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山人 (シロ)

選出作品 (投稿日時順 / 全99作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


一番星

  山人

汗ばんだシャツを背負い
夕暮れを歩く
橙色の入道雲が
薄闇に沈みかけた蒼い空に黄昏ている

少しむっとしたアスファルト
鬱血した時が、俄かに開放されようとしていた
沈静が流れはじめる
一日が裏返り
闇にもたれようとしていた

一つ星が
私をみつめている

遠い年月の井戸
忙殺された狭間で
奈落の肉が熱を帯び
毛細をつくる
氷の言葉が延髄を通り、
掻かれた。
その亡骸が
一番星となって
一人瞬いている
救えなかった命
殺した星


部屋の明かりが灯る頃
膨大な蝉の音を連れ
私は闇に狩られる

一番星は
冷たく闇を、私を、貫いた


影を貪る

  山人

澱んだまなこが粘りつく液体となってずるずると年月を舐め回している。あふあふと飯をさらい込み、げてものを隅から隅まで食いつくし、寄生昆虫のように板にへばりついている。自己憐憫の色艶がどす黒く光り、ねばい体液をブロック塀に擦りつけている。年月の階段を下ると闇夜が底に広がり得体の知れない腐臭がしている。その臭い水面に黒光る体壁を沈ませ、とどまることのない念仏を唱え始めるのだ。腐臭のする泡ぶくをひとつひとつを嘲笑いながらぶすりぶすりと割っていく。中からは断末摩の悪臭が湧き出て、それを手に取り嗚咽を漏らしながら打ち震えている。体壁は徐々に裏返りそこから無数の菌糸が這い回り、あたりは壮観な胞子が舞う。ぼこっぼこっと菌糸はキノコを立ち上げ、体壁の向こう側・内側・脇、あらゆる壁面からずらずらと粘質のキノコを発生させていく。やがてそのキノコを食い、朽ち果てるまで念仏は果てしなく続いていくのだ。血の重力にもたれるように、ただ引力にしたがって落ちてゆく、臭い血液だけが再び発酵しだす。


あしあと

  山人


とめどなく
とめどなく
降り続くあてどない白い冬
皮膚は体に張り付いて 血管は黒くちぢこまる
色あいや めまぐるしく動き回る生命の欠片もなく
いまはただ
うつむいた雪が
降り積もってゆく

脊髄が 錆びついてくるのを感じる
骨が膠着し 何も言わなくなると
ますます冬は
冷たくよそよそしくなる
寒さが喉で固まり
発する声をも強張らせてしまう

     *

重く夜は垂れ下がっていた。
男はまた、穿孔虫をつまみながら自らの年輪を愛撫している。
止む無く 青刈りされた言葉を発し続ける。
生あたたかい薄い刃が 水のように私に入り込む。

ぶるぶると心血は吹き上がり、激しくののしりあう。新月は欲情し、因縁を噴火させ、活動してしまったのだ。ボコリボコリと私と彼の口から生まれる血生臭い赤子は古い家の隅々にみるみる堆積され、目を剥き、口にはやじを蓄え、裂けるような泣き声を残して、直ぐさまぐったりと死亡する。それらの死骸は怪しく光ったかと思うと下面に吸い込まれていった。
煮えた脳液は冷めることがなく、怒りと狂気は果てしなく製造されてゆく。彼は生き物ではないのではないか、そう思った時、私の頭の中のピンが外されたかのような感覚に陥った。  

ぼうっとした まだ朝になりきれない三時。
渦巻いて悶々とした吐き気と、乾いた怪しい鼓動が深夜を越え、重い元旦を迎えていた。
血流もまだ馴染んでいない、とらえどころのない空間。胃腑から浮き出てくる悪寒を感じながら闇に嗤う。
凍った月の夜を歩く。
沈黙が重力に沈み まだ夥しい夜が陳列されている。
 轟音を蹴散らしながら通り過ぎる除雪車はたくましい。雪を征服し、翻弄している。その傍若無人な力が朝になりきれない夜の闇を打ち砕いている。鉄の意思が雪と組み合っている。運転台には黒く塗りつぶされた顔を持つオペレーターが乗車している。

     *
吐く息は、白い
纏わりつく、影、と濡れた光 
まぶた、の向こうにある、温かい骨
数えるほどの外灯、の白い道路に 
足跡はまだ無い


闇の獣(リメイク)

  山人



おぼろ月の夜
一日のためいきが霧となって森を覆っている
初夏の日差しにうたれた葉は
産毛をひらき 月のひかりを浴びている

森の奥
鼻を濡らした一頭の獣が立つ
におい立つ皮膚に 脂ぎった獣毛
土を押し込むように肉球を圧する

かすかな気配
ひそかに 闇の隅をこする生き物がいる
新たなる命の光源が点滅する
葉は風をよび 毛羽立ち 鋸歯はさざなみ しずくはふるえる 
一片の葉の舞い、
はじけたバネが月夜に放物線を描く、線はいざなう
葉を蹴散らし
絞り込んだ筋肉で柔らかい肉を羽交い絞めする
濁音が回転しつづけると骨を揺さぶる音源が土を震わせ
体液は闇に沸騰する
胸の反復がしだいに薄れ
吹き出しのような息がひとかたまり
土ぼこりの上に落ちた

まなこを一巡させ あたりをうかがう
喧騒の破片がふわふわと漂い知ると
闇の獣は新たなる踏み込みで肉球を地面に押しつける
闇は反転する
月はひかりをとりもどし 新しい闇を造成してゆく
体腔の内容物をすすりこむ音と
骨を噛み締める音
それらの音と 葉のささやきが
闇の純度を増してゆく

しだいに獣に埋めこまれた充足が 押し詰まった空気をゆるめ
やがて獣は木の葉に尾を滑らせるように
時折あたりを警戒し闇に消えた


燃える島

  山人


夜の海をゆらゆらと私は舟を漕いでいた
天球の羊水のような空間
おだやかな潮の香りがおびただしい生を封じ込めている
櫂の力をゆるめると島が見える
オレンジ色の光りを放ち、島がゆらめいている
火の粉がときおり闇にのびあがり
島は豊かに光っていた
波打ち際の静かな海岸
かぞえきれない蟹が砂地を徘徊している
いつのまにか蟹の上を私は歩き、運ばれるように島に入っていく
島は皆、若い人で溢れていた
椰子で組まれたやぐらの上で幾人かが叫んでいる
天空には星がまたたき、静かに光っていた
透明な瞳と透き通った頭蓋があり、脳が燃え出している
焼け焦げて死んでしまった人もいた
私は椰子に身を隠しながら近寄った
やぐらの人がしたためた唄が、島を包んでいる
一心不乱にそれを聞く人の脳が燃える
電球のように燃えあがる脳がやぐらを取り囲んでいる
やぐらの人が手をさしだし、光りを持つ人々を次々に引き上げる
やぐらに上がれなかった人は次々と黒く焼け、
焦げた脳がぶすりぶすりと黒煙を吐き出し、静かに死んでいった
地には億千の蟹の群落がうごめきだし
焼け焦げた人を海に押しやった
舟の綱をほどき、海岸の蟹の絨毯をあとにした
島はやがてめらめらと燃え出し、島全体が赤く浮きあがった


行方

  山人

白みはじめた朝
淡々と家事をこなす女たちのように夜は明ける
現実の襞をめくると、憂鬱に垂れ下がった雨が、霧状に落ちている
五月の喧騒は静かに失われている 

  *

晩秋、残照がまぶしく山林を覆っていた
透明な水みちを、ぼんやりと眺めていた
水ぎわの水をすくいとり
一口飲んだとき
喉をつたってゆく充足はまっすぐだった

脛までまくりあげて、沼の河口に立ち、水に入る
透明で、中の砂粒まで見ることができた水は薄く濁り、沼の中央にはぽっかりと霧が生まれている
その周辺には、実直な森がたたずみ、私の眼前に姿をさらしている
足の指と指の間に、濁った水が足元をぼかしてゆく
それは冷たく汗腺から温度が入り込んで、私の内なる骨に衝突する
水の冷たさは、毛細管現象のように、脛をつたい上部へとあがっていく
胸の中央にひとつ、硬く鐘を打ち、潰えた羽虫のように転がっている

小低木の枝から這い出した葉が湖面に触れている
だらしなく波は葉を濡らし、風でこなごなにされた木片の残片や、木の葉の残骸が、縁の暗黒につぶやくように沈んでいる


指を折り、数をそろえるのは造作もない
ふてくされた期日に折り合いをつけてページを綴じれば夜が来る
それから私はただ、漂白されて、白くもない、色の無い実態となる

沼岸からあがり、ひとつ、またひとつ、と、足を繰り出す
ふくよかなまだ若い単子葉類の植物の葉触りが、つめたい足の皮膚に触れている
何歩かあるきながら、沼を振り返ると、沼など無かった
    ---すでに失われている---
私には眼球が無く、半身失せているのだった

粒のような小石を足裏で感じ
土の感触をつかみながら
そう、少しづつ
そうして私は
得体の知れない匂いのする、生暖かい森の中へ足を踏み入れていく


  山人

木である私は風を感じている
昨日の曇天は特に蒸したが
今はどうだ
沢筋からの一縷の風が
梢をこすり私の腋の下を涼やかに通り抜けていく

かつて私にも過去があった
たとえば私の前で作業をしている男
これが私であった

男は年にしては大ぶりで
体躯の大きさからゆえか
どんよりとし大きな動きで活動している
時折腰を伸し
声にならぬ声を発し
しかし、他者の前なので
漏らす程度の小声だ
この大ぶりの男
私である、
私は木になりたかった

思考することに疲れていた
めんどうくさい脳など要らなかった
意思に反し、勝手に何かが描写する
それを見ていなければならなかった


先ほどまでキノコを植えていた私だった
かなり時間を費やしたようで
野鳥の声がひび割れている
新しい風のにおいがし
陽光もいくぶん煌いている

見ると私の腰掛けていた伐根から
新しく維管束が這い出し
私の臀部へと導かれている
さらに
じゅくりじゅくりと
大地からの血液が足指から入り込んでくる
骨盤の奥が疼き、脊椎に脈動を感じる
体内の臓器はすべて攪拌され、すべて材となり
一本の幹となっている
胴から思わず手を上げると
それは梢に変化して
毛髪は葉となり
鳥が群がり始め、ひとしずくの汗が樹皮を伝い
カタツムリが舐めていく

これが木と言うものだ
何かを思考することもなく
生き物をはべらせることのみに時間を費やし
めくるめく年月をやり過ごし
樹皮のまぶたを綴じたまま瞑想する
こうしていま
私は木になった


秋風

  山人

梅雨の季節に君に会い
雨の中の紫陽花に君をみた
大きくふくらんだ胸の中に
幾重にも重ねた肺胞の中に
君はすべてを吸い取って
僕は君の吐息の中に埋もれた

暑い夏が来て
君の髪から砂粒がさらさら流れ
僕の耳に入り
しずんでゆくしずんでゆく
僕の肉の中にはらわたに
君の息が僕の首から突き抜けて
落ちてゆく君の吐いたしるし

海岸の
かもめの音が空をえぐり、
単子葉植物の穂を揺らす
僕の体内の砂粒が
一粒一粒君を謎解いて
君を秋へと舞い上がらせる

一途なものを光らせた時の領域
吸い込んだ君の息
遠ざかる船の一抹の輝き
おもいは水平線に
秋風と共に吸い込まれていった


枯れた夢の子供

  山人

俺がまだ種だった頃、グァラングァランと樹がなぎ倒され、土が掘られ平坦な平坦な開墾が行われた。眠りを妨げられた赤土は臭うように腸を晒し均されていたのだった。釣られた次男坊共は馬鹿面でこぞって山に篭もった。一山いくらの、夢の種を、肥やしの無い赤土に捲き、月の尖った顎にぶら下がった蝋燭のような甘い夢を肴に泥酔した。夢には苔が生えアレチギクを増産しコンクリにはクロバナエンジュが蔓延った。夢の掃き溜めの中で閉ざされた真冬のうなだれた精液から俺達は生まれた。鶏の糞があたりを埋め尽くし足の踏み場も無い、白熱電球はぼうっと霞み夜は果てしなく長かった。コンクリの牢獄の中で言葉の慈しみを覚え、そこに微かな幸福を自分で演じた。わからないわからない解らない、なぜ生きてきたのかは解らない、極潰しのような生活を送り続けてきたのだ違いない。握り拳の中にはいつだって石が入っていた。殴るように絞めるように俺達は命を懸けて道草を食い遊び生きてきた、だからもう死んでいるのか、死んではいない、あの得体の知れない病で死んだ家畜の乾燥肉を食う日常は決して忘れることは出来ないのだ。俺達は枯れた夢の子供だ、慄きの中の泥濘の間に出来たカタワなのだ、だがまだ死んではいない、土を這いずる重い血を裁断するまで砂利道の泥水を吸い続け、鼓動を止めてはならないのだ。


蕎麦っ食い

  山人

暖簾をくぐり、席に着く。
「もり大盛り」
静かに言う。
店員が厚手の湯飲みをことりと置く。
その半分を飲んでいるうちに蕎麦が運ばれてくる。
どんな蕎麦がくるのだろうか、初めて会う人を待つような心地よい緊張がある。
「お待ちどうさまでした」
いやそれほど待ってはいない。
四角いせいろの竹すの上に、細く少し透明感のある蕎麦がぷるぷると震え、体を晒している。
厳かである。
汁徳利から猪口に黒っぽい琥珀色の液体を注ぐ。
カツオの強い風味と、その周辺をおだやかに昆布の香りが満ち引きし、心地よい。
割り箸で適度に蕎麦をすくい、猪口に半分ほど沈み込ませる。
勝負の時だ、ゴングが鳴らされる。
この時に勢い良く蕎麦は啜られていることが戦いのルールとなる。
啜られて口中に侵入した蕎麦と汁は互いに対面し、口中の唾液に挨拶する。
汁のコクと香りが鼻腔を埋め、脳が可か不可かの取りあえずの判断を下す。
総合格闘技で言うならば、組み合った時の相手の強さと言うかそんなものを感じる瞬間でもある。
「うむ、強い」
そう感じ、次に麺を噛むという行為に突入してゆく。
まだ口中には汁の風味が残り、しかもそこに今度は麺の香りが突入し、さらに食感が・・・。
歯を立てるとプツンと切れてはいけない、ある程度の弾力を歯が感じ、そして断腸の思いで麺の断面が千切られてゆく、コシである。
このがっぷり四つ感が、最後まで戦いを続けさせ、残った屑のような麺を箸で丁寧にこそぎ、口へ促すのである。
この壮絶なバトルが終わったあとの清々しさは、まさにスポーツマンシップであり、出された蕎麦と私との間に友情が生まれるのだ。
その戦いを振り返る如くの所作が、湯桶に入った蕎麦湯を飲むことである。
相手の力量を賛辞するべく汁の味をも確かめ、そして麺から溶け出したエキスの蕎麦湯を楽しむのである。
暖簾を出て腹を叩く。
あらためていい戦いだった・・・と、しみじみ蕎麦バトルを振り返るのである。


あれから

  山人

もう十年もタバコを吸っていない。
健康のためだったか、タバコを吸う自分との決別であったか、確かそんな理由だった。
今ではタバコも高価な代物となり、止めて良かったんだ、そう思うようにしている。
 エアーギターならぬ、エアータバコをしてみようと外に出る。
散歩は良くする。犬がいるからだが、でも犬は連れて行きたくない。
夕焼けはたしかに美しかった。
これから生まれ変わることができるなら、犬は連れて行かない、そう考えることにした。
 県道の脇には、本来初夏に花をつける雑草が花をつけている。もう、本格的な秋が来るというのに。
その草たちは、初夏の頃、一度刈られ、苦い汁をこぼし車道の横にしなだれた。そしてまた二度目の花をつけようとしている。洋々と秋の風を浴び、草はみずみずしい体に露をたくわえ揺れている。
 あるはずもない、胸ポケットに手をやる。懐かしいセブンスターズのパッケージを取り出し、銀色の帯を解き、香り立つ乾燥葉の甘い匂いと真新しい巻紙の匂いをかぐ。
ゆらゆら揺れる透明な百円ライターの液体燃料が秋の風景を灯す。
呼吸を止め、口の中に息を吸引しながらライターの火をつける。七割の煙をそのまま吐き出し、残りの三割を静かに慎重に肺に送る。
 たしか、タバコを止めたのは二〇〇二年五月二十三日・・・だった。
一度目の煙を吐き出すとその年の事柄を思い出していた。二度目の煙はその次の年のこと、三度目、四度目、久しく吸っていなかった薬物が体内に注入され、顔面が蒼白になるとともに、あらゆる内臓がすべて呼気とともに外に押し出され、ただの薄い皮と空間だけの体になってしまったようだ。
 オニヤンマはしきりに周りをホバリングし、ジジジジッと顔の前で一旦静止し、顔色をうかがうと、すぐさまびゅるりと向きを変え、茜の向こうへと立ち上がっていった。
 夕刻に散歩に出たのだが、日が翳り、闇が訪れるのはすごく早くなった。
フィルター近くまでタバコを吸うと、アスファルトの白線の外側に捨て、サンダルで擦りつけながら踏み潰した。昔は普通にタバコを捨てて踏み潰していた。今はゴミ一つ捨てたりはしない。
ありもしない残像を踏み潰したのだからゴミにはならない。
すると、川の音がし、そこにカワガラスの単発的な声が混ざり、いつしか、草も、草を取り巻く空間と静けさも、すべてが一緒くたに僕の体に再び内臓のように分け入ってくる。
ヤニのついた黄色いはずの指は白く、胸ポケットは失せ、口の中のタールの匂いはなくなっていた。
 もしかすると、あの時にタバコをやめていなかったらどうなっていたんだろう。健康を害し死んでいただろうか。でも、僕はあの時、タバコを吸う自分との決別をし、まるで勢いのなくなったこの秋の夕闇の風のようにもう一つの自分を失ってしまったのかもしれない。
ふと、ポケットから人差し指と中指を暗くなった闇にかかげてみた。


漂っている

  山人

漂っている
田の畦の
名もない雑草の根元に
捨てられた溜め池の
透き通る水の中に
細い目で鳴くアマガエルの喉に
咽び泣くような曇天の中の
炭焼き小屋の煙の中に
確かに漂っているのだと思いたい

石が石で終わるのは
あきらめた夕暮れに似ている
敷かれた道はひび割れ
雨水を染み込ませている

遠く重い呪縛から
糸が解けるように
開放させてください

雫る先の
かすかな四十雀の細かい動きは
澱んだ空気を彫り進む
暖気された空間が生まれる
少しだけ光は漂っている


石・草・虫など、その概念と考察

  山人

1.石
石には普通、感情はないと考える。しかしある。石はほぼ性別は♂である。しかし、生殖はしない。無機質なものには♂という性別があるものだ。石は考えることが好きである。ひたすら考える、それも延々と。むしろ考えると言うよりも瞑想である。ただ、瞑想はするが行動はしない。出来ないからである。しかし、母なる大地が活動を始めると、幾分ぼんやりと目を覚ますことがある。よって、感情はある。


2.草
草は、考えることすら出来ず、何かを感じるだけの皮膚を持つ。
おだやかな季節に虫をはべらせ、しなやかな体躯と、美しい花弁をもった横顔で風を感じ陽光を待ち望む。
 草はとにかく良く伸びる、そして自分がどれだけ伸びたのかは知らないようだ。


3.虫
喜びも悲しみも、その硬い羽根に埋め込んで、どんよりとした複眼で曇天の空を仰ぎ見る。微風に楚々と関節を動かせば、触角も俄かに揺れる。
人から嫌われ罵られても表情を変えることがない。害虫として生まれて害虫として叩かれ、殺されてもなお誠実な生き様がある。静かに殺されていくのだ。
秋、虫は少し触角を動かし、季節の変わり目を感じている。


4.鳥
自由な象徴として鳥は認められている。
人々が吐き出す、曇天の重いため息のかたまりを刻むようにトレースし、さえずりながら一掃する。鳥の羽毛の中に希望がある。強大な胸肉でその沈殿した重みを掴まえ、空へと立ち上がる。
鳥は知っていた、人々の希望は空にあるのだと。


5.蛇
神は究極の語彙を思い立った。その形に四肢はなく、念じたもののひとつの流れ、その思いの果てが一本の信念であり、蛇である。
人の肌のような角質はなく、ぬめりに覆われた、皮膚。突起物という突起物はすべて取り除かれ、一本の棒のみが存在する。
体全体が足であり手であり、すべてである。そして、体そのものが一本の生殖器であり、四肢そのものである。


6.ヒラメ
その昔、ヒラメはこのような形ではなかった。
 恋に破れたヒラメのかなしみが塩辛い海水となって、体を圧し、たいらになった。深海の砂粒に頬をこすり、見られたくないから、同じ方向に涙が流れていった。ため息があわぶくとなって海面にたどり着くとき、静かに砂になって獲物を狙うのだ。


7.土
語れば長くなる、そう言いたげに土は寝そべっている。
はるか昔、そもそも土などあろうはずもなく、世の中はすべて無で出来ていて、命の欠片さえもそこにはなかった。たまたま神がそこをとおり、いがらっぽいな、と痰を吐き、神の屁から弾き出された大腸菌が発芽して、命の根源が生まれ出た。
さて、無は、果てない年月を指折り数え、一匹のゾウリムシを生み出し、そこから性欲をひねり出し、多くの生き物を世に送り出した。カイワレのような貧弱な草が芽吹くと種は真似をして色んな草をつくった。
一枚の葉が地に落ち、奥万の菌が大口を開き、食われ、脱糞し、その蹂躙されつくした葉が再び目をあけると土になっていたのだった。



8.地蔵
かさかさと黄金色の枯葉が舞い、山道に差し掛かると石の地蔵がいる。傍らに虫を携え、坊主頭で秋の空気にさらされている。遠くの山々は夕焼けで赤く燃えている。地蔵は何も言わない。枯葉が一枚、通り過ぎただけの山道。
ピーヨウゥ、鳶は高く、空を蹂躙し、捌いた空間を秋に晒し砕けて沈む。モザイクな秋が地表にばら撒かれている。
そのとき地蔵は、「私は石である」、そう思っていた。


9.便所
その部屋で人は白い臀部を曝け出す。つまり、ここでは何かに襲われることがない環境でなければならない。
脱糞の最中、ナイフが胸に刺さる恐れがあるとすれば、そこは個室でなければならない。
その排泄物を受け止める容器がある。便器と呼ばれ、人はその容器の口めがけて脱糞するのである。
人が自分の底にたどり着く場所、それが便所だ。


10.壁
とかく人は壁をつくりたがる。むしろ壁があるからこそ、壁によってすべては支えられ、人が生きていると言ってもよい。
人類の誰一つ拝んだことがない宇宙の端にすら、壁があると言う。それは何もない壁なのかもしれないし、あるのかも解らないとも言われ、解らないことにすら壁の存在を主張する。皆が、壁を売り、壁を買い、壁を夢想する。
壁は人にとって大切であるが、見たままのところにしか壁はない。壁は取り払われるのを待っているだけなのに。


11.銃
命を奪おうとする器具があるとすればそれは銃だ。
生き物をこの世から葬り去る器具、死の温度は冷たいのか、死後は冷たいのか。その世界観をそのまま金属的に造形した、器具。
発砲の原理、それに沿い、銃器は爆発の力に拠る弾丸の発射、そして空気の摩擦を突破し目的物に着弾、生命を奪うべく破壊。命を維持するべく臓器の破砕、命を守るエネルギーを循環させる血液管の破砕、それらによる致命的な損壊。
血液臭はどこか金属臭と似ている。


12.ラーメン
人が何かを決めるとき、そして、何か変化を求めるとき、その臓腑を充足させる食べ物がラーメンである。
近代、中華そばと命名され、しなちくとかん水の芳香が界隈を漂い暖簾に染み付いている。笑顔のない、高圧的な店主の声は、互いのこれからの戦いの前の効果的な精神戦である。
 洋食がテーマパークなら、ラーメンは自分で作り上げるテーマパークである。スープの表面に適度が脂液が漂い、トッピングはその沼を彩る食欲の蓮である。
麺は小麦臭を残し、歯の圧力を俄かに跳ね返す弾力ではなく、ほどよく包み込む肉布団のような性格を保っている。
スープをすすり、麺を噛み締め、胃に落とし込んだとき、頭の切っ先に一つの光りのようなものが浮かび上がり、その瞬間、店主は教祖となり、あなたは信者となる。


13.手すり
彼らの一日は凡庸だ。たとえば都心の歩道橋の手すりはほとんど触られることがない。人々の関心は行き交う女や男であったり、耳に押し込まれた念仏と、スマホを操作しているフォームを装うことに終始している。
手すりは見られることもなく、錆び付き、強度が落ちるまで長い年月を持ち続けている。
彼らがあらゆる場所からすべて取り払われたとき、人は少し足を止め、それを画像に撮りこむだろう。そして、それを糾弾し、問題視し、訴えることだろう。


14.工場
その片隅に名もない薄い繊維のような体躯を持つ蜘蛛が生活している。工員たちの声と構内拡声器の音が氾濫し、その音から染み出した口臭のようなものを巣に詰め込み、時折工員たちを眺めに巣から出てくる。工員の吐息とその蜘蛛たちの徘徊する空間の暗さと寒さが工場である。


あとがき
物事に真実があるとすれば、それは自らの考えに他ならない。その人が思い込む事柄がその人にとっての真実であり、有益なのではないか。考えはひとしきりそこに停滞するが、いずれ変わり、飛翔してゆく。考えられない考え方も存在し、何も考えず前に進むことも多々あり、大切な何かを忘れてしまっている場合もあろう。
 現実は一つ、それが仮に致命的な物や事象であっても、何かを想像し思う心は多く存在する。


