空の影を映して、世界は拡大していった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』7、深町真理子訳)

(…)そのうち徐々に、教室の雰囲気が変わってきていることがわかった。あの耐えがたい緊張は去り、あの無意識の抑圧、警戒心、油断のなさ、禁じられているものをほしがることへのうしろめたさ、などは消えていった。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

 彼女が、あまりにもせつなげな身ぶりをするので、かえって彼のほうがせつなくなった。彼は自分で思っている以上に、彼女を愛していた。なぜかというに、彼はこのときすでに自分のことは忘れていたほどだから。
(ケッセル『昼顔』九、堀口大學訳)

「でも、どうして子供たちが彼女をからかうのをほうっておおきになりますの?」わたしは発作的な憤怒がこみあげてくるのを感じた。
 彼女はけわしい目でわたしを見た。「"ほうって"おくわけじゃありません。子どもというのは、いつの場合も、毛色の変わっている人間にたいして残酷なものですよ。あなたはまだそんなことにも気づいていないの?」
「いいえ、気づいていますわ。ようくわかっていますとも!」わたしはかすれた声で言い、ふたたびあの、じわじわとした冷たい氷のような記憶にたいして、身をちぢこめた。
「感心したことじゃないけれど、世間にはありがちなことなのよ。すべてに正しいことが通用するわけじゃありませんからね。ときには、慣れて感じなくなることも必要だわ」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

「いやよ、マーク!! いや! いや! いや!」とメァリーは悲鳴をあげ、壇のほうへ引きずられながら恐怖のあまりに大小便をもらす。マークは使い捨てたコンドームの山の中の壇の上に、縛り上げたメァリーをほうり出したまま、部屋の向う側へ行ってロープの用意をする…… やがて輪なわを銀の盆にのせてもどってくる。彼は手荒くメァリーを引き起こし、輪なわを首にかけて締める。そして彼女を突き刺し、ワルツを踊るように壇上をまわってから、ロープにぶら下がって空中に飛び出し、大きなアーチを描く…… 「ひい━━」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。大きな波のうねりが彼女の全身を通り抜ける。ジョニーは四つんばいになって、若いけもののように柔軟な身のこなしで機敏に身がまえる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

 ナツメヤシは水不足で枯れた。井戸は乾いたうんこと何千もの新聞紙のモザイクであふれている。「ソ連は否定……国務大臣は悲痛に訴える……落とし板は十二時に落とされた。十二時三十分、医師は牡蠣(かき)を食べに外出し、二時に戻って絞首刑になった男の背中を陽気にたたく。『なんと! まだ死んどらんのかね? こりゃ脚をひっぱってやらんといかんようだな。ふぉっふぉっふぉっ。こんなふうにだらだらと窒息してもらうわけにはいかん。大統領に叱られてしまうわい。それに死体運搬車に、生きたままのきみを運び出させるなんてみっともないからね。恥ずかしくて睾丸が落ちてしまうよ。それにわしは経験豊かな牛のところで訓練を積んでおる。一、二の、三、それ引け!』」
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

目の前に銀の粒が湧き出る。今から何百年もたったあとの廃墟と化した中庭に私は立っている。何物の、何人の匂いも嗅げない死の都を訪れる悲しい亡霊のようなものだ。
 少年達は記憶の中で揺れ動いている影で、遙か昔に塵となった肉体を喚起している。使うべき喉もなく舌もなく私は呼ぶ、幾世期をも越えた彼方へ向かって呼び続けるのだ、「パーコ……ジョセリート……エンリケ」と。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)

私は丸い小さな箱をもっている。中には羊皮紙に似た紙に数多くの光景が描かれ、折りこまれている。紙をめくるとそれが生き生きと動きだす。前髪のところまでコンクリートの中にはまりこんでいる雄牛が数頭いる。今度は十八世紀の衣装をまとった二人の少年と二人の少女が金色の馬車からおりてきて裸になり、オルゴールの調べに合せて踊り、つま先でくるっと回転する。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

 私は傾斜の険しい木の段々を昇り、かつての玄関ポーチへ行く。金網はすっかりさびていて、網戸の蝶番ははずれている。南京錠をはずし、玄関のドアを押し開ける。廃屋のかび臭さが鼻を打ち、冷気が肌に感じられる。熱い空気が私の後ろから中へ入りこむ。外の空気と中の空気が混じり合う空間に熱波らしき霧状のものが目に映る。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

よく考えてみると、こういう羨望混じりの感嘆の念は前にも味わったことがある。だが、あれは気が弱くなっている時に、異性愛者に対して抱いた感情だった。そうだ、おれはある時期、異性愛者が自分の生まれた社会と見事に適合しているのに感動したことがあった。異性愛社会には、まるで揺り籠の足元に置いてあるおもちゃのように、いろんな物が揃っている。まずは性教育、感情教育をしてくれる絵本に始まって、童貞を捨てに行く売春宿の住所、初めての情婦の写真、それから結婚式の日取りが書かれた未来の婚約者の写真、夫婦の財産契約書に、結婚式の歌の歌詞……。異性愛者はただこれらの既製服を次々に着換えていればよいのだ。それは彼によく似合うが、なぜかと言うと、それが彼個人のために作られているというよりは、「彼ら」のために作られているからだ。それに比べて、若い同性愛者は棘だらけの植物に覆われた砂漠の中で目覚める……。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

(…)どこへ行くのやら見当がつかない。だが状況は常に自ら新しい状況を作り出す。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について──このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現われたものである──(…)
(ヨハネの第一の手紙一・一─二)

 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(ヨハネの第一の手紙一・五─七)

(…)シュタイナーが書いたり語ったりしたことで、彼を二十世紀の他のあらゆる思想家と区別していることは何であるのか。
 これへの答えは、本書の第1章でかなり詳しく論じたあの認識のうちにひそんでいる。あの認識とは、「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓(みみず)は地の生き物だが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
 この内面世界の奥深くまで「退く」ことは、私たちのほとんどにとって難しいことであり、外面世界とそれがつきつけるさまざまな問題がうしろから私たちを引っぱって内面世界に入ろうとするのを妨げる。シュタイナーはどうやら、自分の内面世界に降りて行く非凡な能力を有していたらしい。さらにシュタイナー哲学の中心的な主張は、この内面の領域こそ「霊界」にほかならず、ひとたびこの領域に入ることをおぼえれば、この内域が外面世界の単なる想像的反映ではなく、それ自体独立した実在性を有している世界であることを人間は実感する、という考え方なのである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』9、中村保男・中村正明訳)

 男の眼差しはすでに、よく描かれてきた。この眼差しは、まるで女の背丈を測り、体重を量り、値打ちを定め、女を選ぶ、言い換えればまるで女を物に変えるように、冷たく女のうえに止まるものらしい。
 あまり知られていなのは、女がその眼差しにたいしてまったく無防備だというわけではないということだ。もし女が物に変えられるなら、それは女が物の眼で男を見るということにほかならない。それはまるで金槌(かなづち)が突然眼をもち、自分を使って釘を打ち込んでいる石工をじっと見つめるようなものだ。石工には金槌の不愉快な眼差しが見えて自信を失い、自分の親指を一撃してしまう。
(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第七部・8、西永良成訳)

 小説の精神は連続性の精神です。つまり、それぞれの作品は、先行する作品への回答であり、それぞれの作品には、小説の過去の経験がすでに含まれているということです。しかし、私たちの時代精神は今日性(アクチユアリテ)の上に固定されています。今日性は、あまりに拡散的で広いひろがりをもつものですから、それは私たちの地平の過去を拒否し、そして時間をもっぱら現在の瞬間に還元するものです。このような体系のなかに封じ込められた小説は、もはや作品(持続を、過去を未来に継ぐことを運命づけられたもの)ではなく、他の事件とかわらぬ現在(アクチユアリテ)の事件であり、はかない行為です。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第一部・9、金井 裕・浅野敏夫訳)

(…)すると不満を抱く者たち、いくぶん盲目的で、どこか狂っているような者たちが神秘と血を通して、あの失われた調和をしゃにむに取り戻そうとして、自分たちを取りまく現実とは違う現実を、たいていの場合幻想的であり狂的である現実を描いたり書いたりするが、奇妙なことにその現実こそ結局は日常的な現実より深遠なもの、真実なものであることになる。そうして、こうした傷つきやすい存在はある意味であらゆる者たちのために夢を見つつ、自らの個人的な不幸の上に立ちうるようになる、また集団の運命の解説者に、そして、(苦しめを受ける)救済者にさえなる。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 しかし、わたしの不幸は常に二重のものだった、というのも、わたしの弱さ、傍観的な精神、優柔不断さ、無気力、こういったものがいつもあの新しい規律を、芸術作品という新しい宇宙を獲得する妨げとなり、わたしを救ってくれそうなあの思いこがれた建造物の足場からいつも足を踏みはぜさせる。そして落ちるたびに傷つき、二重に哀しくなり急いで単純な人間を探し求めることになる。
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 子供の頃、就寝前にときおりある声が、眠りの中へ誘うようにお話を聞かせてくれて、夜になるとこの世界がどんなに宏大に伸び拡がるか、教えてくれたものである。「昔々あるところに」の文句で始まることもあった。こうして目覚めたまま寝そべっていて眠ることができないなんて、私一人が、過ぎ去ることを知らない時そのものなのだ。
 四方の壁も、ベッドや床も、箪笥だって、鏡や絵だって眠る。寝具や絨毯、椅子や机や窓、カーテンに、衣服に、その他まわりを取り巻くありとあらゆるものが、外の霧だって、雪片だって、樹木も地面も水中の魚も、霧のかげや雪の彼方にいる人々も、それどころか鳩の巣でさえ眠るのだ。同じように、凍えている人も独りぼっちでだれも友達のいない人も、希望を求めて思い煩っている人や、恋という名のもとに屋根裏部屋や連れこみ宿で徐々に憔悴してゆく人も眠る。子供たちも、願いごとを唱えながら眠りにつく。黄泉(よみ)のヴェールにおおわれた死人の開かれた眼も眠る。盲人の光を失った顔も、蒼ざめた産婦も、涙さえも眠る。じゃじゃ馬娘の髪の毛にさした櫛やその髪に吹き込む風も眠る。テーブルの酒瓶も、その脇にある飲み残しのグラスも、錠前に差し込まれた鍵も、時計やランプも眠る。配膳台の上の散らしや新聞、部屋履きやソックス、ズボン、ワイシャツ、チョッキ、暖炉の火、窓の鎧板にかかった雪、家や庭、茂み、小経や舗石、垣根や杭、大小の町、列車や河川や港の小舟にいたるまで。空高く飛ぶ飛行機も、渡り鳥のように大陸をまたにかけて眠る。薬剤師の天秤も眠る。露店のひさしも、犬や猫も眠る。そして、人里離れた森の奥では(…)
 ただ私、この私だけが眠れない。(…)
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)

(…)目的もなくブエノスアイレスの町を歩きまわり、人々を眺め、コンスティトゥシオン広場のベンチに腰をおろして考えた。そのあと部屋に戻ったが、いつになく孤独感を味わっていた。本に没頭しているときだけはふたたび現実を見出すようだった、逆に、通りにいる人々はまるで催眠術にかかった人間たちの大きな夢に思えた。多くの歳月が流れて分ったことは、ブエノスアイレスの通り、広場、そして商店、事務所にはそのときわたしが感じたことと同じようなことを感じ、考えている人間が無数にいるということだ、孤独で苦しんでいる人々、人生の意味、無意味を考えている人々、自分のまわりで眠った世界、催眠術をかけられたりロボットになってしまった人間の世界を見ているような気がしている人々がいるのだ。
 その孤立した角面堡の中でわたしは短篇を書きはじめた。いま思うと、不幸になるたびに、一人ぽっちだ、生を与えてくれた世界としっくりいかない、そう感じるたびに書いてきたみたいだ。それが普通ではないだろうか、現代の芸術、引き裂かれた緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。人間という傷つきやすい、落ちつかない、欲深な生き物の種族が世界と和解する試みのようなものではないだろうか。なぜなら、動物は芸術を必要としない、彼らは生きるだけだ。彼らの生は本能の必要性と調和を保ちながら滑っていくからだ。鳥には少しの種か虫、巣をかけるための樹、飛びまわるための広い空間があればいい、そして、その一生は生まれてから死ぬまで、形而上的な絶望感や狂気に引き裂かれることのない幸福なリズムの中で流れていく。ところが人間は(…)
(サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)

 そして、一つを除くほかのあらゆる思い出が彼女の心に浮かびはじめたのも、やはりそのときのことだった。すべての思い出が押し寄せたが、彼女は、なぜかわからないながらも、ただ何かあることだけによって、ある思い出がまだ欠けており、ほかのすべての思い出が起きたのも、もっぱらこの一つの思い出のせいにほかならないと感じたのだ。そこで彼女の心に、そのためにはヨハネスが自分の役に立ってくれるかもしれないし、また自分の全生活は、この一つの思い出を手に入れるかいなかにかかっている、という観念がつくりあげられた。さらにまた彼女は、自分がそのように感じているものは、力ではなくて、彼の静けさ、つまり彼の弱さであることも知っていた。この静かで不死身の弱さは、広々とした場所のように彼の後ろにひろがっていて、そのなかで彼は、自分の身に起きたあらゆることと、ひとりで向かいあっているのだ。しかし彼女はそれを、もっとそれ以上に探り出すことができなかったので、不安な気がした。そして、自分がすでにその近くにいると思ったときにはいつも、またまえもって動物を思い浮かべるので、彼女は苦しかった。
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

これは愛だろうか?
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
これは主のなされた事で
われらの目には驚くべき事である。
(詩篇一一八・二二─二三)

愛のおのずから起こるときまでは、
ことさらに呼び起すことも、
さますこともしないように。
(雅歌三・五)

声に出して考えていた。
(エドモンド・ハミルトン『審判のあとで』中村 融訳)

どうしてそのことを書かないの?
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

悲しみはまず無言でなければならない、あんたはそう思っている。痛みを感じたあとで、初めてその痛みについて語ることができる……たとえそれが、偶然見つけた死体のように、小さな痛みであっても、癌に当たったような、大きな痛みでも……
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「あなたはあたしの手を握りしめたわ。そして、その死んだ男は、究極的に、生きているのだと言った。死者たちはみんな生きているんだって」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

だれも話しかけてくれなかったわ。あたしのことをだれも知らなかった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 いったいどこから来る? どこからでもなく、虚無からやってくる──だれの声でもない声
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

声には実体があるとでもいうのか?
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

それだけで独立の実体を持っている。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第10章、荒木昭太郎訳)

 見る主体を見ることはできないし、心が考える主体を把握することもできない。見る主体、考える主体が〈わたし〉──すなわち、魂なのだ。
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』13、大森 望訳)

 かれらがそうなりえたかもしれないものが永久に失われたことを、ウルフは悲しんでいるのであった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『異世界の門』16、浅倉久志訳)

 目を開くと、頭上に薄青い空が広がり、ちらほら雲が見えた。周囲は牧草地だった。みつばちたちが、いや多少ともみつばちのように見える昆虫の群れが、茎が長く皿ほどもある白い花のあいだをぶんぶん飛びまわっていた。空気には甘い香りがただよっていた。さながら無数の花々が大気そのものを妊娠させているかのように。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』4、冬川 亘訳)

