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はらだまさる - 2007年分

選出作品 (投稿日時順 / 全3作)

* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。


熱射病

  はらだまさる

               チューシャは少女のようにはしゃいでいた。午後の陽射しが強いスジャータ村の大きな木の陰で、普段はサドゥなんかがルンギーとして愛用するオレンヂの布を大地に広げて、ぼくらは次の汽車に乗るまでのひと時を共に過ごした。チューシャの笑顔はジョアン・ミロの色彩のように鮮やかだ。日本人のような湿り気がないのかもしれない。冗談で自分の名前の由来を説明する際に本名の「将(まさる)」ではなく、地元の日吉大社にいる猿みたいに「神の猿」と書いてマサルと読むんだ、と言ってしまったせいもあって、スパニッシュの彼女はぼくのことをモンキーと呼んで慕ってくれた。Xusaと書いてチューシャと発音するそうだ。素敵な名前だとぼくは思った。ガヤ駅で声をかけたときは警戒していたのか、すごく愛想が悪くてちょっと怖かったけれど、仲良くなるとこんなにも素敵な笑顔になるんだ、とびっくりさせられる。

               ブッダガヤの暑さは京都の暑さに似ている。平均気温なんかは比較にならないものだけれど、熱の逃げ場がない、という点において似てるのだと思う。砂煙と牛糞と、複雑な香辛料の混ざったインド人特有の汗の匂い。バンコクの空港に着いたときに嗅ぐ匂いと、同じくらい記憶にこびりつく匂いだ。ぼくがはじめてこの土地を訪れたときは、随分と蚊にやられた。皮膚が柔らかくて匂いがないからだ、とラカンさんに笑われた。ラカンさん、っていうのはブッダガヤの一部の若者のヒーローだ。その他の善良な市民からみれば、質の悪いヤクザだ。仕事もろくにせず、筋骨隆々の威勢のいい若者を手なずけて日本語を巧みに操り、毎日酒を呑んで牛肉を喰い、宗教に唾を吐いて神さまの名を名乗っていた。今回の、二度目になるブッダガヤ訪問はラカンさんに会いたい、というのが本音だったのだけれど、ちょうど彼が雨季を避けるようにネパールに旅立った後のことだった。

             汽車は明日にならないと来ない、と彼は言った。木陰で眼を閉じて風に吹かれるまま寛いでいると、村人がわらわらと集りだして、そのうちの一人、ランブーという男が話しかけてきた。ぼくはこの旅で、娯楽を娯楽として楽しめない人間はきっと簡単に殺されるだろう、と思った。世界各国、色んな土地で鳴き続けている蛙の、ときに美しく、ときに珍しい歌声は録音されてマニアのあいだで高値で売り買いされている。それでいいのだ。ただ、ぼくがランブーに届けたいのは、決して蛙の歌声ではない。宗教の正しさでも、聖人君子や偉人哲人のようなすばらしいおことばでもない。娯楽として、また芸術として広く愛される日本の唱歌だ。馬鹿でかいチロムを廻しながら、誰もが簡単に歌える歌だ。ランブーが土産にくれたお茶の葉は、インドで飲んだどんな飲み物よりも旨かった。

         イマジンぢゃなく、「上を向いて歩こう」をぼくは歌う。チベタンのホテルで催された宴会で、ぼくは歌詞を見ないで歌える数少ない歌のひとつ、THE BOOMの「島唄」を歌った。ビートルズもストーンズもレッチリもJBもボブ・マーレィもマイルス・ディヴィスも坂本龍一もマルクスもジャック・ラカンも聖書も仏典もランボーも知らないインド人と、いっしょに。チューシャが手拍子を叩いて、眼を輝かせている。決してぼくは歌を歌うのが上手ではないし、歌詞の意味だってぼくにしかわからない。だけどぼくが歌い終わると、みんなが拍手をして「いい歌だ」と言って抱きしめてくれた。ランブーにもう一曲歌え、と言われてぼくは坂本九の「上を向いて歩こう」を下手なりに一生懸命歌った。それはブッダガヤの夕焼けに溶けるように消えてしまったけれど、すごく気持ちが良かった。その場の空気が、とても温かかったのだけを憶えている。それを感じたぼくは、歌いながら知らず知らずのうちに泣いていた。歌手が歌をうたうことをやめられない理由が、少しわかった。

