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宮下倉庫

選出作品 (投稿日時順 / 全21作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


スカンジナビア

  宮下倉庫


オーロラをめぐるスカンジナビアの旅。学生の冬休みや、社会人の年
末休みの時期を避けて、と思っていた。だからこのタイミングで、北
欧の氷河に日本人の、おばさんの一団が大挙しておしかけていたのは
まったくの誤算だった。彼女達の姿形はまちまちなのに、みな一様に
フラフープを持参している。

今の会社に勤めはじめて丸5年になる。そして今3回目の休職期間を
過ごしている。ポンプのモーター音、水草と砂。青白く輝く水を湛え
た水槽が、窓のない4畳半ほどの小部屋を淡く染めている。机の上に
はボールペンとわずかの紙片。人事の黒田さんはやんわりと退職を促
している。壁の向こうの毛羽立った空を思う。両手で掬うと水は思い
のほか冷たい。部屋の壁では熱帯魚のグラフィティが回遊をつづけて
いる。

旗を持った添乗員と思しき男性にたずねる。これはいったいどういう
ツアーなんですか。男性は答える。「オーロラの下でロマンティック
痩身ツアー」なんですよ、と。オーロラを見上げながらフラフープ、
感動ついでに気になる腰周りの肉をシェイプアップ、そういうことら
しい。まったくいかれた話だ。

出張とか外回りとか、そういう役回りがなるべく少ない仕事がいいと
思っていた。ところが辛うじて滑り込んだ今の会社で待っていたのは
正反対の仕事だった。毎日のようにあちこち飛び回って汗水を垂らさ
なければならないうえ、たまに会社に戻れば、山のような書類の処理
と、こと細かな報告書の提出を求められた。いろいろな場所に行けて
いいじゃないかと言う人もいたが、ぼくはいろいろな場所に行きたい
なんて微塵も考えたことがない。

SUUNTOの腕時計が21時を告げる。やがて空にぼんわりと幽霊のように
現れ、うねり、形を変えるものがある。オーロラだ。寒さを忘れ、ぼ
くはそれを注視する。その動きは次第に大きく、強くなっていく。す
るとおばさんの一団も、ここぞとばかり一斉に太い腰をうねらせ、フ
ラフープを回しはじめる。歓声とも嬌声ともつかない声がスカンジナ
ビアの氷河に響く。オーロラはあられもない奇態を現しはじめる。

やがて体のあちこちに変調をきたした。心因性の抑うつが原因だろう
と言われた。ところが社長は精神論の信奉者で、上司はぼくを厄介者
とみなしている。内勤を希望したがそれも叶わず、2回・3回と休職
を繰り返し、結局今こうしてぼくはスカンジナビアにいる。オーロラ
を見る、ただそれだけのために。日本に戻ったら、退職願いの書き方
を調べてみるつもりだ。

真っ白い息を吐き出しながら、首が痛くなるくらい空を見上げつづけ
ている。オーロラのフラフープが止まらない。おばさん達から流れ出
た汗は奔流となり、雪解けよろしく氷河を溶かしていく。ぼくは足元
が崩れていくのを感じている。いつのまにかぼくは一団の先頭で旗を
振っている。こんなに旗を振って、ぼくはこの一団をどこに導くつも
りなんだろう。

もう潮時だろうと思う。不要な汗を出し尽くし、おばさん達の腰はく
びれにくびれ、みな砂時計になって佇んでいる。ひとり、またひとり
と、持ち時間を使い果たしていく。やっと静かになったスカンジナビ
アに、さらさらと音をたてながら、砂が時を刻んでいく。そして最後
のひとりが砂を落とし尽くした瞬間、足元が音もなく氷解する。遠ざ
かっていく空に光の輪が見える。氷河の下では輝く魚達の群れが回遊
している。青白く、ただ青白く染めて。小部屋のドアを開けて黒田さ
んは、誰もいないことを確かめてから施錠する。


放牧

  宮下倉庫


ジュリア・ロバーツの唇は
ガムテープで塞いでやりたい

アンジェリーナ、という語感のよさに
絆されたわけでもないが
その唇には倒錯を塞いでしまう
質量、が

思惑だけはそのままに
牛、に火を、その質量ごと
灰に、それは
絆されるためだったかのよう


moo


抗議します、断固
お願いしますほんとうに
ところであなた誰ですか?
毎日窓口が変わるので
不便でしかたがありません
リピートします
抗議します、断固
お願いしますほんとうに
ところであなたこそ誰ですか?


moo


また押し切るんだろうねと
牛たちが黙々と草を食む
“テキサス・”と修飾される
レンジャーズ/カウボーイ/プレジデント
OKこのBULLSHITども
おまえらの気持ちはよーく分かった
牛は一旦俺んとこで面倒みよう
ところで知ってるか
リーバイスは今やMADE IN CHINAだ
道理で平和(ピース)フルな履き心地だろ?
とはいえ俺の名を気安く
ファーストネームで呼ぶんじゃない
定点観測は四六時中続けられてるのさ
シンディのことはもういい
物騒なことはそっとしておけ
俺は牛を尊重している
新しいヒンドゥーみたいに
亜大陸を侵食する日は間近だ
人間については
まあ後回しになるだろうな

俺の鼻はいつでも
濡れているんだぜ


moo


パシフィック・コーストは
今日も快晴です
以上CIAがお伝えしました



(アンジェリーナ
(俺んとこの牛はアンジェリーナ
(豊満な牛だぜアンジェリーナ
(ブラッド・ピットのやつは
(エドウィンなんか履いてないぜ


ホントニ、ゴメンナサイ


抗議しましたわ
ええ、もちろん、断固として
止めてやりましたわ
水際でがっちり
でもそろそろ潮時かなって
あたしの無念を
同郷のあの方は
晴らしてくれるかしら


moo


パシフィック・コーストは
今日も引き続き快晴です
喫水線からCIAがお伝えしました



(アンジェリーナ
(テキサス米にキスしてくれよ
(ジャパンの食卓に星条旗
(君達のファーストネームは
(舌を噛むから発音しないことにしてるのさ


moo


小山のような生物が群れ
蠢く山脈になり
黒々とした隆起のあちら側から
新しい親書が届けられる


 親愛なる君達へ

“一件はいつでも、しかも最初から
 落着しています。ガムテープで口
 を塞いで、羊みたいな君達を、私
 は心から敬愛しているよ”


