第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦


recitativo
  浅井康浩


その年、フラ・マウロの世界図では、アビシニアが、プレスター・ジョンの国であると記
されていた。南方にMaldivesの島々をのぞみ、南東貿易風がもたらす降水が年2000~4000
ミリにも及ぶ岬を抜けると、ケーララの村は深いみどりのなかに姿をあらわす。この亜大
陸への到達について、長い記述をしたためることに意味があるとみなしたのは、なにもポ
ルトラノ海図を手にしたヨーロッパ人がはじめてではないだろう。厚い霧のなかを漂うよ
うにして停泊した彼らが見たものは紀元前3世紀から続くフェニキア、バビロニア地方の
人々との交易のにぎわいだったのだから。寄港するアラビア船が、季節風にたよった航海
方法によってではなく、木材をひもで縛って組み上げてゆくその構造のばらけやすい撓み
具合によって抒情的であるように、そこでは、灯台にあかくともる光の粒のひとつひとつ
さえ、小さな音をこぼして、夏のひろがる予感を船乗りたちに告げていた。





男はまどろむ。目を閉じ、耳を澄まして。夜でもない時間に。この土地を訪れた理由、そ
こに至りみずからが戸惑うことを回避するために。揺るぎなくみずからを疲弊させるため
に。だからこそ、こみあげるのは、誰のものでもない、消えましょう、というつぶやきの
きれぎれでしかない。





チーク、ローズウッド、黒檀。緯度が下がるにつれて乾燥が激しくなるこの地方にあって、
木材の暖かみに身をゆだねていたいという怠惰に浸潤されてゆくとき、その渇きをいやし
てくれる場所は、寺院の中においてほかなく、そこでは周囲を石造文化圏にかこまれてい
るがゆえに採られる、全体を貫こうとする強固な軸線も、まして幾何学的な区分けすら見
られず、あるものといえば、うっすらとした明り、それもどこかの隙間から洩れでたよう
な茫洋としたふくらみというべき、はかない明度そのものと、聖室をやわらかに巡るの足
音が、右回りというかたちをとってひびいてくるだけにすぎなかったし、おそらくは人々
の言う礼拝のかたちが、直線的な時間に沿って進んでゆくものでなく、ただ、声と息継ぎ
のあいだにある、ハッ、ハッ、という洩れでてくるものの喜びをさししめしているかぎり
は、だれしもが夏のひかりのなかに溺れてしまい、その影すら、ここへととどくことはな
かった。





女は、従ってほしい、と言い残す。灰にしたら、つぎの指示に従ってほしい、と。男は頷
く。言うべき言葉を噛みしめると、胸のなかをぎんいろの魚の群れがとおりぬける。いま
でも鎖骨に吹きかけられた柑橘系の香りのやわらかな追憶が、戯れにボタンをはずす女の
くっきりと整った輪郭を男に思い起こさせる。みずからの過去から溢れだす記憶にどのよ
うな言葉をあてがえばいいのか、男はわからない。できるなら記憶をくゆらせるための安
息がほしい、とさえおもう。いとおしむ、という行為として、避けることの叶わない種々
の風化をいだいたまま、ゆるやかにながれる運河でありたいと。





カシミールで編まれた染色には2つの派生してゆく系統がある。どちらについても、さま
ざまなバージョンを生みだす。ペイズリーとして、更紗として。ひとつは植民地の時代に、
もうひとつはよりふるく紅毛船によって。交差する線を規則正しく配列するとどめようも
ない織りの反復とともに、波状にえがかれた茎の模様を二重に縁取ってゆきながら、植物
そのもののもつ微細にねじれるプロセスに心をざわめかすものの呼吸が、布のもつ光沢と
曖昧に溶け合ってしまうとき、ふいにあらわれるまぼろしの沼沢地のような空白の領域の
なかに、松毬や糸杉は、そのほどけるほどの柔らかい肢体をさらそうと姿をあらわし、だ
が、互いにもつれあい、からみあってゆく。緩やかなうねりと緋色。女たちはそのような
図柄から平和を連想してきたのだろうか。





男は反訳する。掘り起こしてゆく記憶のあいまに唐突に出現してくるなんらかの痕跡を、
感傷として位置づけてゆくことの時期がすでに奪われているがゆえに。ぬめりと現れる翻
訳できない異質な言語が女そのものと結びついている言葉の意味を失わせてゆくことを望
みさえする。あなたという存在が、何気ないしぐさや気配として、ある種のなつかしさ-
それは蜂蜜にも似たあまさをともなうこともあるだろう-とともに記憶の間隙を縫うよう
にしてしか現れはしないだろうということを。この弱さこそが女の嘆いていた自分らしさ
にほかならないことを。





