第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦


天球のねむり
  森谷育衣


 ひかりに足をよごして飛んでゆく彼らの、行方を知らない。
 星はたかい位置、わたしは道路に倒れている。折れ曲がった腕が冷えてゆくのを
感じる。(なまあたたかい腹は体温からではなく)(あ、蛾がおちた)

   *菜園**

 なかなか寝つけなかった夜のあと、
 朝、と呼ぶにはまだ早い時間に、母から電話があった。実家に帰ったのがお盆休
みで、それからまったく連絡をとっていなかったため、母と話すのはおおよそ、三
カ月ぶりくらいであった。
「あ、いくちゃん。元気にしてる」――久しぶり。うん、まあ元気かな。そっちは
みんな元気なの
「元気よ。お父さんがいつものごとく二日酔いしてるくらいでね」――まったく変
わらんね、呆れるわ。それで、何か、用事なの
 うん、と母は云い、おとといの母の誕生日に、とわたしが選び送っていた胡蝶蘭
がちゃんとその日に届いたこと、それを玄関の靴箱のうえに飾ったこと、「ありがと
う」、実家の家庭菜園で実った野菜や果物を夕べ、こっちに送ったこと、をすらすら
と語った。ほぼ、無駄のない口調で、すらすらと。
 母の家庭菜園はわたしの意識のめばえる頃にはもうじゅうぶん鮮やかにひらか
れており、年々、種類や範囲を広げていった。畑でも借りてもっと本格的にやれば
いいのに、と何度か訊ねたりしたこともあったが、いつも「家のちいさい庭でやる
から、いいのよ」と微笑むだけであった。今でもきっと、そう答えるのだろう。ち
いさい庭いっぱいに、野菜や果実を散りばめて。
 「今度、いつ帰ってこられるの」――うーん、どうやろうなあ。お正月には帰り
たいと思ってるけど
「そう忙しいんやろうね、まあ体に気をつけて。花、ありがとうね。じゃあね」―
―うん。またね
 ぷつ。
 電話を切り、カーテンをあける。斜線をひくように光が、部屋にさしこむ。瞬間
の眼前のまっしろ、のあと、ビルの骨格、電線のめぐり、また、光、細目。脳裏に
浮かんでいたふるさとの風景が四隅から塗りかえられていく。
 ひゅこん。冷蔵庫の製氷機が音をたてる。
 すこしだけ台所のくらがりを振りむいて、わたしはもう帰れないことを知ってい
た。

   *症候群**

 電車のなかは空いていて、暖房はあきらかに効きすぎていた。
わたしは席に座り、素直に向かいをみた。右斜め前にくたびれたスーツを着た五十
歳代の男性が新聞を広げている。一面に掲載された、『 ミ ン ダ ナ オ 島 
で 大 地 震 』に顔半分を隠して。
 窓のそとはあかるく晴れ渡り、あかるいまま流れていく。音楽プレーヤーから流
れるのは、いつだって、バック・グラウンド・ミュージックでしかなかった。憑依
されることのない。イヤホンを通りすぎ今、流れこんでくるのはクジラのうたごえ。
 気だるい。頭上から直接あたるぬるい空気。眼をとじれば身体はたぷたぷと、深
海に潜っていくように沈んで、いって。新聞をめくる音が時折、ひびく。波みたい
に。クジラのひげを撫でていく、水流。背中をつつく魚の唇。遠い距離から細く、
けれど鋭い発声を感じる。(なかま、なのかもしれない)
 それでも、わたしは現実から消えることのない体があったから。あった、から、
クジラのうたを正しく聴くことはできなかったのだった。フィーディング・コール
に立ちあがりそうに、なったとしても。ゆっくりと眼を、あけて、しまう。
 気がつけば、右斜め前に座っていた男性はいなくなっていた。そしてその場所に
は紺色の帽子を目深にかぶった男の子が座っている。帽子の奥から、じっと、まば
たきをせず、夜よりもくらい瞳をこちらに向け。
 彼はかつて、殺したいのちに満たないいのちと、ひどく等しいかたちのたましい
をしていた。わたしは笑えばいいのか、戦慄すればいいのか、困惑した。もっとも
ゆるされない、浅ましい行為をしなければならなかった。
 わたしはイヤホンを外し、立ち上がる。減速をはじめた電車の、ドアに近づく。
男の子の視線ははずれることなく、容赦なくついてくる。
 ドアがひらき、ホームに降り立つ。膝のかくん、と折れるのを感じながら。
 風が冷たい。
 (ゆるして)(ゆるして)
 (なかま、なのかもしれない)