親戚のひと

  山人

親戚の家に行く時は蒸気機関車に乗り、二つ目の駅で下車した。ひたすら砂利道を歩き、途中で山道に分け入った。薄暗い山道を息を切らして登っていくと、大きな杉林のある地獄坂と呼ばれる場所があり、そこを登りきると親戚の藁葺き屋根の家が見えてくるのだった。
 親戚の家には老犬だが、大型犬がいつも吼えていた。私はその犬が苦手で、外で祖母が来るまで待っていたのだった。玄関で何度か飛びつかれて泣いてしまったが、祖母は笑っていた気がする。今から思うと私が来たので犬は喜んでいたのだろう。
 祖母はガラガラ声でいつもクンクンと鼻を鳴らしている人だった。昔から肉体労働はしない人で、ひたすら家の中のあらゆるところを雑巾掛けして過ごしていた。だから古い囲炉裏付きの家だったけれど、そこらじゅうは磨かれていてピカピカだった。
 親戚の家には離れの小屋があった。そこには曾祖母がいた。離れの小屋に一人で住んでいて秘密基地みたいな小屋だった。曾祖母はとても小さくて、目が凹んでいて魔法使いのような人だったし、あまり話をした覚えもない。
曾祖母の小屋の横にヤギが飼われていて、葛の葉を持っていくととても喜んでぺりぺり食べていた。
ヤギの乳を飲め、と祖母が乳を搾ってくれて、良くそれを飲ませてもらった。少し青臭い乳だったけれどとてもコクがあって好きだった、でも、良くおならが出た。

 親戚の家には祖母の他に叔父と叔母がいた。性格も顔もあまり似ていない兄妹だったが、昔は戦争などのため、よくあることだと後から聞いた。
 叔父は軽自動車で格好つけて車を運転し、時々頭が痛くなるほどアイスを買ってきてくれた。一度に十個以上買ってきた。最初は美味しいけれどだんだん厭になってきて。でも叔父は、全部食えや、と無理やり食わせた。叔父のもてなしを断ることはできず我慢して食べた。
 叔母は未だ若かった。嫁に行きそびれていたのは少しお転婆っぽかったんだろうか、よく解らない。でもやっぱり活発で、バイクに乗っていたし、風を切っていた。叔母がバイクで花見に連れて行ってくれると言うので、バイクに乗せてもらった。祖母は心配して、右に曲がる時は左に体を傾けれ、とアドバイスしてくれたものだった。石だらけの土埃の上がる道を下っていくと、小さな発電所があり、桜並木があった。

 親戚の家は山の中の一軒家だった。
隣の部落の村祭りがあると、叔母は私を連れて懐中電灯を灯し山道を歩いていった。どこをどう通っていったのか、さっぱり解らなかったけれど、田圃の真ん中に小さな小さな鎮守様があり、太鼓を叩くやぐらがあって、明るい提灯がたくさんぶら下がっているお祭り広場にいた。知らない人の中で私だけが明るいところにぽつんと立っていた。叔母はニコニコしてどこかのお兄さんと仲良く話していた。


 月日がめくられると、昔のあの藁葺き屋根は壊され、叔父は小さな家を下の部落の端っこに建てた。叔母は遠いところに嫁に行き、クンクン鼻を鳴らす祖母と、ぶつぶついつも小言を言う叔父の二人だけとなった。
 いい年になった叔父もお嫁さんを貰った。コブ付だったけれどなんだか結構嬉しそうで、お嫁さんを車に乗せたりしてドライブしていた。
お嫁さんには大きい男の子が居たが、直ぐ居なくなった。
何年かして、叔父とお嫁さんの間に初めての女の子が出来てとても幸せそうだった。でも、お嫁さんはとても活発な人で、家の中でじっとしているのは嫌いだったから、いつも二人は喧嘩していたようだった。
 十年ほど経ち、また家の中は祖母と叔父だけになってしまったようだった。
それでも、叔父はいつもいつも小言を言い、文句を言い、何かを呪い、起きている時は怒っていた。
 ある日、叔父は田圃の作業中に畦で亡くなったそうだ。叔父はきっと、田圃で作業しながらも厭な事を考え、怒っていたんだろう。世の不条理を恨み、そして神様は一本の管に鋏を入れてしまったんだろう。叔父はカメムシのようにカラカラと死んでいったんだ、そう思った。
 祖母も大分生きたようだが、施設で死んだそうだ。

 猟期の最終日、私は親戚の家の手前辺りからカンジキをつけて歩いていた。親戚の家の位置には雪が覆い、真っ白に均された雪原となっている。親戚の家のうしろに大きな杉が何本かあり、小さな尾根になっている。この尾根のうしろを通り、叔母と山道を歩いて村祭りに行ったのだ。
 大きな杉の木から、初春の陽射しにくたびれた雪の塊が落ち、雪面には私の影が長くなり、セッケイカワゲラがおびただしく雪上を徘徊していた。


スキーリゾート

  山人

遠方に見えるピステには
うごめく虫たちのように
人がはらはらと落ちながら滑走している


三月の風は
少しやわらかく吹いていた
午後の日差しが雪の粒に反射して
雪だるまは静かに寝そべっている

熟れた生活を楽しみ
もいだ果実を切り分けて
人は人として休日を貪り食う

轟音と共に天然林をすり抜けていくクワット
眺めるとそこに
やはりたくさんの人々が
スロープの中で
どこかに落ちていくように
滑走している



昼を過ぎたレストラン
肉の臭いをスキーウェアーの下に隠した客は
しきりに携帯を弄り、器官の機嫌を伺う
体液は人に棲み付き、何かに促されるよう形を変える
嬌声と笑顔で日中を演じ、ゆるやかに夜にむけて溶解してゆく

ひなびた目尻には、柔らかい陽光が差込み
うつむきかけた女を横に侍らせている
薄い斑点状のそばかすを具えた美しい女
綴じられた口元は何かを発するのだろうか
美しい女は尽きてしまったような男の傍に居る

なにひとつ解けないもの
それが私であり、いつまでも紐は解けない
結び目をしょったまま
私はひたすら猿人となって新雪を蹴散らし
年齢不詳を演じる



広大なリゾートエリア
多くの尾根を持つ小山脈を連ねる連絡リフト
踏み均された数々のコース
リフトの定期的な信号音と
決まった台詞を吐き続ける係員

丸い峰からどんよりと歩いていくニホンカモシカ
多くの人々がまるで何かを見るように指差していた


ショッピングモール

  山人


郊外の田は収穫のあと放置され、新しくイヌビエがすでに生い茂り、晩秋の季節特有の屈強なアメリカセンダングサが雨に打たれている。
ときおり雨脚は強くなるが、大雨になることはなかった。
 雨はすべての世界を狭窄してしまうほど憂鬱だ。この雨の中、透きとおるような横顔で通り過ぎる男女の車があり、幼いやわらかな面持ちの子供たちの横顔もみえる。
 バイパスの近くの高校ではなにかのイベントがあるらしく、多くの父兄やらが傘を差し校門に入るところであった。
低山だが、鬱蒼とした連山が峰をつくり出し、少しづつ色合いを増している。それぞれの色、数々の色合いの車たちが峠を越えて街並みに吸い込まれてゆく。

二人きりで出かけることなど今までどれだけあったであろうか、そう思いながら助手席にすわり、雨の街を眺めている。
行楽の季節なのに、台風の到来で遠出は無理とあきらめ、家族連れたちは近くのショッピングモールでやり過ごそうとしているようだ。
むかし、私たちもあんなふうに子供たちの手を引き、あるいは抱きかかえて、店の中に入ったものだった。たぶん君も同じように、遠い記憶をたよりに昔の記憶に寄り添っていたのだろう。
普段あまり会話しないのだが、すこしばかりの安堵と久々の休日で、少し饒舌すぎるのではないかと思うほどしゃべってしまっていた。

広い川に架かる大橋を渡ると、新興都市らしい病院や建物が見えてくる。
巨大なショッピングモールで車を止め、君は買い物があるのだと出た。傘を差して雨の中を小走りに向かっていく。
 いつもそうして何かに向かう君がいた。
夏の、まいあがる草いきれと土ぼこりの中、甲高い声がありきたりな日常をふるわせて生活の時を刻んだ。
未来は少しずつしなだれてゆくけれど、何かを数えるでもなく、君の声はふくらんだ突起物をけたたましく刈り取ってゆく。
そのひとつひとつが、私たちの日々だった。

壮大なイマジネーションがひとつの光源となり、しだいに明確になってゆく。こまかい事柄がさらに複雑な数値をたずさえて、ひとつふたつと入道雲のようにふくらんで熱量を帯びてくる。屈折のない光と直線と空間、とり憑かれたうねりの渦に次々と人々が巻かれてゆく。はじけてころがされた鬱屈が其処此処に黙って潜んでいる。
巨大な建物の中をあらゆる空気が風となって吹き渡る。織り成す生活の地肌がにおいを放っている。

君はいくつもの買い物袋をぶらさげて帰ってきた。ひとつの行動が終わり、次へと向かう時のふと漏らす息遣い、そのようにいくらかの不満を口にし再び運転席に座る。
 雨は少し小降りになる。
私たちの後部には、買い物袋のささやきが聞こえる。
かつて、後部座席には私たちの子供たちが乗り、行くあてのない旅のことも知らず、名もない歌をうたっていた。

すでにバイパス近くの高校のイベントは終わり、郊外に入る。雨はおだやみ、帰化植物のアメリカセンダングサは季節はずれの花を持ち、君の振る舞いのように揺れていた。


種屋

  山人

 その店はあった。
丘の上にポツリと立ち、遠く工場の白い煙がもくもくたなびいている。
小さな木製の看板に無造作に書かれた、種屋、の文字。周りはトタン板で覆われ、回りには見たこともない草が生えている。
奇妙な芋虫がずるずると這い回っており、そこにはおちょくったようなカラス達がのそのそと動き回り、夥しい数の芋虫を啄ばんでいる。
  怠惰を発散させるような午後の陽射しは重い。
そんな陽射しが訪れ始めると、客が動き始める。
客はごく普通の人に見えた。
客が店に入ると、中からひらひらした店主が出てきて、それぞれに応対を始めた。
 何の種なんだろう、店に入ると種などどこにも売られていなかった。
ガラスの瓶には臓物がグラム単位で売られており、骨や血液、眼球などが所狭しと置かれている。
別な場所には、干からびた木の葉や枯れ枝、瘡蓋などの比較的乾燥系の品が置かれている。
臓物を購入した人は臍の穴を千枚どうしでさらに広げてねじ込んでいるし、店主に手伝ってもらいながら頭蓋を外し、透明な脳味噌を入れてもらったりしている。
瘡蓋を買った者は、ぺしゃりと皮膚に擦り付けて揚々と引き上げていくのだった。
 乾いた風を一つ・・
という客に、店主は向こう側の戸を開け、巨大なビニール袋を掲げて客に渡した。
客はあまりの嬉しさに、顔の皮膚がぱらぱらと土間に落ちていくのだった。
 最後は私の番になった。
店の奥にある大きな麻袋が目についた。
アレは何ですか?
と訪ねると、店主はおどけたように首を傾げ、
アレは ちょっとした非売品だよ
そう言った。
どうしても欲しいという人には相談させていただいているが・・・
口を濁した店主であった。
およそ一〇キロほどの重さであろうか、どしりとテーブルに置くと、中から菓子の乾燥剤のような小袋がたくさん詰められていた。
ひらひらした顔の皮をめくり、店主は饒舌に話を始めた。
うちの客は見てのとおり変わった客だが 普通の人でもある むしろうちの店が変わっているのだ だが 最近はあまり売れなくなった 乾いた風・・・などは 以前は飛ぶように売れたが 今は半値でも売れない 次から次へと新しいものが生まれていっては死んでゆく 今は非売品だがこれを売るしか生き残る道はないのかもしれない
そう店主は言った。
 見るとその小袋には、ガムテープが張られていて、商品の名前が隠されているのだ。
ただ こいつはね あまり多く使うと本当にやばいことになるかも知れない つまり適量を用いるってこと 折角だからあんたに一袋あげるよ
ここいらで もうこんなものを売って行くしかないのかもしれない
そう言ってガムテープを剥がすと、○○○乾燥剤、と書かれてあった。


ジニア

  山人

初夏のような空気が立ちのぼる街並みを歩いていた
振り返ると古い大きな病院がある
病院の入り口付近には大きな桜並木があり
自転車置き場には夥しい花弁が散りばめられていた
小枝の先からはなれていった いくつかの一片
桜は 木であることも知らず立っている


医師の話を他人事のように聞いていた
治療するのだという
「治療」という言葉がずっと頭にこびりつき
廊下はひかり
ベンチシートの老人達は喫茶店の客のように寛いでいた

初夏ような風は心地よかった
風が顔にあたり 額に髪をなびかせる
真っ直ぐに遠くを見つめながら髪を耳にそっとかける
ふと足をとめ ジニアの種を買う
ダリアのような鮮烈な色合いが
戸惑う血液を溶かし 未来をひらかせる気がした
ジニアの花が見たい そう思った

小さな花壇にしゃがみこむ
しっとりとした土のにおいが なにかを育もうとする力を感じる
きっときっと 花を咲かせてみせる
あの鮮烈なジニアの花を見たいから
土のにおいを嗅ぎながら額の汗をぬぐった


夏の横断歩道

  山人


空気がゆがんで見える夏の日
その横断歩道には
日傘を差した若い母親と
無垢な笑顔で話す少年
ひまわりが重い首をゆらつかせ
真夏の中央で木質のような頑丈な茎をのばしている

山間の盆地町
遠くの山々に
乳白色の入道雲が
かなしいほどの青に浮かんでいる

指差すむこう
そこに何があるのだろうか
果実のような少年の笑顔のうえに
おだやかな母親の日傘があった

一部始終 あらゆるものがあらゆる目的で存在し
そうしてたたずんでいる
仕切られた建物も
道ばたの草も虫も
道路をへだてた小さな町工場も
交差点の端に構えられたコンビニも
まぶしい青空の下の少年と母親の存在も


横断歩道を静かに渡る
車いすの少年と母親
炎天の中
ふたたびおだやかに夏は浸透して
蝉時雨はふと現実に戻っていた


  山人

 一日の襞をなぞるように日は翳り、あわただしく光は綴じられていく。
万遍のないあからさまな炎天の午後、しらけきった息、それらが瞬時に夜の物音にくるまれる。光のない世界のなかで、何かを照らすあかりが次々と灯される。
夜に寄り添う生き物たちは鼻を濡らし、唾液を充填していく。

何も見えない世界を夜と呼び、それは黒と決められていた。たがいの眼差しさえもみえない世界で、あかりを求め確かめ合う。夜の孤独に耐え切れず、すがるものを求めてはやがて沈んでいく。多くの魂が浄化と沈殿を繰りかえし人が生まれ死んでいった。今日も夜はしんしんと黒くあたりにたち込めて新しい物語を埋め込んでいく。

それぞれの夜は静かに語られていく。
黒い沈黙の中、一匹の蛍が飛ぶ。やがて、少しづつその数は増え始め、蛍は乱舞する。
鼓膜のどこからかかすかに湧き出す水、チロチロとよどみなく、あらゆるものを通り抜け濾過された水。透きとおる、やわらかな羽根のこすれる音が、草つゆの根元から沁みだしてくる。赤銅色に焼けた棍棒のような腕で燐寸を擦れば、白蝋にともされた一縷のともし火。
ぼとりぼとりと吐き出されてゆく、燻っていた滓。次第に重量は軽く、その手の中に一匹の蛍が立ちどまり入念なやわらかな光をひとつふたつと輝かせている。ふと風が動きろうそくの炎を揺らした、そのとき、君の顔が少し揺れた。


乾いた少女達

  山人



少女達は駅の回りでたむろしていた
少女達は皆乾いていた 
全てのものが無機質な情景の中で
既に前からそこに居たように乾いていた

見えない虫の魂がボウと浮かび上がり
それはまるでカゲロウのように切ない

時代が怪物のようにゆっくりと動き出していた
全てが病み 
あらゆるものがあらゆる事柄に飽きていた

私も同じように乾いていた
まるで湿り気を帯びていない骨や肉を
軋ませながら動いているにすぎなかった
私が乾いているから少女達も乾いて見えたのだろう
そう思いたかった

少女達はモノクロームのチラシのように
あちらこちらに散乱し引き千切られている
時代の老廃物とともに外に弾き出され
皆乾き切ってしまっていた
回りの情景は少女達と同化し
皆それぞれただ時を止め
やはり乾いていた


  山人

崩落したコンクリート構造物には異型鉄筋が露出し錆びついている
鬱積されたすべてのものがついに限界を迎え、一瞬にして広大な大気圏の天辺に分厚い雲が浮かび、ゆがんだ紫色の空間から雨が降り出した
得体の知れない有害な気体と油脂が雨に混じり、いたるところに降り注ぐ
多くの無機物は熱を帯び、たたかれた雨により冷却され蒸気を上げている
雨が上がるとコンクリートの熱気があたりに充満し、空気がゆがみ陽炎が立ちのぼる
太陽はただ照り続け容赦がない
やがて空は次第に赤く染まり
夕暮れの時が来る
何かが不意に爆ぜる奇妙な音があちこちから聞こえてくる
星星は闇雲に光り輝き、宇宙は平和の坩堝を造形している
風が吹く
風によって薄い紙のようなものがひらつき、かすかな物音が不穏に音鳴る
星星は風によってかき消され、朝方また雨が降り出した
さび付いた異型鉄筋は腐食がすすみ、やがて強風により剥がれて風に飛ばされてゆく
頑なな強度を保持したもの
あらゆるものが劣化を辿り風化していた
とある日の昼下がり
腐食した異型鉄筋の先に一匹の蝿が留まって羽根を休めていた
何かを祈るように手をすり合わせ、ほんの数秒そこで向きを変えた後、不意に飛び去った
蝿の向かう先々にはおびただしい菌類が蔓延り、風にあおられた胞子が煙となって空へと立ち上がっていた


カエルちゃん

  山人


パパはお魚釣りに行ったよ!
君はカエルのような平べったい声で言うと
真っ直ぐ僕を見て、おしっこおしっこと喚いた
汲み取り式の便器が怖くて一人で行けないから
君のママが居るのに僕を便所に連れて行った
なにかぐちゃぐちゃおしゃべりしながらジャーっておしっこすると僕があそこを拭いてあげていた
君は本当にカエルのようで、山の中の一軒家でぴょんぴょん遊んでいたんだ

君はやっぱりカエル顔でメガネをかけていて
顎鬚を蓄えた若い男とパパとママ
今はなんだか書類上はそうでないらしいけど
一応将来の家族でってことでやって来てくれた
カエルはお腹が張ってるけど
君もやっぱりお腹がぷっくり膨らんでて
やっぱりカエルだったんだなぁって思った
なんだか、よその娘さんのようで、僕はあまり話しかけられなかったけれど
帰るときに、カエルちゃんだったっけ?って言うと
君はやっぱりカエル顔になってあの頃の笑顔を向けてくれた
不思議なのかな、自販機にくっ付いたオオミズアオを綺麗だなんて言ってデジカメに撮りこんでいた
パクリっとかしないでよ!
するするっと縦に伸びたカエルちゃん
まだまだあの頃のまんまの心なのかも知れないね
君の家族のことは解らないけど、カエル顔をいつまでもね


火と水

  山人


火が燃えている、火はささやかに舞い、わずかな黒煙を伴い燃えている。
すでに燃え尽きようとしているその男は、小さなともしびに油を注ぐ。
日が燦々と差す部屋の片隅の小さな戸棚を開けると、油の瓶が並んでいる。
乾いた土毛色の喉に、ためらうこともなく、思考もせず、ただただ油を注ぐ。
火の食指が動き、油に引き寄せられ、火は鼓動を強め、赤く血流を促し、血は滾りその命はとめどなく火と共に乱れながら狂乱の宴を開始する。はらわたから油が噴出し、乾いた口は言語で濡れ、ぬらぬらと言語は男を包み込みその濁音と怒声が新たなる炎を引き寄せ舞い狂う。


かつて静かに水は流れ、健やかに時を育んだ。やすらかな闇と風の仄かな舞いが億年の岸壁の側面をなで、星屑はその間隙を埋めるようにかがやきだし、世界を包んだ。
世界はいま閉塞し、広がりをなくし、薄味の日毎を繰り返し、ただ時間とともに発泡している。根拠の裏側すらもなく、炎のように走る光線のような人々だけのために世界は存在し、吐き捨てられた生き物の発話さえも置き去りにされている。
 遠い水のささやき、貝殻の遠方から奏でられる響き、いつか水は意志を持ちあなたの頬をなでるのだろうか。


男と冬

  山人


煙突の突き出た丸太で作られた小屋。
男は荒砥、中砥、仕上げ砥をそれぞれ一枚抜きの板におき、刃物を研ぎ始めた。
小屋の中には丸いストーブがごうごうと燃えている。
小屋の一角には一昨日捕らえた鹿が横たわる。
男は外の雪を目で追い、ほんの少し窓を開ける。
むせるように風雪が窓を打ち、男の喉に入った。
山は昨日から荒れ、本格的な冬が来たのだ。

男の愛用しているマグカップに、琥珀色のウイスキーが注がれ、乳白色のランプが灯された。
刃物を研ぎ始める男、入念に丹念に、荒砥から中砥と研ぎ、ランプに刃先を照らし見つめている。
刃を爪に押し当て、スッと刃先を動かすと爪の表皮が刃に食い込んでいく。
刃が着氷したのだ。
喜びを得たい、切りたいと疼いていた。
鹿をビニールシートの上に乗せ、ナイフをぶすりと入れる。
左右に切り開かれ、筋、関節、などを知り尽くした男のナイフは妖艶に赤く光り、肉にのめり込んでいく。

解体は一人では未だ終わらない。
乾燥や塩漬けであと数日は加工する必要がある。
背骨に沿った肉を切り取り、塩を塗る。
鉄板に鹿の油を塗りつけて、塩味だけのソテーだ。
血がまだ踊り、そこに在りし日の鹿が弾んでいる、命の味がする。
確かに鹿は躍動し、跳躍していたはずだ。

雪は本降りになり、また長い冬がやってくる。


初雪

  山人

朝方は雨に近いみぞれだったが、いつのまにか大粒の牡丹雪となり、真冬のような降りとなっている
誰にけしかけられるでもなく、雪は味気なく空の蓋を開けて降り出したのだ


すべての平面が白く埋め尽くされる前のいっときの解放
空間が大木の樹皮に触れるとき、水気を失った葉がさざめく
観る人の感傷を骨にしみこませるように、晩秋の風は限りなく透明だ

山が彩りを始めると、人々はこぞって目を細め、その色合いを楽しみに山域へと繰り出す
さまざまな出来事を、はるか彼方の空に浄化させ、廃田に生える枯草のように佇む老夫婦がいる
車は寂れた国道の脇に停車され、すでに水気を失ったススキはかすかな風になびく
ただ二言三言のありあわせの言葉を交わしあう
やがて散りゆく様を美しいと形容するのは、最後にきらめこうとする光と色である
年月の隙間に湧き出したオアシスのような思いがひとつずつ膨らんで、感情を刺激する
刻んできた時間を、他愛もない好日に、老夫婦は車を繰り出して秋深まる此処に来たのだ
それは、微かに自らの終焉の黒い縁取りを飾る行為のようでもあり
膨大な重い歴史に身を縮まらせるでもなく
ふわふわと綿あめのようにそれを背中に背負い、浮遊しているかのようであった
国道のカーブの突端に記念碑がある
その眼下には放射冷却の湖面から浮き出した霧が覆い、蒼い湖面と峰岸のモザイクな彩が静かに交接していた


気がつくと薬缶の水が沸き、蓋を押し上げる湯気の音が厨房に響いている
朝からこのように、厨房仕事をしているのはいつ以来だろうかと、記憶をたどる
見えるものが、一様にすべて白く塗りつぶされていく
そこに何かがあった痕跡は突起としてわずかに感じられる
それは三つの季節を流れた時のひらきなおりとあきらめであり
どこかの土の一片の微粒子として存在し続けているであろうあの老夫婦の所作を思い出していた
むしろ、雪は終わりの季節ではなく、はじまりの季節なのかもしれない


詩人四態

  山人

春になったら握り飯をもって山に行こう
ほつほつと出狂う山菜たちの
メロディーを聴きに
ポケットの中には手帳と鉛筆をねじ込んで
いただきに立てば、ほら
風が眠りから覚めて
息吹を開始する
虫たちもよろこんでいる
だから僕は鉛筆を舐めて
もくもくと詩を書くんだ
蝶々が飛び始めると
詩ができあがる
ほら、できたよ
詩ができた
だまって樹皮を舐めるカタツムリに
僕はそうっと詩を見せる
ほら、ぬめりのある皮膚が
よろこんでいる
僕の詩をよろこんでいるよ




寂れた地下室の中で、男たちは裸になり、互いの性器を見せ合っている
その大きさを競うわけでもなく、ただ柔らかな手やごつごつした手で互いの性器に触れたり撫でたりしているのだ
だが、同性愛ではなく、あくまでも無機質に観察しながら触れている
性器の触手観察会が終わると、次に脳を見せ合う儀式が始まる
エナメル質の頭蓋を取り外し、粗脳だよ、とか、少し弾力は薄れているね、とかの話し合いの場がもたれる
血液検査もよく行われるようだ
骨粗鬆症の話も出てくる
それらの観察会が終わると、つぎは思考の競争が行われる




詩人が街を歩いている
シャツはチェックで
手にはソロバンを持ち
麻のマフラーを首に捲き
ひょろ長いキセルを咥えているのだ
頭全体が薄い樹のウロで出来ていて
所々に苔を生やしている
目玉は無く
その部分から
靄がふわふわ漂い
ゴミ虫がするすると蠢いている
頭頂には宿木が実り
四十雀がジャージャー鳴いている
詩人の頭の中には
一本の線が針金のように曲がり
その先に枯葉がついている
枯葉の真ん中に
虫食いの痕が残っている
脳など無く
一枚の古い皿が置かれ
そこにちろりと蝋燭が灯され
皿の端には
魚の骨が置かれている
ちなみにキセルを咥える口は無い


男が詩を書いている
満遍なくちりばめられた言葉の群落、それは豊かな水辺をささやきあう野鳥の群れのようでみずみずしい
大きな言葉の背中に小さな野鳥がのる
遠くから隊列をなした、水鳥が水しぶきを上げながら着水する
水のように言葉は自由さを得ている
空は押し黙り、やがて来る悪天に身じろぐことなく、湖面は言葉を続ける
詩は拡張する、重さ、軽さを自由にあやつり、時の流れまで操作してしまう
男はうたう、そして発狂する、その発狂体が粒子となって湖面を浚い、詩は離陸した


