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熊谷 - 2015年分

選出作品 (投稿日時順 / 全6作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


眠れない女の子のはなし

  熊谷

 
 どうしてか眠れない。きっと夢のなかで数えた羊たちは、この部屋中にあふれかえっているのだろうし、ひたすらに身を寄せあって朝が来ることに怯えるのだろう。鏡に写る自分を見ると、まるで世界中の夜を一気に引き受けてしまったかのような顔をしていた。タイミングも悪く、この部屋には電話もない。携帯電話は先日、水没して壊れていた。眠れない、とつぶやいた声は東京の真ん中で宙に浮いて、そのまま大勢の話し声に消されていった。イルミネーションばかり輝く東京の眩しさは、目の下のくまをよりいっそう目立たせた。



 たとえ遠くが見えなくても、どうせ遠くには行けないのだから、別に遠くなど見えなくても良かったのだと思う。遠くへ行きたい、と歌っていたロックバンドのボーカルは、脱法ハーブを吸ってバンドを解散することになってしまったし、結局は彼も遠くになんか行けなかったのだろう。小さな頃は海を眺めながら、遠くには何があるんだろうと、よくあれこれ想像をしてたけれど、今思えば、その水平線の先の国々で、彼が手を出したハーブの原材料が栽培されていたのだろう。強い近視の目を細めて、左のこめかみを押さえながら、長いドキュメンタリー映画のなかの人物のように、台本通りに朝の仕度を整えた。そして天気予報を確認せず、傘を持って玄関を出た。



 ここ最近は何ひとつ夢を見ることができなかった。自分の部屋だけ時空が歪んでいて、時の流れが遅くなっているように思えた。羊なんて数えてもどうせ眠れないのだから、彼らの毛をすべて刈り取って、今この瞬間自分と同じように眠れない人のために枕を作ってやろうかと思えば、結局何の役にも立たない彼らを一匹残らず首を締めてやろうかとも思った。エスカレーターを全力で反対方向に走って、ようやく今いる場所に留まり続けているような感じだった。そんな何もできない夜に突然電話のベルが鳴った。慌てて受話器を取ると、突然男の声で「殺すぞ!」という声が聞こえた。その瞬間、涙が出た。夢を見ていることが分かったからだ。



 雨が降る前は決まって片頭痛が起きる。傘を閉じたら、左のこめかみがズキズキと痛んだ。壊れていた携帯電話をショップに受け取り、電源を入れてニューストピックスを見ると、解散に追い込まれたバンドのボーカルがソロ活動を始めたニュースが出ていた。それと同時に、母親からのメールも届いた。電車や飛行機に乗ってしまえばいつでも遠くには行けることは分かっていた。そして今いる東京が、あの日思っていたどこか遠くの地だということも知っていた。地方から出て働き始めて数年、コールセンターの主任を任されてプレッシャーを感じていたのかもしれない。怒鳴り声のクレーマーを聞くことは日常茶飯事だったし、それこそ「殺すぞ」と言われることもよくあることだった。家に着くと、隣の住人がゴミ捨てをしていて、ふと開いたドアからお味噌汁の匂いがふわ、と漂ってきた。左のこめかみの痛みが引いてきたので、明日はきっと晴れるのだろう。



 今夜も、もしかしたら眠れないかもしれない。目元にあるくまがもっと濃くなって、電話の男ではなく、自分自身が自分を殺してしまう日がくるのかもしれない。それでも、眠れない、と大きい声で助けを呼ぶこともできるし、次の日会社を休むことも、さらに退職することだってできる。いつだって地元に帰ることも、その海辺の先にある、脱法ハーブを作っているであろう異国の地にだって行けることができる。コンタクトをはずすと、一寸先は何も見えないほどの強い近視だったけれど、それでも目を閉じれば誰もが暗闇を見続けなければいけないことも知っていた。遠くへ行きたい、と歌いながらベッドに入り目を閉じると、いつもの羊が現れた。そういえば彼らに名前がなかったから、今夜はちょっとぐらい眠れなくても、強くてかっこいいあだ名をつけてあげようと思う。


週末はやりきれなくて(2015ver.)

