文学極道 blog

文学極道の発起人・スタッフによるブログ

2009年11月分選考・選評(阿部嘉昭)

2009-12-28 (月) 22:36 by 文学極道スタッフ

3975 : FUTAGO  debaser ('09/11/26 15:26:12)
「漫才詩」というジャンルがこの詩篇で構築されたのかもしれない。
関西弁の対話が、「 」などの指示性なしに無媒介に行き来することで
何か柔かさみたいなものが生じる。ズレがあって、随所にオチもある。
「マナカナ」と表記されるべきところが「もなかな」になっているのには
社会的な芸人配慮というよりもアバウトさで笑かそうとする
一種、暴力的なものが内在されているためとおもった。
同じ顔・体格・性格のおっさんが喧嘩すれば、
どの瞬間もすべて「相打ち」になる――
そういう状況が実際にあったとき本当は哲学的恐怖に囚われるはずで、
この詩はその恐怖を下敷きに軽妙な会話体に昇華されているから笑えるのだ。
ただし《「相打ち」の連続によって最終的に
「同一なのに敵対する相互」がどうなるか》を、詩篇は示唆しないまま
「末っ子」談義へと「豊饒に」横ズレしてしまう。これもアリかな、と。
《 》で括った設問にたいしては僕の答えを書いておこう。
1)『ちびくろサンボ』の虎のように、バターになる。
2)ウロボロス図形(運動)のように、ゼロと円環を同時示唆するようになる。
同じ犬種がすべて同じ顔をしている、という「乱暴」も面白いし、
ふたご一組を「一」とみて双頭・双身・四本腕足の存在を考えるラストも
「詩篇のまとめの位置」をズラしていて、とぼけた味すらある。
引用しにくい詩篇なので、引用はしないが、
山田亮太さんの『ジャイアント・フィールド』の双子詩篇と拮抗しているとおもう。

3989 : トトメス3世  右肩 ('09/11/30 22:36:47)
前足で首の裏を掻く猫にある衝動とは何か。
ひもすがら半睡の状態にある猫の夢を何が領しているのか。
そういうことを考えるとき「人間外の論理」が
リアル=非リアリスティックな寓喩として出来する。
この詩篇にあるのは、そういった動物凝視によってもたらされる恐怖に近いもので、
実は、動物に畏敬を感じれば感じるほどその恐怖も強大化するはずだ。
だから猫の名もエジプトの王の名だった。
片や行分け体、片や散文体という違いはありながら、
村上昭夫の動物詩篇群とも匹敵する佳篇だとおもった。
そうそう、随所に静かながら爆発的修辞が仕込まれている。とりわけ、
《飴色の鼠の大群が押し寄せて、彼の眠りの海の中へずぶずぶと押し入ってくるのです》の
「飴色の鼠の大群」には何か仏教的・数珠的なものを感じてしまった。
最終聯、「懐旧」の文脈に収束するのが少し弱いかもしれない。
「天竜川」の地名表示、良いなあ。あの鉄橋が流されたのはいつだったか・・・
(すごいニュース映像だったことだけ記憶にのこっている)

3961 : 墓参り  小ゼッケン ('09/11/21 11:03:06)
女性的なものと「水」には想像力上、関連がある。
涙、淫水などから女性の組成実質を水と見極める想像力は
やがて女性との性交渉を水流に翻弄される時間と捉え、
それで女性と水の混交体としてオフィリアや人魚などの類型まで産んでゆく。
外出から戻って濡れた躯をタオルで相手が拭こうとしても雫が滴りやまない女。
その水滴が防護膜となって、主体の接近まで禁ずる女。
そうした着眼だけで詩世界の十分な成立条件になっているはずなのに転調が加算される。
《ぼくがそういうことをしている間、じつは彼女の方もぼくから視線を外すことはなかった/ただぼくを見つめるためだけに帰ってきたらしい/ただそれだけのため//
生きているとき/それらのことごとをいちいち愛と呼んだのはなぜだったんだろう》
黙契儀式にすぎない愛。進展しないが信頼のある愛。
この主体介入を禁じられた「静かな愛」については
主体の「死(に体)」が暗示されることで状況解決がなされる。
となると冒頭からあふれていた「水滴」は死後世界の物質性だったという納得がくる。
「な〜んだ」というひともいるかもしれない。
ただし詩篇は「主体介入が不能になった愛」がいかに濡れやまないか、
そうした凄絶を現在的に問うていると見るべきだ。僕はそう見た。

3987 : 水玉の丘  はなび ('09/11/30 14:55:58)
ひらがな書き、七音連鎖、四行一聯などの「外装」が童謡的なものを意識させつつ
内実は性愛の悲劇性が描かれているとおもった。
《なになになあに/わたくしたちが/あいしたことは/たいようのした》
が前段。その次に「性愛は外科手術に似ている」というボードレールの箴言どおり、
《たいようのした/おなかのなかに/てをいれあって》が来る。
人体の多孔性という、おそろしいヴィジョンが到来しているのではないか。
さらに「子供言葉」で性愛の実相が陰惨に広がってゆく。
《ぎゅっとつかんで/ひっぱるように/おだんごになって/ころがってゆく》。
このような世界を感知したとき、題名の「水玉の丘」とは何か。
性愛用の寝床だという点は自明だが、それは糖衣にくるまれた罠であり、
しかも水玉=ドットは、性愛的身体が最終的に飛散することを暗示しているのではないか。
掲出した最後の部分は、身体が球形になって転落してゆくことを謳っている。

3969 : 流星  リリィ ('09/11/23 20:25:28)
一人称主語を省略し、主体動作だけをしめす動詞を
飛躍を交えて林立させるとき、
詩はその主体、その身体の実在性をじつは高度に訴えかけてゆく。
その点では西中行久などの詩篇に素晴らしい実例があるのだけれど、
この「流星」もおなじ域に達しているとおもった。
父にいわれた流星群をみるという試みが流産して、
もとの場所に帰るという、結実性では「無」にひとしい行動が
結果的に描写されたとわかるのだが、
このことにより、身体そのものが流星のような通過体へと昇華し、
地上もそうした身体のいわば「通過媒質」へと様変わりするのだった。
美しい。詩句の流れを噛みしめれば噛みしめるほどに美しい。
アッと息を飲んだイマージュ連鎖は以下。
《帰り際、扇形の街を見る/そこに吹く風を感じられず/頭上で星が燃えているだろうから/いま、そこに帰る》。
「扇」に動悸した。麓の街はいつもその形にみえるしかない。
「そこに帰る」というとき、扇形がすでに誘引の要素になっていて、
淋しい身体だけがたぶんそういうことを知っている。
「淋しい身体の帰趨」。通過を実質化するものが唯一「足跡」だったとすれば、
その足跡は他人の足跡にすでにまぎれ、
しかも最終的には降雪の予感によりそれすら消されてしまう。
それは・いつも・二重に・消される・・・

3970 : あなたの街の夜  鈴屋 ('09/11/23 23:24:31 *1)
ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』という小説の祖型がある。
行方を探しても探しても、一旦みつかったその足取りは
さらに未知の前方をしめしている、という女がいて、
その女のために捜査行そのものまでが捜査化されてしまう。
宮部みゆきの『火車』などでこの着想はさらに現代化された。
これらはいわばフィルムノワールにつうじる「型」だが、
映画にはならない。つまり「追う対象」が映像化されると
「捜査」の構造がたちまち台無しになってしまうからで
(かといって対象が映らないと観客が欲求不満になる)、
たとえば崔洋一が『火車』の映像化で
対象を安直に映像化してしまう無神経な失敗を犯したこともあった。
探すことのなかに探すことが内包され、
そうして捜査対象のイマージュが脱イマージュ化されてゆく――
僕はこの詩篇を、『幻の女』の文化系列のなかで
そのような詩化を目論んだ高度な文化批評だと受け取った。
第二聯でアッとなる。
《眸は暮れ、唇は雲に刷かれ/空を噛むあなたの歯形が街になった、つきない嘘が窓をならべた/そ知らぬふりをしているので、外灯の灯が坂を駆け》
「あなた」の細部は外景の個々へと分裂的に転位される。
結果、「あなた」は気配となり、外景そのものがあなたの遍在を暗示するものとなる。
これは「あなた」が光学迷彩をつかっているのでないかぎり、
主体の狂気のほうを表していると考えるべきだ。情念が転写されすぎているのだ。
じつはそういう主体性によって詩的修辞も緊迫化しているとみるべきだろう。
《ついに私はあなたの液体を知らない》という結語らしく見えるフレーズには
液体的流動性を否定する語がちゃんと前置されている。
曰く、「化石の子宮」「電飾の娼婦」。
石胎(うまずめ)礼賛、電飾礼賛、娼婦礼賛はすべて19世紀末の嗜好。
しかも前二者なら僕の大好きなリラダンの嗜好だ。
意外に幅のひろい文化圏にわたっている詩篇なのではないか。

3925 : 木陰  田中智章 ('09/11/07 09:08:38)
助詞がズレ、主述の関係性がズレるというのは
平出隆、稲川方人などに代表される70年代後半のラディカルな詩の特徴で、
それらの作例は、「修辞」の巧拙とは別の次元にあった。
つまり、詩文そのものを破壊しなければ
以後、詩作者の作業すべてが相対比較の渦に飲まれるという、
そんな真摯な危機意識の表れだったとおもう。
その手の詩はいま振り返ると
美術潮流ではキュビズムに似ていたな、とも感じる。
この作者もズレによって非常に複雑な感情や身体観を表現する。
ただ題名「木陰」にしめされているように、
散歩のあと、足をとめて、佇みだけをおこなっている「ようにみえる」のが
少し問題かもしれない。
つまりものすごく繊細な抒情性に貫かれているのに、
主体が動かないのならば、それはやはり
修辞の巧拙の問題に帰着してしまうと考えるからだ。
ただしこれほどの詩文は、現代詩壇の若手の多くにも操れないとはおもう。
ラストを引いておこう。

「私であっても」と微笑み顔が打ち付けられる声をあげても、すぐに乾いてしまう暑さに別れを結ぶ昼の収まりは水溜まりの姿に、ゆるく反映してその風景で解かれる人形の糸屑を見送る。

構文が破壊され、言葉のパーツ性があらわになって
それでもなおギリギリで言葉の連鎖性が確保され、
そこに詩性が、静かな電撃性をもって宿るというのは、
近藤弘文の詩などとも共通する。
僕は近藤君の詩だと、オーネット・コールマンをおもいうかべる。
そうか、コールマンも見方によってはキュビズムともいえるな。
フレーズを吹く角度が融通無碍に変わるから
多面的立方体が時間軸に現れるんだ。

3946 : クリティカル  葛西佑也 ('09/11/14 02:54:51)
ヘンな表記の一行目に、すでに詩篇の多元性意識があるのではないか。転記。
《く、うるしい? ふーあー。く、うるしい?》。
「ふーあー」は鼻の詰まった喘ぎでありながら、
疑問文「Who are you?」の「未遂」形だとはのちのちわかる。
では「く、うるしい?」とは何だろうか。
「く=苦」と皮膚かぶれの赤=「漆(うるし)」に分離されつつ、
「うるしい」は「うれしい」にも容易に変化しそうだ。
「きみ」の名前はもしかしたら「るうしい(LUCY)」かもしれない。
え、もしかして、ルーシー・リュウ!?(笑)。
何しろそういうへんてこな第一聯の一行があって(このモチーフは続く)、
第二聯では「おじさんがアオザイ人形をベトナム土産で買った」話が
そのメール文脈から間接的に伝わり、
第三聯で「きみ」の「ぼく」の性的関係が唐突にあらわになる。
映画の類推でいえば、前衛的なのにツカミのある出だし。
やがてふたりの齟齬が、聯を挟んだ次の会話応酬で判明する。
《「ぼく、きみのすべてが欲しいんだ」/「全部あなたのもの、なっちゃったら、わたしってものがなくなっちゃうじゃないの」》
1)性的に対象の全体が好きなこと。
2)男が女に挿入して、その女が、男の身体の延長された位置を形成すること。
3)女が服を着ることで自分の躯を「拘禁」し、しかもその衣服の下までも隠しながら、
同時に衣服を着ることが裸体化のメタ作用ともなってしまうこと。
この1〜3がすべて等しいという哲学がこの詩篇の底に伏在しているのではないか。
ベトナム装束の転用といえば、ゴダールの映画で一瞬、
べトコン姿に身を「やつした」アンナ・カリーナの姿が印象ぶかいが、
この詩篇の主体は、アオザイを着る恋人の姿を想像する。
アオザイはたぶん拘禁性のつよいワンピースだが、
スカート部分にはスリットが入っていて動きやすいらしい。
つまりそれは拘禁ののち、「流れ出る身体」を予定していて、その意味で
たぶんアオザイを着ることとセックスをすることは同じなのではないか。
そういう認知と、《ふたりとも何もまとっていないということで、ぼくはぼくをまとい、きみはきみをまとっている。》という詩句が
複雑にスパークするようにおもう。そういうスパークが極上。
ただし僕はこの詩には無駄があるともおもう。

3948 : THE THINGS WE DO FOR LOVE。  田中宏輔 ('09/11/16 00:02:51 *8)
田中宏輔の個々の詩篇の巧拙をいうのはバカげているけれども
この詩篇はいつもより少し調子が低いかなあ、という気もする。
理由は僕のなかでははっきりしている。
宏輔氏、湊氏、荒木氏の会話の交わされる場所が宏輔氏の居宅――
つまり移動中の都市ではないわけで、
結果、発語に漂泊性がないからではないかとおもう。
だから言葉はどんなに無方向な出現であっても
定着的に加算、というか重複してゆく。
言葉が光芒となって消えてゆかないのだ。
それでも、おそるべき哲学的考察が伏流している。こういうことだ。
ヴィトゲンシュタインが英訳も監修していて、
ドイツ語の「イメージ」にあたる語を「picture」とすることを促した点。
与謝野晶子の『源氏物語』「夢の浮き橋」訳文で、
「ものをこそおもへ」が強調される点。
この「もの」とは、対象=イメージでありながら、
もしかすると、「物狂い」の「もの」や
「魅(もの)=鬼」という、アニミズム的「もの」までふくんでいるかもしれない。
ヴィトゲンシュタインの「picture」はそこに接続され、
この「接続」にも「夢の浮き橋」の橋梁性・架橋性が関与している
――そういう読解が可能だとおもう。
そこで大分経っての湊氏の、
《ぼくなんか/いつも/なにか考えるときは/考えてるものと/その考えてる自分というものとは不可分だってこと/考えちゃうんだよね〜。》の発言が入ってくる。
「思考の不可能性を感じたときは対象を開け放っておく」
というヴィトゲンシュタイン的な論理命題がまずあって、
ただその思考の不可能とは、対象に自分がすでにふくまれているからだという
註釈がここでなされているような気がする。
一方で、「考えること」は「分けること(分節化すること)」
という宏輔氏の直感もしめされ(ここでは二項分立以上をおもうべきだ)、
そうなると対象を考えることは、自身を分断することと同義だという恐ろしい哲学が
滲むように「そこ」に舞い込んでくる。イメージとはそういう磁圏なのだ。
じつはここに「ブスカワ」の性愛対象とか
宏輔氏の「乳首」の問題とかが絡んでくる。
つまり「愛の浮き橋」を架け、対象をイメージ化し愛することは、
対象の分断と対象の不能性を、自己分裂の責任において引き入れながら
それを自己身体的なレベルで「馴致」することなのではないか。
さてここで詩篇タイトルを振り返ってほしい。
そう、それは《われわれが愛のためにすることども》だった。
なんという哲学談義だったろう。ただ今回はリズムがやや躍動していない。

3956 : 十一月、波打際  はかいし ('09/11/17 17:13:28)
「産声をあげ」「胎動する」海というのは奇異なイメージだ。
海がそういうものだとは一般的な了解事項だとはいえ、
この詩篇においては奇異なのだ。
作者側にそのイメージの要因がある。
ひとつは「はじまり」が作者の側にもありながら
それが「恥」と頭韻をむすぶことで分裂が結果されているからだろう。
それと海から引き出されたものがある――「鞠」だ。
海の運動への反意のように運動しているそれは、
たぶん増殖可能なシミュラクル、価値の媒介質のようなものではないか。
そのような複雑なものを自己に装填して、この湘南の海の叙景詩が書かれている。
結果、対象=海と、自己の弁別が曖昧になってゆく。三聯――
《本当は留まっていたかったんだろう。鳴動。は薄れて、日暮れまで届かないうちに、距離は失われ、気がつけば心臓を通り過ぎていた。重なることはない。影たちに、あなたは、濡らされて。はじ、は恥、まり、は魔力だったんだ、空が遠くから、海も遠くから、見ていたんだろうな、》
ここでの「あなた」は離人症的に見られた自己だとおもう。
ともあれ海はたしかに奇怪な修辞であるにせよ詩篇内に運動体として定着される。
その反面で、自己が失われる。だからこの詩篇が熾烈だとおもう。

3943 : 生育暦  村田麻衣子 ('09/11/12 22:21:22)
「きみ」を「わたし」の居住域に引き入れる。それは台風の日。
「きみ」は裸で、傘だけを着ていたがそれを脱がす。
「きみ」は白く、恥じらいぶかく、部屋の植物にも笑われる。
それでも「きみ」には固有の生育暦があって
それを眼前にひらくために柑橘をともに食べたりする。
「きみ」の来歴の極点は「きみ」の前髪を切った「はは」だ。
結露と分離の日々をすごし、「わたし」はとうとう「きみのはは」の
災害禍による死を実感する。
――とまあ、詩篇細部を砕きつつ接合するとこんな意味がつくれるようだが、
誰もがこの詩篇を最初に読んだときは
省略やズレが孕まれたり、対象化を拒んでいる修辞に幻惑されて、
読解中ただ「謎」と修辞の新しさにのみ魅了されてゆくのではないか。
展開も冗長になるようにみえて、どこかで歯止めがかかっていて、
いわば言語化できない情緒のようなものが
一種の透明性のなかにあふれだしていると感じられる。
詩作にすごく慣れたひとの、満を持した一篇なのではないか。
とりわけ好きな聯を引く。

