薔薇の花

 ねむのき  '16/11/16 04:26:23 *1


清潔な剃刀の刃を
止まない雨にあてると
雨は血になり
薔薇の花びらはさらに赤く
ひろがっていく

5月は
永遠に5月のまま
ソファのうえで溶ける檸檬の
匂いがした、無音の
テーブルに置かれた新聞にはいつも
なにも書かれていない

あるいは
五線譜のような電線
そのすきまを街並みが
海へむかって移動していく
動かない電車の
窓を、いつまでも眺めていた

ぼくの手は少しだけ腫れていて
つぎの駅を降りたとき
口のなかは血の味がしていた
雨の線
その両端を
そっと折りたたむように
赤い傘をひらいた
いま、
白い服のうえに
さらに白い上着をかさねている


はビールと戸締り

 コテ  '16/11/15 20:04:19

好きで、私は、君の向かいに。君の向かいに…。
起きて。
−−−
空をみるとほっとする。

生きてよいのだ。と、一歩。
気の大きくなる 地を
もう一歩。
景色を見よう。

田は黄金かい?

畑はキラキラ

池に入ったら
街への道があって
暗闇には夢やひかりが流れている宝石の付いた鍵や
六角形の水晶 アンドロメダ星の帽子

好きだった人のキャスケットから川の音

−−−

街は雑多で、中国製のものが多
大抵の人はごつごつ偉そうにしている
すみっこに銀杏がある
☆☆☆☆夜☆☆☆☆
裏に福の神の風俗店が沢山沢山生えていて、その草の中に花を見つける。肌はしっとり咲くや、男達も色になり、後に互いいじり合ってけらけらと笑う。
それを見てまた女染まり、花の乳房の豊かなと、朦朧、乳房あたえにこの胸高く
手先 口から
すきよ すきよ をこぼし 落つ


ハプニングバーでは想い思いに
肉体美に悩ましい
内緒にまた ないないの
世間が悪いわけでもない 人間にとっては最も理知的ね本能的に嫌い なの
内内の この金 ふふ ふふふふ

店

プリントスウェット。ハラチ。ジャックパーセル。ミッシェル。プリント塗料が割れてるのがよく。
日本酒と魚というだけで詩である。
あとは新幹線で帰ればよろしい
日本酒と魚というだけで詩である。


家


全国の女子高校生のみなさん

 泥棒  '16/11/12 21:04:09


こんにちは

全国の女子高校生のみなさん

僕は変態です

みなさんは文学というものに興味はありますか

僕はありません

正直まったくありません

がっ、

どうやら文学というものは

日常にあるそうです

そう

例えばコンビニ前とか

線路の向こう側とか

普通にあるそうです

みなさんも学校帰りや部活帰り

遊びへ行く途中など

コンビニへ寄ることがありますよね

そこにあるんですって

文学がっ。

店内ではありません

店の前です

そこから見えるいつもの風景の中に

あるんですって

すでに

もうあるんですって

なので

全国の女子高校生のみなさん

もう図書館などへ行く必要はありません

勉強もしないでよろしい

街へ出ればいいのです

本当です

変態の僕が言うことに間違いはありません

そう

僕はたくさんの本を読んできました

いわゆる文学作品です

そこには胸に刺さるたくさんの文学がありました

読めば読むほど

僕は変態になりました

ある日

いつものように本を読み

ますます変態になった僕は泣きながら家を出て

コンビニへ行きました

春でした

さっきまで読んでいた本の中は冬でした

街は春でした

本の中では

コートを着た主人公が自殺しておりました

つらかったろうに

寒かったろうに

雪の上でした

僕はコンビニ前から見えるその風景の中に

花をみつけました

手にとって

そのまま家へ帰って

死んでしまった主人公のページに

その胸に

花を刺しました

冬でした

本を閉じました

閉じても本の中は冬でした

僕は変態です

全国の女子高校生のみなさん

みなさんは生きてください

生きて

たくさんの本を読んで

勉強して

いつかたくさんの花にかこまれて

死んでください

文学はみなさんのそばにあります

全国の女子高校生のみなさん

みなさんの孤独は

ひとつとして同じものはありません

孤独とは秋の空です

きれいです

共感とは夜の細道です

きけんです

全国の女子高校生のみなさん

僕は変態です

線路の向こう側で

いつかお会いしましょう

全国の女子高校生のみなさん

安心してください

みなさんにお会いする頃には

僕はもう変態ではありません

文学です

文学そのものです

ほら

線路の向こう側は夏です

もう夏なのです

まぶしい

きっとたくさんの花が咲いているでしょう


CREATIVE WRITING 101A 

 花緒  '16/11/14 19:56:41

    あなたと別れてから、もう7ヶ月くらい経つのでしょうか。こちらは冬学期がはじまって、ちょうど1ヶ月が経過したところです。秋学期は同じアジア系の留学生の輪に埋もれながら、ひたすら図書館にこもって勉強して、何とか単位をとるって感じだったけど、今学期に入ってから、少しゆとりも出てきたのか、欧米人との交流が増えてきました。これまでは、さすがにネイティブスピーカーと友達になるのは難しいなと思って、自分の方から避けてしまったりなんかしていて、これなら何のためにわたしはアメリカに来たんだろう、って自分が情けなくなってしまうこともあったけど、今学期に入ってから急速にアメリカ人と仲良く話せるようになってきていて、ちょっと自信をつけているところです。


    わたしの英語力を考えると、わたしに興味を持ってくれて、ハウスパーティーに呼んでくれたり、一緒に定期的に勉強しようって誘ってくれたりする友達が欧米人の中からも現れはじめているのは、ちょっと奇跡的なことのような気がします。ただ、わたしはどこまで期待に応えられてるんだろうとか、英語をもっと勉強しておけば、もっといろんな話ができたはずなのになとか、もしかしたら英語力の問題だけでもないのかもしれないけど、自分を表現する術を身につけないと、せっかく興味を持ってくれる人が現れても、関係を深めていくことは難しいかもしれないって思ったりなんかします。


