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Migikata (右肩良久) - 2008年分

選出作品 (投稿日時順 / 全8作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


本当の蝶はこの世に四匹しかいない

  右肩良久


 僕が郵便局から振り込みを終えて出てくると
 コンビニの前で中年の黒衣僧が三人、立ち話をしていた
 三人はみな妻帯者で
 一人は草刈り機の事故で右足の小指を失い
 一人はヘッジファンドへ投資して資産を倍増させ
 一人は幼女へ性的暴行を働いていたが今は改心している
 赤すぎる唇が三つ、蝶が羽ばたくように動く

 僕が今から四年後に
 吐き戻したカツ丼の飯粒の中に顔を突っ込んで死に
 翌朝隣人に発見されることを知っているのは
 この三人だけで、僕もそのことは知らないが
 彼らが話題にしているのはそんなことではない
 胃液の、少し酸っぱい匂いは漂うものの

 彼らの横に燦然と桜の裸木が立つ

 「私らの生得のイメージの中には、
  完き紺碧というものがありますよね」
 「それそれ。もの凄い流れが
  髪の芯まで染めるほどの冷たさで」
 「阿弥陀浄土はいわば角張った玄武岩の欠片だから、
  紺碧の奔流から眼を開いたまま拾い上げなきゃな」

 この世は僕の知らない秘密で充ち満ちている
 やがて三人は西友の前にある地下鉄入り口の階段を降りていった
 僕は誰にも告げられない悲しみに縛られたまま
 背中に広大な面積の翅を開く
 言葉にならない呟きで唇が震えるように
 二枚の翅が少しづつ動き始め
 やがて大きな開閉を繰り返し始めると
 僕の足は徐々に透水舗装の歩道を離れようとする
 翅の下を、吹きこぼれた悲しみが煽られて対流し
 圧力差が不安定ながら徐々に浮力を産み出すのだ

 誰の心の中にも完き紺碧というものはある
 遥かに離れてみると、そもそも地球が紺碧の真球なのだから
 そう思ってみても僕にできることは
 きつく目を閉じてみる、ということ。それだけだ

 なぜだろう、それは?
 ふと気を抜くと、つい
 この詩を読んでしまったあなたに問おうとしてしまう
 そんな破滅的な展開があっていいはずはない
 それでは僕は涙すら流すことができなくなる
 そうではないか?

* メールアドレスは非公開


扉のあった空間から見た赤い土地

  右肩良久


 無限の蝉。

 扉が剥がれ落ちた、長方形の空間から
 展開する赤い土地を見ていた。
 鶏の首を縄で括って吊し、
 黄色い父がやって来る。

 (鶏。
  その脂分の致命的甘味。)