流木

  山人

昨日から降り続いた雪は根雪となった
近くの川は冷たく骸のように流れている
どこかで枯れた木の枝が
石と石の間で水流にもまれ
とどまっている
流木の体の中までしみこんだ水気が
さらに流木を冷やし
もう、意識もなく
ただ、そこにとどまっているのだろうか

ひとつぶの意志が
たとえば団栗となって地上に落ち、とどまる
意識の隅をつつくように
促されるように何かが疼きはじめると
意識は上部へと押し上げられる
上へ上へと双子葉となって
日ざしを受容する

ふと気づくと風が吹いている
まだ芽吹いたばかりの若葉のからだを
いとしく愛撫する
体中の樹液がおびただしく水気にあふれ
勢いよく音を立てながらめぐってゆく

ねむりのとき
かさり
甲虫の羽音がするのを黙って聞いている
月の光の残片が甲虫に照らされ
抑揚のある刻み音が穿孔する
さまざまな毒や弊害から免れることはできない

立つ、という意義を忘れたことはない
それは使命にも似て
己はいつも上を見て立つことで
確かな命を定義づける

森の匂い
その空気に浮かれ
万遍の笑みを繰り広げた
笑みは他の生き物に和を与えた

天体の自転から繰り出される
様々な無機質な暴力が森を蹂躙した
その圧力に耐え
赤黒くその生きざまを刻む
年輪はただ生きてきたわけではない

ただ、立っている
その認識に老いを感じたころから
それを根城に病のコロニーが集る
病とともに謎解きが開始される
不変、とも言おうか
老いと病は新しい命へのジョイントかも知れない

嵐の前の静けさに酔い
満月は夜を装飾する
暴かれた真実は宇宙に凍り
ただ、その時を待つ

意識は直立し
まだ上昇している
しかし、ゆらりと揺らめいたかと思うと
空気は揺れ川面に炸裂
ぼんやりと木はかつて居た位置をながめ
その天空にはおびただしい星が
拍手するように笑った


紐をほどくように
流木は何かを思考した
根雪となった寒空を
カワガラスがびびっと鳴き
一片の流木を気散らし

流木のすでに壊れかかった体の中に
一粒の団栗がくい込んでいた


ツララ

  山人


ローカル線のまだ暗い無人駅
駅舎から少し離れた作業小屋
中ではストーブが赤々と燃えている
長靴についた雪はとけてゆく

庇には
外灯に照らされたツララが生っている
ほの明るいオレンジ色を
透明な胎内に蓄えている
視線を動かすと
オレンジ色の命は輝き
動いた


早朝の外はまだ暗い
早朝仕事のあとの
一服時の作業小屋

中では若い監督さんが無心にスマホを見ている
これからの人
これまでの人
が入り混じった
作業小屋の温度と
おもいが攪拌され
外に出され
凍る

ツララは
濡れひかる妖しさと
輝き切る頑なさを保ち
粉雪の舞う中
凛々とオレンジ色を輝かせていた


名もない朝

  山人



失意を助長させるように
朝は無造作に切りひらかれて
風とともに雪が舞っている
わたしの前で理想は裸に剥かれ
細く小さく哭いている
風の圧力があらゆる隙間に入り込む音
体の底から口までまっすぐ空いた管の中を
冷たい季節風が流れ込み
刃物のように音は鳴っている

差し迫る年末の気配に
急かされるように
日没は容赦がない
体内の、そのまた体内の、さらにその奥の
そこに潜り込むように夜を迎える
宇宙のひと粒の日常が黒く塗りつぶされる

記号のような日
背中を押される囚人のように
その扉を開ける


薬屋

  山人

 ふと誰かが呼ぶ声にはっとして玄関に出てみた。
いまどき珍しい、風呂敷で覆われた箱を背負った中年が立っていた。薬売りだという。
昔ながらの熊の謂だとか、小さなガラス瓶に入った救命丸など、まったく利きそうもない薬をずらりと並べた。
そんなもんいらねぇ、と言おうとするのだが、なんとなく巧妙に遮り、薬売りはするすると勝手に会話を続ける。
並べてふっと一息吐き、「いかがですか?」と言う。
意気込んで喋ろうとすると、「心の薬もあるんですよ」
真っ直ぐ物怖じせず一矢射るように言葉を発した。
 行商人だから重い大きな風呂敷に包まれた箱を背負って歩いてきたのだろう、しかし蒸し暑い季節なのに汗ひとつかいていない。胡散臭そうではあるが、一本どこか筋のとおったような頑なさがあり、ロマンスグレイに近くなった毛髪をびしっと横わけにしている。
一流のマジシャンが行う巧妙な話術と沈着な物腰と所作、それらが何の変哲もない一家の玄関先で繰り広がられている。
 「心の薬?そんなものあるわけないでしょう」
なるべく意地悪く吐き捨てるように言うのだが、薬屋は物怖じせず一点を射る様に見、「利きます」、と断定的に言う。
四洸丸のパッケージのような袋に入っていて、五角形である。
外側に草書で 心がよくなる薬 と書かれている。
橙色の少し固めの袋を振ると、からからと一〇粒くらい入っているのだろうか音がする。
 「とてもいい按配になりますよ、必ず変わってきます」
淡々と事務的に医師のように言い放つと、「一〇袋入って税込みで三一五〇円です」
返事も聞かぬうちに、「ハイこれ」と領収書を切ってしまっている。
たしか、買う、とは言っていなかった筈だったが、言ってしまったのだろうか、誰かに指図されたかのようにぼんやりとしながらお金を渡し、薬売りを見送った。
 心が良くなる薬 なんとまぁ、大雑把でアバウトでそのまんまなんだろう、しかし、この大胆なネーミングが人を食っているようで憎めなかった。
一億パーセント利くはずがないと口に出して言う。
一回一袋食後とある。未だ午後五時過ぎたばかりだったが、冷奴を半分胃に収め、水で薬を流し込んだ。
甘く酸味のある薄灰色の薬は胃に収まっていった。
 一〇袋入りのその薬は、三食後の服用だったので、ほぼ三日でなくなった。
やられたな・・・、あり得ないと思っていたのだが、上手いマジシャンのような手口にやられてしまったというわけだ。
舌打ちをしつつ、雑用をこなしていると、ふと聞き覚えのある声が玄関先で響いている。
「その節はどうも。ちょうど薬が切れている頃かと思いまして、伺いました」
文句を早速言おうとすると、「どうですか?毎日自分の心を見つめる事が出来るでしょう?それが大事なのですよ」
・・・とまた、薬屋は領収書を切り始めた。「今度は一〇日分です、二回目だからお安くして、五二五〇円です」
しゃがんだ姿勢でするすると板の間に領収書と共に手を這わせ、右手で薬を同じ場所に並べて置いた。
要らないと意思表示するのを手で遮ると、薬屋は一呼吸置き、射るような視線で薬屋は語り始めた。
 自分の心が今何処にあるか、どういう風になっているのか、風邪をひいているのか、熱があるのか、傷がないのか、体のそこらへんが痛かったりすると薬や医者に行きますが、心がそんな風になっていても、人は無頓着なものです。自分の心が今何か困っているのではないか、その原因はなんなのか、あまり考えてはいませんよね。この薬の成分は申し上げることは出来ませんが、心の中身を見つめてあげる薬なのです。心が一番大事なのです、生かすも殺すも、死ぬも生きるも。どうですか?この薬を飲んで、少しは自分の中の心を白い紙に広げてみたりしませんでしたか? たぶん、あなたはこの三日間と言うもの、自分の心を客観的に観察者として観察し、見つめてきたのではないですか?今度はあと一〇日です。この薬を飲んだ時、或いは飲む時にでも良いのです、心を眺めてみてください。それだけ。それだけで心が良くなってくるのです。そして心というものはすべての根本なのです。人は一つのありがたいことに対し、感謝することから始まるのです。それは可も不可もない平凡な日常のなかでさえ当たり前に体験できるものです。感謝の心は待ち受けていた豊穣の土に種を蒔き、やがて成長し、それがあらたなる豊かな実を実らせ幸福を引き寄せるのです。
あなたが私の為にこうして玄関のあかりをともしてくれたこの光、これは遠い昔はきちがいの発想だった。ありえない発想、つまり、心という無の物からあらゆるものは誕生したのです。あなたの周りにあるすべての事象、いえ、あなた自身の今、それらはすべて無からあなたの心が作り出した作品なのです。そのために、心が良くならなくてはどうしようもないのです。
 一気にまくし立てるように言い放つと、最後にとびきりの笑顔をまき散らかした。
いつのまにか、結局頷いたりするのみで、いいように言い包められてお金を払い、薬屋を見送っていた。
 薬が切れかけた頃、テレビで薬屋の逮捕が伝えられていた、薬事法違反である。
きびきびとした態度、眼光の鋭さ、定規で当てたような七、三の髪は煌々とひかりに照らされて輝いていた。背骨を軽く折りたたみ、一礼すると、何かをやり遂げたような安堵が漂っていた。
 「利く薬がまたひとつ消えたのか」
私は、そうつぶやき、最後のラムネ菓子を口に放り込んだ。


稜線のラクダ

  山人



一日中 しとしとと降り続いた雨ははたと止んでいる
ガラス越しに稜線が見える
夕焼けに染まった稜線
砂漠の上をラクダがとおる
ゆっくりゆっくりラクダは右に動く
あまりに美しく あまりにも悲しすぎる
私は 稜線のラクダを悲しそうに見つめている
明日は
晴れるだろうか 
私も
晴れるだろうか

稜線のラクダはゆっくりと山頂を目指して歩いている
この美しさを このはかなさを
私は誰に伝えたらいいのだろう
もうすでに 作業のダンプの影はなく
遠い稜線は私の前で 夕闇に包まれはじめている
こんなに 悲しく うつくしい稜線を そしてラクダ達を
今までずっと見たことはなかった


amaoto

  山人

ガードレールに捲きついた細い蔓植物が雨にたたかれ揺れている
雨はそれほど強く降っていた
たぶん汗なのだろう、額から頬にかけて液体が流れ落ちている
さらに背中は液体で飽和され、まるで別の濡れた皮膚を纏っているかのようだ
雨は降るべくして降っている
草は、乾ききった葉の産毛をゆらめかせ、雨を乞い、重い空はすでに欲情していた
二つ三つ水が落下し、やがてばらばらとちりばめられ、草は今、雨に弄られ、四肢を震わせている
 私は無機質に草を刈る
たった今まで草たちは悦びに満ち溢れていた、その草を刈る
草は断面を切断され、ひときわ臭い液体をこぼし雨にくったりとその残片をアスファルトにさらしている
私たちは雨の中、いや、土砂降りの中、まるで水中を漂う藻のようにふわふわと何かに押され、引かれ
脳内のどこか片隅から放たれる小声に従い、動いていた
 雨、その水滴に溶け込んだ念仏
水滴が引力に引かれ落下し、アスファルトという固形物に撃ち当たり、球体が破壊される炸裂音
その音が、ひとしきり私たちの外耳に吸い込まれていく
脳内の広大な農場に張出した棘の先端をおだやかに覆うように流れていく
私たちは皆、ひとりひとりが孤独な生き物となり、降りしきる雨の中を、新しい戦いのプロローグの中を、ゆったりと活動していた


春に埋もれて

  山人

時はまろみを増し、水は思い出したように透明になる
神経のひとつまみを
樹皮の隙間からそっと出して外をみつめる木々たち
億千のいとなみの瞼がゆっくりと開けられる
街は人を配り、人の吐息は其処彼処に一時乗り
やがてけたたましく
車が風をともない浚ってゆく

春になると別な世界がやってくるという。
座布団カバーを外して洗濯機へ放り込む
おそるおそるヘルスメーターに乗る
冬の重みや大きくせり出した脳の重さが如実だ
階段を昇り便所を掃除する
塵を分別する
布団をたたみなおして押入れに入れる
掃除機を取り出してまず二階の廊下から
玄関マットまで塵を吸い
目から零れ落ちた脳片まですいとる

終末のあとの残骸をリセットするように、細針の糸通しの孔を、鋭利な、音が、静かにゆきわたる。
鵺の正体とよばれる夏鳥が鳴いている。


20世紀少年のトモダチのように僕は
覆面の中で「まあね」と真似てみる
そして
「まだ、おわらないよね」と
トモダチの断末魔のときの台詞を真似てつぶやいてみる
僕たちは20世紀少年。
いまでもこれからも。

朝霧が立ち
窓を開けてみると だいぶ明るい
とても日が長くなった
トラツグミは未だ鳴いていた


農場

  山人


農場は今日も静かだった
土の畝が形どられ
わずかな小雨が土を濡らしている

休眠した種子たちを
刺激する気配すらも感じられない
すでに、どうだ
私が農民であったことさえも自覚できず
こうして一日の終わりを
狂いのひと時に浸ろうとしている

どんよりとした
ビニールハウスの湿度の中で
点々と茎を太らせた
菜たちのよどみが揺れる
吐いた息を
そのまま吸うような不潔な気体の中
脳さえも失われた
その菜たちの目はひたすら濁っている

虹をかんむりに
シャイな霧を瞼に乗せて
夕日に頬を赤らませ
星を瞼に閉じ込めて

少し寒い農場の脇に立つ
まだ待てばいい
ずっと待っている
動き出した土の一つの意思
きっと新しい言葉たちは芽吹いてくるはず


山林の詩五篇

  山人

「山林へ」
いつものように作業の準備をし山に入る
ふしだらに刈られた草が山道に寝そべり
そこをあわてて蟷螂がのそのそと逃げてゆく
鎌があるからすばしこくない蟷螂は
俺たちと同じだ
三K仕事に文句も言わず
ガタピシときしむ骨におもいの鉄線を補強して
なけなしの体をつれて山林へ入る
蟷螂のような巨大な刃の付いたカッターを背負い
俺たちは木を刈る草を刈る
山の肌は俺たちにはだけられ
少しだけ身じろいだが
久々の日光に少し心地よげだ
親方の合図で一服だ
煮えた腹に水をくれてやれ
体中の口が水を浴びている
どれおまいらにも
青く澄んだ混合油を口に流し込んでやる
打ちのめされた糞のような現実を叩き切る刃も研いでやろう
たまには涼風も体を脇を通ってゆく



「夏」
開かずの扉があるという。日照が熱い、暗いもがきと汗が内臓から湧き出し、無造作に衣服を濡らす。すでに自らが獣となって草を刈り分け、怒涛の進撃を続けている。名もない歌がふと流れる、何の歌だ?知る由もない、歌などどこからやってきたのだ。風は佇んでいて何も動いていない。見ず知らずの感情が脳内に浮遊し、まるで荒唐無稽の羽をつけながら舞っている。
古代から開けることのなかったかのような陰鬱としたその暗闇を少しづつ抉じ開ける。ふと照らされた光に暴露された青の暗闇は、現実にさらされ始めた。突然、暗闇はすでに暗闇などではなくなり、現実のものとして現れはじめた。いささかも微動だにせず渾身の夏の陽光に照らされている。「すべて、その暗闇に差し出せば良いのだよ」、と声がする。手のひらの臓物を掲げて静かに目を閉じて、自らをささげて、暗黒の中に魑魅魍魎としたその内奥へ、入り込んでしまおう。魔界からの伝達が来ないうちに。それにしても今年は暑いな。



「山林に残された風」
山林は、祭りの後のように、しなだれた風景をさらしている。
命をおどらせた、たくましい汗と鼓動が、かすかな風を生み、どこか静かにたたずんでいるようだ。
おもいの仔虫を黙らせて、思考を凝固させ、俺たちの汗と暑さが、体を引きずり、どこか知らないところまで連れて行ってくれた。
 俺たちのつけた風の名、それはまだそこにいた。
一匹の幼虫が静かに尺をとる。
すべての思考は、まだ閉ざされて、残された山林に、風とともに漂っていた。



「山林の昼休憩」
圧縮された飯粒の上に焼き魚がのり
それを掘削するように口中に放り込む
鯖の脂がいっとき舌をやわらかくするが
噛み締めるのは苦味だけだった
頭蓋の内壁には からからと空き缶がころがり
虫に食われた枯葉が ひらひらと舞っている
硬い金属臭のする胃壁に落ちてゆく飯粒
咀嚼しなければならない咀嚼しなければならないと
私の中の誰かが呟くのだ

いくつかの物語を静かに語るように鳴く蟋蟀の音
もの思いにふける枯れ草
かつて田であったであろう荒廃地
下草や小藪を生い茂らせ
大きく手を広げる鬼胡桃の樹

生きるとはこのようなものなのだよ
カラスはゆさゆさと羽音を揺らし
杉の天辺から天辺へとわたり行く

山は流血している
汚らしい内臓を曝け出し
そして。
いつ戦いは終わるのだろうか
私は大きな田へと続く農道を
意味もなく歩いていた



「枝打ち」
高台にある林道の脇に車を止める
さびれた初冬の枯れススキが山腹を覆い
はじき出された男たちのけだるい溜息がアスファルトに這う
自虐で身を衣にして新しい現場に向かう
男たちの嬌声に雑木は何も言わない

刈り倒された雑木の群れを泳ぐ
夢を肴に酒を飲んだ日もあった
はじき出された抑うつを抱え込んではまた
そうして男たちの今がある

油びかりするチェーンソーに給油する
打ちひしがれた心の貝の蓋を抉じ開けてエンジン音が鳴る
ひとつふたつ、男たちはジョークを散らし山林へと散ってゆく


夏休み

  山人


結露した鉄管を登ると
冷気の上がる自家発電の貯水層があり
ミンミンゼミは狂いながら鳴いていた
夏はけたたましく光りをふりそそぎ
僕たちはしばしの夏に溶けていた
洗濯石鹸のにおいの残るバスタオルの上に寝転がり
紫色になった唇で甲羅を干した
毒々しい竹煮草を蹴飛ばすと赤茶けた汁をほとばしらせ
嫌な臭いは赤土に吸い込まれていった

母は黙って軒先で草とりをしている
僕はそれを確かめると執拗に眠気がきて
かび臭いコンクリートブロックの冷やかさに安心して眠るのだった

暑さをほどくように
ヒグラシは小走りに夕刻を知らせ
ふと外を見ると
いつの間にかみんなが遊んでいる

何かから逃れるように僕らは
あちこちにある風を捕まえては遊んだ
いつも暮れる一日のようなあきらめを
瞳の奥にたくわえながら
もう、ひらかれることがなくなった開拓村の
僕らだけの夏休みを過ごした


雨の朝

  山人

久しぶりに雨が
そう日記に書きはじめてからふと外を眺める
激しく季節はずれの陽光に照らされ
疲弊した草たちは
むせぶように雨に濡れている
雨粒の音が、幾重にも重なった何処かに針のように入り込む
その奥で、カエルのつぶやきが聞こえている

季節は時をすべり
一つまみの夢を冬鳥がさらい
いくつかの諦めの氷片が砕けて冬となる
かすかに踏み跡をたどれば
そこにまた春があった
ずっと止まることなどなかった、あらゆる事柄は
終わることのない物語のように
幾冊ものノートに記帳されている

外の作業所の向こうは霧に包まれている
大気の中の微細な水粒が
すべての物物に湿気を与えている
あらかじめ知っていたかのように
大杉はそれを受け止めている

葉の裏で雨をやり過ごす蜘蛛が居るのだろう
少しばかりの湿気をとりこみ
頷くように外を眺める
生き物たちは、ただ黙って
雨とともにたたずんで居る

物語はまだおわらない
人は物語をつくるため生まれ
ずっと物語をつくり続ける

雨の日曜日はどことなく
生きる香りが漂い
乾いた何かを湿らせてくれる


小さな 五つの詩篇

  山人




罪深い朝よ
おまえはそんなにはりきってどこへ行くというのか
時空を超えて宇宙の滝まで行くというのか
俺を待ってはくれないだろうが
朝よ、おまえは嫌いじゃない

おまえが夜に吐き散らかした叫びが
結露してまばゆく光っている
おまえにも夜があり
泣き崩れた時があったのだろう
でも、朝よ
おまえは暗さを剥ぎとって透明な色を手に入れたのだな
朝よ、おまえが光ると人が喜ぶ
おまえが産んだ卵が孵る時だ
朝だ朝だよ
太陽をつかまえてこいよ






種よ
虫に食われた かんらからに乾いた親などの
真似をするんじゃないぞ
お前は一個の種として生きてゆけ
カラスに食われたのなら
黙って硬くなって糞から根を張れ
太陽の光が遠かったら、黙って眠っていろ
お前は種だ
やがてお前の時代が来る
でも種よ
万が一
腐れ掛かったら
俺の枯れた葉っぱの影で
ひとしきり皮膚を乾かせ
それまで俺は
からからに乾ききった体で
突っ立っているよ





座椅子に座り
スコッチのロックを飲る
僕は巨人になって
そこらへんの杉の木を二本折り
小枝を歯磨きして削ぎ落とし
流星をひとつつかまえて
グラスに入れる
星のカタチした流星
グラスの中で
かちりかちりと泳いでいる
満月のクレーターに顔を近づけると
酒臭いぞと雲に隠れた
宇宙の外側に顔を出すと
またそこは宇宙だった
果てしないんだなぁ
宇宙って
僕はそう言って
息を吐き出すと
きらきらと
流星雲となって
空へ伸びていった






午後の重みに しなだれた校舎から
飛び出したキャンディのようにチャイムが鳴る
太陽は後ろ向きになり
角ばった校舎は
ためいきとともに丸くなる

砂山が崩れると
ハンドスコップがことりと倒れ
ひかりは赤く染まり
川となって
町を流れてゆく





老人がベンチシートに並んでいるのだ
昔はたぶん女だった
男だった
今は老人だ
人生なんて そんなもの
皺皺に閉じ込めて
ホッチキスでとめている
そんなもんがあったんかい
それでも老人
剣を持ち
戦車を引き
戦いを挑んでいる
この世で一番相手にされないのに
それを苦にするでもなく
悟りきった戦士のように
今日も
乾いた脳で思考し
味の無い舌でまくし立てる
皺皺の老人
殺されても生きろ
燃やされる前に何か叫べ!
目の前の医者に噛みつけ!


青の眠り

  山人



目を閉じると浮かんでくる
夏の日 ゆるんだ瞳と影が音もなくさまよっていた
あの日私の時間が揺れた

蝉しぐれのカーテンを開ければ
幼子の手を引いた私が歩いている
名もない道を
あてのない夕暮れを

ふと頬に触れるものがある
とどまった重い温度はいなくなり
あきらめと安堵の間にうまれた
淡い風のようなもの

まだ行くべき道の雑踏は消えることがない
幾度も幾度も顔を凍らせ
胸を支配する恐怖の坩堝は消えることがないだろう

頑なに身を固まらせ
直線的なまなざしを向けるでもなく
ただ 淡々と
思考し 動かしてゆく

瞬きをする
その湿っ気を含んだ重い瞼で
脳裏に中に潜む
ブルー
その濃淡の闇と安らぎが
わたしを少し眠らせる


夜の山道(二バージョン)

  山人

一、
草は静かに闇の中、葉に露をまとい、一日の暑さを回想している。
ヘッドランプのあかりに照らされた、それぞれの葉のくつろぎが、私の心にも水気を与えてくれる。
闇は静かに呼吸していた。
その息が葉を動かし、それぞれの露がほころんでいる。
 
日中、病的に鳴き叫んでいた狂い蝉の声もなく、皆それぞれの複眼を綴じ、外皮は動かない。
ときおり、谷に近い場所でキョキョキョとヨタカの声がする。
闇を食い、大口を開けて虫をさらいこむ。

うっすらと下界には数々の明かりが見える。
厳かな団欒を過ごし、それぞれの家族がそこで暮らし、命の脈音が、不確かにぼんやりと発光している。

一途なおもいだけが、私をこうして山に繰り出させ、闇の中の登山道を歩いている。
頭をよぎる冷笑を、振りほどこうとするでもなく、私は私の意に任せ、山道をただ歩いている。

何も問題はない。
こうして私は山に入り、そしてこの夜の山を歩いている。
起伏のある静かな稜線はうっすらとその影を晒している。
そしてその上には星が散りばめられ、欠けはじめた月が頂きを照らし始めた。



二、
日が暮れ、夜になると言うのは、実は一瞬である
と言うことに気がついたのは最近だ。
空間は凝縮され、ついには何もなくなる。
色彩はすべて黒く塗りつぶされる。

凡庸な野鳥どもは何処かに失せ、
頑なで、入念な鳴き声が闇に放たれる。
なぜ誰も闇鳥という名で呼ばないのだろう。
ヨタカは孤独に浸り、闇を祝うように訥々と鳴き続けている。

山道の草の葉のそれぞれが、
その日一日を回想するように、
夜露を揺らしている。
その葉脈の体液は今、
静かに夜の音を聴きながら寛いでいるのだろう。

深山の一角の稜線を、山道を、深夜、
私は一人で歩いている。
遠くに見える夜景が美しい。
醜さと、欲望の塊がゆらゆらと発光し、
偽善者のような美しさを具えている。
その遠い明かりから私に注ぐ視線は皆無だ。

ときおり、風がとおる。
見えない風の道があるとする。
そして風は意図して吹いているのだと気づく。
その風が皮膚をこすると、
細菌が剥がれ落ち、再び私に生気が戻る。

この世に私のような者は、私だけだと知る。


雨 二篇

  山人



私たちは降りしきる雨の中、草むらに腰を下ろし、川の流れを見ていた。
彼はしゃべり、私もそれに応えるようにしゃべっていた。
ただそれは、衣服の内を流れる雨水や汗の流れる感触を誤魔化すためだけに会話していたのかもしれない。
それほど雨はひどい降りであった。
二匹か三匹のアブが私の周りを飛び回っている。まとわりつくアブである。それにしてもこの雨の中やたら飛び回り、秋へと向かう季節の急流の中でわずかな望みを託し、吸血しに来たのであろう。
 雨はとにかく酷い降りで落ちてきていた。
与えられたものに対して、その反動、あるいは、返し、と言うものがあるもので、先月から続いた日照りの反動は当然のごとく行われるのであろうか。
 かくて日照は、あらゆる水気を乾かして、空へとたくし上げ、多くの結露を蓄えてきたのであろう。
 私たちの雨具は、形状は「それ」であるが、すでに水気をさえぎる機能は失われ、むしろ水を吸収することに没頭している。つまり私たちは雨に飽和され、特にあらためて生体であると主張するまでもなく、二体の置物が雨に濡れそぼっているに過ぎなかった。さらに、アブについても言えるのだが、アブがまとわりついているのではなく、アブをまとわりつかせている、侍らせているとでも言おうか、私たちはとにかくそんな風体だった。
 受け入れ難い、現実の断片、それにもたれるように重力に逆らうこともなく、受け入れる。
アブの動きは止められない。アブを理解することで物事は動き始める。