    日本で暮らしていたときは、人間関係を維持したり深めたりするために、表現力を磨かなきゃって思う機会なんてほとんど無くて、むしろ、うまくやりたいから、表現しない自分でいようって感じで、だから振り返ってみると、あなたにも、わたしはほとんど何の話もしていなかったし、あなたはあなたで、ほとんど何の話もできていなかった。わたしたちなりに、対話のきっかけを探ろうとはしていたのかもしれないね。だけど、話すということは何故だかお互いを侵食し合うことでしかなくて、話すとなれば、わたしたちはいつも諍いあったし、わたしが留学行った後のことも、直前まで話せなかった。大切なことはけっきょく最後まで何も話せてなかったような気がします。


    わたしは自分語りをしたがるような人間は好きじゃないし、話し合ったらお互い理解できるっていう幻想に縛られてるわけでもない。それでも、話さないままでいいっていうのは嫌なんだって、はっきりそう思ったんです。わたしはアメリカに来て、自己主張することが尊重される国で生活してみて、わたし自身、どこまで話すことに対して開かれているんだろうって疑問に思う機会も多くて、今学期はクリエイティブライティングの授業を履修したりしながら、わたしなりに、自分を表現するっていうことを学ぼうとしています。


それで、
毎週、
クリエイティブライティングの宿題をやるんだけど、
わたしが書くものは、
長いばっかりで、
とりとめもなくて、
主張がよく分からないとか、
中身がないとか、
そういう風によく言われます。
アメリカに来て、
いろんな人に出会って、
自己主張することを是とする人たちに囲まれて、
そういう人たちから
興味を持ってもらえるようになって、
話してみたい、
話さなきゃいけないって思うようになって、
話せない自分が歯がゆくて、
どれだけ歯がゆくても、
うまく言葉が見つからなくて、
書けば書くほど、
わたしは何が言いたいんだろう、
わたしは何が書きたかったんだろうって思うようになって、
わたしに話すことなんて何があるんだろうって、
仲良くなりたいだけなのに、
楽しく生きていきたいだけなのに、
どうして話さなきゃいけないんだろう、
ハグして、
手をつないで、
どうしてそれだけじゃだめなんだろう、
わたしは、
話さないんじゃなくて、
話せないんでもなくて、
話したいことがそもそもないんじゃないか、
どうしてそれなのに、
話そうとしないあなたを、
今でも許せないんだろう、
あなたがあなたの何を話せば、
わたしはあなたに納得できたのだろう、
わたしがわたしの何を話せば、
わたしはわたしを許せるのだろう、
わたしはわたしについて話したいことなんて何もありません、
それは、
わたしが空疎だとか、
空っぽだとか、
そういうことじゃなくて、
ただ、わたしには話したいことがないだけなんです、
わたしはここに来て、
わたしの話を聞きたいっていう人とたくさん出会って、
それで決めたんです、
わたしは、
いつまでも、
話そうとし続けます、
話すことがなくても、
話したいことがみつからなくても、
話そうとすることだけは、
自分の言葉を探すことだけは、
あきらめずに続けようと思ったんです、
いつまでもみつからなかったとしても、
許されるまで




CREATIVE WRITING 101A MIDTERM:
EVALUATION: Cー
COMMENTS: I REALLY ENJOY YOUR PARTICIPATION BUT I CAN'T UNDERSTAND WHAT YOU WANT TO SAY.
     YOU CAN COME TO MY OFFICE HOURS. WE CAN TALK.              
          


子山羊

 黒髪  '16/11/16 21:52:52

子山羊さん
山羊さん
白くて素直だ
礼を言う
あなたに
風土がどうとか言いたくなるけど
ここは一番だ
一緒にいられるのが
吹かれ揺れる草の向こうの
彼方のおぼろな光
現在の心の色は白
そして黒の輪郭
あ、そう蝙蝠の
飛ぶのに似て
私の心も夜を迎える
これから目を閉じ
心隠し

洗面台にたまった水に映る月を散らす
きっとどこかへ向かっている
戻らない時が増えていくほど厚い祝福を求めるものだ
覚えたものが有効になるには
時が揺れ、空が鳴ることが必要だ
一人ずつ生きている人間は
もう一人を自分と同じだと数えたときに一人でなくなる
怒る時また一人になる
共に怒る時には何人になるのか
それは怪しい遊戯のように複雑な係りなんだ
暗闇を怒るのは得策でない
怒りによらない鼓動の感覚を満たしてくれた人よ
心のメモリは再び満ちて
怒りが崩した遺物を拾い上げ
この二三歩を寄って花は香る
涙が乾くのを待とう

鳳仙花の夜
おお噎ぶのは
生者の声と死者の声
話したのは
生への意志と夢を語り継ぐことだった
怖くもない
暗くても命の色は
消えても残る自画像の形
消えない軌道
あまりにも無駄な生を生きて来た、というのも
暗闇の迷路の中に閉じ込められていた
壊れた未来があまりにも苦しい
光が閉ざされた頭の中には
甘えるなというハードルがいくつも置かれていて
転んでしまう
一生懸命生きた
楽しんで生きた
暗くなると
侮辱も不機嫌ももう見えない
何もできないこと
何もなくなることは
個人的な消耗だ
それを感じているのだから
生の力を求めよう

白さには汚れた心が映る
多くの光を目に入れた
醜いと思うのは自分の心の反映だったのだ
責任を人に負わせるほどの理路を持っていないから
私はぐずぐずと生きるような日本人だ
要素に解体してみてもいいけれど
新しいものを作り出すときは
現実に学んでから頭を巡らせなけりゃならない
人を助ける時のように自分を助ける力を出して
自分で道を歩いて行こう
道が通っているから
自分の行くべきところがある
包丁に軽く触れ
愛に傷をつける
そのまま立って
過去を振り返ってみると
もうそこには何もない
心がいっぱいになり
私は空漠と充実を密接な位置に置く
まやかしにやられてしまった犠牲者の一人である
私は突き詰められた真実を望むのである


