排気ダクトの油の香りと
草臥れたスーツの燻らせるダンヒルが
街燈に照らされ雲になる
赤ランタンが石畳を濡らす
振り返った彼女は少女の面影のまま
ネオンの瞬きへと手を牽かれ溶けゆく
あちらへと渡る亡者は
橋を目の前にして思案したりなどしないはずだ
交わした指切りが赤くちぎれて
ひらひらと泳ぐ水槽越し
たった一つが、
たった一夜で舐め尽くされて
擦れた内膜から雪に滴る
May Said To Me(名声、富)
代償は小さな胸の痛みと永遠にすれ違うことでした
(Red Hot Chili Peppers “Californicaition”より着想を得ました)
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西村卯月 - 2018年分
ネオン
誰も知らない
これから行くところは戦場です、と老いた女
が言う。住み慣れたはずの白い家。いつから
だろう、混濁の淵がゆっくりと近付いたのは。
深夜の台所に滴る水の一滴一滴は、少しずつ、
しかし確実に女の足下を濡らし、小高い丘陵
の中腹、小さな家を飲み込んでいったのだ。
ここから先は車は入れんとですよ、と女が言
う。怖か、怖かと震える女の脇を若い看護師
が慣れた様子で支え、不揃いな階段を上る。
玄関で立ちすくむ女を時々振り返りながら、
衣類の散乱した部屋の中から、当面の着替え
や身の回りの物を看護師が鞄に入れる。六十
五歳の誕生日を過ぎたら、女は新しい住み処
へ行く。穏やかな内海に面した静かな住まい。
帰りましょうね、と仕度を終えた看護師の声。
帰るーどこへ?車に乗るよう促された女の、
焦点の合わない瞳がただ震えている。新しい
住み処へ行くまでの数ヶ月を過ごす、四人部
屋。週に一度交換される白いシーツの傍ら、
看護師が置いていった写真。温厚そうな紳士、
父に似て背が高い青年、と女。窓から差し込
む光に、やがて色褪せてしまうのだろうか。
女はただ、清潔な白い天井を見上げている。
看護師のカルテには「自宅より帰院、自室に
て穏やかに過ごされる」とのみ記されていた。
貝
朝露に浸軟した薄桃色の春の名残が足下で乾
き、まばらに捲れ上がる午後。眼下を流れる
広い川の先には、小さな漁港。貧しい生活の
糧を与える小さな舟。岸に繋ぎ止める太いロ
ープが、ぎしぎしと不規則に軋む音がする。
潮が引くと現れる砂地には、貝を掘る女達。
傍では子供らが母を真似、緑色の小さなおも
ちゃのバケツに、泥を掬っては入れている。
橋の上に水色の車が停まり、若い男女が何か
声をかけた。手を振り、バケツの中身を見せ
ようとはしゃぐ子供らの後ろ。目深に被った
帽子の影から覗いた、女達の眼が暗く光る。
川底を流れるロザリオと大火。小さな食卓と
養父の不在。流れ着いたハクモクレンの花弁
は遡上して、幾重にも閉じ、次の春を守る。
固く閉じた貝に口はなく、じっと砂底の会話
に耳を澄ませている。母が手を牽く帰り道。
子供らがバケツの泥を捨てる音は、べちゃり、
と貝の中身がまな板に落ちる音に似ていた。