うねるように雨は立体的に風とともにうち荒れている
緑と緑の間を荒んだ風が雨をともない蹂躙している
私は疲労した戦士のように澱んだ眼をして山道をあるいている
ただの一人もいないこの孤独な空間を打ちひしがれることもない
風が舐めるように広葉を揺らしていく
がしがしと太ることのみに命の灯を燃やし続ける草たち
廃れた林道には命をへばりつかせた脈動がある
人の臭さは無く、におい立つ草いきれだけが漂う
雨はすでに私の魂の中にまで入り込みあらゆる肉体が雨そのものになっている
私はひとりの雨となって山道を歩き
狭い沢に分け入りこむ
すでに私は雨と同類となり道を歩んでいる
水同士がむすびつき小動物のように山道に流れ
私の行く方向に皆流れ始めている
他愛もない休日
私はふと
雨の向こうを探していた。


S市

  山人

むかし住んでいた中都市を車でめぐる
広大な敷地にいくつもの工業団地が立ち並び
その周辺には刈り取られた田圃が季節を煽るように敷き詰められている
なつかしい鉄工所や、古いビルもまだあった

学校を出て初めて勤める地へ、狐色のコートを羽織り、ローカル線に乗った
初めてもらった給料の少なさに驚いた
それでラジカセを買ったり、鳥の巣のようなパーマをかけた
白衣の白さに気恥ずかしさを感じながら、菓子づくりもやらせてもらえた

文通をしていた
手紙を大家さんから受け取ると長大な文章を書いては投函していた
文字数の多さが募る思いの大きさだと思い込んでいた頃だった

あの街は、大人の出発点であり、もうひとつの故郷だった気がする
まったく奇妙な人の集まりで、個性に満ち溢れ
その人たちが皆、一つの構内でパンや菓子を作っていた
それぞれの細かい動きや、話しぶり、今でも鮮明に覚えている


なつかしい街の様子はかなり変わっていて、よく立ち寄った喫茶店やデパートは無かった
よく飯を食いに行った食堂は存在していた
しかし、もう営業はしていなく人の気配すらもない
タバコ屋の大家さんはもうこの世にはいないだろう
かつて工場があった場所を探すがほとんど解らない
時代はまるでどこかに急ぐように走り続けているのだと思った

  *

乾き物の肴で
覚えたてのタバコを吸っていた
みっチャンという酒場で
飲んでいたんだ

ショーケースの中には
ショートケーキやシュークリームが並んでいたし
売店の女の子は可愛かった
ミニを履かされていたからきゅんとした
女子寮で膝を立てて下着を見せる子が居た

街を歩いていると
金木犀のにおいがした
秋、鈴木と言う男とよく歩いた
スパゲティ屋でワラエル夢を語っていた

住んでいた周りに側溝があり
夏は強烈に痒い薮蚊が出た
熱帯夜
冷たい風呂に浸かっても眠れなかった

仕事中にアイドルの歌をうたっていた水野は
地方紙の訃報欄に載っていた

佐々木さん
小娘を弄び堕胎させた
フィアンセの眼球は取り除かれていた。



なんだか今
ひどく僕は疲れていて
紙芝居のような
思い出を辿っていると
なんだか
瞼がふくらんで
頭の中が痒くて仕方ない
丸い椅子に座り
パチパチと炎の前で
それらを眺めている
絵は一枚一枚炎にくべられ
きな臭いにおいとともに
火の粉が舞い上がった


  山人

私は森の中にいた
山ふくろうの鳴き声と、おぼろ月夜がおびただしい夜をつくっていた
さしあたり気候は悪くない季節とみえ、そして夜もふけつつある
記憶を辿るが、なぜだか脳が反応を示さない
記憶の構造が気体のようにふわふわと漂っている
この場を離れ、私の拠りどころへと帰る必要がある
さいわいその昔、私は山野を歩く趣味を持ち、さまざまな知識があった
窪地の風が通らないやわらかい腐葉土の上で、横になり少し目を瞑る
流れる霧のその先から明かりが徐々に差し込み、朝が来る
季節は初夏である
そばに渓流があるのか、ミソサザイの突き刺すような声が聞こえる
標高はさほど高くないだろう
まだありふれた雑木があり、一度は人の手が入ったところだ
藪を行くとチシマザサの群落があり、根から斜めに突き出た筍が生えている
小沢を通り、少し登るとコルリの陽気なさえずりが聞こえてくる
多くの野鳥は、森で棲み分けを行い、ひらけた光り溢れる地に居るのがコルリだ
コルリに導かれ、改良されたブナ林に出る
ふと見るとチゴユリの群落があたりを覆い尽くしている
きっと道筋は近い
やがて近くに鉈目を見ることになる
しかし、それは忽然と消えた
たしかに人の存在があり、人の呼吸があったはず
やがて、あたりは再び霧が覆われ
縦横無尽に立ちふさがる蔓群落と灌木が一層激しく立ちふさがり
森は深く難解さを増していった


ゆく

  山人

 小さなザックを背中に背負い、懐かしい山村のバス停で下車した。少年時代を過ごした村である。
すでに稲刈りも終わり、刈り取られた稲の株から新しい新芽が立ち上がり、晩秋の風に晒され微かになびいている。
落穂でも残っているのか、カラスが何羽も行ったり来たりしている。
未だ舗装されていない小道を歩いていくと、深い山容が正面にあった。魔谷山と言われる伝説の山である。名前に魅せられて標高こそ千メートルを少し超える程度だが、多くのハイカーが訪れる山である。
取り憑かれたように突然目を見開き、村人達が山に分け入り、そのまま消息を絶ったと伝えられる魔の山。そんな伝説が登山口の小さなプラスチックの看板に書かれていた。
一歩踏み出すと、別の世界へ踏み込んだような取り返しのつかない感覚に襲われた。私はここを最後の場所として登るのである。
今まで多くの山登りをしてきた私は、幾度も死への恐れを感じたことがあった。その都度生を味わい、安堵したものだった。
幾度となく小さな罪を繰り返し、そしてかけがえのないものを無くしてしまった。私が私自身の存在を受け止めることは許されるべきことではない。泥臭く生きることも可能であり、それが逆に美しいとする考えもあるだろう、しかし、十分すぎるほど泥臭く私は生きた。死んでいく時だけは美しく死んでいきたい。
死を暗示させるような文面も何も残していない。そういうものを残すことは死への恐怖を訴えがたいためのものなのではないか。確かに死は怖い、幾度も危険な目に合い、死の恐怖を感じあの世の使者の舌なめずりを見たこともあった。死は怖いが、私がどのように死に往くのか、そして私の魂はどこに行くのか、それを確かめたい気持ちがあった。それが完結である、そう思いたかった。生を享けた時の記憶がない、だから、生が終わる時は明らかにそれを自覚したい、そう思った。
 
晩秋の気配が漂う山道は、多くの彩られた葉が散乱していた。すでに午後の日差しが差しこみ、夫婦連れの登山者に会った。夫婦と言えども仲が良いとは限らない、だが、夫婦で登るからにはそこに愛があるのは当然だろう、そういう普通の考えを嫌った私だった。
「これからですか」とにこやかに妻君らしい女性が声をかけた。
「ええ・・」、確かにこれから山に登るのだ。だが、違うのは下山しないと言うことだけだが。 
カップル、単独行者、グループ、数組の登山者に会った。山頂に着くと三角点があり、そこにザックを立てかけた。すでに登山者は全て下山しており、登山者によって侵食された山頂には、いくつもの転がった石と生き物の空気が漂っていた。
三角点に腰掛け、五年間止めていたタバコに火を点けた。吸っていた頃の銘柄はすでに発売されていなく、軽めの人気銘柄を買ってきた。気管支や肺の細胞は、五年もの間この時を待っていたかのように煙と毒を堪能していた。毒が満たされ、そのけむっていた想いを晩秋の夕闇に吐き出した。
午後三時を過ぎると明らかに晩秋は駆け足のように夜を急ぐ。山頂を後にした頃にはすでに足元が少し暗くなっていた。
山頂直下の急登を下ると、緩やかな窪地となり、薮を分け入りやすらげる場所を決めた。
最後の晩餐だった。
ヘッドランプを取り出して、湯を沸かした。死ぬつもりが生きるための行為をしているようで滑稽だと思い嗤った。
レトルトカレーとインスタントラーメン、おかずは赤貝の缶詰だ。山でひとりでこんなに贅沢したのは初めてで、自分の存在の終焉に乾杯、と高級な缶ビールを木に優しくぶつけた。
これで眠くなればちょうど良い。
ほどよく眠くなり、しばらく寝たようだ。風の音で目が覚めた。強烈な寒さで星は凍っている、とたんに我慢できない尿意を感じた。死ぬ時もこんなに寒い目にあわなければならないのだろうか、この震えのあとには気持ちの良い眠気が襲ってくるはずだ、そうすれば凍死できる。それにしても我慢できないほどの寒気が体中を刺していた。少し小高いところに立ち、放尿した。尿が風に煽られ飛沫となって左右に揺れ、私の足元もゆらりと揺れた。尿意はまだ納まっていないのに体はバランスを崩し、宙を舞った。暗い闇の中、私は滑落しながらまだ放尿を続けていた。数十?メートル落ちながら尖った岩にバウンドし、私の眼球は頭部から離れ、暗い煌く星空を眺めていた。次のバウンドで頭蓋から飛散した脳漿が体から分離し、新しい闇の空間へ飛び出していった。脳漿の想い、険悪なスラブの岩を滑り落ちながら「あなたは、いつも○○なのよ、お父さんなんて・・・だもの、どうするんだいったい、わかってるよ、そんなこと&%#”!*+<?***」
 ザスッ、鈍い音がやっと平らになった岩棚に落ちた。もはや原型をとどめていない私だった。これで私は間違いなく死んだであろう。心残りは尿意がまだ残っていたことだった。
それと、ずいぶんきたない死に様だ。

                   


出稼ぎ人夫

  山人

飯場に着くと、俺たちは襤褸雑巾のようにへたり込んだ。ねばい汗が皮膚に不快に絡みつき、作業着は雑菌と機械油の混合された臭いを放っていた。風呂は順番待ちだし、俺たち人夫は泥のような湯船に浸かるしかない。なんとか汗を流せば飯の時間だ。寝泊りする作業小屋から少し歩くと飯炊き女が居てそこで飯を食う。塩ビで出来たどんぶりにまったく光沢のない飯粒を盛る。葱だけの味噌汁、たくわんと鯖の缶詰をおかずに食うのだ。それぞれが安い焼酎ビンをかかげて、生目で飲りながら飯をかっ込む。あとは、酔いつぶれて寝るだけだ。雑魚寝の飯場は花札をやる者、ひたすら不貞寝を決め込む者の二通りしかいない。夜中に酒が醒めるとうるさい薮蚊が徘徊し眠れない。
 隧道のなかで俺たちはひたすら一輪車を押したり、剣スコップで土をほじくったりする。十時と三時に短い一服があって、ずっきりを出して刻みタバコを吸うのだ。刻みタバコを一塊吹かして、火の塊を手の平にぽんと投げつけまた葉をねじ込む。皆が鬼畜の作業から開放される一時だった。それを二回やるともう作業のサイレンが鳴る。サイレンの後には澱んだ重い吐息と溜息が地の底を這う。
昼飯にはメンツ弁当にびっしり隙間なく飯粒がねじ込まれていて、隅っこにしょっぱいだけの昆布の佃煮と、真ん中には真っ赤な血のような梅干が置かれていた。
 俺たちは出稼ぎ人夫。かかぁの股を風に吹かせても、銭を稼ぎにやってきた道具だ。かかぁの股を掘ることもできず土をほじくっている。夜中には、板張りのからっ風の吹き通る糞山の便所で棒を擦る。腐った泪が糞に纏わりつき、そのまま死んでゆく。このまま俺たちは、かかぁの穴の寂しさを埋めることも出来ず、腹の突き出たじじぃの札束を増やすために死んでいくんだろう。


共通する無題詩

  山人


ひらひらした幸福が
街の中を舞っている
今日で地球が終わるので
みんなあわてて楽しもうとしている
それにしてもにこやかじゃないか
もしかしたら終わらないのかも、ね。
そのように僕は彼らを妬んでいると
空からめまぐるしく雪が降ってきた
白く底知れない雪が
降り積もる
まるで僕の穴ぼこを埋めていくように。
埋めてしまえば証拠は残らないよ
僕の妬みや消沈を埋めていっている
悶々・・しながら雪は
慌ただしく思いっきり
わりと気合入れて降っているから
僕はすこしあきれて
いやぁ、降るなぁ、などとしゃべってみる
すると雪はただ黙って
力(りき)入れてどんどん降り積もっていく
クリスマスももう終わって
明日からまた
あたらしいセカイがはじまるらしい。




今まで幾度となく訪れたラーメン店は、少し早い時間帯にもかかわらず「営業中」の看板を掲げていた。
細長い体躯の店主と中年の女が、静かに決まりきった作業を行い、開店準備をしていた。
いくぶん早い客の来訪にあわてるでもなく、自分の所用を足しつつ、頼んだ味噌ラーメンの準備をしている。
店主の中華鍋に無造作にモヤシが放たれ、絶妙な鍋さばきでモヤシは宙を舞う。
いたって淡々とまるで普通に息を吸うかのごとく、店主は当たり前に作業を進める。
女と店主は無言で互いの作業を見計らい、絶妙のタイミングで一杯の味噌ラーメンが仕上がった。
わずかにひき肉がスープの隙間に漂い、どんぶりの中央にはもっさりとモヤシが頂きを形成している。
「麺がおいしくなりました」、と宣伝ポスターが貼ってある。
割箸で麺を掬うと、その光沢に富んだ麺は緩やかにしなだれ、口中に解き放たれるのを心待ちしているかのようだ。
広い店内には、まだ忙しくならないうちにと、店主は別な用事を足している。
女は手持無沙汰のようで、することもない作業に手を動かしていた。

ぞぞっ。
美味い麺というよりも、主張をしない、つつましくもねっとりと絡みつく情感のある舌触り。
スープは、ほどよく麺体に絡みつき、それを静かに抱きしめるように歯は咀嚼していく。
麺は、果てては胃腑に眠るように落ちてゆく。
気がつくと、どんぶりの中の麺はいなくなり、脱ぎすてられた衣服のようにモヤシと挽肉が漂っている。
蓮華で一口ずつ口に運ぶ。
やがてピンが外れたかのように、大口を開けてどんぶりに唇を寄せ、無造作な所作でつくられた愛を胃腑に注ぎ込んだ。

その日、食欲は無かった。
美味いラーメン屋は多々あり、タレントのような笑顔で接する、かなしい接客から作り出された食い物の顔を見たくなかった。
何杯ものラーメンをつくるために淡々と作業を行う店主は、すでにモヤシ状に細まり、まるでそれらは店主の血管ですらあった。

店を出ると相変わらず忙しそうに年末の道路は混んでいた。
何かに怯え、目的のない方向へ向かって車は走っているかのようだった。
気がつくと、私の額には汗がにじんでいた。




三日続いた雪の切れ間にほっとし、作業の終了に安堵していた
片づけを終え、雪の壁に放尿する
溜め込まれた液体は、夜に開放されている
空を見上げると、折れそうな細い月が霞んだもやの中で上を向いている
冬の夜の冷気は鋼鉄のようで、星々は光を脈打ちながら瞬いている
夜は寒さに張り付き、あらゆる物を縛りつけ、凍らせていた

どろんとした光を放つ外灯の下では、数え切れない煌きがあった
雪の結晶がオブラート状に薄平らになり、そこに外灯の光が放射し
まばゆい輝きを放っている
それは雪の表皮がきらきらと乱舞しているかのようだった

尖った月は少し揺らいだかのように見えた
言葉にならない命を吐露し、夜をしまいこむ
階段を昇りながら、もう一度ふりかえり、今年最後の雪の結晶を見ていた


  山人

地球という惑星にあふれる水
その水は塩辛く、潮くさい風に揺れている
島が見えるのはまれだが、今日はぼんやりと見えている
島は左右対称ではなく、複雑な凹凸をそなえ、夜には短い光を発していた
黄昏るとき、ふくよかな夕凪があたりを包み
その穏やかな空気を楽しむように海鳥たちは不規則に飛び交う
誰にでも見えるわけではないこの島も、また夜をむかえた
闇が打って一丸となって波と融合してゆく
微動だにしないこの天体の隅々をめぐる体液だけが
執拗に活動を繰り返しているのだ
ちか、ちか、
波による微動なのか、光は点滅するように島に近づき
数々のひかりは島で打ち消えた



島には幾人かの人々がいて、私も居た
声を奪われ、思考さえも奪われている
そういう人々が働かされていた
島には田園があった
主食の穀物が平らな地にならされて、いっせいに刈取りの季節をむかえていた
眼鏡をかけた青年と錨肩の初老の男の息が田園を大きく支配した
ゆらゆらとした気持ち悪い風の中を、滲み出る濃い汗と脂を舐めとると
あきらかに囚人のような私がいた


島は晩秋をむかえていた
田園作業が終わると私たちは森へと作業の場を移された
島の森は豊かだった
木の梢を渡るリスの動きや、男根のような菌類が枯れた大木に所狭しと現れ
なかまたちは喜んで休憩時間を過ごした
すっかり葉が落ちた森は、私たちの声が木々を素通りし、良くとおった
あらためて見る樹冠の上の青空と
洋々と動く雲は今までの苦しみを押しのける気がした
なかまたちは嬉々として冬になる現実を受け止めている
冬になると解放されるのだ
柴木を切り捨て、さらに大木を切り倒すころ、やがて確実に島は白く覆われる

彼らが離島する前に、木の実でこしらえた果実酒を飲んだ
作業の合間、少しづつ溜めた木の実を発酵させ木の洞に仕舞い込んでいたのだ
私たちは、たがいにその時々の労働の辛さを語り合った
饒舌に笑い飛ばすことで苦しみは翅をもち、異国へと飛び立っていく


島には初雪が降り、やがて根雪となった
いま島には、島主とその補佐と私だけが残されている
島はあきらかに冬になっていた
波は狂い、いたるところに寒さが占領している
剥がれかけた私の頬の皮膚を容赦もなく横殴りの吹雪が打ちつける
飛沫は水際におびただしい泡を生み
何かを目論むように揺れている
海鳥は強い風を尾羽で制御している
少しだけ風は凪いだ気がした。


ときには花となって

  山人



私は梅雨空の
とある山の稜線に花となって咲いてみる
霧が、風にのって、私の鼻先について
それがおびただしく集まって、やがて
ポトリ、と土の上に落ちるのを見ていた
私はみずからの、芳香に目を綴じて
あたりに神経を研ぎ澄まし、聞いている
たなびく風が霧を押しよけていくと
うっすらと太陽が光りを注いでくる
豊満な体を、ビロードの毛でくるみ
風の隙間から羽音をひるがえし
花蜂たちがやってくる
 ひとひら舞い、するとその羽ばたきを忘れ、落下し
やがてまた思い出したように空気をつかむ
そのように、落下したりあがったり
きまぐれな空気の逢瀬を楽しむように飛ぶ
それは蝶々
 私は、そのように
花になったり、花蜂になったり、蝶々になったりしたが
またこうして
稜線の石になって黙ってそれらを眺めている


かにに食われたんだよ

  シロ

蚊が喜んで
私の上腕の血を飲んでいる
尿酸値も高く
触れたくないが血糖値も高いかも知れぬ
健康な血ではなく
ちょっとヤバイ
その蚊を見ていると
ふと思い出してしまうんだ
君の事を。

   *
蟹に食われたんだよ!
蟹じゃなくて、蚊だろう?
蟹に、だよ〜〜

君が
覚えたての言葉で
うまく喋れないから

蟹がとても
君は好きだったんだよね

一握りできる
君の上腕に
ぷっくりと赤く腫れた蚊の痕

蚊に食われたんだろう?
蚊にに、だよ〜〜
最後は半泣きしてしまったんだよ
君は。


コロニー

  シロ

白い平面に産み付けられた
色とりどりの有精卵が
液体の飛沫に刺激され
静かに食いやぶられる

ひかりながら溶液にまみれて息をする
数々のかたちの違う幼生虫が
白い平面を徘徊する
飛散した血や泪を食い
一齢虫から二齢虫へ
そして終齢虫へと成長する

しだいに食欲はおさまり緩慢になる
肥大した体躯をゆっくりと動かし
下面へと移動する
 


裏に据え付けられた蛹
夜 蛹はふるえる
時間を攪拌するたびに蛹はゆれる
思考が液体となり撹拌される
やがて蛹の中は固体化し
ねむる
 


音のない夜
下面を食い破り
完全なる有機体が生まれる
てらてらと金属臭をそなえるもの
軟毛でおおわれ
全身眼球だらけの有機体
あかつきの頃
白い平面に
えらばれし有機体のコロニーが誕生した


月と犬と

  シロ


満月の夜、月はやさしく犬を見ていた
犬は不思議そうに眼をあけ、すっくと立ち
濡れた鼻をしながらあたりを一瞥した
犬は初秋の虫の音を
一心不乱に聞いていたのだが
ふと月明かりに、自らの何かが微動するのを感じたのだ
そうしてわたしは
こうして犬のそばで夜を過ごしている
獣臭のする老犬はにじりともせず
夜を友として座り続けている
それはまるで奇妙な光景で
二人は特に別の生き物と言う風でもなく
仲の良い同士のように
コンクリの上で並んで池の音を聞きながら
夜を過ごしていた
特別なことではない
自然のなりゆきでしかない
あらゆることがそう思えてくる
月は異様に丸かった
その縁が少し滲んでいる


ノウサギとテン

  シロ


夜、雪が降り止んだ頃、夜行性のノウサギはいっせいに跳ねだす
カンガルーのように飛び跳ねる後ろ足の腿の筋肉は巨大で
前足と後ろ足は途中で交差し、雪原を跳躍する
むき出した前歯をそっと樹皮にあてがい、かりかりとかじる
あちらこちらで、かりかりこりこりと瞼をあけたまま
闇夜に放心したままの眼でかじり続ける
ときおり、レーダーのように耳を立てつつ、方角を変えて音を探索する
いたたまれない抑圧を
太い腿や鋭い前歯に詰め込んで、ノウサギは夜をはねる

やがて、雪面を愛撫するように、足跡を擦り付けてゆく
それは自らの存在を柔らかく消滅させるように、入念に雪面に修辞する
命を守るために、存在を形にするために
足跡を痕跡を、カムフラージュする

朝から猟人は、雪原へと踏み入り、ウサギの足跡を追う
パズルのようにカムフラージュされた痕跡を静かに追い
いくつかの狡猾なトレースを残し、残された隙間へとダッシュする


     *

尾根を登り切ると視界が広がる
無雪期には田であると思われる地形だ
その畦の近くの堆積した雪のひび割れから
黄色いテンが顔を出している

双眼鏡で覗き込むと
テンはこちらに関心があるらしく
じっとこちらを見ている
私が敵なのか獲物なのかを判断しているのだろうか
それとも、ただ無造作に立ち止まっているだけなのかは解らない

一帯の地域を転々と回り
ウサギを捕食しながら生活しているテンは
雪や雨風をしのぐ、田の畦の雪のひび割れの中で生活を営んでいるのだろう

ウサギが獲れない日は、空腹に耐え
土の中のミミズを吸いこみ
胃腑に収め、雪の隙間の苔を舐めているのだろうか
あるいはもう一歩のところでウサギを取り逃がしたとしても
テンは何食わぬ顔で巣穴に戻り、じっとうずくまって
温かい血肉を想像しながら眠りについたのだろう

あるときは大きなウサギを捕らえ
腹をふくらまらせたとしても
稜線に沈みかける夕日に涙することもない

厳しさと激しさと
子への愛だけにすべてをささげたテン
それは、はかなくも美しい黄色い色合いで
ほどよく白色が顔に混ざり
私をじっとしきりに見
少しだけ小首をかしげていたようだった


いくつかの秋の詩篇

  シロ

ふと 空を見上げると
蒼かったのだと気づく
鼓動も、息も、体温も
みなすべて、海鳥たちの舞う、上方へと回遊している

ふりかえると二つの痕がずっと続いている
一歩づつおもいを埋め込むように
砂のひとつぶひとつぶに
希望を植えつけるように

海は、あたらしい季節のために
つぶやきを開始した
海鳥の尾にしがみつく秋を黙ってみている
そう、海はいつも遠く広い

僕の口から
いくつかの濾過された言葉が生み出されてゆく
君の組織に伝染するように、と

いくらか感じられる
潮のにおい
君の髪のにおいとともに
新しい息をむねに充満させる



     *



あらゆる場所にとどまり続けた水気のようなもの
そのちいさなひとつぶひとつぶが
時間とともに蒸散されて
街はおだやかに乾いている

アスファルトからのびあがる高層ビルは
真っ直ぐ天にむかい
万遍のない残照をうけとり
豊かにきらめいている

静かな、
視界、
が私たちの前に広がっている

つかみとりたい感情
忘れてはいけないもの
体の奥の一部を探していたい
その、ふと空虚な
どこか足りない感情が
歩道の街路樹の木の葉を舞い上げる

体のなかを流れる
水の音に耳をすます
数々の小枝や砂粒を通り抜けてきた水が
やがて秋の風に吹かれて
飛び込んできた木の葉一枚
日めくりの上方へと流れてゆく


*

アスファルトの熱がまだ暖かい夜、あたりを散歩する
月は消え、闇が濃く、しかし空には数え切れない星がある
そっと寝転ぶと犬も近寄り、鼻梁を真っ直ぐに向けて夜を楽しんでいる
吐息を幾度と繰り返し、私と犬は少しづつ闇に溶けていく
この夜の、ここ、私と犬だけだ
仰向けに寝転ぶと背中が温かい
太陽と地球の関係
照らした太陽と受けとめた地球
その熱が闇に奪われようとしていた
少しづつ少しづつ闇の中に入っていけるようになる
例えば寝転ぶと夜空は前になる
この夥しい光のしずくが私と犬だけの為にあり、瞬きが繰り広げられている
時折吹く、秋風
その静寂と、闇と星の奏でが、風に乗って、鮮やかな夜を作り上げている
闇は無限に広がり、空間がとてつもなく広い
地球の上に寝そべって、無限の夥しい天体を眺めている
このときこの瞬間、私のあらゆる全てを許すことが出来たのだった