Million miles away

  宮下倉庫


水で満たされたタンクを抱え少年は走る。道の両脇に立ち並ぶ小屋からひとすじ、またひ
とすじ、炊煙が立ち昇りはじめる。雑音交じりのテレビはイングランド訛りの英語を喋っ
ている。蒸し暑い小屋の中で男達は遥か北の、かつての宗主国の首都から届けられるフッ
トボール中継に見入っている。

ハイバリーのスタンドでは、白人の少年が頬にホームチームの赤いフラッグをペイントし
ている。敵ゴール前にぬっと立つ、長身でやや細身、背番号4番の黒人FW。彼はロンド
ンの空模様に慣れない。薄寒いし、雨ばかりだ。それに背中がやけに重い。ボールが自陣
にある間くらい、ハイドパークを散歩するような気持ちでいなければ、こんなところには
いられない。

風が吹いても、ここではシャツが、男達の背中にはりついたままだ。少し離れた幹線道路
は今夕もひどく渋滞している。苛立つタクシーのバックミラーで揺れる、“4”を象った
白地の、緑で縁取られたキーホルダー。FWはときに厄介な荷を背負いこまなければなら
ない。炊煙がラゴス島の方に棚引いていく。

ゴールを決めるたび、故郷が遠ざかっていくような、そんな気がしている、もう何年も。
それでもこの島で点を取らなければならない。数本のロングパスがイングランドの曇天を
渡る。空を見ているのはボールが落ちてくるからじゃない。ヘディングは得意じゃないし
、ボールはいつだって、彼の足元に吸い寄せられる。厚い雲の向こうはきっと夕焼けだろ
う。ママのキャッサバが茹で上がる頃だ。

アルー アルー アナウンサーがひときわ訛りの強い英語で叫ぶ。赤に染まったバックス
タンドがうねる。ボリュームが増して、テレビの雑音がひどくなる。男達が一斉に息を飲
む。4番の足元で、時間が伸びて、縮む。

アルー 小屋の入り口に立ち尽くして、少年は小さく呟く。足元で倒れたタンクから水が
流れ出し、少しずつ、踏み固められた大地の色を変えていく。けたたましいクラクション
が聞こえてくる。沸騰する鍋からキャッサバが引き上げられる。少年の背中に、色あせた
4番がはりついている。


しろひげ

  宮下倉庫


安心してほしい。おまえの成長を顕微鏡越しに見ている。おまえは
毎日数ミクロンずつ成長して、やがて俺の中を駆ける極小の兵隊に
なり、最後は革命に殉じるのだろう。たまったものじゃない。

牛乳が未だに届けられる。新聞屋にもリフォーム屋にも宗教屋にも
断りの電話を入れたが、牛乳屋にだけはなぜか連絡がつかず、こう
して今朝も牛乳瓶が2本届けられる。死んだはずの母が奥の部屋か
ら現れ、牛乳は毎日飲みなさいじゃなければ大きくなれないわよと
、いつも牛乳瓶を傾けながら話すものだから母の口からはだらだら
と牛乳が零れて顎を伝い、まるでしろいひげを蓄えたかっこいいお
じいちゃんみたいだ。ところでおじいちゃんは奥の部屋でくろこげ
になっている。そして1本目の牛乳は一滴も俺の口に入ることなく
しろい水溜りになり、牛乳瓶の中には干からびたへその緒が残され
ている。父の顔を俺は知らない。

顕微鏡を欲しいと思ったことは一度もないのに、プレパラートの上
の俺は超一流だった。であるからして、眼医者に行っても歯医者に
行っても俺は標本扱いなのだ。そして俺がシナプスの極小の間隙を
抜ける度、奴らは地団駄踏んで悔しがったものだ。しみだらけの尿
道のような路地を駆けて家に戻る。すると母は2本目の牛乳をだら
だらと零し続けていて、しろい水溜りは始原の海の風景を現しつつ
ある。俺はほんの数ミクロンの成長のために膝を壊し続けている。
誰か父の背中越しの風景を俺に教えてやってほしい。

禁忌は奥の部屋で犯される。俺の体臭は女のそれだ。顕微鏡で仔細
に眺めると、海岸線は向こうの岸壁でとぎれ、岸壁は幾星霜をかけ
て穏やかな波に洗われ続け、女の腰から肩にかけてのごときカーブ
を描いている。それで欲情すると、奥の部屋からおじいちゃんが現
れてはシングルなスタンダードで俺を殴りつけ、その度に俺はあか
いひげを蓄えて革命を誓うのだった。安心してほしい。もう始まっ
ている。


African Space Craft

  宮下倉庫


5時。影と影のからまりに鋭角に切れ込む指の先の厚くしなった爪から始めら
れる背割りの朝。

鶏卵の白身のぬくみ。暗闇を探し路上をうろつき歩くジャッカル。土壁の小屋
の暗がりで眼をぎらつかせながら、切り裂かれていくからまりから零れ落ちる
卵黄を汚れた掌に受ける、黒い肌の男たち。

駆け出す。極彩色の荷駄を満載したトラック。そのひとつひとつから漂う甘い
香り。ギネスの空瓶を路上に投げ捨て、煙草に火を点ける運転手。サイドミラ
ーに映り込んだ背割りの痕。ギアを上げる。半開きの窓から煙が流れていく。
規則正しい回転運動の後、瓶は音もなく軟着陸する。転げ落ちた荷駄のひとつ
は硬い土の地面に叩きつけられ、露わになったその果肉の内にあめ色の真珠を
輝かせている。

旧市街の中心で古びている時計台。太腿のような長針がジャック・ブーツで文
字盤を踏みしめている。簡素なスタンドで朝刊が購われていく。鐘の音さえ途
絶えてなくなる方に、伏目がちに白い通勤者たちは向かっている。メトロの放
熱が朝の輪郭を撫ぜる。太腿と鈍角を成す短針に、昨晩の号外が突き刺さって
いる。

キザイア。その名は北からの/南からの。エボニーの2弦ギター。黄色い大地
を眼下に臨みながら着陸体勢に入るジェット機。辻ごとに立つ、逆さの錨のよ
うな体躯の警官たちが、轟音のする方に顔を向ける。今朝、白い建物の前では
誰も唾を吐かない。建物を囲う鉄柵の前、ティアドロップ・サングラスの奥か
ら辺りを睥睨する警官がガムを噛み締める。朝刊の1面にはKeziahの文字が踊
り、通りを舐る熱は束になり流れ出そうとしている。

ほつれ。からまり。繰り返す。厚くしなった爪が弦を叩くと卵黄が焼け焦げる。
ベースラインを肩にかけた法衣の男が、白い建物の前で誰かの到着を待ってい
る。弾圧の夜の後、焼けつくような静けさの中で、噛み潰されたマンゴー・フ
レイバーの酸味が広大な街の隅々にまで行き渡っている。

