旅に出た友人が帰ってこないと伝えるために
ぼくは文字を使うことができない
ぼくが捨ててきたのは言葉
旅に出てしまったのは声
声は言葉から離れた途端 居所がなくなり
ぼくはうめきを上げることができない
旅に出た友人が帰ってこないと伝えることに
どんな意味があるのかと君は問うだろう
だが どんな意味があるのかと問うことそれ自体
ぼくが捨ててきたものの中にあるのだ
すべての問いはぼくを前に意味をもたない
もたないという言葉さえもつことはない
旅に出た友人が帰ってこないと伝えてしまったとき
ぼくの悲しみが一つ 飛んでいく
誰にも見えない遠い夕焼けの彼方に
旅立ってしまった友人のもとへと
そのとき 悲しみは所有を失う
言葉と意味の間の橋渡しを
繰り返され使い古された涙を
ここに置いたまま 帰ってこない
この秘密を知られてはなるまい
たとえ世界から執拗に追われたとしても
ぼくは決して語ってはいけない
ぼくが問えば友人の住処は暴かれる
ぼくが書けば友人は暗殺される
友人の安息を邪魔してはならない
だから君がどんなに知りたがっても
旅に出た友人は帰ってこないと伝えるわけにはいかない
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150810_951_8241p
僕の職場から少し離れたあたりに
バス基地があり
わりとよく、その横を通る
バスを各地に出荷する運搬基地らしいのだ
ひとつの湖ぐらいの
だだっ広い土地に
バスが無数に並んでいる
ところで
普通の自家用車をどうやって運搬するか
っていうと
大型トレーラーに引かせた運搬車に
斜めに、かつ二段にして組み合わせて
8台ほどぎっしり詰みあげて運ぶのだ
大型バスはどうやるか、というと
考え方は同じで、ただし
縦にしたのを8台並べて
トレーラーで運ぶのだ
大型バスだから縦に積むと電柱より高い
ぎっしり8台積んで、横からみたら
城壁みたいだ
そんなふうにバスを積んだトレーラーが
何十台も隊列になって
8月の空のした、高速道路を突っ走るのは、
壮観だ
嘘だけど
(バス基地はほんとうにある)
いっこの湖ぐらいの、だだっ広い土地に
一月ほど前は、白いバスが無数に並んでたけど
今日は青いバスが無数に並んでいた
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150803_758_8227p
俺はもう二十半ばだ。
これまでは戦士だったが、これからは独裁者になろう。
どんなに美しい顔の良家の女の子も私には勝てない。
俺は今プライドより重要なものに気づいた。
それはアイデンティティーだ。
私は娑婆の王者 梵天
たとえ、娘がわたしに全世界の美と権力を差し出しても、
私は負けない。
彼女の言葉や家柄ごときに私は屈服しない。
私が妻にしたいのは、真心と共感がある人。
あなたがどんなけ誘惑してもわたしは動かない。
山のように。
あなたは、他人にたいしてなんの哀れみもない機械に過ぎない。
ごめん、あなたはかわいい。家柄もいい。
でも無理だ。
あなたには優しさも良心もない。
俺はもう見せ掛けだけの美しさはいらないから。
ごめん、自分にうそはつけないんだ。
君は他人にも無関心だし、家柄を鼻にかけて薄っぺらいプライドばかり高い。
ごめん、君の言うことはきけない。
僕はなにももっていない。
でも、幸福なんだ。
誠実ならきっと天に届く、それだけ信じてるから。
君はたくさん本を読んでいるけど何も知らない。
わたしはシンプルな男だけど、すべてを知っている。
知の極みはいつも単純だから。
でもわたしはあなたを変えてみせる。
絶対に。
あなたがどれだけ獰猛でも私には勝てない。
わたしは百獣の王だから。
どれだけ社会が強固な秩序を持っていようが人間の情念にはかなわない。
水は石を砕く。
どれだけ知識があろうが、人間の良心にはかなわない。
どれだけ秘密をもとうが、ばれない秘密はない。
全身が秘密を語る。
僕の洞察力に隠せるものなどない。
私は全知者ブラフマー
君のどんな弱みも私には透けて見える。
隠せるものなどないのだ!
この世には・・・・
見える!見える! あいつが来た! あいつだ!
畜生、あの女がきた。
俺が彼女を受け入れたら
俺は単なる器になる。
俺は女神のことを愛してない。
女神は俺が愛せるようなものじゃない。
カーリーはおれの愛を破壊する。
あの女は悪魔だ。
俺は母が命じるとおり動いてるだけだ。
夜寝ている時はいつも彼女の授業をうけてうぃる。
オナニーでもして寝るか。
今日も彼女の教室にいってきます。
最近の悩みはホントに好きな人とセックスしたことがないのと
周りの好きな女たちが自分より少し意識や能力が高いのと
日々、自分の欠点を客観視する苦痛と
快楽がぬけないことです。本当はもっと甘えたいけど、もうすぐ大人の男になるので、
少年時代みたいに女に甘えません。大人になるということは意志力と忍耐力をもつことです。
明日はすこしいやですが散髪に行かなければなりません。
チンポいじって精液だして飲み込んだ後 寝ます。
om adyaye vidmahe parameshvariyai dhimahi tannno kali prachodayaat
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150801_627_8219p
月のあかりの試みだけで
逆鱗の向きをそぉぉっと
逆じゃない向きに変えて
朝まで眠る事にしました
雨上がりの匂いで目醒めると
誰も知らない永遠から来た竜
虹色に光る鱗一枚くれました
なにかに使えるらしいですが
使わなくてもいいらしいです
今まで誰もがしそうで
しなかったことを私が
衒いなくしたからだと
ただ幼稚で愚かで純朴なので
私の心は因果を想像するより
先にしたいことをするのです
光るものに触れたいだけです
夢と夢の間に触れられると
案外わからないものなのだ
と照れたように笑いました
明日の天気は酷暑と豪雨なら
どちらがいいか聞かれたので
私はできましたら静かな雨か
穏やかな晴れをと答えました
永遠を見に来るかと問われたので
私はこのままここで空を見ますと
明日の天気の方が気になりますと
答えました
竜は虹色の鱗を煌めかせ
永遠へと還ってゆきます
私は明日の光るものを
ここで触れたいのです
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150810_968_8247p
淀んだ眠りは武器を取った
蜜蜂の運ぶ神聖な吐き気の正体を
皮手袋に包まれた冷たい心臓へ差し出すために
黒い蟻たちの行列が森の外周を覆い囲む
痺れた右腕が戸棚の奥で笑っている
宇宙が寂しがって僕を呼んだ
広い無菌空間の真ん中で
破れた人形の脇腹を溶け出した沈黙が塞いでいるというのに
肺炎を患ったドアが小刻みに震えている
母親の乳を吸う小鳥がどうしたのかと尋ねるが
奥歯のない星は手のひらの上の老人を見つめたまま話そうとしない
まばたきをした回数だけ古い文字は消えていった
死んだはずの助産師はベルトのないズボンの中で凍っていた
上昇気流の中から白い血液だけを抽出するように
送電を絶たれた換気扇がコップの底に沈んでいた
もうしばらくで朝が来るだろう
そう言って引き抜かれた釘はザリガニとコオロギの間で今も挟まっている
牛に引きずられていくオルガンも
毛虫の涙から作られた消毒液も
みんなドアのない部屋の中で一人ずつ減る悲鳴の声を聞いている
最後に残った囚人は鶏の夢の中で朝を迎えるのだった
これだけはよく覚えておくようにと言われ、聴かされた鼓動の音も
今ではもう、ノックの音とさえ聴き分けることができない
花瓶に挿され飾られた空が雨滴の首を絞め殺していった
開かれた眼を蝋燭の火で炙る無邪気な鳥
ついに吐き出された青色の瞳が
気泡の群れを掻き分けて海の中へと沈んでいく
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150807_902_8238p
>引用されたマラルメ批評が言っていることは、非常に当たり前というか、普通な感じが私はします。
>つまり、こんなふうにしなくても、それならできるじゃないか、と。
>私がこの詩を読んで思うのは、流れが詩的なステキさを持っていないことと、全体のまとまりがないことです。
>>http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/64/9d8546bbcda5e1b0a4adf6aaa994df52.jpg('15/08/09 22:17:25)
>蛾兆さん、
>あたりまえというが
>あたりまえのことを
>自分の詩でちゃんと
>できてるのですか?
>きみが「花」って単語を一つ置いただけでは音にはならない。文章のつながりの中で音にもなるんだ。勘違いしてもらっては困るな。
>おっと、それからね、きみはとんでもない勘違いを引きずってるようだから付け加えとくけどさ。マラルメ自身は実体としての花だけを指して「花」と詠んだ訳ではないんだよ。要約して言い換えれば実体としての花ではないんだ。だから「花」そのものの言葉に音楽がたち表れる訳じゃない。其処のところ解釈を間違えないように、宜しくね。
>一応確認しておきますが、”実体”とは”実物”という意味ではありませんよ?絶対的言語の内部では、「花」という単語を用いた場合、現実にある花の形態・性質をもったものとは、また違った花の実体がそこに現れるのです。
俺の住む町には一軒の本屋もない
町には大学の校舎と
学生マンションが立ち並ぶのに
近頃の学生が
本を読まなくなったせいか
俺は洗面台の前で歯磨きをしながら考える
ネクタイを結び
テレビをつけ
新聞を読み
ひげを剃り
欠伸をする
考えてみれば俺の頃にはインターネットもスマホもなかった
俺はやがて世界が斜めに傾きはじめた原因を悟りはじめる
ネット上は偏見と誤解に満ち溢れ
現実とは似ても似つかない情報でぎっしりだ
若者たちがその存在を定立させるツールとしては
あまりにもジャンクすぎる
人間から知恵を奪っていく媒体にアクセスし
人間を奴隷化する永久機関に繋がる
君たちの白痴化はきっと滅びの予兆だろう
いいかい?ネット上には嘘つき詐欺師しかいない
Googleは世界を没落させる死神だ
地下鉄の4番目のトイレで
スマホを片手に一人でこいている中二の道夫くん
君はその時点でボタンの掛け違えをしている
地下鉄という暗渠と
インターネットとスマホ
君の快楽は奥歯で噛みしめる人間のそれではなく
家畜の豚が貪る惰眠のそれだ
インターネットを捨てよ
Googleに投石せよ
町へ出よう
山を歩き海と語れ
いま君が握りしめているマウスは
決して世界と繋がっちゃいないし
実存を保証してくれるわけでもない
インターネットを捨てよ
Googleに投石せよ
町へ出よう
山を歩き海と語れ
人間の美しき脳を
キャラメルのような虚妄で固めるな
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150804_777_8229p
>だって見つめる山や海自体が既に虚妄の姿でしか映らない。
>煩わしい人間との関係に心を繋ぎ留めるよりも
>もはやコンピューターは神様です。
>この作品は詩の可能性を感じさせますね。
>かっこいいですね。
>こんなものを詩にしてどうするのだろうと思いました。
>詩に取り憑かれているとしか思えません。
>寺山修司は実際、書を捨て町に出ましたが
>人間の美しき生を
>詩のような虚妄で固めるな
>わからないですからね。人にどう読まれるかなんて。
>僕はこれを読んだ人がどうなるのかを問うているんじゃありません
>こんなものを書いたあなたがどうするのかと問うているのです。
>書いただけで何もしない?
>自然の中にネットもあるような時代
>何を信じて生きていったらいいのでしょう
>どうにもならない力として自然
>この詩はどちらかというと懐古的で、
>今年の信州大学の入学式の学長挨拶っぽいですね。
>なんだか退化していってるような気がするのですが、
流れ星の 駅のホームで
駅員のおじさんが
蝶を食べている
ガス燈の灯に集まった蝶を
大きな虫取り網で
すくっては パクパクと
口にはこんでいる
「ねえ、おじさん
「どうして、蝶を食べているの?
