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熊谷

選出作品 (投稿日時順 / 全19作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


おばけのかけら

  熊谷


*
妻が妊娠したと聞いた夜
ふと目が覚めてトイレへ行くと
便器にちいさな気泡がたくさん浮かんでいた
肌色よりすこし赤みがかかったそれは
人間になる前の状態を思い起こさせた
そして僕は一晩じゅう、そのひとつひとつに名前をつけていた
夢中になって、つける名前がもう何も浮かばなくなって
思わず、自分の名前を口にしたときに
ようやく朝はやってきた
何だか変な夢を見ていた
おはよう、君がうまれてくるのを
ずっと待っている

*
夕方に湯船につかってうたた寝をしていたら
去年亡くなったおじいちゃんが立っていた
ずいぶん若い頃の姿で体を洗っているのを見ると
今の恋人に何だか似ていて
特におしりの形がそっくりだった
もう一度会えた嬉しさと
まだこの世をさまよっていたのかもしれないという悲しさで
涙がじんわり浮かんで目の前がにじんだ瞬間
もう姿は見えなくなっていた
おやすみ、おじいちゃんがゆっくり眠りにつくのを
ずっと祈っているよ

*
デートが終わって家で着替えをしていると
スカートの裾には必ず煙草の匂いがついていた
今まであの煙には嫌悪さしか覚えなかったが
あなたから吐き出されるそれはあなたの分身みたいで
何だかとても愛しかった
けれど、私の服にしがみつくあなたのお化けは
最近どこかへ消えてしまった
試しに自分で吸ってみたり、煙草を吸う男の子と遊んでみたりしたけど
その匂いを好きになることはなかった
さようなら、あのお化けがまた違うスカートを見つけることを
ちょっとだけ応援しているよ


おばけのはなし

  熊谷


おばけとは、この世から消えることを意味するから
おばけになりたいわたしは
いつでもばいばいする準備はできていた





目を覚ましたら
落とし穴におちていた
見上げると上の上のはるか遠くに
見覚えのある顔がにこにこしていた
ここ最近では
そんな顔をしなくなっていたから
出会ったころのような気持ちが
おなかの底からじんわり湧いてきて
思わず名前を呼ぼうとしたら
それがどうしてもうまく思い出せなかった
なぜかその前に付き合ってたひとの名前ばかりが頭に浮かんで
口をあんぐりさせていたら
そのまま光がどんどん小さくなって
ぽっかり上に開いていた
穴の入り口を
堅くて重い何かで
ふさがれてしまった
最後くらいばいばいって言って欲しかった
蓋をされてしまったあなたを好きだったわたし
まっくらになって
目をつむって
出会いから別れを
もう一度頭の中で巡り始める





おばけになりたかった
地に足がつかず
人が人として生きていくなかで
当然のようにともなう
欲求や義務をすべてひっくり返した
あの宙に浮いた存在に
ものごころついたころから
その願望が途切れることはなかったから
もう足は透明になるところまできていた

あなたと会うときには
ちゃんと人間に
ちゃんとかわいらしい女の子に
ならないといけなかったから
前の日にはアロマオイルで足をマッサージして
明日いちにちだけ我慢してねって
右足と左足にやさしく声をかけていた


おばけになりたいことは秘密だった
足が透明になりかけていることも
女の子らしく無理して振舞っていることも
あたかも最初から
ただしい人間として
生活しているように見せかけていた





答えはでていた
計算をする必要も
えんぴつを転がす必要もなかった
あのとき名前を思い出せなかったことが
何もかもを象徴していた


穴に落ちた瞬間から
わたしは人間であることを
思い知った
ぐしゃぐしゃになった前髪や
ニキビだらけのほっぺたや
とまらない涙が
いかにも人間らしかった
もうおばけになんて
ならなくてよかった
ただあなたに好かれたかった
好かれたかったわたしは
どこかの穴に閉じ込められて
出れなくなっていた
ばいばいする準備を
あれだけしてきたのに
どうやってばいばいすればいいのか
わからなくなっていた
閉じられた蓋は
誰かが開けてくれるのか
自分で開けなくてはいけないのか
地に足がついたままで
あんな上まで手は届くはずがなかった





おばけとは、この世から消えることを意味するから
おばけになりたいわたしは
ありもしない抜け道を
必死で探していたのかもしれない





穴のなかで泣きながら
いろいろ考えを巡らせた
ここはどこなのか
出口はどこなのか
外の世界では
朝と夜はちゃんと来ているのか
都会にはサラリーマンがいて仕事をしているのか
田舎にはおばあちゃんが夕飯の準備をしているのか
そのうちちゃんとお腹がすいて
温かいふとんで眠れるのか
おばけは本当に存在してるのか
そんな無駄なことばかりを考えていたら
一度だけ蓋があいた


久しぶりのまぶしい光
外の新しい空気
お日様がこちらを向いていたから
今は昼間のようだった
世界はちゃんとまわっていた

ようやく光に目が慣れたころ
大好きな声が上から聞こえてきた
“会いたくなったら困るから
もうこれでおしまいね”
そうしていつも繋いでいてくれた
ごつごつしたあの左手が
宙にゆらゆら揺れているのが見えた





デートがなくなって
休みの日が真っ白になったから
東北に行くことにした
津波に襲われた地域は
何にもなくなってしまっていて
何だかとても大きな穴を抱えているように思えた
わたしには霊感がないから
残念ながらそこには
何の気配も感じられなかった


絆を失ったばかりのわたしが
復興のために
植物の苗を植えることに
何の意味があるかは
今のところ分からなかった
何ヶ月後にはいちごの実ができると
地元のおじさんが笑顔で話してくれた
そうしたら穴のなかにいる自分に
いちごを食べさせてあげよう
食欲が無いなりにでも
少しずつ食べるだろう
それでもしかしたら
また恋をする気になるかもしれない


東京に帰ったら
今までそばにいてくれた
おばけになりたかった自分に
さようならをする
前向きに生きることの大切さを
説教することもなく
ただただ慰めのために
そばにいてくれた
透明な存在にばいばいをする
今すぐおばけにならなくても
きっといつかはおばけになるのだ
いちごが大好きで
あなたを大好きだったおばけに


メアリー・ブルー

  熊谷


突然リビングの火災報知機が鳴った
あわてて外の様子を見ると
真っ黒な猫がさっと走っただけで
変わった様子は特になかった
どこかで起こっているはずの見えない火の気は
映画のなかのワンシーンで
燃えている家の前でピースサインをしていた
あるアメリカの唇のぶ厚い女優を思い出させた
その女優はたしか「メ」から始まる名前だった
だけど今はそんなことを
思い出している余裕はなかった