きみは柑橘の薄皮を、爪できれいに剥いて、
分け合った種の最後のひと粒をたべない。
退化していくさまざまな機能を食べずに
腹の奥で響かせ ハミング
積まれない音と昔を、重ねて歌った
花の種を埋めた。みどりも、いずれあかる
いいろに隠される。
その影が消失したら、目の色が薄くなる。
午後がながくなって

3937 : 雨  はなび ('09/11/10 22:01:09 *1)
眼前の「あなた」への退屈と、「あなた」の虚偽からくる意気阻喪が
さらに「あめ」へと意識をずらす要因となる。
そのとき「あめ」もまた倦んだ意識をもつという逆転が
するり、という感じで入ってくる。この手品に快哉を叫びたくなりました。
全篇ひらがなだけ、という企みによってこそ、この達成がある。
ボブ・ディランの「スーナー・オア・レイター」の歌詞の一節もおもいだしました。
《きみがなにをいっているのかよくわからなかった/きみのすかーふがきみのくちもとをずっとかくしていたので〔…〕//いつゆきがふりだしたんだろ》

3940 : HOUSES OF THE HOLY。  田中宏輔 ('09/11/11 18:03:41 *6)
またもや天才の仕業。「聖なる館」と題されている。
しかも今度は「構成の妙」というお土産までついている。
映画でいうカットバックの手法で
「ぼく」(相手からは「たなやん」と呼ばれる)と「エイジ」の
「発展」に向けての愛語の交換と、
「鳩が鳩を襲う。」という書き出しから展開される
同一性にたいする動物の虐待行動とが、途中まで交互する。
そのなかで「エイジ」という「ぼく」の新恋人候補が
激情に駆られがちで、光源的な野性をもっていると知れてくる
(この人物描写の彫り込みが、前の恋人との別れの姿などを通じて抜群で、
「唇が厚い」という特質もたとえばミック・ジャガーみたいだ。
しかもそのキャラがほぼ会話内容によって伝わっているというのが
たとえば小説を書いても抜群の足跡を残すだろう田中宏輔の天才性だ)。
ところで読者が身構えるのは、どんな個性差があろうとも
ゲイはゲイであるがゆえに「同属」で、
よって鳩が鳩を、猿が猿を攻撃するときのような執拗な残酷を
極まって出来させてしまうのではないかという暗い予感からだ。
つまり「たなやん」の新しい恋の邂逅には
この詩の構成上、あらかじめ暗雲が垂れ込めているのだった。
凡人なら詩はその感慨を語って終わるところだろうが、
このあとに宏輔詩特有の「ズレ」の結合がくる。
時空が跳んで、関東大震災の渦中にエイジがまず入り、
燃え盛る炎にたいし、預言者ダニエルよろしく「凍れ!」と呪詛を投げる。
そのようにしてエイジの気高い獣性が夢想される。
しかし炎はやむことなく、鳩も猿も阿鼻叫喚地獄の一員となる。
また動物寓喩をもちいた反作用として、動物詩の本尊、ポオの「大鴉」も召喚され、
そのリフレイン「ふたたびないnevermore」が
その後の光の実質を告げるものとして水面下で用意される。
「ぼく=たなやん」のロマンチックな夢想はつづく。
エイジとの雪合戦はコクトー『恐るべき子供たち』の初景からの類推だろうか。
そうしてやたらと泣ける一節がついに登場する。引用しよう(改行表示は変える)。

「たなやん。おれ、忘れてたわ。おれの帽子。」
「たなやん。おれ、忘れてたわ。おれのマフラー。」
たなやん。おれの、おれの、おれの。

相手側の崇高な自己中心性と呼ぶべきなのだろう。それが木霊している。
「ぼく=たなやん」への侵食予感も、これで決定づけられたといってもいい。
けれども詩句は、「たなやん」という呼びかけには心ときめかせているのだ。
悲劇的水位がいよいよ高まってきている。
そこにポーン、と入る英文の一行。
THE SONGS REMAINS THE SAME。
歌は同じままだった(同じ歌は永久にくりかえされる)。
NevermoreとRemains the sameという二原理によって引き裂かれる
「思い出の時間」はここからやってきた、といってもよい。
こうして圧倒的な詩的宣言がついに生ずる。

どうして、
光は思い出すのだろう。
どうして、
光は忘れないのだろう。
光は、すべてを憶えている。
光は、なにひとつ忘れない。
なぜなら、光はけっして直進しないからである。

最後の一行は、アインシュタイン学説によって補強された法則だとおもうが、
光が粒子説・波動説双方を併呑するということは
光自体がたゆたいの領域をもっているということであって、
「したがって光は再帰性をもつ=すべてを憶えている」。
この記憶をもった光のなかで、「ぼく」の記憶もエイジの記憶も
不全で卑小な「投影」にしかすぎないだろう――詩篇の裏側にはそんな直感もあるはずだ。
このような気宇壮大な局面まできて、
詩はさらに反転、父親について「ぼく」が見た夢から、家族の思い出へと
斜めに接木される。こうしてこの圧倒的な詩篇も終わる。
時系列的に全体を追ってみたが、この詩篇のぬきんでているゆえんは
随所に語られたとおもうので、結論的に繰り返すことはもうしないでおこう。

3980 : 子供の病院  ヒダ・リテ ('09/11/28 06:49:19)
おっとりと、というべきか、詩世界が穏やかに更新されてゆく。読みやすい。
随所に可愛いアイデアが盛られていることが、そのまま詩の推進力になっている。
主題は、悩める大人を、子供が、子供世界の価値観で「処方」するというもので、
逆転は、その原構図とともに、
「処方」に子供特有の遊戯性と猥雑が入っている点からも、もたらされる。
ただ個人的な意見をいわせてもらえれば、行儀がよすぎるのではないか。
子供が「夢想によって実際は狂人だ」という見解こそが、入るべきだった。
それと「涙が出ない」など、大人の苦悩がメルヘン的に抽象化(矮小化)されている点も
限界をつくってしまった要因におもえます。

3982 : 工作員  岩尾忍 ('09/11/28 22:27:18)
試しに、散文詩をつくり任意に伏字箇所を設定してみる。
その伏字にすべて「工作員」を代入してみる。
すると主体も対象も、ポイントになる名詞もならない名詞も
すべて「工作員」の氾濫となって、因果的な崩壊が起こる。
というようなことを岩尾さんは予め先取りして
この詩篇を書いたのだろう。笑えるのだが
笑えるときにはこの詩篇が高速で朗読される光景をおもいうかべてもいる。
いずれにせよ「工作員」というヒッチコック的高尚語が日本的ショモなさに脱臼され、
「工作員」という同語の回転からスラップスティックが駆動してくる。
文法逸脱の瞬間としては、
《社を出た時は工作員半を過ぎていた。家には「飲んで帰るので工作員はいらない」と工作員をいれておき、》
などが挙げられるのだが、たとえば
一度目の「工作員」は「六時」、二度目には「ご飯」、三度目には「ケータイ連絡」など
容易に解答らしきものも入ってしまう。
このように伏字性が効果をあげていないボロさこそがこの詩篇のユーモアで、
実際、高等な遊戯に属するとおもう。繰り返すが、朗読の状態を聴いてみたい。

3947 : ギリー・ド・ヴァランス  坂口香野 ('09/11/14 18:46:12 *1)
知らないカタカナ用語(刺繍用語?)が多すぎて理解できた自信がまったくない。
ただ言葉が柔かく、全体が別系統の言葉の混交してゆく言語運動体になっていて、
すごく感触がポップだとおもいました。
それと「ギリーさん」と主体の関係がよく理解できなかった面もあります。
単なる曖昧な印象批評になってしまいましたが、これでご勘弁。
評価したのは、読んでいるときのリズムがよかったからです。
カタカナの舞い込んでくるリズムが意表を突いているということかもしれない。
それと書き出しの可憐さも素晴らしい。
《いいよ、待つから。/鳩のような声が出た。》

3977 : 熱  蛾兆ボルカ ('09/11/26 23:36:17)
風邪による発熱と悪寒によって
冬の海の冷えと荒れを欲する――
ただし身体まるごとを海へ投擲するのではなく、
枕辺に来た「君」からの話として海を欲する。
詩篇には身体をもつことの心もとなさとともに腰砕けの精神などが、
「君」への愛着の主題に付帯していて、
たしかにこの瀟洒な多元性が辻征夫「かぜのひきかた」などとも共通する。
しかしここでは斉藤斎藤の次の一首を対置させよう。
《ふとんの上でおかゆをすするあと何度なおる病にかかれるだろう》。
詩篇中の顔文字については、僕は厭だ。年齢的な問題かもしれないが。

3972 : 白黒  ヨルノテガム ('09/11/24 14:23:47)
計三章の長詩。さまざまなアイデアというか
「白黒」の瞬間的視界を盛り込んだ細部がひしめくが、
たぶん自分で達成感のあるフレーズが貼られただけで、
全体的有機性/連関が薄いのではないかとおもった。
真の並列状。そしてむしろ、そのことを評価した。
全体組成はおもに詩聯に、一行詩ではなく俳句が乱入するというかたち。
その俳句は、上五・中七・下五の句分節ごとに一字空白が入る素人式で
かつ音韻が厳密になっていないという「いい加減」形。
それが面白かった。しかも次の行に、字下げで七・七音らしきものが入り、
短歌が偽装される場合もある。
あるフレーズが「ひょんなことで」別ジャンルになるということ。
タイトル「白黒」と主題的にリンクする擬似俳句のなかでは、
《シマウマが 白黒映画を 振り、振り向く》がとくに素晴らしい。
この作者は、書くうちに変貌の予感といったものが舞い込むタイプだろう。
だから、レイアウトに凝った幾何学的な形体詩の部分にも
作為性を感じず、爽やかな印象がのこる。一例。

ある日 
女の顔が花で
ジュースを飲んでて
女の口が花でジュースを
チュウチュウしていて横顔が
ちょっとした絵のようで 絵になるよ、と
言って 服を脱がせた それ以来
何も見ていないような目で
起きて寝て素晴らしい
日が次々と来る
ようだった

上は、掌篇小説のような味わいもある。
そして「女」という語の、最高の用例だともおもう。
この詩篇は田中宏輔の詩とはちがい、全体がもう少し短くなっていれば
評価がさらに高まるのではないかとおもった。
宏輔詩には冗長な部分がなく、
どんなに長くても「もう終わるのか」という「残念」が生ずるのだけど。

3968 : カメ虫  はるらん ('09/11/23 18:29:58)
散文的な現実の諸相(しかも虫にまつわる)を連鎖して
エッセイ詩というべきものが見事に完成されている。
この詩篇の読解は波状性&遡行性&遅効性の複合で来る。
まず「小2の娘」がキャラとして魅力的。
「虫愛づる姫」かとおもうと残酷で移り気で、
冷蔵庫に捕獲した虫を入れたのだとわかるラストが印象にのこる。
ついでその娘の母――つまり作者の働くパン屋で
「カメ虫」と遭遇したエピソードが、
正しい「虫愛づる姫」のそれだったという事後的認知が来る。
そうなって、作品は昆虫を媒介に、
世代遺伝的時間のはるけさを謳っていたという最終認知も訪れる。
この読後感の段階性が素晴らしいのだが、
そうさせるためにこそ構成が考え抜かれていたということだろう。

3973 : 北枕  梓ゆい ('09/11/24 19:51:05)
祖父の死が、静かで研ぎ澄まされた修辞で描写される。
読み手は一瞬の理解の遅延ののち、視像を得て、
老人の屍骸の実際が、眼前に大きく広がるのを感じるはずだ。
結果的には描写主体の詩篇になっているが工夫がある。
( )で括られた部分が詩篇の現在に挿入され、
時間が多重化されているのだった。そこを引く――
《(冷凍焼けの豚肉を、昨日捨てた。/豚汁が大好きな祖父は、/猫舌と格闘しながら/二杯三杯とおかわりを続けた。)》。
豚肉を冷凍して、肉が氷温で黒色に焼けてゆく時間は半年間くらいだろうか。
そのあいだ介護がずっと十全でなかった点を作者は悔いているのだが、
その「悔い」と「冷凍焼けの豚肉」は喩的に強固に結合されているのだった。
その結合の向こうに、元気だったずっと昔の祖父の像が出てきて、
今度は「冷凍焼け」とは逆の、熱さへの生体の生き生きとした反応が一語で描かれる。
それが「猫舌」だった。
この作者はイメージ形成力において抑制力とともに
目覚しい創意をも、もっているのではないか。

3959 : 空便  破片 ('09/11/20 09:27:46)
鉄路と、飛行機が飛ぶだろう空の航路。
そのふたつの分断・齟齬を意識することで
終着駅に着いた地上の鉄路は草の膠着をより受ける――
省略の多い詩篇だから読解も分化するはずだが、
僕はこの詩篇を上記のような文脈として読んだ。
ローカル線に作者は乗って、上空に飛行機の飛翔を見た。
夏の北海道での体験だったのではないか。
この詩篇のように、一行字数を減らして改行を重ねてゆくと
僕の経験では詩篇はいくら助詞などで脱臼を仕込もうと
意味形成速度が速くなって印象が平準化してしまう。
それを巧みに防備するこの詩篇の言葉捌きが好きだ。翳りが多い、ということ。
一番良いとおもえる第二聯をペーストしておこう。
《閑散と、誰も/なくて/数えるほど通らない/車両の/目的地がここ/であったのに、/下方の終着は/ようやく/辿りついた/寂しげなホームと/重ならず、/遠くの山へ/不時着している/錯覚だった》

3922 : 防波堤(連作)  いかいか ('09/11/06 17:31:42)
短詩連作というのは、西脇『旅人かへらず』のように余白感が命で、
この連作の余白感も「良い感じ」だとおもう
(詩篇中にある「天気」の語からとりわけ西脇を感じた)。
ただ「断末魔」「傷」「危篤」「怪談」「喪」といった
マイナス価値に寄る詩語の重なりが僕にとっては少々重い。
その意味で素晴らしいのは以下の二詩篇ではないか。

03

空を飛んで、立法する、
そしてやさしい数学
のはじまり

04

憂鬱の有袋類、
やわらかくなった、
危機、

03では「立法」の語に動悸しつつ空の広がりが見え、
04ではオセアニア大陸のやさしい衰退がこれまた広がりを伴って見えた。
全体にもう少し有機的つながりと連句的ズレが感じられれば
評価もさらに高くなったとおもう。

3952 : 未来水晶  ぷう ('09/11/16 17:18:22)
未来を透視しようと、水晶を眼前に置く。
そこまでがこの詩篇を理解するための通常性だとして、
水晶は「崩落の水」であって映る主体の像を流動させ、
それは周囲から消えた雨を代位してもいて、
だからこそその機微を伝えるため
構文は曖昧な連用どめを駆使しようとしている。
部分的には美しいイメージが多々あるのだが、
水の縁語が多いことから同語反復性を感じてしまうのが難。
それと主語を消すことで達成されていた危うさが
たった一回使用される「ぼく」によって減殺されてしまう点も惜しい。
もう一個、鍵語が詩篇中にある――「デジャヴ」だ。
しかし既視性が未来に投影され未来が実体化するというのなら
(そうは読めないところでもあるのだが)
この詩での美点、未来の漠たる流動性のほうが実際は瓦解してしまう。
それと、冒頭一行から感じられる雨音を意識するのなら
現れるのは「デジャリュ」でもよかったかもしれない。
言葉が狂奔して美しいとおもった一聯を引いておく。
《くっきりと思えたその美しさを閉じる、躰はそっと砕け散る欠片をわけ、追いかけるような匂い、水晶の一部と思えたようなデジャヴが、眼を開いていく重みをわけ、ばらまかれたその美しさと無限の存在のように知る、それでも、気がしたような、思い切りでいるしかなかったように左右をつくる、未来を胸につかんで、思い切りであったろうその残骸はきっと。》

3950 : 劣情  古月 ('09/11/16 01:04:58)
トータルイメージの掴みにくい(割れる)詩篇だとおもう。
もしかすると以下の解釈も的外れかもしれないが、臆せずに書く。
――なぜか羊水の空間に浮かぶ、性徴を迎えた十八歳少女の裸体。
それをみえない水中の触手(うろこのない蛇)が賞玩してゆく。
この触手は詩の主体の想像力(劣情)でもある。
躯に円みを帯びた細部や隠しどころがあるのがその理由だが、
やがて円みへの幻想は閉じられた瞼の下の眼球に焦点を定める。
しかし羊水のなかでは眠りが掟であるから
閉じた瞳からわずかに漏れる泡(涙)の円みを水の触手が捕獲するだけだ。
むろん多大な想像力を導入したこの設定による劣情は、
時差も性差もを果敢に超えてゆくだろう。それで、
《君に生まれる前の君が見る夢の続きに君が選んだ
十八年前の六月の雨の夜に君を産む女になりたい》。
劣情がこれほど大きなものと掴みうる賛歌として詩篇全体が着想されている。
だからエロチック「かつ」明るい。好きな詩篇です(もしかして読み違い?)。

3931 : 午睡  荒木時彦 ('09/11/09 21:41:32)
少ない言葉で書かれたことで全体に有機結合が生じ、
それで喩がどこまで遡行するか、この点が測られた実験詩の趣がある。
むろんモダニズム短詩とも感触が通じる。
最初のポイントは二行目の「イオニア式」。
この言葉で場所がギリシャという見当がつき、
まずは全面、白い空間が読者の眼前に浮かび上がる。
次いで出てくる「カモメ」も白。
それがあって、ラストの聯で
《色彩ではなく/白の痕跡だけが残る》とあるから、
最初の行の「三匹の犬」もじつは白色で、
詩篇の全体が「白×白×白×白」、白の四乗だという判断が
遡及的に生じてゆくのだ。
しかもマグリットの「これはパイプではない」ではないが、
「色彩ではなく」の限定辞が付いていてこれが一旦謎となる。
たぶん、同一色の四乗、これもまた作者のなかで「白」なのではないか。
この方式でゆくと、黒の四乗さえも、白を結果することになるが、
それは三原色の円盤を回転させると全体が白光になることに等しい。
となると詩篇にあふれていたのは、
一回も明示的に書かれてはいなかった「光」だったということにもなる。