全行引用による自伝詩。

 田中宏輔  '16/11/01 00:00:11



(…)物哀しげな空には雲一つなく、大地はまさにわれらが主イエス・キリストに倣って吐息をついているかに見えた。そのような陽光のみちあふれる、物哀しい朝には、わたしはいつも予感するのである。つまり自分が天国から締め出されてはいないという見込みがまだ存在し、わが心のうちの凍てついた泥や恐怖にもかかわらず、自分には救いが授けられるのかもしれないということを。頭を垂れたまま貧相なわが借家に向って砂利道を登っているとき、わたしは、あたかも詩人がわたしの肩辺に立って、少々耳の遠い人に対して声�發妨世Δ澆燭い法▲轡Дぅ匹寮爾�「今夜おいでなさい、チャーリー」と言うのを、至極はっきりと聞いたのである。わたしは畏怖と驚異に駆られて自分の周囲を見まわした。まったく一人きりだった。すぐさま電話してみた。シェイド夫妻は外出中ですと、小生意気な小間使(アンキルーラ)、つまり日曜日ごとに料理をしにやって来る、そして細君の留守中に自分を老詩人に抱かせることを明らかに夢想している、不愉快な女性ファンが言った。(…)
(ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)

(…)シュタイナーによれば、われわれは生まれる前に自分で運命を選びとったのであるから、それを嘆くのは見当ちがいだという。
 それでは、どうして人は美男子で金持ちで成功者であることを選びとろうとしないのだろうか。それは、霊の目的は自らの進化であり、幸運や成功はそれを阻む作用をするからなのである。霊的な進歩は、霊界においてではなく、地上においてのみ行われるのである。
『神智学』には「認識の小道」という最終章がある。ここでは、人間はどうしたら超感覚的認識を獲得することができるようになるかが説明されている。数学は、認識の小道のためのすぐれた準備段階であるが、それは論理、離脱、非物質的実在への集中を教えるからだとシュタイナーは言う。換言すれば、「見者」にとってまず必要なのは科学的態度であり、心は混沌から秩序を創り出すことができるという確信である。外的な力がどんなに強力で人をまごつかせるものであろうとも、人間はそうした力にもてあそばれるよるべない存在なのではない。最初の段階は、人間は利害などから離脱することができ、自分の心を、混乱の中を進むための羅針盤として使うことができる、という事実を認識することである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』7、中村保男・中村正明訳)

 楽しみがほしければ、〈灯心草〉がいた。シロが草を食(は)み、ブロムが狩りか昼寝をしているあいだ、ぼくは、あのときブーツが教えてくれた〈灯心草〉の径を歩いて過ごした。ぼくは彼のことが好きだった。彼にははてしない数の内部があるみたいだった。そうした暗い隅や奇妙な場所で、〈灯心草〉は世界と、言葉と、ほかの人々と、知っているもの好きなもの嫌いなものと結びついていた。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

「それに、そういう手袋にまつわる物語も知っている。たぶん、その手袋の話じゃないかな」ある場所──たったひとつの小さな場所、点とさえいえそうな場所──があって、そこで、ぼくの人生にあるものすべてが交錯した。
(ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)

(…)駆け降りる前に、丘の上から僕に手を振るが、そんな彼女を音楽が包みこんでいる、そう、僕の目が生み出す音楽、ぼくの嗅覚が生み出す絵画、僕の聴覚が生み出す味覚、ぼくの触覚が生み出す匂い……僕の幻覚……(…)
(フエンテス『女王人形』木村榮一訳)

彼らの運命は耐えて進みつづけることであり、しかも最終的には人間的な、あらゆる事物への敬意のしるしとして、それを忘れないことだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・4、山高 昭訳)

人間の魂の中の何かが、ためらいを感じるのだった。
(グレゴリイ・ベンフォード『大いなる天上の河』上巻・第二部・2、山高 昭訳)

痛みには、痛みの記憶以上のものがある。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・3、山岸 真訳)

 ポールは一瞬、相手に共感して心を痛めた。だが、共感から同一視まではあと一歩。ポールはその感情を押し殺した。
(グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・6、山岸 真訳)

(…)投げられたあらゆる爆弾、あらゆる銃弾や矢や石はいまだに悲鳴をあげる標的をさがしているのか──(…)
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『けむりは永遠(とわ)に』小尾芙佐訳)

彼女たちはすべてをさらけ出しているが、何も明かしてはくれない。
(J・G・バラード『覗き見の視線』木原善彦訳)

(…)これらの作品は一体として見ると、第二次世界大戦の強力かつ感動的な記録であるのみならず、戦争がその場にいた芸術家たちに及ぼした影響をも同じように記録しているのである。
(J・G・バラード『戦場の画家』木原善彦訳)

 今日、生まれ故郷の町にそのまま住んでいる人がどれくらいいるものか、わたしはよく知らない。だが、わたしがそうであるせいか知らないが、そうした町や市がしだいに衰退してゆく姿は、いうにいわれぬ悲しみを人の心に感じさせるものだ。それは友人の死よりもはるかに辛い。友人はほかにもいるし、他の友人に心を移すこともできるが、生まれ故郷はかけがえのないものだからだろうか。
(ジャック・フィニイ『盗まれた街』12、福島正実訳)

 暖かい楽しい気分になってきた。人々と交って、いつもの考えごとを忘れてしゃべるというのはたしかに楽しいことだ。わたしは今、いったい何をしようとしているのだろう。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』3、井上一夫訳)

 わたしは五番街に行った。わたしの歩きたい街だ。若さと希望にあふれて、それはわたしの世界、わたしの町、わたしのものというような気がした。歓喜の味を味わい、心は喜びに充ちて、順風に帆を上げたような気持だった。風の吹きぬける高いビルの間の道は色とりどりの美しい飾り窓がつらなり、女の人の美しいすました顔があり、すべての上に太陽が輝き、その太陽と風が……。
(ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』5、井上一夫訳)

小鳥が雨樋のなかで夜明けを奪いあっていた。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)大儀そうに、彼女は各種の壜やチューブから、じっさいにはもはや二度と所有することはないと思われる生命と暖かみを、おのれの顔の上につくりだそうと骨折った。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)どこかで銃声が聞こえた。カウリー街、むかしのオクスフォードの中心を指してのびているこの長い、雑然とした商店街では、正面を板で囲ったり、破壊されたりしている建物がしばしば眼についた。舗道にはごみが堆(うずたか)く積もっていた。一、二の商店の店先には、買物の老婆たちが列をつくっていた。だれもみな無言で、てんでんばらばらで、上昇する気温にもかかわらず、スカーフで口もとをおおっていた。ウィンドラッシュの巻きあげた旋風が、彼女らの破れた靴のまわりで渦を巻いたが、女たちはまったく無関心だった。その姿には、零落のもたらす一種の威厳に似たものがあった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳)

