第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦


私の父は、馬を、今も
  ヒダリテ


かつて私の父は馬を飼っていた。それはとてつもなく巨大な馬だった。あれほどまでに巨大な馬はおそらく誰も見たことがないだろう。体長およそ600キュビト、幅200キュビト、体高650キュビト。どんな巨大神殿の柱よりもずっと太くたくましい馬の脚が空へ向かって伸び、大空に停泊する巨大な飛行船のような馬の腹へと続く。馬体の影は果てしなく遠くの大地にまで伸びている。それは、とてつもなく巨大な葦毛の馬。激怒した山のように空に向かってそびえ立つその馬の頭は、文字通りの雲の上、遙か上空にあった。父はよく馬の背に乗ろうと試みては、その度にしくじり、入退院を繰り返した。まだ幼かった私たち兄弟は、それが父親の仕事のひとつなのだと思っていた。


巨大な馬の背に乗るには梯子をかけなければならなかった。無論その梯子もまた長大なものだった。空に張り出したクレーンを巧みに操りながら、馬の背に梯子をかける父はいつも空色のヘルメットを着用していた。――そうだ、あのヘルメットのことはよく覚えている。実のところ今ではもうぼんやりとしてしまった父の面影よりもあのヘルメットの方がより鮮明に記憶に残っているほどだ。馬のために周囲数kmに渡って敷き詰められた黄色い干し草と、果てしなく広がる草原の柔らかな大地、そしてあの空色のヘルメットが度重なる落馬から父の命を守っていたのだ。――もちろん、それは「落馬」と言うほど生やさしいものではなかったけれど。


 私たちの小さな家は
 広大な野原の真ん中
 ただ一軒
 ぽつん、と
 そこに建っていた


「馬に乗るぞ!」と父が言うと、私たちは外に出て馬の背に梯子をかけるのを手伝った。突然何の前触れもなく父は馬に乗りたくなってしまうらしいのだ。私と弟は顔を見合わせ、にやりとすると、ご飯もそこそこに外へ飛び出す。父は熟練の技術と並外れた熱意で、月にまで届きそうな長大な梯子をかけ終えると、馬の背にかかった梯子のそばで、しばらく押し黙ったまま遙か上空を見据えた。


 青空、
 とてつもなく巨大な
 馬を見上げる、
 私と弟
 そして、父


見上げる私たちは、ただぼんやりと、葦毛の馬の腹の下。巨大な馬の腹が陽光をすっかり遮り、不吉な雲のように空を覆う。そして、さらに上空に向かって伸びていく馬の首の先は、空の奥、霞のように茫洋と見えるばかりだ。父は遙か上空を見上げ、私たちは父の首筋辺りを見上げた。馬が呼吸をする度に、生き物のようにゆっくりと梯子は揺れた。父はゆっくりと梯子に足をかける。一歩。そして、また一歩と。


 ほら、
 あそこに見えるのは
  ぷっくりと
 膨らんだ
  風船のような
 父の尻

 見上げてごらん
 分かるだろう?
 あれが僕らの父の尻
 まあるいね
 まんまるだ
 
 浮上する
  風船のように
 ぷっかりと
  梯子を登る
 父の尻
 
 そして高く
  僕らの手の届かない
 父の、尻、尻、尻が、
  高く、
 高く、
  高く、


やがて父の姿は、霞に包まれ、おぼろげな黒い点になる。
そして、見上げる私たちの目にその姿が見えなくなった頃に、決まって父はあられもないポーズで降ってきた。


 突風にさらわれ、
 気流に煽られ、
 あるいは
 神の怒りに触れ?
 父は、父は、落下する

 朝に、夜に、夕刻に
 父は、無言で落下する

 人生に絶望し?
 子供たちの将来を悲観して?
 父性の意味をはき違え?
 父は、父は、落下する

 澄み渡る青空に、
 真っ赤に燃える夕空に、
 満天の星空に、
 父の形をした飛行物体

 どこまでも落下する父の
 その顔は
 ――にやにや笑いながら?
 ――怒りに満ちた表情で?
 ――目に涙を一杯に溜めて?

