海のそばにあるちいさな店で、ピアニストが最後の曲を演奏しはじめると、おたがいの腰
に手をまわした老夫婦が軽快なステップでテーブルのあいだを縫っていく。潮風に傷んで
しまったのか、木製のテーブルはどれも重心がさだまらず老夫婦とともに揺れてしまうか
ら、そのいくつかに置かれていたグラスは、中身をあふれさせたり、床でくだけたりして
いる。けれど、それらをかたづけようとするだれかは、もういない。
演奏が終わりにむかうにつれて、ピアノの鍵盤が低い音から順番に失われていく。
熱っぽい視線をからませていた老夫婦は、いまでは老女だけになり、それでも、まだ伴侶
がそこにいるかのように、虚空をしっかりと抱きながら軽快なステップを踏みつづけるそ
のひと足ごとに、くだけたグラスの破片が重力をわすれて舞う。ピアニストはすこしずつ
上体を右によせ、神経を指さきまでいきとどかせたまま、かつて、波うちぎわで遊んだう
つくしい恋人のことを思い浮かべて、静かに微笑む。
どうしても単調になっていく演奏をおぎなうように、低く海鳴りがきこえてくる。
ドレスのすそを摘んだ老女は素足で水を跳ねあげ、さえぎるものがなにもない、かつての
波うちぎわをじゆうに踊っている。目にうつるすべてがまぶしいくらいに反射しているけ
れど、きっと、朝はまだおとずれないはず、どうか、もうすこしだけ、と、歌っている。
そして、そっとペダルから足が外れ、ほんのいっしゅんだけのぞいた朝のひかりをおおう
高波のなかに、最後の音はさらわれて。
選出作品
作品 - 20081231_358_3235p
- [優] 愛情 - 泉ムジ (2008-12)
* 著作権は各著者に帰属します。無断転載禁止。
愛情
泉ムジ