  熊谷


 新宿駅の高架下を通って東口方面へ抜けると、急に雨が強くなっていた。それは版画のなかの雨のように、まっすぐ打ち付けるような降り方で、目の前にあるはずの景色や、聞こえてくるはずの音をすべてかき消していた。日常、消化しきれないものは多々ある。そのうちのひとつとして、先ほど食べた脂っこいボンゴレがそうだった。定規のように強く真っ直ぐ地面を打つ雨は、あらゆる物に線を引く。それは僕の胃にも痛烈に届いて、胃もたれを引き起こしていた。目をつぶって優しくみぞおちを触ると、線は緩やかになり、何とか胃の形に収まろうとしていくのだった。



 ロシア生まれの留学生の彼女は、ボンゴレを得意料理にしていた。そこには、バターやオリーブオイルもたっぷり入れるのだけれど、不思議と彼女の作ったボンゴレは、胃がもたれなかったのを覚えている。いつか彼女が見せてくれた写真に、エジプトの砂漠でラクダに乗った彼女とその母親が写っていた。母親とは全く顔が似ておらず、むしろ日本人の僕の方が彼女に近い顔立ちをしていた。僕らは何でもちょっとずつ似ていて、まるで兄弟みたいだった。彼女は「わたしは日本人みたいな顔だから、きっととても良い日本語教師になれると思うの」と言うのだった。



 伊勢丹の辺りで吐き気を催してあわててトイレに駆け込むと、消化しきれなかった日常のできごとが頭を巡った。会社をかけずり回って靴底が減った革靴が、左だけ転がっていく。飲めないのに無理矢理飲んだコーヒーを、一緒に吐き出しているのを見ていたら、冷や汗がどっと吹き出し、やりきれなくて目をぎゅっとつぶった。今週は仕事でミスをしていた。AとBを間違えるような単純なミスだった。いつか彼女が、「日本語がわからなかったり、嫌なことがあったときは角砂糖にたくさん愚痴を吹き込んで、そうしてコーヒーに溶かして飲んでしまうの。そうしたら、もうそれでサッパリ忘れちゃうのよ」と言っていたことを思い出していた。



 気がついたら、ラクダに乗っている。それも何頭ものラクダ達と共に、暗闇へ向かっていた。ぱっと左を見ると、彼女とその母親もラクダに乗っていた。右を見ると、砂漠の地平線からわずかに太陽が見えている。「急いで陽が昇る方へ行きましょう」と彼女が言うと、ラクダ達はすぐに東へ方向を変えた。どこへ行くのか全くわからなかったけれど、とにかく金曜日を乗り切らなきゃ行けないことはわかっていた。週末はやりきれない。それは僕も彼女も、ラクダ達も一緒だった。誰もが一人でいることを寂しく思うし、砂糖入りのコーヒーを飲まなければいけなかったし、あらゆるものから、必死で逃げなくてはならなかった。ふと見ると、なぜか彼女の手に、履いているはずの僕の左足の靴が握られていた。



 「お兄さん大丈夫?」掃除係のおじさんに声をかけられ目を開けると、便器にしがみついたまま、寝てしまっていた。立ち上がって左足の靴を履こうとした時に、ずいぶん体調が良くなっていることに気がついた。おそらくストレスで胃が弱っているところに、脂物とブラックのコーヒーを飲んでしまったことが原因なのだろう。彼女を思い出すのが悲しくて、砂糖を入れずにコーヒーを飲んでいたのだけれど、やはりブラックでは飲まないほうが良いのかもしれない。あれから、彼女はロシアへと帰って行ってしまった。おそらく僕が口にしていた日本語を、現地で子供たちに教えているのだろう。ポケットから定期を出すと、黄色い砂のようなものがザザーと出てきた。土曜日まであと数時間。きっとすぐに日は昇る。僕らは東に向かって、走っているのだから。

週末はやりきれなくて(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=78;uniqid=20070410_603_1995p#20070410_603_1995p)再校正分