精子も自分をひとかどのものと思うだろうか?
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』4、友枝康子訳)

彼の目は、少女の白いシャツからのぞく喉もとを楽しんでいる。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

「でもね、どこか気味がわるいの」彼女は満身の力をこめて箱を河に投げる。箱は二十フィート飛ぶ。「すごい! でもね、あなたの一部分があなたの愛したものに執着して永久についてまわる、そんなことを想像してみて!」彼女は柳の木によりかかり、流れていく箱を眺める。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

 少年の生活というのは同じようなもので、彼の場合も例外ではない。違うと言えば、ブロンドの女がしきりに話しかけていることだが、そのせいで少年は今ひとりぼっちの人間になっている(雲の話はもううんざりだが、今ふわふわした細長い雲が通り過ぎていった。あの日の朝は、一度も見上げなかったはずだ。二人に何か起こりそうな予感がしたので、これからどうなるのか様子を見ることにした……)。不安そうな少年を見れば、少し前、せいぜい三十分前に何があったか容易に想像がつく。つまり、少年は先ほど島の端(はな)にやってきて、そこですてきな女を見かけたのだ。女は最初からそのつもりで網を張っていた。ひょっとすると、バルコニーか車の中から少年を見かけたのかもしれない。そこで、少年のそばへ行くと、話しかける。少年は不安に駆られたものの、逃げ出すきっかけがつかめずそのまま居残る。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)画家の中には好んで椅子を描く人がいるが、やっとぼくにもその理由がのみこめた。急に、フロールの椅子がどれもこれも花や香水のようにすばらしいものに思えはじめた。あれはこの町に住む人たちの秩序と誠実さを表わす申し分のない道具なのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

 民衆はしあわせだ。しあわせでなければならないのだ。もし悲しんでいるところを見つかれば、なだめられ、薬をあてがわれ、しあわせな人間に改造されるのだから。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』1、伊藤典夫訳)

 とつぜん大立て者は少年の体を宙に突き飛ばして自分のコックから解放する。そして両手を少年の座骨に当てて揺れないように押さえ、象形文字のような動きをする手を首に当て、首の骨を折る。戦慄が少年の全身を駆け抜ける。彼のコックは骨盤を上に向けて、大きく三度ぴくぴくとはね上がり、たちまち射出する。
 彼の目の奥で緑色の火花が散る。甘美な歯痛が首筋を矢のように流れて背骨から鼠(そ)蹊(けい)部まで達し、歓喜の発作で身体を収縮させる。彼の全身はコックによって締めつけられる。最後の発作が起こり、多量の精液が赤いスクリーンの向う側まで流星のように噴出する。
 少年はやわらかく吸い込まれるように、ゲームセンターとエロ写真の迷路を抜けて落下する。
 堅いくそが勢いよくすぽんと尻からとび出す。放屁がきゃしゃな身体を震わせる。大きな川の向うの緑の茂みの中からのろしが上がる。薄暗いジャングルの中にモーターボートの音がかすかに聞える…… マラリア蚊の沈黙の羽の下で。
 大立て者は少年を自分のコックの上に引きもどす。少年はやすに突き刺された魚のように身もだえする。大立て者は少年の背中で身体をゆすり、少年の身体はくねくねと波を打ってちぢこまる。少年の死の色に包まれて愛らしくすねたような感じの半分開いた口からあごを伝わって血が流れ落ちる。大立て者はすっかり満足してぱたっと倒れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハッサンの娯楽室、鮎川信夫訳)


詩の日めくり 二〇一六年十月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十月一日 「至福の二日間」


きのうと、きょうと、ずっと横になって寝てた。お茶をひと缶のんだだけ。いっさい食事せず。ただ眠っていただけ。しかし、まだ眠い。睡眠導入剤が強くなって、しじゅう、あくびが出るようになった。眠いということがここ10年くらいなかったので、至福の2日間であった。もうじきクスリのんで、また寝る。

あさ、4時に目がさめて、きょうの夜中に文学極道の詩投稿掲示板に投稿する新しい『詩の日めくり 二〇一六年九月一日─三十一日』をつくってた。これからマクドナルドに。


二〇一六年十月二日 「至福の引き伸ばし」


投稿はあしたにして、PC消して、クスリのんで寝る。睡眠導入剤が強いものになって、睡眠が10年ぶりくらいに心地よいので、睡眠を第一優先にしたいため。きのう読んだコードウェイナー・スミスの「老いた大地の底で」の終わりの方を読み直そう。記憶に残っていなかった。つぎに収められている「酔いどれ船」を読んでる途中だけど。まあ、あと10ページほどなので、寝るまでに「酔いどれ船」も読み切れるだろうけれど。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月三日 「黄色い木馬/レタス」


10月1日に文学極道に投稿した『全行引用による自伝詩。』、もともと11月に投稿する『全行引用による自伝詩。』とくっつけたもので、あまりにも長くて、モチーフが分散し過ぎている印象があったので、もとのように分離した。すっきりした感じになった。これでひと月分、余裕ができたわけでもある

12月に投稿する分から考えればいいので、急ぐ必要がなくなって、ほっとしている。しかし、仕事との関係で、あまり余裕がないかもしれないので、ワードの打ち込みは、こまめにしなければならない。

きょうは夜に塾がないので、寝るまで本を読もう。そうだった。ぼくは本を読むために生まれてきたのであった。とりあえず、コードウェイナー・スミスの短篇「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」のつづきから読んでいこう。しかし、それにしても、コードウェイナー・スミスは偉大なSF作家だった。

「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」を読み終わった。大筋を憶えていたのだけど、狂的な部分を憶えていなかった。あらためて、コードウェイナー・スミスのすごさに思いを馳せた。散文のSFで、強烈な詩を書いていたのだなと思う。つぎは、「アルファ・ラルファ大通り」短篇集タイトル作である。

郵便受けに何か入ってるかなと思って、マンションの玄関口に行くと、草野理恵子さんという方から、『黄色い木馬/レタス』という詩集を送っていただいていた。手に取って、ぱらっとめくったページが16ページ、17ページで、詩のタイトルが見えた瞬間、えっと思って、笑ってしまった。だって、「おじさん/入れ歯」というタイトルだったからだけど、笑いながら読んでいたら、グロテスクな描写に変容していって、なに、この詩? となって、目次を見たら、すべての作品がスラッシュで区切られていて、つながりがあるのかないのか、たぶんないよなというような名詞が接続されていて、「おじさん/入れ歯」のつぎに収録されている20ページからはじまる「カサカサ/プレゼント」という作品の第一行がこんなの。「たとえば僕のおばさんはとても孤独に生きたので何でも喜んだ」ぎょえー、なに、この詩は? ってなって、奥付を見たら、ぼくと齢があまり変わらない方だったので、なぜかしらん、ほっとした。ぱらぱらとめくりながら、詩句に目を走らせると、抒情的な部分もたくさんあるのだけれど、基本は、狂気のようなものだと感じられた。でも、ご卒業された学校の名前を見て、たぶん、とても見た目、まじめな方なんだろうなあと思って、書くものとのギャップが大きそうに思った。それだけに、怖い。56ページからはじまる「頭巾/虫」の第一行目は、こう。「ひとりで話しているうちに真っ暗になってしまった」 怖いでしょう? 102ページからはじまる「皿/スイッチ」という作品の第一連なんか、こうよ。


あるパーティの日
百人の瞳の大きな人間が選ばれ
皿を配られる
そして鳥にされることになる


怖いもの見たさにページをめくる。24ページからはじまる「水飴/雨」の冒頭部分


ところで君は何でお金を稼いでいたのだろうか
水飴も売っていたかもしれない
だけど僕たちは君見たさに集まっていたのだ
こぶなのだろうか
頭の一部が妙に大きく膨らんでいた


なんだか、江戸川乱歩が詩を書いたら、こんな感じかなっていう雰囲気のものが多くて、著者の草野理恵子さんが、ぼくに詩集を送ってくださったのが、よく理解できる。好みです。いま読んでる、コードウェイナー・スミスのグロテスクさにも通じるような気がする。

草野理恵子さんの詩集『黄色い木馬/レタス』土曜美術社から9月31日に出たばかりらしい。装丁もきれいなので、画像を撮って、貼り付けておくね。https://pic.twitter.com/TJYlk4wefc

もう30年くらいはむかしの話になるけれど、梅田の北欧館に行ったとき、階段に入れ歯があって、びっくりしたことがある。置き忘れた方がいらっしゃったのだろうけれど、なんか、グロテスクなアートって感じもしたけど、いまでも思い出せる、その輝きを。暗い階段に、白い入れ歯が上向きに落ちてるの。メガネをしているひとのメガネがない状態と似ているような気がするのだけれど、入れ歯がないってことに気がつかないものなのかしらん? 父親が、ぼくのいまの齢で、総入れ歯だったのだけれど、父親が「歯が痛い」と言うのを聞いた記憶がない。基本、総入れ歯だと、歯痛はないのかもしれないね。でも、入れ歯を、なんかのクスリにつけてたから、メンテナンスは必要なんだろうけど。ぼくもそのうち、総入れ歯になるのかなあ。どだろ。そいえば、むかし勤めていた学校で、目のまえに坐ってらっしゃった先生が総入れ歯で、よくコップのなかに入れ歯を入れてらっしゃったなあ。カパッて音がするので、見たら、口から入れ歯を出してコップに入れてらっしゃったのだけれど、それが透明のコップで気持ち悪かったから見て見ないふりをしてた。高校一年生のとき、好きだった竹内くんとバスケットしてて、竹内くんの口にボールをあててしまったら、そこに前歯がなくなっちゃった竹内くんの顔があったから、びっくりしたら、「差し歯やから」と言われて、差し歯って言われても、それがなにか知らなかったから、ほんとにびっくりした。そいえば、ぼくがさいしょに付き合ったノブチンは、笑うと歯茎が見えるからって言って、笑うときに、よく女子がするような感じで口元に手をやってたなあ。そのしぐさがかわいかったけど、まあ、ノブチンも21才やったからね。いまじゃ、おっさんになってるから、もうそんなことしてないだろうけど。

収められたさいごの短篇「ショイヨルという名の星」を読んでいる。もう3、4回は読んでいる作品だが、よくこんなSF小説が書けたなあと思うし、発表できたなあと思う。究極の地獄を描いた作品だと思うけれど、まあ、さいごに救いがあるところが、スミスらしいけれど、それともそれ編集者の意向かな。


二〇一六年十月四日 「チェンジ・ザ・ネーム」


きょうから、アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読むことにした。なかば、自分に対する強制だ。昼には、読みの途中でほっぽり出してたミエヴィルの『言語都市』にしようかなと思ったのだけれど、カヴァンの未読の本が2冊、目のまえの本棚にあったので。ああ、どうせ絶望的なんだろうなあ。


二〇一六年十月五日 「邪眼」


悪意を持って眺めると
相手を不幸にならしめることができる
対抗するには
淫らな思念を相手のこころに投射すること
あるいは残虐な刑罰による死の場面を投射すること
って
書いてると
ミスター・ジミーから電話があって
老子の
うらみに対しては徳をもって報いよ
といわれた
まあねえ

ファレル
百枚の葉が耳を澄まして
ぼくを見ている
グリム童話のなかで
森の木々が見てる
といったような描写があったような
ぼくの思考が
川のなかの鳥のくちばしのように
夜の
水草のなかを
何度もつついている
そこにおめあてのものがあるとでも思っているのだろうか
ファレル
ぼくの思考は
ぼくのからだを包む百枚の葉のように
つめたくあたたかい
わかくて老いているころから
わかっていた
流れながらとどまり
とどまりながら流れていた
ファレル
ぼくのにごった水の上を走り去る鋼鉄の雲よ
ぼくの手は
アクアポリスの背景をなぞる
なぜなぞるのだろう
百枚の葉はじつは百羽の鳥だった
百羽の鳥の喉を通して
ぼくは考えていたのだ
ファレル
きみも気がつくべきだった
ぼくにやさしくつめたい
どうしたのかしら
そんなところで
ゴミ箱が隠れてた
ぼくにはわからないんだけど
いっしょうけんめい知識を深めることに専念していると
ふつうのゴミ箱のことがわからなくなるのかもしれない
ゴミ箱が人間の形をしてた
にょきにょきと手足を生やして
ぼくのところにきた
ぼくは
ぽこんとゴミ箱をたたいた
ゴミ箱は痛がらなかった
比喩じゃない
比喩は痛くない
人間じゃないから
人間かも
人間なら蹴ったら痛いかも
蹴ってみたら
ぼくはまだ人間を蹴ったことがない
人間以外のものも蹴ったことがない
蹴る勇気をもつことは大切だ
手で殴るということもしたことがない
ものも殴ったことがない
勇気のない者は永遠に報われない

それもいいかもにょ
苦痛がやってきて
ぼくの鼻から入ってくる
苦痛がぼくを呼吸し
やがてぼくの神経に根を下ろす
鈴の音が鳴る
財布につけた鈴の大きさに
月が鳴っている
ゼノサイド
月を血まみれの両の手がつかんでいる
月の大きさの眼球が
地球の海を見つめている
海は縛りつけられた従兄弟のように
干からびていく
宇治茶もいいね
宇治茶もおいしいね
ジミーちゃんと話してるとホットするよ
そてつ
そうでつ
お母さんを冷凍してゆしゅつすることを考える
緊急輸出
脊髄はちゃんと除去してからでないと輸出してはいけません
冷凍怪獣バルゴンっていたな
人間の死体を冷凍して輸出することは法に違反しているのかしら
冷凍ママ
冷凍パパ
なんてスカンジナヴィアで売っていそう
アイスキャンディーになったママやパパもおいしそうだし
ペロペロペロッチ
冷凍パパは生きてたときとおなじように固いし
体以上に固い
体も硬いけどね
冷凍パパが飛行機で到着
到着うんちが便器のへりを駆け巡る
飛行うんちが飛び交う男子用トイレで
マグロフレークが
未消化のレタスと千切り大根の
指令書がファックスで送られてくる
そてつ
そうでつ
冷凍パパと記念写真
携帯でパシャ
パシャ
冷凍ママも
パシャ
パシャ
ハロゲンヒーターのハロゲン
行くのね
ゼノサイド
ちゃうちゃう
おとついジミーちゃんに
ホロコーストの語源って知ってる
って訊かれた
覚えてなかった
うかつだった
焼き殺す
うううん
焼き殺しつくすのね
ぼくの直線にならんだ数珠つなぎの目ん玉
螺旋にくるくるくるくる舞ってるのね
新体操のリボンのように



二〇一六年十月六日 「Fくん」


いま日知庵から帰った。Fくんに合って、帰りは、方向がいっしょだったので、タクシーに乗せてもらって、西院駅まで送ってもらって。きょうも、いっぱい仕事した。今日、一日のうち、いちばん、うれしかったのは、Fくんと日知庵でばったり合ったことかな。で、話して。でへっ。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月七日 「脱字」


カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』3分の1くらい読めた。会話がとても少なくて、情景描写ばかりで、P・D・ジェイムズもそうだけど、ぼくの好きな英国女性作家の作品は読みにくい。だけど、その情景描写が繊細で、かつ的確なので、楽しめて読めるものになっている。内容は神経症的な世界だけど。

アンナ・カヴァン『チェンジ・ザ・ネーム』 脱字 95ページ3行目「鋼砥(はがめと)の上で」 ルビに「ぎ」が抜けている。


二〇一六年十月八日 「られぐろ」


拷問を受けているような感じで、きょうもカヴァンを読む。

郵便受けから入っていた封筒を取り、部屋に戻って、袋を開けると、武田 肇さんから、詩集『られぐろ』を送っていただいていた。高名な方で、ぼくが雑誌に書いてた時期に何度もお名前を拝見したことはあったが、その御作品を目にするのは、はじめて。帯に書かれた言葉とまったく異なる印象の本文だった。数多くの短い断章の連なりに見えるのだが、作者は、それらを2つに分けて、長篇詩としているのだ。それも、プロローグとエピローグの2つに。短詩を組詩にして長篇化することは、ぼくもよくする手法であるが、ぼくのような作品の印象ではなくて、まるで、いくつもの短歌的な構成物を物語風に散文化したものを目にするかのような印象だった。これは作者が短歌に造詣が深いことを、ぼくが知っていることからくる先入観かもしれない。しかし、いくつか断章を目にする限り、その印象は間違っていないように思う。カヴァンの『チャンジ・ザ・ネーム』をほっぽいて、先に、武田 肇さんから頂戴したほうを読もう。どの断章も三行で、改行詩のようになっていたり、散文詩のようになっていたりと、読みやすい。ひとつ、ふたつ、採り上げてみよう。みっつよっつになったりして。


森の。 雪で遊ぶ人人
めいめいに内心を抱えながら、花めきながら、
じつはただ一人が居るだけなのだが。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「森の。 雪で遊ぶ人人」)


この世のすべての顔━━良いかほも悪いかほも━━を足すと
おびんずるさまになるのかもしれない
この世のすべての土地━━良い土地も悪い土地も━━足すと

(武田 肇 られぐろ・エピローグ『この世のすべての顔」旧漢字をいまの漢字に改めまて引用した。)


午前九時十五分 短針が僅かに上昇をはじめる
こんなときだ
ぼくから他のぼくがぞろぞろ遊離してゆくのは。

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「午前九時十五分」)


なぜギリシアが在り日本が在るのだろう 異なる偶然な二つの地形が
アブ ダビでしぜんに泛んだ二つの微笑みが
なぜアフリカが在りローマが在るのだろう 異なる偶然な二つの暗黒が

(武田 肇 られぐろ・エピローグ「なぜ義理合会が在り日本が」)


とてもシンプルな表紙なのだが、魅力的だ。画像に撮ってみた。私家版だそうだ。貴重な1冊をいただいた。
https://pic.twitter.com/TaT5WRaIDK

ありゃ。武田 肇さんの詩集『られぐろ』に収録されている断章、すべて3行の、改行詩だった。ストーリーを追って読んだものが、ぼくに散文詩のような印象を与えたのだろう。すべて改行詩の3行詩だった。カヴァンよりはるかに読みやすいし、興味深い詩句が見られる。ひゃっ。いま裏表紙みて、びっくりした。200部限定の私家版だった。送り先に、ぼくのような者を入れてくださったことに、改めて深い感謝の念が生じた。とても貴重な1冊。いまも、武田 肇さんの詩集『られぐろ』を読んでいて思ったのだけれど、詩のほうが読みやすいのに、なぜ世間では、小説ばかりが読まれるんだろう。T・S・エリオットとか、エズラ・パウンドとか、ウォレス・スティヴンズとか、笑い転げて読んじゃうんだけど。ぼくが翻訳したLGBTIQの詩人たちの英詩のなかにも、笑い転げるようなものもあったと思うんだけど。日本の詩人では、モダニズム時代の詩人のものなんか読んだら、もう小説どころじゃなくなると思うんだけど、日本の国語教育はモダニズム系の詩人を除外している。そいえば、ゲーテの『ファウスト』も読まれていないらしい。あんなにおもしろい詩なのに。どんなにおもしろいかは、ぼくは、『The Wasteless Land.』でパスティーシュを書いてるくらいだけど、『ファウスト』にも、ぼくは大いに笑わせられた。


二〇一六年十月九日 「頭のよいひとは説明を求めない。」


頭のよいひとは説明を求めない。自分で考えるからだ。発言者の頭のなかで、なにがどうなっているのかを。

文学極道の詩投稿掲示板のコメントを見て、いちばんびっくりするのは、作者に説明を求めることである。

毎日のように、amazon で自分の詩集の売れ行きチェックをしているのだが、『詩の日めくり』第一巻が、きょうか、きのう、1冊売れたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788621/ref=la_B004LA45K6_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1475919453&sr=1-5

11月に、ハヤカワから、バリントン・J・ベイリーの短篇集が出るらしい。買いたくなるような本を出さないでほしい。未読の本が、ぼくが死ぬまで待ってるんだから。

マーク・ボラン、永遠に若くてかっこいいままなんて、なんだか卑怯だ。

11月に書肆ブンから出る、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の表紙は、35歳のときのぼくの写真だ。そのくらいのときに死んでいたら、ぼくの半分以上の詩集はなかったことになる。それは、それで、よかったのかもしれないけれど。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

アンナ・カヴァンの『チェンジ・ザ・ネーム』を読み終わった。英国女性作家のえげつない作品を読んだ。自己愛しか持たない女性が主人公なのだけれど、他の登場人物も、それなりに自己愛の塊で、まあ、それが人間なのだろうけれど、言葉で表現されると、本当に、人間というものがえげつないと思われる。読むのが苦痛に近いけれど、これから、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読む。飽きたら、すぐにやめるけれど。いまなら、少しは読めるような気がする。


二〇一六年十月十日 「奇蹟という名の蜜」


加藤思何理(かとうしかり)さんという方から、『奇蹟という名の蜜』(土曜美術社)という詩集を送っていただいていた。奇想・奇譚の部類の詩篇が並んでいる。グロテスクなものも多く、作者の好みが、ぼくの好みと一致している。部分引用がきわめて難しい緻密な構成をしている詩篇が多い。一部だけ引用してみよう。


さらに歩けば、奇妙な名称の部屋が視野に現われはじめる。
たとえば、受難室。
逃避室。
遡行室。
転調室。
反復室。
分岐室。
寓意室。
逆説室。
あるいは蛹化室。

(加藤思何理「赤いスパナの謎」)


一度読んだら忘れられないような悪夢のような描写の連続である。詩集の表紙はポップなのだけれど。
https://pic.twitter.com/9jxrhdMero

もう30年ほどもむかしの話。20才を出てたかな、仕事で右手の親指をなくした男の子が言った言葉がずっと耳に残っている。人生って、不思議だね。何気ない一言なのに。「友だちのために何かできるなんて、そんなにうれしいことはないと思う。」忘れられない一言だった。

カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んで寝よう。暗くて、会話がほとんどなくて、字が詰まっている紙面で、ほんとうに読みにくい。しかし、ほんものの作家だけが持っている描写力はひしひしと感じられる。でなければ、読まないけれど。


二〇一六年十月十一日 「ぽっくり死ぬ方法」


きょうは、一行もカヴァンを読んでいない。これからクスリのんで横になって、ちょっとは読もう。カヴァンを読んでいると、P・D・ジェイムズを思い出す。読むのに難渋したけど、さいごのほうで、すべてが結びつく快感というのか、そう、快感だな。そこに至るまでが、かなりきついんだけどね。まあね。

このあいだ、「ぽっくり死ぬ方法」っていうので検索したら、「健康で長生きしたらぽっくり死にます」って書いてあって、ぼくはそういう答えを期待したわけじゃないけど、へんに納得してしまった。

いま塾から帰った。塾の空き時間に、アンナ・カヴァンの『鷲の巣』のつづきを読んでいた。だいたい半分くらいのところだ。それにしても読みにくい。P・D・ジェイムズも相当に読みにくい作家だったけれど、ヴァージニア・ウルフを入れて、「読みにくいイギリス女性作家三人組」と名付けることにした。

アンナ・カヴァンの『鷲の巣』を読み終わった。カフカを読んでいるような感じだった。『チェンジ・ザ・ネーム』のほうが、独自性に富んでいたように思う。誤字・脱字はなかった。


二〇一六年十月十二日 「ぼくはひとりで帰った」


楽天のフリマで
高い本って
どんなのがあるのかしらと思って
さがしていたら
10万円のがあったのよ
マニアスイゼンノマトね
って思った
そのときふとした疑問がわきおこった
日本語って難しい
スイゼンってどう書くのかしら
スイはわかる
垂れるって漢字
でもゼンはわからない
辞書で見てみたら

よだれとも読むのね
そういえば
あったわ
バナナの涎
そうよ
バナナよ
バナナ
バナナなのよねー
バナナの涎なのよ
口から垂れたわ
バナナの涎が
バナナ味の涎なのよ
子供のころ

歯を磨いてるときに
口から垂れたのよ
バナナ味の練り歯磨きの涎が
自分の傷口に溺れて
アップアップ
電話のシャワーを浴びて
シャワーを電話に向ける
新しい電話だと思ってたら
昔の電話だった
電話から離れる
フンフン
それでも返事だけはあって
離れられない
ススメ学問
福澤アナ
きょうカキツバタを太田神社に行って
見てきた
なんてことはなかった
帰りに
アイスコーヒーを飲んだ
ネットカフェに寄ると
犬をつれた婦人が
そばを通った
よく見ると
どの席にも
犬がたたずんでいた
ぼくはひとりで帰った


二〇一六年十月十三日 「きょう、母さん、死んだのよ」


帰ってすぐに
実母から電話があった
「きょう
 母さん
 死んだのよ」
「えっ」
「きょう
 母さん
 車にぶつかって死んでしまったのよ」
気の狂った母親の言葉を耳にしながら
お茶をゴクリ
「また何度でも死にますよ」
「そうよね」
「またきっと車にぶつかりますよ」
「そうかしらね」
母親の沈黙が一分ほどつづいたので
受話器を置きました
母親も病気なのですが
ぼくよりもずっと性質が悪くて
悪意のない悪意に満ちていて
ぼくのこころを曇らせます
まあ
こんな話はどうでもよくて
郵便受けのなかには
手紙もあって
文面に
「雨なので……」
とあって
からっと晴れた
きょう一日のなかで
雨の日の
遠い記憶をいくつか
頭のなかで並べたりして
読書をさぼってしまいました

キリンはりんごで
グレープはあしかだった


二〇一六年十月十四日 「ボブ・ディラン」


いま日知庵から帰った。日知庵で、ノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞したこと知って、めっちゃうれしかった。Fくんといっしょに祝したんだけど、Fくんといっしょに飲んでることくらいに、うれしかった。ぼくの大好きなFくんですから。いや〜、ディラン、Fくん、大好き。明日から景色が変わる。

いま、じぶんのブログのアクセス数を見たんだけど、楽天ブログのきのうの13日のアクセス数が147もあって、これまでの最高記録だったので、びっくり。だれか、ぼくのこと、どこかで書いてくれてたのかもね。かもね〜。

ジーン・ウルフ『ナイト』I 脱字 79ページ15行目「(…)わたしよりも高いぐらいで、しかも せていました」 これは「や」が抜けているのだなと思う。

ジーン・ウルフにしては、つまらない。全4巻買っちゃったので、読むと思うけど、ああ、寝るまえの読書は違うものにしよう。ひさしぶりに、アンソロジー『恐怖の愉しみ』のつづきを読もうかな。


二〇一六年十月十五日 「右肘の激痛」


きょうは、右肘の関節の痛みで夜中の2時過ぎに目がさめてから寝ていないので、ちょっと昼寝をしようと思う。


二〇一六年十月十六日 「キッス」


青年が老女にキッスした。老女は若い美しい女性へと変身した。青年は老人になっていた。彼女が老人にキッスした。すると老人は若い美しい青年と変身した。彼女は老女に戻った。二人がキッスを繰り返すたびに、このことが繰り返された。

あした、大谷良太くんちに行って、詩集『みんな、きみのことが好きだった。』(書肆ブン・2016年12月刊行予定)のさいごのチェックをする。きょうは、なにも読みもしなかったし、書きもしなかった。でも、体調がよくないので、このままはやめに寝る。


二〇一六年十月十七日 「きょうは、鳩がよく死ぬ日だった。」


きょうは、鳩がよく死ぬ日だったのかもしれない。大谷良太くんと向島駅で待ち合わせて、良太くんちに行く途中、道の上で鳩の死骸があって、また、いま、きみやの帰りに、セブイレに寄ったんだけど、帰り道で、鳩の死骸が落ちてるのを見たんだけど、一日のうちに鳩の死骸を2回も見るのは、はじめて。

きみやに寄る前にジュンク堂で詩集のコーナーで、いろいろ詩集を手にして読んでたんだけど、ああ、そうだ、ハル・クレメントの『20億の針』を買おうかなと思って4階に行ったら、『一千億の針』しかなくって、ああ、売れてんだなと思って帰ったら、amazon で買おうと思ったのだけれど、帰りに西院の「あおい書店」に寄ったら、『20億の針』もあったので、『一千億の針』といっしょに買った。さいきん読んでる本がおそろしくつまんないのだけれど、1カ月か2か月前に書店でチラ読みした『20億の針』の冒頭がめちゃくちゃおもしろいことを思い出して買ったのだった。さて、買ったものの、読んだつづきも、おもしろいだろうか。ふううむ。ひゃ〜、いまページをめくったら、『20億の針』の原作の出版が、1950年だって。SFがいちばんおもしろかったころだね。そりゃ、おもしろいはず。創元も復刊するはずだわ。

きょうは、大谷良太くんちで、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』の最終校正をしたのだけれど、振り返ると、ぼくは、しじゅう、自分の詩に手を入れてるので、「反射光」だけでも、詩集でバリエーションが4種類ある。最終的に収録した詩集のものが決定版になるのだと思うのだけれど、いまのところ、ことしの12月に書肆ブンから出る、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した詩が決定版になると思う。もう、「反射光」には、手を入れるつもりはないし、ほかの詩も、『みんな、きみのことが好きだった。』に収録した分については、これ以上、手を入れるつもりはない。きょうは、ハル・クレメントの『20億の針』のつづきを読みながら寝よう。そだ。CDが1枚、届いた。韓国のきれいなお嬢さんのCDだ。韓国語が読めないから、名前が出てこないけれど、このあいだ、ツイートしたアーティストのものだ。いまかけたのだけれど、言葉はわからないけれど、雰囲気はすごくよい。ポスターがついてたけれど、容姿には興味がないので、ポスターは捨てるけど、曲の雰囲気は、いま2曲目にうつったところだけど、いい。ジャジーで、だるい感じだ。

こんな曲を歌ってらっしゃる方だ。

https://www.youtube.com/watch?v=XrPxksvrB2g&feature=share

というか、創元、バラードの『ハイーライズ』も復刊してたし。ハヤカワのラインアップは10月までに関してはぜんぜんいいのがなかったけれど、この秋は創元のほうがいいね。11月にハヤカワがバリントン・J・ベイリーの短篇集を出すというので、それだけが救いかな。

