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霜田明 - 2018年分

選出作品 (投稿日時順 / 全13作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


在ることの領域

  霜田明

さよならを言う前に
ぼくらはいなくなってしまうんだね

  愛は与えることにはなくて
  受け取ることにしかなかった

ほんとうはその向こう側をみていた
明日のことや来年のこと

明日という扉をぬけられれば
永遠になれるとさえ思っていた

    「ふたり」になるためには
    その関係を脱け出して
    俯瞰することが必要になる

    その脱け出しの架空性だけ
    「ふたり」であることは架空である

僕がしようとすることと
実現出来ることの間には薄い皮膚がある

それが僕にとっての不安だった
世界はすぐそばにあったのに
ほとんど不可能なことが世界を遠く感じさせた

  愛は与えることにはなくて
  受け取ることにしかなかった

    愛は振る舞えないことの場だ
    何もできないことの領域だ

さよならを言う前に
ぼくらはいなくなってしまうんだね

  僕が僕の可能性を信じることを
  信じて振る舞うことの領域を
  寂しさの領域と呼ぶことにした

  僕が僕の不可能性を信じることを
  信じて受け入れることの領域を
  優しさの領域と呼ぶことにした

  僕はそのふたつの領域にまたがっている
  寂しくなったり優しくなったりする
  その振幅の
  暮らしのなかで
  
    寂しさの領域にも
    優しさの領域にも
    対象喪失は存在する

さよならを言う前に
ぼくらはいなくなってしまうんだね

  主体は世界と共に在る
  主体が切り離されているのは
  世界からではなく万能性からだ

    在るということは不可能だった
    でも在ることが可能にかわるという
    向こう側の領域において
    僕らは在ることができるようになった

    それは優しさにも
    寂しさにも触れられない
    在るということ自体の領域

    ぼくらは在ることが許されている
    振る舞うことが禁じられている

     (向こう側を信じることが
      存在することの陰だった)

    与えることも
    受け取ることも
    諦めたときに
    在るということがわかる

        その本質は
        きっと「死」なんだ

      愛は与えることにはなくて
      受け取ることにしかなかった

  ほんとうはその向こう側をみていた
  明日のことや来年のこと

  明日という扉をぬけられれば
  永遠になれると信じていた

さよならを言う前に
ぼくらはいなくなってしまうんだね

  僕はそのふたつの領域にまたがっている
  寂しくなったり優しくなったりする
  その振幅の
  暮らしのなかで


発語の詩

  霜田明

  一

猫には言葉がないって
誰が言い始めたんだろう
ものを言わない人にも
言葉はあるはずなのに

言う方法がないとき
聞く方法もないから
猫には人の言葉がわからない
猫にはわからないことがたくさんある

それでも猫には言葉がある
朝 寝ぼけているのを見れば分かる
僕が仕事に出かけていくのと同じ
世界に適応するまでの
ほんの僅かな猶予の時間

  二

僕らの世界はまるで
ちいさな差だけで成り立っている
この子よりこの子のほうがいいとか
10円玉と100円玉のちがいとか

僕らは世界の誤差に
固執することで生きている
僕らは言葉までしかわからない
僕らにはわからないことがたくさんある

あれとこれを取っ替えられると思っても
取っ替えてみると大きな問題が起こったりする
ひとりのアフリカ人が死んでも気楽に過ごしているけれど
親しい人が死んだら一日中落ち込んだりする

  三

暮らしていくということは
返せない砂時計の落ちていくのに似ている
何もしないでいるとお腹が減ったり
出来ないことばかりに迫られていく

一生懸命生きているはずなのにどうして
暮らす とか 過ごす とか
弱い言葉でしか
語れないのだろう

日が暮れるとか
思い過ごすとか
そういうものが僕らにとって
ゆいいつ確かなものなのだろうか

  四

猫は飼い主に感謝してはいけない
餌をもらうのは当然のことだから
人は猫を二重に去勢することで
閉じられた親愛を作り上げているのだから

飼い主がもし餌をやらなくなれば
それだけで死んでしまうところまで
飼い猫は追い詰められている
だから鳴き叫ぶのは当然なんだ

人も猫も創作上の人物も
同じなのに
どうしてみんながそれを許すからって
簡単に虐げたりできるんだ

  五

人が言葉を話すから
僕には人の気持ちが少し分かる
語られた言葉がわかるというよりも
語られない領域を信じられるから

僕に内部があるように
人には内部があると信じられるから
猫もきっと振る舞いの機微にふれることで
僕の内部を見出しているだろう

冬の寒さに猫が膝の上に乗ってきて
僕は欲望されることの愉楽を味わっている
僕には自分が死ぬということがわからない
いつかこの猫も死ぬんだという考えの内部に
自分の死をも見出そうとしている


  霜田明

    一

朝は模倣だからいつでも人に親しい
そそぐ光の新しさに幸福の名前を与え
そう考えてきた僕の幼さは
光のように与える能力を自分自身にも期待した

 自分の精神過程または身体から遊離して、
 あたかも自分が外部の傍観者であるかのように感じている
 持続的または反復的な体験

           (DSM-300.6「離人症性障害」)

これほど爽やかな朝の窓辺に
生きている実感とはなんだろう
失われてきたものの中で
僕は暮らしているはずなのに

与えることができるのだという
僕の生命線になっている想像には
世界がこれからも持続してくれるだろうという
大きな信頼が必要だった

    二

何もかもを受けいれようとする想像が
銀の腕輪をはめた二本の腕になって
この青空を支配している

時間軸上で広がっていた
建築の想像が
空間の想像にかわって
あんなに高いビルが
もう何本も打ち立てられた

 誰のことも考えない
 おそらくぼく自身のことも
 ただ冷たい石の上で目を閉じよう

           (「あれは忘れ物」友部正人)

与えてもらう想像のないところに
与えることはありえない
受け入れてもらう想像のないところに
受け入れることはありえない

恋人があなたを見るときよりも
ずっと遠くへ目をやったとき
関係の幸福と不幸が
そこで一致することに
気がつくだろう

朝に光が注いでいるということは
そこには何もないということが
注いでいるんだ

    三

どうして人を恐れるほどに
人が恋しくなるんだろう

天使が僕に囁いている
あなたにも与えることができるのだと
今日までさんざん与えられてきたのだから
そうに決まっているじゃないか

怠惰な目が愛おしいものの名前を
数え上げはじめると名前は
想像を欠いたまま広がっていく

呼びかけても
きっともう届かない
愛するものは名前になっているから

それでも僕は呼び続ける
果てしない距離を目の前に
踏みとどまることの愉楽のために

学者や批評家のように
たくさんのことを知っていても
話すことのできる言葉はたったひとつ
名前ばかりが溢れている

どうして遠くへ向ける言葉に
目の前の世界が対応するのか

世界自体でなく
現前する個物のほうが
世界を包含する全体であるから

彼女は僕の目の前に
名前として現れつづけることで
毎晩寂しい思いをしているのだとさえ思われた

    四

僕らは僕らにとって黎明期だから
既視感は世界へ束縛するというより
幼子のように引き留める力で訪れる

未来は過去の方角にある
「はい」や「いいえ」のように
同じ意味をもつ言葉だけでしか
語れないことに気が付いている

僕らの知らないところで
語られる言葉だけが
正しいと信じられることをやりとりするのが
僕らにとっての親愛だ

高さを信じるならば
低さだけが僕らの場所だ
しかし高さを信じなければ
低さの意味を説明できない

それは大きな声をあげないかぎり
誰にも見向きしてもらえないのとおなじ

自らを嘲りながら振る舞うことでしか
実存性を信じることが出来ないように
嘆きは未来への自嘲としてしか
正当化されないことがわかっている
僕は本当のことを言わなかった

ごまかすことでしか
君には触れられなかったから

    五

君の身体へ代表されて
価値は明日へ送り込まれる
そのとき僕はいつでも今日を
例えば交差点を通り過ぎていく人々を
目で追い数え続けている

僕にとって獲得が問題だ
遠くで窓がぼうっと光るように
君を大切に想うことが
正しいことのようにさえ思われてくる

正しさは精神的な権力によって決められる
精神の国は現実の国よりずっと支配的だ
青空を横切る雲のひとすじのように

もし君が無力なのなら僕が
君を愛さなければならないだろう
もし僕が無力なのなら君が
僕を愛さなければならないだろう

僕にとって到達が問題だ
窓のカーテンを引くように
君が僕を愛することは
間違いだという核心を引く

    六

裏切られるのが怖いんだ
君の罪においてさえ
罰せられるのは僕だから

本当のことなんかどこにもない
信か不信があるだけだ

とても触れえないほど
か細い恐れと

目にも見えないほど
小さな振幅が

暮らしていることを織り上げている

本当のことなどないならば
騙されるというのはなんだろう

何が瞳のすきまを縫って
暮らしは過ぎていくんだろう

してはいけないというよりも
できない
僕の行為は空想だから

どこにも行きやしないのにと思いながら
また僕は街を歩いている
もしも明日が過ごせるならば

できないというよりも
してはいけない
僕が見られているかぎり


菌糸

  霜田明

  怠惰

言わなくてもいいことを言ってしまったあとを降る雨は普段よりずっと爽やかだ
雨が降るように日々は台無しなことで織られるんだとわかるから台無しなことを愛する気持ちになってくる
「やればできる」という素敵な発想を信じるからこそ僕らのように怠惰な人間ができあがる
ほんとうは行為者のほうが可能性への信仰が甘いんだ実際に行為しなければ「やればできる」ことを信じられないのだから

