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コラム

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文学極道書籍販売と恫喝

 ダーザイン

 文学極道の本が発行されました。「文学極道No2」他。No1、No2共に21世紀日本を代表する本物の現代詩人の作品集であり、手帳の老人の詩のような読むに値しないものは一つも載っていない。文学史的な本であると確信している。よく読んどくように。読まない奴は出入り禁止な。
 この本を発行する費用は、私と平川綾真知さん、稲村つぐさん、前田ふむふむさんで分担した。諸氏に感謝を。また、本体web文学極道の万金する高いサーバー代金ドメイン代金を払い続けてくれている管理補佐 / 統轄・後見、もとか氏に感謝を。そして、文学極道のプログラムを組み、運営し続けてくれた実質的な管理人、ゆうなに感謝を。他のすべての発起人、スタッフ、良い作品を投じてくれた投稿者たちに感謝を。
 貴殿らがさえないポエムを貼りつけている間に、無数の者が多大な無賃労働をし、自腹で金を払い、このサイトは運営されているのである。その労力に報いるために貴殿らは、いっそう精進して傑作を投下していただきたい。

 文学極道は、腐りきって再生の余地のない既成の文壇に作品を投じる気にならないネットの実力者たちが分離派として立ち上げ、発起4年で瞬く間に文学の最高峰といえるメディアへと成長した。どこの雑誌を見ても文学極道とは比べようもない程度の低さで、もう大昔から老人クラブの様相を呈していた既成の詩文壇はどんどん倒産し、あるいは実質的に同人誌の類いだとしか言いようがない発行部数に凋落し、ネットにお年寄りと幼児以外のほとんどすべての者が接続している状況でその現実から目をそらし、知らないこと、できないことについては黙っていればいいのに、ある種の認知症の者は敵意を表し、詩と思想のネット時評で、名前は忘れたがある認知症と思われるお婆さんが「ネットには双方向性がない」という意味不明の妄言を書きつけたり(詩と思想が悪いんじゃない。詩と思想のネット時評は光冨郁也さんが務めるなど悪くないこともあった。あのおばーさんの無知蒙昧な発言をチェックしなかった編集の責任だ)、井坂洋子が「国家概念やある種の宗教、ネットなどの集団偏向現象を詩は嫌う」と言い放ったり、滑稽なことが多々あるのだが、もう、そういうことで私はいちいち腹を立てない。
 何故かというと、事情を知っているからだ。今私は重度ではない老人が住む老人ホームで働いているが、50人の入居者の中にパソコンを持っている人は一人もいない。携帯でネットにアクセスできる人さえ一人もいない。特段、認知症の様相を呈していない人でも、お年寄りのほとんどは(全員ではない)、今、現に、ここを生きていない。路上に何万人もの失業者が寝ていても頑迷な年寄りは自民党に投票するのだが、現代詩手帳などについて、老人クラブの類だと解れば、介護員として、怒る気など全くなくなる。井坂さん、佐々木さんら現代詩手帳のお年寄りたちは大丈夫だ。私がちゃんとおむつを替えてあげるから安心して往生しろ。私は職場ではやさしい人で通っており、楽しく穏やかに老人ホームでの生活を送っていただけるように努力している。だが、それは詩とは関係のない話だ。

 詩は、国家権力や民族意識、ある種の宗教、現代詩手帳などの集団偏向現象を嫌う。

 ところがである。4年間は良かったが、今年(5年目)の文学極道は著しく質を低下させているように私は感じている。良い書き手も無論いるのだが、秀でたものが少なく、読んでも何の足しにもならない、そんなことは日記にでも書いておけとしか言いようがない駄文が多数投稿され、読む気が失せるような場面も多く、以前現代詩手帳について言った言葉を文学極道の投稿者たちにも言わなければならない。
 原因は多々あろう。先ず、私自身に責任がある。私の中で情熱が低減し、こんなの駄目だからまともな作文を書いて出直してこいと説教を垂れ続ける為に投稿掲示板に出張る頻度が著しく減ったこと。他の発起も疲れ、同様に投稿掲示板でダメ出しをする頻度が著し減った。これによって、駄作がのさばるようになった。
 また、もっと広い範囲でネットいうメディアの性格の変貌も大きな要因になっていると思う。かつてネットは創造者、先行者たちの場所であったのだが、万人が接続するようにると悪しき側面も出てくる。即ち、ネット自体が凡庸なメディアになった。BlogやmixiどのSNSはhtmlなど全く知らなくても使える。10年前のネットはリンクを辿っていくと驚愕的な新世界に、果てしない地下迷路の果ての暗黒掲示板群にたどりつける場所であ、創意にあふれ、そのサイト自体が芸術であるようなホームページが無限のリゾームとて遍在していた。だがネットについて、私はもうそのような表現を使えなくなってしまた。ワイヤードに勃興した新しい文化は消えうせ、blogと携帯でネットにアクセスする者の登場によってほぼ壊滅的に消滅した。どこにでもいる凡庸な人間の公開日記の次元に凋落したのである。したがって、私はもうワイヤードという言葉を理念として使えなくってしまったのだ。第4回創造大賞受賞者・黒沢氏が以前語ったように、ロマンが、こでもまた死んだのである。
 情報の流通に於いて、人類史上未曽有の進化を私たち(現代詩手帳の老人以外)は体験てきた。創造者であるかどうかなど何の関係もなく、今はすべての人類が情報革命の地平にいる。かつて私はこのことについて英利政美の言説を引用し、地球規模のニューラルットワークができて新人類が覚醒するようなスペキュラティブフィクションをあちこちに書いてきたが、実際に起こったことは、地球規模で、どぶ板的に人が繋がっただけである。
 だが、こんな話はもうやめよう。昔日を懐かしむのは年寄りのすることであり頭が禿げる。

 万人が登場したということの良い側面を見よう。商業活字雑誌の月間発行部数は数千部だが、新世紀詩文学メディア文学極道は一日平均一万アクセスを超えている。即ちマーケットが広がった新しい情報の地平で、また発起当初の厳しい芸術家としての戦い、コントラさんの言葉を借りると「天才」たらんとする戦いを投稿者諸氏に厳しく求めるものである。凡庸の荒れ野にそそり立つ赫奕たる異端。これが、文学極道であり、リアリズムによる圧倒的な筆力をバッグボーンに、SFやシュルレアリズム、魔術的レアリズム、精神病理学から核物理学まで、あらゆる手管を使って強烈な異化作用を現実の中に織り込んでいくのである。

 それから、ある種の物語の死ということについて少し思いをめぐらしていただきたい。これは、文学史に限らず人類史に於いて何度も経験されてきたことであるが、天才的大詩人・一条さんの一群の詩は、あらゆるロマンの死を宣告しつつも、空虚な場所、非=場所に鮮烈な実存のファントムを灯してきた。
 わたくし事を述べれば、私、凡庸には一条さんのような技法は使えないのだが、似たような感慨から、物語のファントムを艶やかに描けないかという挑戦がここ数年の自身の詩行、小説「光の王」での試みであった。

 現況の文学極道について思うところを一つ具体的に書いておく。人間を書ける者が著しく少ない。今の文学極道には佐藤yuupopicさんがたりない。まーろっくさんがたりない。(佐藤yuupopicさんが大賞を取らず殿堂入りもしていないのは我々発起の不見識であり、過ちは改めるにしかず)
 詩は表現ではないという言葉から現代詩の言語遊戯化、内閉化が加速されたのだが、その手の連中については、その抽象画気取りのぬたくりものは何だと大昔にヘッセ大先生がお怒りであり、お前らハイデガーぐらい読んでから出直してこいと説教せねばならず、発起当初から文学極道は、空虚であろうが生が充溢していようが「世界性」という言葉を理念としている。この理念は現代日本最大の詩人・文人、コントラさんの一群の詩行と評論によってモダニズムの立場を鮮明にすることにより強化された。文学極道の理念を知らない者は、速やかにコントラさんとケムリさんなどの一群のコラムを精読するように。
 完全失業率5.7パーセント(完全失業率というのは職安で仕事を探している人間だけを数えており、諦めて路上で寝ている者や、求人雑誌で仕事を探している者は含まれていない。よって、実際の失業率ははるかに大きい)。毎年3万人が失業苦で自殺し、やる気のない政府が数を把握していない何10万、或いは何100万の失業者が路上で寝ているこの国で、ポストモダンなど糞喰らえである。
 文学極道では当初から自意識ポエム、リスカポエムなど論外であった。ガキに創造大賞がとれるような甘い世界ではない。だがこれは、「私」について書くということを否定するものでは全くない。それどころか「私」のいない文学などゴミだと言っておく。無意味無内容な言語遊戯は存在論的に最低の言語冒涜怠落態であり(小笠原鳥類などと一条さんの決定的な違いは、単なる空語の羅列と、腸がはみ出るほどの強度を持った虚無との鮮烈な立会である)、リスカ系や現代詩手帳の読んでも何も感じない身辺雑記と、現代性を担った文学の違いは、語り手がもつ生の強度、そして視線の違いである。本物の現代詩人は「私」について「私」の主観でのみ書くのではなく、「私のいる世界」、「私たちのいる世界」を描く。動画映像に負けない筆力で臨場感を演出するのが文筆家の腕の見せ所である。