ちなみに、きょう、大谷良太くんちで、最終校正した、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』です。表紙は、35歳のときのぼくです。20年まえの写真です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4990788664/ref=cm_sw_r_apa_Lca6xbAV5FXB8

ひゃ〜。いま創元のHPを見たら、アン・レッキーの三部作の完結篇・第三部『星群艦隊』が10月28日に出るっていうじゃないか。創元、すごい。第一部でぶっ飛び、第二部で堪能したラドキ戦記(だったかな?)。第三部がどうなるのか、たいへん、ひじょうに楽しみ。いまネットで調べたら、「ラドチ」だった。本棚の本で調べるよりも、ネットでさぐるってのが、めんどくさがりやのぼくらしい。そうだ。「ラドチ」だった。どうして、「ラドキ」って思ったのだろう。

そだ。韓国から届いたCD、ポスターだけじゃなくて、キャンディーも2個はいってて、サービス満点だった。


二〇一六年十月十八日 「20億の針」


ハル・クレメントの『20億の針』が、読んでて、すいすい読み進める。そりゃ、創元も再版するわな。新訳でだけど、ちょっと残念なのがカヴァー・デザイン。やっぱり、続篇の『一千億の針』とのダブル・カヴァーでなくっちゃ、よろしくなかったと思うのだけれど、まあ、いいか。


二〇一六年十月十九日 「一千億の針」


『20億の針』5分の4は読み終わった。きょう寝るまでに読み切れないかもしれないけれど、ひじょうにわかりやすいし、おもしろいSFだ。やっぱり読むものは、おもしくなくちゃね。

『20億の針』読み終わった。犯人は、3分の2くらい読んだときに、この人物かなっと思った人物だった。犯人というか、宿主は。これから続篇の『一千億の針』の解説を読んで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十日 「久しぶりに、吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った」


吉田くんと話をしようとして冷凍室に行った
吉田くんとは一週間前ほど前に話をしたのだけれど
話の途中で少し待ってもらうことにしたのだ
むかしは電話というものがあって
すこしの間の沈黙が不快な感じを与えたものであるが
冷凍庫が普及するにつれて
みな沈黙する間
そこに自分が入るか
相手に入ってもらうかして
沈黙にお時間をやりすごすことにして
コミュニケーションが以前より円滑に行くようになったのである
冷凍庫から出てすぐには
頭がはたらかないので
コーヒーを二杯飲んでから話をすることにしている
吉田くんの前にコーヒーを置いて
完全解凍するのを待った
三時間ほどして
吉田くんの意識がはっきりしてから
ぼくたちは一週間前に中断していた話の続きをはじめた
アフガニスタンの青年のペニスは
ユリのめしべにそっくりだった
トイレで爆発
ホモフォビアの連中の仕業
スカンクのからだを
けりつづける
骨が砕けて
水枕のようにやわらかくなった
スカンク
ヤンキー風の青年は
といっても二十歳にはまだなっていない
少年は
はじめてのセックスは犬とだった
まじめな顔をして言う青年に唖然とする
ドラッグブルーとドラッグレッドのために
キッズがドクターを襲う
トイレに凍結地雷を仕掛けるホモフォビアの青年
「どうでもいいじゃないか
あいつらのことなんて
なんで
おれがこんなことをしなきゃやならないんだ
それに
いくらゲイだからといって
こんなものを仕掛けられなければならないってことはないだろうし
ああ……」
その青年の意識から叙述する
犬人間に小便を引っ掛けるキッズたち
ゴーストの意識から叙述する
ゴーストには違って見える
一枚一枚の葉っぱが人間の目に
藪のなかの暗闇が無数の人間の唇に
テロ
トイレで爆発
すぐにニュースが流れる
ハンカチが新聞になる
新聞が語る
そうだ
凍結地雷が
トイレのなかに仕掛けられていた
凍りついた人間犬
犬のように四つんばいになっている奴隷人間
その奴隷人間にしがみついている主人
奴隷人間の首からぶら下がったプラカード
「こいつは犬です
犬野郎です
虐げてやってください
辱めてやってください
小便を飲ませてやってください」
能の舞をする貴族
真剣の刀を振り回す九条家の御曹司
ホモフォビアのテロ攻撃
ドクター
ちんぴらキッズ
テロの爆発のすぐあとに
対話型ニュースペーパーで
犬奴隷が凍結地雷で
凍りついた姿で
トイレの前にいるのを知る
凍りついた犬奴隷に
小便をかけるキッズたち
小便のぬくもりで凍りついた犬奴隷が
じょじょに解凍されていく
ニュースペーパーで
その画像をみる青年


二〇一六年十月二十一日 「きょうは一日じゅう」


疲れがたまっていたのか、きょうはずっと寝ていた。まだ眠い。


二〇一六年十月二十二日 「筋肉の硬化」


ネットで調べてたら、筋肉の硬化は45才くらいからはじまるらしい。関節も動かさないでいると、動かなくなるらしい。やっぱり運動しなくてはいけないみたいだ。運動をまったくしないで生きてきたので、ここ1年ばかり、関節や筋肉が痛いのだな。

「苦痛こそ神である」という詩句を書いたことがあるけど、いまこうむっている関節と筋肉の痛みは半端なくて、睡眠薬をのんでいても、苦痛で夜中に目がさめるのだけれど、これが生きているということかもしれないとも思った。

でもまあ、いいか。身体はきつくなってきたけれど、この年齢でしか書けなかったものもあるのだし、と考えると、若くて亡くなった友人たちのことが頭に思い浮かぶ。彼らはみな、15歳のまま、二十歳すぎのまま、永遠に若くて、うつくしい。

とにかく、毎日、生きていくのがやっとという状態で生きているけれど、神さまも、そう残酷ではいらっしゃらないだろうから、そんなに長く、ぼくを苦痛の下に置いておかれることはないと思うのだけれど、わからない。

FBで、笑ける動画があったのでシェアした。5回連続再生して、5回とも声を出して笑ってしまった。まだ笑える自分がいることを、ひさしぶりに知った。ここ最近、笑った記憶がなかった。

ユーミンのアルバムを3つ買った。1枚も持っていなかったのだ。LP時代に持ってた2枚と3枚組のベスト。2枚のアルバムは、「時のないホテル」と「REINCARNATION」。ちょっと感傷的になってるのかなあ。さっき、「守ってあげたい」をチューブで聴いて、フトシくんのこと思い出したし。

チューリップのアルバムも買った。タイトルは、「Someday Somewhere」。LP時代には2枚組だったけど、CDじゃ、どうなんだろ。あ、2枚組だ。

クスリのんで寝よう。ついつい、懐かしくって、LP時代に持ってたものを買ってしまった。ユーミンの3枚組ベストは別だけど。ちょうど10000円くらいの買い物だったんじゃないかな。さいきん、本代にお金をあまり使ってないから、いいか。

あ、10000円超えてた。粗い計算してるなあ。それでも、まあ、55年、生きてきたのだし。あと数か月で、56才になるんだし。部屋にあるもの、好きなものばっかしだし。本に、CDに、DVDに、怪獣のソフビ人形に、って、これだけか。単純な人生だわ。いつ死んでもよい。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十三日 「全行引用詩」


言葉とは何か、自我とは何か、という命題をもっとも簡潔に表現できる対象として、哲学があげられるが、ぼくには、哲学は、新プラトン主義で目いっぱいなので、詩を通して考えることにしているのだが、ぼくの方法がしばしば拒絶的な反応を引き起こすことが、ぼくには不思議で仕方ないのだが、どうだろ。引用だけで作品をつくって、30年くらいになるのだが、いまだに批判されているのだが、ぼくには批判されている理由がまったくわからない。著作権法に関して引用の項目をクリアできるように、引用元を逐一、本文に掲載しているにもかかわらずである。ひとりの作者からの引用は違法性が高いので、なるべくたくさんの作者からの引用で構成しているのだが。まあ、ぼくのつくる「全行引用詩」が、容易につくれると思って批判している様子も見受けられるが、つくるのが容易でないのは、つくってみれば明らかなのだが、しかし、もしも容易ならば、ぼくは容易に作品がつくれるような方法を提示したことになる。ぼくのつくったものに、個々のピースに関連性がないものがあると指摘する者がいたが、必ず詩句には関連性がなければならないと主張することは、ぼくには意味がないと思われるのだが、そんな基本的な事柄においてでさえ、見解が異なるのだが、ぼくは、ぼくの信念によって、作品をつくりつづけるしかないと思っているのだが、あまりにも批判的な見解が多いので、ほんとうにびっくりしている。引用において個性が発現するという見解さえ持ち合わせていない御仁もいらっしゃるのだ。関連性のないように思われるものを、関連性のあるもののあいだに置くと、言葉がどのような影響を受けるのかとかいった実験もかねているのだが、ぼくの「全行引用詩」における実験性にはまったく言及がないというのが現状である。30年近く、「全行引用詩」を書いているのだが、ぼくが生きているあいだに、ぼくの「全行引用詩」は、ごく少数の方たちからしか理解されないのかもしれない。まあ、それでもいいのだけれど。ぼくの人生は、ぼくが歩んでいくもので、その途中でへんな邪魔さえされなければいいかなと思っている。

きのうのうちに、『詩の日めくり』の第二巻が1冊売れてたみたいだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/499078863X/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477214789&sr=1-8

ハル・クレメントの『一千億の針』 予想ができない展開で、いまちょうど半分くらいのページまで読めた。きょうは、寝るまでつづきを読もう。

いま思い出したのだが、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」について、とてもおもしろくて、有益な見解を示してくださったゼッケンさんという方がいらっしゃった。また、ネットのなかで、ぼくの「全行引用詩」のおもしろい解析をされた、こひもともひこさんがいらっしゃった。また、澤あづささんは、ぼくの「全行引用詩」を評価してくださって、『全行引用詩・五部作』上下巻の序詩をネット上で紹介してくださった。あまつさえ、澤あづささんは、すずらんさんとともに、文学極道の詩投稿掲示板で、ぼくの「全行引用詩」を擁護してくださった。すずらんさんは、また、ぼくの「全行引用詩・五部作」をご自身のブログに転載くださったのだった。ありがたいことだと思う。ついつい、ひとり孤立しているかのように錯覚してしまっていた。批判ばかり目にしてしまって、冷静さを失っていたようだ。

ひさびさに、 VERY BAD POETRY と The World's WORST POETRY のページをめくった。日本には、こういった類の詩のアンソロジーがないのだね。あったら、ぼくなら、すぐ買っちゃうけどな。こういうものがないっていうのは、日本の国民の気質によるのかな。ユーモアという部分だけど、たとえば、紫 式部の持っていたユーモアって、ちょっと、ぼくの抱いているユーモアより皮肉に近い感じだしね。ああ、もうこんな時間だ。クスリのんで寝ます。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十四日 「騙る」


ジーン・ウルフ 『ナイト I』 脱字 179ページ終わりから3行目「騎士の名を る連中が」  「名乗」が抜けている。それに加えて、この部分の「を」の文字の上に「1」という数字が重なっている。いったい、どういう校正家をやとっているのだろう、国書刊行会。この本、これで2か所の脱字だ。

国書さんからメッセージがあって、正誤表を見せていただいたら、ぼくが指摘したところ、「名乗」じゃなくて、「騙」だった。たしかに「騙る」しかないな。ぼくの詰めが甘いというか、言葉について、まだまだだなってことだな。ああ、恥ずかしい。詩を書いて約30年。

ユーミンのベスト『日本の恋とユーミンと。』が到着。さっきからかけてるんだけど、3枚目のCDの選曲、ぼくにはよろしくない。しかし、まあ、1枚目と2枚目のCDには、なつかしいものがつまっていてよい。「守ってあげたい」で、フトシくんの記憶がよみがえる。ぼくが23才で、彼が21才だった。フトシくんが、ときどき、ぼくの目を見つめながら、マイクを握って、カラオケで「守ってあげたい」を歌ってくれたのだけれど、フトシくんのことはまだちゃんと書いてなかったから、そのうち書こう。フトシくんはイラストを描くのが趣味だった。やさしい男の子だった。

きょう届いたユーミンのベストに、「瞳を閉じて」が入ってなかったので、amazon で、『MISSLIM』を買った。

あとすこしで、ジーン・ウルフの『ナイト I』を読み終わる。

ユーミンの「海を見ていた午後」を10回連続くらいで聴いている。ひさしぶりに日本語の曲を耳にして、日本語の歌詞に耳を傾けている。

ユーミンの曲の影響だろう。きょうは、しじゅう、フトシくんのことを思い出していた。失ったのではなく、築くことができなかった時間について考えていたのだった。もしも、もしも、もしも、……。やっぱり、ぼくたちは、百億の嘘と千億のもしもからできているような気がする。

現実の生活では、いっさいユーモアのない生き方をしている。書くものは、ユーモアを第一に考えているというのに。矛盾しているのだろうか。


二〇一六年十月二十五日 「フトシくん」


ユーミンの『時のないホテル』と『REINCARNATION』が到着。何十年ぶりに聴くのだろう。『時のないホテル』から聴いている。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思いながら聴いている。

野菜でできた羊。野菜でできた棺。野菜でできた執事。野菜でできた7時。

ジーン・ウルフ 『ナイト II』 誤字 38ページ 6行目「どんな感じが確かめようと」 これは「が」じゃなくて「か」ですね。脱字だけではなくて、誤字もあったのですね。なんだかなあ。国書刊行会の校正家はぜったいにほかの人に替えてほしいなあと思う。読んでて興ざめる。

2枚のアルバムが届いても、ベストに入ってた「海を見ていた午後」を繰り返し聴いている。この曲が思い起こさせるイメージが、強烈にフトシくんとのことを思い出させるのだ。『ブレードランナー』の映画にでてくるレプリカントのひとりのセリフが木霊していた。「おれの目はあらゆる美しいものをみた」だったかな。フトシくんとは短いあいだしか付き合ってなかったけれど。そうだ。フトシくんとは、その後、一度も会っていないのだけれど、これまでの経験で、10年とか20年とか会っていないと、別人のように変貌してしまっていることが多くて、ぼくは、塾からの帰り道、「そうだ。ぼくの目もたくさんのうつくしい者たちの姿を見てきたけれど、そのうつくしい姿がうつくしくなくなるのまで見てきたのだ。」と思ったのだった。2週間ほどまえ、むかし、かわいいなあと思ってたひとと河原町ですれ違った。いまはもう微塵もかわいらしいとは思えなかった。ぼくの目は表面しか見えないようだ。これまで付き合ってきた男の子たちとは、いちばんうつくしいときに出合って、別れたのだと思う。ぼくの作品は、そのうつくしさを写し取っているだろうか。「高野川」、「夏の思い出」といったものが、それだけど、「どこからも同じくらい遠い場所」や「陽の埋葬」のいくつかも、その類のものだった。そういえば、思潮社オンデマンドから出た『ゲイ・ポエムズ』のさいごに収載した作品にもうつくしい青年が出てくる。ぼくの性格からくるものだろうけれど、自分のほうから相手の名前を聞くことができなかった青年のひとりだった。そういえば、「月に一度くらいやけど、女よりも男のほうがいいと思えるねん。」と言っていた中国人の青年の名前もわからない。