  水準

子供との論争なら簡単に勝てると思っているならそれは間違いだ
子供は論理を無理やり押しとおす力が強く大人が何を言っても持論を繰り返すことで言葉の迫力を維持する
そうなると子供が口を閉ざすよりも大人が閉口するほうがほとんどの場合では早いだろう
言葉にはそれを交わす水準がある大人の論理では子供の論理を突き崩せないように
実際に経験してみると激しい言い争いであっても成立している分だけは暗黙の了解を守りあって水準を保っているんだなということがわかる
そして僕は自分でものを考える水準と人と論争・討論する水準もそれと同じくらい差があると感じている
対話によって考えを深めていくことは不可能だ
もし対話に深まっていく可能性があるならば相手の言うことをほとんど無条件で肯定するという方法しかありえない
相手の発想に刺激を受けるとか言葉を取り込むことはありえるかもしれないがそれは一方通行のもので読書と同じ構造にすぎない
双方向性の対話を深めれば相互カウンセリングとでも言わざるを得ない関係に行きつくはずだと思う

  内部

自分を押し通すより人に褒めてもらうほうが嬉しいというのは弱さだ
弱さというのは自分を認めることの弱さだ
自分でそれがいいと感じるのに人にだめだと言われるとだめだという方を重く感じてしまうということがある
自分の方が見る目があると感じていてさえも人の意見が不思議に重くのしかかることがそれが弱さだということだ

  禁止

人にはそれ以上踏み込まれると気分を悪くする空間的テリトリーがあることに気がついたアメリカの文化人類学者が「パーソナルスペース」という概念を作り上げた
その概念を知ってから「醤油とってくれ」という要求は要求というより人の空間を尊重した気づかいなのかもしれないと思うようになった
「パーソナルスペース」が確立している人ほど肉体的接触に性的な色合いの増すことは内気な女性にとってのハグと開放的な女性のハグを比較すればよくわかる
性的関係はふだんは禁止されている行為が許可される関係として起こる
女性が裸を見られるのに抵抗する大きな理由は現代の水準ではそれが「行為の許可」を意味するからだと思う
逆に男性が女性の裸を見て性的興奮を覚えるのは女性のその姿から「行為の許可」というメッセージを受け取るからだ
だから男性が行為に向かうときはいつでも「僕にはできる」という想いを纏っている
綺麗な女性に性的欲望を抱くのは男性であることを決められた僕らにとってそれが獲得と成り替わりの二重の不可能性の代表像としてあらわれるからだと思う
つまり僕が女性としてふるまえないことや扱ってもらえないことが僕の男性として振る舞うことを結実しているならば女性を手に入れたいと考えることは当然だと僕には感じられる

  貞潔

僕は純潔という言葉が好きだけれど「貞潔」や「貞操」という言葉の類語を好んでいるわけではない
僕が彼女と結ばれるより僕の好きな彼女が彼女の好きな人と結ばれてほしいというような感情を「純潔」と呼びそれが僕の好きなものなんだ
「貞潔」は良くも悪くも幼児性にしか宿らない
大人になってもし貞潔というものを握りしめつづけているならばそれは未だに親なるものへの依存を続けていることから起こるのだと思う
僕は「ありがとう」も「ごめんなさい」もほんとうは無効だと考えている
なぜなら感謝も謝罪もその場で精算できるようなものではないからだ
目の前だけの視野では「与える」という一方的な行為は存在しうるが大きな視野で見ると普段暮らしている中にはたくさんの行為がありたくさんの交換がありそれらをすべて把握するのは無理だ
親しい間柄には幾度のありがとうやごめんなさいに相当する行為がかならず相互的に行き交っている
それは目に見えないものを含めてつまりその代表である気遣いや思いやりも含めて
目の前での行為は味気ない言い方になるが「当然だ」というところで捉えなければかえっておかしなことになる
極端なところから言えば恩があるのだから奉仕しろだのという発想が実際に日常会話で生じたりするが恩などというものは存在し得ない
小さな範囲で見る限りしか与えることの優位性も損ねたことの劣位性も保持されないから
もちろん「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うべきでないと主張するわけではない
そうでなくそれは無効のものとしてしか言われないということを理解しておく必要がある
生活は「ありがとう」や「ごめんなさい」の優しさで紡がれている
それが倫理的に無効であることは生活的に無効であるということではないということも同時に理解しておく必要がある
生活は坂道を下る老人の杖のように優しさを頼りにするから
お互い理解することには限界があると信じている心にも
会話は優しさでありうるように

  倫理

「嘘をつくことは罪である」と断言した哲学者がいる
「人殺しに追いかけられている友人が、家の中に逃げ込まなかったかどうかと、われわれに尋ねた人殺しに対して、嘘をつくことは犯罪となるだろう.」
これは僕にとって「貞潔」という言葉が意味するところの発想でそれはうさんくさいと感じている
僕の考える倫理は現実に存在しない人間の顔色を窺うようなところにはありえない
人のエゴイズムは自分のものも他人のものも肯定せねばならないというのが僕の考える倫理の第一原則だ
去年の暮れ猫に熱湯を浴びせたりバーナーで焼いて虐殺した男が逮捕された
僕は猫が好きで人間に等しい重さの他者とも見做しているからその男に強い憎悪を持った
人のエゴイズムを認めるということだけではその憎しみについて解決できない僕の倫理は先の原則の上位にもうひとつの原則を加えてはじめて完成する
それは僕には責任があるということだ自分が存在し生活しあるいは死んでいくことについて
僕には責任があり責任は責任を持つものの意志を保証する

  殺人

「犯人Aが被害者Bを刺殺し、被害者Bは死亡した。被害者Bの死亡にBの遺族らCは大きな悲しみと怒りを覚えた。」
僕はその正当な論理に断崖を見つける
殺人は空想的な行為だと書いたことがある
その時の論点は行為するものにおいて人を殺すという行為が空想の範疇でしか達成されないという発想について書いたものだった
だが被害者の側へ視点を移しても殺人は空想的にしか現れないのではないか
Bは死んだというのは現象であり事実だろうがBが殺人によって殺されたということと事故によって死んだことあるいは心臓麻痺で突然死んでしまったことの間にはどのような差があるのだろう
僕には「殺された」とは何なのかとても不安なものに感じられる
人が人を殺せるという水準には生命は存在しないのではないかというのが僕の感じ方だ
それは産まれることと生まれることの差異と似ている
「母親」によって産まれたという大事件の生じる領域と世界に生まれたという領域は違う
たとえば母親になぜ産んだのかと責めることはこれらの混同によって起こっているなぜなら生まれたところに生命の重心は存在するのだから

  責任

人殺しに追いかけられている友人が家の中に逃げ込まなかったかどうかと尋ねた人殺しに対してエゴイズムの尊重は矛盾を露呈する
人殺しの殺したいというエゴイズムか友人の殺されたくないというエゴイズムのどちらかを否定せざるをえないからだ
カントはその矛盾に「嘘をつくことは犯罪だ」という基準で力づくの解決を試みたが僕は「責任」の二文字で立ち向かうことを考える
たとえば僕が異常者に熱湯や硫酸をかけられて苦しい思いをしても僕以外の誰もその苦痛への責任をとれないだろう
たとえば僕が通り魔殺人の被害者になったとして法律がその犯罪者を死刑にしたところで僕の残りの人生への責任をとったことにはならないだろう
責任を負うのは僕が加害者であろうが被害者であろうが状況の中にいる僕自身だ
人殺しの訪問はカントがそう考えたような絶望的な状況ではない
それは僕に選択の可能性を提示しているから現実のいろんな不可能性に比べてずっと容易な状況だ
僕の人生について責任を負えるのは自分自身だけだという前提において僕は原則として他人のより自らの意思を尊重する
その発想を他者へ敷衍するとき人のエゴイズムを認めることの根拠になる
僕自身がした行為の顛末も人が僕にした行為や世界が僕に与えた状況も全ての責任を僕は負わなければならない
僕が嘘をついたことも真実を話して友人の殺しに加担したことも
僕が人を殺したらほかでもない僕が死刑にされるように僕が人に殺されたら僕に落ち度がなくてもその責任を負わねばならないように

  孤独

他人を乗り越えるということがある
他人には長い歴史がある
誰にも言えないような辛い思いをしたりあるいは嬉しい思いをしたり孤独を感じたりしながら人には言えないで
言えないまま死んでいくという領域がある
その領域に向かうことがかえって自分の孤独に正面切って向かうということなのではないか

