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--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.03.13 (Mon) 22:58:
ネットポエム宣言−−−−その1
ぼくが初めて詩を書き始めたのはネットだった。ポエムを書く、そして読む、という行為に突き動かされたのは、ネットの中の書き手たちに触発されたためだ。20代の半ば、秘密の文を交わすように、ぼくは今は無きとあるサイトに書き始めた。
ネットポエムはレスポンスという形で作者と読者を繋げる仕組みがあった。ポエムはインターネットを介して人々繋げた。ぼくはネットポエマー達とリアルでも会い、話をすることもあった。そしてある女の子とは恋(ロマンス)に落ち。週末ごとにホテルで密会。そして抱き合った。
ネットはポエマー達を熱烈に繋げ、そしてその思想を伝播させた。その思想は今もどこかで生きている筈だ。そう、今から20年近く前。ネットポエマーの多くは活字媒体の詩の世界を知らなかった。ネットポエマーはネットポエマー育て、ネット中だけで増殖していたのだ。
ところが、ぼくら純粋ネットポエマー達を脅かす出来事が次々と起こった。ネットポエマーの中から、活字媒体へ飛び出す輩が現れたのだ。我々ネットポエマーの仲間内では、彼等の事を裏切者と呼ぶ人間と、彼等の出世を称える者たちに分かれた。ネットポエマーを分断するできごとが起こり始めたのだ。さて、今や40代から50代に年齢が差し掛かった初期ネットポエマー達の殆どはネットポエムから足を洗うか、現実生活に戻っていったものが殆どだ。
しかし、彼等の生活が全く見えなくなったというわけではない。blogやTwitter、インスタグラムといったSNSによって拡散し続けている。
彼等の詩魂は失われたわけではなかった。
そしてもう一つの出来事をぼくらネットポエマーを襲った。活字媒体で活動する、社会的に正統な団体に所属する、詩人たちが我々の領域を闊歩し始めたのだ。まるで我が物顔で。これはネットポエマーにとって恐るべき出来事ではないか。なぜなら、それは我々の文化的聖域を侵されることを意味するからだ。
云わば我々は土着の先住民であり、そこへ渡来人たちがやってきて、我が物で振る舞い始めたのだ。こういった野蛮な行為に、反旗を翻し、声を上げるネットポエマーもいなかったわけではない。しかし、ネットポエマーというものは、その名の示す通り平和主義を第一とし、おそらくその殆どのネット内活動を、love&peaceをエスキスとしたのである。
--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.03.14 (Tue) 23:24:
ネットポエム宣言---------その2
ぼくが『文極』に投降し始めたのが、29歳から30歳になる歳の頃のことです。このとき、仕事も忙しく。すでにポエムに飽き始めていたころでした。おそらく、『文極』に出会わなければ、ポエムを書くことは、とうに止めていたことでしょう。この頃、ネット詩壇という概念が、ぼくの中に入り込んできました。そう、今までネットポエムを書いてきたけれど、どこが一番、レベルの高いところなのだろう?