「海を見ていた午後」が入っているオリジナル・アルバムは、あしたくらいに到着するだろう。「うつくしくなくなるのまで見てきた」なんと浅はかで、薄っぺらい目をしているのだろう、ぼくの目は。でも、この目でしか、ぼくには見えないのだから、仕方ないな。

ほんものの詩人って、どんな目をしているのだろう。


二〇一六年十月二十六日 「チューリップは失敗だった。」


これから塾へ。きょうも学校から帰って、到着したユーミンの『MISSLIM』を聴いていた。なかでも、「海を見ていた午後」を何回も聴いていた。どうしても、フトシくんのことが思い出される。

塾から帰ったら郵便受けに、チューリップの『Someday Somewhere』が到着してた。さっそく聴いてる。ああ、こんな曲があったなあと、なつかしく思い出してる。出来のバラバラの楽曲たち。こんなへんてこな2枚組のアルバムだったんだと思ってる。四人囃子の出来とは愕然と異なる。アルバム評価が高い理由がわからない。懐かしくてよい曲はあるのだが、数曲だった。買わなきゃよかった。ついでに買おうと思ったのが間違いか。なんか聴きつづけてて、気持ち悪くなった。いい曲だけ聴くことにするけど、なんか、めっちゃ損した気分。出来は1枚目よりも2枚目のほうがいいと思うけれど、財津和夫の声って、こんな気持ち悪かったっけ、と思うほど。なんだろう。高校生のときはよく聴いてたのに。

四人囃子のもので1枚欲しいと思っていたのがあって、amazon 見たら、森園勝敏のアルバムが2014年に再発売されていたので、3枚買った。1枚900円ほどで、いま2000円を超えたら送料無料になってたので、3枚のアルバムを買っても2700円台だった。これは、ミスなしによいと思う。

いや、チューリップ、ほんとダメだわ。こんなんやったんやって感じ。聴けば聴くほど、財津和夫の声が気持ち悪い。だからか、ほかのボーカリストの曲がいいと思うのか、財津和夫じゃないボーカルの曲を選んで聴いている。例外は、1曲だけ。「8億光年の彼方へ」 これは許せる。これとタイトル曲くらいかな。「哀別の日」のようないい曲が、あと何曲かあればいいのに。「まだ闇の内」は好きな曲だった。チューリップは期待し過ぎだったのだなあと思う。いま、四人囃子の『ゴールデン・ピクニックス』を聴いてる。あ〜あ、なにしてるんだろう。まあ、いいか。そろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ!


二〇一六年十月二十七日 「脱字」


ジーン・ウルフ 『ナイト II』 脱字 317ページ 最終行 「あたかくてやわらかい」 「た」が抜けている。「あたたかくてやわらかい」だろう。


二〇一六年十月二十八日 「インスピレーションの枯渇」


いま日知庵から帰ってきた。竹上さんに、さいきん、ぼく、インスピレーションがわかなくって悩んでるの、と言うと、「映画でも見ましょう」ということで、11月3日にいっしょに映画を見ることになった。女性とふたりで映画を見るのは、ぼくの人生ではじめてのことなので、自分でもびっくりしている。

あしたはCD聴きまくって、ジーン・ウルフを読もう。『ナイト II』あともうちょっとで終わり。だんだんおもしろく、というか、かなしみのまじった、おもしろさに突入。時間の操り方が超絶なのだな、ジーン・ウルフは。ぼくも見習おう。

竹上さんを見習って、ぼくも小説を書こう。という話を、日知庵でしていた。というか、ぼくは、もともと、小説家になりたくて、家を出たのだった。小説はけっきょく、2作書くのに数年かかってしまったので、見切りをつけて、詩に移行したのだった。そのへんの事情は、「陽の埋葬」に書いているのだが。書いた小説のうち、SFは、『負の光輪』というタイトルで、ネットで検索してくだされば出てくると思うけれど、もう1作の自伝的な小説は一時期公開していたのだけれど、いまは読めないようにしてもらっている。『マインド・コンドーム』というタイトルのものだけれど。


二〇一六年十月二十九日 「森園勝敏」


森園勝敏のアルバム3枚到着。『JUST NOW & THEN』から聴いている。『クール・アレイ』、『スピリッツ』の順番に聴こうかな。逆でもいいけど。ここさいきん買ってる20枚くらいのアルバムのなかで、いちばんゴキゲンなナンバーばっかし。ベストアルバムに近いアルバムで、新曲は2曲だけなのだが、ほかの曲はリテイクらしい。ぼくに確実にわかるのは「レディ・バイオレット」だけだったけれど。聴き込めば、もっと違いがわかるかもしれない。

いま日知庵から帰った。はまちゃんに、ぜんぶ、ごちそうになった。ありがとうね。はまちゃん。いつか、ぼくが、お金持ちになったら、おごり返すからね。あっ、ぼくが、お金持ちになることはないか。でも、そういう気持ちはあるからね。はまちゃん。おやすみ、グッジョブ!

毎日、自分の詩集の売り上げチェックしてるんだけど、きょう、『詩の日めくり』第3巻が1冊、売れたようだ。うれしい。

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%81%E3%81%8F%E3%82%8A-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B7%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788648/ref=la_B004LA45K6_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1477758192&sr=1-8


二〇一六年十月三十日 「竹田先生」


きょう日知庵で、竹田先生に、「直販で買いますから、詩集を持ってきてください。」と言われた。書店流通じゃない詩集ね。書店で出たのはぜんぶ買ってくださってるから。これから、日知庵に行くときは、さいきん出た詩集を持って行かなくてはならない。10冊くらいあるんですけど〜。ことしだけで7冊出している。


二〇一六年十月三十一日 「誤字」


今月が31日まであることに、いま気がついた。おやすみ、グッジョブ!

ジーン・ウルフ 『ウィザード II』 誤字 238ページ 3行目 「見あげた心がけた。」 ここは、「心がけだ。」のはず。 このあいだ、国書さんから正誤表が郵送されてたけれど、まだまだありそうだな。 ほんと、国書の校正家は替えてほしい。安くない本なのだから。しかも4巻もの。


全行引用による自伝詩。

  田中宏輔



 こうなるとフェルナンドの狂的な公理の一つを認めないといけなくなる、偶然などありはしない、あるのは宿命だという。人は探しているものだけを見出すのであり、心のもっとも深く暗いところ、そのどこかに隠れているものを探す。そうでなければ二人の人間が同一人物に会ったとき、どうして二人の心に必ずしも同一の影響を与えるわけではない、そんなことになるのか? どうして革命家に会ったとき一人は革命に参加し、一人は革命に無関心のままでいるというようなことになるのか? それはおそらく人は最後には出会うべき人間に出会うことになっているからに違いない、したがって偶然というものは極めて限られたものとなる。わたしたちの人生においてまったくびっくりするような出会いというものは、たとえばわたしとフェルナンドの再会は、無関心な人間のあいだを通してわたしたちを近づける見知らぬ力の結果にほかならないのであり、それはちょうど鉄の粉が少し離れたところからでも強力な磁石の磁極に向かって引きつけられるようなものであり、仮に鉄の粉が現実を十分に把握しえないまでも自分の行為が少しでも理解できるとしたら、その動きにおそらくびっくりすることになるだろう。
(サバト『英雄たちと墓』IV・3、安藤哲行訳)

偶然なんです。
(カミラ・レックバリ『氷姫』III、原邦史朗訳)

(…)ある未知の展覧会で行きずりの偶然に──というのは彼らはいつもすべてを偶然に見るからだが──出会った、(…)
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。──なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。
(ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・三、西尾幹二訳)

 ある古人は、「われわれは偶然にまかせて生きているのだから、偶然がわれわれにたいしてこれほど力を持っているのは驚くにあたらない」と言っている。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第1章、荒木昭太郎訳)

頭のなかに全体のかたちを持っていない者にとっては一片一片を並べあわせることができない。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第10章、荒木昭太郎訳)

哲学は、われわれのうぬぼれと虚栄をたたくときほど、その決断のなさ、力の弱さ、無知を率直に認めるときほど、すぐれた働きをすることはないように、わたしには思われる。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

 りっぱな魂とは、普遍的な、開放的な、すべてのことにたいして用意のできている、教えこまれてはいなくても、少なくとも教育のすることの可能な魂のことだ。
(モンテーニュ『エセー』第II巻・第17章、荒木昭太郎訳)

 ジャスティンは、自分はここには一度も来たことがないという確信めいた印象をもった。それがなにかの意味をもつということではないけれど。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)

きみは生まれてまだ四日目なんだぞ──
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』13、川副智子訳)

その四日だけでもうたくさんだった。
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳)

四日もあったじゃないですか。
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)

四日間の空白を思うと、
(ナポレオン・ボナパルトの書簡、ジョゼフィーヌ・ボーアルネ宛、1796年3月30日付、平岡 敦訳)

また私です。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)

 さあ、アンリ、ロジーヌのところへ行くといいわ。私の大嫌いなロジーヌの腕に飛びこむといいわ。そうすればどんなに私も嬉しいか。だって、あなたの愛は、女の人生に起こりうる、最悪の不幸だもの。もしその女が幸せなら、あなたはその幸せを取りあげる。もしその女が健康なら、その健康を損なわせる。その女があなたを愛せば愛すほど、あなたはつらくあたり、野蛮にふるまう。その女が「大好きよ」とあなたに言った瞬間から、もうお決まりのことが始まるの。つまり、その女が耐えられなくなるまで痛めつけるのよ。
(クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、1824年7月4日付、松本百合子訳)

四日間の旅、あと二十四時間です。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』上巻・2、小隅 黎訳)

 いつもながら、クロードとかかわりのあるものは、どれもあいまいで、不可解で、疑わしい。アンナのような気性の激しい女性にとって、こうした積みかさねから出てくるものはただ一つ──怒りであった。
(ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下巻・29、小隅 黎訳)

きみには、何が見えるんだね?
(フレデリック・ポール『マン・プラス』10、矢野 徹訳)

四日後ではなく、
(フレデリック・ポール『マン・プラス』17、矢野 徹訳)

このつぎで四度めになるが、
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』下巻・第十部・125、酒井昭伸訳)

四日目の朝、わたしたちは眩しい日ざしで目をさました。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)

 だが、ジャックはヴォーナンからなんの情報も聞き出してはいなかった。そして、愚かにも、わたしはなにも気づかなかったのだ。
 どうしてわたしは気づかなかったのだろう?
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳)

「いっしょに歩こう」と、彼はいった。
(ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』17、浅倉久志訳)

(…)アリスは(…)考えたこともなかった。なにもかもひどく面くらうことばかりだった。そしてアリスは、自分が面くらうのが好きだということをわかっていなかった。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』36、細美遙子訳)

 詩人のロン・ブランリスはいいました、「われわれは驚きの泉なのです!」と。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

驚きあってこその人生ではないか。
(デイヴィッド・ブリン『スタータイド・ライジング』上巻・第三部・32、酒井昭伸訳)

理解は言葉を必要とする。物事のあるものは言葉にまで引き下ろすことができない。言葉なしでしか経験できない物事がある。
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)

そのような仮定の後ろには、言葉による信仰があり、(…)
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の異端者』第1巻、矢野 徹訳)

あなたの考えによると、鳥のいない世界では、人間が飛行機を発明したりしないんだろう! あなたはなんて馬鹿なんだ! 人間は何だって発明できるんだ!
(フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳)

 アリスはいつも二重に裏切られたような気分になるのだった──まず、だまされていたということに、そして次に、最後までちゃんとだましおおせてもらえなかったということに。
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』37、細美遙子訳)

四という数になにか魔術的な意味がこめられていたのだろうか、
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

(…)歯痛というのは日常茶飯のことなのに、ふしぎと文学ではあまり取り上げられない。歯痛を扱った作品としては『アンナ・カレーニナ』と『さかしま』と『ブッデンブローク家の人々』の三つぐらいしか思い浮かばないが、これらの小説では奥歯の痛みが忌わしい悪として語られている。おそらく歯痛が卑俗なものであるからだと思うが、それにしても上記の三作がいずれも優雅、上品、洗練された小説であるというのも奇妙なことである。それにひきかえ、結核のほうは文学作品の中で、克明に描き出されている。(…)
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』変容の館、木村榮一訳)

 ベルナンド・イグレシアスは、教会を意味するイグレシアスという名をもちながら、ついにその名に救われることはなかったが、考えてみると教会というものは人を救ったりはしないものだ。
(カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳)

いったいあなたは恋をしたことがおありになって?
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・1、野田昌宏訳)

ぐんにゃりと折れ曲がっている。
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第三部・1、野田昌宏訳)

大きくなってくる。
(ニール・R・ジョーンズ『双子惑星恐怖の遠心宇宙船』第一部・6、野田昌宏訳)

愛というものはうつくしいと同時に残酷なものです
(ニール・R・ジョーンズ『惑星ゾルの女王』第一部・4、野田昌宏訳)

でも必ず愛は勝つのね、そうでしょ?
(タビサ・キング『スモール・ワールド』14、みき 遙訳)

愛はすべてに打ち勝つ、と人はいう。
(ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』上巻・4、浅井 修訳)

美しさへの愛って、それほど強いものなのか?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第三章・1、冬川 亘訳)

 ラテン語の引用をするのもこれが最後、許してくれ。『愛はすべてに勝利する(アモール・ウインキツト・オムニア)』。ただし例外は不眠症(インソムニア)だけ。
(G・カブレラ=インファンテ『エソルド座の怪人』若島 正訳)

 ある日を境にして急にまわりの雰囲気が一変するというのは誰しもが知るところだろう。
(ヒュー・ウォルポール『白猫』佐々木 徹訳)

 クレオパトラが言ったように、あの出来事が傷のようにぼくをさいなんだ。その傷が今もなお疼くのは、傷自体の痛みのせいのみならず、そのまわりの組織が健全であるが故なのだ。
(L・P・ハートリー『顔』古谷美登里訳)

 もちろん、長期療養の後では、勤務はつらい。しかし、レター氏のあの口笛、突然陽気な気分になっては、また突然に無気力な様子になるあの変わりよう、あの砂色の髪にきたない歯が、わたしの怒りをめざめさせる。とりわけ、会社を出てから時間がたっても、あのメロディが頭の中でぐるぐるまわるときが、まるでレター氏を家に連れて帰るようなもの。
(ミュリエル・スパーク『棄ててきた女』若島 正訳)

 きのうの乞食はきょうの名士。ラビの女房は御者になる。馬泥棒は戻ってくれば共同体の長老だ。畜殺人は雄牛になって帰ってくる。
(アイザック・バシュビス・シンガー『死んだバイオリン弾き』4、大崎ふみ子訳)

こんどは何を知ることになるだろう?
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)

その物語が、なにかほかの意味だということはないのかね?
(ラリー・ニーヴン『時間外世界』第七章・3、冬川 亘訳)

 イノックはポンプを押した。ヒシャクがいっぱいになると、男はそれを、イノックにさしだした。水は冷たかった。それではじめて、イノックは、自分ものどが乾いていたことを知り、ヒシャクの底まで飲みほした。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』6、船戸牧子訳)