って訊いてみたら、駅員さんは
「かわいそうだけど、仕方がないことです
って答えた
(そうか
生きるためなら、仕方がないことも、
あるよね
ぼくは納得して
帰りにスーパーで 半額のアゲハ蝶を買った
夜のニュースを見ながら
ぼくは
ひとりで 蝶のサラダを食べた
*
目が覚めると
駅員さんが枕元に立っていた
「たった今、準備が整ったところです
そう言って鞄から
ぶよぶよした立方体を取り出すと
タツノオトシゴに変身して
駅員のおじさんは
泳いでいってしまった
窓の外は
雲ひとつない晴れの空で
今日もたくさんの
白いタオルが降っている
展翅された 大きな青い蝶を閉じこめて
透明な立方体は
ぼくの部屋のベットのそばでずっと
ゼリーみたいに浮かんでいる
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150811_005_8251p
>話者の立場が見えない
二〇一四年十月一日 「ネクラーソフ『だれにロシアは住みよいか』大原恒一訳」
血糖値が高くて
ブタのように太ったぼくは
運動しなきゃならない。
それで
自転車に乗って
遠くのブックオフにまで行かなきゃいけない。
で
東寺のブックオフに行ったら
ネクラーソフの詩集が
108円のコーナーにあって
パラ読みしていたら
「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり
だまって頭を下げることを
だれにも禁じてはいません!」
って、あって
目にとまった。
これって、
どこかで
近い言い回しを見た記憶があって
うううむ
と思ったのだけれど
詩集は
二段組で
内容は
農奴というのかな
百姓の苦しさと
百姓のずるさと
貴族の虚栄と
貴族の没落の予感みたいなこととか
宗教的なところとかばっかで
退屈な詩集だなあって思ってしまって
さっき読んだとこ
どこにあるかな
あれは、よかったなって思って
ページをペラペラめくって
さがした。
あると思ってた
どこかのページの左下の段の左側を見ていった。
さがしたら
あると思ったんだけど
それがなくって
二回
ペラペラしたんだけど
あると思ってた
どこかのページの左下の段の左側にはなくって
記憶違いかなって思って
まあ、よくあることなんだけど
こんどは
左のページの上の段の左側を見ながら
ペラペラめくっていたら
あった。
で
もう一度
見る。
「ロシアでは あなたたちもよく知ってのとおり
だまって頭を下げることを
だれにも禁じてはいません!」
これ
覚えちゃおう
って思って
この部分だけに
108円払うのも
なんだかなあって思ってね。
で
何度か
こころのなかで復唱して
CDやDVDのある一階に降りて
レインのDVDを買おうかどうか迷ってたら
うんこがしたくなって
帰って
うんこをしようと思って
いったんブックオフから出て
自転車に乗って
帰りかけたんだけど
東寺の前を通り過ぎて
短い交差点を渡って
なんか、たこ焼き屋だったかな
そこの前まできたときくらいに
でも
ネクラーソフの言葉から
そだ。
ふつうのことを禁じるって
たしか
レイナルド・アレナスが書いてたぞ。
キューバでは
たとえ
同性同士でも
バスのなかや
喫茶店のなかでも
見つめ合ってはいけないって
同性愛者を差別する
処罰する法律があったって
カストロがつくった
ゲイ差別の法律があったって
そいえば
厳格なイスラム教の国では
同性愛者だってわかったら
拷問死に近い
二時間にもおよぶ
石打の刑という死刑制度があったんだ。
これ
何ヶ月かまえに
ニュースになってて
「宗教が違うんだから、
同性愛者が処罰されても仕方がないでしょう」
みたいな発言をしてたバカがいて
めっちゃ腹が立った記憶があったから
ブタは自転車の向きを変えて
たこ焼き屋の前で
キュルルンッ
と自転車をまるごと反転させて
東寺のブックオフへと戻ったのであった。
二階に行って
108円の棚のところに行くと
白髪のジジイがいて
もしや
吾が輩の大切な彼女をば
と思ったのだけれど
ネクラーソフの詩集の
表紙のなかにいた女性は無事で
ぼくの腕のなかに
へなへな〜
と、もたれかかってきたのであった。
彼女は
たぶん、ただの百姓娘なのだろうけれど
とても美しい女性であった。
可憐と言ってもよかった。
その手はゴツゴツしてるみたいだけどね。
そして
その目は
人間は生きることの厳しさに耐えなければならない
ということを身をもって知っている者だけが持つことのできる
生命の輝きを放っていた。
ブタは彼女を胸に抱き
階段を下りて
一階で勘定をすますと
全ゴムチューブの
ノーパンクの
重たい自転車を
全速力で
ぶっ飛ばしたのであった。
それにしても
イスラム圏じゃ
同性愛者は殺されても仕方ないじゃない
って書いてたバカのことは許せん。
まあ、バカには、なにを言っても
なにか言ったら
こちらもバカになるだけだし
ムダなんだけどね。
人間には
バカとカバがいてね。
「晴れ、ときどき殺人」
みたいに
ひとが簡単に殺人者になることがあるように
バカがカバになることもあれば
カバがバカになることもあるんだけど
ずっとカバがカバだってこともないしね
バカがバカだってこともないしね
でも、どちらかというと
ぼくはバカよりカバがいいなあ。
あ
ぼくはブタだったんだ〜。
まっ、
でも、これは
観察者側の意見でね。
あ
うんこするの忘れてた。
ところで
途中で寄った
フレスコから出たときに
スーツ姿の
まあまあかわいいおデブの男の子が
図面かな
書類をひらいて見ながら
歩いていたの。
薄緑色の作業着みたいなツナギの制服着て。
ぼくはフレスコから帰るために自転車を乗ったとこだったか
乗ろうとしてる直前で
彼のあそこんとこに目がいっちゃった。
だってチンポコ
完全にボッキさせてたんだもの。
すっごくかたそうで
むかって左の上側に突き出てた。
ええっ?
って思った。
図面の入った筒を握ってて
ボッキしてたのかな。
持ち方がエロかったもの。
かわいかった。
セルの黒メガネの彼。
右利きだよね。
ついて行こうかなって
いっしゅん思ったけど
それって、おかしいひとに思われるから
やめた。
部屋に帰って
フレスコで買った
麒麟・淡麗〈生〉を飲みながら
ネクラーソフの詩集の表紙のなかにいる
彼女の目の先にある
ロシアの平原に
ぼくも目を向けた。
二〇一四年十月二日 「みにくい卵の子」
みにくい卵の子は
ほんとにみにくかったから
親鳥は
そのみにくい卵があることに気がつかなかった
みにくい卵の子は
かえらずに
くさっちゃった
二〇一四年十月三日 「雲」
さいきん、よく空を見上げます。
雲のかたちを覚えていられないのに、
形を見て、うつくしいと思ってしまいます。
覚えていることができるものだけが、
美しいのではないのですね。
二〇一四年十月四日 「田ごとのぼく」
たしかに
田んぼ
一つ一つが
月を映していた。
歩きながら
ときどき月を見上げながら
学校から遅く帰ったとき
月も田んぼの水面で
少し移動して
でも
つぎの田んぼのそばに行くと
すでにつぎの田んぼに移動していて
ああ
田ごとの月って
このことかって思った。
けれど
ぼくの姿だって
ぼくが移動すれば
つぎつぎ違う田んぼに映ってるんだから
ぼくだって
田ごとのぼくだろう。
ぼくが
田んぼから月ほどにも遠くいる必要はないんだね。
月ほどに遠く
月のそばにいると
月といっしょに
田んぼに光を投げかけているのかもしれない。
ぼくも月のように
光り輝いてるはずだから。
違うかな?
どだろ。
二〇一四年十月五日 「恋人たち」
「宇宙人みたい。」
「えっ?」
ぼくは、えいちゃんの顔をさかさまに見て
そう言った。
「目を見てみて。」
「ほんまや、こわっ!」
「まるで人間ちゃうみたいやね。」
よく映像で
恋人たちが
お互いの顔をさかさに見てる
男の子が膝まくらしてる彼女の顔をのぞき込んでたり
女の子が膝まくらしてる彼氏の顔をのぞき込んでたりしてるけど
まっさかさまに見たら
まるで宇宙人みたい
「ねっ、目をパチパチしてみて。
もっと宇宙人みたいになる。」
「ほんまや!」
もっと宇宙人!
ふたりで爆笑した。
数年前のことだった。
もうふたりのあいだにセックスもキスもなくなってた。
ちょっとした、おさわりぐらいかな。
「やめろよ。
きっしょいなあ。」
「なんでや?
恋人ちゃうん? ぼくら。」
「もう、恋人ちゃうで。」
「えっ?
ほんま?」
「うそやで。」
うそやなかった。
それでも、ぼくは
i think of you.
i cannot stop thinking of you.
なんもなくなってから
1年以上も
恋人やと思っとった。
二〇一四年十月六日 「それぞれの世界」
ぼくたちは
前足をそろえて
テーブルの上に置いて
口をモグモグさせながら
店のなかの牧草を見ていた。
ふと、彼女は
すりばち状のきゅう歯を動かすのをやめ
テーブルのうえにだら〜りとよだれを落としながら
モーと鳴いた。
「もう?」
「もう。」
「もう?」
「もう!」
となりのテーブルでは
別のカップルが
コケー、コココココココ
コケーっと鳴き合っていた。
ぼくたちは
前足をおろして
牧草地から
街のなかへと
となりのカップルも
おとなしくなって
えさ場から
街のなかへと
それぞれの街のなかに戻って行った。
二〇一四年十月七日 「きょとん」
おとんでも
おかんでもなく
きょとん
きょとん
と呼んだら
返事してくれる
でも
きょとん
と目を合わせたら
きょとん
としなくちゃいけないのね
きょとん
ちょっとを大きくあけて
でへへ えへでもなく
でへっでもなく
でへへ
でへへと言ったら
でへとしなくちゃいけないのね
でへへ
でへへへれ〜
でへへ
って感じかな
柴田、おまえもか!