  純潔

僕は純潔という言葉が好きだけれど「貞潔」や「貞操」という言葉の類語を好んでいるわけではない
僕が彼女と結ばれるより僕の好きな彼女が彼女の好きな人と結ばれてほしいというような感情を「純潔」と呼びそれが僕の好きなものなんだ
「純潔」が好きだ「純潔」という概念はエゴイズムの中に自分の欲望より他人の欲望のほうが重要だという志向が含まれているという発想をとるからだ
片想いが好きだ「貞潔」が示すような親の庇護下にありうる臆病さによるものでなく「純潔」によるものである片想いが好きだ
彼女の幸せなんて僕には望めないに決まっているなぜなら彼女の状況が彼女に迫るものの責任を僕は取れないからだ
相手の人生には責任を負えないのに負えるようにふるまうとき「人のための行為」と呼ばれるいかにもうさんくさいものが現れる
僕は「純潔」が好きだ「純潔」において「僕にはそれができない」ということは悔しかったり苦しいだけではなく愛おしいこともあるんだと知ることができるから
「君が僕の想像のつかないところで存在しているところで君への愛情が水風船のように膨らんだ。」
「何になりたい」や「何がしたい」だけに未来や希望が宿るのではなく「僕にはできない」ことにも宿るのだということが「純潔」を知るときはじめてわかる
 
  欲望

存在することよりも先に
君に欲望されることがあったから
冬の街を目的もなく存在し暮らしていくことが
責任のように反芻される
僕は誰かに欲望されているから
こうして存在し暮らしているのだということに気が付いている
僕を欲望している誰かのために生きることを
欲望していることに気が付いている
それは僕の欲望する人の欲望を
僕が欲望するのと重なっている
僕は僕の愛する君が
君のほしがっているものを手にすることを願っている


寂しさの領域

  霜田明

  I 

川端康成のみずうみという小説に
道端ですれ違っただけの女の人に恋をしてしまったとき
どうやっても自然な方法で彼女と知り合うことはできないという
現実に関係することの奇妙さが描かれている

たまたま隣人になったり
たまたま同じ職場になったり
たまたま同じ家族として生まれる
それだけのきっかけで十分なのに

疲れ切ったり
もう十分だと感じたときにも
その向こう側がある
他者の顔の奥に向こう側があるように
冬の空のように

正しさを追い求めることは
正しさの力を求めているんだ
(生命力のあるところに生命がある)
(生命力とはバイタリティのことだ)

いまちいさな街を
充溢した活気が行き交っている

身体はいれもので
街を歩き回っている人も
私を叱りつける人のように
身体だから
その中には何でもいれられる

心理学の浸透のせいだろうか
それとも古代から続く
社会というものの閉鎖性の流れだろうか
他者に心を信じすぎている
人の心がわかること、わからないことよりずっと前に
そこにあるとも分からないものを
(信じられないことの――)
信じることの次元が重要だ

  II

能動的に生きることは満ちている
正しさへの意識がこのまぶしい領域を汚さない限り
(寂しさにまつわる行為にはつねに)
(向こう側が本質的に関わってくる)

(さようなら)
(あしたとよばれる幻のほうへ)
(社会が君をみがかないまま)
(自然が君をくもらせる)

みずうみという小説では不思議な技法が使われていて
作品の様々な場面にみずうみのイメージがばら撒かれている
だから直接語られていないのに
読み終えたあとその光景に気がつく

(とどまりのない労働体の)
(車窓をいくつもあぶれだし)
(そしてここまで)
(雨はおされてやってきた)

子供には親の万能性が
信仰者には神の万能性が
彼らにとっては信仰の可能性が
そのまま行為の可能性になる

そのどちらでもない僕らにとっても
可能性は信仰の中にある

(信じることは)
(信じられないから起こるもの)

正しさへ向かおうとする僕らの可能性は
他人の反応の中に送り込まれている

褒められることの可能性
欲望されることの可能性
他者の中に信じられる内部が
私に可能性を見出すことの可能性

  III

完璧に見えるということは
快適な形態を取っているということで
完全性を意味してはいない

作品でも行為でも人格においても
要求と羨望とそれらに応えようとする次元で
完璧さはあらわれる

点滴を打ったら身体が楽になるとか
UFOが見えるとか
死後の世界を信じるということは
いくらでも正しく あるいは正しくない

世界はそれがどのような水準にあっても
象徴作用としてしか精神の内部へは入っていけない
(必死さとは 熱心さとは)
(具体的に何だろう)

何かを否定することは
正しさという空想上の力を
他者へふるおうとしていることだ

僕は一度も自分の思いや考えが間違っていると思ったことがない
これまでに一度たりとも
それでも間違ったことをたくさんしてきた

たくさんのことを
よくわかっているひとが
なにもわからないような周囲の人たちに
無理解を被る経験の積み重ねによって
攻撃的にならざるをえないことはありうる

身近な犬や猫を親しみ愛したり
可愛がったりしている人が
国や市による犬や猫の殺処分を
当然のことだと考え感じることはありうる

政治家が「首吊って死ね」とヤジを飛ばしたことは
お笑い芸人が女子校に侵入して何百枚もの制服を盗んだことは
四肢欠損で生まれてきた男の不倫は
一体何を意味するのか
(誰がわかっているのだろう)

  IV

ひとりきりになれる気がするけれど
本当を言うとなれないんだ
僕らはひとりきりだと思っている時も
ひとりきりになれないことで傷ついている

自殺するより仕方ないという状況はありうる
僕は自殺しようと何度も思い
でも結局できないまま青年期を終えてしまったから
自殺した人と自殺しなかった自分の違いが
どこにあるのかはわからない

もう死にたいと感じたり
消え去りたいと思うことには
(その向こう側がある)

フロイトはなんでも性的なものにこじつけようとすると
知りもしない人が冗談をいうけれど
彼にとっての「性」は恥ずかしい行為の領域のことではなくて
たとえば古典哲学や古典経済学が考えるように人は
自分の利益だけを追っていくもののはずなのに

どうして贈り物をしたり
子供を天使と見誤ったりするのか
自分だけの苦楽に関わる領域でない
人のために振る舞ったり
人と関係したいという領域がある
それがフロイトの性の領域だ

ヒステリックに聞こえるせいで
人の笑い声がずっと苦手だった
それが破滅的であったとしても
笑うことは爽やかじゃないか

宮崎駿がドキュメンタリー番組の中で
映画をたくさん作ったからなんなんだ
作ったものなんかどこにもないじゃないか
映画のフィルムが僕の周りにありますか
そんなものはどこにもないんだと言っていた

もちろん謙遜だとか冗談だとか
宮崎駿ほどの業績のある人だからそんなこと言えるのかもしれないが
自分がしてきたことなんて
どこにもないんだという感覚は
何もしてこなかった僕にもわかる
過去は現在において空白で
未来へ視線を向けるときに色合いとして現れるばかり

あらゆる行為は向こう側へ消えていく
何もしなかったということとして
一日中空を眺めていても
漠然と街を歩き回っていても
一生懸命働いたとしても
沢山のことを学び続けることも

無効だから可能性なんだ
有効であるということがないから
あらゆる行為が同じように無効だから
みんなが同じように無効だから
それがひとりひとりにとっての可能性なんだ

川端康成はノーベル賞を取ったあとのハワイでの公演で
今朝ホテルの窓辺に積んであったガラスのコップに朝日があたって
コップのふちがきらきらと輝いて
それが美しくてたまらなかったという話をした
そんな些細で無意味なことに
囚われているのは病的だという
自嘲を含めて話をした


革命

  霜田明

君が死んだ身体が
ふたつの意味を喚び起こす
短命は罪だという意味と
短命は徳だという意味を

死は生きることの内部にある
生の外へ出ていくものはなにもない
死は生の逆さまにあるものではない
死は生を逆さまにするものだ

死んだ身体の顔を通って
自分が死んだ世界が見える
自分が死んだ世界のなかで
世界はすべて逆さまになる

くだらないと思っていたものを
素晴らしいと思うようになる
素晴らしいと思っていたものを
くだらないと思うようになる

死んだとき
世界が逆さまになるのではない
世界が逆さまになったとき
死が起こる

(生の外へ出ていくものはなにもない)

夕陽が昇るようにみえる場所
朝日の沈んでいくことがわかる場所
未来が正確な過去の世界を表し
過去が未来の姿を見せる場所

重さを持つ死の経験のなかで
生は少しずつ逆さまになる
ついに逆さまになりきったとき
いまこの場所が死にかわる


対岸、あるいは彼岸

  霜田明

   I

 生前評価されないことの悲惨さ、などとのたまう表現を見るたびに、インターネット上で小説、曲、詩、絵、天才的なクオリティのものを上げているのに、コメント0、いいね0、そんな人を大勢見てきたことを思う。歴史は、天才たちが「無化」される流れの象徴だとさえ思う。彼らの何が悪かったのか?それは、媚を売らなかったという一点だ。作品は評価された時点で死ぬ。
 せっかく媚を売らずに育ててきたのに、評価されてしまった時点で、媚を売ったのと同じになってしまう。彼らは突然アカウントを消したり、ツイッターで悪口スプリンクラーと化して大暴れしたり、掲示板に自分のアカウントを貼り付けてフォローしろと言ってみたり。そんなことをして、もし評価されてしまったらどうするつもりなのだろう、せっかく媚を売らずにやってきたんじゃないのか。
 信じなければ裏切られることはないのに、なぜ人は信じるのだろう。