 もしかしたら、知るということは、こうした事柄のうちでは、いちばん重要な部分とはいえないのかもしれない。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』5、船戸牧子訳)

 それほどまでに執着を持ってしがみついているのは、偏狭というものかもしれない。おれは、この偏狭さのために、なにかを失っているのかもしれないな。
(クリフォード・D・シマック『中継ステーション』9、船戸牧子訳)

天国が公平なところだってだれがいいました?
(トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』49、細美遙子訳)

 母親がさまざまな狂信者とかかわりあったため、ヘレンは鋭い人間観察家に成長していた。人びとの筋肉には各人の秘めたる歴史が刻まれており、道ですれちがう赤の他人でさえ、(本人が望むと否とにかかわらず)そのもっとも内なる秘密を明かしていることを、ヘレンは知っていた。正しい光のもとで注意深く観察しさえすれば、その人の日常を彩る恐怖や希望や喜びを知り、その人がひた隠しにしている肉体的快楽のよりどころと結果を見抜き、その人に影響を与えた人びとのおぼろげな、しかし長く消えることのない反映を読みとることができるのだ。
(コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』5、伊藤典夫訳)

(…)骨と肉だけが顔を作るのではない──とブルーノは思った──つまり、顔は体に比べればそれほど物理的なものではない、顔は眼の表情、口の動き、皺をはじめとして、魂が肉を通して自らを現すそうした微妙な属性すべてによって特徴づけられるのだ。そのため誰かが死ぬその瞬間、肉体は突然何か別のものに、《同じ人とは思えない》と言いそうになるほど異なったものになるのだが、一瞬まえと、つまり、魂が肉体から離れるあの神秘的な瞬間の一瞬まえと同じ骨、同じ成分なのだ、そして、魂が離れると肉体はちょうど後に残された家のように生気を失くしてしまう。そこに住み、そこで苦しみ、愛しあった人々が永久に離れたあとの家のように。つまり、家を個性づけるものは壁でも天井でも床でもなく、会話を交わし、笑い声をあげ、愛情や憎悪を抱きつつそこで生を営む人間なのだ、非物質的とはいえ深遠な何か、顔に浮かぶ頬笑みのように物質的ではない何かで家を満たす人間なのだ、むろん、それは絨毯とか本、あるいは色といった物質を通して表に現れる。なぜなら、壁に掛けられた絵、ドアや窓に塗られた色、絨毯の模様、部屋に生けられた花、レコードや本といったものはそれが物質であるとはいえ(ちょうど唇や眉が肉体に属しているように)、魂を表明するものだからである。つまり、魂は物質を通さずにはわれわれの物質的な眼に現れることがない、これが魂のもつ一つの脆(もろ)さであり、また、奇妙な精妙さである。
(サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳)

牛についてなにを知っている?
(デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』8、川副智子訳)

馬鹿な牛たちとは
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』9、小川 隆訳)

神聖な牛だ。
(グレッグ・ベア『斜線都市』下巻・第三次サーチ結果・21/、冬川 亘訳)

うるわしき雌牛たちよ!
(イアン・ワトスン『我が魂は金魚鉢の中を泳ぎ』美嚢 透訳)

沈黙がつまりは正式な自白になる瞬間を待ちうけていた。
(マルセル・エイメ『パリ横断』中村真一郎訳)

夕闇がせまっていることに彼は気づいた。そして帰ってきた自宅は、これまで一度も暖炉の火をつけたこともなければ、暗がりに浮かびあがる家具がほほえみかけてもくれないし、だれも涙を流さず、だれも嘘をつかない場所だった。
(ウィリアム・トレヴァー『テーブル』若島 正訳)

 あきらめることができたら、きっと目が開かれて、しあわせになれる。くよくよしないで。まだ若いし、何年か苦しんだって損はしないさ。若さっていうのは、すぐ治る病気なんだ。ちがうかい?
(コードウェイナー・スミス『宝石の惑星』4、伊藤典夫訳)

エンダーには、そんな場所を自分の中にみつけることができなかった。
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』4、野口幸夫訳)

もしかすると、それこそが、あなたってひとなんじゃないかしら、あなたが記憶するものが
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)

世界は物語でいっぱい
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』15、野口幸夫訳)

思い出というのは、わたしたちにいたずらをするものよ
(オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』13、野口幸夫訳)

(…)性は渾然一体になることができず、その混淆と自然の潮流へわれわれを同時に連れて行ってはくれないのだから、とあんたに教えたのであった。つまり、その区別があってはじめてわれわれは互いに寄り添い、それを取り戻すために離れ離れになり、そして別人であるが故にまた触れ合いを求める、そのためにこそわれわれはばらばらであることを赦されているのであった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「それに場所よ。どんなところでも、たとえ想像でもいいから、あたしたちがふたたび生まれ変ることができるような場所があるはずだわ」
「場所ね、ドラゴーナ、しっかりと立っていられるようなところ。(…)」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

ティムの顔は、さまざまな感情の去来する場だった。
(ブライアン・W・オールディス『神様ごっこ』浅倉久志訳)

(…)永遠の業罰の静けさの中で、わたしはむせび泣いた。わたしの嘆きに比べれば、宇宙は小さなハンカチでしかなかった。
(ブライアン・W・オールディス『ああ、わが麗しの月よ!』浅倉久志訳)

「ああ、心は鳥のよう」と女はゆっくり音楽にあわせて体を揺すりながら、静かに口ずさんだ。「あなたの手にとまるわ」
(マイクル・スワンウィック『大潮の道』5、小川 隆訳)

(…)しかし、そんなことは、彼にはどうでもいいことだった。滅ぶべきジェマーラが崩壊してしまうことさえも、彼にはどうでもいいことだった。彼のなかには、風がたえず埃を撒き散らす乾いた土地、埋もれた宝、人間の体がもぐりこめるような、あの空っぽの水盤などがあった。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

アレッサンドロ・サルテが自分一人だと思い、自分を見張っていない稀な瞬間には、彼の真の相貌が素描されて浮かびあがるのである。
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

彼は存在していたのだろうか?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

きみは存在しているの?
(ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳)

 気に入りませんな、人間は実際造ることができないんです。すでにあるものを並べ替えるだけでしてね。神のみが創造できるのですよ
(ロジャー・ゼラズニイ『わが名はレジオン』第三部、中俣真知子訳)

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。
(コリント人への第二の手紙五・一七ー一八)

ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
(ガラテヤ人への手紙六・一五)

 ときどきほんとうに、あれは夢にすぎなかったのだと思うことがあります。着ているもの、手の動き、話すときの口つきまで、なにもかもありありと眼前にうかんで見えるからです。こんなに物のかたちが見えるのは夢の中だけですもの。目覚めている昼間には、細かいところに注意するひまがありません。あまりに多くのことが起こりすぎるので、片っぱしから忘れていきます。
(ノサック『ドロテーア』神品芳夫訳)

われわれがいいかげんな存在だからさ。
(ロバート・A・ハインライン『未知の地平線』15、斎藤伯好訳)

恐怖ほど長く持続するものは何一つない。
(J・G・バラード『沈んだ世界』3、峯岸 久訳)

西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、廣いものを象徴出來るからでありませう。
(川端康成『美しい日本の私』)

 いかにも動きに富む風景、浜辺に、不揃いな距離を置いて立っている一連の人物たちのおかげで、空間のひろがりがいっそうよく測定できるような風景。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです。
(川端康成『美しい日本の私』)

 いったんこの世にあらはれた美は、決してほろびない、と詩人高村光太郎(一八八三ー一九五六)は書いた。「美は次ぎ次ぎとうつりかはりながら、前の美が死なない。」民族の興亡常ないが、その興亡のあとに殘るものは、その民族の持つ美である。そのほかのものは皆、傳承と記録のなかに殘るのみである。「美を高める民族は、人間の魂と生命を高める民族である。」
(川端康成『ほろびぬ美』)

「いやあ、これは本当に驚いたなあ」、とギョームは言った。
 彼女はひどく早口で言った。
「この画集を買うだけのことはあったでしょ、ね?」
 その言葉がどんなに自分を喜ばせてくれたかを隠したいと思って、彼は軽い《ああ》という感嘆詞を抑えつけた。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳)

「ねえ、ギョーム」と彼女がふいに言った、ときおり見せるあの萎れたと言ってもいいような微笑みを浮かべながら、「そんなふうにして、火のなかになにを見つめていらっしゃるんですの? ……」
 なにを彼が見つめていたか? 解きがたく縺れあった彼の権利と彼のさまざまな過ちを。イレーヌにさまざまなことを説明してもらいたいという望み、というよりはむしろ、イレーヌではなく、《誰か》に、同時に彼女でもあり彼でもあるような誰かに、彼女よりもよく、彼よりもよく、彼ら二人を一緒に合わせたよりもよく理解できるような誰かに、それを待つことで彼が生涯を通してきたあの《同時代人》、そして今日エルサンのために彼ができることならそうなりたいと思っているあの《同時代人》に、さまざまなことを説明してもらいたいという望み。そういう公平な人間を、争う余地のないあの判断を彼はあまりにも当てにしすぎていたのだろうか? 彼は嫌らしいほど純朴だった。そうだ、少なくともこのことだけは彼も理解していた。すなわち、純朴さも嫌らしくなることがあり得るということだけは。
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳)

 ディディは手すりに駆けよって、まるでクジラたちが死のダンスを踊っているところへ手をさしのべようとでもするように、手すりから身を乗りだした。風が顔に吹きよせたが、風などまったく吹いていなかった。波しぶきがあびせかかった、クジラのように大きな波が、しかし海は静まりかえっていた。光がまぶしかったが、あたりはもう夜のやみだった。
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・10、冬川 亘訳)

 世俗的な嘘がどうして精神により高度なビジョンをもたらすことができるのか、ルーにはおぼろげに理解できた。芝居や小説は比喩を使ってそれを行っている。そして比喩的な意味としては、今度のハプニングは、単なる事実の達成を期待する文学的叙述より、精神的に真実の本質に近いビジョンを世界に提供するだろう。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』デウス・エクス・マーキナ、宇佐川晶子訳)

裏切りは人間の本性ではなかったかな?
(ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・7、冬川 亘訳)

きみがそう思うのは、そう思いたいからだ。
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』〈銀河系の道〉、宇佐川晶子訳)

 聡明(そうめい)な人生の目的は同じ時代を生きる人たちの教訓になるように失敗してみせることである。なぜなら人は決して勝利からは学ばず、敗北からしか学ばないからである。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の時代』第6部、小中陽太郎・森山 隆訳)

 愛というのは誰か好きな相手がいて、その相手と会えなくなることだ。そして再会すること
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

なんのことはない、子どもの遊びである。そしてぼくたちはふたりともそのことを笑う。とはいえ、彼女は本当には笑わない。それは一つの微笑である。静かな、献身的に──ちょうど同じようにぼく自身も微笑するのだろうと思う。
(エーベルス『蜘蛛(くも)』上田敏郎訳)

不潔きわまる貧民窟にも夕日はさして、人の想像力をかき立てたことだろうし、また、山の尾根で、大きな谷の上で、あるいは崖や山の中腹で、あるいはまた不安と恐怖の美に満ちた海のそばで、人びとは、未来の生のすばらしい姿を心に描いていたにちがいないのだ。花びらの一枚一枚、陽を浴びた木の葉の一枚一枚、あるいは子供たちの生き生きとした動き、また、人間の精神が自己を越えて芸術に高まる幸福な瞬間など、こういうもの全部が、希望の材料となり、努力への刺激となったにちがいない。
(H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・七、水嶋正路訳)

「話をすることが」と彼はまた言った、「それが一緒にいるいちばんいいやりかたかどうかよく分りませんけど……」
「話をしないことがですわ……」と彼女はまずそう言った。
「いや、沈黙というものは、そのまわりにある言葉によってしか存在しないものなんですよ、イレーヌ。人生はすべてそういうものですよ……僕たちの人生のどんな瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力があるものなんです」、彼は勢いこんでそう話しつづけた、「どんな欲求でも、もしそれに逆らうものがあれば、とてつもない強さにまで高まるかもしれない」
「分ってますわ」と彼女は言った、「水を飲みたいとか、道を歩きたいとか、裸になりたいとかいう欲求ね……」
(ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳)

人はなぜ本を書いたり、絵を描いたり、歌をうたったりするの? コミュニケートするためじゃない。芸術を作るためよ。魂から魂に、心から心に語りかけるためだわ。分かちあうため……分かちあうためよ……
(ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』ひとりの天井は、もうひとりの床、宇佐川晶子訳)

精神とは肉体に拘束されたものではないのだ。知性とは頭(ず)蓋(がい)骨(こつ)の中に閉じ込められているものではないのだ。自分が望みさえすれば、考えは頭の中から外へと飛び出し、まるで輝くレースが広がるように絶え間なく成長してゆく。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

 ジュリーは目を閉じ、心の奥にしまった光のレースを取り出そうとする。頭蓋を飛び出した〈精神(エスプリ)〉のレースは大きく広がり、やがて森を包む雲になる。
(ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳)

いまやわれは独り地上にあって、この大地はわがものなのだ。
草木の根はわがもの、暗くしめった蛇の小道にいたるまでも。
空と鳥の小道の枝々もわがもの。
だが、わが自我の火花はわがものの領域を超えている。
(D・H・ロレンス『翼ある蛇』下巻・21、宮西豊逸訳)

スミザーズさん、二つの悪をお選びなさい
(ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳)

わたしを選びたまえ。
(J・G・バラード『アトリエ五号、星地区』宇野利泰訳)

このわたしを
(アイザック・アシモフ『発火点』冬川 亘訳)


詩の日めくり 二〇一六年十一月一日─三十一日

  田中宏輔



二〇一六年十一月一日 「いやならいやって言えばいいのに。」


えっ
まだ高校生なの
そういえば
なんだか
高校生のときに好きだった
友だちに似てる
あんにゃん
って呼んでた
同じ塾に通ってた
あんにゃんが行ってるって聞いて
あとから
ぼくが入ったんだけど
高一の夏休みから高二の夏休みにかけて
昼休みには
高校を抜け出して
何人かの友だちと
パチンコ屋に行って
五時間目にはよく遅刻してた
あんにゃんの自転車の後ろに乗っけられて
ぼくは
あんにゃんの腰につかまってたんだけど
ときどき腕を前にまわして
そしたら
腕の内側で
あんにゃんのお腹の感触を
恥ずかしいぐらいに感じちゃって
服を通してだけど
自転車がガタガタ上下するたびに
あんにゃんのお腹に力が入って
あんにゃんの腹筋がかたくなったことを
ぼくは覚えてる
ああ
むかし
かなわなかった夢が
いまかなう
あんにゃんとは
なにもなくって
でも
奇跡ってあるんだね
あんにゃんとは
なにもなかったからかな
キラキラと輝いてた
たまらなく好きだった
あんにゃんの手は
鉄の臭いがした
体育の時間だった
あんにゃんは鉄棒が得意だった
背はちっさかったけど
筋肉のかたまりだったから
ぼくは逆上がりもできないデブだった
あっ
いまもデブだけど
うん
あっ
でね
あんにゃんは
逆上がりのできないぼくに
手を貸してくれて
できるようにって
いっしょうけんめい手助けしてくれてね
あっ
この公園には
よく来るの
たまに
ふうん
みんな
そう言うけど
どうかなあ
ほんとに
ふうん
あっ
あれ
見て
あのオジン
蹴飛ばされてやんの
誰彼かまわず声かけまくって
ひつこく迫るからだよね
相手がいやがってるの
わかんないのかなあ
きみのさわってもいい
かたくなってきたね
じかにさわっていい
やっぱり
高校生だよね
このかたさ
ヌルヌルしてきたね
どう
イキそう
まだ
目をつぶった顔がまたかわいいね
ほんと
あんにゃんにそっくり
えっ
突然立ち上がって
どしたの
えっ
えっ
どしたの
どこ行くの