保険会社ではたらく彼女は
地味な見た目と裏腹の
きらきらした名前がつけられていた
なかなか人の名前を覚えられない僕でも
君のことはすぐ呼ぶことができた
どんな保険に入ればいいのか迷っていると
あなたにどんな不幸が起こるのか
分かればいいのにねえと言って
にわかに微笑むばかりだった
ところで君はどうして
僕なんかと結婚したいんだろう
プロポーズされた返事をすることができずに
月日が経ってしまっていた





真ん中に出てきたタロットカードは死神だった
占いのことはよくわからない僕でも
きっと何だか良くないということは伝わった
東京郊外にある駅ビルの
レストラン街にあるさびれた占いコーナーだった
当たり前のことをあたりまえのように
中年の太った占い師は忠告して占いは終わった
だけど問題は当たる当たらないではなかった
この日この瞬間、このカードを引いたという出来事は
現実として起こってしまっていた





寝巻きのままケータイと通帳とはんこだけを持って
玄関に飛び出ると
駐車場から煙があがっているのが見えた
君の微笑んだぶ厚い唇と
占い師のたるんだ頬をふと思い出す
雑誌が燃えていたんですってねえ
という近所のおばさんの話声が聞こえた
野次馬に混じって現場を見てみると
結婚情報誌が半分真っ黒になっていた
Marry Me?という表紙を見て
あの女優の名前を思い出した
彼女の名前はメアリー
けれど何だかまったくすっきりしなかった





君の申し出を受け入れる理由も
断る理由も、どちらも見つからなかった
死神のカードを引いたのも過去のはなしで
放火の犯人も未だに捕まらなかった
わかっているのは
あのメアリーという女優は
年上の男と結婚しDV被害にあってから
まったく映画に出なくなってしまったということだけだった
今日は久々に君とデートの待ちあわせをしている
待ち合わせに5分遅れて走ってきた君は
いつも通りの満面の笑みだった
ごめんね、料理中にやけどしちゃって
手当てしてたら遅くなっちゃった
と言った君の左手には包帯が巻かれていて
くすり指には黒猫の指輪がはめられていた


A whole new world in the hole

  熊谷


色とりどりの火花と
生まれたての瞳がひらく
鳴り響いた大きな音
暗い夜は何だか怖いから
泣くか笑うかしてないと
赤ちゃんは落ち着かないようだった
だいじょうぶ
君はきっと大丈夫と言って
ひだり手を離された
ぱらぱらという音をたてて
輝かしい金色の火薬は散った
こどもが欲しいと言ったあなたが
子供みたいな私の手を
つかんで離して
息苦しく生ぬるい
若すぎた夏の焦げた匂いを
二度と忘れさせないようにして
二度と目の前に現れることはなかった
そうして静かになった夜に
赤ちゃんはようやく
眠りにつくことができた





こころに空いた
真っ暗な空間の
その穴からあなたがひとり残って
残業しているのが見える
一通り手術のリスクを
説明し終えた医者は
「元恋人の残業が終わったら
手術を始めます」と言って
承諾書にサインを求めてきた
積もり重なった悲しみに
赤ちゃんはとうとう
眠りから目を覚ましてしまった
そうしてプライドが高い私は
あなたの名前が書かれるはずの
すべての書類に
自分の名前で署名をしてしまった
今すぐ、塞いでほしい
生まれたときから空いていた
心臓の小さな穴を
真っ黒な空間を





赤ちゃんは心臓に穴が空いている
という重い病気を抱えていて
あなたは納期が近い
大事な仕事を抱えていた
終電の時間が近づいても
家に帰ることはできなかった
花火を見に行ったのが
結局最後のデートになったのだけれど
あの日よりもずいぶん
髪の毛がボサボサに伸びていた
このままでは手術が始められない
と焦っていたら
「では、あなたの手術をしましょう」
と言って医者は
聴診器を胸にあて始めた
触れたところから焦げ臭い匂いが
診察室に広がっていくのを感じた
「とてもきれいな花火を見たんですね」
と医者はつぶやいた
開いたものはいつか閉じていく
そうして赤ちゃんはまた
眠り始めようとしていた





誰もいない過疎化した街の
さびれた観覧車に
赤ちゃんは乗っていた
回転する余命に
あわせるようなスピードで
だいじょうぶ
君は大丈夫と言って
小さなみぎ手を握りしめた
こどもが欲しいと言ったあなたは
残業に疲れ果てて
奇妙な夢を見ていた
海外出張で飛行機に
乗らなくてはいけないのだけれど
チケットをどこを探しても
見つけられない夢だった
あなたは呆然と
飛行機に乗っていたはずの
あなたを想像しながら
夢のどこかで
ひとり取り残されていた
チケットはきっと見つからない
なぜならあの時すべて
あなたの名前の書類は
私の名前に書き換えてしまったのだから

観覧車の向かいには
海が広がり、そして朝日がのぼる
手術は必ず成功することになっている
あなたが乗ろうと乗らまいと
飛行機が空高く飛ぶのと同じように


お化けになりたい女の子のはなし

  熊谷


 お化けになりたい女の子は、いつかお化けになれることを信じている。そのうち消えると思っている右足と左足を切なく見つめて、君たちのことは忘れないからね、などと言ったりする。その割に、オリンピックよりパラリンピックに興味があって、車いすバスケットボールの試合を見ては、感動して泣いたりしている。僕がいじわるで、君の右足と左足をあげたらいいんじゃないかな、などと言うと、50m走なんか10秒もかかってしまうから、人にあげるシロモノではないし、むしろ世界中から見放された足なのよ、と言う。そうしてまた、それぞれの両足を切なく見つめて、ため息をつくのだった。そのため息がいつか雲になって、しっかりとした形になって人が乗れるくらいの大きさになったら、いつか君を見放したはずの世界中を、今度は君がその雲に乗って旅行するんだろう。君が望んでいるのは、お化けになることじゃなくて、きっとそういうことなんだろう?