   *


何かに怯むでもなく
すべるように過ぎ去る時間の刻々を様々な車達が疾走していく
それぞれが無数の生活の一面を晒しながら、県庁へと向かう一号線を走っている
土手に築かれた車道から傍らをながめれば
すでに刈り取られた田が秋空にまばゆく
どこかに旅立つようにたたずんでいる

パワーウインドウを開ければ、どこからともなく稲藁の香ばしいにおいが入りこみ
午後の日差しは一年を急かすようにまぶしい
住宅の庭から、対向車の車の煽り風によって流れ込んでくるのは
なつかしい金木犀の香りだった
記憶の片隅にある、未熟な果実の酸味のように
とめどなく押しよせる、抑えきれない切なさが
あたり一面に記憶の片隅を押し広げていく

あきらかに、夢は儚く遠いものだと僕たちは知りながら
コーヒーカップに注ぎこまれた苦い味をすすりこみながら語った
夜は車の排気音とまじりあい、犬の理由のない遠吠えを耳に感じながら
僕たちはノアの方舟を論じた
秋もたけなわになるころ、小都市の縁側にたくさんの金木犀が実り
それは僕たちの夢の導火線にひとつづつ点火するように香っていた

思えば、僕は、あれから
あの香りから旅立ちを誓ったのかもしれない

僕はあれからずっと生きている
たぶんこれからも


shima

  シロ

とある島があった
波は泡とともに、幾何学的に浸食された岸に打ちつけている
海水特有の生臭い香りが岸に漂っていた

かつて子らの声や、はしゃぎまわる喧噪も見られたが
今では数十人残るのみである
朽ち果てた小さな公園には錆臭い遊具がわずかに残り、寂寥を演じている
夕暮れの残照の中をカラスが蚯蚓を捕りに降りてくる
島民の吐いた溜息が鬱陶しく土に張り付いている


荒れた天候が幾日か続き、島そのものが何かにおびえるように彷徨し
島民たちは乾いた皮膚を震わせながら、長い悪天をやり過ごした
嵐はやがて緩み始め、息をひそめていた多くの生き物たちは
少しづつ手探りをするかのように這い出してきていた
島はふたたび、生き物たちの活動が始まった

島に十年ぶりに新しい島民が来るらしい
そう島主が伝えた日は、薄曇りの続く、秋の日だった
わずかな世帯の寄り集まりのなかに、一人の大きな体躯をした青年があらわれた
少しだけひげを蓄え、大きな荷物を背中に背負いこみ
それをおろすでもなく、奇妙な挨拶をし始めた
何を言っているのか、島民は呆然と死んだような目でそれを眺めていた
島民の顔は皺で、本来どのような顔をしていたのかわからぬほど憔悴し、老化していた
すでに、表情を変える筋肉さえも退化し
ひたすら重力に身を任せ、弛んだ皮膚が皺のひとすじを微かに動かしていた

不思議な光景だった
論じ、説得するでもなく、青年はまるで独り言のように
ただ大きい声を出すでもなく、とつとつとわかりやすく話をしている
もちろん、身振り手振りを加えることなく、手を前に組み、少し腹部に持ち上げている

病に限らず、あらゆる負の状態
これらの現象は一つの負の生命体を形成し、それぞれが社会性を保つようになる
呪詛のような負の言葉を摂取し、さらにコロニーを拡大させてゆく
そしてこれら負の生命体は空間をつたい、あらゆる無機物をも侵し
やがてこの島全体がそれに侵されることになってしまう
今後、負の言葉を発してはならない
すでに各各に営巣し始めた負の生命体は栄養となる負の言葉を求めている
それに少なくとも栄養を与えてはならない
青年は手を前に組み、島民たちの前で語った

やがて集落のはずれの木立に煙が上がり始めた
湾曲した根曲がりの木を六本立て棟とし
その間に筋交いを加えただけの炭焼き小屋のような建物であった
中には薪ストーブが置かれ、突き出たブリキ製の煙突から白い煙が出ている
入口らしい場所に、手書きで書かれた「ご自由にお入りください」との文字

青年の所作はひたすら淡々としたものだった
早朝に起床し、岬に出ては遠い海を前に祈りをささげることから始まる
一心不乱というわけでもなく、むしろ事務的な呟きのようでもあった
一旦岸辺に下り、波の押し寄せる高い場所から排便を済ませ
その近くの海水に浸かり体や歯を磨く
排便に寄ってくる魚たちを釣り上げて小屋に持ち帰り火をおこす
大きな木を縦割にした粗末なまな板で魚を三枚に下ろし、網の上であぶる
となりには鍋が置かれ、生米と水を混ぜたものが沸騰しはじめている
起床から二時間、ようやく青年はあふあふと粥と炙った魚で朝飯を食うことができるのだ
青年は思考しなかった、思考よりも行動した、言葉を発した
ただただ時間のために生き、時間を消化するために行動し
そして疲れては眠る、その生活をひたすら継続した

島民たちは青年の所作を不思議なまなざしで見るようになり、次第に指を差すようになった
青年は起きると大地にキスをした
ありがとう大地よ
そういうと唇に付いた土を舌で舐め取り飲み込んだ
歩きながら足もとに伸びた雑草に言葉を投げかける
やぁ、おはよう、昨日はよく眠れたかい
大木に手のひらをあて、頬ずりをする

青年が昼休みをし、まどろんでいると島でたった一人の少年が訪ねてきた
おにいさんはとても不思議がられているよ
そういうと体育座りをしながらうつむいてしまった
青年は言った
ぼくは全然不思議なんかじゃないんだ
ただ、思ったことを口にし、思ったことをしているだけなんだよ
君もこんどそうしてごらん

少年は少年でありながらすでに老いていた
薄日が差すといっそう少年の髪は白く目立ち、頸の皮は重力に逆らうことなく垂れていた
瞳は濁り、ぼんやりと遠くを見つめるようであった
風はどこから吹いてくるの
しわがれてはいるが、まだ変声していない幼い声で尋ねる
青年は、少年の視点のそのまた向こうを見つめつぶやくように言った
風はすべてを一掃する、風の根源はあらゆる滞りが蓄積し、次第に熱を帯びてくる
でも、うつむきの中から風は生まれない
なにかをし、言葉にする
そこから気流が発生し、風が生まれる
それが風だ、風は吹くべくして吹いているし、風の命を感ずればいい
そのことばを聞いた時、少年の瞳の奥から一筋のひかりが煌めくのを青年は見た

少年はその後、青年の家を一日に一度は訪問し、一緒に食料を求めて海に行ったり
森に入り木の実や果実を採ったりした
喜々とした感情は次第に少年の老いた細胞を死滅させ、新しい細胞が体を満たし始めた
しわがれた少年の声は、野鳥のさえずりとハーモニーを奏で
朝露のようなみずみずしさを花々に与えた
青年の小屋からは紫色のたおやかな煙が上がり、香ばしい食事のにおいが漂った

青年は、島の人々を集め提案した
それぞれの墓を作ろうという
声にもならない、奇怪な罵声が飛び交う中、青年は穏やかに言った
人の死は、すべてが失われ、意思も失われ、やがて別世界へと旅立って行く
私たちは今生きている、がしかし、魂はしなだれ、生を豊かに感じることがない
すべて負という巨大な悪夢に支配されている
それを静かに、決別できるように埋葬しようではありませんか

夕刻、島のはずれの平地に泣きそうな曇り空があった
島民たちは、それぞれにシャベルを持ち、穴を掘り始めた
ぽっかりと開いたその穴に、様々の負を落とし込むよう、念じている
それは石塊となって、橙色に発光しはじめた
熱く、熱し始めたその石に土をかぶせ、ギシギシと踏みつけ、銘々が墓碑銘を打ち立てる
同時に空は雷鳴を轟かせ、激しい雨が降り始めた
しかし、土の中の石は熱く、さらに橙色を強め
やがて闇のような雨の中、激しくそれぞれの墓から炎が上がり始めた
島民は、立ちすくんでいた、重くくすんだものが今燃えている
激しく降る雨は、島民を濡らした
頭の頭皮を雨脚がなぞり、やがて指先や股をとおり、足の袂から落下していく
どれだけの雨にも石は光り、燃え続け、やがて雨はあがった
激しい雨によって、墓はかすかに隆起するのみで、平坦な土に戻っていた

雨が上がったと同時に、海鳥は回遊をはじめ
島民たちは互いの目を見ていた


冬虫

  シロ

裸の冬がくる
十二月の姿は、あられもない
わたしのからだは白くひらかれ
とめどなく上昇してゆく
まぶしい白さに混練され
細胞のように、奥千の分裂をなし
ひかりとともに微細な羽虫となる
白く羽をふるわせて
冬の光線を吸い、触角をちいさく動かす
適度な湿度と乾燥が私の翅を小さくなでる
こまかく、排泄物を分泌させ
いくつかの息を、天空に撒き
冷気とともに、地上に落下してゆく
わたしは雪となって
黙って目をつむり
しずかな夜に降雪する


発芽

  シロ

あの日、体のどこかで真夏が沸騰し、けたたましく蝉の声が狂っていたのだろう。
大きくせり出した緑の中で、無心に巣作りをする脳のない虫どもの動きが、この俺をその世界から削除しようと仕掛けていた。
鼓動が瞬間的に途切れたその隙を縫い、一途な回転がむき出しの感情を抱えたまま俺の足部に卒倒した。
おびただしい汗と残忍な傷痕を炎天に晒し、蝉の声はさらにけたたましく山野に鳴り響いていた。
如何なる時も、連続は途切れるためにあるものだとあらためて知る。
此処に居たという現実を呼吸とともに胸に仕舞い、山野をあとにした。

さて、現実とはこのことを言うのだろうか。
たかが俺のために神々が会議をするまでもないだろうが、俺は今、このような風体で不具合な体をのさばらせ、あんぐりと口を開けている。
すでに溜息などという日常の鬱積ですら蜘蛛の餌となり、鎌鼬に食われたような傷痕を平易な目で受け入れようとしている。
日常はひび割れ、その裂け目から滲み出た汁を舌でこそぐように舐め取る。
すでに日々を制御することもできず、不具合に支配されている。

狂っていることに気付かない、正常な活動がすでに狂っている、ということに気付かないまま、俺はすでに狂ってしまっていた。
狂気は限界を超えたときのみに存在するのではなく、日々の何気ない思考から徐々に逸脱を開始し、知らないうちに脳内に巣窟を形成し、正常な思考を食い殺してゆく。

アクシデント、と呼ばれる神々が施した現象。
瞬時に伐倒された大木のように、時間は削除され、切られる。
激しく陽光は地に乱射し、鳴りを潜めていた種子をつぶやかせる。
埋め込まれた闇の中から繰り出される、懐かしい音。
土の中の目の無い虫たちが寄り添ってくる。
その音を今、俺は、懐かしく感じている。


あな 二篇

  シロ

貴方の声が
虫のように耳もとにささやき
私の皮膚を穿孔して
血管の中に染み込むと
私の血流はさざめき
体の奥に蝋燭を灯すのです
貴方のだらしのない頬杖も
まとわりつく体臭も
すべてが私の奥に
石仏のように染み込んでいたのです

明るすぎる店内は光っていて
ひとりで持つ手が重たいのです
ふと買い物の手が
貴方の好きな惣菜を求めていて
ショーケースの冷気で顔を洗うのです

閉じられた束縛の中で
私は蛇のようにじっと
湿度の高い空間で
安寧を感じていたのかもしれません

道路脇のカラスがなにかを啄ばんでいます
私の汗腺を塞いでいた あなたの脂
それでもつついているのでしょうか

       *


夜のさなかというわけでもなく
朝のさなかというわけでもない
いつも中途半端な時間に覚醒するのだ

安い珈琲を胃に落とし込めば
やがて外界の黒はうすくなり
いくぶん白んでくる

陳腐な私という置物の胴体に
ぽっかりと誰かが開けた穴の中を
数えきれない叫びがこだまして
私の首をくるくる回す

この大きな空洞の中を
ときおり小鳥が囀り
名も無い花が咲くこともあった

今はこの空洞に何があるのだろう
暗黒は苔むして微細な菌類がはびこり
私のかすかな意思がこびりついているだけだ

また大きくせり出した極寒の風が
いそいそとやってくる
私とともにある 
この
巨大な穴

外をみる
いくぶんかすかに白んできたようだ
空洞の上に厚手の上着を着込み
私は私に話しかけるために
外に出ようと思った
老いた犬を連れて


峠の山道

  シロ

峰と峰とのつなぎ目に鞍部があり、南北の分水嶺となっている
古い大葉菩提樹の木がさわさわと風を漂わせる
峠には旅人が茶化して作った神木と、一合入れの酒の殻が置いてある
岩窟があり、苔や羊歯が入り口に生い茂っている
そこは湯飲み岩窟と呼ばれていた
旅人がそこでありあわせの石でかまどを作り、火をたき、近くの清水で湯を作った
嗜好品としての茶ではなく、白湯を飲む
しげしげと旅人がかまどを作り、一杯の白湯のために火をおこし、それを飲む
硬く純粋な清水のとげがこそげ落ち、におい立つ水の甘さがふくれあがる
湯飲みに注がれた、湯気の噴いた白湯をいただく
ふうふうと息を吹きかけ、口中でころがして喉を滑らせる
胃腑に穏やかな沈静がしみこんで、解毒するように息を吐き出す
嗚呼、涼やかな大葉菩提樹の風が初夏の光線を引き立たせ、ふるえている
大木は歴史を旅した旅人だ
そして私もまだ

   *

峠の山道に
一本の棒が立っている
木質の中に
すでに水気もなく
粉がふくような外皮をそなえ
その他愛もない空間に
ひっそりと立っている
徘徊途中のハエが
てっぺんで羽を休め
手をすり合わせる
しばし左右に向きを変え
行き先のない
向こう側へと飛翔した
棒には一片の脳すらなく
あるのは
ひとつのぼんやりとした意志である
それは一途とか
かたくなとかでもなく
不器用な詩人のようで
ただそこに
立っていたいとだけ
思っているのだった


無機質な詩、三篇

  シロ



君の温度がまだ残る部屋、その隅に、残された一つの残片
治癒途中のかさぶたの切れ端が、静かに残されている
物体がおおかた四角なのは、きりりと押し固めることができるようにと、誰かが考えたのか
それとも人の思考が四角く仕切られているのか
その形の中に有無をも言わせぬ、決別がある
部屋には饐えた匂いと、かすかな哀愁のある残照が目立った
君は、その古い真鍮のドアノブを静かにどちらか一方に回し、息を吐く
そして新たなる息を吸い込みながらそのドアを閉めていく
遠望は利く
そこに広がる景色は君が作った世界、そしてそこに何物にも変え難い君の言葉が飛翔していく
滑り止めのある錆びた鉄階段を下る
手すりには錆びの匂いと少しだけ緩和された靴音
階段から降り立つと、君は静かに部屋を一瞥し
舗装されて湯気の立ち上がる濡れたアスファルトを歩き出した


*

うす暗い工場の蛍光灯がぼんやりと灯される
地の底からのうめき声のような吸引機の音と
硬い木材を削る機械の音
荒削りをすると、木の塊から形が生まれ出る
ふしだらな毛羽をたてた
木材の荒々しいとげが怒っている
それを粗い砂紙でかけてやると、木の粉が飛び交う
削るとそこには再び私の思考がとげのように飛び出してくる
念入りにとげをなだめるように砂紙を掛け続ける


*

古びた家屋には朝からJKたちのハリのある声が響いている
夏は疎ましく立ちはだかり、暴力的な暑さを朝から晒しまくり
俺のあらゆる循環は、はたと立ち止まり、思いついたように体液が流れているのを自覚する
彼女たちの食事を早朝から作りはじめる俺は、彼女らの吐息から生まれた老人のようで
一声呻くようにつぶやき、がさついたため息を塵のように転がして作業にかかるのだ
まだ見ぬ未来のための朝食の一滴を彼女らに食べさす
ガチャガチャと食器が擦れ、畳を摩擦する靴下の音
便所のドアが開いたかと思うと、パンツの話をしたり
初老の俺の耳に、そういったあからさまなJKたちの営みが聞こえてくる
廊下にはどこはかとなく、つんとした彼女らの体臭が残り
代謝の活発な頭皮から離脱した、おびただしい毛髪がフローリングの上に無造作に落ちている
ばたりとドアが閉められて、奏でられたオルゴールの蓋も閉じられて
読みかけの本のページは、やり場のない暑さと虫の声と澱んだ風が吹き散らかしている
一粒の汗が彼女らの皮膚から発生し
いくつもの玉の汗が汗のコロニーをつくり、雑菌の温床になる
秘密に閉じられた物の怪から発芽した新種の異物
夏の断片、思い出したように真夏の田舎道を車が通る


5/2

  シロ

どこか
骨の
奥底に
黙って居座る
黒い眠りのような
小雨の朝

歯ぎしりする歯が
もうないのです
そう伝えたいけれど
そこには誰もいなく
部屋の中には
少年のまま
老いた私がひとり

狂った季節に
体節をもがれ
丸い目を見開いた生き物
だったら
蛞蝓のように這わせてください
湿気た空間を好み
枯れた木の液を舐めこそぎ
脳は
どこかに忘れました
とつぶやきたい


未来

  シロ

金木犀が香る午後
陽射しがきらきらと
金色の帯を散らしている
コーヒーにミルクを入れて
スプーンで陶器をこする音
きみの声が
褐色の液体にミルクとともに
くるくるとかき混ざられて
やがてぼくの
安堵の中心に下がってゆく
街並みからみえる秋の空
遠いけど
染み入るようですごく蒼い


作業日詩

  シロ

八月二十日
土を舐める、ミミズの肌に頬を寄せる
現実とは、そういうものだ、そう言いたげにその日はやってきた
希望は確かにある
廃道の、石ころの隙間にひっそりと生をはぐくむ草たちのそよぎ
ゴールの見えない迷宮の入り口で、これから作業をするのだと山に言う
カビ臭く、廃れた空間に現実のあかりが煌々と灯り始める
作業は発育を繰り返し、やがて鋼鉄となり、やがて皮膚をつたうものが流れる
雨。くぐもった気が結露し、水を降らす
赤く爛れた鉄は水によって冷やされ、やがてしぼんでいく
その日、わたしは踵を返した

八月二十一日
物語づくりは開始された
翌日、空は青く澄み
夏はまだ照りつける光を存分にさらしていた
吐く息と吸う息がわたしをつつみ、一個の不完全な生命体が生を主張する
作業のための準備に勤しんでいるわたしは、作業に従うただの下僕のようだった
作業は再び開始された
脳内には小人の群れが、走り回ったり忙しい
作業の合間の休息が、苔むすまで私は静かに呼吸を整える
午後二時、作業は頂きを最後に終わった
眼下に人造湖が横たわり、わずかだが風もある、静かな初秋だ
確かに頂きは私のためだけにあった

九月三日
作業を行うための用具は重い
さらに作業を行うべく、人体に注入すべく液体とその食物
何よりも作業はすべてわたしという生き物が行うのだ
人体の中を巨大な道が走り、大きく迫り出した建造物や、下水
その中をすべて体液が流れ
あらゆる場所に充填されている
わたしの中の体内都市は密かに、確実に動き出していたのだ
時折吹く風は確かに新しい季節のものである、そう岩はつぶやく
鼓動は狂い、息はあらゆる空気を吸い込もうとあえぐ
初秋の頂きには誰もいない
二つ目の頂きに着き、穏やかな鎮静がわたしを、仕事を包む

九月四日
三つめの頂きに向けて、まだ明けない朝を歩く
作業場は遠い
用具は執拗に重く、それを受け止めるべく私の人体は悲鳴を上げていた
わたしは穏やかに話しかけ、まるでカタツムリのように足を動かす
希望や夢、期待、あらゆる明るい要素は皆無だ
自らを暗黒に向けて歩を進めているかのように、ありあわせの生を貪る
おびただしい汗と、渇いた疲労の後、ようやく作業場に到達
湿気た森の空間を、機械のエンジン音が薄青い煙を吐く
ここは迷宮、昔から得体のしれないもののためにわたしは生きてきたのだろうか

九月一〇日
峠のトンネルは橙色の明かりをともし、広場は漆黒の闇だ
闇と霧が山道にあふれ、荒ぶる作業場へとわたしは向かう
入念に歩を進め、やがて闇は徐々に薄くなり
遠くに人造湖が霧の薄い膜とともに眼下に現れる
日が昇り始めるとともに、作業は開始された
果たしてこの作業に、終わりはあるのだろうか
頂きはまだ遠く見える
このまま終わることのない作業が続いたとしても、それがどうだというのだ
その日、わたしは作業そのものになっていた
作業が雇い主であり、わたしは一介の作業を行う生体にすぎなかった
激しい一日は終わりを迎え、夕暮れ近くなった鞍部の山道に腰を下ろす
作業用具を藪に仕舞い、やり遂げた作業の道筋を背負い、作業場を後にした

九月十一日
一夜を明かした機械類は朝露をかぶり、起動に備えていた
数万年前の爆裂口は霧を生み、山岳作業の最終日の狼煙を上げているかのようであった
頂きへの作業は終わりを迎え、やがて最後のエンジン音とともに見晴らしの良い峰に着く
作業機械の心臓を撫でてやる、その熱い魂は何を思ったのだろう
分岐道の山道にはイワショウブが揺れていた




九月十七日
関節の中に、血液の中に、重いものがいくつも蓄積されている。
荷を背負い、機械を背負い、別な古道への作業へと向かう
作業場まで延々二時間半歩くことに徹する
そういえばどのくらい歩いてきたのだろう
いつもいつも、昔からわたしはひたすら歩くことしかしていなかった
たとえば何百年も前の私も歩いていたのだろうと、思うしかなかった
幾千の小人たちが頭蓋の空間を遊び、動き回る
独りよがりな小人たちを止めることなどできやしない
わたしが来ることを期待していたかのように、作業するべく仕事量は膨大だった
機械を左右に振り分け、空間を選り分けながら作業を進める
そんな時、作業とわたしはいつしか交わっていることを感じてしまう
一つ目の沢を越えた頃、あたりはにわかに曇り始めて夕刻となった
作業機械を藪に仕舞い野を後にした


九月十八日
時間が流れるとき、いつも雨はその区切りをつけにやってくる
むしろ雨はやさしいのではないだろうか?
あらゆるものを濡らし、平易に事柄をなじませて
また新たなる渇きに向けて一滴を与えるのだ
雨の古道を作業する
作業は私の前に忽然と現れ、どんどんそれは成長し、わたしを引くように導いていく
大きく掘り割れた、峠の石標は苔をたくわえ、雨に濡れていた
脳内の小人たちは、もうすっかり眠りについていた
九日間の安堵を、蛞蝓の歩いた足跡をのみ込み、わたしは山を
山並みを一瞥した


三話

  シロ

 久々に友人宅を訪問することにしたが、手持ちは持たない
既に十一月の末で、もうすぐ今年の最終月、言ってみれば大嫌いな季節だ
冬なのか晩秋なのかさえはっきりせず、グダグダと薄ら寒い風が吹き
みぞれか雪なのかわからない、グズグズ俺のような天候が続くのだ
今ほど友人宅といったが、はたして友人なのかどうか、いつもながら俺には友人という定義すらわからない
ただ、いま、行くべきなのだろう
そして何も語らずとも、その友人のありさまをまざまざと目に焼き付けて、俺は冬を生き抜かなければならないという事だ
 車で友人宅の近くまで乗り付け、白い洋館のような建物に続く坂を上る
かなり古い中古物件だという事だが、最近立てつけをよくしたようだ
すんなり戸が開くと、冬のまどろみから一変、部屋の中では吹雪が舞っている
一言二言挨拶の言葉を言うと、彼はふわりと立ち上がり、台所へと向かい酒の肴でも作るつもりなのか消えていった
吹雪の部屋のカーテンはオーロラでできていて、部屋の片隅にはシロクマがぐーすか寝ている
部屋の電気は北斗七星だった
エスキモーから譲り受けたという青い酒を飲むと、俺の体内にもブリザードが吹き荒れ、たちまち器官が凍りついてくるのだった
そそくさと針葉樹に付いたエビのしっぽを平らげ、俺は震えながら今年のことを少し語った
彼も少し語ったが、やがて丸くなり、雪だるまに変態してしまった
既に俺を見送ることもできず、ただただバケツを被り、吹雪からブリザードに変わった部屋の中に座り込んでしまっている
友人ってなんだ?その定義は?
震えながら俺は声を絞り出すと、やっとの思いで長靴を履き真冬化した道路を走っていた
忌々しい、西高東低の貧しい風が吹き始める