つづく
二〇一四年十月八日 「幽霊卵」
冷蔵庫の卵がなくなってたと思ってたら
いつの間にか
また1パック
まっさらの卵があった
安くなると
ついつい買ってくる癖があって
最近ぼけてきたから
いつ買ったのかもわからなくて
困ったわ
二〇一四年十月九日 「部屋」
股ずれを起こしたドアノブ。
ため息をつく鍵穴。
わたしを中心にぐるっと回転する部屋
鍵束から外れた1本の鍵がくすって笑う。
カーテンの隙間から滑り込む斜光のなかを
浮遊する無数の鍵穴たちと鍵たち
部屋が
祈る形をとりながら
わたしに凝縮する。
二〇一四年十月十日 「きょうも日知庵でヨッパ」
でも
なんだかむかついて
で
帰りは
西院の「印」という立ち飲み屋に。
会計、間違われたけれど
250円の間違いだから
何も言わずに帰ったけど。
帰りに
近所の大國屋に
いや
そだ
このあいだ
気がついたけど
大國屋の名前が変わってた。
「お多福」に。
ひゃ〜
「きょうは尾崎を聞くと泣いてしまうかもしれない。
◎原付をパクられた。」
って
「印」の
「きょうの一言」
ってところに書いてあって
ちっちゃな黒板ね
で
いいなあって思ったの。
書いたのは
たぶん、アキラくんていうデブの男の子
こないだ
バカな客のひとりに
会話がヘタって言われてたけど
会話なんて
どうでもいいんだよ
かわいければさ、笑。
あいきょうさ
人生なんて
けせらせら
なんだから。
「きょうの一言」
そういえば
仕事帰りに
興戸の駅で
学生の女の子たちがしゃべっている言葉で
「あとは鳩バス」
って聞こえたんだけど
これって
聞き間違いだよね。
ぜったい。
ここ2、3日のメモを使って
詩句を考えた。
more than this
これ以上
もう、これ以上
須磨の源氏だった。
詩では
うつくしい幻想を持つことはできない。
詩が持つことのできるものは
なまなましい現実だけだ。
詩は息を与える。
死者にさえ、息を与えるのだ。
逃げ道はない。
生きている限りはね。
勝ちゃん
胸が張り裂けちゃうよ。
龍は夢で
あとは鳩バス。
二〇一四年十月十一日 「音」
その音は
テーブルの上からころげ落ちると
部屋の隅にむかって走り
いったん立ちどまって
ブンとふくれると
大きな音になって
部屋の隅から隅へところがりはじめ
どんどん大きくなって
頭ぐらいの大きさになって
ぼくの顔にむかって
飛びかかってきた
二〇一四年十月十二日 「音」
左手から右手へ
右手から左手に音をうつす
それを繰り返すと
やがて
音のほうから移動する
右手のうえにあった音が
左手の手のひらをのばすと
右手の手のひらのうえから
左手の手のひらのうえに移動する
ふたつの手を離したり
近づけたりして
音が移動するさまを楽しむ
友だちに
ほらと言って音をわたすと
友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくと友だちの手のひらのうえで
音が移動する
ぼくたちが手をいろいろ動かして
音と遊んでいると
ほかのひとたちも
ぼくたちといっしょに
手のひらをひろげて
音と戯れる
音も
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
みんな夢中になって
音と戯れる
音もおもしろがって
たくさんのひとたちの手のひらのうえを移動する
驚きと笑いに満ちた顔たち
音と同じようにはずむ息と息
たったひとつの音と
ただぼくたちの手のひらがあるだけなのに
二〇一四年十月十三日 「ある青年の日記を読んで」
その青年は
何年か前にメールだけのやりとりをしたことがあって
それで、顔を覚えていたので彼の日記を見てたら
仕事でいらいらしたことがあって
上司とけんかして
それでまたいらいらして
せっかく恋人といっしょに
出かけたのに
道行くサラリーマンに
「オラッ」とか言って
からんだそうで
それで恋人になんか言われて
逆切れしたそうで
でも、それを反省したみたいで
「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
こんな男でごめんなさいお母さん大好き」
という言葉で日記は結んであって
「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
こんな男でごめんなさいお母さん大好き」
という言葉に、こころ動かされて
ジーンとしてしまった
いま付き合ってる恋人とも
そういえば、あと一ヶ月で1年だよねとか
もうじき2年だよ
とかとか言っていた時期があったのだった
きょう、恋人に
朝、時間があるから、顔を見に行こうかな
とメールしたら
用事ででかけてる、との返事
最近、メールや電話したら、いっつも用事
しかも、きょう電話したら
その電話もう使われていないって電気の女の声が言った
「あと20日で一年大事でかわいい人なのに
こんな男でごめんなさいお母さん大好き」
彼の日記
なぜだかこころ動かされる言葉がいっぱいで
ある日の日記は、こういう言葉で終わっていた
さまざまな単行本や文庫本、それに小説現代という雑誌など
読んだ本を列記したあと
「その時は彼によろしくとか僕の彼女を紹介しますとか
あなたのキスを探しましょうとか、不思議なタイトルだな… 」
彼の素直な若さが、うつくしい。
最後に、彼のある日の日記の一節をひいておこう
ぼくには、彼がいま青春のど真ん中にいて、
とてもうつくしいと思ったのだった
「「何でもないような事が幸せだったと思う」とあるけど
まさにそうだと思った。金ないとか、仕事疲れたとか言ってたけど、
そんなのは問題じゃないと。何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと
健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った!
もう悲しませることなくしっかり生活しようと強く思った。」
「何より大事なかわいい恋人と、コーラとセッターと
健康な体、仕事があればそれだけで幸せなんだとしゅんと思った!」
「それだけで幸せなんだとしゅんと思った!」
こんなに、こころの現われてる言葉、ひさしぶりに遭遇した。
二〇一四年十月十四日 「日付のないメモ」
京大のエイジくんに関するメモ。
ぼくたちは、いっしょに並んで歩いて帰った。
きみは、自転車を押しながら。
夜だった。
ぼくは下鴨に住んでいて、きみは、近くに住んでいると言っていた。
ぼくは30代で
きみは大学生だった。
高知大で3年まで数学を勉強していたのであった。
従兄弟が東大であることを自慢げにしていたので
3年で高知大の数学科をやめて
京大を受験しなおして
京大の建築科に入学したのであった。
親が建設会社の社長だったこともあって。
だから
きみと出会ったときの
きみの年齢は28だったのだった。
きみは京大の4回生だった。
ぼくたちは、一年近く毎日のように会っていた。
ぼくが仕事から帰り
きみが、ぼくの部屋に来て
ふたりで晩ご飯を食べ
夜になって
ぼくが眠りにつくまで
寝る直前まで、きみは部屋にいた。
泊まったのは一度だけ。
さいごに、きみが、ぼくの部屋に訪れた日。
ピンポンとチャイムが鳴って、ドアを開けようとすると
きみは、全身の体重をかけてドアを押して、開けさせないようにした
雪の積った日の夜に
真夜中に
「雪合戦しようや。」と言って
ぼくのアパートの下で
積った雪を丸めて投げ合った
真夜中の2時、3時ころのことは
ぼくは一生忘れない。
だれもいない道端で
明るい月の下
白い雪を丸めては
放り投げて
顔にぶつけようとして
お互い、一生懸命だった。
そのときのエイジくんの表情と笑い声は
ぼくには、一生の宝物だ。
毎晩のように押し合ったドア。
毎晩、なにかを忘れては
「とりにきた。」と言って笑っていたきみ。
毎晩、
「もう二度ときいひんからな。」
と言っていたきみ。
あの丸められた雪つぶては
いまもまだそこに
下鴨の明るい月の下にあるのだろう。
あの寒い日の真夜中に。
子どものようにはしゃいでいた
ぼくたち二人の姿とともに。
二〇一四年十月十五日 「風の手と、波の足。」
風の手が
ぼくをまるめて
ほうりなげる。
風の手が
ぼくをまるめて
別の風の手と
キャッチボールしてる。
風の手と風の手が
ぼくをキャッチボールしてる。
波の足が
ぼくをけりつける。
すると
違う方向から打ち寄せる波の足が
ぼくをけり返す。
波の足と波の足が
ぼくをけり合う。
波の足と波の足がサッカーしてる。
ぼくを静かに置いて眺めることなどないのだろうか。
なにものも
ぼくを静かに置いて眺めてはくれそうにない。
生きているかぎり
ぼくはほうり投げられ
けりまくられなければならない。
それでこわれるぼくではないけれど
それでこわれるぼくではないけれど
それでよりつよくなるぼくだけれど
それでよりつよくなるぼくだけれど
生きているかぎり
ぼくはほうり投げられ
けりまくられなければならない。
二〇一四年十月十六日 「卵」
万里の長城の城壁のてっぺんに
卵が一つ置かれている。
卵はとがったほうをうえに立てて置かれている。
卵の上に蝶がとまる。
卵は微塵も動かなかった。
しばらくして
蝶が卵のうえから飛び立った。
すると
万里の長城が
ことごとく
つぎつぎと崩れ去っていった。
しかし
卵はあった場所にとどまったまま
宙に浮いたまま
微塵も動かなかった。
二〇一四年十月十七日 「ウィリアム・バロウズ」
下鴨に住んでたころ
十年以上もむかしに知り合ったラグビー青年が
バロウズを好きだった。
本人は異性愛者のつもりだったのだろうけれど
感性はそうではなかったような気がする。
とてもよい詩を書く青年だった。
ユリイカや現代詩手帖に送るように言ったのだが
楽しみのためにだけ詩を読んだり書いたりする青年だった。
ぼくは20代後半
彼は二十歳そこそこだったかな。
ブラジル音楽を聴きながら
長い時間しゃべっていた日が
思い出された
バロウズ
甘美なところはいっさいない
すさまじい作品だけれど
バロウズを通して
青年の思い出は
きわめて甘美である
なにもかもが輝いていたのだ
まぶしく輝いていたのだ
彼の無蓋の微笑みと
その二つの瞳と
声
カウンターにこぼれた
グラスの露さえも
二〇一四年十月十八日 「ウィリアム・バロウズの贋作」
本日のバロウズ到着本、6冊。なかとカヴァーのきれいなほうを保存用に。『ダッチ・シュルツ』は500円のもののほうがきれいなので、そちらを保存用に。『覚えていないときもある』も710円のもののほうがきれいなので、そちらを棚に飾るものにして。 きょうから通勤時は、レイ・ラッセルの『嘲笑う男』にした。ブラッドベリの『メランコリイの妙薬』読了したけど、なんか、いまいちやった。詩的かもしれないけれど、そのリリカルさが逆に話を胡散臭くさせていた。もっとストレートなほうが美しいのに、などと思った。
学校から帰って、五条堀川のブックオフに行くと、ビアスの短編集『いのちの半ばに』(岩波文庫)が108円で売っていたので買ったんだけど、帰って本棚を見たら、『ビアス短編集』(岩波文庫)ってのがあって、それには、『いのちの半ばに』に入ってた7篇全部と、追加の8篇が入っていて、訳者は違うんだけど、持ってたほうのタイトルの目次を見ても、ぜんぜん思い出せなかった。ううううん。ちかく、新しく買った古いほうの訳のものを読んでみようかなって思った。
おとつい、ネットで注文した本が、とても信じられないものだった。
裸の審判・世界発禁文学選書2期15 ウイリアム・バローズ 浪速書房 S43・新書・初版カバー・美本
きょう到着してた。なんと、作者名、「ウイリヤム・バローズ」だった。「ア」と「ヤ」の一字違いね。まあ、大きい「イ」と、小さい「ィ」も違うけど。浪速書房の詐欺的な商法ですな。しかも、作者名のはずのウイリヤム・バローズが主人公でもあって、冒頭の3、4行目に、
私、ウイリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。
とあって、これもワラケルけど、最後のページには
そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。
とあるのである。「雨」の前の句点もおもしろいが、「鞭」を「柔らかい機械」というのは、もっとワラケル。ほかの文章のなかには「ランチ」という言葉もある、笑。翻訳した胡桃沢耕史さん(本に書かれている翻訳者名は清水正二郎さんだけど、胡桃沢さんのペンネームのひとつ)のイタズラやね。おもろいけど。パラパラとめくって読んだら、これって、サド侯爵の小説の剽窃だった。鞭が若い娘の背中やお尻に振り下ろされたり、喜びの殿堂の処刑室とか出てくる。はあ〜あ、笑。この本を出版した浪速書房って、エロ本のシリーズを出してて、たとえば、
