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現代詩的なもの、あるいはビート的なもの(ケムリ)

Posted By kemuri On 2007-07-28 (土) @ 20:01 In コラム | Comments Disabled

初投稿、まぁあっさりコラムで。

実際のところ、「現代詩」ってのは理論語だよなぁ、と思う。
理論語っていうのは、まぁ論理学の用語で「定義のコンセンサスのない単語」って意味なんだけれど。
ぼくは、非常に悪意的で揶揄的な意味で「現代詩」って使うし、そうじゃない人もいる。

んで、そんな状態でぼくのイメージする「現代詩」的な作品が出てきた場合、ぼくは「悪い意味で現代詩っぽい」みたいな罵倒をするんだけれど、これは非常に心もとない批判で。
じゃあ、おまえの言う「現代詩っぽい」ってなんだよ?と問われた場合概念的でイメージの伴わない語彙、難解なだけの言葉遊び、単語の表現や並びを意味も無く通常の文法から逸脱させること・・・まぁそんな感じになる。
これの問題は、これらの条件を満たしながらもぼくにとって良い作品も存在するということ。

実際のところ、全てが現代詩であるともいえるし、現代詩などどこにもないとも言える。
定義の問題で、こういった言葉に関して明確な定義を与えることは、実際かなり難しい。
書き手が「現代詩的なもの」を目指しているとも限らないしね。まぁ、読み手からすれば書き手が何を目指すかなんて、本当にどうでもいいことだっていうこともあるけれど。

これと同様に、『ビート的なもの』ってのもある。
ビート的なもの。ビート的な語彙。これは、現代詩より少し輪郭が掴みやすいけれど、
結局現代でビートであろうとすることは、既にビートの定義から外れることでもあるわけで。
少なくとも、ビートの聖典に於いて、模倣やあるいはスタイルによりかかることはビートではないよね。

結局、〜的っていうカテゴライズは非常に恣意的であり、読み手にとって「そう見えた」以上の何も約束しない、ってことでしかない。もちろん、既にある汎用的なイメージを逆手にとったり、あるいは敢えてそれに乗っかることで面白みを出したり読者を獲得したりする方法もあるけれど。ただ、悪い意味で「そう見えて」しまったことは受け止めなければならない。ぼくも「ポップ的」と評されたりするし、歌謡曲的と言われたりもする。もちろん、必ずしもそう見えちゃいけないってことはぼくも思ってないけれど、何らかの汎用的イメージ、類型的イメージが読者に喚起する悪感情ってのはある。
ぼくなんかあからさまな「現代詩」嫌いだし、現代詩っぽく見えただけでかなり読むのが嫌だ、ってこともある。
受け止めなきゃ、ならない。

読み手は、「これはただの自分の食わず嫌いかもしれない」って思っている方がいい。
書き手は「そういうこともある」と思うしかない。
もちろん、現代詩っぽく見えたら全部切り捨てちまえ、「現代詩臭い」が最強の批判文句、みたいな勘違いをしていたわけではないけれど。やはり、例外はあるなってことは思い知らされた。

いや、グダグダ言って悪かったけれど。
田崎さんの新作[1] 「ワールド・ライト」
非常に良いと思う。

もちろん、読み手っていうのは神様だから、「俺は歌謡曲臭い表現が出る作品が無条件に嫌いだ」とか「現代詩臭い奴は大嫌いだ」とか「自意識ポエムの気配がしたら逃げるぜ」みたいなのでもいいと思うんだけれど。
類型的イメージ、ステロタイプっていうものは思った以上に人を縛るし、それは読み手も書き手も同様なんだけれど。
そういったものとどう向き合っていくのか、ってのは一つキーポイントだな、そんな話。

ただ、色んな表現は相互のコンセンサスというか、ステロタイプの上に乗っかってる面もある。
物語は類型の集積だ、ってナラトロジー的な考えに依拠するとなるんだけれど。
要は、どう向き合っていくか、なのかなぁ。とりあえず、自分の作品は読者にどのような印象を喚起するか、までは考えた方がいいんだと、ぼくは思うんだなぁ。実際、ごく少数の例外を除いて、ほとんどの作品は何らかの類型的イメージにはまっている、あるいは当てはめることが出来る。だからこそ、自分の作品と読み手から見た時のイメージは、気にしなければならない。

まぁ、これってあれなんだよね。
ピアス15個つけて金色のモヒカンを風になびかせながら、チェーンと南京錠チョーカーをジャラジャラ言わせて「パンクなつもりはねえよ」って言ってもそれは無理、みたいな話でもあるのかもしれない。彼をパンクスと思うことは、ステロタイプに支配されているせいだろうか。じゃあ、逆に右耳にピアスをつけてる男をゲイと判断することは必ずしも妥当か?難しい。とりあえず、類型分類を喚起する記号の扱いには、やはり慎重であるべきかな、と思う。読み手も書き手もね。もちろん、記号についての判断は人によって千差万別で、その辺難しくもあり面白くもあり。

結局、表現や語られたことっていうのは、書き手-読み手間の、そしてその背景の関係性に、強く根を下ろしているっていうことの再確認で。そして、その関係性の中で何を書くかなんだろう。


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