   II

 君と出会ったのは自意識の芽生え始めた高校入学の春、4月9日火曜日の文芸部室だった。僕はもう挨拶を済ませて座っていた。君が物理的には軽すぎる木製の扉をはじめて開けてから、僕らはすぐに友人になった。共通の話題、そんなもの媚を売ることの十分にできない僕らには存在しえなかった。ただ波長が合ったのだ。自分が人との関係の中で、自分の外側で「こういう人物だ」と決められてしまう度合いの想定、言い換えればどの程度媚を売るかについての考え方が近かった。
 創作を試みる人間のほとんどが精神的に不安定なのは、経済的生活を媚を売ることの体系とするならば、創作の本質は媚を売ることと売らないこととの葛藤だからだ。世界に正当化されない闘争ほど疎まれるものはない。そして、疎まれることほど、人間の安定性をおびやかすことはない。
 だから文芸部室は部室棟四階の一番隅へ追いやられていたし、部室の扉を開けると、誰が入ってきたのかと顔をではなく僕の襟元を覗き見るように確認し、そしてかならず一人はいつでも歯に苦笑に似た不可解な照れを被せて「お前か」などと言う。
 わざわざそれまでの会話の流れを打ち切り、単独の声を発することで、部室の閉鎖性の内側へ受け入れてくれる彼の努力によって、他の部員たちの億劫な受け入れ作業は君のを含めて不必要のものと化し、僕は自分の場所へ無事に収まる。
 もちろん僕がいるときにも、扉から入ってくる異邦人を一回一回仲間として受け入れ直すこの方法は変わらずに、僕もたいてい「挨拶」の役を免れる。文芸部では話が絶えなかったし、これほど平穏な人間関係の構造がありえるのかといつでも思っていた。波長が合ったんだろう、挨拶をするだけのことが同じように苦手だったように。
 何を会話しているのか、普段暮らしていることの大部分がそうであるように、ほとんど分からないし、翌日には覚えてもいないが、僕も文芸部の会話に平均的に参加し、こんな風にエッセイとも回顧録とも付かないものを書いては4000字で切り上げ、書いては4000字で切り上げることを繰り返していた。志賀直哉は彼の中の葛藤を媚を売る方へ押しやり力づくで長編小説「暗夜行路」を書き上げたが僕は高校生活の間ずっと、書くことと書かないことの中間を取っていた。

   III

 作品を人に見せることはいい。その作品を絞め殺すことができるから。文芸部に入るまでは、誰にも知られないところで誰にも読まれない独白を、何度も書き直すことの繰り返しだった。果たしてさっきより良くなったのか、悪くなったのかもわからないまま、来る日も来る日もひとつの作品を、それも4000字に満たない作品を、書き直すということを繰り返していた僕は、誰かに読ませることさえできれば、その作品を読んだ者を見下し、見棄てるような心持ちで、その作品を、見下し、見棄てることができる、そして改稿地獄から抜け出すことのできることを知った。
 帰り道、ときどき君と、寄り道したり、しなかったりしたが、いつでもその日書いた4000字を読ませて、その度に君を軽蔑した。かわりに僕は君の書いた小説を読みながら帰る。同じくらいの文量でも、いつでも君はきちんと読み終わり、僕は家についても読み終っていないことがあったが、それは君の用いる三人称での文章が、僕の書く一人称での文章よりも読みにくいからに違いない。読み終えると君は何も言わず丁寧に二つ折りにして自分のカバンの中へしまったあと、恥ずかしそうに笑って僕の表情を伺う。自分が軽蔑されていることを知っているからだ。僕は君の仕草を模して、だから部屋にはきれいに二つ折りにされた君の小説が積み上がっていった。
 君との出会いは「誰が読むのか」という根源的な疑問との別れでもあった。読ませる人もなくただ書き続けた中学時代にあった深淵に覗かれているような感覚は霧消した。それがどのような影響を総体的にもたらしたのか未だに無自覚だが、救いと呼べるような安易に肯定的なものでないことは感覚的には明らかだった。
 もし君が、善行と見なされているような、作者への感謝のフィードバックなどを敢行していたならば、君は途端に深淵と化し僕を覗く具体物へと転化していただろう。だが、君は感想や意見を述べることはあったが、善行は一度もしなかった。もし、あの照れ笑いを善行の滲出と見なすならば、君は既に少しだけ僕にとっての深淵であったのかもしれない。

   IV

 この作者の小説の特徴は終わり方の唐突なことだ、といった評を三島由紀夫が川端康成の小説のあとがきに贈っていたが、僕は川端康成の作品の終わり方を唐突だと思ったことはない。というよりも、どこで終わっても様になると感じていた。川端康成の小説の場合、そこで小説が終わりになること自体が、そこで小説が終わるべきことの根拠になるとすら思っていた。
 でもそれは作品を書き続けることが根源的に無効だったということを意味するのではないだろうか。終わるべき幾度の断層を経ることでしか、続いていくことができないのならば。
 君の小説の特徴は終わり方の唐突なことだった。僕は君にささいな感想を贈ることさえ恐ろしくてできなかった。人生における完成の不可能性を、作品における完成の不可能性として、重ね合わせる方法で扱うことができるのなら、きっと君の小説のように唐突に終わるしかないだろう。完成の信じられていない場所において、いったい評価とは何だろう?
 高校一年の秋、名作と呼ばれる映画を見て、こんな作品で取れるようならもし自分がアカデミー賞をもらっても嬉しくないだろうと心の中で発語してから、それまで持っていた評価への固執、つまりそれにまつわる恐れや恥じらいの危うさを感じた。それは自分の作品を君にどう思われるか、どう見なされるかという不安や期待の延長線上の、それも重要さの減退する方向にしかあらゆる賞や評価は考えられないことを発見したからだ。
 君は主観で判断する個人に過ぎないが、同時に賞や評価の決定性も、集団が擦り合わせの結果として決定する「価値」を重要なものと見なす作者個人の主観によるものに過ぎないことは、それ以前に、もう理解していたことだった。
 高校を卒業してから君に一度も会わなかった。ただ、部誌にも載せなかったまさに塵紙の束が、きれいに二つ折りされてお互いの部屋に眠っていたはずだ。
 僕も君も、二ヶ月に一度発行される部誌に作品を載せたが、井戸に原稿を投げ捨てたのと同じだった。もし僕か君のどちらかが、あの二人きりの鑑賞会のなかで善行を行っていたならば、相手の見る自分という姿に同化して、生まれ落ちたものとしての自分自身をこの場所へ置き去りにしていたのだろうか、それとも開いた深淵が、偶然が、つまり必然がする方法で、ただ、二人を「さりげなく」分かつことになったのだろうか。
 君の創作における葛藤は、読者である僕においてあまりに容易に解消される。それは同時に、もし君が僕の中へ旅立つことを決めない限り、僕は君の葛藤の持続とは関係が持てないことを意味している。僕の葛藤も、君の中であまりに容易に解消されていただろう。だがそれは本当に、無意味なことだと良く分かっていた。
 あるいは関係できることの方が異質なのだ。会話が成立することさえ奇跡と考えていられれば少しは媚を売る気にでもなれたんじゃないだろうか。世界にとって関係が可能性、あるいは存在性であっても、切実なところで、僕にとって関係は、不可能性でしかありえないと感じていた。僕が君に出会ったことも、君が小説を書いていたことも、それから君と一度も会わなかったことも、世界にとって必然であることが、僕にとっては偶然だった。

   V

 君を僕のすべてを見通している存在と想定するならば、今になってこんなことを書くことの意味を弁解しなければならなかっただろう。あるいは、それは僕のひとりよがりだろうか、という僕のこの自嘲の不当性を君なら看破することができただろう。つまり僕のひとりよがりだ、という言葉は前提的に無効だ、なぜなら君も、誰も、何も見ていないのだから。
 見られる、聞かれる、読まれる、ということは無いのだ、 誰も、何も、見ていないということが在る。神が見ている、お天道様が見ている、読者が、観客が、見ているから、書く、作る、行う、という誤魔化しの無効性。あるのは僕が見ているということだけだ。それが遠く旅立ってしまう「可能性」を含めても。僕は読んだ。自分の書いた文章を、君の書いた小説を。僕は見た。君を、僕の書いた文章を読んだ君を、僕の書いた作品の載っていた部誌を。でもその向こう側はない。君を理解するということはもし僕が君を理解することでありえても、世界が君を理解することではありえなかった。
 本当は僕は落ち込んでいたんだ、もう丸二週間、考えることと書くことのすべてを諦めていた。この落胆も反復性のうちに捉えなければならないことの屈辱が僕の不能を持続させていた。ほとんど喪に臥せるということだった。罪悪感にも似ていた。僕が僕の行為を何度も何度も0と掛け合わせ無効性と捉えなおしても寂しさは1として残り続けていることの意味が理解できなかった。不在が在るという人間的矛盾への対処法が見つからなかった。
 僕はそれこそ生を死んでいるかのごとく、あるいは死を生きているかのごとく、頭の中で生じては消えていく絶え間ない自問自答の中で、欲望はそれまで考えていたように、後に行為を引き起こすものとして本質なのではなく、いまここに在ること、存在を、ここに起こしていることの前提だということを発見した。
 生はそれまで前提として、つまり無意識の中でそうと決定し考えていたような、無意味性や無根拠性に触れているものではなかった。なぜなら存在が起こるということが既に「欲望」によって方向づけられたものなのだから。
 「実存は本質に先立つ」という高名な言葉の「実存」という単語に僕は欲望を前提的に方向づけられた存在を見る。部屋へ放り出された無力の赤ん坊ではなく、泣き叫ぶ赤ん坊こそがより根源的なのだ。まるですることを失った僕が一日中街を彷徨っては、頭の中で自問自答を反復していたように。
 欲望は存在に先立っている。不安は人の心がわからないことを根源に持っている。例え一人でいることが不安であると感じているときにも。それが欲望の先立の根拠だ。
 君が読んでくれたということや、君が見ていると感じるということは、視線の方向性によるものではなく、存在に先立つ「欲望という方向性」によるものだった。