ひらけていく街の極彩色の中を古いイギリス車が滑っていく。革張りのギター
ケース。3人編成のバンド。後部座席に痩身の男。見送る少年のひとりが、轍
に散りばめられたあめ色の真珠をつまみあげ、傾き始めた太陽にかざし、汗染
みの浮いた警官の背めがけ投げつける。

路上では全てが空冷だ。石造りの歩道に、未だ結露を始めず、飛び立つための
熱を呼ぶ黒い宇宙船が冷ややかに佇立している。後部座席に深々と身を沈める
男。その右手の人差し指に走る傷口は、昨夜からの規制が解けきらない渋滞の
幹線道路―――



   覚束ない足取りで道路を横断する若い男が黒いドラムの音圧に弾き
   飛ばされアスファルトに叩きつけられる音もなく現れた四つ肢の獣
   が既に果実となった男をくわえこちらを一瞥して走り去る赤く脈打
   つベニン湾の上の空で静かに息絶えていく背割りの朝は



ヨルバ。アングロ・サクソン。ラゴスからロンドン。ロンドンからラゴス。黒
い眼になって、男たちは偏在を(または散在を)始める。黒いボディに張りつ
めた2本の弦が束になって流れてくる熱に舐られ、歪む。暗がりから囁くよう
な会話が聞こえてくる。法衣の男がひとつも違えずに弾く4弦。E すぐにG。
すると急に渋滞が解け、ドラムが幹線道路を踏み鳴らしながら駆け出す。


African Space Craft


今ゆっくりと縫い合わされるようにとじていく夜のほつれの中に、通勤者たち
が帰ってくる。誰一人昨夜のことを口にしないまま、頭上に冷たい射精のよう
な軌道を描きながら加速していく宇宙船を、見送っている。土壁にひとつだけ
設えられた窓から流れ込んでくる雨の匂い。そして5時を告げる鐘。


  宮下倉庫



それは妻がメレンゲを作るために、ボールに落とした卵5個分の卵白をホイッパ
ーでかき混ぜている時のことだった。5重苦よ、結婚してから、わたし、これで
もう5つめなのよ。そう言うと妻はホイッパーを卵白の表面に対し鈍角に投げ込
む。僕はどこかからの大事な電話に出ていたのだが、彼女が卵の数の話をしてい
るのではないことを悟り、受話器を置いていそいそと5歳の娘を幼稚園まで迎え
にいく準備を始める。あなた、お母さん方の眼があるのだから、赤い口紅くらい
さしていってね。それはもっともだと僕は、洗面所で赤い口紅を再現不能な気分
で一直線に2本塗りたくって×を作り、キャップも閉めずにぽいと投げ出し、黒
くて真四角の家を出る。そういえば娘を迎えに行くのは今日が初めてだった。そ
んなことを考えていたせいだろう。最初の角を折れたところで、猛スピードで突
っ込んできた車に僕は吹っ飛ばされ


しょーもない しょーもない と娘はがらんどうの室内で唱えている。いつも、
あんな感じですか、娘は。ええ、いつも、あんな感じですよ、娘さんは。僕と保
母の会話を尻目に、娘は室内の中心で砂遊びを始める。娘よなにがしょーもない
んだいと聞くよりも早く、娘は砂を襟元まで積み上げては崩す、そんなことを5
回繰り返した。最近は、これが流行ってるの、そう言うと娘は再び襟元まで砂を
積み上げ、再現不能な気分で崩す。5回繰り返す。そうこうしていると、園長だ
というおっさんに話があるからと奥の部屋に呼ばれ、保母に娘のことを託し、僕
は奥の部屋に移動する。園長の話はこうだ。うちではもう娘さんをお預かりでき
ませんな。どういう意味ですと問うと、園長は眉ひとつ動かさずに、まあ煙草で
もいかがですと、長いやつを箱ごと眼前に突き出す。それじゃと手を伸ばすと、
実は当幼稚園は全面禁煙でしてな、そういって長いやつを短くして懐にしまって
しまう。それでまたどういう意味ですと問うと、園長は眉ひとつ動かさずに、ま
あ煙草でもいかがですと、長いやつを箱ごと眼前に突き出す。それじゃと手を伸
ばすと、実は当幼稚園は全面禁煙でしてな、そういって長いやつを短くして懐に
しまってしまう。それでまたどういう意味ですと


今や保母の姿は見当たらず、娘はたくさんの園児と、砂を床一面に敷きつめてい
る。全面に敷き終えると園児達は、今はこういうのが流行っているからと、砂の
上を裸足で歩き始める。その程度のもののために僕たちは生きたり死んだりして
いるらしく、まだ起きていないもののことを、僕は知らない。水のように自由に
歩き回る園児達が一歩踏み出す度、きゅうと砂が鳴く。5歩踏み出せばきゅうき
ゅうきゅうきゅうきゅうと鳴く。僕も歩いてみようとするが、おじさんみたいな
人は、まずは襟元まで積み上げてからと園児達に窘められてしまう。彼らよりも
ずっと背の高い僕は、何度試みても砂を襟元まで積み上げられない。すると唐突
にお母さん方の眼を感じて僕は、口紅を塗り直さなければならないことに思い当
たる。しかし家の灰皿に溜まった吸殻には、すべて赤い口紅の跡が残されている
ことさえ僕は知らない!


妻の苦しみのふたつかみっつは、僕や娘のせいなのだろう。しょーもない、とは
そういえば妻の口癖だ。僕については、いえ、しょーもない主人ですが。僕の仕
事については、いえ、しょーもない仕事をしてまして。僕らの黒くて真四角の家
については、いえ、まったくしょーもない家でして。それはもはや僕たちの生活
に不可欠の冠詞のようですらある。娘の手を引き幼稚園の門を抜けて振り返ると
、室内では園長だというおっさんが僕みたいなやつと、再現不能な気分でやりと
りを繰り返しているのが見える。ああ、僕は永遠に痕跡として刻みつけられてし
まったのだなあ。そうひとりごつと、私たちの生きる理由なんてその程度のもの
なのよと娘に窘められる。この子はよく知っている。手をつないだ家路の途中、
曲がり角にさしかかる度、赤い口紅をさした人が車に吹っ飛ばされる光景を目の
当たりにする。そういえば僕も車に吹っ飛ばされたのだけど、それもやはり、再
現不能な痕跡なのだ。ひとつ前の角では、妻みたいな人が吹っ飛んでいた。とな
ると次の角では