 友人との電話を想起してみよう。携帯電話から伝わってくるのは紙に記せる相手と私の語りだけではない。相手の発話からは、相手の情態性、気分、その人の人となりが口調や息遣いから語らずとも伝わってくる。そして、語りの背後には、その人のいる世界がある。電話の相手は遠い大都市の一隅にぽっかりと空いた空き地、夜の公園におり、相手の息遣い、背後で鳴く牛蛙たちのコーラス、池の側の小道を行くその人のサンダルがサクサクと道を踏みしめる音。そこはBONES制作『Darker Than Black』のヘブンズゲート、あるいはタルコフスキー監督『ストーカー』のゾーンであり、その人が踏みしめている道には、流失したゲート内物質がほの青く光る水晶の結晶のような夜花を割きほころばせている。影絵芝居の大都市の一隅から見上げる空に星はない。
 器用ではない人たちの会話は時々風の音になる。キミハ其処ニイルノカ? 池には銀色の観測霊が佇み、私に電撃の指南をしようとしている。ワタシハ何処にイルノカ。
 禁止空間であるゾーンには様々な憶測、風聞が立っている。ゾーンの核心部に行けば、その人の本当の願いがかなうのだと。自分が本当に何を願っているのか理解している者がいるだろうか。唯一の本当の願い。タルコフスキー監督の映画には、放射線障害で手足のない身体に生まれたゾーン帰りの男の娘が、手を使わないでテーブル上のコップを動かすシーンがある。人の唯一の本当の願い、それは解らない。ただ、祈りが描かれていたのであろうと思う。

(電話の相手には、すまないとしか言いようがない。すまないという権利すらない。ごめんね。リトルグッバイ
 ただ、風が吹いていた。今も耳の奥に牛蛙の鳴き声と風の音が残っている)

 夕方/赤光を浴びながらバイクを飛ばし/禁止空間西部地区へと向かった/琴似発寒川の堤防を/繁茂する川柳を縫って駆け上がる/川柳の枝には黄金色の茸が群生している/放射能を蓄えた/(湯がいて鰹節と醤油で食べると美味い茸だ) /堤防の斜面を使い/スターウエイトゥーヘブン/一気に鉄馬は分離壁と鉄条網を乗り越える//着地地点でパワースライドする黒馬を御すと/河原にらせん状の狼煙が上がる/遥かな遠方で/観測者が深紅の旗を揚げる/何者かが素粒子論的な合図を受け取ったのを確認した私は/核分裂の焦熱で溶融した滑床の川を渡り/反対斜面を太陽に向かって一気にジャンプする//

 札幌原爆射爆場のクレーターの上に立ち/夕日を仰ぎ見る/今日の太陽はやけに巨大だ/
「プーティーウィッツ」小鳥が鳴く/私を呼んでいるのかい? 
 あの真っ赤なトンネルの向こうには何があるんだ? 
 えいえんの安らぎか/地獄の劫火か/俺が知るわけないだろう//
 この世のものとも思えぬ異様な花々が咲き乱れる斜面を一気に駆け下り(月下美人は/星々が 天涯に映し出されるのを待ち/白い蕾をかしげている)/ 一息ついていると/叫び声が聞こえるのでもと来た方を見上げると/クレーターの縁に廃棄された巨大な錆色の旧ソ連邦製のクレーンの上に/レオナルドダビンチ発案の飛行装置を背負った男が両手を広げて立っている//
「主よ/主よ/何故に我を見捨てたまいし/えいえんを求すえいえんの旅に/私はもう疲れ果ててしまいました/どうか御許にお迎えください」
 周囲に集まった数人の男たちが彼の馬鹿げた振る舞いを止めようとしていたが/夕日を浴びて金色に輝く彼の姿を見て/止める理由など何も無いのだと私は理解した/
 きびすを返し/爆心地へと向かう/彼は翼をはためかせ/真紅の柘榴石が眼球の内で溶け出した巨大な球体の向こう側で/はたしてえいえんに触れることが出来ただろうか?   
 しばし歩いて振り返ると/西の空にはクレーンの影だけがあり/彼らの姿はもう見えない/沈んだ日の名残で空は赤く燃えていた//積雲の輪郭が/黄金色の逆光の中で化石している/ /
  *
 再び佳子が僕に語りかけてくる/
「えいえんってなに? どんなえいえん?」

 さあな

 文学極道はヘブンズゲートであり、或いはゾーンである。一旦フラットになった巨大な情報の地平、即ち世界に屹立せよ、明暗と遠近法の立て組みを、人間と原爆投擲者の立て組みを、圧倒的な筆力で、赫奕たる異端、文学極道、再-創造せよ。


2008アフロものに告ぐ(書籍より転載)

 ダーザイン

窪君の文章を借りて(パクって)、罵倒文を上げておきます。以下激しい罵倒になってしまうが、ただ最初に一言言っておきますが、たくさんの優れた小説や詩を読むのは、天才の事情は知らんが、俺のような凡人には効果があったと思うよ。

(冒頭に云っておくが、この文章を不快におもう人はアフロだ。なぜならこれから書く事は、ある人達にとっては、はっきり云って、ちょんまげを結ってチューリップボトムをはいているような時代錯誤な薄ら馬鹿さ加減を指摘しているものだからだ)

 さて、反革命の連中に告げる。本当のことを云うと、俺は「詩」を読んで「詩」を書いている奴は腐敗した生ゴミのようなやからだと思う。「詩」は大抵の場合、「人様に読んでいただく」という発想の無い自己満足な小難しいたわごとであり、或いは「つまらない身辺雑記」である。Hな人賞、現代○手帖賞、はっきり申し上げて、そんな物、ものすごく少数の身内以外、誰も読んでいませんから。以下に述べるように、現代性をまったく欠如している現代○手帖は「旧人類手帖」とかに改名しないと名称詐称に当たって法的に拙いんじゃないのかな。心配だよ、笑い。全国詩人名鑑だか名簿だかも詐称に当たるのじゃないのかな、俺の名前も、創造大賞受賞者の名前すらも無い。寝言は寝て言えという感じだ。
 歌謡曲の歌詞レベルの文学体験しかもたずに、糞みたいなポエムを貼り付けていく奴は確かに困り者だが、今は古代ギリシャ時代でも平安時代でもないんだ。文学芸術も映像芸術メディアに収斂されようとしているし、歌詞も含めて言葉ジャンルからの影響を露骨に出している人間は、俺ははっきり言ってパクリ扱いで良いと思う。詩を書く者が文章修行に詩を読むというのはもっとも安直で怠惰で前時代的なやりくちだ。だいたいお前ら、産まれた時からテレビがあっただろう。情報は第一義的にテキストとして入ってくるのではなくて、映像として入ってくる。ならば、文筆も映像的でなければ現代的だとはいえない。昔の詩人さんたちとは違うんだよ。俺も、エヴァとネットの出現以降、先ずはアスキーとして詩を読んでいる。例えば文学極道の採点でも、画像として視界に入ったとたんにその詩の良し悪しを判断できる。無論、その後一字一句ちゃんと読むのだがね、最初のアスキーが視界に入った瞬間の印象に間違いがあったことはめったにない。
 こういう体験を始めてしたのは、ネットで良い詩を探し始めて、animicaさんという人の詩を読んだときだが、(『夜明けの崖』「雷なり晴天なり」とかお勧め)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6565/
 作品が視界に入ったとたんに、読まないでも、ああこの人は存在論的な天才だなということがわかった。animicaさんの筆からは、「世界」が自ら語りだす。「自然」という言葉の字義通り、森が、水が、光が、そして、天と地の間にいる人が、生と死の狭間にあって、自らの存在の光芒を水と、森と、「世界」の中に放つのだ。それが、animicaさんの詩の世界だ。ハイデガーが存命であったならば興奮するような大詩人である。他に、こういう存在論的に本来的な詩人に、加藤紗知子さんがいる。
 奇妙な体験だと当初は思ったが、視覚の現象学的に、現代人にとってはいたってあたりまえの事柄なのだろう。