世界発禁文学選書 裸女クラブ 新書 浪速書房 ペトロ・アーノルド/清水正二郎訳 昭45
世界発禁文学選書 乳房の疼き 新書 浪速書房 マリヤ・ダフェノルス 清水正二郎・訳
世界発禁文学選書〈第2期 第11巻〉私のハンド・バッグの中の鞭(1968年)
こんなタイトルのものだけど、戦後、出した本がつぎつぎに発禁になったらしいけれど、発禁の理由って、エロティックな内容じゃなくて、この「詐欺的商法」なんじゃないかな。
で、いま、浪速書房のウィリアム・バローズの「やわらかい機械」を買おうかどうか迷っている。ヤフオクに入札しているのだけど、いま8000円で、内容は、山形訳のソフトマシーンのあとがきによると、このあいだ買ったウイリヤム・バローズと同じように、主人がウィリアム・バローズで、またまた女の子を鞭打つエロ小説らしい。 出品しているひとに、ほんとうにバロウズの翻訳かどうか訊いたら、答えられないという答えが返ってきた。贋物だと思う。あ、この贋物ってのは、ウィリアム・バロウズが著者ではないということなんだけど、まあ、話の種に買ってもいいかなって思う。でも、8000円は高いな。キャンセルしてもいいって、出品者は言ってくれたのだけれど、贋物でも、おもしろいから買いたいのだけれど、8000円あれば、ほかに買える高い本もあるかなあとも思うし。あ、でもいま、とくに欲しい本はないんだけど。
ヤフオクでの質問
小生の質問にお答えくださり、ありがとうございました。小生、ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンで、『ソフトマシーン』の河出文庫版とペヨトル工房版の2冊の翻訳本を所有しております。ご出品なさっておられるご本の、最初の2行ばかりを、回答に書き写していただけますでしょうか。それで、本当に、ウィリアム・バロウズの『ソフトマシーン』の翻訳本かどうかわかりますので。小生は、本物の翻訳本でなくても、購入したいと思っておりますが、先に本物の翻訳本かどうかは、ぜひ知っておきたいと思っております。8000円という入札金額は、それを知る権利があるように思われますが、いかがでしょうか。よろしくお願い申し上げます。
バロウズの『やわらかい機械』の本邦初訳と銘打たれた本に価値があると思って、最初に8000円の金額でオークションをはじめさせているのだから、ある程度の知識がある人物だと思う。その翻訳が本物かどうか、本文を見ればすぐにわかるはずなのに、それを避けて回答をしてきたので、このような質問を再度したのだった。なにしろ浪速書房の本である。山形裕生さんの『ソフトマシーン』の訳本の後書きでは、それは冗談の部類の本だと思われると書かれている本である。
回答があった。
第一章ニューヨークへの道 一九六四年から五年にかけての、ニューヨークの最大の話題は、ニューヨーク世界博覧会が開かれたことである。私、ウィリヤム・バローズは、パリのル・パリジャンヌ誌特派員として、このニューヨーク博覧会に行くことになった。
ひえ〜、これって、ウイリヤム・バローズの『裸の審判』の1〜4行目と、まるっきりいっしょよ。完全な贋物だ。ああ、どうしよう。完全な贋物。ふざけた代物に、8000円。どうしよう。相手はキャンセルしていいと言ってた。ううううん。マニアだから買いたいと返事した。あ〜あ、このあいだ買った『裸の審判』と中身がまったく同じ本に8000円。バカだなあ、ぼくは。いや〜、バロウズのマニアなんだよね、ぼくは。しかし、この出品者、正直なひとだけど
最初の設定金額を8000円にしてるのは、なんでやったのかなあ。バロウズのこと、あんまり知らなかったひとだったら、そんなバカ高い金額をつけないだろうしな。あ、知ってたら、そんなものをバロウズが書いてたとは思ってもいなかっただろうしなあ。 不思議。でも、完全に贋物でも、表紙にウィリアム・バローズって書いてあったら買っちゃうっていう、お馬鹿なマニアの気持ち、まだまだ持ち合わせているみたい。この浪速書房の本も、きっと、詐欺で摘発、本は発禁処分を受けたんだろうね。 ぼくはただのバロウズファンだったけど、思わぬ贋作の歴史を垣間見た。胡桃沢耕史さん、生活のためにしたことなんだろうね。
ちなみに、あのあと、つぎの二つの質問をオークション出品者にしたけど、返事はなかった。
お答えくださり、ありがとうございました。その訳本は贋物です。先日購入しました、浪速書房刊のウイリヤム・バローズ作、清水正二郎訳の「裸の審判」の第一章の3行目から4行目の文章とまるっきり同じです。本物のウィリアム・バロウズの作品には、そのような文章はありません。きっとその本の最後のページには、次の文章が終わりにあるのではないでしょうか。「そしていざというときは、鞭という、柔らかい機械が二人を結びつけるだろう。/いま、二人に聞こえるものは、路上にきしる、濡れたタイヤの連続音と、彼らの廻りに、うなりを上げている。雨の叫びだけであった。」 それでも、小生はマニアなので、購入したいと思っております。
ちなみに、引用された所からあとの文章はこうですね。「私の所属している、ル・パリジャンヌ誌は、アメリカのセブンティーン誌や、遠い極東日本の、ジヨセイヌ・ジーシン誌などと特約のある姉妹誌で十七、八歳のハイティーンを目標に、スターの噂話や、世界の名勝や、男女交際のスマートなやり方などを指導する雑誌であり、たまたまこの賑やかなアメリカ大博覧会は、近く開かれる東京オリンピツクとともに、我々女性関係誌のジヤーナリストの腕の見せ所であつた。」ご出品のご本は、当時、詐欺罪で差し押さえられ、発禁になりました。亡くなったエロ本作家の胡桃沢耕史(訳者名:清水正二郎)の創作です。本物のバロウズの翻訳本ではありません。
「極東日本の、ジョセイヌ・ジーシン誌」だって、笑っちゃうよね。ほんと、胡桃沢さん、やってくれるわ。
やったー、ぼくのものになった! 中身は贋物だけど、画像のものがぼくのものになった。8000円は、ちょっと高かったけど、いま手に入れなかったら、いつ手に入れられるかわからなかったからうれしい。中身は、胡桃沢耕史さんの創作ね。しかもいま、ぼくが持ってるものとおんなじ内容、笑。早期終了してもらった。じつは、最後に、ぼくは、つぎのような質問をしていたのだった。 質問かな、強迫かな。
そういった事情を知られたからには、出品されたご本の説明を改められないと、落札者の方とトラブルになりかねません。小生は、そういった事情を知っていても、この8000円という金額で、買わせていただくことに依存はありません。ウィリアム・バロウズの熱狂的なファンですから。オークションを早期終了していただければ、幸いです。
贋物だとわかっていたんだけど、バロウズ・コンプリートのぼくは、ちょっとまえに、
世界秘密文学選書10 裸のランチ ミッキー・ダイクス/清水正二郎訳 浪速書房
を買ってたんだけど、その本の末尾についている著者のミッキー・ダイクスの経歴の紹介文って、現実のウィリアム・バローズのものの経歴だった。ちなみに、訳者はこれまた清水正二郎さん、つまり、胡桃沢耕史さん。ほんと、あやしいなあ。このミッキー・ダイクスの『裸のランチ』の裏表紙の作品紹介文がすごいので、紹介するね。
「アメリカの、アレン・ギンスバークと共に、抽象的な難解な語句で 知られる、ミッキー・ダイクスが、詩と散文の間における、微妙な語句 の谷間をさまよいながら、怪しい幻影のもとに画き出したのが、この作品である。ほとんど翻訳不可能の、抽象の世界に躍る語句を、ともかくも、もっとも的確な日本語に訳さねばならぬので、大変な苦心をした。陰門、陰茎、陰核、これらの語句が、まるで機関銃のように随所に飛び 出して、物語のムードを形作っている。しかし、現実には、それは何等ワイセツな感情を伴わなくても、他のもっと迂遠な言葉に言い変えねばならない。かくして来上がったものは、近代の詩人ダイクスの企画するものとははなはだしく異なったものとなってしまった。しかし現実の公刊物が許容される範囲では、もっとも原文に近い訳をなし得たものと自負している。 訳者」
「ギンズバーグ」じゃなくて、「ギンスバーク」って、どこの国の詩人? そりゃ、詐欺で、差し押さえられるわ。ぼくは、500円で買ったけれど、この本、ヤフオクでいま5800円で出品しているひとがいたり、amazon では、79600円とか9万円以上で出品しているひとがいて、まあ、ゴーヨクなキチガイどもだな。
しかし、こんな詐欺をしなきゃ生きていけなかった胡桃沢耕史って方、きつい人生をしてらっしゃったのかもしれない。自己嫌悪とかなしに、作家が、こんな詐欺を働くなんて、ぼくには考えられない。こういった事情のことを、戦後のどさくさにいっぱい出版業界はしてたんだろうけど。いま、こんなことする出版社はないだろうな。知らないけど。
ちなみに、本物のウィリアム・バロウズの『裸のランチ』って、陰門や陰核なんて、まったく出てこないし(記憶にないわ)。むしろ、出てくるのは、ペニスと肛門のことばかり。
二〇一四年十月十九日 「土曜日たち」
はなやかに着飾った土曜日たちにまじって
金曜日や日曜日たちが談笑している。
ぼくのたくさんの土曜日のうち
とびきり美しかった土曜日と
嘘ばかりついて
ぼくを喜ばせ
ぼくを泣かせた土曜日が
カウンターに腰かけていた。
ほかの土曜日たちの目線をさけながら
ぼくはお目当ての土曜日のそばに近づいて
その肩に手を置いた。
その瞬間
耳元に息を吹きかけられた。
ぼくは
びくっとして振り返った。
このあいだの土曜日が微笑んでいた。
お目当ての土曜日は
ぼくたちを見て
コースターの裏に
さっとペンを走らせると
そのコースターを
ぼくの手に渡して
ぼくたちから離れていった。
二〇一四年十月二十日 「チョコレートの半減期」
おやじの頭髪の、あ、こりゃだめか、笑。
地球の表面積に占める陸地の割合の半減期。
友だちと夜中まで飲んで騒いで過ごす時間の半減期。
恋人の顔と自分の顔との距離の半減期。
大学の授業出席者数の半減期。
貯蓄の半減期。
問題の半減期。
悲しみの半減期。
痛みの半減期。
将来の半減期。
思い出の半減期。
聞く耳の半減期。
視界の半減期。
やさしさの半減期。
機会の半減期。
幸福の半減期。
期待の半減期。
反省の半減期。
復習の半減期。
予習の半減期。
まともな食器の半減期。
原因の半減期。
理由の半減期。
おしゃべりの半減期。
沈黙の半減期。
恋ごころの半減期。
恋人の半減期。
チョコレートの半減期。
二〇一四年十月二十一日 「魂」
魂が胸のなかに宿っているなどと考えるのは間違いである。魂は人間の皮膚の外にあって、人間を包み込んでるのである。死は、魂という入れ物が、自分のなかから、人間の身体をはじき出すことである。生誕とは、魂という入れ物が、自分のなかに、人間の身体を取り込むことを言う。
二〇一四年十月二十二日 「卵病」
コツコツと
頭のなかから
頭蓋骨をつつく音がした
コツコツ
コツコツ
ベリッ
頭のなかから
ひよこが出てきた
見ると
向かいの席に坐ってた人の頭の横からも
血まみれのひよこが
ひょこんと顔をのぞかせた
あちらこちらの席に坐ってる人たちの頭から
血まみれのひよこが
ひょこんと姿を現わして
つぎつぎと
電車の床の上に下りたった
二〇一四年十月二十三日 「十粒の主語」
とてもうつくしいイメージだ。
主語のない
という主題で書こうとしたのに
十粒の主語
という
うつくしい言葉を見つけてしまった。
ああ
そうだ。
十粒の主語が、ぼくを見つけたのだった。
どんな粒だろう。
きらきらと輝いてそう。
うつくしい。
十粒の主語。
二〇一四年十月二十四日 「よい詩」
よい詩は、よい目をこしらえる。
よい詩は、よい耳をこしらえる。
よい詩は、よい口をこしらえる。
二〇一四年十月二十五日 「わけだな。」
ウォレス・スティーヴンズの『理論』(福田陸太郎訳)という詩に 「私は私をかこむものと同じものだ。」とあった。 としら、ぼくは空気か。 まあ、吸ったり吐いたり、しょっちゅうしてるけれど。ブリア・サヴァラン的に言えば ぼくは、ぼくが食べた物や飲んだ物からできているのだろうけれど、ヴァレリー的に言えば、ぼくは、ぼくが理解したものと ぼくが理解しなかったものとからできているのだろう。それとも、ワイルド的に、こう言おうかな。 ぼくは、ぼく以外のすべてのものからできている、と。まあ、いずれにしても、なにかからできていると考えたいわけだ。わけだな。
二〇一四年十月二十六日 「強力な詩人や作家」