 お化けになりたい女の子は、早く大人になりたいと思っている。金曜日の夕方ドラえもんを見ながら、若い子なんて未来に置いてきて自分だけ勝手に年をとりたい、他の人より速いスピードで年をとる道具を出してくれないのかなあ、などとワガママを言ったりする。そのくせ僕が録りためていた映画を早送りで見ていたりすると、その時間の使い方は何もかも損している、と怒ったりする。燃えている家の前で金髪の女優の笑う演技が、この映画の中で一番の見どころなのよと言って、そのシーンまで巻き戻しをしたりする。不吉なその表情の何が良いのかが分からなかったが、それを見てる君の横顔はお化けというよりも、ふつうの女の子にしか見えなかった。君は不幸とか不吉とか、そういうものをいちいち確認する癖がある。つまりそれって、何よりも幸せな女の子を意味するということを、君は一体いつ気がつくのだろう。



 お化けになりたいということと、死にたいということはイコールじゃないって君は言う。僕はそれがどっちかなんて、はっきり言ってどうでもいいと思っている。例えば、夜に君が目を閉じて開けるまでの間に、世の中で何が起きていたのかなんて知らなくていいし、脱法ハーブはどんな味がするとか、溺死した死体がどんな状態になってしまうとか、アルツハイマー型認知症になった母親がどこをどう徘徊するとか、浮気相手の性器に父親がどんな顔で自分のそれを出し入れしているかとか、君はいちいち真面目だからそういうことをちゃんと知ろうとするだろう。それを知らないでいるという選択肢があるということ、そして知らなくていい権利があるといことを、ちゃんとわかっていてほしいんだ。だって君は死にたいんじゃなくて、ただ単にお化けになりたいんだろう?そうしたらもう考えるのをやめて、早くお風呂に入って眠るといい。そうしたら、君は夢の中でお化けになれるかもしれない。



 お化けになりたい女の子は、本当はお化けになんかなれないことを知っている。騙し騙しやって積み上げてきた自分というものに、お化けになれない女の子がふとした瞬間とり憑いて、君は不安でいっぱいの表情になる。そうして、いろいろなことを少しずつやめていっていいかなあと言って、君は泣き出す。きのう見た映画の女優ばりの演技だったけれど、君は君が望んでる早送りも巻き戻しもできない場所で生活をしているんだよ。いくら君が真面目な生活に疲れ果てて、仕事をずる休みして昼夜逆転の毎日を送ったとしても、世界は君が死ぬまで絶対に見放さないし、しっかりとした形の雲は君を乗せることなく土砂降りの雨を降らせるだろう。そんなときは、雨が上がったころに夜空を見つめて、自分の星座がその空のどこらへんに輝いているのか確かめればいい。そうしているうちにだんだん眠くなってきて、結局君は自分の星座を見つけられずに、夢も見ないで眠ってしまうんだろう。それはそれでいいと思う。そうして目が覚める頃にはまた、お化けになりたい女の子にきっと戻っているのだから。


眠れない女の子のはなし

  熊谷

 
 どうしてか眠れない。きっと夢のなかで数えた羊たちは、この部屋中にあふれかえっているのだろうし、ひたすらに身を寄せあって朝が来ることに怯えるのだろう。鏡に写る自分を見ると、まるで世界中の夜を一気に引き受けてしまったかのような顔をしていた。タイミングも悪く、この部屋には電話もない。携帯電話は先日、水没して壊れていた。眠れない、とつぶやいた声は東京の真ん中で宙に浮いて、そのまま大勢の話し声に消されていった。イルミネーションばかり輝く東京の眩しさは、目の下のくまをよりいっそう目立たせた。



 たとえ遠くが見えなくても、どうせ遠くには行けないのだから、別に遠くなど見えなくても良かったのだと思う。遠くへ行きたい、と歌っていたロックバンドのボーカルは、脱法ハーブを吸ってバンドを解散することになってしまったし、結局は彼も遠くになんか行けなかったのだろう。小さな頃は海を眺めながら、遠くには何があるんだろうと、よくあれこれ想像をしてたけれど、今思えば、その水平線の先の国々で、彼が手を出したハーブの原材料が栽培されていたのだろう。強い近視の目を細めて、左のこめかみを押さえながら、長いドキュメンタリー映画のなかの人物のように、台本通りに朝の仕度を整えた。そして天気予報を確認せず、傘を持って玄関を出た。



 ここ最近は何ひとつ夢を見ることができなかった。自分の部屋だけ時空が歪んでいて、時の流れが遅くなっているように思えた。羊なんて数えてもどうせ眠れないのだから、彼らの毛をすべて刈り取って、今この瞬間自分と同じように眠れない人のために枕を作ってやろうかと思えば、結局何の役にも立たない彼らを一匹残らず首を締めてやろうかとも思った。エスカレーターを全力で反対方向に走って、ようやく今いる場所に留まり続けているような感じだった。そんな何もできない夜に突然電話のベルが鳴った。慌てて受話器を取ると、突然男の声で「殺すぞ!」という声が聞こえた。その瞬間、涙が出た。夢を見ていることが分かったからだ。



 雨が降る前は決まって片頭痛が起きる。傘を閉じたら、左のこめかみがズキズキと痛んだ。壊れていた携帯電話をショップに受け取り、電源を入れてニューストピックスを見ると、解散に追い込まれたバンドのボーカルがソロ活動を始めたニュースが出ていた。それと同時に、母親からのメールも届いた。電車や飛行機に乗ってしまえばいつでも遠くには行けることは分かっていた。そして今いる東京が、あの日思っていたどこか遠くの地だということも知っていた。地方から出て働き始めて数年、コールセンターの主任を任されてプレッシャーを感じていたのかもしれない。怒鳴り声のクレーマーを聞くことは日常茶飯事だったし、それこそ「殺すぞ」と言われることもよくあることだった。家に着くと、隣の住人がゴミ捨てをしていて、ふと開いたドアからお味噌汁の匂いがふわ、と漂ってきた。左のこめかみの痛みが引いてきたので、明日はきっと晴れるのだろう。



 今夜も、もしかしたら眠れないかもしれない。目元にあるくまがもっと濃くなって、電話の男ではなく、自分自身が自分を殺してしまう日がくるのかもしれない。それでも、眠れない、と大きい声で助けを呼ぶこともできるし、次の日会社を休むことも、さらに退職することだってできる。いつだって地元に帰ることも、その海辺の先にある、脱法ハーブを作っているであろう異国の地にだって行けることができる。コンタクトをはずすと、一寸先は何も見えないほどの強い近視だったけれど、それでも目を閉じれば誰もが暗闇を見続けなければいけないことも知っていた。遠くへ行きたい、と歌いながらベッドに入り目を閉じると、いつもの羊が現れた。そういえば彼らに名前がなかったから、今夜はちょっとぐらい眠れなくても、強くてかっこいいあだ名をつけてあげようと思う。


週末はやりきれなくて(2015ver.)

