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[0]文学極道 フォーラム一覧 - 文芸 - 「藝術」としての「詩」をギロンするスレッド - ページ移動 1, 2, 3 ... 23, 24, 25 次へ :: すべて表示 - トピックに返信
--- 天才詩人 [ Member ] @ 2016.06.22 (Wed) 06:04:
文学極道の屋台骨的コンセプトである「藝術としての詩」というトピックで、酒の肴程度にラフな会話がしたい。
--- グリフィス [ Member ] @ 2016.06.23 (Thu) 00:24:
司会が務まる程博識ではないのですが文極になるべくプラスになる話ができたらと思います。
文極で言う芸術とは書く技術の事ではないかと勝手に思っていました。
技術が無くてもわかってもらえるような作品は馴れ合いになる恐れが
あるのでやめてください、
書く技術を磨いて投稿する人たちの妨げにならないように
低い技術で投稿する人たちには酷評を入れる可能性がありますよ
そんな感じで理解していました。
意識の大きな問題で生気論と機械論があるのですが
自分には書き記せない神秘的な部分があって
それが有るからこそ既に芸術であり自分の書くものが他者に理解できなくてもそれは仕方がない
そもそもそれは書くことで他者が理解できる筈は無い
なぜならそれは各々がもつ唯一の調べ旋律のようなものなのだから
という感じの作者に文極は厳しい筈です。
かと言って芸術とはつまり自分の唯一性を証明する為にあるものですからこの時点で文極のポリシーというか信念みたいなものは
理解されづらい
全てを技術に還元できるなら突き詰めれば作者の唯一性不可知性などなく再現可能であり
それでもなお創作するということに意味を見出せるのかということです
ですので芸術という意味の方向性を世界というか
― 新たなる世界性を自らの手で創造せよ ―
世界性ってなんだろうかと思います。
いや、俺も文極で黒歴史を作っているのでそこでは
世界性というのは未踏の部分
誰もふれていない場所を見つける事かなとか思っているんですけど
天才詩人さんの場合は少し違うかもしれない
詩的許容を狭める方向性か多言語混用の方向なのかなと思うんですが。
どうだろう?
--- 玄こう [ Regular ] @ 2016.06.23 (Thu) 02:36:
誤字脱字文章もあなた同様に読みづらいし下手糞ですから、前置きしておきます。
『藝術』 としての 『詩』
このセンテンスが私はどうしてもいただけません。
藝術としての!、詩?。
詩を藝術に限定させていくのか特化させていくのか?みたいな違和感がある。この看板標語が至極曖昧でありはっきりしない。藝術+詩となると言語芸術みたいな意味合いが先立つが、ダーザイン氏は以前私のレス(新たなコトバを自らで世に向け発明していくことが詩人のひとつの仕事だ。*)みたいな意見をしたことがあった。このときにダーザイン氏は『言語派の詩人』なる者を完全に否定していた。は?何よそれ、はて言語派ってなによ。よくわからず、尋ねもしなかったが。もしや芸術の『モノ派』と接する言語芸術を否定してるのかしら?、、で、なんで、発起人は【『藝術』としての『詩』】という看板を堂々と掲げてあるのか不思議に思ったことがある。些細なエピソードかもしれないが。
藝術としての詩、この一語が実ははっきり言ってよくわからないのだ。そんな分野で製作や創作をやる奴なんぞ1%にも満たないだろう。藝術というカテゴリーであらゆる手立てとして、創作や製作、メソッドもコンセプトも無数に執り行われているが、しかし私の過去これまで【“藝術”として観た詩】は、言語芸術ぐらいだ。松澤宥という人物なら私も知るが、、ψの函、言葉による美術、などの著がある。
あるサイトから以下一部彼の仕事をコピー張り付け、
―――――――――
1940 年代から詩、絵画、立体作品を制作していた松澤は、64 年 6 月 1日深夜、「オブジェを消せ」という啓示を受けます。ものに頼らない美術作品を作るべきかと 3日間苦悶し、6 月 4 日、啓示通りものを排除し、文字や行為のみの作品を制作しようと決意します。以降、一貫して物質と人類の消滅や反文明という主張を掲げた言葉による作品を制作することになります。世界的な傾向として、60 年代後半は、絵画や彫刻など視覚的な表現ではなく、文字や思考的方法を取り入れアートの概念を再考するコンセプチュアル・アートが登場した時期でもありました。(松澤宥 プサイの死体遺体 1964 年より)
