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宮下倉庫 - 2007年分

選出作品 (投稿日時順 / 全10作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


スカンジナビア

  宮下倉庫


オーロラをめぐるスカンジナビアの旅。学生の冬休みや、社会人の年
末休みの時期を避けて、と思っていた。だからこのタイミングで、北
欧の氷河に日本人の、おばさんの一団が大挙しておしかけていたのは
まったくの誤算だった。彼女達の姿形はまちまちなのに、みな一様に
フラフープを持参している。

今の会社に勤めはじめて丸5年になる。そして今3回目の休職期間を
過ごしている。ポンプのモーター音、水草と砂。青白く輝く水を湛え
た水槽が、窓のない4畳半ほどの小部屋を淡く染めている。机の上に
はボールペンとわずかの紙片。人事の黒田さんはやんわりと退職を促
している。壁の向こうの毛羽立った空を思う。両手で掬うと水は思い
のほか冷たい。部屋の壁では熱帯魚のグラフィティが回遊をつづけて
いる。

旗を持った添乗員と思しき男性にたずねる。これはいったいどういう
ツアーなんですか。男性は答える。「オーロラの下でロマンティック
痩身ツアー」なんですよ、と。オーロラを見上げながらフラフープ、
感動ついでに気になる腰周りの肉をシェイプアップ、そういうことら
しい。まったくいかれた話だ。

出張とか外回りとか、そういう役回りがなるべく少ない仕事がいいと
思っていた。ところが辛うじて滑り込んだ今の会社で待っていたのは
正反対の仕事だった。毎日のようにあちこち飛び回って汗水を垂らさ
なければならないうえ、たまに会社に戻れば、山のような書類の処理
と、こと細かな報告書の提出を求められた。いろいろな場所に行けて
いいじゃないかと言う人もいたが、ぼくはいろいろな場所に行きたい
なんて微塵も考えたことがない。

SUUNTOの腕時計が21時を告げる。やがて空にぼんわりと幽霊のように
現れ、うねり、形を変えるものがある。オーロラだ。寒さを忘れ、ぼ
くはそれを注視する。その動きは次第に大きく、強くなっていく。す
るとおばさんの一団も、ここぞとばかり一斉に太い腰をうねらせ、フ
ラフープを回しはじめる。歓声とも嬌声ともつかない声がスカンジナ
ビアの氷河に響く。オーロラはあられもない奇態を現しはじめる。

やがて体のあちこちに変調をきたした。心因性の抑うつが原因だろう
と言われた。ところが社長は精神論の信奉者で、上司はぼくを厄介者
とみなしている。内勤を希望したがそれも叶わず、2回・3回と休職
を繰り返し、結局今こうしてぼくはスカンジナビアにいる。オーロラ
を見る、ただそれだけのために。日本に戻ったら、退職願いの書き方
を調べてみるつもりだ。

真っ白い息を吐き出しながら、首が痛くなるくらい空を見上げつづけ
ている。オーロラのフラフープが止まらない。おばさん達から流れ出
た汗は奔流となり、雪解けよろしく氷河を溶かしていく。ぼくは足元
が崩れていくのを感じている。いつのまにかぼくは一団の先頭で旗を
振っている。こんなに旗を振って、ぼくはこの一団をどこに導くつも
りなんだろう。

もう潮時だろうと思う。不要な汗を出し尽くし、おばさん達の腰はく
びれにくびれ、みな砂時計になって佇んでいる。ひとり、またひとり
と、持ち時間を使い果たしていく。やっと静かになったスカンジナビ
アに、さらさらと音をたてながら、砂が時を刻んでいく。そして最後
のひとりが砂を落とし尽くした瞬間、足元が音もなく氷解する。遠ざ
かっていく空に光の輪が見える。氷河の下では輝く魚達の群れが回遊
している。青白く、ただ青白く染めて。小部屋のドアを開けて黒田さ
んは、誰もいないことを確かめてから施錠する。


放牧

  宮下倉庫


ジュリア・ロバーツの唇は
ガムテープで塞いでやりたい

アンジェリーナ、という語感のよさに
絆されたわけでもないが
その唇には倒錯を塞いでしまう
質量、が

思惑だけはそのままに
牛、に火を、その質量ごと
灰に、それは
絆されるためだったかのよう


moo


抗議します、断固
お願いしますほんとうに
ところであなた誰ですか?
毎日窓口が変わるので
不便でしかたがありません
リピートします
抗議します、断固
お願いしますほんとうに
ところであなたこそ誰ですか?