3932 : 鮒  がれき ('09/11/09 22:28:24)
ところどころ途轍もない修辞がきしきし鳴っているのはたしかだ。
ただ題名の「鮒」が抱擁の際の幻視物とするようには
読者の感性も働いてゆかないとおもう。
しかも「鮒」ややがて水槽中にいると暴露されて
そこでトポロジーが完全に混乱する。これが第一の失点だとすると、
第二の失点は、末尾の「おとうとよ…」だろう。
これが正真正銘の近親相姦でなければ、ゲイ的愛での年少者への呼びかけだろうが、
どちらにせよ、「物語」の意匠がラストで無媒介にまとわりついて鼻白む。
なのに、三聯の翳りを帯びた言葉の運びの得がたさは何なのか。
あるいは《見わたせば池はまばらに凪いで》という詩句の素晴らしさは何なのか。
言及した三聯をペーストしておこう。

話すこともした
倉庫の窓に
木目にも似た粘土がつく日は
昼間は図鑑に読みふけった
私たちは一般に足音をかさね声をつづけて
捕獲の文字を
きつい夢のガラスにおき
茶色く焦げる噴水の曲りでも再会した

実力は瞭然としているとおもう。
次の詩ではその全篇細部に真摯さと注意力を投げてほしい。

3921 : ある街から  荒木時彦 ('09/11/05 20:41:14)
すごく整然とした短詩。
ならば余計に一行目が要らないのじゃないかとおもう。
加えて第四聯中の「そして」も。
そうすると、「陽の光に」の呼びかけにたいし次の三行、
「陽の傾きが」の呼びかけにたいし次の三行、となって、
全体がシンメトリーを意識した定型詩っぽくなる。
ピエール・ルイスの贋サッフォー詩みたいに。
古典詩的風格は得がたい。家並の黒と街路の緑によって全体矩形となる街も
どこか超時代的なヨーロッパ性を印象させるのではないか。
詩的修辞としては問題がないとおもう。
ともあれ僕の改訂試案を以下にしるしておこう。

陽の光に

黒と緑が街を
矩形に刻む
空はまだ白かった

陽の傾きが

ツバメをかえすだろう
二人をかえすだろう
星を夜にかえすだろう

3913 : 眠れる宮崎さん  はかいし ('09/11/03 21:13:53)
詩篇中、幾度も現れる「宮崎さん」が
「僕」にとって誰なのか読解しようとするのだけど
どうあっても解答が結ばれない。
それが逆に、この詩篇の命だと気づいた。
気配にして呪縛にして愛着対象のような「宮崎さん」とは別の、
現実次元では、「洪水予報」が出、「犬たち」が遠吠えしたり無聊をかこったりし、
学校が踏みしめられたかたつむりのように潰れる予感がある。
潰れて星座型となるのではないか。それでまた予鈴を発するのではないか。
修辞の質が個人的には好きだ。やはりまずは第二聯。
《明日は早いから寝なさい、/僕のシーツで発火して/朝になっても残っている、宮崎さんの/差し向けた犬たちが遠吠えし、/足跡に沈んだ学校では/授業開始を告げる》
それから最終聯。
《家のベッドに送還されると/雨の日の犬たちが横たわり/朝食のにおいが/窓に滲んでいる》
そうそう、トータルが夢オチかどうか判明しないところにも構成の妙がある。

3990 : 砂の城  ひろかわ文緒 ('09/11/30 23:14:10 *1)
書き出しの、《料理のさしすせそ/覚えて/最初に作ったのは/砂の城/でした、寄せる波に/少しずつ/洗われて少しずつ/崩れてゆく》を読み、
期待したのだが、以後、間口が広がりすぎて拡散した感がある。
料理上の摩訶不思議な手つきを期待したのに、
「私」と「恋人」の(暗喩的)描写に不要に横ズレしてしまったといってもいい。
ただしひろかわさんの発語には、どこかで理路を突き崩す凶暴な意志みたいのがあって、
結果、《ありがとう殺戮/どういたしまして死骸》とか、
《席には菊が号泣している》とかスピーディさゆえに深く入ってくるフレーズもある。
途中、字詰めフリーにして介入してくる女子高生の会話は
映画でいうとシネマ・ヴェリテ的手法なんだけど、この詩篇の場合は不要ではないか。
「料理のさしすせそ」が常識化しているひととそうでないひとの感慨の差かもしれないが。

3965 : record_b_091006@jisitu  藻朱 ('09/11/23 02:08:18)
古語を変型圧縮して日本語の「気」のみを原型的につたえる。
この試みはちょっと名前をいま憶いだせないけど
若手の女性詩人もやっています。「異言詩」の試みというべきですが、
詩はもともとそういう異言性を「も」、目指しているので
僕としてはこういう詩篇だって歓迎です。
「ぎゃ」「ぎゅ」「ぎょ」音が多いのがおもしろい。
はらぎゃーてぃ、と関係があるのかとおもいました。
「妄想的には」、詩篇は暗号のように解読もできる。ためしに冒頭。
《1きゅきゅうちゃり/2きゅうすがいに/3ぇをはやす/4うまのみに/5このすみちを/6はやらせたまはひて》

「1急いでチャリ(自転車)を/2旧市街へ。/3穢い草を生やしている/5このただの道を駆って/4(身は)馬の身のように/6逸っている」。
ホントかなあ(笑)。

3963 : 岨道  右肩 ('09/11/23 00:52:17 *1)
一聯めの客観描写が、二聯めでフッと詩の主体の当事者性を得る。
そこからじつは死がはじまる。
この一聯二聯の接合は怪物的なキメラが生じる呼吸だとおもう。そこがよい。
《安心感が欲しくてすがるように木島さんを見ると、大きな顔に汗の粒をいっぱい張り付かせ、僕の後ろへと目を大きく見開かせています。その目と目線を合わせようとして、「木島さん」と声を出し始めた瞬間、下へ引っ張られるように木島さんの体が姿を消してしまいました。》
と、試しにラストを引いてみたが、うまい散文だとおもう。
冷静さが先にあって、叙述の呼吸が測られているのだ。手練。
ただこの作者は掌篇小説を目指すべきかもしれない。

3974 : 冬空  かとり ('09/11/25 21:25:18)
「幹線道路」を歩ききってふと「国境」に立ち止まり
「冬空」をみあげたときの感慨が、
語順入れ替え操作と省略、さらには語のずらしをつうじ
複雑に叙述されている。
《チョークの粉が/ふっているみたい》の書き出しが良い。
「作者」というか風景の逼塞は次のフレーズに顕著。
《間違えを探しては/間違え/沈黙している》。

3954 : 経験が人を成長させるなら  snowworks ('09/11/17 01:50:24)
組成のやわらかいライトバース。各聯の飛躍が伸び伸びしているが、
とりわけ「海底の大蛸」の聯が好きです。
ゆらゆら帝国の「タコ」を想起した。
引用しておこう。
《海底で大蛸と戯れたことがあるよ/吸盤で吸い付かれて/体中を愛されたけど/それを愛と呼ぶべきかは/未だに分かりません》。
僕のこのみでいうとラストの聯はまとまりがつきすぎだとおもう。
フワッと別次元に移行する予感を漂わせて終わるべきだったのでは。

3945 : 機械の女  亞川守紀 ('09/11/14 00:35:46)
「機械の女」はこの詩篇ではつるりとした人工皮膚のサイボーグなどではなく、
もっとギアーとか螺子とかバネにあふれた原初的ロボットのようだ。
配線は単純だし、甲冑型をしるしているかもしれない。錆びもするだろう。
その意味では拷問器具、「鉄の処女」の進化形かもしれない。
つまりたとえば、義体が駆使された押井『攻殻機動隊』シリーズのような眩暈ではなく
19世紀末〜未来派やピカビアまでのプリミティヴな「機械愛」が
ここでは性愛に結びつけられているようで、だからその相手も老人となり、
結局は対象の破壊という廃墟美に逢着してしまう――そういう図式なのだろう。
ラスト二行、《遠くで午後のサイレンが/耳鳴りのようになり続けていた》の
余韻が良いが、修辞はもっとクレイジーになりえたはず。
リラダン『未来のイヴ』でのハダリーの細部説明だってすごく狂的だった。
この点が足りないのと、思想性も足りないかもしれない。
つまり機械はいまやドゥルーズ的には抵抗圧と内部性をもつ閉鎖物質から
連接能力だけをもつ運動領域自体へと奇怪な成長を遂げたはずなのだ。
たとえば押井アニメはその域にあるし、
僕(阿部)もそういう着眼から『少女機械考』という本を書いています。

3928 : すべては白に月ト巴里の咲く  常悟郎 ('09/11/09 02:54:27)
日本上代的な語彙からフランス的語彙に詩行(聯)が移るにつれて
(ただし第一聯もフランス語彙だった、
上代ということで第五聯にアダム&イヴが出てきて類想が生じたのだとおもう)
焦点がぼやけ拡散し、運びも緊張を失ったとおもう。惜しいなあ。
全体で何がいわれているかもつかめなかった。
素晴らしいとおもった聯(本当に素晴らしい!)を下に貼っておきます。

ズミの花びらは桜のように散ると言ふんだって
ホトトギスにうがいする
切れ込み深い谷間の奥にオオルリの鳴き声を求めてさまよえば
なま温かな湿原を識る
弥生の粟盛りは乳白色の薫り
倭らが伝う詩魂のしろはヨナ抜き音階だろ/はにほとい
それは溢れる滴の源
オノマトペ

生まれながらにして怪物を携えた人よ
淋しいと言っては人の肩に手も触れず
よるべなき客人(まなびと)
絣の着物が粘りついたあの時代
隠を忘れた鯰の捻挫した白い左首/が笑う蛸が逃げる/蛸帰る
詩人は君たちの眼差しが怖いけど三つ子の魂をどうか/骨まで愛してちょうだい

「骨まで愛して」は60年代後半、城卓矢という一発屋さんの放ったヒット演歌。
意識されているんだろうか?

3927 : マッチ  丸山雅史 ('09/11/09 00:30:08 *2)
描写加算がわかりやすく、通りも良い詩篇。
「炎を探す寓意詩」ととられるだろうが実際は物語的夢想に囚われた虚構詩だった。
「一文なしのホームレス」では「文学極道」の投稿もできないだろうという
「常識」から、そう判断しておく。
むろん詩の主体がこういうかたちで擬制されて良いはずもなく
(後ろめたさはこの詩篇から一人称主語が脱落していることでもわかる)
当然、書き込み欄にもその脱倫理性への論難が出た。これを全面支持する。
そんな詩篇をこの欄に掲げたのは、この小事件をただ「記憶」するためだ。

3934 : これは夢、yume  はるらん ('09/11/10 05:50:38 *1)
これは上の「マッチ」とは逆、一見して事実だろうという事柄が
装いではなく、今度は当人しか書けないだろう悲惨さで迫ってくる。
なのにタイトルは「これは夢、yume」。一体どうなっているのだろう。
「私詩」というジャンルは和歌いらい日本の特有伝統だけど
それへの愚弄が許されてよいはずがない。
これも上と同じ小事件の記憶として、不快感をもってこの欄に掲げる。
一言いう。田中宏輔の詩は、「私詩」が形而上性に飛躍するから詩格が高いのだ。

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2009年11月分月間優良作品・次点佳作発表

2009年11月分月間優良作品・次点佳作発表になりました。

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怒り心頭! ダーザイン月間選評について

2009-12-05 (土) 23:37 by ダーザイン

 わたくしダーザインは、田中宏輔氏について寸分だに評価しない。作品ではなくて与太話のコラージュであり、blogの日記、友人との会話、当然未推敲の空疎で冗漫なおしゃべりにすぎない。
 作品に至ろうという努力、姿勢の無いものを私は絶対に評価しない。要するに筆力の欠片も現況無いと言っているんです。氏は現実をコラージュしているつもりで、その実、現実から退避している(ハイデガーが言うところの「存在の怠洛態」)。

 私は北海道に住んでいる。厳冬の札幌にも100人以上の路上生活者がいる。不景気を極めるこの180万都市で、10年前から労働能力なしと障害者認定を受けたマイナリティーの極め付けが、通常の人間が一生味わうことが無いだろう重労働を強いられてきた。そうしないと生存することができなかった。厳冬の北海道で夜毎14時間も除雪重機を誘導してプロのマラソンランナーなどままごとに見える労働を続けてきた。奇跡としか言いようのない幸運に預かり今は転職してずっと楽な仕事をしているが、同僚たちは、今夜も低気圧の下でオーバーレイ(幹線道路の舗装の引きなおし)をしている。
現実について、モダンについて、あなたやあなたを評価するポストモダンの連中は気安過ぎる。

 また、このような低レベルなものを絶賛した者たちにも、文学極道代表として怒りを表明する。「感情的」とは何のことだろう? 文学極道のテーゼは世界性、そしてモダニズムの再発見である。そして、そのための、作文力の鍛錬である。

 田中さんだけではない。ぬたくりものが実に多い。貴殿らは、文学極道に出てきたからには、コントラ氏とタメを張れるほどの圧倒的な筆力を身につけるべく精進してほしい。

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2009年10月分選考雑感

17:09 by a-hirakawa

今月も勉強になりました。
ありがとうございました。

今月は、

3842 : 思考停止  葛西佑也 ('09/10/05 15:17:51)

3902 : この場所で  浅井康浩 ('09/10/31 22:44:40)

3904 : 広場  泉ムジ ('09/10/31 23:58:52)

3881 : spangle  ひろかわ文緒 ('09/10/21 04:55:07)

3859 : あなた、と、わたし  鈴屋 ('09/10/12 19:54:16)

3855 : 出立  DNA ('09/10/09 23:24:04)

以上、6作品が月間優良作品に選出されました。

3842 : 思考停止  葛西佑也 ('09/10/05 15:17:51)
今回の作品は、今までの作風から大きく変化していて、これまでの、スラッシュの使用や、変形的な詩行ではなく、整列されて言葉の運び方がスリムになったように思える、それでも二連目の「なのになのに」といったあたりは、かつての作品の気配も見えるように思えて、このあたりも、さらに推敲して余分なところを省いていくと、さらに、美質が高まるように思えた、という意見がありました。作者の今作は思春期から抜けきれない苦しさを上手く言い当てていると思えた、実在感を持って客観視することで読み物として興味深い位置に自己を上げている、自己が魅力的な位置にあるので、より作品としての郷土を増している、という意見もありました。意識的に自分を作って、演じるのではなく、自分の世界へと連れていく、これは凄いことだ、作者の性的な律動も見えて、冷静に悲しむ強靭さが、将来いつまでも詩人として歩むであろう姿を感じさせる、意味深い作品だ、という意見もありました。

3902 : この場所で  浅井康浩 ('09/10/31 22:44:40)
今月の作品で読みやすさと読後感のバランスが一番良いのはこの作品だ、と感じた、という意見がありました。おそらく、柔らかなリズムの詩文を書かせたら、作者に並び得る詩人は日本には存在しないだろう、音楽そのほかを拝借しつつ、失意からのリスタート、そのささやかなる決意表明、生半可ではない喪失感を際立たせるよりも、それへの慕情を優先させたのであろうし、また、共感を誘わんとするよりは、話者が自らを鼓舞するかのような選択か為されている事にも好感が持てる、ラストの余韻も美しく響く、という意見もありました。携帯から読んだ場合に端末によっては改行が崩れてしまう、その外観、故意ではないだろうけれども、作品にとっては手痛いマイナス材料にも感じた、良作はそのメディアを選選ばないはず、そして、それは万全のチューニングが出来ていてこその話だ、けれども出来そのものは優れていて非常に良い、という意見もありました。一連がずいぶんと馴染み安すぎる部位に下がってきている、音楽が前にあり予想がつきすぎる、「ピストル」という部位はもっと何か作品を高める言葉があったのでは、と感じる、二連目も、何か地雷をしかけても良かったかもしれない、紡ぎが単純で、よみやすさ、たゆたいやすさ、それ以上をもっと前に出してもよいのではないだろうか、優美な作品に仕上がっているとは思うけれども、それ以上を読めば読むほどに求めたくなりもした、過去の作者と比べてしまうので、もっと読み手の先を仕掛けても良いのでは、という意見もありました。

3904 : 広場  泉ムジ ('09/10/31 23:58:52)
内容がとても解りやすいものなので、もう少し最後はみ出してよかったように思えた、
 「革命の広場」の何処にも白鍵は見つけられない
の結びは予想がついたし、その意味的空気を、それまでで内包させることに成功しているので、はっきりと再認識させると閉鎖的になってしまうようにも感じる、という意見がありました。「権力的闘争的ものはいつの時代も繰り返されて塗り替えられてしまう、正しかったことはすぐに過ちになり、愛の広場と信じられている場でこそ命令による殺戮を空間的にも時間的にも経て、一時的な書き換えが行われていく、本当の純白な真理、白鍵はみつけられない」そのような作品だと読んだ、内容が単純なので、もう少し最後、何かあっても良いのかもしれない、もう少し遊びがあっても良いのかもしれない、作者がもっと活きる方向があった気がする、という意見もありました。凡庸な題材なりに書けてはいるが、成功とまでは思えない、やや筆が硬い印象、イメージは無難に広がるので注文は付けにくいけれど、もっと飄々と料理出来るだけの腕はあるだけに不満の方が先に立つ、という意見もありました。意見をまとめてみるとボロクソに言われているように感じますが、全体的に評価は高かったです。

3881 : spangle  ひろかわ文緒 ('09/10/21 04:55:07)
静と動のバランス配合に妙味のある作品、内実は凡庸だが、過去作品、その後のエピソードとしても楽しめるのが救い、リズムは相変わらず良いけれども、たとえば助詞の使い方を工夫すれば更に彫り込めたのでは? と思う、推敲に迷いが生まれ、身動き取れなくなった窮屈感がある、これはこれで良質だけれども、ひろかわ作品としては手渡される結実に明らかな不足を感じた、という意見がありました。十分な小品だけれども、些細を些細で終わらせてしまっている綴りが多いようにも感じる、という意見もありました。「人との関係性を軸に、失った無垢さへ目が行くとき、夜を美しく集合体として彩っていた幻想への頷きが、それでも一人ひとりの輝きを目に焼き付けていく」と受け取った、肯定的な印象が余韻を心地よいものにして強度を増していっている、三連まで読んでから一連の独りを突いていく情景が綴りとして上質になっていると再認識させられる不思議さがある、二連の言葉選びは今ひとつかもしれない、という意見もありました。