真に強力な詩人や作家といったものは、ひとのこころのなかに、けっしてそのひと自身のものとはならないものを植えつけてしまう。
二〇一四年十月二十七日 「名前」
人間は違ったものに同じ名前を与え
同じものに違った名前を与える。
名前だけではない。
違ったものに同じ意味を与え
同じものに違った意味を与える。
それで、世界が混乱しないわけがない。
むしろ、これくらいの混乱ですんでいるのが不思議だ。
二〇一四年十月二十八日 「直角のおばさん」
箪笥のなかのおばさん
校長先生のなかの公衆電話
錘のなかの海
パンツのなかの太陽
言葉のなかの惑星
無意識のなかの繁殖
箪笥のうえのおばさん
校長先生のうえの公衆電話
錘のうえの海
パンツのうえの太陽
言葉のうえの惑星
無意識のうえの繁殖
箪笥のよこのおばさん
校長先生のよこの公衆電話
錘のよこの海
パンツのよこの太陽
言葉のよこの惑星
無意識のよこの繁殖
箪笥のしたのおばさん
校長先生のしたの公衆電話
錘のしたの海
パンツのしたの太陽
言葉のしたの惑星
無意識のしたの繁殖
箪笥のなかのおばさんのなかの校長先生のなかの公衆電話のなかの錘のなかの海のなかのパンツのなかの太陽のなかの言葉のなかの惑星のなかの無意識のなかの繁殖
箪笥のうえのおばさんのうえの校長先生のうえの公衆電話のうえの錘のうえの海のうえのパンツのうえの太陽のうえの言葉のうえの惑星のうえの無意識のうえの繁殖
箪笥のよこのおばさんのよこの校長先生のよこの公衆電話のよこの錘のよこの海のよこのパンツのよこの太陽のよこの言葉のよこの惑星のよこの無意識のよこの繁殖
箪笥のしたのおばさんのしたの校長先生のしたの公衆電話のしたの錘のしたの海のしたのパンツのしたの太陽のしたの言葉のしたの惑星のしたの無意識のしたの繁殖
箪笥が生んだおばさん
校長先生が生んだ公衆電話
錘が生んだ海
パンツが生んだ太陽
言葉が生んだ惑星
無意識が生んだ繁殖
箪笥を生んだおばさん
校長先生を生んだ公衆電話
錘を生んだ海
パンツを生んだ太陽
言葉を生んだ惑星
無意識を生んだ繁殖
箪笥のまわりにおばさんが散らばっている
校長先生のまわりに公衆電話が散らばっている
錘のまわりに海が散らばっている
パンツのまわりに太陽が散らばっている
言葉のまわりに惑星が散らばっている
無意識のまわりに繁殖が散らばっている
箪笥がおばさんを林立させていた
校長先生が公衆電話を林立させていた
錘が海を林立させていた
パンツが太陽を林立させていた
言葉が惑星を林立させていた
無意識が繁殖を林立させていた
箪笥はおばさんを発射する
校長先生は公衆電話を発射する
錘は海を発射する
パンツは太陽を発射する
言葉は惑星を発射する
無意識は繁殖を発射する
箪笥はおばさんを含む
校長先生は公衆電話を含む
錘は海を含む
パンツは太陽を含む
言葉は惑星を含む
無意識は繁殖を含む
箪笥の影がおばさんの形をしている
校長先生の影が公衆電話の形をしている
錘の影が海の形をしている
パンツの影が太陽の形をしている
言葉の影が惑星の形をしている
無意識の影が繁殖の形をしている
箪笥とおばさん
校長先生と公衆電話
錘と海
パンツと太陽
言葉と惑星
無意識と繁殖
箪笥はおばさん
校長先生は公衆電話
錘は海
パンツは太陽
言葉は惑星
無意識は繁殖
箪笥におばさん
校長先生に公衆電話
錘に海
パンツに太陽
言葉に惑星
無意識に繁殖
箪笥でおばさん
校長先生で公衆電話
錘で海
パンツで太陽
言葉で惑星
無意識で繁殖
ポエジーは思わぬところに潜んでいることだろう。
これらの言葉は、瞬時にイメージを形成し、即座に破壊する。
ここでは、あらゆる形象は破壊されるために存在している。
単純であることと複雑であることは同時に成立する。
箪笥がおばさんを直角に曲げている
校長先生が公衆電話を直角に曲げている
錘が海を直角に曲げている
パンツが太陽を直角に曲げている
言葉が惑星を直角に曲げている
無意識が繁殖を直角に曲げている
左目で見ると箪笥 右目で見るとおばさん
箪笥の表面積とおばさんの表面積は等しい
箪笥を粘土のようにこねておばさんにする
箪笥はおばさんといっしょに飛び去っていった
箪笥の抜け殻とおばさんの貝殻
箪笥が揺れると、おばさんも揺れる
すべての箪笥が滅びても、おばさんは生き残る
右半分が箪笥で、左半分がおばさん
左目で見ると校長先生 右目で見ると公衆電話
校長先生の表面積と公衆電話の表面積は等しい
校長先生を粘土のようにこねて公衆電話にする
校長先生は公衆電話といっしょに飛び去っていった
校長先生の抜け殻と公衆電話の貝殻
校長先生が揺れると、公衆電話も揺れる
すべての校長先生が滅びても、公衆電話は生き残る
右半分が校長先生で、左半分が公衆電話
左目で見ると錘 右目で見ると海
錘の表面積と海の表面積は等しい
錘を粘土のようにこねて海にする
錘は海といっしょに飛び去っていった
錘の抜け殻と海の貝殻
錘が揺れると、海も揺れる
すべて海が滅びても、錘は生き残る
右半分が錘で、左半分が海
左目で見るとパンツ 右目で見ると太陽
パンツの表面積と太陽の表面積は等しい
パンツを粘土のようにこねて太陽にする
パンツは太陽といっしょに飛び去っていった
パンツの抜け殻と太陽の貝殻
パンツが揺れると、太陽も揺れる
すべての太陽が滅びても、パンツは生き残る
右半分がパンツで、左半分が太陽
左目で見ると言葉 右目で見ると惑星
言葉の表面積と惑星の表面積は等しい
言葉を粘土のようにこねて惑星にする
言葉は太陽といっしょに飛び去っていった
言葉の抜け殻と惑星の貝殻
言葉が揺れると、惑星も揺れる
すべての惑星が滅びても、言葉は生き残る
右半分が言葉で、左半分が惑星
左目で見ると無意識 右目で見ると繁殖
無意識の表面積と繁殖の表面積は等しい
無意識を粘土のようにこねて繁殖にする
無意識は繁殖といっしょに飛び去っていった
無意識の抜け殻と繁殖の貝殻
無意識が揺れると、繁殖も揺れる
すべての無意識が滅びても、繁殖は生き残る
右半分が無意識で、左半分が繁殖
閉口ともなるとも午後とはなるなかれ。
いま言語における自由度というものに興味がある。
美しいヴィジョンを形成した瞬間に
そのヴィジョンを破壊するところに行ければいいと思う。
二〇一四年十月二十九日 「卵」
終日
頭がぼんやりとして
何をしているのか記憶していないことがよくある
河原町で、ふと気がつくと
時計屋の飾り窓に置かれている時計の時間が
みんな違っていることを不思議に思っていた自分に
はっとしたことがある
きょう
ジュンク堂で
ふと気がつくと
一個の卵を
平積みの本の上に
上手に立てたところだった
ぼくは
それが転がり落ちて
床の上で割れて
白身と黄身がぐちゃぐちゃになって
みんなが叫び声を上げるシーンを思い浮かべて
ゆっくりと
店のなかから出て行った
二〇一四年十月三十日 「ピーゼットシー」
きょうからクスリが一錠ふえる。これまでの量だと眠れなくなってきたからだけど、どうなるか、こわい。以前、ジプロヘキサを処方してもらったときには、16時間も昏睡して死にかけたのだ。まあ、いままでもらっていたのと同じものが1錠ふえただけなので、だいじょうぶかな。ピーゼットシー。ぼくを眠らせてね。
二〇一四年十月三十一日 「王将にて」
西院の王将で酢豚定食を食べてたら、「田中先生ですよね。」と一人の青年から声をかけられた。「立命館宇治で10年くらいまえに教えてもらってました。」とのことで、なるほどと。うううん。長く生きていると、どこで、だれが見てるかわからないという感じになってくるのかな。わ〜、あと何年生きるんやろ。
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150803_731_8223p
>としら、ぼくは空気か。
さいきん煙が紫にみえてきたんだ
だから俺は奴らに訊くのさ
What's the colour of smoke?
奴らは言う
White, White, White, White, Maybe Gray
>> permanent URI: http://bungoku.jp/ebbs/20150810_952_8242p
霧につつまれた煉瓦通りを突当たり、
古いビルの地下にその店はあった
暗い夜の匂いが滲みついた長尺のカウンターには、
いつしか様々な顔と顔が並んでいた
俺は雑音の混じるオスカー・ピーターソンのピアノを肴に、
ほろ苦いカンパリをソーダで割ったやつを飲んでいる
青髭はパピヨン(♀犬)みたいな顔の女と一緒で、
紫煙を燻らせながらパッシモをタンブラーで飲んでいた
そしてシェークされた無色透明のカクテルが既に女の前にある
「酔っ払うには、まだ早すぎる」と男が言ったから、
たぶんそいつはギムレットだったに違いない。
案の定、パピヨン(♀犬)は最初の一口で咽てしまった
「だって酔わなきゃ」と、鼻を押さえて
男の胸から取りだされた白いハンカチを受けとった
「私、棄てられたの!」
――途端、キャンキャン吼えて泣いた
青髭はすまなさそうに店内を見回し、女の背中を擦った
パピヨン(♀犬)はカウンターに顔を埋めたが、
困ったという顔の青髭は、なぜか私と眼と眼があって
眉を下げたまま「梃子摺らせやがる」と、さも言いたげだった
左手でロメオ・Y・ジュリエッタを硝子の灰皿でつぶし、
「ご迷惑では?」と、俺に訊いた。
「お気を遣わずに。こちらも、関係なく一人で飲みます」
すると、パピヨン(♀犬)がとつぜん上体を起こした
「そうよ、私だって飲むわ!」
涙で溶けた化粧の下に、毅然とした別の女がいた
「わかった。よし、とことん飲もう」
青髭はそう言って、
「アイリッシュ・ミストで・・・・二人分作ってくれ」
やや髪の薄いバーテンダーに注文した
「ミスティか」と、俺はついうっかり口にした。
「ええと――」
初老のバーテンダーが尋ねる、「音楽も・・・・ですか?」
万事よろしい笑みを浮かべて青髭は言った、
「ジョニー・マティスの歌で頼む」
五十年を経た、黒い合成樹脂の円盤に針を落とし、
甘い声で彼が唄いはじめるや否やまったく理由もなく、
店の入口となった狭い階段から、
そして通気口からも地上の霧が降りてくる
いつしかドライアイスの煙のように真っ白な霧が
青髭とパピヨン(♀犬)の足元を包みはじめ、
やがては店中が夜霧のなかに沈んでしまった
「君は・・・・彼を、愛しすぎたのさ」
深い霧の中で青髭はパピヨン(♀犬)へ言った
「そう、きっとそうね」
「でも今夜からは、きっと違う。君は、もう昔の君じゃない」
「裏切られたもの。二度と愛なんて信じないわ」
そして霧の中で、俺はそっと小声で言った――
なんだ。これって青髭が毎度つかう落しの手口じゃん・・・・
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>なんじゃこりゃというのが感想。最後のオチがイマイチよくわからない。
二〇一四年八月一日「蜜の流れる青年たち」
屋敷のなかを蜜の流れる青年たちが立っていて、ぼくが通ると笑いかけてくる。頭のうえから蜜がしたたっていて、手に持ったガラスの器に蜜がたまっていて、ぼくがその蜜を舐めるとよろこぶ。どうやら、弟はぼくを愛しているらしい。白い猫と黒い猫が追いかけっこ。屋敷には、ぼくの本も大量に運ばれていて、弟が運ばせていた。弟は、寝室で横たわっているぼくの耳にキスをして部屋を出て行った。白い猫と黒い猫たちが後方に走り去っていった。と思った瞬間、その姿は消えていて、気がつくと、また前方からこちらに向かって、くんずほぐれつ白い猫と黒い猫たちが走り寄ってきて、目のまえで踊るようにして追いかけっこして後方に走り去り、またふたたび前方からこちらに向かって、くんずほぐれつ走り寄ってきた。猫を飼っていたとは知らなかった。でも、よく見ると、それが母親や叔母たちが扮している猫たちで、屋敷の廊下をふざけながら猛スピードで駆け巡っているのだった。ぼくのそばを通っては笑い声をあげて追いかけっこをしているのであった。完全に目を覚ましたぼくは、廊下中に立っている蜜のしたたる青年たちの蜜を舐めていった。
二〇一四年八月二日「戦時下の田舎」
戦時下だというのに、弟の屋敷では、時間の流れがまったく別のもののように感じられる。中庭に出てベンチに坐って、ジョン・ダンの詩集を読んでいる。ページから目を上げると、ふと噴水の流れ落ちる水の音に気がついたり、小鳥たちが地面の砂をくちばしのさきでつつき回している姿に気がついたり、背後の樹のなかに姿を隠した小鳥や虫たちの鳴く声に気がついたりするのであった。ぼくが詩を読んでいるあいだも、それらは流れ落ち、つつき回し、鳴きつづけていたのであろうけれども。足元の日差しのなかで、裸の足指を動かしてみた。気持ちがよい。夏休みのあいだだけでも巷の喧騒から逃れて田舎の屋敷でゆっくりすればいいと、弟が言ってくれたのだった。西院に比べて桂がそんなに田舎だとは思えないのだけれど。ぼくはふたたび、ジョン・ダンの詩集に目を落とした。ホラティウスやシェイクスピアもずいぶんとえげつない詩を書いていたが、ジョン・ダンのものがいちばんえげつないような気がする。