今ならこんな愚問を発することはないでしょう。
しかし当時、最も熱いネットポエマーの集う場所が、この『文極』であったことは間違いのないところでしょう。ぼくは当時複数のネーム使い分け、あらゆるタイプの投稿サイトに出入りしていました。
投稿サイトによって評価をウケるポエムの種類がはっきりと分けれていました。そう、ぼくはそのサイトの特性に合わせて、ウケるポエムをかき分けて投稿しておったのです。
ただ、『文極』というサイトは、そういうことを、気にする必要のない数少ない場所の一つでした。
これは特筆すべきことではないでしょうか。
ぼくの書いたものは『ラブポエム』として当時の代表ダーザイン氏から不評をかったおぼえがありますが、彼はすぐにぼくの実力を認め、ぼくの『ラブポエム』を先進的な「現代詩」と認め、『文極』の名のもとに発表される、実存賞という権威を与えました。
ほかに発起人の榊蔡氏や、砂木さんという女性の詩人に、ぼくは強く、ポエム書き続けることを後押しされた記憶が鮮明にあります。
それが、いまだに、ぼくがポエム書き続けるモチベーションとなり続けているという事実は、なんというか不可解な、かつ、縁というものの、不思議さを感じ得ずにはいられません。
ぼくは未だに彼らの幻影に励まされ、書いていると言っても過言ではありません。つまりです。もはや自分の為に書いているのではない。かつて情熱を持って、ぼくを励ましてくれた仲間の為に書いているのだ。
ここには一切の利害関係も党派性も存在しない。
一己の人間の、存在の在り方が、ポエムなのだ。
ネットポエムには、経済原理の外側にある。本質的な人間の姿を映し出す、装置が仕掛けられていたのです。
我々はその装置のことを、ネットポエムの心臓部と呼ぶべきでしょう。果たしてインターネットの内部の奥深くに、人間を救い出す装置としてネットポエムが歯車のように様に存在し、今もそれは人々を幻惑し続け、そして果てしない冒険のプロローグのように、新しいネットポエマーを未開の地へ送り出す、ベースキャンプ地となり続けているのである。
--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.03.19 (Sun) 21:18:
ネットポエム宣言−−−その3
しかし、ネットポエム宣言などといったことを言っておきながら、最近は接待や歓送迎会など、泊まり込みで夜の街へ繰り出す、っといったことが多く。インターネットともポエムとも、ほど遠い生活を送っているのが、私の現状なのですが、昨日はきゃりーぱみゅぱみゅが、宮崎にきていて、ホテルがどこも満杯みたいっちゃ、と、地元のホステスさんが言っており、実際どこもホテルはいっぱいで、人生初のネットカフェで一夜を明かす、という経験をしました。しかしきゃりーぱみゅぱみゅが来たくらいで、宮崎市内のホテルのキャパが一杯になる。などという現象は、本当なのか?
少し調べかけてみたのですが、アホらしくて止めました。
そんなことはどうでも良いのです。しかしネットカフェというのも、昔の飯場、ないしカプセルホテルのような様相を呈し、これは、明らかに寝泊りの場所、として活用されているのですね。
昔、10年ほど前、ネットカフェ難民などといったことを取り上げたNHKの特集を観た記憶があるのですが、更に状況は変化している、と思います。
実際、「ポエム」というものは、どこから生まれてくるのでしょう?
歴史を遡れば、貴族社会に属するものが詩歌を興じたのかもしれません。また吟遊詩人いった存在もあります。ポエムには「教養」から生まれだすものと、社会から「疎外」された者たちのよって共有される唄と、二つの方向があるように思われます。
しかし「教養」といった概念が限りなく矮小化されて扱われる現在。「ポエム」とっいったものを、知識人階層が知的な取り組みとして問題にするケースが殆どなくなり、かわって、社会的疎外者が、自らのメッセージを託して書く場合が多いように思われます。これが「現代詩」として扱われる場合。ポエムの知的側面は剥奪され、情的な側面が特に強調されます。ネットカフェというものは、近・現代社会の都市部に唐突として現れたスラム街だと言えるでしょう。
その現代のスラム街と云えるネットカフェから、多くのポエムが生み出されていると考えられます。これは極めてアクチュアルな問題設定です。ポエムが現在、どこに於いて多くの接点と力点を形成する場足りうるのか?というと、やはり予めインターネットというツールの中に、プログラムされたものだったと断言しても良いでしょう。何故なら、インターネットとこそ疎外されたもの同士繋ぐ回線足りうるからです。もはやポエムは「路上」に転がっているものではなく、増してや、アカデミズム(既存のマスメディア)の中にさえ存在することはないのです。何故なら、ポエムにすがるもの達は、純粋に言葉の力に促されたもの達だからです。人世に打ちひしがれたものたちが、最後に頼る言霊が、宿る場所。それが神聖なるポエムなのです。
--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.03.20 (Mon) 10:50:
ネットポエム宣言⁻----その4
『人世に打ちひしがれたものたちが、最後に頼る言霊が、宿る場所。それが神聖なるポエムなのです。』
言葉、といっても彼が信じるものは、「テクスト」である点をぼくは注目しています。なぜなら、それは、話された音声による言葉ではなく、書かれた(文字変換後の)言葉であることが、重要な点です。つまり、それは、肉体から、いったん切り離された行為としての言葉。それが文章化された、テキストとしてのポエムだからです。
なぜネットポエムでは言葉が一度肉体から切り離されなければならないのでしょうか?