 酸化鉄の匂いの熱風、横転するバケツ形のバケツ。

 父の視線と鶏の視線。それが
 脳の最奥に楔形に揃う破片。

 私の実体は
 サバンナの高木の
 白い樹皮でしかなく
 四分五裂、運動的に乾燥している。

 レム睡眠はこのまま覚めない。
 意識の表層に掌を当てる。
 ざらついた巨大な球形、
 赤い蝉。


漂流する箱

  右肩良久

 作業着の尻ポケットから小銭入れを取り出して、自販機でタバコを買おうとしていたら、視界の右側にゆっくりと何かが入ってきた。気にもとめなかったけれど、マイルドセブンの販売ボタンを押したときに、それがコツンとこめかみあたりに当たったんだな。蓋を被った黒い箱だった。やばいね、これ浮いちゃってるよ。面倒なことにならなきゃいいけど。僕は箱を睨みながら屈むと、自販機からタバコを取り出した。箱に手を触れようなんてもちろん思わない。得体が知れないからじゃなくて、箱の中には猫の死骸が入っているってことがなんとなくわかっていたからね。こういうの、関わらない方がいい。
 宙に浮く箱から目線をそらさずじりじりと数歩後ずさり、追いかけてこないことを確かめて前を向いたら、その後は早足で工場に戻った。それが午前十時半のこと。シフトの関係でちょっときつい時間帯だったから、係長の林さんに断って外に出させて貰っていたわけ。嫌なものを見た。正門の裏側でタバコ一本を半分くらい吸うと、安全靴で踏み消し、早々に仕事に戻った。
 暑い夏の日だった。薄曇り。風少々あり。昼休みに、コンビニで買った焼き鮭のおにぎりと、シーチキンマヨの手巻き寿司、ペットボトルのお茶が入ったレジ袋を下げて二階から屋上へ上った。あ、あとさっきのタバコも持ってね。給水タンクの影を選んで、手すりにもたれて坐った。割と涼しい。で、むしむしと噛んでお茶で飲み下していくわけよ、おにぎりと寿司の格好をしたものをさ。やれやれ。腹がふくれて眼を閉じてみた。この下の玄関の脇でプラタナスの大きな葉が、がさがさ鳴っているのが聞こえる。植わっている三本ぶんのね。黒い箱は今、その二本目の木の辺りを漂っている。張り出した一番下の枝のすぐ脇ぐらい。目をつむったまま僕はタバコを出してライターで火をつける。器用なもんだろ?煙が肺をぐるぐる回りはじめると、箱の下を近藤さんと筒見さんが通るのがわかる。こないだ経理の女子と合コンした男子四人のメンバーの中の二人だ。もう一人は高校の後輩の菊池。残った一人が僕だ。近藤さんたちは少しも箱に気づいていない。瞼の裏の光を曇らすように吹き出す煙の中で、僕が気になったのは、箱、臭うよ、って。少しだけど。べっとりして吐き気がするほど甘くて、酸っぱくて、鈍い刺激も含んだ、そんな臭いがするよって。気づかなければそれが一番いいんだけど。
 タバコがフィルターまで燃えてきたので、もみ消して目を開いた。グレーの雲の下を、またグレーの雲が流れ、太陽が輪郭もなく背後に染みついている。一旦立ち上がって、下に置いたゴミの入ったポリ袋を掴んだら、プラタナスの葉と同じようにがさがさと音がした。その音を聞いた途端、何かがわかった。僕には。
 四年も前のことだ。だからね、一体何がわかったのか、今はすっかり忘れてしまった。
 


皿を拭う

  右肩良久

 トラウト博士が僕に言う。「失われることは、またある種の獲得でもあるんだ。」と。僕は断続して欠落する記憶に困惑させられていた。つまり僕の日常は穴だらけである。あそこと思ったものがここにあり、ここと思ったところはどこにもない。つじつまの合わないシュールな空白が僕を苛んでいる。博士は続ける。
「君の脳は蜂の巣のように浸食されている。隙間だらけだ。だが、この世に純粋な空白はあり得ない。隙間に入り込んでいる何かが、君が新たに獲得したものだ。」
 僕は黙って窓の外を見た。向かいの病棟、三階、一列二十七箇所の窓のうち八箇所が解放されている。中庭に茂る桜の葉は盛夏の勢いを減速し、ようやく色を落とし始めた。


「何か、ですか?」と僕は問い返そうとして、やはりそれは忘れることにした。


 僕は白い皿に布巾を当て、皿と布とを円周方向に動作させることで水滴を除去する。白い皿と白い布巾、だ。次の白い皿と、パートナーをチェンジした白い布巾だ。皿だ。
皿皿皿皿皿皿だ。
皿、しかし倦怠はない。皿は常に新しく、また常に新しい場所へと僕が皿を追い込むからだ。
 厨房の奥では2人の男性と2人の女性が、肉と野菜を洗う、切る、煮る、焼く、蒸す、炒めるなどの動作を俊敏に繰り出している。長靴がコンクリートの床に流れる水をぴち、ぴち、ぴちゃぴちゃと撥ねている。僕の横でフォークを磨いている飯塚さんが、僕に身体を寄せて「お前さ、ほんとにちゃんとチンポ立つのかよ。女にや○○○○○△△み□□□○△り○○○×○□」と言う。彼の手元では常に6本のフォークが扇型に展開し、効率的にこすられて光沢を与えられていく。僕の視線は天井に張り付いて、僕と飯塚さんの二人を斜め三十二度くらいの角度から見下ろしている。食物の匂い。
 今から二十三年前の八月十八日が浸食を受ける前に束の間光を放ったのだ、飯塚さんの磨いた二十三年前のフォークとともに。そして新しい皿。


 トラウト博士の言に従うのであれば、僕は新たな獲得と向かい合わねばならない。それは死と相似形でやがて死と重なる種類の、言葉の介在を許さない、直接僕の主体と向き合う存在である。それについて言及できない存在の、しかし確かな質量。肌の匂い。ため息。