  熊谷


 新宿駅の高架下を通って東口方面へ抜けると、急に雨が強くなっていた。それは版画のなかの雨のように、まっすぐ打ち付けるような降り方で、目の前にあるはずの景色や、聞こえてくるはずの音をすべてかき消していた。日常、消化しきれないものは多々ある。そのうちのひとつとして、先ほど食べた脂っこいボンゴレがそうだった。定規のように強く真っ直ぐ地面を打つ雨は、あらゆる物に線を引く。それは僕の胃にも痛烈に届いて、胃もたれを引き起こしていた。目をつぶって優しくみぞおちを触ると、線は緩やかになり、何とか胃の形に収まろうとしていくのだった。



 ロシア生まれの留学生の彼女は、ボンゴレを得意料理にしていた。そこには、バターやオリーブオイルもたっぷり入れるのだけれど、不思議と彼女の作ったボンゴレは、胃がもたれなかったのを覚えている。いつか彼女が見せてくれた写真に、エジプトの砂漠でラクダに乗った彼女とその母親が写っていた。母親とは全く顔が似ておらず、むしろ日本人の僕の方が彼女に近い顔立ちをしていた。僕らは何でもちょっとずつ似ていて、まるで兄弟みたいだった。彼女は「わたしは日本人みたいな顔だから、きっととても良い日本語教師になれると思うの」と言うのだった。



 伊勢丹の辺りで吐き気を催してあわててトイレに駆け込むと、消化しきれなかった日常のできごとが頭を巡った。会社をかけずり回って靴底が減った革靴が、左だけ転がっていく。飲めないのに無理矢理飲んだコーヒーを、一緒に吐き出しているのを見ていたら、冷や汗がどっと吹き出し、やりきれなくて目をぎゅっとつぶった。今週は仕事でミスをしていた。AとBを間違えるような単純なミスだった。いつか彼女が、「日本語がわからなかったり、嫌なことがあったときは角砂糖にたくさん愚痴を吹き込んで、そうしてコーヒーに溶かして飲んでしまうの。そうしたら、もうそれでサッパリ忘れちゃうのよ」と言っていたことを思い出していた。



 気がついたら、ラクダに乗っている。それも何頭ものラクダ達と共に、暗闇へ向かっていた。ぱっと左を見ると、彼女とその母親もラクダに乗っていた。右を見ると、砂漠の地平線からわずかに太陽が見えている。「急いで陽が昇る方へ行きましょう」と彼女が言うと、ラクダ達はすぐに東へ方向を変えた。どこへ行くのか全くわからなかったけれど、とにかく金曜日を乗り切らなきゃ行けないことはわかっていた。週末はやりきれない。それは僕も彼女も、ラクダ達も一緒だった。誰もが一人でいることを寂しく思うし、砂糖入りのコーヒーを飲まなければいけなかったし、あらゆるものから、必死で逃げなくてはならなかった。ふと見ると、なぜか彼女の手に、履いているはずの僕の左足の靴が握られていた。



 「お兄さん大丈夫?」掃除係のおじさんに声をかけられ目を開けると、便器にしがみついたまま、寝てしまっていた。立ち上がって左足の靴を履こうとした時に、ずいぶん体調が良くなっていることに気がついた。おそらくストレスで胃が弱っているところに、脂物とブラックのコーヒーを飲んでしまったことが原因なのだろう。彼女を思い出すのが悲しくて、砂糖を入れずにコーヒーを飲んでいたのだけれど、やはりブラックでは飲まないほうが良いのかもしれない。あれから、彼女はロシアへと帰って行ってしまった。おそらく僕が口にしていた日本語を、現地で子供たちに教えているのだろう。ポケットから定期を出すと、黄色い砂のようなものがザザーと出てきた。土曜日まであと数時間。きっとすぐに日は昇る。僕らは東に向かって、走っているのだから。

週末はやりきれなくて(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=78;uniqid=20070410_603_1995p#20070410_603_1995p)再校正分


山手線と、終わらないダンスミュージックのはなし

  熊谷

品川駅で鼻が落ちていたので拾ったら、やたら潰れてしまっている鼻だった。覚えている、これはあなたがわたしの低い鼻をからかってつまんだときの鼻。
有楽町駅で左手が落ちていたので拾ったら、やたらと表面がスベスベしていた。覚えている、これはあなたがわたしの手の平の感触が好きで、何度も握り返したときの手の平。
東京駅で右足が落ちていたので拾ったら、なんだか痺れていた。覚えている、これはあなたがベッドの上で、ふざけてわたしの足を挟んで押さえつけたときの右足。
上野駅で両腕が落ちていたので拾ったら、やたらと冷えていた。覚えている、これは留学に行ってしまったあなたを、寂しく見送ったときに振っていた両腕。
巣鴨駅で右目が落ちていたので拾ったら、やたら涙で濡れていた。覚えている、これはいくら連絡をしても、あなたから連絡がなくて不安になりながら過ごしたときの瞳。
池袋駅で唇が落ちていたので拾ったら、すぼめた形で凍っていた。覚えている、これは別れようと思ったけれど、うまく話を切り出せなくて固まってしまったときの唇。
新宿駅で左胸が落ちていたので拾ったら、鼓動が激しく動いていた。覚えている、これはあなたとさよならしたときの胸の高鳴り。
渋谷駅で、いくつかのパーツを拾い集めたとき、間違えて誰かのメガネまで拾ってしまった。あなたのメガネでもないので、ひどく困惑しているところに、山手線はやってくる。
恵比寿駅に着いたところで、右耳以外の全てのパーツが揃っていた。改札を出ると、見知らぬ男が立っていて、それは僕のメガネだと言う。メガネをあげると、男は突然右耳をむしり取り、それをわたしの右耳としてくっつけた。耳を失った男は、今夜は終わらないダンスミュージックを聴こう、と言って、もうひとりのわたしの手を取りどこかへ消えてしまった。片耳しかないのに良いのだろうかと思いながらも、私は改札のなかに戻り、あなたを好きだった自分とさよならするために、鼻を取り、ぐしゃっとつぶして品川駅へと向かった。


神様のはなし

  熊谷


 神様にGPSをつけたら、わたしの家を指し示していたので、その日はいつもより丁寧に掃除をして、いつもより野菜が多めの食事を作るようにした。そうしたら、旦那はいつもより口数が多くなり、おまけに体脂肪率も減っていった。わたしたちはきっと今までよりもほんの少し、お互い寿命が伸びたように思う。神様は、わたしたちの未来の時間になった。

 神様にGPSをつけたら、近所の公園を指し示したので、行ってみたら蝉が死んでいた。まさか蝉が神様だったとは思いもしなかったので、大切に公園の隅に埋葬することにした。手を合わせて家に帰ると、玄関にも同じように蝉が死んでいた。GPSを見ると、相変わらず埋葬した場所を指していたので、玄関先で亡くなっている蝉は神様ではなく、ただの蝉に違いなかったのだけれど、神様の隣に埋葬してあげることにした。神様はときどき死んだふりをして、わたしを試そうとする。