二〇一六年十一月二日 「ぼくの詩の英訳」


友だちのジェフリー・アングルスさんが、ぼくの詩を英語に訳して紹介してくださいました。

http://queenmobs.com/2016/11/22392/

思潮社オンデマンドから出した田中宏輔の『ゲイ・ポエムズ』が、きのうあたり1冊、売れたみたいだ。うれしい。ジェフリーが英訳して紹介してくださったおかげだろうと思う。ありがたい。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%BA-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4783734070/ref=sr_1_14?s=books&ie=UTF8&qid=1478327320&sr=1-14&keywords=%E6%80%9D%E6%BD%AE%E7%A4%BE%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89


二〇一六年十一月三日 「『フラナリー・オコナー全短篇』上巻」


『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいるのだが、おもしろくなくはないんだけれど、なんか足りない感じがする。いや、足りないんじゃなくて、読んでて共感できない部分が多いって感じかな。でもまあ、読みかけたものだから、きょうは、つづきを読んで寝よう。


二〇一六年十一月四日 「切断」


人間には男性と女性の二つの性があって、どこで人間を切断しても、男性に近いほうの切断面は女性に、女性に近いほうの切断面は男性になる。切断喫茶に行くと、テーブルのうえで指を関節ごとに切断してくれる。指と指はその切断面が男性になったり女性になったり、くるくるとテーブルのうえで回転する。


二〇一六年十一月五日 「悲鳴クレヨン。」


クレヨンにも性別年齢があって、1本1本異なる悲鳴をあげる。さまざまな色を使って絵を描くと、その絵のクレヨンから、小さな男の子の悲鳴や幼い女の子の悲鳴や声変わりしたばかりの男の子の悲鳴や成人女性の悲鳴や齢老いた男の悲鳴や齢とった女性の悲鳴が聞こえてくる。壮絶な悲鳴だ。


二〇一六年十一月六日 「『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』」


きょうは、読書が、すいすいと進んだ。読みはじめたばかりの『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』も、もうさいごから2番目の作品デイヴィッド・I・マッスンの「旅人の憩い」のさいごのほうである。あとひとつ、ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」を読み残すばかり。きょうの寝るまえの読書は、ジョン・ブラナーの『思考の谺(こだま)』 イギリスの作家かなと思えるほど、描写がえげつない。ああ、いま確認すると、イギリス人だった。『伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ』に収録されているものの前半はいかにもアメリカって感じだったけれど。しかも、さいしょのルイス・パジェットの「ボロゴーヴはミムジイ」って、つぎに収録されている、レイモンド・F・ジョーンズの「子どもの部屋」と、ほとんど同じような設定で(ぼくにはね)なんで同時収録したのだろうかと疑問に思えるほどに似た雰囲気の作品だった。ジョン・ブラナーの「思考の谺(こだま)」を読み終わった。ハッピー・エンドでよかった。物語はせめてそうでないと、笑。ほっぽり出してるフラナリー・オコナーの全短篇・上巻をいま手にしてるのだが、まあ、これはほとんど救いのない物語ばかり。


二〇一六年十一月七日 「旧敵との出逢い」


とりあえず、いま、『フラナリー・オコナー全短篇』上巻を読んでいる。ちょうど、半分くらいのところ、「旧敵との出逢い」という短篇。100歳を越えたおじいさんが主人公のよう。語り手は、その孫という設定。いろんなタイプの作品を書いたひとなのだとは思うし、うまいけど、厭な感じが付きまとう。厭な感じって嫌いじゃないんだけどね。というか、好きかもしれないのだけど。アンナ・カヴァンといい、P・D・ジェイムズといい、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアといい、フラナリー・オコナーといい、厭な感じの作品を書くのは、女性作家が多いような気がする。


二〇一六年十一月八日 「死の鳥」


ハーラン・エリスンの短篇集『死の鳥』2篇目を読んで、クズだと判断して、本を破って、クズ入れに捨てた。こんなことするの久しぶり。それくらい質が低い短篇集だった。何読もうかな。『フラナリー・オコナー全短篇』下巻にしよう。


二〇一六年十一月九日 「磔台」


ある朝
街のある四つ辻に
磔台が拵えてあった
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った
そして
ある朝
ある見知らぬ人がひとり
磔になっていた
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った
やがて
ある朝
その人が亡くなり
代わりに
ぼくが磔台に上った
道行く人はみな知らん顔を装っていたが
それでいて
磔木の影さえ踏まないよう
用心しながら通り過ぎて行った


二〇一六年十一月十日 「『フラナリー・オコナー全短篇』下巻」


『フラナリー・オコナー全短篇』の下巻を読んでいたのだが、黒人が出てこない作品がほとんどない。まだ差別のある時代に書かれたものだからかもしれないが、それにしても黒人の言及が多い。逆にいえば、モチーフにそれ以外のものを扱うことができなかったのかもしれない。

二〇一六年十一月十一日 「死刑制度に反対する人たちに対する死刑制度賛成論者たちに提言。」


犯罪者を遺族たちに殺させるというもの
被害者がされたことと同じ方法で
いわゆる
『同害報復法』ってヤツ
『仇討ち』とも言うのかな
さらに犯罪抑止力にもなって
被害者の遺族たちの感情も十分考慮されていると思うけど
どうかしら
おまけに
その様子をテレビ中継でもしたら
もっと犯罪抑止力になるってーの
どうかしら
モヒトツ
オマケに
遺族たちが犯人の死体と記念撮影までするってーの
どかしら


二〇一六年十一月十二日 「見ないでブリブリ事件」


これは
ごく最近
シンちゃんが
ぼくに話してくれた話
京極にある八千代館っていうポルノ映画館の前に
小さな公園がある
明け方近くの薄紫色の時間に
その公園のベンチの上で
男が一人
ジーンズを
おろしてしゃがんでいたという
シンちゃんが近寄ると
丸出しのお尻を突き出して
「これ抜いて」と言ったらしい
見ると
ボールペンの先がちょこっと出てたらしい
すると
すごくさわやかな感じのその青年は
もう一度
恥ずかしそうに振り返って
「これ抜いて」って言ったらしい
抜いてやると
「見ないで」って言って
そこに
ブリブリ
うんこをひり出したという
シンちゃんが見てると
また
「見ないで」って言って
また
ブリブリッと
うんこをたれたという
これを
「見ないでブリブリ事件」と名づけて
ぼくは何人かの近しい友人たちに
電話で教えまくった
「見ないで」
ブリブリッ


二〇一六年十一月十三日 「39歳」


『フラナリー・オコナー全短篇」下巻を読み終わった。上巻も通して全篇、黒人問題が絡んでいた。バラエティーが豊かなのだが、狭いとも思われる、奇妙な感触だ。39歳で亡くなったというのだけれど、若くて死ぬ詩人や作家は、ぼくには卑怯な面があると思われる。才能のある時期に死んだという面でだ。


二〇一六年十一月十四日 「白い紙。」


空っぽな階段を
人の形に似せた
長方形の紙に切り目を入れてつくっただけの
白い紙が
ひとの大きさの半分くらいの
一枚の白い紙が
ゆっくりと降りてくるのが見えた
ぼくは
机に向かって坐っていたのだけれど
ドアもしまっていて
見えないはずなのだけれど
なぜだか、ぼくには
階段のところも見えていて
人の形をした白い紙が
階段を降りてくるのが見えた
軽い足取りのはずだけど
しっかり踏み段に足をつけて
白い紙が降りてくる
ぼくは、机の上のカレンダーと
階段の人の形をした紙を同時に見てた

だれでもない

その日
帰りしな
駅のホームのなかで
ひとの大きさの白い紙がたくさん寄って
同じ大きさの一枚の白い紙を囲んで
ゆらゆらゆれているのを見た


二〇一六年十一月十五日 「名前」


ぼくは
ふと
手のひらのなかの小さな声に耳を傾けた
それは名前だった
名前は死んでいた

なぜ
そのひとときを
彼は
ぼくといっしょに過ごしたいと思ったのか。

そして
その疑問は
自分自身にも跳ね返ってくる。

なぜ
そのひとときを
ぼくは
彼といっしょに過ごしたいと思ったのか。

それが愛の行為だったのだろうか。

彼のよろこびは
ぼくのよろこびのためのものではなかった。

ぼくのよろこびもまた
彼のよろこびのためのものではなかった。

彼のよろこびは
彼のためのものだったし、

ぼくのよろこびは
ぼくのためのものであった。

彼は
ぼくのことを愛していると言った。
ぼくはうれしかった

どんなにひどい裏切られ方をするのかと
思いをめぐらせて。


二〇一六年十一月十六日 「見事な牛。」


見蕩れるほどに美しい曲線を描く玉葱と
オレンジ色のまばゆい光沢のすばらしいサーモンを買っていく
見事な牛。


二〇一六年十一月十七日 「死んだ四角だ。」


さあ
きみの手を
夏の夕べの浜辺と取り替えようね。
わたしに吹く風は
きみの吐息のぬくもりに彩られて
あまい眩暈だ。
きみの朝の空は四角い吐息で
窓辺にいくつも落ちていた。
死んだ四角だ。
そうやって
四角は
わたしにいつだって語りかけるのだ。

おばあちゃん子だったぼくは
ドレミファソラシド。
どの家の子とも遊ばせてもらえなかった。

二つの風景が一つのプレパラートの上に置かれる。

しばしば解釈の筋肉が疲労する。


二〇一六年十一月十八日 「まるで悲しむことが悪いことであるかのように」


まるで悲しむことが悪いことであるかのように
πのことを調べていると
ケチャップと卵がパンの上からこぼれて
コーヒーめがけてダイブした
ショパンの曲が流れ出した
世界一つまらないホームページという
ホームページにアクセスすると
3万5540桁あたりで
7という数字がはじめて5つ並んでいるのを
ジミーちゃんが見つけた
あと
28万3970桁あたりと
40万1680桁あたりと
42万7740桁あたりにも
7が5つ並んでて
7が7つ並んでいるのを
45万2700桁あたりに見つけたっていう話だ
ぼくはジミーちゃんを友だちにもてて
たいへんうれぴーのことよ
すてきなことよ
この間なんて
花見小路の場外馬券売り場に行ったら
もう時間が過ぎてたから
生まれてはじめて買うはずの馬券が買えなかった
っていう
すてきなジミーちゃん
花見小路に
造花の桜の花が飾ってあったけど
すぐそばの建仁寺に突き当たったところには
ほんとの桜が咲いていた
という
豚汁がおいしかった
彫刻刃で削ったカツオの削り節が
よくきいていた
ジャンジャンバリバリ
ジャンジャンバリバリ

詩に飽きたころに
小説でオジャン
あれを見たまえ


二〇一六年十一月十九日 「文学ゲーム・シリーズ ギリシア神話2 『アンドロメダ』新発売!」


どうしてわたしが語意につながれて
こんな違和の上に立たされているのかわからない
差異が打ち寄せる違和の上
同意義語が吹きすさび
差異の欠片が比喩となって打ちかかる
きつい差異が打ち寄せるたび
ぐらぐらと違和が揺れる
どうしてわたしが語意につながれて
こんな違和の上に立たされているのかわからない
差異が打ち寄せる違和の上
意味崩壊の前触れか
語意につながれたわたしの脳髄に
垂れ込める語彙が浸透してゆく

わたしはこの違和の上で待つ
わたしの正気を食らおうとする
意味の怪物を退治してくれる
ひとつの文体を


二〇一六年十一月二十日 「地下鉄御池駅の駅員さんにキョトンとされた」


烏丸御池の高木神経科医院に行って
睡眠誘導剤やら精神安定剤を処方してもらって
隣のビルの一階にあるみくら薬局で薬をもらったあと
いつもいく河原町のバルビル近くの居酒屋にいくために
地下鉄御池駅から地下鉄東西線を使って
地下鉄三条に行こうと思って
地下鉄御池駅から切符を買って
改札を入ったんだけど
べつの改札から出てしまって
自動改札機がピーって鳴って
あれっと思って
べつの改札口から出たと自分では思ってなくて
駅員さんに「ここはどこですか?」って
きいたら
キョトンとされてしまって
「すいません、ぼく、病院から出たばかりで
そこの神経科なんですけれど
ここがどこかわからないんですけれど」って言ったら
「御池駅ですよ、どこに行かれるんですか?」
って訊かれて
「あ、すいません、三条なんです
 電車って、ここからじゃなかったんですよね」
「改札から改札に出られたんですよ」
ううううん。
たしかに頭がぼうっとしてた
ちょっと涙がにじんでしまった
47歳で
こんなんで生きてるって
とても恥ずかしいことやなって思った
でも
帰ってきたら
とてもうれしいメッセージをいただいていて
ぼくみたいな人間でも
見てくださってる方がおられるのだなって知って
また涙がにじんでしまった

洗濯が終わった
これから干して
たまねぎ切って
スライスにして
食べて
血糖値を下げます


二〇一六年十一月二十一日 「角の家の犬」


きょうは恋人とすれ違ってしまった

さて
どっちに取る?

この家の子

そんな言い方しなくてもいいじゃない
頭が痛いよ
ぼくが悪いの?
この家が悪いの?