   VI

 自らの行為の無効性を言い聞かせることは部屋に帰りつくと、あるいは休日になると、何もすることがないという地点へ不幸を押しやることにすぎなかった。君が僕をもしニヒリストだと見做しても、それを否定する方法はなかっただろう、ただそう見做してくれる人はどこにもいなかった。
 親愛なる退屈から目をそむけ、「自らの行為の無効性を認める」などという言葉遊びの陰で自ら無効と呼ぶ反復行為を結局は繰り返すことが僕の精神的生活の全てだった。自らの存在しない身体を探し求めるように政治行為に参入する人のように僕は自らの行為の無効性へ一致しようとしていた。あるいは誠実な唯物論者が物理法則にそぐわない領域を否認するように無効性の内部性を否認していた。あるいはどの思想家も宗教者ももはや僕を前進させる言葉をもたないことの無効性を非難し、要求し続けていたことの隠蔽に言葉を利用していたにすぎなかったのかもしれなかった。
 「なぜ人は厳密に語ろうとしないのだろうか」
 教養とは、欲望を誤解しない度合いだ。自らの人間性を、裏切られる形式でしか夢見ることができないところへ想定してみればわかるように。
 欲望は有効性の柔らかい内部だ。例えば一日中砂をいじくっていても、それとも大作の執筆に勤しんでいても、みんな同じように有効なのだ。欲望の領域の内部において、つまり全部が同じように無効だと見なすことの、同形異音語のように、薄い皮膚の裏と表で。虚しいと感じることに熱くなったり、熱心に暮らすことに虚しさの匂いを嗅ぐことは。

   VII

 固執とは、誤差を重要視することだ、というより、誤差を重たく感じることだ。誤差とは、君が君であることと、僕が僕であることの違い、あるいは、恋人であることと、友人であることの違い。僕が眺めている、対岸、あるいは彼岸、

   VIII

 他人の不幸が大切だ。たとえば、愛する人の失恋が
 自分の不幸はないのだから




(補遺)

   I/II

 なぜ書くのか?という問には一つの答えが対応する。それは、「自分が空っぽだ」ということだ。書くことは空っぽな自分に自分を積み上げるということにほかならない。それは純粋な自分自身のための行為だ。
 なぜ書いたものを見せるのか?という問には別の答えが対応する。それは、自分を見てもらうためではない。自分を見つけてもらうためだ。
 僕は人に書いたものを見せるが、有象無象に見せているつもりはない。ここがだめだとか、微妙だと言ってくる人の反応などは本質的にどうでもいいものだ。僕はその時時の一番切実なところで書いているから、アドバイスを貰ってどうこうできる次元ではもはや書いていない。精一杯やったから良いものが出来ているなどと言うつもりはさらさらない。それでも自分が生み出しうるものとしては最高のものを作っている以上、それでだめなら巡り合わせなかったというただひとつのことだ。それが商業的な関係でない限り、相互的にどのような要求もまったく無効だ。だから僕は要求するものは無視し、要求のような感想を言ってしまったときにはその無効性を自覚し、無視してもらってどうぞと思っている。創作が純粋に創作者自身のためのものであることを考えれば当然の態度だろう。鑑賞者を主に置く場合に創作者が試されるものであるのに対し、創作者を主に置く限りでは、鑑賞者こそ試されるものである。それは対話は根源的に不可能で刺激を受け合うに過ぎないという発想にも通じるだろう。
 批評家気取りは今直ぐにでも鏡を覗いて商人あるいは普遍的価値と名付けられた仮想の親へ依存する幼児の顔が映っていないか確認するべきだ。
 あるいは自分より下らないものを書いている者が受け入れられているという屈辱的な経験を下敷きに考えるならば、どの水準にも巡り合わせはありうるという言い方になるだろう。二者関係の絶対性に割り込むことができないというのが第三者性の本質である以上、下らない水準で分かり合ってやがるなどと言ってみることは自分自身の空虚さを響かせることに他ならない。
 創作は空洞と感じられる自分自身の探求であり、深淵と感じられる他者の探求であるところで二重性を持っている。

   III/IV

 腹が減って泣き叫ぶことが、猫や乳児自身にとっては偶然、母親へ呼びかけることに繋がったのならば、泣き叫ぶということだけでなく、きっと辛さや苦しみ自体が、呼びかけであると感じられる領域を持つことだろう。
 辛くもないのに泣き叫んでみたときには、(不幸にも成功するかもしれないが、)鬱陶しがられたり、叱られたり、母親の優しさを十分に受け取ることができないという経験は、幼稚園を卒業するころにはもう学習されているはずだから、もし自然な母子関係がそこにあったならば。
 言語に内面性がありうることの根拠はそこで生じているのではないか、また、もしかするとマゾヒズムの根拠をそこに見出すことができるかもしれない。
 恋人関係は、未来へ目を向けないという条件ならば、「触れることの許可」を伴う友人関係なのだと思う。友人関係は「触れることの禁止」を伴う恋人関係だろう。その定義において、どちらがより「深い関係」かは、僕には決めることができない。
 ただ恋人関係の重心は「触れること」よりも「その許可」にあるように思われる。相手の許可を認知することが、恋を認知することであるように。

   V/VI

 猫は腹が減ると僕を呼ぶ。しかし僕が餌をやらないでいると居ない人を呼びはじめる。飼い猫は家の中で自分では餌を取れないから、他にできる行為がない。僕など悪人で「うるさいなあ」と心の中で思うことが多いが、泣き叫ぶのは当然の行為だ。なぜなら他にすることがない。
 人間の「退屈」も、「終わっていくこと」に対しての当然な行為として、無意味な行為あるいは空想的な行為、それでも可能な行為、可能であるということが優しさである行為へ向かう。
 同時に、猫は人を呼んでいて、それはただ鳴き叫んでいることとは違う。呼びかける対象は空想の人とでも呼ばねばならないが、呼びかける行為は本物である、という、そこにギャップが生じている。
 もし見えないところに誰か人がいたら、その人が来るかもしれないという、僅かかもしれないが、可能性を残し続けている。それはほとんど夢みたいな話だが、頭で理解しているとかしていないとかでなく、わずかでも可能性があるということが、例えば当たらないのに宝くじを買うように、その行為を選択する根拠になっているということがある。「僅かな可能性」というものが、可能性と不可能性の間を架け橋している。

   VI/VII

 厳密に語ろうとすることは、否定を畏れること以上のものではない。正しいと見做されることへの構造的依存。それが厳密に語るということの本性だ。
 ひとりで考えつづけていると、自分にしか伝わらない言葉を創出したり、使っている言葉が通用しないところへ根付く、菌糸が日陰で繁殖するように。だれしも、人は自分の頭の中で考え、感じ、覚え、忘れることをしているから、通用しない領域を保持している。
 想定される一般的価値観として、お互いの甘受というところに想定される愛を考えれば、それは分かりあいの不可能性を承認した先にある、つまり二人の誤差の許容として、更に言えば「要求の無効性」への同意として、その意味で愛は深いわけだ。
 でも僕は少し違った形の愛を別に思い浮かべている。それは「ずれ」で一致するということだ。女子高生の会話を聞いていればときどき無造作に出現する、「わかる」という言葉がある。
 「わたし、これ苦手なんだよね、」
 「わかる」、僕はこの言葉を信じていない。
 お互いがお互いに不明瞭な領域を少しでも残していれば、それは構造全体へ浸透する誤解性であり、そのうえ現実の関係は、お互いのほとんどの領域を不可知のものとして保持しているからだ。わかるということはありえない。でも僕はこの「わかる」という言葉が好きだ。相手のことがわかることはありえない、というのと別に、わかった、と真剣に思うことが、「二人」という関係性では起こる。


残寒の詩

  霜田明

(本音を書くことは難しい)