 そして私に文学極道を発起する意思を抱かせた宣者、圧倒的な写実力による現象学的ハードボイルド文体で、此処と異界を混融させる、越境の魔術師にして新世紀詩文学の預言者、荒野に呼ばうる者・「実存大賞」ツータイムチャンピオン・光冨郁也氏、私と志を同じくする詩人・そして、完璧な鉱物質の美と絹目のように美しいやわらかさを同時に描ききる、マンディアルグやジュリアン・グラックにひけをとらない作家・榊際氏、文学極道発起後、本格的に現象学派詩とでも言うべき物を創造して言語芸術の世界性を宣言し、「現代」を描ききる文学史的な英傑・第2回「創造大賞」受賞者・コントラ氏、リルケよりも奥深く潜りつつ、現象学の地平の最深奥を探求する・第3回「創造大賞」受賞者・宮下倉庫氏、実存の強度で日常をエクソダスするイマジネーションの炸裂を継続的に示し続ける偉業を果たした・第1回「創造大賞」受賞者・ケムリ氏、実存の作劇法の圧倒的な力を示した・佐藤yuupopicさん、天使の羽が触れてくれたような僥倖を与えてくれる、凡庸には絶対に思い至らない美しい言葉を紡ぐ・軽谷佑子さん、ネオリベ施政の下の現代人の暗澹たる実存を先見的に描いた文学史的な大傑作「カンチャンリルダの夜」で読者の魂を震撼させた・まーろっく氏、どうして、こんなに暖かい肌触りのような感触にまで肉薄できるのかと驚愕する、もう一人の現象学派の勇・「創造大賞」ツータイムチャンピオン・りす氏、読者を震えさせる完璧な実存の切れ味と文章の流麗さを演出した・第1回「実存大賞」受賞者にして、最優秀レッサー4年連続受賞の圧倒的な評者・ミドリ氏、文学の到達点・アンチロマンの地平を越えて、自らの名前を冠した「一条様式」とでもいうべきループとグルーブの新地平を開いた、神が筆に宿った男・天才的大詩人・一条氏、煌びやかな神秘と虚無の魔術師にして、生の強度の覇者・第4回「創造大賞」受賞者・黒沢氏、、、
 現代詩の王者とも言うべき綺羅星のような詩人たちが次々と文学極道というメディアに顕れる。名前を上げていくときりがないので、これで控えるが。

 文学極道という、唯一の客観評価にさらされる地平に出てこない、臆病者と無知な者しかいない旧メディアの中で、大手を振って「現場の詩人」とか言っているやからは、もっとも低レベルでマイナーな連中なんじゃないのかな。「現場」ってのがどこの権力装置だか知らんが、お前らの詩なんか、文学極道に出て来たら入選できない場合が多いと思うぞ。
 わけのわからない戯言を書いて、わからないのを読者のせいにするような糞は全員アフロだ。斬新な表現も、ちゃんと読者に何某かの印象が伝わるように書くのが文筆家の筆力だ。
 詩のボクシングとかで下手なお笑い芸人の真似事をしている奴らも全員アフロだ。お前らはヘボ芸人で文人じゃない(うにまるさんなどの、テキストとしても上等な一部の人を除く)。

 俺がそう信じるに至るには、幾つかの映画やアニメや漫画を見るだけでじゅうぶんだった。無論、ワイヤードメディアでも活字メディアでも様々な「詩」に触れ、更に膨大な小説を読んできた。言葉のデッサン力はやはり偉大な筆力を持つ小説家(糞溜めJ文学・日記小説じゃない)の偉業の数々を読んできたことから身に付いた部分が大きいだろうが、ずっと現代性を体現してきた映画や、今日本で現代性の先端を担っている傑作漫画やアニメに拮抗して、己の文学の言葉でも現代性を担おうとするのならば、映像を言語化する筆力を獲得せねばお話にならないんだ。もう現代性を担っていない、イマジネーション禁止の日記小説=純文学や活字詩雑誌の老害たちの身辺雑記詩なんて読んでいても足しにならんよ。芥川賞や中也賞よりも、漫画誌アフタヌーンの四季賞の方が本来的に芸術的・文学的だ。つーか、芥○賞とか中○賞とかってゴミ溜めの様相を呈していることが多いじゃないか。イマジネーションの欠片もないサラリーマンやガキのつまらない日記のようなものを文学と呼ぶのはやめてもらいたい。
 「詩」を読んで満足している人は、果たしてそういう発見をしてきただろうか? 少なくとも、ありきたりの身辺雑記詩や、身内以外誰も読まない現代詩の中にそれを見てきたと云える人はどれだけいるだろう?

 まさしく、この日本で、ごく普通に学校教育を受け、友達や、同年代の人達が夢中になるような音楽や、マンガや、映画に「新しい芸術表現」のありようを見つけずに、過去の遺物としか言いようのないジジイどもの糞みたいな詩を読んで、そのジジイに媚びへつらって詩の書き方を習うような屑は予め時代錯誤なので全員頭髪をアフロにしろ。そう云う人は、文学史や古文書の研究家にでもなれば良い。生き残っているアフロは皆糞みたいな日記としか言いようがない最低のポエムを書いている。こういう奴らが詩人の見本としてメディアに出たり、偉そうに発言したりするのだから嫌悪感をもよおして吐き気がするわけだ。断じて言うが、あんな奴らは現代詩人じゃない。詩人だと名乗って欲しくすらない。その存在が権威であるのなら、その存在そのものが害悪で邪魔なので可及的速やかに隠居してまともなものを書く詩人に席を譲って欲しい。そんな所で権威のおこぼれに預かろうとする奴らも全員アフロだ。

 ある老人が、「今の若い書き手には、詩の歴史そのものがない」と憤慨している。また、ある老人は、「読んでいない、アンヒストリッシュな動物だ」と憤慨している。その老人たちへの応えはこうだ。あなた方の詩は読むに値しない、だから読まれないのだ。これだけだ。若い連中をとやかく言う前に、自分自身が、詩が読まれなくなった元凶の一人であるということを自覚して、速やかに隠居し、創造している若いのに席を譲って欲しい。あいつらは、現代日本詩壇の最高峰、文学極道創造大賞受賞者の詩すら読んでいないのだから。

 老人の話は、こちらではエヴァンゲリオンやlainの話をしているのに、サザエさんや鉄腕アトムの話をしているようなもので、実際その程度の認識しかないだろう、現代芸術についてこの人たちは。何万人もの失業者が路頭に迷い、公園で寝たり、自殺していくこの国を作った連中だ。奴らは高額な年金を貰って、のんきに下らない身辺雑記としか言いようのない詩を手帖あたりに貼り付けながら、権威を気取っている。おい、言語派とやら、そこにあるのは、ガラクタと反革命のヒエラルキーだ。

