選出作品

作品 - 20081219_256_3216p

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エスマヌール

  はらだまさる

十二月。景気の悪いニュースばかりが飛び込んでくる寒い冬の月曜日。小さいながらも会社を経営する還暦を過ぎた父親とその娘が二人で吉野家へ行く。

娘は注文を父親に言付けて、到着後すぐにトイレへ入る。ドアを開けると、まず男女共用の手洗い場がある。その畳半畳ほどの狭いスペースで、手を洗い終わったばかりの作業服姿の若い男が鏡に向かい髪型を整えていたが、娘の視線を気にするようにそこから出て行こうとする。すれ違う際、お互いに何となく体を反らし「「すいません」」と声を掛け合うと、若い男は閉まりかけていたドアから、煙草の匂いを残して出て行った。

さらに娘は奥へ進み、ドン突きの女子トイレのドアを開けて中に入る。正面には水着姿でビールを呑むキャンペーンガールのポスターが誰かを誘惑している。そこは地球の最果てのように薄暗く狭い惨めな空間で、何日も掃除してないような汚れたウォシュレットタイプの便器が大きく口を開けて――それはまるでゴアガジャの遺跡?いや、汚れたスヌーピーのように――鎮座していた。

(軽い舌打ち)
「汚なぁ。これから食事やゆうのに、何?この汚れ方は。店員のお兄ちゃん、ちゃんと掃除してるんかいな。」
娘は沈黙しながら腹を立てる。
「天下の吉野家でも、こういう店はぜったい流行らへんやろうな。従業員教育が全然行き届いてへんし、ホンマ最悪やわ、これ。」
備え付けのアルコールを吹き付けたトイレットペーパーで、娘は手際良く便座を拭くと、下着を下ろしてその上に座る。そしてつい経営者目線でモノを考えてしまう自分に軽く失笑しながら消音のための水を流して目を閉じた。

次の瞬間にはそんなことも忘れ、おしっこの快楽に集中する。
ジャアアァァ・・・
(言葉にならない快楽を存分に味わう娘)

前頭葉辺りで、さっきまでの悪しき感情や身体中の毒素がいっしょに排出されるのを想像しながらおしっこを済ませ、汚れたレバーを指先で「小」に傾けて、便器の蓋を閉める。

篭る水流の音が「禊(みそぎ)」の役割を果たしている。しかし、そのことに娘が気がつくことはないだろう。

丁寧に手を洗って娘が席に戻ると、すでに並卵味噌汁が席に置いてある。
「早っ!もう来てるやん。さすが吉野家。」
「・・・・」
味噌汁を啜りながら、父親が言う。
「こんな薄い味噌汁飲んだん初めてや。何やこれ。」
と答えになってない返事をして、今度は漬物に醤油と普段かけない七味唐辛子をかけながら言葉を続ける。
「これでちょっとくらい身体もあったまるやろ。」
「そんなんで、変わるんかいな」
と呆れた感じの娘。

父親は器に割られたままの卵を牛丼にのせてからかき混ぜ、紅生姜をちょっと乗せて無言で喰い始める。その様を娘は眺めながら、器の中で卵をかき混ぜて牛丼のうえにかける。それからたっぷりの紅生姜と七味唐辛子を振り掛けてさらにかき混ぜ、手を合わさずにいただきます、と関西弁のイントネーションで呟いて食べ始める。

娘は父親の注文した漬物に箸をのばす。父親がまた味噌汁を啜り、店中に響くような大きな声で「この味噌汁、お湯みたいやなぁ。」と娘の顔を見て言うと、娘は口元に丼(どんぶり)を近づけて、箸で中身をかき込みながら黙って頷く。娘、といっても去年まではれっきとした男だったのだけど。

窓の外では強い風に吹かれて【並盛3杯食べたらもう1杯】と描かれた幟(のぼり)がばたばたと音を立てている。曇り空なのに芸能人風のサングラスをかけたミニスカートで薄着の若い女が、耳にイヤフォンをしながらフェラチオみたいな口でソイジョイを齧りつつ歩いている。儀式を失ったこの国の恥部が、誰の目にも開示されている。

食事の済んだ父親と娘は、熱い茶を啜る。毎度のことだが、袋入りの爪楊枝を五六本取って、如何にも近所のスーパーで買いました、というようなブルゾンのポケットに突っ込む父親の姿を見て、娘は苦笑する。何故なら父親のデスクの引き出しには、色々な店の爪楊枝が散乱しているからだ。それからまた新しく一本の爪楊枝を取って、左手で口元を隠しながらシィシィする父親に、動物としての逞しさの片鱗と人間としての脆弱さを垣間見る。と同時に、娘は内臓の痛みに目が眩む。

「夢なんかみるな」

《これがお父さんの口癖。そんな希望の欠片もないお父さんとこの国から逃げるように世界を放浪していた数年前、イエプルというバリ島の遺跡で出会ったおばあさんに「聖水」を飲まされたことがあった。お金を要求されるのを無視して、その場から立ち去った三分後に酷い嘔吐感に襲われた。ホテルの部屋に帰ったら下痢と高熱で散々な目にあったことを、吐き気のする眩暈の中であたしは思い出していた。あの水は黒魔術にかけられてたんやと思うけど、いまの日本の不景気は、あたしのせいじゃない。ああ、気分が悪い。頭も痛い。そやけど日本電産の社長はおもしろいなぁ。あんな経営者ばっかりやったら困るけど、その商売人としての逞しさはやはりお父さんのうえをいってる。お父さんは後十歳若かったら絶対いま株買うてるのに、とあたしにもらす。人生にこんなチャンスはそう訪れへんやろう、とも。あたし、午後からどんな仕事をしたっけ?何にも覚えてへん。まだ頭ががんがんする。》

娘が空を眺める。空はどんどんと晴れ渡り、雲ひとつない澄んだ空が傾いてゆく。頭痛は握り拳の大きさで、嘔吐感の色は、丁度この西の空みたいに青から橙色へグラデーションしている。なんて美しい嘔吐感なんだろう。金星と木星が月に寄り添うように微笑んでいる。その微笑に気がついて握り拳を開いたとき、吐き気も頭痛もこの空に消えてなくなっていた。

「どうするん?うちの会社倒産しかかってるやん。」
「これからは老人相手の商売やな。それよりもはよ、エスマヌールに誕生日プレゼント贈ったらなアカンねん。何がええやろなぁ。」

《エスマヌール。お父さんが念願のトルコ旅行で出会った現地の美しい少女の名前。幼い頃、底なしの貧乏を生きたお父さんは、むかし夢みた脚長おじさんを気取っている。》

吉野家は今日も満席だった。