 空に放物線を描く父
 父の雨
 父が空から降り注ぐ
 飛来する小天体としての
 父の威光?
 父権の濫用?
 せめてパラシュートを


「落ちた! 落ちたぞ!」
ゆっくりと地上へ落下していく父を追って、私たちは一斉に駆け出す。正直に告白すると、私たちにはそれが楽しくてしょうがなかったのだ。父さん、今日はどこに落下するのだろう? 明日はどこに? 何度も父は空から降ってきたが、落下地点はいつも予測不可能だった。私と弟はいつも父の降ってくる地点を予測しあったが、父はいつも私たちの思いもかけないところへ落下するのだった。


 ――ねえ、父さん、父さんはどうして馬に乗りたいの?
 ――父さん、父さんは馬語を喋るって本当?
 ――父さん、父さんのおちんちんは、ダイナマイトで出来ているの?
 ――父さん、もっと、もっと馬の話を聞かせてよ


「あそこに落ちたぞ!」
私と弟は父の落下した地点を目指して走る。黄色い干し草に足を取られながら、私たちは走る、走る。空を見上げ、落下していく父の姿を追って、私たちは走る、走る、走る。そして父の落下した辺りにたどり着くと、そこには大きな穴があいていて、その穴の中で、父が逆さまに突き刺さっていたりするのだ。
大地にぽっかりと空いた穴の中から父を引きずり出すのは、私たちにとってすばらしく楽しい作業だった。父はいつも必ずどこかしらを負傷していたが、決して泣き言は言わなかった。私たちに引き上げられ、傷だらけの父はふらふらと立ち上がると無言でまた巨大な空を、馬を、まぶしそうに見上げた。


 見上げる、父の、その顔は
 空色のヘルメットの下で
 ――泣いていたのだろうか?


それから父は無言で家へと帰っていく。弟と私は笑いだしたい気持ちをグッと抑えて、負傷した父の体を支え、母の待つ我が家へ向かう。――そうだ、父はいつもそこにいた。私は、私たらは父の事なんて何も知ろうとも思わなかった。父は父としていつもそこにいた。そこにいる父が父の全てで、私たちの全てだった。私たちは父について何も知らなかった。


 大きな鱒を釣り上げる父の写真
 負傷した父のいる部屋
 コルセットの上に設置された父の頭部
 落下によって複雑に骨折する父の事情
 包帯と石膏で覆われた父の威厳

 台所に立ち冷蔵庫を見つめる父
 新しい音楽になじめない父
 木材を拾ってくる父
 バスを追いかける父
 近所の犬を叱りつける父
 木材を持って笑顔の父

 父が「革命」について懐疑的な態度を示す
 父が税金について不平を漏らす
 父が自転車を修理する
 父がまた木材を拾ってくる

 たばこの匂い、機械油の匂い
 汗の匂い、土の匂い、父の匂い
 黒くて堅い父の肩、父の腕

 テレビを見ている私たちの
 目の前を、
 無言で通過する
 古ぼけた父の性器


時にはブルルッと馬が身体を震わせ、父を遙か遠くの湖にまで吹き飛ばしてしまう事もあった。そんな時には跳ね上がる湖水によって、遠くの地平線に小さな虹が架かったりもした。「父の虹!」私たちはそう呼んでいた。その虹が架かる時、私たちは父を心の底から尊敬したものだ。しょんぼりと落とした肩に小さな虹を背負い、びしょ濡れでやってくる父を私たちは歓喜の声をあげて迎えた。


 大きな岩の上に座って
 私と弟
 サンドイッチを 食べながら
 遠く、低い 地平線に向かって
 飛んでいく
 父の軌跡を 眺めること


ある日突然父は消えた。私の目に父の姿が映らなくなってしまった。と、あの巨大な馬も、干し草を敷き詰めた大地も、すべてむなしく消え去ってしまった。気がつくと私はつまらない街のつまらない団地の一室で母の帰りを待っていた。寂しさに息の詰まりそうな夕暮れ、このまま全てのものから取り残されてしまいそうな不安の中で私たちはじっと母の帰りを待っていた。弟は私から父や馬が消えてからも、しばらくは「父が見える」と言っては、つまらない荒れ地に飛び出していったが、やがてすぐに弟にも父との別れがやってきた。父はいなくなってしまった。消えてしまった。パートから帰ってきた母の腰に抱きついて私たちは何度か泣いた。
そして、もう誰も父の事など口にしなかった。
けれど私は、はっきりと覚えている。
かつて私の父は馬を飼っていた。それはとてつもなく巨大な馬だった。


第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦
月刊 未詳24 × 文学極道