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殿岡秀秋 - 2008年分

選出作品 (投稿日時順 / 全15作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


声の洪水

  殿岡秀秋

眼にも口にも扉があるのに
無防備な洞穴の耳

突然侵入し
外耳道を滑り
鼓膜に音の波が当たる

増幅された振動に
あわてて中耳の骨が収縮しても
洞窟の柱の間をすりぬける

内耳の迷宮を
音速の波は
渦を巻きながらくぐりぬけ
出口で脳の底に激突する
脳は衝撃の半分をはね返す
反動で
大波は胸を急降下して
鳩尾あたりでバウンドする

大声が
奔流となって
洞穴の耳をくだり
胸から全身にひろがる
までの一瞬

ぼくは身動きできないで
打たれた金属管のように
鳴りながら震えている

半世紀も前に
父が母を怒鳴った
家が震え
ぼくら子どもは身を硬くして
波の静まるのを待った

耳の洞穴を修復しながら
くねる壁に残された傷跡に
声の洪水の歴史を発見する


悲しみの小石

  殿岡秀秋

ベッドに横たわるきみに
背中を向けたぼくの
胸に小さい石が固まる

きみのささいな否定形の言葉を
核にした小石が
痛みだす

ぼくは膝をかかえて眼をつむる
きみは溜め息を
ぼくのうなじに吹きつける
そこだけ皮膚が砂利になる
きみは子どもをあやすように
硬くなったぼくの肩をたたく

きみの思惑を超えて
言葉の礫が
ぼくの胸に当たった
それはきみの罪ではない
塗りたての土壁のように
ぼくの胸がめりこみやすいだけだ

きみの問いかけに
いや何も
といって
あとの言葉は
胸の庭で岩になる
そこは小宇宙である
水はないのに
透明な流れがあって
岩と岩との間を
清めていく
そこにきみの沈黙も
岩となって横たわる

ぼくは眼をあける
天井に小粒の白色電灯の星が並ぶ
ひとつ青白く光るのがぼく
離れて赤く光るのがきみ
天の川に隔てられているように見えて
庭の石のように近い
透明な気が流れれば
ふれあうことができる

  母の愛に飢えて
  得られなかったときに
  ひび割れてできた胸の隙間に
  きみの言葉が落ちてしまった
  もともとその空洞を埋めて
  しなやかな胸になるために
  きみといるのではないか
  
ぼくは思いなおして向きなおる
きみはやわらかな掌で
小石を溶かそうとする


居間の遠景

  殿岡秀秋

夕食のあとでテレビジョンを観る家族
小学生のぼくの襟首から
侵入する影がある
何が起きたのかわからないままに
背中から胸の空に
黒雲が広がる

柔らかな影が
からだをつつみ
やがて
ぼくを消しさっても
なお残るものがあるのだろうか

晴れた空の下で
ぼくは気体となって漂うのか
それとも
影につつまれた瞬間に
別の宇宙に移って
冷たい星で震えているのか
そこでどんな姿に
変形してしまうのか

何もわからない
ぼくは口を手で抑える
氷の粒が飛びだして
部屋中に鳴り響きそうだから

テレビジョンを観る父や母は
目の前にいるのに
幕の向こうで
役者のように座っている
ように見える
雲のような影が
二人の襟首から入る機会を狙っている

いつか父も母も
それにすっぽり
包まれてしまうだろう
それは自分が消えるより恐ろしい

居間が遠景のように遠のく

夕食のあとテレビジョンを観る家族
ぼくは父親になっている
小学生の娘が
急に立ちあがり
首を振りながらつぶやく
どこへ行ってしまうの

死の影が
娘の襟首からはいったのだ
ぼくは答えることができない
忘れていることしか
だれもそこから逃れる術はないから

その娘も母親になり
ぼくは生き物としての任務を果たした気分で
夕食のあとテレビジョンを観ている
ぼくの生の影は
身の丈ほどに育っている


問いかけの道

  殿岡秀秋

たとえ問いかけに
応えなくても
ぼくとあなたの間には
気と気が流れて
道が生まれる

炎天下の舗装路の蜃気楼が漂う道
森の奥のシダが茂る湿った道
沈黙の石に蝉がなく墓場の道
ナメクジが這った跡がひかる窓の桟の通り道

テレビジョンの中で
役者がしゃべった言葉を聞き取れないで
一緒に観ている家族に聞いても
だれも応えない
ぼくは木霊のように帰ってくる田舎道を期待したのに
突然袋地に迷いこんだ
その壁の向こうには
息を潜める人の気配