みんな似すぎている
どの顔も

それでも、人へ期待する
人に期待することが、
とくにそっくりだ

みんな
自分が余るんだ
数を数えてみるたびに

猫は顔に表情がなくて、
じっと見ていると不安になるけれど
寝ながら目だけで人を追うのを見ていると、
本当に生きているんだな と思う

家を出て、久々に再会した猫が、
思っていたよりずっと小さかったことに
驚いたのを覚えている

猫と過ごしていると
時間の長さを
きりがないということを思う

昨日の夜
眠りにつくには、少し早く床に就いたから
余った時間 好きな曲ばかり聞いていた

サティの「Gymnopedie No.1」に、
ドヴォルザークの「新世界より」
たまの「サーカスの日」、
ピート・シーガーの「My Rainbow Race」
遠藤賢司の「夢よ叫べ」、

どれもが救いをあぶれた曲だった
世界を変えることのなかった曲だ
作者の一時期の浮かれにおさまって、
その間を揺れ動いている曲だった

不死の魂のように、

谷川俊太郎が
詩の言葉は実用書のように、
即座に効果のある言葉ではない
だが気づかないくらいひそかに、
人に作用する言葉だと言っていた

ひそかな作用とは一体なんだろう
ピート・シーガーは死ぬ前に、
「I'm still searching」と歌っていた
吉本隆明は死ぬ前に
本当に性的魅力を感じる女性の現れなかったことが、
未だに心残りだと言っていた

女性の好きな部位を聞かれると、僕は
それは恥じらいだと答える

フェミニストなら怒るだろう、
僕だって、人の精神性を
自分の性的嗜好へ利用する考え方が嫌いだ

あるいはオタクのように、自分の性的嗜好を
それが「女性」を利用することでも、
追求できるのならば、爽やかだと思う

恥じらいはその物事を
自分の方へ引きつけるときにだけ、起こる
あの人が見られていても恥ずかしくないのに、
自分が見られていることは恥ずかしい

自分があの人として生まれていたかもしれない、
あの人と自分の差はなんだろう
それは誤差だ、自分が自分を
割り当てられたという事実、それが自分であることだ

あの人の失敗は恥ずかしくないのに、
自分の失敗は恥ずかしい

高畑勲が死んで、
「人は死ぬものだから」と、思った、
たまたま先月、「平成狸合戦ぽんぽこ」を見たとき、
途中、泣きそうになったシーンがあったけれど、泣かなかった。

「トイ・ストーリー3」でも、
「自転車泥棒」でも、
なんでも泣いてしまう僕の涙には価値がない、

今日は久しぶりに寒かった。
寒いというだけで億劫で、
不幸だとまで思った、

最近は暖かくて、気が抜けて、
何もする気が起きなかった

今日は寒くて、憂鬱で、
何もする気が起きなかった

エアコン暖房を付けることの罪悪感、
地球温暖化のキャンペーンだろうか、
母親の教育の成果だろうか、
その出処がわからないが、
なんとなく罪悪感を感じながら、
暖房をつけたのを覚えている

人を嘲笑うことは本質的に
恥知らずを笑っている

自己否定が恥じらいとしてばかり
訪れることを見るとよく分かる

恥知らずを取り除いたところでは
馬鹿げた行為と高尚な行為には差が存在しない

自分のくだらなさを笑い飛ばそうとするときでさえ
自分を縛る方向へしか働かないように

ピート・シーガーの
「Where have all the flowers gone?」という歌、

サビの最後を締めくくるフレーズが、
この曲を反戦歌に仕立てあげる

「when will they ever learn?」
いつになったら,人びとは学ぶのだろう、

少女が花を摘んでいく、
長い時間が経って、少女は恋人のもとへ、故郷を去り、
その恋人は、戦争へ駆り出されてしまう、
それを切実なものとして振り返りながら、

「when will they ever learn?」
どうして、そんな言葉へ回帰してしまうんだ

母親が、「終わっていくこと」を見て、
心を痛めていたことが印象に残っている
それでも終わっていくということはどこにもなかった

ぼんやりテレビ番組をみていたとき、
こんな番組を楽しんで見ているやつは、
きっと総じて馬鹿だと思った

テレビを消して皿を洗いながら
どんなテレビ番組を見るか、なんてことで
誰も、馬鹿だと見做されるいわれはない と思った

医学者なら、人は死んでいく
それは明らかだと言うだろう
だけど、人は死なないんだ、


malagma

  霜田明

 もしわたしがわたしと会話したいときはどうすればいいんだろう、それが暮らしに足りないもので、だから好きな場所はドアの前とか電柱のそばとか浴槽の中だった。今朝、壁に掛かっている絵を外そうとしたら重たくて驚いた。重たいってことをずっと忘れていた。わたしは先生が雨の日に散歩に誘ってくれることを身体の中に欠損としてもっている。そこが真空みたいになって、だからそれが保たれなくなったとき一斉に流れ込むだろうって予感がある。雨が好きなんですだなんてさすがに嘘のようなことを言ってしまったから、それが真実よりもしぶとくて、偶然見つけた喫茶店の座席が固定されていた、みたいに、必然、を信じさせてくれるところで、それは真実なんじゃないかって思う。わたしが十分に不十分でないことをどうすれば解けるんだろう、それが生命に足りないもので、だから人混みの中も友達のそばもちょっとした会話も、それがあまりに優しかった。好きな場所と好きな人との融和がありうるとすれば、それはきっと降り続くということのある雨の中だって気がする。

 寂しさだけが真実だっておもったり充実だけが真実だっておもったりするなかで好きな人と過ごす時間の暖かさだけが、愛だけが真実だって確信したことがあった。でもわたしから君を訪ねてもだめで、君からわたしを訪ねてもらわないとだめなんだってことが分かった。偶然出会うことがふたりにとって見つけあうことじゃなくて見つけられあうところでよりつよく響くみたいに。もしわたしたちが呼びかけ合うときがきたらふたりとも二人の間の距離を歩いていけない状態に陥っているだろうとおもう、だって歩いてきてもらわないと愛はみつからない、でも日常はそんなことさえもほんと些細なことのように扱って、君はときどきわたしの手を取って、わたしはときどき君に抱きついた。その距離が実際に振る舞われるときにはそこに充ちていたはずの液体の抵抗を受けないみたいに簡単に透過できた。

 わたしが真実をあまりに流動的に捉えるみたいに、でも君がそばにいてさえくれたら、それだけできっと全部解消されるんじゃないかって、そんなことがいま流動する真実の位置を占めていて、その重たさを受ける心の身体のようなたしかさが、それがあんまり切実だから、正直に言うとあまり笑えないんだ。愛はわたしの身体を離れたところへ飛んでいかないことが条件だから鈍くて重たい色をしているんだと思う。それでも捕まえることが恐ろしいから液体のように笑っているみたいに流れるものでしかありえないんだ。わたしは憂鬱なんかじゃない、それだけは言っておかないと、だって、こんなに澄んでいるから。

 でもほんとうには信じることのできないことが暮らしを満たしている、たとえばいまも君はどこかで何か別のことを考えたりしているってこと、どうやったら信じられるんだろう。わたしがこれから歳を取っていくことだって。結婚しないって言ってたのに当たり前のように結婚して嬉しそうにして出て行ったお姉ちゃんのこともそう、それでもわたしはたぶん結婚しないって本気で思う、でも歳を取ってしまうってことは頭ではきっとそうなるんだろうって思っている。わたしはみんな大好きでほんとうは誰か好きな人とお互いを選び合って朝から晩までべったり暮らしていたい。誰かじゃなくて好きな人と。誰でもいいってわけじゃないけどみんなそれぞれに好きだからその中でなら誰でもいいんだって言い方はおかしいけど。でも、だって、愛する人なんだから。でもわたしには愛がないんだよ。

 わたしは君が簡単に、普段学校でそうするみたいに簡単にわたしを見つけてくれたことが網膜の裏に残り続けていてそこには存在しなかったはずのわたしの姿があるんだよ。それは過去の方向にあるけど、でもそれがわたしの夢なんだと思う。でも辿り着けない夢ってどうやったら希望にできるのかな、わたしは友達同士だからってふりをして君に抱きつくときにその幸せの響きを味わってるって思うことがある。正直に話をするときにかならず身体の内側が清々しいみたいにいまのわたしも清々しい、でも正直に話をするときみたいな恥ずかしさがいまはなくてそれが少し不安かな。でも、それはきっとわたしのせいだとおもっていてだからわたしは、――いや、このことは言えないんだ、その言えないひとつのことのなかに恥ずかしさが入っているんだっていまわかった。でもわたしが言ってることが嘘だってことじゃないんだよ。

 柔らかいクッションを買ったみたいに暮らしていくことの優しさのなかに埋もれていられないことがもったいないのかなって気もする。そこにはきっと続いていくってことを信じることと信じられないことがあってもし終わってしまうっていうのならそこに優しさはあったことになるのかわからなくて。時間っていうものはきっと不安だから流れていってそして続いたり終わっていくことに変わるんだ、もし時間は安心していたら流れていくものじゃなくなって続いていくことも終わっていくこともほんとうはないんだって気がする。