                 汽車は毎朝、ガヤ駅から出発している。ラカンさんの部屋の壁にはある有名な時計職人の写真が飾ってあった。ダラムシャーラーに居る人だ。ラカンさんは神さまを信じないけど、彼のことを自分の次くらいには認めていたようだ。そんな彼が京都の精華大学に講演に来たのはいつだったっけかな。兎に角、ぼくはインド滞在以来、それまで以上に善や悪を鵜呑みにしないようになった。自分でも気がつかないあいだに自分の正義を振りかざしていることに気がついたときほど、気分が滅入ることはない。偶にやってしまったときは、マジで結構、落ち込んでしまう。ほとんどの人がいう正しさなんてその人の都合でしかないんぢゃねえかと思い込んでしまうのも例外があるから危険だが、その正しさなんてのも自分の都合だってことだけは自分に言い聞かせなきゃならない。ぼくなんか無名の歌手と比べても歌はなってないし、隣の大学生より文学の知識はないけれど、インドの田舎ヤクザに殺されずに楽しむ術なら、少しくらい知っている。


soundness

  はらだまさる

黒になる。全てが黒になって沈んでゆく。ぼくらは恐怖ではなく、惑星に同化する幸福感に包まれる。呼吸が面倒に感じた。夜光虫というものを体感したのもこのときがはじめてだった。赤潮だとも知らずに、はしゃいだ。越前岬での夜間潜水、十年も前になる話だ。水平線にぶつかって砕け散る夕陽の音だけが、写真に残っている。

夏、ぼくらはブルーベリーを頬張って、左手で千歳緑の喘ぐ点描画を描く。天然酵母のパンを焼く。全粒粉、胡桃、レーズン、玄米粉、イチジク、クコの実、煎り大豆。窯に入れて、大量にスチームする。アントシアニンで染まるまで、ぼくの世界は平面だった。焼き上がったばかりのパンは、パチパチと鳴く。

山鳥と、松林が囁く。「いいか、眼をそらすな、動物の耀きが、動物そのものが砕け、黒になる瞬間から眼を逸らすな。熱と、倫理の腐敗と、文化総体のよどみが、白と黒、左から右、西から東に並べられて、ゆびさきで弾かれ、ページがめくられ、破かれる祈りに似た、絶望、雲が雲からもげて、生成される音楽が終焉を迎える、その瞬間から、眼を逸らすな。」

大きな歌は、あまりに高音域でぼくには聴きとれない。

二十世紀のエレクトロニクスの結晶が、一台、二台、三台と遠くで重なってゆく。小さなスタジオでプラスチックを叩く。電子音。機械音。ビニールの擦れる音。非金属が金属を打ちつける音。振動する、音。水や、木や、痛みから遠く、遠く離れた、音。何故こんな音に安心するんだろう。快楽と嘔吐することの平衡感覚、または欲望するアンテナ。

「それが地上の楽園だ。」と、顔のない世界では老成だが年齢不詳の少年が、爪を噛みながら、ぼくらの耳に届かないくらいの小さな声でこぼすと、世界は白々しく耀き出し、空が跡形もなく黒に燃え尽きる、サウンド。

東寺に木霊する、ピアノ。Michael Nymanの、ピアノ。反復と動的な旋律と、ポエジー。人間の歩幅で奏でる感情。暴走族と、ぼくら。騒音と、ピアノ。恥ずかしさ、悔しさ、遣る瀬無さをも吸いこんだ、黒。黒のタキシード。そして赤い靴下。あたたかい。

ぼくらは、今夜もたった一つと抱き合う。


  はらだまさる

 曲がり角からかまっすぐに垂れ落ち
●ょくぶつの根っこのように、●ずかに撥ね
生まれたやわらかい波に、脳がびくりとふるえ
はも●が、たいないにうちよせ
胃へ、十二●腸へ流れ

 ほそくするどい、その根っこは意味をもち
なにかや、かれらに、ふくざつに混●り
ちつ●ょによって、ならび
か●けいにそうにゅう●
か●けいに●ゃせい●

 その●ょくぶつが、伸びを●て
まっ●ろなそらにいっぺん、●●●と吼え
黒くおもい、寒冷前線をよびよせ
そらに響いては、すぐに消え
また、黒く吼え

 お●なが●う●うと、鼻水を垂ら●
かおを立方体にぶ●かつ●て、なみだをこぼ●
まるで、いそうきかがくの蝉みたいに
皮膚にはゆううつな、ひかり
ぼくらにはやさ●い、やみ

 けものどものまえあ●で、掘り起こされて
ひとびとによって●極丁寧に間引かれ
どこかの隅に積み上げられ
日を浴びて、枯れ果て
生温かく、はずか●いままで

   ●、


      ●、



●、

文学極道

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