すると空気を裂いて真空の道が生まれる
沈黙の言葉は満ちているが
意味を形成しない
そこにぼくの気とあなたの気だけが充満している

聞かれてもわからないから
応えようがなくて
それを説明する気にもなれない
あいまいな雰囲気につつまれて
家族はある

気づけば袋地と見えたところに細い道がある

真昼だれもいない都市の小道
軒下に盆栽の鉢が並ぶ道
格子戸に朝顔のつるが絡む道
すだれの奥から三味線が響く道

通りぬけて広い道に出る
氷菓子屋の前に立って
ぼくを手招きする
あなたの微笑み


沼地

  殿岡秀秋

沼地に足をとられるように
気分が沈むときのあなたの眼に
昔のままのぼくの姿が
浮いているのではないか

末っ子だったぼくは
いじめることができる
妹を得たおもいで
姪のあなたを泣かしたり怒らしたりした

三つ編みをした幼女のあなたと野原で遊ぶ
小学生のぼくは草の茂る窪地に隠れる
突然ひとりにされてあなたは
泣きながらぼくの影を探す

あなたは小さな手で泥団子を
投げつけてきた
握り固めた怒りをぼくは受けとめたが
会うことが少なくなって溶けてしまった

ぼくは忘れそうになった宿題を届けに
大人になった
あなたの元へ行く
子どもの頃のことを詫びに

「意地悪をしてごめんね」
「そんなことないわよ」
その言葉であなたの記憶の沼に棲む
ぼくの面影が消えるわけではない

沼地に入れた足を引き抜くと
残ってしまう靴のように
あなたは三つ編みの幼女のままで
ぼくの記憶の沼に棲む


変身

  殿岡秀秋

忍術を覚えて
小学校の教室から消えて
塀の外に出たい

煙を出しているうちに
周囲の囲みを抜ける隠遁の術を
授業では教えてくれない

せめて眼のスクリーンに
映るものを減らそう
乱暴な男の子は
画面から消して
側にいるのを忘れよう
平和そうに見える
女の子だけを見る

眼は耳と違って蓋ができるが
そのままでは歩くことすらできない
仕方なく瞼を開くと
見えてしまう男の子
ぼくは頬かむりをはがされたように
うつむく

もっとも見たくないのは
教室の席に座ったまま
石像となって動かない
ぼくの姿
天井から見ると
周りの人の輪から
小島のように離れている


囚われている教室から
黒板を見たまま
抜ける術を覚える

教室の景色を
眼の縁で小さくきりとって
眼の内側に貼っていく
頭がぼんやりとして
眼は焦点を失う
先生の影が動き
声は耳に届いていても
理解はしていない
見える先を丸く小さくしながら
芋虫のように蛹になる

その中は戦国時代
ぼくは黒装束を身につけた
強い忍者になる


笛を持つ警吏

  殿岡秀秋

眼にはいると
同時に足がすくむ
あの店に似ている
突然
笛が鳴り
その日その時の
味覚と
怒りと
映像が
脳のスクリーンに
再現される

街を歩きながら
古い日の苦い液体が
当時のままに
食道からぼくの喉へせり上がってくる

立ち食い蕎麦屋の
厨房の中の
白い帽子を被った
初老の男の動きが変だ
手元は見えないが
どんぶりの中の
食べ残しの蕎麦や
汁をあつめていると感じた
それがぼくに来なければいいと願った
やがて食べ残しだけで一人前が
できあがる
それが運悪く
ぼくにだされた
ぼくは一度口にいれたが
濁った汁をどんぶりに戻して店を出た

二度と来なければいいや
とおもって
怒りを無理に
喉から食道へ飲みこんだ

ぼくが失ったものは
空腹の腹を満たさなかった蕎麦一杯と
その値段だけではない

街角に
似た店が眼にはいると
胸では大声を挙げたいのに
うな垂れて
店を出ていったことが
呼びさまされて
ぼくは唇を噛む
怒るべきだった
何も言わなかったことを
ぼくを監視する警吏が許さない