既にして妻は家にいなくなり、メレンゲは恐ろしく泡で、机の上の灰皿には口紅
の跡がついた吸殻が山積みになっていて、洗面所では口紅が床に転がり、しかも
再現不能な気分で一直線が2本塗りたくられていて、それらは落下する黒い立方
体の中で、落下する黒い立方体よりも少し速い速度で速やかに落下を始めようと
している。それは私たちのせいなの、と娘は本当によく知っている。僕は電話の
前で待っている。どこからか分からないが、どこかから大事な電話が掛かってく
るはずだ。恐ろしく泡や、吸殻や、一直線の口紅や、娘に、順番に×がつけられ
ていく。いよいよ僕たちは真っ四角に落下を始めたらしい。すると電話が鳴り、
受話器の向こうの僕の痕跡は、僕や妻が車に吹っ飛ばされたことをゆっくりと告
げる。そんなことを5回繰り返す。そして静かに受話器を置くといよいよ僕にも
×が


僕らは樽を抱いて眠れ

  宮下倉庫



ギネス
そう告げると
瓶のまま出てくる
樽じゃなくてよかった
そう思う

左手をのばすと
ロイドの角がカウンターに触れ
カツン と
小さな音をたてる
半袖が
香る季節を僕は
嫌いじゃない

そういえば
部屋の蛍光灯が一本
切れかかっていた
白熱灯はもとより
蛍光灯だって熱くなる
唐突に思い出すのは
熱っ
そう呟いて
手を引っこめた
きみの細い指先の
やけど

黒い
ロケットがあったら
格好いいと思うね
ギネスの瓶みたいな?
そう 今にも
飛び立ちそうなくらい
冷えてる感じがさ
僕は人差し指の先を
淡く結露しはじめた瓶に
おしつける
蛍光灯くらい自分で
換えるべきだったのだろう

ね マスター
ギネスの樽って
どこに行けば買えるかな
樽?
うーん
本場に行けば
買えるかもよ
成田から
ロンドンまで直通で
約13時間
その間ずっと
酔ったままでいられるなら

相応の 理由がある
ロケットが黒くないのも
ギネスが瓶で出てくるのも
半袖一枚じゃ
表はまだうす寒いのも
13時間もしたら酔いは醒めて
僕は背広を着ているだろう
ロイドの角を
カウンターにぶつけるのは
次の次の週末くらいに
なると思う


クアウテモク

  宮下倉庫



マルセロはふり返らない
白熱灯を封じ込めた
日輪
土くれが小さくめくれ
蒸発していく路上
扉をあけ放した
なめらかな白壁の家
サッカーボールのように
転がるマルセロの


アステカのスタジアムで
石板を掲げた預言者は
地球儀を奪い合うインディオたちの中で
最も高く飛んだ者に
イヴァンの名を与えると宣言した
削り取られていく版図
白く輝く 南アメリカの
太平洋を臨む場所
海岸線に定規をあてる
金色の和毛(にこげ)を蓄えた手が
ここからも見える

雪崩れのような歓声が轟いている
偏西風の吹きぬけていく方角で
あけ放たれた扉の向こうに
髑髏を象った砂糖菓子が飾られている
私は跪き
裸足の足跡にくちづける
顔を上げれば
くり貫かれた両目に
蛇を踊らせる
黒髪の少女が
なにかを 胸に抱きしめながら
歩き去っていく


Seashore

  宮下倉庫

 
 

 
濃紺のシーツは床まで垂れ下がり、Seashoreは春だと誰もが知る。巻き煙草のゆらめき
の中、ジーンズの裾をひきずりながらいくおまえは/風紋だった/呼鈴が鳴る。玄関で
手紙を受けとる。ひらかずにそれを壁のコルクボードに、画鋲で留める。ペーパーナイ
フを机の引出からとりだし、濃紺のシーツに、ほとんど平行にあてる。滑らせていく。




どんな部屋にも
ひとりくらい幽霊がいるものよ
そうだな
だからこの砂浜には
足跡ひとつつけられない
おまえは
俺の右手から吸いかけの煙草を
抜きとり
灰を 落としてはいけないの
そう言って
空に投げる
灰が 北に流れていく
ジーンズの裾が
波に洗われている
俺はここが
春だと知る




息を、失くしている。足跡を、波が浚う。ひらかれていく、とじられていたあらゆるも
の。しゅるると切り裂けていく濃紺の海は、冬のほつれのようで、おまえの糸切り歯の
ように、優しい。ひらかれた南向きの窓から、風がふきこんでくる。吸いかけの煙草が、
机の上の灰皿で今、燃え尽きる。画鋲で留められた手紙の封がひらいて、砂がこぼれ落
ちている。風はシーツを撫で、風紋を形作る。そして部屋には誰もいない。
 
 
 
 


冷やし中華終わりました。

  宮下倉庫



駅へとつづく郊外の、幾何学状にひび割れた道を歩くと、送りだす足と、送り
だされる足が、誤りのない証明のように、ただ駅へと向かっているのが分かる。
あの角を折れれば、梅雨の明けきらない頃から 冷やし中華はじめました と
幟を掲げていた中華料理屋がある。道の両脇に立ち並ぶ住宅からは洗剤の、ま
たは木を切る匂いが、する。そしてぼくはもう汗をかいている。後ろでクラク
ションが鳴り、軽自動車が、減速しながら、ぼくを追い越してゆき、角を折れ
る。振り返ると、いま来た道はやはり幾何学状に、ひび割れ、恐らく道路工事
の男たちは、電話線や下水管といった埋没施設にはぬかりなく注意を払うだろ
うし、道の舗装方法について、このあたりのごとき計画外の郊外では、簡便で
安価、かつ機能性に富むこと以外に、優先されるべきことはないだろう。道は
中心に向かって緩やかに隆起している。ぼくは軽自動車に少し遅れて角を折れ
る。陽射しはまだ夏の角度へと達することができるようだが、幟は既に取り払
われている。この無言からどのような解を導きだせるか、と考えたことは一度
もない。中華料理屋の引き戸のガラス越しに、泥のついた安全靴が見える。彼
らが何を食べているのかは、見えない。