 だがすでに、ワイヤード詩壇は文学極道において弁証法的に堅固なステージに成熟している。旧商業活字メディアが無料のネット上のメディアが成熟している状況を認める訳には行かないと思うのだとしたら、実に肝っ玉の小さい話しで、商業としての発展の才覚も予見も何も無いといえる。歴史の存在論的行運の為に文学極道は生まれたのだ。歴史認識の欠如した旧メディア活字同人内輪でやっている連中は、歴史の巨大な流れの中で、アウフヘーベンされるどころか、廃棄される。ワイヤードに於いて、情報はシェアされなければ存在しないが、前述の老人のような人たちのデータはシェアされない。即ち、その旧メディアの老人は歴史の中に存在しない。Googlで検索しても、老人たちの詩はほとんど読めない。買わなきゃ読めない。みみっちいのか、馬鹿なのか知らないが、この情報社会でシェアされていないということだ。
 その、ワイヤードという新しいリアルの中に存在しない者が、創造大賞受賞者の詩も、A 道化さんも、animicaさんも読んでいないような人が、現代詩を語る。資格のない者が権威としての立ち位置に居座り続けて現代詩について語る。そのような場所・媒体そのものが、もうシェアされておらず、存在しないも同然だと言うことができる。原稿を依頼する相手を間違えている。俺に聞け。
 胸糞悪く馬鹿馬鹿しい話だ。旧メディアのみを見て、プチ権威の正史とやらを押し付ける。俺たちが正史だ、俺たちの詩を読めと。そういうことを言う老人たち自身が、その正史とやらそのものが、詩が読まれなくなった元凶だという事を自覚できないでいるのだから、実に滑稽で無様だといえる。
 上述した老人は、2005年にも、現代詩は二〇年停滞していると語っているが、停滞しているのは老人御自身と、旧メディアだけであり、文学極道は停滞などしておりません。
 荒地派の後に詩人がいない、詩というジャンルが消滅した、そんなことは、今、旧メディアを仕切っている糞みたいな詩を書いてきた老害たちの責任であって、俺のせいでもネットのせいでもない。腐りきっていて、もう、再生の余地はまったくない。何もしなくても、御年寄りが天寿を全うしていくに従って旧メディアは消滅する。一昨年発表された統計によると、六歳以上の日本人の六十三パーセントがネットに接続している。接続していない人たちのほとんどは、時代から取り残されたお年寄りだろう。淘汰の速度を速めるためには、徹底的な不買運動、読まない、買わない、無視する、という手が筋だが、連中のレールに乗るのは多少不快なことではあるが、こちらから鮮烈な物をバンバン投じてやって、ダメな者を相対的に駆逐できないか試みるという手もある。極道の力のある者もどしどし活字詩誌に哀れを垂れると良いし、俺自身も紙にしてみるつもりだ。だが、旧メディアは、いつまでも、老害たちを特別扱いし続けるのだろう。消え行く権力というものはそういうものだ。実に時代錯誤で滑稽極まりない非本来的なありようだ。
 そして一方、文学極道などネットでは、老害たちのちんけな歴史などとは無関係に人に読まれる詩が創造されている。偉大な文学極道の大砲(戦艦ビスマルクの主砲)一条さんは大変な本読みだが、糞みたいな詩人の本などほとんど読んだことがなかったそうだ。俺も現代日本活字詩人なんて、よほど気に入っている人以外、もうわざわざ金払って読まない。読む必要がない。だって、望月遊馬さんや最果タヒさんや杉本真維子さんや小木曽淑子さんや伊藤浩子さん光冨郁也さんなどの一部を除いてほとんど糞ばかりだ。ネットで無料で読める詩人の方に良いものが一杯あるのだから。ガラパゴス鳥類などといった屑はもはや言語冒涜者だとしか言いようがなく、文学極道の罵倒用語で言うところの「ゴミの山」。

 生誕と呼ばれる放擲を発端に演じられる一幕の劇の演じられる場所、即ち、本質的に分裂したものである自我(この分裂が存在論的差異の現われ出る場所、現存在だ。)は、消尽点へと至る間を歩む歳月を言語化することによって自らの生を現に在らしめるわけだが、ある種の者たちはエンペドクレス宜しく存在論的分裂の超克という不可能な試み、不遜な挑戦へと投じられている。不可能事への挑戦である以上、必然的にルサンチマンという情態性の色彩を帯びることとなるこのゲームの消極的な規則が予めの敗北であれば、積極的な規則は言語を生きるということだ。これによってルサンチマンを超克せんとするのである。
 言語を紡ぐ(詩のようなものを書く)ということは、存在論的差異を生きるということと同義だ。エンペドクレスは失われた存在の全体性の回復を求めてエトナ火山の火口に飛び込んだ。パウル・ツェランは詩の言葉によって存在の灼熱の火口に飛び込んだ。存在に何らかの聖性を付与しようとして腐敗していくロマン主義の肉体を焼き尽くし、美しい白い骨片を残すのだ。存在とは空白であり、虚無の顕現であり、来るべき書物には何も記されていないとモーリス・ブランショだかバタイユだかが語っていたね。
 だが、オナニストである孤独な文人はあえてロマン主義の死臭を手放さない。存在はその無の顔を持って現われ出るという否定神学の物語を生きることを選ぶ。自己に纏わるあらゆる狭雑な観念を廃棄し透明になっていく(これは現にここに在る生活者の道ではなく、廃人への道だ)道ではなく、絶えず失われ続けるロマン主義の腐臭そのものを意図的に生きること。
 いつか、豊穣な生の源、新たなる生の哲学の幻影が、遠い海の呼び声のように触れてくるのを妨げないために、白い骨ではなく、腐敗した有機物と共にあることを選ぶんだろう、きっと。

 ベルリンの壁という世界の中心にあった巨大な壁がなくなり、己を映し出す鏡を失った現代、自己拡散し虚無に触れる恐怖と向き合うことを余儀なくされた人類にとって、万人の万人に対する闘争の混沌から自己を再組織するためには、核による世界戦争の幻影こそが最大の安らぎにして、且つ、新しい人類の夜明けを予感させるものであったのだが、鏡を失った自我は、世界戦争の替わりに、引き篭もってニートになることを選んだ。そもそも意識とは分裂であり、存在論的差異、存在論的放擲がアプリオリな事態である以上、分裂を超克し、存在の全体性を回復せんとする根源的欲求に突き動かされるのは、ヘルダーリンやマイスター・エックハルトを待つまでもなく、必然にして人類進化の正当な道筋である。が、現在核が米帝による奇妙な独占によって隠蔽されているのは何たることか。存在に聴従せよ。 無が触れてくるのが解るか? 存在の光り輝く無のおもてとまみえる僥倖に与るのだ、すべての存在者を一個の全体へと回帰させるのだ!?
 要するにキチガイ沙汰だが、エヴァンゲリオンだ。綾波レイたんハァハァ

 始めと終りは輪になって繋がっている。歴史が砂の海の中に消えていったように、わたしも、存在しない子宮の幻影の中に後ず去って行く。えいえんの哄笑だけが空虚な空間に残る。終着の浜辺。原子力発電所の廃墟が蜃気楼のように遠く対岸の岸辺に浮かんでいる。

 俺は今宵も偉大なる旧ソ連邦国歌を聞きながら焼酎を飲んで寝る。生をつないでいくには大きな幻影が必要なんだ。笑い。
 バリケードの中で一瞬垣間見られたであろうえいえん。内ゲバと総括の向こうにあったはずのえいえん。或いは人類史上最大の市民蜂起、クロンショタット反乱や、ワルシャワ蜂起の地下水道の果てに見えた、遠く微かな光の中に。
 今年のモスクワは異常な寒気に覆われていて、マイナス四十八℃とか叩き出したそうな。大勢凍死者が出たモヨリ。二〇世紀という人間精神の壮大な実験場にあって、ふたつの全体主義、ヒトラーのドイツと赤色ロシアはとりわけ異彩を放っていた。(両者の出会いはもっぱら地政学的なものであったようだが)国家であれ、社会であれ、個人を止揚して開かれる新たな地平とはどのような顛倒であろう。