 みんな休みの日って何をやっているんだろう。わたしには愛がないんじゃなくて休みがないのかもしれない。だって終わっていくことがあって、いや終わっていくことはないのに、それなのに追われていて、どうして休めばいいんだろうって。きっと安心できたなら追われることもなくなって、でももしそうなったら毎日はどうやって暮らしていけばいいんだろう。やるべきこともなくてやりたいこともなくて時間が流れることさえもなくなってしまったら。わたしの身体の中に残り続ける生きるってことは終わることでも終わらないことでもいけなくて、でもいまこんなふうに澄んでいるということがあって、でもこれはきっと明日は不安で明後日はずっと安心でそしてまたときどきこんなふうに澄んでいるということになる。

 わたしのちょっとした一日が誰か知らない人の目にずっと見られていること、それとも君にずっと見られていないところでわたしはほんとうのものを逸れているような気がしつづけた。誰かがわたしを見限ってくれればいいのに、それとも君がちゃんとわたしを見つづけてくれればいいのに。わたしはベッドに仰向けで寝転んでいる顔の少しの表情さえが見られること、あるいは見せたいことの意識を離れられないことに気がついてちゃんとただしい顔することができなかった。

 お風呂を出て自分の顔をじっとみた。鏡を通して見るということはただ視線の困惑で、わたしをみつめることじゃない、そう思った。君を見つめることは動揺にちかい気持ちを起こすけど、でもそれを含めてもわたし自身をみつめることにずっとちかい。というよりも君を見ているわたしのほうが見られているということに不思議にかわるんだよ。わたしはわたしのすきなひとを君に想ってもらいたい。でもその先は突然壁で存在しないんだ、想いと行為は別だから。わたしの中には行為はなくてだから行為というのはどこにもなくて、でも後から振り返るとそれがあったことになるから不思議で。むしろ行為ばっかりが後ろには積み上がっていくからまるで過去は存在しなかったものの流れみたいになっていく。

 ひとがわたしをどう思うかってことが気にならない日はなくって、それもわたしの愛していない人がわたしをどう思うかってことが窓の外を見るときみたいにいつでも気にかかって、それが、眩しい、ような気分になる。そのとき君はどこにもいない。わたしがわたしでないことを決められた誰かの方へ、たとえばお姉ちゃんがそうしたように歩いていくならそれはきっと眩しさにたえられなくて、それとも眩しさを身体の中に受けいれるために歩いていくんだって気がする。

 わたしはあの晩君にこだわらない寂しさのなかでそれでも君のことを考えていた。君がわたしを見つけるときわたしのいないところにいる君を振り落とすことでわたしに接触するんだってことがふとわかった。それがふたりの「歩いていけない距離」の歩いていけないことの本当の理由だってことがわかった。


未然

  霜田明

   三条へ行かなくちゃ 三条堺町のイノダっていう コーヒー屋へね
   あの娘に逢いに なに 好きなコーヒーを 少しばかり
                     (『コーヒーブルース』 高田渡)

屈辱や羞恥を覚えるできごとのあった日には、家に帰ってから、『コーヒーブルース』という歌を聞くことで、それを中和しようとしてきた。
歌い出しの「行かなくちゃ」という言葉に、特別な安心感を感じていた。

『コーヒーブルース』が売れてから、「イノダ」は高田渡のファンにとって、聖地になった。
この歌を聞いていると、カウンターで店の女の子と楽しく話す光景が浮かんでくる。

だが、作者は後に、「あの娘」は店の女の子ではないと語った。
当時付き合っていた彼女との待ち合わせを描いた歌で、「店の商品には手をつけない」と冗談を添えた。

それでもファンやあるいは作者がそう考えていたように、「イノダ」は実在の店ではなかった。
作中では「行かなくちゃ」が繰り返され、結局、最後までその店へ行かなかったから。

「行かなくちゃ」を聞いていると、それが「行く」ことにも「行かない」ことにも
侵すことのできない領域であることに気がつく。


反響

  霜田明

    I

やさしい人の
うわごとみたいな
言葉ばかりが
疲れ切ったこころの
よすがになる

  ああ あそこだな
  いつか あそこへかえっていくんだな
       (『ひとり部屋に居て 』友部正人)

僕にある自我が、
閉塞性が、
僕を、
僕という生き物にしている
ように
君にある自我が
閉塞性が、
君を、
君という生き物にしている

そうして
誰の思い通りにもならない存在になる
思い通りにされるということを
忌み また同時に
ひそかに恋する存在に

やさしい人の
うわごとみたいな
言葉ばかり

  ふたつの自我のあいだに
  想像される
  自我をもたない
  空間を
  距離と呼ぶ

    II

言葉の意味を
強く感じた経験は
罵倒を受けた
帰り道だった

言葉の意味、
それは高度さや
深遠さではなく、
自分へ向かう言葉が
反響するところにあるものだった

誰かが歩んできた
人生を想いながら
失われるのが
惜しいと思うことと

自分の人生を想いながら
そう思うことは違う

自分の想いは
いつまでも
自分が想うことの中に
とどまっている

他人の想いや考えは
自分にとって
その責任が負えないところへ
失われてしまうものだ

歯医者へでかけた帰り道、
ちょうど日が暮れ始めた、

小さな天球の下、
わが家へ続く道の周辺だけが
世界に構成されて、
その外側はなかった、

    III

言いたくても
言えない言葉がある

言葉にできないことは
たくさんある
もし、それをかぞえてみるならば

目が覚めたときに 思った
本当に望むものは何か

これがしたい
あれがしたい

そんな希望も、
ぜんぶ薙ぎ払うような
本当に望むものは何なのか


空洞

  霜田明

(誰も自分を理解できないのだから
 誰かに理解されようと思うことは
 究極的には間違っている)

/

バリエーションに過ぎない
差異の中を歩いていた
バリエーションに過ぎない
差異はしかし
無限のバリエーションである

  僕はモーツァルト自身のように
  モーツァルトに憑かれていた
  みたいに
  交響曲第38番を正確に
  頭のなかで奏でていた
  ベートーヴェンに憑かれるよりは
  マシだと思いながら
  回想だけが美でありうることを
  仮説として知った
  一番初めの回想は
  いったいどこからやってきたのか

/

ビルを仰ぎ見ながら思った
人間の創りだす高さは
高さではなく
高さへの要求だ

  要求することはもう止せ、と思った
  例え自らの手では
  辿り着けないからこその要求であっても
  寂しさに直接由来しないあらゆる要求は
  ついに虚しいものだから

    時間が持て余されている
    空洞と空虚との差異が問題になっている

      虚しさは寂しさの偽装である
      虚しさは自らの手で解消されるはずの課題として幻想される
      本来的なものである寂しさは自らの手で解消されえないものだから
      存在しないものとして
      代償として生まれる恥じらいの感情の中に隠蔽されている

    要求とは 自らの力で克服できるはずだという「虚しさの信仰」の上で
    更に他者の力に頼ろうとする一番恥ずかしい能動性の形態だ

  要求することはもう止せ
  それは恥ずかしい行為だから

/

時間が持て余されている
僕は雨が降っていない多くの時間
こうして街の中を歩いている
雨が降っている時間には
可能性としてだけあらわれて
ついには訪れなかったものを
回想している

  ドキュメンタリー映画で見た動物の
  繰り返される生死の光景を思い出しながら
  死という意味の不自然な重さを考えている
  なぜ「どうして自殺してはならないのか」
  という問が生まれるのか
  自殺していいに決まっている
  生き死にはいつだって
  自然な現象であることを保証されている
  それは人間の関係を訪れる
  様々な禁止と許可の水準とは
  遠く隔たった高さに存在しているものだ
  
    しかし現実における可能性としての死は
    禁止と許可の繰り広げられる水準で訪れる
    だから「どうして自殺してはならないのか」
    などという問が生まれてくる
    死が禁止されているものとして幻想されるからだ
    現実の関係がどれだけの要求を孕んでいるか
    空白と想像される領域にどれだけの力場が展開されているか

      「どうして自殺してはならないのか」
      問いかけることには逆方向の要求が含まれている
      「どうして自殺してはならないのか」
      向こう側から、その意味が与えられることを望んでいる
      それは比較的正当な要求である
      なぜなら関係はそれまでの間、彼に
      「自殺してはいけない」という要求を突きつけてきたからだ

    傍から見れば無効な要求が現実の関係を決め
    関係が意味を決めている
    そこには両方向の要求が含まれている
    ひとつは関係が彼を決定する方向性における要求
    もうひとつは彼が関係に決定されることを望んでいることの要求

/

突然雷が鳴り始め
雷自体の潜在性のように
遅れて雨が降りだした
僕は「朝は詩人」という歌のなかの
「雨は遅れてやってきて
 村の祭りを中断させた」[1]
という詞を思い出していた

  フォークシンガーの友部正人が青年期に歌った
  「何かをはじめても本当のことじゃない」[2]
  という言葉と
  彼が壮年期に歌った
  「夢はすでに叶えられた」[3]
  という言葉の距離について考えていた