久々に別な友人宅を訪問することにしたが、やはり手持ちは持たない
既に町とは言えないほどの人口になってしまったその小さな一角に友人は住んでいる
バイパスから右に折れると、密集した人家が小路脇に立ち並び、その脇の少し広いスペースに車をとめる
友人宅はその小路から百メートル行ったところにぽつねんと立っていた
その百メートルの間は歩くしかなく、名もない草が膝まで被るような小道だ
訪問を告げると、上がれと言う
座敷らしきところに立っていると、おもむろに押入れの戸がガタピシッと動き、ぎょっとすると中から友人が現われた
鼻の下と顎に貧相な薄い髭をたくわえ、目はかすかに笑っている
背筋は曲がり、肩や袖にオブジェのようにカメムシを張り付けている
台所に向かう前に、一滴の焼酎の水割だという液体を濁ったコップに注がれた
その絶妙に気持ち悪い温度と、水まがいの液体が喉を通ることを許した俺自身を呪ってはみたものの、液体は無碍に胃腑に収まってしまった
台所からでてきた彼は、皿の上にちぎったような雑草を並べて持ってきた
取り立てのサラダだよ
そういって醤油を水で薄めた液体をふらりと掛け、石の飯台に載せた
彼は極めて饒舌で、世界の不条理や、世の不条理をとつとつと目を輝かせて語った
まさに彼は「負」を栄養にして生きているかのようだった
「負」はマイナスなのだろうか?
いや、彼のように強大なパワーに変えることだって可能ではないのか
とにかく、饒舌に「負」について語る彼はとても幸福そうではあった
語り終えた彼は、痩せた体躯と透けた毛髪をそよ風になびかせて先に失礼するよ、と言って再び押入れに入ってしまった
 たしかにそれらの友人は俺の中でとつとつと生きていたのは確かだった
言えるのは、それらの友人と俺は生涯を共にしなければならないのかという諦めだった


                      ※
 

 久々の休みを利用し、故郷へ帰ることにした
角ばった、新幹線のアナウンスを聞きながらワンカップを一口喉に送り込む
まだ日中にもかかわらず、酒を飲む罪悪感は日々を生真面目に生きる勤務人にとっては破壊的な快楽ですらある
そのアルコール臭を巨大に聳え立つコンクリートの天辺目掛けて吐き出すと、車輌のドアが開いた

布という衣装を身にまとい、あるいは鞄の中に胡散臭い書類が納まり
それらが新幹線の車輌の座席を摩擦する音があちこちに聞こえてくる
それは勝ちと負けに区分けする種を運ぶ売人の様でもあり
皆が金属臭のする体躯を包んでいる異星人の様でもある
こみ上げてくる臓腑からの空隙を、ひそかにアルコール臭とともに外気に散布する

b駅を降り、二十分ほどタクシーで走れば、もうふるさとの山域が見え、すっかり田舎道となる
懐かしいふるさとの話を聞き、その訛りにも触れ
わずか数百円のつり銭を引っ込めて運転手に礼を言い外に出る
ここから家まで数キロあるが、歩くことにした
ガードロープの下には懐かしい小川が流れている

(小川の川上から桃が流れてきて)
などと
新幹線の中で二合の酒を飲み、いささか酔ってしまってはいた
脳内にある奇妙な秘め事をひとつひとつ川に向けて語り始めている私であった
川は歩幅とほぼ同等にゆったりと流れ、家まで続いているはずである

(向こうから赤ん坊が流れてきて)
見ると赤ん坊が私とともに流れている
ぽっかりと浮かび、パクパクとお乳でも飲んでいる夢でも見ているのか、眠っているのに少し笑っている
少し行くと赤ん坊は次第に大きくなり少年になっている
どんどん歩くと少年は青年に
いつの間にか年齢にあわせ、着衣を着けてある
やがて顔の輪郭がはっきりと現れた 
どうやら父の若い頃のようだった
父はやがて水から上がり、
「元気そうだな。それが何よりだ」
と、ひとこと言い、立ち去った

家に着くとたくさんの親戚の人がいて、短い挨拶を交わした
兄は私を見つけ、短く小言を言い放つと家に案内した
川から上がった父は、こんなところに静かに納まっている
寒かったろうに
もうすぐ熱くなるからな
そう、話しかけた



          ※


巨木に棲むのは武骨な大男だった
髪はゴワゴワとして肩まで伸びている
髭の真ん中に口があり、いつも少しだけ笑っている
深夜になると、男は洞を抜け出して森の中に分け入るのだった
たいていは、月の出た明るい夜だ
梟の声に招かれるように、男は大きな錫杖を持ち外に出る
丸い大きな月がいかにも白々と闇夜に立ち上がり
黒い空に浮かんでいる
下腹を突くように夜鷹が鳴けば、呼応するようにホホウと鳴くのは梟だった
草むらにはおびただしい虫が翅をすり合わせ、夜風を楽しんでいる
夜の粒が虫たちの翅に吸い付いて接吻しているのだ
木々の葉がさざなみ、風を生む
男の髪がふわりとし、汗臭い獣のようなにおいがした
なにかに急かされるでもなく、男は錫杖で蜘蛛の巣を払いながら峰を目指した
男の皮膚に葉が触れる
サリッ

峰筋の多くは岩稜で、腐葉土は少なくツツジ類が蔓延っている
藪は失われ、多くの獣たちの通り道となっており、歩きやすい
峰の一角は広くなり、そこに巨大なヒメコマツが立ち
各峰々から十人ほどの大男が集まり始めた
たがいに声を発するでもなく、視線すらも合わせることがない
かといって不自然さもなく、それぞれが他の存在を意識していないのだ
巨大な月のまわりをひしめく星たちは、その峰に向けて光を輝かせている
アーー
オーー
ムーー
と、一人の大男が唱え始めると、つられてそれぞれが声を発する
歌でもなく、呪文のようでもなく
静かな大地のうねりのように重低音が峰から生まれ出る
ちかちかと光る星々から閃光が走り出す
男たちの呻く重低音が峰を下り、四方八方に鋭くさがりはじめ
やがて山岳の裾野を伝い人家のある街々まで光とともに覆っていった


オレンジ色のスキー靴

  山人

「こうなって あういてう」 指差す君
「こうなって あういてうぅ」 何回も
「へんな ロボットぉ」 僕に訴える
こうなって・・・
25年前の君の声が
僕がうなずくまでずっと



小さなスキー場のパンフレット
チームの君は得意気にポーズを決めていた
三流の道具に身を包み
オレンジ色のスキー靴を履いて雪を切り刻み
旗門をくぐりぬけていた
君がまぶしく見えた

まわりは華やぎ
嫉妬と憎悪で雪は赤く燃えていた
曇ガラスを爪で引っ掻くような歯がゆさが
赤黒く粘った

君が負けた日
ガタピシと車を揺らし
幾度もタバコをもみ消した
君を踏み潰した風は
揚々と吹き去った
僕は自分に怒り
矛先はオレンジ色のスキー靴に向かっていた



あの時の
君は
もういない
パンフの君を指で触る
君は笑顔で撫でられている
でも何度撫でても同じ顔だ
君のカセットテープの中の声を聞く
君の声をいっぱい録ろうとしたのだけれど
テレビのアニメの声が大きくて
でも君の声が
必死にアピールする声が
指先と顔が僕を行ったり来たりして
君の瞳にはきらきらと確かにアニメが写り輝いていた


僕はただ
自分を差し出し
塊となって
汗や血を流しながら
君の温度を感じなければならなかった


今 君のどこかに
いくつかのおもいが
疼いているのだろうか

僕は君との交叉することにない未来に
ずっと歩くことを誓った


私はその家族を見ている

  山人


きれいに折りたたまれた生活をそれぞれが晒している
涼やかな風を目元にたくわえ、定めた先に澄んだまなざしを向けている
生あたたかさにはしっかり蓋をして、静かに四隅を整えて桐の引き出しに仕舞い込む
できないことは静かに首を振り、できることを楚々と繰り返し、その時々を静かに噛み締める
遠くの山から湧き出た一本の清水で丹念に水みちをつくり、日ごと適量の汗をかき
ふくよかに笑い、小首を少し傾けて悩み、夢食い虫にならず
体内を巡る数億の血の道を日々めぐらせるための質素な食事を摂り
麓に放牧された幾千の羊を数え眠りにつく
よろこびを一つづつ紙に書き、ひとつひとつの物事を細やかに語り
それぞれに、指の湿度を感じ念じながら種をまく
小葉を揺らす言葉が、高層湿原のように数千の夜を超え確かな現実となる
生まれた現実を皆で祝い、祝福の言葉を押し並べる
その言葉を発し続けることで、言葉はさらに現実を成長させてゆく
小さな現実を皆々が自愛の目で崇め拍手する、それは素直な心を広げることであり、自らの解放である
開放された現実は心を持ち、恩返しにくる
小冊子の中に静かに活字として埋め込まれ、不思議な薬効を発揮し始める
それらの人々は飾ることのない、些細で凡庸な事柄ですらも優しく捉え、美しく議論する
そしてそこから、小さくも形を持つ富が誕生し続けるのである
まとわりつく陰湿な襞を伸ばし、口を尖らせたり、なだめたりしながら動物の家族のように舐めあう
やがて富は彼らを覆うように存在し、あらゆるものを守り始める
天空の怒りや突然の粛清、そういうものですら屈しない富を手に入れる
それは一心不乱に農民が作物を作るときに唱える豊年の祈り歌のようでもある


風のためいき

  山人


初冬の初雪の舞う中
風が木立ちの間を勢いよくすり抜ける
山の頂きから頂きに掛けて 
送電線の唸る音が聞こえる
人造湖は波打っている
一瞬ふわっとしたかと思うと
空は洗われ 雑木林は明るく広がる
すでに枯れた黒花エンジュから
スズメが生まれるように飛び立つ
突然 風はふっとためいきを漏らす
雪はまだ降っては いる
けれど 風のためいきとともにあたりは静止し
一枚の暖かく 白と黒の明るい絵となる
ふんわりとしたやさしい空間が生まれる
まだ間に合うかもしれない
だって風がやみ 風の吐息が感じられたから
するとまた パラパラと霙交じりの雪が
普通の呼吸に戻った風に押されて吹き付けた

とてつもない遠い山から山へと
木々の間を縦横無尽に吹き付ける風
じっと風を見回している私がいる
木の葉のように飛ばされたりはしない
風はまた ためいきを吐いて
落ち着くはずだ


二〇一七山岳作業綴り

  山人

九月二十四日、山岳作業は終わりをむかえた
時折吹く風が心地よいのは、達成感などではなく
虚無感が体中を支配していたからだ
疲労はすでに枯れている

八月二十七日、すでに廃道化した林道を刈る
橋が無い林道を歩くのは奇特な釣り人と獣くらいだ
鬱蒼とした林内にカケスがジャーッと鳴き、駆け飛ぶ
オオイタドリは二メートル以上丈を伸ばしている

九月二日、山岳道を作業するための荷は重い
会話を吐き捨てる隣人も居ない
話しかけるとすれば、木や草や岩だけだ

九月三日、すれ違う登山者の、その平和さが疎ましい
まるで、私だけ他国の戦士のようだ
汗が異様に塩辛い
血から抽出された塩分が皮膚をつたう

九月九日、県境尾根から入る
早朝のライトを消せば、暗澹たる登山口がある
私のためだけにある、生き地獄
そこにただ、何も言わず歩き出すだけだ

九月十日、朝の闇を照らす光源は穏やかだ
なにかが始まる気配もなく、静寂だけが地上を這っている
作業場までの道のりの途中
夜明けの雲海が小さな町を覆っている

九月十一日、たおやかな稜線の作業の痕を眼で辿る
あきらめに似た、貧しい感覚が蚊柱のようにかすめる
まったく、愚かな所業だ
夕刻の山頂には、蛇の抜け殻があった

九月十七日、東に進む低気圧が直撃する中
風が鳴り、木の葉が狂ったように震える
風は姿を見せず、木々を殴りつけることで存在を見せる
激しく鳴れ、嵐。私も嵐となれ

九月十八日、雨
雨の気配があたりを支配する、森林のそのまた向こうにも
湿気が体中に満たされ、言葉も濡れている
峰にたどり着く、夕刻
明日の好天をつげるように、空はひらかれる

九月二十三日、現場まで八キロ、その道のりを向かう
立ち止まるたびに藪蚊は集り、口を突き刺す
何十と殺すが、蚊は死を恐れない
ぼうっと浮かんだ先に、八十里越えの道標が見えた

九月二十四日、山岳作業は終わった
私には、ただ、なにもない
虚無感に浸り、体中がそれに満たされていた
そして、なにも言葉を発っすることはなかった


シーサイドライン

  山人

海の見える山に行きたいと思った
また、冬に身を投じ、雪まみれにならなければならない
その前に、できるだけ平坦で、広大な場所に行きたかった
もともと、すべての生き物は海からはじまった


コンビニで食料を買い、シーサイドラインに入った
やはり、水平線はごくわずかに曲がり、この星が球体であるという事を示してくれている
清流の涼やかな流れではなく、わずかに濁った冬の海は言葉が見つからないほど巨大だ
波はうねうねと遠くまで続き、細かく刻まれた岩礁が奇怪な形をしている

登山道は参道の延長から入り、標高六〇〇余りの信仰の山へと向かう山道が続いている
行きかう人たちの挨拶が鬱陶しくもありながら、その言葉が身に染みる
老若男女が自由に山頂を目指し、下山していた

大量の汗に山頂の風は冷たく、枯れたススキがなびいている
山頂にも鳥居が設けられ、そこでにこやかに参拝する若いカップルが居た
背中に汗がへばりつき、その不快さを合掌することで和らげようと銀硬貨を投げ入れる
食べるでもなく、飲むでもなく、もう一つ向こう側の峰まで歩きだす

山とはいっても、無雪期は山頂近くまでスカイラインが通り、たくさんの往来があったのだろう
今は通行止めとなり、冬枯れの曇り空と、治癒の希望がない、暗澹たる病巣のような日本海が広がっている
離れた峰まで行く人は稀で、歩くのを楽しむというより
そこに至らなければならないとする義務感のような意思を感じる
峰の中央に、大きな木製の道標がたてられ、その文字は消えかかっていた

登山口に戻ると、再び人のうねりがあった
参道に沿って歩くと、本殿があり、多くの家族・高齢者などが目を閉じ、合掌している
賽銭箱のやや横で、一心不乱に手を合わせ、何かを祈願しているのだろうか、老人はじっと動かずに立っていた

神はきっといるのだろう
大勢の信仰登山者に遭い、挨拶を交わし、神に祈った
しかし、もうそんなに、良いことは無いのかもしれない

車を走らせ、菓子を放り込む
舌にころがる甘さが、瞼の隙間にしみてくる
もう一度、シーサイドラインに立ち寄り、海を見たいと思った


欠片

  山人



血管の中にこびりついた沈黙を
溶液で溶かし
老人は語りをやめない
はきだす口もとから
おびただしい仔虫の隊列が
果てしなく
悲しく
生まれ出ては死亡する


鉄となって身を打ち
子らを放牧し
冬には黙り込み
春まで眠っている

湖いっぱいの酒を飲みつくしても
まだ死ねないでいる
遥かブラジルを懐古する
記憶の隅で希望は残照となる

田参りする道はたそがれて
ススキは細々と
つめたい風に揺れている


蜘蛛

  山人

古いたそがれが落ちている
窓の桟、ガラスの汚れ、あなたの後ろ姿
アリが、本能のまま
きちがいのように動き回っている
坩堝のような夏
アリは動き回ることしか許されていない
私たちはそのように
温度さえ失われた世界の初めから今日まで
きちがいじみた日々を
呪文のように生きていた

手枕で横たわるあなたという置物が居る
セミの声すら失われた夕刻
家屋の中には数えきれない溜息が滞り
か細い体躯の蜘蛛がそれを齧っている


ウサギ狩り

  山人

朝、息は白く冷たい
夜雪が降り、ウサギの足跡はついた筈だ
心の中の鉛は骨に入り込んでいる
だが、浮き足立つ朝の輝きは止めることができない
ウサギ狩りだ

猟場に着いた
車の中から銃を下ろす
頼むぞ銃よ
アンバランスな姿勢でカンジキを付け雪に踏み入る
キラキラと雪がダストのように舞う
まぶしい光線に心が躍る
今日はウサギ狩りだ
はらわたを出すための皮剥ぎのナイフは持ったし
ウサギを入れるビニール袋も二枚持った
自分で握った無骨な握り飯も三つ用意してきた
あとは獲物があれば良いだけだ
厭なことはとりあえず何処かに置いていこう
冬枯れの木々には綿のような雪が付いている
僅かな風でそれがふわりと落下する

息が荒くなり汗がにじむ
雪の斜面にウサギの足跡がある
ウサギは夜行性だから今頃は何処かの木の袂に潜んでいる筈だ
時々足を停め意味もなく周りを見る
猟中に無意識に周りを観察する癖だ
ウサギの足跡が途切れている
(カムフラージュ痕)
きっとあの辺にいるのだ
銃に装弾を込め少しづつ近づく
ウサギがいつ出るのか、どう出るのか
張り詰めた空気を手繰り寄せる
ウサギはダッシュする
呼吸を止め照星を合わせる
銃を振る、本能で冷ややかに引く、雪山に銃声が響く
走りながらパタリと落ちる、動かなくなる
ウサギは血を吹き出させ、断末魔に向かい足や手を痙攣させている
近づくと目を見開き、事切れたウサギが雪面に横たわっている
溜息を一つ雪の上に落とす
腹の毛を少し毟る、ナイフを付き立て腹の皮を裂く
温かい臓物が顔を出す
胃袋をしっかりと掌で掴み、腸もろとも雪の上に放り投げる
横隔膜を指で破り、肺に溜まった血を雪の上に撒く
黒く固まりかけた血が雪の上に散らばる
ウサギの腹を雪の上に腹ばいにさせ、しばらく休む
ウサギの命は奪われ、俺は救われた
継続していた緊張感は元に戻り、静かなだけの風景が再び訪れる
ゲームはリセットされたのだ

サクッサクッと雪山をカンジキで歩く
殺されたウサギの死骸の暖かさを背中に感じる
そう自分は罪人
いつまで何処まで歩いた所で罪は消えない
このまま、この白い無垢な雪山と同化出来たならどんなに良いか
不意に魂がふわりとした直後、ウサギはダッシュする
ポンポーンと連発で長閑な銃声を響かせる
やはり長閑だったのだ
ウサギはいとも簡単に逃げて行き、かすりもしない
ウサギは生き延びた
その後もウサギを追っていく
でも心の中で、もうウサギは獲ることは出来ないとの結論を出している
体はだるいし足は重い
雪は腐ってきて重量を増やしたからだ
むなしい猟だった
獲物はあったが冴えない日だった
背中のウサギは硬くなって冷たい
太陽も白い雪山を照らし続け
いささか疲れたように西日を照らしている
ウサギはもういない
頼むからいないで欲しい
重い足取りを引きずる事をもっと楽しみたい


背中のウサギには悪い事をした
もうどんな宗教でも生き返らせることは出来ない
まだ温かみが残るウサギは吊るされて裸んぼうに剥かれた
ズットンガランと鉈で背中や腿をぶち切り鍋に放り込まれる
死んでウサギ鍋になってしまったウサギを齧る
まるで自分を食っているようだ
逃げ場のないウサギを獲って食っている
雪山に自らの逃げ場を失った感情を放り出し
それをただ集めてまた体に戻している


石 風 洗濯物 部屋

  山人

道端の石に夢があるのなら
もっと明るくひかるだろう
考えた挙句
石はあんな風に黙り込んでいるのだ

風はいつも姿を見せない
あなたの心のように
風圧を押しつけては
ここにいるよと示すだけ

洗濯物は物憂げに
上空の曇り空を眺め
部屋の
誰も見ていない
テレビを一瞥する

部屋は四角く区切られていて
そこに人が丸く住んでいる
隅には置き去りにされたおもいが
埃となっている


山林にて

  山人



蒸す日だった
私たちは山林の中の枯葉の上で
一服をしている
同僚の、ほぼ禿げた頭部が汗に光り
涼風が渡っていく

目の前の葉では
太さ一ミリに満たない、尺取虫が
長い首を伸ばし
次に着地する場所を
鼻をふくらませて嗅いでいる
途中の足をカットされたその妙な生き物は
前足にたどり着き安堵するとともに
また同じことを繰り返す

葉の端では
一匹の蜘蛛がそそくさと動き回り
それとともに小さな尺取虫は
葉の裏側へすっと隠れた

あたりを見れば
今年流行のチャドクガ毛虫が徘徊し
行先もないくせに動き回っている

メマトイがしきりに目の周りを五月蠅くし
いやがらせする
ブユは細かく舞っている
不快の塊だ
エゾハルゼミは狂っているから
疲れを知らない

みな、それぞれに
生きていることにすら気づかない
死を気にするでもなく
これからの事だけのために
螺子を巻かれている

前方の同僚の禿げ頭がゆらりと動き
ヘルメットが被られると
私たちの一服が終わる

風はまた止み
爆音が身を包む
私たちもまた虫のように
我を忘れる


二月からのこと

  山人


平易な朝と言えばいいのだろうか
ひさびさに雪除け作業もなく道路は凍っている
稜線には水色の空がのぞいている

声を枯らし、鬱陶しい汗が肌着を濡らし
昨日の日雇いはきつかった
だだをこねていた中国人の子供が
にこやかに礼を言ってくれたのが唯一の救いだった

気持ちはいつも
揺らいでは落ち、昇り、また降下していく中で
私は今日、遠出のための準備を終えた

遠方まで出向き、私は私の存在意義のために動こうとしている
この先どんなふうに未来は動くのだろう
豊穣の未来のために
私は利口な農夫になれるのだろうか

新しい種を求めて
私は遠出する



まだ夜も明けない朝
また目覚めてしまった
玄関をあけ、階段を降りる
道路には闇にたたずんだ外灯がある
何かが舞っている
羽虫のような生き物
排尿をしながらそれを眺めていると
細かい雪だった
外灯の後ろ側には月があるのに
闇はしずかに
月光とともにそこにあった

裸に冷やされた仕事場の戸を開け
電灯をともし ヒーターを点ける
マグカップに白湯を注ぐ
数回 息を吹きかけて
口の中に湯を回す
無味な湯が口中をころがり
私の芯へと落下していく

もうすぐ夜が明けるだろう
失われた時間が次第に元に戻ってくる
でもまだ三月だ



闇の西の空に赤みがかった月が浮いている
未だ目覚めない命の群落は音を立てていない
傍に立つ電柱の静けさとともに
小池にそそぐ水の音が耳から浸透してゆく

夜半に目覚め再び眠りに落ちて
めずらしく夜が明けてから外に出た
やわらかい空気が皮膚に触れる
包まれていると感じる
あらゆるものに理不尽さを感じながらも
四月に抱かれるように
すこしだけ腑に落ちる

新しい物語のために四月はおとずれ
感傷は三月に見送る
夢はまだ終わったわけではないよと
君に言いたい気がする



物語のはじまりにも慣れ
風の速さも感じられるころ
あかるみを帯びた月がはじまる
大きく風を飲み込む鯉が
初夏の結実を促すように泳いでいる

命の蓋がひらかれる
スイッチを入れられた生き物たちはうごめきまわり
生をむさぼっている

五月は裸の王様だ
どんな生き物も性器を陳列し
淫靡な香りと誘惑の痴態を広げている

農民は田へ田へと
呪文のようにリピートし
土のにおいにおぼれている

車は疾走し続ける
五月の空気は錬金術師
後方のナンバーには
「五月」と記されているかのように



六月の雨音が聞こえる
今は空のうえで
六月の雨が育ち
きっともう
豊かに実りはじめているのだろう

誰もが六月の雨を待っている
やさしく皮膚に染み入り、
あらゆるものを平坦に均し
雨は果実のように地面に注ぐ

やさしさや安らぎは
雨から生まれ
やがて血液の中に混じり込んで
やわらかなあきらめともに
人ができてゆく



七月の
少しむっとした空間があった
上空ではまだ
とぐろを巻いた怪物が
大きく交尾をしているという

集落のはずれは
言葉を使い果たした老人のようで
かすかに草は揺れ
どことなく
小さな虫が飛翔していた

他愛もない会話の中で
使い古しの愛想笑いを演じ
私は居場所のない場所に居たのだった

なにもかもが濁っていた
七月の
まだ梅雨空の上空は
肥大した内臓のようで
大きく膨らんでいた

さび止めをし忘れた
私のねじが
コロコロと
助手席に上に
転がっている



深い霧がうっすらと見える
まだ明けきれない朝
ニイニイゼミの海が広がり
その上をヒグラシがカナカナカナ、と
万遍なく怠惰が体を支配し
私はその中をぷかりぷかりと泳いでいる

上空には巨大なウミウが舞い
血だるまの現実がホバリングしているが
私の心は心細いマッチ棒のようで
ぶすりぶすりと煙い火をかすかに灯している

私は
またこのように道を失い
いつ来るともしれない
風を待っている

八月はまたやってくる
夏の痛々しく残酷な暑さは
あらゆるものを溶かし崩してゆく

釈然とするものが何一つない真夏の炎
それはすべてを燃え上がらせ
骨も髄も溶かし
念じたものをも溶かしてゆく



あらゆる裸を晒し続けた真夏だった
饒舌にまくしたてる命の渦
夏はすべてをあらわにし
やがて鎮火した

隔絶された山岳の一角で
口も利かず
私は一人で作業をしていた
何も無いその佇まいの中で
私は何と戦っていたのだろう
でも確かに戦っていたのだった

少なくとも日没は一時間は早まった
夕暮れ近い山道を登り返す時
うすい靄がオレンジ色に差している

ホシガラスが滑空し叫ぶ
断崖を蹴るように降下し
再び上昇した
いくつか濁った声を出し
私の上を飛んだ

額に灯火されたランプのもとには
蛾や羽虫が擦り寄り
光源に酔っている
ヒキガエルのこどもが
のそりと動く

わたしも彼らも
きっとどこかに帰るのだ
ねぐらへ棲み処へと

ザリッ
スパイク長靴が石とこすれあう音が
九月の夜の山道に
孤独に響いた



空が重く垂れさがっている
泣きそうな重い空気が
地面に着陸しそうになっていた
野鳥は口をつむぎ
葉は雨に怯えている
狂騒にまみれたTVの音源だけが
白々しく仕事場にひびく

悪臭を放つ越冬害虫が空を切る
その憎悪にあふれた重い羽音が
気だるく内臓に湿潤するのだ
不快な長い季節の到来を
喜々として表現している

こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける
不快な空間はあらゆる場面でも
途切れることがなく存在してゆく