moo


また押し切るんだろうねと
牛たちが黙々と草を食む
“テキサス・”と修飾される
レンジャーズ/カウボーイ/プレジデント
OKこのBULLSHITども
おまえらの気持ちはよーく分かった
牛は一旦俺んとこで面倒みよう
ところで知ってるか
リーバイスは今やMADE IN CHINAだ
道理で平和(ピース)フルな履き心地だろ?
とはいえ俺の名を気安く
ファーストネームで呼ぶんじゃない
定点観測は四六時中続けられてるのさ
シンディのことはもういい
物騒なことはそっとしておけ
俺は牛を尊重している
新しいヒンドゥーみたいに
亜大陸を侵食する日は間近だ
人間については
まあ後回しになるだろうな

俺の鼻はいつでも
濡れているんだぜ


moo


パシフィック・コーストは
今日も快晴です
以上CIAがお伝えしました



(アンジェリーナ
(俺んとこの牛はアンジェリーナ
(豊満な牛だぜアンジェリーナ
(ブラッド・ピットのやつは
(エドウィンなんか履いてないぜ


ホントニ、ゴメンナサイ


抗議しましたわ
ええ、もちろん、断固として
止めてやりましたわ
水際でがっちり
でもそろそろ潮時かなって
あたしの無念を
同郷のあの方は
晴らしてくれるかしら


moo


パシフィック・コーストは
今日も引き続き快晴です
喫水線からCIAがお伝えしました



(アンジェリーナ
(テキサス米にキスしてくれよ
(ジャパンの食卓に星条旗
(君達のファーストネームは
(舌を噛むから発音しないことにしてるのさ


moo


小山のような生物が群れ
蠢く山脈になり
黒々とした隆起のあちら側から
新しい親書が届けられる


 親愛なる君達へ

“一件はいつでも、しかも最初から
 落着しています。ガムテープで口
 を塞いで、羊みたいな君達を、私
 は心から敬愛しているよ”


Million miles away

  宮下倉庫


水で満たされたタンクを抱え少年は走る。道の両脇に立ち並ぶ小屋からひとすじ、またひ
とすじ、炊煙が立ち昇りはじめる。雑音交じりのテレビはイングランド訛りの英語を喋っ
ている。蒸し暑い小屋の中で男達は遥か北の、かつての宗主国の首都から届けられるフッ
トボール中継に見入っている。

ハイバリーのスタンドでは、白人の少年が頬にホームチームの赤いフラッグをペイントし
ている。敵ゴール前にぬっと立つ、長身でやや細身、背番号4番の黒人FW。彼はロンド
ンの空模様に慣れない。薄寒いし、雨ばかりだ。それに背中がやけに重い。ボールが自陣
にある間くらい、ハイドパークを散歩するような気持ちでいなければ、こんなところには
いられない。

風が吹いても、ここではシャツが、男達の背中にはりついたままだ。少し離れた幹線道路
は今夕もひどく渋滞している。苛立つタクシーのバックミラーで揺れる、“4”を象った
白地の、緑で縁取られたキーホルダー。FWはときに厄介な荷を背負いこまなければなら
ない。炊煙がラゴス島の方に棚引いていく。

ゴールを決めるたび、故郷が遠ざかっていくような、そんな気がしている、もう何年も。
それでもこの島で点を取らなければならない。数本のロングパスがイングランドの曇天を
渡る。空を見ているのはボールが落ちてくるからじゃない。ヘディングは得意じゃないし
、ボールはいつだって、彼の足元に吸い寄せられる。厚い雲の向こうはきっと夕焼けだろ
う。ママのキャッサバが茹で上がる頃だ。

アルー アルー アナウンサーがひときわ訛りの強い英語で叫ぶ。赤に染まったバックス
タンドがうねる。ボリュームが増して、テレビの雑音がひどくなる。男達が一斉に息を飲
む。4番の足元で、時間が伸びて、縮む。

アルー 小屋の入り口に立ち尽くして、少年は小さく呟く。足元で倒れたタンクから水が
流れ出し、少しずつ、踏み固められた大地の色を変えていく。けたたましいクラクション
が聞こえてくる。沸騰する鍋からキャッサバが引き上げられる。少年の背中に、色あせた
4番がはりついている。