   *供述**

 「「その日は車でドライヴをしていました。
 秋と冬のあいだにはさまれた、とても曖昧に晴れた日だったから。
 突発的に、ひとりで山にゆこうと、思ったんです。わたし、紅葉よりかは、おち
てしまったあとの褪せた色の葉っぱを踏みあるくのがすきで。家を出たのは、午前
十時二十八分だったでしょうか。車の窓をあけたら寒くって、だから窓はひとつも
あけなかった。でも、まだ暖房をつけるほどでもなくて。
 一般道は思ったより混んでいて、目的の場所までおおよそ三時間くらいかかって
しまいました。ようやく山道にさしかかると、やはりもう紅葉はほとんどおちてい
ました。針葉樹だけが濃い緑をつけて。ゆっくり、ゆっくり山をみながら坂道を上
がり走っていたから、後部にたくさん車をためてしまったのが申し訳なかったのだ
けれど、なかなか非常駐車帯っていうか、路肩っていうのかな、そういうのがない
ところで。山の頂上付近にさしかかった頃にようやく、車をとめられそうなところ
があったから、そこに車をとめました。後部の車はものすごい勢いで走ってゆきま
したよ、あんなに速度を出したかったのか、って、また申し訳なく思ってしまった。
 その山はわたし、幾度か訪れたことがあったので、自分のお気にいりの場所にゆ
こうと思いました。ガードレールの外側で、すこし危険なんですけど、でもおちた
ら死ぬ、ほどの勾配ではないんですよ。足元にじゅうぶん注意して後ろ手をついて、
下っていきました。もちろん遭難なんてしたくないので、方位磁針や地図は持って
いきましたよ。方位磁針は祖父がね、くれたのです。亡くなるすこし前に、これは
もう使わんからやる、って、シルバ社(※1)のプリズム・コンパスをふるえる手
で、ぎゅ、と幼いわたしに握らせて。
 ああごめんなさい、全然話がすすまないですね。どうでもいいことばかり話して
しまって、癖なんですよね、ごめんなさい。
 うん、それでですね、色あせた紅葉を満足するまで歩いたら、すっかり日が暮れ
てしまって、急いで、車に戻ったんです。空にむらさきの匂いがただよいはじめて、
車はもうほとんど通っていませんでした。時刻は、十八時四十三分でした。地上は
もうまっくらだったので、わたしはヘッドライトをつけて、山道を下り、それから
ハイウェイにのりました。すごく気分が良くアクセルを思いきり踏みこんでいて、
一瞬ちら、とメーターをみたのですがその時、時速百キロ以上は出ていたと思いま
す。今思えば、こわくてしょうがない。だって、今まで時速八十キロ以上は出した
ことなかったんです。ハイウェイだってほとんどのったことなくて。ほんとうに、
ほんとうなんです。
 ハイウェイをおりてからの、スピードがどうだったかは、確かめていません。で
もきっと麻痺した感覚でいたであろうから、制限速度は超えていたのかもしれませ
ん。
 もうすぐ家に着く、二十時十二分、ぶつかった感覚がありました。田んぼのなか
の、信号機のない交差点のところです。あそこはみ通しもすごくよいのに、何故か
事故が多発しているところで、花束や酒瓶やらが供えられていて。だからいつもは
気をつけているんです。けれど、あの日はまったく気がいってなかった。
 ちょうど鈍い衝撃があって、背筋がぞくりとしました。喉元もしめつけられて。
急いで車を降りて、確かめたんです。
 そうしたら、女の人が、路肩に、うつぶせに倒れていて。頭から、血、が。眼を
ひらいたまま、全然動きませんでした。あ、ああ、それ、で、そう救急車を、呼ば
なきゃって、携帯でんわをひらいて。ディスプレイの爛、漫なひかり、が、飛びこ
んでくらくらしました。何て云って呼んだ、のか、は覚えていません、気づいたと
きには救急車の、サイレンのおとが、遠くのほうから聞こえていました。
 心肺蘇生、は、気が動転してしまって、うつぶせの女の人をさわるのが、こわく
て、あ、あの人、眼をあけていたん、です、こわくて、救急車が到着したのが二十
時三十一分五秒でし……」」