十月はあきらめの序曲
乾いた皮膚をわずかに流れるねばい汗
かすかな望みを打ち消す冷たい風音

風景はさらに固まり続けるだろう
思考は気温と共に鬱屈し乾いてゆく
ひとつふたつと声にならない声を発し
ねじを巻くのだ



男に足はなかった
有ったのは、たった一つの脳と心臓だけだ
脳と心臓からやがて手が生え、足が伸び
それらが男に足され、人になる
十一月の肌寒い雨の日
男はのっぺりとした顔をして歩き出す
友もなく、鉛筆の芯のような思いだけで
歩いているのだった
雨降りの山道は
一人姥捨て山への階段のようで
目的地に行こうとする
あきらめに似た感情だけだった
息が上がり心臓は早鐘を打ち続けるが
かまわず男は登り続けた
やはり、頂きには誰も居なかった
霧に浮かんだ道標と祠が男を迎えた
たしかに男は何かを捨てた
いや、捨てなければならないのだと悟った
汗まみれの帽子を脱ぎ、合掌した



首を失った生き物のように、残忍に打たれ
転がっているのは私だった
十一月の刃物が寒さとともに研がれ、この加齢した首を削いだ
十二月、私の頭上にあるのは妄想という球体
腐れかけた妄想がその中に入り込み、浮かんでいる

失われてゆく季節、失われた私
水に名が無いように、私の名も失われ
このように、丸い球体となって、殺がれた私を見ている

木は失意し、空は失速する
草は瘡蓋を置き去りにし、すべての血はうすくなる
時間は歴史となり、眼球は軽石となる

十二月は無造作に私を葬る
影を作ることも忘れた冬が
名もない私を狩る


雪原の記憶

  山人

 私は警察署に来ていた。
あれだけ面倒くさい手続きやら、身辺調査やらをクリアし、ようやく手に入れた銃と所持許可であったが、止める時はなんの造作もないものだ。
書類手続きに慣れていない新任の警察官は、書き方がわからないらしく、たびたび席を外していた。
すでに分解された銃の一つを手に持ち、銃身に唇を当てた。冷たい感触と浸み込んだ火薬のにおいがした。

 
初雪が降り、融けたり消えたりを何度か繰り返し、根雪となる。
あたりの雑木は雪に覆いつくされ、山々の起伏がはっきりとしてくる。
深夜に雪が降り止み、朝方にはウサギの活動痕が目立つ頃である。
ウサギは夜行性で、夜に活動する。夜、食餌のために小枝の先の冬芽を求めて出歩く。
また、一月を過ぎると既につがいを形成するようだ。
餌を食べたり、つがいの相手を探したりとあちこちを動き回る。キツネやテンなどの天敵から逃げたりする時間帯でもある。
夜が明ける前に、ウサギは寝屋と呼ばれる場所を選び身を隠す。
ほぼ同じ区域に生活しているが、寝屋は一定ではない。
寝屋の特徴は雑木が傾斜した根元の雪の中をシェルターとして利用するのである。
シェルターを確保し、日中はそこでじっと休み夜を待つのだ。
 当地区では、ウサギは古くから冬場の貴重な蛋白源として、狩猟が広く行われていた。
昔は、全域の男達が銃を所持してた時代があったという。
自然が豊かで製炭や薪燃料として木が適度に伐採され、キノコや木の実が豊富に実り、豊かに物質循環が行われていた時代である。
すなわち、山に住む獣にとっても豊かな食料を手にしていたのである。
山では多くのウサギが獲れ、子供の頃の記憶では週に一度はウサギ汁を食べていた。
 最近では、銃規制も厳しく、銃所持者の高齢化にも拍車がかかり、狩猟を行う人は激減していた。
当地区の猟人も最低年齢が既に四十を越えていた。しかしながらマタギや狩猟の伝統を守ろうとする少ない人達によって、今でも猟は続けられている。
 深夜、雪がほどよく降り、朝から晴れ上がった日はウサギ猟に適している。
夜、雪が降らない時は、極めてウサギの活動痕が多くなる。つまり足跡が多過ぎて居場所の特定が難しくなる。
深夜、適度に雪が降れば、余計な活動痕は失せ、寝屋に近い部分の足跡が残る。
寝屋に入る前にウサギは独特のカムフラージュ痕を残す。寝屋の手前から徐々に足跡のリズムが少し乱れ、とぼとぼしたような足跡を残す場合が多い。悩み痕だ。
適当なシェルターが決まると、シェルターの前を通り過ぎ、一定の距離で停止し、回れ右をしシェルターに入り込む。ウサギの足跡が忽然と消え入る箇所があるのだが、こういう場合は得てして近隣に潜んでいる場合が多い。ただ、場合によってはこういうカムフラージュ痕を幾度も繰り返している場合もあり、百戦錬磨の狡猾なウサギも多い。
 ウサギを追っていると、奇妙なことに気付く。寝屋に潜むウサギが危険を感じると、まず逃げるのだが、それをどんどん追っていくと再び同じ地形に戻るのである。これはウサギ自身も意識しているわけではなく、一種回帰性といった本能なのだろう。確実に逃げるのだが、ふと立ち止まり追っ手の位置を長い耳で聞き耳を立て判断するのだ。
 私は単独猟が好きだった。猟場を選択し、コース、居場所や地形を選び、場所を特定する。そして如何に効率よく捕獲するために、どう近寄り、どうシェルターからウサギを追い出してやるか考えるのである。それらがうまく一致した時に、初めて捕獲が可能となる。

私が直接銃を止めるきっかけになった事件があった。二〇〇六年の事である。
熊狩りの時期になったら、今年こそ参加しようと思っていた。
 熊狩りは、冬眠明けの熊に限って害獣駆除という名目で、数頭の捕獲が許されていた。
熊狩りを行う人は勤め人が多く、平日に熊狩りに出られる人は少ない。複数人でなければ熊の捕獲は出来ない。
熊は他の獣と較べると著しく警戒心が強く、嗅覚・聴覚が敏感だ。また、強靭な骨格や硬い脂肪の皮脂があり、岩場から転がり落ちても怪我を負う事はない。まさにゴム鞠のような体なのだ。しかしながら、薮の中を猛進することができるよう、目は小さく、視力は良くない。
当地では熊のことを「シシ」と言い、熊狩りのことを「シシ山」と言った。
このシシ山は、狩猟人の集大成とも言える猟だ。
チームワーク、勇気、あらゆる力が試される場であった。
 小黒沢地区では、最長老の板屋修三氏の自宅がシシ山の本部であった。
現場のリーダーは最近選任された村杉義男氏。板屋氏は既に八十を越えており、村杉氏も七十近い。村杉氏の補佐や助言役として、私の父や元森林官など五名ほどが取り巻くと言う図であった。
 熊の捕獲には、指示役・勢子・鉄砲場の三種類の役目がある。指示役が熊の位置を把握し、鉄砲場に熊が向かって行くよう勢子に効率よく熊を追わせる。熊が追われて逃げる地形はおおかた決まっていて、鞍部(稜線中の凹んだ場所)やヒド(沢状となった窪み地形)目掛けて移動する。全く障害物のない白い雪の台地を逃げることはなく、薮や木の多い所を逃げる。ウサギなども同じである。上手くいけば台本どおりだが、なにしろ大物猟だから、関わる人の意識は高揚しており、単純なミスも結構ある。また、人の立ち位置で大きく熊の進路が変わることもあり、慎重に作戦を立てる必要がある。
 その日私は、父から「熊が居る」と聞き、本隊から少し遅れて家を出た。ホテル天然館の除雪終了地点に車を止めると隅安久隆が居た。三十代後半で猟友会では一番若い。いつもニコニコしている気さくな独身青年で、地元の建設会社で現場監督をしていた。最近は猟のほうも腕を上げ、ウサギや鴨では一番の獲り頭となっていた。「熊を撃て」と言うが、「いや、俺は勢子が良い」と、自分の持ち場を決めていた。
 私と隅安は遅れて本隊に合流した。熊のおよその居場所は掴めているようだ。大門山塊に白姫(一三六八メートル)というピークがあるが、その一〇〇〇メートル付近に居るとのことだった。隊は十一名、鉄砲場(射手)三名、目当て(指示役)二名、本勢子三名、受け勢子三名という人員配置であった。私達は受け勢子で、最も熊との遭遇が考え難い配置にあった。
 本隊は上白姫沢左岸尾根一〇〇〇メートル付近の熊を囲むように配置された。我々受け勢子は、上白姫沢左岸尾根の左手にある黒禿沢左岸尾根に取り付いた。一番若い隅安は上白姫沢左岸尾根に向かう途中の中腹に待機していた。元森林官の間島洋二と私は、黒禿沢左岸尾根で様子を窺っていた。
 全員が配置につき、勢子の活動が開始された。真山(熊の居場所付近の配置)からなるべく遠いところから勢子を始めなくてはならないので、最初に間島が「鳴り」を入れた。残雪がたっぷり残る山々に、一見のどかな「おーい、おーい」の勢子が響き渡った。続いて勢子鉄砲を数発私が放つ。これものどかに「ポーン、ポーン」と雪山に響いた。やがてイヤホンの無線から慌ただしく「シシ(熊)が動き出した」との無線が入った。それと同時に、今度は真山の下部にいた本勢子たちが「鳴り」に入る。村杉の無線によれば、熊は計画通り射手の方へ向かって進路をとっているとのことだった。私と間島は、熊の捕獲を確信し喜んだ。
 一閃、鉄砲が響いた。仕留めたのか・・・・。まるでスローモーションを見るように、熊は上白姫沢左岸尾根から隅安のいる斜面に向かって走り出てきた。隅安の近くをかすめるように熊は転げ、私たちの方へ下ってくる。隅安の銃は連続三発熊目掛けて射るが、殆ど当たりはないようだ。熊は私と間島の近く百メートルほどまで近づいてきた。「拓也、撃てっ!」。必死に銃を溜め、熊に射る。これは、隅安が再び熊を射止める為の勢子鉄砲であると共に、真山への勢子鉄砲でもあった。一種の威嚇射撃である。熊は七十メートルまで接近してきた。今度は本格的に射止める射撃に入る。しかし、最近熊を射止めたことがなく(九年前に三十メートル近射で熊を射止めたことはあった)、遠すぎてどこを狙って良いか戸惑いながらの発砲であった。数発撃ち、徐々に当たりを確信した。しかし、酷にも弾切れに。
「間島さん、弾が絶えた・・・・」
「散弾でも何でも良いからぶてや!」
私は必死に散弾を込めて放った。
 熊は沢に入ることなく、再び隅安のほうへ向かって逃げ始めた。熊は隅安を見たのか、彼の三十メートル下の雪と薮の間を進んで行った。間島はしきりに無線を入れて、隅安に熊の位置を教えていた。私からは熊の位置は丸見えだが、隅安からは薮に隠れて見えない状態だ。熊は薮を上へ上へと移動しているので、先回りして熊の真ん前に出て撃てと言う内容の無線だ。隅安も熊を確認したらしく、銃を構えながら薮の中の熊に接近し始めた。あまりにも近くなので、我慢し切れず隅安は数発撃った。何秒もしないうちに、雪の上に熊が現れた。意外に早かったが、あとは隅安が仕留めてくれるだろうと願った。ところが隅安は逃げ始めた。弾切れになり、弾の入れ替えが間にあわなかったようだ。十メートルほど逃げた。しかし熊の野生には敵わない。最後の抵抗で、銃床部分で熊の鼻先を叩いたようだが、彼らの背後には沢の岩肌が迫っていた。
 隅安と熊は、互いに絡みつくように沢の窪みに落下した。同時に大きな雪塊が彼らのいる場所に落ちた。数秒後に熊は我々の間を横切り、途中の沢筋の穴に隠れて姿を消した。
 彼は独身だった・・・故に子供は居ない。それだけが救いであったのか。無線で事故の事を能天気で話している猟友もいる。まだ事故の重大さを皆が解っていないようだ。実際にこの修羅を目撃していたのは私と間島だけだった。
 空は澄みきり青空だ。無線は相変わらずやかましい。私は祈るしかなかった。万に一つの可能性があるとすれば、生きていて欲しいということだけだった。間島は狂ったように、「たかー、たかーっ」と叫び続けながら、彼が落下したと思しき位置に向かって歩いていった。夏のような陽気で暑く、雪は重く粘った。
 「久隆は意識はあるし、自力で立てる」・・・・・。
全身の力が抜けてくるような、奇跡の光のような無線だった。足場の悪い沢を上っていくと、隅安がいた。顔中が腫れあがり、いたるところに血が出ていた。耳は片方の三分の一ほど爪で打たれ欠損していた。皆が集合して、鉄砲場の長井と私が応急処置にあたった。どこが一番痛いかと聞くと、右手の上腕が酷く痛むという。衣服を切り裂いて患部を開けてみると、すっぽりと穴が開き、中の肉が抉られているようだった。頭と上腕に手当てを施し、私のほか二名と下山した。隅安は少し寒いといった。軽いショック症状が出ているのかもしれないと思い、ジョークを言い合ったり衣類を着せたりした。出血はあまりなくて、どれも急所を外れた傷であった。
 ホテル天然館に着くと、警察・救急車や関係者でごった返していた。目撃者ということでもあり、私が警察やマスコミの質問に答えた。小黒沢集落の熊狩りの歴史上で、これだけの事故は初めてだとのことだった。熊と正面で出くわしたが、転んだ弾みで熊が人を跨ぎ、傷ひとつ負わなかったという事はあったらしい。
 今日の事故の責任は誰にあるのか、いろいろと戦犯も上げられた。最初の射手が動いたため、私たちの所に熊が進路をとったとする説。私も戦犯の一人であると言われたのは言うまでもない。ただ、熊狩りで熊を撃つ場合は「なるべく近くで撃て」と言われていたはず。あの場面では、熊は黒い点の野球ボール程度にしか見えなかった。だが、当たらない距離ではない。結局、誰が悪かったのか・・・。あまり深い追求はしないにしようと相成った。
 しかし、熊と言う生き物の凄さを改めて皆が知ることになっただろう。隅安はあれから小1ヵ月も入院し、その後仕事に復帰した。彼を襲った熊は、事故後数時間で穴から出てきたところを捕獲された。


自然環境保護員でもある私は、三月、ネズモチ平を目指し、カンジキで歩いていた。
私の目の前をウサギが飛びだして走りぬけていった。
BOWBOW!、銃をイメージしウサギを撃った。
タイミングよく、ウサギは雪原に横たわり、痙攣をしながら息絶えていた。
私は即座に、腹の毛をむしり、ナイフを突き刺し、横隔膜の中の血を吐かせ、肝臓だけを残し、腸や胃や膀胱を手で取り出して捨てた。
あたたかいというよりも、熱い。先ほどまで生きていた、躍動していた、逃げるという事に集中したウサギの命の末路が未だ温度として残っていた。
私は血液のついた赤い手を雪で洗った。
銃のない私は、想像していた。あたたかい血や、内臓の剥ぎ取られる瞬間を。


労働

  山人

底冷えの日が続いている
夜明け前の除雪車の轟音に目覚め、ドアを開ける
階段のコンクリートの端をなぞるように雪を掻き落とし
雪を運ぶ道具で人力除雪が始まる
ずっともうこんなことをやっている
固い空気が微動するのを感じる時だ

寂れた湖は、波一つなく一隻の知らないボートが浮かんでいる
闇は深い
コトリとした音もなく、永遠と呼ぶにふさわしい水深がある
その無機質な湖に言葉を散らしていく

呪文のようにつぶやき、作業を進める
道路の端には、何度も雪を捨てに往復した足跡が
まるで、何十人が作業したようにその痕跡を残している
かつて、その痕跡に達成感を見出したことがあった
今はもう、それを消し去って降りつくしてほしいと願う

*

無機質で冷徹な冬だ
太陽ははるか彼方にしまい込まれ
あたりは青い狂気に覆われている
狂っているから俺も狂うしかない
さらに燃えてやる
ぶちまけられた現実に愛しくキスしよう
打ちのめされた殴打を抱きしめよう
青く沈んだ痣をなめれば塩辛い鉄の味がする
たしかに無偽に生きた年月だった
その代償は吐息の荒野だ
月を数えた
祈るように木を見つめ
花を瞼にしまい込み
また、おびただしい死骸を積み上げよう

*

雨と曇り空が続いた大寒からうつらうつらとまた雪が舞いだした早朝
まだ相変わらず夜は明けていない
居間のLEDがあまりにも明るすぎて
私の内臓や脳までさらけ出されている
壁際に押し付けられた焦りは、すでに発光することもない
また今日も名もない呪文を唱えながら
毛をむしり取られた獣のように作業する
一日は始まる。そしてまた私は演じ続けるだろう

*

空が重く垂れさがっている
泣きそうな重い空気が地面に着陸しそうになっていた
野鳥は口をつぐみ、葉は雨に怯えている
狂騒に塗れたTVの音源だけが白々しく仕事場に響く

悪臭を放つ越冬害虫が空を切る
その憎悪に満ちた重い羽音が気だるく内臓に湿潤するのだ
不快な長い季節の到来を喜々として表現している

こうして、悪は新しい産卵をし
悪の命を生み続ける
不快な空間はあらゆる場面でも途切れることがなく存在してゆく

*

悶々としたものが、地面に近い高さに浮遊している
眼球の奥には、重い飛行物体がうずくように微動し
その微かなエンジン音が俺の体のだるさを助長している
だるい、確かにだるい
まるで俺自身が疲労の塊から生まれ
そのまま、無碍に時間を経過してきたかのようだ
アスファルトに地熱はない
地表が湿り気を帯び、室内の壁際は黙る
景色は前からそこにあったように平然とたたずみ、一枚の絵のようだ

*

目の前の仕事をこなしながら私の脳裏の中には目まぐるしい羽音が飛び交っていた
虫たちは羽音を不気味に立てて下に上に横へと縦横無尽に動き回っていた
私はそれに逆らうでもなく淡々と仕事をこなしていくしか術を持ち得なかった
午後には残照がまぶしく顔を照らし逆光となる
次第に重苦しく体は疲労し私は木に腰掛けて息を吐いた
また冬が来るという真実だけが重く厳しく悲しかった

*

正午近い、この薄光る昼時の、他愛もない、この残酷な時を過ごしているのは私だ
背負ってくれ、と鬆の入った骨の老婆を背に階段を登れば
あたりには散らばった越冬害虫がひらりと身をかわす
まだ死にたくはないのだと、この晩秋の沈黙に漂うのは凍り付いた希望
正午になれば平たく重い時間が降り立ち
むごいほどの静けさは鉛の冬を暗喩する


酩酊

  山人


近所のスーパーに立ち寄り、ワンカップを二個買って
ベンチに座りキャップを開け飲む
公園デビューしたらしい母子がぎこちない笑顔で会話している
たがいの真意を探り合い、刃物を隠し、それでも笑顔が冷たく継続されている
俺はふっと笑った。なぜか笑える
血液が各所に鎮座し始めて、いちめん花畑のような安堵感に満たされて
少しだけ鼓動速度が増した息遣いを楽しむように、その高揚感を感じていた
その液体に美味さを感じるわけではなく
アバウトな低温で中途半端な甘さと辛さを備えたその無色透明でありながら
ややもすると少し色づいた液体がカップを流れ落ち
喉元を通過していく時の断末魔のような動きに快感すら覚えてしまうのだ
ベンチの鉄パイプは錆びていた
錆の匂いは血の匂い
俺の有り余った熱い血がベンチの鉄パイプの錆と同化してゆくのを感じる
 あの公園デビューした母子の若妻の脇はきっと汗にまみれているだろうと想像する
子は母の胸ですやすやと眠っている
どうかあの母子を守ってほしい
俺はそのことだけを願い、二本目のワンカップの最後の一滴を胃に落下させた

愛想笑いをし、他者と別れた母子は安堵の表情を浮かべ
息を吐きだすと不意に俺を見た
一瞥し、そこに不快な視線が落とされ、俺はそれを見逃すことは無かった
これから苦行が続くのだろう、俺と同じような
あたりまえのように、公園の木の葉が舞い始め
これからは冬になるのだと言い始めていた


冬にむかう 三篇

  山人

葉が落ちた一本の木の梢である
小鳥はトリッキーな動きでせわしなく動いている
それぞれの木は葉が落ちて
痛いほどの残照がふりまかれ
すべてが黄金色と言ってもよかった

小鳥は群れと離れてしまったのだろうか
それでも口ばしを幹に突き立てて
ちいさな虫をついばんでいるようだ


正午を過ぎると日は傾き始め
鋭い逆反射の残照が降り注ぐ
影という巨大なものに身をささげるために
いたる木は裸になり口を噤んでいる

私はひそかに木となって
隣の小鳥を眺めている
ときおり狂おしく可憐な声を発しては動き
何かに怯えるように細かくぐぜっている

木から離れた私は歩きだしていた
鋭い初冬の日差しに打たれながら
鈍い痛みを感じていた




浮遊する冷たい空気の
時間を刻む音が聞こえてくる気がした
すべての色が失われた初冬は
まるで剥がれた皮膚
少しだけ血が滲み浮き出ている

すでに骨格すら失われた
白い水平線の向こうには
優しみがわずかに震えている

鼓膜に入り込むのは
生まれたばかりの仔虫の声と
潤沢な餌を持つ生き物たち

彼らの存在は命を持ち
声を発している
私はその傍らで
来る当てもない汽車を待ち続ける



雪が降る
この小さな心臓の真ん中に
冷たい塊を落としに

臓腑の中に冷たい湖を作り
その洞窟に船を浮かべるのは私
血が滞り血流は途絶え
白蝋色の手足とともに
私は武骨に櫂を操る

たとえば雪の粒が
小さな羽虫の妖精だったのなら
そのはらはらとした動きに
笑みさえ浮かべることができるのに
今はこうして
ばらまかれる針の破片のような雪が
私の頭上に降り積むだけだ

声帯すら凍り
ふさがれた唇は発話すらできない
浮遊する、意味のない隠喩が
私の脳片から出ることも許されずにいる


●月〇日

  山人

 ●月×日、彼女らと会った日だった
まったくひどい日だった
俺のあらゆること、すべて拒否されたような日だった
従食の食事は特にまずく感じられ、異質な物体がただ喉を通るだけだった
古びたスキー場のホテルわきでは、中国人親子がわけの解らないことをしゃべっていた
なんでみんなそうなんだ
どこにも俺の存在なんてないじゃないか。心の中ではうつろにその言葉が響いていた
家に帰っても、目は冴え、ひどい動悸に襲われた。まるで眠れる気がしない
きっと血圧も高くなっていると思った

翌朝●月〇日、やはり血圧は高かった
ずっとここ何年も暖かい冬が続いたのに、その朝は冷えた
春先の放射冷却時ならまだしも、真冬のさなかにこれだけ冷えるのは最近では珍しい
普通なら、寒いな、そうつぶやくはずなのに口を動かす元気もなかった
できるのなら、このままどこかの世界へ逃亡し、消息不明になり
この世から消えてなくなりたかった
しかし、そんなことは許されるはずはない
逃げるのはいつでもできる、俺は戦うことを誓った
 その日、朝8時から戦いは始まった。果たして敵は居るのか、敵などいない
敵は自分の中の弱い心だけだった。俺は消え入るような弱さを無視した
一語一語、目を見開き、反応のない人・人・人の目を射るように見つめ、俺は訴えた
野豚のように丘を駆け、この老体を飛躍させた
いつのまにか、そこには俺と彼女たちだけとなった
戦いはまだ続ける必要性がある。俺は説いた
 まだ、季節は真冬だった。午後になると残照に近くなる
俺は彼女らを連れて山の頂へ向かった
これだけ膨大な純白の雪を見たことがない、その彼女らの急変はすさまじかった
俺はついに交わった、というよりも、彼女らが俺の体内に触手を伸ばし、俺を蹂躙していた
俺の魂と彼女らの魂が山の頂で融合している
俺は酔った。何も武器を持たない俺は勝ったのだった
 その日、白い峰々はかなしいほど鋭角で、青く澄んだ空と同化していた


どうしようもない夜に書いた二篇の詩のようなもの

  山人

僕はかつて、荷台の無い一輪車を押し、整った畦道を走っていた
ところどころ草が生えていたけれど
そこは僕たちが走るにふさわしい硬く尖った土で出来ていて
坊ちゃん刈りした僕の前髪が開拓の風に吹かれてなびいていたに違いなかった
友達もスレンダーに施された一輪車を押しながら
たがいに何か大声で言い合いながら田の畦道を走っていたのだった

畦道は今はない
廃田には、弱い日差しが竦んで
何もかもだらしなくたたずんでいて
そこら辺の雑木は言葉を失い歪んだまま生きていた

隆起した丘を山というならば
そこには、今、いたるところが内臓で覆われ
脳漿が表面を埋めている
私はそこにある、うっすらと道のようなところを
歪んだフレームの一輪車を押しながら歩いている
ずっとずっとずっと
内臓の群れは陽炎を立ち上げながら頂きまで続いているのだろうか
その隙間を縫い
帰化植物がすべてを気にせず日を浴びていた


           