二〇一四年八月三日「100人のダリが曲がっている。」
中庭でベンチに腰掛けながら、ジョン・ダンの詩集を読んでいると、小さい虫がページのうえに、で、無造作に手ではらったら、簡単につぶれて、ページにしみがついてしまって、で、すぐに部屋に戻って、消しゴムで消そうとしたら、インクがかすれて、文字までかすれて、泣きそうになった、買いなおそうかなあ、めっちゃ腹が立つ。虫に、いや、自分自身に、いや、虫と自分自身に。おぼえておかなきゃいけないね、虫が簡単につぶれてしまうってこと。それに、なにするにしても、もっと慎重にしなければいけないね、ふうって息吹きかけて吹き飛ばしてしまえばよかったな。ビールでも飲もう。で、これからつづきを。まだ、ぜんぶ読んでないしね。ああ、しあわせ。ジョン・ダンの詩集って、めっちゃ陽気で、えげつないのがあって、いくつもね。ブサイクな女がなぜいいのか、とかね。吹き出しちゃったよ、あまりにえげつなくってね。フフン、石頭。いつも同じひと。どろどろになる夢を見た。
二〇一四年八月四日「科学的探究心」
きょうも、中庭で、ジョン・ダンの詩集を読んでいた。もう終わりかけのところで、昼食の時間を知らせるチャイムが鳴った。ぼくは詩集をとじて、立ち上がった。ちょっとよろけてしまって、ベンチのうえにしりもちをついてしまった。すると、噴水の水のきらめきと音が思い出させたのだろうか。子どものときに弟のところに行こうとして、川のなかでつまずいておっちんしたときの記憶がよみがえったのであった。鴨川で、一年に一度、夏の第一日曜日か、第二日曜日に、小さな鯉や鮒や金魚などを放流して、子どもたちに魚獲りをさせる日があって、なんていう名前の行事か忘れてしまったのだけれど、たぶん、ぼくがまだ小学校の四年生ころのときのことだと思う。川床の岩(いわ)石(いし)につまずいて、水のなかにおっちんしてしまったのである。そのときに、水際の護岸の岩と岩のあいだに密生している草の影のところの水が、日に当たっているところの水よりはるかに冷たいことを知ったのだった。しかし、川の水は流れているわけだし、常時、川の水は違った水になっているはずなのに、水際の丈高い草の影の水がなぜ冷たいのかと不思議に思ったのであった。ただし、ぼくが冷たいと思ったのは、川のなかにしゃがんで伸ばした手のさきの水だったので、水面近くの水ではなくて、水底に近い部分だったことは、理由としてあるのかもしれない。水底といっても、わずか2、30センチメートルだったとは思うのだけれど。子ども心に科学的探究心があったのであろう。水のなかで日に当たっているところと水際の草の影になっているところに手を伸ばして行き来させては、徐々に手のひらを上げて、その温度の違いを確かめていったのだから。水面近くになってやっと了解したのだった。水の温みは太陽光線による放射熱であって、直射日光の熱であったのだった。すばやく移動しているはずの水面近くの日に当たっているところと影になって日に当たっていないところの温度は、太陽光線の放射熱のせいでまったく違っていたのだった。いまでも顔がほころぶ。当時のぼくの顔もほころんでいたに違いない。40年以上もむかしのことなのに、きのうしゃがんでいたことのように、はっきりと覚えている。あっ、あの行事の名前、鴨川納涼祭りだったかな。それとも、鴨川の魚祭りだったかな。両方とも違ってたりして。
二〇一四年八月五日「ゴリラは語る」
弟の子どもの双子の男の子たちの勉強をみているときに、大谷中学校の2013年度の国語の入試問題のなかに、山極寿一さんの『ゴリラは語る』というタイトルの文章が使われていて、その文章のなかに、おもしろいものがあった。「「遊び」というのは不思議なもので、遊ぶこと自体が目的です。」「ゴリラは、日に何度も、しかもほかの動物とは比べものにならないほど長く、遊び続けることができるのです。」、「時間のむだづかいにも見える「遊び」を長く続けられるのは、遊びの内容をどんどん変えていけるからです。」いや〜、これを読んで、ぼくが取り組んでる詩作のことやんか、と思った。ゴリラとは、ぼくである。ぼくとは、ゴリラであったのだ〜と叫んで、弟の子どもたちとふざけて、部屋じゅう追いかけっこして騒いでいたら、突然、部屋に入ってきた弟に叱られた。ちょっとイヤな気がした。
二〇一四年八月六日「死父」
朝、死んだ父に脇腹をコチョコチョされて目が覚めた。一日じゅう気分が悪かった。
二〇一四年八月七日「寝るためのお呪い」
羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき……
羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき……
羊がいっぴき、羊がにひき、羊がさんびき……
一晩中、羊たちは不眠症のひとたちに数えられて
ちっとも眠らせてもらえなかったので、しまいに
怒って、不眠症のひとたち、ひとりひとりの頭を
つぎつぎと、ぐしゃぐしゃ踏んづけてゆきました。
二〇一四年八月八日「寝るためのお呪い、ふたたび」
棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ……
棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ……
棺がひとつ、棺がふたつ、棺がみっつ……
一晩中、死んだ父親が目を見開いて棺から
つぎつぎ現われてくる光景を見ていたので
まったくちらとも眠ることができなかった
二〇一四年八月九日「空気金魚」
人間の頭くらいの大きさの空気金魚が胸びれ腹びれ尻びれをひらひらさせながら躰をくゆらし、尾びれ背びれを優雅にふりまきながら、弟の差し出したポッキー状の餌を少しずつかじっていた。空気金魚は、この大きさで、空気と同じ重さなのだ。ポッキー状の餌も空気と同じ重さらしい。一人暮らしをはじめて三十年近くになる、広い屋敷は逆に窮屈だ、そろそろ帰りたい、と弟に話した。弟は隣の部屋に入っていった。ドアが開いていたので、つづいて部屋に入ると、空気娘たちが部屋のなかに何人も漂っていた。気配がしたので振り返ろうとすると、弟がぼくの肩に手を置いて「兄さんは、興味がなかったかな?」と言う。外見はぼくのほうが父親に似ていたが、性格は弟のほうが父親に似ているのだった。まったく思いやりのない口調であった。
二〇一四年八月十日「パーティー」
ぜったい嫌がらせに違いないと思うのだけれど、弟に屋敷を出たいと言ったつぎの日の今日に、なんのパーティーか知らないけれど、パーティーが開かれた。空気牛や空気山羊や空気象や空気熊や空気豚などが宴会場になっている大広間で空中にただよっているなかに、弟に呼ばれた客たちが裸で牛や山羊や象や熊や豚などに扮して、かれらもまた空中にただよいながら酒や食事を空中にふりまきながら飲食や会話をしているのだった。不愉快きわまる光景であった。あしたの朝いちばんに屋敷を出ることにした。
二〇一四年八月十一日「ブレッズ・プラス」
昼ご飯を食べに西院のブレッズ・プラスに行く途中、女性の二人組がぺちゃくちゃしゃべりながら、ぼくの前から近づいてきた。ぼくは、人の顔があまり記憶できない性質なので、もう覚えていないのだけれど、というのも、ちらりと見ただけで、もうケッコウという感じだったからなんだけど、ぼくに近い方、道の真ん中を歩いてた方の女性が、ぼくの出っ張ったお腹を見ながら、「やせなあかんわ。」と言いよったのだった。オドリャ、と思ったのだけれど、まあ、ええわ。人間は他人を見て、自分のことを振り返るんやからと思って、チェッと思いながらも、そのままやりすごしたのだけれど、ほんと、人間というものは、他人を見て、自分のことを思い出してしまうんやなあと、つくづく思った。パン屋さんに入って、BLTサンドのランチ・セットを頼んでテーブルにつき、ルーズリーフを拡げると、つぎのような言葉がつぎつぎと目に飛び込んできた。「今、わたしの存在を維持しているのはだれか?」(ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳)「人間がその死性を免れる道は、笑いと絆を通してでしかない。それら二つの大いなる慰め。」(グレゴリイ・ベンフォード『輝く永遠への航海』下・第六部・5、冬川 亘訳)「人生で起こる偶然はみな、われわれが自分の欲するものを作り出すための材料となる。精神の豊かな人は、人生から多くのものを作り出す。まったく精神的な人にとっては、どんな知遇、どんな出来事も、無限級数の第一項となり、終わりなき小説の発端となるだろう。」(ノヴァーリス『花粉』 66、今泉文子訳)「人生を楽しむ秘訣は、細部に注意を払うこと。」(シオドア・スタージョン『君微笑めば』大森 望訳)「細部こそが、すべて」(ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町眞理子訳)「本質的に小さなもの。それは芸術家の求めるものよ」(フランク・ハーバート『デューン砂丘の大聖堂』第二巻、矢野 徹訳)「人生はほとんどいつもおもしろいものだ。」(タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遥訳)「そうした幸せは、まさしく小さなものであるからこそ存在しているのだ」(サバト『英雄たちと墓』第?局堯Γ粥?安藤哲行訳)「重要なのは経験だ。」(ミシェル・ジュリ『不安定な時間』鈴木 晶訳)「人生のあらゆる瞬間はかならずなにかを物語っている、」(ジェイムズ・エルロイ『キラー・オン・ザ・ロード』四・16、小林宏明訳)「経験は避けるのが困難なものである。」(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』上・15、岡部宏之訳)「すべての経験はわたしという存在の一部になるのだから」(ジーン・ウルフ『拷問者の影』11、岡部宏之訳)「新しい関係のひとつひとつが新しい言葉だ。」(エマソン『詩人』酒本雅之訳)「レサマは「覚えておくんだよ、わたしたちは言葉によってしか救われないってこと。書くんだ。」とぼくに言った。」(レイナルド・アレナス『夜になるまえに』通りで、安藤哲行訳)「われわれのかかわりを持つものすべてが、すべてわれわれに向かって道を説く。」(エマソン『自然』五、酒本雅之訳)「あらゆるものが、たとえどんなにつまらないものであろうと、あらゆるものへの入口だ。」(マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第3部・20、嶋田洋一訳)「創造者がどれだけ多くのものを被造物と分かちもっているか、」(トマス・M・ディッシュ『M・D』下・第五部・67、松本剛史訳)「作品と同時に自分を生みだす。というか、自分を生みだすために作品を書くんだ」(オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上・4、田中一江訳)「人生の目的は事物を理解することではない。(……)できるだけよく生きることである。」(ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』下・8、岩崎宗治訳)「生きること、生きつづけることであり、幸せに生きることである。」(フランシス・ポンジュ『プロエーム(抄)』?察∧寝?篤頼訳)。
二〇一四年八月十二日「言葉をひねる。」
言葉をひねる。
ひねられると
言葉だって痛い。
痛いから
違った言葉のふりをする。
二〇一四年八月十三日「言葉にも利息がつく。」
言葉にも利息がつく。利息には正の利息と負の利息がある。言葉を創作(つく)って使うと正の利息がつく。言葉は増加し、よりたくさんの言葉となる。言葉を借りて使うと負の利息がつく。預けていた言葉が減少し、預けていた言葉がなくなると、覚えていた言葉が忘れられていく。
二〇一四年八月十四日「くるりんと」
卵に蝶がとまって
ひらひら翅を動かしていると
くるりんと一回転した。
少女がそれを手にとって
頭につけて、くるりんと一回転した。
すると地球も、くるりんと一回転した。
二〇一四年八月十五日「卵」
波はひくたびに
白い泡の代わりに
白い卵を波打ち際においていく
波打ち際に
びっしりと立ち並んだ