警吏は大きな十字路で
笛を吹きながら交通整理をする巡査の格好で
銀色の笛を持つ

別のことを考えながら歩いているのに
立ち食い蕎麦屋が眼にはいると
警吏が現れて笛を鳴らし
あの日あの時が
呼びおこされる

ぼくの眼は街を受けとめているのに
警吏は
駅前のあの店の中にぼくをおいてしまう

怒鳴ろうか
それとも
客が大勢いるので
変な目で見られたら恥ずかしいので
やめておくか
「こんなことしていいとおもっているのか」
あるいは
「新しいのととりかえろ」
と言いたい
混んでいる店の中で
食べ残しの丼が出たのはぼくだけだ
ぼくが何かいえば
しかし
周りの客が
怒りだしたぼくを
不思議そうに見るのではないか
かれらに
何を文句言うのかといわれたら
背中から声をかけられたら
ぼくは店主に
文句が言えなくなってしまう

何もしないで店を出る
それが失敗だと
警吏はぼくを責める

その店は数年もしないで潰れた
しかしぼくの失敗は消えない
似た店は都会の駅の近くにはどこでもある
メトロの階段を昇り
四角い空が
ひらけるとともに
眼に飛びこんでくる店の看板
とたんに警吏が現れて笛を鳴らす

あの日あの時が
映像とともによみがえり
叫びたくなる

ぼくは忘れたいのに
笛を鳴らす警吏
かれを初めに雇ったのは
幼い日のぼくだ

手を握ろうとしただけなのに
機嫌が悪いときの母は
ぼくの手を振り払う

手が空をさまよい
ぼくの気持ちは暗い井戸に落ちていく
からだは地上で母の側にいても
ぼくの気持ちは井戸の底から
遠く小さな空をながめる

母の不機嫌を
浴びないために
母よりも
先に笛を鳴らしてぼくに注意をうながす
警吏をぼくは必要とした

かれの戒めを聞いていれば
機嫌のいい母だけを見ることができる
と期待した

ぼくは大きくなって
母の手を握らなくなった
ところが警吏は
ぼくの監視を続ける

何か失敗したとおもうと
繰り返しぼくは責められる

ある日
幼いころに
かれを採用しことをおもいだした
ぼくをいつまでも苦しめているのは
衛生的でない立ち食い蕎麦屋ではなくて
ぼくにつきまとう警吏だ

「おまえを罷免する
笛を持って出ていけ
二度とぼくの前に現れるな」

ガラスのドアを閉める
警吏は何か言いいたそうである
ぼくは立ち去ろうとして振り返る

まだ銀色の笛を持って
ガラスドアの向うに立つ
警吏の顔は
ぼくに似ている


二百十日の祭

  殿岡秀秋

天井が黒くしめり
水がしみでて
凸面ガラスのように膨れる
水の中を泳ぎまわる妖精が
透明な壁に穴をあけると
眼薬のように
ぼくの顔に落下してくる

畳を這ってくる音

顔を青白くした母が
バケツを置く
単調な金属音の
テンポが速くなっていく

子どもたちは
天井に描かれる地図の変化で
どこから新しい妖精が
顔をのぞかせるか
指さして
当てようとする

板と板との境目に現れた
玉がはじけて
柔らかな飴が落ちてくる
母は走っていって鍋で受ける
はじける音

天井に黒雲が広がり
部屋が滝になる
薬缶
牛乳瓶
コップ
お碗が
打楽器の演奏をする

器からあふれそうな雨水を
台所の流しに捨てにいくのさえ
ぼくの遊びだ

母が座布団にビニールをかぶせ
こどもたちを
濡れていない島に集める

酔っ払いのように家の戸を叩いていた
風がいなくなる
ぼくは雨戸をおそるおそる開ける
扉があくのを待っていたのは
日の光だった

街は川になっていて
ボートを引いて歩く人がいる
街路樹は
身をかがめて髪を洗う
庭は紅茶色のプール
海水パンツに着替えて
飛びこもうとするぼくを
母が抱きとめる


月影の出口

  殿岡秀秋

家と家とがひそひそ話しができるくらいに
寄り添って並ぶ街
三十年を経てぼくは生まれた家がある小道に立つ
すでに他人の家である

家の前の袋小路は
老いた母の背中のように萎んでいる

その昔
袋小路の草や水溜りは
月の光に輝いた
そこが宇宙から見つけられるように
ぼくは蝋石で塗りつくそうとおもった
青白い反射光が
星明かりのように月に伸びていくだろう

虫たちの音楽に誘われて
玄関から覗く
月影の袋小路は
世界への出口だった

竹馬をしたり
石蹴りをしたりしたそこは
今はコンクリートで固められ
大人の足で二歩も歩けば
隣の塀に突きあたる

雪の翌朝
りんごの眼
バナナの鼻
炭の眉をした雪だるまを父が作った

相撲取りのように大きな雪だるまは
父が置いていった長靴を履いて
歩きだすのではないかとおもった

暗くなって
袋小路を出ていく雪だるまの背は
街灯の下で青白く光り
月にまで光の筋が昇っていく
その後ろ姿を追っていった
子どものぼくは
どこへ行ってしまったのだろう