(…)一同は坐って食事にとりかかった。徐々に霧がうすれ、周囲の風物がしだいにはっきりしてきた。果てしない大空と、その大空の影を映して、世界は拡大していった。
(ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』7、深町真理子訳)

(…)そのうち徐々に、教室の雰囲気が変わってきていることがわかった。あの耐えがたい緊張は去り、あの無意識の抑圧、警戒心、油断のなさ、禁じられているものをほしがることへのうしろめたさ、などは消えていった。
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳)

 彼女が、あまりにもせつなげな身ぶりをするので、かえって彼のほうがせつなくなった。彼は自分で思っている以上に、彼女を愛していた。なぜかというに、彼はこのときすでに自分のことは忘れていたほどだから。
(ケッセル『昼顔』九、堀口大學訳)

「でも、どうして子供たちが彼女をからかうのをほうっておおきになりますの?」わたしは発作的な憤怒がこみあげてくるのを感じた。
 彼女はけわしい目でわたしを見た。「�爐曚Δ辰騰瓩�くわけじゃありません。子どもというのは、いつの場合も、毛色の変わっている人間にたいして残酷なものですよ。あなたはまだそんなことにも気づいていないの?」
「いいえ、気づいていますわ。ようくわかっていますとも!」わたしはかすれた声で言い、ふたたびあの、じわじわとした冷たい氷のような記憶にたいして、身をちぢこめた。
「感心したことじゃないけれど、世間にはありがちなことなのよ。すべてに正しいことが通用するわけじゃありませんからね。ときには、慣れて感じなくなることも必要だわ」
(ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳)

「いやよ、マーク!! いや! いや! いや!」とメァリーは悲鳴をあげ、壇のほうへ引きずられながら恐怖のあまりに大小便をもらす。マークは使い捨てたコンドームの山の中の壇の上に、縛り上げたメァリーをほうり出したまま、部屋の向う側へ行ってロープの用意をする…… やがて輪なわを銀の盆にのせてもどってくる。彼は手荒くメァリーを引き起こし、輪なわを首にかけて締める。そして彼女を突き刺し、ワルツを踊るように壇上をまわってから、ロープにぶら下がって空中に飛び出し、大きなアーチを描く…… 「ひい━━」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。大きな波のうねりが彼女の全身を通り抜ける。ジョニーは四つんばいになって、若いけもののように柔軟な身のこなしで機敏に身がまえる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

 ナツメヤシは水不足で枯れた。井戸は乾いたうんこと何千もの新聞紙のモザイクであふれている。「ソ連は否定……国務大臣は悲痛に訴える……落とし板は十二時に落とされた。十二時三十分、医師は牡蠣(かき)を食べに外出し、二時に戻って絞首刑になった男の背中を陽気にたたく。『なんと! まだ死んどらんのかね? こりゃ脚をひっぱってやらんといかんようだな。ふぉっふぉっふぉっ。こんなふうにだらだらと窒息してもらうわけにはいかん。大統領に叱られてしまうわい。それに死体運搬車に、生きたままのきみを運び出させるなんてみっともないからね。恥ずかしくて睾丸が落ちてしまうよ。それにわしは経験豊かな牛のところで訓練を積んでおる。一、二の、三、それ引け!』」
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)

目の前に銀の粒が湧き出る。今から何百年もたったあとの廃墟と化した中庭に私は立っている。何物の、何人の匂いも嗅げない死の都を訪れる悲しい亡霊のようなものだ。
 少年達は記憶の中で揺れ動いている影で、遙か昔に塵となった肉体を喚起している。使うべき喉もなく舌もなく私は呼ぶ、幾世期をも越えた彼方へ向かって呼び続けるのだ、「パーコ……ジョセリート……エンリケ」と。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)

私は丸い小さな箱をもっている。中には羊皮紙に似た紙に数多くの光景が描かれ、折りこまれている。紙をめくるとそれが生き生きと動きだす。前髪のところまでコンクリートの中にはまりこんでいる雄牛が数頭いる。今度は十八世紀の衣装をまとった二人の少年と二人の少女が金色の馬車からおりてきて裸になり、オルゴールの調べに合せて踊り、つま先でくるっと回転する。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

 私は傾斜の険しい木の段々を昇り、かつての玄関ポーチへ行く。金網はすっかりさびていて、網戸の蝶番ははずれている。南京錠をはずし、玄関のドアを押し開ける。廃屋のかび臭さが鼻を打ち、冷気が肌に感じられる。熱い空気が私の後ろから中へ入りこむ。外の空気と中の空気が混じり合う空間に熱波らしき霧状のものが目に映る。
(ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)

よく考えてみると、こういう羨望混じりの感嘆の念は前にも味わったことがある。だが、あれは気が弱くなっている時に、異性愛者に対して抱いた感情だった。そうだ、おれはある時期、異性愛者が自分の生まれた社会と見事に適合しているのに感動したことがあった。異性愛社会には、まるで揺り籠の足元に置いてあるおもちゃのように、いろんな物が揃っている。まずは性教育、感情教育をしてくれる絵本に始まって、童貞を捨てに行く売春宿の住所、初めての情婦の写真、それから結婚式の日取りが書かれた未来の婚約者の写真、夫婦の財産契約書に、結婚式の歌の歌詞……。異性愛者はただこれらの既製服を次々に着換えていればよいのだ。それは彼によく似合うが、なぜかと言うと、それが彼個人のために作られているというよりは、「彼ら」のために作られているからだ。それに比べて、若い同性愛者は棘だらけの植物に覆われた砂漠の中で目覚める……。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

(…)どこへ行くのやら見当がつかない。だが状況は常に自ら新しい状況を作り出す。
(ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第七章、榊原晃三・南條郁子訳)

 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について──このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現われたものである──(…)
(ヨハネの第一の手紙一・一─二)

 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(ヨハネの第一の手紙一・五─七)