白い卵たち
二〇一四年八月十六日「10億人のぼく。」
人間ひとりをつくるためには、ふたりの親が必要で、そのひとりひとりの親にもそれぞれふたりの親が必要で、というふうにさかのぼると、300年で10代の人間がかかわったとしたら、ぼくをつくるのに2の10乗の1024人の人間が必要だったわけで、さらに300年まえは、そのまた1024倍で、というふうにさかのぼっていくと、いまから1000年ほど前のぼくは、およそ10億人だったわけである。さまざまな人生があったろうになって思う。どうしたって、ぼくの人生はたったひとつだけだしね。
二〇一四年八月十七日「『高慢と偏見』」
あと10ページばかり。ジェーンはビングリーと婚約、エリザベスもダーシーと婚約というところ。いま、ちょっと息をととのえて、書き込みをしているのは、自分のことを嫌っているように見えてたダーシーが、いつ自分を愛するようになったのかとエリザベスが訊くところ。「そもそものおはじまりは?」(ジェーン・オースティン『高慢と偏見』60、富田 彬訳)このすばらしいセリフが終わり近くで発せられることに、こころから感謝。
二〇一四年八月十八日「amazon」
これで笑ったひとは、こんなものにでも笑っています。
二〇一四年八月十九日「ゴボウを持ちながら。」
スーパーで、ゴボウを持ちながら、買おうか買わないでおこうか、えんえんと迷いつづける主婦の話。すき焼きにゴボウをいれたものかどうか、ひさしぶりのすき焼きなので記憶があやふやで、過去の食事を順に追って思い出しては記憶のなかのさまざまな事柄にとらわれていく主婦の話。
二〇一四年八月二十日「素数」
13も31も素数である。17も71も素数である。37も73も素数である。このように数字の順番を逆にしても素数になる素数が無数にある。また、131のように、その数自身、数字の順が線対称的に並んだ素数が無数にある。
二〇一四年八月二十一日「有理数と無理数」
きょう、パソコンで、ゲイの出会い系サイトを眺めていたら、「しゃぶり好きいる?」というタイトルで、「普通体型以上で、しゃぶり好き居たら会いたい。我慢汁多い 168#98#36 短髪髭あり。ねっとり咥え込んで欲しい。最後は口にぶっ放したい。」とコメントが書いてあって、連絡した。携帯でやりとりしているうちに、お互いに知り合いであったことに気がついたのだが、とにかく会うことにした。さいしょに連絡してから一時間ほどしてから部屋にきたのだが、テーブルのうえに置いてあった「アナホリッシュ國文學」の第8号用の「詩の日めくり」の初校ゲラを見て、「おれも詩を書いてるんやけど、見てくれる?」と言って、彼がアイフォンに保存している詩を見せられた。自分を「独楽」に擬した詩や、死んだ友だちを哀悼する言葉にまじって、彼が彼の恋人といっしょにいる瞬間について書かれた詩があった。永遠は瞬間のなかにしかないと書いていたのは、ブレイクだったろうか。彼が帰ったあと、瞬間について考えた。瞬間と時間について考えた。学ぶことは驚くことで、学んでいくにしたがって、驚くことが多くなることは周知のことであろうけれど、やがて、ある時点から驚くことが少なくなっていく。ぼくのような、驚くために学んでいくタイプの人間にとって、それは悲しいことで、つぎの段階は、学ぶこと自体を学ばなければならないことになる。そのうえで、これまでの驚きについても詳細に分析し直さなければならない。なぜ驚かされたのかと。その方法の一つは、単純なことだが意外に難しい。多面的にとらえるのだ。齢をとって、いいことの一つだ。思弁だけではなく、経験を通しても多面的に見れる場面が多々ある。ぼくたちが、時間を所有しているのではない。ぼくたちのなかに、時間が存在するのではない。時間が、ぼくたちを所有しているのだ。時間のなかに、ぼくたちが存在しているのだ。まるでぼくたちは、連続する実数のなかに存在する有理数のようなものなのだろう。実数とは有理数と無理数からなる、とする数概念だが、この比喩のなかでおもしろいのは、では、実数のなかで無理数に相当するものはなにか、という点だ。それは、ぼくたちではないものだ。ぼくたちではないものを時間は所有しているのだ。ぼくたちでないものが、時間のなかに存在しているのだ。しかし、もし、時間が実数どころではなくて複素数のような数概念のものなら、時間はまったく異なる2つのものからなる。もしかすると、ぼくたちと、ぼくたちではないものとは、複素数概念のこのまったく異なる2つのもののようなものなのだろうか。しかし、ここからさきに考えをすすめることは、いまのぼくには難しい。実数として比喩的に時間をとらえ、その時間のなかで、ぼくたちが有理数のようなものとして存在すると考えるだけで、無理数に相当するぼくたちではないものに思いを馳せることができる。しかし、それにしたって、じつは、ぼくたちではないものというのも定義が難しい。なぜなら、ぼくたちの感覚器官がとらえたものも、ぼくたちが意識でとらえたものも、ぼくたちが触れたものも、ぼくたちに触れたものも、ぼくたちではないとは言い切れないからである。この部分の弁別が精緻にできれば、この分析にも大いに意義があるだろう。ところで、実数のなかで、有理数と無理数のどちらが多いかとなると、圧倒的に無理数のほうが多いらしい。多いらしいというのは、そのことが証明されている論文をじかに目にしたことがないからであるが、そのうち機会があれば、読んでみようかなと思っている。
二〇一四年八月二十二日「チュパチュパ」
阪急西院駅の改札を通るとすぐ左手にゴミ入れがあって、隅に残ったジュースをストローでチュパチュパ吸ったあと、そのゴミ入れに直方体の野菜ジュースの紙パックを捨てるときに気がついたのであった、着ていたシャツのボタンを掛け違えていたことに。朝は西院のマクドナルドを利用することが多くて、たいていは、チキンフィレオのコンビで野菜ジュースを注文して、あと一つ、単品のなんとかマフィンを頼んで食べるんだけど、今朝もそうだったんだけど、友だちと待ち合わせをしていて、野菜ジュースだけがまだ残っていて、でも時間が、と思って、ジュースを持って、店を出て、駅まで歩きながらチュパチュパしていたのだった。いや、正確に言うと、横断歩道では信号が点滅していたし、車のなかにいるひとたちの視線を集めるのが嫌で、チュパチュパしていなかったんだけど、それに、小走りで横断歩道を渡らなければならなかったし、改札の機械に回数券を滑り込ませなければならなかったので、そんなに歩きながらチュパチュパしていなかったんだけど、というわけで、改札に入ってから最後のチュパチュパをして、野菜ジュースの紙パックをゴミ入れに投げ入れるまで目を下に向けることがなかったので、自分の着ているシャツの前のところが長さが違うことに、ボタンを掛け違えて、シャツの前の部分の右側と左側とでは長さが違うことに気がつくことができなかったのであった。「西洋の庭園の多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、廣いものを象徴出來るからでありませう。」(川端康成『美しい日本の私』)「断片だけがわたしの信頼する唯一の形式。」(ドナルド・バーセルミ『月が見えるだろう?』邦高忠二訳)「首尾一貫など、偉大な魂にはまったくかかわりのないことだ。」(エマソン『自己信頼』酒本雅之訳)「読書の楽しさは不確定性にある──まだ読んでいない部分でなにが起きるかわからないということだ。」(ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』26、内田昌之訳)。
二〇一四年八月二十三日「通夜」
よい父は、死んだ父だけだ。これが最初の言葉であった。父の死に顔に触れ、ぼくの指が読んだ、死んだ父の最初の言葉であった。息を引き取ってしばらくすると、顔面に点字が浮かび上がる。それは、父方の一族に特有の体質であった。傍らにいる母には読めなかった。読むことができるのは、父方の直系の血脈に限られていた。母の目は、父の死に顔に触れるぼくの指と、点字を翻訳していくぼくの口元とのあいだを往還していた。父は懺悔していた。ひたすら、ぼくたちに許しを請うていた。母は、死んだ父の手をとって泣いた。──なにも、首を吊らなくってもねえ──。叔母の言葉を耳にして、母は、いっそう激しく泣き出した。
ぼくは、幼い従弟妹たちと外に出た。叔母の膝にしがみついて泣く母の姿を見ていると、いったい、いつ笑い出してしまうか、わからなかったからである。親戚のだれもが、かつて、ぼくが優等生であったことを知っている。いまでも、その印象は変わってはいないはずだ。死んだ父も、ずっと、ぼくのことを、おとなしくて、よい息子だと思っていたに違いない。もっとはやく死んでくれればよかったのに。もしも、父が、ふつうに臨終を迎えてくれていたら、ぼくは、死に際の父の耳に、きっと、そう囁いていたであろう。自販機のまえで、従弟妹たちがジュースを欲しがった。
どんな夜も通夜にふさわしい。橋の袂のところにまで来ると、昼のあいだに目にした鳩の群れが、灯かりに照らされた河川敷の石畳のうえを、脚だけになって下りて行くのが見えた。階段にすると、二、三段ほどのゆるやかな傾斜を、小刻みに下りて行く、その姿は滑稽だった。
従弟妹たちを裸にすると、水に返してやった。死んだ父は、夜の打ち網が趣味だった。よくついて行かされた。いやいやだったのだが、父のことが怖くて、ぼくには拒めなかった。岸辺で待っているあいだ、ぼくは魚籠のなかに手を突っ込み、父が獲った魚たちを取り出して遊んだ。剥がした鱗を、手の甲にまぶし、月の光に照らして眺めていた。
気配がしたので振り返った。脚の群れが、すぐそばにまで来ていた。踏みつけると、籤(ひご)細工のように、ポキポキ折れていった。
二〇一四年八月二十四日「新しい意味」
赤言葉、青言葉、黄言葉。赤言葉、青言葉、黄言葉。赤言葉、青言葉、黄言葉。「言葉同士がぶつかり、くっつきあう。」(ルーディ・ラッカー『ホワイト・ライト』第四部・22、黒丸 尚訳)よくぶつかるよい言葉だ。隣の言葉は、よくぶつかるよい言葉だ。「解読するとは生みだすこと」(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・71、土岐恒二訳)「創造性とは、関係の存在しないところに関係を見出す能力にほかならない。」(トマス・M・ディッシュ『334』ソクラテスの死・4、増田まもる訳)言葉のうえに言葉をのせて、その言葉のうえに言葉をのせて、その言葉のうえの言葉に言葉をのせて、とつづけて言葉をのせていって、そこで、一番下の言葉をどけること。ときどき、言葉に曲芸をさせること。ときどき、言葉に休憩をとらせること。言葉には、いつもたっぷりと睡眠を与えて、つねにたらふく食べさせること。でもたまには、田舎の空気でも吸いに辺鄙な土地に旅行させること。とは言っても、言葉の親戚たちはきわめて神経質で、うるさいので、ちゃんと手配はしておくこと。温度・湿度・気圧が大事だ。ホテルではみだりに裸にならないこと。支配人に髪の毛をつかまれて引きずりまわされるからだ。階段から突き落とされる掃除婦のイメージ。まっさかさまだ。ホテルでは、みだりに裸にはならないこと。とくにビジネスホテルでは、つねに盗聴されているので、気をつけること。言葉だからといって、むやみに、ほかの言葉に抱かれたりしないこと。朝になったら、ドアの下をかならずのぞくこと。差し込まれたカードには、新しい意味が書かれている。
二〇一四年八月二十五日「天使の球根」
月の夜だった。欠けるところのない、うつくしい月が、雲ひとつない空に、きらきらと輝いていた。また来てしまった。また、ぼくは、ここに来てしまった。もう、よそう、もう、よしてしまおう、と、何度も思ったのだけれど、夜になると、来たくなる。夜になると、また来てしまう。さびしかったのだ。たまらなく、さびしかったのだ。
橋の袂にある、小さな公園。葵公園と呼ばれる、ここには、夜になると、男を求める男たちがやって来る。ぼくが来たときには、まだ、それほど来ていなかったけれど、月のうつくしい夜には、たくさんの男たちがやって来る。公衆トイレで小便をすませると、ぼくは、トイレのすぐそばのベンチに坐って、煙草に火をつけた。
目のまえを通り過ぎる男たちを見ていると、みんな、どこか、ぼくに似たところがあった。ぼくより齢が上だったり、背が高かったり、あるいは、太っていたりと、姿、形はずいぶんと違っていたのだが、みんな、ぼくに似ていた。しかし、それにしても、いったい何が、そう思わせるのだろうか。月明かりの道を行き交う男たちは、みんな、ぼくに似て、瓜ふたつ、そっくり同じだった。