    僕はこれまで生きてきて
    「本当のこと」と呼びうるような行為が
    存在しないことを思っていた
    友部正人が「夢はすでに叶えられた」と歌うためには
    何らかの形で「本当の行為」という幻想を免れえたのだと
    考えるほかに方法がない

/

僕は熱いコーヒーを飲みながら
現在という短さに保証された
ひとつの感覚的な確信を抱いていた
身体の中に広がる空洞は
空洞としての充溢を知っているはずだと

  それでも
  なお時間が持て余されている
  豊かな空洞とはなにか、
  空洞および関係というものの空虚さが
  「○○ではない」という否定法によってでなく
  確かめられるために必要なものはなにか

    僕の母親は彼女自身の母親を思いながら、
    私はボケたくないとぼやいていた
    七十後半で痴呆の症状が現れた
    
      世界が 差異が バリエーションならば
      他人とマグカップとを区別できなくなるような段階を考えられるはずだ
      健常者はなぜその無分別を免れているのか

        それはおそらく意味によってである
        自分が自分であるという意味によって
        私へ向かって飛んで来るボールと
        他者へ向かって飛んで行くボールとが
        区別されるというような方向性の違いによってである

/

僕は他人の死に向かいながら、
他人の死と自分の死とは明確に区別されるものだと考えた
なぜなら方向性が 意味が 違うからだ

  他人の死は僕にとって
  対象喪失だ

    自分の死は
    他者の死のような喪失の形では訪れないだろう
    認知者の喪失を認知するものは存在できないから

      自分における死とは
      僕の生を訪れる
      認知上の「逆転」の現象に違いない

    たとえば
    親しい人の死を何度も 何度も経験しているうちに
    死という意味が
    方向性を逆転させて

    自分を訪れるものとしての死が
    まるで他人を訪れるもののように
    いまここに生と感じられてきたものが
    死と感じられるものと重なるときがくるんじゃないか

    あるいは生と感じられてきたものも逆転して
    生と感じられてきたものの位置へ死が
    死と感じられてきたものの位置へ生が
    訪れるときが来るんじゃないか

/

僕はコーヒーを飲み終えて
一層勢いを強める雨を眺めていた
どうしてこんなに退屈なんだろうと思った
虚しさが寂しさの偽装工作である以上
退屈も本当は寂しさなのだ

きっと この寂しさというものが
何らかの形で逆転するときまで
僕は寂しいままなのだと感じる

寂しいままである以上
虚しいままなのだと思う

いつも退屈で
何をすれば良いのかわからず
時間を持て余しているに違いない

街を歩き回ったり
家であらぬ回想に耽ったりしながら
どうすれば その逆転が
僕を訪れるのだろうか

  人がバカをやっているのを見ると
  温かい気持ちになる
  自分はああは振る舞わないだろうと
  襟を正してみたり

  あるとき
  ふと自分が人のように
  バカをやっていることに
  気がついたりする

    もし誰もバカをやらなくなれば
    自分がバカをやることになる
    「自分」とは
    そんな役回りのことを言う


※以下出典

[1]「朝は詩人」友部正人 「奇跡の果実」(1994)より
[2]「熱くならない魂を持つ人はかわいそうだ」友部正人 「ぼくの展覧会」(1994)より
[3]「夢がかなう10月」友部正人 「夢がかなう10月」(1996)より


報い

  霜田明

   I

自分とは
可能な者のことだ
  
  可能性へ向かって
  手を伸ばす
  その範疇が自分で
  その外側は自分ではない

先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
            (「コヘレトの言葉」8:5)

    思い出すということは
    覚え続けていたのにそれを
    忘れていたということだ

    確かに出会ったのに
    忘れているということは
    忘れているだけの理由が必ずある

  言葉を通じて
  人と和解することは
  言葉と和解することだ

言葉より確かな記憶はない
疲弊を経ない和解がありえないように

    恋はつらい
    人を頼ることだから

  だれかへ不満をぶつけたり
  だれかの反応を期待するところで
  人はだれもに恋をしている
  見境なく

恋はつらい
それでも恋を守るために
つらい側面が隠蔽されて
たとえばゴキブリの姿を忌み嫌うように
別のものへ
そのつらさを代償させている

  善行は役に立つだろう
  何度も繰り返すうち
  善行の後ろめたさが起こるだろうから

  与えることの後ろめたさが
  受け取ることの後ろめたさの
  本当の意味を
  明らかにするだろうから

    すべての顔の向こう側に
    同じ顔がある

      恋はつらい
      人を頼ることだから

   II

恋人とは
不可能な人

  忘れ去られることは
  なぜ悲しいか

自分とは 可能である者のことだ
誰かによる
不可能な方法で
お前はお前であると
認められたことを

可能性において
自身にもう一度認める者のことだ

  大切なものは必ず
  向こう側から訪れる
  言葉が虚しく
  物が重たいように

    此方側にあるのは
    バリエーションである
    言葉は豊かさよりも豊かなのに
    果てしなさよりも遠い

行為には
行為自身における
限界がある

勝利も獲得も達成さえも
彼の能動性を
保証するものとはならないからだ

能動性とは果たして何か

関係できるということと
関係するということの違いは

触れられるということと
触れることの違いは

聞こえるということと
聞くことの違いは

見えるということと
見ることの違いは

   III

そこにいるのが他ならない
君であることの必然性は
僕から君へのことばだったものが
方向転換することなしに
君から僕へのことばになる
特異な方向性で
ふいに本当のものになる

  ふたりはひとりにまさる。
  彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。
           (「コヘレトの言葉」4:9)

    あらゆる振る舞いは
    「言うこと」によって上塗りされた

    「言うこと」の特権性の前に
    自信を失くしてしまった

  眠れない人には夜は長く、
  疲れた人には一理の道は遠い。
  正しい真理を知らない愚かな者にとっては、
  生死の道のりは長い。
            (「法句経」第五章)

  それでもあらゆる行為の中で
  「言うこと」が一番遠い

  それは言葉が虚しいから
  遠いのではなく

  虚しいはずの言葉が
  関係を実際に決めていく
  その重たさゆえに遠いのだ

    言えるということと
    言うということは違う

      言うためには
      必ず
      長い道のりがいる

長さは必ずしも距離ではない
距離とは二点の間の非対称的な長さのことだ
だから始点も終点も持たない
人生の長さは距離ではない

  人生の長さについて語ることは
  他の何について語るよりも難しい

   IV

待つということは
歩いていけない距離を持つということだ

歩いていけないと
感じられていた距離が
向こう側からは
たやすく縮められるかもしれない

  それが非対称である
  距離の有り様として
  二者関係を象徴している

    二者関係とは
    可能性と不可能性との関係だ

      向こう側の可能性が
      こちら側の不可能性であり

      こちら側の可能性が
      向こう側の不可能性になる

    僕と君はときどき
    ふたりともがこちら側の存在になったり
    ふたりともが向こう側の存在になったりする
     
  それでも僕と君が
  「二人」を過ごすときには

    必ず僕の可能性は
    君の不可能性になっていて

    君の可能性は
    僕の不可能性になっている

   V

それが
他のものとは違う
ということの他には
個別性は存在しない

それが
何であるか
ということは
意味であり
個別性ではない

あらゆるものと
もののあいだには
また
あらゆるひとと
ひとのあいだには

それが他のものとは違う
という
共通の性質が存在する

   VI

意味とは喩え話のことだ
それが何と違うかということだ
それは他の何とも違うはずだから
違いを喩えて表現するときに
ようやく意味が現れる

意味を通すと
これとこれは同じだという水準が存在し始める

これとこれはどちらもコーヒーカップだとか
これとこれはどちらも緑色だとか
だからあらゆる意味は個別性ではありえない

世界は意味によって統制されている
人と人とは発語をやりとりすることによって統制される
誰かに「座れ」と言えば「座る」を実現できるというだけで
言葉は魔法のような能動性である

言葉によって何かを予期するとき
予期できない分が不安として疎外される
人を座らせることと人に「座れ」と呼びかけることの誤差が
人を寂しい生き物にさせている

「美しい」という言葉は空洞である
ただ「美しい」が関係の間で成り立つとき
空っぽなはずの言葉のなかに
向こう側から意味が呼び込まれる

「太陽が2つある」と言って
「太陽が2つある」という言葉が響くとき
「太陽が2つある」という言葉は空洞である
だけれど「太陽が2つある」という言葉が
関係の間で成り立つとき
空っぽなはずの言葉のなかに
向こう側からその意味が呼び込まれる

すべての意味はむなしく
すべての言葉は空洞である
「座れ」のような言葉は
他者の具体的な反応によって保証され
「コーヒーカップ」のような言葉は
喩えによって保証される

「美しい」のような言葉は
他者の具体的な反応によっても
喩えによっても保証されない
ただそれが関係の中に響くだけである
しかしそのことの響き自体が
特異な意味をその言葉に呼びこむ

「桜が散って美しい」と君に言ってみるとき
「美しい」という言葉は空洞である
ただ「美しい」という言葉が
関係の間で成り立つとき
空っぽなはずの言葉のなかに
向こう側からその意味が呼び込まれる

文学極道

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