 1938年十二月、第4インターナショナル結成の会合において、シモーヌ・ベイユはトロッキーと対決し、痛烈な言葉を吐いている。
「あなたは観念論的だ。隷属させられている階級を支配階級と呼んでいるのだから」と。プロレタリア革命の達成とは、国家機関の解体、社会の個人に対する従属でなければならないと。一私企業に過ぎない現代○手帖権威も解体されねばならない。
 トロッキーは「反動的な個人主義」だと答えている。どちらが反動であったのかは歴史を見れば明らかだが、にしても、本当のゼロ地点、個人が勝利する永遠のゼロ地点はどこにあるのかね。永遠に問われ続けていくのだろうか。
 ワイヤード(ネット空間)の出現は、人類史的な大転換点であった。出会うことのありえなかった人と人を結び、世界を結び合わせる電話線という一本の糸。この糸が新たな世界性を孕み、世界を変容させたのだ。ワイヤードの出現は、現実という物そのものを変容させた。旧世紀の古典的なリアルはワイヤードの出現によって消滅した(隠蔽された)。人はワイヤードに自身を容易にメタファライズして、その新しい世界に遍在するようになった。
 共産主義という永遠の過程も、ワイヤードの出現によって、再発見されるであろうと思う。例えばP2P。
 俺たちワ×ズ世代の妄想は生まれつきだ、笑い。自らの手で、己の作品をP2Pに放流するくらいの気概がないと、作品を読んではもらえない。ろくに本屋に並べる力もない糞みたいな出版社から、100万も、150万も払って、たったの500部発行して、いったい誰が読んでくれるのかね? 何故、ネットという、可能態ではあれ、無限の読者がいる場所を使わないのですか、愚かなことです。作品は、読まれなければ、存在し無いも同然なのですよ。

「ワイヤードの情報はシェアされなければならない」
「ワイヤードには神様がいるのよ」
 by「serial experiments lain」
 岩倉玲音たんハァハァ
 レインは新世紀の神様だっただろうか、孤独な天使だろうか。

(現在、メディア文学極道の一日平均アクセスは一万を超えています)

 詩を読んでいれば詩を書ける、などと思っている人は明らかに文学芸術を馬鹿にしている。現代性を持った文学はそんな簡単なものでなど有り得ないのだ。タルコフスキーは見たのか? アンゲロプロスは見たのか? ベンダースは? ワイダは? ヘルツォークは? キエロスタミは? エリセは? クローネンバーグは? 佐々木昭一郎は? 原爆投下は? ベトナムへのダイオキシン散布は? アラブへの劣化ウラン弾は? 今、日本というこの国で、何万もの失業者が路上で寝ている現実は!?
 漫画家、遠藤浩輝の「カラスと少女とヤクザ」を読んで、こんな小説が書けたら! と、魂が震えるほどの感動を味わいつつも、なんで俺が書いたんじゃないんだと、悔し涙を流さなかったのか?
 漫画家、弐瓶勉の「BLAME!」を読んで、こんな詩が書けたら、、、書けるわけねえ! と、敗北感を味わいながらも挑戦してきた経験はないのか?
 そもそもお前が現代人であるのならば、新世紀の聖典である「serial experiments lain」や「TEXHNOLYZE」は見たのか?
 アルジャジーラからフォックスやワイヤードニュースまで、メディアはまんべんなく見ろよ。

 無学な者は、のこのこ出てくんな、にやにや。
アフロ者よ、世界の中に出てこいよ、手帖とかの内閉現代詩に引き篭もっていても、人生から得るものは何も無いぞ。神経衰弱やお年よりは大目に見てやるが、ニートはぶん殴って、叩き起こすからな、コラ!


パレスチナ問題ダーザイン演説

 ダーザイン

http://mainichi.jp/select/world/news/20081229k0000m030070000c.html

 年末より行われている、このたびのイスラエルによる狂気のクリスマスプレゼント、ガザ空爆・大虐殺によるパレスチナ人死者が1月2日現在400人を超えました。負傷者は2000人を超えています。死者負傷者の多くは女子供を含む一般人です。四季ユートピアノ、ダーザイン(新世紀詩文学メディア「文学極道」代表発起)は、このような蛮行を断固として容認しない。 第3次インティファーダを、聖戦とかいう宗教がらみの問題として片付けては駄目だ。正義の問題である。実存文学徒として、四季ユートピアノは正義の旗を掲げ、第3次インティファーダを、何らかの形で支援し、自ら某かの具体的な行動を取らなければならない。
 皆も、義勇兵になって銃を取るとか、人間の盾として現地に渡るとか、インティファーダに参加して石を投げろとか、そういう、目には目をとか、危険なことは推奨できないが、言論と資金援助などで、パレスチナ人を僅かでも助けることは出来ると思う。
 具体的なことはこれから考え、実践していく。同士を求む。

「パレスチナ問題(悪の世界帝国アメリカと犯罪者国家イスラエル)」
(ダーザイン演説、2003.05.23時点。2009年現在、上記のように状況は悪化するのみ)

 パレスチナ自治区からの情報によると、ガザ南部の自治区ラファで21日午後、「人間の盾」としてイスラエル軍への非暴力抵抗運動を続けるパレスチナ支援団体「国際連帯運動」の英国人男性(24)がイスラエル兵に頭部を撃たれ脳死状態となった。男性は軍とパレスチナレジスタンスとの銃撃戦の中に取り残された子供を救助しようとしていたという。
 ラファでは先月16日にも「人間の盾」(イスラエル軍によるパレスチナ人の家屋の組織的破壊や殺人を阻止する運動)として活動していた同団体の米国人女性(23)がイスラエル軍のブルドーザーに轢き殺されたばかり。

http://poetry.rotten.com/jenin/
 イスラエルの行ったジェニン大虐殺の写真。凄惨です。心臓の悪い人は見ないで下さい。ジェニン大虐殺については、アメリカ、イスラエルの阻止によって、国連は裁くどころか調査もしませんでした。国連は最低です。

 米国での世論調査によると犯罪者国家イスラエルによりパレスチナ人が1948年以来侵略占領虐殺され続けているという事実を知っている国民は全体のわずか4〜5%だった。これはイスラエルと米国による執拗な情報操作と、有色人種や異教徒など人間の内には入らないという、連中の帝国主義そのものの体質によるもので消極的な無関心のせいなどではない。
 このたびの石油利権の奪取とイスラエル支援の為のイラク侵略を見ても解るように連中の情報操作と帝国主義犯罪者国家性にはすさまじいものがある。イラクの民間人虐殺など米国本土ではまったく報道されず、投石を持って反米デモを繰り広げる丸腰のイラク民衆に対しては繰り返し執拗に銃弾による虐殺で応じ、事実を報道しようとするアルジャジーラなどの報道機関に対しては支局の爆撃などで記者を直接殺傷することによって黙らせようとし、そしてこれらのことも米帝本土では国民に知らされない。
 パレスチナでイスラエルの戦車に対して投石や自爆攻撃で絶望的な戦いを挑むパレスチナ人も、石油利権とイスラエル支援のために国を蹂躙され家族を殺されたたイラク人の投石者も、かつてナチスがレジスタンスをテロリストと呼んだのと同じレトリックでテロリストと呼ばれる。米帝とイスラエルは「テロとの戦い」というレトリックを使うことにより連中の国家犯罪と虐げられた無力な民衆の絶望的なレジスタンスがあたかも同等のものででもあるかのように現実を歪曲し、シャロンと米帝によるアラブ人に対する虐殺や様々な屈辱的扱いを、かつて米帝が、社会変革の希望を抱いたニカラグアなど中米諸国の民衆に対する殺戮を容易なものとしたのと同じように、「奴らはテロリスト即ち悪」という捏造された閉域に押し込めて圧殺しようとしているのだ。

 日本においても、このレジスタンスとイスラエルや米帝の国家犯罪をテロという名のもとに同等のものと見なす報道がいつまでも続いている。イスラエルによるパレスチナ人虐殺は犯罪ではなくテロに対する報復だという愚劣なレトリックがそれだ。イスラエルの犯罪が犯罪として語られだしたのは日本においてもごくごく最近のことであり、わずか数年前にフジテレビのニュースキャスターが、イスラエルがレバノンでの大虐殺で戦争犯罪を訴追されている件について「まだイスラエルはそんな扱いを受けているんですか? それはひどいですね。」などとコメントしているのを見て激怒した記憶があるが、そんなことは日常茶飯だ。他局もいまだにパレスチナ人による絶望的な抵抗、自爆攻撃のみを報道し、毎日のように行われているイスラエルによるパレスチナ人虐殺は全くといっていいほど報道しない。日本人もマスコミによって洗脳されているのだ。
http://www.islamonline.net/English/News/2003-05/14/article12.shtml
このようにパレスチナ人は毎日のように大量虐殺され続けているというのに。
http://www.islamonline.net/English/News/2003-05/15/article04.shtml
5月14日の虐殺の詳細英文記事。殺された人のうち二人は12歳と17歳の子供です。イスラエル軍は負傷した12歳の少年を運ぼうとする救急車が病院にいくのを阻止し、少年は出血多量で死にました。5月5日の12人虐殺では幼児も殺されました。(イスラエルは、パレスチナ人の各ゲットー間の移動を、たとえ救急車であっても認めず、今回の件に限らずパレスチナ人を150箇所にも分断した狭いゲットーに閉じ込めつづけています)