central St

  宮下倉庫


細い路地に降り積もった雪を踏みしめる音さえ、私の耳には届かない。
路地の両端に立ち並ぶ建物は、古くさいバロック風で、薄闇から沸き立
つように現れ、どれも無人に見えるが、その窓窓から漏れる光のおかげ
で、かろうじて自分が新雪を踏みしめていることが分かる。私はもう随
分長い時間歩いている気がする。今ここでは、食器同士のぶつかる音や
スープの匂いは、雪の層に吸いとられ、なんの用も為さず、ただ視覚だ
けが、鋭くなっていくようだ。私の後に続くかもしれない誰かは、窓窓
から漏れる弱弱しい光の下に、私の残した足跡を認めるだろうか。そし
て、こんな荒天の夜に、このような細い路地を抜けていったのはどんな
人間だったかと、想像しさえするだろうか。私は立ち止まる。少し前方、
ちょうど額のあたりの高さに、建物の壁から突き出すように設えられた
(つまり不自然に低い位置にあると言っていいだろう)鉄製の看板は、
深く錆に蝕まれており、経年の長さを雄弁に物語っている。あるいはそ
う見えるだけなのかもしれない。歩みを進めると、看板の真下に、鈍い
光に照らし出され、徐々に足跡が浮かび上がってくる。まるで上空から
垂直に降り立ち、そのまま融けていなくなったかのような、誰かの足跡
が。私は額をぶつけないよう腰を屈め、足元に注意を払いながら、それ
を跨ぎ、すると、不意に路地と直角に交わる大きな通りにぶつかる。滲
んだ光環が等間隔に並び、向こうには茫漠とした闇が広がっている。こ
れが目指していた通りであるとしたら、この国の元首であった人間のフ
ァーストネームをその名に冠しているはずだが、絶え間なく降りだした
雪が、通行者たちに通りの名を告げる標識の所在も、大きな建築物の所
在も、全く不明にしている。しかし、これも、あるいは、私も、そう見
えるだけなのだろうか。


サイクル祖母

  宮下倉庫


墓は遠い
それは栃木のへその辺りにあり
そこには誰もいない
現在地のような顔つきで
祖母は循環を続けている
あ 地震
昂ぶれば昂ぶるほど
地震嫌いの妻のもとに
駆けつけなければならない
なにぶん墓は遠く
生きている者は傲慢だ


暑い日だった
木立の階段を登りながら
前後左右でみな押し黙っている
やがて蝉の声ばかりになり
今墓を目の前にして立つ
向こうで石工は新しい名を刻んでいる
ここには誰もいない
そこかしこに散在している
こめかみをちょっと押してみる
まったく暑い日だった
石工も汗びっしょりになり
やがて冷たい水となって流れていく
お参りの最中に地震あった?
どうだろう
揺れていたのは
僕たちだったのかもしれない
東京では微弱な震度が観測され続けている


呼び名について考えている
堆積する祖母の傍らで 孫は浚われていく
血の名付けというのはあやふやで
黴臭い幻想なのかもしれない
この部屋は祖母の部屋だった
今は子孫たちに埋め尽くされ
焼けて黄ばんだ畳の上には
半分だけの煎餅
少し湿気たそれを齧る
見送られるのは好きじゃなかった
なにひとつ引き受けずに南下を開始すると
誰かが新しい名で僕を呼ぶ
 


あたしたちの循環

  宮下倉庫



循環
って名前の
バスに揺られてるとあたし
血液みたいね
最後部の座席に座って
そんなこと考えてる

ねえ
向こうで震えてるの
あれって地平線?
いや あれは鼓膜が
感受しているのさ
じゃああたしたちの
耳の奥で震えている
これは
なんなの?
さあ
案外 ぼくたちそのもの
かもしれないね

前の方に並んで座ってる
あたしみたいなコと
頭の悪そうな男の
ねぶたい会話が聞こえてくるから
あたしは窓の外を眺めることにする
薄くオレンジ色がかった風景の中
手の届きそうなとこに建つ
まったんのしせつが鉄くずとか
やっつけてる

地平線のそばでは
キリコの描いたマネキンが
じょうろで水をまいてる
なにを植えたのか分からないけど
風景にとても溶け込んでる
そんな気がする
こっちを見ているのかしら
それも分からないけど
こっちに向かって 今
手を突き上げたみたい
そして地平線の向こうがわに
マネキンは歩き去っていったわ

なんで
あたしこいつと
こんなねぶたい会話してるんだろ
もうこんなんだったらどこか適当な
ど郊外にでも
誰かあたしを埋めて
水をあげてくれないかしら
地平線が見えなければなおいい

窓の外を見ていたはずが
いつのまにか
そんなこと考えてて
あちらを見ているあたしみたいなコは
こちらを見ているあたしみたいなコで
あたしの隣では頭の悪そうな男が
感受してる
でも 案外それが
あたしたちそのもの
かもしれないとか
思ったりしない?

ど郊外のバス停であたしは降りる
入れ代わりにあたしみたいなコと
頭の悪そうな男がバスに乗り込んで
いちばんうしろの席に座るのが見える
あたし 手をぐっと握って
遠ざかるバスに向かって突き上げる
なぜって
他にふさわしいみおくり方を
思いつかないから

握りしめた手がちくりと痛む
ひろげて見るとそれは
溶けて ねじ切れて
冷えて固まったみたいな
鉄くず
マネキンみたいにのっぺらぼうな
手のひらから血液が流れ落ちたわ
なんだかあたしたちって
循環しつづけてるみたいね
それで
地平線の向こうがわに
スキップして あたし
帰る
 


星が落っこちて

  裏っかえし


あたしの苔桃は
ぺちゃんこだから
いくらでも
飲み込むことができる
もっと もっと
そんな嘘を 呼吸みたいに
散々ついて歩く夜の家路は
たいてい両耳にイヤホンを
突っ込んでる連中とすれ違うから
なにを聴いているんです
そう尋ねてみるけど
案の定 答えは返ってこないから
あたしは誰にも星を貰えないのだと
心底理解できる
歩きたばこは嫌い
自分でやるのが好きだから
ホイールをバカみたいに回して
救急車があたしを背後から
ふっ飛ばして あたしが
曲がるつもりだった角を先に曲がる
それから 何台もの救急車が
あたしのうえをいったりきたり
いよいよあたしはぺちゃんこにされて
そのくせ苔桃だけは
星に向けて吹きかけるつもりだった
たばこの煙を飲み込んで
猛烈に熟れていく
落っこちてきて
落っこちてきて
両手を組みあわせて
そう 祈れたら
適当なところで
あたしは立ちあがって
あの角を曲がれるはず
なのに