――――――――
こういう作家はそれこそ、『藝術』としての『詩』に当てはまるだろうが。
そんな万に一人ぐらいの作家しかそんなカテゴリーではやっていないだろう。
そういう意味合いでしか、【藝術としての詩】に通じない気がする。
さて、そんで、天才詩人さんの綴る、海外日誌なんか当然、藝術としての詩、になるわけないわけだ。私からすればね。。
今日はこれくらいにします。続きは気が向いたらいつかレスします。 私もう寝ます、お休みなさい。
玄こうより。
--- かず [ Regular ] @ 2016.06.23 (Thu) 05:30:
そもそも藝術を徹底したらあんたみたいな作品出てこないと思うよ。だって藝術ってねあんた、せいぜいドストエフスキーとかハイデガーぐらいしか読んだことがないような連中が言い出したわけで、藝術の世界は、ノグチイサムとかニキドサンファルとかピカソマティスゴッホゴーギャンゴヤ草間彌生三宅一生カラバッジョブランクーシポールスミスヴィヴィアン・ウェストウッドダリバウハウス未来派とパッと思いつくだけでもこれだけあるわけ。本当あんた藝術について知らなすぎ。せいぜいクロソウスキー読んで気取ってるんだと思うけど全然ダメだから。ダミアン・ハーストみたいに死体の標本展示して芸術家として稼いでる人もいるし、かと思えばゴミみたいなのを展示してる人もいるし。本当なんでもありなわけ。だから自分の価値観、趣味判断、もしくはカント的な美学の範疇で藝術がどうこう論じようとするような人は藝術について知らなすぎだと思う。もっと全世界が揺さぶられるような衝撃的なものがないとさ。まあ藝術と文学や哲学が密接に関わってるのは認めるけどさ、例えば和辻哲郎だって桂離宮について論じてるし。今世界的に活躍してる村上隆も元はと言えば日本画の大家のもとで修行した人間で、「意味の無意味の意味」って論文で学位取ってるわけで。どうせ院展とか行ったことないんだろうけど。詩だって藝術と絡めて考えるなら幅広いよ。最近やっと詩集が出た小笠原鳥類なんかは、売れてはいないけど、まだ芸術家に近いと思うね。
--- 裏階段に腰掛けて [ Habitue ] @ 2016.06.23 (Thu) 11:00:
削除しました。
--- かず [ Regular ] @ 2016.06.23 (Thu) 11:13:
裏階段に腰掛けてさん
存在論的差異については十分議論の余地があるところですが、少なくともダーザインやコントラの理解が曖昧であったのは間違いないと思います。むしろ、『ヒューマニズムについて』の「言語は存在の家である」という理解の仕方をする方が正しいかと。例えば『存在と時間』の著作の中では存在論的差異はほとんど明らかにされていませんし、むしろ内容は存在論的差異よりも時間性の方に割かれているんですよね。言語が記号の体系であることをやめ、物そのものを呼び込み始めること、こうした詩は近年ではマイケル・パーマーなどに見られるわけですが、これが重要だと思います。
--- 裏階段に腰掛けて [ Habitue ] @ 2016.06.23 (Thu) 11:54:
削除しました。
--- かず [ Regular ] @ 2016.06.23 (Thu) 12:44:
--- 裏階段に腰掛けて [ Habitue ] @ 2016.06.23 (Thu) 12:56:
思うところがあり削除しました。
--- かず [ Regular ] @ 2016.06.23 (Thu) 13:34:
--- 天才詩人 [ Member ] @ 2016.06.24 (Fri) 00:20:
GENKOUくん、kaz君、グリフィス君、山田君 ありがとう。いま自宅からの接続切られちゃったんで、回復してからゆっくり返信するわ。
--- 裏階段に腰掛けて [ Habitue ] @ 2016.06.24 (Fri) 05:10:
思うところ有り削除
--- かず [ Regular ] @ 2016.06.24 (Fri) 14:30:
私の哲学を私に語れと?