 神様にGPSをつけたら、どこにも指し示めさなかった。どこにもいないのか、特定できないようにしているのかわからなかったが、旦那の体脂肪は相変わらず減ってきているので、いつもと変わらず丁寧に掃除をして、野菜多めの食事を作ることにした。食事をしながら、おいしいねと言った旦那の口元にえくぼが浮かんでいて、その瞬間GPSが家を指し示した。神様はえくぼでひと休みをする。

 神様にGPSなどつけられない。物を書くようになってからよく嘘をつくようになって、それをほんのちょっとだけ反省をしている。それでも、目に見えないことを信じようとすること、その行為そのものがとても愛しく感じられる。わたしたち夫婦がどんな形で結婚式を挙げようが、どんな形でお葬式をしようが、そして神様がどこにいようが、どこにもいなかろうが、そんなこと本当はどうでも良かった。冷蔵庫の中身を見ると、野菜が少なくなってきているから、スーパーに行って特売の野菜を買ってこなければならない。わたしにとって本当に大事なことは、そういうことなのだ。


折ること、祈ること

  熊谷


日、朝と夜が変わるとき、こころをひとつ折る。たとえば、それが紙のようなものだとすれば、日を重ねて折っていくうちに、きっと鶴にも亀にもなれるのだ。そうしてあなたはそれに乗って、天空の城にも、竜宮城にも行ける。だから、そんなに頑張らなくてもよい。ただひとつ、丁寧に折り目をつけるのだ。



あなたのこころの折り目は、寝る暇もなく忙しくて、少しズレて折れたりしていた。だからそれをもう一度広げて、丁寧に伸ばして、再びきちんと折ってあげる。そんな気持ちになれるような言葉があればいいし、そんな気分になれるような歌を探している。今日書けなかった歌詞は、明日きっと神様がプレゼントしてくれるのだ。



誰も乗せることなく、病室には千羽鶴が飾られていた。その代わり、空港の近くの病院だったので、窓辺からはたくさんの離陸していく飛行機が見えた。ほんとうはそれに乗って、世界中を見に行けたら良かったのだけれど、あなたの子どもの病気は他の子どもよりも何だか難しくて、長く眠りすぎたベッドのシーツはしわくちゃだった。わたしはそれをほんの少しだけ伸ばして、ひたすらに祈ることしかできなかった。



あなたは、あなたの子どもにたくさん謝ってきた。そして、折らなくていいところまでたくさん折って、最終的にこころはぐしゃぐしゃになっていた。神様、今夜は悲しみにくれるあなたのために、あなたが気がつくまで流れ星を何個も流してあげて下さい。そして何でもいいから、お願いごとを聞いてあげてください。そう祈りながら、鶴をひとつ折って、また千羽鶴を作り始めた。


OVER THE SEA, UNDER THE MOON

  熊谷

 会社帰りに、その時なぜか手に持っていた給与明細が風に飛ばされた。そのままテトラポットを通り、ヒュッと海の上へ落ちる。拾わなきゃと思って慌てて海のなかへ入って行くと、海面にはたくさんの給与明細が浮いていた。それらは全く赤の他人のものばかりで、てんで安いものから、べらぼうに高いものまである。その中から自分のものを必死に探したけれど一向に見つからず、探しているうちに水位がどんどん腰から上へあがっていった。お金が欲しかったわけではない。ただひとつ自分の給与明細が欲しかっただけなのだ。わたしがちゃんと働いているという証拠が。そうして巨大な海はわたしの上から下まで残さずすべてを飲み込もうとした。必死でもがいて顔を上げようとしたとき、満月がぽっかり浮かんでいるのが見えた。



 妊娠が分かってから、事務の仕事をやめた。給与明細はおろか一銭も稼いでもいないのに、何だか変な夢を見てしまった。ベッドから起き上がり顔を洗うと、温かいスープが飲みたくなって、台所に立つ。にんじん、ピーマン、たまねぎを隅々まで水洗いをし、適当な大きさに切る。沸騰したお湯にそれらを入れ、ブイヨンを三切れ入れた。料理をしていると、とても気分が落ち着く。あらかじめ用意された材料で、決められた手順でこなせば、写真通りに出来上がるからだ。そして、ちゃんと生活をしているという気持ちになって、ひとまず人間らしくいられる。鍋にふたを置いた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。



 帰ってきたあなたは、釣り道具をひとしきり拭きながら、「きょうはけっこう釣れたんだ」と言う。一度、あなたに連れられて東京湾で夜釣りに行ったことがあるが、まったく好きになれなかった。夜の海は怖い。とてつもなく黒く巨大な空間がそこに広がっていて、追い打ちをかけるように、波の音が迫り来るように唸りをあげていた。そこにいるかどうかもわからない魚をひたすらに探し、そして釣りあげることの、何が面白いのかわたしにはよく分からなかった。そこには、あらかじめ用意された材料も手順も、約束された結果もない。大きな海のなかで目に見えない魚を、あなたが無邪気に追いかけていくのが何だかうらやましかった。



 臨月を迎えたお腹はもうぽっこりどころではなく、満月のように育っていた。ルアーがリビングの端に行儀よく並んでいて、全員こちらを見ている。私もそれらを見ながらお腹を撫でていたら、お腹の子どもが下腹を思い切り良く蹴り上げた。この子が生まれてくる確率と、あなたが魚を釣る確率のどちらが高いのか、ぼんやり考える。この子は、ちゃんと生まれてくるのだろうか。家の中にいながらにして、常に大きな海から必死で自分を守るような気持ちでいた。「釣れる日って何か分かるんだよね」唐突にあなたは言った。「君のお腹がいつになく丸く輝いて見えると、釣れるんだよ」



 会社員でもなく母親でもないこの自分が、ちゃんと子どもを産んで育てることができるのか、不安になっていたのかもしれない。けれど、あなたがいることで、広くて大きくて、怖かった海のそのすべてが、わたしの右目や左目から溢れ出す。すべての海は、わたしのなかにもうすでに存在していて、いつだってわたしは海そのものだった。そこに、釣れるも、釣れないもない。ルアーなどなくても、潮の流れがとてつもなく変わってしまっても、魚は海であるわたしの手のうちに集まってくる。そうして、必ず子どもは産まれてくるし、わたしは必ず産むことになっているのだ。あなたがティッシュを取りに席を立つとき、子どもはもう一度、下腹を思い切りよく蹴り上げた。