しろひげ

  宮下倉庫


安心してほしい。おまえの成長を顕微鏡越しに見ている。おまえは
毎日数ミクロンずつ成長して、やがて俺の中を駆ける極小の兵隊に
なり、最後は革命に殉じるのだろう。たまったものじゃない。

牛乳が未だに届けられる。新聞屋にもリフォーム屋にも宗教屋にも
断りの電話を入れたが、牛乳屋にだけはなぜか連絡がつかず、こう
して今朝も牛乳瓶が2本届けられる。死んだはずの母が奥の部屋か
ら現れ、牛乳は毎日飲みなさいじゃなければ大きくなれないわよと
、いつも牛乳瓶を傾けながら話すものだから母の口からはだらだら
と牛乳が零れて顎を伝い、まるでしろいひげを蓄えたかっこいいお
じいちゃんみたいだ。ところでおじいちゃんは奥の部屋でくろこげ
になっている。そして1本目の牛乳は一滴も俺の口に入ることなく
しろい水溜りになり、牛乳瓶の中には干からびたへその緒が残され
ている。父の顔を俺は知らない。

顕微鏡を欲しいと思ったことは一度もないのに、プレパラートの上
の俺は超一流だった。であるからして、眼医者に行っても歯医者に
行っても俺は標本扱いなのだ。そして俺がシナプスの極小の間隙を
抜ける度、奴らは地団駄踏んで悔しがったものだ。しみだらけの尿
道のような路地を駆けて家に戻る。すると母は2本目の牛乳をだら
だらと零し続けていて、しろい水溜りは始原の海の風景を現しつつ
ある。俺はほんの数ミクロンの成長のために膝を壊し続けている。
誰か父の背中越しの風景を俺に教えてやってほしい。

禁忌は奥の部屋で犯される。俺の体臭は女のそれだ。顕微鏡で仔細
に眺めると、海岸線は向こうの岸壁でとぎれ、岸壁は幾星霜をかけ
て穏やかな波に洗われ続け、女の腰から肩にかけてのごときカーブ
を描いている。それで欲情すると、奥の部屋からおじいちゃんが現
れてはシングルなスタンダードで俺を殴りつけ、その度に俺はあか
いひげを蓄えて革命を誓うのだった。安心してほしい。もう始まっ
ている。


African Space Craft

  宮下倉庫


5時。影と影のからまりに鋭角に切れ込む指の先の厚くしなった爪から始めら
れる背割りの朝。

鶏卵の白身のぬくみ。暗闇を探し路上をうろつき歩くジャッカル。土壁の小屋
の暗がりで眼をぎらつかせながら、切り裂かれていくからまりから零れ落ちる
卵黄を汚れた掌に受ける、黒い肌の男たち。

駆け出す。極彩色の荷駄を満載したトラック。そのひとつひとつから漂う甘い
香り。ギネスの空瓶を路上に投げ捨て、煙草に火を点ける運転手。サイドミラ
ーに映り込んだ背割りの痕。ギアを上げる。半開きの窓から煙が流れていく。
規則正しい回転運動の後、瓶は音もなく軟着陸する。転げ落ちた荷駄のひとつ
は硬い土の地面に叩きつけられ、露わになったその果肉の内にあめ色の真珠を
輝かせている。

旧市街の中心で古びている時計台。太腿のような長針がジャック・ブーツで文
字盤を踏みしめている。簡素なスタンドで朝刊が購われていく。鐘の音さえ途
絶えてなくなる方に、伏目がちに白い通勤者たちは向かっている。メトロの放
熱が朝の輪郭を撫ぜる。太腿と鈍角を成す短針に、昨晩の号外が突き刺さって
いる。

キザイア。その名は北からの/南からの。エボニーの2弦ギター。黄色い大地
を眼下に臨みながら着陸体勢に入るジェット機。辻ごとに立つ、逆さの錨のよ
うな体躯の警官たちが、轟音のする方に顔を向ける。今朝、白い建物の前では
誰も唾を吐かない。建物を囲う鉄柵の前、ティアドロップ・サングラスの奥か
ら辺りを睥睨する警官がガムを噛み締める。朝刊の1面にはKeziahの文字が踊
り、通りを舐る熱は束になり流れ出そうとしている。