まあせいぜい永井均でも読んでくださいな。私は私の哲学にはもうほとんど興味がないんで。
--- 裏階段に腰掛けて [ Habitue ] @ 2016.06.24 (Fri) 14:36:
思うところ有り削除
--- かず [ Regular ] @ 2016.06.24 (Fri) 14:50:
--- 裏階段に腰掛けて [ Habitue ] @ 2016.06.24 (Fri) 19:10:
削除
--- 天才詩人 [ Member ] @ 2016.06.25 (Sat) 07:12:
最低だな。未確認情報をこんなとこで公開するなんて、神経疑うわ。マジで。
--- 裏階段に腰掛けて [ Habitue ] @ 2016.06.25 (Sat) 11:54:
削除
--- 天才詩人 [ Member ] @ 2016.06.25 (Sat) 21:49:
いや、ドカンとは書かない。ラフな会話がいい。ともあれ芸術という話を持ち出したのは俺なので簡単に書くとこうなる。
藝術って難しい問題だよね。たぶん一番大事なのは、日本でこうして文学やアートに関心がある人があつまる場で「藝術」とは何って考えたときに、多少の世代の差はおいといて、ゲージュツというものが、過去数十年から現在までの日本でどう理解されているかだよね。
たとえば欧米においてはコンテンポラリーアートの出自は、ファインアートに対する反発だ。ファインアートは主に絵画と彫刻なわけだけど、この2つの長らく正統とされてきた「伝統」からどうにか自由になって新しいものを作るということが、欧米のコンテンポラリーアートの少なくとも根源をなすわけで、少なくとも大戦後のニューヨークを中心としたモダニズムの全盛期くらいまでは、アーティストは「絵画」は何かというのにすごくこだわっていたよね。ポロックにしてもウォーホルにしても。ところがその同じころ日本で具体とかネオダダとか反藝術が出てきたという経緯があって、当時はほとんど無視されたけれど、ここ数十年ですごく注目されている。ちょっと古いけどいまだに色あせていない議論として、批評家の千葉成夫なんかが言っているのは、欧米と違って、日本には「絵画」も「彫刻」も「破壊」する以前に、そもそも確固たる伝統として確立していなかった。だって「美術」や「絵画」という言葉さえ明治時代の初期に間に合わせ的につくられたもので、それ以前は概念自体が存在しなかったんだから。
日本の前衛には欧米の前衛と違って、全力で立ち向かって克服する頑強な「藝術」の伝統なんてもともとなかった。だから前衛たる身振り自体が基本的にに空振りというか、暖簾に腕押しではないけれど、アート製作の「自由」それ自体がその意義をきちんと問われないまま自己目的化しちゃったというか。たしかにその「自由」は子供じみた低レベルのパフォーマンスとかゴミみたいなインスタレーションを生んだりしたわけだけど、でもそんな歴史的強度や、モダニズムの基盤がない、アジアの端っこの島国であったからこそ、欧米では誰も考えなった「変」かつ「斬新」なものが生まれている。このあたりが今のところの世界の評価だと思うんだけど。とはいっても、俺は具体も反藝術ももの派もいまさら大騒ぎするような革新的なことはなんもやっていないし、持ち上げられすぎだ。と思うんだけどね。岡本太郎もね。あれはよいしょしすぎ。
なんでこんな話をしているかと言えば、このあたりのアートの表現とか「自由」に対する空想的な感性が、僕らのゲージュツ観の底流をなしているというのがひとつ。もう一つはそれは可能性である。ということね。
--- かず [ Regular ] @ 2016.06.25 (Sat) 23:00:
未確認情報を公表するなというなら、誰が確かめられますか? 北海道新聞の記事を全部読みましたか? 誰も彼が死ぬ瞬間を見ていないのですか?
私は自分の元に伝わってきた情報をあえて完全には公表していません。ですが彼が死んだというのは伝わってきています。具体的なことは私に直接聞いてください。運営側によって神話化されるべきではないと考えていますので。
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