山手線と、終わらないダンスミュージックのはなし

  熊谷

品川駅で鼻が落ちていたので拾ったら、やたら潰れてしまっている鼻だった。覚えている、これはあなたがわたしの低い鼻をからかってつまんだときの鼻。
有楽町駅で左手が落ちていたので拾ったら、やたらと表面がスベスベしていた。覚えている、これはあなたがわたしの手の平の感触が好きで、何度も握り返したときの手の平。
東京駅で右足が落ちていたので拾ったら、なんだか痺れていた。覚えている、これはあなたがベッドの上で、ふざけてわたしの足を挟んで押さえつけたときの右足。
上野駅で両腕が落ちていたので拾ったら、やたらと冷えていた。覚えている、これは留学に行ってしまったあなたを、寂しく見送ったときに振っていた両腕。
巣鴨駅で右目が落ちていたので拾ったら、やたら涙で濡れていた。覚えている、これはいくら連絡をしても、あなたから連絡がなくて不安になりながら過ごしたときの瞳。
池袋駅で唇が落ちていたので拾ったら、すぼめた形で凍っていた。覚えている、これは別れようと思ったけれど、うまく話を切り出せなくて固まってしまったときの唇。
新宿駅で左胸が落ちていたので拾ったら、鼓動が激しく動いていた。覚えている、これはあなたとさよならしたときの胸の高鳴り。
渋谷駅で、いくつかのパーツを拾い集めたとき、間違えて誰かのメガネまで拾ってしまった。あなたのメガネでもないので、ひどく困惑しているところに、山手線はやってくる。
恵比寿駅に着いたところで、右耳以外の全てのパーツが揃っていた。改札を出ると、見知らぬ男が立っていて、それは僕のメガネだと言う。メガネをあげると、男は突然右耳をむしり取り、それをわたしの右耳としてくっつけた。耳を失った男は、今夜は終わらないダンスミュージックを聴こう、と言って、もうひとりのわたしの手を取りどこかへ消えてしまった。片耳しかないのに良いのだろうかと思いながらも、私は改札のなかに戻り、あなたを好きだった自分とさよならするために、鼻を取り、ぐしゃっとつぶして品川駅へと向かった。


神様のはなし

  熊谷


 神様にGPSをつけたら、わたしの家を指し示していたので、その日はいつもより丁寧に掃除をして、いつもより野菜が多めの食事を作るようにした。そうしたら、旦那はいつもより口数が多くなり、おまけに体脂肪率も減っていった。わたしたちはきっと今までよりもほんの少し、お互い寿命が伸びたように思う。神様は、わたしたちの未来の時間になった。

 神様にGPSをつけたら、近所の公園を指し示したので、行ってみたら蝉が死んでいた。まさか蝉が神様だったとは思いもしなかったので、大切に公園の隅に埋葬することにした。手を合わせて家に帰ると、玄関にも同じように蝉が死んでいた。GPSを見ると、相変わらず埋葬した場所を指していたので、玄関先で亡くなっている蝉は神様ではなく、ただの蝉に違いなかったのだけれど、神様の隣に埋葬してあげることにした。神様はときどき死んだふりをして、わたしを試そうとする。

 神様にGPSをつけたら、どこにも指し示めさなかった。どこにもいないのか、特定できないようにしているのかわからなかったが、旦那の体脂肪は相変わらず減ってきているので、いつもと変わらず丁寧に掃除をして、野菜多めの食事を作ることにした。食事をしながら、おいしいねと言った旦那の口元にえくぼが浮かんでいて、その瞬間GPSが家を指し示した。神様はえくぼでひと休みをする。

 神様にGPSなどつけられない。物を書くようになってからよく嘘をつくようになって、それをほんのちょっとだけ反省をしている。それでも、目に見えないことを信じようとすること、その行為そのものがとても愛しく感じられる。わたしたち夫婦がどんな形で結婚式を挙げようが、どんな形でお葬式をしようが、そして神様がどこにいようが、どこにもいなかろうが、そんなこと本当はどうでも良かった。冷蔵庫の中身を見ると、野菜が少なくなってきているから、スーパーに行って特売の野菜を買ってこなければならない。わたしにとって本当に大事なことは、そういうことなのだ。


折ること、祈ること

  熊谷


日、朝と夜が変わるとき、こころをひとつ折る。たとえば、それが紙のようなものだとすれば、日を重ねて折っていくうちに、きっと鶴にも亀にもなれるのだ。そうしてあなたはそれに乗って、天空の城にも、竜宮城にも行ける。だから、そんなに頑張らなくてもよい。ただひとつ、丁寧に折り目をつけるのだ。



あなたのこころの折り目は、寝る暇もなく忙しくて、少しズレて折れたりしていた。だからそれをもう一度広げて、丁寧に伸ばして、再びきちんと折ってあげる。そんな気持ちになれるような言葉があればいいし、そんな気分になれるような歌を探している。今日書けなかった歌詞は、明日きっと神様がプレゼントしてくれるのだ。