これはネットポエムに置ける最も大きな要点だと言えるでしょう。仮想世界によって、肉体は一度「無化」されるんです。これはビジュアルをとても重視する人間社会を、一度フラットな、平等な世界へ落としこむギミックなのです。つまり、ネットポエムの思想には、平等を希求する思想があると言えるでしょう。ここでいう「平等」とは、不安を消し去る装置のようなものです。あるいは、生と死の境目を消し去る奥義のようなものが奥底に潜んでいると言えるでしょう。
ネットポエムが肉体を「無化」する思想をぼくは時たま、掲示板上で投稿された作品を批評するとき、批判のロジックとして使う時があります。これはネットポエムの否定につながる批評になるわけですが、商業詩誌の詩人たちは、おそらく掲示板の匿名性に違和感をおぼえることでしょう。それはぼくは共有できます。
ネットポエムが現実を乗り越えることのできない最大の弱点となってしまっているからです。なのでぼくは経験主義というものを、あえて、ネットポエマーに突き付けてみせるのです。
ネットポエムにとって、経験主義(リアリズム)は着地点ではありません。ネットポエムが孕んでしまっている、ネジの抜けてしまった関節、不具合を修正する必要性をいつも感じています。
リアリズムを取り込んだネットポエムは、その先に広がるであろう、表現領域を視座に捉えることができるぼくは信じています。
今日は3月20日春分の日です。
ぼくの住む宮崎地方は、昨日とかわって少し肌寒い気候になっています。18日の晩、転勤する同僚の引っ越しの手伝いをするために、市内に赴き、食事会と二次会を行いました。二次会(ラウンジ)で隣の席に座ったホステスさんが奇麗な方で、おそらく5年半ぶりに本気で口説きに行ったものの。LINEを交換し、それこそテクスト(LINEの文章)上で今日も朝からラブメッセージを入れてみるものの、既読スルーが二回。昔、京都のキャバクラやなんかで、20代の頃ですが、休日の朝からホステスさんから電話があったり、土曜の晩、ラウンジで飲んでるときに「明日、服を買いに行くんだ。」って話をすると、私も行く。などといって翌日デート。といったことは珍しくなかったものです。40代になって魅力が落ちたのか、LINEという繋がりやすさの反面、記号化されたコミュニケーションツールの弱さがあるのか?或は宮崎の女性の貞操観念なのか?ネットポエマーのテクスト論に新たな分析を付け足していく朝になっているわけですね。
--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.03.25 (Sat) 18:32:
ネットポエム宣言----その5
昨日、転勤してくる同僚の歓迎会に参加しまして、非常に飲みすぎた感があり、朝から体調を戻すのにスローライフに励んでおりました。
しかし最近、夜の歓楽街を飲み歩く機会がまた増え、そこで様々な出会いを経験します。
昨夜。3次会で行ったキャバクラの女の子が可愛かったので、LINEを交換しました。なんか最近、いつも交換してるので、知らない女の子のLINEがコレクションのように増えてきます。宮崎は夜の街の店で男女がナンパをお互いにしあっているので、結構、お相手を見つけるのは容易い、ということを発見しましたね。大阪や東京などより、ユルい感じが今のところしています。
ぼくは夜の社交場研究家になろうというつもりはありませんが、それぞれの地方の盛り場研究は、結構大事なことだと思います。日本の民俗史における、証言記録として(笑)柳田國男が岩手県の遠野を調べたように、ぼくも宮崎のキャバクラを調べたいと思うようになりましたね。
そうこうしている内に、昨日の女の子YちゃんからLINEが来ました。
Yちゃんは日曜日が休みなので、日曜日遊ぼうか?とお誘いのしたのですが、3つの理由で、ぴしゃりとお断りされました。その理由というのが、1つ、『どの子にも同じようにしてるんでしょう?』←これは非常に正解なんですが、一応選別はしているわけです。明確に好みがぼくにも存在しますからね。2つ目は、『こういう店で働く女の子は駄目でしょう?』というわけです。←これも基本、嫌ですね。半分くらい正解なんですが、話していて、誠実さを感じる子も偶にいるので、それは相手によりけりであることを伝えましたが、果たしてどのように伝わったでしょうか。Yちゃんは27歳なので、まァ、大人の感覚はあると思います。3番目の理由が『わたし母子家庭で、病気のお婆ちゃんの看病があって、休みの日は駄目なの』という話です。そうすると、夜のお仕事をしていることも、ある意味「美談」にもなるわけで、ポイントは高い感じがします。しかし、ぼくもこういう世界の営業トークというものがあるのを無論知っているので、すべてを鵜呑みにすることはできませんが、民俗学的な興味から、突っ込んでみる価値はあります。