ほつれ。からまり。繰り返す。厚くしなった爪が弦を叩くと卵黄が焼け焦げる。
ベースラインを肩にかけた法衣の男が、白い建物の前で誰かの到着を待ってい
る。弾圧の夜の後、焼けつくような静けさの中で、噛み潰されたマンゴー・フ
レイバーの酸味が広大な街の隅々にまで行き渡っている。

ひらけていく街の極彩色の中を古いイギリス車が滑っていく。革張りのギター
ケース。3人編成のバンド。後部座席に痩身の男。見送る少年のひとりが、轍
に散りばめられたあめ色の真珠をつまみあげ、傾き始めた太陽にかざし、汗染
みの浮いた警官の背めがけ投げつける。

路上では全てが空冷だ。石造りの歩道に、未だ結露を始めず、飛び立つための
熱を呼ぶ黒い宇宙船が冷ややかに佇立している。後部座席に深々と身を沈める
男。その右手の人差し指に走る傷口は、昨夜からの規制が解けきらない渋滞の
幹線道路―――



   覚束ない足取りで道路を横断する若い男が黒いドラムの音圧に弾き
   飛ばされアスファルトに叩きつけられる音もなく現れた四つ肢の獣
   が既に果実となった男をくわえこちらを一瞥して走り去る赤く脈打
   つベニン湾の上の空で静かに息絶えていく背割りの朝は



ヨルバ。アングロ・サクソン。ラゴスからロンドン。ロンドンからラゴス。黒
い眼になって、男たちは偏在を(または散在を)始める。黒いボディに張りつ
めた2本の弦が束になって流れてくる熱に舐られ、歪む。暗がりから囁くよう
な会話が聞こえてくる。法衣の男がひとつも違えずに弾く4弦。E すぐにG。
すると急に渋滞が解け、ドラムが幹線道路を踏み鳴らしながら駆け出す。


African Space Craft


今ゆっくりと縫い合わされるようにとじていく夜のほつれの中に、通勤者たち
が帰ってくる。誰一人昨夜のことを口にしないまま、頭上に冷たい射精のよう
な軌道を描きながら加速していく宇宙船を、見送っている。土壁にひとつだけ
設えられた窓から流れ込んでくる雨の匂い。そして5時を告げる鐘。


  宮下倉庫



それは妻がメレンゲを作るために、ボールに落とした卵5個分の卵白をホイッパ
ーでかき混ぜている時のことだった。5重苦よ、結婚してから、わたし、これで
もう5つめなのよ。そう言うと妻はホイッパーを卵白の表面に対し鈍角に投げ込
む。僕はどこかからの大事な電話に出ていたのだが、彼女が卵の数の話をしてい
るのではないことを悟り、受話器を置いていそいそと5歳の娘を幼稚園まで迎え
にいく準備を始める。あなた、お母さん方の眼があるのだから、赤い口紅くらい
さしていってね。それはもっともだと僕は、洗面所で赤い口紅を再現不能な気分
で一直線に2本塗りたくって×を作り、キャップも閉めずにぽいと投げ出し、黒
くて真四角の家を出る。そういえば娘を迎えに行くのは今日が初めてだった。そ
んなことを考えていたせいだろう。最初の角を折れたところで、猛スピードで突
っ込んできた車に僕は吹っ飛ばされ


しょーもない しょーもない と娘はがらんどうの室内で唱えている。いつも、
あんな感じですか、娘は。ええ、いつも、あんな感じですよ、娘さんは。僕と保
母の会話を尻目に、娘は室内の中心で砂遊びを始める。娘よなにがしょーもない
んだいと聞くよりも早く、娘は砂を襟元まで積み上げては崩す、そんなことを5
回繰り返した。最近は、これが流行ってるの、そう言うと娘は再び襟元まで砂を
積み上げ、再現不能な気分で崩す。5回繰り返す。そうこうしていると、園長だ
というおっさんに話があるからと奥の部屋に呼ばれ、保母に娘のことを託し、僕
は奥の部屋に移動する。園長の話はこうだ。うちではもう娘さんをお預かりでき
ませんな。どういう意味ですと問うと、園長は眉ひとつ動かさずに、まあ煙草で
もいかがですと、長いやつを箱ごと眼前に突き出す。それじゃと手を伸ばすと、
実は当幼稚園は全面禁煙でしてな、そういって長いやつを短くして懐にしまって
しまう。それでまたどういう意味ですと問うと、園長は眉ひとつ動かさずに、ま
あ煙草でもいかがですと、長いやつを箱ごと眼前に突き出す。それじゃと手を伸
ばすと、実は当幼稚園は全面禁煙でしてな、そういって長いやつを短くして懐に
しまってしまう。それでまたどういう意味ですと