誰も乗せることなく、病室には千羽鶴が飾られていた。その代わり、空港の近くの病院だったので、窓辺からはたくさんの離陸していく飛行機が見えた。ほんとうはそれに乗って、世界中を見に行けたら良かったのだけれど、あなたの子どもの病気は他の子どもよりも何だか難しくて、長く眠りすぎたベッドのシーツはしわくちゃだった。わたしはそれをほんの少しだけ伸ばして、ひたすらに祈ることしかできなかった。



あなたは、あなたの子どもにたくさん謝ってきた。そして、折らなくていいところまでたくさん折って、最終的にこころはぐしゃぐしゃになっていた。神様、今夜は悲しみにくれるあなたのために、あなたが気がつくまで流れ星を何個も流してあげて下さい。そして何でもいいから、お願いごとを聞いてあげてください。そう祈りながら、鶴をひとつ折って、また千羽鶴を作り始めた。


OVER THE SEA, UNDER THE MOON

  熊谷

 会社帰りに、その時なぜか手に持っていた給与明細が風に飛ばされた。そのままテトラポットを通り、ヒュッと海の上へ落ちる。拾わなきゃと思って慌てて海のなかへ入って行くと、海面にはたくさんの給与明細が浮いていた。それらは全く赤の他人のものばかりで、てんで安いものから、べらぼうに高いものまである。その中から自分のものを必死に探したけれど一向に見つからず、探しているうちに水位がどんどん腰から上へあがっていった。お金が欲しかったわけではない。ただひとつ自分の給与明細が欲しかっただけなのだ。わたしがちゃんと働いているという証拠が。そうして巨大な海はわたしの上から下まで残さずすべてを飲み込もうとした。必死でもがいて顔を上げようとしたとき、満月がぽっかり浮かんでいるのが見えた。



 妊娠が分かってから、事務の仕事をやめた。給与明細はおろか一銭も稼いでもいないのに、何だか変な夢を見てしまった。ベッドから起き上がり顔を洗うと、温かいスープが飲みたくなって、台所に立つ。にんじん、ピーマン、たまねぎを隅々まで水洗いをし、適当な大きさに切る。沸騰したお湯にそれらを入れ、ブイヨンを三切れ入れた。料理をしていると、とても気分が落ち着く。あらかじめ用意された材料で、決められた手順でこなせば、写真通りに出来上がるからだ。そして、ちゃんと生活をしているという気持ちになって、ひとまず人間らしくいられる。鍋にふたを置いた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。



 帰ってきたあなたは、釣り道具をひとしきり拭きながら、「きょうはけっこう釣れたんだ」と言う。一度、あなたに連れられて東京湾で夜釣りに行ったことがあるが、まったく好きになれなかった。夜の海は怖い。とてつもなく黒く巨大な空間がそこに広がっていて、追い打ちをかけるように、波の音が迫り来るように唸りをあげていた。そこにいるかどうかもわからない魚をひたすらに探し、そして釣りあげることの、何が面白いのかわたしにはよく分からなかった。そこには、あらかじめ用意された材料も手順も、約束された結果もない。大きな海のなかで目に見えない魚を、あなたが無邪気に追いかけていくのが何だかうらやましかった。



 臨月を迎えたお腹はもうぽっこりどころではなく、満月のように育っていた。ルアーがリビングの端に行儀よく並んでいて、全員こちらを見ている。私もそれらを見ながらお腹を撫でていたら、お腹の子どもが下腹を思い切り良く蹴り上げた。この子が生まれてくる確率と、あなたが魚を釣る確率のどちらが高いのか、ぼんやり考える。この子は、ちゃんと生まれてくるのだろうか。家の中にいながらにして、常に大きな海から必死で自分を守るような気持ちでいた。「釣れる日って何か分かるんだよね」唐突にあなたは言った。「君のお腹がいつになく丸く輝いて見えると、釣れるんだよ」



 会社員でもなく母親でもないこの自分が、ちゃんと子どもを産んで育てることができるのか、不安になっていたのかもしれない。けれど、あなたがいることで、広くて大きくて、怖かった海のそのすべてが、わたしの右目や左目から溢れ出す。すべての海は、わたしのなかにもうすでに存在していて、いつだってわたしは海そのものだった。そこに、釣れるも、釣れないもない。ルアーなどなくても、潮の流れがとてつもなく変わってしまっても、魚は海であるわたしの手のうちに集まってくる。そうして、必ず子どもは産まれてくるし、わたしは必ず産むことになっているのだ。あなたがティッシュを取りに席を立つとき、子どもはもう一度、下腹を思い切りよく蹴り上げた。

文学極道

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