3859 : あなた、と、わたし  鈴屋 ('09/10/12 19:54:16)
やられた、完全に油断して穏やかな情景に二人の関係に浸かっていたところを一瞬にして消し飛ばす爆破がある、構成の勝利、戦争を描いたものとしても踏み込んで人に在する傷の重なりと許しあうことと降りかかる暴力的不幸せを描いたものとしても極上の綴りに思える、最後、二人に平安が訪れることを、安らかであることを祈るばかりだ、「さようなら    、    さようなら」の句読点の間は、もっとやりようがあったのではないだろうか、いらないのではないだろうか、良質さの中で散漫に転じる、という意見がありました。最終着地に不満、バランスも悪い、甘い軽いが半端気味、という意見もありました。

3855 : 出立  DNA ('09/10/09 23:24:04)
個人的な嗜好の範疇外である作風であるにもかかわらず、読んで泣きそうになった、「読めた」とは言いきれない、しかし再読の日々だ、外観は美しいとは言えないが、胸を揺すられ、心を掴まれてこその、芸術としての強度がある、という意見がありました。「ぼくたちには 脱ぎ 捨てられた 体皮 が/ある」この綴りは配置の中で極上の部に入るように感じた、現代詩的に装飾してあるだけではなく、主題の奥にある観念が新たな息吹を得ているように思えた、という意見もありました。意見をまとめてみると、絶賛のみのように感じますが、評価はかなり割れていました。

さて、次点佳作作品について触れていこうと思います。

3887 : もうね、あなたね、現実の方が、あなたから逃げていくっていうのよ。  田中宏輔 ('09/10/22 14:38:48 *28)
選考の際、評価が真っ二つに割れました。かなり感情的な意見も出されました。優良に強く推す意見もあれば落選へと強く推す意見もありました。「Forest。」はバカバカしくて好きなのだけれども、うーん、先ずはボリュームそのものよりも一行開け表記に多大なストレスを感じる、スノッブな自己紹介のような趣が強く、頻出する固有名詞群が煩い、それらを嫌味に感じさせない工夫が為されてはいるけれども見事に滑っている、その滑り具合の素晴らしさに一票を入れたい、という意見がありました。もちろん生卵を投げる読者も相当数いるだろうから、作者に問われているのは、つまり覚悟みたいなもののように思える、べらぼうに長いのを書く人、野にはいくらでも居るので、読み手との距離を考えて欲しい、という意見もありました。寸分足りとも評価しない、という意見もありました。

3897 : 点の、ゴボゴボ。  田中宏輔 ('09/10/30 14:54:58 *2)
選考の際、評価が真っ二つに割れました。かなり感情的な意見も出されました。優良に強く推す意見もあれば落選へと強く推す意見もありました。詩か日記かは、どうでもよい、というより、これはもう知識としてのみのブンガク的雑踏における世間話の羅列を下地とした、ネタと関西圏ノリツッコミの世界、のように感じる、レスの指摘にもあったようにインターネット詩の手法としては既に古い、熱意は買いたい、但し衆目を集めたいなら尚更、もっと斬新なサプライズが欲しい、という意見がありました。一行開けにしない方が、テキスト本来の妙味は格段に増すと思われる、面白くは読めたが、二度は読まない、いずれにせよ課題はそこだと思う、という意見もありました。詩集で知っている上で意見を書くと、作品そのものの外観が明らかに横スクロール向きに感じた、インターネットで発表を続けるならば、また違ったスタイルを発明しないと、単なるネタの人、レスレスが痛くて触れないので絡みにくい人、等で定着してしまい、晴れて「名前だけで読んでもらえない詩人」の仲間入りとなりかねない、危惧を感じた、という意見もありました。作者の作品として最初に入りやすい作品、という意見もありました。これまで何故もっと注目されてこなかったのか分からない、自分の得意な場所へと引き込んで圧倒的に読ませていく見事な手腕だ、という意見もありました。寸分足りとも評価しない、という意見もありました。

3883 : 舌切り雀  ゼッケン ('09/10/21 20:21:11)
なるほど、と読後思った、小さい冷蔵庫は子供であるスズメの死体を入れるために用意されていた最後は面白かった、舌切り雀でよく、ここまで書けたな、と思った、後半に行くにつれて、もう少しだけ整えても良い箇所が出てくるところが気になった、という意見がありました。この作品、ホントにこの文章量が必要だったのかなぁ、と思わなくもない、という意見もありました。小説の緩用のような文体そのものは、やや雑然としてはいるが、登場人物の少なさと限定された場面が良い方向に作用していて、面白く読めた、たしかにドラマ仕立て風でもあるにせよ、設定を欲張らなかったのが成功している、また、謎の提示はあれども胡散臭げな警句に満ちていない操作も歓迎される、という意見もありました。追い込みをかけられているであろう男が「何も持ち出さなかった」というのが肝、現代社会的には認知されにくいであろう「粋」が浮かぶ、詩情もある、一気にスラスラと読み易いのもプラス、優れている作品だとも思う、という意見もありました。

3863 : 進化  泉ムジ ('09/10/13 12:07:23)
推敲前の原稿を読んだことがあったが、推敲後の今回の方がずっと佳くなっていて良質さを感じた、という意見がありました。コミックス的流れが行を増す度これまでの読み物としての時間の密集となり、凝着させていく感度を上げているように思えた、展開の速さを作品としての仕上がりが見事に乗りこなしている、という意見もありました。作者の遊びが見事な地点で活きている、作者が活きていて作品が効果的、構成と音韻のあり方は勉強にすらなる、という意見もありました。

3903 : フェリーボート  右肩 ('09/10/31 23:04:22)
相変わらず作文だけにも感じたけれども丁寧で受け渡せている、という意見がありました。あれれ、手札を変えてきたのかな、と思っていたらば過去作品だったのか、と思った、いや、でもこれ、ジョイントも含めていろいろうまくいってるのではないだろうか、中身も、ちゃんとある、という意見もありました。凡庸なフレーズが部分的に点在する故、傑作とは位置づけられないが個人的に最終連はとても好きだ、たしかにサリンジャーを彷彿させはするけれども、という意見もありました。

3884 : notitle  いかいか ('09/10/21 21:01:32)
面白いのだけれどもスピンオフ的感覚が否めない、私が作者に興味があるから面白く読んだのかもしれない、という疑念にとりつかれもする、という意見がありました。日記かどうかは些細な問題でしかない、ただ、異化よりも迂回が勝りがちな書きようは読み手に奇妙な閉塞感をもたらすように感じる、ヘタではないけれども装いにせよ、すれっからしの文学青年臭が痛いこの路線はアウトだと思う(紀行文集でも書くなら別だけれども)、という意見もありました。予告編や習作は、もういいのではないのだろうか、という意見もありました。

3862 : crabe en octobre 十月の蟹  はなび ('09/10/13 09:23:08)
不倫をした行方を互いに秘密として、どこへ噛み合おうか、飲みこもうか、という作品、ただそれだけなのに、言葉選びが実に洒落ている、不思議だ、という意見がありました。嗜好にストライク、ジャンクを列記しただけとの謗りを免れないやもしれないけれども、不可思議な読後感は、詩の裾野を広げるに寄与する確実に、ガーリッシュと言ってしまえばそれまでだが、それ言っちゃお仕舞いというかなんというか、という意見もありました。

3901 : ハロウィン(中身のない南瓜)  破片 ('09/10/31 16:17:09)
煙草パート良かったので、そこをもっと高めて欲しかった、タイトルでほぼ全てを言ってしまっているので、もう少し語彙を高めた方が良い、という意見がありました。過渡期というか、苦心の痕跡が窺える、方向性は悪くない、ツカミには失敗している、という意見もありました。
「とりっく、おーあ、とりぃと!」(「Trick or treat?」、直訳すると「怖いことされるのと御馳走するの、どっちにする?」、意訳すると「お菓子をくれなきゃいたずらするぞー!」、ハロウィンの際お化けなどの仮装をした子どもが家を回って「Trick or treat?」と言って、お菓子をもらう。ハロウィンはローマ教皇グレゴリウス1世が、1年の終りを10月31日とするケルト人に布教をする際に、ケルト人の慣習をキリスト教信仰的解釈をしたことから始まったと言われている)は、無いほうが作品の綴りが良質な方向で際立ったのではないか、ハロウィンを軸にせず、連毎の文に特化した方が魅力が増したのではないか、という意見もありました。

3861 : 海中布団  snowworks ('09/10/13 00:40:25)
「そこに理由はないようです。」ここは削るか、「理由」を何か別の単語に置き換えた方がよりよくなるのでは、と思った、作者は作為がない中で詩作へ向かっている印象を受け安心する、という意見がありました。海中での優雅な眠りは、夢の贅を満ち引きさせる、最後に朝になる際、見ていく事象が、とても小さいことも魅力のひとつだ、という意見もありました。

3832 : 壁の裏側  岩尾忍 ('09/10/02 00:36:17)
世界は描けているかもしれないが、おもしろくはない、再読性には欠ける、という意見がありました。一人の人生をみつめていく目を隠す場所である壁の裏側、その一人の生と死が二連、見事に要点を抑えて書いてある、これから、他界した生命は人をみつめる愛でていく優しい存在となる、壁の裏側という言葉選びが適切であったかどうかは少し疑問だが、良質な素材と組み合わせだと思う、「壁の裏側にいます/私は/いつもその壁の裏側にいるのです」「いつも私はその壁の裏側にいました/そしてもちろん 今も//ただひとつ これまでと違って/これからはあなたのいるそちらが/裏側なのですけれど」この部位をもっと、深度を意識しても良かったのに、と思う、この作者なら絶対に、もっと良い作品に出来たのに、と悔やまれてならない、という意見もありました。

3886 : 追憶  リリィ ('09/10/21 21:54:23)
良質さが少なく感じた、導入部位や、「もしもし、聞こえますか」に引っかかったんだと思う、そこをもっと高めたり、祖父の存在を思い起こすに至る一動作や風景の中に刻み込まれたものを出すと、なじんでいったのかな、と思う、という意見がありました。五連は素晴らしい、独特な文章が魅力菜だけに他の連が追いついていないのが、もったいない、という意見もありました。のほほんとした空気が実に佳い、単なるノスタルジアでない昭和がさりげなく配置されてもいて、深読みの余地もあり、拙い筆だが、読んでいて愉しい、最終連が弱いが、現代詩に汚染されていない(ように見える)瑞々しさに頬が緩む、という意見もありました。

3890 : June  んなこたーない ('09/10/23 02:51:18)
悪くはない、しかし突出もしていない、という意見がありました。好きだ、この作品、映像よりも静止画が紙芝居的に動いているかのような錯覚をもたらし、その隙間にもまたイマジネーションが跳ぶ余地が仕掛けられてもいる、異化あるいは同化作用として召喚したのであろうセンテンスには、成功している箇所と失敗している箇所とあるけれども、見え得る景色の豊穣さの方が勝るように思える、という意見もありました。

3896 : 風  田中智章 ('09/10/30 00:39:34)
過去のものから、また一歩進み、描写と時間と空間のあり方を高めている、自分なら削るという部位も思ったけれども、それは作者を信頼してよい部分なのだと思う、良質な小品かもしれない、という意見がありました。作者の自覚のほどはともあれ、どの作品にもスムーズなイメージの伝達を阻害しているかのような疵があり、それによって予め用意されていない筈の謎が生まれる、そこが好きだ、残念ながら直球の文才はあまり見受けられないのでポエジーに寄り過ぎるのは自殺行為だろうし、習作のような感触もあるので、やや不満、複雑骨折した言語感覚を以て蹂躙されたような、わけのわからない快感が熟成されるような、彼岸で覚醒させられるような、そんな作品をこそ期待します(どんな作品やねん)、という意見もありました。

3868 : 葬列  如月 ('09/10/16 14:03:38)
言葉に隙があるけれども、それが広がり、完成されていない完成を生んでいる作品、「それぞれに」ここを、それぞれが、としなかったことで、この作品はまず活きた、「一杯の水と花が」、水には「一杯の」とあるのに、花には、ない、その比重のあいまいさが、死への思いを不可解にさせ、花という生の具現を際立たせる、「まだ名付けられていない一匹の魚が浮遊し」、これは後に声だと解る、それは自己であり、他者へと渡せる自らも第三者的に見ることが出来る自己だろう、そして三連、「冷たい体温を手のひらですくうと/たしかな/あなたが開かれてゆく」、あなたの死を前にするのだが、これは現実ではなくあって欲しい、手のひらですくう内在の出来事だと活きてくる、現実だとありきたりで、二連は活きない、「空の奥行きを見上げた」、ここは、あまり良くない、「全てを」、も、もう少し言葉を選べたかもしれない、という意見がありました。空の奥行きで現実世界的要素が広がりを持ち、そこはマイナスに働いていると感じた、ただ、その隙も良い部分でもあるのかもしれない、作者は、ゆっくりだけれども確かに伸びてきている、という意見もありました。作者が詩に迷っているような印象あり、丁寧には書けている、けれども教科書的な取り澄ました感触が寧ろ無用な美化を召喚してしまいかねないのでは、汚い描写ではないし工夫もしていますが、セールス・ポイントには乏しいと言い換えてもいい、書きたい事は充分に伝わる、でもそれは詩の必要十分条件ではないし、最大公約数でもないと思う、地道な努力は認めたうえで、という意見もありました。

3878 : 風染め  深田 ('09/10/20 11:16:53)
個人と性が際立つ怪作、という意見がありました。「回転賑やかな花火もいい/螺子を巻いたか/沸騰する湯/手を叩いてまわれ/摩耗しついにはアスファルトにはいつくばる光のひと際の円さを食めよ、/お前の歯はやさしい」この連鎖は見事としか言いようがない、「螺子を巻いたか/沸騰する湯」特に、この流れは湯の流れの終末と沸騰の始原を逆行していて意識をなぞる、という意見がありました。三連、一夜があったものとの描写があり、「子宮が昼間なのにずっとあすこにあるの」と締め、つなぎ、四連の盛り上がりへと持っていっており、四連は堕胎のありようを産む部屋とも取れるし、自分達が死児なのでは、けれども気持ちよさとしての本能は消せずにある悲しみと創出、生命が母への思いとともに書かれているとも受け取れる、非常に良質に感じた、「色んな色で」、は、少し乱暴が過ぎるように感じる、ただでさえ「!」とテンションを強く保っている作品なので、そこは優しく描いても良いように感じる、入り組んだ性、個人の名前、それらは読み込みたくなる面白そうな魅力を持っているように感じた、という意見もありました。

3867 : 昨日、僕は、オナニ−をするかしら  蛾兆ボルカ ('09/10/15 18:56:14)
タイトルの「するかしら」から「するのかしら。」と導く導入部が素晴らしい、内容はとても解りやすいので、欠けた部位が効果を生んでいる、という意見がありました。個人的にボルカさんの作品は苦手、しかし、これは様々に読める、しかも丈が短いので循環の効率もよい、という意見もありました。相性やターゲットの絞り方ではなく(そりゃ単なる逃げ口上ですわ)、スタンダードを故意に踏み外したりビターな機微を捉える独特の筆力はあるので敢えて下ネタ・動物ネタ無しで勝負してみるのが(無難、ではなく)挑戦ではないか、と、後ろ指さされて笑われても覇道を歩く漢を期待するからこそ現況評価が低いのであって、相性云々はチワワにでも喰わせておけばよろしいかと思う、ハンドル・ネームから推察して、「気持ち悪いネット詩人ランキング」の上位にランクされるのは、けして本意ではないでしょ?違いますか、ボルカさん、シニカルな唇にこそ叙情が似合うものです、という意見もありました。

3889 : 明日も雪景色ね  ヨルノテガム ('09/10/23 02:07:03)
構造は悪くない、ただ、話者の女性の科白に失笑してしまうくらいの無理があり、醒めてしまうのが難点、という意見がありました。やりとりや世界観など含め、もっと高みにいけたであろうと感じる、というより確信する、もったいない、という意見もありました。書き慣れていて、そこそこは巧い、でもそれだけでは…、という意見もありました。

3898 : やわらかなもの  はなび ('09/10/30 15:02:18)
異国感覚、それを日本語で、さらりとやってのけてしまう作者はすごい、最終行、変更したことで、よりやわらかくなった、いざなわれる、という意見がありました。「やわらかなもの?」と問われて挙がる「かなしいなみだ」や最終連をどう捉えるかで読後感や評価が分かれそう、という意見もありました。実際、柔らかいので人気は集めそうな小品には仕上がっている、でも、どうだろう、ハッシャバイならもっとフランセーズ寄りになった方がよかったんじゃないかしらん?或いは、平仮名で後半崩すなら、リズムが良くも悪くも平坦かな、と、このテのは、いかにしてフェード・アウトさせるか(それと気付かずに、させてもらえるか)が醍醐味なのでは、という意見もありました。

3872 : 青いクジラ  ミドリ ('09/10/17 23:41:32)
読みやすい、意図していることや比喩していることも非常に解りやすい、メイちゃんと、どこで思いや道が異なっていったのかが青いクジラという比喩を軸にうまく書かれている、ただ、上手いけれども、それだけに飲み込みやす過ぎる、何か地雷があってもよいのかな、と思う、という意見がありました。本人も書いているけれども、それだけではダメだ、という気持ちをどうしても刺激してくる、最終連の技巧は無難すぎるように感じる、という意見もありました。うーん、作者はアニメーションだろうがなんだろうが造詣が深いであろうはずなのだが…、「男子」や「追憶」の露出は充分だけれども、ステロタイプ化されたカメラワークで生煮えになっていないだろうか、在るはずの溌剌さとスイート・ペインが、明らかに若くない経験値を感じさせ、若い世代には共感されにくい、これは致命傷かと感じる、という意見もありました。

3854 : Adieu Tristesse  ともの ('09/10/09 22:24:41)
朗読されたら引き込まれそうな作品だ、と感じた、という意見がありました。それぞれの行間がだらしなく感じる、という意見もありました。作者さんの作品に漂う空気は結構どれも好感が持てる、という意見もありました。