   *洗濯**

 今日はとてもいい天気だから洗濯物がよく乾くわと節子はベランダでタオルの皺
をのばしながら思った。
 洗濯物を干しおわったら。まずは朝食をつくって、そのあとは庭の草むしりでも
して。お昼ご飯は夫に持たせたお弁当のおかずのあまりがあるから。お昼からは園
芸店にからし菜の種を購いにいって、夕飯の買い物をして帰れば。夕方、種を植え
て、洗濯物をとりこむ頃には野良猫がごはんをもらいに来るだろうからいりこをや
る、と。(そういえば昨日は猫、来なかった)あ、いくちゃん。今朝いくちゃん元気
なかったみたいだったけれど、大丈夫かしら。「朝早くの電話だったから」なら、い
いのだけれど。送ったお野菜、きちんと食べるだろうか。家ではまったくご飯なん
てつくらなかった子だから、心配。(あら、靴下が一足たりない)まあしっかりした
性格だからきっと、ちゃんとやっているのだろう。わたしの誕生日なんて、もう祝
ってくれなくていいのに、胡蝶蘭なんて送ってくれて。それに比べて、夫はあした
の結婚記念日のことなんてすっかり忘れているみたいだったけれど、ちゃんとはや
く帰ってきてくれるのかしら。今年は銀婚式なのに。って、わたしのほうも先日そ
れに気がついたばかりなのだけれど。ふ、ふ、ふつ、と節子の思考はとめどなくこ
ぼれ続け。
 空をみ上げれば、ターコイズブルーよりもうすこしうすい色。骨だけの鳥がきし
きしと飛んで。庭のおばけみたいな植物の群れに囲まれていると、生きているのを
わすれてしまいそうになる。
 風が吹く。
 ハンガーにかけたあかいカーディガンが顔を覆う。まっか、
を剥がして、もとに戻す。けれど世界はあっという間に違っていて。まっか、な、
空、庭に転がったじょうろのさき、に鬼蜻蜓、プラスチックのような翅、の
呼吸。洗濯物はすっかり乾いている。
 これから。洗濯物をとりこんだら野良猫がやってきていりこをやって。そ
れで、それから、夕飯の準備をしてひとり、食べ終える。食器を洗っていた
ら、電話が鳴る。そう、絶対に電話が、鳴るのだ。
 あらかじめ決まっている、娘の危篤を知らせるコール音。
 八コール目に受話器をとる、わたしの腕のうごきも。
 予定通りだった。

   *灰身**

 「わたし」のしんだ跡を、つぎつぎと生きているものが通る。
時折、立ちどまり手を合わせる少女や、少年がいて。並べられた花の色を数
え、もうすぐ冬になる。
 『このへんに、ね、こうやって血が流れていたの。みっつの流れに分かれ
て、ひとつは反対車線でとまり、ひとつは路肩の砂利でとまり、ひとつは側
溝に流れたの』
 血と一緒に、ひかりで足をよごした蛾もくるくる流れて、いって。

    触覚は岸辺や海をみている。
    満ちたりた月のにおいがする。
    記憶だけがいつまでも、うごけないまま。




____________________
(※1)シルバ社
シルバ・スウェーデン(Silva Sweden AB)は、アウトドア用品、最も良く知
られるのは高級コンパス、その他GPS機器、マッピング・ソフトウェアや航
空機用の高度計を含む航法機器を製造する企業である。
『Wikipedia フリー百科事典』より引用。


第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦
月刊 未詳24 × 文学極道