「黙示録」と題されたひとつの画面の持つ意識

  右肩良久

   I

 潮の臭いがすると思ったが、それは形を失った古い時間の発酵だった。本当は、ここでは何も臭わない。
 僕らは峡谷の崖から突き出す岩鼻に、白いプラスチックの椅子と丸テーブルを置いて暫く話をすることにした。
 目鼻もなく柔らかく言葉が生まれると、赤い夕暮れの赤黒い雲が頭上で静かにひとつの渦を巻く。ひとつまたひとつ渦を巻き、僕らの話は遥か眼下の大河へ流される。
 そうだ、ちょうど暗い落葉のように、次々と。

 風音。激しい流水の音。ときどき破砕音。

 据わりの悪い椅子とテーブル。傾いて置かれているカップには生ぬるい水が注がれており、それは甲冑魚の吐き出した太古の海に由来している。
 はらはらと砂が降ってくる。赤く苦い微細な砂が、髪の間やシャツの襟元に入り込み、湿気のないテーブルの上を滑ってゆく。僕らもまた当然それらの一粒である。
 
 僕らは失踪した君のことを話している。
 クラムボンと呼ばれた君が、今丁度記憶の新宿の亀裂に嵌り、路上に置かれたトリスバーの箱形看板にすがって激しく嘔吐していることを。
 路上には折れた焼き鳥の串、輪ゴム。陰毛。
 それらの上に被る生白い吐瀉物の中に、噛み潰された子羊の肉片がびくびくと生あるもののようにのたうっていることを。
 君の知らない君のことを僕ら、延々と話しているのだ。

 遥か向こうの岩山の頭に巨大な木柱が直立し、漆黒の影として乾いた風の舌に舐められている。その由来は古く、総ての神話と史実を超越する。そこへプロメテウスが縛られていたのも、イエスが打ち付けられていたのも、ムッソリーニが吊されていたのも、相対的には一瞬の出来事に過ぎないはずだ。

   II

 僕らの間違った予感の中に生きている大勢の人々よ。
 やがて僕らは目を閉じ、口元へ静かにカップの水を傾けるだろう。唇が濡れる。口腔に水が充溢する。その間も確固として実在する世界の喧噪よ、君や君たち、人々よ。
 やがて僕らは君や君たちを塩の柱とするだろう。それは断罪ではない。だから、何ひとつ怖れる必要はない。君や君たちにまつわるものの総てが、まったく混じりけのない塩化ナトリウムの結晶と化すという、そういうことだ。
 塩は僕らにとって無闇に美しい物質である。

 赤い渓谷にぱらぱらと雨が降り始めるが、雨粒は地上に弾ける前にすべて蝙蝠へ変身してしまう。彼らは上下左右へ不思議な軌跡を描いて飛び交い、攪拌される僕らの話。

 遠望する岩山の中腹では、赤い岩の凹凸が人の顔の形を描き出している。誰だろう、あの岩の形として存在する人格は。僕らは囁き交わす。僕らが見ているこの暗喩としての風景を、僕らが話す暗喩としてのこの言葉を、君が解く。それはとても官能的な営みとなるだろうと。くすくす笑いながら囁き交わす。

 まるで全世界の映り込んだ水晶玉を口に含んでちゅぷりと舐めるように。 


みんなあげちゃうモノガタリ

  右肩良久

謎々をあなたにあげる。決して解けない謎々をあげる。
春と秋しかなくても、割れた秋のかけらをあげる。細かなかけらを一つか二つあげる。それはイキモノのかけらかもしれない。
眠ったら眠りきれない過去をあげる。六本木の交差点でスピンターンしたマセラティの助手席。きりきりと見開いたブルーの瞳をあげる。
幻想とわからない幻想をあげる。すべすべをあげる。消えそうな猫はあげない。腕をあげる。脚もあげる。耳をあげる。爪をあげる。だから。

だから。

開かれたものを開く。サイレンの中の微光をあげる。スカーフに包んだ、小さいけど重いものをあげる。振り向いたらあげる。あっ、と叫んだらあげる。あなたからあなたにあなたをあげる。