樹の蔭から、スーツ姿の男が出てきた。まだらに落ちた影を踏みながら、ぼくの方に近づいてきた。
「よかったら、話でもさせてもらえないかな?」
うなずくと、男は、ぼくの隣に腰掛けてきて、ぼくの膝の上に自分の手を載せた。
「こんなものを見たことがあるかい?」
手渡された写真に目を落とすと、翼をたたんだ、真裸の天使が微笑んでいた。
「これを、きみにあげよう。」
胡桃くらいの大きさの白い球根が、ぼくの手のひらの上に置かれた。男の話では、今夜のようなうつくしい満月の夜に、この球根を植えると、ほぼ一週間ほどで、写真のような天使になるという。ただし、天使が目をあけるまでは、けっして手で触れたりはしないように、とのことだった。
「また会えれば、いいね。」
男は、ぼくのものをしまいながら、そう言うと、出てきた方とは反対側にある樹の蔭に向かって歩き去って行った。
二〇一四年八月二十六日「無意味の意味」
「芸術において当然栄誉に値するものは、何はさておき勇気である。」(バルザック『従妹ベット』二一、清水 亮訳)たくさんの手が出るおにぎり弁当がコンビニで新発売されるらしい。こわくて、よう手ぇ出されへんわと思った。きゅうに頭が痛くなって、どしたんやろうと思って手を額にあてたら熱が出てた。ノブユキも、ときどき熱が出るって言ってた。20年以上もむかしの話だけど。むかし、ぼくの詩をよく読んで批評してくれた友だちの言葉を思い出した。ジミーちゃんの言葉だ。「あなたの詩はリズムによって理性が崩壊するところがよい。」ルーズリーフを眺めていると、ジミーちゃんのこの言葉に目がとまったのだ。すばらしい言葉だと思う。以前に書いた「無意味というものもまた意味なのだろうか。」といった言葉は、紫 式部の『源氏物語』の「竹河」にあった「無情も情である」(与謝野晶子訳)という言葉から思いついたものであった。ジミーちゃんちの庭で、ジミーちゃんのお母さまに、木と木のあいだ、日向と木陰のまじった場所にテーブルを置いてもらって、二人で坐ってコーヒーを飲みながら、百人一首を読み合ったことがあった。どの歌がいちばん音がきれいかと、選び合って。そのときに選んだ歌のいくつかを、むかし、國文學という雑誌の原稿に書き込んだ記憶がある。「短歌と韻律」という特集の号だった。ぼくが北山に住んでいた十年近くもむかしの話だ。
二〇一四年八月二十七日「詩と人生」
きょうは、大宮公園に行って、もう一度、さいしょのページから、ジョン・ダンの詩集を読んでいた。公園で詩集を読むのは、ひさしぶりだった。一時間ほど、ページを繰っては、本を閉じ、またページを開いたりしていた。帰ろうと思って、詩集をリュックにしまい、さて、立ちあがろうかなと思って腰を浮かせかけたら、2才か3才だろうか、男の子が一人、小枝を手にもって一羽の鳩を追いかけている姿を目にしたのだった。ぼくは、浮かしかけた腰をもう一度、ベンチのうえに落として坐り直して、背中にしょったリュックを横に置いた。男の子の後ろには、その男の子のお母さんらしきひとがいて、その男の子が、段差のあるところに足を踏み入れかけたときに、そっと、その男の子の手に握られた小枝を抜き取って、その男の子の目が見えないところに投げ捨てたのだけれど、するとその男の子が大声で泣き出したのだが、泣きながら、その男の子は道に落ちていた一枚の枯れ葉に近づき、それを手に取り、まるでそれがさきほど取り上げられた小枝かどうか思案しているかのような表情を浮かべて泣きやんで眺めていたのだけれど、一瞬か二瞬のことだった。その男の子はその枯れ葉を自分の目の前の道に捨てて、ふたたび大声で泣き出したのであった。すると、あとからやってきた父親らしきひとが、その男の子の身体を抱き上げて、母親らしきひとといっしょに立ち去っていったのであった。なんでもない光景だけれど、ぼくの目は、この光景を、一生、忘れることができないと思った。
二〇一四年八月二十八日「人間であることの困難さ」
言葉遊びをしよう。言葉で遊ぶのか、言葉が遊ぶのか、どちらでもよいのだけれど、ラテン語の成句に、こんなのがあった。「誰をも褒める者は、誰をも褒めず。」ラテン語自体は忘れた。逆もまた真なりではないけれど、逆もまた真のことがある。一時的に真であるというのは、論理的には無効なのだけれど、日常的には、そのへんにころころころがっている話ではある。で、逆もまた真であるとする場合があるとすると、「誰をも褒めない者は、誰をも褒めている。」ということになる。さて、つぎの二つの文章を読み比べてみよう。「どれにも意味があるので、どこにも意味がない。」「どこにも意味がないので、どれにも意味がある。」塾からの帰り道、こんなことを考えながら歩いていた。ぼくに狂ったところがまったくないとしたら、ぼくは狂っている。ぼくが狂っているとしたら、ぼくには狂ったところがまったくない。じっさいには、少し狂ったところがあるので、ぼくは狂ってはいない。ぼくは狂ってはいないので、少し狂ったところがある。「おれなんか、ちゃろいですか?」「かわいい顔してなに言ってるんや。」「なんでそんな目で見るんですか?」。「なんでそんな目で見るんですか?」いったい、どんな目で見ていたんだろう。そういえば、付き合った子にはよく言われたな。ぼくには、どんな目か、自分ではわからないのだけれど。よく、どこ見てるの、とも言われたなあ。ぼくには、どこ見てるのか、自分でもわからなかったのだけれど。「人間であることは、たいへんむずかしい」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)「人間であることはじつに困難だよ、」(マルロー『希望』第二編・第一部・7、小松 清訳)「「困難なことが魅力的なのは」とチョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」」(ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』1、三田村 裕訳)「きみの苦しみが宇宙に目的を与えているのかもしれないよ」(バリー・N・マルツバーグ『ローマという名の島宇宙』10、浅倉久志訳)ほんと、そうかもね。
二〇一四年八月二十九日「放置プレイ」
さて、PC切るか、と思って、メールチェックしてたら、大事なメールをいったん削除してしまった。復活させたけど。あれ、なにを書くつもりか忘れてしまった。そうだ、オレンジエキス入りの水を飲んで寝ます。新しい恋人用に買っておいたものだけど、自分でアクエリアス持ってきて飲んでたから、ぼくが飲むことに。ぼくのこともっと深く知りたいらしい。ぼくには深みがないから、より神秘的に思えるんじゃないかな。「あつすけさん、何者なんですか?」「何者でもないよ。ただのハゲオヤジ。きみのことが好きな、ただのハゲオヤジだよ。」「朗読されてるチューブ、お気に入りに入れましたけど、じっさい、もっと男前ですやん。」「えっ。」「ぼく、撮ったげましょか。でも、それ見て、おれ、オナニーするかも知れません。」「なんぼでも、したらええやん。オナニーは悪いことちゃうよ。」「こんど動画を撮ってもええですか。」「ええよ。」「なんでも、おれの言うこと聞いてくれて、おれ、幸せや。」「ありがとう。ぼくも幸せやで。」これはきっと、ぼくが、不幸をより強烈に味わうための伏線なのだった。きょうデートしたんだけど、間違った待ち合わせ場所を教えて、ちょっと待たしてしまった。「放置プレイやと思って、おれ興奮して待っとったんですよ。」って言われた。ぼくの住んでるところの近く、ゲイの待ち合わせが多くて、よくゲイのカップルを見る。西大路五条の角の交差点前。身体を持ち上げて横にしてあげたら、すごく喜んでた。「うわ、すごい。おれ、夢中になりそうや。もっとわがまま言うて、ええですか?」「かまへんで。」「口うつしで、水ください。」ぼくは、生まれてはじめて、自分の口に含んだ水をひとの口のなかに落として入れた。そだ、水を飲んで寝なきゃ。「彼女、いるんですか?」「自分がバイやからって、ひともバイや思うたら、あかんで。まあ、バイ多いけどな。これまで、ぼくが付き合った子、みんなバイやったわ。偶然やろうけどね。」偶然違うやろうけどね。と、そう思うた。偶然であって、偶然ではないということ。矛盾してるけどね。
二〇一四年八月三十日「火の酒」
きょう恋人からプレゼントしてもらったウォッカを飲んでいる。2杯目だ。大きなグラスに。ウォッカって、たしか、火の酒と書いたかな。火が、ぼくの喉のなかを通る。火が、ぼくの喉の道を焼きつくす。喉が、火の道を通ると言ってもよい。まるでダニエル記に出てくる3人の証人のように。その3人の証人たちは、3つの喉だ。ぼくの3つの喉の道を炎が通り過ぎる。3つの喉が、ぼくを炎の道に歩ませる。ほら、偶然に擬態したウォッカが、ぼくの言葉を火の色に染め上げる。さあ、ぼくである3人の証人たちよ。火のなかをくぐれ。3つの喉が、炎のなかを通り過ぎる。ジリジリと喉の焼き焦げる音がする。ジリジリと魂の焼き焦げる音がする。ジリジリと喉の焼き焦げるにおいがしないか。ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。ジリジリと、ジリジリとしないか、魂は。恋人からのプレゼントが、炎の通る道を、ぼくの喉のなかに開いてくれた。偶然のつくる火の道だ。魂のジリジリと焼き焦げる味がする。あまい酒だ。偶然がもたらせた火の道だ。ほら、ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。My Sweet Baby! Love & Vodka! 「運命とは偶然に他ならないのではないか?」(フィリップ・ホセ・ファーマー『飛翔せよ、遙かなる空へ』下・48、岡部宏之訳)「だれもが自分は自由だと思っとるかもしれん。しかし、だれの人生も、たまたま知りあった人たち、たまたま居合わせた場所、たまたまでくわした仕事や趣味で作りあげられていく。」(コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』浅倉久志訳)「すべては同じようにはかなく移ろいやすいものだ。少なくともそのために、束の間のものを普遍化するために書く。たぶん、それは愛。」(サバト『英雄たちと墓』第?局堯?四、安藤哲行訳)「ぼくにとってこれが人生のすべてだった。」(グレッグ・イーガン『ディアスポラ』第三部・8、山岸 真訳)「なんのための芸術か?」(ホフマンスタール『一人の死者の影が……』川村二郎訳)「作家は文学を破壊するためでなかったらいったい何のために奉仕するんだい?」(コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・99、土岐恒二訳)「言葉以外の何を使って、嫌悪する世界を消しさり、愛しうる世界を創りだせるというのか?」(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)ウォッカ。火のようにあまくて、うまい酒だ。喉が熱い。火のように熱い。真っ赤に焼けた火の道だ。ほら、ジリジリと魂の焼き焦げるにおいがしないか。
二〇一四年八月三十一日「できそこないの天使」
瞳もまだ閉じていたし、翼も殻を抜け出たばかりの蝉の翅のように透けていて、白くて、しわくちゃだったけれど、六日もすると、鉢植えの天使は、ほぼ完全な姿を見せていた。眺めていると、そのやわらかそうな額に、頬に、唇に、肩に、胸に、翼に、腰に、太腿に、この手で触れたい、この手で触れてみたい、この手で触りたい、この手で触ってみたいと思わせられた。そのうち、とうとう、その衝動を抑え切れなくなって、舌の先で、唇の先で、天使の頬に、唇に、その片方の翼の縁に触れてみた。味はしなかった。冷たくはなかったけれど、生き物のようには思えなかった。血の流れている生き物の温かさは感じ取れなかった。舌の先に異物感があったので、指先に取ってみると、うっすらとした小さな羽毛が、二、三枚、指先に張りついていた。鉢植えの上に目をやると、瞳を閉じた天使の顔が、苦悶の表情に変っていた。ぼくの舌や唇が触れたところが、傷んだ玉葱のように、半透明の茶褐色に変色していた。目を開けるまでは、けっして触れないこと……。あの男の言葉が思い出された。
机の引き出しから、カッター・ナイフを取り出して、片方の翼を切り落とした。すると、その翼の切り落としたところから、いちじくを枝からもぎ取ったときのような、白い液体がしたたり落ちた。
その後、何度も公園に足を運んだけれど、あの男には、二度と出会うことはなかった。
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