世界中が空っぽのような夜
なんだかすごく懐かしい音が聞きたくなって
こうして聴いている

街の喧騒やクラクションの音とか
女の吐息や鼓動
それらが渦となって塵とともに枯れたビル街に舞い上がって
それらが得体のしれない猛禽となって
世界に再び舞い上がる

誰か止めてほしい
この限りなく狂おしい走りざまを
疾走する死を


もう、次の日がやってきたのだ
去っていく時間はあらゆるものを駆逐して
一篇の詩を書くことも拒否してしまうだろう


開拓村

  山人

 父は二十代前半にO地に入植。
三十三年に私が生まれ、開拓村で生まれたので隣人が拓也と名ずけたと聞く。
妹は五年後、自宅で産婆のもと生まれたのを記憶している。
 あまり幼いころは記憶に無いが、四歳くらいの頃私はマムシに噛まれたようだ。体が浮腫んでいる中、母の背中で祭りに連れて行ってもらった記憶がある。その後、その毒が原因なのかどうかわからないが半年の入院となった。病院は薄暗く、ただただ広く、いつまでも悪夢の中に出てきた負のイメージである。
 小学校は開拓村から四キロ下方にあり、朝六時半に開拓村の子供たち数人で出発し一時間掛けて歩いて通った。
文字通り、子供らばかりの通学は道草を食いながらであり、春にはスカンポ・ツツジの花・ウラジロウヨウラクの花弁などを食した。
当然帰りも歩くわけで、少しでも歩きの負担を減らそうと砕石工場のダンプカーの後ろを追いかけ、つかまって飛び乗ったりした。当時はすべて砂利道で急坂が多く、走るとダンプに乗れた。
 初夏には、おいしい果実が豊富だった。クワイチゴが一番糖度があったが、紫色の果汁で衣服を汚し、母に怒られていた。クワイチゴ>クマイチゴ>ナワシロイチゴ>イワナシと糖度が落ち、代わりに酸味が増した。
 今では考えられないが、昔は土木工事も盛んに行われ、女性も働き背中に大きな石を背負い働いたものである。安全管理もずさんで、土木工事のみならず林業の伐採でも多くの人が事故死したり重傷をうけた人もいたのである。
ひとりで帰り道を歩いていると、突然河原から発破が鳴り響き、私の周辺にリンゴ大の岩石がバラバラと降ってきたことがあった。運良く当たることがなかったからこうして生きている。
 冬はきちがいのように雪が降り、五〜六メートルはあたりまえに降った。そして今より寒かった。十二月初旬からすでに根雪となるため、私たち開拓部落の子供五人は小学校の近くの幼稚園と集会所と僻地診療所が兼用されている施設の二部屋を寮として提供されていた。そこに私達O地区とG地区の子供たちがそれぞれ一部屋づつに別れ入寮していた。
 クリスマスごろになると学校の先生がささやかなケーキなどを持ってきてくれた。初めてシュークリームを食べた時、こんなに美味いものがこの世にあったんだと思った。
 夜中の尿意が嫌だった。トイレは一階にあり、昔墓だったとされたところで、下はコンクリの冷ややかな場所だった。薄暗い白熱電球をそそくさと点け、パンツに残った尿を気にもせずダッシュで二階に駆け上がった。
 土曜の午後になると開拓村の父たちが迎えに来る。父達の踏み跡は広く、カンジキの無い私たちはそこを踏み抜くと深い深雪に潜ってしまう。長靴の中には幾度となく雪が入り、泣きながら家にたどり着いたのである。
たらいに湯を入れたものを母が準備し、そこに足を入れるのだが軽い凍傷で足が痛んだ。痛みが引くと父の獲ってきた兎汁を食らう。特によく煮込んだ頭部は美味で、頬肉や歯茎の肉、最後に食べるのが脳みそであった。
一週間に一度だけ、家族で過ごし、日曜日の午後には再び寮に戻った。天気が悪くなければ子供たちだけで雪道のトレースを辿り下山するのである。私たちが見えなくなるまで母は外に立っていた。
 
 開拓村は山地であり、孤立していたので子供の数は五人ほどだった。
父親がアル中で働けない家庭や、若くして一家の大黒柱が林業で大木の下敷きになった家庭もあった。
若かりし頃、夢を追い、頓挫し、まだその魂に熱を取り去ることもできなかった大人たちの夢の滓。それが私たちだった。
 初雪が降ると、飼っていた家畜があたりまえに殺された。豚の頭をハンマーでかち割り、昏倒させ、頭を鉞でもぐと血液が沸騰するように純白の雪の上にぶちまけられ、それを煮た。
寒い、凍るような雪の日に、山羊は断末魔の声を開拓村中響かせながら殺されていった。
傍若無人な荒ぶる父たちの悪魔のような所業、そして沸点を超え父たちは狂い水を飲んだ。

 良という三学年上の友達が居て、危険を栄養にするような子だった。橋の欄干わたり・砂防ダムの袖登り・急峻なゴルジュを登り八〇〇メートルの狭い水路トンネルを通ったこともあった。冬は屋根からバック中をしたりと、デンジャラスな少年期を過ごしていた。
私は良という不思議な年上の少年に常に魅せられていた。
良は父を林業で亡くし、おそらくであろう、生保を受けていた家庭だったのかもしれない。
母が初老の男と交わる様を、冷酷な目で冷笑していた時があった。
まるで良は、感情を失い、冷徹な機械のようでもあり、いつも機械油のようなにおいをばらまいていた。
良の目は美しかった。遠くというよりも魔界を見つめるような獅子の目をしていた。彼は野生から生まれた生き物ではないか、とさえ思った。
良は、いつもいなかった。良の母が投げつけるように「婆サん方へ行ったろヤ!」そういうと、私は山道を駆け抜けるように進み、しかし、やはり良はいなかった。
今現在、やはり良はこの世にはいない。それが当たり前すぎて笑えるほどの生き様ですらあった。


昭和四十七年にかつての開拓村はスキー場として生まれ変わった。
いくつかの経営者を経、一時は市営となり、今は再び得体のしれない民間業者が経営している。
寂れた、人影もまばらな山村奥のスキー場に、私は今日も従業員としてリフトの業務に出かける。
第二リフト乗り場付近に目をやると、杖を片手に持った父が、すでに物置と化した古い家屋に向かうところであった。


          
         ※


開拓村には鶏のおびただしい糞があった
すべての日々が敗戦の跡のように、打ちひしがれていた
父はただ力を鼓舞し、母は鬱積の言葉を濾過するでもなく
呪文のようにいたるところにぶちまけ
そこから芽吹いたアレチノギクは重々しく繁殖した
学校帰りの薄暗くなった杉林の鬱蒼と茂る首吊りの木の中を
ホトトギスがきちがいのように夜をけたたましく鳴き飛ぶ

オイルの臭いから生まれたリョウは
月の光に青白く頬をそめ薄ら笑いをしている
白く浮く肌、実母の肢体を蔑むでもなく冷たく笑う
リョウは婆サァん方へ行った・・・
いつもリョウは忽然と消え、ふいに冷淡な含み笑いをして現れる
頑なだったリョウ、そしてリョウは死んだ
夢と希望の排泄物がいたるところに散乱し
その鬱積を埋めるように男たちはただ刻んだ
そう、私たちは枯れた夢の子供

一夜の雨が多くの雪量を減らし、ムクドリが穏やかな春を舞う
空気は満たされ、新しい季節が来るのだと微動する
普通であること、それは日常の波がひとつひとつ静かにうねること
それに乗ってほしいと願う
血は切られなければならない
私達の滅びが、新しい血の道へ向けてのおくりものとなる


朝、ホオジロは鳴いていた

  山人

父は固まりかけた膿を溶かし
排出するために発狂している
脳の中に落とし込まれた不穏な一滴が
とぐろを巻き、痛みをともない
いたたまれなくなると腫れ物ができる
透明で黙り込んだ液体を
父は胃に落とし込む
体の中に次々と落とし込まれる液体のそれぞれが
着火しエンジンを稼働させ
そのすさまじい熱量が怨念となってさらに引火し
いくつもの数えきれない父の仔虫が
いたるところに蠢きながら断末魔の声を発している
仔虫は幾千の数となって床を這いまわり
父の怒声から次々と生まれては死亡している
       ※
真冬、季節は発狂していた
冬という代名詞は失せ、無造作な温暖が徘徊していた
あたかもそれは衝動的な狂いではなく
ひたひたとあらゆる常識の礫が破壊され
あきらかに季節は発情を迎えていた
消沈した寒さは時々痛みを加えるが
その底に居座るのは穏やかな発狂であった
       ※
寝息が不快な音源となり
目が沙え眠れない夜
黒く闇は脳内に穿孔し
糜爛した傷口から生み出される不安
それらは正常なものから逸脱したやわらかな異常
狂いはしずしずと執り行われ
負の同志を増殖させ穏やかに発狂している
       ※
目指すは美しい発狂ではないのか
古い病院の鉄のにおいや
メチルアルコールのにおいではないだろう
リノニュームから逃れたところに田園はある
ところどころ雑草が生え、そこに
見たことのない美しい花が発狂しているではないか


gear

  山人

整然とたたずむ物達の群れが一心不乱に存在していた
確固たる意志と使われるべき時に備え、静かに眠っている
発情した野良猫の奇怪な声や、地の底に落とし込むような梟の声
建物の背面を擦るように鳴く夜の風の音にも動ずることもない

朝、道具は静かに使い手によって所定の保管場所から取り出され、水を掛けられる
使い手の指先がその刃先をなで、静かに作業は執り行われる
材が鋭い刃によって左右に押し分けられ使い手の意思によって成形される

道具を使いこなす、というよりも、その道具はすでに生きているのだろう
使い手の細胞が道具に入り込んでいる
もとは、何の変哲もない器具や道具であった
しかし、使い手の思いや、日々の理念が道具に命を送り込む
使い手にとっての道具はこどもであり、妻でもあり、兵でもある
道具を磨き、寝心地の良い寝室を用意し、静かなひと時を過ごさせる
それによって、道具はいつも満たされていると感じ、使い手に仕えていくのだろう

使い手の安堵によって、道具は飛翔する
愚直に物として存在し、使い手との出会いを待っている


海へ

  山人

海の中の貝が
すべて心を閉ざしているのなら
真実は海底へと潜っていくだろう
貝は静かに砂に身を置き
塩辛い海水の中の養分を
ぱくりぱくりとつぶやくように
食べている
貝は夢を食べ
砂とともに時を過ごし
塩辛い水に身を浸して
その夢ごと貝殻に閉じ込めて
なめらかに生涯を終える



テトラポットに打ちつける波が
なにかの爆裂音のようで
心音とともに カモメの低空飛行を見ていた
きっと波の中の空気がわだかまり
雪のような泡となって
未だ冷たい春に怯えている

水平線のはざかいで
船が浮かんでいる
いずれ視界から消えるであろう船の上を
海の生ぐさいにおいに促されて
多くの海鳥が飛翔している

流れ着いた漂流物を眺めながら
僕たちの宝物の話をしに
君を誘う日が
来るかもしれない

貝の声がとどく日に


発信

  山人


人々はどこに向かうのか
それぞれが口を結び、皮膚の下の血液は静かに流れていた
生きるために日々を送るのではなく
どんな死にざまをするかのために
人は歩いていた

現実の平面に立ち、日々を送る
ふくよかに肥った現実はとても強固だ
その硬さを
水が、石を摩耗させるように
ゆっくりと時間とともに
ひたむきに念ずることで硬さは溶け出してゆく

*

古い映画に出てくるような、町の一角の公園のベンチには
Yシャツの袖をまくり、静かに清涼飲料水を飲む男がいる
足を軽く組み、いくぶん右側に重心が傾けられ
左手をベンチの隅に立てている
清涼飲料水が空になると、男はまっすぐ座り
呪文のように独り言を言い始めた
表情を変えることもなく、淡々と同じ抑揚で唱えている
口から放たれた言葉は自由だ
発せられた言葉は、空間で凝固し
やがて小石のように地面に落下した
砂粒の少し大きいくらいの石粒が地面に落ちている

              *


それにしても、神たちは多く居るものだ
神の数すら誰も知らないが、人の数ほどいるのかもしれない
それほど多い神は、日々無碍に過ごし
如何なるところにも佇み漂っている
公園の滑り台や、道路のガードロープに
それぞれおもいおもいの座り方ですわり
特殊効果のように奇怪な動きをし
わざとらしく衣服を風になびかせている
神は働きたがっているようだ
時間は穏やかに停止され
小さな神たちが一心不乱に
男の吐き出した言葉の石粒を籠に入れている
小さく風が吹くと
有翅昆虫のように空中へ飛散し始めた


砂漠の中のひとつぶの砂のような奇蹟
可能性に向けて自由を得た
どこか知らない宇宙の一片に
動力があるとすれば
それは神たちのコロニーなのか母なのか
あらゆる物が攪拌され
やがて光が生まれ出る
              



とある日
公園のベンチにあの男はふたたび座っている
携帯が鳴ると男は礼を言い
穏やかに口元から一つの言葉が発せられた

男はずいぶん老いてしまっていた。


五月の雨

  山人

草や木の葉が雨に濡れている
五月の雨は麓の村を包んでいた
蛙はつぶやくように、りりりと鳴き
アスファルトは黒く光っていた
そうまでして生き物たちは
生きなけばならない生きなければならないと
季節をむさぼる

雨は、
その深部にしみこみたくて
どこか、
スイッチが入れられて
次第に空気が湿り
その細かい霧粒が固まり
落下したいと願ったのだった

雨は平坦な記憶をさらに水平に伸ばし
過去を一枚とびらにしてしまう
その一点に思考が集中するとき
ふとコーヒーの苦みが気になるように
記憶の中に鉄球を落とす

少し、遠くまで歩こう
そう思いかけた時、雨は強くなった
隣人の柿の木が枝打ちされている
のを見ていた
雨はそこにだけ降り積む
誰かが誰かのために
何かが実行されたのだった

雨は降るのをやめなかった
緑も濃くなることをやめなかった
すべては何かのために変わり
なにかを生んでいく

うすれていく光源は
不確かにともされている
無造作に伝達士は言うかもしれない
あたりまえに普通のことばで
その語彙を受けなければならない
一度は解読しなければならないだろう

集落の朝のチャイムが鳴り始めた
今日も食事を摂り、排泄し
歯も磨くだろう
食後の投薬をすませ
背伸びをするかもしれない


  山人

使われていないテニスコートは、吐瀉物と下痢便の様な汚泥とともに、何年もの堆積した落ち葉が敷き詰められ、私たちはそれを撤去するために荒い吐息と、鉛のような腰の痛みと、まとわりつく害虫に悩まされながら肉体労働に精を出していた。しきりに耳元で、狂ったバイクのアクセルの様にいやがらせの羽音を蹴散らす害虫に悪意はなく、神の声に従い飛んでいるに過ぎなかった。作業手袋と作業着の間の皮膚に吸血する虫たちの食餌痕の血液が皮膚に散らばっている。鉄分の混じった泥と落ち葉の黒く土化したものから発せられる特有の悪臭が、私たちを人間から獣へと生まれ変わらせ、ついには土とともにのたうち回る虫にまで失墜していた。しかし、私たちはすでに使われることのない、今後使われはずのない、テニスコートの声をずっとずっと聴いてきた。私たちが私たちのために施した、この鬼畜の作業の中でテニスコートは声を発していた。こそげ採った泥のあとを暑い日射と風が通り過ぎ、あたりは何事もなかったように平面をさらしていた。それが声だった、かつてテニスコートだったはずの平面の声だった。
私たちの声とテニスコートの声が、寂れた施設のなかで静かに交わっていた。


僕の少年

  山人

薄くひらかれた口許から 吐息を漏らしながら声帯を震わす
まだ 生まれたての皮膚についたりんぷんを振りまくように
僕の唇はかすかに動き なめらかに笑った

足裏をなぞる砂粒と土の湿度が おどけた動きをリズミカルに舞い上がらせ
僕はその 遊びの中で
くるくる回りながら気持ちを高揚させていた

土埃の粒子が何かのエネルギーに吸着され 一度残酷に静止した
世界はやはり 僕の回りで凍り始める
--あなたから発せられたひとつの言葉--
静かに細胞は壁を破砕し 平らに横たわっている
ジャングルジムの鉄の曲線に 僕の眼球は一瞬凍りつき
やがて ぐらりとそのまま土の上に落下した
僕の中の仔虫たちは惨殺された

緑の林縁はオブラートに包まれ 目はしなだれた
複眼に覆われた ぼんやりとした視界があった
土を丸く盛り 仔虫をひとつづつ埋葬し目を綴じた

あの日 僕の中の少年は
--あなたから発せられたひとつの言葉--
によって撃墜された


*

たおやかに流れる豊年の祝詞の声
村々にたなびく 刈り取りの籾の焼けるにおい
はるか昔の 少年は
薄く染められた秋の気配に
どこかの葉先の水滴に 映し出されている
僕の中の少年はまだ死んでいるけれど
少しづつ僕は
ながい呪縛から抜け出そうとしている
ゆるやかな階段を降りるために


ガラケー

  山人

半覚醒状態で掛布団の下でうずくまる
地球外生命体の逃亡者のような私は
テレビの声だけ聴きながら丸く横たわっている
いっとき、毒水は体を掛けめぐり
麻薬のように高揚したかと思ったが
今は、毒々しい血液を運ぶために
鼓動はうるさく高鳴っている

きっと生まれた星は何処かにあって
こんな 
夜の雨が似合う天体なんかじゃなかったはずだと
うっすらと眼を開けてみる

はるか何光年の前に
たしかにルーツがあって
それが光となって到達し
芽吹いた命
旅を重ねていたころの記憶はないが
たしかにどこかの宇宙から来たのだ

記号のような名をずっとつけられて
こんなに加齢した体を押し付けられて
夜の雨音を聞いている

妻のような人が
部屋の電灯を消した
ずっとよその星の人と
思っていたに違いないのに

黒くくすんだ布団の中で
携帯のふたを開けて
遠い星からの
伝達がなかっただろうかと
やはりうるさく響く夜の雨音を聞いていた


  山人

目を開けたまんまの
ぬるぬるの
水を切るように泳ぐ生き物
魚になって
川を泳ぐんだ
川面の虫を捕らえて
ぱくりと
岩陰へ潜む
心地よい風は水
液体の風
だから風の摩擦を感じる

あなたは川
繰り広げる歴史と重さを漂わせ
私はあなたの中を泳ぐ
あなたの流れに
摩擦に促され
私はあなたの
水みちを泳ぐ


*


私は気弱な動物にさえなれず
眠ることも許されない魚だ
潮の重さに鱗をはがれながら
私は泳ぐ
瞼は閉じられることなく見開き
形はいつも同一の流線形
立ち止まって考えることもなく
私は泳ぐ
鱗を擦る海水の直喩の肌触り
時折さす海面のまなざし
口から肛門へと流される思考
私は魚だ
魚以外に生きていられなかっただろう


野紺菊

  山人

蛾がおびただしく舞う
古い白熱電球のもとに
私はうずくまり
鉛の玉を抱えていたのだった

来たる冬はすでに失踪し
魚眼のように現実を見つめている
そして体内に大発生した虫
幼虫の尖った口が震えながら胸をつつく

すべての事柄に
深い意味があるのなら
まるで体をなしていない
この鉛の塊に
どんな意味があるのだろう

夏は終わった
やがて道端には、あの
鮮烈な紫色の野紺菊が
きっと咲くだろう

しろい決断の前に
あざやかな色どりの野紺菊が
少しでも胸の虫どもを
やさしく殺して欲しい


清水のあるところ

  山人

通る車もない、山間のアスファルト道路の端に、うっすらと冷気の上がる清水があった
名があるわけではなく、灰色の塩ビ管が埋め込まれ、その脇にかつて子供が使っていたであろうか
イラスト入りのプラスチックカップが伏せてある
農民が一日数回通るであろうその道路は、雑草が蔓延り
熱病に侵されたヒグラシとニイニイゼミの沼のような鳴き声しかなかった
どの位の深さから湧き出るのであろうか、その地下水が地上に顔を出し、こぽこぽと容れ物を満たし
多くの人の喉を通っていったことであろう
その清水のことを知ったのは、数日前であった
こんなにも純粋で冷たく清涼な液体が、まだいたるところに残されているのだった


遠い昔のことだった
隣人の朝子は浅黒い顔で足が速く、彼女の後ろを息も絶え絶えになって走って行ったものだった
ゴールは「清水のところ」と決まっていて、そこには決まって冷気が上がり
大きなフキの葉がたくさんあった
こうすれば飲める、と、朝子はフキの葉を裏側に曲げてカップ状にし
そこに冷気の上がる清水を入れて、唇からこぼれる清水を拭きもせず飲み干していた
フキの葉独特の香りが、純粋な水と絡まり、腹の中に収まっていったときに
たぶん私たちは互いの顔を見合いながら笑っていたのだと思う



午後の日差しは容赦なく私たちを照らし
荒唐無稽のような舞のように体を躍らせ、働いた
一服の時にはその、汲んできた清水を飲みながら
朝子の首筋から光りながらなめらかに流れ落ちていった
あの、清水のことを思い出していた
休憩が終わるころ、再びヒグラシは強く鳴き
やがて夕立の音が聞こえ始めていた


山道へ

  山人



明けない朝、雨音が体中にしみこみ、体内に落とし込まれている
体内にピカリピカリと衛星が動き
コーヒーの苦い液体が少しづつ私を現実の世界へと導いていく
ありったけの負の感情と、希望の無い労働のために
むしろ、その負の中に溶け込んだおのれを
苦みとともに臓腑の中に流し込んだのだった

言えるのは、戦いは終わらないということだった
命が潰えるまで続くのだよと
漆黒の闇の中に虫の音の海があって
その音が戦いの継続を示唆している

ゆっくりと私の魂は黒く沈殿してくる
あきらめが脳を支配し、しかしそれは虚脱ではなく
たしかな戦い

雨音は私の内臓の各所に点滴され、脳をも溶かし
私はきっと名もない羽虫のように
無造作に表に出ていくのだろう


       *

入り口はこちらです
あらゆる光景は
私にそう言っていた

ぬめった木道の傷んだ罅に雨が浸み込み
雨は暗鬱に降っていた
季節外れのワラビの群落が隊列をつくり
朽ちかけた鋼線のように雨に打たれている

現実という苦行の中に砂糖水を少し加えれば
さほどでもないだろう
と、山道の蛞蝓は光った
これは苦しみではないのだよ
名もないコバチの幼虫に寄生された毛虫は
季節外れの茎にへばりつき
死を免れる術を知らず、まだ生きている

私はクルクルクルと現実のねじを巻き
体を迷宮の入り口に放り出すのだ
そのあとは勝手に私という生命体が山道を歩きだす

熱は発露し、汗を生み、熱い液体が額から次々と流れ落ち
私はただの湿ったかたまりとなる
作業にとりかかれば、そこには思考の雑踏があらわれ
そのおもいに憑りつかれ、酔い、やがて敗北する

作業の終焉を祝福してくれるものは一介の霧だった
朽ちた道標がのっぺりと霧に立ち
黙って私の疲労を脱がせていた


  山人

静かな日曜日だった
私は雨を見つめていた
雨は何一つ語ることなく、地面に降り注ぎ
そして何も主張することなどなかった
私と雨は窓を挟み、内と外に居た
それぞれが語るわけでなく
心と心を通わせ対話した
雨は私を按じていた
私が私を痛めつけることを見ていた雨だった
そしてひたすら雫を落とし続けたのだ
雨は、私の心も濡らし
あらゆる臓腑にまで降り注いだ
しんなりとした空間を提供し
私をずっと停滞させていた
雨だから。
私は雨をむしろ歓迎していたのかもしれない
暗鬱に降る雨だったが
私はそれをどこかで望んでいたのだろう

雨とカエルは同化していた
雨の湿度を感じたカエルは鳴き
それに呼応するように
しっとりと雨はカエルの皮膚を濡らし
悦びを与え続けていたのだ
カエルは言った
「ころころ」
雨に濡れた半開きの目をしたカエル
恍惚の表情で天を眺めるカエル

静かな日曜日だった
なにもしてはいけない
なにもしなくていいんだ
私はそうして静かにシュラフにくるまり
静かな日曜日の
雨の点滴をずっと聴いていた


水底

  山人



ゆらゆらと浮かんでは漂う
名もない海面の水打ち際で
取り残されている

次第に水分を吸い
やがて海底に沈んでいくのだろうか
誰も知らない青い水底に
目を剥きながら
静かに

誰にも掬い取られることもなく
しかしながら
それも命
運命などと安っぽい言葉が
ぺんぺん草のように蔓延る中で
真実は無残にもざっくりと切りつけられて
海底に沈む

できるものなら
暗黒の底に棲む
チョウチンアンコウたちが
そっと灯火を照らし
一瞬でもその言葉たちを
浮遊させてくれることを
儚く望むものである。


沈黙

  山人


山道の石の沈黙を見たことがあるだろうか
ぎらついた欲もなく、うたう術も持たず
息を吐くこともない
おそろしいほどの年月を沈黙で費やしてきたのだ

いっとき降りやんだ雨と
鈍痛のような、まだ明けない朝の重みが
うしなわれた心臓のような沈黙を保っている

未来が遠すぎてどうにもならなかった男の朝に
つつまれるのは確かな沈黙だ
右往左往するひずみを超えたそこにあるのは
動くことも忘れた
沈黙だった

うしなった唇の向こうに見えるものはなんだ
様々な音が狂おしく葉を撫でて
いたるところにばらまかれている
沈黙が
徐々にではあるが
空へと飛翔し始めていた


星狩り

  山人


君と星狩りに行ったことを思い出す
空が星で埋め尽くされて、金や銀の星が嫌というほど輝いていた
肩車して虫かごを渡し、小さな手で星をつかんではかごに入れていた
ときおり龍が飛んできて、尾で夜空をあおぐと、星がさざめいた
君の寝床の傍にかごを置いて、彼らの好きな鉱水を与えるとよくひかった


県境

  山人




十数キロ走ると県境となる
トンネルの中心を境に、向こう側にいけるのだった
県境は六十里と呼ばれ、霧があたりを覆いつくしていた
前線に覆われた列島だったが、ここ数日は安定しているという
登山口には誰もいなく、カード入れが少し傾いていた

整った衣服、顔立ちのそれぞれの女たちは車から下車し
あたり障りのない会話を放ち、別れた
なにかに左右されるでもなく、あちらとこちらを見極めた女たち
生活を静かに引き出しに仕舞い、豊かさを綺麗に振り分けて
日々を入念に紡いできたのだろうか
自我を見つめ、誰よりも己を愛し、時間を積み上げてきたのだろう

細身の女たちと鮮やかな雨具をサイドミラーで眺め
大カーブを曲がる
もう後部座席に女たちの気配は失せている


二級国道の脇には大手電力会社の巨大な送電線が連なり
その下には、どうしようもないほどの緑色のススキの群落がひしめいている
かつて、その斜面を初夏の熱波に照りだされ
私たちは無言で労働した場所だった


あの草は私だ、あちらの草の塊も私
あちこちに私のようなものが点在していた
草のように刈られ、再び発芽し、生きているだけだが死んではいない


次第に峠のS字カーブは下降し、直線道路に差し掛かるころ
幾日か続いた雨の影響で川はうっすら濁っていた
間欠ワイパーの間隔を少しだけ広めにとり
濃い、雨で立体的となった緑の彩を
私は眺め、車の律動の中に沈んでいった

文学極道

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