(…)シュタイナーが書いたり語ったりしたことで、彼を二十世紀の他のあらゆる思想家と区別していることは何であるのか。
 これへの答えは、本書の第1章でかなり詳しく論じたあの認識のうちにひそんでいる。あの認識とは、「霊界」というものは実は人間の内面世界にほかならぬ、という認識である。シュタイナーは事実上こう言っていたにひとしい。鳥は空の生き物であり、魚は水の生き物、蚯蚓(みみず)は地の生き物だが、人間は本質的に心の生き物であり、人間の真の故郷は自分の内部にある世界なのだ。なるほど、人間でも外面世界に生きなくてはならぬというのは事実だが、第1章で見たごとく、この外面世界を把握するには私たちは自分自身の内部に退く必要があるのだ。
 この内面世界の奥深くまで「退く」ことは、私たちのほとんどにとって難しいことであり、外面世界とそれがつきつけるさまざまな問題がうしろから私たちを引っぱって内面世界に入ろうとするのを妨げる。シュタイナーはどうやら、自分の内面世界に降りて行く非凡な能力を有していたらしい。さらにシュタイナー哲学の中心的な主張は、この内面の領域こそ「霊界」にほかならず、ひとたびこの領域に入ることをおぼえれば、この内域が外面世界の単なる想像的反映ではなく、それ自体独立した実在性を有している世界であることを人間は実感する、という考え方なのである。
(コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』9、中村保男・中村正明訳)

 男の眼差しはすでに、よく描かれてきた。この眼差しは、まるで女の背丈を測り、体重を量り、値打ちを定め、女を選ぶ、言い換えればまるで女を物に変えるように、冷たく女のうえに止まるものらしい。
 あまり知られていなのは、女がその眼差しにたいしてまったく無防備だというわけではないということだ。もし女が物に変えられるなら、それは女が物の眼で男を見るということにほかならない。それはまるで金槌(かなづち)が突然眼をもち、自分を使って釘を打ち込んでいる石工をじっと見つめるようなものだ。石工には金槌の不愉快な眼差しが見えて自信を失い、自分の親指を一撃してしまう。
(ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第七部・8、西永良成訳)

 小説の精神は連続性の精神です。つまり、それぞれの作品は、先行する作品への回答であり、それぞれの作品には、小説の過去の経験がすでに含まれているということです。しかし、私たちの時代精神は今日性(アクチユアリテ)の上に固定されています。今日性は、あまりに拡散的で広いひろがりをもつものですから、それは私たちの地平の過去を拒否し、そして時間をもっぱら現在の瞬間に還元するものです。このような体系のなかに封じ込められた小説は、もはや作品(持続を、過去を未来に継ぐことを運命づけられたもの)ではなく、他の事件とかわらぬ現在(アクチユアリテ)の事件であり、はかない行為です。
(ミラン・クンデラ『小説の精神』第一部・9、金井 裕・浅野敏夫訳)

(…)すると不満を抱く者たち、いくぶん盲目的で、どこか狂っているような者たちが神秘と血を通して、あの失われた調和をしゃにむに取り戻そうとして、自分たちを取りまく現実とは違う現実を、たいていの場合幻想的であり狂的である現実を描いたり書いたりするが、奇妙なことにその現実こそ結局は日常的な現実より深遠なもの、真実なものであることになる。そうして、こうした傷つきやすい存在はある意味であらゆる者たちのために夢を見つつ、自らの個人的な不幸の上に立ちうるようになる、また集団の運命の解説者に、そして、(苦しめを受ける)救済者にさえなる。
(サバト『英雄たちと墓』第�孤堯Γ魁�安藤哲行訳)

 しかし、わたしの不幸は常に二重のものだった、というのも、わたしの弱さ、傍観的な精神、優柔不断さ、無気力、こういったものがいつもあの新しい規律を、芸術作品という新しい宇宙を獲得する妨げとなり、わたしを救ってくれそうなあの思いこがれた建造物の足場からいつも足を踏みはぜさせる。そして落ちるたびに傷つき、二重に哀しくなり急いで単純な人間を探し求めることになる。
(サバト『英雄たちと墓』第�孤堯Γ魁�安藤哲行訳)

 子供の頃、就寝前にときおりある声が、眠りの中へ誘うようにお話を聞かせてくれて、夜になるとこの世界がどんなに宏大に伸び拡がるか、教えてくれたものである。「昔々あるところに」の文句で始まることもあった。こうして目覚めたまま寝そべっていて眠ることができないなんて、私一人が、過ぎ去ることを知らない時そのものなのだ。
 四方の壁も、ベッドや床も、箪笥だって、鏡や絵だって眠る。寝具や絨毯、椅子や机や窓、カーテンに、衣服に、その他まわりを取り巻くありとあらゆるものが、外の霧だって、雪片だって、樹木も地面も水中の魚も、霧のかげや雪の彼方にいる人々も、それどころか鳩の巣でさえ眠るのだ。同じように、凍えている人も独りぼっちでだれも友達のいない人も、希望を求めて思い煩っている人や、恋という名のもとに屋根裏部屋や連れこみ宿で徐々に憔悴してゆく人も眠る。子供たちも、願いごとを唱えながら眠りにつく。黄泉(よみ)のヴェールにおおわれた死人の開かれた眼も眠る。盲人の光を失った顔も、蒼ざめた産婦も、涙さえも眠る。じゃじゃ馬娘の髪の毛にさした櫛やその髪に吹き込む風も眠る。テーブルの酒瓶も、その脇にある飲み残しのグラスも、錠前に差し込まれた鍵も、時計やランプも眠る。配膳台の上の散らしや新聞、部屋履きやソックス、ズボン、ワイシャツ、チョッキ、暖炉の火、窓の鎧板にかかった雪、家や庭、茂み、小経や舗石、垣根や杭、大小の町、列車や河川や港の小舟にいたるまで。空高く飛ぶ飛行機も、渡り鳥のように大陸をまたにかけて眠る。薬剤師の天秤も眠る。露店のひさしも、犬や猫も眠る。そして、人里離れた森の奥では(…)
 ただ私、この私だけが眠れない。(…)
(ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』第二章、園田みどり訳)