3837 : おとずれる時  soft_machine ('09/10/02 15:03:24)
やりたいことは解る、ある部分では出来ていることが全体を通すと出来ていない感覚に陥らせる、という意見がありました。やりたいことを解らせてしまうが為に、もっと慎重にならなければいけない、上手い部分は、とことん上手い、惜しい、という意見もありました。

惜しくも選からは漏れましたが、その他、以下に挙げる作品が注目されていました。


3877 : Halloween  19 ('09/10/19 23:25:36)
惜しいな、と感じる、もう一歩進んで、一行目と最終連を際立たせて欲しい、という意見がありました。アラはあるにせよ、なかなか佳いんじゃないかな、と思う、作者の成長も含めて評価したい(上から目線的な物言いでイヤになりますが…)、という意見もありました。

3892 : ほらばなし  ぱぱぱ・ららら ('09/10/27 13:13:37)
形骸の先にあるものを書いていく、いつもの作風とは少しスタンスが違うように感じた、タイトルで形骸をやはり醸しているが、それよりも文章力の巧さが際立ち、あまり気にならなくなってしまう相殺効果もあげてしまっているようにも感じる、という意見がありました。脈絡の欠落した夢語り、だろうか、タイヤ→フィルムはベタ過ぎるが、スルスルとは読める、実はこれ連作で、次回、カンガルーにスポットを当てた作品なら楽しみに待ちたい、という意見もありました。

3833 : 水中庭園  DNA ('09/10/02 00:36:49)
作者の新境地とでも言うべき、じっとりとねっちょりとした感慨、一連が実に印象的、それを考えると二連からの転換というか視野の傾き方が、あまり効果を生んでいない、水中の庭園という言葉の強さと一連の強さが遠ざけあっているような気すらする、三連も、もっと行けたはず、という意見がありました。一連と最終連で十分良い作品になっている、真ん中をいろいろとこじ開けなくても良かったのでは、という意見もありました。

3853 : 闇に溶ける  時渡友音 ('09/10/09 22:02:02)
惜しい作品だと思う、よくよく考えて書いた感はあるけれども、不用意な、または強引なメタファやジョイントがマイナス、という意見がありました。作者の作品は概して、贅肉が目立つ、フォーカスが一定しているのにシャッターのタイミングがズレている、キャラクターが登場過多、着地がヘタ、という印象を受ける、書かれている世界観は「共感装置」として抜群に機能しそうな魅力が垣間見えるだけに、燃費の悪さの改善が課題に思える、という意見もありました。作者には期待していて、その内すごすぎる作品を書いてくれるのでは、と密かに注目している、という意見もありました。

3880 : こんにゃくに関する二、三の考察  Canopus(角田寿星) ('09/10/20 22:53:54)
たしかに面白い、が、これなら往年のツツイ辺りがもっと巧くソツなくイヤラシクやっている、あまり関係ないが昔、手を使わずにオナニーする方法だけの本があった、詩文としてオナニーをネタにSS仕立てとするなら、その方向が(キモいが)面白そう、という意見がありました。それぞれの水位は塩梅が良いと思う、ただ、内容が学生そのままで、何を今更、という感覚が浮かび、良い意味でも悪い意味でも裏切りが全くないまま作品が進み完結しているように思える、という意見もありました。

3888 : 魚  はかいし ('09/10/22 14:41:11)
上手くいかない生き方のため息から産まれていく物語、詩句から離れていればとても良い作品に仕上がったのでは、という意見がありました。「皮肉」が作者が使いたいように使われていないように感じた、効いていないのだ、機知が、という意見もありました。

3840 : 卵  はかいし ('09/10/05 06:01:31)
発想は買うけれども、とっちらかり過ぎ、但し、成長は感じる、向上心も見受けられる、この先、(少し)楽しみ、という意見がありました。全体的に面白い要素を丁寧に描いている、一連の白身は非常に繊細なのに、二連の黄身は「黄色」と唐突に単純な描きになるのが残念、一番、難があるのは四連目、ここは回想と説明よりも、吹き飛ばす錯層にしても良かったのかもしれない、三連目の後半もあまりいただけない、「ああ、そういうことか。今僕の視界を遮っているのは、何か得体の知れないいきものの細胞なのだ。//「月に一度、この国には猛烈な卵の雨が降る。」ホテルに向かいに来てくれたヤコブは、電話ではちっともそんなことを話してはくれなかった。「だから言ったろ?雲の上には鳥が住んでいるんだって。」冗談だと思っていた電話口での言葉がふと蘇る。なるほど、道理で卵の値段が異常に安いわけだ。ところで、卵の殻はどうなるんだ?「さあな。そういうのが降ってくるときのために、どうしても外に出なくちゃいけないときは、みんなヘルメットを被るのさ。」」この部位、もう少し煮詰めなおしてもよかったのでは、と感じる、全体的には良い、文章も上手くなっている、もったいない、不条理散文ストーリーには、特に、説明は野暮、という意見もありました。

3891 : 入れ子  宵町 ('09/10/23 04:26:36)
文学極道の内側を作品化してみたようにも読める、負の力が大きい筆致、内輪受けでも、もっと高められそう、他の読み方をするとすれば政治的なものだろうか、それだとしたら、もっと語彙を高められそうにも思える、という意見がありました。檄文調リズムは悪くないが、言葉が驚くほどリンクしていない、ディスコネクトの妙も、言葉遊びの風情も、胸が熱くなる跳躍も、無い、ありがち、それ以上でも以下でもない、という意見もありました。

3882 : まぼろしの通信  mei ('09/10/21 13:41:37)
下手ではないが、無難な美しいフレーズをまとめきれておらず、三連からそれが顕著になっていっている、という意見がありました。

3885 : 暇  びんじょうかもめ ('09/10/21 21:27:55 *2)
ありふれた発想かもしれないけれども、大人くさくないところがいい、さしてシュールではないが、印象には残る、ここから拡げていけたのにな、と思った、という意見がありました。安直かもしれない、全体としては良い、要所要所をもう少し高めて欲しい、という意見もありました。

3850 : 光線〜RAY  熊尾英治 ('09/10/08 06:17:29)
作者の筆は読み手を選んでしまう、もどかしさが先にくるのが、いかがなものか、と思う、味はあるから捨て難い、タイトルのセンスは、いただけない、という意見がありました。生きる先は目標は真っ暗だという暗示、電車での通勤は死に至らしめる殺される暗示、それらがもう少し方向性だけではなく、集合をしていったらよいのかな、と思えた、解るのだけれども、これはあまりに散漫に思える、という意見もありました。

3845 : 街  びんじょうかもめ ('09/10/06 20:41:44 *2)
素敵なフレーズを活かしきれていない、道具立ては揃っている、にもかかわらず活かしきれていない、という意見がありました。寝かせて練ってを繰り返し、構成に労力を費やせば必ず良くなるであろう書き手だと感じる、という意見もありました。

3844 : スパイスは少しで足りたのに  snowworks ('09/10/06 00:55:43)
先月から作者のファンだ、下手なところが良い、こんなに素直に詩を書いているのが嬉しい、ただ、やはり下手で、リズムで整え過ぎて地味なフレーズが目立ったりなど、まだ注意すべき段階でもないのかもしれない、とも思う、という意見がありました。上手な作品が多い中で、こういう作者は貴重だと思う、「海底で大蛸と戯れてるんだろう」赤面と動悸をこう表せることにはセンスを感じたりもした、という意見もありました。

3851 : 翻訳  いかいか ('09/10/08 16:16:18 *2)
完全なる内輪ネタだが、よくここまで書けるなー、と感心した、という意見がありました。

3856 : 鉄塔にて  しゅう ('09/10/10 05:42:15)
言語世界をうまく辿っているようないないような、改行と句読点により、見せる比重を殺しているようにも感じる、という意見がありました。

3834 : 雨宿り  丸山雅史 ('09/10/02 00:38:20 *2)
最終連、良質、それまでの流れを大きく裏切りもしている、小説に特化しても良いのではないだろうか、読みやすさが先行してしまっていて、過渡期な作者の文章と内部にたどり着くには、もっと綴りの方向が詩作品として、あるのではないか、など多く考えさせられた、読みやすく、中身も伝わるけれども、それ以上へ、やはり向かっていかなければならない、と思う、という意見がありました。

3827 : 暗い空  熊尾英治 ('09/10/01 00:17:17)
話者の喪失、を感じた、それを感じさせたというのは、「いらないのだ」と書ききった、この作品にとっては成功だと思える、冷たさと感覚に特化しきれていないので、「暗い空」の鈍色が映えずに磨かれない位置を感じた、もっと良い中核があるのでは、という意見がありました。

以上です。

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2009年10月分選考・選評(阿部嘉昭)

2009-11-27 (金) 15:53 by 文学極道スタッフ

【月間優秀賞候補】

3883 : 舌切り雀  ゼッケン ('09/10/21 20:21:11)
物語文体が行分けされるというラフな組成は
僕自身はすごく現在的なアプローチじゃないかとおもう。
詩的修辞は遮二無二発明されなくともよい、ということです。
設定の底に敷かれた「舌切り雀」に
この物語詩がいつ接続するだろうかというスリルが最初からある。
そのあとに来るのが「運び屋」という主題だった。
A地点からB地点へ、「何かを運ぶだけの者」は
その稼業によってそのまま存在を疎外される。
それがジプロックに入れられた大麻だというとき設定の現代性も増す。
このようにして得られた「俺」の無化にたいし
「雀」と名付けられた対象(小柄/舌が切られている)が
その非現実性により、逆にますます現実感を帯びてくる。
着想というか布置が鮮やかだとおもう。
ふたつの冷蔵庫、そして冷蔵庫内に凍結された雀の母、
ではその夫というか相手が誰かという転調があって
ついに物語が「俺」のアイデンティティに回帰してくる。
映画でいうとフィルムノワール的手さばき。
オチによる縮小ととるか、物語伝統への従順な参照ととるか。
両方だろうなあ。ただし恐怖小説としてみるとそこで安定感が出る。
けっきょく僕は好きです。
最後の聯、フッとエレベーターのたたずまいに視野が移る。
達者だなあ。エレベーターはいろんな映画のなかで恐怖装置になってもいるから。
あ、そうそう、この手の物語詩は小説へと肥大化できるかが是非判断の焦点となる。
文のエレメントだけで書かれ、描写が最低限あるだけ、
それで却って詩性に奥行きの出る場合は詩篇のままでいいと僕は考える。
この詩篇はそういう領域にあるともおもいました。

3884 : notitle  いかいか ('09/10/21 21:01:32)
これも散文体へのアプローチ。
「notitle」というのはモチベーションがないのではとおもわせるが
これはむしろ挑発的な謎かけのほうで
詩篇の主題をここから摘出しろ、という読者への構えを感じる。
日付が効いている。それで日記からの摘録が偽装される。
しかも日付が読むにしたがって遡行してゆくので
読者は読了後、全体を逆順にして内容の再把握することも迫られる。
何もかもがこのように挑発的なしつらえのなかで
主体の彷徨、その歩く場所の迷路化、盲目化の意義などが高い思弁性で暗示されつつ
それが読書している当該の本、秋祭りの描写など、「作者的現実」にも接合されてゆく。
死者の横溢という主題のみならず、
修辞のどこかにシニカルな冷却装置が仕込まれていて
じつにスリリングに読ませました。
この書き方で着地感を読み手にあたえるのは手練だとおもう。
日付としては最古になる最後の蛇投擲の文(日付は敗戦記念日)など最高です。
記念として下に貼っておこうか。

2009-08-15

 うつらうつら、と夜の散歩。右足を出せば、勝手に左足がついてくるものだから、この不都合な動作にうんざりしつつ、煙草を意味もなく吸っている。吐く息 も白くならない季節なもので、調子に乗り友人に電話などしてみるが、話の内容は相変わらずだ。蛇が目の前を横切ろうとしている。とりあえず、踏んでみる か、と思い、思いっきり踏んでみる。足をかまれそうなるが、このままかませてしまおうかと思い、蛇をじっと見つめている。どうせ毒蛇の類ではないのだか ら、せいぜい歯型の一つでももらっておけば明日の話のねたにはなるんじゃないかと、くだらないことを考えるが、そこまでしてねたがほしいかと思い、しかた なく、蛇の首裏をつかんで、田んぼに放りなげる。蛇の夜間飛行なんて、ちっとも面白くないなと、イブをそそのかしたように、俺もそそのかしてくれることを 少しは期待したい。その期待は、蛇の放物線と一緒に田んぼに落下して、どうせ実らないままなんだろうぬぁ、と、くだらないことを考えて散歩を続ける。

いい忘れるところだったけど、日付がしめされたのちの最初の一文、
その断言形に高い詩的昇華が感じられもしたのでした。
以下、例示。《ひとつ、ふたつ、みっつ、と転がるようにして指折り数える。》
《白さが駆け足で巡る。》《秋月を喜ぶ。》

3901 : ハロウィン(中身のない南瓜)  破片 ('09/10/31 16:17:09)
これは高度な詩だ。必要描写の欠落によって欠性を打ち出し、
それがそのまま解釈を多岐にする詩の内容へと直結されてゆく。
だから読者は咀嚼反復をしいられるが、
たぶんどこかで詩の芯が結像しない。ところがそれが麻薬的魅力になる。
煙草を吸い、それを踏み消す。まずは主体のその動作が前面化されたのち
とりあえず詩篇は逆転をたどる。
「抽斗」という精妙な真空空間が招聘され、
その無酸素性から逆転的に発火がはじまる(詩作のメタ的暗喩)。
その火を宰領し、火のそばにいる者がとりあえずこの詩の主体だとわかる。
やがて火によって生じた光が多様化してゆき、
それがハロウィンの空間ともなり、(たぶん)詩の主体は退行して、
その子供の行進のなかへと列聖されてゆくのではないか。
そうは読んでみたもののこれは恣意的な読解かもしれない。
けれどもそのように不安になることが、この詩篇に魅了されることだ。
詩作の喩となっている、行分けされない第二聯をとりあえず引いておく。
《へこんだ部分に手をかけ、そのままの姿勢で、何も入っていない抽斗の隅々まで舐るように焦点をめぐらせる。蓋をした灰皿、無酸素のはずの吸殻が静かに再燃を始めて、直方の木箱が焼失していく。当然、消火など、しない。》
あ、ギリシャ語の「見つけた」は「ユリイカ!」でいいのだろうか。
「とりっく、おーあ、とりぃと!」が僕には不明でした。

3902 : この場所で  浅井康浩 ('09/10/31 22:44:40)
詩篇中にチェロとオーボエが出てくる。
弦なら低音設定、金管ではなく木管楽器――
抑制と慎ましさと遠さで抒情する浅井詩篇らしいなと感嘆した。
この詩篇では修辞のプルースト的枝葉が削がれ、
情の直截性が前面に出ていると評価した。
全体が三聯と、いつもより聯数がすくないのが奏効しているかもしれない。
たぶんこの詩の主体にはいつも脳裡で理想の音楽が響いている。
そうであってこそ「あなた=君」をも音源として遇する。
このとき「あなたの言葉の意味がわからないこと」
「まばたきの音など君の無音を聴くこと」といった虚の音楽が
主体にとって積極的な意味をもつという逆転が述懐される。
その虚の音楽が、光に、匂いに、さらに変成するからだ。
という「詩の意味」がここでは「音楽化」されている――
そうした高度な二重構造にも気づかなければならないだろう。
つまりは構造が美しい。それはa・d・e・aの和音進展が美しいのと同じこと
(Aの主調をCに置き換えればCFGCのスリーコードで、
カノン進行の端緒が語られているのだろうか)。
むろんある疑念が生じる。
「adea」は「エイデア」と読め、対象の女性名を指示しているとも感じる。
むろんそこには「idea=理想」が伏在してもいる。
美しい第三聯をそのまま引いておこう。
《また、くさむらにねころがってるあいだに君がきていた。なにを言っているのかはわからなかったけれど、とてもやさしいまなざしをしていたので、 たしかに何かがしずかに終わったのだとわかってしまった。あたりには、昨日までは気づかなかった香りが空気にとけこんでいて、終わることのない陽射しの、 とてもわかりやすい明るさにうながされて、世界は音律をふくみはじめていた。まばたきの音がして、ハリビユのみどりがはじけて、いくつかの小さな出来事な ら忘れられそうな、とてもいい匂いがした。言い添えるよ、この場所で。ねぇ、あかるいはなしをしよう。たとえばくさむらのみどりの。つゆくさのみどり の。》
このラストの「あかるいはなしをしよう」で
ディスコミュニケーションの価値すら語られていたこの詩篇が
複雑な所作を経てコミュニケーションの価値に再着地した機微が生じてくる。
だからこれは向日性の詩だ、つつましやかな――。
前にも書いたが、浅井さんは詩集編纂を考えるべきだとおもう。

3903" title="http://bungoku.jp/ebbs/20091031_871_3903p\">3903">bungoku.jp/ebbs/20091031_871_3903p">3903 : フェリーボート  右肩 ('09/10/31 23:04:22)
上質な詩だ。小説体で書かれているが、
ある存在にとっての視界について考察が進められるうち
それがドッペルゲンガー、ブロッケン現象など
さらに文学的主題を引き寄せてゆく。
主体が見る対象とは結局、己れの刻印を帯びたものに最終収斂して
つまりは注意深い局面では主体はいつも自分の死をみていることになる。
最終聯、コーヒーハウスで快活な子供と主体が交錯したのち、
主体はさっきまで自分のいた座席をみる。
とうぜんそこには、自分のドッペルゲンガーが「いる」。
このように展開も見事だった。
さてこれを小説のフラグメントとして遇するべきなのだろうか。
まずは聯によって「場所」が変わる点に思考と注意があつめられて、
そこから加算的に主題への思考が進化しているとわかる。
これは小説ではなく詩の作法だ。
もうひとつ、詩は「僕・君・滝さん・市村さん」が
ともにあった時空への回顧をも副主題としてもっていて、
それへの苦い訣別をつうじ、主体に死が手渡される構造だったとも知れる。
このときの抒情性横溢もやはり詩なのだった。
似た感覚の詩篇群があった。倉田良成の『東京ボエーム抄』。
この詩篇は倉田良成の詩のように素晴らしい。
しかも修辞が古臭くなく透明なのが良い。