  熊谷

 終極。風が吹いたら、いろんなことが終わった。とりあえずあなたから連絡がなくなって、びっくりするぐらい晴れた青空に、太陽がやたら暑くって、だらだらと汗が出て、一緒に涙があふれて、デートの時に着ようと思ってた新品のスカートはハンガーにかかったままくしゃくしゃになってて、片付けしようにも何も整理ができなくて、あなたが連絡できない100の理由をひたすら考えた。それって、夏はどうして暑いのかって考えるのと同じくらい無駄だったけど、どうしても止められなかった。

 花柄。いつも買わないようなスカート、わたしに着てもらえないことでだんだんかわいそうになってきたから、どうでもいいふつうの日に着てお出かけをすることにした。スカートの模様には見たこともない花と草が描かれてて、その一つ一つが夏の暑さにやられてうなだれていたから、原宿の露店でチョコチップのアイスを買って食べて、食べ終わったところで今日あんまりチョコの気分じゃなかったなって、太陽もうなずく。

 青蒼。失恋した瞬間、わたしには青い色が塗られた。そしてペンキ塗りたてに触れるみたいに、わたしとごく近くですれ違った人々にも目に見えないくらいの小ささで青く染まって行く、それって何だか小さい青空みたい。幸せそうなカップルにもその小さな青空は少し移って、彼らはそれさえも気がつかないで太陽の方をまっすぐ歩いていくんだから、その影はどんどんわたしに落ちていく。

 追伸。元気が無くなったらわたしのことを思い出してよ、そうしたら、おいしいアイスクリーム屋さんに連れて行く。たくさんの青空をまとったわたしに、花柄のスカートは故郷を思い出してさんさんと咲いて、涙は風を誘って吹きすさむ。暑さで溶け始めるのはアイスだけじゃないって、男はあなただけじゃないって、夏はえいえんに続くわけじゃないって、太陽もうなずく。


  熊谷


一斉に咲く花のように
わたしたちは
お互いしかわからない合図を使って
その手綱を引く
できたての雲が
くすぐったくて肌寒い
春の雨を降らせて
会えそうで会えない日々を
重ねて折って
鶴にさえなれなかった
似てるようで似てない日々を
重ねて祈って
この時期はまだ
カーディガンが必要で
傘じゃ守れない
未熟なからだはどんどん冷えていく
遠くから聴こえるちいさな声は
いくつかの川を越え
ようやく鼓膜に響いて
だから切ないくらい伸びた運命線は
複雑に絡み合った首都高に乗って
東京を出ようとするけれど
あなたと出会えたこの街を
簡単に捨てることは
どうしてもできなかった
雨ではがれ落ちる花びらは
無意識のうちに沸いた感情と
ともに足の裏にこびりつく
まだつぼみだった頃の
この季節がくる前の
わたしたちが出会うまでの
あなたのこころを
この雨が止んだら
標本にしてしまいたい
翻る駆け引きと
気持ちと裏腹に散っていく花
蘇る冬の寒さに
悪びれもせず変わっていく天気
あいまいに微笑むあなたは
いつだってわたしを
とくべつに不安にさせる
ただ好きということで
握りしめた手綱が
ほどけないように
標本にするはずのあなたが
ちゃんと死んでいるのか
確認をした
ゆっくりと拍を止めて
今日のことを忘れないように
願を懸ける
そしてもうすぐ
雨は止む


  熊谷


電話が鳴っている
誰からの連絡なのかは
わかっているのだけれど
どうにも体が動かない
呼び出し音は途切れず
そのまま肌寒い朝を迎える
そしてもう眠れる夜は来ない
なぜなら
一日中あなたのことを
考えているからだ



あなたは約束を守れず
必ず遅れてやってくる
蝶々結びを結んだ先は
怪我ばかりしている小指で
季節は相変わらず
暑さと寒さを繰り返すばかりだった
待っているのではなく
ここから動けないだけで
指切りはほとんどあって
ないようなものになっていた
ねえ、ここから早く
どこか遠くに行こう
そう思った瞬間
蝶々結びはほどける



わたしとあなたは
とても歌が上手だった
ドからドまで正確な高さで
いつまでも平行線を
辿ることができたし
お互いの音色は
手が届かない場所まで
絡むことができた
あなたの喉を少しなでたとき
太陽がようやく
雲間から顔を出して
夏が来たことを知る
ねえ、ここからどこにも行かないで
そしてもう一度
蝶々結びを結び直す



あなたが走っている音がする
どこを走っているかは
わからないけれど
音がするということは
もうすぐここに
到着するに違いなかった
怪我をした小指に
新しい皺が刻まれたとき
満月がようやく
雲間から顔を出して
運命が動いたことを知る
その間にわたしは
まばたきを繰り返しながら
愛してるに満たない
子供じみたメロディーを
生ぬるいベッドに浮かべて
訪れたばかりの夏を見上げた



ずっと鳴っていた呼び出し音は
手に持っていた受話器からだった
電話をかけていたのはわたし
あなたがとなりにいるのに
気がつかずに呼び続けて
そのまま暑苦しい夜を迎えた
そしてもう目覚める朝は来ない
なぜなら
このまま一晩中あなたと一緒に
夢を見続けるからだ


とも君のこと

  熊谷

とも君、とも君がこのLINEを読むかどうかはわからないけど、ちゃんとお別れを言っておきたくて、とりあえず送ってみることにします。
しばらく連絡がなくなって、きっとそれは誰のせいでもないことだと思うのだけれど、わたしはそれがとても辛く感じて不安でしかたありませんでした。
とも君のことはぜんぶぜんぶ許したかったし、今でも丸ごと許せるけれど、でもこれ以上、何にも信じることはできませんでした。それはわたしの心が狭いせいだし、疑心暗鬼にかられたせいだから、とも君のせいではありません。
きょうを分岐点として、とも君のとなりにもっと素敵な女の子がいることになるだろうし、きっと別れてよかったって思う日がすぐ来ます。
とも君のこと、大好きだったなあ。一回ぐらい、立ったままぎゅっとして欲しかった。笑
ばいばい、今までありがとう。ずっとずっと、さようなら。



とも君は、わたしより背の小さな恋人だった。ちゃんと背比べしたことがなかったから、どれくらい差があったかわからないけれど、手をつなぐときわたしのほうがグッと下に引っ張られていたから、その引っ張られた分だけ小さかったのだと思う。そのグッと下がるときの感触は今まで感じたことのない気持ちを呼び起こしたし、近い言葉だと愛おしいが似ているんだと思う。たぶんとも君はそのことを気にしていて、ぜったいに立ったままハグしてくれなくて、わたしが横になるのをちゃんと待っていた。横になったらすぐにゴロンとこちら側にやってきて、そしてぎゅっとしてくれて、それでそれで、この先の出来事は思い出すと辛いから、もうこれ以上は書けません、ごめんなさい。