(…)目的もなくブエノスアイレスの町を歩きまわり、人々を眺め、コンスティトゥシオン広場のベンチに腰をおろして考えた。そのあと部屋に戻ったが、いつになく孤独感を味わっていた。本に没頭しているときだけはふたたび現実を見出すようだった、逆に、通りにいる人々はまるで催眠術にかかった人間たちの大きな夢に思えた。多くの歳月が流れて分ったことは、ブエノスアイレスの通り、広場、そして商店、事務所にはそのときわたしが感じたことと同じようなことを感じ、考えている人間が無数にいるということだ、孤独で苦しんでいる人々、人生の意味、無意味を考えている人々、自分のまわりで眠った世界、催眠術をかけられたりロボットになってしまった人間の世界を見ているような気がしている人々がいるのだ。
 その孤立した角面堡の中でわたしは短篇を書きはじめた。いま思うと、不幸になるたびに、一人ぽっちだ、生を与えてくれた世界としっくりいかない、そう感じるたびに書いてきたみたいだ。それが普通ではないだろうか、現代の芸術、引き裂かれた緊張した芸術は常にわたしたちの不調和、苦悩、不満から生まれてくるものではないか。人間という傷つきやすい、落ちつかない、欲深な生き物の種族が世界と和解する試みのようなものではないだろうか。なぜなら、動物は芸術を必要としない、彼らは生きるだけだ。彼らの生は本能の必要性と調和を保ちながら滑っていくからだ。鳥には少しの種か虫、巣をかけるための樹、飛びまわるための広い空間があればいい、そして、その一生は生まれてから死ぬまで、形而上的な絶望感や狂気に引き裂かれることのない幸福なリズムの中で流れていく。ところが人間は(…)
(サバト『英雄たちと墓』第�孤堯Γ魁�安藤哲行訳)

 そして、一つを除くほかのあらゆる思い出が彼女の心に浮かびはじめたのも、やはりそのときのことだった。すべての思い出が押し寄せたが、彼女は、なぜかわからないながらも、ただ何かあることだけによって、ある思い出がまだ欠けており、ほかのすべての思い出が起きたのも、もっぱらこの一つの思い出のせいにほかならないと感じたのだ。そこで彼女の心に、そのためにはヨハネスが自分の役に立ってくれるかもしれないし、また自分の全生活は、この一つの思い出を手に入れるかいなかにかかっている、という観念がつくりあげられた。さらにまた彼女は、自分がそのように感じているものは、力ではなくて、彼の静けさ、つまり彼の弱さであることも知っていた。この静かで不死身の弱さは、広々とした場所のように彼の後ろにひろがっていて、そのなかで彼は、自分の身に起きたあらゆることと、ひとりで向かいあっているのだ。しかし彼女はそれを、もっとそれ以上に探り出すことができなかったので、不安な気がした。そして、自分がすでにその近くにいると思ったときにはいつも、またまえもって動物を思い浮かべるので、彼女は苦しかった。
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

これは愛だろうか?
(ムージル『ヴェロニカ』吉田正巳訳)

家造りらの捨てた石は
隅のかしら石となった。
これは主のなされた事で
われらの目には驚くべき事である。
(詩篇一一八・二二─二三)

愛のおのずから起こるときまでは、
ことさらに呼び起すことも、
さますこともしないように。
(雅歌三・五)

声に出して考えていた。
(エドモンド・ハミルトン『審判のあとで』中村 融訳)

どうしてそのことを書かないの?
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

悲しみはまず無言でなければならない、あんたはそう思っている。痛みを感じたあとで、初めてその痛みについて語ることができる……たとえそれが、偶然見つけた死体のように、小さな痛みであっても、癌に当たったような、大きな痛みでも……
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

「あなたはあたしの手を握りしめたわ。そして、その死んだ男は、究極的に、生きているのだと言った。死者たちはみんな生きているんだって」
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

だれも話しかけてくれなかったわ。あたしのことをだれも知らなかった。
(フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳)

 いったいどこから来る? どこからでもなく、虚無からやってくる──だれの声でもない声
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

声には実体があるとでもいうのか?
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』11、大森 望訳)

それだけで独立の実体を持っている。
(モンテーニュ『エセー』第�挟�・第10章、荒木昭太郎訳)

 見る主体を見ることはできないし、心が考える主体を把握することもできない。見る主体、考える主体が〈わたし〉──すなわち、魂なのだ。
(バリントン・J・ベイリー『ロボットの魂』13、大森 望訳)

 かれらがそうなりえたかもしれないものが永久に失われたことを、ウルフは悲しんでいるのであった。
(フィリップ・ホセ・ファーマー『異世界の門』16、浅倉久志訳)

 目を開くと、頭上に薄青い空が広がり、ちらほら雲が見えた。周囲は牧草地だった。みつばちたちが、いや多少ともみつばちのように見える昆虫の群れが、茎が長く皿ほどもある白い花のあいだをぶんぶん飛びまわっていた。空気には甘い香りがただよっていた。さながら無数の花々が大気そのものを妊娠させているかのように。
(フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』4、冬川 亘訳)

精子も自分をひとかどのものと思うだろうか?
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『一瞬(ひととき)のいのちの味わい』4、友枝康子訳)

彼の目は、少女の白いシャツからのぞく喉もとを楽しんでいる。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

「でもね、どこか気味がわるいの」彼女は満身の力をこめて箱を河に投げる。箱は二十フィート飛ぶ。「すごい! でもね、あなたの一部分があなたの愛したものに執着して永久についてまわる、そんなことを想像してみて!」彼女は柳の木によりかかり、流れていく箱を眺める。
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『煙は永遠にたちのぼって』友枝康子訳)

 少年の生活というのは同じようなもので、彼の場合も例外ではない。違うと言えば、ブロンドの女がしきりに話しかけていることだが、そのせいで少年は今ひとりぼっちの人間になっている(雲の話はもううんざりだが、今ふわふわした細長い雲が通り過ぎていった。あの日の朝は、一度も見上げなかったはずだ。二人に何か起こりそうな予感がしたので、これからどうなるのか様子を見ることにした……)。不安そうな少年を見れば、少し前、せいぜい三十分前に何があったか容易に想像がつく。つまり、少年は先ほど島の端(はな)にやってきて、そこですてきな女を見かけたのだ。女は最初からそのつもりで網を張っていた。ひょっとすると、バルコニーか車の中から少年を見かけたのかもしれない。そこで、少年のそばへ行くと、話しかける。少年は不安に駆られたものの、逃げ出すきっかけがつかめずそのまま居残る。
(コルタサル『悪魔の涎』木村榮一訳)

(…)画家の中には好んで椅子を描く人がいるが、やっとぼくにもその理由がのみこめた。急に、フロールの椅子がどれもこれも花や香水のようにすばらしいものに思えはじめた。あれはこの町に住む人たちの秩序と誠実さを表わす申し分のない道具なのだ。
(コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)