今や保母の姿は見当たらず、娘はたくさんの園児と、砂を床一面に敷きつめてい
る。全面に敷き終えると園児達は、今はこういうのが流行っているからと、砂の
上を裸足で歩き始める。その程度のもののために僕たちは生きたり死んだりして
いるらしく、まだ起きていないもののことを、僕は知らない。水のように自由に
歩き回る園児達が一歩踏み出す度、きゅうと砂が鳴く。5歩踏み出せばきゅうき
ゅうきゅうきゅうきゅうと鳴く。僕も歩いてみようとするが、おじさんみたいな
人は、まずは襟元まで積み上げてからと園児達に窘められてしまう。彼らよりも
ずっと背の高い僕は、何度試みても砂を襟元まで積み上げられない。すると唐突
にお母さん方の眼を感じて僕は、口紅を塗り直さなければならないことに思い当
たる。しかし家の灰皿に溜まった吸殻には、すべて赤い口紅の跡が残されている
ことさえ僕は知らない!


妻の苦しみのふたつかみっつは、僕や娘のせいなのだろう。しょーもない、とは
そういえば妻の口癖だ。僕については、いえ、しょーもない主人ですが。僕の仕
事については、いえ、しょーもない仕事をしてまして。僕らの黒くて真四角の家
については、いえ、まったくしょーもない家でして。それはもはや僕たちの生活
に不可欠の冠詞のようですらある。娘の手を引き幼稚園の門を抜けて振り返ると
、室内では園長だというおっさんが僕みたいなやつと、再現不能な気分でやりと
りを繰り返しているのが見える。ああ、僕は永遠に痕跡として刻みつけられてし
まったのだなあ。そうひとりごつと、私たちの生きる理由なんてその程度のもの
なのよと娘に窘められる。この子はよく知っている。手をつないだ家路の途中、
曲がり角にさしかかる度、赤い口紅をさした人が車に吹っ飛ばされる光景を目の
当たりにする。そういえば僕も車に吹っ飛ばされたのだけど、それもやはり、再
現不能な痕跡なのだ。ひとつ前の角では、妻みたいな人が吹っ飛んでいた。とな
ると次の角では


既にして妻は家にいなくなり、メレンゲは恐ろしく泡で、机の上の灰皿には口紅
の跡がついた吸殻が山積みになっていて、洗面所では口紅が床に転がり、しかも
再現不能な気分で一直線が2本塗りたくられていて、それらは落下する黒い立方
体の中で、落下する黒い立方体よりも少し速い速度で速やかに落下を始めようと
している。それは私たちのせいなの、と娘は本当によく知っている。僕は電話の
前で待っている。どこからか分からないが、どこかから大事な電話が掛かってく
るはずだ。恐ろしく泡や、吸殻や、一直線の口紅や、娘に、順番に×がつけられ
ていく。いよいよ僕たちは真っ四角に落下を始めたらしい。すると電話が鳴り、
受話器の向こうの僕の痕跡は、僕や妻が車に吹っ飛ばされたことをゆっくりと告
げる。そんなことを5回繰り返す。そして静かに受話器を置くといよいよ僕にも
×が


僕らは樽を抱いて眠れ

  宮下倉庫



ギネス
そう告げると
瓶のまま出てくる
樽じゃなくてよかった
そう思う

左手をのばすと
ロイドの角がカウンターに触れ
カツン と
小さな音をたてる
半袖が
香る季節を僕は
嫌いじゃない

そういえば
部屋の蛍光灯が一本
切れかかっていた
白熱灯はもとより
蛍光灯だって熱くなる
唐突に思い出すのは
熱っ
そう呟いて
手を引っこめた
きみの細い指先の
やけど

黒い
ロケットがあったら
格好いいと思うね
ギネスの瓶みたいな?
そう 今にも
飛び立ちそうなくらい
冷えてる感じがさ
僕は人差し指の先を
淡く結露しはじめた瓶に
おしつける
蛍光灯くらい自分で
換えるべきだったのだろう