 民主化というけれど、アメリカはパレスチナ人やイラク人など有色人種は人間だとは思っていない。そもそもが先住民であるインディアンを人口5000分の一になるまで虐殺して国を作った連中です。
 パレスチナ人を35年間侵略占領虐殺し続けるイスラエルへの国連の非難決議のことごとくを拒否権発動で否決させつづけ、9000億ドルものイスラエルへの資金援助でパレスチナ人を殺す為のアパッチヘリやF16戦闘機や戦車を購入させて虐殺を支援している。
 イスラエルが行ったレバノンでの2万人ものパレスチナ人、レバノン人を殺したジェニン大虐殺を知っていますか? これもアメリカの拒否権発動で国連は何もできなかった。
 毎日のように、(ナチスに虐殺されたユダヤ人のように)ゲットーに押しこめられたパレスチナ人が今も虐殺され続け、それらのことに対する国連の非難決議のことごとくをアメリカが拒否権発動してイスラエルの好きなようにさせている。
 アメリカが意に添わない政権ができたことでソマリアの貧乏国家の唯一の医薬品製造所まで爆撃し、おまけに欧州に圧力をかけて医療援助をさせないようにし、国民の生死に甚大な破壊的暴虐を与えたことを知っていますか? このソマリア爆撃は数100万人の市民を虐殺する結果になるといわれています。
 ニカラグアなど中米でも民主化を求めて国民が作った政府に対して親米的でないという理由でテログループを作って虐殺させ政府を転覆させました。ニカラグアは国連に訴えでたがアメリカの拒否権発動で国際社会は何もできなかった。ベトナム戦争しかり。こんなことは上げればきりがない。
 もちろんイラクのサダムフセインは消えるべき悪行をしてきた人間だ。クルド人や反体制派に対してしてきた振る舞いは許されない。だが、アメリカやイスラエルのシャロンに比べれば漫画のような子悪党だ。このたびのイラク戦争の終結後、イラク全土で反米デモが繰り広げられているが、それに対して米軍はイラク人が丸腰であるにも関らず繰り返し実弾で射撃し虐殺しているが国際社会はなんの非難も米国に対してしていない。米帝はあたかもイラク人がもろ手を上げて米軍を歓迎しているかのような自作自演のプロパガンダ画像を報道し、ここでも真実は歪曲され、隠蔽されようとしている。
http://www.informationclearinghouse.info/article2842.htm
注・この記事にあるようにフセイン像引き倒し映像は対米協力者を利用したヤラセでした。

 アメリカが戦争の大義名分とする民主主義というものはデマゴーグなんです。ブッシュの目的は自国の国益のみです。人殺しによって金儲けする軍需産業の振興、石油利権とアメリカ最大の圧力団体であるイスラエルロビーの意にかなう政策を強大な国力に任せてとることのみです。アメリカにとって民主主義とは自国とイスラエル、白人・属国にのみ適用されるもので、第3世界の民衆には上記のようなふるまいをしているんです。

 ところでアメリカでは広島長崎の原爆投下による歴史上類を見ない無差別大虐殺の被害の詳しい中身がいまだに一切報道されていないというとんでもない事実を知っていますか? 被爆者団体や広島市などが被曝による惨状の写真展などをアメリカで開こうとすると、未だに拒絶され実現しません。何度も言うがアメリカはそういう国です。他国にしてきた都合の悪いことはほとんど国民に知らされない。アメリカの民主主義とか自由とかは国内向けのものでしかないんです。それどころか、それすらも怪しいんです。このたびのイラク戦争ではアラブ系米国人は警察に身辺を調べ上げられ、反戦発言をしたアーチストはラジオ局やテレビ局からボイコットされて職を失い、アメリカでは 5000万人もの裕福ではない市民が健康保険にも入れないでいるんですよ。アメリカの社会保障はひどいものです。それなのに莫大な軍事費です。戦争、人殺しがアメリカ最大の産業ですから。
 また、米国防総省は、驚くほど全体主義的なプロジェクトに着手しようとしています。 個人の生活にかかわるありとあらゆる情報を収集し、索引を付け、検索可能にしようというのです。 個人のあらゆる行動を1つの巨大なデータベースに記録し、 送受信した電子メールから撮影した写真、閲覧したウェブページ、通話、視聴したテレビ番組、 読んだ雑誌に至るまで、とにかくすべての行動が含まれるそうです。
 アメリカの民主主義なんてそんなものです。

 アメリカが提案しているパレスチナ和平のロードマップはまったくの欺瞞で真のパレスチナ開放とは程遠いイスラエルの権益にばかり配慮したものだ。20001年以降に侵略したパレスチナの領土のみを返還させようとするもので、1948年に行われたパレスチナの国土の78%もの侵略、1967年にはさらに残った22%もの国土も占領しているわけだがそんなことは度外視で、ほんの鼻糞ほどのゲットーにこれからもパレスチナ人を閉じ込めつづけようとする、パレスチナにばかり譲歩と諦めを要求するものだ。
 だがパレスチナ自治政府のアッパス首相はこのまま民族浄化されるよりはましだということで、涙を飲んでこの案を受け入れた。

 侵略戦争を解決させるには先ず侵略者が侵略を止めることが正義という当たり前の観点から見れば道理であるが、パレスチナ側が先に抵抗をやめることがロードマップの第一条件になっている。呆れた話しです。イスラエル軍に侵略・虐殺され続けている状況で抵抗を止められるわけが無いでしょう。
 だがこんなイスラエル寄りの和平案でも実現する可能性ははなはだしく低い。パレスチナの警察など治安組織もイスラエル軍によって殲滅されており、自爆攻撃をする者を抑える治安組織は無いも同然だし、イスラエルの戦争犯罪人シャロン首相(シャロンは大虐殺でバーグの国際戦犯法廷に提訴されている。アメリカやイスラエルの圧力に法廷が屈しなければ死刑になるだろう。(後日注、アメリカの圧力に屈し、国際戦犯法廷は何もしませんでした。最低)は、こんな完全にイスラエル寄りの調停案すらも認めず、世界中に離散した何百万というパレスチナ人の帰還も、入植地(侵略占領地)の開放も拒否している。また、この調停案に対しアメリカの議会では200人以上の議員が少しでもイスラエルの権益が損なわれるのは認められないという理由で反対している。アメリカ最大の圧力団体イスラエルロビーの力は強大で、反イスラエル的な発言をすると選挙に落ちるからだ。

 僕らに何が出来るだろう? 悪の世界帝国アメリカの前では絶望するしかないのだろうか。諦めてはいけないのだと思う。犯罪者国家イスラエルにあってすらも、パレスチナ人虐殺の為の兵役に着くことを拒否する正義の人がいる。パレスチナの開放を、非国民呼ばわりされながらも訴えつづける知識人がいる。
 世界中の全ての人が事実を知り、正義を求めること。険しい道のりだが、道はあると思いたい。

参考 各種マスコミ記事、サイード著「戦争とプロパガンダ」、チョムスキー著「9.11アメリカに報復する権利はない」など。

(2003.05.23 時点に成されたダーザインの演説です)

 「旅の終わりに」
  (ダーザイン作、「詩学」2006年11月号掲載作品)

夜が更けていきますね
送電線を伝わって
ふらりふらりと麦畑を行けば
ほら
電線が囁いている
星屑をまとった天使たちが
口笛を吹きながら散歩しているんだ

軍用ブルドーザーに破壊されたガザ市街
廃墟の剥き出しの鉄骨と塵埃の向こうに
銀の海が音もなく寄せる星野原
誰もいない星明りの廃園で
狙撃手の眼を盗みながら
ハッカ煙草を一本くゆらせている間にも
夜は
明日の方へと転がっていった