以上が、ぼくがただキャバクラに行っているわけではない、という与太話でありますが、ネットポエム論的な話に移行させると、ネットポエムとキャバクラは相似形を成す、といっても過言ではないでしょう。キャバクラはポエジーの宝庫であり、更に、キャバクラとは現代詩である、と言い切ってさえよいでしょう。つまり、そこには奇麗な女子を侍らかす、という。男たちが本能的に持っているロマンティシズムがあるからです。ポエジーとは本質的に言語学的なロマンティシズムを形成する統語法であり、ぼくらが言葉の発見を通して世界を発見する生き物であることの査証となっているわけです。ネットポエマーとは、それを最も純粋な動機と方法によって実現する人々の事を指すわけです。
--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.04.08 (Sat) 20:24:
ネットポエム宣言(宣告)------その6
その昔、ネットポエム板は心の解放区、だったように思う。社会的敗残
者たちの吹き溜まりのような場所だったのだ。そこにぼくはアナーキズ
ムの匂いを嗅いだ。
近代社会以降のぼくらにとって、政治的、経済的に決して統治されない
場所が必要だった。ぼくらは自由主義社会に生きているだろうか?
とてもそうは言えないと思う。
自由を獲得しようとする魂たちの拠り所がポエム板だった。
自由とは何か?ここで堅苦しく定義して議論が狭くなることを避けたい。
詩と自由は本来的な繋がりがあった。それゆえ、ぼくらは表現手段
として現代詩を選んだのだ。
小説が滅んでも、現代詩は焼け残るだろう。
詩とは、ポエムとは本来的にそういうものなのだ。
ところで、このぼくは社会的敗残者なのだろうか?
成功者だろうが、敗れた者だろうが、今のぼくはどちらでも良いと思っ
ている。詩を書くことは連想の扉を次々と開いていくことにある。
Aという言葉がBということばを連想させる、BがCに、CがDへと、
次々に連鎖反応していく言葉のひと塊がポエムだ。
そのポエムと社会の橋渡し役をするのが批評だ。
この「ネットポエム宣言」はどちらかというと、批評の性質を持ってい
るだろう。ネットポエマーとは吟遊詩人の性質を受け継ぐ人たちのこと
だ。社会を批判的に、斜めから見ることで既定路線から外れた新しい未
来に光を注ぐことが役目である。
詩は社会を動かす力を再び回復しなければならない。
詩は言葉ではない。
ポエムは言葉ではない。
明確な定義を施すならば「動き」それがポエムだ。
言葉の中にもそれはある。
ぼくらの日常のそこかしこに「動き」は潜んでいる。
そこにポエジーを(働きを)感じるのが詩人だろう。
--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.04.09 (Sun) 12:54:
ネットポエム�狎觜陝蹇 ,△詁�
http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=3;uniqid=20050221_548_82p#msg82
折角の日曜日の、とても晴れた日で、メンテナンスに出していた車も、
戻ってきたので、出掛けたい気分なのだが、今日みたいに滅多に書け
る日がないので、少し書いておこうと思う。
リンクを貼りつけたのは光冨さんの「バード」という作品。
情景描写を主体にした、優れた叙景詩だと思っています。
この作品は2005年の2月分で優良作品に選ばれている作品です。
dさん(ダーザインさん)、榊蔡さんという有能な読み手にも恵まれた
とても(「文極」の)幸福な時期にアップされた作品。
文極初期を代表する作品だと考えています。
dさんの評を引用します。
『海について、そこがどんな海辺であるのか、
カモメは舞っているか、
日は射しているか、波は穏やかであるか、
或いは大きな鉛色のかたまりが打ち寄せているか、
風はふいているか、砂は流れていくか、
或いは丸くなった石つぶての浜辺であるか、
なにか浜辺に色彩はあるか、