おこのみで

  裏っかえし


ゆりかごは無人で、白い錠剤に埋めつくされてる。あたしは肺を病んで、背中は苔むして
る。そこをロバが通ることもある。すると、シャッターチャンスだって、連中はいっせい
にカメラを構えるから、あたしは満面の笑顔、林檎みたいなピースサインを送る。ドラッ
グストアは眩しくてとてもきれい。夏休みの3分の2を費やしてもいいって思うくらい。
だってここでこそあたしたちのけんぜんなたましいは育まれるんだから。部屋のすみっこ
でドラッグストアの紙袋をひっくりかえす。とっさに数が知れるほどの錠剤と、さんまの
蒲焼の缶詰がころがり落ちる。ねえ、知ってる。ロバって場所によっては「性的放縦」っ
て意味になるんだって。それって、ドラッグストアには売ってないよね。あそこで売って
るものじゃないと、もう追いつける気がしないし、だいいちあたしらって何を追ってるの
かよく分かんないし。あたしは、それでもいいと思ってる。肺病みの身には、この部屋の
空気は澄みすぎてるし、そうじゃなければ、残りの3分の1でやっていける気がしないし。
苔むしたあたしの背中を、さっきのロバが尻をふりながら歩いてく。連中ったら、オペ用
の極薄てぶくろを頭にかぶって、象徴的に踊りはじめてる。あたしったら、さんまの蒲焼
の缶詰を、ひどく乱暴にしたい気持ちになる。だから、まず、ゆりかごで眠りたい。もち
ろん錠剤はどけるし、夏休みの終わりには連中を、一粒残らず、やっつけるつもりでいる。


秋楡

  裏っかえし


白熱灯に垂直に交わる蟻の葬列が、足元を昏くする八月の終わりに、ようやく背中の
汗はひいて、アコースティックの空洞には、寒色の香気が満ちてくる。午後から雨。
二階の机の上のラジオは、今日の天気の寸評を述べると、少し押し黙ってから、四十
年前に死んだエリック・ドルフィーのMiss.Annを、甘食代わりに僕にすすめる。ラジ
オの隣でコーヒーの紙袋が、微かに音をたてる。風が吹きはじめたらしい。僕はガラ
スの密閉容器を探しに、階下へと下りていく。庭の秋楡の互生した葉。その鋸歯が切
り取る稜線は、曇天の低さを、葬列と平行に走る坂道を上り下りする人たちに告げて
いるかのようだ。昏い、足元で、蟻たちは次々と燃え尽きていく。棺のない葬送に終
わりはなく、密閉容器のガラスは、真昼の湿気を冷えた体に抱き寄せている。昨日よ
りもずっと前から、空に太陽はなく、机の真上で白熱灯は灯り、ラジオの影はそれ自
体で充溢している。やがてMiss.Annは終わるだろう。ソロも、即興も、葬送も、秋楡
の葉擦れの音に包まれて消える。半袖の腕に少しだけ肌さむさを覚えながら、そのよ
うな二階に僕は、ガラスの容器を携えて、戻ってくる。


マザー

  宮下倉庫



まばらに
するとよくみえる
僕たちは引越をした
線と線の重なりを逃れ
点描で溢れる
モザイクの町に


階段や坂道を
登ってばかりいた
たとえではなく
公団の五階で育ち
学校はいつも丘の上にあった
西向きの部屋に
角度のない陽が射し
よこたわる母は薄目をひらく
鉄錆色に染まる
手のひら
まばらだった記憶も、今は
新しい住宅地のように整備され
密集し
貧しく充足している


たどっていく
古い軒先や踏切
重層のマンションが混在する町
下りた遮断機に
指折って
数えられるものを数え
白い私鉄がひとつか
ふたつ程度ゆきすぎ
そのたびに
また一から数えなおし
数えていたものを忘れる


若い母親が
線路沿いの道に
ひさしのある
ベビーカーを押していく
赤ん坊は寝いっているのだろう
僕は娘と手をつないで
名づける、という行為の
傲慢さについて
答えられないでいる

「肝臓が、ね
 もうだめなんだって
 でも落ちこんでないから」

それでも
人の名を呼ぶ
まだ、顔を向けるだけの
淡いほねぐみ
人を呼ぶ声、僕たちの午後
僕たちの授受




 途切れたものは
 思い出せないから
 僕の記憶を
 浚ってほしい
 でなければ
 また一から指折って
 数えなおして
 その程度に貧しく
 充足できる
 その程度に
 貧しく充足するために
 くり返したどって
 ゆきすぎるをみおくれば
 遮断機は上がる



  ( ゆるくほどける線と
    線と、マザー
    人を呼ぶ声
    薄ぐらい部屋に、目を覚ました )




モザイクの
町からのびる線路が
肝臓、を
つらぬくなら
僕はくだりのそれに
飛び乗って
まばらに
したらよくみえて
ベビーカーは残照の坂道に
さしかかって

 


架空

  宮下倉庫


架空の請求書をもとに損益の分岐点を探り当てるために、私はまず自身を限界まで二分する
ことから始める。二分されつづけても、数字は永遠にゼロにはならないが、昔聞いた話では、
数字はやがて自らの軽さに耐えかねて、緩やかな自殺を開始するそうだ。ただし、架空では
ない限りにおいて。つまりこの営みによって始まるものも、また終わるものもない。室内に
は、時折前髪を持ちあげる微風がどこからか流れ、白いテーブルクロスの上には鶏肉になに
か塗したらしい一皿が置かれ、その傍らには架空の請求書がある。本来ならフォークやナイ
フも置かれてあるべきだろうが、私の右手には鉛筆が握られていて、つい先ほどから、架空
の請求書に、自らを永遠に二分していく自走型の計算式を書きつけ始めたところだ。ところ
で、この料理の名はなんといっただろう。たとえば、あなたの双子の生活を、もうずっと眺
めている木製の窓枠に刻まれた、目を凝らしても見落としてしまいそうなほど小さい、しか
し確実に家屋を蝕んでいく“小さな疾病”。確か、そんな名だった覚えがある。微風が前髪
を揺らし、持ち上げる。左手が、わずかに翻った前髪を額に撫でつけようとテーブルから離
れる。そんな些細な動作が、忙しなく自走している私の右手の軌道を狂わせ、はずみでまだ
手のつけられていないテーブルの一皿を、毛足の短い、オリエンタル調の絨毯の上に落下さ
せてしまう。そして、このとき初めて、私は鶏肉が半ば生であることを知り、急に強い嘔気
を覚え、テーブルに倒れこむように顔を伏せる。そのように右手は自走し、私は二分されつ
づけていく。分かたれた私たちは完璧に相似し、出窓の内と外から、頬杖を突いて、眼差し
の中に、確実に進行していく疾病の分岐点を緩やかに背比べしている。