とも君は素直な男の子だった。コーヒーが飲みたいってなったらコーヒー以外のことは考えられないし、熟成肉が食べたいってなったら熟成肉を今すぐ食べなきゃいけなかった。付き合う前の時期に、いきなり温泉に行きたいってなって、温泉旅行に誘ってきたときも正直びっくりしたし、その小さな体によくもそんなたくさんの欲望が詰まっているんだろうと感動さえした。そして、その欲望ひとつひとつに付き合ってあげることがわたしにとっての幸せだったし、どこまでも甘やかしてあげたかった。とも君が気持ちいい、と思うことはわたしがたとえ気持ちよくなくても何度だってしたかったし、いつだってわたしのなかにその素直な欲望を吐き出して欲しかった。だから今、あなたの欲望がなくなってしまって、わたしのなかは空っぽになりました。



とも君は純粋な男の子だった。歌を歌うのがとても好きで、カラオケに連れて行ってもらうとミスチルやコブクロを、この曲良い曲だよねって言いながら熱唱していた。クリープハイプやジェイムスブレイクを聴いているわたしと違って、流行りのJPOPを良い曲だと思って聴くところがとてもかわいく思えたし、難しいことを難しく考えないところも素敵だった。とも君はわたしが聴いているような曲はたぶん知らなかったけど、わたしが腹に抱えている薄暗いアレコレには気がついていたのかもしれないね。知られたくなかったから秘密にしていたけれど、今となってはもう少し、わたしのことを話してみても良かったのかな、なんて思う。そうしたら、こんな風に連絡がどんどん無くなることもなかったのかな。そしてそんなこと今さら言っても遅くて、空っぽだったはずのわたしの中が急にいっぱいになって、わーって泣きたくなる。



とも君がいない日々は、お気に入りの絵の具を使わないで絵を描くことに似ていて、何かいつもとちょっと違くて、調子が狂うというか、ずいぶんと寂しくなる。それでも、あした、あさって、しあさって、すぐそこに迫っているだろう遠い未来になれば、とも君の色は忘れてしまって、あっという間にまたわたしは鮮やかな虹色を知ってしまうんだろう。それがとても悲しいし、こんなに大好きだったのにどうして、という気持ちにもなる。だから、とも君に握られた手の感触を忘れてない今のうちに、この文章を残しておきたい。すぐに色んなことを忘れてしまうわたしに、こんな大好きで素敵な恋人がいたよっていう、証拠を残すために。


コクーン

  熊谷


昨日の耳鳴りが
日付変更線をまたいで
かすかに聴こえている

繭は破られる
それは生まれる前から
すでに決まっていたのかもしれない

予感が
左胸から右胸へ
すっと通って
跡が残る

殻が割れて
あなたの手が伸びてくる
拒む理由を探しているうちに
いつの間にか夜が来る

脚先から始まる契りは
飲み込まれる喉の奥
あなたの口元に
集まるあらゆる敏感な神経

発光しかけて
恥ずかしさで
またすぐ暗くなる
こんな激しく明滅する夜に
溶けていく心臓の影

破りたかったあなたと
破られたかったわたしは
ちぎってはちぎり
ちぎってはちぎり
それを暗闇に捨て放った

テレビのなかの人達に
私たちの行為は
ずっと見られていて
秘密にすらできなかった

そして真夏から浮いたまま
ふたりだけそこに
永遠に取り残されて
どれだけ待っても
日付は変わらず
耳鳴りだけがこうして
いつまでも響いている






とも君のことhttp://bungoku.jp/ebbs/pastlog/482.html#20160720_289_8976p
改稿ver.


GOLD

  熊谷


目をつむっても真っ暗になんかならない。この世界はどこかしら明かりが漏れ出していて、真っ暗かと思ってもそれは完璧な暗闇なんかじゃない。目を閉じると、まぶたの外に光があるのを感じる。まぶたに通う毛細血管の赤味と、何とも言えない柔らかい黄色いまだら模様。それは、いつか見たクリムトの黄金色に似ていた。愛情とか、安心とか、生命とか、そういうものを想起させるその色を感じながら、私たちはみな夜を迎え、眠りにつく。そのことは私たちにとって素晴らしいことだったし、とても大切なことのうちのひとつだった。



写真に映ったわたしは真っ白だった。いつからこんなに肌が白くなったんだろうっていうくらい白くて、あらゆるものを反射する勢いだった。夫がカメラの絞りを調節しながら、「背景が白いから、君がどこにいるかわかんなくなっちゃうね」とつぶやく。カメラマンの夫が結婚十周年を記念して写真を撮ろうと言い出したときは少しびっくりした。仕事で写真を撮ることはあっても、私生活で写真を撮ろうとすることは滅多になかったからだ。「表情が硬いなあ」と笑いながら夫は腰を屈めた。ものすごいスピードでシャッターを切る夫を見ながら、カメラマンはこんな速くシャッターを切るのか、とその速度にすこしドキドキした。生まれてからこのかた自分の顔に自信がなくて、写真を撮られることが苦手だったわたしがカメラマンの男と結婚したのも変な話だけど、現像された写真を見れば、わたしが彼のことをちゃんと愛しているというのは見てわかるほどだった。



今年、夫は体調を崩した。前から頭痛持ちだったのは知っていたけれど、頻度が一ヶ月に一回から一週間に一回、そうしてだんだん頭痛がない日のほうが少なくなっていった。ときどきトイレで吐く日もあって、ただの頭痛で片付けられないほど日常生活に支障が出ていた。病院に行くと「脳過敏症」という診断が出された。光や音などの刺激に対して脳が過敏になっていて、そのせいで体にさまざまな不調が起きているとのことだった。フリーランスで仕事を引き受けていた夫はほとんどの仕事を断り、家で寝込むことが多くなっていった。体重も減っていって、何だか鬱っぽくもなっていた。カメラマンという光とともに仕事する人間が、光に敏感になってしまうなんて、一体どんな気持ちで寝込んでいるのかと考えたら、とても悲しい気持ちになった。そんなある日、急に夫の右手が赤く腫れ出して、そこから全身に赤いポツポツが広がっていった。じんましんだ。すると夫は重くて大きい黒いカメラをこちらに渡してきて、「あのさ、俺の写真、撮ってくれないかな」と言うのだった。