3904 : 広場  泉ムジ ('09/10/31 23:58:52)
引き締まった寓意詩。現代詩壇でいうと粕谷栄市などにつらなるとおもう。
「革命の広場」だった場所に武力介入があり、
そこに埋もれていた白鍵が撤去された。
しかしそこに感慨はない。
反復される「無駄話はもう終わり」が、その気分を伝えている。
それと主体の視線は広場での事件を追いながら
同時に空のカラスにも注がれていて
その脱集中でも、熱狂の時代の終焉が語られている(とおもった)。
白鍵の寓意。つまり白鍵だけで演奏されたピアノ曲は、翳りなく開く。
その白鍵のみのような素朴な革命信仰が破綻した、ということだろう。
そしていま広場に建てられた銅像は
革命戦士の墓標(これも撤去された)よりも明るいはずなのに、
詩の主体にとっては「黒鍵」として感じられているのではないか。
もうひとつ気づくべきことがある。「白鍵」と「発見」が同音なのだ。
「発見」「発見」と騒いでいた日本のポストモダン時代(80年代)の素朴も
もう機能しないと作者は感じているはずだ。
「広場」は寓意だから具体的な場所を考える必要はない。
たとえばギリシャのアゴラであってもいい。
しかし読者は「赤の広場」「天安門広場」そして「フセイン像が撤去された広場」など
多元的な類推をするだろう。それでいいとおもう。
真に教養のある作者による詩篇、と感じ入った。

3887 : もうね、あなたね、現実の方が、あなたから逃げていくっていうのよ。  田中宏輔 ('09/10/22 14:38:48 *28)  
すでに田中宏輔を天才詩人として認めている者も多いとおもうが(僕もそうだ)、
とつぜん彼が「文学極道」に参戦し、これは一部で大ニュースとなった。
ネット詩環境を、自分が投入剤となってさらに変える意気込みなのだろう。
そうした意義を「文学極道」に出入りする人たちも考えるべきかもしれない。
さて――宏輔詩は引用詩、●詩など、いろいろな発意に富むが、
会話引用詩も彼の十八番で、その都会的風合いが僕は大好きだ。
今回の「もうね、・・・」は、その巨大篇で、圧巻というほどの迫力がある。
詩作者「湊くん」とやりとりしたある日の会話が異常な記憶力で再現されている。
その執拗さも田中宏輔の「味」。
「なし」の話が出るまでは、ほぼ会話内容が詩論になっていて、
そこではふたりの教養の深さも窺えるが、その伝達を詩篇が目的にしているわけではない。
そういえば宏輔さんと「ゲイ」という点でつながるルー・リードには
「ニューヨーク・テレフォン・カンバセーション」という佳曲があった
(『トランスフォーマー』所収)。
たぶんNY式電話会話は、機知とスピードと性的ジョークに富み、
後腐れと重たさをのこさぬことでキッチュな哀しさを分泌する。
ここでの京都式会話でも類想によってスピードが醸成され、
内容を振り返らないことで、じつは哀しみを積もらせているとおもう。
都市内会話の内容は相互の呼吸や環境といった偶発性に左右される。
会話は環境に翻弄され、それで軽さを獲得しつつ、ゆらめくのだ。
となると会話の本当の主体は彼らの背後にある都市ということにもなり、
それがここでは宏輔詩の都市性と哀しみの根拠となっている。
親密さの底に、別れが予感されているということでもある。
こうした詩的立脚の普遍性に注意が必要だ。
そういえば田中宏輔は、「空間=時間=偶然」が
人間行動や運命のすべての芯にあるといつも考えていて(彼は数学者だ)、
その考察のもと「肌理こまやかな」「生きている」世界に参入してくる。
その「参入」がそのまま詩になるから彼が天才なのだった。
一体、現れている詩の主体がそのまま田中宏輔になってよいという僥倖は
彼以外ではたぶん岡井隆にしか許されていないともおもう。
部分引用がしにくいのでここでは総論的に書いてみた。
一個だけ補足。通常、ネットで発表される宏輔詩は
行分け詩を、一行アキで連鎖するという形式が多い。むろん横書き。
行分けされた一行の字数も少ない。
これは詩篇発表の経済原則からして贅沢すぎるとみる向きもあるだろう。
だがちがう。その形式によって
スクロールされる画面下部への移行が加速化し、
それでたとえばここでの会話の「現れ」が
都市空間の偶発的現れ(散歩でも自転車でも車中でも)と等しくなるのだ。
つまりこの一行空け書きは彼の詩篇のひとつの要件だということ。
この点をはっきりここで書いておく。
そういえば詩篇中「形而上詩人」として出てくるジョン・ダンは
僕も大好きだ。シェイクスピア時代の英国の、マニエリスムではない詩人。
彼の「私の心は愛に満ち、同時に愛に欠けている」という詩句を
僕はAV考察の柱に据えたこともあった。

3897 : 点の、ゴボゴボ。  田中宏輔 ('09/10/30 14:54:58 *2)
最初の投稿詩よりもさらに長い。
これだけ長いと心地よさだけがのこり、幸福な判断停止にいたる。
それでもやっぱりスゲエ。べつだん詩篇中に僕の名が出てくるためだけではない。
じっさい田中宏輔の頭のなかがどうなっているのかをよく考えることがあって、
彼の脳裡はかぎりなくサイケデリックに界面同士がねじれ、
キメラ合体しているにちがいない、とだけはまずわかる。
それが詩行の集まりの単位の加算(シチュエーション)、その変改に出てくる場合もある。
かてて加えて、今回の詩篇のように、破壊的構文に結実する場合もある。
出だしをちょっと拾ってみるか。
《あたしんちの横断歩道では/いつも/ナオミが/
間違った文法で/ごろごろ寝ころがっています。》。
こういう破壊的構文を宏輔さんのようにするっと書ける詩作者はほぼいない。
誰もが肩に力をいれてしまうのだ。
途中にはこんな鮮烈な詩句もある。
《あたしたちふたりだけで世界だと/世界はあたしたちだけでいっぱいなのだけど》。
これにはもしかすると、山田亮太『ジャイアントフィールド』の影響があるかもしれない。
差異を同一性に還元して、世界を同一性の舞踏としてみる傾きが共通している。
しかし《よくわからない春巻きはあたたかい。》というフレーズ、いいなあ。
ア母音の多用に音韻幸福の秘密がある。
さて――宏輔詩の特徴のひとつは、素晴らしい着想をダラダラ詩のなかで
あっさりと蕩尽してしまういさぎよさにある。
途中、英語で書かれる一連があって、そこをまず拾ってみよう。
A bird asks me why I have been there but I do not have an answer
(ワードの補正機能でIなどが小文字にならず、これで勘弁)

一羽の鳥が僕に訊ねる、いままでなんでそこにいたの? ――応えられなかった。

what I smell asks me why I have been there but I do not have an answer

僕が(いま)嗅いでいるものによって僕のこれまでの居場所の理由を問われる、けれども(やはり)応えられなかった。

この詩篇はつまり、(感覚の)事実にたいし、存在そのものに理由があるかを問うている。
そこから主題、「点」が派生する。どういうことか。
点は重畳すれば音楽的ざわめきとなる。詩作者でこの点に無自覚な者はいない。
しかし厳密に数学的に定義された点は無面積の抽象であって、
それはたとえば線と線の交差する場所として事後的に定義されるのみだ。
だから以下の詩句がすごくクレイジーだともわかる
(つまりそれは福沢諭吉のパロディというだけにとどまらない)。
《点は点の上に点をつくり、/点は点の下に点をつくり、/点、点、点、、、、》。
無の交差があって、それで点が傷のように刻まれてゆく。
それは、前提がないのに事後が存在する、マラルメ型の恐怖世界なのだ。
そういう存在運動の経緯が、この詩篇では地上の事象として語られている。
そしてその語りに、キメラ合体が付属している――
この長大詩篇の勘所をつかもうとすればそういう結論が出るだろう。
最後に、群衆の夜の歩行を描写して
哀しい民族的悲哀に陥ったル・クレジオの名文「顔−雲」と匹敵するくだりを
この詩篇から拾い、講評を終えよう。
《男の子も/女の子も/きれいな子はいっぱいいて/目がいっぱい合ったけれど/もう/そんな顔は/すぐに忘れてしまって/知っている顔/付き合っていた顔だけが/思い出される》
街を行くときの「感覚」は瞬時瞬時に、美によって擦過傷を得ている。
それは統御しようがない。しかしそうなって感覚は記憶を再浮上させ、
存在をアイデンティティのうちに閉じ込めてしまう。
上の詩行一連は、そのような真実を付帯的に告げている。
あ、そうそう、忘れるところだった。
この詩篇には、宏輔さんがミクシィに詩篇の部分アップをしたとき
僕が絶賛した次の箴言もふくまれていた。
《善は急げ、悪はゆっくり》。
善が急がれるのは、それが遅滞すると悪に変成してしまうからだが、
悪がゆっくりとなされなければならないのは、
存在の試練、もっというと拷問を自己調達するためだ。
悪は先鋭な意識にとってはその遂行の局面局面で存在を切り苛む。
線であろうとする存在に、点の試練を加えるのだ。
だがそれこそが「悪を知ること」であって、
そのために逆倒的に存在は悪の遂行の渦中にゆっくり入っていなければならない。
この見解は何と倫理的なのだろう。
自己放棄のその倫理性においてカフカの箴言にも似ている。
付言:アップされている詩篇は容量的に僕のパソコンでは重すぎるようで、
コピペを試みようとすると画面が何度もフリーズしてしまった。
う〜ん、あつすけさん罪深い。この詩篇だけ講評に
他のひとの二十倍くらい時間がかかってしまった・・・

3890 : June  んなこたーない ('09/10/23 02:51:18)
「フェルナンデス」という有名詩篇が石原吉郎にあるが、
こっちには「フェルナンド」という固有名が頻発する。
最後の一連ではそれが呼びかけなのか
助詞をはぶかれた主語なのかも判明しない。
音韻性を確保したまま、周到な注意によって
安直に像が結ばれるのを拒む――
その経緯にすでにこの詩の内実があって、素晴らしい
(だから詩語が満載されても気にならない)。
詩篇題がなぜ「June」なのかを考えることで最初の読解がはじまるだろう。
第一に梅雨の季節なのに詩篇には光があふれている。
六月を一年の季節の「正午」として、その底に限定的な水をまず見、
その後、水の鉛直方向の奥行きを詩篇が測定していないか。
水がそれで鳥の墜落の的となり、映写の媒質となり、
風の撫でる表面ともなり、火災の導入ともなり、
ついに詩の主体のてのひらのくぼみにも水が遍在してゆく。
それらのヴィジョンの連鎖がすごく美しい。
字下げ無視で二個聯を抜いておきます。
《ときには/刻々とせばまる陽だまりのなかで、/リボンがほどけることもあった/「てのひらの<June>、それさえも」/濡れそぼる翼の一撃が/だれかの捕鳥網と重なりあって/それから/永遠に離れていった

花綵の陰から、/航海の巣から、/フェルナンド! フェルナンド!/「日没の街に/明かりを絶やさぬために/ぼくらは管制塔のように興奮し、/植栽試験場のように、ひとりずつ/他人の卵から孵るのだ」》。
最後の三行、驚異的です。
「ぼくら」の孵化が他人の卵によってであること。
そこに希望とペシミズムが見事に同居しています。

3886 : 追憶  リリィ ('09/10/21 21:54:23)
素晴らしく心情の優しい詩篇、「ですます」調の鑑。
リリィさんの美点は、着眼点の連鎖、エピソードの進展に
自然な隣接性があって、かつそれが意外性に富むことです。
だから空間や人物の実在性が豊かになって読み手を複雑に魅了する。
とりだされる祖父の、指喪失の逸話に、「追憶」の実質が置かれ、
その追憶の動作の喩として紙コップでつくられた糸電話、
その片方の紙コップが、階上の床にも置かれる。
「追憶」とは片面的だという、みえない託宣でしょう
(これと祖父の指の欠落も連動しています)。
それにしても描かれた祖父がカラフルな配色です。
「紫の黄色の丸い皮膚」「白内障の膜に覆われた白い眼」
「マイルドセブンのヤニで黒くなった歯」。
だから彼は「水戸「黄」門」をみる。
そうした多色により詩の主体が祖父に愛着を感じているのも明らかです。
このように詩篇は全体にわたり間然とするところがない。完璧。
目立たないかもしれないけど、紙コップを買いにゆく導入部の詩法が素晴らしい。
以下、ペースト。
《夏のなごりのサンダルを、乾いた裸足につっかけて/猫を追いかける心地で、100円ショップに向かいます/もうすぐ空が一回りする気配が、揺れ ながら通り過ぎた自転車のおじさんや、しみのついた焼きそば屋のラジオ、遠い向こうのたなびく煙突からしましたが/坂道を軽々と、徒歩3分で着きました //紙コップ。105円。》。
うっとりする。

3861 : 海中布団  snowworks ('09/10/13 00:40:25)
「海中」と家庭を二重視覚にして、諦念にあふれた作者の生活が
不思議な圧力で記述変型を受ける。「水圧」ということだろう。
それで過去も現在も、家庭も会社も、寒さと暖かさも、高さも低さもごっちゃになる。
全体にユーモアがみなぎっていて、一々の細部変型も愉しく笑える。
だから「ごくろーさん」と励起のひとつもかけてあげたい。
大好きな詩篇。それが、海中から解放される最後の聯ではさらに締まった。引用。
《頭を岩にぶつけました。海は干上がっています。打ち上げられ、鳥肌が露わになって僕はひび割れた岩場で丸まっています。擦りむいた傷を摩りながら、朝を欺すこともできず、朝。》

3832 : 壁の裏側  岩尾忍 ('09/10/02 00:36:17)
「現代詩手帖」投稿欄の現在の常連(僕も大好きな)岩尾望さんの作だから
とりわけ緊張して読み始めたら、
ネット上の詩の可読性が熟慮されていて、淀みなく作品世界を嚥下できた。
やっばり戦略家だなあ。さらに敬意をふかめた。
「私」は壁の「裏側」にいて、ずっと家の中を見続ける存在に偽装されている。
その「家の中」には歴史があるから、
記述は「――した時」で連鎖されてゆく。
冒頭は《あなたが生まれた時》という決定性のある項目から始まるが、
やがて時の分節に、《夏の午後/小暗い台所の/こぼれた油の中で しずかに/蟻が死んでいた時》というような、
決定性ではなく微細さで記憶される事項が混在してゆき、
しかし皿の割れなど、「異変」も掠めてゆく。
対象への注視は、子供の「あなた」が冬の寝床で、
周囲にふくめ完全な静寂を獲得したその時までつづく。
それで、気づく、見られていた子供=あなたこそ、「私」の現実の姿で、
思念としての「私」がただ「壁の裏」にいたのだろう、と。
第一聯の提示、第二聯の長い列挙展開ののち、
第三・第四聯で、持続と逆転の、驚くべき提示がある。
第三聯でまず「持続」が語られるから詩篇全体が静寂さで終われるのだ。以下。
《いつも私はその壁の裏側にいました/そしてもちろん 今も//ただひとつ これまでと違って/これからはあなたのいるそちらが/裏側なのですけれど》。
それでも静謐な「私」を見つめる静謐な「私」という構造は変わらない。
この静謐さは注視の静謐さでありつつ、その注視を無化するものでもある。
そして彼岸此岸の逆転は、今後も継続的だとも匂わせる。
さて第一部/第二部(列挙体)/第三部と分離できるこの詩篇の構成は
気づかれるだろうか、バラッド形式からの転用だ。
手っ取り早い例としてはボブ・ディランの「激しい雨が降る」がある。
「青い眼の坊や、どこへ行ってきたの?」という「仮の」呼びかけによって
「僕は○○にずっと行ってきて、△△をみました」という答が延々、並列的につづき、
そこで世界の惨状が語られ、彷徨過程も黙示録化したのだった。
しかし岩尾のこの詩篇では世界は家のなかに限定され、
しかもディランのような明示的壊滅ではなく、
静謐と分離できない異変が列挙されている。
そこに愛着の匂いもあるから読後感が豊饒になるのだった。傑作。

【次点佳作候補】

3891 : 入れ子  宵町 ('09/10/23 04:26:36)
主格をしめす代名詞はなく、「あんた」が数回出てくる。
その「あんた」への物言いのように詩篇全体がみえながら、
明示されない主格に詩が折り込まれる。その意味で内閉的。
構文内の語の関係性から理路を奪うことで詩性の獲得が狙われていて
僕はそれがある程度成功しているとおもった。
それに「怒り」が全体に内包されていてモチベーションも高いとも感じた。
これが投げつけるような書き方に現れている。
ただし書かれているものを精密に解きほぐすように
修辞が導いてくれないのではないか。謎は硬化して牢固、という感。はじかれる。
ただし最初の投稿でこれだけの達成は以後の期待にも結びつく。

3882 : まぼろしの通信  mei ('09/10/21 13:41:37)
抒情詩がもくろまれている。
対象喪失を、気力で「空中」空間に結びつけ、
朝の到来、朝の終わりへと時間経過させる方法に新鮮なものを感じましたが、
やや展開に均質性を欠き、そのぶん全体も不安定になって
詩趣が分散してしまった感があります。惜しい。
ただし良い詩行が歴然とある。

此処までがわたしで
彼処からをあなたとすると
あなたは夢をみるだけ夢から離れると云うことになります

あるいは、《最果てで微笑する永遠はたくさんの光をまとっている》。
夜明けとともに消えてしまう星には感慨がつきものですが、
その消失後にも光の残存を感じるというとき
見上げる瞳は祈りの相において永遠化している。
「あなた」の消失が永遠化するのではなく
のこされた「わたし」のほうが永遠化する。
詩篇全体に伏流しているのは、本当はそういう逆転ですね。

3885 : 暇  びんじょうかもめ ('09/10/21 21:27:55 *2)
これは出来の良いライトバースだ。
「水掛け論になる」という予想があって、それで「コップに水を汲む」。
時間変化のなかでそういう洒落た展開が最初っから呼び込まれ、
すぐに笑ってしまった。相手が「水鉄砲」を出す、で笑いが上乗せされる。
結局、水掛け論にはならず、時間だけが空費され、
そのときの「暇」をブックオフに売りに行くという畸想も素晴らしい。
そうして詩篇が第四聯で終わってしまえば短詩として完璧だったとおもう。
う〜ん、そのあとは蛇足なんじゃないか。幾ら最後にもう一度オチがあるにしても。
「そのあと」はトーンが変わってしまった。
それは普通の詩篇では欠点とならないが、
ライトバース的なものでは欠点となる――そんな気がします。