現存する最古のアラビアンナイトには、物語冒頭の15行が記されているにすぎない。サ
ンスクリットからペルシャ語へ、そしてペルシャ語からアラビア語へ、千夜一夜は翻訳さ
れるたびに、最初期のすがたをうしない、別の物語となってゆく。それは文字通り、新し
い物語が写本家たちにより書き加えられ、収録物語の数が増えてゆくということを指す。
シンドバッド航海記が、千夜一夜とは別系統の物語群に属しており、アラビア語のテキス
トさえ存在していないように。たとえば、ペルシャ語で書かれた「ハザール・アフサーネ
(千の物語)」。それを諳んじることはアラビア語に翻訳され意味をうしなってしまう以前
の、中世ペルシャのかろやかさを呼び戻すよすがとなるというように。それと同時に、い
まだ発語されたことのない音の感覚へと物語が結びつくことは、写本家たちにとって、一
つの固定した形をもつことのない可変的な物語を、みずからの手で、書きくわえるための
ささやかな空白として受け取ることも意味する。おそらくは、みずからが、つぎに翻訳さ
れるであろう見知らぬ写本家たちの言語のなかへとつらなってゆくひとつのピースにすぎ
ないことをひそやかに願ったりもしたのだろう。だからこそ、千夜一夜の写本家たちはみ
ずからの名前を記すことさえなかった。





男は気付かない。いつからかみずからが裸足で歩いていることに。気にもとめない。それ
でいて、わかりはじめている。踏みだしてきた痕跡が、あるときはただの足跡にすぎず、
だが、ある時点において、もっともいとおしい地点への経路をたどるとき、痕跡からみち
あふれてしまうものは、生まれつつあるものへの感謝にも似たものであるということを。
あるいはそれが、みずからが撒く女の骨が棄てようとしていたものであったことと、おそ
らく、ある時期において女を内側から支えてきたものであることに。





舟、蓮、水、ささやかなモチーフから紡がれる絵画をしめやかなものとして捉えてしまう
のは、それがミニチュアールであるということ以前に、触れたときのざらっとした手ざわ
り、漉きあがったまま切り落とされていない繊維のキメの粗い息づかいによるのだろう。
空の青が水の青とつながって、ひとすじの淡いひかりの尾ひれとなって世界のまんなかを
ゆるやかにながれゆく構図を目で追ってゆけば、ひっそりとまわりの時間がとどこおって
ゆくのを感じるだろう。そうなれば、わたしはごく自然に、沈澱してゆく時間にみずから
を浸してゆく。そこではもう、待ち焦がれるということは、ない。もてあますことさえ、
ない。キシャンガル派のような、寒色をたえまない流動そのものとして主体の枠のなかへ
封じこめるスタイルが紙そのもののこまやかな官能性をひきたててゆくとき、わたしのこ
の場所へ至るまでの時間は、軽やかなよろこびを帯びたものにさえなるだろう。たんたん
とした流れそのものとして、これからはじまるかもしれない時間そのものの中にうなだれ
てゆくわたし自身を見いだしてしまうかなしい予感が、ためいきのようになつかしい深い
透明感をもたらしてくれる。





男は壁を見つめる。女の胸の鼓動をただ聴いてきたことの意味を、時間をさかのぼるよう
にしてみずからの身体に問いかけているあいだは、目は閉じたままでもよかった。かさね
あわせるひとつひとつのかすかなリズムが、ふるえるように透明になってゆくような午後
を拠りどころとして、記憶から現在へと身体を渡ってゆく感覚は、息をひそめるようにし
て錆びついたままだ。雨の音が聞こえてくれば、不整脈のリズムはわずかにゆらいぐのも
忘れたままで。とりたてていうべきことのない静寂が、男にかいまみせる。そこここに芽
吹きはじめてる草花の、降り注ぐ雨を恩寵として待ちかまえていたころの世界を。雨の匂
いをただ待つものがはなつ庭のさざめきはうそさむい、と女はささやく。それは独り言の
ようであり、しかし、ふたたび互いをはじめて見いだしたかのように、みつめあうことと
なる。男はただ、大きくなってゆく雨の音のなかの静寂に気付いたまま、どうすればいい
のかわからない。そして、おとなしく見つめられるままになってゆく。男はひもといてゆ
く。たしかあの庭には、木漏れ日があり、にじみながら時間がゆっくりとなっていったと
いう記憶を。そして、昨日までたしかに知っていた世界を、悼みあうことも、ゆるされて
しまうことも忘れたまま、越えてしまった出来事を。そして、すべてのものがゆっくりと
濃密にながれてゆく。しかし、ひっそりと呼吸が止まったような時間をすごす男が、この
部屋にいるというわけではなかった。


第2回 21世紀新鋭詩文学グランド・チャンピオン決定戦
月刊 未詳24 × 文学極道