セクシー

  宮下倉庫



ベッドルームには青い嘔気が満ちている。僕は靴下を取り違える。中にはまるで
役に立ちそうにないものもある。どこにでも行けそうで、どこにも行けない。裸
足の指はカーペットの毛並みに逆らいながら這っている。サイドテーブルの上、
昨夜から置きっぱなしのハムサンドに手を伸ばす。乾いた噛み跡にかじりつくと、
嘔気は弾け、ベランダから落下した。

蛇口を締める高い音。部屋の壁に跳ね返り、白になびいてなおも充溢する光。壁
の時計に目をやると、案の定正午を過ぎている。明日は午後から偏頭痛だろう。
ベッドに身を預け、仰向けのまま、枕元の文庫本を手に取る。夕べどこまで読み
進めたか、まるで思い出せない。確か、ボストンで、22歳の女性と、西ベンガル
出身のリッチな妻子持ちとが偶然出会って、そんな話だった気がする。しかし、
記憶を辿ってみても、栞は見つからない。持ち上げたままの右腕がだるくなり、
身体を右に傾ける。そのはずみに左足のかかとと右足のくるぶしの辺りがこすれ
合い、僕は今、文庫の丁度真ん中辺りを開いている。

長針と短針が重なり合い、やがて離れていく。壁の時計は鳴らない。まだ子供が
小さいんだし、と言われたから。もう子供は大きくなった。それでも、やはり壁
の時計は鳴らない。また鳴らせるはずだが、このままでいいようにも思う。下の
通りが少し騒々しい。左腕をいっぱいに伸ばしてカーテンを閉じると、時計の針
は薄暗がりに沈んでいった。遠くから微かな、サイレンの音。

ベッドに寝転んでハムサンドをかじりながら文庫をめくるのは、マスタードで指
を汚さずに1.5人分のチーズ・ワッパーを食べるよりかは簡単なことだ。通り
雨に降られずに済む程度の幸運を享受したままでいられたらと思う。もちろん、
青い嘔気にあてられて、心肺蘇生を受けるような状況から自由でいられたらなお
いい。

身体を起こし、タイトルさえも記憶しないまま、文庫を投げ捨てる。それはベッ
ドの縁を越え、視界から消え、雑味のない落下音をたてる。不思議なもので、些
末なこと程よく覚えている。あの時、僕は助手席でウィルキンソンのジンジャー
・エールを飲み干し、運転席の君の両手には、ジャワティ・ストレートのペット
ボトルがぬくめられていた。そして、伸ばした足の先、ベッドの下に恐らく閉じ
た状態で転がっている文庫の、こんな一文も覚えている。


「知らない人を好きになること」

 


生方

  宮下倉庫


昔から、気がつくと俺はひとりきりで、なにひとつ続いたことも、続いているこ
ともない。それがなぜなのか考えることのないまま、俺は大学生になり、最初の
夏休みに童貞を捨て去って、それからすぐにその娘とは疎遠になって、そういえ
ば好きなテレビ番組さえ聞いたかどうか、最中にだって、再生や巻き戻しや早送
りを繰り返し、今では彼女の顔さえ覚えていないけど、寒くもないのに身体をく
の字にして俺は薄手のふとんを鼻先までかぶり、しみついたにおいを嗅ぐともな
く嗅ぐしかなかったような気はする


伯父さんはペンキ屋の二代目で、歯が抜けたような喋り方をして、浴びるように
ショッポ(※一)を喫む。傍らには吸殻が山と積もった巨大な灰皿があって、底
に湛えられた火消し用の水は、線虫(※二)を浸けたら五秒で死滅させそうなほ
どどす茶色い


ゼミの同期の生方の下宿で、生方って、一生童貞みたいな苗字だよな、と冷やか
したら、うん、実際、そのとおりだし、そうすんなり同意され、俺はひどく狼狽
してしまって、止むに止まれず寝ることにした。ちゃぶ台をどかし、ふたりして
ひとつのふとんに潜りこむ。生方くさい敷きぶとんや枕から伝わってくる、背中
越しに伝わってくる生方のぬくみが、過不足なく俺の体幹を抱きとめてくる。そ
のくせ後悔している。やがて小さな寝息がたちはじめる。童貞のそれがワンルー
ムの隅々にまで行き渡る頃になっても俺はまんじりともできず、きっとこれにも
続きはないんだろうと思うと、とめどなく涙が溢れ出してくる


ペンキ屋ってなあ、男の仕事だかんなあ。口癖のように言っていた伯父さんには
三人の子どもがいるが全員女で、恐らく伯父さんの代でペンキ屋家業は打ち止め
になるだろう。伯父さん、知ってますか、線虫って雌雄同体らしいよ。でもね、
しっかり一人前の動物なんだってさ。浴びるようにショッポを喫む。ぶん殴られ
る娘たち。煙って全然見えない向こうがわで、ニコチンの溶けだした水が、伯父
さんを構造ごと根こそぎにする


俺は、生方を起こさないようにふとんから抜け出し、テレビをつける。モノクロ
画面の中から、小枝みたいに華奢なツィギー(※三)がこちらに向かって闊歩し
てきて、俺はそれをとても格好いいと思う。こんな風になりたいとも思う。ブラ
ウン管の明かりが眩しいんじゃないかと生方の寝ている方を振り返る。掛けぶと
んが小さく上下に動いている。こんなに他人に気を遣ったのは、ひどく久しぶり
のことに思える。向きなおると、小枝みたいに華奢なツィギーが、ちゃぶ台に片
足を乗せ、両手を腰に当てながら、俺を見おろしている


そして伯父さんの娘たちは家を出ていった。そのことについて俺にはなんの意見
もないし、あの吸殻の山を、伯父さんはちゃんと処理できるんだろうか、線虫み
たいに死滅してくれるものじゃないと、なんだか安心できないし、赤々と燃える
ショッポの先端や、あるいは伯父さんの家みたいに、刻一刻と短くなって、いつ
か縋るに足りなくなった時、俺は誰の甥でもなんでもなくなるんだろう


ベイビー 煙草もってない? ごめん 喫わないんだ ねえ そこで くの字に
なってる人 震えてるじゃない 誰だって やさしくて うやむやなのがいいけ
ど 一人前扱いはされたいものよ そう 思わない? ジーンズのポケットを探
る。くしゃくしゃのショッポを取り出し、手渡す。慣れた手つきで口元へ運んで、
ライターの灯りは、壁に大きなツィギーの影を作って、それはほんの少しの間ゆ
らゆらと揺れ、彼女ごと、消えた