3850 : 光線〜RAY  熊尾英治 ('09/10/08 06:17:29)
同じ作者の、前月の詩境からは格段の進展がある。
これだから「文学極道」がおもしろい。
光の横溢によって、じつはそのなかにいる人間・物象は
冷たい物質性、疎外感、非親近感をあらわにする。
そのなかで、詩的主体の背後から「見知らぬ人」が近づき、
「花束を約束する」意外な進展が素晴らしい。
花束は渡されるのではなく、約束される点が見事。
遍満する光とは別次元の光を発する、冷たい花束なのではないか。
この詩篇では多くのひとが光のなか逆光に位置し、
無残にも輪郭をあらわにしている感触もある。
問題は最終聯。それをペーストする。
《あなた、人が黙っていたら石像みたいだと/あなたは笑っていたね/風雨に曝された身体は/軽くなっていくけれども/透き間風のようだね》。
最初の二行はすごく良い。「あなた」の重複など、見事な呼吸だ。
けれども光にたいして非親密性を逆証された身体の肌理が、
この段になり「風雨」により脆さも露呈してしまう。
それで身体のスポンジ状に「透き間風」が吹くという結論になるのだけれど
これはその前で描写された身体の無機質な感触とは別次元なのではないか。
展開がそうなったということでは僕は納得しない。
むしろ詩の物質的一貫性が壊れた点を、不用意だと論難したくなる。
短い詩篇ではそういう、水も漏らさぬ配慮が必要だとおもう。
惜しいなあ。あともうちょっとで、完璧な詩篇となっただろう。

3845 : 街  びんじょうかもめ ('09/10/06 20:41:44 *2)
いいフレーズと、そうでないフレーズが交互している不可思議な詩篇だなあ。
詩は、すべてが良いフレーズだと疲れるものだけど、
そういう意味でこの詩篇の細部が配慮されているわけでもなく、
やはり間歇的に生ずる不用意さによって、
詩の組成が凸凹になっているということです。
まずは他人には追随できないフレーズを掲げてみます。
《大人はお菓子になり/いつまでも子どもに食べられている//その分なにかを失っているけど/頭がわるいからどんどん失いたいね と言っては/窃盗が終わらない》。
ストリートの、恐るべき、しかも不遇な子どもたちの悲哀が、十全ににじみだす。
あるいはこちら。
《大人の体になった子どもたちは/たくさんの杉の木を切り落とし/年輪にスプレーをかける/ときどき一番賢い詩人の頭にも》。
ここでは成長の悲哀に、ちゃんと憤怒もともなわれている。
しかしその他の修辞が響かない。「詩人」の登場も、掲出箇所以外は安直です。
全体は、子どもたち(やがて成長するけれども)の街を主体に
ストリートライフの心情が描かれています。
そうそう、この詩、不要な部分を省くと、抒情的な音楽にも移し変えられるんじゃないか。

3868 : 葬列  如月 ('09/10/16 14:03:38)
これは解釈の難しい寓喩詩だ。
意図的だとおもうが、第一聯でとりわけ意味混乱が生じていて、
それにより全体がリカバリーできない。
通常はそれが構成の失敗と呼ばれるだろうが、なぜかこの詩篇には興味が湧く。
僕なりの解釈を書いてみよう。
「あなた」は何かの隊列に加わることで、「わたし」から離れるひととなった。
だから「わたし」はその隊列を葬列と呼ぶ。
しかしその確認には儀式めいたものが必要で、
それで「わたし」は浴槽の水で、「魚」を解き放った。
鱗には列状のものがあり、そこで「わたし」は「あなた」の現状を追える。
「あなた」の弱点は列に加わったこととともに、
その意思表示のひ弱さにもあった。
――というように読まれる「文脈」は、じつはさほど魅力的でない。
その文脈から離れ、聯を独立させて読んでみると
曖昧なゆえに美しい修辞に惹かれることになる。引用する。
《そこにあるのは、ただ/あなたのようなあなただった/冷たい体温を手のひらですくうと/たしかな/あなたが開かれてゆく/言葉は/いつだってやさしく/あなたの来た道に降り注いでいる》。
ここだけはフレーズが完璧だとおもう。

3880 : こんにゃくに関する二、三の考察  Canopus(角田寿星) ('09/10/20 22:53:54)
ライトバース。しかも尾籠で愉しい。
こんにゃくオナニー、カップラーメンオナニーをめぐる方法論の交換。
そのなかから悪ガキたちの空間共有性が湿り気なしに回顧されている。
どこかに光の横溢を感じる。一時代が終わった場所から到来する光だ。
詩に説話性があるとすると、それが爽やかなのがこの詩篇の美点。
そうそう、最終聯、結果的に学友の名前が列挙体になるのがじつは発明だった。
名をしめすことは鎮魂につうじる。そっか、だからそこからも光があふれだしたんだ。

3844 : スパイスは少しで足りたのに  snowworks ('09/10/06 00:55:43)
これもライトバース。ただし語法に少しふくみがある。
田舎のオフクロが下宿に来てつくりおいたカレーをエサに、
ガールフレンドを呼ぶ。食後、「事」に及ぶ。
初めてのペッティングでもセックスでもなかろうに、
感慨が新鮮なのは、この作者に詩人気質があるからだ。
しかし彼は女に、人間特有の不定形をみる。以下のように。
《ゴソゴソと手探り/ぐっと引き寄せたなら/もう両腕の中にいる/硬さと柔らかさをもって/なんでこんなに人間なの》。
この次の一字下げの聯では、Jポップ的なものへの、作者の親和性をおもった。
最後の一聯で、「彼女」は始発ぐらいで帰ったとわかる。清潔な付き合いだ。
それと、これはすごい良い詩篇題名だ。

3840 : 卵  はかいし ('09/10/05 06:01:31)
粘性のつよい「雨」が運転中のフロントガラスへ降ってきて、
それが徐々に黄味を帯びてゆく。世界終末の気配。静謐、無人。
町中に、その奇妙な雨を受け止める盥めいたものがある。
傘もヘルメットもみな貯水型にさかしま。さかしまの世界なのだ。
やがてそれが、卵が割れ空から流れ出た黄身だと判明してゆく。
卵を描き、吉岡実の影響を感じさせないなんて稀有だ。
西東三鬼《広島や卵食ふ時口開く》。
導入部の雰囲気づくりが絶品。「映像的」とも簡単にいわれるだろう。
この異変はやがてこう説明される。
「だから言ったろ?雲の上には鳥が住んでいるんだって。」
卵料理に辟易して、みなが髑髏のような顔をしているというのも良い。
ただラストは、「ドラマ」に不要な女が出てきて、焦点というかフィニッシュが曇った。
さきほど引用した「鳥」へと、作品世界がさらに向かうべきだった。
とうぜん改訂の余地はある。下手をしたらアニメ原作として売れるかもしれない。
ただ、これが詩篇として書かれているかの判断は微妙だ。
僕は小説のフラグメントとして読んだ。「描写」もあるし。
そう、詩では基本的に、描写(対象世界の隣接的連続性が前提になる)ではなく、
言葉がただ物質的に隣接するだけだ。
対象の転写の時間化ではなく、音韻もふくめ言葉それ自体の現前が主体なのだ。

3859 : あなた、と、わたし  鈴屋 ('09/10/12 19:54:16)
「ポエム」かとおもうと「異調」が静かに仕込まれてゆき
展開を追う眼にゆるやかな緊張が走ってゆく。
窓外を翔ぶ「ボーイング767」の帰結が「あなた」への衝突で、
結果が《あなたの〔・・・〕瞳がふたつ、ななめ上にそろう》となったのには驚いた。
「葡萄の房」は、その型のブローチを
ジャン・ジュネ小説の人物「スティリターノ」が股間につけていたのが有名だろう。
それは隣接の幻惑として、スティリターノの睾丸の複数化幻想を喚んだ。
この詩篇では葡萄の房は、まず《お腹にしるされた葡萄色/サハリンそっくりの/ほそくてながい/痣》に変成する。
「サハリン」が良い――押井守の「択捉特区」のように佳い。
そのあと「変成」は一種の流産を迎える。このように――
《あなた、と、わたし/脚のつけ根にたばさむのは/ほんとうは、ベッドより/藁のむしろがふさわしい、東洋の/くすんだ性器》。
僕は詩篇最後が弱いとおもう。
それがなければ、「月間優秀賞候補」に掲げていただろう。

3851 : 翻訳  いかいか ('09/10/08 16:16:18 *2)
句読点なしに、文が切れ目なくつづいてゆく。
読者は句読点を補い、書かれたものを分節化・論脈化してゆくわけだが、
句点を選ぶか読点を選ぶかで、掛かり・構造がぶれる場合もある。
そこがまず面白い。
次に、平俗で乱暴な修辞が、詩性の高いくだりと混在しているのも面白い。
「君」をふくむ地上世界への憤怒は陰茎に集中をみて、
とうぜん最後は爆発(射精)へと導かれてゆく――ようにみえながら、
「ドカン、ドカン」と撃たれるのは結局「俺」なのだ。
題名は「翻訳」。「翻訳」とはこの場合、読解に付帯する必須作業だろう。
読むことはまずは分節化であり(第一の翻訳)、
詩性を俗性に縮減することであり(第二の翻訳)、
最後に予想を逆転させることである(第三の翻訳)――
作者はそうも示唆しようとしているのではないか。
テキスト論的な詩。そのようなメタ構造をここから感じる。
素晴らしいフレーズとしてはたとえば以下――
《蟹達が群れるサナトリムへようこそ山の上ではぼくらの知らない人々が未だに"灰"を病んだままベッドに寝そべっている陽光の当たらない場所へようこそ》。
自動記述も組み入れて沸騰する言語組成なのに、
自然に「空間」が伸長してゆくのがこの作者の美点だとおもう。

3863 : 進化  泉ムジ ('09/10/13 12:07:23)
対象としてあった魚が「大門氏」に侵入、「大門氏」の組成までもを魚に変えて
以後、「大門氏」は身の魚性の投擲を繰り返さざるをえなくなる。
題名からして、そういう強制が「進化」と捉えられているようだ。
発想も奇怪だが、それに釣り合うように詩法も奇怪で、うきうきしてしまった。
《数匹は殺せる、が、端から数が違う》――
このように「数の包囲」のあるのがこの詩篇の現代性だともおもう。
しかし結語はむしろやさしい「退化」の執着なのだった。そこが響く。
《ただ街灯の光が恋しい》。
ここにいたって、青いもの、光るもの、冷たいもの、多数なものへの
真剣な考察があったとも気づかされる。それらが「私」だ。

3856 : 鉄塔にて  しゅう ('09/10/10 05:42:15)
世界の終末光景を妄想するのはおそらく現在の詩の常道だ。
ここでは高所にいる主体が、街の水没を無感慨に眺めている。
そのなかに突然のように鮮やかなくだりがある。一字下げになっている六聯だ。
《祝福のために、螺旋を描こう/高く飛べないけれど、種をまくよ/あなたがいつも、新しく湧きますように》。
ここでの「あなた」が唐突。それは未到来なものの予感・影にすぎない。
しかもその行く先すら詩篇内で潜行してしまう。
それが弱々しく再浮上するのが最終聯だろう。
《やがて雨が降る日まで、/寄り添っている》。補えばこうなる――
「やがて雨が降る日まで、/あなたが現れる予感と/寄り添っている。」。
ともあれこの最後には若干の衝撃がある。
街の水没は降雨とは無縁だった――そのことがわかるためだ。
ただし全体に、「改行」に甘さがある。
余韻と静謐をつくろうとして字数の少ない行のまま改行してしまうのは
一種、習癖に属するものだとおもう(「おばさん」の詩に多い)。
一行一行が独立して全体がスパーク構造になるよう心がけてみたらどうだろう。

3842 : 思考停止  葛西佑也 ('09/10/05 15:17:51)
夏が近づき、あるいは梅雨の湿気が極限に達すると
男性は自分の下腹部が意味なく破水する予感に囚われるとおもう。
なぜなら下腹とは一種の積乱雲だからで、それは熱に犯された筋肉なのだ。
そのように僕にも通じる感慨を
この詩篇は《六月は麻痺している》という断言でまとめる。
体内の水分比率が高まるのにそれが発語衝動と結びつかない身体の疎外。
それをいうのは構わないのだが、ただ疎外態詩篇の常で
詩的修辞の決定力がない。虚弱だ。それで詩篇も最後、腰砕けになった。
このような書きかたならもっと評価を下にしていいとおもわれるだろうが、
作者の自己身体の把握に良いものがあると考え、この欄に掲げた。

3834 : 雨宿り  丸山雅史 ('09/10/02 00:38:20 *2)  
ものすごく古典的な風格のある作品だとおもう。
大雨に降り込められて、乗っていた自転車を橋の下に入れ、
しかも自転車には跨りつづけ、逆さ漕ぎをしながら雨の世界をみる。
寒さを紛らわすためだろう。
この逆さ漕ぎにすでに動きの膠着があり、
だから降り止まない雨のなかで
仮寓としての橋の下が「僕」の永劫幽閉地になりそうな気配もしている。
橋は川にかかるもので、眼前の川面が泥で濁り、水かさを刻々と増し、
「僕」は夕闇の逼塞によってもさらに追い詰められてゆく。
手柄は、体温を奪われた「僕」が頭髪からの水滴によって
不如意にも雨との同調・溶解を身体的に迫られているとしめす描写だ。
ただ、勇み足となった修辞があるのではないか。
《もうこれは僕の雨宿りの域を/超えてしまっている気がした》がそれ。
単純描写のなかで、唯一、メタ次元からの批評語がここでかぶさっている。
「域」のつかいかたもまずい。つまりこれはまったく不要な二行なのだ。
雨の世界の不安な質感が卓抜な語法で伝わってくるだけに惜しい。

3854 : Adieu Tristesse  ともの ('09/10/09 22:24:41)
大型台風の到来予報でも、外出をしいられる「わたし」。
しかし地上には台風による小さな混乱があっても
大袈裟なカタストロフもなく、結局は肩透かしだった。
いや、哀しみをもとめる心が――ということは「平穏」が肩透かしにあったのだ。
「筆法」にまつわる修辞が、作者自らが撒き散らしたテマティスムとして散乱している。
とうぜん雨とはみえない筆で水を書くものなのだから、
外出する「わたし」も自分を羊皮紙にしてそこに何事かを書き加えなければならない。
そうでなければ「わたし」は雨に流される。
こうしてペンシルで眉が書かれ、ライナーで眼の輪郭が縁取られる。
このような配慮をみせた「わたし」は、雨中の外出でも温存された。
一方、雨の「線」にたいし自前の「線」で対応したものは混乱をしいられた。
線路、電車、ダイヤといったものがそれだ。
――とまあ、「さよなら、かなしみ」と題されたこの詩篇を、
局所を強調し圧縮紹介すれば、以上のようになるだろう。
こんな試みをしたのも、「筆法」に関わる修辞に、この詩篇の良さが集中しているためだ。
以下のように――
《一筆書きにした昨日に雨粒が積もり滲んだインクが進路を変えた。念入りに摺った墨で今朝を描いたのに雨が側溝に流してなくなった。》。
《書き順を間違えた線路が電車を迷わせる。揺らいで揺らいで酔うように。窓に無数の水滴、》。
《だから猛烈な台風もきっと来ない。/ わたしは習ったとおりに鋒先をまっすぐにし、ビルの壁に向かって思い切り、下手くそな楷書を書いて逮捕される。》
《史上最強の台風が来なかったのでわたしたちは煮こごりにすぎない鱶鰭を食べ熱すぎるお風呂に入った。秋の夜は一筆書きのように無理やりな潔さを誇っていた。》。

【その他注目】

3848 : 九官鳥  白い黒髪 ('09/10/08 00:08:01)
何事かを託され意味もわからずに隻語を繰り返す九官鳥。
その今わの際で、それがどんな言葉をわめくか、
それを聞き逃した体験の欠落を主題化することは圧倒的に正しい。
カフカの超短篇にでも同じ着想がありそうな気がする。
けれども、最後の一行でガタガタになってしまった。
《行の想い》《野生のミスマッチ》が不用意すぎるのです。惜しい。

3900 : 少年の記憶  木下 ('09/10/30 18:53:47)
わりと伝統的な現代詩の喩法がつかわれている。
たとえば谷川雁の発展軸に初期の大岡信を混ぜると
このような境地に到達することもできるだろう。
けれども所どころ詰めの甘い修辞が目立ち、総体が取れない。
一行一字にした箇所などがとても不味いとおもう。
このような破綻を呼び込んでしまうのは詩篇一個が長いためでもある。
一応、良いとおもったふたつの聯を抜いておこう。
《十月、飽和した浴槽の底を電車が抜けてゆく/私の横顔におちてくる車窓にも又、らんらんと並ぶ私の横顔/手探りで酸素を探している私にそっと/ラベルを貼った/それを洗礼と呼んだ》
《スカートの中にはいつも扇風機が捨ててあって/それを悪用する人たちもある/喧騒は風に流され今日も/人がカーテンに翻弄される/街ではかみかくしが増えていた》

3878 : 風染め  深田 ('09/10/20 11:16:53)
一行一行の立脚がバラバラ。それでポリフォニーがたしかに実現されている。
文体はちがうが、現代詩壇なら廿楽順治に通じるものがある。
で、その廿楽さんとの比較でいうと、この詩篇にないものが凶暴なユーモア。
《指からしかし虹だ!》には主体の統御不能性が端的に出ている。
その反面、自動記述的なものに詩行進行を頼りすぎていないか。
ただしこのひとの語彙の豊富さはやがて何かを達成しそうな気配がある。
《そこかしこで追悼の砲を撃てよ/町中には/お前、/どうせ体温が結ばれるから/幌か有翅類/音の震へ/回転賑やかな花火もいい》