ミシェルをあげる。ミシェルがタイトスカートの採寸に使った巻き尺をあげる。その時ガラスの扉の前を通った片足のひと。

(秋のツバメは
 掌で眠らせたまま
 もう、あなたにあげてしまった。)


鉄輪

  右肩良久

 お前は邪悪な娘だからね。眼を細めて迷いなく腹を刺すんだよ。自分を女の子だなんて思わなくていい。結構な力が出るよ。そいつが悲鳴を上げたぶん、それだけお前は気持ちよくなるからね。嬉しくてにやにや笑うのさ。唇だけになった顔で。倒したら馬乗りになって踊るようにまた刺そう。どうせならそのままそいつの眼を抉っちゃおうか。瞼を切り落としてから眼球をくじるとうまく丸いのが出てくるけど、そんなことこだわるなよ。ちゃっちゃっとやっちまったほうが快感が脳まで登ってくるのが早いからな。それが終わったら、だ。血がべとべとするのを喜びながら、頭の皮を剥がせよ。「でっかいメロン」の歌を即興で作りながらかつ歌え。楽しく歌え。次には肺から空気を抜くことにする。肋骨と肋骨の間に、横向きに寝かせた刃をすっと入れるぞ。吹き出した鮮血と空気の奔流をだな、お前はお前の顔に浴びる。目も口も開いたまま浴びる。それからどうだ、そいつのポケットから携帯を抜き出して、メールとかさ、声に出して読んでやれよ。「今日、あんなこと言われてちょっとうるっときちゃったよ」とか「今夜は食べてから帰るよ。迎えヨロシク。駅からtelする」とかきっと書いてあるからね。甲高い声で笑ってやれよ。それから後は、もうどうでもいい。心臓とかはうっちゃって置こう。お前は全裸になって商店街へ飛び出せ。
 解放されるんだよ。恍惚として涙が出るんだよ。「ワタクシはカミである」とか叫んでみるか?いかにもいかにも馬鹿臭くて愉快だなあ。まったく君は大活躍だね。
 でもまだいい。まだいいから。今は静かにおやすみ……。

 私は十日前の月曜日に、JRの貨物基地の奧へ連れ込まれ、停まっている貨車の鉄輪に身体を押しつけられて、誰かにこんな暗示を掛けられたのだ。暗示を掛けた人の顔は思い出せない。夢で見る時にも恐ろしくて眼を上げられないから、たぶんもう二度と思い出せない。私のコートのポケットには、今も裏蓋に蛇の線刻がある銀側の懐中時計が入っている。あいつが入れたのだ。この時計が何日後かに、何時かを指したら暗示が発動してしまう。私はそれがいつかを知らされていないが、確実なことだ。その証拠に私は毎日、何回も時計を取り出して蓋を開け、時間を確かめる。秒針の音を聞く。
 御徒町の裏路地のショップで三日月型に反り返ったナイフを買ったときには、下半身から昇る性的な快感にうずうずと脊髄を震わされた。声が出そうになるほど、喜びに濡れて……。この興奮は店を出ると途端に冷めた。風音と生臭いカラスの叫びで二月の空は隙間なく満たされていた。温かいものを飲みたくても小銭の一枚も残っていない。道には誰もいなかったが暗い光の中、あいつの残像が薄赤い影になって私のすぐ横に立っていた。今もおそらく立っている。
 それからというもの私は顔を真っ直ぐに向けたままで暮らしている。右にも左にもどうしても動かせない。時々、肩の上でゴキブリがカサコソと音を立てる。それでも顔を横に向けられない。
 通勤の駅のホームに立って、正面のビルの電光掲示板を見る。このごろニュースのテロップの中に、人の轢死の記事が頻繁に混じるようになった。毎日、必ず一本はある。私は覚えていないが、子どもの頃一緒に轢死事故の現場を見たことがある、と亡くなった父から教えられた。だからかどうか、記事を目にすると、鼻の奥に生臭い酸化鉄のにおいが溜まる。急ブレーキで鉄輪のきしる音が聞こえる。心臓が高鳴り膝が震えてくる。それなのに私はニュースで読む轢死者の名前と年齢を一字一句間違えずに覚えてしまう。それが消えない記憶として堆積し続ける。あの暗示を受けた日からだ。
 ホームに立って列車を待つ大勢の人々はみんな、やがて私が恐ろしい殺人鬼と化すことを知っている。血まみれになって、抑えきれない興奮に高笑いすることを。全裸で飛び出すのなら、せめて裸を美しく見せようと、あれから私が値段の高いボディソープを使い、毎夜ダンベルを振っていることも。
 悲劇が起こる前に私を殺してしまおうとする人も出てくる。今日も香水の強い中年の女から、列車が入るホームの端で背中を押された。あの女に違いない。かろうじて踏みとどまると、後ろで舌打ちの音がした。当然誰もが知らぬ振りをしているのがわかる。私は振り向くどころか隣の人へ顔を向けてみることもできないけれど。