何一つ、どんな海辺であるか言及されていないのだが、
この詩を読んでいると、奇妙なことに、
幻鏡作品ででもあるかのように、
圧倒的な存在感をもった海が打ち寄せてくる。
読み手の内部の海を、この作品は呼び覚ますのだ。』
----光冨郁也さんの「バード」によせたdさんの掲示板内での評---
それから榊さんの評も引いておきます。
『先ず、描写対象に対しまるで詩人の自我(エゴ)が感じられないということ。
それは現象に対してほとんど化学反応的に、見、触れ、思惑してるってことです。
それと時間順序と速度感の均一さ。
恐らくそのためにこのスラッシュは必要だったのでしょう。
効果的です。
でなにより作品全体を覆う研ぎ澄まされた空気。
文学ではときに読書体験などといいますが、
追体験などではなく、もっと近いとこで体験させられた気分です。』
----光冨郁也さんの「バード」によせた榊さんの掲示板内での評⁻---
ぼくのこの作品への印象はとても静謐でそれでいてエロティックな作品
である。ということにあります。
削ぎ落された情景描写の中に、リアリズム超えた「何か」に迫ろうとい
う思惑があり、それが成功している作品である。
このころぼくはまだ『文極』を知らずにいました。
こういう熱いやり取りが組み交わされている場所であることを、知らず
に3、4か月投稿していた記憶があります。
投稿している内に、なんとなく仲間意識が醸成されてくるようになり、
後に過去ログに興味を持ち、サイトに対する印象が徐々に形成され、位
置付けを行うようになってきた。
『文極』がどのような性質を持ったサイトであるのかという意味での位
置づけです。後にネット詩壇という概念があることを知ったのは、榊蔡
さんの言説からであった様に記憶しています。
ネット詩壇という概念を最初に打ち出したのはいったい誰なのか?
しばらく興味のあったところなのですが、そこに何かしらの重要な意味
を見出だす。というよりも、インターネットの中に「詩壇」が生まれる
という発想の面白さにに惹かれたものでしたが、インターネットの性質
上、それは馴染まないものだったのでしょう。
--- オダカズヒコ [ Regular ] @ 2017.04.23 (Sun) 16:38:
ネットポエム日和
http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=510;uniqid=20161213_340_9343p#20161213_340_9343p
久しぶりアラメルモさんのポエジーがさく裂している作品を読んで、
「ネットポエム宣言」の続編を書く気になった。彼の詩が評価されない
詩界は全くおかしい。彼は文極の文脈で云うと、りすさん以来の逸材で
す。但し、性格的に「問題」がある、という点は認識しています。しか
しそれとこれとは違うのです。こんな良い詩が今の日本で紡がれている
のに、評価を受けないなんて在る筈がない。それは強く云っておきた
い。
ところで、ぼくも詩を書くことには200回くらい飽きています。読む
ことにもそれ以上に飽きています。それでも、詩の感覚は人間にとって
とても普遍的な現象であり、それは呼吸することと同じくらい自然な行
為である、ということは、年齢ととも確信します。
詩的感覚を失った人間など、頭部がまるっぽ欠落してないことと同義で
ある。本当に物事を深く考えていくと、最後は詩的なビジョンに辿り着
くのです。或は苦痛も同じです。人間は生きていくことは苦痛を体験す
ることと同義である、といっても過言でないほど、この世はある見方で
いうと苦しみが多いものである。しかし、詩的ビジョンはその苦しみを
創造へと変えてくれる回路であるのです。
ぼくは詩を書くことに「飽きた」と最初に言ったがそれは間違いで、日
常を詩に変える回路を失っていたのです。
つまり、「飽きた」のではなく、詩に至る回路を喪失していたわけで
す。何故、我々はポエジー(文学)を失ってしまうのか?
これはとても大きな社会的な命題であると思います。
ぼくらの社会がギスギスし始め、病的な暗雲が蔓延し始まるころ、人々
の幸福を奪っていくものはポエジーとの回路が断たれた社会である、と
いうことが言えます。
さて、アラメルモさんの素晴らしい作品から引用しましょう。
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