ぼくの耳に
きみの言葉が咲いた

咲いたけど
咲いたから
散る

散るけど
散ったから
またいつか
違ったきみになって
咲くだろう

もっときれいな
もっとすてきな
きみは

こんな詩を
いや詩じゃないな
いっぱい
むかし書いてたような気がする
きょう
ふと
そんな時期のぼくに
もどったのかな

角の家の犬

後ろに家の壁があるときは
とてもうるさく吠えるのに
公園の突き出た棒につながれたら
おとなしい


二〇一六年十一月二十二日 「狂気についての引用メモ」


同じ感情がずっと持続することがないように
自我も同じ状態がずっとつづくわけではない
感情が変化するように自我も変化するのだ
同じことを考えつづけるのは狂気だけだと
ショーペンハウアーだったかキルケゴールだったか
だれかが書いてたような気がする
むかしメモした記憶はあるのだけれど
メモを整理したときにそれを捨てたみたいで
だれだったかしっかりと憶えていない
狂気についての引用メモがいっさいなくなっている
これは自衛のために捨てたのかもしれない
そんな気持ちになったことが何度かあって
そのたびに本やメモがなくなっている
安定した精神状態がほしいけれど
そうなったらたぶんぼくはもう詩を書かない
書けないのだろうなあと思う


二〇一六年十一月二十三日 「シロシロとクロクロ」


天国に行きたいなあ
みかんの皮を乾かして漢方薬になるはず
もしだめだったら
東京ディズニー・ランドでもいいわ
千葉だけどね
シロクマ・クロクマ・シロクログマ
シロクログマって、パンダのこと?
ゲーテは、ひとりっきりで天国にいるよりは
みんなといっしょに地獄にいるほうがましだと言ってたけど
経験上、地獄はやっぱり地獄だわ
シロゴマ・クロゴマ・シロクロゴマ
えっ!
シロクロゴマって
そんなん
どこで売ってるの?
みんなといっしょにいても地獄だわ

いうか
みんなといると地獄だわ
ひとりでいても地獄だけど
みんなのこと
考えるとね
ディズニー・ランドでひとりっきりで
はしゃいで遊んでも
たしかに
つまらなさそう
みんなのこと
考えるとね
(はしゃいでへんけど)
シラユリ・クロユリ・シロクロユリ。
シロシロはユリで
シロクロやったら
ヘテロだわ
そろそろ睡眠薬と安定剤のんで寝まちゅ
プシュ


二〇一六年十一月二十四日 「立派な批評家」


明瞭に語られるべきものを曖昧に語るのが
おろかな批評家であり
曖昧であるものの輪郭を
読み手が自分のこころのなかに明確に描くことができるようにするのが
立派な批評家であると
わたしは思うのだが






して
立派に批評家であると
わたしは思うのだが
いかがなものであろうか


二〇一六年十一月二十五日 「桜の木の下には」


京大で印刷だった
キャンパスにある桜の木の下で
ちょっとした花見を
桜の木の下には
吉田くんと吉田くんたちが埋まっている
桜の木の下には
たくさんの吉田くんたちがうまっていて
手をつないで
お遊戯してた
ぼくたちは
吉田くんたちは桜の木のしたで
土のなかで盛り上がっていた
地面から
電気のコードをひいてきて
桜の木の下で
コタツに入って
プーカプカ
しめて
しめて
首に食い入るロープのきしむ音が
しめて
しめて
桜の木の下で
ぼくたちは
吉田くんたちはポテトチップを
むしゃむしゃ
むしゃむしゃ
桜の木の下で
ぼくたちは
吉田くんたちは
ぼくたちを見下ろしながら
ぎしぎしと
ぎしぎしと
ひしめきあっていた
この際


二〇一六年十一月二十六日 「セーターの行方」


きょうはぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきました
いつも行く居酒屋で
作家の先生といっしょになって
3軒の梯子をしました
いつも行く居酒屋には
俳優の美○○○が女連れでいました
ぼくはカウンターにすわっていたけど
その後ろのテーブル席
ぼくの真後ろに坐っていて
作家の先生の奥さんがおっしゃるまで
気づかなかったのでした
オーラがないわ
という奥さんの言葉に
ぼくも「そうですね」と言いました
この居酒屋には
言語実験工房の荒木くんや湊さん
dioの大谷くんともきたことがあって
料理のおいしいところです

奥さんが
セーターを先生に作られたのだけれど
大きすぎたみたいで
田中さんにあげるわ
とおっしゃったので
いただきますと言いました
先生との話で一番印象に残っているのは
「見落としたら終わりやで」
奥さんがそのあと
「タイミングがすべてよ」
でした。
いちご大福を持って
女優の黒○○さんもくるという話だけれど
彼女にはまだ会ってないけれど
この居酒屋さんって
ふつうの居酒屋さんなんだけど
半年前くらい前のとき
アンドリューって名前だったかな
オーストラリアから来た
日系の
すっごいかわいい
20代半ばのカメラマンの青年に
ひざをすりすり
モーションをかけられたことがあって
なんだか
ぐにゃぐにゃ
むにむにむに〜って
感じでした。
そんときは
ぼく
じつは恋人といっしょで
彼には
いい返事ができなかったのだけれど
こんど会ったら
ぼくもひざをすりすりして
チュってしちゃおうって思っています
ああ
薬が効いてきた
もう寝ます。
おやすみなさい
みんな
大好き!


二〇一六年十一月二十七日 「小説家の先生の奥さまのお話」


デザインの専門学校で
その学院の院長先生のお話で
いまもこころに残っている言葉があって
それは
ギョッとさせるものではなくて
ハッとさせるものをつくるべき
っていうものだという
ギョッとさせるものなんて簡単にできるわ
いくらでもつくれるわ
ハッとさせるものはむずかしいのよ
とのことでした
先生のためにつくられたセーターが
先生にはちょっと大きめだったので
田中さん
着てくれないかしら
からし色のセーターなんだけど
ええ
ありがとうございます
着させていただきます
あらそう
じゃあ
こんどお店に持っていっとくわね
預けておきますから着てちょうだいね
合わないと思ったら返してくださっていいのよ
いえいえ
着させていただきます
先生もお勤め人だったことがあるらしく
10年ほど広告会社でコピーを書いてらっしゃったそうで
そのときのお話をうかがっていて
ぼくがやめるときに
あれはバブルの時代でしたね
杉山登志というコピーライターがいましてね
資生堂のコマーシャルとか手がけてた人でね
その彼が自殺したことがショックでした
原因は不明でね
わたしがコピーライターをやめたのはそのすぐあとです
帰ってgoogleしました
ウィッキーに
「本名は、杉山 登志雄(すぎやま・としお)
 テレビ草創期から数多くのテレビCMを製作し、
 国内外の賞を数多く受賞。
 天才の名を欲しいままにしたが、
 自らのキャリアの絶頂にあった1973年12月12日、
 東京都港区赤坂の自宅マンションで首を吊って自殺。
 享年37」
とあった
さらにgoogleで検索してたら
2007年の12月に
このひとのことを題材にしたテレビ番組をやってたらしくって
有名なひとだったのね
分野が違うと
ぜんぜん名前がわからない
はしご一軒目の居酒屋さんでのお話でした
ぼくが二度の自殺未遂の話をすると
奥さまが携帯の番号を書いてくださって
なにかのときには電話してちょうだい
と渡してくださったのですが
たぶん
しないだろうなあと思いながらも
はい
と言いながら
その電話番号に目を落として
書かれた紙を静かに受け取りました
そしたら先生が
わたしが死んだら
この人が追悼文を書いてくれますが
田中さんが亡くなったら
わたしが書きましょう
とおっしゃって
ぼくが
ええー
と言うと
奥さまが
わたしも書くわ
とおっしゃって
またまた
ええー

ぼくが言い
大声で笑うと
奥さまが
わたしの追悼文は
だれが書いてくれるのかしら
とおっしゃって
そこでぼくが
奥さまは死なれませんから
というと
そこでまた大笑いになって
(酔ってたら
 こんなことで
 笑えるのよ)

そこでチェックされて
はしご二軒目の
きゅうり
というお店に向かったのでした

誰が変わらぬ愛など欲しがろう?

(このメモ
 奥さまが電話番号を書かれるときに
 ちらりと見てもらったんですけれど
 奥さまは
 変わらない愛が
 みんな欲しいんじゃないの
 と
 おっしゃって
 ぼくは
 首をかしげて
 そうでしょうか
 と
 にやっとして笑い返しました
 奥さまの目が
 どことなしか
 笑っているのに笑ってなかったのが妙に印象的でした
 笑) 


二〇一六年十一月二十八日 「gossamer くもの糸(草の葉にかかったり空中に浮遊している)」


なめくじ人間の夢を
きのうとおとついの
連続二日見ました
続き物の夢を見るなんて珍しい

乾いた皮膚にはくっつかない
そういう信念があった
夏なのに
冷たい夜だった
さっきまで雨が降っていたのかもしれない
でもいまは雲が切れていて
そこに大きくてまるい白い月がドーンとあって
その月の光が
路面の敷石にきらきらこぼれ落ちていた
事実
半透明のなめくじたちが
街のいたるところからにゅるにゅるじわぁーと湧き出して
そこらじゅうを這い進むあいだ
ぼくはその半透明のなめくじを観察した
ぼくは完全にかわいていたので一瞬触れても大丈夫だったのだ
なめくじたちは夜の街に
月の光を浴びてきれいに輝きながら
家々の壁や戸口に湧き出て
家から出てきた人間たち
歩いている人間たちに触れていったのだ
触れられた人間たちは
たとえ、その触れられた箇所が靴でも
そこから全体に
すうっと半透明になってしまって
なめくじ人間になっていったのだ
なぜなら、彼らはみんな多少とも濡れていたからなのだった
女性のなめくじ人間も少しいた
なぜかしらエプロンをした肉屋の女房だったり
ベイカリーショップの女将さんだったりした
なめくじ人間というのは
人間の大きさのなめくじなのだ
だから時間が経つにつれて
街じゅうはなめくじ人間たちが徘徊する
恐ろしい街になっていったのだ

ぼくはそれを観察していた
危ういところで
半透明のなめくじの体をかわして
逃れていたのだ

半透明になって徘徊するなめくじ人間たち
ぼくは夜の街で唯一の人間だった

街並みは小説や映画に出てくる
ロンドンの街並みだった

夢を見る前の日に
ロボット物のSFを読んだあとで
シャーロックホームズ物のパロディの本を読むことにしていたからかもしれない

なめくじが、どこからきたものかはわからないけれど
もう何十年も目にしていない生き物だ


二〇一六年十一月二十九日 「幽霊がいっぱい。」


マンションでは猫や犬を飼ってはいけないというので
猫や犬の幽霊を飼うひとが増えて
もうたいへん
だって、壁や閉めた窓を素通りして
やってくるのですもの
うちの死んだ祖父が
アルツでいろいろな部屋に行って
迷惑かけてることがあって
文句を言えないんだけど
隣の死んだ和幸ちゃんの幽霊はひどいわ。
どんなに遅くっても必ず起きてて
一晩じゅう
ほたえまくるんですもの
わたしが持ち帰りの仕事を夜中にやっていても
勝手に机の下からにゅ〜って顔を出すし
うちの一番下の子の横に寝て
眠ってるうちの子の腕をさわりまくるし
それで
うちの子が夜泣きしちゃいだすし
ああ
もうこのマンション引っ越そうかしら
あれあれ
おじいいちゃん
勝手に出歩いちゃダメでしょ
生きてるときでも怖がられてたのに
そんな死人のような顔をして
いや
死人なのかしら
幽霊って
死人なのかしら
わかんないわ
わかんないけど
出てかないでよ
せめてこの部屋から出てかないで〜
ひぃ〜
もういや


二〇一六年十一月三十日 「速度が誤る。」


買って来た微小嵐を
コップのなかに入れておいたら
仮死状態のジジイが勝手に散歩につれていきやがって
おのれ

バルザック
完全無欠の夜は調べたか
ああ
なにもかも
ぼくが人間をやめたせいで
頭のなかの鐘が鳴りっぱなし

興奮状態の皮膚が
ぴりぴり震えがとまらないのだっちゃ
よかったね
最高傑作
見事に化けて出てくる夜毎の金魚の幽霊が

人間やめますか
ぼくの箱庭
紅はこべ
驚いたふりをして
人間やめました
手には触れるな
速度が誤る
サン・テグジュペリ


二〇一六年十一月三十一日 「レンタル屋さんがつぶれたので、山ほどDVDもらってきました。」


さきに、若い子たちが
有名なものを持って行ったので
ぼくは、あまりもののなかから
ジャケットで
選んで、いただきました。
ラックとか
椅子とか
かごとかも
持って行っていいよというので
かごをいただきました。
ま、それで、DVDを運んだんだけどね。
でも、見るかなあ。
ぼくがもらったのは
サンプルが多くて
サンプルってなんなんだろうね。
何か忘れたけど
一枚手にとって見てたら
店員さんが
それ、掘り出し物ですよって
なんでって訊くと
まだレンタルしちゃいけないことになってますからね
だって。
ううううん。
そんなのわかんないけど
ぜったい、これ、B級じゃん
ってのが多くて
見たら、笑っちゃうかも。
でも、ほんとに怖かったら、やだな。
怖い系のジャケットのもの、たくさんもらったんだけど
怖いから、一人では見れないかも。

とぎれとぎれで見ました。
明日、はやいしね。
いろんなタイプのDVDだから
いろんな感性にさらされて
いい刺激になればいいんですけど。
ヒロヒロくん
近くだったら
いっしょに見れたね。
あ、店員さん
「アダルトはいらないんですか?」
「SMとかこっちにありますけど」
だって。
アダルトはもらってません。
もらってもよかったのだけれど
どうせ見ないしね。

ぼくが帰ったのが
10時すぎでしたが
まだいっぱいありました。
アニメは興味なかったですけれど
知らないアニメがたくさん残っていました。
でも、もうこの時間だし
ラックも
椅子も
たぶん、ないでしょうね。
自宅のCDケースが傷んでるのがあるので
CDケースもらっておけばよかったかなあ。
でも、欲張ると
ロクでもないし
ラッキーだったんだから
これでいいんでしょうね。
ふと
古本を買いに
遠くまででかけたのです。
そしたら
若い子が
ここ、きょうで店じまいですから
これ
何枚でも持って帰っていいみたいですよ
って言ってくれて。
その子
ぼくがゆっくりジャケット見て選んでるのに興味を持ったらしく
みんな、がばっとかごごと持って帰るのに
珍しいですね。
近くにお住まいですか。
一人暮らしですか。
とか
笑顔で訊いてくるので
(魅力的な表情をした若者でした)
ちょっとドキドキしましたが
ときどき
ぼくのこと
不思議に思って興味を持ってくれる子がいるのですが
勘違いしてしまいます。
前に
日知庵で
24才だと言ってた
オーストラリア人のエリックにひざをぐいぐい押し付けられたときは
うれしかったけど
困りました。
恋人といっしょにいたので。

きょうの子も
明日はお仕事ですか
とか
早いんですか
とか訊いてきたので
あ、もう帰らなかや
って言って、逃げるようにして帰りました。
いま
ぼくには、大事な恋人がいますからね。
間違いがあっちゃ、いけません、笑。
あってもいいかなあ。
ま、人間のことだもの。
あってもいいかな。
でも、怖くて帰ってきちゃった。
うん。
ひさびさに
若い子から迫られました。
違うかな。
単に
かわったおっさんだから興味を示したのかな。
ま、いっか。

ああ、きょうは、バロウズ本もうれしかったし
DVDもうれしかった。
クスリが効いてきたみたい。
もう寝ます。
おやしゅみ〜

エリック
かわいかったなあ。
ぼくも
恋人にわからないように
ひざでも、ぎゅっとつまんであげればよかったんだけど。
さすがに、ね。
恋人にばれちゃ、怖かったしね。

春の日のクマは好きですか?

きのう、もらったDVDです。
とても単純な物語だったけれど
主人公たちがひじょうに魅力的だったので
最後まで見れました。

詩も
同じかな。
内容がよければ、形式がださくてもいいのかも。

いや、逆に
キャシャーンのように
だれがやっても、設定があんなふうにすごかったら
すごい映画だっただろうからな。

詩も同じかな。
形式がすごかったら
内容なんて、どうでもよくってね。
両方、いいなんてことは
ほとんど奇跡!

文学極道

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