 どうしようもない。しかたがない。列車はどんなに急制動をかけても走り続ける、鉄輪とレールの間に火花を散らして。固く軋んで、巨大な力が働く。暗示は行くところまで行かないと絶対に解けない。悩ましい。私はスターバックスの片隅でコーヒーを飲みながら「でっかいメロン」の歌を呟くように歌う。
 めろめろメロン、虫の息
 すやすや子猫、お尻小さな子猫たち
 だけど、でっかいメロン、でっかいメロン
 ふたつに割られて、あおいきといき
 お汁こぼれてびしょびしょに
 猫さんまあるくねむんなさい
 首が取れてもねむんなさい
どうせ、私が殺人鬼になって歌うときには歌詞もメロディも違っているだろう。それはよくわかっているけれどやめられない。やめてやめてと心の中であらがってもみるけれど、やめられないで歌っている。私の歌声は小さくてか細くて、ひょっとしたらかなり美しいかも知れない。しかし。

 わたしはもうすぐわたしでなくなる。だからこのうた、にばんはあなたがつくりなさい。


「姥捨山日記」抄

  右肩良久

   (一)

 水の国は風のない海にあります。
 風のない海に波は立たず、鏡のような沈黙が青空と雲を映しています。地上はいつの間にか海につながり、またいつの間にか海と離れます。歩いていく僕の足も、気がつくと踝まで水に浸かっており、気がつくとまた干上がった白い珊瑚礁の上に立っています。
 空には空だけの風があります。流れる雲の影が地表を過ぎていく度に、どこかひやりとした記憶が呼び覚まされ、そしてまたたちまち消えるのです。だからある時の僕には逃れがたい過去があり、ある時の僕には生まれたてのように何もありません。
 遠くには回らない巨大な風車があります。羽根の先端に光がとまると、それは海の何処かで病んでいる人魚にとって、抗い難い誘惑となるでしょう。声を失っても何かを得たい、と彼女は思うはずです。それが何かはわからないまま。
 僕は考えます。希望というものがもしもあるなら、それは淡い緑色をした稚魚のようなものだろう、と。そしてそれは水の国の何処にもいないものなのだ、と。不在が帯びる無色の恐怖も、ここではまだ甘い氷砂糖を含むような感触でしかないのですけれど。

   (二)

 駝鳥の卵を買わなければいけなくなって、籐で編んだ篭の底に紫のビロードを敷いて出かけた。三時頃家を出たが、木靴の先に割れ目が入りかかっているのが気になり、いつもより遅れがちに歩いた。
 紫水晶が所々で剥き出しになった岩山へ登り、峠を下りたところで、夏の風が心持ち冷たさを帯び始めた。日暮れに入ったのだ。日輪は沈んで見あたらない。例の迸るような夕焼けもないのに、空は明るく暮れ残っていた。一群の雲が行く。北氷洋では大きな鯨が今、流れる氷塊を水底から見上げている。僕は純銀でできた雲の連なりの遙か下方に沈み、右手に篭を提げて突っ立っている。雲と僕の間を、すうっと鳥が滑空する。今までに見ない、白色の、暗い光を帯びた鳥影だった。まだ生まれていない駝鳥の子の魂が一散に卵を目指しているのに違いない。と、僕は思った。
 僕は不安だった。これから街の雑踏へ入り、喧噪の中で買い物をし、再びこの場所を通って山道を登る。その時にはもう夜はたっぷりと厚みののった闇をまとい、僕の小さなランタンが、悲鳴を上げて逃げまどう小鬼のように揺れるだろう。
 どんなに想像を巡らしてもだめだ。それはまだ始まってすらいない出来事なのだ。確実にやってくるにも関わらず限りなく遠いことなのである。

文学極道

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