ファインダーを覗いても、夫が何を考えて、何を感じて、どんな気持ちでいるのかさっぱりわからなかった。子どもがいないまま春夏秋冬を十回繰り返して、それなりにわたしたちは会話を重ねたし、どうでもいいことでケンカもしたし、それでもこうして見飽きた顔をお互い突き合わせながら、衣食住を共にしてきた。写真を撮り終えると、夫はまたベッドに戻っていく。顔にはまだ赤みが残っていて、触るとその膨らみがありありとわかるのだった。赤く腫れ上がった皮膚に、白いわたしの指が表面をなでたとき、「ごめんな、」なんて夫が言うので、ぎゅっと痩せた体を抱きしめた。このとき、初めてひとつになれたらいいのに、と思った。わたしは頭が痛くなったことがないから、夫がどんな痛みを感じているのか一生かけてもきっとわからなくて、わたしたちはどうしたって別々の生き物として生きていくしかなくて、それがすごくもどかしかった。だけど、目をつむっても完全な暗闇がそこにないように、どんなに夫が弱ろうとも、ダメになってしまおうとも、あのクリムトの絵に描かれた黄金色のように、夫に忍び寄るよくわからない暗い何かから守る、明るく柔らかい小さなお守りみたいな存在として側にい続けたいと強く思う。朝が来ればカーテンをあけて、豆腐とわかめの味噌汁を作って、布団のカバーを洗濯する。夜が来ればお風呂の浴槽を掃除して、干した洗濯物を取り込んで、野菜たっぷりの夕食を用意する。そんな風に、生活の輝きを絶やさないでおきたい。この先、あなたが元気になろうとも、元気にならなくとも、まぶたの裏にあの黄金色が見えている限り。


メリークリスマス

  熊谷


 数えきれない夜に、数えきれない星が空を巡り、数えきれない大きな袋が、数えきれない煙突に、数えきれないサンタと、数えきれないトナカイが、数えきれない子どもへ、数えきれないプレゼントを、数えきれないメリークリスマスに、数えきれないろうそくと、数えきれないお父さんとお母さんと、数えてもらえなかったわたしと、欲しくもなかったプレゼントが、いま心に赤いリボンがぎゅっとかけられて、今年も切なく終わりを迎える、この世の中に分母がどんどん広がっていく限り、わたしも君も、完全に消えるわけじゃないのに、どんどん見えなくなって、ろうそくの火みたいに、ふっと消える。

 おやすみおやすみおやすみなさい、おやすみしなければいけない、おやすみしたら明日がやってくる、おやすみは子どもの義務、おやすみはすぐにやってくる、おやすみは体にとって大切、おやすみでお休みなんかできない、おやすみなんかおやすみなんかおやすみなんかサンタが来るからっておやすみするもんかってところで程よくお酒が回って目がまどろみ、わたしもわたしという意識からさよなら、時計を見るとたぶん午前二時、午前二時のおやすみなさい、午前二時のだいすき、午前二時のあいしてる、午前二時のねえ、起きてる?午前二時の、二時の、二時の、二時、本当に今は二時なのかしら、時計をもう一度確認、して、ちょう、だい。

 せめて大きな靴下に入っていればよかった、プレゼントはだいたいダンボールに入っていた、来たのはサンタじゃなくてクロネコヤマトの宅急便のお兄さんだった、希望通りの商品が希望通りの個数で希望通りの日時で希望通りに到着した、でもそんなことは望んでなんかなかった、赤いリボンはもっときつく心を締め付けた、分母はいつもひとりだった、たったひとりのわたしが、この狭い津田沼の六畳間に、世界とは、世界とはと問い続けて、津田沼のことさえ全く知りもしないのに、津田沼の端っこの六畳間で、数える気もないのに空を見上げ、数える気もないのに煙突を探し、数える気もないのにプレゼントを考え、数える気もないのに数える気もないのに数える気は全くないくせに、それでもメリークリスマスは当たり前のようにやって来るんだから、やって来るってやって来るってやって来るってんのに何の準備もしてないし、してないよしてないよどうせするつもりもないんだけど、必ずいつだって分母はひとりでひとつで、それは津田沼の六畳間にぽつんと、今、ここで、横に、なっている。

 振り向けば愛してる愛してる愛してるって、午前二時に午前二時の午前二時にはサンタクロースが愛を運んで、よく眠る良い子に愛を運んで、欲しいとも欲しくないともそれとも何が欲しいかもわからなかったあの子にも、数えきれないから不平等に、それはもうバラバラに不公平にプレゼントは配られて、それでもちゃんと見てたよ、君のことは知ってたよ、でも君のことは愛することはできないよ、津田沼の六畳間から、ちゃんと、六畳間からちゃんと、世界とは何なのか考えてた、君って一体何なのか考えた、君が思う、君が好きなわたしって何なのか考えてた、ごめん、ごめんごめんごめんって、君のことはちゃんと数えてる、君のことはちゃんと思っているんだよ、思っていたけど、でもやっぱりわたしは君を愛することはできない、わたしは君に何ひとつプレゼントはあげられない。津田沼の六畳間には、サンタはいないしサンタは来ない。まともに世界にいる子どもの数なんて数え切れないからこの世はまだらに幸せになっていて、幸せのとなりにすぐ不幸せが存在して、不幸せは不幸せなのを悟られないようにどんどん津田沼の六畳間で小さくなっていく、どんどん分母は小さくなる、最終的には分母はひとりでひとつになって、天井の明かりみたいに、ふっと消える。


  熊谷


海のうえに
巨大な女が横たわっている
白い肌は透き通っていて
その向こう岸にある
無人島もぼんやり見えている
近くを漂う漁船は
女があくびをするたびに
ゆらゆらと揺れて
けれど乗っている人達は
それを波の揺れだと思っている
裸にも関わらず
何のいやらしさも感じないのは
この界隈には一年中
霧がまばらにかかっているから
砂浜にはたくさんの穴が空いていて
そこからは動物の
寝息が聞こえている
特別大きないびきをかいている穴を
ヤドカリは覗き込み
しばらく動けずに固まっていた
反対側の浜辺で
焚き木をしている人間がいる
この世界では
人間だけが服をまとっていて
それがとても不自然だった
煙がこちらまで流れてきて
女が不機嫌そうに目を開けた
その瞬間に雲が太陽を隠して
あっという間に
ここにいる全員の身体が冷える
そして焚き木の炎は
きっと消えてしまう
なぜなら今の
季節は冬なのだから
誰もが眠り
誰もが夢を見る
今にも雪が降りそうな空に
女はまた瞼を閉じて
あくびをし
口から白い息を吐いた

文学極道

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