草花の目

  殿岡秀秋

秋の庭の草花たちは
人が寝静まると話しだす
その声は虫の合唱にのみこまれて
部屋の中ではよく聞きとれない

夜中に目覚めて母を揺する
行っておいでと眼を瞑ったまま母がいう
ぼくは温かい布団から立ち上がり
障子をあける

月光を反射する草花の目がいっせいにぼくを見る
突然の侵入者に驚いたのか
人の様子をうかがう野良猫のように
目だけを光らせている

黄色い花の奥や
葉の中央の窪みに
その目はある
日光の下では閉じて月影に開く

縁側の狭い廊下を歩くぼくを
日に向かうひまわりのように
追ってくる目
ぼくは視線を背中に感じて振り返る

うずくまっている集団が
今にも立ち上がりそうな気配
虫の合唱が
一オクターブ高くなる

ぼくは廊下を走って
便所の戸をあけて
急いで用をたして
戻るためにおそるおそる進む

草花たちは目を細めて
そ知らぬ顔をしている
来たときは吼えて
帰りは無視する番犬みたいに

障子を閉めると
噎せ返るように熱い母の胸に手を置く
目を瞑ったまま母は
ぼくを抱き寄せる

障子の外で草花たちのひそかに笑う声


きみとともに

  殿岡秀秋

生まれるときに
きみという伴侶をもらった

きみはどこへいくにもついてくる
旅する仲間である

首筋がねじれ
関節がかたまり
腹が痛む

きみに医者が名前をつけても
それはきみの一部でしかない

ぼくの頭から足のつま先まで
きみはいて
ぼくの弱った部位に
顔をのぞかせる

健やかというのは
ぼくの中のきみを
忘れているときだ

きみはぼくだけのものだ
ぼくの気持ちがそうであるように

高熱を出してうめいているときは
きみがぼくをあざ笑っている
もう二度と
元気に歩きまわることができないのではないかとおもう
それもきみのせいだ
ぼくはきみをのろう
きみをからだから永久に
追いだせたら
どんなにすっきりするだろう