3898 : やわらかなもの  はなび ('09/10/30 15:02:18)
列挙体。やさしい詩想。はなびさんが女性だと確信していうと
清少納言の女性的試みを現代詩でやっているとおもうし、
男性でいうなら
「私の好きなもの」を列挙したロラン・バルト(『彼自身によるロラン・バルト』)
のことも少し頭を掠めた。
「やわらかなもの」を列挙し、徐々にその分類の枠をゆらしていって
最終的に「やわらかでないもの」まで含みこめば、
それはボルヘス的な分類学ともなる。途中まではそういうものも期待した。
つまり「やわらかなもの」に「ねむりくすり」が参入するのには可能性があるのです。
ところが最終聯ですべてが「ねむり」に収斂してしまい、な〜んだ、という失望になる。
それと、じつはそれを呼び込んだのが、
その前の聯、場合分けされた「キス」の安直な列挙だとも気づきました。
「展開」にたいし、まだまだ論理的にリアルになれるとおもいます。

3896 : 風  田中智章 ('09/10/30 00:39:34)
かなり年長のかたの詩作だろうか。言葉の運びに落ち着きを感じる。
また「涸川」というテーマもたとえば稲川方人の初期詩篇に通じるものがある。
出だしは「オッ」と期待した。言葉の省きが清潔だったので。
ところが「つまり」「そう」の説明調/念押しで音韻が崩れてしまった。
そうして中途がガタガタになって、ラストもフィニッシュが不可能になった。
時の進行の無残。そのなかに自身の生を感じること。
このような普遍的なテーマであるがゆえに、着想にはもっと鮮やかな個人性がほしい。
ラスト、消えた川から「風」に視界が移るのだけど、
その視界は最終行のみ。それまでは川とか「木の孫」が主題だった。
だから詩篇タイトル「風」にも無理があるんじゃないかな。
それは、修辞の勝負箇所と作者自らが設定したラストが、
浮いてみえるから、ともいえます。

3881 : spangle  ひろかわ文緒 ('09/10/21 04:55:07)
第一聯ではかなり複雑な文体がもちいられています。
連用形連鎖の多い詩行は他の行に半分干渉するように中間的に浮かびあがっていって
その先を読ませるうちに読み手の時間がやさしく進んでゆく。
ただしこのような文法によって詩行のひとつひとつに「解決」がなく、
結果、すべてが中間的浮かびのなかで曖昧に放置される弊も感じました。
最終聯、「天の川」への透徹したヴィジョンが素晴らしいのですが、
結論的にいうと、各聯の関連が僕にははっきりしなかった。
好きなフレーズ。《わたしはとうに/躯の多くを棄てて/のぞむものたちの元へと/渡したから》。

3892 : ほらばなし  ぱぱぱ・ららら ('09/10/27 13:13:37)
道行く者に「約束の場所」を訊かれるのは発端として正しい。
そのプロミスト・ランドが「映画」に関係する場所なのも。
ただし意志は疎通しない。「僕」に真率さが欠けていたためだ。
となって、去ってゆく相手の老人には悲哀が乗せられる。
また罰のようにホームに待つ僕に電車が到来しないのも、
遅延の原因が動物園から逃走したカンガルーを電車が轢いたためとするのも良い。
そこではカンガルーと老人の不思議な照応も起こるから。
それなのに、この詩篇は根本が駄目だ。
ひとつは不用意に、主体に到来する者を「白痴のおじいさん」と呼んでしまったからだ。
それは、説話の興味の前に、作者の対象評価が露出してしまった失態ととれる。
さらには詩篇題。「ほらばなし」とは一体、詩篇のどの箇所を括っているのだろうか。
全体? ――だとしたら読者はまったくの「無駄」を読まされたことにもなる。

3888 : 魚  はかいし ('09/10/22 14:41:11)
「われわれ」「僕たち」などを主語にした詩篇では空間時間に厚みができる。
「われわれ」という用語の押し付けがましさに、現在では論難が集中しているけれども。
この詩篇では、「僕たち」が発し、「僕たち」を投影する場所に「魚」が置かれ、
魚の骨が、魚の目玉が、「僕たち」の不如意を明かしてゆく構造になっている。
しかも魚がいると感じられる場所は空。この着想は素晴らしいとおもいつつも、
どうもその魚の修辞にいまひとつ驚きや魅力がないのではないか。惜しい。
詩篇の結論部分を抜いておこう。
《剥がれ落ちて地面に貼り着いた空に/無数の魚くさい目玉がぼんやりと浮かんでいる/そういえばこんな感じだったなあ/魚の骨が呟いて/自分の皮肉を空の瓦礫の中から探すんだ/ああ/僕たちはこんなところにいる》。

3855 : 出立  DNA ('09/10/09 23:24:04)
一字空白のある散文体の聯と
そうでない、通常の行分け聯が混在している。
じつは最初の聯にギョッとした。
《あ いたがえたゆ びを配る》を「相違えた指を配る」と最初読めず、
出来上がった詩篇にシャッフルがかけられた二次性の詩と捉えたためだ。
まあ誤解は解けた。ともあれこの一字空白は音律の脱臼を狙っている。
しかし、個人的には現代詩の難解詩法に傾斜しているこういう詩篇は
「文学極道」には要らないとおもう。ここでは正常な詩の復権が願われているからだ。
一応、主題読解をすれば、
火、脱皮、羽化――それらをつうじ「ぼくたち子供」の変成が希求されている。
結像を阻んでゆく修辞が達者だとおもう。
引っかからなかった2、3、5聯なら出来も良い。
ただ前言したように、この作者の詩作への構えを、僕は納得できないでいる。

3862 : crabe en octobre 十月の蟹  はなび ('09/10/13 09:23:08)
モダニズム詩と立脚が似ているとおもう。
語の構文内の意外性のとりあわせによって短句をつくる。
その短句を隙間だらけに並列させ詩の時空をさらにつくりあげてゆく。
このような事例は安西冬衛などにあるが、
どこかで現在的な風が詩の空間を吹き抜けていて、僕は個人的には好きだ。
題名の由来となった《茫々とした美しい蟹が/さわさわと鳴る》などは
美しいフレーズだし、そのすこし後の、
《咀嚼された海燕のスウプが/大海へ流れ込む》も同断だ。
さて全体性の読解。自信があるわけではないが、
「シガレット」という足穂的な小道具があっても、
詩篇中「パリ」の一語があるゆえに、詩篇全体にパリの光景や、
そこに佇む異邦人意識を感じる。
「植物を象った刺青」などはパリにのこるアールヌーボー意匠の描写ではないか。
良い聯と惜しい聯が混在していると感じたため、この欄に置いたが、
最後の二聯の喚起力などは注意に値する。ペーストしよう。
《シフォンの羽の粉砕/10月の呼気//地下鉄が乾いた音を立てはじめると/わたしは目を閉じる/男の背中にてのひらをあてる/嚥下運動のゆくえに耳をすます》。
ここでは異邦人が恋を得た、という読解も成立するとおもう。

3872 : 青いクジラ  ミドリ ('09/10/17 23:41:32)
追憶詩、しかも捏造的な。その捏造性を気取らせないため、
殊更に明白な文体が選ばれている気配がある。
浜に打ち上げられた鯨は、海からの収穫のようにみえて
死に瀕し、「青い」。その異常をみせるために
「ぼく」が「メイちゃん」を自転車に乗せ、浜に運んだとすれば
その動機もまさにエロス衝動にあったはずだ。
ところがその衝動への構えがふたりのあいだでズレたということなのだろう。
ハンドルネーム「ミドリ」が女性を指示しているとするなら、
「ぼく」が向かう対象の位置=「メイちゃん」に、
作者の本当がはめ込まれていることになるが、ここは早計な判断ができない。
ただその「気配」にもエロチックなものを感じる。
さて、詩篇のハイライトは以下の聯だ。
《ぼくの/青いクジラ/メイちゃんの/青いクジラは/あのカーブの入り口で/永遠の別れを/告げていった》。
喩的修辞がつかわれているが、ここから直截性が除外されたのが実は惜しいのではないか。
「引き返せ」という「メイちゃん」の依願を「ぼく」は聞かず、
カーブの下り坂をブレーキすらかけない。
勢いあまって後部座席の「メイちゃん」が宙に飛んだのか――わからない。
ここでは「カーブ」という美しい言葉のちかくを「永遠」の語がとりまいているだけ。
僕自身はすごく複雑な事後性余韻を生じる書法だとおもうが、
詩篇の着地点としては、もっと何か別な書きかたがあるような気もする。

3864 : School Girl  先照 深夜 ('09/10/15 01:11:49)
これは妄想詩。しかも妄想の反転が、自罰として自覚的に書かれてもいる。
おバカ「スクールガール」をみて、「命短し恋せよ乙女」ではないけど、
カネのためにするその初めての性愛を妄想する。
「こんなに大きいの初めて」――しかしそれは主体との経験でなく、
ビデオ(DVD)上の体験だったとオチが来る。
発想が不潔かというとそうではない。性愛が「落下」と正しく捉えられているためだ。
しかし、それだけ。

3860 : 過失  草野大悟 ('09/10/12 22:44:54)
ふんわりとして決定性のない修辞によって、
読者にはたぶん言い当てることの難しい感慨がここに繰り広げられている
(詩篇ラストはこのように考え、突き放すべきだろう)。
部分的には語尾が糖衣されていて、その気持悪さも狙われている。
けれどこの詩篇の第四聯がじつに素晴らしい。長くなるがその全体を引用。
《雲をシェイクしても もうなんにも出てこないよ 分かってると思うけど/だからといって それで全部がおしまいになるわけじゃないよ/馬鹿はエ ライを着てるから/どうしようもなく馬鹿だけれど/アフリカの蟻塚や アメリカのシリコンバレーは/やはり やっぱりなそうなんだ/そう思わせるに十分な 過失がある》。
「馬鹿」がまとう威厳と、アフリカの蟻塚、アメリカのシリコンバレーの形状は
すべて「過失」として同列に置かれる。「世界」はそのようなもので層化している。
だからそれは、何らかの「事後」なのだ。
これは「過失」についての卓抜な詩的考察ではないだろうか。
僕ならば、この考察だけで、一篇の詩を捏造するのだけれどなあ。

3830 : 終わる世界  mei ('09/10/01 09:12:35)
この詩篇の長さは無効だ。視点のブレしか印象させないからだ。
じじつ終わりに近づくと、どんどんぼやけて甘い聯が混在してくる。
ただしなぜか「アマリリス」に言及したいくつかの細部に
静かな衝撃力があった。以下、列挙――
《ようすいに集まった子供は暗くなるまえに家に帰る/こころのかたち、人のかたち、/雪を知らないアマリリスを神さまと見間違えたと知らずに何人かは/海のなかに沈んでしまう》。
《子供たち、/沈んでしまった子供たちは知っていた、/見間違えた神さまを追いかけていたことを/わたし、/忘れてはならない/アマリリスは沈んでゆく子供に言葉を渡していたことを、/夜の霧で見えなくなった神さまのことを、》。
「子供たち」「アマリリス」「神さま」の不可思議な「三位一体」で
詩想がまとめられるべきだったかもしれない。

3835 : さよならヘンドリック  ミドリ ('09/10/02 02:07:31)
ミドリさんの「ヘンドリック」シリーズを確かめていないが、
この詩篇だけを虚心坦懐に読むと、
かつてのホモセクシュアルの相手を裏切り、
女性と結婚生活を営んでしまった男の、悔恨の詩と読める。
ダンボールに満載されていたTシャツの幻像は「人生の夏」を表徴している。
それらが化合し、たしかに情の普遍性が到来している。読み違えかもしれないが。

3833 : 水中庭園  DNA ('09/10/02 00:36:49)
一行が収束したとおもったら
次の行に付属がくわわり、さらに構文が複雑化、
結局、当該の一行が中間体として浮遊してしまう(事後的に)。
そんな改行詩のひとつの面白さに気づいたばかりの作品、という気がしました。
第一聯、《園芸部でも/ないわたくしが/やつれたビニルホース/でぶっぱなした冷水を/ひと月おくれて/のみ干し/てゆく/あの、向日葵が/憎い》。
意味や時間が屈折すればするほど、この詩法の詩では効果が出る。
当然それは圧縮畸形をも呼び込む。だから「ビニルホース」の書きかただ。
掲出箇所では「ひと月おくれて」がすごく良いのだけど、
「わたくし」の成長停止(圧縮)にたいし「向日葵」の伸び放題が「憎い」という
「意味の補助線」が引けても、
やはり「憎い」という感情にうまく同調できない気がします。
それと題名の「水中庭園」には描かれた詩世界そのものが行き着いていない。
掲出部については、ちょっと似た詩世界が日本のインディ音楽にあったなあ。
シスター・ポールという、男女混成、2ピースのパンクバンドです。

【落選】

3899 : 誰何  古月 ('09/10/30 17:44:46)
不要に漢字が多用された、
いわば塚本邦雄の小説に通じるような古色美文体。
描写により空間が移ってゆくが、これを詩として遇する必要はないとおもった。
別の媒体に投稿したほうがいいのではないか。

3866 : 鑑賞  常悟郎 ('09/10/15 17:18:18)
3876 : (考) 花鳥風月  常悟郎 ('09/10/19 20:47:44)
先の投稿にかんしては言葉の運びに緊張をあたえ
後の投稿にかんしては詩語を放逐してください。それだけ。
この段階から「詩」に達するには、相当数の階梯を昇る必要がありますね

3889 : 明日も雪景色ね  ヨルノテガム ('09/10/23 02:07:03)
AのBのCのDのEの・・・という詩法(詩文体)は
西脇順三郎『失われた時』のコーダ部分、
次いで那珂太郎の『音楽』にあるが、
その「の」は所有格ではなく一種の接着剤。
それによってABCDEが相互溶融的に加算され
微妙な中間色の複合体が刻々できてゆく。
西脇や那珂においてこの破格の詩文法を成立させていたのが音韻。
実際は音韻によって像が溶け合うのです。
ということでいうと、この詩篇は「の」を多用しつつ
音韻が悪すぎるという見逃せない弱点があります。
それとこういう詩は、論評者の詩的教養を測っているようで厭です。
そういえば詩のなかに雪が降っているようにもみえない。
白さも寒さも欠落しています。
西東三鬼の一句、《われら滅びつつあり雪は天に満つ》。

3894 : 走る  ゆま ('09/10/29 21:51:47 *1)
雰囲気で「詩らしきもの」が書かれているとおもう。
けれども詩的修辞は語のレベルにおいて具体的、
詩の組成も終始、物質的なものなのです。しかしここには「空気」しかない。
ただ惜しい面はある。それまでの砂の主題とは結びついていないけど、ラストがそれ。
《トンボかける秋の空の下/走り出した右足を追って/左足が追い抜かしてく》。
そういえばゴダール『女と男いる舗道』で娼婦となったアンナ・カリーナは
歩くときなぜ片足がもう片方の足を追い抜かすのだろうという根源不安に陥り、
それで結局は横死に導かれる(逃走のタイミングを逸するのです)。
この箇所ではそれも少しおもいだした。ただしずっと明るい。そこが良いのです。

3853 : 闇に溶ける  時渡友音 ('09/10/09 22:02:02)
「わからない」とおもった、正直。
対象が黒猫、子供たち、男女、私(の小石の出産)と移ってゆくのだけど、
対象移行のまえに「解決」がないので、
空間が広がってゆく、という感じにもならない。
ただしすごく良い一連があった点、特記しても良い。以下。
《乱反射する色に撃たれた子どもたちは/うまく家に帰れない/五時のサイレン/帰り道が燃えていく/家には明かりがともらない》。

3827 : 暗い空  熊尾英治 ('09/10/01 00:17:17)
同じ作者の「光線 〜RAY」と比較するとこっちは詩想も修辞も曖昧。
論評もできないほどに曖昧で、すごく残念です。

3875 : メルヘン  凪葉 ('09/10/19 12:41:50)
空に感知できるものと「わたし」との差異。
それが身体的に受け止められ、それなりにイメージ展開もするのだけど
「わたし」に信頼が置かれすぎている。
ありがちな自己愛の形跡が濃く、読み手がはじかれるのだ。
それと修辞のひとつひとつに決定性がない。
そのような詩篇に「メルヘン」と題名がつけられてしまう。
これってじつは無残なことではないだろうか。
この水準で詩作が信じられてしまうこと、それはまずい。

3841 : 無題  凪葉 ('09/10/05 12:41:45)
相変わらず、「わたし」をめぐる疎外詩篇。
詩想がヤワだから修辞も決定性を帯びず、ただ雰囲気が書かれるだけ。
だから詩篇題名も「無題」なのだ。
こういう主題・書きかたから一旦離れてみる時期が来ているのではないか。
惰性で書いてもしょうがない。
モチベーションを掴むことだ。掴めないなら書かないことだ。

3869 : 初秋  古月 ('09/10/16 21:50:43)
作者のセルフ書き込みで、横溝正史が言及対象だと明かされた。
つまり作者が「三階階段」(ヘンな修辞)に立って
その小説細部の土着性と怪奇運動を回想していると腑に落ちる。
しかし「それだけ」ではないだろうか。
出典が明示されないと全体が把握できない詩は自立的ではない。
それとこの詩篇の修辞の型が、僕には辛い。

3837 : おとずれる時  soft_machine ('09/10/02 15:03:24)
時の無常をみつめるという詩想なのだが、
詩想の安定性ゆえに響かない作品と映った。
「今日の更新」「今日の復帰」に意識が集中している点は現在的なのだが、
やはり着想がコンサバなのではないか。
《全ての物には/時が訪れる//花に雨が降る/雨が花になる》、
こういう部分には日本的象徴詩、その短詩の影響も感じたが。

3852 : 吸殻  さかいだに はる ('09/10/09 19:17:28)
煙草を擬人化・主体化しただけの寓意詩。
それなりのディテールも書き込まれているが、
現在の詩が、このような素朴さだけで立ち上がるとはおもえない。

3836 : 巡礼  やまやぎ ('09/10/02 12:29:43)
「君の○○だ」と○○の代入をかえて畳み掛けるところのリズム感覚には
たしかに瞠目したのだが、
結局は「帰還の安穏」が語られる詩だと判明、がっかりした。
「君」の住む街に決死で向かう主体を描いた抒情詩こそを期待したのだった。
発想がこれまた素朴だなあ(それと最終聯、とつぜん出現する「僕」とは何なのか)。

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