ね マスター
ギネスの樽って
どこに行けば買えるかな
樽?
うーん
本場に行けば
買えるかもよ
成田から
ロンドンまで直通で
約13時間
その間ずっと
酔ったままでいられるなら

相応の 理由がある
ロケットが黒くないのも
ギネスが瓶で出てくるのも
半袖一枚じゃ
表はまだうす寒いのも
13時間もしたら酔いは醒めて
僕は背広を着ているだろう
ロイドの角を
カウンターにぶつけるのは
次の次の週末くらいに
なると思う


クアウテモク

  宮下倉庫



マルセロはふり返らない
白熱灯を封じ込めた
日輪
土くれが小さくめくれ
蒸発していく路上
扉をあけ放した
なめらかな白壁の家
サッカーボールのように
転がるマルセロの


アステカのスタジアムで
石板を掲げた預言者は
地球儀を奪い合うインディオたちの中で
最も高く飛んだ者に
イヴァンの名を与えると宣言した
削り取られていく版図
白く輝く 南アメリカの
太平洋を臨む場所
海岸線に定規をあてる
金色の和毛(にこげ)を蓄えた手が
ここからも見える

雪崩れのような歓声が轟いている
偏西風の吹きぬけていく方角で
あけ放たれた扉の向こうに
髑髏を象った砂糖菓子が飾られている
私は跪き
裸足の足跡にくちづける
顔を上げれば
くり貫かれた両目に
蛇を踊らせる
黒髪の少女が
なにかを 胸に抱きしめながら
歩き去っていく


Seashore

  宮下倉庫

 
 

 
濃紺のシーツは床まで垂れ下がり、Seashoreは春だと誰もが知る。巻き煙草のゆらめき
の中、ジーンズの裾をひきずりながらいくおまえは/風紋だった/呼鈴が鳴る。玄関で
手紙を受けとる。ひらかずにそれを壁のコルクボードに、画鋲で留める。ペーパーナイ
フを机の引出からとりだし、濃紺のシーツに、ほとんど平行にあてる。滑らせていく。




どんな部屋にも
ひとりくらい幽霊がいるものよ
そうだな
だからこの砂浜には
足跡ひとつつけられない
おまえは
俺の右手から吸いかけの煙草を
抜きとり
灰を 落としてはいけないの
そう言って
空に投げる
灰が 北に流れていく
ジーンズの裾が
波に洗われている
俺はここが
春だと知る




息を、失くしている。足跡を、波が浚う。ひらかれていく、とじられていたあらゆるも
の。しゅるると切り裂けていく濃紺の海は、冬のほつれのようで、おまえの糸切り歯の
ように、優しい。ひらかれた南向きの窓から、風がふきこんでくる。吸いかけの煙草が、
机の上の灰皿で今、燃え尽きる。画鋲で留められた手紙の封がひらいて、砂がこぼれ落
ちている。風はシーツを撫で、風紋を形作る。そして部屋には誰もいない。
 
 
 
 


冷やし中華終わりました。

  宮下倉庫



駅へとつづく郊外の、幾何学状にひび割れた道を歩くと、送りだす足と、送り
だされる足が、誤りのない証明のように、ただ駅へと向かっているのが分かる。
あの角を折れれば、梅雨の明けきらない頃から 冷やし中華はじめました と
幟を掲げていた中華料理屋がある。道の両脇に立ち並ぶ住宅からは洗剤の、ま
たは木を切る匂いが、する。そしてぼくはもう汗をかいている。後ろでクラク
ションが鳴り、軽自動車が、減速しながら、ぼくを追い越してゆき、角を折れ
る。振り返ると、いま来た道はやはり幾何学状に、ひび割れ、恐らく道路工事
の男たちは、電話線や下水管といった埋没施設にはぬかりなく注意を払うだろ
うし、道の舗装方法について、このあたりのごとき計画外の郊外では、簡便で
安価、かつ機能性に富むこと以外に、優先されるべきことはないだろう。道は
中心に向かって緩やかに隆起している。ぼくは軽自動車に少し遅れて角を折れ
る。陽射しはまだ夏の角度へと達することができるようだが、幟は既に取り払
われている。この無言からどのような解を導きだせるか、と考えたことは一度
もない。中華料理屋の引き戸のガラス越しに、泥のついた安全靴が見える。彼
らが何を食べているのかは、見えない。

文学極道

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