 民衆はしあわせだ。しあわせでなければならないのだ。もし悲しんでいるところを見つかれば、なだめられ、薬をあてがわれ、しあわせな人間に改造されるのだから。
(コードウェイナー・スミス『老いた大地の底で』1、伊藤典夫訳)

 とつぜん大立て者は少年の体を宙に突き飛ばして自分のコックから解放する。そして両手を少年の座骨に当てて揺れないように押さえ、象形文字のような動きをする手を首に当て、首の骨を折る。戦慄が少年の全身を駆け抜ける。彼のコックは骨盤を上に向けて、大きく三度ぴくぴくとはね上がり、たちまち射出する。
 彼の目の奥で緑色の火花が散る。甘美な歯痛が首筋を矢のように流れて背骨から鼠(そ)蹊(けい)部まで達し、歓喜の発作で身体を収縮させる。彼の全身はコックによって締めつけられる。最後の発作が起こり、多量の精液が赤いスクリーンの向う側まで流星のように噴出する。
 少年はやわらかく吸い込まれるように、ゲームセンターとエロ写真の迷路を抜けて落下する。
 堅いくそが勢いよくすぽんと尻からとび出す。放屁がきゃしゃな身体を震わせる。大きな川の向うの緑の茂みの中からのろしが上がる。薄暗いジャングルの中にモーターボートの音がかすかに聞える…… マラリア蚊の沈黙の羽の下で。
 大立て者は少年を自分のコックの上に引きもどす。少年はやすに突き刺された魚のように身もだえする。大立て者は少年の背中で身体をゆすり、少年の身体はくねくねと波を打ってちぢこまる。少年の死の色に包まれて愛らしくすねたような感じの半分開いた口からあごを伝わって血が流れ落ちる。大立て者はすっかり満足してぱたっと倒れる。
(ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハッサンの娯楽室、鮎川信夫訳)


(無題)

 生活  '16/11/14 22:56:42

台所は、
椿で、
軒下は、
雉、
の子供達が、
飛べない羽を
しまったまま
走り回る、

生活に、
人を、鳥を、
花を、
呼び戻す、
悲しいできごとは
新しいいのちで
こころから
いのる、
と、雨が降る

わたしはとけて
じゃぶしゃぶの
ゆきにもなれない
なまあたたかい
雨となって
降るでしょう
地面にとけて
地下に潜るとき
母や父、
家族や友達のこと
すらも忘れて
暗く流れて行くでしょう

こころから
いのる、と、
私のような
なまあたたかい雨が
そこらじゅうにふり

ここでわざと切る


10階

 三浦果実  '16/11/05 09:05:43

ジーザス:2008年06月23日03:03
落ちたら死ぬ。


マーク:2008年06月23日 03:53
落ちないように気をつけてください


カート:2008年06月24日 03:22
今日1日、人に心配かけて、どうなんだろうか?
ジーザスさんは、平気なんだろうか。

ブライアン:2008年06月28日 03:09
ジーザスさん。 どうして。

イアン:2008年06月29日 03:29
ご冥福をお祈りします。

ジミー:2008年06月30日 03:39
もう少し何か出来ることがあったと思う。
力になれなくてごめんなさい。
ご冥福をお祈りします。

ジム:2008年07月08日 03:21
やっと自分の動揺を押さえることが出来たので書き込みます。
ジーザスさんも悩んで、悩んだ上での「判断」だったのだと思います。
(私は、もっと力になることが出来たのではないか、悔しく思っています。)
私も「うつ病からくる希死願念」に悩まされることがあります。よくあります。
でも、やっぱり、その「希死願念」を乗り越えて、乗り越えて
「ジーザスさんの分も頑張って生きて」みる。いまはそう考えています。
改めまして、ご冥福をお祈りします。 「ジム」こと豊

ジャニス:2008年07月14日 03:42
ジーザスさんとは電話で会話したことしかなく、最後の電話で言葉の裏に気付くことができたらと、後悔してやみません。
私も常に死にたいと生きたいを交互に考え、リストカットを繰り返しています。これからは自分の命を大切に生きていきたいと思います。
ご冥福をお祈りします。ジャニスこと有希子

カレン:2008年08月14日 03:03
ジーザスさん、はじめまして。
そしてすみません。
貴方のことは耳にしてはいたのですが、
直接やり取りをする機会を作る前にそれは永遠に失われてしまいました。
貴方が好きなもの興味のあるものとして書かれていた、
第二次世界大戦の兵器など、ウチとなら何日でも話が尽きることなく話せたジャンルです。
あれだけ好きなものを列挙しているのは、それだけ人との接点を求めていた証。
ウチと話をする機会があったとして、今回の行動を止めれたなどと言うつもりはありません。
しかし、その境界に立つひとが向こうに倒れるきっかけは、思いのほか小さな事から始まる場合が多いと聞きました。
この例えは適切ではないかも知れませんが、
向こうに倒れない理由がゲームで遊びたい。たったそれだけの理由だとしても、こちら側に居続けることが出来るはずです。
ジーザスさんが大好きなビートルズ。
こちら側に居続ける理由になったはずです。
例え小さくとも、明日、来週、来月、来年に残しているものがあれば、向こうに倒れずに済んだのではないのか?と自問自答しております。
叶わぬ事とはいえ、話す機会がもしあれば、それはどのような会話になっていたのか。そして、その会話が次回に続いていたのではないのか?
人を向こうに追いやる一言もあれば、こちらに引き留める一言というものも、存在するはずです。
ウチに何が出来たのかはわかりません、ただ、ジーザスさんと友人には、なれたのではないかと惜しまれてなりません。
ジーザスさん、すみません。貴方の話を聞けなくて。どれだけ話をする機会を待ち望んでいたのか、ウチには想像すらおよびません。
慎んでご冥福をお祈りいたします。

ジョン・レノン:2016年08月31日 03:51
あのさ、誰も、自分の存在なんて知らないと、そう思ってたんだろう?
なぜ、40歳を目前に死んだのか、当ててあげるよ。
今更、なに言ってんだって話なんだけど。

まあ、いいや。やめとく。


勝利乾杯

 lalita  '16/11/09 17:54:13

トランプ勝った。

悪しきフェミニズムが打倒されてうれしい。
ニーチェの引用
ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してようだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ――女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。 ――わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。 ――いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている ……そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ――生の聖霊に対する真の罪悪である。」