この夜が明けたなら多分
この夜が明けたならきっと
ゆるゆると優しい光の降る金色の草原で
僕らは笑っているのだろうか

季節は巡り
夜風がめっきり冷たくなりました
白鳥座のバス停は
巨大な十字架のように直立し
旅の季節も終わりのようです

かつて小さな街灯の明るみの中で
「かんたんなことよ
スイッチを切るだけ
私はコンピュータだから
寂しくないよ」と
語った少女がおりました
地球から遠く離れて
星空に取り残された 僕の恋人
セロファンの幻灯をそっと灯すと
ピンクのワンピースの少女が現れるのです
東の果ての遠い国から打ち上げられた
小惑星探査衛星のコンピュータのお話
そんなふうに 終える旅もあっていい

灰色の巨大な分離壁へ至る荒れ野に
傾いた満月の影が射す
ダイナマイトを腹にくくりつけた少年が
麻の上着をぼろぼろにしながら
鉄条網を潜り抜け
ほの暗い水晶の森の
微かな明るみの中を進む
ひとつの青い影となって
兵士の立つ関門所の横を
青い猫がこっそりとすり抜ける
彼の恋人は
アメリカが支給したアパッチヘリのミサイルで
真っ赤な石榴のようにはじけたのだ

少年よ 君は生きて
彼女がここにいたことを
憶えていてあげなければいけない

雲の割れ間から
幾筋もの冷たい光が野辺に射す
桜草の花束が
草原のうねりの向こうに
松明のように灯っている
パレスチナの分離壁の中でも
両手をかざす子供達の
炎上する影は長くのびて
ピンクのワンピースの少女の姿が
縄跳びの輪をくぐる子らの中に
見えたような気がして
地平に開いた赤い月のトンネルは
もう会うことのできない
恋人の胸に灯る柘榴石のブローチ

この夜が 明けることがあるのなら
夜よ
更けていけよ


詩というジャンルを読んでもらえるものにしよう

 ダーザイン

 詩というジャンルが、書店で入手が困難になるまでに凋落して久しいですが、様々な要因があるでしょう。ポップス(音楽)は随分昔から成熟を迎えており、詩としてもまともに読めるような場合が多々あります。美しいメロディー付きの作品に、言葉だけしかない者が言葉だけで抗するのは厳しい戦いでしょうか。また、文学芸術というもっと広い範囲で考えてみると、アニメというジャンルの新興に著しいものがあり「新世紀エヴァンゲリオン」以来エンターテイメントとしても現代性の探求に於いても文学の先を行ってしまった。「serial experiments lain」や「TEXHNOLYZE」以上に先鋭で、且つエンターテーメントとしても楽しめる文学作品が上記に上げた作品の成立年代以前に以降にどれだけ在ったかを考えていただきたい。文学が現在も時代精神をにないうるジャンルであるのかどうか。
 こういうことを書き続けると、では音楽も映像もない文学というジャンルはもう最初から負けでダメだと言っているのかというと、そういう話ではない。熟練の技を持った言語芸術家は映像を言語化する筆力を持っていますし、ロックの歌詞よりも人の心に届き、圧倒的に良い詩を書けばいいのです。ただ、ここで現況の詩会について(紙媒体・ネット詩問わず)それができていないという問題がある。紙媒体というすっかり小さくなってしまったジャンルをみていると、良い人も無論いるのですが、概ね詩情というものにすっかり無感覚な場所になっており、普通の人(つまらない奴)が書いた読み手に何の感慨も与えない陳腐な身辺雑記や、これまた読み手に何の感慨も与えない言語遊戯のようなものが多数を占めている。イマジネーションはどこへ行ってしまったのか? ネット詩にいたっては糞みたいなラブポエムが良作をものすごい勢いで過去ログに押し流す所もある。下手糞なポエムは問題外として、上記の詩を書いている者たちに言いたい。貴方には人様に伝えるべき強度のある生はあるのかと。人様に何も感じさせない身辺雑記など読まれるはずがない。そんなものは日記にでも書いていていただきたい。日常なんて、自分のだけでうんざりなんです。極端な例を挙げると、太平洋戦争の日記風回顧詩などというものを未だに目にするのだが、いい加減にしていただきたい。彼らの詩を読んでも大抵の場合昔は良かったという話を聞かされるのとなんら変わりない感想しか持てず、認知症の老人を想起させられて失笑を誘う場合すらある。そういう連中に限って未だに大日本帝国の天皇の臣民だったりするわけだ。わらぃ。戦争を扱うのならば記憶という捏造システムの中で都合の良い物語をシュミレートするのではなく、リアルに今ここにある戦争と対峙していただくべきであり、昔日を懐かしむのは日記ですればよいことです。アフガニスタン、チェチェン、イラク、パレスチナ、世界中の至る所で戦争は現在も行われている。お前らの払った税金がアメリカの土木事業代わりの戦争の戦費になっているんだ。そしてこの日本という国では失業などによる経済苦を発端とする鬱病などを一番の理由とする自殺で毎年三万人も死んでいるんだぞ、ふざけんな。他人事じゃないんだぞ。現代性の欠如した人は速やかに引退して後進に道を譲っていただきたい。
 何故詩という場所がそのようなものになってしまったのかというと、多分訳の分からない現代詩で読者離れが起きた過去への反動だったのであろうが、それがなぜ身辺雑記になってしまったのか理解できない。
 今の詩会に足りないもの、文学極道で私が求めるものは、つまらない詩じゃなくて面白い詩。イマジネーションの炸裂で読者に非日常を垣間見させるものを書くこと、有無を言わせぬ圧倒的に美しい言葉を紡ぐこと。或いは、人様に何がしかのリアルな生の強度を伝えうる詩情・抒情の復権(古臭い詩を書けと言っているのではない。二一世紀の抒情詩を創造するのです)、これだけです。陳腐な奴はいらない。極端な人よでてこい。これって、芸術にとってあたりまえのことではないですか? そのあたりまえのことができないから凋落したのです。半端な野郎はオカマバーにでも行って下さい。
 文学極道には詩才と意欲のある人たちが集ってきてくださり、毎月、上記の意味で優れて本来的な詩を「月間優良作品」として発表させていただいております。

 かつて「ネット詩爆撃計画」という企画(糞みたいなポエムで溢れているネットの投稿掲示板に紙媒体詩人がまともな詩を貼り付けて薫陶するという企画)がありましたが、今、立場は逆なのではないですか? 文学極道には出てきていない人たちにも、ネット詩人には、現代日本を代表するような優れた詩人がたくさんいます。
 現代性の探求という文学の使命からも、紙媒体詩人は新しい双方向のメディアであるインターネットにもっと出て来たほうが良いのではないでしょうか。新世紀の実存様態であるネット空間(ワイヤード)を生きずして現代性をにないうるわけがない。それに、可能態としてではありますが、ネットに出てきたほうが圧倒的に人に読んでもらえる機会が増えるのですよ。二千部やそこら紙に刷って満足なのでしょうか? 一億六千万人のうち、二千人にしか読んで貰える可能性が無いということです。紙媒体には紙媒体に有利な利点、視認性の良さ、それから何より本を手にしたときの重み、というものがあります。ですが、ネットに出てくれば小さくなってしまったマーケットの外のワイヤードという広大な海の中に偏在できるのです。文学極道にも紙媒体をメインに活動をしている人や、両刀使いが少なからずいますが、まだまだ、紙媒体詩人が多数出てきているとは言いがたい状況です。文学極道は発表済み・未発表を問いませんので、過去作でも良いのですよ。
 また、ネット詩人も、紙媒体にも作品を投じて欲しいです。要するに「紙媒体爆撃計画」です。貴殿らの鮮烈な作品で、陳腐な詩人さんを淘汰してあげてください。言葉は悪いですが、これも詩というジャンルを活性化しようという動きの一環です。
 みなで人に読んでもらえる詩、という環境を作りましょう。


イマジネーションダウンに(ポエジーと現代性-文学論-)