それから、少し生方を抱いた。楔みたいなものを、打っておきたいと思ったこと
だけは、よく覚えている。イニスとジャック(※四)みたいに、いずれふたりで
男体山(※五)に釣りにでも行ければいいけど、その時まで続いているものがあ
るのかどうか、俺には分からない


とろとろと伯父さんが溶けていく前後左右に、広大な空白が鎮座し、境目は曖昧
になっていく。二荒おろし(※六)が吹きすさぶあの辺はとても乾くから、でも、
それはきっと、本当の理由じゃない。生方、それでも俺は、生方、生方、この期
に及んでこんな風に、あ、燃え尽きるほどに短いなにものかよ、それなら空白の
代わりに、滅びていく希望は置き去りにして、ただ暮れるにまかせてしまえ



※1 ショッポ
日本たばこ産業(JT)が製造・販売している日本の代表的なたばこ
の銘柄のひとつである「ホープ」の愛称。

※二 線虫
線形動物門に属する動物の総称。体は細長いひも状で、触手や付属
肢を持たない。

※三 ツィギー
レズリー・ホーンビー(Lesley Hornby)。一九四九年生まれ。イギ
リスの女優、モデルおよび歌手。その華奢な体型から「ツイッギー」
(小枝)の愛称を得た。

※四 イニスとジャック
アン・リー監督による二〇〇五年製作のアメリカ映画「ブロークバッ
ク・マウンテン」の主人公のふたり。同作はカウボーイの同性愛をテ
ーマのひとつとしている。

※五 男体山(なんたいさん)
栃木県日光市にある山。標高二四八六メートル。別称・二荒山(ふたらさん)。

※六 二荒おろし
冬季に栃木県平地部に吹く冷たい乾燥した北風を「二荒おろし」あるいは
「男体おろし」と呼ぶ。

※生方(うぶかた)
生方


Where it's (not) at

  宮下倉庫



プリンス・ロジャーズ・ネルソンは逆算して今年55歳になる。始まりより終わりが気になる。僕は
今年36歳になる。そして、プリンスと僕のだいたい中間にいるのが田島貴男だ。そのような並べ方
をされるのは、みな不本意だろうと思う。僕だってそうだ。しかしプリンスも田島も、もしかする
と僕も、その不本意さの理由を知らないだろう。解き明かすための何かの端緒を得ることさえない
だろう。だから、このままにしておくのもひとつの作法であると考えることにする。拝啓 書く前
から、書き終える時の気持ちやあなたやあなたの面持ちを想像しています。

ひょんなことから、台所のテレビでyoutubeを見られるようになった。そこで僕は早速プリンスの
動画を探してみた。最初に見たのは2013年に行われたMTV AWARDスペシャルライブの模様だった。
ごく最近のプリンスということだ。彼は女性ばかり(皆、彼にとっては娘のような年齢の。らしい
といえばらしい気もする)のバンドを率い、1984年の大ヒットアルバム「PURPLE RAIN」のオープ
ニング・ナンバー「LET'S GO CRAZY」を演奏していた。僕がこの曲を初めて聴いたのさえ、既に20
年以上前のことだ。だから彼も僕も相応に年をとっている。プリンスの顔には小じわが増えたし、
多分スプリット・ダンスはもうやらないんだろう。僕はコカコーラ350ml缶のカロリー量をほぼ正
確に記憶し、翌日には、数字は玉突き式に忘れ去られる。そうそう、プリンスはネットの発達に
よって侵害され続けるアーティストの権利について、ひどく憂慮しているらしい。89年頃は、偶
然か奇跡でもない限り、動くメディアでプリンスを見ることはできなかった。そして今、僕もネ
ットで彼の動く姿を渉猟している。手数料の支払いは、誰だって免れたいし、傍らで娘は早くも
ライブに飽きはじめている。

ビヨンセの髪は真っ直ぐのブロンドだったり、同じブロンドでもウェーブしていたり、茶色がか
った黒であったりする。僕はそれを地毛だと思っていたのだが(ヘアスタイリングにだって無尽
蔵にお金をかけられるだろうし。しかも彼女の夫はJAY-Zだ)、黒人という人たちの地毛は、ど
うやらほぼ例外なく、性別を問わず縮れ毛で、どんなに手を尽くしても真っ直ぐにすることはで
きないらしい。なので、彼女の髪の毛はウィッグなのだ。テレビモニターの中で「BOOTILICIOUS」
を熱唱するビヨンセはブロンド。少しウェーブした黒くて長い髪にドライヤーをあてながら妻は
そう話し、僕はそれなりに驚いた。作り物の割には、余りに精巧に見えたからだ。すごい執念だ
よね。ブーン。なるほど。ということはプリンスも、彼は黒人とそれ以外の人種の血が複雑に混
じりあった人らしいけど、さっき見たライブの時のが、地毛に近いのかもしれない。ギターソロ
を弾く彼の髪は、パルプ・フィクションのジュールスのように見えた。カーリーヘアってやつだ。
89年頃は、日本人のように黒くて真っ直ぐだった。あれもウィッグだったのだろうか?ジュール
スのそれはウィッグだったことが映画の後日談で明かされている。

結語として相応しい言葉はなんだったかと考えてみる。「敬具」でいいはずなのは分かっている。
少なくとも「手数料」ではないだろう。しかしその誰に教わったでもない常識を、なんとなく疑
って確認してみたくなる。書く前には何が生まれるのかよく見えなかった。今書き終えようかな
というタイミングに至ってもなお、何が生まれているのか(あるいはまだ何も生まれていないの
か)よく見えない。「きゃりー」だけで検索してみる。もうじき6歳になる娘にせがまれたから
だ。彼女のどこが好き?全部。なるほど。僕にもプリンスみたいになりたいと思っていた時期が
あった。しかし実際にカーリーヘアにしたのは4歳年上の兄の方だったし、娘の髪質と髪の生え
方は、妻のそれにとてもよく似ていて、やがてTLCのチリみたいなウェーブヘアにするのかもし
れない。僕はもうずっと長いこと髪型を変えていないから、デビューした頃の田島(渋谷系、な
んて呼ばれ方を彼は不本意に感じていたらしい)のように、ポマードでキめるのもいいかもしれ
ない。もちろん不本意だ。敬具 あなたにも句読点を付けず、その浮遊感のまま、少しも高揚感
がない。もちろんきゃりー(手数料)の話じゃなくて、実際には、しかし、僕はもうしばらくこ
のままでいるだろう。日本人のように黒くて真っ直ぐの髪のまま、きっとこれにもそれにも適当
な理由はある。

文学極道

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