文字の色は黄色

 kaz.  '16/11/14 00:55:23

もじのいろはきいよ、キリンの濃いほうの色、濃いっていうのは淡いの反対、淡いっていうのは泡の反対語だから、キリンが泡立っているような錯覚に陥ったまま、そのまま推敲していく、私は文体の鬼になる、ベッケット、ベッケット、別件でご相談、別荘でご相談、ご当地グルメにありついて、富士サファリパークに辿り着いた僕らは、新国誠一を朗読した、、反戦反戦反戦又戦又戦争、僕は彼をリスペクトしない、所詮はコンクリートポエトリーの一人だ、David Avidanやe.e.comingsやピエール・ガルニエの仲間に過ぎない、などと言ってみる、という文字の色は黄色でない、灰色の枠に囲まれて僕らは窮屈な時間を過ごしている、、句読点が余分に増えることによってシュルレアリスムを標榜することができるようになる抒情詩家がいる、まったくダメなやつさ、ヒューマニティー、アイラブユー、そして卒業を間近にして僕は僕は僕は、、三分割されふらはらひりへりほひ、ねびーんよねびーんよら、らが悲しくも語っていた、僕は僕は僕らは僕だった、フォロワーがどんどんと増えていった先にあるものは、ネビュラ賞なのです。

緑の焔に焼かれて
風が吹くときに舞い上がる火の粉を目に入れる
国家的主権
映像的卵巣
そのまま推敲するところもあるので5本もやっちまってさ
ピクサー映画のようなけぶる車の語彙に反動的になって
未来人社会人
いやそれよりも基本人という概念
青トマトの政治的論争
最後に豚肉
僕は美味しかったと言うだけでは
すべてを伝えることができない
マコモタケが殊更伝達の手段だから
ね

閉塞
腸を詰まらせる妻
言葉には嘶く音も震え
も何も
、、、、、、、、、、、、、
サリドマイドを毎度ばら撒く
アンダーグラウンド
那智の瀧に
「瀧くん……」
「ミツハ……」
が落とされて、音沙汰なしで、
痙攣する電子レンジの魔界競争殿
そしてソリューションらを引き連れて


ごまめ

 こひもともひこ  '16/11/10 10:06:45 *1

関西では「ごまめ」、関東では「おみそ」「みそっかす」という言葉は、子供時代に同年齢の友人同士で、たとえば鬼ごっこをしているときに、友人が2〜3才年下の弟・妹を連れてきたときに使われる言葉・システムだ。

小学低学年くらいまでの年齢では、2才以上の年齢差というのは、力も知力も段違いの差があるため、同じように鬼ごっこをすることができない。このときに少年たちが取れる選択肢は二つ。一つは年下の子に合わせた遊びをすること。5才以上年齢が離れたりすると、こちらを選択することが多い。けれど、子供たちはいつもやってる自分たちの遊びしたいものだ。そこで二つ目の選択肢として、自分たちの遊びに年下の子を加える。けれど、同じ条件で鬼ごっこをすると、年下の子が鬼になったとき、そこで遊びは停滞してしまう。これを避けるために、ゴマメ・システムが発動される。「ゴマメ」となった年下の子は、鬼にタッチされてもセーフになる。

大人からすると、これはあからさまな差別に思われるかもしれないが、それは間違っている。なぜなら、差をつけた扱いはしているものの、同じ中で遊んでいるからだ。もちろんこのゴマメ・システムは、年下の子が、鬼ごっこのルールをいまいち把握しておらず、お兄ちゃんたちときゃーきゃー走り回ることを楽しめるから適用できることではある。年齢差はあるものの、小学高学年生の中に低学年生が混ざった場合には、「ゴマメ扱いはいやだ」と本人が言う場合がある。けれど、実際の実力にあきらかな差がある場合にはその訴えは却下される。力の差がさほどない場合は、ゴマメの次のシステムである「ハンデ」が与えられるようになる。「ハンデ」は説明不要だろう。大人の世界でもあることだ。

あきらかな力の差があるがゆえのゴマメ・システム、力の差はあるけれどもハンデを与えれば同じように遊べるハンデ・システム。この二つはどちらも、集ったメンバーが同じ遊びをするために生まれたシステムという共通項がある。

けれど、そうではない「ゴマメ」という言葉を大人が使う場合がある。「力量の劣る人だから、あの人には関わるな」という場合だ。この場合に「ゴマメ」という言葉をあてるのは間違っている。子供時代にこの状態を表す言葉はちゃんとある。「はみご」「なかまはずれ」という言葉だ。この言葉をあてたられ対象者は、無視・シカトされる。なので「ゴマメ」とはあきらかな違いがある。

差別というのは、差をつけた対象者を別所に行かせようとする・閉じ込めようとすることに問題の多くがある。ところが、差をつけることを問題視してしまい、「みんなで手をつないで一緒にゴール」というようなことが学校で行われるようになったりした。それは優しさでもなんでもない。単なる誤魔化しだ。

「ゴマメ」は、鬼ごっこのルールの適用外に置かれた「鬼にならない・なれない」存在ではある。けれど、そのことを「みんなで手をつないで一緒にゴール」のように誤魔化しているのではない。なぜなら、ゴマメだった者がやがて成長し同じように同年齢での遊びに年下の子が現れたときには、かつての自分がなぜゴマメだったのかに気づくからだ。そして同じように、年下の子を混ぜて自分たちの遊びをする場合には、ゴマメ・システムを使ったり、ハンデ・システムを使ったりするようになる。


生活

 生活  '16/11/08 06:25:27

台所は
ぬかるみで
まるで夫婦が泥遊びをするかのような
生活

お風呂場は
雪原
雪を皿に盛る
仕草は
祈りに似ている
死に行くことは怠惰で
その言葉は
妹

長く手を伸ばした
短くなった
背を支えるために

地獄に
新しい名前を与える
幸せになれと
窓辺は生活に
吹き荒れる
嵐のような花
話し言葉だけを辿る
辿る

井戸の中に
他人と言う
身体があり
深く沈んでいる
見上げている瞳だけが
長く伸び
地表を伺う
坂を上がる
この坂の上には
幽霊と
名付けられた
生活がある

私の身体は
幽霊を見るようになった
だけど私には見えない


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