しかしきみが去るときは
ぼくが逝くときだ

ぼくをなるべく長く生かすように
きみは幾度となく警告を発している

そのせいでぼくは
からだとこころの変化に気づく

きみと対話してきたから
人の言葉の背後に
悲しい音楽を聴くようになった

きみが痛みをくれたから
人の涙に立ちどまり
その意味を考えるようになった


 ビー玉として

  殿岡秀秋

ガラス球の奥をのぞく
青や橙の羽根が開く
見る角度を変えると
幾重にも折り重なって
色彩の羽根が続いている
小さなビー玉の無限の奥行きに
少年は憧れる

ビー玉を増やすには
小遣いを溜めて買うほかに
自分のビー玉を賭けて
友だちと競技して
勝たなければならない
獲るか獲られるか
心臓が震える遊び

増えたときはいいが
ビー玉を獲られたときは
宝の山が崩れ
自分を囲んでいたものが消えて
残されたからだがみすぼらしく見える

部屋をビー玉で埋めるために
少年は海賊になろうとおもった
競技なしで
ビー玉を手に入れるために
戦国時代の刀を手にいれようと考えて
計画を友に語る

海賊が欲しがっているものは
黄金や宝石だと
幼い子を見るような目で
友はいう

そのとたんにビー玉は
色のついたガラス玉になり
ゴミと一緒に
母が捨てるのを
止める気力もなくなる

鬼ごっこをしていても
子でも鬼でも
どうでもいい気分になる
真剣さがないといわれて
友といさかいになる

憎しみが芽生え
友の顔から
彼の好きな女の子まで嫌いになり
ともに遊ぶことさえなくなる

そのころのままの顔に
ときおり夢で会うほかには
友の居所すらわからなくなった

半世紀を経て
ぼくはビー玉であることに気づく

海賊が欲しがる宝石ではないが
わたしにとっては
色あざやかだと
ぼくを認める人がいる

ぼくはその人のために輝く
面は凹み
無数の傷はついているけれども
指につままれて


 言葉のない世界に

  殿岡秀秋

もし言葉のない世界に言葉があるのなら
木は長い物語を
語るのではないか

小学校の塀の近くで
葉を落とす銀杏の木は
ぼくに見つめられて
幹の窪みの視線を返した
もし目のない世界に目があるのなら
木はぼくを見守っているのではないか

鬼ごっこの
鬼に追われて
クスノキの陰に隠れる
肩で息をする少年の汗
もし鼻のない世界に鼻があるのなら
木は少年の匂いを嗅いでいるのではないか

木の幹に触ると
掌が紙やすりでなでられる
働き続けた手のひらのようだ
もし手のない世界に手があるのなら
木の幹はゴツゴツと触りかえしてくるのではないか

雨水が
葉に滴る
木肌を流れ
根に落ちる
もし舌のない世界に舌があるのなら
木は柔らかな葉の舌で
水を味わっているのではないか

森が深くなるにつれて
沢が見えなくなり
木の根の間を
重いリックを背負って
荒い息をしながら登る
もし耳のない世界に耳があるのなら
木は登る者の息遣いを
木霊のように
聴いているのではないか

中学校をサボって
雑木林の奥深く
そこだけ木々がまばらなひとところ
紅い落ち葉の絨毯に
かばんを枕に仰向けに寝転んで
水鳥やコッペパンやアザラシが
浮いているのを見る
ぼくもその仲間になりたい
木々に囲まれて
空を見ていると
幹や葉に濾過された
空気が香り
枝から離れる葉が
かすかな音楽が奏でる
木々はぼくの身をつつむように
透明な蛹を作る
もし形のない世界に心があるのなら
木々がかもしだすのは
木の心ではないのか


舵取りの神

  殿岡秀秋

浮きもすれば
沈みもする
家は
波に乗る
船ではないか

カミサマ
またの名を
オカミサン
のからだを甲板で
マッサージする
恐れ多いから
肌には触れずに
電動マッサージ機で
パジャマの上から振動を与える
朝起きたときと
夜寝るときに行うのが
ぼくの勤めである

カミサマは気持がいいと
猫みたいに喉をならして
四肢を伸ばす
ぼくの役目は
言葉のいらない時を作ることだ

「何をやらせても駄目ね」
と言われても
口が動くだけ元気であると
観察する気持でいる

しかし甲板にロープを張り
洗濯物を吊るしたのに
干し方が悪いと言われると
ぼくの砲口が開く
「そんなに言うなら見本を示せ」

親の悪口をいわれると
神経の瘡蓋が剥がされ
塩水を塗りこまれる痛みとともに
ぼくの顔が歪む

長い航海
逃げ場のない船の中
針の鱗を持つ言葉は
牙のある口となって還ってくるから
ぼくは気持を裏返さないで
凪いだ空を見る

漁に出る船と同じで
家の床下には魔物が棲む
舵取りと船乗りの息が合わないと
座礁する

舵取りに言われるままに
甲板で働いていると
いつのまにか
帆がふくらみ
海の風をはらんで
家という船は大海原を進んでいく

人使いは荒いが
いつもぼくの隣にいる
カミサマは
舵取りの名人である


影の樹

  殿岡秀秋

小学校の卒業写真を見る
同じクラスの子が並ぶ背後に
巨大な楠木が枝葉を茂らせている
子どもたちの顔は半分くらい覚えているが
この巨木は
ぼくの記憶の印画紙に焼きついていない

楠木は校庭の中央に立っている
校門と教室の往復のたびに
その近くを通ったはずなのに
眼の前に大きく
立つものが見えていなかった

校庭の隅の
ジャングルジムで
銀杏が葉を落とし
秋雨に濡れているのを
長靴で踏みしめながら
近づく冬の気配を見つめていた

空に白い二重線を引く飛行機雲も
遠くに小さく突きでている
二等辺三角形の富士山も
校舎の屋上から見えた

校庭の真ん中に
窪みのある幹と
枝の肘を曲げて
無数の葉で陽を浴びている楠木は
半世紀を経て写真の中に
初めて見た

幼いころは
いつも下を向いて
周囲を見ないようにしていた
乱暴な男の子
授業中にぼくを指すかもしれない教師
死や病の像を引きずりだす映画や漫画

目の前に大きく立つものを
見たくなかった
弱すぎてこの世に生きていけない
とぼくはおもった

今は目の前に立つ
大きなものが
見えているだろうか

肌は楠木の幹のように彫りこまれ
神経は茂る葉のように揺れ
感情は風にしなう枝となり
ぼくの記憶を根にして立つ樹が
ぼくを見おろしているのを

文学極道

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