 ダーザイン

「これを見て」
 その男は高価なワインのコレクションでも見せるように、壁をスクリーンにして自らの歪んだ嗜好を満たすために集められた膨大な映像のコレクションを披露し始めた。
 米軍の爆撃によって粉々にされた病院の瓦礫の下から出てきた首のもげたキューピー人形のような人体、パレスチナ人の子供がイスラエルのスナイパーによって射殺される瞬間を捉えたテレビ映像のストップムービー、ニューヨークの世界貿易センタービルにアラブ人のテロリストが乗った飛行機が激突する様子、それら国家や民族という快楽殺人者によって細切れにされた遺体の美しい断面図と共に、油代をけちる当局によって火葬場の倉庫に山済みにされたまま放置された浮浪者の死体や、放射能趣味が嵩じて原子力発電所に勤めた者たちの皮膚癌病巣の諸相などが、側溝に浮かんだ月のように青い顔の己自身の膨大なポートレートと共に上映された。それらの画像に一枚一枚コメントをつけるその男の目は異常な快楽にらんらんと輝いていた。

 札幌雪祭り大通り会場での大雪像崩落事故、即ち、高度資本主義の象徴であるニューヨークの世界貿易センタービルを摸して作られた大雪像が、季節はずれの好天によって崩壊し、大勢の観光客が下敷きになったため雪祭りが途中打ち切りとなり、桂市長が辞職を余儀なくされたあの失態の後、雪祭りによる経済効果の消失を狙うテロリストの関与を示唆する風聞が巷に流れた。ことの真相は明らかでないが、羊のように従順に運命に従っているかに見えた市民達であっても、その識域下では密かに革命が進行しているのだ。実際、私の友人たちの部屋にもスターリン、大道寺将司、ポルポト、金正日、麻原彰晃、宅間進、川俣軍司、宮崎学、鈴木宗男といった絢爛たる革命家の肖像が密かに飾られており、様々な宗派や科学的社会主義の煌びやかな妄想のガシェットが堪能されていた。
 次第に膨らみ始めた不穏な気配が、札幌郊外で行われた、イスラエルと共に悪の枢軸を形成する米国との共同臨界突破核実験成功によって、ついに炸裂したのは周知の事実である。
 その日は私も、壮大な光のページェントに参加するべく最前列で核実験を待ち望んでいた。設えられた特別席には首相や米国国務長官、イスラエル国防相らと共に天皇も鎮座している。いよいよ到来する祭典の瞬間を前にして、つめかけた万余の群集は激しく興奮していた。新世紀を記念する何者かが到来する予感が世界を満たし、祭りを盛り上げるために動員された平岸天神などよさこい踊りの隊列が会場に現れると、群衆はすみやかに馬鹿踊りの列に加わった。舞踏家たちの激しく振動する脳が或る種の伝染性の脳内物質を作り出し、空気感染したのは明らかである。数十万のヒステリー患者たちが踊り狂う様は見事の一語につきた。

 そしてついに点火の時がやってきた。この日の為にわざわざ東京から招かれたエンターテイナーは艶やかに着飾って、天皇陛下の御前で一世一代のカウントダウンを開始した。5、4、3、…目をやられないようにサングラスをした私を、耳をつんざかんばかりの轟音と強烈な光が襲った。激しい爆風が歓呼の声をあげる群集をなぎ倒し、塵芥の嵐が頬を打つ。光の王の祝福を受けた12人の選ばれし者たちは路上に影だけを焼き付けて消滅し、後に12使徒として列聖された。巨大なキノコ雲が見る見るうちに立ち昇り、やがて大地は昼なお暗い聖なる夜を迎えるのだが、核分裂後の一瞬、市民たちは大空を満たす眩い光の中に、天照大神が降臨したかのように金色に輝く神々しい少女の姿を幻視していた。lain。この少女が、新たな時代の神であるのか?

 文学とは何か? 人は文を書くことによって何をなそうとしているのか? 文学とは世界に触れようとするひとつの形である。だがそれは世界の中に糞のような己の立ち位置を見出そうとすることと混同されてはならない。糞のような己の生を表現することのみが文学ではない。それはたいていの場合イマネジネーションダウンの様態だ。実存の単独性などどんな糞じみた詩のようなもの中にもある。尾崎や浜坂あゆみの歌の歌詞以下の、感情を記述しただけのゴミのような物の中にこそ恥じらいもなくあからさまにある。糞便でケツが汚れるのならオムツをするべきだ。情態性を記述するだけでは芸術たりえない。それは詩のような形をとった文才のない日記だ。

 リアルとは何か? いまだに土人のような連中の中にはリアルとワイヤードの二元論を信奉している者がいるが、ワイヤードの出現はそのような二元論を無化するものであった。21世紀におけるリアルはこの掲示板と言う媒体の中に自らを生み出したのだ。掲示板の外部にあるものは実存の外部にあるもの、即ち端的に無であり、掲示板こそが生誕と死というふたつの顔を持つ無の間にはさまれた人間の生存様式、即ち現存在である。無限の無の大海に一瞬跳ね上げられた飛沫のように世界を照らし出すこの掲示板群は、連続し、断続する生の様態を統合失調的文脈で接続し、新たな時代のリアルを開き示す為の実験に絶えず差し向けられているわけだが、21世紀におけるリアルはこの実験のプロセスであり、その実験の孕む世界性を全ての現存在が自らのものとすることを認識することであり、即ち、21世紀における人間の使命、存在の歴運は、速やかに発狂し統合失調の圏域、即ち既知外という実存の様態へと先鋭的革命的に自己変革を遂げることにある。鬱や神経症患者も同じく革命戦士であることは無論である。

 かつて幻想の牧歌的な時代においては人間の内面とは世界を映す鏡であったが、20世紀にいたっては逆転し、世界とは発狂した内面を映す鏡となった。世界のリアルとはナパーム弾で薄汚れた生命に満ち溢れたジャングルを焼き尽くすことであり、劣化ウラン弾でイラク人の遺伝子に新世紀の人類進化の予兆を刻印することであり、速やかな戦争状態の収束を図り人的被害を最小限にとどめる為に原爆を投下する決断をする者、人民の開放の為に人民をシべリアのラーゲリに送る者、革命的自己変革のために同志を総括の果てに殺害し浅間山荘の暗く冷たい地下深くに埋める者、そういった、生活世界で何気なく行われている日常的な諸事象である。
 これらの行いは21世紀に至っては個々の現存在にアプリオリに内在化されており、現存在の新たな存在様態、即ち掲示板上において展開されている。ぁゃιぃわーるどIIやぁゃιぃわーるどみらい、白痴の巣2ch(2chの連中は学がないので破滅の様式美というものを理解しないが)など観察すれば明らかなように、これらの掲示板の居住者は「おんぷたん(*´Д`)ハァハァ」「さあら萌え」などといった正気の者には意味不明の革命的アジテーション(戯言)を絶えず叫び散らしており、アニメやエロゲのキャラクターと結婚し、子まで成そうという先鋭的革命的な新時代の先取者である。これらの者たちの行いは統合失調的生存様式の究極の目的、即ち宇宙の熱死に差し向けられているのであり、存在論的革命の先鋒である。

 かような時代において存在の言葉を語り、真の世界性を孕んだ文学徒たろうとする者はどのように振舞えばよいのか。彼のことを精神遅滞者でいっぱいの掲示板に現われた有能なエンターテイメント担当のオフィサーだと考えてみたまえ。彼はあちらの掲示板で火を放ち、そっちの掲示板には放射性物質をまきちらし、こちらの掲示板では存在論的差異を爆裂させる。するとどうだ、突然、早発性痴呆症患者たちが覚醒する。この掲示板という生存様式が流れ着くはるかな岸辺、驚愕の新世紀への扉が開かれるのだ。

 先鋭的文学が生みだそうとしているのは、自らの精神の異常性を実験的近未来的に追求深化することによって獲得するリアルの真相との接点であり、文学者の脳は電脳空間ワイヤードに接続されることによってその実存的単独性を超越し、新世紀の存在論を追及する電脳生理システムとしてワイヤードに再組織化されなければならない。地球の固有振動とシンクロし、創造的新化の果てに絶対精神に触れるのだ。わらぃ。
 耳を澄まして御覧なさい。真空放電するような音の背後に電線の唸る音が聞こえる。かつて神のいた場所は空虚だ。ワイヤードにたどり着いた先鋭的イマジネーション(妄想像力)は新たなる存在論を生み出すべく真空の宙空に差し向けられてあるのだ。
 脳内のパラボラアンテナを高くかかげよ! 150億万光年の宇宙を受肉し、始原と終末を生きるのだ。
 神は遍在する。そこに、ここに、どこかに。


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文学極道

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